大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

仙台地方裁判所 平成17年(ワ)591号 判決 2008年8月19日

主文

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は,原告らの負担とする。

事実及び理由

第1当事者の求めた裁判

1  請求の趣旨

(1)  被告は,原告Aに対し,3757万8635円及びこれに対する平成16年6月26日から支払済みまで年5分の割合による金員を,原告Bに対し,1878万9318円及びこれに対する平成16年6月26日から支払済みまで年5分の割合による金員を,原告Cに対し,1878万9318円及びこれに対する平成16年6月26日から支払済みまで年5分の割合による金員を,それぞれ支払え。

(2)  訴訟費用は,被告の負担とする。

(3)  第1項につき仮執行宣言

2  請求の趣旨に対する答弁

(1)  原告らの請求をいずれも棄却する。

(2)  訴訟費用は,原告らの負担とする。

(3)  仮執行免脱宣言

第2事案の概要

本件は,訴外Dが肺梗塞により死亡したのは,①被告がDの病状を過呼吸症候群等と誤信して,肺梗塞の治療をしなかったこと,③Dに対して血栓発生の予防のため必要な指示,医学管理をしなかったこと,④昇圧剤の注射のみで適切な処置を怠り,何らの救急措置をとらなかったことによるとして,Dの相続人である原告らが,被告に対し,診療契約上の債務不履行又は不法行為に基づき,損害賠償(原告Aが3757万8635円及びこれに対するDが死亡した平成16年6月26日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金,原告B並びに原告Cがそれぞれ1878万9318円及びこれに対するDが死亡した平成16年6月26日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金)の支払を求める事案である。

1  前提事実(証拠援用部分を除き,争いがない。)

(1)  当事者

ア Dは,昭和40年3月14日生まれの女性であり,平成16年6月26日に死亡した(以下,特に断らない限り平成16年中のことなので,年の表記を省略する)。原告AはDの夫,原告B及び原告Cは,いずれもDの子である。(甲C1)

イ 被告は整形外科医院を経営する医師である(以下,被告が経営する医院を「被告医院」という。)。

(2)  事実経過

ア 6月7日,Dは右下肢を痛め,同月8日,被告の診察を受けた。これにより,Dと被告との間で,右下肢の治療を目的とする診療契約が成立した。

被告は,Dを診察した結果(右足間接レントゲン検査を実施),右アキレス腱断裂と診断し,Dに治療法を説明した上で,Dの選択により保存的治療として,右膝上からの長いギプス固定を行った。

イ 6月15日,22日,Dは通院して被告の診察を受けた。

ウ 6月25日午後5時10分ころ,Dが被告医院に来院した。

エ 同日午後5時15分ころから同30分ころの間に,被告は,Dの従来のギプスを切割除去し,膝より足指まで足関節を軽度底屈位でギプス固定を施行した。

オ ギプスを巻替えしてまもなく,Dが「具合が悪い」と訴えたため,被告はDをベッドに横臥させた。

カ 被告は,原告Aに対して,Dの病状に関して「過呼吸症候群になったようだ。」と説明した。

キ 同日午後6時10分ころ,Dが腹痛を訴え始めた。そこで,被告はボスミン1Aとセルシン1/2Aの皮下注射を指示した。

ク 同22分ころ,被告は救急車を要請した。

ケ 同27分,被告医院に救急車が到着した。Dの腹痛は激しさを増し,救急車到着時に意識不明の状態となり,急速に心肺停止に陥った。

コ 救急隊員が,直ちに気管内挿管,人工呼吸,心マッサージを開始し,仙台市立病院救急救命センター(以下,仙台市立病院を「市立病院」といい,市立病院救急救命センターを「救急救命センター」という。)に救急車で出発した。この救急車には,被告,被告医院の看護師,原告Aの3名が同乗した。救急隊員が救急車内で心マッサージを施行した。

サ 同51分,救急救命センターに到着し,直ちに心肺蘇生術が開始され,その後入院加療となった。

シ 6月26日午前11時20分,Dの死亡が確認された。死亡診断書上の直接死因は「肺梗塞疑い」である。(甲A1)

2  争点及び当事者の主張

(1)  被告の注意義務違反の有無(診断上の過失)

(原告らの主張)

ア Dの死亡原因

(ア) 以下の事情からすれば,Dの死亡原因は肺血栓塞栓症(以下「肺塞栓症」という。肺塞栓症の結果,肺組織に壊死が生じたものが肺梗塞である。)であった。

a 過換気症候群ではPaCO2(肺胞炭酸ガス分圧)が低下するところ,DにはPaCO2の低下はなかった。

b Dの心エコーにDsignが認められた。これから①右心室の圧が急激に高くなる病態が疑われ,②Dの急に過呼吸,低酸素血症からショック,心肺停止となる病態から,肺の血管が詰まり急激に肺から右心系の高血圧を招く肺塞栓症が疑われた。

c 発症の経緯は,下肢ギプスをはずした直後のものである。

(イ) そして,死亡診断書上の直接死因は「肺梗塞疑い」となっているが,肺塞栓の確定診断には①肺血管造影,②肺血流シンチグラフィー,③病理解剖のいずれかが必要である。しかるところ,①,②の検査ができる状態ではなく,③も行われなかった。そのため,「肺梗塞疑い」となっているにすぎないのであって,実態が肺梗塞(肺塞栓症)であることは明らかである。

