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仙台地方裁判所 平成17年(行ウ)23号 判決 2007年8月28日

原告

A野花子

同訴訟代理人弁護士

杉山茂雅

佐藤由紀子

崔信義

土井浩之

小関眞

吉田大輔

横田由樹

被告

地方公務員災害補償基金

上記代表者理事長

成瀬宣孝

上記処分行政庁

地方公務員災害補償基金宮城県支部長

村井嘉浩

同訴訟代理人弁護士

井上克樹

安西愈

松原健一

主文

一  地方公務員災害補償基金宮城県支部長が平成一五年五月二三日付けで原告に対して行った地方公務員災害補償法に基づく公務外認定処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

主文同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

(1)  原告の請求を棄却する。

(2)  訴訟費用は原告の負担とする。

第二事案の概要

一  本件は、原告が、夫であるA野太郎(以下「太郎」という。)が、仙台で開催された第二八回全国中学校バドミントン大会の競技役員として大会準備に従事中に自殺したこと(以下「本件災害」という。)について、地方公務員災害補償基金宮城県支部長(以下「宮城県支部長」という。)が、平成一五年五月二三日付けで原告に対して行った、本件災害を公務外の災害と認定した処分(以下「本件公務外認定処分」という。)の取消しを求める事案である。

二  争いのない事実等(証拠等を掲げたもののほかは、当事者間に争いがない。)

(1)  太郎は、昭和三七年七月一二日生まれ(本件災害当時三六歳)の男性であり、昭和六一年四月一日から宮城県内の中学校教員として勤務し、平成六年四月一日からは、仙台市立C川中学校(以下「C川中学校」という。)で勤務していた。

太郎は、本件災害当時、財団法人日本中学校体育連盟(以下、地区中学校体育連盟(郡中学校体育連盟及び市中学校体育連盟)、県中学校体育連盟、財団法人日本中学校体育連盟の総称として「中体連」といい、特にそれぞれを区別する場合には「地区中体連」、「郡中体連」、「市中体連」、「県中体連」、「日本中体連」ということがある。)のバドミントン専門部の役員としての大会運営等の職務及び平成一〇年八月二二日から同月二五日まで開催された第二八回全国中学校バドミントン大会(以下、全国中学校バドミントン大会のことを「全中大会」といい、第二八回全中大会のことを「本件全中大会」という。)の大会準備等の職務(以下「中体連関連業務」という。)に従事していた。(甲一)

(2)  太郎は、平成二年に原告と婚姻し、平成五年には原告との間に子をもうけた。

(3)  太郎は、平成一〇年八月二四日午前六時ころ、滞在中のホテルの自室において、ドアの蝶番に帯を掛けて首をつり、自殺した(本件災害)。

(4)  原告は、平成一二年一〇月一一日、宮城県支部長に対し、本件災害が公務に起因したものであるとして、公務災害認定請求(以下「本件公務災害認定請求」という。)を行った。

(5)  宮城県支部長は、平成一五年五月二三日、中体連関連業務は公務とは認められないことなどから、太郎が、通常の日常の職務に比較して特に過重な職務に従事したものとは認められないこと、本件災害と公務との相当因果関係が認められないことを理由に、本件災害は公務外の災害と認定し、本件公務災害認定請求を却下した(本件公務外認定処分)(甲一)。

(6)  原告は、本件公務外認定処分を不服として、平成一五年七月一八日、地方公務員災害補償基金宮城県支部審査会(以下「支部審査会」という。)に対し、審査請求を行ったが、支部審査会は、平成一六年五月一八日、審査請求を棄却するとの裁決を行った。

(7)  原告は、平成一六年六月二一日、地方公務員災害補償基金審査会(以下「審査会」という。)に対し、再審査請求を行ったが、審査会は、平成一七年八月八日、再審査請求を棄却するとの裁決を行い、同棄却裁決は、同月一二日に原告に通知された。

(8)  原告は、平成一七年一二月一四日、本件訴えを提起した(顕著な事実)。

三  争点

(1)  中体連関連業務が公務にあたるか。

(2)  本件災害は太郎が従事していた公務に起因するものか。

四  争点に関する当事者の主張

(1)  争点(1)について

(原告の主張)

ア 中体連関連業務の公務遂行性

中体連は、教育委員会等とともに中学校の体育会系の部活動の競技大会を主催する団体であり、本来、市教委や県教委が行うべき業務を遂行しているきわめて公的な団体である。

全国中学校体育大会運営の基本(甲一・二四七頁)によれば、全国中体連の行う中学校体育大会は、学校教育の一環と明確に位置づけられており、学校単位で参加するものとされている。

中体連の大会運営は、大会の基本的性格が学校教育の一環であることから、教育委員会も大会運営の主体とされており、文部省・関係地方公共団体の指導を受けながらなされている。したがって、全国中学校体育大会は、学校教育そのものとしての位置づけがなされている。

イ 中学校体育大会が、教育の一環として位置づけられていることから、仙台市中学校体育大会から全国中学校体育大会に至るまで、中体連の行う体育大会は、学校行事として位置づけられている。

すなわち、太郎が勤務していたC川中学校の平成一〇年度年間行事予定表(甲一・五六頁)には、中体連関係の各行事が学校行事としてあげられている。そして、土曜・日曜の休日に行事がなされていることから、振替休日が指定されており(六月一七日、同二二日)、職員にとって出勤日、生徒にとっては登校日と位置づけられている。

本件全中大会に関しても、平成一〇年七月七日付けで、太郎に対して同大会の総務部長に委嘱する旨の委嘱状(甲一・七五頁)が出され、所属長であるC川中学校校長宛に、同大会役員に委嘱したことを通知するとともに同大会への派遣を依頼する文書(甲一・七四頁)が提出されている。そして、これに基づき、太郎は、本件全中大会、その実行委員会、常任委員会に出張として出席し、所属長もこれを承認している(甲一・一〇六頁)。そして、本件全中大会に向けての実行委員会への出席等の準備事務について、太郎は勤務時間中に出席する等して、その事務処理を行っている。なお、準備事務に関して、出勤簿上では「週休日」等となっているが、これは「指定休」という教員独特の制度によるものであって、形式的に休暇とされているだけである。実質的に休暇が取れていたわけではない。

ウ 中体連の役員等は、各学校における校務分掌として選任されている。

すなわち、中学校の部活動顧問は、各教員の希望を基にしながらも、職員会議において分担が話し合われ、学校長の命令によって校務分掌として任命される。部活顧問に任命されると、自動的に競技ごとに地区中体連の専門部員となり、この部員の中から互選によって専門委員等の役員が選出される。この互選のための会議は、毎年四月に専門部の部長が勤める学校において、勤務時間内に開催されている。そして、選任された専門部員等によって各種目の地区大会の運営全般が企画・運営される。

また、各地区の専門委員から推薦又は選出されたものが、県中体連の専門部役員に選任される。この専門部員の中から部会長及び委員長が選出されることになる。そして、県中体連の専門部会が、各種目の県大会の運営全般を企画・運営するのである。

さらに、全国大会については、開催地教育委員会、開催地中学校体育連盟等が、運営をするのであり、県中体連の専門部会が各種目の大会の実質的責任者となっている。

選任された専門部員は、教員として授業を担当し、部活動の顧問として部活動の指導を行いながら、勤務時間内に、中体連の大会運営の業務を行っているが、その間、職務専念義務が免除されることはない。

エ 任命権者も中体連の専門部員等の業務を公務と認識している。

すなわち、仙台市教育委員会委員長は、本件全中大会総務部長としての業務及び県中体連のバドミントン専門部副委員長としての業務について、どちらも公務と認識している。

オ 中体連業務が業務でないとすれば、これらの業務を勤務時間内に行った場合には職務専念義務に反することになり、懲戒事由になるとともに、給与も対応する時間について減額されることになるが、太郎は、勤務時間内に中体連関連業務を行っているにもかかわらず、上記時間に対応する給与について、減額はなされていない。

カ 以上の理由から、太郎が行っていた本件全中大会総務部長としての大会準備業務は、夏季休業期の指定休等の期間中も含めて公務とされるべきである。

(被告の主張)

ア 太郎が従事した中体連関連業務は、原則として、正規の勤務時間外に、かつ校外で行われ、しかも学校長による職務分担の定めはなく、業務命令ないし指示に基づくものではなく、中体連の業務は中体連会長の、全中大会の業務は全中大会実行委員長の支配ないし管理下にあったというべきであるから、原則として公務ではない。

イ 中体連関連業務であっても、第三者からの依頼ないし本人からの報告等を契機として、学校長において旅行命令(職務命令)を行っている場合には、具体的状況によって支配管理性が認められる余地がある。

