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仙台地方裁判所 平成14年(ワ)1054号 判決 2008年5月27日

主文

1  被告は,原告Aに対し,4000万円及びこれに対する平成12年10月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  被告は,原告Bに対し,500万円及びこれに対する平成12年10月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

3  被告は,原告Cに対し,500万円及びこれに対する平成12年10月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

4  訴訟費用は,被告の負担とする。

5  この判決は,第1項ないし第3項に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1当事者の求める裁判

1  請求の趣旨

(1)  主文第1項ないし第3項同旨

(2)  仮執行宣言

2  請求の趣旨に対する答弁

(1)  原告らの請求をいずれも棄却する。

(2)  訴訟費用は,原告らの負担とする。

(3)  仮執行免脱宣言

第2事案の概要

1  本件は,原告らが,被告に対し,平成12年10月31日,被告が,腹痛を訴えてDクリニックを受診した原告Aに対し,点滴ボトルの下にある三方活栓から筋弛緩剤であるマスキュラックスを原告Aの身体に故意に注入して原告Aを呼吸困難に至らしめるという不法行為(以下「本件不法行為」という。)を実行し,その結果,原告Aが無酸素脳症となり現在も意識が戻らず重篤な後遺障害のため植物状態にあると主張し,民法709条,710条に基づき,原告Aにおいて慰謝料4000万円,原告Aの父である原告B及び母である原告Cにおいて慰謝料各500万円並びに上記各金員に対する本件不法行為時である平成12年10月31日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払をそれぞれ求める事案である。

2  前提事実(証拠等を掲げたもののほかは,当事者間に争いがない。)

(1)  当事者等

ア 原告Bは原告Aの父親であり,原告Cは原告Aの母親である。

イ 被告は,平成11年2月から平成12年12月まで,訴外医療法人社団Eが設置管理していた診療所であるDクリニックにおいて,准看護師として勤務していた者である。

(2)  事実経過等

ア 平成12年10月31日午後,原告Aは,腹痛,おう吐の症状を訴えて,Dクリニックを受診した。

イ 原告Aは,同日,Dクリニック内において,容体を急変させて,心肺停止状態に陥り,仙台市立病院(以下「市立病院」という。)に救急搬送され,同病院に入院した。

ウ 原告Aは,市立病院に入院後に蘇生措置により心拍が再開し,その後の集中治療により自発呼吸が回復したものの,無酸素性脳症による四肢体幹運動機能障害及び知能障害等の後遺障害を被った(甲2,3,48)。

エ 原告Aは,現在でもなお意識が戻らず,寝たきりの状態が継続している。

3  争点

(1)  被告の責任原因(被告の原告Aに対する本件不法行為の成否)

ア 原告Aの急変原因ないし現在の症状の原因は,マスキュラックスの投与によるものか。

イ 原告Aに対し,故意にマスキュラックスを投与した者は,被告であるか。

(2)  原告らの損害(原告らの損害の有無及び範囲)

4  争点に関する当事者の主張

(1)  争点(1)ア(原告Aの急変原因ないし現在の症状の原因は,マスキュラックスの投与によるものか。)について

(原告らの主張)

ア 原告Aの血清,尿からベクロニウムが検出されたこと

(ア) 原告Aは,平成12年10月31日,Dクリニックに入院することとなった後,容体を急変させ,市立病院に搬送された。市立病院の医師らは,同日,原告Aから2回血液を採取し,このうち2回目に採取した血液の一部を保存用として2本のスピッツに入れ,同病院の臨床検査技師が,上記スピッツを遠心分離機にかけて血清のみを取り出し,別のスピッツ2本に入れ,冷凍保存した。

また,同年11月17日,市立病院の医師は,原告Aの尿を採取しておく必要を感じ,看護師が,入院中の原告Aから尿を採取してスピッツに入れ,冷凍保存をした。

宮城県警察本部の警察官は,上記血清及び尿を領置し,大阪府警察本部刑事部科学捜査研究所(以下「大阪府警科捜研」という。)に対し,上記血清及び尿について,ベクロニウムの含有の有無等の鑑定を依頼した。

大阪府警科捜研技術吏員F及び同G(以下F及びGを併せて「Fら」という。)による鑑定(以下,Fらによる上記鑑定(甲8)を「本件鑑定」といい,本件鑑定の結果を記載した鑑定書を「本件鑑定書」という。)の結果,マスキュラックスの含有成分である臭化ベクロニウムが,原告Aの血清からは1ミリリットル当たり25.9ナノグラム(ng/ml),尿からは20.8ナノグラム検出された。

(イ) 本件鑑定において利用された機材は全て新品のものが使われ,また,鑑定資料の分析前には必ずブランクテストが行われたため,分析装置がベクロニウム等の異物に汚染されていた可能性はない。仮にカラムの中に異物が残留していたとしても,標品と同じ保持時間で左右対称のピークが得られることはあり得ず,カラムの汚染を疑わせる結果は出なかった。

また,本件鑑定は,Gと重要な鑑定作業についてはクロスチェックを行うなどして相互の作業を把握していたのであるから,複数の鑑定資料が取り違えられたこともなかった。

(ウ)a 本件鑑定の手法は,鑑定事項等に基づく鑑定資料の分析目的に照らしていずれも適切妥当なものであり,鑑定人の知見及び適格性にも問題はなく,鑑定過程にもその正確性,信用性に疑問を抱かせるものはなく,その鑑定の結果については,信用性を肯定することができる。

b 液体クロマトグラフィー/質量分析/質量分析(以下「LC/MS/MS」という。)においては,分析条件が変わればプロダクトイオンの種類,発現時間は異なってくるのであるから,分析条件にかかわらず,ベクロニウムの質量電荷比が1価の場合にはm/z557,2価となった場合にはm/z279のイオンが検出されるということにはならない。

c ベクロニウムは,生体内で3-デスアセチルベクロニウムに代謝され,毒性が長期にわたって発現するものと考えられる。したがって,ベクロニウムのみがそのまま検出されるのではなく,代謝物の存在を知ることによって母化合物の投与が確認できる。

Fは,本件鑑定書や証言において,ベクロニウムそのものが検出されたとして誤解を招いている。しかし,実際の分析データを見ると,ベクロニウム以外の毒薬物からは決して生じることのない,ベクロニウムの代謝物である3-デスアセチルベクロニウムが検出されているから,資料血液や尿から母薬毒物であるベクロニウムの存在を間接的に証明したことになり,原血液及び尿中にベクロニウムが存在するとした本件鑑定の結論に誤りはない。

(エ) 原告Aは,同年10月31日にDクリニックに入院し,同日,市立病院に転院したが,鑑定資料である尿を採取した同年11月7日までの間,上記両医療機関において,治療目的でマスキュラックスが使用された事実がなかったことからすると,前記のように原告Aの血清と尿から臭化ベクロニウムが検出されたことは,マスキュラックスが治療目的以外の目的で,原告Aに投与されたことを意味する。

イ 原告Aの急変原因について

(ア) 原告Aの急変原因は,その症状経過及び以下の事実を総合すると,その体内に筋弛緩剤が注入されたこととして説明づけが可能である(厳密には,マスキュラックスの直接的な作用,マスキュラックス投与による二次的な作用である低酸素血症・高炭酸ガス血症の作用が混在している。)。

a 原告Aが「物が二重に見える。」,「口がききにくなってきた。」などと発言したことは,マスキュラックスが投与された場合の症状と符合する。また,原告Aが「何か飲みたい。」と訴えたのは,マスキュラックスが口が渇くという作用をもたらすことはないので,マスキュラックスの直接的な作用ではないが,のどの中に違和感を感じ,それが何か飲みたいという表現につながったと考えられ,マスキュラックス投与による症状経過と矛盾するものではない。

b 診療録の「C-L低下,Ⅲ-300」との記載部分に関しては,この時点で原告Aに意識があったとしても外部に訴えることができない状態であったと考えられるし,完全に呼吸が止まらなくても,あるいは多少体が動かせるような状態であっても二次的な効果によって意識がなくなってしまう可能性もあり,いずれにしても,上記診療録の記載は,マスキュラックスが投与された場合の症状とは矛盾しない。

c 診療録「自発R↓」との記載部分が存する点は,原告Aの1回の換気量が低下したと解釈すれば,マスキュラックスが投与された場合の症状と符合する。

d 原告Aの全身のうち,明らかに左半身に強いけいれん及びぴくつきが認められた点に関しては,この時点で原告Aの1回換気量が低下しているにもかかわらず酸素が投与されていないことから,低酸素血症がかなり進み,中枢神経系に何らかの変化が起こった可能性が考えられる。四肢に十分に筋弛緩効果が生じていない場合には,単純に手足をびくっと動かす程度のことはできるのであるから,このような症状所見は,筋弛緩効果と矛盾しない。

e 原告Aの血圧が180/100と測定された点については,呼吸抑制の初期の段階において高い血圧が測定されることに照らすと,マスキュラックスが投与されて呼吸抑制が生じた場合の症状と符合する。

f 原告Aに末梢チアノーゼが出現し,手や足を触ってみると冷たい感じがしたとの点については,マスキュラックスが投与された結果,呼吸が抑制され,低酸素血症が生じ,酸素飽和度が低下したと考えれば,マスキュラックスの効果に符合する。

g 診療録の「自発R↓ 6~8回/分」との記載については,1回換気量が更に低下したと考えればマスキュラックスの投与と矛盾がないと考えられる。また,呼吸数が減少したとすると,原告Aの中枢神経系に何らかの障害が生じたと考えられる。

なお,この時点で自発呼吸があったとの記載については,仮にこの記載が事実だとすると,原告Aのマスキュラックスに対する感受性が多少低い場合やマスキュラックスの投与量が少なかったことによるとも考えられる。仮にこの記載が事実でないとすれば,大きい動脈の拍動と勘違いした可能性や,実際の呼吸の中でしっかりと拾うことができた呼吸数をカウントした可能性がある。

h 原告Aの瞳孔が約5.5ミリメートルの大きさに開いたまま,光を当てても収縮する反応がなかったことに関しては,マスキュラックスによる呼吸抑制の結果,低酸素血症あるいは高酸素ガス血症による中枢神経の障害が発生したことによって生じたものであり,筋弛緩剤が投与されたことによる症状と中枢神経部分にダメージがあった場合の症状とが混在していると考えられる。

i 原告Aには呼吸抑制による呼吸苦を示す症状が見られなかったが,人によって訴える内容には差異があること,一般的に,筋弛緩の効果は,最初は緩やかに発現するが,その後に急激に深い効果が現れるため,マスキュラックスを投与された人が外見上呼吸困難を訴えなくても特に不思議ではない。

j 午後7時30分に自発呼吸が確認されたことについては,症状発現の時期から約30分から35分が経過していることから,ある程度マスキュラックスの効果が薄れてきためであると思われる。

k 午後7時48分に呼吸が停止したことに関しては,マスキュラックスの効果は薄れているものの中枢神経の障害が生じていたためであると考えられる。

l 市立病院において,膝蓋腱反射やアキレス腱反射が強く出たことについては,マスキュラックスの投与から約50分が経過しており,その効果が次第に切れてきていたと考えられるので,マスキュラックスの効果とは矛盾しない。上記反射が強く認められたことは,原告Aの神経系に障害が生じていたことを表していると思われる。

m 市立病院において気管内挿管を行った際に,原告Aに咳そう反射やおう吐反射が認められなかったことについては,原告Aの中枢神経系に障害が生じていたことによると考えられる。

n 市立病院で全身性不随意運動が見られたことについては,原告Aに低酸素脳症が生じていたためと思われる。

(イ) 他の原因の可能性について

a プリンペランの副作用について

原告Aに投与されるべきプリンペランは,ソリタT1のボトルに調合されており,その溶液は,原告Aの血管が確保されるまでの短時間に,少量だけが体内に入ったにとどまる。この程度の量のプリンペランの単一投与後,本件のようなごく短時間のうちに急激な副作用を生じることはあり得ない。したがって,原告Aの急変原因がプリンペランの副作用によるとの可能性は否定される。

b アセトン血性おう吐症(自家中毒)について

原告Aの急変原因がアセトン血性おう吐症であることを積極的に裏付ける証拠はなく,むしろ,①原告Aの尿からはケトン体がプラスマイナスしか検出されなかったこと,②原告Aにはアセトン臭が全く認められなかったこと,③原告Aは当時11歳であり,アセトン血性おう吐症の好発年齢ではなかったこと,④原告Aが平成12年10月31日以前におう吐を何度も繰り返したり,原告Cに対して腹痛や吐き気を訴えて病院に連れて行って欲しいと頼んだことはなく,また,H医師が診察してた平成7年3月から平成12年10月までの間にアセトン血性おう吐症の症状は全く見られなかったこと,⑤そもそも原告Aは脱水を引き起こすほどの激しいおう吐を繰り返していない上に,脱水症がひどくなった場合に見られる,唇などの粘膜が渇いたり,体重が減ったり,ぐったりするという所見が認められなかったこと,⑥アセトン血性おう吐症を原因とするショックでは,それ以前に物が二重に見えるなどの症状を呈することはまず考えられない上に,原告Aには急激な血圧の低下が見られず,ショック症状とは矛盾する事情があることを総合すると,原告Aの急変原因がアセトン血性おう吐症やアセトン血性おう吐症による脱水症状のショックではないことは明らかである。

c てんかんについて

以下の理由から,原告Aの症状がてんかんであったとは判断できない。

(a) 原告Aの「物が二重に見える。」,「口がきけなくなる。」などの症状は,てんかんの複雑部分発作と言われている発作に似ているが,複雑部分発作がたちまちのうちに全身に及んで約5分後には呼吸が抑制され,心拍も停止するということは考えられない。

また,上記症状及び「意識低下」,「けいれん?全身性のピクツキ」の症状が診療録の記載の順序に起きたかどうかはさて置き,てんかんの場合に極めて短時間の間にこれらの症状が次々と起きることは考えにくい。

