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仙台地方裁判所 平成13年(わ)652号 判決 2002年4月24日

主文

被告人を懲役3年に処する。

この裁判が確定した日から5年間その刑の執行を猶予する。

被告人をその猶予の期間中保護観察に付する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は,平成9年12月1日,Aと婚姻し,宮城県a郡b町c番地で,A,その父母及び祖父と同居して円満に暮らし,平成13年9月25日,第一子である長男Bを出産した。ところが,Bが寝付きが悪く,ぐずったり夜泣きをしたりすることが多かったことから,被告人は,これを苦痛に感じながらも,Bがぐずれば落ち着くまで抱いてあやすなどの努力を毎日続け,義母らからアドバイスを受けるなどしたが,被告人が抱いてもBが容易に泣きやまない状況は続いた。被告人は,一方ではこのようにBを一生懸命世話していたが,他方では,Aや義父母があやすとBが早く泣きやむように感じ,次第に母親としての自信を無くして情けない気持ちを募らすとともに,Aや義父母が被告人をだめな母親として非難する気持ちを抱いているのではないかと考え,同年10月後半には,気持ちも落ち込み,Bの育児を重荷に思い,このようなつらく情けない思いをするくらいならいっそ自殺した方が楽ではないかと思うようになった。被告人は,同年11月4日から実家に帰省したが,

実家でも被告人の両親が抱くとBがすぐに落ち着くのに,被告人がするとうまくいかないことから,死にたいという気持ちを抱いたまま,同月11日,被告人方へ戻り,その日のうちに,車ごと転落して自殺しようと考え一人で外出したものの,結局,死ぬことが恐ろしくなり,そのまま帰宅した。

被告人は,その後もどうしたら死ねるかなどと考えながら過ごしていたが,同月14日午前8時30分ころより後,家には痴呆気味の義祖父とBと被告人の3人だけとなったことから,自殺をするならこの時しかないと考え,包丁を持ち出して,その刃を手首に当てて自殺を試みたものの,強く切ることができなかった。

被告人は,手首の手当てをしながら,なぜ自分がこのように自殺を試みるほど悩み,つらい思いをしなければいけないのかと考えるうちに,「Bが生まれてきたから,こんなにつらい,情けない気持ちになった。Bがいるから母親失格だと思うような結果になった。」とBに対する憎しみの気持ちが湧いてきて,「いっそBがいなくなってしまえば,こんなつらい思いをすることもない。」と考え,自分が死にたいとの思いは消え失せ,Bを浴槽の残り湯に沈めて殺害することを決意するに至った。

(罪となるべき事実)

被告人は,上記のとおりBを殺害することを決意し,宮城県a郡b町c番地所在の被告人方居間で就寝中のB(当時生後50日)を抱いて被告人方風呂場まで運び,

平成13年11月14日午前10時ころ,同所において,同児に対し,殺意をもって,同児の身体をつかんでその全身を浴槽の水中に数回沈め,続いて同児を抱いて立ったまま手を離して同児を同所洗い場のタイル張りの床に落下させ,さらに,前同様に同児の全身を浴槽の水中に数回沈めて溺れさせるなどし,よって,そのころ,

同所において,同児を,溺水により窒息死させて殺害した。

(証拠の標目)省略

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法199条に該当するところ,所定刑中有期懲役刑を選択し,その所定刑期の範囲内で被告人を懲役3年に処し,情状により同法25条1項を適用してこの裁判が確定した日から5年間その刑の執行を猶予し,なお同法25条の2第1項前段を適用して被告人をその猶予の期間中保護観察に付し,訴訟費用については,刑事訴訟法181条1項本文により全部これを被告人に負担させることとする。

(弁護人の主張に対する判断)

1  弁護人は,被告人の本件犯行当時の精神状態につき,極度の育児ノイローゼにより,心神喪失か,少なくとも心神耗弱の状態にあった旨主張する。

2  しかしながら,被告人は,本件犯行を自認する捜査段階及び公判廷での各供述によれば,本件犯行に至る経緯や犯行当時の状況について,おおむね記憶を保持していることが認められる。これに加え,母親としての自信を喪失するなどの思いが高じて自殺を試みたものの死にきれず,この気持ちが転じて被害者さえいなくなればとの思いから殺意を生じた旨述べる犯行動機は合目的的で,十分に了解可能である。さらに,犯行当時の行動にも特段不自然な点はなく,当初被害者を浴槽に沈めても殺害に至らなかったことから,硬いタイル張りの床上に落とすなど合理的な別の行動も取り得ているのであって,これらの一連の犯行経過にも,責任能力に消長を来すほどの事情は特に見当たらない。

