京都地方裁判所舞鶴支部 昭和48年(わ)23号 判決 1974年11月13日
主文
被告人は無罪。
理由
(公訴事実)
被告人は、外科の開業医であるが、昭和四六年一〇月九日午前九時三〇分ころ、綾部市宮代町宮坂四の六自宅診療室において、二日前から骨折の治療を受けていた大槻子一(当時五八年)が、右手のしびれを訴えたので、鎮痛剤としてザルソナール注射液二〇ミリリットルを注射しようとしたのであるが、同注射液にはピラビタールを一五〇ミリグラム含有しており、薬剤過敏体等の患者に対しては、ショック死等を惹起することもあるので、その施用にあたつては、薬剤過敏体質でないかどうか、また睡眠不足その他の過労状況等にないかについて詳細な注意をして、体質によつては同剤の注射を差しひかえる等して、危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、注射を施す前同人に対して薬にまけないかと問うたところ、同人がその意味を理解できず聞き返したのに、同人が過敏体質ではないと軽信して更に同体質でないかどうかを確める方法をとることなく、同剤を同人の静脈に注射した過失により、同日午前一〇時ころ、同注射施用による薬物ショックにより死亡するに至らせたものである。
(検察官の釈明)
検察官は、「公訴事実記載の薬剤過敏体質とは、アレルギー体質とかショック死を起すような体質を意味する」旨および「本件注意義務は、仮に初診日に問診をしていたとしても、初診日と第二回目の本件当日施した注射は異質なものであるから、第二回目においても改めて問診をする義務があり、その義務を怠つたという趣旨である」旨釈明した。
(当裁判所の判断)
一本件発生の経緯・状況
<証拠>を総合すると、つぎの事実が認められる。
(一) 被告人は、昭和二七年九月三〇日に医師免許をうけ、以来国公立病院等でもつぱら外科医として勤務し、昭和三八年一二月一日から、京都府綾部市宮代町宮坂四の六において外科医院を開業し、現在にいたつている。
(二) 昭和四六年一〇月七日午前一一時三〇分ころ、大槻子一(大正二年四月二五日生)が初来院し、同日朝右手を骨折したから診てほしい旨告げて、診療を求めた。
被告人は、問・視診およびレントゲン検査の結果、右手首の橈骨が複骨折しているのを確認した。そこで、整復するためには全身麻酔をする必要があると考え、大槻に対し、「注射はどうもないか。」と尋ねたところ、同人は、「どうもない。」と答え、また「予防注射はしているか。」との問に対して「日本脳炎、インフルエンザの注射をうけている。」旨答えた。そこで、被告人は、右大槻は薬物ショックを起しやすい特異な体質を有しないと考え麻酔剤エボントール一〇CCを静脈注射して全身麻酔をしたうえ整復し、ギブスをはめて固定した。そして、大槻が麻酔から醒め、意識が回復したのち、腫脹治療剤ベノスタジンに止血剤アグルミンを混合して静脈注射をした。
その後、鎮痛止血剤ボンタール、アナナーゼ、トランサミン各三錠二日分を、食後に一錠ずつ、一日三回服用するように指示して与え、痛みがある場合は翌八日に、そうでなければ二日後に来院するよう指示して帰宅させた。
右治療の間、大槻になんら異常はなかつた。
(三) ついで、同月九日午前九時三〇分ころ、大槻が来院した。
被告人が、「きのうはどうやつた。」と尋ねると、大槻は「きのうはどうもなかつた。」と答え、さらに「一昨日は痛かつたやろ。」というと、「一昨日はしんぼうしたけど痛かつた。」と答えた。そして、大槻の右手の中指、薬指、小指の指先が浮腫していたので屈伸したところ、患部に痛みを訴え、左手で被告人の手を払いのけるようにし、おどおどした態度を示した。ついで、指の浮腫はギブスが締りすぎているためであると考え、ギブス刀で一部を切つてゆるめたところ大槻は「痛い、痛い」といつた。