(b) 原告Aに見られた「けいれん?全身性のピクツキ」と言われる身体の動きは,間代(急速相と緩速相が交互に来る)でも脱力でも強直でもなく,てんかん発作としての「けいれん」症状とは考えにくい。

(c) 市立病院における症状を見ても,けいれんやピクツキがどのくらいの間持続したかについての記載がないので,原告Aにてんかん重積症状が生じていたかどうかは分からない(ただし,市立病院の主治医は,てんかん重積とは考えていなかったのではないかと考えている。)。

(d) 平成12年11月2日,同月6日,同月14日,同年12月18日の4回にわたる脳波検査の各報告書を見ても,てんかん波は現れていない。

(e) 原告Aの直系,傍系には,現在,過去を問わず,てんかん発作を起こした者は1人もいない。

d 急性脳症などの脳症について

平成12年10月31日午後8時過ぎに撮影された頭部CT検査の結果には,原告Aに明らかな出血を思わせる所見や腫瘤は認められず,脳症などの発症の早い時期に出現することのある異常な低吸収を示す部分もなく,また,はっきりした脳浮腫の所見が認められなかったこと,脳症においては高熱,意識障害及びけいれんが三徴候であるとされているが,原告Aには,当初,高熱や意識障害はなく,また,同年11月6日のCT写真に脳浮腫が現れた原因は,同年10月31日の低酸素脳症によるものであったと考えられることなどからすれば,原告Aが急変した原因が急性脳症などの脳症ではないことが明らかである。

e 急性ポルフィリン症について

(a) 被告は,本件訴え提起から約4年半を経過した平成19年1月19日付け準備書面において,原告Aの症状は急性ポルフィリン症の症状に似ていると主張し,これを裏付ける証拠として乙115ないし124を提出するが,上記主張立証は,時機に後れた攻撃防御方法であるから却下されるべきである。

(b) 原告Aの臨床経過及び平成19年2月15日の血液,尿のポルフィリン分析の結果,急性間欠性ポルフィリン症を疑わせる所見は認められなかったのであり,原告Aが急性間欠性ポルフィリン症であったとの被告の主張は失当である。

(被告の主張)

ア 本件鑑定書について

本件鑑定書には,以下の理由から,証明力がない。

(ア) 鑑定受託者は,後日鑑定の経過等について尋問を受ける場合に備えて鑑定経過を客観的に記録すべきであるにもかかわらず,Fは,本件鑑定に関して実験ノートは作っておらず,分析機器の一部であるパソコンのデータは特に誰が管理するということはないと証言した。このような方法では,出力しなかったデータを事後的に検証することは不可能であるし,データ自体の消去,改ざんの可能性を否定できない。

また,Fらは,同一日時に連続して複数の鑑定資料を分析しているにもかかわらず,LC/MS/MSだけでも同一のタイトルのもとに300を超える資料を管理していたなど,複数の鑑定資料を取り違えないための対策が不十分であった。

このように,本件鑑定には信用性の情況的保障がない。

(イ) 本件鑑定については,鑑定人としての宣誓手続が欠けている。

(ウ) 本件鑑定は,鑑定人の人選の中立性・公平性及び適格性の判定,鑑定事項の決定,鑑定条件の設定などに,被告側及び裁判所が関与していない。

特に,Fは,ベクロニウム検出に関する鑑定実績がないこと,自己の社会的評価への考慮を優先させる人物であること,事前に捜査情報を得ながら鑑定作業を行ったにもかかわらずその事実をごまかしたり,鑑定嘱託書の「事件の概要」欄を読んでいたにもかかわらずこれを否定しており,鑑定の中立性を装う供述態度が見られることから,鑑定人としての適格性・中立性に疑いがある。

(エ) 鑑定作業・活動に対する弁護人の立会権(刑事訴訟法170条)が保障されていない。

(オ) 一定の事象・作用につき,通常の五感の認識を超える科学的方法を用いて認知・分析した判断結果が証拠として許容されるためには,その認知・分析の基礎原理に科学的根拠があり,かつ,その手段・方法が妥当で,定型的に信頼性のあるものでなければならないが,本件鑑定は,以下に述べる理由から,上記基準を満たさず,証明力が認められない。

a ベクロニウムの未変化体を質量分析した場合には,m/z(質量電荷比)557(1価の分子イオン)又はm/z279(分子イオンにプロトンが付加した2価イオン)の分子イオンが検出されなければならないにもかかわらず,本件鑑定では,ベクロニウムの未変化体と関係のないm/z258の分子イオンが検出されており,この結果から鑑定資料にベクロニウムの未変化体が含まれていたとの結論を導くことはできない。

また,m/z258イオンは,ベクロニウムの変化体の分子量に関連する2価イオンであるが,Fらの鑑定手法によると,ベクロニウムの変化体(分解代謝物)である3-デスアセチルベクロニウム(17-デスアセチルベクロニウム)においては,m/z237のイオンのみが出現すると説明されている(乙106)のであるから,本件鑑定において,ベクロニウムの変化体が検出されたということもできない。

本件鑑定の手法によれば,LCにかける以前の段階で,ベクロニウムの標品(標準品)は加水分解されて分解物に変化していたことになるにもかかわらず,本件鑑定では,標品からもm/z258の分子イオンが検出されているところ,Fらは,ベクロニウムの未変化体がm/z258イオンに分離されること及びマスキュラックスを投与された者の血液及び尿からはベクロニウムの未変化体が検出されて変化体はほとんど検出されないと思い込んでいたことから,本件鑑定は,Fらの上記認識に合わせるように作為された鑑定ではなかったかとの強い疑いが払拭できない。

b LC/MS/MSについては,学会,論文等において,ベクロニウムの定性・定量分析の手法として一般的に承認されているとは言えない。

c 本件鑑定は,LC部分にはα社製の機械を用い,MS/MS部分にはβ社製の機械を用いていたにもかかわらず,鑑定書の記載は,β社製の機械のみが記載されており,虚偽である。

d 本件鑑定の抽出過程におけるベクロニウムの回収率に関する信頼すべきデータはなく,再現性に乏しい手法といえる。

e 本件鑑定で用いたLCカラムは分離性能が低く,Fはベクロニウム分解物相互の分離はもちろん未変化体と分解物との分離について信頼するに足りる技術や知識を有しておらず,そもそも本件鑑定の分析手法は,LCによりベクロニウムのみが他の物質と確実に区別できる程度に分離されたのかは事後的に検証できないものである。

f 本件鑑定において用いられたLC/MS/MSの装置は,過去にベクロニウムの標品が多数回注入・分析されており,鑑定資料から検出されたベクロニウムの濃度が極めて低いことからすると,分析機械のみならず,鑑定資料及び鑑定資料から抽出された試料が標品のベクロニウムに汚染されており,これが本件鑑定に影響を与えた可能性が十分考えられる。

g 本件鑑定の定性分析は,保持時間の同定について,複数得られるマススペクトルの中から標品の保持時間に合うようなデータを恣意的に選ぶというものであり,プロダクトイオンの同定についても,同じ質量電荷費のプロダクトイオンが何本出たときにプラスと判定するかは分析者の主観に左右されるものである。

h Fは,生体資料の血清と尿の回収率を同率と決めつけて定量分析を行っており,その信用性は乏しい。

i 本件鑑定書には定量の基礎となる検量線に関する資料は一切添付されておらず,また,液体クロマトグラフィー(LC)による分析を行ったことを示すクロマトグラム及びMS1による質量分析を行ったことを示すマススペクトルのデータの表示もなく,結論の数値がいかなる算定方法によって得られたのかを事後的に検証できない。

(カ)a 鑑定書の証明力を認めるためには,資料の採取,輸送,受渡し,保管,分析,廃棄に至る全過程を通じて,証拠物がすり替えられたり改ざんされることなく同一性を保った状態であること(保管の連鎖)が原告らにより証明されなければならないところ,本件では,生体資料について原告Aから採取されたかどうかという観点からのDNA鑑定は実施されておらず,鑑定資料は全量消費されていること等,警察が鑑定資料の同一性を保持する手段を講じることは極めて容易であったにもかかわらず,このことは訴訟において明らかにされていない。

b また,原告Aの鑑定の経緯については,以下の疑問がある。

血清スピッツの作成保管状況に関し,①原告Aの血液を採取,血清化及び保管をした人物が特定されておらず,スピッツに入った血清が容体急変直後の原告Aから採取された血液に由来するのか疑わしい,②原告Aの血清のスピッツ2本には研究保存用であることを示す記載がなく,平成12年12月5日まで検査に供さずに保管していたとの関係者の説明は信用できない,③研究用検体保存依頼票は資料の本数分作成されるべきであるのに,原告Aの血清については2本のスピッツで合わせて1枚しか作成されておらず,また,「全血」との記載が「血清」に書き換えられている,④血清スピッツ2本の色は大きく異なり,同一機会に採取・血清化されたものではない可能性がある。

尿の採取状況については,その採取者が誰であるかということを含め,採取状況がほとんど明らかになっておらず,尿のスピッツには必要のない「研究用検体」の表記があることから,当該尿が真実市立病院に入院中の原告Aから採取されたものであるかは疑わしい。

原告Aに対する投薬状況と検出薬物とが対応関係を欠いていることなどからすると,平成12年10月31日に血清が,同年11月7日に保存用の尿が採取されたという事実については,合理的な疑いを超えるだけの立証がなされていない。

加えて,原告Aの病状が回復していないのに,市立病院が,検査目的で保存していた血清及び尿を,検査もせずに全量警察に提出した理由が合理的に説明できない。

c 以上によれば,本件鑑定書の証明力は否定されるべきである。

(キ) 鑑定に用いたのと同一の資料について追試することが不可能である場合には,原則として鑑定書の証明力を否定すべきである。

仮に,鑑定資料を全量消費しただけでは証明力が否定されないとしても,原告らは,全量消費されたことの必要性・相当性について立証責任を負い,これが立証できなければ証明力は否定されるべきである。本件では,Fは,本件鑑定以外の鑑定も含め,鑑定資料の量に関係なく全量が消費されていること,1回当たりの分析必要量に比較して多量の資料を消費していること,鑑定嘱託書に記載されていなかった薬毒物の検査を行った理由は不合理であることなどから,鑑定資料を全量消費する必要性は認められない。また,使用した鑑定資料ないし試料の量,消費目的別の内訳が鑑定書に記載されておらず,事後的な検証ができないこと,薬毒物検査の結果が鑑定書に記載されていないことなどから,鑑定資料を全量消費する相当性も認められない。

(ク) 本件鑑定書には,ベクロニウムの未変化体が含有されていたことが記載されるにとどまり,ベクロニウムの分解・代謝物の含有の有無については何ら記載がないから,真実マスキュラックスが原告Aの体内に投与され,採取されたものであるかどうかについて何らの証明力もなく,患者から採取された生体資料の中に,事後的に未変化体のベクロニウムが混入された可能性を否定できない。

(ケ) Fは,2本の血清を混ぜ合わせて鑑定を行っているが,2本の血清で濃度に差があり得ると考えたにもかかわらず,あえてその2本を混ぜてしまったというのであるから,そもそも2本の濃度がもともと均一であったという客観的保証はなく,定量結果として鑑定結果に記載されている濃度は,2本別々に鑑定に供された試験管内の血清の個別の濃度としては,何らの証明力もない。

また,本件鑑定書に添付された写真1には,濃褐色の資料と淡褐色の資料が入った2本の試験管が写っているにもかかわらず,本件鑑定書本文の「鑑定経過1」においては,上記2本の資料をいずれも淡褐色と表現して記載している。このことは,Fが,2本の血清資料を1本に混ぜ合わせたことの正当性を装う意図を有していたことを強く推認させる。

(コ) 薬物動態学における2コンパートメントモデルに従って得られる,約11分という排泄半減期を前提に考えると,仮に半減期を2時間として計算したとしても,投与後7日後の尿から1ミリリットル当たり20.8ナノグラムという濃度,総量で言えば投与量の1ないし2パーセントの臭化ベクロニウムが検出されるには,投与直後の血液1ミリリットル中に1グラムを遙かに超える膨大な量の臭化ベクロニウムないしマスキュラックスが存在していなければならないが,そのような量のマスキュラックスはDクリニックの院内に存在しなかったこと,仮に,時間の経過によって排泄半減期が長く変化していくことを前提としても,投与7日後に当てはまるべき血中からの排泄半減期が正確に知られているわけではないこと,Fが行った尿の定量分析の方法は,未変化体としての臭化ベクロニウムを対象としたというのであるから,未変化体に比べて排泄半減期が有意に長いベクロニウムの分解・代謝物である3脱アセチル体は,20.8ナノグラムを遙かに超えていたことになり,このことを前提とすると,やはり投与7日後の尿中の臭化ベクロニウムの濃度は,不自然に高すぎる。

また,原告Aにマスキュラックスが3ないし4ミリグラム投与されたとして,ベクロニウムの分布半減期・排泄半減期に従って計算すると,原告Aの容体が急変した3時間半後に採取された血液から1ミリリットル当たり25.9ナノグラムのマスキュラックスが検出されることはあり得ない。

これらの事情を前提とすると,鑑定資料にベクロニウムが事後的に混入されたか,市立病院に収容された後に,原告Aに対して,けいれんを抑えたり呼吸管理をするためにマスキュラックスが投与された可能性が高い。

(サ) Fは,原告Aに投与されたボスミンの主成分であるエピネフィリンを分析対象外とするなど,筋弛緩剤以外の薬毒物分析が恣意的に行われていることは明らかである。

イ 原告Aの症状の原因

(ア) 原告Aの症状経過は,以下に述べるとおり,マスキュラックスの薬理作用に符合せず,むしろ矛盾する。

a 原告Aは,平成12年10月31日,午後7時5分ころには弱まっていたとはいえ自発呼吸があったが,午後7時8分ころ,自発呼吸がさらに低下したため,I看護師らは,アンビューバッグにより補助呼吸を開始したが,その時点での酸素飽和度は84パーセントだった。また,この時点で,原告Aには,瞳孔の散大や対光反射の消失という脳幹部の機能障害が見られた。