3  そして,捜査段階において被告人の簡易鑑定を行なった医師Cは,鑑定書及び当公判廷における証人尋問において,被告人の犯行当時の精神状態につき,心因性抑鬱の状態にあったが,是非善悪を弁識する能力及びその弁識に従って行動する能力ともに普通に保たれていたと思われる旨の診断結果を示しているところ,上記の診断結果は,母親による嬰児殺を含む多数の精神鑑定歴を有する医師が示した診断であり,診断にあたり前提とした資料に過不足な点はない上,被告人の鑑定時や公判廷での供述中に犯行の際やその後の状況に関し一部応答を欠いた部分がある点についても,犯行そのものを思い出したくないか思い出しても言葉に出したくないという抑制が働いているためであろうなどと合理的な説明をなし得ており,診断の信用性を疑うべき点は特に見当たらないし,上記2で指摘した事実に照らしても,相当な診断であると認めることができる。

4  以上からすれば,被告人は,本件犯行当時,事理を弁識しこれに従って行動する能力を無くし,あるいはこれを著しく欠くような状態にはなかったものと認めるのが相当であるから,弁護人の上記主張は理由がない。

(量刑の理由)

本件は,被告人が,生後50日の自分の長男を,自宅の浴槽で溺れさせるなどして死亡させた殺人の事案である。

本件犯行の動機は,夜泣きやぐずりの多い被害者をうまくあやせないことに思い悩み,周囲が自分を非難する気持ちを抱いているのではないかとも考え,いわゆる育児ノイローゼに陥った被告人が,被害者さえいなくなれば自分はつらい思いをしなくて済むと考え,幼いわが子を殺害することを決意したものであって,それまで周囲から一定の理解と協力を得られ,励ましも受けていたにもかかわらず,悩みを心底から打ち明けて方途を探るまでのことはせず,本来子供を守り育てるべき立場にある親としての責務を安易に放棄して自分の平穏を選んだもので,あまりに自己中心的かつ短絡的であって,酌量の余地に乏しいといわざるを得ない。

その態様も,犯行を決意するや,確定的殺意をもって,寝入っている被害者を浴槽の水へ入れ,途中で目を覚ました被害者と目が合ったものの,そのまま被害者を水の底まで沈め,もう死んだものと思って引き上げる度に被害者が必死で泣き声を上げることがあったにもかかわらず,犯意を喪失することなく,かえって確実に死なせるべく,被害者をタイルの床上に落とし,さらに,既に泣くことも動くこともなくなった被害者を重ねて水中に沈めて殺害したものであって,非情かつ執拗である。

そして,死亡の結果はこの上なく重大である。被害者は家族や周囲の人々に祝福されてこの世に生を受け,健康にも問題がなく順調に生育していたものであって,ぐずりや夜泣きは多少の差こそあれ乳児にとっては当然なことであるのに,それを疎まれ,最大の保護を与えてくれるはずの母親の手によって,抵抗するすべもないまま,50日間の短い命を絶たれ,将来のあらゆる可能性を奪われたのであり,その後に味わい得たであろう幾春秋を想うと,その死は誠に哀れというほかはない。

以上からすれば,被告人の刑事責任は重く,実刑を選択することも十分に考慮されるべきである。

しかしながら,他方,本件は,上記の経緯から初めての育児に悩んだ被告人が,母親としての自信を失い,心因反応性の抑鬱状態に陥って自殺念慮に支配され,犯行直前にも自殺を試みたものの,容易にこれを果たせないことから,とっさに犯意を生じてそのまま犯行に及んだ,いわば衝動的な犯行であること,被告人は,それまでの間,被害者が容易に泣きやまないことについては,夫や義母らからのアドバイスも受け,保健婦や医師へも相談し,犯行の数日前にも実母や夫に育児への不安な気持ちを伝えるなど,内気で口数の少ない被告人なりに状況を改善しようと努力していた側面もあるのであり,また,本件以前には,自責の念を抱きこそすれ,被害者を憎んだりつらく当たるようなことは一切なく,被害者を一生懸命世話していたこと,本件の上記のような重大な結果は,今後,被告人自身が誰よりもこれを受け止めて逃れ得ないものであること,しかるところ,被告人は,本件犯行を素直に供述するとともに,被告人なりにその重大性を自覚して反省と後悔の念を深めており,被害者の冥福を祈るとともに,今後は一人で問題を抱えることなく周囲の人々に相談し,カウンセリングを受けるなどして過ちを繰り返さない旨を誓っていること,被害者の遺族でもある被告人の夫をはじめ,義父母や実母ら親族が,証人として,あるいは供述調書において,いずれも,被害者の死に深い悲しみを感じながらも,事件の当初から被告人を宥恕し,今後も被告人を従前どおり受け入れ,更生を支援することを約束していること,本件による身柄拘束期間も約5か月と相当長期に及んでいること,被告人には何らの前科前歴もなく,これまで稼働先でも家庭内でもまじめに過ごして周囲の信頼を得ていたことなど,被告人にとって酌むべき事情も認められる。

そこで,以上の事情を総合考慮すると,被告人を主文の刑に処するが,直ちにその刑の執行を受けさせるよりは,法定の最長期をもってその刑の執行を猶予して,その期間中保護観察に付し,社会内で専門家の指導の下,さらに内省を深めさせると共に更生を図らせるのが相当であると判断した。

よって,主文のとおり判決する。

(求刑―懲役5年)

(裁判長裁判官 佐々木直人 裁判官 畑中芳子 裁判官 目黒大輔)

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