京都地方裁判所 昭和60年(ワ)2799号 判決 1988年1月29日
原告 甲野太郎
被告 国
右代表者法務大臣 林田悠紀夫
右指定代理人 石田浩二
<ほか七名>
主文
一 被告は、原告に対し、金二二万八〇〇〇円およびこれに対する昭和六一年二月一一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
主文同旨
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 本件不法行為
(一) 原告は、昭和五一年九月二日、被告(郵政省簡易保険局長)との間で、以下のとおりの約定で傷害特約付簡易生命保険契約(以下、「本件生命保険契約」という。)を締結した。
(1) 被保険者 原告
(2) 保険者 被告
(3) 保険金受取人 甲野花子
(4) 保険金 八〇〇万円
(5) 保険の種類 全期間払込一〇年定期
(6) 保険期間 昭和五一年九月二日から昭和六一年九月一日まで
(7) 保険料額 八四〇〇円
(8) 傷害特約
(ア) 内容 特約の効力発生(契約締結時)後二年を経過した後、被保険者が、医療法一条の二所定の病院ないし診療所(以下、「本件病院等」という。)に入院したときは、入院一日につき、特約保険金額の一〇〇〇分の一・五に相当する額の金員を支払う。
(イ) 特約保険金額 八〇〇万円
(ウ) 特約保険料額 一六〇〇円
(二) 原告は、昭和五二年八月二三日から同年一〇月六日まで合計四五日間にわたり、大分県別府市秋葉町六の五所在の財団法人健康クラブ(以下、「本件健康クラブ」という。)に入院した。しかし、本件健康クラブは、本件病院等に該当しないものであった。
(三) ところで、国の簡易生命保険給付事務を担当する職員には、法令・約款等を遵守し、もって一般私人である同保険契約の相手方に損害を生ぜしめないよう未然に防止する注意義務(以下、「本件注意義務」という。)が課されている。しかるに、被告(国)の京都簡易保険事務センター(簡易保険等の事務を所掌)の簡易保険給付事務の担当職員は、昭和五五年五月一五日、本件健康クラブが本件病院等に該当するものと誤解したため、原告の請求に対し、原告の前記入院について入院保険金五四万円を違法に支払い、よって、原告をして、右担当職員の右支払により、本件健康クラブが本件病院等に該当し、それへの入院について本件保険契約に基づき所定の入院保険金が支給されるものとの錯誤に陥らせ、もって、右注意義務に違反するに至った。
2 損害の発生等
(一) 原告は、昭和六〇年二月二四日から同年三月一四日まで合計一九日間にわたり、交通事故による後遺症の治療のため、本件健康クラブに入院した。原告の右入院は、前記錯誤に因るもので、もし、これがなければ、原告は当然に、入院保険金給付の受けられる本件病院等に該当する他の医療機関に入院していた。
(二) 本件病院等に該当する他の医療機関に入院していた場合原告が給付を受けられる入院保険金の額は
八〇〇万円(特約保険金額)×一〇〇〇分の一・五(給付率)×一九日間(入院日数)=二二万八〇〇〇円
である。
(三) 原告は、昭和六〇年三月二三日、被告に対し、本件保険契約に基づき、右入院保険金二二万八〇〇〇円の給付を請求した。しかし、前記京都簡易保険事務センター所長は、同年四月四日、本件健康クラブが本件病院等に該当しないことを理由に右請求を拒否するに至った。
(四) 以上により、原告は、前記担当職員の違法な前記支払に因り、これと相当因果関係の認められる右入院保険金二二万八〇〇〇円相当の損害を被った。
よって、原告は、被告に対し、民法七一五条の使用者責任に基づき、または国家賠償法一条に基づき、右損害金二二万八〇〇〇円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和六一年二月一一日から支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1について
(一) 同(一)の事実は認める。
(二) 同(二)の事実は認める。
(三) 同(三)のうち、京都簡易保険事務センターの担当職員が、昭和五五年五月一五日、本件健康クラブを本件病院等に該当するものと誤解し、右(二)記載の入院につき、入院保険金五四万円を支払ったことは認め、その余は否認ないし争う。
2 請求原因2について
(一) 同(一)の事実は知らない。
(二) 同(二)の事実は認める。
(三) 同(三)の事実は認める。
(四) 同(四)は争う。
第三証拠《省略》
理由
一 請求原因1(一)(本件生命保険契約の締結)および同1(二)(原告の第一回目の入院、本件健康クラブが本件病院等に該当しないこと)の各事実は、いずれも当事者間に争いがない。
二1 同1(三)(本件不法行為の成立)のうち、京都簡易保険事務センターの保険金給付事務の担当職員が、昭和五五年五月一五日、本件健康クラブを本件病院等に該当するものと誤解し、請求原因1(二)の原告の入院につき、入院保険金五四万円を支払った事実については、当事者間に争いがない。
2 次に、《証拠省略》によれば、右支払により、原告が、本件健康クラブが本件病院等に該当し、同クラブへの入院に対し本件保険契約に基づいて入院保険金の支給がなされるものとの錯誤に陥った事実を認めることができ、この認定を動かすに足りる証拠はない。
3 過失及び違法性について
(一) 本件注意義務の存否
(1) 《証拠省略》によれば、本件健康クラブは、主として、断食、食事療法、温泉療法等による治療を行う施設であることが認められる。
ところで、《証拠省略》によれば、昭和五一年一二月一三日郵政省告示第八九五号による改正前の簡易生命保険約款(以下「約款」という。)第一六二条第一項には、保険契約上、傷害特約による入院保険金の支払対象となるためには、病院又は診療所への入院でなければならないことが定められていることは明らかであるが、右病院等が医療法一条の二で定める病院ないし診療所(本件病院等)に限定されること、および前記のような治療を行う本件健康クラブが本件病院等に該当するか否かということは、かなり高度な専門的・技術的な知識ないし判断に属するから、簡易生命保険契約の相手方である一般国民に、その点について、正確な知識・判断を要求し、これを了知し得るものとするのは相当でない。したがって、右の一般国民で、簡易生命保険契約の保険金給付事務を担当する職員が、当該給付事務の実施に伴なって示すこととなる専門的・技術的知識ないし判断を信頼して行動した者は保護されるべきである。