ウ 原告は、全中大会の主催者に教育委員会が含まれていること等を理由として、全中大会関連業務が公務であると主張するが、教育委員会は名目的な主催者に過ぎない。そもそも主催者が教育委員会であるということが直ちに支配管理性を導くものではなく、職務命令なくして公務となることはない。

エ 部活動顧問就任命令によって、顧問は、学校の管理下において行われる部活動における児童等に対する指導業務、対外運動競技等において児童等を引率して行う指導業務を行うことになるが、公務として予定されているのは、この範囲である。

市中体連は任意団体であって、任意団体の定める規約に教員が拘束される理由はないから、市中体連の活動に教員がどのように関わるのかは、当該教員の裁量によって自主的に判断することであり、学校長が命令しうるものではない。

(2)  争点(2)について

(原告の主張)

ア 太郎のうつ病と自殺との間の相当因果関係

太郎が、うつ病にり患して自殺に追い込まれて死亡したということについては、争いがないところであり、千葉茂雄医師作成の「A野太郎氏に関する意見書」(以下「千葉意見書」という。)によっても、本件自殺は太郎のうつ病によって引き起こされたことについては疑いない。

イ 公務とうつ病との相当因果関係に関する一般的な見解

公務とうつ病との相当因果関係に関しては、「ストレス―脆弱性」理論によって判断されるべきである。これは、環境からくるストレスと個体側の反応性、脆弱性との関係で精神的破綻が生じるかどうかが決まるという考え方であり、ストレスが非常に強ければ、個体側の反応性、脆弱性が小さくても精神障害が起こるし、逆に脆弱性が大きければ、ストレスが小さくても破綻が生ずるとされる。具体的には、被災者のり患したうつ病について内在的素因の程度、被災者の従事した公務の内容・状況、公務外の事情等を総合考慮し、社会通念上、被災者の公務がうつ病を発生させる危険を内在又は随伴しており、その危険が現実化したといえる関係にあることが認められるか否かによって判断するのが相当である。

ウ 太郎の素因について

本件では、太郎のうつ病発生に関する素因として考慮に値する要因は、全く指摘されていない。公務災害認定通知書、裁決書で指摘されていないのはもちろんのこと、本件訴訟になってから被告によっても全く主張、立証されていない。むしろ、太郎は、本件うつ病を発症するまでは、優秀な教師として勤務してきたのであって、何ら精神病の既往歴もなく、家系的・遺伝的な要因も認められず、身体疾患の既往歴も無いのである。

エ 太郎が従事していた公務の内容・勤務時間について

(ア) 公務の内容

a 生徒会活動指導の加重性について

学習指導要領は、生徒会活動を中学校における特別活動の一つとして位置づけており、生徒会活動指導が重要な教育活動の一つとされていた。具体的な活動としては、生徒集会や中央委員会等の各種会議、文化祭、体育祭等の行事の企画、準備、実施等があり、生徒会の常設委員会、実行委員会といった生徒の機関がこれを行っていた。

そして、生徒会活動を指導する生徒会指導担当となる教員は、職責が重要であり、非常に負担が大きい校務分掌であることから、経験豊かで、生徒との信頼関係が深い教員が選任されるのが普通であった。太郎は、生徒会活動も含めた特別活動の主任であり、かつ、生徒会活動指導の担当であった。平成一〇年の生徒会活動指導を太郎と共に担当したB山松夫教諭(以下「B山」という。)、D原竹夫教諭(以下「D原」という。)は、C川中学校に赴任して間もないこともあったため、太郎が、生徒会活動指導の中心となって、対面式、体育祭、文化祭など、全ての行事の各種起案をしたり、具体的な生徒の指導をしたり、周知活動などを行ったりしていた。

生徒会活動は、行事を成功させること以上に、その過程の中で生徒の自主性を引き出すために創意工夫を凝らすところが、最も難しいポイントである。定められた期限までに準備を終了させ、実施させるために、何度も実行委員会を開催しなければならず、臨時の実行委員会も行われていた。さらに、校長や教頭に対する報告、各学級に対する周知徹底(プリントの配布、職員会議での報告、説明)など、なすべきことが膨大にあった。しかも、この生徒会活動は、平成一〇年七月には、体育祭、文化祭、生徒会選挙と同時期に平行して準備などをしなければならなかった。各行事で、実行委員会が組織されるのであるから、太郎は、これらのすべての行事において、各実行委員会を現実に指導して、企画立案の指導、学校長などへの報告、周知徹底、実施を行わなければならなかった。特に、文化祭は生徒会行事の中でも最大のものであったが、その実行委員会の会議、ポスター作りなどの準備活動は、太郎が全中大会の準備に追われていた夏休みに行わなければならなかった。

したがって、生徒会活動の指導は、それだけでも、相当程度強度の心理的負荷が加わる公務であったことは明白である。

b 免許外指導の過重性について

免許外指導とは、文字どおり、教員免許を持たない科目を生徒に教えることである。教員免許を持たないで授業をするのであるから、免許を持つ科目を教える場合と比較して、担当教員に相当な身体的および精神的負担がかかることは明らかである。

太郎が従前担当していた科目は英語であったが、この他の免許外科目として社会科を担当することとなったのである。免許外科目である社会科の教材研究は、勤務時間外に行わざるを得なかったと考えられる。一コマの授業の指導案を作成するためには、最低一時間はかかる。社会科が免許外であることを勘案すると、太郎は二時間の準備をしていたと考えることが、教師の経験上合理的である。しかし、太郎は学校では社会科の準備をしておらず、帰宅後に二時間かけて準備をしていたと考えるほかはない。英語、社会科とも公立高校の受験科目である。しかも、社会科は、英語と違って後の学年で再履修する機会のない科目であることから、太郎の授業は生徒の受験に直結する授業であった。太郎の教え方が悪いために社会科の点数が悪く受験に失敗するということもありえる。このため、太郎は、免許外でありながら、生徒たちの受験という観点から、重い責任を負わせられていた。この責任を果たせないという観点からも、太郎の疲労感、失望感は助長されたと考えられる。

太郎は、社会科指導の研修を受けるに当たってメモ(甲六・二四頁)を残しているが、これは、免許外科目である社会科の指導方法が分からないということを意味する内容であった。太郎が社会科の教壇に立つときの不安は計り知れないものがあったと思われ、五月の研修会に不安の克服の期待をしていたことは容易に推測されるが、研修会における太郎のメモ(甲六・二頁)をみると、抽象的に「見方」、「考え方」と記載してあり、この点がなんら具体化されていないことが示されており、社会科の教え方が改善されてはおらず、研修会によっても太郎の免許外指導の不安は解消されなかった。

それでも、太郎は、生徒のために太郎なりに、社会科の授業を充実させるための授業準備をしていた。そのように準備をしても、研修会で問題が解決されなかったことからすると、やはり授業がうまく行かないことが多かったものと思われる。免許外教科の担当は週四コマあるが、この度に、自宅での準備、努力が報われない敗北感、疲労感が繰り返されていた。

同僚の社会科教員の援助、指導書、教育委員会の講習等、太郎に対する援助によっては、指導方法は抜本的には改善されなかった。太郎が受けていた精神的・肉体的負担との関係では、功を奏さなかったといわざるをえない。

以上のように、免許外指導である社会科の授業の担当は太郎に、著しく強度の心理的負荷を与えていたことは明白である。

c 部活動の指導の過重性について

(a) 平成一〇年当時、部活動は、運営組織上、特別活動(生徒会等)に位置づけられていた。部活動を行うことによって、課内授業であるクラブ活動の履習と同視しうる場合は、部活動をもってクラブ活動と代替しうるという学習指導要領に基づいて、代替措置がとられていた。この意味で、部活動も、教育課程の授業としての性格も有していたのである。このため、生徒は、中学入学後に必ずいずれかの部活動に属することになっており、退部・転部は原則として認められず、退部は保護者の退部願いが必要と定められていた。特に、体育の部活動については、平成一三年に宮城国体が開催されることになっていたことから、全県挙げて中学校の体育部活動の強化の教育方針が出され、そのため、対外試合が強く奨励されていたのである。

(b) 部活動指導の最も重要な点は、教員がいかに部活動の場に付き合うか、という点にある。また、生徒の部活動の時間、場を確保することが重要であり、対外試合、練習の設定も教員が行っていた。さらに、負傷の防止や思春期の女子の集団における人間関係の調整等、神経を費やす点も多岐に渡った。部活動の顧問は、休日も、部活動の練習の指導をしており、部活動も何も無く仕事が休みとなる日は、一ヶ月に一日あるかないかであった。

太郎も、C川中学校バドミントン部顧問として、前述のような業務を担っていた。特に、C川中学校バドミントン部は、ほとんどが女子であるため、人間関係の調整がとりわけ重要とされるなかで、太郎は、同部を市中学校総合体育大会(以下「市中総体」という。)で青葉区優勝にまで導いたのであるから、時間を費やして熱心に生徒の部活動を指導していたことは明らかである。

