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仙台地方裁判所 平成12年(ワ)791号 判決 2005年2月15日

主文

1  被告は,原告に対し,金550万円及びこれに対する平成9年12月14日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用は,これを7分し,その1を被告の負担とし,その余を原告の負担とする。

4  この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

被告は,原告に対し,金4019万7762円及びこれに対する平成9年12月14日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要

本件は,平成9年12月14日に上顎癌のため死亡した亡Aの夫である原告が,亡Aが生前通院していた被告医院の医師である被告に対し,亡Aが死亡したのは,被告の診療上の過失(亡Aの症状によれば,同人に上顎癌などの他の重大な病気の可能性の疑いがあることを十分に説明した上で,より高度な医療を施すことができる医療機関への転医を勧めるべきであったにもかかわらず,これを怠った。)により上顎癌の発見が遅れ,効果的な治療を受ける機会を失ったことが原因であるとして,診療契約上の債務不履行又は不法行為に基づき損害賠償を求める事案である。

1  争いのない事実等(証拠等を掲げたもののほかは,当事者間に争いがない。)

(1) 当事者

ア 亡Aは,昭和12年2月28日出生し,平成9年12月14日死亡(当時60歳)した。原告は亡Aの夫である。

イ 被告は,被告医院を開設する医師である。

(2) 亡Aの死亡までの経過

ア 亡Aは,平成3年11月8日から平成8年11月22日までの間,被告医院において,診療契約を締結して,合計40回通院し,治療を受けた。(乙1,弁論の全趣旨)

イ 亡Aは,平成9年1月6日,B病院を受診し,同年2月14日,同病院に入院し,同月18日,右上顎洞試験開洞術・生検手術を受け,右上顎癌と確定診断された。(甲3,弁論の全趣旨)

ウ 亡Aは,同年5月20日,同病院において,右上顎亜全摘術を受けたが,眼の周辺に癌が転移し,同年7月25日,C大学医学部附属病院に転院した。(甲3,弁論の全趣旨)

エ 亡Aは,同年8月27日,同病院において,開頭手術を受け,同年11月11日,B病院に転院したが,同年12月14日,右上顎癌に基づく癌悪液質により死亡した。(甲4)

(3) 亡Aの相続

ア 亡Aの相続人は,夫である原告と両者間の子であるDとの2名である。(甲1)

イ 原告は,平成12年6月21日,Dとの間で,亡Aが被告に対して有する損害賠償請求権の一切について,原告が相続する旨の合意をした。(甲5)

2  争点

(1) 被告の転医勧告義務違反の有無

(2) (1)の義務違反と損害との因果関係の有無

(3) 損害額

3  争点に関する当事者の主張

(1) 争点(1)について

ア 原告の主張

(ア) 遅くとも平成8年7月15日の被告の診察時には,亡Aの病気が,それまでの慢性副鼻腔炎の症状と異なる経過を辿っていたのであるから,被告は,耳鼻咽喉科の専門医として上顎癌等の他の重大な病気の可能性を疑うべきであり,その時点において,亡Aに十分な説明をした上で,被告と連携関係にありかつ高度の医療を施すことのできるB病院へ転医させる処置をとるべきであった。

(イ) しかるに,被告は,同日の診察時においても,亡Aの症状を,漫然と従前の慢性副鼻腔炎に一時的な風邪症状を合併したものと誤診し,亡Aに対し,(ア)のような説明及び転医の勧告を全くしなかった。

イ 被告の主張

(ア) 上顎癌は稀な病気であり,早期診断が極めて難しく,同日(平成8年7月15日)の診察の時点で,亡Aの鼻症状から上顎癌等の他の重要な病気を疑うことは到底不可能であった。

(イ) 被告は,亡Aに対し,同日,同年11月12日及び同月22日,いずれも十分な説明をした上でB病院への転医を勧めた。

(ウ) しかるに,亡Aは,鼻づまりがひどくなり,右頬腫脹を自覚するようになった平成9年1月6日までB病院に転医しなかった。

(2) 争点(2)について

ア 原告の主張

(ア) 被告が,平成8年7月15日,亡AをB病院に転医させ,亡AがB病院において診察を受けたとすれば,遅くとも同年8月ころの時点において,亡Aの上顎癌は発見され,早期に然るべき治療が施されたはずである。

亡Aが自らB病院に転医し,平成9年2月18日に上顎洞試験開洞術,生検手術を受けた結果,上顎癌の進行度合は既にⅢ期まで進行していたことが判明したものであるところ,これより約7か月前に所要の検査と生検手術等を行っていたならば,上顎癌を発見できたはずであり,そうすればその病巣部を除去し得た可能性は極めて高い。

そうすると,亡Aの上顎癌の発見が約7か月程度早まることにより,その5年生存率は,少なくとも90パーセント程度にまで上昇し得たものと推認し得るもので,亡Aが生存していた高度な蓋然性がある。

鑑定の結果も,本件において,平成8年7月15日の時点で被告の指示のもとB病院に転医し,速やかに癌の診断がされていれば,臨床病期Ⅱ期の可能性が高く,その場合の5年生存率は約80パーセントに及ぶというのであるから,生存の高度の蓋然性の証明は十分である。

したがって,被告による転医勧告義務違反と亡Aの死亡との間に因果関係がある。

(イ) 仮に,被告に上記義務が生じた時点で転医させても亡Aが生存していた高度な蓋然性までは証明がされていないとしても,鑑定の結果によれば,仮に上顎癌がⅢ期に移行していた場合においても5年生存率は約60パーセント程度の可能性があったのであるから,少なくとも「相当程度の蓋然性」程度は証明がされており,亡A固有の慰謝料は認められるべきである。

イ 被告の主張

亡Aの場合,被告に転医勧告義務が生じた時点で速やかにB病院に転医させたとしても,上顎癌による死亡を避けることができなかったから,この時点で転医しなかったことと死亡との間に因果関係はない。

(3) 争点(3)について

ア 原告の主張

原告が亡Aから相続した損害賠償請求権及び固有の損害賠償請求権を合計すると,4019万7762円となる。内訳は次のとおりである。

(ア) 逸失利益

亡Aは,老齢厚生年金として年額121万2200円を得ていたもので,被告の過失により死亡しなければ,満86歳まで26年間にわたり毎年同額の収入を得ることができたはずであるから,生活費を30パーセント控除し,ライプニッツ方式により年5分の中間利息を控除して逸失利益を算定すると,1219万7762円になる。

