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京都地方裁判所 昭和59年(ワ)569号 判決 1986年9月26日

原告 的塲高吉

<ほか一名>

原告両名訴訟代理人弁護士 今中利昭

右同 村林隆一

右同 吉村洋

右同 浦田和栄

右同 千田適

右同 松本勉

右同 田村博志

右同 釜田佳孝

被告 京都府

右代表者知事 荒巻禎一

右訴訟代理人弁護士 小林昭

主文

原告らの各請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告ら各自に対し、二六三三万七三一一円及びこれに対する昭和五八年七月二八日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨並びに被告敗訴の場合に仮執行免脱宣言

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者らの地位

訴外亡的塲啓高(以下「亡啓高」という。)は、昭和四二年一〇月六日、父原告的塲高吉(以上「原告高吉」という。)、母原告的塲紀美子(以下「原告紀美子」という。)の長男として出生し、本件事故発生当時、京都府立洛北高等学校(以下「洛北高校」という。)一年に在学中であり、同校が課外教育活動の一環として設置している山岳部に所属していた。

2  本件事故発生の経緯

(一) 亡啓高は、昭和五八年夏、洛北高校山岳部所属の芦田淳一(当時三年、リーダー、以下「芦田」という。)、安岡務(当時二年、サブリーダー、以下「安岡」という。)及び黒川忠光(当時一年、以下「黒川」という。)とともに、只見白戸川メルガ岐沢から丸山岳への山行(以下「本件山行」という。)を行うこととなった。本件山行は、昭和五八年七月二二日から同月二七日まで(予備日二日)の予定であったが、梅雨前線が只見地方に雨を降らせる状態で停滞していたため、パーティは、出発日を二日遅らせ、同月二四日に京都を出発した。その後の天候及びパーティの行動などは、次のとおりである。

(二) 同月二五日、天候曇のち雨、午前一〇時一八分に田子倉に着いた後、白戸川入口、第一小屋、抱返りを経て、午後六時頃第二小屋に到着し、第二小屋の横にツエルトを二つ張り、夕食の後、就寝した。

(三) 同月二六日、天候雨時々曇、雨が強く降り続けたため出発せず、ツエルトをたたんで第二小屋に移動し、仮眠、食事等の後、就寝。

(四) 同月二七日、天候曇のち雨、午前七時頃第二小屋を出発し、同八時頃から白戸川の遡行を開始。同一一時頃洗戸沢出合いからメルガ岐沢に入り、正午頃から雨が降り出したのであるが、午後二時頃滝の沢出合い、午後五時頃三羽折沢出合付近の段差四メートル程度を越える。そして同五時三〇分頃、亡啓高が渡渉すべく川へ入ったものの転倒して川下に流され、一旦、前記段差の下約一〇メートル下流で木につかまっていたが、再び下流に流された。

(五) そして亡啓高は、大増水により捜索が難航したため同年八月五日午前一一時四分、遺体となって発見された。

3  被告の責任

(一) 国家賠償法一条の責任

(1) 洛北高校山岳部における夏山登山プランは、生徒の内で各登山のリーダーとなる者が第一次的な計画を立案し、山岳部の部会等を通じて生徒の同意を得、その計画を叩き台として同校山岳部OB及び顧問教諭が危険性を考慮して訂正、変更を指示し、生徒がその指示に従い計画を最終的に作成するという方法であったところ、本件山行も、在学生である芦田によって原案が昭和五八年六月下旬頃作成され、生徒間において事前に知らされるとともに顧問教諭である上野隆男教諭(以下「上野教諭」という。)にもそのプラン書が遅くとも同年七月六日には提出され、更に、同月一六日に開催されたプランを検討する会(以下「プラン会」という。)において同校山岳部OBから泊数を減らす等の検討、訂正を加えられてプランとして承認されているものであるから、洛北高校における特別教育活動としてのクラブ活動又はこれに準ずる学校管理下の活動の一環として実施されたものである。したがって、洛北高校山岳部の顧問である上野教諭には、亡啓高のような登山の初心者が参加する山行について、安全第一に考えたプランについてのみ許可を与え、且つ、プランの実施についても十分に安全のための指導監督を行うべき注意義務がある。