しかし,マスキュラックスの直接的効果として,瞳孔散大や対光反射の消失は生じない。

また,人間の体内においては,酸素の換気量が低下しても初めのうちは酸素飽和度がそれほど低下せず,むしろ単位時間当たりに循環する血液量を増やすことにより,脳は酸素不足を免れることができる。呼吸の低下によって脳が障害を受ける呼吸性脳障害は,心臓停止によって脳血流が虚血状態になるという機序を踏むところ,午後7時5分の時点で血圧が180/100で橈骨動脈の触知良であって,全身の循環が十分保たれており,その3分後に,補助呼吸が開始されて酸素飽和度が84パーセントあった時点で見られた瞳孔散大等の症状は,低酸素血症ないし低酸素脳症の結果として生じることはあり得ず,むしろ他の原因によって中枢神経障害が生じたことを強く疑わせるものである。

b 原告Aは,急変直前に「何か飲みたい。」と発言したが,マスキュラックスの効果によって,のどの渇きを生じることはあり得ない。また,原告Aが上記言葉を発したことは,マスキュラックスの効果が生じていなかったことを推認させる。

c 筋弛緩剤がかなり効いたとしても,強い痛み刺激に対して反応を示さないということはないから,原告Aに見られた意識障害(C-L低下,Ⅲ-300)は,筋弛緩剤の効果と矛盾する。

また,呼吸抑制による意識障害の可能性についても,呼吸が抑制されて血中の酸素分圧又は酸素濃度が下がっても,しばらくの間は心臓が代謝的な作用を行うので,脳が大きな影響を受けると言うことは考えにくく,否定される。

d マスキュラックスによって呼吸が抑制されたにしては,意識レベルが低下するまでに原告Aの呼吸が抑制されていることを示す症状がなく,マスキュラックスの薬理効果による症状経過とは矛盾する。

e 原告Aの自発呼吸の回数自体が低下しているが,マスキュラックスによる呼吸抑制では,呼吸回数が努力呼吸によって増えることはあっても,呼吸回数自体が減ることはあり得ない。診療録の「自発R↓」という記載は,自発呼吸の回数が低下しているとしか読めず,一回換気量が低下したと解釈することはできない。

f マスキュラックスは,非脱分極すなわち神経から筋への情報伝達を促す活動電位を生じさせるメカニズムを阻害する効果をもたらすのであるから,原告Aに,右腕をぴくんぴくんと上下させた動き,すなわち不随意運動である羽ばたき振戦ないし明らかに左半身に強いけいれん,ぴくつきが認められたことは,マスキュラックスの効果と符合しない事実である。

仮に,筋弛緩剤の効果で呼吸抑制となり,中枢神経障害を来していたとすると,この段階では四肢筋も弛緩していることになるから,四肢筋の動きであるけいれんが認められることはない。

g マスキュラックスは循環系に影響を与えないのであるから,原告Aの血圧が午後7時5分の時点で180/100であったことは,マスキュラックスの効果とは合致しない。

h 原告Aに末梢チアノーゼや冷感が生じたが,マスキュラックスの直接の効果として,上記症状が生じることはない。

i 原告Aは,市立病院に搬送中に自発呼吸が回復しているが,マスキュラックスの筋弛緩効果が発現している状態で自発呼吸が回復するということはあり得ない。また,市立病院において,咳そう反射やおう吐反射が認められない一方で膝蓋腱反射やアキレス腱反射が強く出たことは,マスキュラックスの効果と符合しない。

(イ) 原告Aの症状経過については,以下に述べるとおり,他にこれを合理的に説明できる病因・原因が存在する。

a 原告Aは,平成12年10月31日に,Dクリニックにおいて,吐き気止めの薬であるプリンペランを調合した点滴輸液の投与を受けているが,原告Aの,物が二重に見えること,意識障害等の症状は,プリンペランの副作用である悪性症候群であったと判断できる。

b 原告Aが,平成12年10月31日の夕方から3回おう吐したこと,当時の尿検査でケトン体がプラスマイナスであったことからすると,アセトン血性おう吐症であった可能性を否定することはできない。

c てんかん大発作の可能性

(a) 原告Aには,中枢神経障害によってしか説明できない症状が認められるが,心停止の時間は長く見ても1分以内であることなどから,心停止(循環不全)による高度低酸素血症の発症は否定される。また,前記(ア)aに述べたように補助呼吸開始以前に高度低酸素血症を発症した可能性はなく,補助呼吸開始後は酸素飽和度が90ないし91に維持されていたことからすると,呼吸停止による高度低酸素血症の可能性も否定される。

(b) 原告Aには,急変時に明白なけいれん発作が起きており,市立病院転送後にも,膝蓋腱反射やアキレス腱反射というてんかん発作によく見られる症状が出ていた。

そして,右腕のけいれんに引き続いて全身性のけいれんが認められており,原告Aの中枢神経に何らかの異常が認められたことは間違いないこと,その後に瞳孔散大,血圧上昇,呼吸停止,顔面チアノーゼという典型的なてんかん大発作の経過をたどっていることから,てんかん大発作が起こった可能性を否定することはできない。その後,再び大発作が起こり,全身に不随意運動が出現し,抗けいれん剤を投与した結果,不随意運動の頻度は徐々に減少していったという経過は,原告Aにてんかん重積発作が起きたことを示している。

(c) 市立病院における原告Aの脳波所見では,バーストが頻回に認められており,中枢神経が障害されて脳波に著しい異常を来てしていることが明らかである。てんかん波はバーストに隠され,また,平成12年11月2日以降はネンブタールで抑制されているので,脳波所見がてんかんによるものかどうかは判断できないが,てんかん重積発作によって脳細胞が障害された結果の所見と見ることは十分可能である。

d 意識障害や呼吸機能の低下を伴う原告Aの容体急変の原因として,急性脳症などの脳症の可能性も否定できない。平成12年10月31日に市立病院で行った頭部CT検査の結果については特段の異常所見は認められなかったものの,中枢機能を障害するような部位で脳症が発症すれば,脳浮腫が確認される以前に呼吸抑制等を生じることはあり得るのであるから,上記CT検査の結果は脳症の可能性を否定するものではない。

e 急性ポルフィリン症

(a) 原告Aに見られた腹痛に始まる症状は,以下の理由から,代謝疾患,代謝性脳症である急性ポルフィリン症によって起こる症状と合致する。

① 原告Aの腹痛の原因は,今日まで明らかにされていないところ,急性ポルフィリン症によく見られる腹痛は,虫垂炎,腸閉塞などの外科的急性腹症と間違われやすい。

② プリンペラン(メトクロプラミド)は,ポルフィリン症の症状を促進,増悪させる薬剤とされているところ,原告Aは,平成12年10月31日午後6時50分ころから,メトクロプラミドが投与され,約5分後から複視,構音障害,口渇感,眼瞼下垂などの症状が出現している。

③ 原告Aに見られた,複視,構音障害,口渇感,眼瞼下垂,意識障害,代謝性脳症の初期に出現する不随意運動である羽ばたき振戦,180/100の高血圧,末梢チアノーゼ・冷感,呼吸と呼吸回数の低下,瞳孔散大と対光反射の消失,心拍の低下と心停止,膝蓋腱反射・アキレス腱反射の亢進及び赤色尿は,急性ポルフィリン症で見られる可能性がある症状である。

④ 原告Aに対しては,市立病院において,急性ポルフィリン症を促進悪化させる禁忌薬剤であるペントバルビタール(ネンブタール),フェニトイン(アレビアチン),抱水クロラール及びジアゼパム(セルシン)が投与されている。

(b) 急性ポルフィリン症の確定診断を行うためには血液検査等の各種検査を行う必要がある。これに関し,J医師の診断書(甲99)は,急性間欠性ポルフィリン症を否定するかの如き記載になっているが,具体的にどのような臨床症状,臨床経過からどのように判断し,どのような検査をしてどのような結果が得られたのか不明であるし,現時点又は平成19年2月15日当時,急性ポルフィリン症は緩解期であったところ,緩解期の場合には,臨床症状としての所見は認められないのであるから,血中ポルホビリノーゲン(PGB)デアミナーゼの活性の測定を行わなければ正確な診断はできないことから,この測定を行っているかどうか不明である以上,上記診断書の記載は妥当性を欠いている。

また,原告らは,急性間欠性ポルフィリン症であることを否定すべき立証責任を負っているにもかかわらず,鑑定のために血液の提供に応じず,被告からの求釈明にも応じず,また,J医師の尋問申請に協力していないのであるから,立証を放棄し不利益な結果を受容したというべきである。

(c) 原告Aは,平成12年10月31日当時,マイコプラズマ肺炎などの感染,禁忌薬剤であるボルタレンの投与,飢餓(るいそう),身体的なストレス及び小学校6年生の女児という年齢からの体内ホルモンの変化といった急性間欠性ポルフィリン症の誘発要因にさらされていた。

(d) 代謝性脳症では,CT画像上に著変のないものが大部分である。

(e) 原告らは,被告の平成19年1月19日付け準備書面における,原告Aの症状が急性ポルフィリン症による可能性があるとの主張が,時機に後れた攻撃防御方法であるとして,その却下を申し立てている。

しかしながら,急性ポルフィリン症は,一般的にはほとんど知られておらず,医師の間でも広く知られているとは言えない病気であるから,医学の専門家でない被告訴訟代理人らが急性ポルフィリン症の可能性を指摘するまでに長期間を要したことには無理からぬところがあるから,上記主張が時機に後れて提出されたとは言えず,また,上記主張を行わなかったことに故意又は重大な過失は認められない。

また,被告が上記主張を行った時点では,その後にK医師という。)の証人尋問が予定されており,直ちに弁論を終結できる段階には至っていなかったこと,また,上記主張を立証するためには血液鑑定を行うだけで足りるのであるから,上記主張を提出したことによって訴訟の完結を遅延させることにはならない。

したがって,原告らの上記申立てには理由がない。

(ウ) 原告Aの容体が急変した原因は,前記(イ)のとおり複数考えられるが,原告Aに,結果的に低酸素脳症という重篤な症状が残った原因は,急変後のH医師の対応の不十分さに求められる。すなわち,H医師は,自発呼吸が低下した原告Aに対して,呼吸を確保するためにラリンゲルマスクの挿入を試みたが,失敗に終わった。挿入を試みる前後における補助呼吸(酸素投与)の中断により,本来改善されるべき低酸素状態が悪化し,結果として重篤な低酸素状態に至ったのである。

ウ 原告らは,マスキュラックスの混入・投与態様について,三方活栓より点滴ボトル側の輸液セットの中に,単回投与で使用するような濃度に比較的近い濃度のマスキュラックス溶液が入れられたと主張する。

しかし,原告らの主張は,上記投与経路によれば,原告Aの症状が点滴開始から約5分後に生じたことを説明できなくはないという単なる推理ないしは可能性の指摘に過ぎないのであって,具体的な混入態様については何ら立証がなされていない。また,原告らの主張は,1時間に100ミリリットルの速度で輸液を滴下することを前提とするものであるが,エクステンションチューブの先端をサーフロー針に接続して血管を確保する際の滴下速度は,通常,その後の設定速度よりはかなり速く,その間に,エクステンションチューブの容積である2.1ミリリットルを超える多量の輸液が流入するのであるから,原告の主張する投与経路によっても,点滴開始後5分も立たないうちにマスキュラックス溶液が体内に到達し,筋弛緩作用が発現しなければならないはずである。

(2)  争点(1)イ(原告Aに対し,故意にマスキュラックスを投与した者は,被告であるか。)について

(原告らの主張)

ア Dクリニック内部の何者かがマスキュラックスを不正に使用したことについて

Dクリニックにおいては,特に平成11年度,平成12年度に多数のマスキュラックスが使途不明となるという事件が発生し,その数が20を超える程度にまで及び,さらに,平成11年12月13日に納入されたマスキュラックスについては,1年足らずの間に少なくとも17アンプルが,平成12年8月17日に納入されたマスキュラックスについては4か月足らずの間に少なくとも9アンプルが使途不明になっていることからすると,このような使途不明のマスキュラックスが発生した原因は,単に看護師等が誤って廃棄したとか,持ち出しノートに記載するのを忘れていたことがあったなどの事情によるのではなく,何者かが少なくとも正規の医療目的ではない何らかの不法な目的であえて持ち出したことによるものと推認することが相当である。そして,Dクリニックにおいては,薬剤の不足に気付いた看護師等が各々発注手続等を行っており,その薬剤を発注する必要性等に関して吟味されることがなく,しかも,看護師等は自由に薬品庫から薬剤を持ち出すことができ,平成12年10月25日ころからは,薬剤を持ち出した者が原則としてその旨持ち出しノートに記載することとされたものの,その記載は自主性に委ねられ,さらには,年度末に事務長によって薬剤の在庫調査が行われていたが,その調査の内容は,機械的に在庫数を確認するのみであって,納品数,使用数と在庫数を照合したり,不要な薬剤の納入や不自然な発注等を調査することまでを念頭に置いたものではなかったのであり,結局,Dクリニックにおいては,薬剤に関して,長期に渡り特に管理らしい管理はされていなかったという事情がうかがわれる。

したがって,上記のような使途不明のマスキュラックスが発生した原因については,特段のチェックを受けることもなく薬剤を容易に発注したり持ち出したりできる管理状況であったことを認識していたDクリニック内部の人間が,そのような状況を利用して,自らの不法な意図を実現するためにマスキュラックスを勝手に持ち出したためであると推認できる。