(計算式)

1,212,200×(1-0.3)×14.375=12,197,762

(イ)  死亡慰謝料 2000万円

(ウ)  原告の固有の慰謝料

亡Aの死亡による原告の悲しみと苦痛は筆舌に尽くし難いものである。特に亡Aの死後に,原告自身,別の病気を患い,入院治療を受けることになったが,入院中のベッドの中で,連れ添いの亡Aを失ったことの悲しみを痛切に味わったのである。

これを慰謝するには,500万円を下らない。

(エ)  弁護士費用 300万円

イ 被告の主張

原告の損害は不知。

第3争点に対する判断

1  前示第2の1の事実に,証拠(甲3,4,6の1ないし3,7,10の1ないし10,11の1・2,13の1ないし9,14の1ないし7,15の1ないし3,16の1・2,17ないし21,22の1・2,23の1ないし4,24,25及び26の各1・2,27及び28の各1ないし3,29の1ないし7,30,31及び32の各1ないし5,33の1ないし3,34の1ないし7,35の1ないし3,36及び37の各1ないし4,41,43,44の1ないし7,乙1,2ないし4の各1・2,5の1,6ないし13,15ないし21,33の1・2,原告本人,被告本人,鑑定)及び弁論の全趣旨を総合すると,次の事実が認められる。

(1) 上顎癌

ア 上顎癌は,上顎洞に原発する上顎洞悪性腫瘍(上顎洞癌)の通称であるが,その原因は,鼻・副鼻腔の慢性炎症が誘因の一つと考えられている。これは,悪性腫瘍全体の0.37パーセントを占めるにすぎず,しかも最近は減少の傾向を示している。罹患率は,人口10万対0.6と推定される(森田守「上顎癌の病態と臨床」(平成3年))。

腫瘍の原発部位によって,症状が早く発現する例と,かなり晩期に発現する例とがあるが,上顎癌は,上顎洞という骨腔内に発生するため,一般に,初期には明らかな症状を示さないことが多い。症状が晩期に発現することは,早期治療の機会を失う大きな原因となる。そのため,上顎癌の治療には,早期診断が極めて重要である。

イ 上顎癌の初発症状は,鼻症状で始まることが最も多く,通常,慢性副鼻腔炎と何ら異なる症状を示さない。癌腫が洞壁を破壊すると,進展方向により多彩な症状を示す。上顎洞の内側壁は鼻腔に排泄口があるため,上顎癌は鼻腔に進展することが多く,その場合,鼻閉,鼻出血,血性鼻漏を生じる。前壁も鼻腔に次いで侵されやすく,前壁に進展すると頬部(眼球下部)の腫脹,上口唇の知覚鈍麻等を生じる。下壁は硬口蓋,上顎歯肉部に接しているため,この部位の骨破壊による歯痛,浮歯感,歯牙の動揺等を生じる。

ウ 上顎癌の初発症状段階は,鼻漏・鼻閉塞等の症状において,慢性副鼻腔炎と共通の症状を示すが,上顎癌の早期発見の留意事項として,中老年(癌好発年齢者)に,① 一則性(片側)の鼻閉・鼻漏,② 一則性の鼻出血,③ 一則性の鼻葺,④ 歯痛,⑤ 頬部圧迫感・頬部腫脹が認められた場合には,上顎癌を疑い,CT検査やMRI検査等の諸検査を勧めるべきとされている。

エ 上顎癌の進展度分類につき昭和63年のUICC(国際対がん連合)規約があり,この規約にはT分類(原発腫瘍の拡がりによって分類),N分類(所属リンパ節転移によって分類),M分類(遠隔転移によって分類)とこれらを合わせた病期分類(ステージ分類)が定められており,詳細は別紙記載のとおりである。

オ 上顎癌の治癒率は,一般に約40パーセント程度であるとされている。自治医科大学耳鼻咽喉科における昭和54年以前の25例で,5年生存率が79パーセント,いわゆるT4症例でも64パーセントの生存率を得ていることの報告もあるが,一般的には,ある程度癌治療に精通した医師が治療した場合の5年生存率はⅡ期で約80パーセント,Ⅲ期では約60パーセントとみるべく,同じT2,同じT3であっても治療成績が異なるのはある程度やむを得ないとされている。

(2) 症状,診療経過等

ア 亡Aは,平成元年12月2日,のどの異物感等の症状により,B病院の耳鼻科に赴き診察を受けたところ,慢性副鼻腔炎,喉頭異常感症と診断され,平成2年3月までの間計11回B病院に通院して治療を受けた。

イ 被告医院初診から平成7年まで

(ア) 平成3年

a 亡Aは,同年11月8日,「ふとんに入ると鼻汁が多く出たり,両側の鼻づまりが起こる。痰が切れない。のどに多量の鼻汁が流れる。」と訴えて,被告医院を初めて受診した。

被告は,診察の結果,両側鼻腔に比較的濃い粘液性濃汁があること,両側の鼻の粘膜が蒼白でかなりの肥厚があること,咽頭に比較的強い発赤があることを認めるともに,鼻のレントゲン検査で,上顎洞の左右に強い陰影を認めたため,急性咽頭炎を伴う両側慢性副鼻腔炎と診断の上,急性咽頭炎と副鼻腔炎に対する内服薬を処方した。

b 亡Aは,同月18日,同月30日,同年12月3日,同月9日,同月20日,同月27日と被告医院に通院し,被告は,亡Aに対し,急性咽頭炎と副鼻腔炎に対する内服薬を処方した。