(c) 部活動の指導は、多くの時間を費やすため、休むことができない点で特に、過酷であり、太郎にとって過重な負荷となっていた。平日であれば、テスト期間などの特別の例外を除いて、毎日部活動に午後六時から七時まで拘束され、その上、休日も部活動の指導で奪われてしまう。

d バドミントン部顧問としての対外的活動の過重性について

太郎は、平成八年に、市中体連バドミントン専門部会の委員長と県中体連バドミントン専門部会の副委員長に選任され、平成九年一〇月に県の委員長である田教諭が全中大会の専従となったため、大会運営などの仕事は主に太郎が行っていた。市中総体は平成一〇年六月一三日から同月一五日、県中学校総合体育大会(以下「県中総体」という。)は同年七月二四日、同月二五日に行われたが、太郎は、大会の二、三か月前からこの準備をしなければならなかった。実施要綱の作成、参加申込書の作成、会場との打ち合わせ、抽選会、組み合わせの作成など、やるべきことは多かった。特に市と県の大会では、太郎は大会運営に専念することができず、C川中学校バドミントン部の引率も行っていたのであるから、大会期間中は、運営者・引率者という異なった緊張を強いられていた。

e 全中大会実行委員会総務部長としての公務の過重性について

(a) 全中大会が仙台で開催されることは、一年前には決められており、県中体連バドミントン専門部の副委員長である太郎が、現地スタッフとして全中大会の運営に当たることは予想されていた。事務局の体制も平成一〇年三月ころには定められており、太郎が総務部として実質的に運営に携わることは同時期頃までには決められていた。

そして、太郎は、副委員長兼総務部長として、大会準備、運営の実質的責任者としての地位を任じられた。それは、この日のために休日を返上して練習してきた部活動の代表生徒の大会というやり直しのきかない仕事の実質的責任者であり、それ自体が精神的プレッシャーになる役職であった。

また、全中大会は二〇年に一回の間隔で各県において開催されるものであった。誰しも自分の経験のない仕事をするときは大きな不安を抱くものであり、しかもそれが重大な責任を伴う立場で行うものである場合の不安感は計り知れないものであった。

それにもかかわらず、太郎は、全国大会の予選を兼ねる各地の県大会が七月下旬にならないと終了しないこと、平成一〇年四月からの一学期の本来の業務が多忙であることから、同年七月の県中総体が終わるまで全中大会の準備を実質的には始められず、このことに強い心理的負担を感じていた。

(b) 太郎は、総務部に配属され、業務必携という大会当日の行動マニュアルの作成の多くの部分を担当していたが、業務必携は、開催の要領を規定しており、全中大会の運営の根本に関わるものといえるため、その作成は、総務の業務の中で極めて大きな位置を占めていた。

業務必携の作成に関しては、前年度のフロッピーを利用できているものの、それを上書きして多少直した程度の作業で作成できるものではなく、内容的にも時間的にも大変な作業であった。

また、大会当日に急に運営に参加した教員に何を行ってもらうのかの段取りをするのも、太郎の役割であった。業務必携には、十分に打合せをしていない大会役員、手伝いの教員、生徒が、それを見て自分が何をすればいいのかが分かるよう詳細に記載されていなければならない。そのため、あらゆる事態を予想し、かつ、それぞれの場合に取るべき対処法が分かるように具体的な対処法を記載していなければならないという点で、業務必携は作成するのに非常に手間の掛かるものであった。

しかも、太郎は、極めて限られた時間で重要な業務必携を完成させなければならなかった。すなわち、業務必携の作成計画では、同年六月一〇日ころに役員就任の可否についての問い合わせが発送され、同月一八日ころには役員名簿が完成される予定になっていた。その後、同月下旬には、業務必携の作成についての会議が持たれ、同年七月中旬には大会の補助員の予定者を依頼し、これについての派遣要請を行うことになっており、このような作業を行った上で、同月下旬から業務必携の作成・整理作業が具体的に開始される予定となっていた。

また、総務部による業務必携の作成・整理作業は、総務部の担当する部分の作成だけではなく、競技部、広報・資料記録部等の作成した部分を受け取り、その取りまとめを行う形でなされる。各部の作成した部分も含めて、整理・校正がなされるが、この作業は、同年七月下旬頃から始められ、同月末には基本的に完了することになっていた。そして、同年八月三日には、仮綴の業務必携を作成し発送する。その後、同月一〇日ころまでに補充作業が行われ、同月一二日には納品がなされるというスケジュールで作成作業が行われる予定であった。この完成は、大会運営に当たっては、必須のものであり、完成予定日を遅らせることは絶対にできないものであった。

さらに、全中大会の申込締切りが同月一一日であり、組み合わせ抽選会が同月一三日となっていたことから、組合せ表等は、納品がなされた後に補充して作成されることになっていた。

上記スケジュールに合わせるために、総務部は、同年六月から業務必携作成に向けての準備作業を開始することになるが、この準備作業は、太郎が実質的に担うことになった。しかし、前述のように、同年七月下旬までには、太郎には、学校での様々な業務が重くのしかかっていたことから、全中大会の準備に本格的に取り組むことはできなかった上に、同年七月に県中総体、同年八月上旬に東北大会が予定されていたことから、時間を取ることができない状態にあり、しかも、これらの大会が終了しなければ、大会参加者が決まらないといった状況があった。そのため、業務必携の作成作業は、多忙を極める中での作業であり、このこともあって、その作業は必然的に遅れがちとなっていった。

以上のように、重要な業務必携を短時間で完成させなければならなかったのであるから、業務必携の作成が太郎に与えた肉体的・精神的負担は、極めて重いものであった。

(c) 総務部は、各部署のまとめ役としての側面を持っており、各部署から処理方法の分からない点についての問い合わせにも対応しなければならなかった。また、各部署の担当に属しないこまごまとした仕事を全て引き受けなければならない部署で、そのような仕事は数え切れないほどあった。さらに、総務部の業務はその性質上、予測の付かない事態に対応しなければならないものであり、常に緊張を強いられる状態だった。そうであるにもかかわらず、総務部の仕事は裏方としてできて当たり前の仕事と考えられていたために、特別に神経を使うものであった。

このように、総務部は多岐に渡る事項を処理していたにもかかわらず、実働は太郎の外一名の合計二名しかいなかったが、太郎は、周りの人間に他人の手伝いをするほどの余裕がないことを知っていたことから、自らが仕事を抱え込んでしまっていた。

(d) 全中大会開催直前から開催中にかけて、太郎の総務部長としての仕事は、各係の教員が担当の仕事を行うための準備が多くなっていた。例えば、記録係の教員の記録をするための用紙の準備、受付・接待をするためのお茶や机・いすの準備、印刷するための紙・印刷機の準備、大きな看板などを運搬するためのレンタカーの準備など、目に見えない細かい雑務が実に多かった。昼食券についても、業者との発注関係は担当の教員が行ったものの、昼食券の作成・印刷・配布は太郎が行った。

そして、ミスをすることはできないという重圧とミスを犯さないための実に細かい雑務への気配り、目配りで、太郎の神経は緊張の極みに達していた。

太郎は、死亡する前日の夜、原告に対し、「あまり食べられない」、「眠れない」、「一時間おきに目が覚める」と極度の精神的負担に基づく体の不調を訴えていた。そして、太郎は、全中大会開催中、大会がきちんと運営できるか、スムーズに進むかについて、非常に心配し、焦っており、精神的に追いつめられていた。そのため、太郎は、普段は弱音を吐くような性格ではなかったにもかかわらず、宿泊先のホテルでA田梅夫教諭(以下「A田」という。)に対し「大丈夫かなぁ」という言葉を何度も漏らしていた。

実際の大会運営はスムーズに行かず、各部署からいろいろな苦情等が雑多に太郎の下に集まっていた。すなわち、太郎は、トーナメントのくじ引きや練習会場についてのクレームを受けた。また、太郎は、最初に来賓紹介をしなければならない立場にあったが、最後に体育館を閉めて慌ててレセプション会場に駆け込んできた上、来賓の名前を読み間違えた。さらに、役員の食券の数が合わないということや、誰が弁当を配布するのかというような事細かな苦情が太郎の下には寄せられていた。同年八月二二日には、来るべき来賓が来なかったり、代わりの人間が来たりした。これにより、来賓の席順の変更、記章、花束の大きさ、花束の色というように、実に細かい対応が必要になった。

これらのトラブルがさらに精神的ストレスとなり、大会運営についての不満足感を募らせ、太郎は精神的に追いつめられていった。そして、肉体的にも精神的にも疲労の極みに達していた太郎にとっては、大きな打撃となった。

