大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

仙台地方裁判所 平成17年(ワ)1390号 判決 2008年9月29日

主文

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第1請求

被告は,原告Aに対し,金2504万9838円,原告Bに対し,金1177万4919円,原告Cに対し金1177万4919円,及びこれらに対する平成15年7月18日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要等

1  事案の概要

本件は,大動脈弁閉鎖不全症に罹患していた原告らの被相続人が,被告が設置する病院において大動脈弁置換術を受けた後,臨床経過としては敗血症様の症状を呈し,術後約14日後に心室細動により死亡したことについて,被告病院の医師らには術前管理としてのステロイド剤の投与方法に過失があったこと及び大動脈弁置換術の説明内容が不十分であったことを主張して,診療契約不履行による損害賠償請求権並びに不法行為による損害賠償請求権に基づき,逸失利益等の損害の賠償を求めた事案である。

2  前提事実

争いがない事実の他,証拠(事実ごとに後掲)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。なお,平成15年の事実については,以下年の表記を省略する。

(1)  当事者

ア 原告Aは亡D(昭和5年4月14日生まれ)の妻であり,原告BはDの長女であり,原告C(以下原告A,原告B及び原告Cを併せて「原告ら」という。)はDの長男である(甲C1)。

イ 被告は,被告病院を開設している国立大学法人である。

(2)  Dは,平成14年10月ころより,不整脈,動悸,労作時の息切れを自覚して,近医の羽根田病院を経て,公立相馬病院において精密検査を受けたところ,大動脈弁閉鎖不全症(Ⅲ度)との診断を受け,被告病院に手術目的等で紹介された(甲A3,乙A1の3頁)。

(3)  Dは,2月6日,被告病院心臓血管外科(以下,単に「心臓血管外科」ということがある。)外来を受診し,E医師の診察を受け,大動脈弁閉鎖不全症であり,手術適応であるとの診断を受けた(乙A1の2頁)。

(4)  Dは,2月18日,精査の上,大動脈弁置換術を受ける目的で,心臓血管外科に入院したが,Dには,喘息症状がみられたため,同月26日,被告病院感染症・呼吸器内科(以下,単に「感染症・呼吸器内科」ということがある。)に転科し,気管支喘息の治療・コントロールを受けることとなった(乙A1の14頁)。

(5)  感染症・呼吸器内科では,主治医のF医師が治療にあたった(証人F4頁)。

Dに対し,3月11日から,デカドロンの全身投与が行われたところ,後鼻漏が悪化して下気道感染を併発したため,同月15日に,デカドロンの投与は中止された。

(6)  F医師がDを後鼻漏の治療目的で被告病院耳鼻咽喉科に紹介したところ,同科において,Dについて慢性副鼻腔炎であるとの診断がされた(乙A1の60頁)。

(7)  平成15年4月ころ,Dの喘息症状が安定してきたため,Dは,同月8日一度被告病院を退院し,感染症・呼吸器内科を外来により受診して経過観察を受けることとなった(乙A1の11頁)。

その後,Dの喘息症状と慢性副鼻腔炎が軽快し,大動脈弁閉鎖不全症の手術を受けることが可能な状態となったので,Dは,5月12日,心臓血管外科に再入院した(乙A1の40頁)。

(8)  D及び原告らは,6月13日,心臓血管外科所属のG医師から,大動脈弁置換術の説明を受けた。

(9)  Dは,6月17日ころから再度喘息症状が出たため,同月23日から同月30日までの間,プレドニンを1日あたり30mg内服投与された。

(10)  Dは,7月4日,大動脈弁置換術を受けた(以下「本件手術」という。)。

(11)  術後,Dには,7月6日ころから喘息の症状が出始めたが,プレドニンの点滴などにより,同月9日には喘息発作がほとんど消失した(証人F15頁)。

(12)  ところが,7月12日以降,38.4度の発熱,CRP値が7.2と上昇する等,Dの病態が急変し,その後,Dは,7月18日午前8時25分ころ,心室細動により死亡した(甲A1)。

3  争点

(1)  ステロイド漸減療法を取らなかった過失の有無

(2)  手術前日にステロイドを投与しなかった過失の有無

(3)  説明義務違反

(4)  因果関係

(5)  損害の発生及びその数額

4  争点に対する当事者の主張

(1)  争点(1)(ステロイド漸減療法を取らなかった過失の有無)について

ア 原告らの主張

(ア) 被告病院の医師らは,Dに対して,喘息治療と称して,6月23日から同月30日までの間,1日あたり30mgのステロイドを1週間投与し,ステロイド投与を終えてからわずか4日後である7月4日に,本件手術を実施した。

(イ) 上記のような投与は,活動期におけるステロイドの投与方法である。Dが喘息疾患を有し,73歳と高齢であることも考慮すると,被告病院の医師らにとって,ステロイド投与を急激に中止して大動脈弁置換術という極めて侵襲性の大きな本件手術をした場合,Dには,副腎皮質機能不全が発症し,手術による侵襲から起こる炎症反応を抑えることができず,感染症ショックが発症してしまうことも十分に予見できたはずである。

したがって,被告病院の医師らは,Dに対し,ステロイド薬の投与で原疾患である気管支喘息をコントロールできた段階で,ステロイド薬を漸減して免疫機能を回復させてから,手術を行うべき義務を負っていた。

(ウ) しかるに,被告病院の医師らは,ステロイド漸減療法を取ることなく本件手術を行った。

イ 被告の主張

(ア) 気管支喘息は,臨床的には,繰り返し起こる咳,喘鳴,呼吸困難,種々に変化する気流制限を示し,喘息を有する患者に対する外科治療は,健常者に比べ,麻酔の段階からリスクを有しているため,術前の呼吸機能の検索は極めて重要となる。

