京都地方裁判所 昭和59年(行ウ)20号 判決 1990年10月23日
原告
八田ミドリ
右訴訟代理人弁護士
村山晃
同
村井豊明
被告
地方公務員災害補償基金京都府支部長
荒巻禎一
右訴訟代理人弁護士
小林昭
同
石津廣司
主文
一 被告が、昭和五五年一月一一日付でなした原告に対する公務外認定処分を取り消す。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第一 当事者の求める裁判
一 原告(請求の趣旨)
主文同旨の判決。
二 被告
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
との判決。
第二 当事者の主張
一 原告(請求原因)
(一) 八田武志(以下「被災職員」という)は、昭和二六年に京都府の教員となり、昭和三八年以降京都府教育委員会に勤務し、昭和五二年五月一一日以降城陽市教育委員会教育次長の職にあったところ、同年一〇月一五日、部長会議中に脳動脈瘤破裂を発症して、くも膜下出血を起こし、同月三〇日、脳ヘルニアで死亡した。
(二) 原告は被災職員の妻であるが、昭和五三年一月二〇日、被告に公務災害認定請求書を提出した。被告は、これを公務外災害と認定し、その旨を、昭和五五年一月一一日、原告に通知した(以下「本件処分」という)。
原告は、右の決定に対し、昭和五五年三月一一日、地方公務員災害補償基金京都府支部審査会に審査請求したが、同支部審査会は、昭和五七年七月五日、これを棄却する旨の裁決を行ない、更に、原告が、同年八月一三日、地方公務員災害補償基金審査会に対し、再審査請求をしたところ、昭和五九年五月二三日、同審査会は、これを棄却し、右裁決書は、同年六月二一日、原告に送達された。
(三) しかし、次に述べるとおり被災職員の右疾病、死亡は公務に起因する。
(1) 公務起因性
公務災害補償制度の趣旨は、地方公務員の生活と福祉の向上を図ることにあるから(地方公務員災害補償法(以下「地公災法」という)一条、憲法二五条)、労働と災害との間に厳密な因果関係は必要でなく、労働と災害とが一定の関連を有する場合には補償がされなければならない。基礎疾病がある場合にも、右に変わりはない。
そうでないとしても、少なくとも、業務が基礎疾病と共働して発病ないし死亡の原因であると考えられる場合には、公務上と認定すべきである。
(2) 被災職員の職務と発症の経過
イ 被災職員は、昭和四一年に社会教育主事、昭和四三年に社会教育課推進係長となったが、その頃より、出張に次ぐ出張で府下各地を回り、寝食を度外視して社会教育の仕事に打ち込んだ。このため、昭和四八年末の健康診断で、初めて高血圧症の診断を受けた。
ロ しかし、被災職員の職務は軽減されることなく、昭和四九年六月から昭和五〇年六月まで京都府乙訓教育室次長として慣れない行政分野の仕事を担当し、昭和五〇年六月以降は総括主事としてより一層責任の重い仕事に従事した。その結果、高血圧症は悪化した。
ハ 当時、被災職員にとって最も必要であったのは、休養をとること、ストレスを減少させること、治療に専念しうる態勢をとることであったが、適切な対策が講じられることはなく、被災職員は、困難な問題が山積する城陽市に派遣されることとなった。
ニ 昭和五二年当時、城陽市の人口増加は著しく、その後も増加し続けることが予想されていた。その結果、同市は、府下でも有数の生徒急増自治体として、学校建設(新築・増築)が集中し、給食センター、移動図書館の設置などの課題が山積みとなり、行政への需要が増大していた。
更に、当時の市政は、古川小学校における鉄筋手抜工事の発覚や、汚職により大量の逮捕者を出したことなどで住民からの信頼を失い、市長と対立する政治勢力からは厳しく糾弾をうけるようになった。
しかし、行政への需要の高まりに対応すべき市及び教育委員会の体制は貧困で、市長、助役、教育長不在で、教育長の代理となった被災職員には、本来補佐役となるべき次長役がおらず、教育委員は五人中二人となり、委員会としての機能を失っており、また、指導主事が不在であり、教育内容面の指導についてまで被災職員が目を配らなければならず、学校教育課長、施設課長は新任で十分な対応が期待できなかった。更に、部長級で学校建設の問題にあたっていたのは被災職員一人であり、本来必要な全庁的態勢は全く図られていなかった。
ホ 右の状況のなかで、被災職員は山積する課題に積極的に取り組み、日常の教育委員会の仕事のほかに、古川小学校建替問題、今池小学校の学校事故の補償に関する問題、久世小学校手抜工事問題、寺田小学校プール新設、市民プール沈下問題、第三中学校新設のための用地買収、第一〇小学校(寺田西小)建設計画、寺田小学校校舎改築計画、学校給食センターの新設問題、寺田南小学校建設に関する疑惑の解明、適正就学委員会への参加、年度途中での学級再編成、米飯給食導入問題、学校建設の基準案作り、移動図書館新設の問題などに取り組んだ。
ヘ 被災職員の勤務がいかに多忙であったかは、右の業務内容から判断できる。また、城陽市派遣後の帰宅時間から推定して、残業量が月平均五〇時間以上となり、勤務時間内においてはほとんど休憩がとられておらず、休日出勤も多く、城陽市在職期間五か月のうち、わずか一日しか休暇をとらなかった。
加えて、城陽市での職務は、それ以前と全く異なった業務であり、住民、議会などからの追及、要請等を責任者として引き受けねばならない地位にあり、補佐あるいは協力態勢も全くなく、これらのことから、被災職員は、精神的疲労を増大させていた。
ト 被災職員は、ついに昭和五二年八月ころから身体の変調を訴えるようになったが、業務に追われていたため満足に病院に通院すらできず、とくに本件発症の三日前である同年一〇月一二日、市職員健康診断の際、担当医師からこのままでは倒れてしまうから休むようにと指示されたが、どうしても休暇をとることができなかった。
チ 本件発症直前の業務の状況
被災職員の本件発症直前一〇日間の業務の概況は、別紙のとおりである。