(2) しかるに、上野教諭は、左記のとおり不適切な行為をなし、その結果、第2項記載の如き経過をたどって本件事故が生じた。

本件事故の直接の原因は、亡啓高が体力的に消耗した状況で水量の増大した川の渡渉を行ったことにあるが、そもそも、本件事故発生当時のように水量の増大した状況で白戸川メルガ岐沢の遡行を行うこと自体、亡啓高のような登山の初心者にとっては、その体力、技術からみて非常に危険なものであることは明らかであるから、上野教諭としては、

(イ) 高度の登山知識を要する遡行、渡渉を含むうえ、当然に水量が増大することの予想される梅雨期のプランである本件山行プランを許可すべきでなかったのに、これを許可した。

(ロ) 現地(福島県只見地方)に、未だ梅雨前線の停滞による降雨が続いていた昭和五八年七月二四日の出発を止めるべきであったのに、漫然とこれを容認した。

(ハ) 本件山行プランの許可に際し、パーティーに初心者がいるため、降雨により白戸川の水量が増大している場合や現地で雨が降っている場合には、プランの実行を中止して引き返すよう指導すべきであったのに、これをなさなかった。

(3) したがって、本件事故は、被告の公権力の行使にあたる公務員である上野教諭の、その職務を行うについての過失により惹起させたものといえるから、被告には国家賠償法一条による責任がある。

(二) 債務不履行責任

被告は洛北高校の設置者として亡啓高を入学させたことにより、亡啓高及び同人の父母である原告両名に対し、契約上の安全配慮義務を負うと解すべきところ、亡啓高はクラブ活動又はこれに準ずる学校管理下の活動の一環として実施された本件山行に参加中、被告の履行補助者である上野教諭の前記過失により死亡したものであるから、債務不履行の責任を免れない。

5  損害

(一) 亡啓高の逸失利益と相続

(1) 逸失利益 二七八七万四六二二円

亡啓高は、本件事故当時進学校である洛北高校一年に在学中の健康な男子であり、大学進学を希望していたものであるから、本件事故がなければ、大学を卒業する二二歳から就労可能年限である六七歳まで四五年間にわたり大卒者として稼動するはずであった。

そこで亡啓高の得べかりし利益を求めるに、「昭和五七年賃金センサス」第一巻第一表による大卒平均給与額に年五パーセントのべースアップ分を加えたものに、稼動年齢を二二歳から六七歳としたライプニッツ係数を乗じ、内五〇パーセントを支出を免れた生計費として控除すれば、逸失利益現価は二七八七万四六二二円となる。

(2) 相続

原告らは亡啓高の父母として同人の死亡により、それぞれ右逸失利益の二分の一である一三九三万七三一一円ずつ相続した。

(二) 原告両名の慰藉料 各一〇〇〇万円

亡啓高は、原告両名の唯一の男子であり、原告らとしては最も安全なものとして亡啓高をまかせたクラブ活動の中で、指導教諭の基本的な過失によりその生命を奪われたものであるから、原告両名の怒りと悲嘆は想像を絶するものがあり、右を慰藉するためには少なくとも各金一〇〇〇万円が相当である。

(三) 葬儀費用 各四〇万円

(四) 弁護士費用 各二〇〇万円

本件事案の性質上、本件訴訟の遂行を原告らは代理人八名に委任しており、その弁護士費用としては各二〇〇万円合計四〇〇万円が相当である。

よって、原告らは各自、被告に対し、国家賠償法一条による損害賠償請求権、もし右請求権が認められないときは債務不履行による損害賠償請求権に基づき、各二六三三万七三一一円及びこれに対する亡啓高死亡の日の翌日である昭和五八年七月二八日から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2(一)  同2(一)のうち、本件山行のパーティーの構成は認め、その余の事実は知らない。

(二) 同2の(二)ないし(四)の事実はいずれも知らない。

(三) 同2(五)の事実は認める。

3(一)(1) 同3(一)(1)のうち、上野教諭が洛北高校山岳部の顧問であること、本件山行のプラン書が遅くとも同年七月六日までに上野教諭に提出されていたことは認め、その余の事実は否認する。

(2) 同3(一)(2)のうち、本件事故の直接の原因は、亡啓高が体力的に消耗した状況で水量の増大した川の渡渉をおこなったことにあることは認め、その余の事実は否認する。

