京都地方裁判所 昭和57年(ワ)1984号 判決 1989年2月17日
原告
河井文子
右訴訟代理人弁護士
山田幸彦
同
山田万里子
同
大川哲次
右山田幸彦訴訟復代理人弁護士
市川博久
被告
山本富美子
右訴訟代理人弁護士
香山仙太郎
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は原告に対し、金一一八五万〇一五六円及びこれに対する昭和五七年一一月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 医療契約
原告は昭和五二年一二月一一日、産婦人科医である被告との間で、原告に対する分娩介助等を目的とする医療契約(以下「本件医療契約」という。)を締結した。
2 債務不履行
(一) 出産予定日診断義務
被告には本件医療契約に従い、的確に原告の出産予定日を診断するため、必要な診察、検査等を行なう義務が存した。
(二) 感染症予防義務
(1) 手術実施
原告は右同日、被告の経営する山本産婦人科医院(以下「被告医院」という。)に入院し、被告は同日午後四時二〇分ころ原告に対し子宮口を開大させるためブジー挿入処置を行ない、同日ないし同月一四日の間にオキシトシン一一アンプルを投与するとともに、同月一三日午前一時二〇分ころ人工破膜を行なったが、原告がなおも自然分娩しなかったため、同月一四日午後二時四五分帝王切開術(以下「本件帝王切開術」という。)を行なって胎児を娩出した。
(2) 発熱
原告には同月一三日の右破膜後に摂氏37.3度(以下「摂氏」の記載を省略する。)、同月一四日午前六時ころ37.5度、同日午前一〇時ころ37.6度の発熱があった。
(3) 右のとおり、原告に対してはブジー挿入及び破膜という子宮内感染症等に罹患し易い処置が施され、オキシトシン投与により体力が低下せしめられ、また原告は右処置後発熱したのであるから、原告が子宮内感染症等に罹患することを防止するため、被告は適切に抗生物質を投与するとともに、できるだけ早期に帝王切開術を施行するべきであった。
(三) 感染症治療義務
(1) 発熱等
原告には本件帝王切開術の翌日である同月一五日午前九時四五分ころ37.7度、同日午後六時ころ38.4度、翌一六日午前四時五〇分ころ三八度、同日午後三時ころ39.6度、翌一七日午前八時四〇分ころ38.5度の発熱があり、またこの間恒常的に食欲不振、悪感、腰部痛、腹部不快感等の症状が存した。
(2) 右の事実が存したのであるから、被告には原告が子宮内感染症等に罹患した旨診断し、起炎菌の同定検査、感受性試験を行ない、適切な抗生物質の投与を行なって、感染症治療処置を講ずべき義務が存した。
(四) 小腸の損傷
(1) 帝王切開術
被告には、原告の小腸に損傷を与えることのないよう的確な手技により本件帝王切開術を行なうべき義務が存した。
(2) ドレナージ
被告には同月二一日原告に対しダグラス窩ドレナージ術を施行する際、原告の小腸に損傷を与えることのないよう的確な手技によりこれを行なうべき義務が存した。
(五) 転医措置義務
(1) 発熱等
原告には同月一九日午前九時二〇分ころ三八度、同月二〇日午前六時ころ39.3度の発熱があり、この間恒常的に食欲不振、悪感、腰部痛、腹部不快感等の症状が存した。
(2) 浸出液
同月二〇日、原告の本件帝王切開術創部からの浸出液が多量となった。
(3) 手術設備
被告医院には外科的手術を行なう設備は存しない。
(4) 全身状態
そのころ原告の全身状態は、極度の貧血、肝機能低下、血中蛋白値低下等極めて悪い状態であった。
(5) 右の事実が存したのであるから、被告には同月二〇日又は遅くとも同月二一日の時点で原告が汎発性腹膜炎に罹患した旨診断し、緊急開腹手術等外科の専門医による治療を受けさせるため原告を転医させるべき義務が存した。
3 傷害及び後遺障害
(一) 傷害