当時、第三中学校用地買収交渉が大詰めに入り、その作業に追われ、とくに発症前日には、粘る地主との交渉に憔悴しきっていたが、なんとしても早期決着を図りたいと考えていた被災職員は、翌日(発症当日)の定例部長会において全庁的な協力態勢の必要性を指摘しようと重大な決意をもって臨む覚悟をしていた。
発症当日、被災職員は、午前九時半から開始された会議のなかで、通常の議題が滞りなく終了した後、司会者の「その他何かありませんか」という言葉に続けて「当面教育課題が山積しており、皆さんに大変お世話になりますがよろしく」と発言した後、「どうも頭がおかしい」と言って沈黙し倒れたのである。
(3) 動脈瘤の発生は、動脈の中膜筋層部の欠損ないしは形成不全に、動脈内腔の圧力の持続的ないしは断続的な上昇(血圧の上昇)が加わることによる。その破裂の引き金は、最終的には血圧の上昇であるが、重要なのは、病理過程の進行・血管腫の肥大化・血管壁の脆弱化・菲薄化に、労働が寄与していることである。本件の場合、前記の高度の精神的負担の伴う職務を過激に遂行したために、高血圧症状が増悪して病理過程が急速に進行したもので、まさに、動脈瘤の発症、増悪と公務の遂行との間に一定の関連のあることが明らかであり、公務起因性が認められる。
しかも、市当局が労働安全衛生法上、被災職員の健康保持のための措置を講ずる義務があったにもかかわらず、何らの措置を講じないまま被災職員を死亡に至らせたのであって、市当局の健康管理義務違反が原因となって被災職員が罹災したことは明らかである。
仮に、共働原因主義をとるとしても、被災職員は、本態性高血圧症という基礎疾病(これ自体、公務に起因する)を有していたところ、城陽市教育委員会へ派遣されて以後、高度の精神的負担を伴う職務を過激に遂行せざるを得なかった結果、高血圧症を増悪させ、あるいは、高血圧と相俟って、動脈瘤を形成、成長させ、ついに破裂させたということができ、公務と死亡との間に相当因果関係があるのである。更に、被災職員の発症直前の状況から、極めて重要な定例部長会で精神的、心理的緊張が高まったことが、脳動脈瘤破裂の直接的な引き金となっており、より一層公務との相当因果関係が認められる。
(四) よって公務外と認定した本件処分は違法であるから、その取り消しを求める。
二 被告
1 請求原因に対する認否
(一) 請求原因(一)、(二)の事実をいずれも認める。
(二) 同(三)のうち、被災職員が、昭和四一年に社会教育主事、昭和四三年に社会教育課推進係長、昭和四九年六月から昭和五〇年六月まで京都府乙訓教育室次長、昭和五〇年六月以降は総括社会教育主事となり、昭和五二年五月城陽市へ派遣されたこと、昭和四八年末の健康診断で高血圧症の診断を受けたこと、城陽市は人口増加が著しく、府下有数の生徒急増自治体であったこと、被災職員が城陽市派遣中、教育長の後任が定まらず、教育委員が終始定数を割っており、助役を欠いていた期間があり、市長が途中で交替し、学校教育課長及び施設課長が新任であったこと、昭和五一年に古川小学校の手抜工事が発覚し、その後、古川小学校問題、第三中学校用地買収問題、第一〇小学校建設問題、寺田小学校校舎改築問題、寺田南小学校問題、年度途中の学級再編成の問題があったこと、被災職員が城陽市在職期間中にとった有給休暇が一日であること、日曜祭日の行事に出席したことがあったこと、一〇月一二日に健康診断を受け医師から注意を受けたこと、被災職員が、一〇月一五日、定例部長会に出席し、司会者の言葉に続けて発言した後、「どうも頭がおかしい」といって沈黙し、倒れたことをいずれも認め、その余を争う。
(三) 同(四)を争う。
2 被告の主張
(一) 公務上外認定の基準
(1) 職員の死亡が公務上と認定されるには、災害概念に適合する事態の存在を必要とする。地方公務員災害補償制度は、一種の使用者責任の性格を有しており、その費用全額が使用者であるその地方公共団体の負担とされているから(地公災法四九条)、同制度の合理的かつ健全な運営のためには、公務上外の判断にあたって、使用者たる地方公共団体の負担に帰すべき危険の範囲につき限定されなければならない。したがって、公務上の傷病等の要件をなす公務起因性は、一定の時間的限定をもった明確な事由すなわち「災害」によって媒介された相当因果関係を指す。このことは、労働省が定める「中枢神経及び循環器系疾患(脳卒中、急性心臓死等)の業務上外認定基準について」において災害主義の立場が明確にされていることからも明らかである(昭和三六年二月一三日基発第一一六号労働省労働基準局長通達。以下「昭和三六年認定基準」という)。
(2) さらに、当該職員に基礎疾病が存在する場合には、相当因果関係があるというためには、公務が相対的に有力な原因であることを要する。
(3) 本件被災職員には、脳動脈瘤及び本態性高血圧症の基礎疾病が存在していたものであるから、公務起因性を認めるには、公務の遂行が右基礎疾病を急激に増悪させ、死亡の時期を著しく早めたと認められることを要するものであるが、脳動脈瘤は、先天的に発生し、自然に成長して破裂するものであり、高血圧症とは直接の関連を持つものではないし、外的ストレスとも無関係であって、公務の遂行による疲労が医学上何ら相関関係がないことが明らかである。したがって、公務起因性は否定される。
仮に、脳動脈瘤に高血圧が関与するとしても、被災職員の高血圧症が増悪した事実はなく、被災職員の高血圧症が発症したと推測される京都府教育委員会在勤中には、格別、心身の疲労を来す勤務状態ではなかった。被災職員の高血圧症が増悪していたとすれば、むしろ、その原因は被災職員の高血圧症治療中断によるものである。したがって、脳動脈瘤成長の面から見ても公務遂行が相対的に有力な原因であるとはいえず、公務起因性はない。
三 原告(被告の主張に対する認否)
被告の右主張を争う。
高血圧症の治療中断が、高血圧症の増悪の原因であったとしても、治療中断は、城陽市派遣後の職務が、通院も不可能とするほど多忙であったことによるから、この点でも、職務の多忙が、高血圧症の増悪の原因であるといえる。
