京都地方裁判所 昭和61年(ワ)669号 判決 1989年3月27日
主文
一 原告の本件訴をいずれも却下する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求める裁判
一 原告
「一 原告は、被告の僧籍を有する地位にあることを確認する。二 被告の原告に対する僧籍剥奪の懲戒処分が無効であることを確認する。三 訴訟費用は、被告の負担とする。」との判決。
二 被告
1 本案前 主文同旨の判決。
2 本案「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決。
第二 当事者の主張
一 原告(請求原因)
(一) 被告宗派は、弘法大師を宗祖と仰ぎ、その教養を布教、具現することを目的とする宗教法人である。被告は、総本山を宗教法人智積院におき、宗教法人成田山新勝寺等を大本山とし、末寺より構成されている。総本山宗教法人智積院は、別院として東京都港区愛宕一丁目三番地に宗教法人真福寺を置いている。
(二) 原告は、昭和一八年四月一八日、当時成田山横浜別院主監であった松田照応師の二の弟子として得度して被告の僧籍を取得した。
原告は、昭和二七年四月一九日には、被告の教師資格として第一四級の律師に補せられ、同二六年一〇月二九日、第一二級の権少僧都に、同二九年一〇月八日には、第一〇級の権中僧都に、同三二年四月二五日には、第九級の中僧都に補せられた。中僧都であった昭和三二年一二月一日、原告は、被告と被包括関係にある宗教法人成田山慈尊院の住職に任ぜられ、同時に、原告は、右慈尊院の代表役員に就任した。
さらに、原告は、昭和三六年二月一八日に、第八級の権大僧都に、同三七年三月二四日に、第七級の大僧都に、同四〇年二月一一日に、第六級の権少僧正に、同四四年五月一三日に、第五級の少僧正、同四七年六月三〇日に、第四級の権中僧正にそれぞれ補された。また、権中僧正であった昭和四九年一二月二五日に、京阪教区長に就任した。昭和五二年一月一三日に第三級である中僧正に補せられた後、昭和五三年九月三〇日頃、被告と被包括関係にある宗教法人石津寺の住職に任ぜられ、同寺の代表役員に就任した。
そして、昭和五四年一二月八日、被告の教師資格の最高位の次に位置する権大僧正(第二級)に補せられた。原告は、昭和五八年二月一七日、被告の大本山である宗教法人成田山新勝寺と被包括関係にある宗教法人成田山近江明富大教会の主管者に任ぜられ、同寺の代表役員に就任した。
なお、原告は、昭和六〇年六月に、京阪教区の教区長を辞任し、同六〇年七月に、右慈尊院及び石津寺の住職並びに代表役員を辞任した。
(三) 被告は、昭和六〇年一二月二日、原告の僧籍を剥奪する旨の懲戒処分を行い、右処分は一二月六日原告に通知された。
(1) 右懲戒処分の経緯は、次のとおりである。
<中略>
(九) 本訴懲戒処分には次のとおり手続上の違法があり、無効である。
<中略>
(一〇) 本件懲戒処分は不相当で重きにすぎる。
<中略>
本件懲戒処分は、右に述べたとおり重罰にすぎ、僧籍剥奪の処分の選択は被告に与えられた懲戒権の濫用であり、違法であって無効である。
(二) 右に述べたとおり、被告の懲戒処分は、いずれの理由によっても違法であり、原告の自由及び名誉回復のためには、右処分は無効であるので、僧籍の地位の確認を求めるとともに、僧籍剥奪の懲戒処分の無効の確認を求める。
二 被告(答弁・主張)
1 本案前の答弁・主張
(一) 「原告は、被告の僧籍を有する地位にあることを確認する。」との本訴請求は、「被告宗派の僧籍を有する地位」であり、紛争も法律上の争訟でなく、従って、裁判所は本訴について裁判権を有しない。
被告宗派の僧籍を有する地位、すなわち「僧侶」たる地位は真言宗智山派の教義の布教宣布、儀式教育等の宗教活動ができる地位を意味(宗法第五〇条)する宗教団体における宗教上の地位である。
