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仙台地方裁判所 平成16年(ワ)1495号 判決 2008年11月25日

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は,原告の負担とする。

事実及び理由

第1当事者の求めた裁判

1  請求の趣旨

(1)  被告は,原告に対し,1億0859万0221円及びこれに対する平成15年7月14日から支払済みまで年5パーセントの割合による金員を支払え。

(2)  訴訟費用は,被告の負担とする。

2  請求の趣旨に対する答弁

(1)  第1項,第2項につき,主文と同旨

(2)  仮執行免脱宣言

第2事案の概要

本件は,亡Aの権利を相続した原告が,亡Aが死亡したのは,被告が設置管理する宮城県立がんセンター(以下「被告病院」という。)において,担当医師及び看護師によって,亡Aの不穏状態の鎮静のために過量のセレネース及びドルミカムが投与されたことによるとして,被告に対して,主位的に不法行為に基づき,予備的に診療契約上の債務不履行に基づき,損害の賠償(1億0859万0221円及びこれに対する亡Aが死亡した平成15年7月14日から支払済みまで民法所定の年5パーセントの割合による遅延損害金)を求める事案である。

1  前提事実(認定に用いた証拠等を末尾に掲げる。)

(1)  当事者(争いのない事実)

ア 原告は,亡Aの妻であり,亡Aの権利を相続した。

イ 被告は,被告病院を設置管理する地方公共団体である。

(2)  亡Aの手術経過  (乙A2,弁論の全趣旨)

ア 平成15年7月10日(以下,特に断らない限り平成15年中のことなので,年の表記を省略する。),被告病院外科のB医師により,直腸低位前方切除術,人工肛門造設術(回腸)が施行された。午前9時40分に麻酔(全身麻酔)を開始し,午後5時30分に麻酔を終了した。手術時間は午前10時19分から午後4時53分までの6時間34分,出血量は4400mlであった。出血は,主に前立腺付近の小血管からの出血が中心であり,出血量は午前11時45分ころの時点で約450ml,午後零時30分ころの時点で約800mlであった。このため,午後零時40分ころから濃厚赤血球輸血を開始し,手術中に濃厚赤血球計20単位の輸血を行った。手術中は,出血のために一時的に血圧が低下したこともあったが,輸血や昇圧剤などの対処により改善し,動脈血酸素飽和度も保たれ,特段の異常所見を認めなかった。

イ 午後5時35分に手術室を退室したが,この際には呼吸,血圧等落ち着いており,開眼して応答できる状態であった。

ウ 摘出した癌は約5.5センチメートル×8センチメートル大のものであり,ほぼ直腸の全周にわたるものであった。実際に行った手術は,病巣部分の直腸と周囲のリンパ節をあわせて取るものであり,根治度A(目に見える癌は一応取りきったと思われる。)であるが,目に見えない癌があれば再発も懸念される状態であった。

(3)  7月10日の亡Aの症状経過(手術後)  (乙A2,弁論の全趣旨)

ア 集中治療室(HCU)へは午後5時40分に入室した。入室後直ちに心電図モニター及び自動血圧計を装着され,この後常時医師又は看護師らの観察下におかれた。帰室後バイタルサインはまずまず安定していたが,尿量が若干不足していた。ドレーンからは血性の排液があり,当初排液量は120ml/時程度であったが,後に減少した。疼痛の訴えがあり,麻酔の影響と思われる呼吸抑制が軽度見られた。

イ 午後11時ころに被告病院麻酔科C医師が診察した際には,痛みはなく,麻酔からの覚醒も進み,咳による喀痰の排出も可能であった。血圧は落ち着いており,ドレーンからの排液は400mlであったが,少しずつ減っている様子であった。

(4)  7月11日の亡Aの症状経過  (乙A2,弁論の全趣旨)

ア 前日の尿量は642ml,ドレーンからの排液は11日朝までで700ml程度(淡血性,血液,浸出液,リンパ液等あわせた液)であった。ドレーンの排液量は「多い」と評価されたが,11日に入ると排液の1時間量は安定してきていた。

また,バイタルサインは安定しており,血圧は概ね収縮期血圧で120ないし100mmHg程度,拡張期血圧で75ないし55mmHg程度であり,脈拍は概ね60ないし90/分程度と,いずれも特に問題は認めなかった。出血も止まり,覚醒や痛みのコントロールはまずまず良好と思われた。

イ 午後には経鼻胃管を抜去した。また,プロタノールを午後1時ころ中止した。検査成績でも術直後と著変なく,全身状態もよく,ベッド上での座位を開始した。ただし,かゆみがあった。また,咳をすると創部が痛んだり,動くと痛いというときがあった。

夕方にC医師が診察したところ,痛みはなく,血圧も安定,利尿期はまだであり,ドレーンの排液は落ち着いてきている,明日にも離床が進められると見込まれた。

さらに,血圧が安定していることからノルアドレナリンを減少しようと検討された。

麻酔からは完全に覚醒し,自分の置かれている状況(HCU)を認識し,精神的に落ち込んでいる様子が見られた。

(5)  7月12日の亡Aの症状経過  (乙A2,弁論の全趣旨)

ア 午前8時ころのC医師の回診時にも,痛みはなく,室内気でも酸素の状態はよかった。前日の尿量は2168ml,ドレーンからの排液は350ml程度(淡血性),回腸瘻からの排液が少量あった。

尿量が増加し,麻酔後のいわゆる利尿期に入ったと思われた。また,ノルアドレナリンは12日早朝ころには1ml/時まで減少させていたが,この漸減にもかかわらず,血圧も100/50mmHg程度に落ち着いており,全体としてよく反応していると評価された。

貧血が若干進んだ様子については,体内に水分が戻ってきたためであるのか,まだ出血が続いているためかいずれかと思われた。

脈拍数は100弱/分と若干頻脈傾向であった。

イ 痛みのコントロールは良好と思われた。腹部は柔らかく,若干膨隆していたが,腸の蠕動もあり,このため水分可,歩行可とされた。水分摂取可とし,ベッドサイドで立位,足踏み等も行った。バイタルサインは安定しており,酸素供与も中止した。

ウ 検査結果でも変化はなかったが,心拍数の増加を認めたため,体内の水分不足が懸念され,濃厚赤血球を4単位輸血した。

エ 倦怠感を訴え,表情がさえず,他の患者(手術後HCUには一泊のみで通常の病室へ戻る患者)と自分を比較し,落ち込む様子がみられた。夜間も不眠や疲労感などを訴えた。

(6)  7月13日午前中の亡Aの症状経過  (乙A2,弁論の全趣旨)

ア 深夜帯に,「腸が動いて痛い」との症状を訴えた。

血圧,脈拍は安定していた。人工肛門からの排液はかなり多く,午前8時までの前日量として2420mlあった。

イ B医師は午前8時ころ亡Aを診察したが,この際にも「腸が動いて痛い」との訴えがあった。

しかし,診察の結果,血尿やドレーンからは200mlの排液(漿液性)があったが,腹部は柔らかく,軽度膨隆あり,圧痛なし,腸音聴取できたほか,創部は問題なく,放屁もあるなど,特段の異常所見はなかった。

ウ 午前8時ころにはC医師も亡Aを診察し,創部痛はないが蠕動痛があることを確認した。血圧は90/60mmHg程度,脈拍は85/分程度と,いずれも正常であった。尿量は25ml/時間でまずまずであった。

また血圧がノルアドレナリンを止めても90台/70台mmHgと安定していた。また,酸素飽和度も安定していたので,動脈ラインを抜去した,創部痛のコントロールは良好であった。

(7)  7月13日昼ころの亡Aの症状経過  (乙A2,弁論の全趣旨)

ア 午前11時ころ及び午後3時ころには38度程度の発熱が見られた。

イ 午後3時ころにババロアを4口摂取したところ,午後4時ころに「腸が動いて痛い」との訴えがあり,B医師の指示によりブスコパン1アンプルを投与したところ,速やかに痛みは軽減した。

ウ 夕方まで血圧や脈拍等は概ね安定していたが,パウチ内には時間あたりにして300ml/時間以上の排液があり,いわゆる下痢状態であった。腸蠕動も聴取され,腸の動きも盛んであると考えられた,倦怠感があるとのことであった。

(8)  7月13日夕方以降の亡Aの症状経過  (乙A2,弁論の全趣旨)