第三 証拠<略>
理由
一当事者間に争いのない事実
請求原因(一)、(二)の審査請求の経緯及び被災職員が動脈瘤破裂により死亡したことは、当事者間に争いがない。
二公務起因性の検討
被災職員の動脈瘤破裂による死亡が、地公災法三二条にいう「職員が公務上死亡した場合」に該当するという請求原因(三)の当否を検討する。
1 公務起因性の意義と要件
(一) 地公災法三一条にいう「職員が公務上死亡した場合」とは、職員が公務に因り死亡し、負傷し、若しくは疾病にかかり、若しくはこれらにより死亡したものを指し(地方公務員法四五条一項参照)、右の死亡、負傷又は疾病と公務との間に相当因果関係のあることが必要であり、かつ、これをもって足る(最判昭五一・一一・一二集民一一九号一八九頁参照)。そして、公務上災害であることを主張する原告において、この事実と結果との間の相当因果関係を是認しうる高度の蓋然性を証明する責任、即ち、通常人が合理的疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうる程度の立証をする責任があると解するのが相当である(最判昭五〇・一〇・二四民集二九巻九号一四一七頁参照)。
なお、公務災害と認めるのに必要な相当因果関係は、使用者である地方公共団体において、予見していた事情、及び健全な常識と洞察力のある者が認識し得た一切の事情を前提として、公務によって所属職員の疾病または死亡が生じたもので、これが公務に内在し又は通常随伴して生ずるといえるものであること、即ち、公務なければ疾病、死亡がないといえる関係、または、それが同種の結果発生の客観的可能性を一般的に高める事情にあると判断されることが必要である。
原告は、公務と負傷、死亡との間に一定の関連がある場合には補償されねばならないと主張するが、地公災法が、国家公務員災害補償法、労働者災害補償保険法と同様に、労働基準法の使用者による災害補償制度を基礎に発展してきた労災補償制度の一環であること、現行の労災補償制度は、労働者の私生活領域における一般的事由により生じた傷病と区別して、労働関係に内在ないし通常随伴する危険により生じた労働者の死亡、負傷等の損失を、その危険の違法性や使用者の過失の有無を問わず、いわゆる従属的労働関係に基づき労働力を支配する使用者の負担において補償しようとしたものであることに照らし、地公災法による職員の災害補償の対象は公務により生じた死亡等に限られるのであって、公務に関連する発症ないし死亡のすべてを補償の対象とすることはできない。したがって、原告の右主張は採用できない。
また、被告は、死亡が公務上と認定されるには、一定の時間的限定をもった明確な事由、即ち、災害に該当する事実の存在が必要であると主張するが、この意味における災害的出来事の存在は、これをもって相当因果関係の存在を明確に認識するための一要素に過ぎず、地公災法三一条などが補償の要件として単に「公務上」の死亡等と挙げるのみで災害的出来事を必要としていないことなど実定法上の根拠を欠くこと、現行労災補償制度が、沿革的に災害(施設欠陥、天災地変、第三者の行為等)と業務上疾病(災害性疾病と職業性疾病)とを併せて対象としていることなどに照らすと、公務員の死亡、負傷がかならずしも災害的出来事によるものでなくとも、公務との間に相当因果関係がある限り、「公務上」の死亡と認めることができるというべきである。
(二) 被告は、昭和三六年認定基準を挙げて、災害主義を主張するところ、この基準は昭和六二年の「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準について」と題する認定基準(昭和六二年一〇月二六日基発第六二〇号労働省労働基準局長通達。以下「新基準」という)の制定に伴ない廃止されたが、基本的な考え方に相違がない。しかし、そもそも、右各認定基準は、行政庁たる労働省が、業務上外認定を適正、迅速かつ全国斉一的に遂行する必要上各疾病の種類に応じて作成した下部行政機関に対する運用のための通達であって、もとより裁判所を拘束するものではなく、しかも、新基準自体においても、(解説)5(3)ロで「この認定基準により判断し難い事案」については「本省にりん伺すること」、と定め、その第一部「認定基準について」7(3)②で「業務による継続的な心理的負荷に対する心理学的、生理学的反応は、個人によって著しい差を有するものであり、継続的な心理的負荷と発症との医学的因果関係も確立していない。したがって、医学的資料とともに、業務による継続的な心理的負荷によって発症したとして請求された事案については、専門的検討を加える必要があるので、本省にりん伺することとしたものである」旨の説明がされている<証拠略>。
とくに、労働省の新基準作成に当たった専門家会議の「過重負荷による脳血管疾患及び虚血性心疾患等の取扱いに関する報告書」において「Ⅳ2今後の検討課題」として、「近年いわゆる業務による諸種の継続的な負荷、中でも心理的負荷と脳血管疾患及び虚血性疾患等の発症との…関連性が推測されているが、反面…詳細について医学的に未解明の部分があり、現時点では、過重負荷として評価することは困難である。したがって、この分野における医学的知見の収集を図るとともに、個々の事例については、それぞれ専門的検討を加え慎重に判断していく必要がある」と報告をしている<証拠略>。
したがって、右各認定基準は行政の適正、迅速処理のための簡易判定基準にすぎず、これに当たらないからといって、直ちに業務起因性を否定すべきものという被告主張の災害主義の根拠とすることはできない。
2 動脈瘤の発生、破裂原因
<証拠略>、弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められ、これを覆すに足る証拠がない。
(一) 脳動脈瘤形成の発生機序