(イ) 平成4年

a 亡Aは,同年1月7日の通院を経て,同年4月4日,被告医院に通院した際,被告に対し,「1か月前より両側に膿汁が多く,両側に軽い鼻づまりがある」と訴えた。

被告は,診察の結果,両側の鼻腔に比較的多量の膿汁性の鼻漏がみられ,咽頭,喉頭の比較的強い腫脹を認めたため,両側慢性副鼻腔炎に急性咽喉頭炎を伴っているものと診断し,急性咽喉頭炎と副鼻腔炎に対する内服薬を処方した。

b 亡Aは,同年6月27日,同年8月5日,同年9月5日,同年10月5日,同月23日,同年11月14日,同年12月4日に被告医院に通院した。

なお,同年6月27日から同年12月4日までの通院時には,咽喉頭炎の反復と多量の膿汁ののどへの流下によるのどの症状(イライラ感と痛み)の憎悪がみられた。

(ウ) 平成5年

a 亡Aは,その後,しばらく通院がとだえたが,同年6月18日,被告医院を訪れ,被告に対し,「昨日よりも声のかすれが強い。両側の鼻づまりは軽いが,咳がひどく,痰が多い」と訴えるともに,頭痛のほか咽頭,喉頭の痛みを訴えた。

被告が診察した結果,両側にかなりの量の膿汁性の鼻漏がみられ,鼻腔,咽頭,喉頭に比較的強い発赤と腫脹を認め,喉頭内視鏡検査で,喉頭の発赤,充血がかなり強く,軽度の浮腫がみられ,気管の充血が比較的強かった上,鼻のレントゲン検査の結果,上顎洞の左右に強い陰影を認めた。

被告は,両側慢性副鼻腔炎に急性喉頭炎と急性気管支炎を併発したものと診断し,抗生剤(生理食塩水100シーシーとホスミシンS1000ミリグラム)を点滴静注し,風邪症状と副鼻腔炎に対する内服薬を処方した。

b その後,亡Aは,鼻の症状やのどの症状(膿性の後鼻漏によるのどのイライラ感と風邪症状)を訴えて,同月中に2回,同年7月中に3回,同年8月中に2回,同年9月中に2回及び同年10月5日に被告医院に通院し,抗生剤の点滴静注,風邪症状と副鼻腔炎に対する内服薬や精神安定剤の処方を受け,同月15日にも被告医院へ通院した。

(エ) 平成6年

a 亡Aは,同年7月23日,被告医院を訪れ,被告に対し,「7日前よりのどがおかしい。のどの痛みが強い。咳がかなりひどく風邪症状がある。両側の鼻づまりは軽いが,のどの痛みがかなり強い」と訴えた。

被告の診察の結果,両側の鼻腔の鼻漏は少なかったが,鼻腔,咽頭,喉頭の発赤と腫脹が比較的強く,喉頭内視鏡検査で,喉頭の発赤,充血がかなり強いこと,軽度の肥厚と浮腫が認められた。

被告は,両側慢性副鼻腔炎に急性鼻咽頭炎,急性喉頭炎,急性気管支炎を併発したものと診断し,抗生剤(前同)の点滴静注をし,風邪症状と副鼻腔炎に対する内服薬を処方した。

b 亡Aは,その後同年中は被告医院に通院せず,翌平成7年も通院しなかった。

ウ 平成8年

(ア) 亡Aは,同年2月7日,被告医院に赴いて,被告に対し,「最近いつものどのイガイガが強い。そのため,よく眠れないし,不安感が強い。風邪症状がある。のどが痛い。両側に軽い鼻づまりがある。」と訴えた。

被告が診察した結果,両側の鼻腔にかなりの量の膿汁性の鼻漏がみられ,咽頭,喉頭に痛みがあり,発赤が比較的強く,鼻のレントゲン検査で上顎洞の左右に強い陰影が認められた。

被告は,新たに神経症の診断名を付したほか,急性咽喉頭炎を伴う両側慢性副鼻腔炎と診断し,急性咽喉頭炎と副鼻腔炎に対する内服薬のほか精神安定剤を処方した。

(イ) 亡Aは,鼻の症状とのどの症状(イライラ感と痛み)を訴えて,同年3月5日,同年4月1日,同月23日,被告医院に通院した。

同年5月29日に被告医院に通院したときは,被告に対し,「右側の鼻づまりがひどい」と訴えていた。

(ウ) 亡Aは,同年7月初旬ころ,右下の歯肉痛が発生したため,同月8日,多賀城市内のE歯科医院を訪ね,歯科医師F医師の診察を受けた。

その際,F医師は,亡Aの口腔内のパノラマ及びデンタルレントゲン撮影を行った。その結果は,右下5番と7番の歯槽骨及び歯根膜には異常がみられず,5番には2次カリエスが認められ,8番の近心歯槽骨にもやや吸収が認められた。

F医師は,一般検査により歯牙の動揺度とEPPの測定を行ったが,特に顕著な結果は認められなかった。

以上の検査結果から,F医師は,右下567Brの咬合性外傷を疑い,歯冠形態修正を行った。

(エ)a 亡Aは,同月15日,E歯科医院に通院した。その際,F医師は,右下の歯肉痛は緩解し治癒に至ったと診断している。

b 亡Aは,同日,被告医院を訪れ,被告に対し,「風邪の症状が良くなったり悪くなったりしている。頭痛はないが,のどの痛みとイライラが強い。」と訴えた。

被告の診察の結果,両側鼻腔にかなりの量の濃い膿汁がみられ,咽頭,喉頭の発赤が比較的強く,痛みを伴っていたほか,鼻のレントゲン検査で,上顎洞の左右に強い陰影を認めた。

そこで,被告は,両側慢性副鼻腔炎に急性咽喉頭炎を併発したものと診断し,風邪症状と副鼻腔炎に対する内服薬のほか精神安定剤を処方した。

(オ)a 亡Aは,同年8月27日,E歯科医院に通院し,右下の歯肉痛の症状を訴え,F医師は,亡Aに対し,歯肉の消毒と抗生物質を投与した。

b 亡Aは,同日,被告医院に通院し,鼻の症状とのどの症状及び「いつも両側の耳のふさがった感じが強い」と訴えた。

被告は,診察の結果,風邪症状や急性咽喉頭炎及び両側の鼓膜に軽いへこみ(陥凹)がみられたので,風邪症状や副鼻腔炎に対する内服薬や精神安定剤を処方するとともに,通気処置をした。

(カ) 亡Aは,同月28日及び同月31日,E歯科医院に通院し,F医師は経過観察したが,変化はなかった。

(キ) 亡Aは,同年9月6日,E歯科医院に通院し,右下5番の自発痛及び冷熱痛を訴えたため,F医師は,抜髄を行った。

その後,亡Aの症状は,緩解し,補綴処置に移行した。

(ク) 亡Aは,同月11日,同月13日,同月17日,同月18日,同月20日,E歯科医院に通院した。

同月13日,亡Aが左上2番の不適合SP冠の除去を希望したので,F医師は,除去・単治を行った上,同月20日,新Brを装着させ,同月27日,左上2番に硬質レジン前装冠を装着させた。

