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京都家庭裁判所 昭和56年(家)2522号 審判 1982年4月22日

申立人 町田進

相手方 町田今日子

事件本人 町田誠 外二名

主文

一  相手方は申立人に対し本審判送達日の翌月より、各月(八月を除く)の祝休日のうちの一日の午前九時より午後四時まで、事件本人町田誠、同町田照子と面接交渉をすることを許されねばならない。

二  相手方は申立人に対し、毎年の八月中、引続き五日間、事件本人町田誠、同町田照子と面接交渉をすることを許さねばならない。この場合、申立人は、申立人住居その他適当な場所において上記事件本人らと生活をともにすることができる。

三  申立人と相手方とは、上記一、二項の面接交渉の日、時、場所、方法につき、京都家庭裁判所調査官の指導の下に協議を行わなければならない。

四  本件申立のうち事件本人町田登に面接交渉を求める部分は却下する。

理由

第一申立の趣旨

相手方は、申立人と事件本人らを面接交渉させよ。

第二申立の実情

一  申立人は○○大学工学部修士課程二年を経、昭和四四年国家公務員(技官)として通産省に採用せられたが、昭和四七年退職した。

二  同年奈良県教員に採用されて県立○○高等学校工学科教員となつたが、当時同県○○中学校の教員であつた相手方と知り合い、昭和四九年八月二四日結婚し、二人の間には事件本人らが生れた。

三  申立人は昭和五〇年三月奈良県立○○高等学校を経て、昭和五三年三月京都府に転じ、以来府立○○高等学校に勤務している。

四  相手方は昭和五二年一二月教員を退職したが、その頃から相手方はその母である貞子と同居することを申立人に懇請して来た。しかし相手方と同棲して見て、相手方はお互いの家庭よりも、女ばかりで暮した実家の方を大切と考える性格であることがわかつたし、また母貞子も娘を他家に嫁に出したものという観念に乏しく、むしろ申立人を婿養子に貰つたと考える性格の人に思われるところがあり、相手方は申立人と同棲後も申立人に無断で、唯暫らく帰ります、と書置しただけで実家に帰ることも少くなかつた。

五  それで申立人は不安を感じつつも、相手方の申出を容れ、昭和五三年三月から貞子と同居した。しかし不安は現実のものとなつた。貞子は病的なまでに我儘な性格で、娘の結婚は自己の為のように考え、思う通りに行かぬときは、しまつた、こんな結婚をさせねばよかつた、とか、相手方出産の際、家事の手伝に来てくれた申立人の母に、娘ももう別れる決心をしている、等と放言する始末であつた。

六  昭和五四年春貞子の弟が京都府議会議員に立候補したが、申立人が仕事の関係上応援運動をしなかつたところ、貞子は申立人を非人間と罵しつた。

七  このような状態に堪え兼ねて仲人に相談したところ、暫く別居でやつて見よ、と勧告されたので、昭和五五年一月から別居生活に入つたが、相手方らの嫌がらせは増長するばかりで、土、日曜日に相手方らの方へ子供に会いに行つても、食事の仕度もない始末である。

八  申立人はこの異常な状況を解決するため、家庭裁判所に調停の申立をすることを決意し、昭和五五年八月二日相手方の同意を得た。同月一七日相手方、貞子、およびその弟と会談、相手方は申立人に対し、当分静養したいから、子供達を預つて欲しいというので、同月二一日迎えに来ることを約して別れた。

九  当日申立人は子供三人を連れて申立人の父母の家に行き両親に、暫らく預つて貰うことにし、そこで長男と長女はスクールバスで幼稚園に通うことにし、申立人も土、日曜日と祝祭日には両親のもとに帰り、子供達と過すことにした。

一〇  昭和五五年一〇月八日午前八時頃相手方とその母貞子の弟が申立人の実家を訪れ、長男長女については幼稚園に退園届を提出し、次男は申立人の父が制止するのを突き飛ばして、自動車で予め用意して借受けていた大阪市内のアパートに拉致して所在を不明にした。

一一  申立人は子らの所在を探したが不明なので、仲人を通じて貞子に子供らが余り可愛相である、申立人は暴力を以て子供らを取戻すようなことはしないから、落着いて生活できるよう、貞子方へ帰らせて生活させてほしい、と申入れたが容易に実行されなかつた。

一二  同年一〇月三〇日申立人は京都家庭裁判所に夫婦関係調整(離婚)の調停の申立をした。

同年一一月二六日突然相手方が申立人の職場に次男と長女を連れて訪れた。

同年一二月一四日夜その日申立人方に来ていた長男、長女を連れて相手方に行つたところ、貞子の弟ら四、五名から、暴行を受け、全身六ヶ所に負傷したほか、着衣をズタズタに破られ、単車を破損された。

一三  同月二八日子供らに冬休中の一時でも申立人方で過させてやりたいと思つて、その旨申入に赴いたところ、相手方や貞子は罵詈雑言で応え、貞子の弟は子らが申立人に従おうとするのを暴力を以て阻止する態勢を示す有様であつた。