ア 午後6時ころの夕食も15口程度摂取した。ベッド端に座って食事を摂ったが,特に訴えはなかった。

イ 原告が午後7時から1時間程度亡Aに面会した。原告は面会後看護師に対し,亡Aが「俺もうだめだ」と精神的に落ち込んでいる,大丈夫なのかと尋ねた。担当看護師が亡Aに具合を尋ねたところ,「傷の両脇が動いて痛い」という訴えがあった。

また,38.4度程度の発熱もあった。

ウ その後は間もなくうとうとしていたが,本人は眠った自覚がないらしく,午後8時40分ころ担当看護師に対し,「眠れない」と訴えた。

エ 午後9時過ぎころから不穏が始まり,午後9時50分に心肺が停止した(以下「本件急変」という。)。

(9)  7月14日午前零時10分,亡Aは死亡した。

(10)  上記のほか,本件における診療経過は,別紙診療経過一覧表のとおりである(ただし,争いのある部分は除く。)。

(11)  また,亡Aの心電図は別紙心電図のとおりである。なお,別紙心電図記載の時間は当裁判所が認定する時間より約7分進んでいる(以下,特に心電図上の時間を指すときには24時間制で表記する。)。  (乙A7,証人D)

2  争点及び主張

(1)  亡Aの死因(心停止に至る機序)は何か。

(原告の主張)

ア 亡Aの死因は,「セレネースの過量投与による血圧低下→血圧低下による低酸素血症→ドルミカムの不適切な使用→呼吸抑制(呼吸中枢の抑制及び呼吸関連筋の弛緩)→呼吸数減少及び舌根沈下→下顎呼吸→血圧低下の進行,心拍数低下→呼吸停止→低酸素血症(脳及び心臓への酸素供給減少)による組織障害の進行→心停止」によるものである。

(ア) セレネース及びドルミカムの薬効

a セレネースの副作用としては,呼吸循環器系の副作用として,心室頻拍,血圧低下,心電図異常・頻脈・起立性低血圧,呼吸困難等が挙げられる。

b ドルミカムの副作用としては,無呼吸,呼吸停止,舌根沈下が生じることがある。

(イ) 心電図上の心拍数減少の経過(7月13日)

心電図によると,21時48分の心拍数は95,21時49分が92,21時50分が89,21時51分が81,21時52分が67,21時53分が59,21時54分が54,21時55分が46,21時56分が32,21時57分に心停止となっている。また,21時48分以降は筋電図が全く消えている。

(ウ) 被告病院D看護師のメモ

D看護師のメモによると,ドルミカム投与後に「その後,次第に下顎呼吸となり,心拍数低下見られ,血圧測定するが,測定不可」との記載がある。また,D看護師は,最初のドルミカムを投与して2,3分様子を見たが体動が治まらないので追加投与したら鎮静したと証言している。

(エ) C医師のカルテ

ドルミカム2mgフラッシュしたところ舌根沈下,下顎呼吸,血圧低下,徐脈,心停止とC医師作成のカルテに記載されている。

C医師は主治医であり,また麻酔の専門家でドルミカムの薬効を熟知していた。D看護師からも自分が不在の間の心肺停止であるからその前後の状況については詳細な説明を求めたはずである。D看護師以外他の誰も言わない下顎呼吸について記載されているのは直接説明を求めた証拠である。そして舌根沈下についてはD看護師が直接観察できたわけではないから自己の経験と医学的知見を当てはめて合理的に死亡に至る機序を説明できるものとしてカルテに記載したのである。

(オ) 心疾患その他急激な循環不全をきたす疾患の可能性がないこと

本件では呼吸不全が先行しない突然の循環不全は考えられない。

循環中枢が保たれ,かつ心臓に十分な酸素が供給されてなお突然の心停止を来たすということは,その原因は心臓のポンプ機能自体の突然の障害ということになる。

しかし,突然の心筋梗塞は剖検所見で否定されている。大動脈瘤破裂による大量出血も否定されている。肺血栓塞栓症も否定されている。残るは突然の致死的不整脈(心室細動及び無脈性心室頻拍)くらいであるが,心電図記録にはそのような不整脈の所見は全く見られない。なお,鑑定人E医師(以下,E医師が作成した鑑定書及びE医師の鑑定人尋問の結果をあわせて「E鑑定」という。)が指摘する21時55分10秒の心停止直前の房室ブロックの所見及び被告主張の徐脈性不整脈は,低酸素血症で心停止に至る場合通常見られるものであって本件の死亡原因ではない。

(カ) 以上の事実からすれば,7月13日21時44分ころに最初のドルミカムが投与され,21時47分ころに追加投与がなされ,21時48分ころに過鎮静に陥ったと考えるのが合理的である。そして,そのために21時49分ころから呼吸抑制が始まり呼吸数が減少しその後次第に下顎呼吸となった。21時53分以降急速に徐脈が進んでおり,その時に呼吸停止(舌根沈下が進んで気道が完全閉鎖)したものと考えられる。

21時49分ころからの呼吸抑制によって元々セレネース投与による血圧低下で低酸素血症を起こしていたのに加えて脳及び心臓(他の臓器も同じだが)の虚血が進行した。さらに21時53分ころに完全に呼吸停止したことで虚血が急激に進行し,それによって脳及び心臓の機能が低下して4分後の21時57分に心停止(心静止)した。

イ 呼吸停止から心停止までの時間

(ア) 被告は,呼吸停止から心停止までの時間的経過が通常の場合と符合しない旨主張する。

(イ) 健常人であれば呼吸停止から心停止までに5ないし10分かかることもあるが,基礎にショックや低酸素血症が存在していたなら心停止はそれ以下の時間で間もなく起こる。

(ウ) 亡Aは,本件急変の3日前の7月10日に直腸切除手術中血管を損傷して4500ccもの大量出血をした。その後11日にも多量の出血があり,そのため,亡Aは7月10日以降著しい血小板数の減少,すなわち,貧血の状態が続いて,7月11日以降疲労感を訴え,7月12日に濃厚赤血球4単位を輸血されている。また,亡Aには,本件急変時において1400ミリリットル程度の腹腔内出血があった。そのため,亡Aは本来150台の血圧であるはずなのに実際は手術後は収縮期100程度しかなく,明らかな貧血を呈していたのである。明らかな貧血であるから当然ヘモグロビンの量は少なく低酸素血症の状態にある。なお,高齢者では貧血の患者が多く低酸素血症があってもチアノーゼを認めないことが多いのである。

そして,本件では血圧低下をきたすセレネースが過量投与され,実際に血圧が低下しており,ドルミカム投与後の血圧は68,カルテの温度板では65と記載されており,ショック状態と判断して構わない血圧であった。

つまり,亡Aは呼吸停止時においてショックと低酸素血症が存在していたのであるから,心停止は5ないし10分以下の時間で間もなく起こる患者だったのである。

ウ 蘇生に反応しなかったこと

(ア) E鑑定は「心筋を機能的に抑制したことによる心不全もしくは治療抵抗性の刺激伝導系の抑制による徐脈からの心停止あるいは両者によるものと考えた方が蘇生に反応しなかった理由も説明しうる」とする。

(イ) 一般に心肺蘇生の奏功率は心停止あるいは呼吸停止からの経過時間によって違いがあるとされ,心停止の原因を問うことなく呼吸停止後10分,心停止後3分の時点の奏効率は50パーセントとされている。しかし,心肺蘇生の奏効率は①心室細動の場合,②心静止の場合,③電導収縮解離の場合で異なり,①心室細動の場合が最も蘇生が期待し得るが,②最初から心静止の場合(呼吸停止から低酸素血症によって心室細動を起こさずに心静止となった場合)は予後は極めて悪いとされる。③電導収縮解離の場合は原因疾患が重篤な場合が多くそれが改善されない限り蘇生の成功は難しいとされる。

(ウ) また蘇生措置について,AHA(アメリカ心臓学会)のガイドライン(日本のガイドラインもならっている。)によれば,平成15年当時から,ボスミンの1mgを3ないし5分毎に静脈投与することはゴールデンスタンダードとされている,心静止の場合はさらにアトロピン1mgを3ないし5分毎に3回まで投与することを考慮するとされている。

しかし本件において,ボスミンは21時56分の心停止後,午後10時30分ころまでの34分間に2回(計2mg)しか投与されていない。

このような蘇生措置の不十分さがもともと予後が悪いとされる心静止の蘇生をより困難にしたのである。

(エ) さらに本件では血圧低下,心拍数低下の副作用を有する(つまり心機能低下をもたらす)セレネースが過剰投与されていること,腹腔内出血の持続によると思われる貧血と低血圧が生じていたことの2点も併せ考えれば,蘇生に反応しなかった理由は十分に説明がつく。