(ケ) 亡Aは,同月28日,被告医院に通院し,鼻の症状とのどの症状について訴え,特に「両側の鼻づまりがひどい」と訴えた。

被告は,診察した上,風邪症状や副鼻腔炎に対する内服薬や精神安定剤を処方したほか,両側の鼓膜の軽度の陥凹がみられたので,通気処置をし,両側耳管機能不全症と診断した。

(コ) 亡Aは,同月30日,E歯科医院に通院し,左下の5番が時々痛むと訴えた。

F医師は,レントゲン撮影をしたが,異常が認められなかったため,亡Aに対し,増加傾向の場合には連絡するように話した。

(サ) 亡Aは,同年10月4日,B病院の循環器科を受診し,同月7日から同月14日までの間,同病院の同科に入院した。

しかしながら,亡Aは,この期間中,同病院の耳鼻科を受診したことはなかった。

(シ)a 亡Aは,同月18日,B病院の皮膚科を受診した。

b 亡Aは,同日,E歯科医院で受診し,右下の奥の歯が痛むと訴えたため,F医師は,知歯周囲炎として,抜歯を行った。

(ス) 亡Aは,同月19日も,E歯科医院に通院した。

(セ) 亡Aは,同月21日,B病院の皮膚科及び神経内科を受診した。

(ソ)a 亡Aは,同月22日,E歯科医院に通院した。

b 亡Aは,同日,被告医院に通院し,鼻の症状とのどの症状について訴えた。

被告は,診察の上,風邪症状や副鼻腔炎に対する内服薬や精神安定剤を処方した。

(タ)a 亡Aは,同月24日,B病院の循環器科を受診した。

b 亡Aは,同日,E歯科医院に通院し,F医師は,右下567Brの咬合調整を行った。

(チ) 亡Aは,同月28日,B病院の皮膚科を受診した。

(ツ) 亡Aは,同年11月5日,E歯科医院に通院し,F医師は,抜歯部位の治癒が不良のため再掻爬を行った。

亡Aは,同月6日,同月8日,E歯科医院に通院し,F医師は,経過良好のため,治癒と診断した。

(テ) 亡Aは,同月12日,被告医院を訪れ,被告に対し,「左側の鼻づまりがひどい」と訴えた。

被告が診察した結果,右中鼻道に鼻茸のように思える5ミリメートル以内の浮腫状で灰白色を呈するポリープ様腫瘤が認められ,綿棒による処置時に出血もみられた。

被告は,その他の部位についても鼻咽腔内視鏡で検査したが,咽喉頭部の急性の炎症所見のほかに特に異常は認められなかった。

被告は,鼻のレントゲン検査で,上顎洞の左右に強い陰影を認めたが,両側慢性副鼻腔炎に急性咽喉頭炎を伴うものと診断し,抗生剤と副鼻腔炎に対する内服薬のほか精神安定剤を処方した。

その傍,被告は,上記のとおり右鼻腔内にポリープ様腫瘤を認めたので,亡Aにその旨説明すると共に,鼻のレントゲン写真の所見上上顎洞の改善がみられないことを説明して,大きな病院での検査を勧めたが,亡Aは,あまり行きたくない様子で返事がなかった。被告は,亡Aに対し,とにかく薬を服用してみて改善がみられない場合には,然るべき病院を紹介する旨説明した。

(ト) 亡Aは,同月22日,被告医院を訪れ,被告に対し,「2,3日前より風邪症状が強い」と訴えた。

被告が診察した結果,右鼻腔内ポリープ様腫瘤がまだ存在し,両側の鼓膜の陥凹は改善していたが,両側鼻腔の膿汁が比較的多く,咽喉頭粘膜に強い発赤と腫脹がみられた(なお,右鼻腔内ポリープ様腫瘤については,綿棒での処置時に出血はみられなかった。)ほか,喉頭の検査で,喉頭の発赤と充血が強く,軽度の肥厚と浮腫が認められた。

被告は,抗生剤の点滴静注をするとともに抗生剤を処方した。

被告は,右鼻腔内にポリープ様腫瘤の改善がみられず,同月12日に説明したとおり,再度,大きな病院での検査を勧めたが,亡Aは,これまでどおり被告医院で治療を受けたいと述べた。

(ナ) 同年12月ころには,亡Aに血性鼻汁,右頬部腫脹,右頬部疼痛等の症状が発現した。

(ニ) 原告は,医学には全く素人であったが,亡Aの鼻症状につき,長期間の治療にもかかわらず治癒しないばかりか,むしろ悪化する一方であったため,同月末ごろ,被告による慢性副鼻腔炎との診断に疑いを持ち,市販の家庭用医学書を調べたところ,亡Aの症状がまさに上顎癌特有の症状に符合することに気付き,直ちに,亡Aに対し,他の大きな病院に転医して診察を受けるよう勧めた。

エ 平成9年

(ア) 亡Aは,同年1月6日,B病院を受診した。そして,問診票の「鼻づまり」,「鼻・ほほがはれている(右)」の各欄に○印を付け,同票に「平成2年ころに初めて,その後やや良くなったけど,昨年10月ころからだんだん鼻づまりがひどくなってきました」と記載したが,歯痛やE歯科医院に通院していた事実については記載しなかった。

同日,問診の結果,主訴は鼻閉であった。亡Aは,「平成8年10月ころより鼻閉がひどくなり,夜に鼻汁が多い」と答えた。

鼻副鼻腔単純X線写真検査(2方向)の結果,慢性副鼻腔炎と診断され,その他に異常所見なしと診断された。

(イ) 亡Aは,平成9年1月8日,E歯科医院を受診し,左下7番の虫歯治療を希望し,F医師は,Inを除去して4/5冠を形成印象し,右下567Brと左上2番の咬合調整を行った。