イ 被告とマスキュラックスの関わりについて

Dクリニックにおいて使途不明のマスキュラックスが多数発生しており,その一方において,被告が,マスキュラックスやサクシンといった筋弛緩剤を使用する手術に多数立ち会い,少なくとも,その度に,薬品庫内の薬剤を確認していたため,当然,マスキュラックスについても,その在庫の推移や不足の程度等について把握していたと考えられること,薬剤を確認する際に,マスキュラックスの溶解液のみが多数余っていることを認識していたにもかかわらず,特に上司等に報告していないこと,正規の医療行為を前提とした場合,新たなマスキュラックスを発注する必要があるとは到底考えられない時期に,2度にわたって合計20アンプルのマスキュラックスを発注していること,被告は,退職が決定した当夜,使途不明であるロット番号のマスキュラックスの空アンプルが多数入った小さい針箱をDクリニックから持ち出そうとしたこと,被告は,薬品庫内の薬剤を持ち出す機会を十分に有していたことなどの事情が認められる。

このような被告の行動について考察すると,自らの職務の中でも手術への立会いを希望していた被告は,手術前に積極的にマスキュラックスの在庫を確認するなど一定の責任感を持って手術の介助にあたっており,マスキュラックスの使用目的,危険性等について十分な知識を有していた一方,およそ不自然と考えられる時期にマスキュラックスを注文したり(しかも,平成12年8月17日に被告が注文して納入されたマスキュラックスのほとんどが使途不明となっている。),マスキュラックスの溶解液のみが余っている事態に直面しても師長等に相談しなかったりという医療従事者として極めて不合理かつ不可解といわざるを得ない行動をとっている。しかも,被告がDクリニックからの退職が決定した日に持ち出そうとした針箱から,使途が不明であるマスキュラックスの空アンプルが多数発見されるという到底偶然の出来事とは考えられない事態が発生していることを併せ考えると,Dクリニックにおいて使途不明のマスキュラックスが発生していた原因は,そのほとんどが被告の医療行為以外の目的での意図的な行動によるものと推認するのが合理的である。

また,被告は,平成12年12月4日,L教授に対して格別の反発も示さずに退職の意思表示をし,その日の夜にいったん帰宅した後,特段差し迫った用事がなかったにもかかわらず,再度Dクリニックに赴いたこと,そして,被告はそれまでに針箱を自ら捨てたことがなかったにもかかわらず,マスキュラックスを初めとする薬剤の空アンプル等が多数入れられた針箱をDクリニックの外に持ち出そうとしたこと,被告は,針箱を廃棄すべきプレハブ小屋には鍵がかかっていることを認識していたにもかかわらず,Dクリニックから針箱を持って外に出た際にその鍵を所持していなかったこと,針箱をわざわざ白い紙袋に入れ,外からは見えないようにしていたことなどの事実が認められ,これらの事実によれば,被告は,針箱の中に,他人に見られたくない物が存在していることを認識しつつ,Dクリニックを退職することが決まった日の夜に,Dクリニックから上記針箱を持ち出して,人知れずその内容物を処分するか,少なくともいずれかに隠匿しようと考えていたという事実を推認することができる。

そして,被告は同日夜にわざわざ再度Dクリニックに赴いた理由,針箱を持ち出そうとした目的,針箱の内容物等に関して全く不自然,不合理な内容の虚偽の弁解を重ねていることなどの事情を併せ考えると,被告は,Dクリニックにおける薬品の管理状況が極めてずさんであった間げきをぬって,正規の医療行為として使用する以外の目的でマスキュラックスを発注した上,納入されたマスキュラックスを実際に不正に使用するなどし,その結果生じたマスキュラックスの空アンプルを針箱に廃棄していたところ,この針箱を同日に持ち出そうとしたことが合理的に推認できる。

ウ 被告に犯行の機会があることについて

原告Aに対しては,静脈ラインからマスキュラックスが投与されたと考えられる。すなわち,溶解したマスキュラックスの液が三方活栓から点滴ボトル側の輸液セットに混入されたと考えられ,具体的には,点滴ラインを点滴溶液で満たした上で,三方活栓からマスキュラックスを溶解した溶液が点滴ボトルの方に向けて混入されたと考えられる。

上記のような手技,方法については,点滴ルートの中に混入した空気を上方に追い出すために,生理食塩水を注射器に詰めて,三方活栓から点滴ボトルの方へ押すということにより,医療従事者が日常的に行っているものであるが,原告Aに対する点滴の準備は全て被告が一人で行ったものであり,被告には,上記方法によりマスキュラックスを混入する機会が十分存在した反面,被告以外の者が準備された点滴ルート周辺に近づいた形成はないこと,さらに,後記のとおり,被告が原告Aの点滴にマスキュラックスを混入した動機も認められ,併せて,被告が原告Aの急変時に特異な言動をとったことや重要な点で種々虚偽の供述を重ねていることを総合すれば,本件犯行は被告によるものであると断定できる。

エ 被告の自白の信用性について

被告の捜査官に対する供述や書面作成は,いずれも任意にされたものであり,その内容自体やその他の証拠との対比などの観点からも,基本的にはその信用性を肯定することができる。

確かに,被告の供述内容を子細に比較すると,その内容が変遷している部分や客観的証拠に符合していない部分が存在しているのも事実であるが,これを念頭に置いても,①被告が平成12年10月31日に原告Aに対してマスキュラックスを投与したことを認めている部分,②被告のマスキュラックスの効果に関する知識を供述している部分,及び③被告が犯行動機について供述している部分については,その内容に変動がなく,客観的証拠にも符合することなどから,その信用性を肯定できることが明らかである。

そして,このような自白が存在するという事実は,被告が原告Aの点滴にマスキュラックスを混入した犯人であるという事実を裏付けるものとして評価することができる。

オ 動機について

被告は,一貫して,日ごろからH医師の態度や患者に対する対応に不満やいらだちを募らせていたところ,平成12年10月31日も,原告Aに対する診察,処置にいらだち,H医師を困らせてやろうとして犯行に及んだ旨供述ないし記載している。このように,被告が犯行に及ぶ動機において,格別不自然,不合理な点であったとは言えない。

カ 故意について

被告は,原告Aが救命措置により死を免れるならそれで構わないものの,ことによっては死に至っても構わないとの,原告Aが死亡する可能性についての認識,認容があったものと認めることができる。

(被告の主張)

ア 被告が犯人だとすると整合しない事実又はあって然るべき事実の不存在

(ア) 被告が真の犯人であれば,自らの現状に何らかの不満があるはずであるが,原告Aの急変当時は,仕事でもプライベートの面でも充実していた。

(イ) 被告は,平成12年当時,不自然な様子は見受けられなかった。

同年12月4日には,警察官に2回も呼び止められ,不法侵入者で逮捕してもおかしくないと言われ,赤い針箱の中身についても聞かれている。被告が真犯人であれば,同日以降,犯行の発覚をおそれてDクリニックの職員に対して警察の動きを問い合わせたり,県外に行方をくらませたりするなど,何らかの不自然な行動があって然るべきであるが,このような様子は全く認められない。

(ウ) 犯行を行う場合,自己に嫌疑がかかることを避けたいという心理が働くものであるが,本件では,被告以外にはH医師,I看護師及びM看護助手しかいない状況であった。また,被告は,H医師やI看護師から十分見られる可能性のある外来カウンターで点滴を調合しており,しかも,原告らの主張によれば三方活栓逆注という日常的には行われない,一見して不自然な方法によってマスキュラックスを投入している。

(エ) 被告は,マスキュラックスの溶解液を黒マジックで「溶解液のみ」と大きく書いた箱に入れ,手術室の棚にわざと目立つように置いていた。

(オ) また,原告Aの急変後においても,被告に不審な言動は一切見られない。

(カ) 原告らは,被告は,平成12年12月4日に証拠隠滅目的でDクリニックに行ったと主張するが,そうであるならば,当然一人で行くはずであるのに,共犯者でもないI看護師と一緒に行っている。

また,被告は,同日,警察官に対して自ら針箱の中身を取り出して説明しようとした。

さらに,被告は,同日にDクリニックから持ち帰った私物等が入った紙袋や段ボール箱について無頓着であり,帰宅後に置いた場所に置き放しにしていた。

(キ) 被告の説明によれば,赤い針箱内のマスキュラックスの粉末空アンプルの本数は8本であった可能性が高く,これは平成11年6月4日以降に手術で使用されたマスキュラックスの本数と一致する。

(ク) 平成8年から平成12年12月9日までにDクリニックに納入されたマスキュラックス80本のうち57本が,被告とは全く無関係に行方不明となっている。

(ケ) 被告が犯行に供用したとされるマスキュラックスのアンプル等の物から被告の指紋が検出されたとする証拠は一切提出されていない。

イ 本件の犯人を分析する上で大切なことは,誰が点滴をしたかではなく,誰がどのようにしてどのくらいの量のマスキュラックスを混入したかという点であるが,本件を含むDクリニックにおいて起きたとされている5つの事件全てに共通するのは,被告がマスキュラックスを輸液セットのチューブや点滴ボトルに混入する場面を目撃したという証人が一人もいないということである。

犯人であることの認定は,被告でも可能であったというのでは足りず,被告にしかできなかったこと,すなわち被告にしかできなかったマスキュラックスの混入方法ないし混入態様が立証されなければならない。これに関し,原告らは,被告が,三方活栓より上方の輸液チューブ内にマスキュラックス溶液を注入したと主張するが,①点滴薬剤の取りそろえはI看護師が行い,被告が調合以降の準備作業を行っており,②混入方法について,三方活栓より上方のチューブ内に注入するという方法は合理的でなく,他の事件のように生理食塩液のボトルにマスキュラックスを混入する方法によらなかったことについての合理的な説明はされておらず,また,500ミリリットルのボトルに4ミリグラムのマスキュラックスを入れたとの被告の供述調書が作成されており,③原告らは,被告がマスキュラックスを人知れず混入できる機会があったことについて,明確な主張も立証も行っていないが,被告は,原告Aの急変前後に時間帯に,原告Aの周辺において業務を担当していたのであるから,単に上記機会があったということだけで犯人性が肯定されることにはならない。

ウ 被告の自白の信用性について

被告の捜査段階における自白は,①任意同行後の取調べが黙秘権の告知なしに行われたこと,②ポリグラフ検査において,マスキュラックスや2,30人で反応しているとの結果が実際に存在しないのに,これがあるかのように装った偽計による取調べがなされたこと,③取調官が被告に無罪の証明を強制したこと,④平成13年1月6日の取調べにおいて,昼食を適時に取らせずに取調べの受忍を強要したこと,⑤否認に転じた後に,それ以前と同じ取調官が,被告に対して苛烈な取調べをしていること,⑦取調べを担当したN刑事及びO刑事は,被告が犯人であるとの心証を抱いており,自白獲得のために無理な取調べをする動機があったこと,⑧N刑事の取調べ態度は基本的に強圧的であったこと,⑨被告が最初に自白供述をした時間に関するN刑事の検察官に対する説明が変遷していること,⑩被告の供述は,N刑事の執拗な誘導と強要を要因として,被告がこれに迎合したことによりなされたものであり,このことは,真犯人であれば間違えようのない犯行態様について客観的事実に反する供述をするなど,各供述内容を見ても明らかであること,⑪取調べ当初に否認から自白に転じた事情や,同月9日に自白から否認に転じた事情について合理的な説明がなされていること,⑫同月7日には警察官に対しては自白する一方で,検察官や勾留裁判官には殺意を否認するという矛盾した供述態度を示していること,⑬同月9日に否認に転じた以降,一貫して否認を維持していること,⑭マスキュラックスの入手方法や空アンプルの処分方法など,真犯人であれば当然に説明できるはずの重要な事項についての説明が欠落していること,⑮写実性,迫真性等,真の体験者ならではのメッセージが何ら含まれていないこと,⑯いわゆる秘密の暴露がないことから,信用性がないものというべきである。

エ 動機について

(ア) およそ犯罪が人によってなされ,その人の何らかの心理経過をたどって実行されるものである以上,その者の犯行動機が立証できない場合には,その者の犯行と断定することは許されない。

被告は原告A等の被害者とされる患者やその家族への恨みは一切なく,急変を起こしたり殺すことにより何ら経済的利得をもたらすこともなく,これといった動機を見い出すことはできない。

原告らは,被告にはH医師に対する不満があったと主張し,これが犯行を決意する直接の引き金になったと主張するが,被告のH医師に対する不満は,救急措置ができない等という仕事上のことだけであって,むしろ被告はH医師に対して好意を持っていたのであり,また,被告がH医師が挿管できないことを強く言い始めたのは原告Aの急変の後であるから,原告Aの件を原告らが指摘する上記不満で説明することはできない。さらに,上記動機があったとすればあって然るべき,欲求不満が解消されて満足している様子や,優越感に浸ったりしている様子が存在しない。

仮に,被告がH医師に対する不満を持っていたとしても,上司への不満はどの職場にもあるであろうし,実際にH医師に対する不満は被告一人だけのものではなかった。ストレス解消の手段はいろいろある。そもそも上記不満があることが,個人的になんの恨みもない人を殺そうとする行動にはつながらない。

(イ) 動機なき殺人について,衝動的殺人の場合には,かっとしやすい短絡的な性格がベースにあり,また,無差別殺人の場合には,異常性格がベースにあるが,被告がこのような性格であるとの証拠は一切ない。

(3)  争点(2)(損害の有無及び範囲)について

(原告らの主張)

原告Aは,容体急変当時小学校6年生であった。原告Aは,健康,聡明,快活で,妹思いの子どもであり,原告Bと原告Cは,原告Aの将来を楽しみにしていた。医療従事者にあるまじき被告の本件不法行為によって,原告Aは,人生の全てを失った。原告Aは,現在も意識が戻らずに重篤な後遺障害を持ったままの植物状態となり,両親らによる24時間の介護を受け,両親の心労は限界に達しつつある。