原告は遅くとも同月二三日ころ、汎発性腹膜炎、小腸穿孔、子宮縫合部穿孔の傷害を負った。
(二) 後遺障害
原告には右傷害により、子宮摘出、腹腔内ゆ着等の後遺障害が存する。
4 因果関係
(一) 感染症による小腸穿孔
被告には第2項(一)ないし(三)の義務が存したが、(一)の義務を怠り出産予定日の診断を誤って分娩期が到来したものと判断し、(二)(1)のように、不必要な分娩誘発術及び帝王切開術を行ない、(二)の義務を怠って原告を子宮内感染症に罹患させて汚染した羊水を腹腔内に拡散させ、(三)の義務を怠って右感染症を悪化させて汎発性腹膜炎に罹患させ、それによって小腸穿孔を惹起させるなどの右傷害を原告に対して負わせた。
(二) 小腸穿孔による感染症
腹膜炎が進行して小腸穿孔を生じたものでないとすると、被告は同項(四)の義務を怠って、手術の際手技を誤り原告の小腸に損傷を与えたため、腸管内容物を腹腔内に漏出せしめ、これにより原告に右傷害を負わせた。
(三) 転医措置の遅れによる症状悪化
被告は同項(五)の義務を怠って転医措置が遅れたため、原告の右傷害を悪化させ、第3項(二)記載の後遺障害を負わせる等第5項記載の各損害を発生させた。
5 損害
第3項記載の傷害及び後遺障害により原告が被った損害は、以下のとおりである。
(一) 治療費
原告は第3項記載の傷害の治療費として、八二万八一九三円を支出した。
(二) 付添費
原告は昭和五二年一二月二三日ないし昭和五三年四月三〇日の一二九日間、重症のため近親者の付添看護を要し、右付添看護費用は、原告の傷害の程度等前記事情に鑑みて、一日当り三〇〇〇円が相当であるから、原告の付添費は左記計算式のとおり三八万七〇〇〇円となる。
(計算式) 3000円×129(日)
=387,000円
(三) 入院雑費
原告は昭和五二年一二月二三日ないし昭和五三年一二月九日の三五二日間、重症のため入院治療を要し、右入院雑費は、原告の傷害の程度等前記事情に鑑みて、一日当り七〇〇円が相当であるから、原告の入院雑費は左記計算式のとおり二四万六四〇〇円となる。
(計算式) 700円×352(日)
=246,400円
(四) 休業損害
原告は昭和五三年一月一四日ないし同年一二月九日の三三〇日間、主婦としての家事労働につき休業し、原告の休業損害は、月額一二万六二三三円(昭和五二年賃金センサス女子労働者企業規模計学歴計二〇ないし二四歳の平均賃金)が相当であるから、原告の休業損害は、左記計算式のとおり一三八万八五六三円となる。
(計算式) 126,233円×11(月)
=1,388,563円
(五) 慰謝料
原告の慰謝料は前記事情に鑑みて、傷害に関し一五〇万円、後遺障害に関し六〇〇万円が相当である。
(六) 弁護士費用
本件事案の内容に照らし、弁護士費用は一五〇万円が相当である。
よって原告は被告に対し、債務不履行による損害賠償請求権に基づき、金一一八五万〇一五六円及びこれに対する本訴状送達の翌日である昭和五七年一一月一九日から支払い済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因第1項(医療契約)の事実は認める。
2 同第2項(債務不履行)について
(一) 同項(一)(出産予定日診断義務)の義務の存在は認める。
(二) 同項(二)(感染症予防義務)のうち、オキシトシン投与量の点を除く(1)(手術実施)の事実、(2)(発熱)の事実、(3)の義務の存在は認める。右オキシトシン投与量は九アンプルである。
(三) 同項(三)(感染症治療義務)のうち、昭和五二年一二月一五日午後六時ころの原告の体温及び恒常的に食欲不振、悪感、腰部痛、腹部不快感等の症状が存した点を除く(1)(発熱等)の事実は認める。右症状は間歇的に存した。(2)の義務のうち、起炎菌の同定検査、感受性試験を行なうべき義務は争い、原告の症状に応じ適切な抗生物質の投与を行なうべき義務の存在は認める。
(四) 同項(四)(小腸の損傷)の義務の存在は認める。