(ウ) 亡Aは,同月13日,B病院において鼻のCT検査を受け,右上顎洞内の一箇所に高度陰影塊がみられた。主治医は,同年3月6日に右鼻内手術を予定した。

(エ) 亡Aは,同年1月14日,E歯科医院に通院した。F医師は,左下7番に4/5冠を装着し,治癒に至ったと診断した。

(オ) 亡Aは,同月23日,B病院に通院し,右頬部の痛みが強いので早く手術をしてほしいと訴えた。同日,鼻腔内所見は異常なしとされた。

(カ) 亡Aは,同月27日,B病院に通院し,右頬部痛の増強を訴えた。主治医は,同日の同病院の診療録に,腫瘍の疑いありと記載している。

(キ) 亡Aは,同月29日,B病院に通院し,疼痛を訴えた。穿刺の結果では,膿汁(-)であったことから,主治医は,前同様に腫瘍の疑いありとした。

(ク) 亡Aは,同年2月3日,B病院に通院し,主治医から,腫瘍の可能性があるとの説明を受けた。

(ケ) 亡Aは,同月4日,B病院に通院し,骨シンチ検査(骨シンチグラフィ検査のことで,放射線同位元素であるヒドロキシメチレンジホスホン酸テクネチウムを用いて悪性腫瘍の骨転移の検出に利用される検査)を受けた。その結果,右篩骨洞,右鼻腔,右上顎洞に広汎に集積増加がみられ,特に右篩骨洞の活性が増加していた。

上記結果により,B病院の放射線科医は,右上顎癌疑,侵襲性副鼻腔炎の可能性があると診断した。

(コ) 亡Aは,同月10日,B病院に通院し,ガリウム・シンチ検査(67Ga-クエン酸という物質が悪性腫瘍に集積する性質を利用した検査)を受け,右上顎洞から右鼻腔にかけて不整不均一な中等度の集積増加がみられた。集積は特に上顎洞下外側部分に高度であり,右上顎癌の疑いが考えられるとされた。

(サ) 亡Aは,同月14日,同病院に入院した。その際,亡Aは,看護師に対し,現病歴について,慢性副鼻腔炎だったが仕事が忙しく放置していた,被告医院で大したことがないと説明されていたが,平成8年12月から右頬の痛み・腫脹が出現した旨話した。

(シ) 亡Aは,平成9年2月18日,全身麻酔下で,右上顎洞試験開洞術(右プローぺ鼻根)・生検手術,右浅側頭動脈カニュレーションを受けた。

手術所見で右上顎洞前壁,外側に骨欠損が認められ,上顎洞内に腫瘍が存在した。

病理組織所見で上顎洞内壁,前壁のいずれの標本にも扁平上皮癌(中ないし高分化型)の増殖が認められると診断された。

(ス) 同年4月21日に亡Aから採取した右上顎洞壁の組織診断では,右上顎洞後壁の一部から生きた扁平上皮癌の成分が確認されているが,右上顎洞上壁からは,フィブリン沈着と炎症性細胞浸潤を伴った粘膜組織が認められたのみであり,上顎洞内側壁については,「角化物とこれに反応した異物型巨細胞」が観察され,癌細胞は認められなかった。

(セ) 亡Aは,同年5月20日,同病院において,右上顎亜全摘術を受けた。なお,同手術記録には,「眼窩底には異常なし」と記載されている。

同日に亡Aから採取した組織の診断では,右上顎洞眼窩下壁から扁平上皮癌の浸潤増殖像が確認された。

(ソ) 亡Aは,眼の周辺に癌が転移したことが判明したため,同年7月25日,C大学医学部附属病院に転院し,同年8月27日,同病院において,開頭手術を受けた。

(タ) 亡Aは,同年11月11日,B病院に転院したが,同年12月14日,右上顎癌に基づく癌悪液質により死亡した。

(3) 仙台地方裁判所は,平成11年7月27日,被告医院において,証拠保全により証拠調(検証)を実施した。

その際,被告が「被告が保管している書類の一切」として裁判所に提示した書類の中には,被告医院の診療録もあったが,診療情報提供書は含まれていなかった。

(4) 原告は,平成12年6月7日,本件訴えを提起した。

(5) 被告は,平成13年5月31日の第3回弁論準備期日に,はじめて診療情報提供書(乙14。以下「本件診療情報提供書」という。)を提出した。

(6) 被告医院には,X線CT(コンピュータ断層撮影)検査,MRI(磁気共鳴断層撮影)検査及び上顎洞の組織を採取し,組織学的検査を行う設備が整っていなかった。

2  争点(1)について

(1) 転医勧告義務の有無及び時期について判断する。

ア 被告のような開業医の役割は,風邪,鼻炎などの比較的軽度の病気の治療に当たるとともに,患者に重大な病気の可能性がある場合には,高度な医療を施すことのできる診療機関に転医させることにあるのであって,開業医は,通院を継続している患者につき,上記診療機関に転医させるべき疑いのある徴候を見落としてはならず,このような徴候を認めた場合には,患者が必要な検査,治療を速やかに受けることができるように相応の配慮をすべき義務があるというべきである(最高裁判所平成9年2月25日第3小法廷判決・民集51巻2号502頁参照)。

とりわけ,自院において,このような検査をすべき設備が整っていない場合には,速やかに,これらの設備が整い,高度な医療を施すことができる診療機関に転医させて,必要な検査と治療を受けさせるべく,患者に対しては,転医の必要性につき十分な理解が得られるように,可能性のある病気の概要とその重大性について具体的に説明し,また,転医先に対しては,患者に紹介状を持たせるなどにより,それまでの患者の症状と治療経過の概要及び患者に重大な病気の可能性があると判断する根拠を知り得るようにして,速やかな転医による適切な検査とこれによる正確な診断を得て効果的な治療を受ける時期を失しないように配慮すべき注意義務があるというべきである。

イ これを本件についてみるに,証拠(鑑定)によれば,次のとおり認められる。

(ア) 平成8年5月29日の診察時に,亡Aは,「右鼻閉が強い」と訴えているが,この右鼻閉を来す原因の所見はなく,他覚的所見として膿性鼻汁があったが,抗生剤,蛋白分解酵素剤,鼻粘膜収縮剤の投与によって症状が軽快しており,この時点で上顎癌を疑う所見は認められない。