イ 診断上の過失について

(ア) 被告はDの症状から過呼吸症候群と診断しているが,上記のとおり,Dは肺塞栓症であったのであるからその診断は誤りであった。

(イ) そして,以下に述べる状況からすれば,被告はDの病状は肺塞栓症と診断すべきであったし,少なくともその疑いを持つべきであった。

(一般的事情)

a 「肺血栓塞栓症/深部静脈血栓症(静脈血栓塞栓症)予防ガイドライン」(以下「本件ガイドライン」という。)の策定は10月1日であるが,この公表前から肺塞栓症の危険性が認識されていたことは明らかである。入院患者についてではあるが,4月の診療報酬改訂で肺血栓塞栓症の予防管理料(以下「肺塞栓症予防管理料」という。)が新設されているほか,本件ガイドラインについての会告文面からも本件ガイドライン公表前から深部静脈血栓症/肺塞栓症が認知されていたことが明らかである。

b 下肢ギプス包帯固定を行った後に,静脈造影により診断される深部静脈血栓症の発生率は約4~30%であり,強い静脈血栓塞栓症の危険因子とされている。

c 肥満体型も肺塞栓症の強い危険因子である。

d 呼吸困難および腹痛が肺塞栓症で最も多くみられる自覚症状である。

(Dの状況)

e Dは6月8日から同日25日(発症の当日)までの18日間,膝上からの下肢ギプス包帯固定をしていた。そのギプスは角が当たるほどにきつかったため,Dの足指先はむくみがひどく,強い圧迫感を訴えていた。

f Dは身長152cm,体重73kg,BMI(身体質量指数)31.6の肥満体型である。

g Dの症状は,呼吸困難(頻呼吸),胸痛・腹痛等であった。

(ウ) また,たとえはじめ過換気症候群を疑ったとしても,30分以上経過しても軽減しないときは(ましてDは症状がいっそう悪化し続け,胸痛も訴えている。)他の状況からして肺塞栓症を疑うべきである。それにも関わらず,被告は過換気症候群の対処療法をし続け,苦しさのあまりDが必死に取り払うまでビニール袋を被せたたままであった。

(被告の主張)

ア Dの死亡原因

Dの直接死因は「肺梗塞疑い」とされており,死因の確定診断はなされていない。Dの症状としては過呼吸の沈静後は腹痛の訴えが最も大きかったのであり,それは典型的な肺塞栓症の症状とは異なっている。

そうであれば,Dの死因を肺梗塞(肺塞栓症)と断定して過失の有無を判定することは非常に危険である。

イ 診断上の過失について

(ア) 6月25日,被告によるDのギプスの巻替えが終了した後,Dにみられた症状は血圧の低下,脈の微弱,冷や汗に加えて呼吸が速くなるというものであったが,一貫して意識ははっきりしており,受け答えもできていた。またギプスの巻替えの際に,患者が神経的にナーバスになることは時折見受けられることである。そうしたことから被告はDの症状を過呼吸症候群と診断し,ペーパーバック法を用いて過換気の改善を図ろうとしたものである。Dの例のように,アキレス腱断裂後のギプスによる保存的治療中に肺塞栓症が併発することがあることを即座に想定しうる医師は,整形外科専門医といえどもほとんどいない。

そして,被告はペーパーバック法を2,3分続けて様子を見たが,大きな変化がなかったため,一時中断した。そのすぐ後,Dの呼吸は落ち着いてきて沈静化し,ベッド上に起き上がり,自宅に帰れると返事をするまでに回復していた。

(イ) 同日午後6時10分ころから腹痛を訴え始めた際,被告はDの腹部を実際に診察し,下腹部に手術痕が2線存在していることを確認し,夫である原告Aに確認し2度の帝王切開の事実を知った。その2度の開腹手術という既往を踏まえて,腸の癒着による腸閉塞等の急性腹症の可能性が高いという診断を行ったのである。肺塞栓症では通常腹痛という症状は認められない上,救急車が到着する前の時点まで,Dは肺塞栓症にみられる症状である胸の苦しさや痛みは訴えていなかった。

(ウ) 以上のとおりであるから,被告がギプス巻替え後にDの症状を過呼吸症候群と診断したこと,同日午後6時10分以降急性腹症と診断したことに落ち度はない。

(2)  被告の注意義務違反の有無(血栓発生予防義務違反)

(原告らの主張)

ア 6月当時の肺塞栓症の予防についての医療水準

(ア) 診療報酬改定に関して

a 4月の診療報酬改定で肺塞栓症予防管理料が新設されたところ,このことは,同月以降,肺塞栓症によって重大な障害を生じた場合に,適切な予防管理が行われていなかった場合には過失責任を問われることを意味する。そして,本件ガイドラインにもその旨記述されている。

b 本件ガイドラインを策定した整形外科疾患における肺塞栓症予防ガイドライン委員会(以下「本件ガイドライン委員会」という。)の委員長であったE医師は,会告を発表した10月1日の時点ではあるが,4月に行われた診療報酬改定によって,このことは全医師が知っていることであるから,この時以降は肺塞栓症について,本件ガイドラインに示された傷病については適切な予防管理を講じなければ過失責任が当然に生じると判断し,本件ガイドライン委員会として見解を発表している。

(イ) 本件ガイドラインに関して

a 「総論1 本ガイドラインにおいて言及される予防の対象」において,「本ガイドラインは,主に日本人の成人(18歳以上)の入院患者を対象とした肺血栓塞栓症および深部静脈血栓症(静脈血栓塞栓症)の発症予防を目的に策定されている」ものであって,「具体的には,各種手術の周術期,周産期,外傷や骨折後,内科疾患急性期などが対象となる。」とあること

b 「4 静脈血栓塞栓症の危険因子」において3大誘発因子の一つとされる血流の停滞の原因の1つとして「下肢ギプス包帯固定」をあげていること

c 診療報酬改定は入院中の患者対象のものであっても,それは医療保険における診療報酬の問題であって,患者に対する注意義務を入通院で区別する合理的理由とはならないこと

d 本件ガイドライン制定の趣旨からすれば,通院も対象としていると解釈すべきであること

e これらの事情からすれば,本件ガイドラインの公表後は入院,通院を問わず,肺塞栓症の予防について医師に一層の注意義務が課せられることになったことは明らかである。

(ウ) Dが死亡したのは6月26日であり,本件ガイドラインの指摘している4月より以降のことであって,本件ガイドライン委員会作成の会告が指摘していることがそのまま当てはまることになることは明らかである。