(五) 同項(五)(転医措置義務)のうち、恒常的に食欲不振、悪感、腰部痛、腹部不快感等の症状が存した点を除く(1)(発熱等)の事実、(2)(浸出液)の事実は認める。右症状は間歇的に存した。(3)(手術設備)、(4)(全身状態)の事実は否認する。(5)の義務のうち、昭和五二年一二月二一日の時点で原告が汎発性腹膜炎に罹患した旨診断すべき義務は認めるが、その余の義務の存在は争う。
3 同第3項(傷害及び後遺障害)のうち、(一)(傷害)の事実は認め、(二)(後遺障害)の事実は争う。
4 同第4項(因果関係)、同第5項(損害)の事実は否認する。
三 抗弁
1 請求原因第2項(一)(出産予定日診断義務)に対する抗弁
(一) 診断
原告は昭和五二年八月三一日被告医院で初めて診察を受け、被告に対し、月経は規則的で三〇日型であり、最終月経は同年二月二四日から七日間平常どおりであった旨申告し、また右初診日に行なった子宮底の計測値は二三センチメートルであったことから、被告は原告の出産予定日が同年一二月一日である旨診断したうえ、同診断に基づき、同月一一日以降の原告に対する医療行為を行なった。
(二) よって被告は的確に原告の出産予定日を診断するため、必要な診察、検査等を実施したものである。
2 同項(二)(感染症予防義務)に対する抗弁
(一) 抗生物質
被告は昭和五二年一二月一一日ないし同月一三日の間、原告に対し毎日アンピシリン六錠を投与し、同月一四日リラシリン四グラムを投与した。
(二) オキシトシン
被告は原告に対し、同月一二日午後七時ないし同月一四日午前七時の間オキシトシン計九アンプルを点滴静注したが、この際陣痛が二分ないし三分三〇秒間歇、二〇ないし五〇秒持続になるよう点滴を調節したうえ、同月一三日午後四時ないし午後六時三〇分の間は、体力回復のためオキシトシンの投与は中止した。
(三) 陣痛減弱等
同月一四日午前七時に至っても子宮口は三横指より開大せず、胎児に産瘤がみられ、陣痛が減弱する傾向が現われたため、被告は帝王切開による胎児の娩出を考慮し、結局本件帝王切開術を施行した。
(四) よって被告は原告に対し、適切な抗生物質の投与を行なうとともに、できるだけ早期に帝王切開術を施行したものである。
3 同項(三)(感染症治療義務)に対する抗弁
(一) 抗生物質
本件帝王切開術後の抗生物質投与量は、以下のとおりである。
(1) 同月一五日 リラシリン二グラム
(2) 同月一六日 リラシリン二グラム、アンピシリン六錠、ラリキシン二錠
(3) 同月一七日 パニマイシン二〇〇ミリグラム、ラリキシン六錠
(4) 同月一八日 パニマイシン二〇〇ミリグラム
(5) 同月一九日 パニマイシン二〇〇ミリグラム、ケフリン四グラム
(6) 同月二〇日 パニマイシン二〇〇ミリグラム、ケフリン六グラム
(7) 同月二一日 パニマイシン二〇〇ミリグラム、ケフリン四グラム
(8) 同月二二日 パニマイシン二〇〇ミリグラム、ケフリン四グラム
(9) 同月二三日 ケフリン二グラム
(二) 解熱
原告は同月一七日午後解熱し、同月一八日も発熱しなかった。
(三) よって被告は原告に対し、適切な抗生物質の投与を行なったものである。
4 同項(四)(小腸の損傷)に対する抗弁
(一) 帝王切開術
被告は的確な手技により本件帝王切開術を施行し、その際原告の小腸を損傷することはなかった。
(二) ドレナージ術
被告は的確な手技により前記ダグラス窩ドレナージ術を施行し、その際原告の小腸を損傷することはなかった。
5 同項(五)(転医措置義務)に対する抗弁
(一) 自験例
被告及び本件医療契約の履行補助者山本浩は、いずれも汎発性腹膜炎の自験例が豊富であった。
(二) 外科医への連絡
被告は原告が汎発性腹膜炎に罹患した旨診断するや、総合病院である京都第一赤十字病院(以下「第一日赤」という。)の外科医に連絡し、原告の治療につき助言及び援助を求めた。
四 抗弁に対する認否