原告Aの慰謝料は,少なくとも1億円以上の金額が相当であるが,その内金として,4000万円の支払を求める。

また,両親である原告B及び原告Cの慰謝料は,少なくともそれぞれ2000万円を下ることはないが,その内金として,各500万円の支払を求める。

なお,上記各慰謝料は,被告の不法行為及び自らが無実であることを主張して自己の罪を免れようとする卑劣な行動に対する懲罰的慰謝料を含むものである。

(被告の主張)

原告Aの現状は認めるが,その余は不知又は否認ないし争う。

第3争点に対する判断

1  被告の責任原因(被告の原告Aに対する本件不法行為の成否)について

(1)  当裁判所は,前記前提事実に,証拠(後掲のもの)及び弁論の全趣旨を総合すると,平成12年10月31日,被告が,腹痛を訴えてDクリニックを受診した原告Aに対し,点滴ボトルの下にある三方活栓から筋弛緩剤であるマスキュラックスを原告Aの身体に故意に注入して原告Aを呼吸困難に至らしめた不法行為(本件不法行為)を実行した事実が認められ,この認定を覆すに足りる証拠はないと判断する。その理由は以下のとおりである。

ア 争点(1)ア(原告Aの急変原因ないし現在の症状の原因は,マスキュラックスの投与によるものか。)について

(ア) 当裁判所は,前記前提事実に,証拠(後掲のもの)及び弁論の全趣旨を総合すると,平成12年10月31日,Dクリニックで点滴を受けていた原告Aが呼吸困難となる等その症状が急変した原因及びその後現在まで意識が戻らずに重篤な後遺障害を持ったまま植物状態が継続している原因は,いずれも上記点滴中に原告Aの体内にマスキュラックスが投与されたことにあると認めるのが相当と判断する。その理由は以下のとおりである。

(イ) 前記前提事実に,証拠(後掲のもの)及び弁論の全趣旨を総合すると,次の事実が認められる。

a マスキュラックスについて(甲10,11,20,24)

(a) 筋弛緩剤について

筋弛緩剤とは,骨格筋の緊張を取り,これを弛緩させる薬剤の総称であり,中枢性の神経系統に働く中枢性筋弛緩剤と,運動神経と筋肉との間に作用して神経系統を通じた筋肉への指令を遮断する末梢性筋弛緩剤とに分類される。

マスキュラックスとは,オランダのP社で開発された,臭化ベクロニウムを主成分とする末梢性筋弛緩剤の商品名である。日本において一般的に使用される末梢性筋弛緩剤には,マスキュラックスのほか,スキサメトニウム(サクシニルコリン)を主成分とするもの(商品名「サクシン」等)及びパンクロニウムを主成分とするもの(商品名「ミオブロック」等)がある。

(b) マスキュラックスの薬理効果等について

マスキュラックスの主成分である臭化ベクロニウムは,神経筋接合部の終板に作用し,アセチルコリンによる神経から筋への興奮伝達を遮断することにより,非脱分極性神経筋遮断作用を示すことが認められている。すなわち,神経筋接合部のシナプス後膜には,アセチルコリン受容体が存在し,このアセチルコリン受容体には,5個のサブユニットが存在している。そして,5個のサブユニット(α,α,β,δ,ε)のうちの2つのαサブユニットの部分に中枢神経からの刺激によって放出されたアセチルコリンが結合することによって,イオンチャンネルが開き,開いたイオンチャンネルをナトリウムイオンが移動することによって活動電位が生じて刺激として伝わり,筋肉が収縮するという仕組みになっている。臭化ベクロニウムは,アセチルコリン受容体のαサブユニットに結合することによりイオンチャンネルが開かないようにし,中枢神経からの刺激が筋肉に伝わらないようにすることによって,筋肉の収縮を妨げて弛緩させるものと推定されている。血中に入った臭化ベクロニウムは,血液の循環により,身体の各末梢組織に運ばれ,そのうち神経筋接合部に達したものが,上記のとおり筋弛緩作用を生じさせる。

末梢性筋弛緩剤は,運動神経に対応する筋肉,すなわち意思によって動かすことのできる筋肉(随意筋)である骨格筋に作用するが,意思によって動かすことができない不随意筋に属する各臓器の機能には影響を与えない。

また,一般に,非脱分極性筋弛緩剤による筋脱力の症状は,目の周りの筋肉から作用し始め,動眼筋が弛緩すると,両目の焦点が合わず,物が二重に見えたり(複視)ぼやけて見えたりし,眼瞼筋が弛緩すると,眼瞼下垂が起こり瞼が開けづらくなり,次に顔の筋肉に影響が出て,これに伴い表情が乏しくなったり,口の周りの筋の弛緩により口を動かしづらくなり,発話も制限される。さらに,首やのどの周辺の筋肉に影響が出て,これにより声帯がうまく動かせず,声が出にくくなり,舌がうまく動かせず,ろれつが回らなくなったり,物が飲み込みにくいなどの訴えがされ,舌根沈下が起こると気道閉塞につながり,呼吸が阻害される事態が生じ,この場合,胸部の違和感が生じ,胸が苦しいとの訴えが見られることもある。非脱分極性筋弛緩剤による筋脱力の症状は,続いて,四肢の筋肉などに作用してから,最後に,横隔膜に作用すると考えられているが,ベクロニウムについては,横隔膜の感受性が眼輪筋と同程度に高く,早期に横隔膜弛緩による呼吸抑制をきたす可能性が高いとの報告がある。

マスキュラックスを0.08mg/kg(体重1キログラム当たり0.08ミリグラム)を投与した時の作用発現時間(拇指内転筋の単収縮が100パーセントブロックされるまでの時間)は,平均約2.7分とされている。

また,マスキュラックスを初回量として0.08mg/kg単回投与した場合の作用持続時間(拇指内転筋の単収縮が25パーセント回復するまでの時間)は,麻酔法及び投与量等により異なり用量依存的に延長するが,平均約35.8分とされている。マスキュラックスを同様に投与した場合における自然回復時間(拮抗剤を投与しないで自然に拇指内転筋の単収縮が25パーセントから75パーセントまで回復するまでの時間)は,平均16.9分とされている。

もっとも,臭化ベクロニウムの筋弛緩作用には個体差があり,作用発現時間では±1.3分,作用持続時間では±11.1分,自然回復時間では±8.1分の幅があるとされている。

(c) 代謝,排泄について

血液中に入った臭化ベクロニウムの血中濃度は,末梢組織に広がったり,代謝,排泄されることによって,減少していく。

臭化ベクロニウムの排泄は,主に肝胆系を介してなされる。また,臭化ベクロニウムの5ないし10パーセントは,肝臓や腎臓において,カルボキシルエステラーゼという脱アセチル化を起こす酵素の働きにより,代謝物である3脱アセチル体に分解されて排泄されるが,それ以外(90ないし95パーセント)は未変化体のまま排泄される。

マスキュラックス0.08mg/kgを単回投与した場合の血中濃度は,2-コンパートメントモデルで表され,その分布半減期,すなわち体内の末梢組織に臭化ベクロニウムが広がっていくことを原因として血中濃度が半減する時間は1.2±0.8分であり,排泄半減期,すなわち排泄を原因として血中濃度が半減する時間は11±2分であるとされている。つまり,臭化ベクロニウムの血中濃度は,最初は主に末梢組織に分布することにより急激に減少し,その後は,主に排泄されることによって緩やかに減少していく。

なお,臭化ベクロニウムの血液中における加水分解の速度は,分布や代謝と比較するとそれ程早いものではないため,血中濃度の変化に与える影響は少ない。

b 原告Aの急変に至る経緯及びその後の経過について(前記前提事実,甲5ないし7,19,22,25ないし43,60,61,82,85,86,93,98,乙7及び8(ただし,後記認定に反する部分を除く。),乙32,36,41,49,原告C本人)

(a) 原告Aは,平成元年3月14日,父原告B,母原告Cの長女として出生し,両親に養育されて生活していた。平成12年10月当時の年齢は11歳で,体重は約30キログラムであった。

(b) 原告Aは,平成12年10月31日,腹痛や吐き気を訴えるなどしたため,同日午後6時少し前ころ,Dクリニック小児科を受診し,同病院の副院長であるH医師の診察を受けた。このとき,原告Aの熱は36.6度であり,胃の辺りを手で押さえながら「お腹が痛い。」と訴えていた。原告Cは,H医師に,原告Aが学校で給食を食べた後お腹が痛くなり,夕方には3回ほど吐いてしまったこと,軟らかい便を1回したことなどを伝えた。H医師が診察したところ,原告Aの呼吸音は清明で心雑音もなく,腹部からグル音も聞こえず,咽頭部に軽い発赤が認められるだけであり,意識は清明であった。また,原告Aは,右下腹部の圧痛が強い様子であったが,筋性防御は認められなかった。

同日午後6時ころ,原告Aに対してレントゲン撮影及び尿検査が行われ,その結果,レントゲン写真上,右下腹部にガスが少し集まっている所見があり,また,尿検査では,体調が悪い場合に体内物質が分解して尿に排泄されるケトン体がプラスマイナスの反応であった。原告Aは,レントゲン撮影の際,お腹を痛がり,前屈みになってはいたが,自ら歩いて移動していた。

H医師は,上記検査結果を踏まえても,原告Aの症状が胃腸炎によるものか虫垂炎によるものかを判断しかねていたが,虫垂炎である疑いもあり,そのときは虫垂に穴が空いて腹膜炎を引き起こすおそれもあったことから,原告AをDクリニックに入院させることにした。

原告Aと原告Cは,入院の準備ができるまで,Dクリニックの談話室に移動して待っていた。

(c) H医師は,同日午後6時30分ころ,原告Aに関する指示箋に採血と点滴の指示を記載した。点滴に関しては,生理食塩水100ミリリットルに抗生剤ホスミシン1グラムを調合したものを1時間あたり100ミリリットルの速度で点滴すること,次いでソリタT1の500ミリリットルに20パーセントのブドウ糖2アンプル,ビタミン剤ビスコン1アンプル及び吐き気止めプリンペラン約1.3ミリリットルを調合したものを1時間あたり100ミリリットルの速度で点滴すること,その後ソリタT3を1時間あたり50ミリリットルの速度で点滴することを指示した。

(d) 同日午後6時30分の時点でDクリニックに残っていた看護職員は,被告,I看護師及びM助手の3人であった。

小児科外来で診察を受けた患者が入院することを知った被告は,H医師が指示箋に記載した内容に従い,原告Aに投与する点滴ボトル等を準備し,薬剤の調合行為を行った。このとき,I看護師は,小児科や内科の後片づけや戸締まりなどをしていたが,被告が外来中通路カウンターの小児科内科処置室前付近で点滴の準備をしている姿を見かけた。被告は,通常と同じように,輸液セットに三方活栓をつなげ,さらにエクステンションチューブをつなげて,ソリタT1のボトルにびん針を刺し,輸液セットやエクステンションチューブなどに点滴輸液を満たして点滴の準備をした。一方,M助手は,ナースステーション出入口付近で,原告Cから原告Aが入院することになったと聞き,原告Cのために簡易ベッドの準備などを行った。

(e) 談話室で待っていた原告Aと原告Cは,同日午後6時40分ころ,被告からの指示で,N2と表示のある病室(以下「N2病室」という。)に移動した。

原告CがN2病室の奥の方にあったベッドに原告Aを寝かせていると,被告がN2病室に入ってきて原告Aに点滴を実施しようとしたが,被告は原告Aの血管を確保することができなかったことから,他の看護師を呼ぶためにN2病室から出ていった。

同日午後6時45分ころ,被告から呼ばれたI看護師が被告とともにN2病室に入ってきて,原告Aの血管確保を試みた。しかし,I看護師も原告Aに対してうまくサーフロー針を刺すことができず,再度,被告が手技を行ったところ,原告Aの左手に血管を確保することができた。I看護師は,N2病室に5分くらい滞在したが,その後はN2病室を出て,外来の診察室に戻って後片づけを続けた。

(f) 同日午後6時50分ころ,原告Aに対し,最初にソリタT1のボトルが点滴され,その後,間もなく,生理食塩水ボトルに切り替えられた。被告は,I看護師が出ていった後もN2病室に残り,原告Aに対し,「お腹の痛みはどう。」と様子を聞いていた。これに対し,原告Cが「点滴の痛みでお腹の方はよくわかんなくなっちゃったんじゃない。」と言ったところ,原告Aは,「点滴慣れたから。」と普通の口調で答えていた。

(g) 同日午後6時55分ころ,原告Aは,右手を顔の辺りに持ってきたり,両目を早い間隔でパチパチとまばたきしたり,首を少し左右に振るような仕草をした。これを見た原告Cは,原告Aの様子がおかしいと感じ,原告Aに「A,どうしたの。」と声をかけた。原告Aは,原告Cに対し,「何か,目が変。」「物が二重に見える。」などと訴えたものの,このときの話し方は普段どおりで口調もしっかりしていた。

(h) H医師は,原告Aに関する指示を出した後も,外来患者の診察を続けていたが,同日午後6時55分ころ,ナースステーションに行き,被告に原告Aの様子を尋ねたところ,被告から,「点滴を刺すのに4回もかかっちゃった。お腹が痛くなると物が見えないとか言っているんですよ。」などと聞かされた。H医師は,お腹が痛くなって物が見えなくなるという事態になることはあり得ないと考え,また,入院前には原告Aに物がよく見えないという症状は全く認められなかったことから,すぐに原告Aの様子を見に行かなければならないと考え,N2病室に走っていった。

N2病室に入ってきたH医師に対し,原告Cは,「何か変なんですけど。物が二重に見えるって言うんです。」と話しかけた。H医師が,原告Aに対し,「Aちゃん,どうしたの。」と問いかけると,原告Aは,H医師に対しても,「物が二重に見える。」「何か飲みたい。」「口がきけなくなってきた。」などと少しろれつの回っていない口調で話した。このころの原告Aは,目が半開きの状態となり,顔色はH医師が外来で診察したときよりも更に悪くなって青ざめていたが,この時点では,原告Aの顔や体に発疹は認められなかった。