なお,その以前からギプス包帯固定の血栓発症の危険性が広く認識,指摘されており,その予防は医療の水準となっていた。その集大成が本件ガイドラインである。突如として本件ガイドラインが示されたのではない。

(エ) 以上のことからすれば,6月には,本件ガイドラインに記載してあるような肺塞栓症の予防は,医療水準となっていたことが明らかである。

イ 血栓発生予防義務違反

本件ガイドラインにおいてギプス包帯固定が強い危険因子とされ,また被告は,Dの年齢や肥満体型であることは十分認識できた。そうであれば,被告は肺塞栓症の危険性を認識しえたものであり,Dへ適切な予防管理,予防的治療や生活管理について十分な指導や注意喚起をすべきであった。血栓発生予防には静脈うっ滞の防止が重要であり,ギプス包帯中の患者では,静脈うっ滞の防止に,患肢の高挙とともに筋の繰り返される緊張(等尺性筋収縮)が最も効果的である。

しかるに被告にはこれを怠った過失がある。

(被告の主張)

ア 6月当時の肺塞栓症の予防についての医療水準

通院中のギプス装着患者には10月に公表された本件ガイドラインは適用されず,同ガイドラインは医療水準としての意味を有しない。

イ 被告の措置

6月8日,被告はDにギプスを装着する際,家事等で身体を動かすことを前提として松葉杖を貸与したものであり,安静の指示などしていない。また,ギプス装着後同月15日,22日の診察の際にはギプスに覆われていない足の指を観察し,同月25日の診察の際にもギプス巻替えの際に足全体の状態を観察し,いずれの時にも感覚障害や循環障害のないことを確認している。さらに,アキレス腱断裂によるギプス包帯固定の場合,等尺性運動を促すことは断裂部に疼痛を生ぜしめるため困難である。

以上のとおりであるから,被告には肺塞栓症予防の注意義務に違反する措置はない。

(3)  被告の注意義務違反の有無(救護義務違反)

(原告らの主張)

被告はDに対して適切な救急措置を施すか,それが被告の専門知識では不可能であれば,少なくとも原告Aを呼んだ段階(午後6時ころ)で救急医療の可能な病院への搬送をなすべきであった。

それにもかかわらず,被告はDの病状を過呼吸症候群と考え,その治療をなし,なお容態が悪化し続けるのに肺塞栓を疑わずビニール袋をかぶせたままで,適切な措置を行わなかった。また,救急車を求める原告Aの訴えにもなかなか応じず,何らの救護措置をとらなかった。

したがって,被告には救急義務違反の過失がある。

(被告の主張)

ア Dがペーパーバック法を受けていたのは2~3分間程度であるし,Dの過呼吸はその後沈静化し,ベッド上に起き上がれるまでに一旦は回復したのであって,この点に被告の過失はない。

イ また,以下の経緯からすれば,搬送義務についても被告は十分な措置を尽くしているというべきである。

Dは6月25日午後6時10分ころから腹痛を訴えはじめ,腹痛は次第に強くなっていった。被告は帝王切開の痕等から腸閉塞を中心とした急性腹症を疑い,同12~13分ころには高次医療施設への搬送が必要であると判断し,救急救命センターに電話連絡した。そして,同センターの応諾を得た上で同22分に救急車の出動を要請し,この搬送依頼の手続の間にDの不穏状態に対して昇圧剤(ボスミン)及び鎮静剤(セルシン)を投与した。

(4)  相当因果関係

(原告らの主張)

被告が上記注意義務を尽くしていれば,Dは死に至らなかった。

(被告の主張)

ア 本件においてDがピルを服用し続けていたという事実は死亡という結果の発生に重要な影響を与えたと考えられる。

Dはピルを服用していたが,同人は被告における問診の際に服用中の薬について何も記載せず,受付時の確認の際も薬の服用を告げていなかったのであるから,Dのピル服用の事実は,被告は全く知る由がなかった。ピルは肺血栓塞栓症発症の大きなリスク要因であり,加えて肥満(BMI30以上)の場合のピル投与はリスクが高いことを説明して他の避妊法を考慮するというのが日本産科婦人科学会によるガイドラインの挙げる留意事項である。Dも身長152cm,体重73kgという肥満体型であり(BMI31.6),本来ピルは投与されるべきではなかった。被告の知る由もないピル服用が本症例における血栓形成のリスクを増加させ,さらに重症化させる可能性を有していたのである。

イ 仮に原告が主張する注意義務違反を前提とした場合であっても,Dが呼吸困難を訴えた6月25日午後5時30分ころから心肺停止状態となった午後6時30分までの間に,Dを転送して経皮的人工心肺装置(PCPS)を装着することは,転送手続,各種検査,装置の準備に要する時間を考えると,不可能であり,結局は心肺停止を免れることはできなかった。そして,心肺停止を起こした肺塞栓症の死亡率は約50%と高値であることから,最初の状況で肺塞栓症を疑って直ちに搬送したとしても,救命は相当に困難であった。

ウ 以上のことからすれば,被告の診療行為とDの死亡との相当因果関係は否定される。

(5)  損害

(原告らの主張)

ア 葬祭費 150万円

イ 逸失利益 4185万7271円

401万3700円(39歳女子平均賃金)×14.898(就労可能期間28年に対応するライプニッツ係数)×0.7(生活費控除)