一四  申立人と相手方は別居をしているが、夫婦であり、親子である以上、子に対する通交は最大限に許されるものとしての前提の一時別居である、と考えられるのに、叙上のように、申立人の子に対する通交は不当に制限阻止されている。よつて本件申立に及んだ。

第三当裁判所の認定した事実

本件記録および当庁昭和五五年(家イ)第一四四五号事件の記録によると、以下の事実が認められる。

一  申立人は名古屋市の高等学校を卒業し、昭和三八年四月○○大学工学部○○化学科に入学、昭和四四年三月○○大学大学院修士課程を修了し、通産省○○○局に勤務した。昭和四五年一月先妻と結婚し、一子をもうけたが、性格が合わず、昭和四六年六月通産省も退職し、別居生活に入り、昭和四九年六月調停離婚をした。昭和四六年奈良県の教員採用試験を受け、昭和四七年四月奈良県立○○工業高等学校教諭になつた。

二  相手方は○○教育大学を卒業、○○女子大学大学院の物理化学の修士課程を修了、二年程○○○○大学の助手を勤め、昭和四六年奈良県の教員採用試験を受け、昭和四七年四月から大和郡山市の中学校の教諭になつた。この採用試験で、同じく受験で来ていた申立人と知合、その翌年の研修の際一緒であつたことから、親密となつた。昭和四九年七月結婚式を挙げ、同年八月二四日婚姻届を了した。結婚には別段周囲からの反対はなかつた。昭和五〇年四月申立人は○○高等学校教諭に転勤した。

三  結婚後暫くアパートに新居を構えていたが、間もなく奈良県の教員住宅に移転した。申立人は多分に神経質であり、また、家庭は夫が中心となり、夫の意思は最も尊重されるべきであつて、相手方は実家である長田家より出て、申立人を中心とする町田家に嫁して来たものであるから、実家よりもまず自分達夫婦を第一とすべきであるとの意識が常に根底にあつた。これに対し相手方は、父長田志郎は昭和四七年八月一五日に死亡し、京都府相楽郡○○町大字○○の実家は母貞子(大正一〇年一〇月二六日生)、と妹富士代(昭和二二年一〇月七日生)の女ばかりの所帯であつたため、申立人を最も濃い姻戚として、実家の家族の一員に準じた役割を尽くすことを当然のこととして期待していた。また申立人の神経質であるのに対し、夫の心情に対するこまかい配慮に欠けるところがあつた。したがつて、相手方はしばしば申立人に無断で実家に帰ることがあり、これに対し申立人は不快の念を表示することがあつたが、大した破綻はなく、当面は経過した。昭和五〇年一月二五日、事件本人長男誠が、昭和五一年一一月二九日事件本人長女照子が生れた。子育ての為、申立人の強い要望もあつて、相手方は不本意であつたが、昭和五二年一二月教員の職を退いた。

四  昭和五三年、相手方の実家では妹富士代が結婚して家を出ることになつたため、相手方は申立人に対し、○○町に移つて、母と同居することを求めた。申立人としては、相手方と同様の意識をより強く持つ相手方の母とは気が合わず、同居には不安があつたが、たまたま申立人は、京都府の教員採用試験に合格し、かねてから望んでいた京都府立高等学校に勤務できることとなつたので、通勤に便宜となることもあつたのでこれに同意した。同年四月申立人と相手方は○○町に移り、相手方の母と妹の住む母家と、道路を隔てて向い側に新築された家で居住した。同年六月相手方の妹が婚出し、同年九月二九日事件本人次男登が出生した。

五  しかしこの同居は、申立人と相手方およびその母の前記意識のずれを顕在化し、紛争が生じた。相手方とその母の往来は緊密となり、これが申立人の目には、相手方は一家のあるじである自分を放置して、実家に入りびたりである、と写つた。また相手方やその母は○○町大字○○には、冠婚葬祭その他近隣の人々との交際の慣習があり、この慣習に申立人が溶け入ることはもち論、事実上長田家の男主人としての役割を果すことを望んでいたのに、申立人が、自己を婿養子扱にするものとして、これに反発し拒否的態度に出た為、申立人を思いやりのない、自己中心的な男として憎悪するに至つた。かくして申立人と相手方およびその母との間で、しばしば些細なことから確執が生じ、感情的な対立が激化した。そこで相談の結果、冷却期間を置く意味で申立人と相手方は一時別居することとなり、申立人は相手方の叔父の営む運送会社の、京都市○○区○○にあつた従業員寮に、昭和五五年一月に移り、土曜、日曜には妻子のもとに帰つていた。申立人は相手方に月一六万円の生活費を交付していた。