(1) 被告宗派の僧侶たる身分を有する者は、一寺院または一教会に属籍し、宗務その他に関する役職員に任命されることができるが、右任命及び解任をなす主体は、当該僧侶が属籍する寺院ないし教会であり、右宗教上の地位は、かかるごとき俗世間的事務を取扱う地位とは別の存在である。
(2) 僧侶たる地位は純粋に宗教上の地位であって、僧侶は、宗祖弘法大師立教開宗の本義に基づき、事教二相を兼修し教義を専揚するを本分とするものであり、かかるごとき地位は、得度を畢え、度牒を受けるという極めて純粋なる宗教上の行為によってはじめて取得されるものであるから、いわゆる「住職たる地位」よりも宗教色が強いものである。
(3) 僧侶たる地位の任免に関する紛争は、結局のところ、原告が被告宗派の僧侶として、若しくは僧籍を有する者としての適格性を備えているかどうかという、すぐれて宗教上の判断にかかわる問題であって、「法律上の争訟」ではなく「宗教上の紛争」である。このような訴は、訴えの利益を欠くものとして却下を免れない(最判昭四四年七月一〇日民集二三巻八号一四二三頁)。
(4) 本件では原告は右各請求のほかに具体的な権利又は法律関係の存否について確認を求める請求をなしてはいないのであるから、前記宗教上の地位の存否が具体的法律関係の存否を決する前提となる余地もない。
また、訴えの対象となっていない具体的権利又は法律関係をめぐる紛争も原告と被告宗派との間には存在せず、その前提問題としても右僧侶たる地位の存否を判断する余地はない。
そうだとすれば、かかる事実関係のもとにおいても、僧籍を有する地位の確認について裁判所は裁判権を有しない。
(二) 次に原告の「僧籍剥奪の懲戒処分無効確認」の本訴請求は、訴えの利益はない。
(1) 原告は他方で前示のとおり「僧籍を有する地位の確認」を求めているが、その争点は、結局、本件懲戒処分の有効無効の判断にかかるといわざるを得ない。
すなわち、本件懲戒処分がおこなわれる直前まで原告が被告宗派の僧籍を有していたことについて原、被告間に争いはなく、また本件懲戒処分後、原告が新たな理由により被告宗派の僧籍を取得したとの主張もなされておらず、被告宗派もかかるごとき主張はしていないから、本件懲戒処分の有効無効の確定作業こそが、僧籍を有する地位の存否を決するということになる。
従って、本件では「僧籍を有する地位」の確認のみで十分であるといわねばならない。
(2) 原告は、僧籍剥奪の法的効果として財産的請求権等の種々の経済的利益が喪失される旨るる説明をなすが、原告が主張する右のような経済的利益は、「僧侶」という地位自体に基づいて必然的に認められる固有の権利又は利益ではなく、慈尊院の住職・明富大教会の主管者若しくは代表役員なる地位に認められる諸権能である。
本件懲戒処分より以前に原告は、右慈尊院・石津寺・京阪教区の教区長・明富大教会の各住職若しくは代表役員等の地位を各辞任し、右の各権利又は経済的利益を自ら喪失させたのであって、僧籍剥奪処分によるものではない。
従って、原告がたとえ本件訴訟において被告宗派の僧籍剥奪処分の無効確認をしたとしても、そのことから直接的に原告に如何なる経済的利益をももたらさない。原告が将来再び慈尊院や明富大教会の住職若しくは代表役員たる地位を取得しうるかどうかは、まったく不明である。
(3) 宗教団体の懲戒処分について裁判所の審査権が及ぶ範囲は、きわめて限定的な場合にかぎられるが、次のとおり本件処分については右審査権は及ばない。
イ 本件懲戒処分は、被告宗派の懲戒規程に基づき、適正に行なわれたものであるところ、原告は、右規程において被告宗派の審査期間が二ケ月となっていること(審査会規程第一三条)、同規程第二一条、第二二条にいう初審・再審の審査会の担当委員が同一であることから、右手続規程が著しく不公正だと指摘する。