ウ 慰謝料 2500万円

エ 弁護士費用 680万円(原告A340万円,同B・C各170万円)

オ 合計金 7515万7271円

カ Dの損害賠償請求権につき,原告Aはその2分の1,同B・Cは各4分の1を相続により承継した。

(被告の主張)

損害額について争う。

第3当裁判所の判断

1  争点⒧について

(1)  Dの死亡原因

ア 前提事実,証拠(甲A1,3,6,7,B8,乙B22)及び弁論の全趣旨によれば以下の事実が認められ,この認定を覆すに足りる証拠はない。

(ア) 主治医・担当医の判断

a 市立病院においては,同病院循環器科のF医師が主治医,同病院同科のG医師が担当医としてDの診療にあたった。

b G医師作成の死亡診断書にはDの直接死因として,肺梗塞疑い,とされ,直接死因の原因は,不詳,とされている。また,市立病院循環器科入院履歴には,Dの入院時診断・退院時診断として,CPA(心肺停止),肺塞栓疑いと記載されている。

c F医師,G医師が作成した診療内容説明書には,Dに起きた心肺停止の原因は断定できないが,肺塞栓の可能性がある,ただ,他の疾患で心肺停止になった可能性もあるとされている。

d F医師によると,肺梗塞疑いとされたのは次の理由による。

(a) 心エコーでDにはDsign(右心室が拡大する(右心室内の圧が上昇する)ことによって,左心室が中隔側から圧排され,Dの形のように左心室がつぶれて見えること)が認められたことから,右心室の圧が急激に高くなる病態が疑われた。そして,Dの症状が,急に,過呼吸・低酸素血症からショック・心肺停止となる病態であることからは,肺の血管が詰まり,急激に肺から右心系の高血圧を招く肺塞栓症(肺梗塞)が疑われた。

(b) 確定診断ではなく疑いにとどまったのは,肺塞栓症(肺梗塞)の確定診断は①肺血管造影により肺動脈内に造影不良域(血栓閉鎖)を認めることを証明する,②肺血流シンチグラフィーで集積欠損域を認める,③剖検で肺動脈本幹(主幹部)内に血栓の存在,肺組織の壊死像を認める,のいずれかが必要であるところ,Dの場合,市立病院で蘇生後も自発呼吸,意識レベルの回復なく人工心肺補助下であり,①,②の検査が施行できる全身状態ではなかったこと,また,③は家族の希望により施行しなかったことから確定診断できなかったことによる。

(イ) 各種鑑定意見

a 名古屋大学名誉教授H医師作成の平成18年9月12日付け鑑定意見書(以下,H医師作成の平成18年12月1日付け鑑定意見書と併せて「H鑑定意見」という。)によれば,Dの死因としては,肺塞栓がもっとも疑わしい,とされている。すなわち,PaCO2が低下していないこと,発症の経緯(ギプスをはずした直後の発症),超音波診断でDsign(+)とあり右心不全がみられることから,肺梗塞の疑いは強いといえる,しかし,確定診断に必要な,RIを用いた肺血流スキャン,肺動脈造影,死後の病理解剖のいずれも実施されておらず,確定診断は不可能であるとされている。

b 東北大学病院循環器内科I医師作成の平成19年2月5日付け私的鑑定書(以下「I鑑定意見」という。)によれば,Dの死因について,臨床症状と心エコーのDsignからは,肺塞栓症と推定することは可能であるが,腹痛の存在やトロポニンT陽性など,肺塞栓症では通常認めない事柄も存在することから,胸部CTや,肺動脈造影,もしくは病理解剖にて診断が確定していない限り,死因を特定することはできない,とされている。

イ(ア) 以上の認定事実によれば,Dの主治医・担当医であるF医師・G医師が,臨床症状や心エコーに基づいてDの死因を肺梗塞(肺塞栓)疑いと診断していること,肺梗塞(肺塞栓)疑いにとどまっているのは確定診断に必要な各種検査を実施できなかったからに過ぎず,他に何らかの具体的疾患の可能性が想定されているわけではないこと,各鑑定意見も概ね確定診断はできないが肺梗塞(肺塞栓)と推定されるというものであることの各事実が認められ,これらの事実からすれば,Dの死因は肺梗塞(肺塞栓症)であると推定するのが合理的であり,6月25日午後6時ころに見られたDの症状も同様に肺塞栓症に基づくものであったと推定するのが合理的である。そして全証拠に照らしてもこの推定を覆す事情はうかがわれない。

したがって,Dの死亡原因は肺梗塞(肺塞栓症)であり,6月25日午後6時ころに見られたDの症状は肺塞栓症に基づくものであったと認められる。

(2)  診断上の過失について

ア 前提事実,証拠(甲A2ないし4,10,B1の1ないし4,5ないし9,乙A1,2,B1ないし8,10ないし15,19ないし23,25,証人E,原告A本人,被告本人〔ただし,後記認定と異なる部分を除く〕)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められ,この認定を覆すに足りる証拠はない。

(ア) 現在の肺塞栓症に関する一般的知見

a 肺塞栓症の臨床症状としては,自覚症状として呼吸困難,胸痛,血痰,冷や汗等,他覚症状としてチアノーゼ(低酸素血症),頻呼吸,頻脈,低血圧等がみられる。そして,通常腹痛という症状はみられない。また,PaO2の低下はもっとも重要な所見であり,PaCO2も過換気のために低下することが多い。