1 抗弁第1項(出産予定日診断義務に対する抗弁)のうち、(一)(診断)の事実は明らかに争わず、(二)の義務を履行した旨の主張は争う。
2 同第2項(感染症予防義務に対する抗弁)のうち、(一)(抗生物質)の事実は認め、(二)(オキシトシン)、(三)(陣痛減弱等)の事実は不知、(四)の義務を履行した旨の主張は争う。
3 同第3項(感染症治療義務に対する抗弁)のうち、同月二二日のケフリン投与量の点を除く(一)(抗生物質)、(二)(解熱)の事実は認める。右投与量は二グラムである。(三)の義務を履行した旨の主張は争う。
4 同第4項(小腸の損傷に対する抗弁)の事実は否認する。
5 同第5項(転医措置義務に対する抗弁)のうち、(一)(自験例)、(二)(外科医への連絡)の事実は否認し、(三)の義務を履行した旨の主張は争う。
第三 証拠<省略>
理由
一請求原因第1項(医療契約)、オキシトシン投与量の点を除く同第2項(二)(1)(手術実施)、(2)(発熱)、昭和五二年一二月一五日午後六時ころの体温及び食欲不振等の症状発現頻度の点を除く同項(三)(1)(発熱等)、同症状発現頻度の点を除く同項(五)(1)(発熱等)、(2)(浸出液)、同第3項(一)(傷害)、抗弁第2項(一)(抗生物質)、同月二二日ケフリン投与量の点を除く同第3項(一)(抗生物質)、(二)(解熱)の各事実は、いずれも当事者間に争いがない。
二右争いのない事実に加え、<証拠>を総合するならば、以下の事実を認定することができ、この認定に反する証拠は存しない。
1 原告は昭和五二年八月三一日被告医院で初めて診察を受け、被告により妊娠七月、出産予定日同年一二月一日と診断をされ、以後被告医院に通院していたが、出産予定日を過ぎても陣痛発来せず、同月一一日被告との間で本件医療契約を締結のうえ被告医院に入院した。
2 被告は本件医療契約の履行として、同日以降同月一四日までの間にオキシトシン(陣痛促進剤)九アンプルの投与を行なうとともに、請求原因第2項(二)(1)(手術実施)記載のとおり、同日ブジー挿入措置、同月一三日人工破膜を実施したが、原告がなおも自然分娩しなかったため、同月一四日本件帝王切開術を実施して胎児を娩出した。この間被告は原告に対し、抗弁第2項(一)(抗生物質)記載のとおり抗生物質を投与したが、原告には同月一三日以降同月一四日の間に、請求原因第2項(二)(2)(発熱)記載のとおり三七度台の発熱があり、分娩時の羊水は白色混濁であった。
3 被告は翌一五日以降同月一七日の間、抗弁第3項(一)(抗生物質)記載のとおり抗生物質を投与したが、この間原告には請求原因第2項(三)(1)(発熱等)記載の三七度台ないし三九度台の発熱があり、恒常的な食欲不振及び間歇的な悪感、腰痛、腹部不快感の症状が存した。また同月一七日の血液検査による原告の白血球数は二万三一〇〇であった。
4 原告は同月一七日午前九時一〇分ころ体温が三九度に上昇したが、その後同日午後三時ころ36.6度、午後六時ころ三七度、午後九時ころ37.2度、翌一八日午前六時ころ36.4度、午前九時ころ36.6度、午後三時ころ三七度、午後七時ころ36.8度と三七度前後で推移し、右解熱後看護婦に対しても幾分気分が良くなった旨述べている。
5 被告は同月一八日以降、抗弁第3項(一)(抗生物質)記載のとおり原告に対し抗生物質を投与したが、原告は同月一九日以降転医に至るまで三八度を超える発熱を生じ、この間恒常的な食欲不振及び間歇的な腰痛の症状が存した。
6 被告は同月一七日、原告のこれまでの治療経緯及び白血球数等から、原告が帝王切開術後感染症に罹患したことを疑い、パニマイシン(抗生物質)の投与を開始したが、投与後の同日午後から原告の体温が三七度前後に下降したため、右感染症は鎮静に向かったと判断したものの、同月一九日原告の体温が再び三八度台に上昇したため、子宮内感染症再発と判断するとともに腹膜炎を疑い、ケフリン(抗生物質)の投与を開始しつつ経過観察を行なっていたところ、翌二〇日午後二時ころ原告の本件帝王切開術創部から多量の浸出液が流出を始めたため、原告が腹膜炎に罹患した旨診断し、その原因は子宮の炎症による可能性が高いと判断のうえ、ケフリンの投与量を増加した。