エ 呼吸停止と心停止は同時であったか。

ア(カ)で述べたように,午後9時48分ころに過鎮静が生じており,それから心停止までは9分間あることになる。その9分間の間に亡Aは徐々に下顎呼吸となったものであるから,亡Aには心停止前に下顎呼吸が存在したこと,下顎呼吸が存在した以上その前から呼吸不全(呼吸数の減少,一回換気量の減少)があったことは明らかである。

以上から呼吸停止は心停止の前に起きたことは明らかである。そしてその時期は,本来最後の最後まで維持されるはずの心拍数が急激に低下しはじめた午後9時53分ころである。

(被告の主張)

ア 7月13日午後9時ころ以降の亡Aの状態

(ア) 極めて重度の不穏であったこと

亡Aはベッドから起きあがりそうにし,看護師らの抑制も聞かず振りほどこうとし,力を込めて体を左右に動かすので,一瞬たりとも抑えるのを止められないような状況であった。これは鎮静と不穏を測定する指標によれば,最重度の「危険な不穏状態」と評価されるものであった。

この不穏が解消されたのは,ドルミカムを2アンプル投与後,血圧が60台mmHgになったことを確認し,ノルアドレナリンを増加したまさにその際であった。このとき亡Aは初めて看護師の腕から手を離し,仰臥位になり,徐脈になったのとほとんど同じくらいの時間に努力様呼吸になり,心停止した。

(イ) F医師やD看護師らが徐脈になったと認識したのは21時56分10秒ころ以降である。

(ウ) 薬剤投与時間について

亡Aが「痛みはないけどなんだかからだがおかしい」と叫び,暴れ出したのが21時25分ころである。その状態を確認したD看護師が,C医師に電話で報告し,同医師とやり取り等をした上で,セレネースの注射準備をしバイタルサインを確認して注射開始するまでには相当時間が経過していたはずである。その後5分程度経過観察し,再度セレネースを注射開始するまでにも相当時間が経過していたはずである。これを繰り返し,セレネースを4回投与し,さらにドルミカム投与に際しては,シリンジポンプをセットし,シリンジポンプ用の注射器にドルミカムと生理食塩水を吸い上げて調整し,延長チューブ等を接続するなど,実際の投与までにはさらに相当時間を要した。ドルミカムについても,投与した後も相当様子を観て鎮静されないことやバイタルサインを確認して2回目投与し,投与後ようやく鎮静されたところ,速やかに徐脈から心停止に至った(21時56分ころ)として,時間経過として全く自然である。

(エ) 心停止のごく直前までは呼吸抑制がなかったこと

鎮静され上記(イ)の徐脈が生じるまで呼吸状態に異常はなく,下顎呼吸はなく,あっても心停止の30秒前ころであった。呼吸抑制や呼吸停止が心停止の何分も前から生じていたのに放置された事実がないのは,経過を通してサチュレーションも異常ではなく,90台前半(軽度低下)になったこともなかったこと,亡Aがいわば最後まで不穏や体動を続けていたことなどから明らかである。呼吸抑制や停止があれば,サチュレーションは低下し,顔色は変わり,胸郭の動きを含めた全身の動きが停止するので,医師や看護師が注視しながら何分も呼吸抑制や停止を放置し続けるということは到底考えられない。なお,突然下顎呼吸が生じるということも,その原因となった病変が急激に生じたのであれば,何ら奇異ではない。

(オ) 血圧低下の程度

D看護師は,ドルミカム投与を終え,この際血圧が60台mmHgであることを確認した。また,F医師は亡Aの身体を抑えながら終始脈に触れ,その脈の触れ具合を確認していたし,D看護師も脈診により血圧を測定していたが,心停止の直前までは測定可能であった。心停止の直前まで末梢血管で脈が触れたということは,血圧が60mmHg程度はあったことを意味する。

したがって,D看護師がドルミカム投与を終えるまでは少なくとも60台mmHg以上の血圧は保たれ,これ以下になったのはドルミカム投与後,徐脈になったころが初めてである。

イ 急変から死亡に至る病態

(ア) 何らかの心臓の問題が存在した可能性等

亡Aの場合,心停止の直前である21時56分40秒ころ房室ブロックが生じ,速やかに心停止になった。このブロックが出現した期間は短く,数十秒間程度以内に心停止に至った。

様々な病態で死亡の直前には同様の不整脈を来すし,電解質の異常や原発性の不整脈(心臓自体に何らかの問題があって生じる不整脈)でも同様の不整脈を来す。まさに不整脈発生当時の亡Aの電解質の状態は不明であり,電解質の異常があった可能性も否定できない。さらに,器質的な心臓の刺激伝導系(心臓のリズムの発生と連絡をつかさどる部分)の障害があった可能性も否定できない。

(イ) セレネースやドルミカムの直接作用による心停止

a セレネースに関して

セレネースが心臓に直接作用して房室ブロックや心停止を来すという医学的知見はない。

セレネースによる心電図変化はQT延長又はTorsades de poaints(トルサーデポア)が知られているが,他の種類の不整脈を生じるとはされていない。本件ではQT延長もTorsades de poaints(トルサーデポア)も出ていない。

b ドルミカムに関して

ドルミカムの副作用としては呼吸抑制や血圧低下がよく知られているが,房室ブロックや原発性の心停止は知られていない。

(ウ) 呼吸中枢や循環中枢の障害による心呼吸停止

a 医学的経験則

呼吸中枢の障害が生じ,そのために呼吸抑制や呼吸停止が生じ,低酸素血症が高じて心停止を生じるような病態では,呼吸が止まってから10分から15分程度の時間を要する。

血圧低下が高じてこのために呼吸循環中枢が障害されて心停止を来す場合については,通常60mmHg程度の血圧であれば,例えば何時間も続かなければ生じるものではない。

b 本件においていずれの中枢障害も考えられないこと

薬剤性・呼吸中枢の障害であれば,7分程度放置しても補助呼吸をすれば通常回復する。どれほど長く見ても当時F医師らが数分以上も呼吸抑制を放置したということはあり得ず(そもそも放置した事実はないが),亡Aがドルミカム等により生じた呼吸中枢の障害のために心停止に至った機序は考えられない。

血圧についても,心停止のごく直前まで60mmHg以上はあったのだから,ドルミカム等により生じた血圧低下による中枢障害のために心停止に至った機序は考えられない。

c 薬剤との関係

ドルミカムの副作用として呼吸抑制と血圧低下がよく知られているが,亡Aがこれらの作用により死亡したのでないことは,上記から明らかである。

セレネースはそもそも呼吸抑制や血圧低下の副作用を有するものではない。

(エ) 蘇生への反応が乏しかった原因

蘇生への反応が乏しかった原因は不明である。なお,ボスミン投与のために反応性が乏しかったのではない。すなわち高度徐脈・心停止時には速やかに心臓マッサージ及び補助呼吸(アンビューバッグから気管内挿管)を行ったところ,通常であればこれらにより速やかな心臓の反応が期待できた。しかし実際に蘇生されなかったことは,ボスミン投与の有無にかかわらず,何らかの原因により蘇生に反応しないという特殊事情が亡A側に存していたことを意味するのである。

(2)  セレネース及びドルミカムの投与方法に対する評価

(原告の主張)

ア セレネースの投与方法の誤り

(ア) 一日あたりのセレネース使用量遵守義務違反

a セレネースの1日あたりの投与量は2アンプル(10mg)であり,幻覚症状が激しく早期の鎮静が必要な場合であっても,最高15mgの投与しか認められていない。それにもかかわらず,被告病院は当該使用量の定めに反し,7月13日午後9時15分ころから同30分ころにかけ,セレネース4アンプル(20mg)を投与した過失がある。

b 少なくともセレネースは一回投与量は1アンプル(5mg)である。そして1日あたりの投与量は通常多くても2アンプルである。そうだとすれば,一旦セレネースを投与した場合,少なくとも数十分は経過を見て逐次増量すべきである。

本件においては,最低限セレネース2アンプル投与後に,少なくとも1時間程度様子を見るべき義務があった。

それにもかかわらず,被告病院の担当医師・看護師らはその義務を怠り,同日午後9時15分ころから30分ころにかけて,2アンプル目投与後わずか15分以内にさらに2アンプルを逐次投与した過失がある。