もっとも,いずれも非特異的な症状であって,確定診断のためには画像診断が極めて重要となる。

b そして,静脈血栓塞栓症の危険因子として,下肢ギプス包帯固定,肥満,ピルの服用等が挙げられる。

(イ) 6月当時の肺塞栓症に関する一般的知見に関して

a 平成11年3月1日発行の「ホーム・メディカ家庭医学館」に肺塞栓症についての解説が掲載されており,症状として突然の呼吸困難,胸の痛み,血液のまじったたん,胸部の不快感等が記載されている。また,肺塞栓症の原因に関して,下肢(脚)の静脈にできた血栓が,肺まで運ばれて肺動脈をつまらせるものが最も多いこと,一週間以上ベッドの上で安静にしていたとか,長時間座ったままでいた場合,圧迫されて下肢の血流の流れが悪くなり血栓ができやすくなることが記載されている。

b 肥満体型であることは,古くから肺塞栓症の危険因子とされていた。

c ピルが血栓発生のリスクを増大させることは古くから最大の問題点とされており,平成12年7月発刊の「日産婦誌」52巻7号や平成16年5月発刊の「臨婦産」58巻5号に同趣旨の内容が記載されている。

d 「麻酔」2001年3月号に,駆血帯解除時に発生した重症肺梗塞症の1症例が紹介されている。考察として,今回は軟部組織に対する手術であったこと,駆血時間が約30分と短かったこと,術前に肺梗塞を疑わせる既往があったこと,術前に下肢をギプスで固定されていたこと,患者の年齢,性別,体型などを総合すると,深部静脈血栓は術前にすでに形成されていた可能性が高いとの趣旨の内容が記載されている。

e 「Therapeutic Research」vol.24 no.4 2003に,急性型から慢性肺血栓塞栓症性肺高血圧症に移行した1例が紹介されている。患者は,平成13年3月,左アキレス腱断裂のため2ヶ月間ギプス固定をした。この間一時左足の腫脹・疼痛がみられ,呼吸困難もあった。そして,平成14年2月14日に,肺血栓塞栓症と診断された。

f 「整形・災害外科」2003年5月号に,アキレス腱断裂後の保存的治療中に肺塞栓症を発症した2例が紹介されている。1つは,平成13年7月21日に左アキレス腱を断裂し,膝下ギプス固定をしたが,同年8月8日になって,胸痛,一時的な失神がみられ,その7日後に再度胸痛が出現したというものであり,CT検査の結果,肺塞栓症と診断された。もう1つは,平成14年3月6日に左アキレス腱を断裂し,膝上ギプス固定をしたが,その後3回息苦しくなったことがあり,同年3月19日になって,動悸,呼吸困難,一時的な意識障害を起こしたというものであり,CT検査の結果,肺塞栓症と診断された。

g 1999年から宮城県肺血管疾患対策協議会において,宮城県における肺塞栓症の発生状況を調査している。2004年に発行された上記調査結果によると,肺塞栓症の誘因と深部静脈血栓の陽性率は,肥満(BMI>24)は55.6%,交通事故後,アキレス腱断裂は10.0%であった。

h 東北大学整形外科准教授J作成の「ギプス固定(主にアキレス腱断裂)と肺梗塞発症についての医療水準に関する仙台市基幹病院への調査」と題するアンケート結果は以下のとおりである。

(a) 質問1に関して

本件ガイドライン公表以前にアキレス腱断裂でギプス固定をした外来通院患者が経過中に肺塞栓のような重篤な血栓症を発症した経験はあるか。

回答

W病院K医師 :ない。

X病院L医師 :ない。

Y病院M医師 :ない。

Z病院N医師 :ない。

(b) 質問2に関して

本件ガイドライン公表以前に所属学会等でギプス固定に合併して起こる血栓症についての注意喚起等を目にしたことはあるか。

回答

K医師 :ない

L医師 :ない

M医師 :平成16年6月30日付けで本件ガイドライン作成委員会が発行したガイドラインをみた。

N医師 :ない

(c) 質問3に関して

本件ガイドライン公表以前に外来通院患者のギプス固定に際して深部静脈血栓について何らかの予防法(説明を含む)を講じていたか,それはどのような予防法か。

回答

K医師 :講じていた。できるだけ四肢を動かすこと。

L医師 :講じていなかった。

M医師 :講じていなかった。

N医師 :講じていなかった。

(d) 質問4に関して

本件ガイドライン公表以前にBMI30以上の肥満患者に下肢ギプスを施行する際に特に何らかの血栓予防策を特に意識したことはあるか。

回答

K医師 :なかった。

L医師 :なかった。

M医師 :ほとんどなかった。

N医師 :ほとんどなかった。

i 本件ガイドラインには,下肢ギプス包帯固定後の,静脈造影により診断される深部静脈血栓症の発生率は約4~30%と報告され,強い静脈血栓塞栓症の危険因子となる旨が記載されている。そして,下肢手術の肺塞栓症のリスクレベルは中リスクとされ,下肢ギプス包帯固定は,強い付加的な危険因子,肥満,エストロゲン治療は弱い付加的な危険因子とされている。そして,強い付加的な危険因子を持つ場合,もしくは弱い付加的な危険因子であっても複数個重なった場合には,これらを加味して総合的なリスクレベルを決定するとされている。推奨される予防策としては,中リスクの場合には,弾性ストッキングあるいは間欠的空気圧迫法,高リスクの場合には間欠的空気圧迫法あるいは低用量未分画ヘパリンが挙げられている。

本件ガイドラインが公表されたのは10月25日である。また,本件ガイドラインの作成は平成15年11月ころから始まったが,その作成経過について医学雑誌等に掲載されたことはなく,整形外科の一般開業医は内容について知ることはできなかった。

(ウ) 過換気症候群に関する一般的知見について

過換気症候群の臨床症状としては,呼吸困難,頻呼吸,過剰換気,動悸,頻脈,胸痛,めまい,頭痛,手足のしびれなどが挙げられる。そして,過換気症候群の原因としてはストレスや不安が挙げられる。女性が男性の約2倍の発症率を示す。もっとも,過換気症候群の症状は30~60分で自然と軽快するのが通常である。