(イ) 喘息管理における薬物療法プランは,投与薬物を「長期管理薬」と「発作治療薬」の組み合わせで検討されるところ,6月23日からのステロイド投与は発作治療薬としての投与であった。

発作治療薬として,ステロイドを投与した場合,2週間以内の短期投与であれば,急速な減量,中止をしてもステロイド離脱症候群は起こらない。

ステロイドを漸減していくことは,かえってステロイドの長期投与となり,副腎皮質機能抑制を誘発すると考えられる。また,ステロイドの長期全身投与を行うと免疫抑制状態となり,重症感染症を起こしやすくなるから,ステロイド中止こそが感染症を誘発したとの原告らの主張は誤りである。

(ウ) Dには,不整脈と労作時息切れという心不全症状がみられ,5月24日実施の心臓超音波検査では,大動脈弁閉鎖不全代償期の比率が高いと指摘されていた。

ひとたび大動脈弁閉鎖不全代償機能が完全に破綻した場合,急速に心機能不全に陥り,内科的治療には反応しないことになるから,Dに対する手術は,喘息のコントロールが終了次第,可及的速やかに行われるべきであった。

6月30日,感染症・呼吸器内科から,呼吸機能検査等の結果を踏まえ,手術可能との意見書が寄せられ,また,同月24日以降,手術日まで11日間,喘息発作がなかったこと,ステロイド離脱症状がないこと等を心臓血管外科は確認した上で本件手術を行ったのであるから,7月4日に手術を行うことは,心臓,肺の病態から考えれば適切な時期であったといえる。

(エ) 原告らは,Dの死因をステロイド投与の急激な中止による感染症ショック,敗血症を主張している。

しかし,本件においては,手術前,Dが副腎皮質機能不全を発症していたことはない。また,本件手術後,臨床的に,血圧低下,乏尿,白血球数増加,肝機能異常等敗血症ショックの症状を呈しておらず,菌体は培養されず,感染巣も同定できなかった。

したがって,Dに敗血症ショックが生じたと診断することは不可能であり,Dの死因は心室細動の可能性が最も高い。

(2)  争点(2)(手術前日にステロイドを投与しなかった過失の有無)について

ア 原告の主張

Dは,3月11日から同月15日までの間に,デカドロンの全身投与を受けた。

喘息予防・管理ガイドライン2003によると,手術前「6か月以内にステロイド薬の全身投与を行ったことがある患者には,手術前日および当日にヒドロコルチゾン100~300mgを投与し,その後速やかに減量する」とされている。

したがって,被告病院の医師は,このガイドラインを遵守して,手術前日である7月3日及び手術当日である7月4日に,ステロイドを投与すべき義務を負っていた。

しかるに,実際には,手術前日にステロイドが投与されることはなく,手術当日にステロイドが投与されたのみであった。

したがって,被告病院の医師には,ステロイドの投与方法について,明らかな過失がある。

イ 被告の主張

感染症・呼吸器内科の医師は,6月30日,Dを診察したところ,Dの喘息症状がコントロールされていることを確認でき,手術が可能であると判断し,心臓血管外科に対し,その旨を伝えるとともに,気管支喘息発作を予防するため,プレドニンを,手術を開始する1時間前に終了するように点滴することを指示した。

心臓血管外科においては,手術開始前に,上記の感染症・呼吸器内科からの指示に従い,Dに対し,プレドニンを投与した。

以上の診療過程において,プレドニンの投与方法に関する過失はない。

(3)  争点(3)(説明義務違反)について

ア 原告らの主張

(ア) Dにとって,大動脈弁置換術を7月4日に受けるか否かを決定するためには,手術の必要性とそのリスクについて正確な情報が必要であった。

本件手術は緊急救命手術ではなく,本件手術の適応はあるもののDに手術を急ぐべき具体的必要性がなく,まして左心径の拡張はもとよりわずかであり,5月24日の検査で正常値に回復していた。

他方で,ステロイドからの離脱を慎重に行わずステロイド薬のコントロールに失敗すると,炎症反応に伴う感染症ショックのリスクが高かった。

(イ) したがって,被告病院の医師らは,Dに対し,大動脈弁置換術を本件手術当日に受けるか否かを決定するための情報として,以下の各点を説明すべき義務を負っていた。

a 大動脈弁閉鎖不全症Ⅲ度は,形式的には手術適応はあるが急ぐ必要はなく,もう少し待ってからの手術でも良かったこと。

b Dにみられた左心径の拡張はもとよりわずかであり,5月24日の検査で正常値にまで回復していたこと。

c ステロイドを投与した状態での開心術は,ステロイドからの離脱を慎重に行わずコントロールに失敗すると炎症反応に伴う感染症ショックのリスクが高いこと。

(ウ) しかるに,被告病院の医師らは,Dに対し,上記(イ)の内容を説明しなかった。

イ 被告の主張

G医師は,Dに対し,心臓の病態や本件手術の必要性,手術適応,手術に伴うリスク,予後等について充分説明し,その理解と承諾を得て実施したものであり,同人の自己決定権を侵害した事実はない。

(4)  争点(4)(因果関係)について

ア 原告らの主張

(ア) ステロイドを活動期投与量から維持量に漸減して,免疫機能を回復させてから本件手術を行っていれば,手術後,感染症ショックに陥ることはなく,Dは死亡しなかった。

(イ) ガイドラインを遵守して手術前日にもステロイドを投与していたならば,手術後,感染症ショックに陥ることはなく,Dは死亡しなかった。

(ウ) ステロイドの投与を要する全身疾患患者の開心術についてのリスクと,手術を急がないで様子を見る方法について説明を受けていれば,ステロイドのコントロールが不十分なまま慌てて手術を受けることはなく,Dは死亡しなかった。