(イ) 血圧低下が見られた際のセレネースの投与方法遵守義務違反

セレネース投与後は患者の観察を十分に行い,異常が認められた場合はセレネースの減量又は中止するなど適切な処置を行うこととされている。このことはセレネースの添付文書にも記載されている。

本件ではセレネース2アンプル投与後に実際に血圧低下というセレネースの副作用が出現しているにもかかわらず,D看護師は医師の指示を受けずに,ノルアドレナリンを投与しながら,さらにセレネースを2アンプル追加投与しており,減量や中止等の適切な処置を行っていない。したがって,被告病院の担当医師は副作用出現時の対応において添付文書の記載を無視した過失がある。

さらに,亡Aのセレネース2アンプル投与後の78という血圧はショック状態を疑わせる数値であったのであるから,なおさら上記適切な措置をとるべきであった。

イ ドルミカムの基本的投与方法を遵守しなかった過失

(ア) ドルミカム投与の必要性がないのに投与した過失

カルテのC医師の記載を見ると「セレネース投与後鎮静傾向見られる」と記載されている。したがってそもそも本件ではドルミカムを投与する必要性がなく,投与したこと自体が過失である。

(イ) ドルミカム投与方法の誤り

a ドルミカムを麻酔前投薬の目的で用いる場合は,成人の場合,体重1キログラムあたり0.08ないし0.10mgを,手術前30分から1時間前に,筋肉内に注射する。全身麻酔の導入及び維持の目的で用いる場合は,成人の場合,体重1キログラムあたり0.15ないし0.30mgを静脈内に注射し,必要に応じて初回量の半量ないし同量を追加する。集中治療における人工呼吸中の鎮静にあたっては,初回投与は成人には0.03mgを少なくとも1分以上かけて静脈内に投与する。必要に応じて0.03mgを少なくとも5分以上の間隔をあけて追加投与するとされている。そして前記いずれの場合においても投与に際しては,患者の年齢,感受性,全身状態,手術術式,麻酔方法に応じて適宜増減する。本剤の作用には個人差があるので,投与量(初回量,追加量)及び投与速度に注意することが必要であるとされている。

麻酔前投薬の目的で用いる場合のドルミカムの投与方法や集中治療における人工呼吸中の鎮静のための同使用方法は,副作用を最小限に抑えるために添付文書によって定められている。従って,被告病院はドルミカム投与時にそのような投与方法を遵守する義務があった。

b ところが,被告病院の担当医師・看護師らは少なくとも1分以上かけて投与する,追加投与する場合には少なくとも5分以上かけて追加投与するという「集中治療における人工呼吸中の鎮静の」使用方法にすら違反しており,上記義務を怠った過失がある。

(ウ) セレネースの過剰投与後に併用した過失

ドルミカムには,無呼吸,呼吸抑制,舌根沈下,血圧低下の副作用がある。そして,添付文書には使用上の注意として「循環器系の抑制に注意すること」とされ,不整脈・血圧低下などの循環器系副作用が0.1ないし5%の頻度で生じること,頻度不明であるが呼吸抑制を経ない心停止が報告されていることが記載されている。かようにドルミカムには呼吸器系だけではなく循環器系にも重篤な副作用をもたらす可能性のある薬剤である。したがって既に血圧が低下している患者に対する投与や,副作用をもたらす可能性のある薬剤との併用は慎重でなければならない。

しかるに本件ではセレネースをわずか15分の間に4アンプル(20mg)も投与し,患者はその副作用として血圧低下を来した状態であった。ノルアドレナリンの投与にもかかわらずセレネース4アンプル終了後の血圧は68であった。このようにノルアドレナリン投与の効果が認められず,セレネースの連続過剰投与によって血圧低下が徐々に進んでいるという状況の下ではドルミカムの併用はしてはならなかった。また,仮に併用する場合にはセレネース投与後最低でも15分程度状態を観察し血圧が安定したことを確認の上で投与すべきであった。

しかし,被告病院の担当医師・看護師らはこのような注意義務を怠ってドルミカムを投与した。

(エ) ドルミカムの追加投与の過失

本件ではドルミカム投与後2ないし3分でさらに追加投与がなされている。ドルミカムの鎮静効果は2ないし3分で確認できるはずがない。また,この2ないし3分の間に患者の不穏状態が悪化したり,実際にライン類に手をかけて引き抜こうとしたなどのエピソードは存在しない。この場合は健常人でも最低5分程度は時間を空けて追加投与すべきなのであり,ことに亡Aはセレネースの過剰投与によって血圧が低下し,その低下傾向はノルアドレナリン投与によっても改善されていないのであるから,10分程度は時間をあけて過鎮静に陥っていないか観察の上追加投与すべき義務があった。この間仮に不穏が続いたとしてもその程度の時間は人力で抑制することが十分に可能である。

しかるにD看護師はその義務を尽くさずC医師への状態報告や追加投与の時間的間隔の指示もせずにわずか2ないし3分で追加投与した過失がある。

ウ 医師の裁量について

a E鑑定によれば,セレネース及びドルミカムの投与方法の適否については,結局はどの程度鎮静の必要性があったのか,どの程度の鎮静を目指したのかという点との兼ね合いで判断すべきことで,通常より時間的間隔が短くとも直ちに不適切と断定はできない,とされている。

b しかし,上記鑑定意見はあくまでもどうしても鎮静の必要がある状態であったこと,そしてそれを医師が確認したことを前提として医師の裁量を肯定する趣旨と考えるべきである。

(a) そして,本件では通常とるべき観察時間をとることをできないほどに体動が激しかったわけではない。

F医師は亡Aを押さえたといってもそれほど強く押さえたわけではないのであるし,亡Aの貧血及び腹腔内出血の状況からしてD看護師らのいうように40分にわたって暴れ続けることなど考えられない。また,心電図の電極は胸部に3つ付けられていたがテープで固定されているもののちょっと体を動かしたらぽろっと外れてしまってもおかしくないような状況であったにもかかわらず,心電図の電極は一度も外れていないのである。さらに心電図記録を見れば体動を示す基線の揺れや筋電図はそれほど長時間記録されているわけではない。

(b) そしてF医師は,投与した薬剤について看護師から聞いたかどうかは定かではないが使うとすればセレネースだろうと思ったが投与量は理解していなかったのであるし,ドルミカムについても投与速度も量は当時わかっていなかった。このように自分で鎮静方法や鎮静の必要性の判断を行おうとしない当直医がベッドサイドにいたとしても,それではE鑑定人が想定するような医師の判断ができ得る状況にあったとはいえない。

(c) 以上から本件では通常の投与方法以外の方法を採ったことについて医師の裁量を肯定する前提を欠く。

エ 医師が立ち会わずにセレネース及びドルミカムを投与した過失

(ア) 本件でC医師は看護師から電話で状態の報告を受けただけでセレネース及びドルミカムの投与を指示している。しかも投与間隔については全く指示していない。またどのような場合に再度連絡して指示を仰ぐべきかについても指示していない。

セレネースには血圧低下,心拍数低下という重大な副作用があり,ドルミカムには呼吸抑制,さらには過鎮静による呼吸停止という重大な副作用がある。このような薬剤を鎮静に用いる場合には必ず医師が状態を診察し,その観察の下で投与されるべきである。しかし,C医師はこの義務を怠っている。

(イ) 仮に看護師に投与を任せることが許されるとしても,薬剤の追加投与の必要性の具体的判断基準とその場合の投与間隔について明確な指示をしておくべきであるのにこれを怠っている。

(被告の主張)

ア 添付文書の意義

添付文書は薬剤開発に伴う膨大な資料と厳重な基準で行われる治療試験に基づいて作成され,原則として当該医薬品使用の基準(準則)となるものである。しかし,市販後長期経過している薬剤は,開発当時の適応とは別の薬効がある,あるいは別の使用のされ方の効果及び安全性が確認されることもあり,薬剤の投与法も,経験と知見の積み重ねにより時代とともに変遷する。

そこで,添付文書にかかる使用法は,当該医薬品を使用する際の注意義務の基準とはなるが,これ以外の使用法がすなわち注意義務違反ではなく,その使用方法に相当(又は特段)の理由があればやはり合理的な使用といえる。そして,その相当(又は特段)の理由の存否及び内容については,添付文書以外の当時の医学文献や実際の利用のされ方により判断すべきである。