(3) 同3(一)(3)の事実は否認する。

(二) 同3(二)のうち、被告がクラブ活動について契約上の安全配慮義務を負うことは認め、その余の事実は否認する。

4  同4の事実は否認する。

三  被告の主張

1  本件山行の性質

教諭が「生徒の身体の安全を保護し指導監督する一般的な義務」を負うのは、それが不法行為規範及び在学契約のいずれに基づくものであれ、学校教育の一環として学校の監督下で行われた活動についてであるところ、本件山行は、顧問教諭の同行なく、学校においてクラブ活動として承認してない個人的な山行であるから、前記義務違反を問われるいわれはない。

2  本件事故の原因

白戸川メルガ岐沢の遡行は、過去に二度(昭和五〇年度と同五五年度)、いずれも三年生一人、二年生一人、一年生二人の編成で、特に昭和五五年度は二年生の女子がリーダーとして計画実行され、何らの故障、危険もなく無事に完了されていたものであるから、原告主張の如き危険なものではない。本件事故の原因は、亡啓高が、自己の体力の限界を十分に認識して自ら事故防止に努めるべき義務を怠り、本件事故当日昼食及び十分な休息をとることなく活動して疲労していたことと、本件事故当時のような増水した谷を渡渉する場合には揃って行くのが原則であるのに、これを怠り、個々に渡渉したことによるものであるから、上野教諭には何らの過失なく、被告に責任はない。

四  被告の主張に対する原告の認否及び反論

1  被告の主張1について

教諭が「生徒の身体の安全を保護し指導監督する一般的義務」を負担する活動の範囲及び本件山行に顧問教諭が同行していないことは認め、その余の事実は否認する。

洛北高校山岳部には、従来より、山岳部の登山には顧問教諭が同行しない慣例が存在し、同校も右のような山岳部の慣例を事実上承認していたものであるから、少なくとも洛北高校山岳部においては顧問教諭が参加していなくとも、学校のクラブ活動とされていたことは明らかである。仮にそうでないとしても、洛北高校は、山行のプラン書の提出を受けること等によって充分指導する可能性を有していたものであるから、山岳部の管理者として生徒の身体の安全を保護し指導監督すべき義務がある。

2  被告の主張2について

いずれも否認する。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1の当事者らの地位に関する事実は当事者間に争いがない。

二  本件事故の発生

亡啓高が、昭和五八年夏、洛北高校山岳部所属の芦田(当時三年、リーダー)、安岡(当時二年、サブリーダー)及び黒川(当時一年)とともに、只見白戸川メルガ岐沢から丸山岳への山行を行うこととなったこと及び同山行の機会に同年八月五日午前一一時四分に亡啓高が遺体となって発見されたことは当事者間に争いがなく、《証拠省略》を総合すれば、以下の事実が認められる。

1  本件山行は、只見地方に梅雨前線が停滞していたために、出発を当初の二二日より二日遅らせたが、それ以上遅らすのは次のプランとの兼合いから無理であり、また、例年通りであれば遅くとも二、三日中に梅雨明けになるものと考えられたことから、同月二四日夜、梅雨前線の停滞する中、京都から只見地方へ出発した。

2  同月二五日、天候曇のち雨、午前一〇時三八分に田子倉に着いた後、白戸川入口、第一小屋、抱返りを経て、午後六時頃第二小屋に到着し、第二小屋横にツエルトを二つ張り、遅い夕食をとって、直ぐに就寝。

3  同月二六日、天候雨時々曇、前夜からの雨がやまず、増水していたため、行程の消化を中止し、ツエルトをかたずけて第二小屋に移動し、朝食をとった後、昨夜の睡眠不足を補うため午後五時ごろまで仮眠。夕食の後、午後九時ごろに就寝。