イ 被告の主張

争う。

(5)  争点(5)(損害の発生及びその数額)について

ア 原告らの主張

(ア) Dの損害

a 逸失利益  1399万1888円

Dは,死亡した平成15年当時,年金,恩給収入として年額合計336万9104円の収入があった。Dは,平均余命年数11年間(ライプニッツ係数8.306)にわたり上記年金等を受給し得たものであり,Dの上記年金等の受給権喪失による逸失利益を,生活費控除を50%としてライプニッツ方式により計算する。

b 死亡慰謝料  2800万円

Dの年収によって生計を維持しており,一家の支柱であった。

c 付添看護費  64万9000円

付添看護費を1日5500円として,入院期間である合計118日分について計算する。

d 入院雑費  17万7000円

入院雑費を1日1500円として計算する。

(イ) 相続による承継

Dの死亡により,原告らは,損害賠償請求権を法定相続分の割合により相続した。

(ウ) 弁護士費用

原告らは,本訴提起及び遂行を原告ら訴訟代理人に委任しており,その弁護士費用について,損害額としては,認容額の1割が相当である。

(エ) 損害額のまとめ

a 原告A

相続分  2140万8944円

葬祭費用  150万円

弁護士費用  214万0894円

b 原告B

相続分  1070万4472円

弁護士費用  107万0447円

c 原告C

相続分  1070万4472円

弁護士費用  107万0447円

イ 被告の主張

争う。

第3当裁判所の判断

1  認定できる事実

前記前提事実に証拠(事実ごとに後掲)及び弁論の全趣旨を加えれば,以下の事実及び別紙診療経過一覧表記載の事実(ただし,原告の認否欄が「認める」となっている箇所に限る。)が認められる。

(1)  Dの心臓の病態について

ア Dは,平成14年10月ころより,不整脈,動悸,労作時の息切れを自覚して,近医の羽根田医院を受診し,超音波検査を受けたところ,大動脈弁閉鎖不全症を指摘され,公立相馬病院へ紹介された(乙A1の3頁)。

イ Dは,公立相馬病院の内科を受診して,超音波検査を受けたところ,右冠尖逸脱による高度な大動脈弁閉鎖不全症を指摘された(乙A1の8頁)。

そこで,Dは,精査を目的として,公立相馬病院に入院して,心臓カテーテル検査等を受けたところ,大動脈弁閉鎖不全症と診断され,手術適応と判断された(乙A1の3頁,同10頁,同11頁)。

ウ 公立相馬病院の心臓血管外科所属の遠藤雅人医師は,1月30日,被告病院心臓血管外科所属のE医師に宛てて,Dについて,傷病名を大動脈弁閉鎖不全症(Ⅲ度),NYHAⅡ度,紹介目的を手術依頼(ただし,手術適応の確認と手術の説明を含む。)とする診療情報提供書を作成した(乙A1の6頁)。

エ Dは,2月6日,公立相馬病院の紹介により,外来にて,被告病院心臓血管外科を受診し,E医師の診察を受けた(乙A1の2頁)。

E医師は,Dを診察し,左心肥大の疑いがあり,水槌音又は脈という大動脈弁閉鎖不全症に特有の症状がみられたこと等から,大動脈弁閉鎖不全症と診断し,大動脈弁置換術(生体弁)の手術適応と判断した(乙A1の2頁,同4頁,同6頁)。

Dは,大動脈弁閉鎖不全症の手術時期に関し,平成15年3月ないし4月ころを希望し,E医師は,そのころに手術を行う旨予約した(乙A1の6頁,同7頁)。

オ Dは,2月18日,精査の上,大動脈弁置換術の手術を受けることを目的として,心臓血管外科に入院した(乙A1の14頁)。

(2)  Dの喘息の症状について

ア Dは,羽根田医院において,喘鳴を指摘され気管支喘息と診断され,通院治療を受けていた(乙B13)。

Dは,被告病院に紹介される前,公立相馬病院において,気管支喘息治療薬であるザジテン,気管支拡張薬であるユニフィル等を処方されていた(乙A1の10頁,証人F5頁)。

イ 心臓血管外科において,Dの術前検査が進められる一方,Dの気管支喘息に関する検査も行われた。2月19日の肺機能検査では,肺活量3.77L,1秒量1.76L,1秒率52.23%と閉塞性呼吸機能障害を示していた。そこで,同科の赤坂医師は,同日,当時の被告病院第一内科であった感染症・呼吸器内科にDをコンサルトし,現在の喘息の状態,手術に対しての注意等を照会した(乙A1の30頁,乙A2の29頁,同36頁)。

ウ 感染症・呼吸器内科の医師らは,上記の肺機能検査の結果に加え,2月20日に実施した一般細菌検査,喀痰中好酸球検査及び血液検査の結果でも,血中の好酸球数9%,喀痰の好酸球数30%と喘息症状を呈していたことから,気管支喘息が重症と疑われ,同科に転科した上,加療した方が良いと判断し,2月25日,その旨を心臓血管外科に連絡した(乙A1の14頁,同31頁,同32頁,乙A2の35頁)。

エ Dは,2月26日,気管支喘息のコントロールを目的として,心臓血管外科から感染症・呼吸器内科に転科した(乙A1の14頁)。

オ 感染症・呼吸器内科では,F医師が主治医となった。

F医師は,Dの喘息症状について,喘鳴が聴取されたこと,聴診上笛性ラ音という気道狭窄音が聴取されたこと,咳,痰がみられたこと,肺機能上閉塞性パターンが認められたこと,喀痰中及び末梢血好酸球の著明な増加が認められたことなどから,重症度ステップ3の喘息と診断した。(証人F4頁,同5頁)

(3)  喘息及び慢性副鼻腔炎の治療経過について

ア F医師は,Dについて,呼気時に頚部での喘鳴が主に聴取されたため,耳鼻咽喉科において上気道の狭窄の有無及びアレルギー性鼻炎の有無を診断してもらうべく,2月27日,被告病院耳鼻咽喉科に対し,その旨の依頼をした(乙A1の53頁)。