(イ) 同年7月15日の時点で,臨床的に上顎癌を疑わなければならない自覚的症状,他覚的症状,理学的所見は認められない。診察録(乙1)には,頭痛(-),膿性鼻汁,感冒(+++)と記載されており,鼻副鼻腔X線写真が撮影されているが,上顎癌を疑わせる洞壁の骨破壊は明瞭でない。上顎洞内の内側上部に異常陰影が認められるが,上顎癌と直接因果関係はない。

(ウ) 同年11月12日及び同月22日の診察時,耳鼻咽喉ファイバースコープ検査で,右中鼻道に易出血性の腫瘤を認め,右副鼻腔単純X線写真では,右副鼻腔側壁(上顎洞内側壁)の不明瞭,上顎洞天蓋骨の膨張性骨破壊を示唆する所見が認められる。この所見から上顎癌を疑わなければならないかは疑問であるが,ファイバースコープ検査,X線写真から,慢性副鼻腔炎以外の他の上顎洞病変を疑わせる所見が認められ,上顎癌を疑うか,否定するための追加検査を行う必要があった。

以上の点に前示1(2)の事実を考え併せると,同月12日,遅くとも同月22日の時点で,亡Aには,上顎癌を含めた上顎洞病変の存否を確定診断するため,CT検査,MRI検査,組織学的検査等の精密検査を行う必要が認められ,被告は,自らこれらの検査をする設備が整っていなかったのであるから,上記時期に,亡Aに対し,上記検査等を受けさせるべく必要な医療機器を備えた医療機関に転医を勧告すべき義務があったものというべきである。

ウ 原告は,これに対して,亡Aには,次のとおり,同月より前の時点で上顎癌を示唆する多様な症状,所見があったと主張する。

(ア) 亡Aの鼻漏・鼻閉の症状の経過は,平成3年11月8日の初診時以降,一時軽快することはあっても,完治せず継続し,平成8年2月以降は概して悪化の一途を辿り,特に同年10月ころからは急激にひどくなった。

(イ) 亡Aの鼻漏・鼻閉等の症状は,遅くとも同年2月以降は右側性の症状が強く,亡Aは同年5月29日の診察時に被告にその旨を告げ,それ以降,被告は,亡Aの鼻漏・鼻閉の症状が右側性のものであることを十分認識していた。

(ウ) 同月ころからは,亡Aに原因不明の右歯痛の症状が発現し,被告は,遅くとも同年7月15日には,この事実を知った。

エ しかしながら,証拠(乙1,5の1。なお,本件訴えの提起前に証拠保全としての証拠調(検証)が実施され,被告医院の診療録はその際被告から提示されたものであるところ,被告が上記証拠保全以前に亡Aの上顎癌による死亡の事実を知ったと認めるに足りる証拠はない。これによれば,被告には,被告医院の診療録の改ざんの動機や機会に乏しかったというべきであり,他にその改ざんを疑わせる具体的な事情は認められないから,被告医院の診療録について被告による改ざんの疑いがあるとは認め難い。)によれば,亡Aの同年2月7日以降合計11回の被告医院への通院のうち,受診時に亡Aが訴えていた鼻症状は,「右鼻閉が強い」が同年5月29日,「両側鼻閉が強い」が同年9月28日,「左鼻閉が強い」が同年11月12日であり,それ以外の日は両側の軽度の鼻閉であったことが認められる。更に,亡Aが,1(2)エ(ア)のように,B病院における問診の際,同年10月ころより鼻閉がひどくなったと述べていること等からすれば,亡Aの鼻漏・鼻閉の症状は,同年2月以降同年10月ころまで,一進一退であったとみることができるのであり,次第に悪化の一途を辿っていったというウ(ア)の原告の主張はにわかに採用し難い。

また,上記被告医院の診療録の同年9月28日の欄には単に「鼻閉強」として両側の鼻閉を指す記載があり,同年11月12日の欄には「左鼻閉強い」と記載されていることに照らせば,同年2月以降の亡Aの鼻漏・鼻閉等の症状が右側性のものであったというウ(イ)の原告の主張は採用できない。

なお,原告は,被告医院の診療録の上記記載につき改ざん又は書き漏らし(同年11月12日については「右」の誤記)の可能性を指摘するが,証拠保全の経過に照らして,その時点で存在した記載が,改ざんされたものであることを疑わせる根拠に乏しく,これが被告の書き漏らしや誤記と認めるに足りる証拠もない。

さらに,被告医院の診療録には,亡Aが,被告に対し,歯痛がある又は歯科医院に通院中であると述べた旨の記載はなく,ほかに,亡Aが被告に対し右歯痛の症状を訴えたと認めるに足りる証拠はないから,ウ(ウ)の原告の主張は採用できない(1(2)エ(ア)のように,亡Aは,平成9年1月6日にB病院耳鼻科に通院した際記入した問診票にも,歯痛やE歯科医院に通院していた事実を記載しておらず,B病院耳鼻科に通院中の同月8日,同月14日E歯科医院に通院して治療を受けているにもかかわらず,亡Aがその間同病院の担当医に歯痛を訴えた形跡がないことに徴すれば,当時,亡Aは歯痛を鼻の症状と関係があるものとは考えていなかった疑いが強い。)。

オ 被告は,次の理由を掲げて,平成8年11月12日及び同月22日の診察時に慢性副鼻腔炎以外の他の上顎洞病変を疑う所見があったとの鑑定の見解を争う。

(ア) 同月12日の右副鼻腔単純X線写真では,右鼻腔側壁(上顎洞内側壁)の不明瞭,上顎洞天蓋骨の膨張性骨破壊を示唆する所見が認められるとされる点について

a 複数の耳鼻咽喉科専門医に右副鼻腔単純X線写真を読影してもらったところ,右鼻腔側壁(上顎洞内側壁)の不明瞭,上顎洞天蓋骨の膨張性骨破壊を示唆する異常所見は認められないということであったし,同年2月7日と同年7月15日に撮影された右副鼻腔単純X線検査と比較しても,右側上顎洞周囲の骨組織の変化はないように思われるとのことであった。

b 鼻副鼻腔単純X線写真(特にウォータース法)を撮影する際には,例えば,上顎洞天蓋骨の骨組織が厚かったり発育のよい篩骨洞(又は篩骨蜂巣ともいう。)や蝶形骨洞がある場合には,それらが上顎洞内側上部に重なって写る等するので,正常な上顎洞の所見を診断する場合でも注意が必要であり,特に上顎洞炎の陰影所見と重複している場合には,慎重に診断しなければならないところ,これを踏まえて読影すると,右鼻腔側壁(上顎洞内側壁)の不明瞭,上顎洞天蓋骨の膨張性骨破壊を示唆する所見を認めることは困難である。