さらに,原告Aは,「あーあー」とうなるような声を出し,首を左右に大きく苦しそうに振り始めた。これを見た原告Cが,H医師に「先生,何か変ですよ。意識レベル下がっていませんか。」と言うと,H医師は,「すぐに市立病院に移しましょう。」と言い,N2病室にいた被告に,点滴を薬剤が何も調合されていないソリタT1に変更するよう指示し,自らは市立病院に電話をするためにナースステーションに向かった。このとき,H医師は,原告Aの病状の原因が何であるか全く分からず,重大な病気の可能性があると考え,そのため,人員や物的設備の整っている市立病院に原告Aを転送した方がよいと判断していた。

H医師は,同日午後7時ころ,市立病院の当直医であったQ医師に対し,電話で,11歳の女児が腹痛を訴えて入院したが,入院直後に物が二重に見える,口がきけない等の神経症状が認められたので,至急転院をお願いしたいと伝えた。

(i) H医師がN2病室を出ていった後,原告Aは何か言葉を発して訴えようとしたものの,ろれつが回らない口調であり,原告Cは,原告Aの発する言葉を聞き取ることはできなかった。その後,原告Aは,急に仰向けに寝ていた状態から左側を下にして横向きの状態になって何も言わなくなり,右腕だけを小さく上下させた。

(j) 同日午後7時ころ,I看護師が病室を訪れたとき,原告Aはベッドでぐったりしており,声をかけても痛覚反応を確かめても反応がなかったっため,I看護師は,原告Aには意識がないと判断した。また,原告Aの自発呼吸が低下し始めた。そこで,I看護師は,原告Aに対する救急処置が必要であると考え,ナースステーションに戻ってそこにあった救急カートをN2病室に運び入れた。このとき,H医師は,まだナースステーションで電話中であった。

I看護師は,N2病室において,救急カートの中から新しいソリタT1の点滴ボトルを取り出し,これにボトルを交換する方法で点滴を切り替えた。また,原告Aに心電図モニターを装着したところ,原告Aの心拍数は50台であり,全身にけいれん様のピクつきが見られ,とくに左半身に強く現れていた。

同日午後7時5分ころ,原告Aに酸素マスクが装着され,1分間に5リットルの酸素投与が開始された。I看護師が,原告Aの上記ぴくつきを見て頭部内の障害の発生を疑い,血圧を測定したところ,血圧は180/100であった。そのころ,原告Aは,手首の拍動はあるものの,その指先が白っぽく末梢チアノーゼの症状を示しており,手や足は冷たい感じであった。

同日午後7時8分ころ,I看護師は,原告Aの自発呼吸が非常に弱くなり始めたので,アンビューバッグによりバッグアンドマスクの人工呼吸(下顎を持ち上げて気道を確保し,鼻と口をマスクでぴったりと覆い,アンビューバッグを付けてそれに酸素をつなぎ,アンビューバッグ押すことによって酸素を肺に送り込む方法)を開始し,引き続き毎分5リットルの酸素を供給した。このころ,原告Aの瞳孔は,両眼とも約5.5ミリの大きさに開いたままで,光を当てても瞳孔が収縮する反応がない状態であった。また,上記補助呼吸開始時の原告Aの血液中の酸素量を示す酸素飽和度は84パーセントであった。

(k) 同日午後7時8分ころ,H医師が,市立病院への搬送連絡の電話を終え,N2病室に戻ると,I看護師がアンビューバッグを持ちバッグアンドマスクの人工呼吸を行っているところであり,I看護師は,H医師に対し,原告Aの呼吸状態が悪くなってきたと報告した。H医師は,I看護師に対し,原告Aを市立病院に搬送するよう指示し,I看護師は,M助手に救急車を手配するよう指示した。

このころ,原告Aは,ベッドの上で体全体をぐったりとさせ,目は半開きのままで,顔色も紫に近い青色になって非常に悪く,顔面にチアノーゼが認められ,H医師が大きな声で呼びかけたり,体を触ったりしたが,原告Aが全く反応しなかったことから,H医師は,原告Aには意識がないものと判断した。H医師は,原告Aの酸素飽和度が84パーセントだったことから,酸素吸入量を1分間に5リットルから10リットルに増やしたところ,酸素飽和度は90ないし91パーセントまで改善された。

その後も,原告Aに対してバッグアンドマスクの人工呼吸が続けられた。その間,被告が,原告Aからそのマスクを外し,喉頭鏡で原告Aの口の中をのぞき込んだ上,H医師に対し,気道確保の処置を促してきたことがあったが,H医師は,気道確保の手技を的確に行う自信がなく,また,その手技を適切に行うことができない場合には,原告Aの状態を更に悪化させる可能性があると判断したため,気道確保の処置を試みることはしなかった。

(l) その後,原告Aの心拍数が30ないし40へと次第に低下したため,H医師は,ボスミン1アンプルを三方活栓から静脈注射し,また,被告に対してイノバンを点滴に入れるよう指示した。被告は,イノバン1アンプルを点滴に投与したが,更にイノバン2アンプルが追加投与された。しかし,そのころ,原告Aの心臓が停止し,心電図モニターの波形が一時フラットになることがあった。

(m) 同日午後7時15分ころ,救急隊がDクリニックに到着したが,そのころ,原告Aは心肺停止状態に陥っていたため,原告Aに対し,心臓マッサージが施行され,同日午後7時22分ころ,心拍が再開した。また,被告の介助の下,原告Aにはラリンゲルチューブが挿入され,アンビューバッグにつながれて人工呼吸が実施され,午後7時30分ころ,いったん自発呼吸が再開した。

同日7時32分ころ,原告Aは,H医師,I看護師,原告Cが同乗する救急車で市立病院に向かったが,その車中の同日午後7時48分ころ,再び原告Aの自発呼吸が停止した。

(n) 同日午後7時51分ないし52分ころ,原告Aは,市立病院救急センター外来に搬入された。このとき,原告Aの体温は36.4度,血圧は130/58,心拍数は97で,深い昏睡状態にあり,自発呼吸は認められなかった。原告Aの体に発疹はなく,瞳孔に左右差はなく,対光反射も認められないという状態であった。また,心臓に不整脈はなく,心雑音や肺の雑音は聴取されなかった。腹部は柔らかく平坦で,腸雑音が聴取されたものの,筋性防御はなかった。肝臓,脾臓は腫大しておらず,膝蓋腱反射,アキレス腱反射が強く出ていたが,項部硬直はなかった。Q医師は,原告Aに挿入されていたラリンゲルチューブを外して気管内挿管を行ったが,その際,筋弛緩剤を投与しなかったにもかかわらず,挿管の際に原告Aが歯を食いしばるようなことはなく,咳そう反射,おう吐反射なども認められなかった。

Q医師は,H医師から,救急センター外来の処置室で,原告Aの症状,経過などについて診療情報提供書に基づいて説明を受けるとともに,I看護師からも話を聞いた。このとき,Q医師は,原告Aに意識レベルの低下が起きたころに原告Aの左半身に優位な筋肉が収縮したり弛緩したりするような動きが認められたという説明を受けたことから,受け取った診療情報提供書に「左半身につよい間代性ピクつき」と記載した。

(o) 同日午後8時25分ころ,原告Aの全身に不随意運動(手や足が強い勢いで屈曲する動きや,体が反り返って硬くなるような動き)が出現した。原告Aの動きは,強直した状態が継続するわけではなく,収まる時期もあったが,その収まった時期は力が入っておらず,だらんとしたような状態であった。また,原告Aには,屈曲していた状態の腕を肩をひねるように内側から回して伸ばし,その後伸ばした状態で硬くなって全身の震えが起きてくるような動きも見られた。Q医師は,抗けいれん剤を順次何種類も投与していき,原告Aの不随意運動は収まることはなかったが,その頻度は徐々に減少していった。なお,不随意運動が持続していた時点でも,原告Aの自発呼吸は回復していなかった。

(p) 同日午後9時15分ころ,原告Aに鈍いながら対光反射が出現した。市立病院においては,原告Aに対し,腹部及び胸部レントゲン検査,腹部CT検査,頭部造影CT検査,血液検査等が実施されたが,その検査結果からは,原告Aが急変を起こす原因となるような特段の異常は認められなかった。

c 本件鑑定について

(a) 鑑定資料の採取及び保管の経緯(甲7,12,14,18,6185,93,乙87ないし90,93)について

① 平成12年10月31日,原告AがDクリニックから市立病院に搬送された際,市立病院のQ医師らは,同病院救急センター外来で,原告Aに対する救急処置を施すとともに,同所で,原告Aから2回血液を採取し,このうち2回目に採取した血液の一部を保存用として,2本のスピッツに入れ,「A」等と原告Aの氏名等を印字したラベルを貼付し,緊急検査室に冷凍保存を依頼した。同病院臨床検査技師は,Q医師から上記スピッツ2本を受領し,遠心分離器にかけた上,血清のみを取り出し,別のスピッツ2本に入れ,これに元のスピッツに貼付されていたラベルをその場で貼り替えた上で,同室冷凍庫内に入れて冷凍保存し,翌同年11月1日,同病院中央臨床検査室内の保存用の冷凍庫に移されて保管を続けた。

② 同年11月7日,市立病院のR医師は,原告Aの病態解明のため,原告Aの尿も採取しておく必要を感じ,同病院のS医師に対し,原告Aから採尿の上,これを冷凍保存するよう指示した。これを受けて,同日,S医師が看護師に採尿と保存を指示し,この指示を受けた看護師は,同日,救急センター3階西病棟の集中医療室に入院中の原告Aから尿を採取してスピッツに入れ,これに「A」等と原告Aの氏名等を印字したラベルを貼付して,中央臨床検査室に冷凍保存を依頼した。中央臨床検査室では,これを受領し,そのまま冷凍庫内に冷凍保存した。

③ 同年12月5日,R医師は,警察の依頼により,それまで上記①②のとおり,同病院中央臨床検査室で冷凍保存されていた原告Aの血清入りスピッツ2本と尿入りスピッツ1本を同室から受け出した上,市立病院4階の副院長室で,臨場したN刑事に交付した。

④ N刑事は,R医師から受け取った原告Aの血清入りスピッツ2本と尿入りスピッツ1本を保冷容器で搬送し,宮城県警察本部刑事部科学捜査研究所(以下「宮城県警科捜研」という。)のT技術吏員に届けるつもりであったが,T吏員が席を外していたため,U吏員にその保冷容器を手渡し,U吏員はこれを宮城県警科捜研内の超低温フリーザーに入れて保管した。

⑤ 同年12月12日,T吏員は,原告Aの血清入りスピッツ2本と尿入りスピッツ1本を,保冷容器に入れて大阪府警科捜研まで搬送した。T吏員は,航空機,地下鉄等の交通機関を乗り継いで大阪府警科捜研まで行き,大阪府警科捜研のFに上記スピッツ入り保冷容器を鑑定資料として渡した。

(b) 鑑定の経緯及び結果(甲8,14ないし17,47)

① 宮城県警察本部長は,大阪府警科捜研に対し,平成12年12月12日付けで,鑑定資料を原告Aの血清(同年10月31日採取,スピッツ2本)約6ミリリットル及び尿(同年11月7日採取)約8ミリリットルとし,鑑定事項を「各資料にベクロニウム若しくはスキサメトニウムが含有するか,含有される場合にはその濃度」とする鑑定を嘱託した。

大阪府警科捜研のFらは,上記鑑定の嘱託を受けて,同年12月12日から平成13年1月19日までの間,以下の内容の鑑定(本件鑑定)を行った。

② 鑑定経過

ⅰ Fらは,まず,上記各鑑定資料から不純物や常成分を取り除き,目的物である薬物成分を抽出するために,充填剤が詰まったカートリッジ(Bond Elut CBA)を用いた固相抽出という方法を用いた。具体的には,上記カートリッジを活性化,すなわち,上記カートリッジを洗浄するとともに薬物成分が保持しやすいようにする目的で,メタノール,蒸留水及びペーハー6(pH6)のギ酸緩衝液を使用した後,上記各鑑定資料の一部にもそれぞれ同量のペーハー6のギ酸緩衝液を加え,これを上記カートリッジに通すことによって,薬物成分をカートリッジに保持させた。そして,カートリッジから,付着した血液,尿及び充填剤の成分を取り除くために,カートリッジを蒸留水で洗浄した後,これに0.1規定塩酸メタノール溶液を流すことによって薬物成分を溶出し,これらの溶出した試料をそれぞれ試料1,2とした。

ⅱ 試料1及び2について,プロダクトイオンスキャンモードにおけるLC/MS/MSを行い,ベクロニウム及びスキサメトニウムの定性分析(試料の中にこれらの薬物成分が混入されているかどうかの分析)を実施した。その結果,いずれからもベクロニウムのエレクトロスプレーイオン化におけるベースピークであるm/z258をプリカーサーイオンとするプロダクトイオンスキャンにおいて,保持時間約5.5分にm/z356,374,398等のイオンを有するプロダクトイオンスペクトルが得られた。

Fらは,標品のベクロニウムについても同条件で分析したが,上記結果は,標品の分析結果に等しかった。

以上のことから,資料1及び2にはベクロニウムの含有が認められた。

なお,試料1及び2のいずれからも,スキサメトニウム及びそれらの分解・代謝物は検出されなかった。

ⅲ 試料1及び2について,選択反応検出モードにおけるLC/MS/MSを行い,ベクロニウムの定量分析を実施したところ,25.9ng/ml及び20.8ng/ml(いずれも臭化ベクロニウムとして)の含有が認められた。