Dは,2月28日,耳鼻咽喉科を受診したところ,アレルギー性鼻炎と診断された(乙A1の50頁,同55頁)。

イ 鼻腔培養によりMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)が検出されたが,バクトロバン軟膏(抗菌薬)の使用により,3月3日,消失した(乙A2の71頁)。

ウ 感染症・呼吸器内科において,3月10日に実施した肺機能検査で1秒率(53.63%)の改善がみられないため,翌11日から,Dに対して,デカドロン(副腎皮質ステロイド)が全身投与されたが,後鼻漏が悪化して下気道感染を併発したため,同月15日に,デカドロンの投与は中止された(乙A2の110頁,証人F9頁)。

エ F医師は,3月19日,Dに頚部での狭窄音が続いておりその原因を探る必要があることや大動脈弁置換術の前に喘息をコントロールするためには後鼻漏の治療をする必要があることなどから,Dを,再度耳鼻咽喉科に紹介した(乙A1の56頁,証人F10頁,同11頁)。

オ 耳鼻咽喉科では,3月20日,Dの鼻部分をCT検査し,その結果,同月26日,Dについて,左側の鼻が慢性副鼻腔炎であると診断した。また,後鼻漏については,ブロアクト(抗生剤)の投与により,改善してきていたため経過観察となった(乙A1の60頁,乙A2の151頁)。

カ F医師は,平成15年4月ころ,Dについて,パルミコート(吸入用ステロイド薬)とセレベント(気管支拡張薬)による治療により気管支喘息の症状が安定してきているものの,同月1日の呼吸機能検査の結果(肺活量3.74L,1秒量1.74L,1秒率58.98%)が3月10日の結果と比較して改善が見られず,加えて慢性副鼻腔炎の状況も考え合わせ,現在の治療を約1か月間続けてその経過を観察することが適当であると考えた(乙A2の83頁,同109頁)。

そこで,F医師は,4月3日,心臓血管外科に対し,同科での今後の方針について照会し,仮に大動脈弁閉鎖不全症の手術が1か月以上先に予定しているのであれば,Dを一度退院させた上で,外来でフォローアップすることも考えられるなどの意見を寄せた(乙A1の13頁)。

キ 感染症・呼吸器内科からの照会を受けて,心臓血管外科の吉岡一朗医師は,気管支喘息や慢性副鼻腔炎の治療を優先させ,これらの症状が落ち着いた後に大動脈弁閉鎖不全症の手術を行うことでも良いと考え,4月3日,これらの治療の順番等についてDと相談し,Dの了解を得た上で,感染症・呼吸器内科に対し,大動脈弁閉鎖不全症の手術が可能となり次第再度連絡して欲しい旨答えた(乙A1の12頁)。

そこで,F医師は,4月4日ころ,Dについて,心臓血管外科からの上記返事を受けて,同月8日に一度退院させることとした(乙A1の11頁)。

その後,Dは,4月8日,感染症・呼吸器内科を退院した(乙A1の11頁)。

ク F医師は,4月21日,外来にて,Dを診察し,肺機能検査の結果(肺活量3.76L,1秒量1.70L,1秒率56.11%)は,入院前と比べて著しい変化はなかったものの,頚部での喘鳴が減少しており,ピークフロー(360/400)が安定していたため,大動脈弁閉鎖不全症の手術が可能であると判断し,心臓血管外科にその旨を伝え,同科における手術予定が決まったら連絡するように依頼した(乙A1の39頁,同40頁,乙A3の116頁)。

心臓血管外科では,耳鼻咽喉科からの返事を待って,手術予定を決めることとした(乙A1の17頁)。

その後,耳鼻咽喉科からは,5月6日,Dの慢性副鼻腔炎について,比較的軽微なもので,現在鼻漏等もみられない症状であると報告された(乙A1の18頁,同62頁)。

ケ Dは,5月12日,大動脈弁閉鎖不全症に対する大動脈弁置換術を受ける目的で,心臓血管外科に再入院した(乙A1の40頁)。

コ 心臓血管外科では,再度術前検査として,胸部レントゲン,腹部レントゲン,足関節上腕血圧比,採血(血算,生化学,凝固系,感染症,輸血検査),尿検査,クレアチニンクリアランス,頚部エコー,咽頭,鼻腔培養などを実施したが,いずれも特に異常は認められなかった。Dは,5月24日,心臓の超音波検査を受け,その結果,左室径の減少はみられるものの,大動脈弁閉鎖不全代償期の比率が高いと指摘された(乙A3の63頁)。

サ 耳鼻咽喉科の医師は,6月10日,G医師に対し,Dの症状は改善し,ほぼ鼻漏も認められない旨を報告し,更に,術後での問題点は存しない旨の意見を寄せた(乙A1の66頁)。

シ そこで,心臓血管外科は,Dに対する手術を6月20日に実施する予定とした(乙B13)。

(4)  手術説明

ア Dは,6月13日午前11時40分から午後1時20分までの間,原告らとともに,G医師から,本件手術についての説明を受けた(乙A3の16頁)。

イ G医師は,説明に際して,予め,手術同意書に記載されている出血,脳障害,脊髄障害等の合併症についてチェックを入れておき,D及び原告らに対して,診断名,予定手術術式,合併症等について1つ1つ説明した。二重に線を引いた項目(心臓機能障害,肺機能障害等)については特に詳しく説明し,最後に,その他の「予期せぬ合併症」に関しては,気管支喘息があるため手術のリスクが高いこと等を説明した。

術後の生活の質に関して,心臓自体が悪くてビクビクしているような生活ではなく,運動も可能な普通の生活を送ることができるようになることを説明し,その趣旨を端的に伝える意味で,「マラソンでも水泳でもどんどんやってください」と話した。(乙B13,証人G10頁)