右の原告の立論の趣旨は必ずしも明らかではないが、仮に「不公正」なるが故に右懲戒規程が無効であるとの主張だとすると、右のごとき被告宗派の内部規律自体の当不当若しくは有効無効については、裁判所の審査権は及ばない。
そもそも宗教団体の自治・自律権の範疇にある事項については、司法不介入が憲法上の大原則である。懲戒処分につき、例えば、内部規律が不存在であったり、内部規律を無視して懲戒処分がなされているような場合であれば格別、裁判所が宗教団体の内部規律そのものの有効無効につき判断を加えれば、宗教団体に保障されている自律権を侵害することになるのは必定であり、許されるものではない。
ロ 原告は、事実誤認にもとづく懲戒処分であるとも主張するが、被告宗派審査会の権限と責任とにおいてなした初審・再審の各裁定には、いずれも原告主張のような事実誤認はない。
2 本案の答弁
<中略>
原告(被告の本案前の主張に対する反論)
(一) 被告の本案前の主張をすべて争う。
(二) 僧籍の存否を確認する利益があるかどうかについて、これまで最高裁判所が判断したことはない。これに対し、住職の地位の存否については、最高裁判例が数件存在する。僧籍の問題について住職の最高裁判例を参照することは、僧籍も住職もいずれも宗教上の地位という側面を有しているから、参考にはなるが、しかし、次の相違点に着目する必要がある。
住職は所属寺院の代表者に与えられる宗教的呼称であり、これを奪われたからといって所属宗派の僧籍を失うわけではない。従って、住職の地位については、まさにその宗教上の地位にふさわしいかどうかという判断にかかるものであるから、司法判断になじまない面はある。
これに対し、僧籍は所属宗派の僧侶としての基本的地位であるから、これを剥奪されることは僧侶としての生活の否定を意味する。僧侶は宗教的存在であるとともに、その地位をもって人間としての生活をしているのであるから、僧籍の剥奪は人間生活をも否定することになる。
とりわけ、原告においては、僧籍の存在は生活の糧(給与)を得ている勤務僧の地位の前提となっており、僧籍を剥奪されることは、被告宗派の所属寺院である成田山慈尊院の勤務僧の地位を奪われることを意味し、給与請求権の消滅をもたらす法律上の不利益が存在する。
僧侶を、「宗教上の地位」を有する宗教人としてのみとらえて、他の側面である人間としての衣・食・住や結婚生活などを見ないのは非現実的な観念である。僧籍を離れて原告の生活は成り立ちえないのである。
従って、僧籍の問題について住職の最高裁判例を参照する場合、右の相違点に注意する必要がある。
(三) 本件は、所有権にもとづく引渡請求権などを訴訟物とするものではないが、僧籍の存在が、原告の給料請求権の存在の前提問題となっている。
原告は現在慈尊院に勤務僧として勤務し、毎月金三〇万円の給料の仮払いをうけているが、僧籍が否定されると仮払いを受けている給料を全額返還しなければならない。被告の宗派に属する慈尊院としては、原告を勤務僧として雇用することはできないからである。懲戒処分が本訴で無効とされるならば僧籍を回復して仮払いの給料が本払いとなる。
このように、本件は前提問題である原告の給与請求権の有無と不可分に結びついているのである。原告の給与請求権の有無を判断するために僧籍の存否が実質的に前提問題となっている本件のような場合は、最高裁の判例のいうように「その当否を判定する前提問題として特定人につき住職たる地位(僧籍の地位)の存否を判断する必要がある場合には、その判断の内容が宗教上の教義の解釈にわたるものであるような場合は格別、そうでない(本件は懲戒処分の事由である事実認定の有無に関する事件)限り、その地位の存否、すなわち選任ないし罷免(懲戒処分による僧籍剥奪)の適否について、裁判所が審判権を有するものと解すべきであ」るのである。