(エ) Dの症状経過等

a Dは身長152cm,体重73kgでBMI(身体質量指数)31.6の肥満体型であった。そして,被告は当該事実を6月25日当時認識していた。

b Dは6月当時,ピル内服中であった。しかし,Dは被告に対してその旨伝えていなかった。

c 6月15日,被告がDの足を診察したところ,ギプスによる循環障害等の特別な所見は見られなかった。

d 6月25日午後5時15分から同30分にかけて,ギプスを巻替えた。当該ギプスは同月8日から18日間まいていたものであった。巻替えは,電動カッターによってギプスをカットして外した上で新しいギプスを巻く等の手順を踏んで行った。ギプス巻替え後の同35分ころ,Dには冷や汗,脈微弱,頻呼吸の症状が見られ,血圧が70~80程度であった。この時点でDの意識ははっきりしており,ショック状態までは至っていなかった。この時点で,被告は脳貧血を疑った。

e その後,非常に呼吸が速くなり過換気となった。被告は,Dの症状から,ギプスカットの際の緊張やストレスを原因として,Dが過換気症候群となったものと考え,過換気症候群の一般的治療法であるペーパーバック法としてポリ袋をかぶせた。被告はこのポリ袋を2,3分かぶせて様子を見たが,症状が改善する様子はなかったので取り除いた。

f 同日午後6時過ぎころ,Dの症状が一旦改善した。しかし,このころから,Dには胸部の重苦しさが出現し,被告もこれを認識した。

この点被告はDに胸痛が見られるようになったのは,午後6時27分の救急車到着後である旨主張するが,被告からの連絡に基づいて作成された救急カード,市立病院のカルテの現病歴欄等に午後6時ころに胸痛や胸部の重苦しさが見られたという趣旨の記載があることからすれば,上記のとおり認定するのが合理的である。

g 同10分ころ,Dは胸部の重苦しさに加えてひどい腹部痛を訴えるようになった。この時以降のDの主症状は腹痛であった。そこで被告が腹部を診察したところ,臍から恥骨上部にかけての2度の帝王切開による大きな手術痕があった。

h 同12分から13分ころ,Dの最高血圧は70程度となり,腹痛の訴えがさらに激しくなった。そこで被告は,Dには2回の開腹手術の経験があることから腸閉塞等の急性腹症を疑った。そして,早急に救急病院への搬送を要すると判断し,救急救命センターに電話連絡をして,受付の看護師及び医師に対して一通りの病状を説明した。電話を掛けながら,Dの不穏状態に対して鎮静剤,血圧低下に対して昇圧剤を看護師に指示して皮下注射した。このころから救急車が到着する直前まで,Dは苦しみもがいて暴れていた。

i 同22分,被告が救急車の出動を要請した。医療機関から高次医療機関へ患者を搬送する場合には,まずは相手方病院へ連絡して病状を説明し,受入れの可否を確認した上で救急車の出動を要請するというのが一般的な手順である。

j 同27分ころ,被告医院に救急車が到着したところ,Dは意識を失い,心肺停止となった。

(オ) 各種鑑定意見

a H鑑定意見

(a) 下肢ギプス包帯固定が肺塞栓症の危険因子とされていること,DがBMI30を超えた肥満体であったこと,急激な呼吸困難の症状からは,まず肺塞栓を疑うべきであった。

(b) 肺塞栓症には特徴的な特定の症状がみられないことから,初期の段階で過呼吸症候群との誤認は避けられない。もっとも,下肢ギプスに巻替え後,具合悪いと訴えベッドに横臥,冷や汗(+),脉微弱,血圧70~,次第に呼吸早くなる,の状況からは,早期より過呼吸症候群以外のもの,特に肺塞栓を考慮すべき状況にあった。

他の症状が先行して,次第に過呼吸が出現したとすれば,過呼吸が先行する過換気症候群以外の器質的過呼吸(心疾患,呼吸器疾患などに伴う)をまず疑うべきである。また,ギプス包帯除去直後の過呼吸との条件を考えれば,疑うべきは過換気症候群と血栓塞栓症に限られ,器質的過呼吸は血栓塞栓症に伴うもののみとなる。

(c) ゴミ回収袋をかぶせて2分間観察したが変化がみとめられなかったとすれば過換気症候群の可能性は少なく,遅くともこの時点では他の疾患を疑うべきである。

b I鑑定意見

(a) 急速に発症する呼吸困難としては,呼吸器疾患として①気管支喘息発作,②自然気胸,③肺塞栓症,④気道異物,⑤慢性呼吸不全患者の急性増悪,⑥急性間質性肺炎があり,循環器疾患として,心筋梗塞,その他左心系の疾患で急性左心不全をきたし,呼吸困難を発症することがあり,心因性疾患として,過換気症候群があり,呼吸器外来では比較的頻度の高い疾患で,若い女性に多く見られる。

(b) 本ケースにおいて,被告はまず頻度の高い過換気症候群を考え,これに対する治療としてペーパーバック法を行っている。これは診断的治療と呼ばれており,日常診療でしばしば用いられる方法であり,逸脱した処置とはいえない。

(c) もっとも,効果が見られないときは別の疾患を考えなければならないところ,被告は引き続き生じる腹痛に対し,何らかの急性腹部疾患を考え,全身状態が急速に悪くなっていることから,他の救急病院へ連絡をとっている。肺塞栓症では通常腹痛という症状は認めず,急性腹症を疑ったとしても何ら不当性はない。