ウ 6月14日,Dは,手術同意書を提出した(乙A3の20頁)。

(5)  喘息発作の出現に対する処置と手術日の延期

ア 6月17日,ピークフロー値が低下し,同月19日,喘鳴が出るなど,Dの喘息症状が悪化したため,被告病院麻酔科の判断により手術は延期とされた(乙A3の171頁)。

イ F医師は,6月23日,Dの喘息症状が,肺機能検査の結果(肺活量3.79L,1秒量1.44L,1秒率50.88%)やピークフローの結果(350/380)が以前と比べて悪化していたため,プレドニンを使用して喘息のコントロールを行うこととし,同日から1週間,プレドニン30mg/1日,シングレア(10)1T/1日を処方することとした(乙A1の43頁,同44頁)。

ウ Dは,プレドニン等を1週間処方され,6月30日には,ピークフロー値が410/440と最高となり,肺機能検査の結果も,肺活量4.15L,1秒量1.80L,1秒率55.38%となった(乙A1の46頁,同48頁)。

F医師は,同日,Dの喘息症状を踏まえ,プレドニンの処方を中止し,シングレアの処方のみとし,また,心臓血管外科に手術が可能である旨を伝えた(乙A1の46頁)。

エ Dの症状は,プレドニンの投与を中止された6月30日から手術当日である7月4日までの間,プレドニン値が安定し,笛ふき音や喘鳴もなく,発熱,悪心,嘔吐,倦怠感,関節の痛み,筋肉の痛み,血圧の低下,低血糖などもなかった(乙A3の84頁,弁論の全趣旨)。

(6)  手術の実施

ア 術前管理

手術に際しては,F医師は,心臓血管外科に対し,麻酔をかけるときに重大な発作を起こすことなどを予防するために,手術開始前にプレドニン60mgを点滴投与するように指示した(乙A1の46頁,証人F22頁,証人G25頁)。

なお,F医師は,手術の前日である7月3日については,通常の吸入用ステロイド薬と抗ぜんそく薬の内服を指示していたものの,ステロイドの全身投与までは指示しておらず,心臓血管外科では手術前日にプレドニン60mgを全身投与したことはなかった(証人F22頁,証人G25頁)。

イ 術後管理

Dは,ICU入室後も安定した状態であり,術後感染を予防するためユナシン(抗菌薬)及びホスミシン(抗菌薬)が点滴投与され,以後,それぞれ,1日2回ずつの投与を継続した(乙A3の228頁)。

Dには,7月6日から喘息の症状が出始めたため,心臓血管外科の医師らは,Dに対し,同日及び翌7日に,プレドニンを60mg点滴し,翌8日には,F医師が,Dを診察し,プレドニンを60mg点滴したところ,翌9日には発作がほとんど消失し,プレドニンの点滴も終了された(乙A3の221頁,証人F13頁)。

また,7月7日に,心房細動となり,抗不整脈薬であるタンボコールが処方され,翌8日には抗凝固薬であるワーファリン,抗不整脈薬であるサンリズムが処方された。

(7)  症状の変化及び死亡

ア 7月12日,Dに38.4度の発熱があり,白血球数は7600と正常であったが,CRPが7.2と上昇していた。抗生剤が,ユナシン,ホスミシンからメロペンに変更され,以後継続投与することとした。また,サンリズムは,心房細動に無効であったため中止され,術前より服用していたリスモダンが再開された。さらに,ヴェノグロブリンIH(血液製剤)が投与された。

イ 7月13日,37.4度に解熱した。白血球数は4100,CRPは7.6であったため,ヴェノグロブリンIHが投与された。

心臓血管外科の医師は,循環器科に依頼し,心臓エコー検査を施行したが,置換した大動脈弁への感染を示唆する所見は認められなかった。

さらに,胸部正中切開創の発赤もなく,感染の兆候は認められなかった。

ウ 7月14日,再び38.7度の発熱があり,血液検査の結果,白血球数が5800,CRPが7.1であった。また,カンジダ(-),アスペルギルス(-),エンドトキシン1以下,β-D-グルカン(-)と,細菌感染及び真菌感染を示唆する所見は認められなかった。

感染症・呼吸器内科医師もDを診察したが,気管支喘息のコントロールは良好と判断され,胸部レントゲンも異常は認められなかった。

エ 7月15日,Dには,39度の熱,痙攣があり,嘔吐を1回した。血液検査の結果,白血球数が1万0400,CRPが11.4であった。

血液培養を提出し,肝・胆・膵外科に依頼し,腹部エコーを施行したが異常所見は認められなかった。

7月9日に提出した心嚢・前縦隔ドレーン培養は陰性であった。

感染管理室に診察を依頼し,投与中の抗生剤にダラシンを追加することとした。

オ 7月16日,CT(胸部・腹部・骨盤)を施行した。前日,喀痰培養でクレプシエラやエンテロバクターが検出されていたが,胸部X線写真で肺炎の所見もなく,また,他に発熱の原因となるような異常所見は認められなかった。

7月9日に提出した中心静脈カテーテル培養も陰性であった。

なお,以前からの痛風の痛みが強いということで,DにボルタレンSPが挿肛された。

心臓エコー検査を再度循環器科に依頼したがやはり感染の原因となるような所見は認められなかった。

熱は39度であった。血液検査の結果,白血球数が6800と低下したが,CRPが22.0と更に上昇していた。

そこで,更に原因を追究するため,核医学検査を依頼し,同月22日実施する予定とした。

カ 7月17日,感染管理室医師が診察した。CRP24.1と上昇しているが,白血球数が4600と低下しており,骨髄抑制の可能性があるため,ダラシンを中止することとした。