(四) 本訴は、給料請求訴訟ではない。現在のところ慈尊院と原告間には紛争はない。慈尊院は、原告に僧籍が認められれば仮払いを本払いとし、僧籍が否認されれば返還せよといっている。したがって、慈尊院に対し給料を訴求することはできない。
また被告は原告に対して給料支払い義務はないから、本件において給料を訴求して、その前提問題として懲戒処分の無効を主張することもできない。
原告にとっては、理論的には給与請求権の有無の前提問題として僧籍の存否を確認する利益が認められるが、現実的に慈尊院に給与請求訴訟を提起できず、そのために僧籍の確認をその前提問題とすることができない。
このように原告にとっては、僧籍の確認を前提問題とする訴えができないのであるから、原告が給与請求権を確保するために懲戒処分の無効確認と結合して僧籍の確認について裁判権を有する。
最高裁判所も、教義などに関するものを除き裁判権を有するとしており、前提問題としては住職たる地位の存否につき審判することを認めているのであるから、その趣旨を本訴の実体に適合するよう拡大し僧侶たる地位の存否にかかる懲戒処分の有効無効について審判することもまた是認されるべきである。
また、前記のとおり僧籍を有すること自体に、それが単に僧侶としての宗教的地位にとどまらず僧侶としての生活権・財産的請求権と不可分に結合している。
本件のように、訴訟手続内において僧籍問題を前提問題とする途が現実的に閉ざされている場合には、裁判所は司法の使命にたちかえり、司法的救済の方途を開かなければならないと考えるのである。
(五) 本件は、被告が懲戒事由として認定した事実に基づき下した懲戒処分の無効確認等を訴求するものであって、ここでの裁判の判断対象は懲戒規程の有効無効の確認とともに右懲戒事由たる事実の有無である。
本件は<1>懲戒規程の不備により原告の手続が適正に行われなかった場合であり、また<2>懲戒事由である事実の重要な部分に誤認がある場合であるから、裁判権が認められるのである。
すなわち、原告が懲戒事由である事実の誤認を主張しており、「処分の基礎として重要な部分の誤認」に該当するからである。これは事実問題であり宗教上の教義にかかわるものでない。従って、宗教法人法第八五条のいう「宗教団体における信仰・規律・慣習等宗教上の事項」に該当しないのであるから、裁判所がこれに関して判断しても、宗教法人に干渉する権限を与えることにならない。
また、被告宗派に原告の僧籍があるかどうかは、ひとえに右懲戒事由である事実の有無に関わるものであり、同法にいう「宗教上の役職員の任免その他の進退」の問題ではない。
なお、同法八五条は宗教活動に対する国家や地方自治体の権力的介入を排除して、自律的運営を保障するための規定である。ここにおける自治は、国家と宗教団体の法律関係を規律するものであって、宗教団体とその構成員の法律関係を規律するものではない。前者に対する立法趣旨は、宗教の自由を保障する憲法第二〇条に由来するもので、当然のことであるが、後者の関係は、それが団体構成員の基本的人権にかかわる問題である限り、団体自治の名によって、その構成員の人権を侵害することは許されない。
本件僧籍は、原告の生活と全人生にかかわる問題である。すなわち、僧籍の剥奪は、僧侶たることの否定であり、原告の慈尊院に対する給与請求権の喪失を意味するのである。原告にとって、この喪失は生活と全人生の喪失を意味するのである。いわゆる転職は、原告の場合、その年齢や社会環境から全く不可能なのである。
このような特徴をもつ本件においては、被告の行った懲戒処分の適否について裁判権が及ぶと解しなければならない。
いかなる不当な処分であっても、司法的救済が及ばないと解することは、人権保障を使命とする司法権の存在を揺るがすものであり、原告の憲法第三二条の裁判を受ける権利を侵害する結果となる。