脳動脈瘤発生の機序には諸説があるが、動脈瘤の形成原因は、医学の一般的(支配的)見解に照らし、動脈血管の中膜筋層部及び内弾性板(内膜と中膜との間に存在する)の先天的な欠損ないしは形成不全があり、これによる血管壁の脆弱部に、血圧、血流の圧力負荷が加わることにより、内弾性板や内膜の変性が起こり、その結果この形成不全部分が外側に膨隆して嚢状に拡大するといわれる発生学上の一種の奇形を基盤とする疾病であることが大多数で、先天的に発生し自然に成長するものであるとされ、外的要素としての精神的、肉体的疲労等は脳動脈瘤の形成要因として決定的な作用はないといわれる。
もっとも、この先天的脳動脈瘤のほか、細菌性脳動脈瘤、動脈硬化性脳動脈瘤、外傷性脳動脈瘤、梅毒性脳動脈瘤があるが、それらは極めて少数である。
(二) 脳動脈瘤破裂の機序
脳動脈瘤破裂の機序も、必ずしも明らかではないが、一般に脳動脈瘤の破裂は、時、所を選ばずいつでも起こるといわれている。
そして、ロックスレイ(Locksley)が調査した二二八八の結果によれば、破裂の機会は、睡眠中、休息中が三六パーセント、特別の状況というべきものがないときに三二パーセントとなっている。しかし、ロックスレイ自身が、(重量物の)挙上、(身体の)うつむき、興奮、性交、せき、排泄(排尿、排便)、手術、分娩などの肉体的、精神的負荷時にも約三〇パーセントが出現していることを明らかにし、くも膜下出血の発生は、外的なストレスと全く無関係に起こるという仮説を否定する材料であるとする。すなわち、これら特定の出来事全てを合わせたとしても、大抵の人にとって、一日二四時間の三分の一を占めることは到底考えられないからである<証拠略>。
3 高血圧症の成因
<証拠略>、弁論の全趣旨を総合すれば以下の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。
高血圧とは、正常値以上に血圧が持続的に上昇している病症であって、臨床的に近似基礎血圧値が成人で最大血圧が一五〇ミリグラム、最小血圧九〇ミリグラムを超えるものを指す。腎疾患、その他の血圧を亢進させる原因となる疾患がなく、純機能的に大循環の細動脈の緊張亢進によって生ずる血圧亢進(または高血圧)を本態性高血圧という。その病因は、遺伝、環境因子(精神的緊張、不安、過労、食餌、体重、嗜好品、職業、経済状態、気候など)があり、その成因には神経性、内分泌性、代謝性、腎性、血管性因子などが考えられるが、その詳細は未だ不明である。しかし、疲労やストレスの蓄積が、持続的あるいは断続的に高血圧をもたらすことのあることが認められる。
本態性高血圧症における血圧値は、初期には最大血圧は動揺しやすく、進行するにつれて高い値に固定する。高血圧の心臓は左室の求心性肥大をきたす。
本態性高血圧症に対する降圧剤療法(服薬)を中止した場合、早晩、降圧剤投与前のレベル、またはそれ以上に上昇する。さらに、中止の数カ月後に、病態の悪化、脳卒中の発症、悪性高血圧症の発症をみることがある。
4 被災職員の健康状態
(一) <証拠略>、弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められ、これを覆すに足る証拠がない。
(1) 被災職員は、昭和二六年五月八日京都府綴喜郡八幡町立八幡小学校助教諭となって以来、年に一、二度風邪、扁桃腺炎で休む以外病欠もなく血圧も正常であったが<証拠略>、昭和四八年一二月一九日に行なわれた職員定期健康診断で、初めて高血圧症(最大血圧一九〇ないし一七八ミリグラム、最小血圧一二〇ないし一一〇ミリグラム)と診断され<証拠略>、翌四九年二月二二日、循環器系精密検査の結果、本態性高血圧症、心肥大と診断され、C1(要治療)の指導を受けた<証拠略>。
その頃から自宅付近の開業医に受診し、血圧降下剤の投薬を受けて服用していたが、全身に発疹が出たため半年ほどで受診服薬を中断した。
なお、右のC1とは、健康診断後の事後処置として、所属長を経て当該職員に通知される処置区分の一つであって、「医師により直接医療行為の必要があるが、勤務時間は、制限する必要はなく、私生活において自制し、長期及び遠方への出張又は、日宿直はさける必要があるもの」を指す(京都府衛生管理規程二六条)<証拠略>。
(2) その後、昭和五〇年一一月二一日の職員定期健康診断でも、最大血圧一八二ミリグラム最小血圧一〇八ミリグラムとなり、循環器系精検を受け、昭和五一年二月一七日、高血圧症、高脂血症と診断され、C1(要治療)の指導を受けて<証拠略>、京都第二赤十字病院で受診し、通院、治療を受けていたが再び治療を中断した。
(3) 昭和五一年一〇月八日の職員定期健康診断では、最大血圧一九六ないし一九〇ミリグラム最小血圧一二八ないし一二二ミリグラムで、循環器系経過検診を受け、同年一二月七日、高血圧症、低K血症と診断され、C1(要治療)の指導を受けて<証拠略>、昭和五一年一二月一四日、京都第二赤十字病院で診察を受け、最大血圧一七〇ミリグラム、最小血圧一一五ミリグラム、左心肥大、高血圧症、冠不全との診断を受けた。
(4) 昭和五一年一二月二五日から昭和五二年五月一〇日まで再び京都第二赤十字病院に通院し、血圧降下剤の投薬治療を受け、次のとおりの血圧の推移を示しており、血圧降下の状態が安定していた。
昭和五一年一二月二五日 一六〇/一一〇
昭和五二年一月八日 一七〇/一二〇
同月二二日 一五〇/一〇〇
同年二月五日 一三〇/八〇
同月二六日 一四四/一〇八
同年 三月二六日 一五〇/一〇〇
同年 四月二三日 一四八/一〇〇
同年 五月一〇日 一五〇/一〇五
(5) 昭和五二年五月一一日、被災職員は、城陽市教育委員会教育次長兼教育長職務代理者として派遣されたため<証拠略>、以後、通院、治療を中断し、暫く手元に残っていた血圧降下剤を服用していたが、それもなくなってきたので通院、投薬を受けるように妻からいわれたが、職務多忙のため放置していた<証拠略>。そして、被災職員は、当初これといった自覚症状はなかったが、城陽市に派遣後、疲労を訴え、食欲が落ち、睡眠も十分ではなく、昭和五二年夏ころには頭が重い、肩が凝る、「しんどい」と訴え、見るからに疲労している様子が窺え、勤務中、保健室で寝ていることも二、三度あった。本件災害の数日前には、朝、自宅で頭部の不快感(めまいのような感じ)を訴えていた。