また,DICスコアが6~7点となり,FOY(メシル酸ガベキサート。単球からのサイトカイン産生を抑制する。)が開始された。

血液検査の結果,白血球数が2400,CRPが24,PLTが76000であった。

キ 7月18日,午前0時45分頃,心室頻拍から心室細動となったため,直ちに心肺蘇生を開始した。DC200Jを2回施行したが,心室細動から戻らず,更に心肺蘇生を継続し,自脈が出現した。

Dは,同日午前2時40分,瞳孔が完全に散大し,午前5時30分に再び心室細動となり,午前8時25分ころ,死亡した(甲A1)。

(8)  病理解剖の結果

7月18日午後1時過ぎ,剖検が行われ,剖検総括には,主病変について,「肺実質の炎症は目立たず,小範囲であるため,これが敗血症に至る原因とは考えにくい。その他の臓器には,肉眼的,組織学的に活動性炎症像は見出されなかった。」「臨床的には副鼻腔炎の存在が疑われたが,剖検時には検索しておらず,可能性としては否定できない。臨床的にDIC傾向にあったが,組織学な特徴的所見は見られなかった。」等の記載が,また,直接死因について,「原因不明の発熱に伴ってDICや低蛋白血漿が進行し循環障害が生じたものと推定される。発熱の原因について,剖検時点で特定されなかった。」との記載がある(甲A2)。

本件では,副鼻腔について病理解剖が行われていないが,通常,病理解剖において,遺族の心境等を考慮して,副鼻腔まで穴を明けて皮をはいで解剖するということは行われていない(乙B12,証人F24頁)。

(9)  医学的知見

ア 心臓の病態について

(ア) 大動脈弁閉鎖不全症は大動脈弁の逆流を生じ,拡張期の左室容量負荷を生じるものである。

大動脈弁閉鎖不全症Ⅲ度とは,左心室から大動脈へ流出される血液の逆流度合が大きい状態である。(乙B5,証人G3頁)

(イ) 大動脈弁閉鎖不全症には,急性のものと慢性のものとがある。

慢性大動脈弁閉鎖不全症では,その重症度と症状の有無,左室の大きさと収縮機能が治療法選択のための重要な情報となる。代償期には内科的治療を継続しながら,症状と心エコー検査の定期的フォローアップを行い,左室機能が低下する前に大動脈弁置換術等の手術を行うことが予後の改善につながると考えられている。

手術の時機に関して,慢性の重症大動脈弁閉鎖不全症では,長い経過の中で最適な手術時期はいつなのかを決定することが最も重要かつ困難な問題とされているが,重症度Ⅲ度又はⅣ度の慢性の大動脈弁閉鎖不全症で,NYHAⅡの症状を伴うものについては,より早期の手術を推奨する報告もなされている。(乙B5,乙B9)

イ 気管支喘息

(ア) 気管支喘息の発作強度と重症度は,喘息の管理及び段階的薬物療法の基礎として重要であり,その把握方法は,喘息症状を基本とするが,ピークフロー値,1秒量などの呼吸機能測定等も客観的指標として重要とされる。

喘息の重症度は喘息症状の強度(発作強度),頻度,および日常のPEF,1秒量とその日内変動,日常の喘息症状をコントロールするに要した薬剤の種類と量により,概ね,軽症(ステップ1,2),中等症(ステップ3),重症(ステップ4)に分けることができる。

中等症とは,慢性的に軽症ないし中等症の症状があり,しばしば日常生活,睡眠が妨げられ,持続した気管支拡張薬と抗炎症薬の投与を要する。(乙B1,証人F)

(イ) 治療方法

中等症の気管支喘息に対しては,吸入ステロイド薬を継続投与し,テオフィリン徐放製剤,ロイコトリエン受容体拮抗薬,長時間作用性β2刺激薬のいずれか,または,複数を継続併用するとされる。

また,急性喘息発作には経静脈的にステロイド薬を短期大量投与する場合,さらに喘息症状の憎悪に対して経口ステロイド薬を早期に短期間投与する場合がある。(乙B1,乙B7)

ウ ステロイドについて

(ア) プレドニンの添付文書の使用上の注意の欄には,重要な基本的注意として,「連用後,投与を急に中止すると,ときに発熱,頭痛,食欲不振,脱力感,筋肉痛,関節痛,ショック等の離脱症状があらわれることがあるので,投与を中止する場合には,徐々に減量するなど慎重に行うこと。離脱症状があらわれた場合には,直ちに再投与または増量すること。」との記載があり,副作用として「誘発感染症,感染症の増加」との記載がある(甲B1,同旨の記載として乙B3)。

(イ) ステロイドを内服すると,副腎皮質刺激ホルモンの分泌が減り,コルチゾールの産生が抑制される。

副腎皮質の機能不全の状態では,発熱,悪心,嘔吐,倦怠感,関節の痛み,筋肉の痛み,血圧の低下,低血糖などのさまざまな症状が出る。感染症などの場合は,炎症反応が抑制されない為,重症になることがある。

ステロイドの中止に関しては,投与期間が長期間に及ぶほど減量は緩徐,慎重に行うことが必要であるが,逆に,急性の喘息発作時のステロイド投与については,数日から1週間前後の投与で発作が消失する場合には,なるべく速やかに減量して1週間以内で離脱するほうが良いとされる。

なお,「喘息予防・管理ガイドライン2003」には,「急性重症発作に対してステロイド薬の経静脈的な短期投与(通常1週間以内)が必要な場合も,十分な改善が得られれば,可及的速やかに減量する必要がある。2週間以内の短期投与ならば急速な減量,中止で副腎皮質機能不全(ステロイド離脱症候群)は起こらない。」と記載されている(乙B1)。

副腎皮質機能の回復の程度を評価する方法として,早朝にコルチゾールを測定する方法,ACHT負荷試験,インスリン負荷試験,CRH負荷試験等がある。(甲B2,同3,同5,同7)