c 平成9年1月6日にB病院耳鼻科において撮影された鼻副鼻腔単純X線写真(2方向)の所見でも慢性副鼻腔炎以外に異常所見なしと診断されている。

d 鑑定の理由中には,同月13日のCTで上顎洞の膨張性骨破壊を示唆する画像所見があったと指摘するが,B病院の主治医は,同日のCTでは,右上顎洞の一箇所に認められる高度陰影塊を膿と判断している。

e 同年4月21日に亡Aから採取した右上顎洞上壁の組織診断では,フィブリン沈着と炎症性細胞浸潤を伴った粘膜組織が認められたのみで,癌細胞は認められなかった。また,B病院における上顎癌の手術記録には,「眼窩底には異常なし」と記載されている。

(イ) 右中鼻道に認められた易出血性の腫瘤について

次の事実は,右中鼻道に認められた易出血性の腫瘤が上顎癌と何らの関係もなかったことの証左である。

a B病院耳鼻科診療録によると,鼻腔内所見は異常なしとされており,同病院初診時の同年1月6日には上記腫瘤は既に消失していた。

b 同年4月21日に亡Aから採取した右上顎洞内側壁(この易出血性の腫瘤病変に接する部分)には,「角化物とこれに反応した異物型巨細胞」が観察され,癌細胞は認められなかった。

カ しかしながら,次のとおり,被告の主張は,鑑定の結果を覆すに足りるものとはいえない。

(ア) オ(ア)aについては,被告の主張事実を認めるに足りる証拠がない。

オ(ア)bについて,鼻副鼻腔単純X線写真を撮影し,上顎洞の所見を診断するに当たっては,被告の主張するように慎重に行うべきであるとしても,本件において,被告が主張するような上顎洞天蓋骨の骨組織が厚い等の事情が具体的に窺われるわけではなく,そのことから直ちに前記の所見が認められるとするのを否定する根拠とすることはできない。

オ(ア)cについて,B病院の医師が,同年1月6日に撮影された鼻副鼻腔単純X線写真(2方向)の所見から慢性副鼻腔炎と診断し,その他に異常所見なしと判断したからといって,そのことから直ちに鑑定の信用性を左右するものとはいえない。

オ(ア)dについて,証拠(甲17)によっても,B病院の医師が右上顎洞内の一箇所にある高度陰影塊を膿と判断したのかどうか判然としないのみならず,仮にそうとしても,その判断が正しいものとは速断し難い。

オ(ア)eについて,鑑定の結果では,平成8年11月12日の右副鼻腔単純X線写真において,右鼻腔側壁(上顎洞内側壁)の不明瞭が認められるという点等も掲げられているのであって,被告主張の部位についての組織診断や手術記録のみでは,鑑定に掲げる根拠を覆すに十分とはいえない。

(イ) オ(イ)aについて,鼻腔内所見は異常なしとの診療録の記載のみでは,いかなる方法で検分したかも不明であるから,右中鼻道に認められた易出血性の腫瘤が平成9年1月6日当時には既に消失していたとは即断できない。

オ(イ)bについて,同事実だけでは右鼻中道に認められた易出血性の腫瘤と上顎癌との関係を否定する根拠として十分とはいえない。

(2) 平成8年11月12日,遅くとも同月22日の時点又はそれ以前に,被告が,亡Aに対し,転医勧告義務を果たしたかどうかについて判断する。

ア 被告が尽くすべきであった転医勧告義務の内容は,前示2(1)アのとおりである。

イ 本件において,被告の亡Aに対する転医の勧告があったかどうか問題になっているのは,同年7月15日,同年11月12日,同月22日の3回の診察時である。

ウ この点に関する被告の主張

被告は,亡Aに対し,次のとおり,B病院への転医を勧めた。

(ア) 同年7月15日,亡Aが訴えた喉のイガイガ感(咽喉頭異常感症)は,後鼻漏によるものと考えられたが,腫瘍の可能性も全くは否定できないため,亡Aに対し,これを説明して,慢性副鼻腔炎の検査と手術のため,B病院への転医を強く勧め,本件診療情報提供書を渡そうとしたが,亡Aはその受け取りを拒否した。

(イ) 同年11月12日,右鼻腔中鼻道内に鼻葺に近い腫瘍らしきものができていたことから,亡Aに対し,転医を強く勧め,同月22日にもほぼ同様の所見であったことから,B病院への転医を強く勧めた。

亡Aは,これらの勧告を拒否し,鼻づまりがひどくなり,右頬腫脹を自覚するようになった平成9年1月6日までB病院に転医しなかった。

エ しかしながら,証拠保全の際,被告が保管している書類の一切として裁判所に提示した書類の中には,本件診療情報提供書が含まれておらず,被告は,本件診療情報提供書を本件訴え提起から約1年後に当裁判所に提出したものであることは前示のとおりである。被告は,本件診療情報提供書の保管状況や証拠保全の際に提示できなかった事情について縷々主張するけれども,仮に証拠保全の際に提示できなかったとしても,転医勧告の有無は本件訴え提起当初から争点となっていたところ,それにもかかわらず,本件診療情報提供書が本件訴え提起から約1年後まで提出されなかったことの首肯できる説明はされないし,亡Aは,平成8年10月7日から同月14日までの間にB病院の循環器科に入院しているところ,同年7月15日に悪性腫瘍(下咽頭癌等)の可能性の説明を受けB病院への転医を勧められたのであれば,同期間中,その説明を思い出し,B病院の耳鼻科を受診してしかるべきであるのに,受診していないことに照らせば,本件診療情報提供書は被告が転医を勧めた裏付けとなるものとはいえず(なお,その内容自体本件における転医勧告義務に副ったものとはいえない。),ウ(ア)に沿う被告本人の供述はにわかに採用できず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。