翌二一日依然として原告の右術創部からの浸出液が多量であるうえ、腹部膨満、緊満、波動を認めたため、被告は原告が汎発性腹膜炎に罹患した旨診断し、同日午後九時ころから腹部創半抜糸、ダグラス窩ドレナージ術を施行した。
同月二三日午前九時ころ原告の腹部術創からの浸出液が便汁性であったので、被告は原告の消化管穿孔を疑い、同日午後八時三〇分ころ原告を第一日赤に転医させた。
7 転医後第一日赤では、同日午後一〇時三六分ないし翌二四日午前零時三三分の間、谷俊男医師の執刀により原告に対する穿孔部縫合閉鎖、腹腔ドレナージ術が施行されたが、右手術の際、原告のダグラス窩には子宮と直腸の間に腹膜損傷部が認められたものの周囲組織の損傷部はなく、小腸と大腸は全体的にゆ着と膿苔付着を認め、回腸終末より約五五センチメートルの部分に拇指頭大の穿孔部、これより肛側約一〇センチメートルの部分に直径一ミリメートル程の穿孔が認められ、子宮内の細菌感染が著明であった。
三小腸穿孔の原因
1 感染症による小腸穿孔について
(一) 原告は請求原因第4項(一)(感染症による小腸の穿孔)記載のとおり、被告が債務不履行により原告を子宮内感染症に罹患させて汚染した羊水を腹腔内に拡散させ、右感染症を悪化させて汎発性腹膜炎に罹患させ、原告に対し小腸穿孔、子宮縫合部穿孔の傷害を負わせた旨主張する。
(二) 前記認定のとおり、原告は被告による陣痛促進剤の投与、ブジー挿入、人工破膜が効奏せず、その後帝王切開術が施行されるという子宮内感染症に罹患し易い状況下に置かれ、発熱、白血球数の増加、食欲不振、羊水白色混濁等の症状が存したところ、これらの事実に加え<証拠>を総合するならば、原告は本件帝王切開術のころから子宮内感染症に罹患し、その後被告医院入院中、原告の子宮内感染症は徐徐に重篤化した事実を認めることができる。
また、前記認定のとおり、原告は被告医院入院中汎発性腹膜炎に罹患した旨診断を受け、第一日赤転医後の前記手術の際、子宮内感染が著明なうえ小腸穿孔が存していたけれども、他方本件全証拠によるも、被告医院入院中原告に消化管出血、潰瘍の存在を示す血圧低下、下血等の症状が存した事実を認定することはできない。
(三) しかしながら、前記認定事実に加え証人山本浩及び同杉本修の各証言並びに被告本人尋問及び鑑定の各結果を総合するならば、以下の事実を認定することができる。
(1) 一般に、腹膜は防御膜であるから腹膜炎等腹腔内に多少の炎症があってもこれにより破れることはないが、腸管穿孔による腸内容物の流出等内部からの刺激によっては破れ易く、従って何らかの原因で小腸の穿孔が生ずれば、腹膜が破れ腸内容物が拡散することにより、必発的に汎発性腹膜炎を発症する。
(2) 分娩後産婦が子宮内感染症に罹患する例及びこれにより産婦が腹膜炎に罹患した例は少なくないにもかかわらず、右子宮内感染症又は腹膜炎を原因として小腸穿孔が生じたという症例報告はないが、産婦以外の患者が何らかの原因で小腸穿孔を生じたことにより必発的に腹膜炎を発症した例は少なくなく、出産後に産婦が非特異性の腸管穿孔を生じ、これにより汎発性腹膜炎を発症した症例報告も存在する。
(3) 原告は前記認定のとおり本件帝王切開術後子宮内感染症に罹患し、同月一九日以降次第に腹膜炎の症状が重篤となり、遂に同月二三日腹部術創からの浸出液が便汁性となっているが、右経過は必ずしも、子宮内感染症が悪化して腹膜炎が発症し、腹膜炎が悪化して小腸穿孔が生じたことを示すものとは言えない。本件帝王切開術後の子宮内感染症とは別個の原因により同月一九日ころ小腸穿孔が生じ、穿孔部から腸内容物が流出し必発的に腹膜炎を発症したと理解することも可能であり、穿孔部が当初はピンホールのように小さかったのが徐々に拡大し、これに伴って腹膜炎の症状も重篤となり、同月二三日に腹部術創と穿孔部が交通して便の浸出に至ったと考えることも不自然な所はない。