エ 手術管理について

喘息患者は,気道過敏性や気道炎症が存在するため,麻酔や手術に関連して喘息発作や合併症を起こしやすい。

過去にステロイド療法を受けたことのある患者の場合,術後のショックに備え術前や術後にステロイドを投与することもあるが,ステロイドの副作用を考慮し,ステロイド投与の適応をできるだけ厳密に選択し,また適応症例でもステロイドはできるだけ少量かつ短期間の投与にとどめるのが良いとされる。

なお,「喘息予防・管理ガイドライン2003」には,「6か月以内にステロイド薬の全身投与を行ったことがある患者には,手術前日および当日にヒドロコルチゾン100~300mgを投与し,その後速やかに減量する。」との記載がある。(甲B5,乙B1)

オ 炎症等について

(ア) 敗血症ショック

敗血症ショックとは,重症の感染症,敗血症において細菌または細菌の毒性因子が循環不全の原因として大きく関与しているショック状態である。このような場合,心拍出量は増加するが,末梢血管拡張のため血圧は低下する。また,血管壁の透過性が亢進するため,血液粘性が上昇し,機能的循環血漿量が減少する。(甲B6)

(イ) DIC(播種性血管内凝固症候群)

DICとは,基礎疾患により全身の細小血管に微少血栓が多発し,出血傾向,臓器不全などを引き起こす症候群のことである。

厚生省DIC研究班の診断基準(1988年改訂)によれば,DICスコアが6点の場合,DICの疑いがあるとされる。

DICに対する治療法としては,基礎疾患の治療のほかに,血管内皮細胞障害の治療としてFOYの投与などがある。(甲B8,乙B11)

2  争点(1)について

(1)  原告らは,被告病院の医師において,Dに対し6月23日から同月30日までプレドニンを連日して投与していたところ,その投与を急激に中止したためにDには副腎皮質機能不全が生じ,その結果,大動脈弁置換術という大手術に伴う炎症反応を抑えることができなかったのであって,被告病院の医師にはプレドニンの投与方法について過失があると主張する。

(2)  Dの喘息症状は,平成15年2月ころには重症度としては中等症(ステップ3)と診断され,その後,同年4月ころからは,気管支拡張薬と吸入用ステロイド薬の服用によって安定していたところ,6月17日ころに至って突然喘息発作が出現したために,同月23日から同月30日までの間プレドニンを連日投与されたというのであるから,このプレドニンの投与は発作治療薬として用いられたものということができる。

ところで,プレドニン等のステロイドの投与に関しては,免疫抑制作用に対する配慮等も考慮して,慎重な判断が求められている。前述の「喘息予防・管理ガイドライン2003」には,急性重症発作に対してステロイド薬の経静脈的な短期投与(通常1週間以内)が必要な場合も,十分な改善が得られれば,可及的速やかに減量する必要があること,2週間以内の短期投与ならば急速な減量,中止で副腎皮質機能不全(ステロイド離脱症候群)は起こらないことが記されている。

また,実際に,6月30日から7月4日までの診療経過をみても,Dについて,発熱,悪心,嘔吐,倦怠感,関節の痛み,筋肉の痛み,血圧の低下,低血糖などの副腎皮質の機能不全を窺わせる症状は認められていない。

したがって,6月30日にプレドニンの投与を中止したことにより,Dに副腎皮質機能不全が生じたことを認めることはできず,かかる事実を前提とする原告の主張を採用することはできない。

(3)  よって,被告は,6月30日にプレドニンの投与を中止し,その4日後に大動脈弁置換術を実施したことについて,責任を負わない。

3  争点(2)について

(1)  原告らは,被告病院の医師において,Dに対し,手術前日である7月3日にステロイドを投与するべき義務を怠ったと主張する。

(2)  大動脈弁置換術はそれ自体が人工心肺を用いた侵襲性の大きな手術である上,Dは気管支喘息を患い,その治療のためにデカドロン等のステロイド系薬剤を投与されていたのであるから,被告病院の医師において,大動脈弁置換術を実施するに際し,炎症反応等に配慮した慎重な管理が求められるべきであることは否定されるものではない。

ところで,喘息予防・管理ガイドラインはその作成された時点における喘息治療の一規範を示したものであって,個々の病態に応じて治療方法が検討されることを想定しているものである(乙B7,証人G28頁)ところ,侵襲性の大きな手術の前にステロイドを投与する方法に関しては,その有用性が報告される一方で,対象症例,投与時期,投与量について明確な指標がなく,またその投与による術後合併症発生頻度の減少などの明確な評価が得られていない(甲B6)ことなどの理由から,ステロイドの適応をできるだけ厳密に選択することも求められており,結局,術前のステロイド投与をいつ行うかについては個々の病態に応じて検討されるべき事項であるということができる。

したがって,被告病院の医師は,本件におけるステロイドの投与に関し,ガイドラインで示されているところに従って投与すべき義務までは負っていないというべきである。

(3)  そして,F医師は,Dの喘息症状について,6月30日の時点で良好な状態に回復したと判断し,免疫機能の回復程度等を考慮して,本件手術前及び術後にプレドニンを投与するように指示し,G医師は,F医師の指示に従って,プレドニンを投与したというのであるから,被告病院の医師らは大動脈弁置換術を実施するに際し,炎症反応等に配慮した慎重な管理を行っていたということができ,その診療行為は適切なものであったというべきである。