イ 薬剤投与における医師の裁量

特に本件のように高度の不穏により患者の生命身体に危機が及んでおり,緊急の対処が必要とされる場面での薬剤投与には,通常より広い医師の裁量が認められる。

セレネースもドルミカムも,いずれも「症状に応じて適宜増減する」「高度の不穏の場合にはセレネース初期量を10ないし20mgとする」など,その具体的場合のあてはめに際して,必ず現に診療する医師の判断で増減・調整できる一定の幅が設けられている。具体的場合の緊急性,投与の必要性,見込まれる副作用の危険性等の総合判断は,当該患者にかかる事情の一切を基礎に,まさに診療に携わる医師でなければ適切な判断ができないからである。こうした事情を考慮すれば,具体的場面においてその事情に基づいてある投与方法を行ったという医師の判断を後に振り返って法的に非難する際には謙抑的にならざるを得ない。これが「医師の裁量」である。

ウ セレネースの使用方法

(ア) セレネースは国内での使用開始から30年以上経過した,古くから使われ,多くの使用経験が蓄積した医薬品である。

(イ) セレネースの添付文書では「通常成人1回5mgを1日1ないし2回筋肉内又は静脈内投与する。年齢,症状により適宜増減する」とされている。ここで投与量について「適宜増減する」とし,記載量(10mg)より増加を許容する旨の記載になっているのは,不穏状態に対する鎮静効果については効き具合に個人差があるので,場合によってはこれ以上の使用も許容されるとの趣旨である。また,添付文書では投与間隔についてことさら記述していないのは,どの程度の時間的経過をもって追加すべきかについても,患者の状態,不穏の程度,緊急性等の事情を総合しないで合理的な指針を出しかねるため,医師の裁量に委ねる趣旨である。

(ウ) 不穏時の鎮静目的でのセレネース投与方法については,既に述べた以外にも次のような投与方法が認められている。

a 重篤な不穏の場合には初回投与量10mg以上,15ないし20分後に倍量投与。不穏が治まるまで繰り返す。投与量の限界は臨床上の症状と効果による。患者が落ち着いたら,最終量を次のインターバル(15ないし20分後)に再度投与する。量と間隔は臨床経過により調整する。

b 最初に5mgを投与し,速やかに30ないし75mgの単回投与に増やす方法がSosらにより提唱されている。

(エ) 本件の投与の評価

亡Aは最重度の不穏状態であった。放置した場合には,ベッドから落ちたりカテーテル等のラインを抜いたりするなどのおそれがあり,生命身体への危機が現実的であったのであるから,この状態を鎮静させる緊急性や必要性は極めて高いものであった。

そして,上記に述べたセレネースの投与方法によれば,「初回投与量を5mgとし,不穏が治まらない場合に5分ごとに5mg投与する」という投与方法は,まさにこれらの推奨する範囲内の投与方法である。また,終始医師が随伴してバイタルサインと効果等を確認し,万が一の救急蘇生処置にも対応できるような環境の中で投与を行ったものであり,緊急性が高く,これを行わなければまさに亡A自身の生命身体の危険が現実的であった状況では,注意義務に即した投与と評価すべきものである。

エ ドルミカムの投与について

(ア) ドルミカムも古くから臨床使用されてきた薬剤で,薬価収載は1988年,既に国内だけでも20年の使用経験の積み重ねがある。

(イ) ドルミカムは,麻酔前投薬,全身麻酔の導入及び維持,集中治療における人工呼吸中の鎮静に適応がある。これら総じて,いずれ人工呼吸を予定しており呼吸抑制に対する対応が十分に可能な場合(麻酔前,全身麻酔の導入),あるいは既に人工呼吸を行っているので呼吸抑制が問題にならない場合(全身麻酔の維持,人工呼吸中)の鎮静に用いられる。

これをふえんしてドルミカムは,呼吸状態に留意し,呼吸抑制時に対処できる状態で一般的に末期不穏,不快な処置に対する短時間の鎮静,破局的な事態を管理するため(自傷他害など)の鎮静に用いられる。海外では,ドルミカムは様々な治療あるいは診断的手技において,局所あるいは部分的麻酔時に(全身麻酔ではないので自然呼吸である)補助的に静脈投与される薬剤として有用とされる。この場合必要量は平均して0.1mg/kgとされる。

こうしたことから,セレネース等で効果がない重度の不穏に対し,セレネースの次に用いられる薬剤はドルミカムの他にはない。さらにC医師は亡Aに対して,7月10日の手術時にも本件よりはるかに多い量のドルミカムを投与したが,血圧低下,心電図その他で特段の異常が生じなかったことを確認している。

上記の事情のもと,既にセレネースを20mg投与してもなお不穏が治まらず,鎮静の緊急性が高く,これを行わなければまさに亡A自身の生命身体の危険が現実的であった状況で,医師や看護師がベッドサイドにおり各種モニターを装着するなど緊急処置体制を敷いた状況でドルミカムを1mgずつ投与したことは,まさに注意義務に即した対処であった。

(3)  損害

(原告の主張)

ア 逸失利益 6729万0221円

亡Aは死亡時50歳であり,平成14年の給与収入は852万6600円で妻と5人の子供があった。したがって生活費控除を30パーセントとしてライプニッツ方式(係数11.274)で中間利息を控除して算出するのが相当である。

8,526,600×11.274×0.7=67,290,221

イ 死亡慰謝料 3000万円

亡Aは一家の主柱でありその死亡による精神的苦痛を慰謝するには3000万円が相当である。

ウ 葬儀費用 150万円

エ 弁護士費用 980万円

請求金額の1割が相当である。

オ 合計金 1億0859万0221円

(被告の主張)

原告は,副作用救済給付制度により葬祭料18万9000円と,平成18年7月から10年間1月あたり19万8200円の遺族年金の支払を得るものであり,これらは本訴で請求にかかる原告の損害の填補となるものであるから,葬祭料18万9000円と,平成18年7月から本件口頭弁論終結時までの遺族年金の合計額について損益相殺されるべきである。

第3当裁判所の判断

1  争点(1)について

(1)  7月13日午後9時以降の事実経過

ア 前提事実,証拠(乙A2,7,8,12ないし18,B1,証人C,証人D,証人F,証人B,証人G,E鑑定)及び弁論の全趣旨によれば以下の事実が認められ,この認定を覆すに足りる証拠はない。

(ア) 午後9時10分ころ,亡Aがうなりはじめ,体動が激しくなった。

D看護師がどうしたのか尋ねたところ,「腹の真中は痛くないが,両脇腹が痛い。」と訴えた。D看護師の「動くとベッドから落ちますから,危ないですよ」との説明に「はい」と答えるものの,体動は続いた。このとき,H看護師も亡Aの手を押さえたり説得したりしていた。

(イ) D看護師はC医師に電話で連絡し,C医師から,ブスコパン2アンプルを生理食塩水に溶解し20mlとし,ゆっくり注射する旨の指示を受けた。このとき,H看護師一人では亡Aを抑えることが困難だったため,当直医のF医師を呼んだ。そしてD看護師は,注射の準備をし,シリンジポンプで10分程度かけて静脈注射を行った。

(ウ) しかし亡Aの体動は一向におさまらず,痛みも訴え続けていたため,D看護師は主治医のB医師に電話連絡をした。D看護師がB医師に状態報告をすると,レペタン,モルヒネ等の鎮痛剤を使用したいが,鎮痛剤の指示は麻酔科医に確認をとってほしいとのことだったので,D看護師は再度C医師に電話連絡をした。C医師からは,モルヒネ50mgを生理食塩水50mlに溶解し,1mlずつ早送りして持続点滴施行して下さいとの指示を受けた。

(エ) 午後9時25分ころ,D看護師はモルヒネを注射する準備をし,シリンジポンプにシリンジをセットした上で,亡Aに痛みの確認をしたところ,亡Aは「痛みはないけど,体がおかしいんだ」と大声で叫びだした。亡Aは体を左右に激しく動かし,看護師の説明も聞き入れない状態であり,点滴,ドレーン等を抜去する危険があった。D看護師は痛みがないのにモルヒネを投与するわけにはいかないと考え,再度C医師に電話連絡をして状況報告をした。そこでD看護師はC医師から,セレネース1アンプル(1アンプル1ml中セレネース5mg)ずつ4回まで投与してもよい,それでも落ち着かなければドルミカム20mgを生理食塩水20mlに溶解し,1mlずつ早送りし,持続点滴して下さいとの指示を受けた。