(六) 被告は「僧侶たる地位の任免に関する紛争は」「宗教上の判断にかかわる問題であ」ることを理由に原告の訴の利益を否定する。しかし、「宗教上の判断」の中には教義の判断と団体における構成員に関する判断の二つの場合が存在する。そして、教義の判断については信教の自由の保障から裁判所の判断になじまない性格のものであるが、団体における構成員に関する判断については、私的団体における構成員の除名問題と同じであって、懲戒処分の事由となった事実が存在するかどうかの事実判断であり、何ら宗教上の教義についての判断ではなく、当然裁判所の判断が及ぶ。また、団体の構成員たる地位の喪失までに至らない程度の懲戒は団体の自律権に任されるが、団体の構成員たる地位の喪失を伴うような重大な処分を行うときは、適正なる手続の下において的確な事実に基づいてその権限を行使しなければならない。これに反する処分は、公序良俗に反し、無効でありこの判断には裁判権が及ぶ。
被告が原告に対して行った本件僧籍剥奪という懲戒処分は、私的団体である被告宗派の構成員たる地位、資格を喪失せしめ、原告の社会的、経済的地位をも喪失させる重大な処分であるから、適正なる手続の下において、的確な事実に基づいて、その権限を行使しなければならない。
ところが、被告は、前記のとおり手続において適正さを欠き、事実の確定において的確さを欠いているから、このような懲戒処分は公序良俗に反して無効であり、この無効については裁判権が及び、原告は、訴の利益を有する。
(七) 被告は、原告と成田山慈尊院との間の給料支払の件については、被告には関係がない旨を主張している。しかし、この主張は誤りである。
けだし、原告と成田山慈尊院との間の給料の支払については、原告が被告宗派の僧籍を有するか否かにかかっているのであって、被告宗派との僧籍問題が解決すればすべての問題が抜本的に解決する。そして、原告は成田山慈尊院に対して、僧籍の確認を行ないたくても僧籍に関して成田山慈尊院は何らの権限をも有していないので、成田山慈尊院を相手にして僧籍の確認を行っても何ら抜本的な解決ができない。
したがって、原告は僧籍の問題は、成田山慈尊院を相手にするのではなく、被告宗派を相手にすることが必要であり、かつ、それで十分である。
第三 証拠<省略>
理由
被告は、原告の本件訴はいずれも不適法である旨主張し、訴の却下を求めているので、その適否につき順次検討する。
第一 僧籍地位確認の訴の検討
一 憲法二〇条は信教の自由を保障し、宗教法人法一条三項は、「憲法で保障された信教の自由は、すべて国政において尊重されなければならない。従って、この法律のいかなる規定も、団体が、その保障された自由に基いて、教義をひろめ、儀式を行い、その他宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない。」旨を規定し、同法八五条は、「同法のいかなる規定も、裁判所に対し、宗教団体における信仰、規律、慣習等宗教上の事項について干渉する権限を与え、又は宗教上の役職員の任免その他の進退に干渉する権限を与えるものと解釈してはならない」旨を定めている。
これらの規定に照らすと、宗教法人法は、右憲法の規定をうけて宗教法人の役職員ないし構成員の地位を、<1>儀式、教義、信仰生活等宗教活動における宗教上の地位と、<2>世俗的活動における管理機関としての法律上の地位に分け、宗教団体の宗教活動の側面については法律上の規律の対象とせず、財産的活動、即ち世俗的活動の側面のみを規律の対象としているものと解される(宗教法人法一条、一八条五項、八五条)。したがって、宗教法人の役職員、構成員のうち、たとえば住職の地位など、前示<1>の宗教上の地位に関する事項は司法審査の対象とならず、たとえば代表役員、責任役員など前示<2>の法律上の地位(世俗的地位)に関する事項のみが法律上の争訟性を有し司法審査の対象となるのであって、このことは宗教法人が宗教上の地位にある者をもって法律上の地位にあてる旨を定めている場合にも異なるものではない。