そこで、被告人は、右のような状態から、大槻にはまだ痛みが残つていると判断し、骨折の痛みをとめるために通常使用している鎮痛剤ザルソナール二〇CCに、鎮静のためのビタミンB1誘導体コメタミン五〇ミリグラムを混合して注射し、さらに骨の癒合を促進するためデカデユボラリンを注射しようと考え、その準備を看護婦に命じた。
そして、診察室内にある注射台に大槻を座らせ、午前九時三五分ころ、看護婦が用意したザルソナールとコメタミンの混合液を被告人自ら大槻の右腕肘正中静脈に注射しはじめ、同人の気分をほぐすため、「かぜ薬に負けへんか。」と問いかけたところ、同人は「はあ」と返事をした。このようにして、約二分くいらかけて右注射を終え、ついでデカデユボラリンを右上腕部に注射した。
(四) 右注射完了後、注射のあとをもみながら、大槻は「舌がかゆい。」「背中もかゆい。」などと訴え、看護婦が同人を診察室内のベッドに寝かせたところ、同人はぜん息のようなせきをした。
そこで、被告人は、大槻の右の症状は注射によるショックであると考え、まず副腎皮質ホルモンデキサセルソン五ミリグラムを左手静脈に注射し、ついで、人工蘇生器により酸素吸入を開始するとともに、手で心臓マッサージを行ないながら、看護婦に、デキストロン五〇〇CC、テラプチク三CC、ネオフイリン一〇CC、デキサセルソン一〇ミリグラム、ジギラノゲンC二CC、ぶどう糖二〇CC、ビタカンフアー一CC各注射液を混合させたうえ、これを大槻の左手背静脈から注入させた。
このようにして、大槻が小康状態になつたので、「どうしたんや。薬にあたるんか。」と尋ねたところ、同人は「ハレルギー体質や。」と答え、「小便がしたい。」といい、看護婦がしびんを用意している間に意識不明となり、失禁した。そして、被告人は、大槻の気管にたまる分秘物を吸引するため、気管切開し、管を直接肺の中に入れて分秘物を吸い取つた。
(五) 被告人は、右のような治療を尽したにもかかわらず、大槻の容態が好転しないため、近くの開業医大久保の応援を求め同日午前九時五五分ころ、同医師の指示により看護婦がボスミン0.3CCとビタカンフアーを筋肉注射し、さらに同医師自らノルアドレナリン一ミリグラムを静脈注射した。
その間、被告人は心臓マッサージを続けていた。
しかし、同日午前一〇時ころ、大槻は呼吸停止、瞳孔散大、心臓停止となり、死亡が確認されるにいたつた。
二大槻子一の死亡原因
前項認定の事実と医師小片重男作成の死体検案書、鑑定人小片重男作成の鑑定書、証人小片重男の尋問調書を総合すると、大槻子一は、リンパ体質、副腎の発育不全、僧帽弁異常に起因する左右心室の拡張および軽度の肝細胞の脂肪変性といういわゆる薬物ショックを起しやすい素因を具有する体質であり、かつ右橈骨骨折という異常な状態にあつたところ、被告人が鎮痛のためコメタミン混合ザルソナールを静脈内注射したさい、右注射液の組成物であるピラビタール一五〇ミリグラムに含まれたアミノピリンの作用によりショック死したものであると認められる。
三ザルソナール注射液について
マルコ製薬株式会社作成のザルソナール注射液の説明書および証明書、鑑定人小片重男作成の鑑定書、証人小片重男、松倉豊治の各尋問調書によれば、つぎの事実が認められる。
ザルソナール注射液は、マルコ製薬株式会社製造、販売の鎮痛・鎮静剤であり、一管(二〇ミリリットル)中にピラビタール一五〇ミリグラム、サリチル酸ナトリウム三〇〇ミリグラム、サリチル酸カルシウム二〇〇ミリグラム、臭化ナトリウム五〇〇ミリグラム、ブドウ糖二〇〇〇ミリグラムを含有しており、ザルソナール注射液の組成物であるピラビタールは、日本薬局方により劇薬に指定されている。