(オ) D看護師は,セレネース1アンプルを亡Aに静脈注射したが,亡Aの体動は全く治まらなかったので,約5分後にさらにもう1アンプル静注した。それでも体動の落ち着きはまったく見られなかったが,亡Aの血圧は78まで低下した。そこで,D看護師がC医師に対して電話連絡をして,血圧低下について説明したところ,同医師からノルアドレナリンの投与指示を受けた。そして,ノルアドレナリンを5ml/時の速度で投与開始し,2アンプル目のセレネース投与から5分後にセレネースを1アンプル,さらに5分後に1アンプル追加投与した。また,血圧低下に対し,ノルアドレナリンを10ml/時に増量した。

(カ) セレネースを合計4アンプル投与した後も,亡Aに鎮静は得られなかった。起きあがろうとしたり,手で触るものは何でもつかんで,点滴のラインを引っ張ることもあったり,右を向いたり左を向いたりしていた。そこで,D看護師はドルミカムを早送りで1ml(1ml中ドルミカム1mg)投与した。そして2ないし3分様子をみたが,鎮静されなかったので,更に1ml追加投与した。

(キ) D看護師がドルミカムを2ml投与し終えた時点で,亡Aの血圧は68まで低下していたため,D看護師はノルアドレナリンを30ml/時にした。亡Aの体動は少しずつ治まり,それまでつかんでいたD看護師の片腕も次第に手を離した。このころ,頻脈だった亡Aの心拍数も落ちてきていた。そこでD看護師がドルミカム,ノルアドレナリンの効果が出てきたと考え(血圧が上がると脈拍が下がるのが生理的反応),亡Aの血圧を測ろうとしたら,橈骨動脈が触れなかった。

(ク) D看護師は,H看護師に対し,C医師に電話をして状況報告をするように指示をした。この段階では,まだ亡Aに体動が見られたが静かであった。H看護師がC医師に電話で報告をしていたところ,午後9時49分ころになって,亡Aは著しい徐脈(心電図上の21:56:10からの30秒間の心拍数が21)に陥るときに,突然下顎呼吸となった。D看護師は,亡Aが下顎呼吸になっていることに気づき,F医師がアンビューバッグを装着し,人工換気をした。

(ケ) 亡Aは,午後9時50分ころに心停止となった。

(コ) 上記心電図記録はG看護師が7月14日午前10時ころに心電図の器械から印刷したものである。この心電図器械のモニターは,亡Aに付けている間は,亡Aのバイタルサイン(脈波,酸素飽和度,心電図,呼吸波形及び動脈圧)を表示しているものの,当時24時間記憶するように設定されていたのは心電図と動脈圧のみであった。

(サ) セレネース投与を開始した午後9時25分ころから心停止となった同50分までの間,サーチュレーション(動脈血酸素飽和度)を測定するプローブが外れ,このため酸素飽和度測定器のアラームが鳴ることはあったが,プローブが付いている間,亡Aのサーチュレーションが少なくとも90以下の異常な数値を示すことはなかった。また,F医師,D看護師,H看護師のいずれもが,亡Aの呼吸状態を意識しており,モニターのみならず亡Aの様子をみて呼吸状態の確認を行っていたが,D看護師が亡Aの下顎呼吸に気づくまでは,誰も異常があるとは認識しなかった。

(なお,この点原告は,本来残されているべき酸素飽和度,呼吸数等のバイタルサインの推移を記録したものがない本件では,医師や看護師の証言を事実認定に用いるべきではないと主張するが,亡Aのバイタルサインを表示していたモニターは,脈波,酸素飽和度,心電図,呼吸波形及び動脈圧を表示していたが,そのうち24時間記憶するよう設定されていたのは心電図と動脈圧のみであるから,酸素飽和度,呼吸数等の記録が残されていないことはやむを得ず,これをもって上記各証言の信用性を否定する根拠とはならない。)

(シ) 午後9時50分ころ,亡Aが心停止となった直後から,F医師及びD看護師により心マッサージが開始された。2ないし3分後に,呼吸器外科I医師が到着し,心マッサージを施行した。同時に,F医師が経口挿管の操作を開始した。亡Aが心マッサージに反応しないことから,硫酸アトロピン1アンプル,ボスミン2アンプルを静注しつつ心マッサージを継続したが,全く心拍出現がなかった。

(ス) 午後10時30分ころ,C医師が来棟し,心マッサージを行いながら,更に追加で(午前零時までの間に)プロタノール62アンプル,ノルアドレナリン30アンプル,ボスミン38アンプル,硫酸アトロピン2アンプルを授与したが,改善が見られなかった。

(セ) 午後10時40分ころ,B医師が来棟し,その指示でメイロン80ml,ソルコーテフ1000mgを授与したが,改善が見られなかった。

(ソ) その後,午前零時まで心肺蘇生措置を続けるが,心拍出現なく,午前零時10分に死亡が確認された。

(タ) C医師のカルテには「ドルミカム1mgのフラッシュを行ったところ舌根沈下 下顎呼吸 血圧低下,徐脈から心停止となった」旨記載されているところ,この記載は,C医師が亡Aが死亡したすぐ後に,F医師,D看護師,H看護師からの説明を元に心停止に至る経過を簡潔に要約して記載したものである。

(チ) D看護師が亡Aの急変後数か月の期間内に作成した亡Aの急変前後の事実経過を記載したメモには,ドルミカムやノルアドレナリンの投与後「その後,次第に下顎呼吸となり,心拍数低下みられ,血圧測定するが,測定不可。」との記載がある。

(ツ) 7月14日午前8時45分ころより病理医J医師の執刀で剖検が施行された。脳については病理解剖は行われなかった。

その結果,後記認定のほか,腹腔内に約500ccの出血を認めたが,腹痛を起こすような所見は認められず,突然の心停止を起こすような所見も認められなかった。

B医師は,原告に対して,死因になるような明らかな症状は認めなかったが慢性の心不全が存在し,そこに手術の侵襲が加わり,術後全身状態は改善したように見えたが完全ではなく,さらに何らかの侵襲が加わり,不可逆的な心不全に陥った可能性があると説明した。

(テ) 7月30日,病理検査の結果がでたが,後記認定のとおり腹痛の原因となるような組織所見は認められず,心,肺にも死亡につながるような所見は認められなかった。

(ト) 8月4日,B医師は,原告に対して,再度,死因になるような明らかな症状は認められなかったが,慢性の心不全が存在し,そこに手術の侵襲が加わり,術後全身状態は改善したように見えたが完全ではなく,さらに何らかの侵襲が加わり,不可逆的な心不全に陥った可能性があると説明した。

イ 原告は,ドルミカム投与以降の時間経過について,午後9時37分に最初のドルミカムが投与され同40分ころに追加投与がなされ,同41分ころに鎮静されたが,過鎮静に陥ったため午後9時42分ころから呼吸抑制が始まり呼吸数が減少し,その後次第に下顎呼吸となり,かつ,午後9時46分以降急速に徐脈が進んでいることから,同46分に呼吸停止したと主張する。

確かに,亡Aには前記のとおり下顎呼吸が見られたところ,通常下顎呼吸には呼吸抑制状態が先行し,突然下顎呼吸になるのは何らかの疾患がある場合に限られるが,本件ではその疾患が確認されていないこと等,呼吸抑制状態が先行していたのではないかとの疑いを抱かせる事情も存在することは否定できない。

しかし,上記アのとおり,午後9時49分の急変に至るまで,亡Aのサチュレーションが異常な値を示したことはないこと,亡Aの側でその呼吸状態を観察していたF医師,D看護師,H看護師のいずれもが,午後9時49分にD看護師が下顎呼吸を認識するまで,亡Aの呼吸抑制を認識していないところ,複数の医師及び看護師らが患者の呼吸状態に注意を払っていたにもかかわらず上記下顎呼吸に先行する呼吸抑制状態をを見過ごしたという事態は通常考え難く,これを見過ごしたことをうかがわせる特段の事情も存在しないことに照らすと,亡Aは,午後9時49分になって先行する呼吸抑制状態を経ることなく急速に下顎呼吸となったと見るのが合理的である。D看護師の「次第に下顎呼吸となり」とのメモからは下顎呼吸の前に呼吸抑制状態があったということまで読み取ることは困難であるし,C医師のカルテには「ドルミカム2mgフラッシュしたところ舌根沈下,下顎呼吸,血圧低下,徐脈,心停止」との記載があるが,これはC医師がF医師,D看護師,H看護師からの説明を元に心停止に至る経過を簡潔に要約して記載したものであり,本件急変の際に,亡Aの状況を実際に自分で確認して記載したものではないことから,いずれも上記認定を覆すに足りるものではないというべきである。