もっとも、宗教法人における代表役員など法律上の役職員、構成員たる地位の確認の訴とか、宗教法人などに対する財産上請求など世俗的ないし経済的請求訴訟を提起し、裁判所がその請求を判断する前提として、宗教上の地位の有無を論ずることはそれが信仰の対象の価値、宗教上の教義に関する判断にわたらない限り、許される(最判昭四四・七・一〇民集二三巻八号一四二三頁、最判昭五五・一・一一民集三四巻一号一頁、最判昭五五・四・一〇裁判集民事一二九号四三九頁、判時九七三号八五頁参照)。
しかしながら、前示宗教上の地位自体に関する紛争は、前示のとおり、単なる私的自治から認められる自律権と異なり、憲法二〇条に基づく国家からの干渉が排除される本来的な自律権を認められている宗教法人自身がその解決に当たるべきものであるから、他に何ら世俗的ないし財産的請求訴訟を提起せず、将来のそれらの紛争を解決するための前提となり得ることを挙げて、直接的に宗教上の地位に関する訴訟を提起することは、それが信仰の対象の価値、宗教上の教義に関する判断にわたるか否かにかかわらず、許されないのであって、これが適法であるという原告の主張は採用できない。
二 そこで、次に本訴請求の「僧籍を有するとの地位」が宗教上の地位であるか否かについて検討する。
<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 被告真言宗智山派は、その宗法(乙第一〇号証)によると、法門は大日如来自内証の法然道であって、その伝統は大日如来から弘法大師に至る八祖相承であると定め(二条)、宗体は加持門の教義を宣揚し、事教二相を兼修し、即身成仏の直路を開示した三密の法門である両部の曼荼羅をもって宗体とすると規定している(二条)。
(二) 被告宗派において、「僧侶とは、得度を畢り、度牒を受けて僧籍に登録された者をいう」とされ(同宗法四七条)、これに僧侶を公称させるとし(被告宗派の僧侶及び教師規程(乙第一一号証)三条)、さらに、「僧侶は次の行位を履修するものとする。一得度 二加行 三入坦 四練行 五両大会」と定め(前同宗法四九条)、「僧侶は、宗制の規定するところにより、布教、教育、宗務その他に関する役職員に任命されることができる」と規定している(五〇条一項)。
以上認定の各事実と弁論の全趣旨を考え併せると、被告宗派における僧籍を有する地位は、得度を畢り、度牒という厳粛な儀式を経たうえ、僧侶と呼ばれ、宗派の教義の宣揚及び儀式の執行を行なうもっとも基本的な宗教上の地位であり、仏教各派においては仏祖釈迦以来、俗世を離れ出家して仏法僧に帰依し、宗教界に入るための荘厳な宗教的儀式を経て取得する純粋な宗教的地位を僧侶と呼ぶのであって、被告宗派における僧侶たる地位が宗教的地位とは別の宗教法人の代表役員などのような世俗的な地位ではないと認められ、他にこの認定を動かすに足りる証拠がない。なお、前示宗法五〇条一項によると、被告宗派において僧侶は、布教、教育、宗務その他に関する役職員に任命されることができる旨を定め、僧侶は被告宗派の世俗的地位である宗務上の役職員などに任命されうることが明らかであるが、これは宗教上の地位にある僧侶をもって世俗的な宗教法人の代表役員などの役職員に当てることができることを定めたものに過ぎず、得度間もない未成年の小僧の場合を考えても僧侶となったもの全員が自動的に宗教法人の代表役員などの役職員たる地位に就くものではないことが明らかであるし、まして、右規定をもって僧侶が宗教上の地位であることを否定しうるものではない。
三 したがって、原告の「僧籍を有するとの地位」確認の本訴請求は、実質上、宗教上の地位である僧侶たる地位自体の確認と同一であって、その言い換えにすぎないから、前示一に説示したところに照らし、これが許されないことが明らかであり、右訴は不適法として却下を免れない。
第二 僧籍剥奪懲戒処分無効確認の訴の適否