(6) 昭和五二年一〇月一二日の城陽市の健康診断では、最大血圧一六〇最小血圧一一〇ミリグラムで、要治療の判定を受け<証拠略>、この際、医師に体の調子が良くないと訴えたことから、医師から、調子の悪いときは休むように、また、血圧については治療を受けるようにと指導されたが、被災職員は、仕事が忙しく休めないと答えていた。
(二) 右(一)認定の各事実、及び前認定二3の事実を総合すると、被災職員の高血圧症は、、昭和四八年一二月から昭和五一年一二月までの間、最大血圧値のみをみても一九〇、一八二、一九六、一七〇と推移し、ほぼ一定の高い数値が持続し、要治療、本態性高血圧症の診断を受けていたが、昭和五一年一二月から昭和五二年頃までの間は降圧剤投薬の治療を受け、最大血圧値も一六〇、一七〇、一五〇、一三〇、一四四、一五〇、一四八、一五〇、最小血圧値も約一〇〇内外で、ほぼ軽快状態で安定していた。
5 被災職員の職務の状況
(一) 経歴
<証拠略>、弁論の全趣旨及び当事者間に争いのない事実を総合すると、被災職員は昭和二六年五月八日に京都府教員となり、府下の小学校教諭を勤めた後、昭和四〇年一一月から京都府教育委員会事務局に勤務し、昭和四一年一月に社会教育主事、昭和四三年一月に指導部社会教育課推進係長、昭和四九年六月に京都府乙訓教育室次長兼庶務課長、昭和五〇年六月に指導部社会教育課総括社会教育主事となり、その後、昭和五二年五月一一日に、城陽市に派遣され、同市では教育委員会教育次長の職にあった事実が認められ、これを覆すに足る証拠がない。
(二) 城陽市派遣前の被災職員の勤務
<証拠略>、弁論の全趣旨を総合すると、被災職員は、昭和二六年五月八日京都府綴喜郡八幡町立八幡小学校助教諭を受命して以来、教職に従事し、昭和四〇年一一月一〇日、京都府教育委員会事務局事務職員に転じ、昭和四一年一月一日から社会教育主事となったが、その仕事は、出張、会議の多い職種で、特に、被災職員は、同和教育及び社会教育の分野で業績を認められていたことから、出先では、主として助言者や講師などの立場での出席で気苦労が多かった。
昭和四三年一月一日指導部社会教育課推進係長に配置換えとなった。その後も出張が多く、月一ないし四回くらいの出張があり、さらに、これより以前の昭和四二年頃からは同和研究会や「ろばた懇談会」に執務時間後、夜間、泊まりがけで参加することも多く、これが重なり、昭和四三年以降は多忙な日が続いた<証拠略>。
昭和四九年機構改革により前示社会教育課推進係は社会教育課主事室となりその総括社会教育主事となった被災職員は、同主事室の責任者として、益々出張、会議が多く、同室主管の同和教育、「ろばた懇談会」にも力を入れ、いよいよ多忙をきわめ、デスクワークをする暇もない状態であったが、責任感が強く、仕事の手抜きをしたり、疲れを口にすることはなかった<証拠略>。
(三) 城陽市における勤務の状況
<証拠略>、弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められる。
(1) 城陽市は、京都市の近郊にあって、昭和三〇年代後半から宅地開発が進み、ベッドタウンとして急膨張を続け、急激な都市化により行政需要が増大していた。とくに人口増加に伴って深刻化する既設学校の過密解消などの生活環境、義務教育施設等の整備が急がれていたが、都市開発が進み地価高騰の中で学校用地の取得は困難な状態であった。このような状況のなかで、昭和五一年二月、学校建設に関連して、市の職員の大規模な汚職が摘発され、更に、昭和五一年七月には、会計検査院の検査から新築の市内古川小学校校舎に鉄筋手抜工事のあることが発覚し(以下「古川小問題」という)、同年九月には市議会で調査特別委員会が設置され、校舎の強度に問題があることから、これを直ちに全面的に建て替える必要が生じた。
(2) この汚職事件、行政ミスの発生で、当時の市政に対する住民、議会の信用が著しく低下し、市長、助役はともに、昭和五二年八月末に退任した。また、教育関係の建築に関する汚職やミスであったことから、教育委員会の責任も問題となり、教育委員の再任に必要な議会の議決が得られず、教育委員は任期切れのまま定員を割り、教育次長は昭和五二年三月三一日付で退任し、次いで教育長(教育委員会指導主事も兼務)は昭和五二年五月一〇日付で退任となった。そこで、教育長、教育次長の後任を補充する必要が生じたが、城陽市は職員構成が若く、教育行政経験の豊富な人が少なかったため、外部からの移入人事をせざるを得ず、このような非常事態にあった城陽市に、被災職員が、同月一一日付で、教育内容の指導での業績を買われて京都府から派遣され、教育次長、教育長職務代行者となったが、在職期間中、教育長が任命されず、被災職員は教育委員会事務局の実質的な最高責任者たる地位にあった。
(3) 同市では、教育行政のうち財政面はすべて市長が把握し、教育委員会の職務は教育行政の基本方針を作ることにある。教育委員会の業務は、実質的には教育長に委任されており、教育長の事務の執行のために、事務局として、学校教育課、社会教育課があり、同年八月一日からは、施設課が置かれることとなった。教育委員会内で、学校校舎の建築は学校教育課の所管であったが、被災職員は、所管にかかわらず、教育委員会内の重要事項については自ら直接指揮し、行動していた。
(4) 昭和五二年八月末の市長、助役の辞任から、新市長が登庁するまでの間約一か月間、市長職務代行者がおかれていたものの、教育行政の財政面に関し、実質的には決裁を行なう者が不在であった。また、助役及び教育長は、被災職員が発症に至るまで選任されることがなかった。教育委員会内部では、学校教育課長が同年八月一日に新任と替わり、教育主事は教育次長である被災職員が兼任していた。
(5) 被災職員が、城陽市派遣後に取り組んだ問題の主なものは、以下のとおりであった。