③ 鑑定結果

資料1及び2のいずれからもベクロニウムが検出され,それらの濃度は,25.9ng/ml及び20.8ng/ml(いずれも臭化ベクロニウムとして)であった。

なお,資料1及び2のいずれからも,スキサメトニウム及びそれらの分解・代謝物は検出されなかった。

④ 資料措置

資料1及び2の液体は全量消費した。

(ウ) 原告Aの血液及び尿からベクロニウムが検出されたこと(鑑定論)について

a 上記(イ)の事実によれば,原告Aから採取された血液及び尿のいずれからも臭化ベクロニウムが検出され,それらの濃度は,血中濃度が25.9ng/ml及び尿中濃度が20.8ng/mlであったことが認められる。

b これに対し,被告は,本件鑑定は信用性がないと主張する。しかし,前掲各証拠によれば,本件鑑定を行ったFらは,本件鑑定を行うための十分な学識と経験を有しており,その研究成果に基づき本件鑑定を行っているものであることが認められ,本件鑑定の手法,過程及び結果に疑いを抱かせるに足りる事情は見あたらないことに照らし,本件鑑定は合理的なもので十分信用できるというべきであって,被告指摘の諸点を検討しても,上記認定・判断を左右するには足りない。

c 被告は,ベクロニウムの未変化体を質量分析した場合には,ベクロニウムの分子関連イオンであるm/z557(1価)又はm/z279(2価)の分子イオンが検出されなければならないにもかかわらず,本件鑑定では,ベクロニウムの未変化体と関係のないm/z258の分子イオンが検出されており,鑑定資料にベクロニウムの未変化体が含まれていたとの結論を導くことはできないと主張し,これを裏付ける証拠として,4つの外国論文(乙107ないし110)及びVの鑑定意見書(乙111)を提出する。

しかしながら,本件鑑定において使用したLC/MS/MSにおいては,分析の過程で電圧,カラムなどの分析条件や使用器具に関して同じ条件で分析すれば,検出されるイオンの種類,発現時間は同一になるが,分析条件や使用器具が異なれば検出されるイオンの種類も異なり得ることが認められる(甲14)から,分析条件や使用器具に関わらず必ず分子量関連イオンが検出されるとは言えない。そこで,Fらは,分析装置及び分析条件を同一にして,鑑定資料を分析する都度,標品のベクロニウムについても分析を行い,同一条件下で,標品のベクロニウムで検出されたイオンの種類,発現時間と鑑定試料で検出されたイオンの種類,発現時間とを対照して同一性の判定を行っているのである。この点について,質量分析装置を使って未知の試料の同定を行う場合には,必ず精密質量の検出が可能であることが確認できなければならないとするWの意見書(乙133)は,未知の試料の固有の質量を精密に検出することによってその試料を同定するという手法(いわば絶対値による同定手法)における前提条件を述べているのであって,本件鑑定における同定方法(いわば相対値,相似形による同定手法)とは,その前提となる同定手法が異なることが明らかであるから,本件鑑定の信用性を左右するに足りるものとはいえない。

そして,本件鑑定においては,原告Aの血液及び尿からm/z258のイオンが検出されているところ,その検出値が標品のベクロニウムから検出されたm/z258のイオンの検出値と相似していること(甲8)から,原告Aから採取された血液及び尿のいずれからも臭化ベクロニウムが検出されたと推認するのが合理的であると言える。したがって,被告の上記主張は採用できない。

なお,原告らは,ベクロニウムの変化体(3-デスアセチルベクロニウム)が検出されたと主張し,これを裏付ける証拠としてX鑑定意見書(甲94)を提出するが,上記事実によれば,本件鑑定においてFが検出したものがベクロニウムの未変化体なのか変化体なのかを厳密に同定することはできないというべきであるから,上記主張も採用の限りではない。

d 被告は,原告Aの尿に関し,ラットに対する動物実験の結果を根拠として,投与後7日を経過したヒトの尿から20.8ng/mlという濃度のベクロニウムが検出されることはあり得ないと主張する。

しかしながら,動物実験の結果(特に,その排泄率)をそのまま人間に当てはめることは困難である上,動物実験でラットにつき投与後288時間でも一定の排泄があることは,人間においても長時間にわたって排泄されることが示唆されること,原告Aの場合,本件鑑定の資料とされた尿が採取された時点(平成12年11月7日)の尿量が1645ミリリットルであるのに対し,その尿中濃度が1ミリリットルあたり20.8ナノグラムであることは,不自然な数値とは言えないこと,容体急変時以降の原告Aの病状経過に照らし,肝臓・腎臓の機能低下,臓器・組織血流低下等があったとしても不思議ではなく,これらの影響により原告Aの尿中に比較的長くベクロニウムの排泄が続いたことは十分考えられること(甲20,21,63,81)等に照らすと,本件鑑定にかかる原告Aの尿中のベクロニウム検出濃度が不合理であるとは言えない。本件鑑定にかかる原告Aの血中のベクロニウム検出濃度についても同様である。

(エ) 原告Aの急変原因がマスキュラックスの効果と符合すること(病態論)について

a マスキュラックスの効果と矛盾しないこと

(a) 上記(イ)の事実のとおり,マスキュラックスの作用は,目の周りの筋肉から作用し始め,動眼筋が弛緩すると,両目の焦点が合わず,物が二重に見えたり(複視)ぼやけて見えたりし,眼瞼筋が弛緩すると,眼瞼下垂が起こり瞼が開けづらくなるところ,平成12年10月31日午後6時55分ころの原告Aの「物が二重に見える。」などの訴え,また,原告Aの目が半開きの状態となっていたという症状は,いずれもマスキュラックスの上記作用に符合する。

(b) マスキュラックスの作用は,次に顔の筋肉に影響が出て,これに伴い表情が乏しくなったり,口の周りの筋の弛緩により口を動かしづらくなり,発話も制限され,さらに,首やのどの周辺の筋肉に影響が出て,これにより声帯がうまく動かせず,声が出にくくなり,舌がうまく動かせず,ろれつが回らなくなったりする。同日午後6時55分ころから午後7時ころにかけての原告Aの「口がきけなくなってきた。」などの訴え,原告Aが「あーあー」とうなるような声を出し,首を左右に大きく苦しそうに振り始めたという行動,原告Aが何か言葉を発して訴えようとしたものの,ろれつが回らない口調のため,母親である原告Cも原告Aの発する言葉を聞き取ることができなかったという出来事は,いずれもマスキュラックスの上記作用に符合する。

(c) その後,原告Aが,仰向けに寝ていた状態から左側を下にして横向きの状態になって何も言わなくなったこと,同日午後7時ころ,原告Aがベッドでぐったりとし,I看護師が声をかけても痛覚反応を確かめても反応を示さなかったことは,マスキュラックスの作用が四肢の筋肉などに作用し始めたことから,原告Aがその意思を外部に身体的に表現することが困難となり,外部からは意識がないように見えていたものと考えることができる(甲22)から,マスキュラックスの作用と矛盾しない。

原告Aが,左側を下にして横向きになった状態で右腕だけを小さく上下させたという動作については,これが,随意運動なのか不随意運動なのかを断定することはできない(甲25,42,43,98,乙128,原告C本人)。しかし,上記動作が原告Aの随意運動であるとすれば,筋肉の部位によってマスキュラックスの作用に対する感受性は異なることから,マスキュラックスによる筋弛緩効果が右上肢の筋肉に十分現れていなかった時点で,原告Aが右上肢を持ち上げようとして現れた動作であると理解することができるし,上記動作が原告Aの不随意運動であるとすれば,後記のとおり,脳に対する低酸素状態が強くなり,中枢神経内にけいれんを誘発する病変が進行していたため,マスキュラックスによる筋弛緩効果が十分現れていなかった右上肢の筋肉が収縮してけいれんを引き起こしたと見ることができる(甲22,63)。いずれにしても,マスキュラックスの作用と矛盾するものではないと言える。

(d) 同日午後7時ころ,原告Aの自発呼吸の低下が見られているが,これはマスキュラックスが原告Aの横隔膜に筋弛緩効果を及ぼし,原告Aの呼吸を抑制する作用を起こし始めたものと推認することができる。横隔膜は,肺胞換気量の維持に重要な役割を果たしている骨格筋であり,これに筋弛緩効果が及ぶと,肺胞換気量の低下をもたらすだけではなく,胸郭の動きを小さくし,外部から自発呼吸の低下として観察されることは十分に考えられる。マスキュラックスの直接の効果として,呼吸回数の減少をもたらすことはないとされている(乙16)が,この所見は上記認定を左右するに足りるものではない。

被告は,原告Aに頻呼吸の症状が見られなかったことをもって,この事実はマスキュラックスの作用と矛盾すると主張する。確かに,呼吸抑制があると,血液中の酸素濃度が下がり,炭酸ガス濃度が上がるから,これによって呼吸中枢が刺激されて呼吸回数を増やす方向に働くとともに,心臓からの血液の拍出量を増大させるという生理的機能が存在する(乙16)。しかし,マスキュラックスが横隔膜に筋弛緩効果を及ぼしている場合,呼吸中枢から呼吸回数を増やす信号が送られても,横隔膜がそれに従った動作を行うことはできないはずである。したがって,呼吸抑制の代償措置としての頻呼吸が見られないことをもって,マスキュラックスの作用と矛盾するという被告の主張は採用できない(Yの供述(乙16)内容も,上記の認定・判断に矛盾する限度で採用することはできない。Yは,麻酔医であって,臨床においてマスキュラックスを使用した麻酔経験も豊富であるが,手術の現場においては,必ず,患者に補助呼吸等を施しつつマスキュラックスを投与しているはずであって,補助呼吸を施されていない人間に対してマスキュラックスを徐々に投与した場合,いかなる生体反応を起こすかを実際に見分した経験はないはずである。したがって,その供述内容は,あくまでも一般的な人体の生理反応を前提とした理論上の説明に過ぎず,その経験に基づく供述内容は,必ずしも原告Aのケースに適切なものではないと理解するのが相当である。)。

(e) 同日午後7時5分ころ,I看護師が,原告Aの血圧を測定したところ,血圧は180/100であり,原告Aの手首の拍動はあるものの,その指先は白っぽく末梢チアノーゼの症状を示しており,手や足は冷たい感じであった。上記の血圧は,当時の原告Aの年齢に照らすとかなりの高血圧である(乙16)。これは,上記(d)のとおり,マスキュラックスの筋弛緩効果により原告Aの呼吸が抑制されたことに対する代償作用として,心臓からの血液の拍出量が増大した結果であると推認できる(乙16)。しかし,上記代償措置が働いているにもかかわらず,末梢チアノーゼの症状が示されているのであって,マスキュラックスの筋弛緩効果により呼吸回数を増やすという代償措置は有効に機能せず,血液の拍出量の増大という代償措置も不十分であったということを意味するものであって,この時点において,原告Aに低酸素血症・高炭酸ガス血症が起きていた可能性は十分にあるというべきである(甲22)。

(f) 同日午後7時8分ころ,原告Aの自発呼吸が非常に弱くなり始めるとともに,その瞳孔が両眼とも約5.5ミリの大きさに開いたままで,光を当てても瞳孔が収縮する反応がない状態となり,原告Aの血中酸素飽和度は84パーセントを示した。

I看護師は,同日午後7時5分ころ,原告Aに酸素マスクを装着して1分間に5リットルの酸素投与を開始している。その3分後の原告Aの血中酸素飽和度が84パーセントであったというのであるから,上記酸素マスク装着時の血中酸素飽和度は,更に低かった可能性が十分にあるというべきである。また,血中酸素飽和度が84パーセントというのは,原告Aの血液が強い低酸素状態にあったということができ(甲22。この認定に反するYの供述(乙16)は採用できない。),しかも上記の血中酸素飽和度は,原告Aの呼吸抑制に対する代償措置が精一杯機能した上での数値であること,中枢神経細胞が低酸素状態に極めて弱い臓器であることも合わせ考えると,同日午後7時5分ころ以降の強い低酸素状態によって,原告Aの脳幹部の中枢神経細胞の機能が大きく障害された結果,原告Aの瞳孔が散大し,対光反射を起こさない状態に至ったものと推認するのが合理的である(甲13、22)。

被告は,血中酸素飽和度が84パーセントの状態で中枢神経細胞の機能が大きく障害されて対光反射が消失することはあり得ないと主張するが,上記の強い低酸素状態は同日午後7時5分以降少なくとも数分間は継続したと推認されるのであって,これによって原告Aの脳幹部の中枢神経細胞に強い機能障害が起こった可能性を否定すべき根拠はなく(この認定・判断に反するYの供述(乙16)は,前掲各証拠に照らし、採用することができない。),被告の上記主張は採用することができない。

(g) 同日午後7時15分ころ,原告Aは既に心肺停止状態に陥っていた。これは,同日午後7時8分ころの時点で,原告Aの脳幹部の中枢神経細胞が低酸素血症によって大きく障害された結果,原告Aが重篤な低酸素脳症に陥った結果であると認められる。これは,市立病院に搬送後に撮影された原告Aの頭部造影CT検査の結果,心停止後に見られる一般的な軽い脳浮腫の外には,呼吸停止あるいは対光反射喪失に結びつくような強い脳浮腫,脳出血,脳腫瘍,脳梗塞等の病変が見あたらないこと(乙16)とも符合する。

(h) 原告Aは,市立病院に搬送された後,強い膝蓋腱反射及びアキレス腱反射を起こし,全身に不随意運動を出現させたが,これは原告Aが重篤な低酸素脳症に陥った結果,神経系の障害が起きたためであると認められる(甲22)。