一 民訴法上の確認の訴は、特段の事情のない限り、現在する権利又は法律関係の存在又は不存在の確認を求めるものに限り、確認の利益があるものとして許される。
原告の本訴僧籍剥奪懲戒処分無効確認の訴は原告の僧籍を剥奪した懲戒処分という過去の事実に関する確認を求めるもので、確認の利益を欠き不適法である。
もっとも、(一)過去の法律関係の確認であっても、当事者間に現にそれによって生じた法律効果につき法律上の紛争が存在し、その直接かつ抜本的な解決のため適切かつ必要と認められる場合にはこれが許容されるけれども、原告と被告との間には前示のとおり宗教上の地位である原告の被告における僧侶たる地位の存否についてのみ紛争が生じているにすぎず、この宗教上の地位の存否自体は法律上の紛争とはいえないし、原告が主張する代表役員たる地位や給料請求権の存否に関する紛争は、被告とは別個の宗教法人と原告との間の紛争にすぎず、これをもって原、被告間に右懲戒処分の無効確認により生じた法律上の紛争が現に存在しているものとはいえない。なお、このことは、被告と右の別個の法人との間にたとえ原告主張のような包括・被包括関係があったとしても、その結論を異にすべきものではない。けだし、包括・被包括関係にいわれる「包括する」とは「総括する」、「構成する」とほぼ同義であり、「包括団体」は、共同の目的を有する複数単位団体のすべてを構成要素とする全一的組織体を総称し、被包括団体を包括団体の下部機関または下部組織とするものではなく、例えば地方公共団体の都道府県と市町村との関係に酷似する性質のものだからである(地方自治法五条二項参照)。また、懲戒処分自体の確認の訴は法律関係ではなく、事実の確認を求める訴にほかならず、行政訴訟法三条四項、三六条など特別の規定がない限り、許されない。(二)原告の本件僧籍剥奪の懲戒処分無効確認の訴は、僧籍の剥奪の懲戒処分が無効であるとの請求の趣旨のもとに提起されているけれども、これが懲戒処分が有効であるとすれば、それから生ずベき現在の特定の法律関係が存在しないことの確認を求めているものと解することができるもので、かつ、原告がかかる確認を求めるにつき法律上の利益を有するときは、適法な訴としてこれを許容することも可能である。
しかしながら、原告は本訴において、右懲戒処分無効確認の訴の前にまず、原告が被告の僧籍を有する地位にあることの確認を求めているところ、原、被告間には現在この僧籍の有無のほか前示懲戒処分が有効であれば生ずべき現在の特定の法律関係の存否につき争いがあるわけではないから、右懲戒処分無効確認の訴は僧籍地位確認の訴と重複しており、かつ、既記のとおりその僧籍の地位確認の請求そのものが不適法であるから、訴の利益を欠き不適法である。
二 さらに、信教の自由を保障する憲法二〇条、宗教法人法一条二項、裁判所が宗教上の人事に干渉することを禁ずる同法八五条の趣旨に照らすと、懲戒処分自体の無効確認を直接訴求する場合には、その懲戒処分がその手続を定めた宗派の審査規程に従ってなされたものでないなどその処分が不存在であることを理由とする場合にのみ許されるのであって、懲戒処分自体ではなく、その理由の不存在ないしその不適法を主張して懲戒処分無効確認の訴を提起することはできないと考える。そして、原告の僧籍剥奪の懲戒処分が被告の審査会規程に基づきなされたことは当事者間に争いがなく、原告は専らその懲戒処分の理由とされた事実の認定判断の誤り、審査手続の違法、処分の苛酷さによる懲戒権の濫用をその請求原因として主張していることが弁論の全趣旨に照らし、明らかであるから、原告の右懲成処分無効確認の訴はこの点からみても不適法である。
第三 結論
よって、原告の本件訴はいずれも不適法であるから、これを却下することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 吉川義春)