ア 古川小学校問題
前掲の古川小建築工事汚職問題については、昭和五一年一月、事務処理のため、助役を室長とする特別対策室が設置され、被災職員の派遣前である昭和五二年五月九日に、京都府から校舎の全面使用禁止命令が出され、次いで、市議会で全面改築が決定されていた(昭和五三年三月完成予定)。
しかし、教室数の確保、教室の配置、内部設計に必要な諸条件については、教育委員会から対策室に提案する必要があり、更に将来の展望を把握することも必要で、また、この事件により、将来、市の学校建設に国の補助金を得ることが難しくなるおそれもあった。
そこで、被災職員は、派遣後早々に、教育委員会事務局職員全員に臨時態勢で臨む旨を伝えるとともに、地元PTAとの話合いにも出席し、自ら校区内の将来の児童数の計算を行なうなど将来の計画を作成した。
そして、昭和五二年七月に旧校舎の取り壊し、新校舎建築の入札が行なわれ、八月に新校舎建築着手の運びとなったが、その間、被災職員は改築計画の策定、これに伴う補助金対策、市議会、委員会の質問等の市議会対応、PTAとの話合い等にあたっている。
イ 第三中学校問題
城陽中学校の過密化に伴い、昭和五三年四月までに第三中学校の建築が必要となり、被災職員の派遣前年の昭和五一年八月に、具体的な候補地が決定していた。しかし昭和五四年四月開校を目指し、具体的な用地買収交渉に入ったのは、被災職員着任後間もない昭和五二年七月からであった。しかも、排水工事の難航が予想されていたことから、被災職員の下で、整地、排水・建築工事に要する期間を考え、昭和五二年七月ないし八月までに用地買収を終わらせる必要があった。
用地買収は、従前は業者に行なわせていたが、前記の汚職発覚以来、市の職員が直接行なうこととなり、市総務課内に用地課が設置され、用地買収に関係する書類の作成などはすべて用地課が行なっていた。しかし、現実の買収交渉は、用地を必要とする課(本件では教育委員会)の職員が自ら積極的に行なわねばならなかった。しかも、前記のような逼迫した状況であったことから、学校教育課長ではなく、教育次長である被災職員自ら交渉に出向くこととなった。しかし、用地課などその他の市の関連の部署では、特に、特別の態勢を組むことはしていなかった。
昭和五二年六月一八日、PTA三中建設委員会、七月七日三中問題説明会(議員、農家組合、自治会等)、七月一九日長池自治会との話合いを自ら出席して行ない、七月二五日、土地所有者に対して第一回の事業説明を行ない(被災職員も出席)、用地買収を開始したが、代替地を希望する土地所有者が多く、土地上の権利関係も入り組んでいたことから交渉は難航し、被災職員自身、同年八月、九月、夜間、個別に土地所有者宅を訪問するなどして交渉に当たった。この間、価格面で折り合わず、その際、被災職員の首と引き換えであれば譲っても良いとの暴言を浴びせられ、ショックを受けていた。
この買収は、同年一〇月までに八割り程度終了していたが、完全に買収できなければ校舎建築に着手できないことから、被災職員は、一〇月初旬に教育委員会の三課長及び係長を招集し、被災職員の要請に応じていつでも用地交渉の応援に入ってもらえるよう協力を依頼していた。また、新市長就任後の一〇月に入ってから後も用地選定を練り直す話が持ち出されることなどがあり、その対応に追われていた。
ウ 第一〇小学校問題
富野小学校の過密化に伴い、第一〇小学校を建築する必要が生じ、被災職員は、派遣後直ちに、昭和五五年四月開校を目標として昭和五二年中に基本計画を作成し、昭和五三年に用地買収を行なうことを決定した。この基本計画を作成するには生徒数を具体的に計算する必要があり、また、学校建設を巡る不祥事を再発させないために、市の財政部局に対して責任のある決定と計画を出す必要があったが、当時の学校教育課では、将来の生徒数を計算してこれに基づいた具体的な計画を立てることのできる能力がなかったため、被災職員自身がこれに当たったものの、昭和五二年八月ないし一〇月には、まだ、用地選定作業まで進んでいなかった。
エ 給食センター問題等
被災職員の派遣当時、市内にあった二つの学校給食センターの処理能力が限界に近く、市長と労働組合との間で、昭和五二年一月に、昭和五三年四月までに新たな給食センターを建設するよう努力するとの協定書が交わされていたが、米飯給食導入の請願もあり、新しい給食センターを建設するか、各校で行なうことにするか、また、業者委託はどうかなどが検討されていた。そこで、被災職員は、将来計画を含め、当面翌年度をどうするかにつき自ら検討しなければならなかった。当面従来の給食センターで賄う量を一、〇〇〇食増やす方針が決まったが、従来の協定書があることから、センター職員との話し合いが容易には進まず、昭和五二年九月は、この話し合いや打ち合わせ等を行なっていた。
この外に、今池小学校の学校事故に対する教育委員会の対応について市議会で追及を受けたが(昭和五二年六月ころ)、学校教育課長の事故の対応及び答弁が適切でなかったことを指摘され、被災職員が議会で答弁するとともに、学校教育課長を更迭したこと(同年八月)、移動図書館設置の要望に答え、その計画をする必要があったこと、兼務している指導主事として、適正就学委員会への参加、いくつかの学校の校舎やプール、その他公共施設の修理の必要への対応など、日常業務以外の業務を多く抱えていた。
右の認定に反する<証拠略>は、前掲各証拠に照らし信用することができず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。
(四) 被災職員の派遣後の勤務状況
<証拠略>、弁論の全趣旨を総合すると以下の事実が認められる。
昭和五二年五月以降の被災職員の時間外勤務は、時間外勤務命令兼報告書<書証番号略>では、
昭和五二年五月 二一時間三〇分
六月 五一時間三〇分
七月 三四時間三〇分
八月 四〇時間
九月 二二時間
一〇月 五時間三〇分
となっている。