オ 被告が,亡Aに対し,同年11月12日及び同月22日,転医を勧めたことが認められることは前示のとおりである。

しかしながら,1(2)エ(サ)のとおり,亡AがB病院で被告医院で大したことはないと説明されたと述べていること,1(2)ウ(ニ)のとおり,亡Aが医学には全くの素人である原告から右上顎癌の疑いを指摘されたときには素直にB病院に受診していることからすれば,被告が,亡Aに対し,悪性腫瘍等の重大な疾病の可能性もあることを説明して転医を勧告したのであれば,亡Aは速やかにB病院を受診して必要な検査を受けたであろうと思われるところ,これをしていないことに徴すれば,被告はそこまでの説明をしなかった疑いが強いのであって,亡Aに対して,転医の必要性につき十分な理解が得られるように,可能性のある慢性副鼻腔炎以外の疾患の概要とその重大性について具体的に説明したとは認められない。さらに,亡Aに紹介状を持たせるなどにより,転医先に対して,それまでの亡Aの症状と治療経過の概要及び亡Aに慢性副鼻腔炎以外の重大な疾患の可能性があると判断する根拠を知り得るような措置をとった形跡もないのであって,速やかな転医による適切な検査とこれによる正確な診断を得て効果的な治療を受ける時期を失しないように配慮すべき注意義務を尽くしたとは認め難い。

これによれば,被告は,亡Aに対し,転医を勧告すべき義務を果たしたということはできない。

カ 以上によれば,同月12日,遅くとも同月22日の時点で,被告には,亡Aに対し,転医勧告義務を怠った過失があるというべきである。

3  争点(2)について

(1) 1(2)の事実に,証拠(鑑定)を総合すると,平成8年11月12日,遅くとも同月22日の時点において,B病院等精密検査に必要な医療機器を備えた医療機関を受診したとすれば,早期に根治治療(動注化学療法,放射線療法,上顎癌手術を組み合わせた三者併用療法)に着手できた可能性があること,もっとも,速やかに上顎癌の診断を受けてその適切な治療を受けたとしても,その時点においては亡Aの上顎癌が臨床病期Ⅲ期に進行していた可能性があること,その場合,5年生存率は約60パーセントに低下することが認められる。

上記事実に徴すれば,被告が,亡Aに対し,同日の時点において,上記転医勧告義務を果たしたならば,亡Aがその死亡の時点においてなお生存していたであろうことを是認し得る高度の蓋然性があるというのは無理であり,他にこの事実を認めるに足りる証拠はないから,被告が,亡Aに対し,同月12日,遅くとも同月22日の時点において,転医勧告義務を怠ったことと亡Aの死亡との因果関係を肯認することはできない。

(2) もっとも,本件では,(1)で認定したとおり,平成8年11月の時点で亡Aは5年生存率が60パーセント程度は存したのであり,被告が亡Aに対し適切な転医勧告をしていたならば,亡Aがその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性があったというべきであるから,被告は,民法709条に基づき亡Aが上記可能性を侵害されたことにより被った損害を賠償すべき責任を負うものと解するのが相当である(最高裁判所平成12年9月22日第2小法廷判決・民集54巻7号2574頁参照)。

(3) 被告は,B病院では,鼻副鼻腔単純X線写真検査(2方向)及びCT検査をしても,右頬部痛の訴えが続くまで腫瘍を疑うことができなかったのであるから,平成8年11月22日の時点でB病院へ転医させたとしても,右頬部痛の訴えが続いた平成9年1月27日の時点に至るまで腫瘍を疑うことはできず,上顎癌との確定診断もやはり同年2月18日ころまで不可能であったものであり,そしてそのころには亡Aの救命が不可能であったと主張する。

しかしながら,亡Aは,当時,被告からの紹介状もなく,原告から勧められてB病院耳鼻科を受診したもので,それまでの被告医院における診療経過,症状の推移の正確な情報を欠いていたため,B病院では,亡Aについて上顎癌等の重大な疾患という疑いを抱くに至らなかった疑いが払拭し切れない。

仮に,亡Aが被告から慢性副鼻腔炎以外の重大な疾患の可能性があることの説明を受け,それまでの亡Aの症状と治療経過の概要及び上記重大な疾患の可能性をあると判断する根拠を記した被告の紹介状を持参してB病院を受診し,担当医に同様の説明をしていたならば,速やかに,上顎癌等の重篤な鼻の疾患に着目した精密検査が行われ,被告主張のように時間がかかることなく適切な診断を得て根治治療に着手でき,亡Aがその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性は否定できない。

してみれば,被告の上記主張はにわかに採用できない。

(4) 以上によれば,被告が,亡Aに対し,平成8年11月12日,遅くとも同月22日の時点で,転医勧告義務を怠ったことと亡Aの死亡との因果関係は認めることができないけれども,亡Aがその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性を侵害されたことにより被った損害との因果関係は認められるというべきである。

4  争点(3)について

(1) 亡Aの精神的苦痛に対する慰謝料

亡Aが被告の過失により,その死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性を侵害されたことによって大きな精神的苦痛を被ったことは,容易に推認し得るところ,被告の過失内容,亡Aの死因となった疾病と症状経過及びその生存率その他本件口頭弁論に顕れた諸般の事情を総合考慮すると,この苦痛に対しては500万円をもって慰謝するのが相当と認める。

この損害賠償債権を原告が単独相続したことは前示のとおりである。

(2) 他方,被告が転医勧告義務を怠ったことと亡Aの死亡との因果関係を認定し難いことは前示のとおりであるから,原告が主張する逸失利益,死亡慰謝料,原告固有の慰謝料を認めることはできない。

被告の責任原因を債務不履行としても,この点に変わりはない。

(3) 弁護士費用

弁論の全趣旨によれば,原告は,被告が任意支払に応じないため,やむなく本訴の提起追行を弁護士である原告訴訟代理人に委任したことが認められる。本件訴訟の事案の内容,訴訟経過,認容額等を考慮すれば,本件の医療事故と相当因果関係のある弁護士費用としては50万円と認めるのが相当である。

5  むすび

以上の次第であるから,原告の請求は,被告に対し,不法行為による損害賠償として4(1)及び(3)の合計550万円及びこれに対する不法行為の日の後である平成9年12月14日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるので認容し,その余を棄却することとし,仮執行免脱宣言の申立てについては相当でないので却下することとして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 信濃孝一 裁判官 岡田伸太 裁判官 佐藤久貴)

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