そして、右ピラビタールは、ピリン剤であるアミノピリンを含有したいわゆるピリン系の薬剤であるところ、ピリン剤の投与により蕁麻疹、水泡疹、皮膚炎、痒症、発熱などのアレルギー症状を発する者が稀にあり、また同一薬剤によるアレルギー症状でも個人差および患者のその時の状態によつても差があるので、それらの症状発生を避けるために、右注射液には、使用上の注意として「薬剤過敏体質の患者、特にピリン疹などのアレルギー症状の有無及び気管支喘息、内分秘疾患(ステロイド剤の長期投与などによる副腎機能不全、甲状腺機能亢進症)、本剤使用前の身体条件(睡眠不足その他過労、飲酒、妊娠時)などの諸点を含めた詳細な注意をすること。」と記載された注意書が添付されている。
そして、右注射液は、昭和二四年二月ころから製造販売されており、昭和四六年四月一日から同年九月三〇日までの間に二、六七二、八五〇アンプル、同年一〇月一日から昭和四七年三月三一日までの間に二、八一八、三〇〇アンプル、同年四月一日から同年九月三〇日までの間に二、九三八、八〇〇アンプル製造販売されている。
四いわゆる薬物ショック死について
鑑定人小片重男作成の鑑定書、証人小片重男、松倉豊治の各尋問調書によれば、つぎの事実が認められる。
(一) 薬物ショックの死体を解剖すると、リンパ体質(体内の種々のリンパ装置が発達している体質)、胸腺体質(胸腺が成人になつても萎縮退行しないで、大きいままで残つている体質)、副腎の発育不全(正常人より重量が小)、心臓疾患、心臓・肝臓等の臓器の変性等の身体的特徴をもつた者であることが多い。このことから、右のような素因を有する者は、薬物ショックを起しやすいと一応いうことができる。
(二) リンパ節のうち、扁桃、首、大腿、そけい部などのリンパ節は視・触診で発見できるが、脾臓、大・小腸などのリンパ節は解剖しないと発見できない。また視・触診で発見できる部分についても、他の病気によつて腫脹していることがあるから、それが素質であるかどうかは視・触診だけでは判別が困難である。
胸腺体質については、一般的には解剖によつてはじめて発見できるにすぎない。
副腎の重量も、問・触診等では判定できず、開腹摘出によるほかはない。
僧帽弁異常による心臓の拡脹も、聴・打診程度では必ずしも発見できず、心電図をとるなどの処置が必要である。
肝細胞の脂肪変性も、顕微鏡で組織を検査するなどの方法によらなければ、発見困難である。
(三) 薬物ショックを発現する薬剤には、麻酔剤、抗生物質、ピリン剤、ピリン以外の解熱・鎮痛剤、サルフア剤、ワクチン、血清類、ブドウ糖、ビタミン剤など多種、多様のものがある。
(四) 薬物ショックは、前述のようなショックを起しやすい素因を有している者に、右のような薬剤を投与した場合に必ず発現するものであるとはかぎらない。同一体質者、同一人であつても、疲労の有無・程度、妊娠しているかどうか、飲酒しているかどうかなど、そのときの身体の状態によつて異なるし、注射の場合にはその緩・急によつてもちがいがある。
そして、右のような異状を有していても、大多数はショックに陥らない。
五被告人の過失の有無
(一) 危険性予見義務について
(1) 以上認定の事実によれば、ある患者が薬物ショックを起しやすい素因(特異体質)を有している(検察官主張の「薬剤過敏体質」とは、結局このことをさしているものと解される)かどうかを判定することは容易なことではなく、解剖や精密検査によつてはじめて発見しうるにすぎないことも多いのであるから、医師が通常行なう治療のさいに、右のような素因の適確な把握を期待することはとうてい不可能だというべきである。ただ、患者に対する問診によりその患者が過去において薬剤によるなんらかのショック症状を経験したことがあるかどうかは知ることが可能であり、その経験のあることが判明した場合には、使用すべき薬剤の選別や使用方法等につき特段の注意を払うことが要求されるものといいうるであろう。しかし、その問診においてすら、医師の適切な質問だけでなく、患者のこれに対する適確な回答のあることが前提となるものであるといわざるをえない。