(4) 右のとおり、当初穿孔が小さく浸出液がそこから流出して腹腔全体に拡散するとともに、穿孔も徐々に拡大したとすると、消化管出血の症状が先行することはないから、原告が被告医院入院中血圧低下や下血を生じた事実が認められなくとも不自然ではない。
(5) 第一日赤での前記手術時点では、既に腸内容物の流出による汎発性腹膜炎がかなり進行しているから、子宮の細菌感染が著明であるのは当然の所見であり、小腸穿孔の原因が子宮内感染症であることを示す所見とは認められない。
(6) 本件小腸穿孔の原因としては、非特異性潰瘍、神経性潰瘍等の可能性及び産褥子宮の圧迫による腸管運動障害、血行障害、麻痺に起因して穿孔の生じた可能性も考えられ、子宮内感染症が穿孔の原因である可能性が右原因に比して高いとは認められない。
(四) 右(三)認定の各事実を合わせ考慮するならば、右(二)認定の各事実から本件小腸穿孔の原因が子宮内感染症による腹膜炎であると認定するには足らず、むしろ他の原因により小腸穿孔が生じた可能性が高いと認められるので、結局請求原因第4項(一)(感染症による小腸の穿孔)の事実を認定することはできない。
2 小腸穿孔による感染症について
(一) 被告は抗弁第4項において、本件帝王切開術及びダグラス窩ドレナージ術のいずれの際にも、的確な手技により手術を施行したのであり、誤って原告の小腸を損傷したことはない旨主張する。
(二) 同項(二)(ドレナージ術)について
前記認定のとおり、本件小腸穿孔が生じた部位は、回腸終末から約五五センチメートルの部位と、これより肛側約一〇センチメートルの部位の計二か所であり、右穿孔部位及び穿孔か所が二か所である事実、また前記認定のとおり第一日赤での前記手術の際、原告のダグラス窩には子宮と直腸の間に腹膜損傷部が認められた以外周囲組織に損傷部は存しなかった事実に加え、証人山本浩の証言を総合するならば、本件医療契約の履行補助者である山本浩が、ダグラス窩ドレナージ術の際に原告の小腸を損傷した事実は存しなかったと認められる。
(三) 同項(一)(帝王切開術)について
(1) <証拠>によれば、一般に帝王切開時に小腸に触れることはないので、術中に小腸を傷つけることは考えられず、本件帝王切開術は本件医療契約の履行補助者である山本浩の執刀により施行され、同人は当時後記認定(第四項5)の経歴を経ていたが、原告の子宮を切開する際、メスで少切開を入れた後鈍性に指で開く術式等、同人が通常行なっている帝王切開の術式によっていることが認められ、特段本件帝王切開術が特異な術式によってなされたことを窺わせる証拠はなく、子宮切開の際に子宮の下にある小腸をメス等で損傷することは考え難い。
(2) 前記認定のとおり、本件小腸穿孔は二か所で生じており、その間隔が一〇センチメートルであるが、メス又は縫合針が触れたために小腸が損傷したとすると、証人杉本修の証言によれば、穿孔が距離を置いて二か所存在するのは不自然であるし、鉗子で挟んだために損傷したとすると、穿孔部の間に一〇センチメートルの間隔が存するのが不自然であることが認められ、本件穿孔が物理的損傷によるものとは考え難い。
(3) 前記認定のとおり、原告は本件帝王切開術の後発熱し、昭和五二年一二月一六日には三九度台の高熱を発したが、翌一七日ないし同月一八日午後は三七度前後の体温であったところ、証人山本浩及び同杉本修の各証言によれば、仮に帝王切開中誤って小腸を損傷し、そのために術後発熱したのだとすると、高熱を発した同月一六日の時点で、かなり腸内容物が腹腔内に流出していなければならないから、同日に顕著な腹膜炎の症状が発現していないのは不自然であるし、新たに強力な解熱剤の投与を開始したわけでもないのに、同月一七日午後ないし同月一八日の間解熱するということは有り得ないことが認められる。