(i) 以上のとおり,原告Aの容体急変後の症状の経過は,マスキュラックスの効果に矛盾しないどころか十分符合するということができ,その経過は,マスキュラックス投与の一次的二次的作用として説明することが十分に可能というべきである。

b 被告は,原告Aの容体急変の原因は,プリンペランの副作用であったと主張する。

しかしながら,上記(イ)のとおり,原告Aに投与されたプリンペランは,ソリタT1のボトル(500ミリリットルのソリタT1にプリンペラン約1.3ミリリットル)に調合され,その溶液は短時間に少量だけが体内に入ったにとどまるから,Zの供述(乙17)に照らしても,この程度の量のプリンペランの単一投与後ごく短時間のうちに急激な副作用が生じたと見るのは不合理である(甲13。この認定に反するZの供述(乙17)は採用できない。)。

したがって,被告の上記主張は採用できない。

c 被告は,原告Aの容体急変の原因は,アセトン血性おう吐症によるものであったと主張する。

しかし,原告Aの容体急変の原因がアセトン血性おう吐症であることを積極的に裏付ける証拠はない上,①原告Aの尿からはケトン体がプラスマイナスしか検出されなかったこと,②原告Aにはアセトン臭が全く認められなかったこと,③原告Aは当時11歳であり,アセトン血性おう吐症の好発年齢ではなかったこと,④原告Aが平成12年10月31日以前におう吐を何度も繰り返したり,原告Cに対して腹痛や吐き気を訴えて病院に連れて行って欲しいと頼んだことはなく,また,H医師が診察していた平成7年3月から平成12年10月までの間にアセトン血性おう吐症の症状は全く見られなかったこと,⑤そもそも原告Aは脱水を引き起こすほどの激しいおう吐を繰り返していない上に,脱水症がひどくなった場合に見られる,唇などの粘膜が渇いたり,体重が減ったり,ぐったりするという所見が認められなかったこと,⑥アセトン血性おう吐症を原因とするショックでは,それ以前に物が二重に見えるなどの症状を呈することはまず考えられない上に,原告Aには急激な血圧の低下が見られず,ショック症状とは矛盾する事情があること(甲13,85)を総合すると,原告Aの容体急変の原因が,アセトン血性おう吐症やアセトン血性おう吐症による脱水症状のショックによるものと判断することは不合理といわざるを得ない。

したがって,被告の上記主張は採用できない。

d 被告は,原告Aの容体急変の原因がてんかん大発作によるものであったと主張する。

しかしながら,上記aのとおり,原告Aには中枢神経の障害による症状が認められるものの,これらはマスキュラックス投与の二次的作用である低酸素脳症によって説明することが十分に可能である上,証拠(甲13,92の1ないし4,証人K)によれば,平成12年11月2日,同月6日,同月14日,同年12月18日の4回にわたる脳波検査において,原告Aにてんかんの脳波所見は見られなかったこと,原告Aの上記(イ)の症状経過はてんかん発作の症状とは異なることが認められるから,被告の上記主張は採用できない。

e 被告は,原告Aの容体急変の原因として,急性脳症などの脳症の可能性も否定できないと主張する。

しかし,上記(イ)及び(エ)aのとおり,平成12年10月31日に撮影された頭部CT検査の結果には,原告Aに明らかな出血を思わせる所見や腫瘤は認められず,脳症などの発症の早い時期に出現することのある異常な低吸収を示す部分もなく,また,はっきりした脳浮腫の所見が認められなかったこと,脳症においては高熱,意識障害及びけいれんが三徴候であるとされているが,原告Aには,当初,高熱や意識障害はなく,また,同年11月6日のCT写真に脳浮腫が現れた原因は,同年10月31日の低酸素脳症によるものであったと考えられること(甲13)などからすれば,原告Aが急変した原因が,急性脳症などの脳症によるものと見るのは不合理である。

したがって,被告の上記主張は採用できない。

f 被告は,原告Aの容体急変の原因は,急性ポルフィリン症であったと主張する。

しかしながら,原告Aの容体急変の原因が急性ポルフィリン症であったことを積極的に裏付けるに足りる証拠はない(むしろ,甲99の診断結果はこれを否定するものである。)。また,上記(ウ)のとおり,原告Aの血液及び尿からマスキュラックスの成分が検出されていること,原告Aの容体急変の原因は,マスキュラックス投与の一次的二次的作用によって説明することが十分に可能であることに照らすと,原告Aの容体急変の原因を急性ポルフィリン症によるものと推認する合理的根拠はないといわざるを得ない。

したがって,被告の上記主張は採用できない。

なお,原告らは,被告の上記主張及びこれに関する書証の提出は,時機に後れた攻撃防御方法であるから却下されるべき旨主張する。しかし,これによって弁論の終結が遅れたという経過にはないことに照らすと,時機に後れたものとまでは認め難いから,原告らの上記主張は採用しない。

g 被告の指摘するその余の諸点は,上記事実に照らし,いずれも原告Aの容体急変の原因がマスキュラックスの効果と符合するとの認定・判断を左右するに足りるものではない。

(オ) マスキュラックスの投与と原告Aの現在の症状との因果関係について

a 原告Aは,低酸素脳症後遺症により,四肢体幹運動機能障害の状態にあり,痙性四肢麻痺,長期臥床,嚥下障害,腸管蠕動運動不全,遷延性意識障害,痙攣発作,知能障害等により,平成12年10月31日から平成13年6月29日まで,市立病院において入院加療し,同年7月4日から現在まで,仙台往診クリニック所属の複数の医師の訪問診療を受けている。具体的には,高度の脳障害に由来する高度の痙性四肢麻痺のため,家で寝たきりの状態であり,日常の動作・活動のすべてについて家族の介助を必要とし,胃と腸に穴を開けて管を通し直接栄養を補給する経管栄養管理を実施し,唾液及び痰の吸引を頻回必要とし,腸の蠕動運動不全に伴うおう吐がたびたびあり,その都度絶食して点滴で対応している。原告Aは家族との意思疎通は全くできない。原告Aの上記の症状は回復の見込みがない。(甲2,3,44,82ないし84,原告C本人)

b そして,上記(イ)ないし(エ)の事実を総合すれば,上記aの原告Aの現在の症状は,平成12年10月31日,Dクリニックで点滴を受けていた際に原告Aの体内にマスキュラックスが投与されたことにより,マスキュラックスの作用によって原告Aの呼吸が強く抑制され,強い低酸素状態となって脳幹部の中枢神経細胞の機能が大きく障害されたたために生じたものと推認することができ,マスキュラックスの投与と原告Aの現在の症状との間には相当因果関係が認められるというべきである。

イ 争点(1)イ(原告Aに対し,故意にマスキュラックスを投与した者は,被告であるか。)について

(ア) 当裁判所は,前記前提事実に,証拠(後掲のもの)及び弁論の全趣旨を総合すると,平成12年10月31日,Dクリニックで点滴を受けていた原告Aに故意にマスキュラックスを投与した者は,被告であると認めるのが相当と判断する。その理由は以下のとおりである。

(イ) 上記アの(イ)ないし(エ)の認定・判断及び証拠(甲22)に照らすと,原告Aにマスキュラックスが投与されたのは,平成12年10月31日午後6時50分ころから午後6時55分ころまでの間であって,その方法としては,点滴溶液で満たされた原告Aに対する点滴ルートの三方活栓から点滴ボトル側の輸液セットにマスキュラックスが混入されたと見るのが最も合理的と推認される。

そして,上記アの(イ)bのとおり,原告Aに対する当初の点滴準備はすべて被告が一人で行ったものであり,他方,被告以外の者が原告Aの上記点滴ルート周辺に近づいた形跡は認められない。

(ウ) 被告は,平成13年1月6日に警察官に対する供述において,同月7日に警察官,検察官及び裁判官に対する各供述において,平成12年10月31日にDクリニックに入院した原告Aに対する点滴の際,その点滴液の中にマスキュラックスを混入させて原告Aに投与した事実を認めている(甲74ないし77)。上記各供述のうち,とりわけ,同月7日に仙台簡易裁判所裁判官に対してなされた被告の供述(甲77)は,勾留質問時においてなされたものであって,上記供述の場所は仙台簡易裁判所の勾留質問室であり,その場に立ち会った者は,裁判官と裁判所書記官のみであって,捜査機関側の人物はいないこと,供述に先立って黙秘権,供述拒否権及び弁護人選任権が告知されていること,その供述内容は,勾留請求書記載の被疑事実に対し,単純にこれを認めるだけの供述ではなく,H医師を困らせるためにやったもので殺意はなかった旨マスキュラックスを混入させた動機を明らかにした上で殺意を否認する弁解をした上,原告Aに対しては申し訳なかった旨謝罪の意思まで述べていること,被告は,同日,上記勾留質問手続がなされる前に弁護士二人と接見しており,その際,弁護士から,「やったものはやった,やっていないものはやっていないとちゃんと区別して答えるように。」とのアドバイスを受けていることが認められる(乙9)のであって,これらの事実に加え,上記ア(ウ)のとおり,その供述内容が原告Aの血液や尿からマスキュラックスの成分が検出されたという客観的事実に符合していることに照らすと,上記勾留質問時の被告の供述の信用性に疑いを容れる余地はないというべきである。被告の指摘する諸点は,上記認定・判断を左右するに足りない。

(エ) 上記アの(イ)bのとおり,被告は,原告Aの容体が急変した前後において,原告Aが身体の異常を訴え始めたことを認識していたのに,原告Aに対する処置を何らとることなく,病室を出て行き,H医師に対し,「お腹が痛くなると物が見えないとか言っているんですよ。」などと緊迫感に欠ける発言をしていること,原告Aに対してバッグアンドマスクの人工呼吸が必死に続けられていた最中に,原告Aからそのマスクを外し,喉頭鏡で原告Aの口の中をのぞき込んだ上,H医師に対して気道確保の処置を促していることが認められるところ,これらの言動は,看護師として患者急変時にとるべき行動とはかけ離れた特異なものと評価せざるを得ない。そして,被告からH医師に向けられたこれらの言動は,上記(ウ)のとおり,H医師を困らせようとして実行したという被告が供述した本件不法行為の動機と符合するものということができる。

(オ) 被告の指摘する諸点は,上記(イ)ないし(エ)の事実に照らし,いずれも被告が原告Aに故意にマスキュラックスを投与したとする認定・判断を左右するに足りるものではない。

(2)  したがって,被告は,原告らに対し,民法709条,710条に基づき,本件不法行為によって原告らが被った後記損害を賠償すべき責任がある。

2  原告らの損害(争点(2)(損害の有無及び範囲))について

(1)  当裁判所は,以下の事情を総合考慮すると,本件不法行為による原告らの精神的苦痛に対する慰謝料は,原告Aにおいて4000万円を,原告Aの両親である原告B及び原告Cにおいて各500万円をそれぞれ下回るものではないと認めるのが相当と判断する。

(2)  本件不法行為は,多数の入通院患者に医療行為を実施していた相当規模の病院に准看護師として勤務していた被告が,その入院患者である原告Aの体内に,極めて危険な作用を伴う筋弛緩剤であるマスキュラックス溶液を故意に注入してその容体を急変させ,回復の見込みのない植物状態に陥れたという,医療施設内において,医療行為を装って敢行された凶悪な犯罪行為である。その犯行態様は,医療の専門家として適切な処置をしてくれるものと信じて病院を訪れる患者の看護師に対する信頼を逆手にとり,医療従事者としてあるまじき手段によって行われた卑劣きわまるものであり,原因不明の容態急変に襲われた原告Aの恐怖や原告Cの驚愕,その後に被告による本件不法行為の経過を知った原告らの怒りと悲しみの大きさは察するに余りある。その上,被告は,本件不法行為発覚後も,容体急変は原告Aの素因にあるとして不合理な弁解を重ね,本件不法行為による責任の回避を画策するなどしており,その結果として本件の解決を長期にわたって待ち続けることを余儀なくされた原告らの苦しみの大きさも十分に考慮しなければならない。

(3)  原告Aは,本件不法行為当時,小学校6年生であり,普段と変わりなく一つ下の妹と共に元気に学校に通い,勉強し,友達と遊んでいたのであり,原告Bと原告Cは,原告Aの将来の成長を楽しみにしつつ,平穏な生活を送っていたものである。それにもかかわらず,被告の本件不法行為によって,原告Aは,普段の楽しい学校生活や家族との会話はもちろん,無限に広がっていたはずの未来の全てを失い,一生自らは何もできず,絶えず完全かつ細心の注意を払った介護を受けざるを得ない悲惨な状況に陥れられた(甲44,82,83)。

これらの事情を考慮すると,原告Aの本件不法行為による恐怖,苦しみ,絶望の大きさは,想像を絶するものがあると言わざるを得ない。

(4)  上記1のア(オ)のとおり,原告Aは,現在も意識が戻らずに重篤な後遺障害を持ったままの寝たきりの状態にあり,両親である原告Bと原告Cらによる24時間の介護を受けなければその生命すら維持できない状態にある。原告Bと原告Cは,原告Aとの平穏な家庭生活を打ち砕かれ,失意のどん底に突き落とされたばかりでなく,並大抵ではない介護の労苦を背負いつつ,やり場のない怒り,悲しみに耐えながら,必死に原告Aの介護を続けている現状にあり,その心労は限界に達しつつある。(甲44,82,83)

これらの事情を考慮すると,原告Bと原告Cが本件不法行為によって受けた苦痛は,原告Aの生命を侵害された場合に比肩すべき極めて大きなものというべきである。

(5)  原告Aは,本件不法行為によって将来の逸失利益のみならず,将来の介護費用相当額の損害をも被ったことが認められるところ,本件不法行為による損害賠償としては,慰謝料のみを請求する意思であることが窺われる(弁論の全趣旨)。

3  以上によれば,原告らの請求はすべて理由があるから,いずれもこれを認容することとし,主文のとおり判決する(なお,被告の仮執行免脱宣言の申立ては,相当でないから却下する。)。

(裁判長裁判官 潮見直之 裁判官 近藤幸康)

裁判官 千葉直人は,転補につき,署名押印することができない。 裁判長裁判官 潮見直之

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