(2) これを本件についてみると、前認定のとおり、大槻子一はリンパ体質、副腎の発育不全、憎帽弁異常に起因する左右心室の拡脹および軽度の肝細胞の脂肪変性といういわゆる薬物ショックを起しやすい特異体質であつたが、これらの素因の存在は、いずれも前述のとおり解剖や精密検査によつてはじめて発見しうるものであつて、一般の開業医である被告人が通常の治療として行なつた大槻に対する本件治療のさいに、右のような特異体質を発見することは、大槻が被告人の問診に対し自己が薬物に対し特殊な反応を示す体質を有する旨を答えてくれない限り、不可能であつたというほかはない。
ところが、被告人は、昭和四六年一〇月七日の初診日に全身麻酔をするにあたり、大槻に対し、「注射はどうもないか。」と尋ねたところ、同人は「どうもない。」と答え、また「予防注射はしているか。」との問に対し「日本脳炎、インフルエンザの注射をうけている。」旨答えているのであるから前記特異体質発見の困難性と、特異体質者であつても死亡という重大な事故を発生することは極めて稀であることを考えると、これにより前述のような特異体質発見のための医師の通常なすべき注意義務は尽されており、被告人が大槻子一は薬物ショックを起しやすい体質ではないと考えたことを非難することはできないと考えられる。
(大槻やすえの証言によると、大槻子一は「飲薬には負けることがあると思つていました。しかし注射にはどうもないと思つていました。」というのであるから大槻子一が問診に対し「どうもない。」と答えたのも首肯し得るところである。)。
そして、現に大槻は右問診後全身麻酔をうけ、腫脹治療剤や止血剤などの注射をうけたほか、鎮痛止血の各種錠剤の投与をうけたが、二日後の同月九日までなんらの異状も発生しなかつたのであり、しかも、二回目の治療をした右同日の大槻の身体状況は、初診日と比べて骨折が整復されている点を除いて特別の差異があつたとも認められないのであるから、右同日鎮痛剤ザルソナールを注射するにあたり、再度改めて大槻が異常な体質を有する者であるかどうかを確かめるための問診をしなければならなかつたとはいいがたい。
なるほど、初診日に投与した薬剤と第二回目に投与した薬剤とは異質のものであることは検察官主張のとおりである。しかし、前認定のとおり、薬物ショックを発現する薬剤は多種・多様であつて、患者がどの薬剤に敏感に反応するかをあらかじめ確定することは困難であり、しかも、薬剤の使用回数に比較すると薬物ショックにより死にいたることは極めて少ないと考えられること、また患者が医学的には一般に無智であること、に徴すると、医師の通常の場合における問診義務の程度は患者が一般的に薬物ショックを起しやすい体質であるか否かを確かめることをもつて足るというべく、使用する薬剤が異なるごとに詳細な問診を要求することは、一般の開業医である被告人に対し、酷にすぎるといわざるをえない。
(3) そうすると、結局被告人に、大槻に対する本件ザルソナール注射液の投与による薬物ショック死の発生を予見すべき注意義務違反があつたとは認められないというべきである。
(二) 結果発生回避義務について
(1) 前認定のとおり、被告人は、本件ザルソナール注射液を約二分くらいかけて注射し終え、大槻が舌や背中のかゆみを訴えることにより薬物ショックの発生を知つてからは、直ちにショック死を防止するため各種の注射を施したほか酸素吸入や心臓マッサージ、気管分秘物の吸引など、被告人が知つているかぎりの治療を尽し、さらに他の医師の応援を求めて治療するなど、ショック死の発生防止のため相当の努力を払つたものと認められる。
(2) そうすると、被告人には、大槻の死という結果の発生を回避すべき注義意務に違反があつたとも認められないのである。
(結論)
以上の次第で、本件公訴事実については、被告人に過失があつたと認めることはできないから、結局犯罪の証明がないことになる。
そこで、刑訴法三三六条により、被告人に対し無罪の言渡しをすることにし、主文のとおり判決する。
(三好吉忠 平井重信 喜久本朝正)