しかし、これは時間外に行なわれた会議等の実時間の記載が殆どで、通常の勤務終了時(平日午後五時)から会議等の開始時間(午後六時ないし七時三〇分ころ)までの間には一旦自宅に帰ることはなく、その間も勤務を続けていた。そこで、実際の時間外勤務は少なくとも
五月 二四時間
六月 七一時間
七月 四九時間
八月 五七時間三〇分
九月 三一時間三〇分
一〇月 一二時間三〇分
となる。
右の報告書の記載は、時間外勤務の度ではなく、後日まとめて記入されており、しかも、被災職員の時間外勤務の記載は会議等がある場合のみであって、事務処理のためにいわゆる残業をしていた場合は記入していないこと、被災職員の仕事の量が通常の教育次長の義務を遥かに上回っていたこと、勤務時間内でも、容易に休憩を取れないほど多忙で、昼食の弁当も午後一時過ぎに取る日も多く、とらずに持ち帰ることが幾度かあったことが認められる。
前記時間外勤務のうち日曜出勤は、
五月 一回(三時間三〇分)
六月 二回(九時間)
七月 三回(六時間三〇分)
八月 二回(二時間)
九月 二回(二時間)
で、この間休暇は八月三〇日に僅か一日の特別休暇を取ったのみであった。
<証拠略>の証言のうち、右の認定に反する部分は、前掲各証拠に照らし措信できず、他に右認定を覆すに足る証拠がない。
(五) まとめ
被災職員の職務は、昭和五二年五月の城陽市派遣以後、通常の教育次長の職務に加えて困難な問題が山積し、その解決も必ずしも容易には進まず、これに加えて、市長、助役、教育長という本来被災職員が最終判断を仰ぐべき者を欠いた状態という城陽市の変則的な体制が続いていたのであり、八月ないし九月が精神的、肉体的緊張、疲労のピークであったと認められる。一〇月に入っても、これらの問題は解決しておらず、新市長の下での体制も未だ整わない状態であり、発症当時も、精神的、肉体的緊張、疲労が蓄積していたことが窺われる。
(六) 発症前二週間の勤務状況
<証拠略>、弁論の全趣旨を総合すれば以下の事実が認められ、これを覆すに足る証拠がない。
一〇月一日(土)に、新市長が初登庁した。同月三日(月)は、田辺高校問題があり、四日(火)、五日(水)はとくに行事はなく、六日(木)には被災職員に関連する事務として、教育問題全般についての市長への事務引継ぎ説明、今後の方針の意見交換等が行なわれ、同和研究会連絡会があり、同日午後七時三〇分から一〇時まで公民館運営審議会があった。同月七日(金)には、午後九時三〇分から市内小中学校校長会、午後一時四〇分から午後四時三〇分まで適正就学委員会の「しらうめ病棟」を視察した。八日(土)、九日(日)は特段の行事はなく、一〇日(月)には午後九時から城陽軟式テニス大会が行なわれ、これに参列した。
なお、前示六日(木)の市長への事務引継ぎ打合せの際、第三中学校の用地について、新市長が前示のとおり再考を指示したことから、被災職員は、同月一〇日(月)までに数回、新市長と共に現地を視察し、候補地を検討した。しかし、開校予定時期までにすでに時間的に切迫しており、用地の変更は実際は不可能であった。
一〇月一一日から一〇月一五日までの間、被災職員の出勤は毎朝八時三〇分で、帰庁は一三日は午後八時ころ、一四日は一〇時ころであった。この間に、一一日(火)は、午前中百条委員会があり、午後三時三〇分から城陽中学校PTAとの話合い、一二日(水)は、予算査定、職員健康診断、一三日(木)は、市議会社会文教委員会に午前一〇時から終日出席し、午後五時三〇分から午後七時まで寺田小建設協議会に出席し、一四日(金)は、午前九時三〇分から正午まで、局管内教育長会議に出席し、午後一時から京都府小学校特別活動研究会で挨拶をし、午後七時三〇分から九時まで子どもまつり実行委員会に出席した。
一五日は、新市長の下で初の定例部長会が予定されており、その前日同月一四日夜、部下の大野木施設課長から、第三中学校建設について、用地も未確定では排水路建設等に着手できない、既に決定済みの用地で全庁的態勢で開校に取り組めるよう他の部課、特に総務部、建築部に協力を要請してほしいと強く要請され、これに「わかっている」と返答し、その対策に苦慮していた。
(七) 発症当日の状況
<証拠略>、弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められ、これを覆すに足る証拠がない。
被災職員は、昭和五二年一〇月一五日(土)朝、通常どおり午前八時三〇分ころ出勤したが、同日「城陽市、行政ミスまた明るみ」という見出しで、教育委員会内部で既に問題視され、対応策を検討していた学校建設に絡む新たな疑惑(いわゆる寺田南小学校問題)が報道されたことから、急遽、この報道に対する対策協議を行ない、一方では、教育委員会事務局職員らが、各々、同日の部長会で被災職員に提案してほしい事項を被災職員に伝え、あるいは念押しするために集まっており、このように、出勤後の慌しい超多忙さに圧倒され、ついに被災職員は、「もう何が何やらわからんようになった」といったりした。
午前九時三〇分から、城陽市役所市長室で開かれた定例部長会は、市長の挨拶、協議事項検討、報告連絡事項の順に進行し、被災職員は、報告連絡事項の際、昭和五二年度文化祭開催要項によって文化祭の実施について説明、協力依頼をした。その後、午前一一時四〇分ころ、司会者の「その他何かありませんか」との問いに対して発言を求め、「当面、教育課題が山積しており、皆さんに大変お世話になりますがよろしく。」と話した後、手を頭部に上げ「どうも頭がおかしい」と言ったまま沈黙し、顔面は紅潮し、手は青白く感じられた。正午過ぎ頃、救急車で国立京都病院に運ばれ、一過性脳虚血発作と診断された。同月一七日(月)に髄液検査の結果、血液の混在が発見され、脳動脈瘤の破裂によるクモ膜下出血と診断され、同月二四日(月)脳動脈瘤切除手術が行なわれたが、同月三〇日(日)、脳動脈瘤、脳かんとんヘルニアにより死亡した。
6 被災職員の公務と死亡の因果関係
前認定5の被災職員の職務と前認定の4の健康状態の推移とを対比して、その公務と死亡原因とみられる高血圧、脳動脈瘤破裂との相当因果関係を検討する。