イ(ア) 上記認定事実に基づいて,まず6月25日時点で被告医院に要求された肺塞栓症に関する医療水準を検討するに,平成11年発刊の家庭医学の本に肺塞栓症の臨床症状等について記載されていること,肥満体型やピルが古くから危険因子とされていたことからすれば,肺塞栓症の臨床症状が,自覚症状としては呼吸困難,胸痛,冷や汗等,他覚症状としてはチアノーゼ,頻呼吸,頻脈,低血圧等であること,肥満やピルの服用が肺塞栓症の危険因子であること,肺塞栓症の原因としては,下肢(脚)の静脈にできた血栓が,肺まで運ばれて肺動脈をつまらせるものが最も多く,一週間以上ベッドの上で安静にしていたとか,長時間座ったままでいた場合,圧迫されて下肢の血流の流れが悪くなり血栓ができやすくなること等の肺塞栓症の臨床症状・危険因子・原因についての知見は当時においても医師の一般的知見であったというべきであり,当該知見を前提に診療にあたることが被告医院において要求された医療水準であったというべきである。

(イ) しかし,以下に述べることからすれば,下肢ギプス包帯固定が肺塞栓症の危険因子であるという知見を前提に診療にあたることが被告医院において要求された医療水準であったということは困難である。

a 上記認定事実によれば,6月25日以前にギプス固定後に肺塞栓症となった例がいくつか医学雑誌において紹介されていたことは認められるものの,そのほかギプス固定が肺塞栓症の危険因子である旨がガイドラインや一般の医学基本書等において公表されていたことを認めるに足りる事情はない。

b そうであれば,ギプス固定が肺塞栓症の危険因子であるという知見は,6月25日当時には新しい知見であったというべきであり,被告においてかかる新しい知見を前提に診断・治療に当たることが医療水準であったというためには,少なくとも被告医院と同規模以上の医療機関においてギプス固定が肺塞栓症の危険因子である旨の知見が共有されている必要があるというべきである。ところが,前記認定のとおり,当時においては,仙台の基幹4病院の整形外科責任者においてすら,ギプス固定が肺塞栓症の危険因子である旨の知見が十分には共有されていなかったことがうかがわれるのであるから,被告のような一般開業医において上記知見を前提に診療にあたるべきであったということはできない。

c そうであれば,被告においてギプス固定が肺塞栓症の危険因子であると認識した上で診療にあたることが医療水準であったということはできない。

(ウ) そこで以上に検討した医療水準を前提に,被告がDの症状を肺塞栓症であると診断すべきであったか,もしくはその疑いを持つべきであったか検討する。

a まずは,被告がDを過呼吸症候群であると診断しペーパーバック法を実施した時点(午後6時ころ)について検討する。

(a) 前記認定事実によれば,Dには,冷や汗,脈微弱,頻呼吸,次第に過呼吸,血圧が70~80程度であるという肺塞栓症の臨床症状が認められ,肥満体型という肺塞栓症の危険因子があったことも認められる。

(b) もっとも,肥満体型は,肺塞栓症の特異的な要因ということはできない上,上記Dに見られた臨床症状も肺塞栓症に特異的なものということはできない。そして,当時,ギプス包帯固定が肺塞栓症の危険要因であることは被告医院に要求される医療水準ではなかったのであるし,もう一つの危険因子であるピル服用についても,被告はDがピルを服用していたことを認識していなかったのである。以上によれば,被告がDの肺塞栓症に関して認識していた事実は,上記の非特異的な臨床症状や危険因子に過ぎなかったものである。そうであれば,被告が午後6時ころ,Dの頻呼吸,過換気の症状,及び,ギプス巻替えというストレス要因から,Dは過呼吸症候群になったと考えたことについては,過換気症候群がストレスを原因とするものであること,Dには頻呼吸,過剰換気という過換気症候群の臨床症状が見られていたこと,女性は男性に比べて過換気症候群の発症率が高いことからすれば,過換気症候群を疑ったこともやむを得ないというべきである。したがって,被告が上記事実を認識していたことをもって,肺塞栓症を疑うべきであったと評価することは困難である。H鑑定意見も肺塞栓症には特徴的な特定の症状がみられないことから,初期の段階で過呼吸症候群との誤認は避けられない旨述べている。

(c) 以上に検討したところによれば,被告が午後6時ころにDが過呼吸症候群であると考え,肺塞栓症の疑いを持たなかったことはやむを得ないものであったというべきである。

b 次に,ペーパーバック法を実施した後の時点(午後6時10分以降)について検討する。

(a) 前記認定事実に基づいて検討するに,午後6時過ぎに実施したペーパーバック法の効果は薄く,Dが過呼吸症候群である可能性は低下していたのであるから,各鑑定意見にあるように,午後6時10分ころには他の症状を疑うべきであった。その上,Dにはそれ以前に見られた肺塞栓症の症状に加えて,同じく肺塞栓症の症状である胸部の重苦しさが出現しているのであるから,被告は午後6時10分の時点においては肺塞栓症を疑うべきであったようにも思われる。

(b) しかし,Dには胸痛のすぐ後に激しい腹痛が生じているところ,腹痛が生じてからは,Dの主症状は腹痛であり,胸痛等の他の症状を訴えていたことをうかがわせる事情は見あたらない。このようにDの主症状は腹痛であり,Dには2回の開腹手術の経験があることが判明した状況においては,腹痛という症状が通常肺塞栓症には見られない症状であること,Dに見られた胸痛は腹痛に比べれば軽い症状であったとうかがわれること,午後6時10分以前に見られたDの肺塞栓症の症状は非特異的なものであること等の事情を考慮すれば,被告がDは腸閉塞等の急性腹炎を起こしたものであると考えて,肺塞栓症であるとの疑いを抱かなかったこともやむを得ない面があったというべきである。I鑑定書も,肺塞栓症では通常腹痛という症状は認めず,急性腹症を疑ったとしても何ら不当性はないとしている。H鑑定意見は,遅くともこの時点においては肺塞栓症を疑うべきであったとするが,H鑑定意見はギプス固定が肺塞栓症の危険因子であるという医学的知見に基づいて判断しているところ,当裁判所は当該知見は当時の医療水準とは認められないことを前提に検討しており,H鑑定意見と異なる結論となることも必ずしも不合理ということはできない。