したがって,原告の時間的経過に関する上記主張は理由がない。

(2)  セレネースやドルミカムの薬効

前記認定事実,証拠(乙B1,2)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められ,この認定を覆すに足りる証拠はない。

ア セレネースについて

(ア) 添付文書によると,セレネースの用法・用量は,「急激な精神運動興奮等で緊急を要する場合に用いる。ハロペリドールとして,通常成人1回5mg(1mL)を1日1ないし2回筋肉内または静脈内注射する。なお,年齢,症状により適宜増減する。」というものである。

(イ) 相互作用(併用禁忌)

ボスミン(エピネフリン)との併用は,セレネースがエピネフリンの作用を逆転させ,重篤な血圧降下を起こすことがある。

(ウ) 過量投与による症状には,主なものとして低血圧,過度の鎮静等がみられる。また,呼吸抑制および低血圧を伴う昏睡状態や心電図異常(Torsades de poaintsを含む)があらわれることがある。

イ ドルミカムについて

(ア) 添付文書によると,ドルミカムの用法・用量は,ドルミカムを麻酔前投薬の目的で用いる場合は,成人の場合,体重1キログラムあたり0.08ないし0.10mgを,手術前30分から1時間前に,筋肉内に注射する。全身麻酔の導入及び維持の目的で用いる場合は,成人の場合,体重1キログラムあたり0.15ないし0.30mgを静脈内に注射し,必要に応じて初回量の半量ないし同量を追加する。集中治療における人工呼吸中の鎮静にあたっては,初回投与は成人の場合,体重1キログラムあたり0.03mgを少なくとも1分以上かけて静脈内に注射する。必要に応じて体重1キログラム当たり0.03mgを少なくとも5分以上の間隔をあけて追加投与する。

(イ) ドルミカムの重大な副作用として,無呼吸,呼吸抑制,舌根沈下があらわれることがある。

(3)  亡Aの病理解剖の結果

前記認定事実,証拠(乙A2)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められ,この認定を覆すに足りる証拠はない。

ア 7月14日に行われた亡Aの剖検の結果は要旨以下のとおりである。

1. 静脈侵襲を伴った直腸腺癌の切除後(7月10日)

a) mod,a2,ly0,vl,ow(-),aw(-),n(+)

b) 局所進展,腹膜播種,遠隔転移は認めず

c) 組織学的に縫合線にわずかな血液と局所的な腸管壊死を認める。

d) 吻合部よりの大量の出血は認めない。

e) 腸管穿孔,腹膜炎の所見は認めず。

2. 左心室の中心性の肥大(wt:390g)。臨床的に高血圧。

冠動脈硬化,心筋梗塞は認めず。

腹腔動脈,上腸間膜動脈には動脈硬化は認めず。

動脈瘤,腸管の壊死等は認めず。

3. 左副腎に1cmの腺腫あり。

4. 肺鬱血(lt:655g rt:690g),しかし肺炎は認めず。

胸水(lt:100ml rt:100ml)

5. 肉眼的には肝,腎に軽度の貧血を認めるも,組織学的には特に異常は認めない(肝 wt:1845g 腎 lt:160g rt:205

g 膵臓 異常なし)。

6. 死亡原因

a) 直接原因:突然のショックまたは急激な原因不明の心不全

b) 間接原因:剖検では判明せず

c) 基礎疾患:直腸癌

イ その後行われた病理解剖の結果は要旨以下のとおりである。

1. 上記ア1と同旨

2. 急性の心肺不全

a. 著明な肺背側の鬱血(lt:655g rt:690g),しかし肺炎は認めず。

b. 胸水(lt:100ml rt:100ml)

c. 増加した血液(500cc)

d. ヘモジデリンを持ったマクロファージ,これは左心不全の徴候。

e. 明らかな肺動脈の塞栓を伴わない,背側の肺の組織学的な壊死を伴った浮腫,

3. 左心室の求心性の肥大,中等度(wt:390g),壁が柔らかく,弱い。臨床的に高血圧。

冠動脈硬化,心筋梗塞は認めず。

腹腔動脈,上腸間膜動脈には動脈硬化は認めず。

動脈瘤,腸管の壊死等は認めず。

4. 上記3と同旨

5. 上記5と同旨

6. 死亡原因a)直接原因:急性の循環呼吸不全b)間接原因:心不全(左)状態に近い状態c)基礎疾患:直腸癌

(4)  医学的知見

前提事実,証拠(甲B26,E鑑定)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められ,この認定を覆すに足りる証拠はない。

ア 呼吸停止と心停止の関係について

(ア) 「ステップアップ救急救命士国家試験対策」によれば,心肺停止の病態生理として,「呼吸停止が先に起こった場合はさまざまであり,もともと基礎にショックや低酸素血症が存在していたのなら,それに続く心停止は間もなく起こる。しかし,健常人がいきなり異物による完全気道閉塞を起こした呼吸停止の場合では,心停止までに5ないし10分かかることもある」とされている。

(イ) 「気管挿管インストラクターハンドブック」によれば,一般に完全気道閉塞などにより呼吸停止が起こった場合には,10ないし15分の間には,心肺停止となり,死にいたるとされている。

(ウ) E鑑定によれば以下のように説明される。

生体は自らは呼吸しなくても人工呼吸によりある程度の生命反応(心拍再開など)は期待できる。たとえば,全身麻酔をするときには,呼吸中枢を抑制する薬を使って患者の呼吸を止めて,人工呼吸を施す,手術が終わって自発呼吸をするようになってから人工呼吸をやめるという手順を踏み,自発呼吸が停止した状態からでも通常は状態が改善する。

脳幹部の障害の有無にかかわらず,薬剤性の呼吸抑制であれば,人工呼吸を実施することによって,低酸素血症が改善されるのであるから,心臓に器質的な障害がなく有効な心臓マッサージが行われているのであれば,薬剤の投与量等にかかわらず早い段階である程度状態が改善する徴候が見られる。

イ 蘇生措置について

(ア) 今日の治療指針2007年版によれば,心停止(心肺蘇生時)のカテコラミン投与の処方例として,ボスミン→注(1mg)1回1アンプル(小児では0.01mg/kg)静注,心拍再開まで3ないし5分ごとに反復投与するとされている。

(イ) ボスミンの添付文書には,用法・用量として,蘇生などの緊急時には,アドレナリンとして,通常成人1回0.25mg(0.25ml)を超えない量を生理食塩液などで希釈し,できるだけゆっくりと静注する。なお必要があれば5ないし15分ごとにくりかえす。

併用禁忌として,抗精神病薬(セレネース含む)が挙げられており,ボスミンの昇圧作用の反転により,低血圧があらわれることがあるとされている。

ウ 血圧低下と心停止について

(ア) 血圧が60mmHg以下となると,橈骨動脈で脈が触れなくなることがある。

(イ) E鑑定によれば,以下のように説明される。

麻酔中に収縮期血圧が60mmHg前後が5ないし10分程度持続しても,直ちに徐脈から心停止に至ることは少ない。直ちに心停止に至る場合は,もともと心筋梗塞がある場合,血圧低下に伴い心筋梗塞が発症した場合,著しい大量出血の場合,もともと心不全のような器質的疾患がある場合が多い。

生命予後はともかく,敗血症性ショックなどの症例などでは,数時間ないし数日単位で低血圧状態(収縮期血圧が60mmHg前後)が持続する例も数多くある。このような低血圧状態の症例では,心拍数100/分を超えるような頻脈状態が,時に数時間ないし数日単位で持続する。最終的には多機能不全や心不全などで亡くなることもあるが,器質的変化がない場合,重症の敗血症性ショックの患者においても約45分程度の低血圧で心停止に至ることは少ない。

(5)  各鑑定意見

証拠(甲B25の1・2,E鑑定)によれば,以下の事実が認められ,この認定を覆すに足りる証拠はない。

ア E鑑定は要旨以下のとおりである。

(ア) 亡Aの死因について,セレネース及びドルミカムの投与が,亡Aの心停止との因果関係がまったくないとは考えられない。

しかしながら,その心停止にいたる過程に関して,①セレネースを4アンプル投与したこと及びドルミカムを投与したことによって呼吸抑制を生じ,その結果,心停止に至ったか②上記薬剤の投与によって血圧が低下し,その結果,心停止したかのいずれかあるいはその両者によるものであるとは言い難い。