(一) 被災職員の職務は前認定5のとおりであって、昭和四一年一月一日から京都府社会教育主事となり、出張、会議などが多く、多忙の職務であったが、それが、昭和四二年から同和研究会や「ろばた懇談会」に執務時間後、夜間、泊りがけで参加することも多くなり、昭和四三年一月一日指導部社会教育課推進係長に配置換えとなってからはいよいよ多忙な日々が続いた。
(二) こうして、疲労が重なっていく折り、とくに、昭和四九年の機構改革により、前示社会教育課推進係が社会主事室になり、被災職員がその総括教育主事となって以来ますます出張や会議、同和教育関係で多忙を極めることとなった。
丁度その機構改革へ移行する直前の昭和四八年一二月に職員健康診断で初めて高血圧症が発見され、昭和四九年二月の精密検査で本態性高血圧症、心肥大と診断されている。
その後、翌昭和五〇年一一月、昭和五一年一〇月と相次いで、高血圧、要治療の診断を受けている。しかし、昭和五一年一二月から昭和五二年五月までの間は第二赤十字病院で降圧剤投薬を受けて服用を続けていたため、血圧は小康を続け、ほぼ軽快状態が保持されていた。
(三) 昭和五二年五月一一日、前認定5(三)のとおり、被災職員が、市の幹部が次々とやめていき、欠員のままの異常事態にある城陽市の教育委員会教育次長として派遣されて以来、過密な日程で多忙な職務に取組み、山積する難問に献身的努力をし精神的疲労とストレスが積み重なっていた。この城陽市への配置換え以来、被災職員は職務多忙のため従前から受けていた通院投薬の治療を続けることができず、一時は手元に残っていた従前の降圧剤を服用していたが、それもなくなってきたので、妻の原告から、診療を受けるようにいわれたが、忙しくて行く暇がないと答えている。
そして、前示のとおり、城陽市において市長をはじめ幹部がいない中で難問につぐ難問が山積する教育行政のトップとして最終判断をしなければならなかったため、昭和五二年八月ないし九月ころが精神的、肉体的疲労がピークに達していたところ、前認定4(一)(5)、(6)のとおり、昭和五二年一〇月一二日、城陽市の健康診断で血圧が最大一六〇、最小一一〇で、高血圧、要治療の診断を受けたが、職務多忙で受診できなかった。
なお、この血圧値は、降圧剤服用前の昭和四八年一二月の一九〇〜一七八、一二〇〜一一〇、昭和五〇年一一月の一八二、一〇八、昭和五一年の一九六〜一九〇、一二八〜一二二と対比して比較的低い値であるが、これは、前認定の4の各事実を併せ考えると、被災職員が従前投薬を受けていた降圧剤を服用していたことによるものと推認できるのであって<証拠略>、この数値をもって被災職員の城陽市派遣後の職務が過重でなかったということはできない。
(四) 前認定5(六)のとおり、本件発症前二週間の職務も相変わらず過密な日程に追われて精神的疲労が積み重なっていたうえ、やはり多忙のため診察をうける暇がないまま、多忙な日々を送っていたが、発症前日の昭和五二年一〇月一四日の夜には、部下から、開校期限の差し迫った第三中学校の建設用地が未確定であるが、決定済の用地で他の部課に翌朝開かれる部長会議で協力を要請することを求められ、その対策に苦慮していた。
(五) 翌一五日に被災職員が出勤すると、寺田南小学校建設の疑惑が報道されている問題が発生していることを知らされ、出勤後息つく暇もなく慌ただしく、その対策協議に忙殺され、そのうえ、教育委員会職員がその直後行なわれる部長会に提案すべき難問を次々と念押しに集まっているのに応対する必要があり、ついに被災職員の頭は混乱状態の寸前で「もう何が何やら分からんようになった」と洩らすほどだった。午前九時三〇分から開催された部長会の議事が進み、その終了前の午前一一時四〇分ころ、その他の議事に入り、被災職員が発言を求め、「当面、教育課題が山積しており、…よろしく。」と述べたのち、手を頭に上げ「どうも頭がおかしい」といったまま沈黙し、顔面は紅潮して、手は青白くなり、救急車で病院に運ばれたが、同月三〇日、脳動脈瘤、脳かんとんヘルニアにより死亡したものである。
(六) 以上認定の各事実を総合すると、被災職員は、昭和四三年から昭和四八年にかけて過重な職務の積み重ねで疲労が重なり、さらに、四九年以降継続して有害な強いストレスの暴露を受け、とくに、昭和五二年五月の城陽市への配置換え以来質的量的な職務の過重により精神的ストレスと疲労が蓄積し、かつ職務多忙のため迅速適切な治療を受けられないまま、高血圧症が進行、悪化し、発症前日、当日の超過密で困難な職務と強いストレスのため、当日の部長会の発言直前には、その発言内容の重要性にも照らし、極度の精神的緊張が生じたため、これが強い血圧上昇をもたらし、脳動脈瘤破裂を誘発したものであって、このような被災職員の過重な職務の継続と血圧を中心とした健康状態の推移に照らすと、使用者である京都府ないし城陽市において、前示の過重な職務が、被災職員の健康に多大の影響を及ぼすことを認識し、又は客観的に認識可能であったというべきであるから、被災職員の公務と死亡との間に相当因果関係があるものと推認することができ、この認定に反する<証拠略>は、前掲各証拠、弁論の全趣旨に照らし遽かに採用し難く、他にこれを覆すに足る証拠がない。
なお、被災職員が多忙な職務に追われて高血圧の診療を受けないまま、血圧が悪化することが予測されるストレスの多い職務を継続して勤めたことを咎めて公務起因性を否定することは、被災職員が責任感が大きく、またそれ故にこそ使用者から選ばれて幹部職員に任命され、重大な問題の処理に当たっていたことに照らしても、また、因果関係の理論からみても相当でない。
三結論
よって、公務と死亡との因果関係を否定してなした本件公務外認定処分は違法であって、その取消を求める本訴請求は理由があるからこれを認容することとし、訴訟費用の負担につき、行政事件訴訟法七条、民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官吉川義春 裁判官菅英昇 裁判官堀内照美)