(e) 上記のような精神的打撃から、大会運営がうまくいかなかったという思い込みで気分が落ち込んでいた状況で、全中大会最終日の前日のレセプション終了後、エレベーターの前で一人取り残されるというアクシデントが発生し、孤独感を深め、自殺行為を思いとどまる精神的な抑止力が著しく減退していった。

f 全中大会終了後の公務について

太郎の勤務していたC川中学校では、八月二六日に新学期が始まり、二七日からは実力考査があった。太郎の担当する中央委員会も二七日にあった。翌週の土曜日には生徒集会があり、九月一八日は文化祭のリハーサル、それが終わると二四日は選挙管理委員会が開催され、翌日に生徒会選挙の公示と立て続けに生徒会行事が予定されていた。それらの行事に向けて太郎は実行委員会を指導して、行事の準備運営をしなければならなかった。もちろん、これらの生徒会行事と平行して部活動の指導、英語の指導、生徒に対する生活指導のほか、なかなか満足のゆく授業のできない免許外科目である社会科の授業が週に四回あるという長時間過密労働が待っていた。さらには退任が予定されていたE田教諭の後任として、県中体連のバドミントン専門部の委員長の重責も予定されていた。

このことから、太郎は、全中大会が終わったからといって解放感に浸ることはできない状況であったことは想像に難くない。

g 各公務の総合的評価について

太郎は、日常業務として担当する公務が、極めて過重であった上、全中大会実行委員会事務局総務部長の業務が重なったのであるから、太郎の担当していた各公務を総合的に判断すれば、公務の内容からだけでも、十分にうつ病を発症させるおそれのある程度の過大な心理的負荷があったことは明らかである。

(イ) 太郎の長時間労働について

a 小中学校教員の勤務実態

(a) 教員勤務実態調査暫定集計(七、八月分)の概要について

文部科学省は、平成一八年七月と八月の全国の公立小中学校の教職員の勤務や給与の在り方等を検討するにあたり、教職員の勤務実態を調査している(甲一三)。これによると、中学校教員の平成一八年七月の通常期(夏期休業日を除く。)の一日の出勤から退勤までの休憩・休息を除いた平均時間は、一一時間一六分となっており、その内容として、中学校では、部活動・クラブ活動が授業に次いで長くなっているとするコメントが付されている。

また、中学校教員の八月夏季休業期の出勤から退勤までの時間の平均は、八時間二八分となっており、夏季休業期における中学校教諭の残業時間は、平均して二六分となっている。このことは、現在の公立小中学校教職員は、夏季休業期においても恒常的に残業を行っている事実を示している。

(b) 教育活動の現況調査集計

宮城県教育委員会は、平成一三年一〇月一日から五日に宮城県内の公立小中学校教員の勤務実態について調査した。その調査結果によれば、勤務状況に関する一般的な印象を聞いた項目においては、中学校教員の七〇・五パーセントが毎日が忙しいと感じると回答している(甲一・二三四頁以下)。そして、学校の仕事を勤務時間を超えて行うこと(家に持ち帰りも含む。)が「よくある」と答えた中学校教員が、前述した七〇・五パーセントの中の教員の中で七八・七パーセントにものぼっている。また、勤務時間については、定められた出勤時刻よりも、二〇分ないし四九分早く出勤する中学校教員が五六・二パーセントである。定められた退勤時間よりも、一時間三〇分から二時間二九分遅く退勤している教員が六五パーセントとなっている(同二三九頁)。

このことから、宮城県内の公立中学校教員が、恒常的に超過勤務を強いられ、ほとんどの場合三時間を超える超過勤務を行っている実態が明らかである。

(c) 時間外勤務・部活動についての実態調査結果

宮城県教職員組合が二〇〇一(平成一三)年七月に行った、宮城県内の公立中学校教員の調査内容が発表されている(甲一・二三〇頁以下)。同調査によれば、県内の中学校教員の回答者中、一週間に一〇時間以上の超過勤務を行っている者が五六パーセントであり、その原因の三一パーセントが部活動であるとの回答がなされている。そして、二〇〇一(平成一三)年四月ないし六月の、休業土曜日・日曜日・祝日のうち何日、部活動や対外試合を行ったかに関しては、三八パーセントの教員が一〇日以上と答えている。

また、持ち帰り仕事に関しては、ほとんどの教員がこれを行っており、四パーセントの教員が、自宅で二〇時間以上仕事をしていると答えている。

b 太郎の長時間労働

(a) C川中学校での勤務時間については、多くの時間を共有していた同僚のB野春夫教諭(以下「B野」という。)の作成した甲一・八二頁以下の動静表を基にまとめた別紙「被災者の労働時間」記載のとおりである。

(b) 通常の労働時間(主として平成一〇年の六月、七月)

甲一三の二「教員勤務実態調査(第一期)暫定集計」によれば、「休憩・休息」は、平均一〇分間にすぎず、学級担任をしている教員の場合はさらに短く七分間にすぎない。また、A田も、歯をみがく程度の時間しか休憩時間としては取れない旨証言しており、休憩時間を一〇分も取ることができないのが中学校教員の実態である。

太郎の場合、規定では始業時間は午前八時二〇分であるが、甲一・八六頁以下によると、太郎は、午前七時五〇分には仕事を始めていた。プリント配布等朝の職員会議の準備や生徒会、部活動の生徒との打ち合わせなど、短期間でなすべき作業量は膨大であったため、実際はもっと早く仕事に取り掛かっていたことも多かったと思われる。

給食時間は、給食指導があるため、休憩時間にはならない。休憩時間がないことによる負担の増大は、時間以上の労働量の増大と評価されるべきである。

加えて、生徒のいない職員室に戻っても、仕事の合間に歓談する余裕も無く、退勤まで黙々と執務をこなさなければならない状況であった。

生徒の休み時間、放課後は、生徒への生活指導、免許のある英語の準備、学年分掌の仕事(遠足、野外活動、修学旅行などの企画、地域清掃活動、福祉慰問団等の企画、各種行事への学年の取り組み方の企画)、C川中学校の特別活動主任としての教育委員会やボランティア団体、社会法人からの問い合わせに対する回答等、なすべき仕事が膨大にあって、休憩する時間はとてもなかった。太郎にアンケートが来る頻度は高く、一つ一つの活動状況について調査した上でしか回答できないことから、回答に要する負担は大きかった。

太郎は、この他に、主として放課後は、職員会議、部活動指導、生徒会指導を行っていた。

そして、退勤時間は、平成一〇年の六月から七月ころの平日は、午後八時くらいまで就労し、授業のある土曜日も概ね同じ時刻であった。授業の無い土曜日も、部活動の指導をする教諭は、午前八時から九時に出勤し、午後六時頃まで執務をしていた。一週間の労働実態は週休一日制であった。

さらに、通信簿提出日である七月一五日の前の少なくても一週間は、午後一〇時から一一時まで執務をしていた。前年度太郎は受験学年である三年生を担当しており、一二月などは、退勤時間が午後九時、一〇時になったとのことである。

太郎らは、休日も部活動指導をしていた。太郎よりは部活動指導に熱心ではなかったB野でさえ、全くの休日は月に一回あるかないかという状態であったので、太郎はそれ以上の出勤状態であったことは間違いない。

以上の他に、社会科の授業が週に四回あった。前述のとおり、太郎は、学校では社会科の授業準備をする時間がなく家で行っていたこと、一コマの授業をするためには二時間は準備の時間が必要であったことから、週四回は自宅で社会科の準備を二時間以上行っていたと推測しうる。

(c) 本件災害一か月の長時間労働

中学校教員は、生徒が夏休みでも出勤し、クラスの諸表簿を作成しなければならなかった。指導要録等の諸表簿も七月二七日までに作成しなければならなかった。指導要録は通信簿よりも相当詳細なものであり、生徒一人あたり、表面の作成に三〇分ないし四〇分、裏面の作成に一時間以上掛かるほど、太郎に大きな負担の掛かるものであった。

太郎の場合は、上記のような通常の業務に加え、C川中学校の特別活動の主任であったため、ボランティア団体やNPO団体から環境に関する事項等に関してのアンケート依頼、教育委員会からの問い合わせがあり、それに対しては、生徒会のトップである太郎が担当せざるを得なかった。また夏休みにおいても、部活動の指導があり、指導要録の作成のほか、各種報告書、指導案の作成、実力考査の問題文の作成など、生徒の夏休み期間になすべきことは山積していた。この他に、生徒会の指導担当として、文化祭等の実行委員会等の生徒会指導があり、太郎は、休みを取れない状況だった。