4  同月二七日、天候曇のち雨、午前四時三〇分頃起床、川は多少増水していたが、危険を感ずるほどの水量ではなく、遡行できると判断して、同七時頃第二小屋を出発し、芦田が先頭、安岡が後尾で、その間に亡啓高と黒川を挟む隊列で同八時頃から白戸川の遡行を開始したものの、水量が予想以上に多く、時々腰までつかりながら遡行を続け、洗戸沢出合いに着いたのは午前一一時頃であった。同所で水量が二分されるのであるが、この頃になると、距離の割に時間がかかりすぎたことから、パーティーに焦りが生じ始め、先を急ぐ余り、結局のところ、昼食や休憩を抜きにしたまま前進する破目になった。ところで、パーティーは、そこからメルガ岐沢に入り、沢が細くなったとはいえ、股下まで水につかるなどの渡渉を続けていたところ、正午頃からまたも雨が降り出した。この段階で亡啓高と黒川は、川底の岩に足をとられてたびたび転倒して疲労の度を加え、歩速が遅れ勝ちになっていた。そこで、同人らに歩速を合わせるため、原則的に同人らを先頭に立たせるようにして遡行を続けていたところ、午後二時に通過した滝の沢出合いから水量が更に少なくなり、午後五時頃三羽折沢出合い付近の段差(四メートル程度)を越えた。

5  右段差から五〇メートル程上流の地点で、それまで先頭に居た亡啓高がへつりから落ちて腰まで水につかり最後尾となった。このため遡行方法を変えることにして、対岸への渡渉を開始し、芦田、安岡、黒川の順で次々と渡ったが、心身ともに疲れていた亡啓高は、渡渉すべく二、三歩踏み出した所で転倒して下流へ流された。対岸で同人を待っていた芦田は、急いで安岡らに助けを求めたが、安岡らが先に進んでいたため連絡がとれず、やむなく一人で対岸(右岸)へ渡り、救出に向った。芦田は、さきに越えて来た段差から約一〇メートル下流の対岸(左岸)の木に掴まっている亡啓高を見付けたものの、近付けない場所であったため、ザイルを投げて掴まらそうとしたところ、四、五回目で成功し、亡啓高が掴まったザイルを引き寄せていたところ、同人が川の中程で手を離し、再び約五メートル押し流されて川の中程の浅瀬(ひざ下程)に流れ着いて止まった。そこで、芦田が同所にたどり着き救助しようとしたが、本人に意識がないため立ち上がらせることができず、また、重すぎて持ち上げて岸へ引っぱって行くこともできなかった。そこで芦田は、とりあえず亡啓高のザックをはずして岸へ持って行き、同人の所へ引き返そうとしたところ、その瞬間、同人が倒れ込む様に再び流されたため、約五〇メートル下流まで追ったものの、遂に見失ってしまった。

6  なお、亡啓高が所属していた山岳部は、本件事故の問題点として、①本件山行までに精神面を含むトレーニングが不足していたこと、②過去二回行われた本件コースの経験談が河原歩き程度の評であったこともあり、取り組む姿勢が安易であったこと、③天候に対しての出発時の判断について、安全を考えるならもう少し待つべきであったろうが、例年通りなら遅くとも二、三日中に梅雨明けになると思われたうえ、二日以上遅らすことは次の日程との兼合いで無理であったから、一概に右判断の是非を批判できないこと、④亡啓高の疲労状況の把握とそれへの適確な対応が不足していたこと、⑤昼食を抜いたこと、⑥共同行動の原則を遵守していなかったことが、亡啓高救出の機会を逸したこと、⑦亡啓高救出時に芦田に不手際があったことを、それぞれ指摘した。

以上の事実が認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

三  被告の責任

1  《証拠省略》によると、予ねてより文部省体育局長から各都道府県教育委員会教育長及び知事らに対し、学校が実施する登山についてはもとより、学校の計画以外で児童生徒が登山を行なう場合についても、かならず登山の経験に富む者を同行すること、登山計画の立案にあたっては、参加者の性別、技術、体力等をじゅうぶん考慮して目的地を選定し、できるだけ現地の事前調査を行なうこと、常に最悪の状態を予想して食糧装備等の万全を期すること、事前に健康診断を行ない、医師の指示に従って参加させること、気象庁の長期予報を参考とし、また気象注意報、気象警報の発せられているときは、登山をみあわせ、もし、行動中に暴風雨等に遭遇した場合は、計画を中止するかまたは変更して体力の消耗をさけ、天候の回復を待つこと、行動中、とくに統制をとり、指導者またはリーダーは、参加者の健康状態を観察し、疲労している者があるときは、日程を強行しないことなどの諸点に留意するよう指導の強化を求めていたこと、以上の事実を認めることができ、この認定に反する証拠はない。