(c) 以上に検討したところによれば,被告が午後6時10分以降に,Dの激しい腹痛の症状や過去の治療歴から急性腹炎を疑い,肺塞栓症の疑いを持たなかったことはやむを得ないものであったというべきである。

c したがって,被告が午後6時以降の時点において,Dが肺塞栓症であると診断もしくは疑うべきであったということはできず,この点に関する原告の主張は理由がない。

2  争点(2)について

(1)  前提事実,証拠(乙B2)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められ,この認定を覆すに足りる証拠はない。

ア 4月の診療報酬改定によって,肺塞栓症予防管理料が新設された。同管理料は,病院又は診療所に入院中の患者であって肺塞栓症を発症する危険性が高いものに対して,肺塞栓症の予防を目的として,必要な機器又は材料を用いて計画的な医学管理を行った場合に算定されるものであって,その対象は入院中の患者に限定されている。

イ 本件ガイドラインには,深部静脈血栓症/肺塞栓症の予防管理が診療報酬に明記されたことは,今後,本症発症によって重大な障害を生じた場合に,適切な予防管理が行われていたかどうかが問われる旨記載されている。

ウ 本件ガイドラインには,5.静脈血栓塞栓症の予防法として理学的予防法(早期離床および積極的な運動,弾性ストッキング,間欠的空気圧迫法)や薬物的予防法(低用量未分画ヘパリン,用量調節未分画ヘパリン,用量調節ワルファリン)が記載されており,これらの予防法は入院中の患者のみに効果があるというものではない。

エ 本件ガイドラインは,肺塞栓症を周術期合併症と捉えた上で,入院中の患者を対象として規定されたものである。

(2)ア  前記1(1)ア,(2)ア認定事実及び上記認定事実に基づいて,本件ガイドライン記載の肺塞栓症の予防策が,6月当時,医療水準となっていたか否かについて検討するに,4月の診療報酬改定で肺塞栓症予防管理料が新設されたことによって,入院中の患者に対しては,肺塞栓症について適切な予防管理をとることが医療水準とされたことは認められるものの,同管理料は入院中の患者以外は対象としていないのであるから,同管理料が新設されたからといって,通院中の患者について肺塞栓症の予防管理をとることが医療水準となったということはできない。

イ  また,本件ガイドラインには静脈血栓塞栓症の予防法が記載されているところ,静脈血栓塞栓症の危険性は入院中の患者のみならず,ギプス装着等の危険因子を持つ通院患者にもあり,本件ガイドライン記載の予防法は通院患者に対しても効果のあるものであるから,本件ガイドラインの制定によって,肺塞栓症の危険因子を持つ通院患者に対しても静脈血栓塞栓症の予防法をとることが医療水準となったという余地はある。しかし,本件ガイドラインは10月に公表されたものであり,それ以前に整形外科の一般開業医が内容を知ることはできなかったのであるから,6月当時においては本件ガイドラインを根拠に医療水準を検討することはできない。

ウ  そして,前記認定のとおり,本件ガイドラインが公表された10月以前には,仙台の基幹4病院のうち3病院が通院患者に対して静脈血栓塞栓症について何らの予防法を講じていなかったのであり,1病院においても,四肢をできるだけ動かすことという予防法が講じられていたのみであることからすれば,被告のような一般開業医において静脈血栓塞栓症の予防をとることが医療水準であったと評価するのは困難である。

エ  これらの事情からすれば,本件当時において通院患者に対して静脈血栓塞栓症の予防措置を採ることが被告における医療水準であったということはできず,そのほかこの認定を覆すに足りる事情はうかがわれないのであるから,被告に通院患者に対して静脈血栓塞栓症の予防措置をとるべき義務があるとは認められない。したがって,この点に関する原告の主張は理由がない。

3  争点(3)について

(1)  前記1(1)ア,(2)ア,2(1)認定事実に基づいて検討するに,前記1(2)イで検討したとおり,被告がDの症状から過換気症候群を疑ったことについてはやむを得なかったというべきであるから,その治療法であるペーパーバック法を試してみることも不適切なものであったということはできない。I鑑定意見も診断的治療として同趣旨の意見を述べている。

また,同日午後6時10分以降,Dに激しい腹痛が見られてからは,被告は早急に救急病院への搬送を要すると判断し,同12,13分ころ,救急救命センターに電話連絡をして病状を説明した上で,同22分,救急車の出動を要請しているところ,医療機関から高次医療機関へ患者を搬送する場合には,まずは相手方病院へ連絡して病状を説明し,受入れの可否を確認した上で救急車の出動を要請するのが一般的な手続であるから,上記被告のとった措置は適切なものであったというべきである。被告は,Dには急性腹症の疑いがあるとして上記措置をとったのであり,肺塞栓症であると疑って上記措置をとったわけではないが,この診断がやむを得ないものであったことは1(2)イ(ウ)bで検討したとおりである。

(2)  以上のとおりであるから,被告のとった措置は救護義務違反と評価されるべきものではなく,この点に関する原告の主張は理由がない。

4  以上によれば,その余の点を判断するまでもなく,原告らの請求はいずれも理由がないから棄却することとし,訴訟費用の負担について民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 潮見直之 裁判官 近藤幸康 裁判官 髙橋幸大)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例