乙一六では、「夏期休暇で出勤した日の学校に滞在した時間全てが時間外労働時間との把握は、現在の日本社会の労働時間の把握から考えて非現実的である」と述べられているが、生徒の夏期休暇を教員の夏期休暇と同視して論じている点で不当である。また、文部科学省が行った平成一八年七月と八月の全国の公立小中学校の教職員の勤務実態調査(甲一三)により、教員のほとんどが、夏季休業期においても、超過勤務を強いられている実態が明らかとなっているように、「夏期休暇中」という建前ではあるが、実質的には査定や昇進に影響を与えたり、「慣行」や黙示の業務命令によって、風呂敷残業を強いられたりしているという実態に反する点でも不当である。また、乙一六がそもそも表記の医師の作成であるという点にも疑問がある。

乙一三は、指定休については、労働していないものとして扱っている。また、C川中学校の校長C山夏夫は、七月二一日から二三日の業務等以外は、「週休日、夏季休暇などであり、業務命令は出していないので、公務とみなさない」(甲一・一四七頁)と述べている。しかし、これは実態から乖離した意見である。

すなわち、指定休とは学校教職員に認められた長期休業中の土曜休のまとめ取り制度である。昭和五五年に公務員の週休二日制への移行が開始された。教職員の週休二日制を実施するためには「学校五日制」の条件整備が必要だったが、当時の文部省は学習指導要領の見直しや、週あたりの授業時間数の検討も行っていなかったため、教員については、週休二日制を一般公務員のように実施することはせず、本来休むべき土曜日分を、長期休業中、すなわち、冬休み、春休み、夏休み中に「指定休」として「まとめ取り」させることとしたのである。これはカレンダー上休みとなっているだけであり、長期休業中の職務の軽減もなされていないことから、指定休の日に出勤して仕事をしなければ、業務が山積みされていくだけであった。このためほとんどの教諭が指定休の日にも出勤しており、少なくとも太郎は出勤していた。

被告は、太郎が指定休の印を押している日の一部について「学校閉庁日」として、教員が業務を行っていない日であるかのような解釈をしているが事実に反する。この当時、宮城県においては長期休業中の全土曜日と、お盆後の八月一二日から一六日まで(土日を除く実質三日間)を「当番を置かなくてもよい日」として事実上学校閉庁が可能な条件は作ったが、教員を業務(研修、部活指導、中総体関連事務、学校事務整理等)から解放したわけではないからである。

このように、太郎は、夏季休業期に取得するべき指定休や特休も休むことなく全中大会の業務を行っていたのであり、業務命令は出していない旨のC川中学校長の意見は実態に反するものである。

前述のように、太郎は、夏休みになって、ようやく業務必携の作業等の全中大会の仕事を本格的に進められるようになったものの、昼間は、一般のC川中学校の仕事があるため、退勤後に、全中大会役員の打ち合わせ準備作業を行い、また、自宅でも作業を行っていた。

d 労働時間の計算

(a) 脳・心臓疾患の労災の方法による労働時間の算出方法(週四〇時間労働とし、これを上回る時間の総和を残業時間とする。)によると、太郎の被災前一か月(八月二三日~七月二四日)の総労働時間は約三四〇時間余りとなる。昼休みの休憩の無い中学校教員の実態に鑑みると、この時期の残業時間の合計は一六三時間となる。仮に、昼休みを一時間労働時間から除いても、残業時間は一三六時間となる。そして、業務必携の作成はかなり骨の折れる仕事であるから、上記労働時間以上の労働を行っていたことは明白である。

そうだとすると、太郎の被災前一か月の労働時間は、一か月一〇〇時間を越えているのであるから、それだけで脳疾患、心疾患を発症させるに足りるほどの長時間労働であったことは明らかであり、同様に精神疾患発症ないし重篤化の要因となるほどの長時間と評価されることは否定される余地のないことである。

(b) 乙一三では、太郎の労働時間に指定休の労働を含めていないが、太郎は、指定休に休みを取っていない。

太郎の場合、被災前一か月の指定休は、一二日間あったから、仮に少なめに見積もって指定休の日に一日七時間執務をしたとしても、乙一三の計算よりも八四時間勤務時間が増えることになる。乙一三による被災前一か月(八月二三日~七月二四日)の残業時間は、六五時間五分であるから、これに上述の八四時間を加えると一四九時間五分となり、太郎の被災一か月前の長時間労働は疑う余地は無いことになる。

(c) 被告は、太郎の長時間労働について、証拠がない旨主張している。

しかし、義務教育諸学校等の教育職員の給与等の特別措置に関する条例五条には、義務教育等諸学校等の教育職員については、正規の勤務時間の割振りを適正に行い、原則として、時間外勤務は、命じないものとすると規定され(甲一〇)、原則として超過勤務はないものとされていた。その結果、教育委員会においては、教育職員の勤務状況は全く把握されておらず、教員が、何時間労働に従事したのかは不明の状態に放置されていた。教員を含む労働者の労働時間の把握・管理は、使用者の責任である。使用者である教育委員会が、具体的労働時間を把握・管理していないために、教員の労働時間が不明となった場合、そのことの不利益を被災者である教員に転化することは不合理、不公平であって許されない。したがって、被告となる使用者側が、太郎が実際に長時間労働をしていなかったことの立証責任を負うと解するべきである。

しかしながら、被告は、太郎の労働時間について、具体的証拠に基づき、太郎が長時間労働に従事していなかったことを主張・立証していないのであるから、太郎の長時間労働は、実態調査及びB野・A田証人尋問及び原告本人尋問の各結果から推認すべきである。

オ 公務外の事情等

太郎においては、公務外でストレスの原因となる状況は特段存しなかったと解されるし、被告からも何ら主張されていない。

カ 被告の主張に対する反論

(ア) 被告は、うつ病は基本的に内因精神病であると主張する。

しかし、最近の精神障害の国際的診断分類では、内因、外因、心因、器質性、機能性などの概念が必ずしも明確でないことから、内因性、器質性、心因性など病因による診断は行われなくなってきている。また、現代精神医学においては、精神疾患、特にうつ病は、社会・心理的要因、遺伝・体質的要因、脳・神経機能的要因が、複雑に絡み合い、個人の脆弱性と環境によるストレスとの相関関係により発症するとされている。したがって、ストレスが大きく長期間にわたって持続した場合には、個人の脆弱性が弱くともうつ病が発症するとされているのである。

(イ) 被告は、うつ病の発症メカニズムについて、神経伝達物質がうつ病に関係していると主張するが、精神医学的には、うつ病発症のメカニズムは未だ解明されていない。

(ウ) 被告は、うつ病の外部的誘因と発病との間に法的な相当因果関係が認められるものではないと主張しており、このような考え方は、結局、うつ病発症の成否を遺伝素因の存否に帰着させるものであるが、これはストレスと個体側の脆弱性との相関関係で精神的破綻が生じるかどうかが決まるという「ストレス―脆弱性」理論を否定するものであり妥当でないし、「内因性、器質性、心因性」の三つの分類を前提としている点で、現在の精神医学の考え方自体に反する。

(エ) 被告は、長時間労働と精神疾患との関係は必ずしも明らかでないと主張するが、最高裁判所第二小法廷平成一二年三月二四日判決(民集五四巻三号一一五五頁)が、長時間労働と労働者の心身障害との関連性を周知の事実であると判示したことからも分かるように、被告の主張が不当であることは明白である。

(オ) 乙一六は、うつ病発症の原因を「原因」と「誘因」に区別している点、精神障害の発症原因を睡眠不足に矮小化している点、労働時間を根拠もなく少なく見積もっている点、うつ病発症後に蓄積される身体的・精神的疲労を考慮しない点で誤っている。

キ 以上のとおり、太郎には素因として全く異常な点が認められないのに対し、公務により太郎には精神的、肉体的に相当強度の負荷が加わっていたのであり、公務上のストレスが要因となってうつ病発生の要因となっていたことは疑いない。そして、本件においては社会通念上、太郎の公務がうつ病を発生させる危険を内在又は随伴しており、その危険が現実化したといえる関係にあるので、太郎の公務とうつ病との間に相当因果関係を認めることができる。そして、太郎は、うつ病にり患し、その自殺念慮によって自殺したものといえるから、公務起因性を認めるべきである。

(被告の主張)

ア 公務起因性の判断基準

公務起因性の判断は、通常に公務遂行が可能な程度の教員を基準にすべきであるが、現実には、個々人の精神的脆弱性を判断することは不可能であるから、客観的に評価可能な公務の過重性の有無によって判断すべきである。

イ 太郎の従事した公務について

(ア) 太郎が従事していた正規授業、免許外授業、生徒会主任、バドミントン部顧問は教員の通常の公務であって、他の教員も同じようにこれらの公務に従事しているのであって、太郎の公務のみが過重であったとはいえない。

しかも、原告自身、太郎と同じ宮城県の中学校教員であり、その原告は、平日の午後七時から午後八時には自宅で夕食をとっているのであるから、公務が過重であるとは認められない。