(4)  よって,被告は,手術前日である7月3日にステロイドを投与しなかったことについて,責任を負わない。

4  術後の臨床経過について

(1)  原告らは,Dの死因について,術後の臨床経過に照らせば,突然の心室細動による死亡ではなく,感染症が進行し,DICにまで至り,ショック状態が進行し,意識状態も悪くなっていく過程で最終的に心室細動が起こって心停止したことは明らかであり,剖検所見にも,「感染源は不明だが,剖検時に明らかな感染巣は確認できなかったが,臨床的に慢性副鼻腔炎が存在し,敗血症の原発巣として疑われる」と診断されており,これらの事実から,Dの死因は,ステロイドの投与方法を誤り,免疫機能が弱まった状態のまま大動脈弁置換術という大手術を行ったため術後に炎症反応が抑えられず,感染症ショックを進行させて死亡したことは明らかであると主張する。

(2)  確かに,7月12日以降のDの症状は,発熱,CRPの著増,白血球数の一時的な増加等,感染症ショックや,敗血症様の臨床症状を呈していることから,原告らが指摘するようにDが術後に感染症ショックを進行させて死亡した可能性を疑う余地もないではない。

しかし,Dには,術前及び手術直後に発熱,悪心,嘔吐,倦怠感,関節の痛み,筋肉の痛み,血圧の低下,低血糖などの副腎皮質の機能不全を窺わせる症状がなく,他方,7月18日午前0時45分の数時間前まで血圧が118/80であり,同月17日からの尿量が832mlであったこと(乙A3の201頁)等,一般的な敗血症ショックとは異なる症状もみられ,また,術後に提出された中心静脈カテーテル,スワンガンツカテーテル,心嚢胸骨下ドレーンチューブ,動脈血のいずれからも菌体が培養されておらず,さらに,病理解剖においても感染巣が同定されなかったことをあわせて考慮するならば,手術の4日前にステロイド投与を中止し,又は,手術前日にステロイドを投与しなかったことが原因となってDの免疫機能が弱まり,術後の感染症ショックが引き起こされていたものと認めることはできない。

なお,病理解剖においては副鼻腔まで検索されていないが,手術を実施する前の段階で,すでに慢性副鼻腔炎の症状は治まっていたのであるから,術後の臨床症状が慢性副鼻腔炎を原因としていると認めることもできない。

(3)  したがって,原告らの上記主張を採用することはできない。

5  争点(3)について

(1)  Dは,心臓血管外科の初診時において,大動脈弁閉鎖不全症Ⅲ度と診断され,しかも不整脈,労作時息切れなどの自覚症状があり,NYHAⅡとも診断されていた。そのため,Dは,初診時において,大動脈弁閉鎖不全症について手術適応と判断され,当初,手術を平成15年3月ないし4月ころを予定して,2月18日に心臓血管外科に入院となった。

これらの事実経緯は,前記認定の大動脈弁閉鎖不全症に対する手術適応,手術時期に関する医学的知見に照らして矛盾するところがなく,初診時の診察を担当したE医師が可及的速やかに大動脈弁置換術を施行すべきであるとの考えを有していたことを推察することができ,同様にD自身も手術を受けることを前提として入院したもとのいうことができる。

(2)  ところで,前記認定のとおり,慢性の重症大動脈弁閉鎖不全症では,長い経過の中で最適な手術時期はいつなのかを決定することが最も重要かつ困難な問題とされているところ,Dは気管支喘息にも罹患していたため,手術中や術後のリスクが気管支喘息に罹患していない患者と比べて高くなることから,手術時期を選択することは更に重要かつ困難な問題であったということができる。

そして,本件において大動脈弁置換術の実施時期を決めるにあたっては,大動脈弁閉鎖不全症の重症度や左室機能等の病態,喘息症状のコントロールの程度,喘息症状をコントロールするに際して投与した薬の影響等を考慮して総合的に判断することが求められるのであって,その判断は極めて高度に専門的な医学的判断であるというべきである。実際に,本件の診療経過をみるならば,Dに対する手術は,2月18日の入院から7月4日の手術施行日までの間に,主として喘息症状のコントロールの程度や後鼻漏,慢性副鼻腔炎に対する治療状況を考慮して数回手術日が変更された後に実施されており,本件手術が施行される直前ころの喘息症状がピークフロー値等に照らし安定していたこと等も考慮すると,Dの治療に携わった被告病院の医師は,慎重かつ合理的に上記の極めて高度に専門的な医学的判断を行っていたものということができ,D自身は,このような被告病院の医師による合理的な判断を尊重しながら治療に臨んでいたものということができる。

このように,本件における手術時期の選択には極めて高度に専門的な医学的判断が伴い,D自身も被告病院の医師による医学的判断を尊重しながら治療に臨んでいたことを考慮するならば,手術時期の選択は被告病院の医師による合理的判断に委ねられていたものというべきであるから,被告病院の医師,具体的にはG医師は,Dに対し,手術内容,手術に伴うリスクの有無及び程度,合併症の有無及び内容,予後等,手術を受けるか否かを判断するために必要な事項を説明するべき義務を負っていたものの,それ以上に具体的な手術時期を選択するために必要な事項を説明するべき義務を負うものではないというべきである。

(3)  G医師は,6月13日,D及び原告らに対し,約100分にわたって,診断名,予定手術術式,合併症の有無及び内容,予後(手術後の生活の質)について詳しく説明しており,その内容も医学的にみて合理的なものということができるから,G医師によるDに対する説明内容は,上記説明義務に適った内容であったというべきである。

(4)  原告らは,ステロイドの投与に関連して術後炎症反応に伴う感染症ショックに罹患するリスクが高いことの説明を事前にされなかった旨主張するが,前記認定のとおり,G医師は,手術時期に関して慎重かつ合理的な判断を行うことを前提として,予期しない合併症が生ずる可能性についても説明していたのであるから,その説明内容に不足はなかったというべきである。

(5)  したがって,被告は,G医師による説明に関して,説明義務違反による責任を負わない。

6  結論

以上検討したところによれば,原告らの本訴請求は,その余の点について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却することとして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 沼田寛 裁判官 伊澤文子 裁判官 小川貴紀)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例