2  《証拠省略》を総合すれば、次の事実が認められる。

(一)  洛北高校山岳部では、OBの助言を背景にして、伝統的に顧問教諭の指導面での関与を敬遠する傾向が存した。本件事故当時、顧問であった上野教諭(この点は当事者間に争いがない)は、就任以来これが改善への努力を重ねて来たが、なお右の傾向は維持されていた。昭和五八年度の夏山登山についても、同教諭が同年五月下旬頃、山岳部に対し同教諭同行の黒部合宿プランを提案したのであるが、山岳部は、同年六月中旬頃OBの一部の者から「押しつけの同提案に妥協するのか」といった趣旨の猛反対を受けて、例年通り部員らが自ら選択したコースによる夏山登山を実施することにした。

(二)  そこで、本件山行についていえば、同年六月下旬頃芦田によって四泊行程の原案が作成され、部会等を通じて山岳部の夏山登山のプランとして承認を受け、遅くとも同年七月六日までにそのプランが上野教諭の許に提出された。ところが、その後になって芦田は、本件山行の経験者であるOBから、三泊行程で十分であるとの助言を受けて、行程二日目のメルガ岐沢が曲るあたりを泊地としていたのを削除して三泊行程に修正したが、同修正を上野教諭に報告せず、さきに認定した実際の出発日も同教諭に報告されなかった。

以上の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

そこで、これらの事実を総合すれば、本件山行は、顧問教諭を疎外してなされたものというほかないが、なお洛北高校における特別教育活動としてのクラブ活動、少なくともこれに準ずる学校管理下の活動の一環としてなされたものというべきである。

もっとも証人上野隆男の証言中には、同人が生徒らに対して、本件山行は私的な山行である旨告知したとの供述部分が存するが、よしそれが事実としても、個人的見解の表白にとどまり、それによって本件山行の実質が改変される筈はない。

3  そこで進んで上野教諭の過失の有無について検討するに、前認定の事実を総合すれば、本件事故の直接の原因は、本件事故当日の行動の遅れによる焦りから、パーティーが昼食や十分な休息をとることなく降雨の中で長時間の遡行を続けたこと及び亡啓高が渡渉する際にパーティーが二つに分かれており、救出に十全を尽せなかったこと、すなわち、パーティーの具体的な判断、行動の誤りにあると認められる。もっとも、結果的にみれば、本件当時の気象状況下においては、当初の計画から一泊短縮された三泊行程の日程に無理があったといわざるを得ず、この点が右パーティーの判断、行動を誤まらせた遠因になっていることは否定し難いところであり、したがって、事前の計画修正段階あるいは出発直前に適切な助言、指導があれば、本件事故はあるいは防止できたと考えられなくもない。しかしながら、前認定のとおり、三泊行程への計画の変更は上野教諭には報告されず、また、実際の出発日も同教諭に報告されないまま、本件山行が実行に移されたものであるから、当初の計画(《証拠省略》によれば、過去に二度、いずれも本件山行と同時期に同様の編成メンバーで四泊ないし五泊行程の計画が実行されて、何らの故障なく、危険もなく完了していたことが認められ、同事実に照らせば、当初の計画自体は特に危険なものであるとは認められず、同教諭がこれを是認したことについては何ら問題はない。)しか把握していない同教諭に右の指導、助言を期待することは無理であり、この点をとらえて同教諭に過失があったということはできない。更に、右計画の変更が、顧問に何ら報告されないまま行なわれたこと自体、上野教諭の指導、監督責任が問題となるが、さきに認定した事実によれば、山岳部には上野教諭の努力にもかかわらず、OBの影響が強く、顧問の指導面での関与を敬遠する傾向が存し、その指導監督が事実として制約を受けていたことは、否定できないところであり、また右制約を直ちに同教諭の責に帰せしめるのも相当でないというべきであるから、右の点をとらえて同教諭に指導、監督義務違反があったということもできない。

以上検討したとおり、結局、亡啓高が死亡したことについて、上野教諭に過失を認めることはできず、したがって、これを前提とする原告らの本訴各請求はその余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がない。

四  以上の次第で、原告らの本訴各請求はいずれもこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石田眞 裁判官 河合健司 大西忠重)

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