また、本来、太郎の職場での勤務状況を一番よく知っているのは、自身が、太郎と一番親しかったと述べるB野のはずであるが、そのB野の陳述書(甲一・四七頁)においてすら、太郎が他の教員と同時刻には、帰路についていたと記載され、自殺直前の勤務が過重であったとは述べられておらず、むしろ、太郎の業務のピークは、平成九年一二月の午後八時頃までの勤務とされているにすぎないのである。また、同人の他の陳述書(甲一一)では、太郎のC川中学校における職務が大変であったと抽象的に述べるだけで、それ以上に勤務時間については具体的に述べられていない。さらに、B野が、多くの同僚教員に事情聴取をした結果、太郎の言動で問題になると考えられたのは、七月、八月の夏休み中のことであった上、太郎がB野に対して特に悩みを打ち明けたりしたことは特になかったのであるから、太郎の公務が他の教員に比較して過重であったとは認められない。

さらに、災害発生二か月前から一年前のいずれの時点においても、通常業務において、異常な出来事・突発的な事態等は特に認められなかったとされており(甲一・二〇二頁)、この点でも公務が過重であるとは認められない。

(イ) 授業数について

平成一〇年度のC川中学校の時間割(甲一・五五頁)によると、教頭等一部教員を除いて、一般には、免許外授業等を含めて、授業数は多い者で週に二六コマ、平均して二〇コマ前後を持っており、二三コマを担当した太郎が他の教員に比較して、多くの授業を受け持ったという事実はない。教科担当数でいうと、一八であり(甲一・一〇一頁)、少ない方である。

また、教員の勤務時間は、月曜から金曜は午前八時二〇分から午後五時五分、土曜は午前八時二〇分から午後〇時二〇分であるところ、出勤から退勤まで授業で埋まっているわけでもなく、また週の全授業数三三コマ中、太郎は二三コマ担当であるから、授業のない時間に授業準備その他の事務処理をすることも可能である。

(ウ) 免許外授業について

免許外の教科を担当することは珍しいことではなく、C川中学校においても、太郎だけが免許外の科目を担当していたわけではなく、太郎の公務が特に過重であったこともない。

また、太郎の担当した社会科が特別な教科ということはなく、その負担が過重であるとはいえない。

(エ) その他の校内分掌等について

担当学年、校内分掌、部活動についても、太郎に事務が集中しているということもなく、それぞれが校務を分掌している。すなわち、非常勤講師を除けば、校内事務を担当していない教員はなく、ほとんどの教員が部活動を担当していた。また、平成一〇年四月からは、太郎は三年生ではなく、一年生の担任となった。

さらに、太郎が担当していた生徒会については、基本的には、時間外では行われていなかった。

ウ 原告主張の勤務時間(甲四の二資料一二)について

(ア) 平成一〇年四月、五月について

平成一〇年四月、五月の欄には、「18:00」から「23:40」までの「帰宅又は作業終了時刻」が記載されている。

しかし、太郎の勤務時間が長時間に及んだとは考えられず、まして、原告が作成した被災者動静表の勤務時間の欄の公務の内容においてすら、午後五時ころには公務は終了していたとされており、「帰宅又は作業終了時刻」が午後六時以降ということは考えられない。

また、D川秋夫(以下「D川」という。)自身が認めるとおり、資料一二の勤務時間算出のための客観的資料はなく、信用性は認められない。

(イ) 平成一〇年六月、七月について

作業が勤務時間外に及んだとする業務の内容として、部活指導が多く挙げられている。

しかし、この時期は、六月一三日から一五日の市中総体を控えて、部活指導の延長が認められていたのであるが、時間延長については、平日及び早朝練習とも、届けを出し、校長の許可を得ることになっていたところ、D川は、上記届出の書類は見たことがない、早朝練習については証拠がないと証言していることから、部活動延長の事実を認めることはできない。

仮に、太郎が部活動指導時間について手書きをした「6:30 終了 6:45 下校」との記載を前提としても、午後六時四五分には勤務が終了しているはずである。ところが、資料一二で時間外に行われたとする部活指導の「帰宅又は作業終了時刻」は、部活指導終了時刻を超える「帰宅又は作業終了時刻」が記載されており、信用できない。

(ウ) 平成一〇年七月以降の中体連関連業務について

a 中体連関連業務を公務と仮定しても、以下の理由から、公務過重性はない。

b 太郎は、七月二四日、二五日のバドミントン県中総体までは、電話でのやりとりが主であり、中体連関連業務に時間をとられることはほとんどなかったのである。

したがって、七月二四日、二五日以前に、中体連関連業務の仕事で、業務が多忙であったとの事実は認められない。

c E田は、太郎が、いつ、どのような仕事をどの程度やっていたのかについて全く述べていない。A田は、E田及び太郎と、大会直前のお盆以降には、C川中学校で午前一時ないし二時まで仕事をしていたこともあると述べているが、これが事実であったとしても、実際の作業時間が不明であること、夏休み中であり午後からの作業もあり得ることからすれば、これだけで業務が過重であったと認めることはできないし、原告が主張するような勤務実態は到底認めることができない。

d 通常の公務に過重性が認められないことは既に述べたとおりである。

(エ) 平成一〇年七、八月以降について七月二四、二五日以降も、太郎が多忙であったとの事実は認められない。

太郎の「DIARY」(甲一五)にも、七月二一日までの予定は記載されているが、同月二二日から八月二一日までの予定は全く記載されておらず、中体連関連業務で多忙であったとは考えられない。

D川は、あたかもフロッピーの保存時間等から、勤務時間を算出できるかのように述べているが、フロッピーは勤務時間算出の根拠にならない。むしろ、フロッピーに残された記録は、原告が主張する勤務時間を否定するものである。

なお、フロッピーには、作成時刻が深夜に及ぶものもあるが、作業開始時刻は不明であり、不眠を訴えていた太郎が、寝つけないため深夜の時間帯にわずかに作業をしたとも考えられる。結局、部活指導も業務必携作成も時間外勤務の裏付けにはならないのであり、資料一二に証拠価値はない。

(オ) 業務必携完成後について

a 業務必携は、八月一〇日に原稿が完成しており、その後は、業務必携の原稿に関する業務は発生しない。その後、業務必携発送等の業務があったのかも知れないが、裏付けとなる証拠・資料は全く提出されていないし、作業量も不明であるとともに、資料一二に記載された業務は、その内容からして何時間もかかる作業とは考えられず、明らかに、作業時間を過剰に計上している。

b また、資料一二では、八月一一日の日直当番を午後六時三〇分までとしているが、甲一・一四九頁・二〇一頁には、「8月11日 17:05」とあり、午後五時五分以降の勤務は認められない。

c E田陳述書、A田陳述書・証言では、太郎が遅くまで作業をしたことには全く触れられておらず、作業はほとんどなかったといえる。

d 八月二一日以降の太郎の行動からすると、通常の勤務時間外に作業を行ったとは考えられない。

(カ) 資料一二の勤務時間算定の根拠として、D川陳述書(甲九)が挙げている証拠は、算定の裏付けとなるものではなく、勤務時間が過剰に計上されていることは明らかである。

エ 原告主張の勤務時間(被災者動静表。甲一・八二ないし九一頁)について

(ア) 自宅を出た時刻から帰宅時刻まで、休憩・休息もなく、私的時間が全くないかのように扱われているなど、勤務時間が過剰に計上されている。

すなわち、被災者動静表には、太郎が自宅を出た時刻が記載されているが、これは、太郎が娘を保育園に送るために早目に出ただけのことであり、勤務のためではない。また、太郎は、休日に新車購入・パチンコで時間を費やしていた。さらに、原告は、自分が寝た後の太郎の行動については分からないと供述し、午後九時頃に就寝することもあったのであるから、太郎が午後九時以降の深夜まで執務をしていたかどうか不明であるし、帰宅までの時間、太郎がどのように過ごしていたかも不明であって、帰宅までの時間を勤務時間と算出することはできないのである。

(イ) 被災者動静表は、太郎が死亡してから二年近く経って、しかも原告及び太郎の同僚の記憶によって作成されたものに過ぎない。二年前の何月何日に、自分が何をしていたか、まして他人が何をしていたかなど思い出せるはずもなく、全く根拠にならないという他ない。

(ウ) 被災者動静表と資料一二の時間外勤務時間は大幅に違っている。この資料一二と被災者動静表の矛盾を修正して作成した乙一三によれば、太郎の時間外勤務時間は、多くても六月は四二時間二〇分、七月は五三時間二五分、八月は五七時間三五分であり、過重労働には該当しない。

(エ) 原告は、公務災害認定請求書に、「特に亡くなる一ヶ月前は家族とほとんど一緒に夕食をとることなく」と記載している(甲一・一三頁)が、これは、一か月より前には、家族と一緒に食事をとっていたということであるから、帰宅が午後六時以降とは考えられない。