六  しかし別居は夫婦和合には逆効果となり、申立人と相手方およびその母との紛争はより熾烈となつた。相手方は申立人と会うのを嫌忌し、申立人が来ると朝から畑に出たり、子供をつれて母家に行つてしまうことがしばしばあつた。申立人はひそかに離婚を決意した。昭和五五年八月相手方は体調が悪く妊娠中絶をした。申立人との関係の心労が原因であつた。相手方は子供の世話を申立人に頼んだところ、申立人は同月二一日子供ら三名を名古屋市の実家に連れ行き、母に養育を依頼した。事件本人長男、誠、同長女照子はそこから幼稚園に通園し、申立人は土曜、日曜には、名古屋市の実家に帰り、事件本人らと会つていた。住居が安定したら子供らを引取り、相手方と離婚する計算であつた。同年九月一一日、申立人は現住マンションを契約した。

七  一方相手方は、精神の整理をつけるため、申立人の勧めで、内観道場に入り、修養をした。そこから出て、申立人に同居と、子供を戻すことを求めたところ、申立人より来年三月までは不可といわれた。子供を奪われるのでは、と思つた申立人は平静を失い、心筋梗塞で倒れた。昭和五五年一〇月八日相手方は、叔父と共に名古屋市に赴き、事件本人誠、同照子を幼稚園より引取り、事件本人登は申立人の父の制止を振切つて取り上げ、三名の子供を連れて帰り、暫くその所在を申立人から隠した。

八  昭和五五年一〇月三〇日申立人は当庁に夫婦関係調整(離婚)の調停の申立をした(当庁昭和五五年(家イ)第一四四五号事件)。同年一一月二九日頃相手方は事件本人ら三名を連れて、申立人の住むマンションを訪問二時間位を過した。同年一二年六日にも、相手方は誠、照子と共にマンションに来て一泊した。同月一三日申立人が誠、照子を連れてマンションに一泊させ、翌日相手方に送り届けたところ、相手方の叔父と一悶着があつた。同月二八日再び事件本人らを迎えに行つたところ、相手方らの抵抗に遇い、連れ帰ることができなかつた。調停は四回期日が開かれたが、昭和五六年三月一〇日不成立で終つた。同年四月二八日申立人は、当庁に面接交渉の調停の申立をしたが、これも同年九月一四日不成立となり、本件審判に移行した。

九  相手方は、申立人の事件本人らとの面接交渉の要求を固く拒み、申立人が相手方のもとに行つても、玄関に入ることも許さない。それで申立人は時折誠、照子の通園する幼稚園に行き、ひそかに面接して、面接交渉の渇を癒している状態である。申立人は、昭和五三年四月より、京都府立○○高等学校の教諭をしており、月収は約二二万円程度。申立人は昭和五六年一月より相手方に対し婚姻費用として月六万円を送金し、昭和五七年一月にはそれとは別に一〇万円を送金した。申立人の事件本人らに対する愛情は、通常の父親と同様であり、事件本人らとの面接交渉欲求は強く、止み難いものがある。相手方は昭和五六年九月一日より、生駒市立○○○中学校の講師として稼働し、月収約一六万円を得ている。

第四当裁判所の判断

法律上の離婚はしていないが、現に別居状態にある父母間で、子を監護していない親の面接交渉について協議が調わないときは、家庭裁判所は、民法七六六条、家事審判法九条一項乙類四号の類推適用により、面接交渉の具体的内容を定めることができる、と解される。ただ面接交渉により、子の精神的安定や福祉を害する場合は、非監護親の面接交渉権が制限されることあるは止むを得ない、というべきである。相手方は、申立人の子供に接する態度が、猫可愛がりであり、躾についての配慮がない、と主張するが、前記各記録によるも、申立人の面接交渉を否定しなければならない程度にそのような態度がある、とは認められない。また相手方は、申立人の生活態度や考え方は子供達に悪影響を及ぼす、と主張するが、これも同様にわかに首肯し難い。相手方が、申立人の事件本人らとの面接交渉を拒否する最大の心因は、申立人に対する反発心であり、将来離婚となるとき、子の親権につき、申立人に有利な地位を与えるのではないか、との恐れにあると思われる。しかし家庭裁判所はかかる心因を考慮すべきではない。もつとも面接交渉に際し、申立人と相手方との葛藤がその場に反映し、事件本人らの精神的安定を害する虞れがない、とはいえないが、これは面接交渉の具体的な日、時、場所、方法等につき、当庁調査官の指導の下に協議を行わしむることによつて、可成り軽減し得るものと解される。ただ事件本人登については、その年令よりして常時相手方の監護を必要とするし、また申立人に対し、面識も親近感も乏しいものと推認されるので、現在申立人と面接交渉させるのは相当でない、と考えられるので、本件申立中、同事件本人との面接交渉を求める部分は却下すべきである。そこで相手方が事件本人らを監護している現状に立脚し、事件本人らの精神的安定と福祉を考慮し、主文掲記の限度において申立人の本件申立を認容するのが相当である。よつて主文のとおり審判する。

(家事審判官 野田榮一)

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