京都家庭裁判所 平成2年(家)1208号 1990年8月17日
主文
申立人らの申立てを却下する。
理由
申立人井出、同古田はいずれも、被相続人との間に民法958条の3の特別縁故関係があったとして相続財産の分与を求めた。亡西川忠は同旨の申立てをしたのち死亡し、その相続人西川両名が手続を承継した。当裁判所は相続財産管理人の意見を聴取した。
第1208号申立人西川忠は平成2年7月9日死亡した。このことによって同人の相続財産分与請求権が消滅した。その相続はありえない。なお記録によれば西川忠本人について特別縁故の事情は認められない。よって承継人両名の申立ては理由がない。
その余の両名の申立てはいずれも以下の次第でこれを却下すべきものと考える。
1 記録によれば次の事実が認められる。
(1) 被相続人西川千里は昭和9年6月21日出生し、昭和60年12月16日○○府○○市内の自宅で死亡した。千里には相続人がない。
千里は西川トシコの子である。トシコの兄姉として富三郎、ヤスヨがあった。申立人友子、同悦子はヤスヨの子であり、亡西川忠は富三郎の子である。
(2) 千里は昭和32年大学を卒業し、○○市○○区で親の待合旅館を継いだ。昭和34年4月母トシコと死別した。同年6月相愛の仲の男性と結婚式を挙げたが、間もなく離別してクラブのホステスとなった。そこで知り合った男性があって、何度か中絶手術を受けた。昭和37、8年頃には自殺未遂で入院したことがある。
昭和42年上記旅館を引き払って○○府○○市に独居をはじめた。勤めにでたこともあった。
昭和58年頃には精神状態に異常が見えはじめた。
昭和59年4月言動の異常が原因で○○病院に入院した。その段取りは隣人がした。外泊許可の際は単身で自宅に戻り又は知人宅に泊った。精神衛生法上の保護義務者としては西川忠を希望した。これは実現しなかった。入院費用は千里と親しい知人が払った。
同年10月退院して単身で帰宅し無職で一人暮しを続け、生活保護を受けた。その後○○○病院にもかかった。
昭和60年12月16日自宅で縊死の状態で発見された。
葬儀は西川忠と申立人井出、同古田の3人で取り行った。一周忌、三周忌も同様であった。
(3) 申立人友子は千里との間で、母親相互の付合いと平行して従姉妹の関係で育ってきた。千里の結婚式に出席し、離婚話しの中にも立った。
千里の体調の悪い時は、不在で力になれないヤスヨに代って洗濯を手伝ったことがあった。千里に親しい男ができてからは相互に遠のいた。
千里の自殺未遂の時は見舞いに行った。中絶手術の際もヤスヨの体調不十分の時は昼間付き添ったり洗濯をしたりした。○○市への移転には夫と共に手伝いに行った。ヤスヨが足の具合が悪くて行けなかったからであった。
○○病院に千里を見舞った。入院の事実は段取りをした隣人から千里の知人に伝えられこの知人から西川忠を経て友子と悦子に伝わったものであった。それ以前、夜分長電話して来るのを断わることの繰返しがあったが、入院を要する病状とは知らなかった。入院の身元保証人にはならなかった。外泊のことは知らなかった。
千里の死の前日本人から電話を受けて、様子が変だとは思ったが、お寺の奥さんが来てくれている様子だったため、西川忠と悦子に電話連絡するに留めた。
(4) 申立人悦子と千里との付き合いの程度は、千里が○○市に独居をはじめる頃まで、ほぼ申立人友子におけると同様であった。悦子は昭和25年頃からヤスヨを引き取って同居した。
悦子は昭和43年夫の勤務の都合で○○市の現住所に移ったため、千里宅に近くなった。毎週一度ぐらいはヤスヨを含めて相互に行き来した。ヤスヨが昭和53年死去してのちは悦子をよい相談相手と考えたが、相互に勤めの関係もあって顔を合せることは少かった。
千里が○○病院に入院するより以前、長電話を度々受けたが症状の重さは知らなかった。
千里の退院後、訪問した際に衣服の着替えに手を貸したこともあった。近隣住人から千里の言動について苦情を受けた。千里からの夜分の電話も続いた。○○○病院にかかったことは千里と路上で出合った際に聞かされた。
千里の死の前日本人から電話を受けて不吉なものを感じたがさして気にとめなかった。
2 以上の事実関係からすれば、申立人井出、同古田はいずれも民法958条の3にいう特別縁故者と認めえない。両名とも被相続人千里の従姉であるが、千里との間でそれ以上に密接な生活上精神上のつながりがあったとはいえない。
友子が千里の中絶手術や入院の際の見舞い、昼間の付添い、洗濯などし、転居に手を貸したのはヤスヨに代って手伝いをしたもので、従姉として又ヤスヨの子として通常の交際以上のものではなかった。
悦子は昭和43年以降千里方の近くに住むこととなって、それ以前よりは往来が多くなったが格別の密接な関係とはいえない。
千里が昭和59年精神の異常で入院したときは上記両名ともこれを見舞ったが、入院の段取りは隣人がしたものであり、両名の手配や負担によるものではなかった。それ以前から夜分の長電話を受けたが症状を積極的に探るでもなく、電話を避ける態度の繰返しであり、症状を了知するに至らなかった。死の前夜電話を受けた際は話しぶりやその内容から異常のものを感じたが格別の措置にでなかった。
調査官の報告書によれば、千里において死の前日寺院関係者に死を予測した発言をして、遺産を西川忠、上記両名、知人清原、寺院の五者に分けて欲しい旨をのべたことが認められる。しかし反面この報告書によれば、千里には財産を申立人ら身内にとられるとの被害意識があったと認められ、また死の暫く前から精神的な安定がなかったとうかがわれる。これらの点を合せれば上記発言を正常な判断に基づくものと見るには疑問がある。この発言のあったことを特別縁故の事情とすることはできない。