オ うつ病について

(ア) うつ病は基本的に内因精神病であること

今日の精神医学界においては、うつ病は外的要因と内的要因の二つの要素によって発症するといわれている。すなわち、精神障害の原因としては、社会・心理的要因(心因)、遺伝・体質的な背景(内因)、脳・神経機能の関与(器質因)があるが、これらの要因が複雑にからみ合って、精神障害が発症するというのが、現在の精神医学界の知見である。

しかし、だからといって、それぞれの精神障害について、主な要因が全く不明というわけではなく、心身症・神経症は主に心理的要因により、気分障害(うつ病・そううつ病)は主に体質的要因により、急性・慢性脳障害は主に脳機能障害により発症するとされている。

そして、一般に内因精神病においては、遺伝素因が強力な場合には誘因がなくても発病し、素因が弱い場合には精神的・身体的負担が加わって発病するとされている。また、気分障害の発病には遺伝素因の関与が大きいとされており、うつ病になる人は、もともと素質として脳の神経上方伝達系に何らかの欠陥を持っており、これと関連してホルモン系の中枢である間脳の機能低下を伴うことが多いとされている。

(イ) うつ病の発病メカニズム

今日においては、うつ病発病のメカニズムを神経生化学的な変化で説明しようとする様々な仮説があらわれているが、前述の遺伝素因は、神経伝達物質が正常に働かない体質の遺伝とも理解できる。

(ウ) 誘因について

以上のように、うつ病は、遺伝素因が強ければ誘因がなくても発病するが、遺伝素因が弱い場合は、外部的誘因が加わることによって発症する。しかし、この場合に注意すべきことは、その誘因は、一般平均人(言いかえれば、当該遺伝素因を持たない人間)にとっては、誘因にはならないが、特定の人間にとっては、誘因となるという点である。すなわち、うつ病発病における誘因とは、あくまで本人にとっての誘因であり、その誘因によって誰もが発病するものではない。したがって、誘因と発病との間に法的な相当因果関係が認められるものではないのである。しかも、病因的意義があると認められる誘因も、わずかに二〇パーセント程度にすぎないとされている。

(エ) 長時間労働とうつ病について

「精神疾患発症と長時間残業との因果関係に関する研究」(乙一一)によれば、睡眠時間とうつ病の関係については、長時間労働の結果として、充分な睡眠時間が確保されない結果、精神疾患を発症しやすくなるという点は肯首できると考えられるが、長時間労働と精神疾患の発症との明確な関連性は十分には示されていないとされている以上、本件において、時間外勤務と精神疾患との関係を検討するにあたっては、睡眠時間が確保できないような時間外労働が太郎にあったかどうかが、公務起因性の判断基準となる。

しかしながら、太郎の通勤時間が五分(甲一・一九六頁。「通勤手当通知通知書」)あるいは一〇分弱(甲一・三五頁。「通勤の経路・方法・時間等」)という点、及び休日に勤務があっても睡眠は充分に確保できる点(夏季休暇に入っての中体連関連業務を公務と仮定しても睡眠時間が確保されていれば支障はない。)を考慮すると、本件公務が精神疾患発症の原因とはいえない。そもそも、原告主張のような長時間勤務は、到底認められないのであるから、太郎の公務は、うつ病発病の原因とは考えられない。

カ 太郎のうつ病について

(ア) うつ病の発症時期について

太郎がうつ病にり患したことについては各医師に異論がないが、以下に述べるうつ病発症の時期からみても、公務起因性を認めることはできない。

すなわち、うつ病の初期症状として睡眠障害が挙げられるところ、太郎は、平成一〇年六月末ころには不眠を訴えており、このころにうつ病にり患したといえる。

しかるに、同年六月については、中体連関連業務はなく部活指導も午後六時四五分までであるから、仮に、毎日部活指導をしていたとしても所定時間外勤務は一日一時間四〇分であり、これに土・日曜日の一二時間を加算しても月間五〇時間程度であり、過重とはいい難く(休日は四日間。)、この程度の時間外労働で睡眠時間が確保できないこともない。

そうすると、公務が太郎のうつ病の原因とは認められず、うつ病り患後は、ストレスが加わらなくてもまた軽症うつ病であっても希死念慮は認められることから、自然経過の中で希死念慮が生じ、発作的に自殺したものとみるのが妥当である。

(イ) 全中大会での出来事について

原告は、全中大会の期間中の出来事として、①監督会議のとき、トーナメントのくじ引きや練習の会場について、クレームがあった、②昼食券を朝に配る段取りがうまくゆかず、朝にその日の昼食券を配ることができなかった、③レセプションの席上、来賓の方の名前の読み間違いがあったと述べる。

しかし、県中体連バドミントン専門部で全中大会に携わったA田の証言によれば、全中大会期間中にトラブルが発生した事実はない。

そもそも、前記①、②いずれについても、太郎が関係していたのかどうかさえ不明であり、関係があったとして太郎の責任かどうかも不明である。また、③について、A田の証言によれば、トラブルといえるほどのトラブルではなく、太郎も、それほど動揺したような様子を見せず、いつものように冗談を飛ばしながら楽しく飲んでいたのである。

また、原告は、太郎が、八月二四日の朝一番でCDを取りにC川中学校に行かなくてはならないなどと話していたと供述するが、これは太郎が単に八月二三日にCDを持ってくることになっていたことを失念しただけのことであって、何ら異常な出来事ではない。

したがって、全中大会が仮に公務であり、上記の事実があったとしても、これらの出来事は何ら異常な出来事ではないから、太郎の自殺は公務が原因とはいえず、潜在的な個体側要因が顕在化したことによるものであり、公務起因性は認められない。

(ウ) 笠原英樹医師意見書(以下、同医師を「笠原医師」といい、笠原医師の同意見書を「笠原意見書」という。)について

a 笠原意見書(甲一・九頁、三〇一頁)は、いずれも、太郎の勤務時間について何ら検証することなく、客観的事実に反する原告の主張を前提としている点で、全く価値がないといわざるを得ない。

b 笠原意見書は、六月下旬の症状を否定する理由として、①原告から六月下旬頃から精神的疲労がみられたと回答があるが、うつ状態だったとする根拠には乏しいこと、②六月下旬にうつ状態だったとしたら、その後七月、八月と体育祭、クラブの指導、市中総体、県中総体、全中大会の準備等の次々と重なる職務をきちんとこなすことはできなかったはずであることを挙げている。

しかし、①については、本来、一番身近にいる妻である原告が、太郎の様子に最も早く気がつくと考えるのが常識であるにもかかわらず、妻の回答を根拠にうつ状態と判断できない理由について、笠原医師は単に、疑問を感じる、根拠に乏しいと述べているに過ぎず、説得力に欠ける。

また、②については、被災者が職務をきちんとこなしていたかどうか不明であるし、中等症や重症の場合は格別、うつ病にり患したからといって職務遂行が困難になるということはない。

c 次に、笠原意見書は、被災者の性格について、几帳面で神経質で内向的でうまく気分転換ができないといった性格ではなく、被災者個人に関する精神的脆弱性は感じられないとしているが、原告が述べる「何か頼まれたら忙しくても断らない、自分の仕事にアバウトではいられない、まじめで責任感の強い夫」(甲一・八一頁)という性格は、どちらかといえば几帳面な性格といえる。

また、さらに、几帳面で神経質な性格な者のみがうつ病になるわけではなく、うつ病の病前性格としては、メランコリー親和型人格もよく知られているところであるが、太郎の周囲からの評価は、メランコリー親和型人格というべきものであるから、笠原意見書は、病前性格を看過した信頼性のないものである。

d 誘因がなくてもうつ病にり患し、病因的意義のないストレスでも発病することは既述のとおりであり、また、うつ病発症以前には何の問題もなく業務を遂行できるのであるから、発症までに問題がないから外的負荷が原因であったとする笠原意見書は、不合理である。

e また、笠原意見書では、「うつ病発症後に、さらに業務上の負担があったと考えられる場合、その事がうつ状態を一層悪化させ自殺に至らしめたとする因果の流れとして判断するのが、当然のことなのである。被災者の場合、七月下旬以降、全中大会大会の直前準備や大会運営に関わる精神的な負担によりますます業務上の負荷がかかり、そのことがうつ状態を憎悪させ自殺に至らせたと判断できる。」と述べている。

しかし、全中大会大会の直前準備や大会運営に関わる精神的な負担がうつ病を増悪させたと客観的根拠なく記載している点も問題であるが、うつ病が公務により悪化していったとの点も疑問である。すなわち、軽症うつ病には自殺念慮が生じず、また、中等症から重症うつ病に進むに従って自殺念慮が生じ、自殺率も高まるという医学的知見は存在しないし、必ずしも精神障害の「増悪」の結果、自殺に至るものではないとされていることから、太郎は、うつ病発症後、公務の過重性に関係なく、自然経過の中で希死念慮が生じ、発作的に死に至ったものと判断するのが妥当である。