(4) 前記認定(理由三1)のとおり、本件小腸穿孔の原因として、非特異性穿孔等、物理的損傷以外の原因が充分に考えられる。
(5) 従って本件帝王切開術によっては小腸穿孔が生じなかったものと判断するのが相当である。
四転医措置の遅れ
1 請求原因第2項(五)(1)(発熱等)について
右事実のうち、同項記載のとおり発熱の存した事実は当事者間に争いがなく、前記認定のとおり、この間原告には恒常的な食欲不振の症状、間歇的な腰部痛の症状が存したけれども、その余の事実を認定するに足る証拠は存しない。
2 同項(五)(2)(浸出液)の事実は当事者間に争いがない。
3 同項(五)(3)(手術設備)について
原告は具体的に手術設備の不備を主張しないところ、前記認定のとおり、原告が被告医院に入院し、帝王切開術及びダグラス窩ドレナージ術を受けたのであるから、むしろ被告医院には右程度の外科手術を行なう設備が存したものとみるのが相当である。
4 同項(五)(4)(全身状態)について
(一) 前記認定のとおり、原告は同年一二月一六日以降恒常的に食欲不振の状態にあり、これに加え証人山本浩の証言及び原告本人尋問の結果を総合するならば、被告医院入院中原告の全身状態が徐々に悪化した事実を認定することができ、また甲一号証の一二によれば、同月一九日の原告の血液検査において、総蛋白量一デシリットル中5.5グラム、アルブミン値45.1パーセントと血中蛋白値低下が認められ、更に甲四号証の一、二、七及び証人谷俊男の証言によれば、昭和五三年一月九日ころから原告のGOT、GPT値が上昇し黄疸も出現する等肝機能低下の生じた事実が認められる。
(二) しかしながら、他方、甲一号証の一〇、一三によれば、昭和五二年一二月一九日及び同月二二日の血液検査において、同証記載の検査項目中白血球数以外はGOT、GPT値を含めいずれも正常値であった事実も認められ、また、甲四号証の二によれば、第一日赤入院時の原告の全身所見は、栄養可、顔貌正常、意識明、脈搏整・良好・二〇、貧血(−)、黄疸(−)、発疹(−)、顔色正常、リンパ腺腫脹(−)、肺聴診正常、心音清澄、腹部膨隆(−)、陥凹(−)、筋緊張(−)、蠕動不隠(−)、抵抗(−)、肝触知(−)、四肢浮腫(−)であり、同月二三日の時点においてさえ、原告の全身状態は右の程度に保たれていた事実が認められる。
(三) 従って(二)認定事実を合わせ考慮するならば、(一)認定のように、原告の全身状態などが悪化していても、同月二〇日又は同月二一日の時点で原告の白血球以外の血液検査値は正常値であったものとみられ、原告の全身状態が極度に悪い状態であったと認めるには充分ではない。
5 抗弁第5項(一)(自験例)について
(一) 証人山本浩の証言及び被告人尋問の結果によれば、以下の事実が認められる。被告は昭和三五年医師資格を取得、昭和三九年まで第一日赤勤務、同年山本浩経営の診療所に勤務、昭和四九年被告医院を開業し、昭和五二年一二月当時被告医院はベッド数九床、常勤看護婦四名及び非常勤看護婦五名を雇用し、一方、被告の夫である山本浩は昭和三五年医師資格を取得し、京都府立医科大学医学部産婦人科学教室に入局、昭和三九年第一日赤産婦人科医局員、昭和四九年一月同科副部長となったものである。
(二) 右事実によれば、本件までの間被告は約一八年間産婦人科医として同科医療に従事し、最後の三年間は自ら右規模の産婦人科医院を経営していたもの、山本浩は約一七年間同科医療に従事し、その間大学病院同科医局員、総合病院同科医局員、同副部長を歴任したものであり、また前記認定のとおり、分娩後産婦が子宮内感染症による腹膜炎に罹患する例は少なくなく、これが悪化すれば汎発性腹膜炎に移行するのであるから、被告及び山本浩とも、両名の右経歴に相応した汎発性腹膜炎の自験例を有していたものとみられるけれども、両名が右以上に汎発性腹膜炎の自験例が特に豊富であったものと思えない。