(2) また、簡易生命保険契約の関係は、いわゆる継続的契約関係であるから、当該契約関係の当事者間には、高度の信頼関係が存在している。そして、このような高度の信頼関係にある当事者間においては、信義則上、法令や約款等に反する自己の不適切な行動によって、相手方に誤まった信頼を抱かせ、よって不測の損害を被らせることがないよう注意することが要請されていると解するのが相当である。
(3) さらに、簡易生命保険制度の目的は、国民の経済生活の安定を図り、もって、国民の福祉の増進をはかることにある(簡易生命保険法第一条、第二条参照)から、右制度の実施にあたっては、国民の福祉・利益の維持・増進に寄与することを第一次的に考慮する必要がある。そうとすれば、保険金給付事務の適正についても、単に使用者たる国の利益保護という見地のみからこれが要請されると考えるのは妥当でなく、受給者たる右の一般国民の利益保護という見地からもこれが要請されると認めるのが相当である。
(4) 更に、入院先についての選択の自由が保障されているということから、過誤払のなされた本件のような場合にまで入院保険金を受給できなくなる危険を右の一般国民自身に負担させるべきであると帰結することはできない。けだし、他人の不適切な行動によって入院先が保険金支払の対象となるかの点につき錯誤に陥っていると認められる場合、当該錯誤に陥っている者は、これによりその選択の自由につき、不当な制約を受けているものと解されるからである。
右に検討したところによれば、国の簡易生命保険給付事務を担当する職員には本件注意義務があると認めるのが相当である。また、本件注意義務の違反の認められる範囲も、過誤払の後にこれを認識したにもかかわらずことさら放置した場合など、過誤払という先行行為に基づく作為義務に違反したと認められる場合に限るのは妥当でなく、過誤払自体によって生じうるものと広く解するのが相当である。
(二) 京都簡易保険事務センターの前記担当職員は、本件健康クラブを本件病院等に該当するものと誤解した簡易生命保険法第一六条の四、約款第一六二条第一項に違反する過誤払いをしたものであるから、右担当職員は本件注意義務に違反した過失があるものと認められる。
そして、前記(一)で判示したところによれば、右過誤払は、単に右担当職員の使用者たる国との関係で許されないというだけではなく、本件保険契約の相手方たる原告との関係でも許容されない不法なものと言うべきであり、また、右過誤払によって、原告は、本件健康クラブへの入院に対し、入院保険金の支給がなされるものとの錯誤に陥り、このような錯誤に基づく入院先の決定を余儀なくされていることは、不法行為法上保護されるべき意思決定の自由が侵害されているというべきであって、右認定した侵害行為の不法性と被侵害利益の性質とを相関的に考察すれば、右過誤払は、不法行為法上、違法なものと認めるべきである。
三 《証拠省略》によれば、原告は、昭和六〇年二月二四日から同年三月一四日までの一九日間、交通事故による後遺症の治療のため本件健康クラブへ入院したことが認められる。
四 同2(二)(入院保険金額)および2(三)(本件入院保険金の請求の拒絶)の各事実は、いずれも当事者間に争いがない。
五 そこで、次に、同2(四)(損害の発生および相当因果関係の存在)について検討する。
1 損害の発生の有無について
《証拠省略》によれば、原告は前記錯誤の結果入院保険金がもらえるものと誤信して本件健康クラブに入院したこと、同クラブへの入院では入院保険金がもらえないことを知っていたら本件病院等に該当する医療施設に入院するつもりであったことが認められる。
そして、原告が、本件健康クラブへの入院に代えて、本件病院等に該当する他の医療施設に入院していれば、本件保険契約により入院保険金を受領することができた蓋然性は高いのであるから、前記過誤払により、原告の財産上に、本件入院保険金二二万八〇〇〇円相当の補填されるべきであった費用が補填されなかったマイナスを生じたものと考えるのが相当である。したがって、右入院保険金二二万八〇〇〇円相当の損害が、原告に生じたものと解される。
2 相当因果関係の存在
一般に、治療効果に大差がある等の特別事情がない限り、傷害特約付簡易生命保険に加入している者は、その傷害による入院に際し、右保険による給付の受けられる医療機関を選択するものと経験則上認められるところ、本件病院等は、医療法上の正規の医療機関であるから、その医療水準の高さは保障されており、本件病院等と本件健康クラブとの間に右特別の事情があったと認めるに足る証拠はない。そうすると、本件過誤払と原告に生じた前記入院保険金二二万八〇〇〇円相当の損害との間には、相当因果関係の存在を認めるのが相当である。
六 使用者責任
前記認定ないし判示した事実によれば、本件過誤払をした京都簡易保険事務センターの保険金給付事務の担当職員が被告の被用者であり、右過誤払は右の担当職員が簡易生命保険事業の執行につきなされたものであることは明らかである。
七 結論
以上によれば、被告に対し、民法七一五条の使用者責任に基づき、右損害金二二万八〇〇〇円およびこれに対する本訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかな昭和六一年二月一一日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める原告の本訴請求は理由があるから、これを認容し、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 武田多喜子 裁判官 中嶋秀二 太田尚成)