その理由としては,①でないことについては,亡Aが呼吸抑制から心停止に至る場合に通常想定されるような経緯をたどっていないこと,人工呼吸,心臓マッサージに対して全く反応していないことの2点が挙げられ,②でないことについては,収縮期血圧で60mmHg以下の著しい低血圧状態であった可能性は少ないこと,著しい低血圧状態が45分あったとしても心停止に至るには時間が短いこと,人工呼吸,心臓マッサージに対して全く反応していないことの3点が挙げられている。

心臓マッサージに全く反応していないことについては,上記(4)ア(ウ)の知見によれば,ボスミンを投与するまでもなくある程度反応があってもよいはずであるし,ボスミンとセレネースの副作用については,血管拡張作用により蘇生に反応しづらくなることはあるものの,やはり,低酸素血症を改善し,ある程度心臓マッサージをすることによって反応があってよいとされている。

(イ) 亡Aの死因としては,心筋を機能的に抑制したという機序が考えられ,この事態を生じさせる疾患としては,薬剤の可能性や電解質異常しか考えられない。

イ K医師による鑑定(以下「K鑑定」という。)は要旨以下のとおりである。

(ア) 亡Aの死因及び死亡に至る機序について,薬剤による呼吸抑制によって心停止した可能性が最も高い。

その理由としては,セレネース及びドルミカムの過剰投与により,舌根沈下・呼吸停止を起こした場合には,全身組織における低酸素血症を招来し,心臓も低酸素状態となる。そのため交感神経緊張状態を引き起こし,通常当初頻脈となる。更に低酸素状態が続くと交感神経が鈍麻し,徐脈となる。この状態までなると心筋虚血がさらに進み,心室細動といった致死的不整脈や心静止が誘発されることは稀ではない。その結果心停止となる。本件は上記経過を辿っており,通常想定される機序である。

術前心電図上,明らかな異常は認められず,胸部レントゲンを含む術前検査所見・既往歴等において,心不全を示唆するものは認められない。

これらのことから心停止は,呼吸停止により引き起こされたものと考える。

(イ) また,薬剤による心機能低下によって心停止した可能性は少ない。薬剤による呼吸停止による心停止以外の心停止の可能性としては,手術がある。

(ウ) 本件で行われた心肺停止後の蘇生処置は適切である。

(6)  前記前提事実及び上記認定事実に基づいて,亡Aの心停止に至る機序について検討する。

ア まず,セレネース及びドルミカムの薬効による呼吸停止からの心停止という機序について検討する。

(ア) この点,セレネース4アンプル(20mg)及びドルミカム2ml(2mg)を投与した後,亡Aに下顎呼吸がみられ心停止に至っていること,15分間に4アンプル(20mg)という添付文書記載の標準的な用量に比べて過量のセレネースを投与していること,その後10分足らずの間にドルミカム2ml(2mg)を投与していること,セレネースには過量投与による効果として呼吸抑制等があること,ドルミカムの副作用として呼吸抑制,舌根沈下等があることからすれば,亡Aが心停止したのはセレネース及びドルミカムの薬効によるものではないかとの疑いを抱かせる事情が存在することは否定できない。

(イ) しかし,以下に述べることからすれば,亡Aの心停止がセレネース及びドルミカムの薬効による呼吸停止に基づくものであると認めることは困難というべきである。

a 下顎呼吸から心停止までの時間経過

上記認定事実によれば,亡Aには午後9時49分に下顎呼吸が見られ,同50分には心停止に至っているところ,呼吸停止からの心停止という機序であれば,通常,心停止に至るまでは呼吸停止から数分以上かかるというのが医学的知見である。もっとも,患者にショックや低酸素血症が存在する場合には呼吸停止に続く心停止は間もなく起こることもあり得るとされており,亡Aの血圧は,セレネース2アンプル投与後78,ドルミカム2ml投与後68とショックをうかがわせる程度の低血圧であった。しかし,亡Aにはショックをうかがわせる程度の低血圧はあったものの,前記認定のとおり,午後9時49分になるまで,亡Aのサチュレーションは異常な値を示しておらず,低酸素血症をきたしていたとまでは認められないし,動脈硬化,心筋梗塞といったその他の器質的疾患があったことも認められていない。また,下顎呼吸から心停止までの時間経過は約1分であって,通常5ないし10分かかる時間経過に比べれば極めて短時間である。そうであれば,E鑑定のとおり,本件機序をセレネース及びドルミカムによる呼吸停止からの心停止と考えるには,医学的知見に照らして時間経過が短すぎるというべきであり,上記機序と認定することは事実経過と整合しないといわざるを得ない。

b 蘇生措置との関係

上記認定事実によれば,薬剤による呼吸停止に続いて心停止になったのであれば,人工呼吸と心臓マッサージが施されることで,早い段階で改善する徴候が見られるはずである。しかし,本件では,亡Aの下顎呼吸が始まった直後にF医師によりアンビューバックが装着され,人工換気が施され,心停止の後はD看護師とF医師により心マッサージが開始され,2ないし3分後にはF医師により経口挿管の操作が開始されるという,下顎呼吸の直後から十分な人工呼吸及び心臓マッサージが実施されていた状況であったにもかかわらず,亡Aの状態には何の改善も見られなかった。

この点原告は,亡Aが心肺蘇生措置に反応しなかったのは,ボスミンの投与量がガイドラインに比べて少なかったこと,セレネース等により血圧低下が起きていたこと等の事情に基づくものであり,心肺蘇生措置に反応しなかったことをもって薬剤によるものではないということはできない旨主張する。しかし,E鑑定によれば,本件で仮にボスミンの投与量の不足や血圧低下といった事情があったとしても,本件機序が薬剤による呼吸停止に続く心停止であれば,上記事情にかかわらず,早い段階で反応が見られるはずであるとされているのであり,上記原告の主張では心肺蘇生措置に反応しなかったことの説明はつかないというべきである。

そうであれば,本件機序をセレネース及びドルミカムの薬効による呼吸停止からの心停止と考えることは,亡Aが蘇生措置に何ら反応を示さなかったことと整合しないといわざるを得ない。

c K鑑定の検討

これに対してK鑑定によれば,本件は薬剤による呼吸抑制によって心停止した可能性がもっとも高いとされており,その理由として,セレネース及びドルミカムの過剰投与により,舌根沈下・呼吸停止を起こした場合には…心臓が頻脈,さらに低酸素状態が続くと徐脈,その後心静止が誘発され,本件はこれと同じ機序であるとされている。しかし,前記認定事実によれば,本件で下顎呼吸が見られたのは徐脈とほぼ同時であるから,上記の呼吸停止→頻脈→徐脈という機序とは異なる。したがって,K鑑定と上記判断は前提とする事実が違っており,異なる結論に至ることも不合理ということはできない。

d 以上に検討したことからすれば,本件機序がセレネースやドルミカムの薬効による呼吸停止からの心停止であると認めることはできない。

イ 次に,セレネース及びドルミカムの薬効による血圧低下からの心停止という機序について検討する。

上記認定事実によれば,器質的変化がない場合,麻酔中に収縮期血圧が60mmHg前後が5ないし10分程度持続しても,直ちに徐脈から心停止に至ることは少なく,重症の敗血症性ショックの患者においても約45分程度の低血圧で心停止に至ることは少ない。

そして,亡Aには器質的変化と呼べるほどの異常は発見されていない。また,ドルミカム2ml(2mg)目投与後の亡Aの血圧は68であるところ,ドルミカム2ml目を投与したのは,D看護師が午後9時25分から5分ごとにセレネース4アンプルを投与して,その後ドルミカム1mlを投与して2ないし3分待って再度1mlを投与した時であるので,少なくとも午後9時42ないし3分以降であると認められる。そして,午後9時49分には橈骨動脈が触れなくなっている(血圧60mmHg以下の可能性が高い。)。この事情からすれば,亡Aの血圧が60mmHg以下であった時間は長くても7ないし8分である。

そうであれば,上記医学的知見に照らせば,本件のように直ちに徐脈から心停止に至ることは少ないのであるから,本件機序がセレネース及びドルミカムの薬効による血圧低下からの心停止であると認めることはできない。

ウ 以上に述べたことからすれば,亡Aの心停止がセレネースやドルミカムの投与によって発生したと認めることは困難というべきである。

(3) 以上のとおりであるから,亡Aに対するセレネース及びドルミカムの投与と,亡Aの死亡との間に相当因果関係を認めることができない以上,その余の点について検討するまでもなく,原告の請求は理由がないというべきである。

2  以上によれば,原告の本訴請求は理由がないから棄却することとし,訴訟費用の負担について民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 潮見直之 裁判官 近藤幸康 裁判官 高橋幸大)

(別紙省略)

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