6 そこで、以上の事実を前提として、被告が同月二〇日又は二一日の時点で、緊急開腹手術等外科の専門医による治療を受けさせるため転医措置をとるべき義務が存したか否かにつき判断する。
(一) <証拠>を総合するならば、以下の事実が認められる。
(二) 腹膜炎は一般的には早急に手術すべき場合が多く、手術は感染巣の除去、滲出液の排除、腹膜機能の保存を念頭に置いて行ない、腸管損傷が原因であればその修復、異物が原因であればその除去、濃厚な膿汁が認められればその洗浄を行ない、原因病巣の除去が不完全の場合はドレナージを行ない、特に消化管穿孔による急性汎発性腹膜炎は一般に緊急開腹手術の絶対的適応とされ、穿孔部の修復を行なうとともにドレナージにより排膿し、この腹膜炎は激烈な腹痛で発症し重篤な全身症状を呈するため直観的に緊急手術の適応と判断できることが多く、板状硬の腹壁緊張及び圧痛、腹部膨満を呈し、しばしば腹膜炎顔貌を呈し、他方、産褥汎発腹膜炎も早期に開腹手術等により排膿するが、手術は下腹部正中線で腹壁を切開、腹腔を開いて膿を押出し、又はダグラス窩ドレナージ等により排膿することが必要である。
(三) 以上のとおり、腹膜炎の治療としての手術は、感染巣の除去、滲出液の排除等を目的とするのであるが、消化管穿孔による汎発性腹膜炎の場合は外科の専門医による穿孔部の修復が不可欠であるのに対し、産褥汎発腹膜炎の場合は感染巣が主として産褥子宮であるから、これは産婦人科領域の疾患であるし、産婦人科医が開腹手術、ドレナージ等の外科的手術を行なって適切に治療を行なえば足り、特に外科医でなければ行ない得ない治療は存しないから、産婦が産褥汎発腹膜炎に罹患したことを理由として直ちに患者を外科医に転送すべき理由はない。もっとも、当該産婦人科医が特に産褥汎発腹膜炎の自験例に乏しい場合には、他の医師の応援等を必要とする場合も考えられないわけではなく、また当該産婦人科医が右産褥汎発腹膜炎の治療を行ない得る外科手術の設備を有しない場合には、右設備を有する医療施設に転医させるべきであるし、更に産婦の全身状態が極度に悪化して集中治療等が必要となった場合には、右治療を行ない得る医療施設に転医させるべき場合も考えられるが、本件はこの様な場合にはいずれも該当しない。
(四) 本件では前記認定のとおり、激烈な腹痛、重篤な全身症状、腹部板状硬、腹膜炎顔貌等、消化管穿孔による急性汎発性腹膜炎と診断できる症状はいずれも存するとは認められなかったばかりか、却って、原告は産褥感染症に罹患し、これが悪化して産褥限局腹膜炎に罹患するという経過をたどった後に汎発性腹膜炎に罹患しており、被告としては、原告が消化管穿孔による汎発性腹膜炎に罹患したものと考えず、産褥汎発腹膜炎に罹患したと判断して、これに基づく治療を行なったことには理由があるから、同月二〇日及び二一日の時点で転医措置をとらず、引続き被告医院において治療を継続したことに義務違反が存したとは認められない。
(五) 証人杉本修の証言によれば、患者が汎発性腹膜炎に罹患した場合は、産婦人科医は腸管穿孔を疑い外科へ転医させるべきであるとの立場を同証人はとっているけれども、同時に、腸管穿孔が診断できた時点ではじめて転医させるべきであるとする立場も、同証人と見解は異なるものの医師として問題はないともしていることが認められるうえ、(同証人による)鑑定の結果においても、本件では鼓腸及び排ガスなどによっても小腸穿孔が判断できず、糞便漏出によって初めて腸管穿孔と診断できているので転医措置の遅れは存しないことが認められ、本件において被告の行為が通常の産婦人科医師としての裁量の範囲を逸脱し義務に違反したものとみることはできない。
五結論
以上のとおりであるから、その余について判断するまでもなく、原告の請求は理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官小北陽三 裁判官河合健司 裁判官長沢幸男)