(エ) 千葉意見書について

a 千葉意見書は、労働時間について、原告の話を鵜呑みにしており、この点で、既に医学的意見としての価値がない。

b 千葉意見書では、中等症から重症うつ病にり患しそのために自殺観念から逃れることができずに自殺死したものと考えられると述べているが、自殺念慮がいつから存在したかということは、本人の自殺をほのめかす言動が周囲に気づかれたり、死亡した本人に確認できない限り、その時期を特定するのは困難である。また、軽症うつ病には自殺念慮が生じず、また、中等症から重症うつ病に進むに従って自殺念慮が生じるという医学的知見はなく、精神障害が増悪した結果として必ずしも自殺があるのではないのであるから、千葉意見書の判断は誤りである。

c 千葉意見書は、七月中旬以降太郎が自殺死するまでの間、太郎のうつ病が中等症から重症に増悪していたとしていることから、太郎は、七月中旬より前には軽症うつ病であったことになる。したがって、六月下旬、七月上旬の太郎の病状について触れるべきであるが、この点については何ら触れられておらず、信用できない。

そもそも、中等症うつ病エピソードの患者は、通常社会的、職業的あるいは家庭的な活動を続けていくのがかなり困難である、重症うつ病エピソードの期間中、患者はごく限られた範囲のものを除いて、社会的、職業的あるいは家庭的な活動を続けることがほとんどできないとされているところ、自殺直前までの太郎の言動をみても、上記のような事実は認められないから、太郎は中等症ないし重症のうつ病には該当しない。

キ 以上のように、太郎の従事していた公務がうつ病の原因とは認められず、公務によりうつ病が増悪したこともないこと、うつ病り患後は、ストレスが加わらなくても、また軽症うつ病であっても希死念慮は認められることから、結局、太郎は、自然経過の中で希死念慮が生じ、発作的に自殺したものとみるのが妥当であり、本件災害は太郎が従事していた公務に起因するものとは認められない。

第三争点に対する判断

一  争点(1)(中体連関連業務が公務にあたるか。)について

当裁判所は、中体連関連業務は公務にあたるものと判断する。その理由は以下のとおりである。

(1)  前記争いのない事実等に《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

ア 平成一〇年度当時、部活動は、教育課程以外の活動とされていたものの、中学校学習指導要領において、特別活動の一つとしてクラブ活動が位置づけられており、部活動に参加する生徒については、当該部活動への参加によりクラブ活動を履修した場合と同様の成果があると認められるときは、部活動への参加をもってクラブ活動の一部又は全部の履修に替えることができるものとされていた。

そして、ほとんどの学校において、クラブ活動は授業の時間割の中には割り当てられず、部活動がそれを代替していた。また、部活動は、上記代替措置がなされることを前提に、中学校における運営組織上も、特別活動として位置づけられていた。

イ 部活動の顧問は、年度当初の職員会議において、校務分掌として校長により任命される。

太郎は、C川中学校に赴任した当初からバドミントン部の顧問に任命されていたが、平成一〇年度においても、バドミントン部の顧問に任命され、その職務に従事した。

ウ 中体連について

(ア) 中体連は、中学校の体育系の部活動の競技大会を主催する団体であり、郡・市単位の地区中体連(郡中体連・市中体連)及び県単位の県中体連、日本中体連がある。

(イ) 市中体連には、部活動の種目に対応した専門部が置かれ、市中体連に加盟している各学校の部活動顧問によって構成される。そして、部活動顧問によって構成される専門部員の中から互選で委員長、副委員長等の役員が選出され、毎年六月に開催される市中総体等の大会の運営等を行っている。

(ウ) 県中体連は、地区中体連をもって組織されている。県中体連には専門部が置かれ、各地区中体連の専門役員から推薦又は選出された部活動顧問が、県中体連専門部の役員になり、地区内の部活動顧問とともに、毎年七月に開催される県中総体等の大会の運営等を行っている。

(エ) 全ての中学校が、市中体連に加盟しているのが実態である。なお、市中体連への加盟手続は、負担金の納入手続によって替えられている。

(オ) 市中総体及び県中総体並びにこれに関連する激励会等の行事は、平成一〇年度のC川中学校の年間行事予定に組み込まれており、特に市中総体に参加する運動部に所属する生徒にとっては、最も重要な大会として位置づけられていた。また、運動部に所属しない生徒も、教員の引率のもとで、運動部の応援を行うこととされていた。

そして、市中総体は、休日である土曜日及び日曜日にも行われたために、その後の平日に振替休日が指定された。

(カ) 宮城県教育庁総務課長は、平成六年七月二二日付けで、宮城県教育長教職員課長は、平成一四年三月二九日付けで、いずれも各市町村等教育委員会教育長に宛てて、中体連の役員会、理事会が学校運営又は教育活動と密接に関連するものとして、出張扱いとする旨の通知を出している。

(キ) 太郎は、平成九年四月以降、県中体連バドミントン専門部副委員長になり、その職務に従事した。

(ク) C川中学校校長は、太郎に対し、平成一〇年度の中総体期間中の出張命令を行った。

エ 全中大会について

(ア) 全国中学校大会(全中大会)とは、日本中体連が主催する各競技種目別の全国大会のことをいう。

(イ) 全中大会の開催地は、全国の持ち回りになっており、平成一〇年八月二二日から同月二五日まで、仙台市において、第二八回全中大会(本件全中大会)が開催された。

(ウ) 本件全中大会は、日本中体連、財団法人日本バドミントン協会のほか、開催地の県・市の教育委員会が主催した。

(エ) 全中大会の大会運営は、開催地区の県中体連バドミントン部会が実行委員会を組織して行われており、本件全中大会においても、宮城県中体連バドミントン部会の中に実行委員会が組織され、大会の運営が行われた。

(オ) 太郎は、同年七月七日付けで本件全中大会実行委員会会長からの委嘱を受けて、本件全中大会実行委員会の総務部部長に就任し、本件全中大会の大会運営等の職務に従事した。

また、本件全中大会実行委員会会長は、C川中学校校長に宛てて、上記委嘱の承認並びに全中大会及びこの準備のための諸会議に対する太郎の派遣の依頼を行い、C川中学校校長は、太郎に対し、八月三日の全中大会実行委員会、同月二一日の全中大会常任委員会及び同月二二日から二五日までの全中大会期間中の出張命令を出した。

(2)  前記(1)の認定事実によれば、太郎は、本件被災があった平成一〇年度において、C川中学校バドミントン部の顧問に任命されていたとともに、県中体連バドミントン専門部副委員長及び全中大会実行委員会総務部部長としての職務(中体連関連業務)に従事していたことが認められる。そして、部活動の顧問は、校長により任命されること、部活動の顧問に任命されると、自動的に各中学校が加盟している市中体連の専門部員になり、その中から役員が選任されること、県中体連は、地区中体連をもって組職されており、その専門部の役員は、各地区中体連の役員の中から推薦又は選出されること、全中大会の大会運営は、開催地区の県中体連バドミントン部会が実行委員会を組職して行われることとなっており、実行委員会の役員は、県中体連の構成員の中から選任されるものと解されることからすれば、校長による部活動顧問への任命は、その後の市中体連、県中体連及び全中大会実行委員会の役員に正式に選任された場合には、これに就任すべき旨の職務命令を包含するもの(条件付きの職務命令)と認めるのが相当である。

そして、中総体並びに全中大会及びその実行委員会等の会議への出席については、校長による出張命令がなされていること、部活動が特別活動であるクラブ活動を代替するものとして位置づけられ、その部活動が参加する市中体連及び県中体連は、学校行事の一環として学校長及び教員に認識されていることは、学校長による部活動顧問への任命が上記内容の職務命令であることを裏付けるものということができる。

そうすると、中体連関連業務は、公務とは無関係の行為ということは困難であって、学校長の職務命令によって行われる公務にあたるというべきである。

二  争点(2)(本件災害は太郎が従事していた公務に起因するものか。)について

当裁判所は、本件災害は太郎が従事していた公務に起因するものと判断する。その理由は以下のとおりである。

(1)  地方公務員災害補償法三一条の「職員が公務上死亡した場合」とは、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、同負傷又は疾病と公務との間には相当因果関係のあることが必要であり、その負傷又は疾病が原因となって死亡事故が発生した場合でなければならないと解すべきである(最高裁判所第二小法廷昭和五一年一一月一二日判決・集民一一九号一八九頁参照)。そして、地方公務員災害補償制度が、公務に内在又は随伴する危険が現実化した場合に、使用者に何ら過失はなくても、その危険性の存在を理由に使用者がその危険を負担し、職員に発生した損失を補償するとの趣旨から設けられた制度であることからすれば、上記相当因果関係が認められるには、公務と負傷又は疾病との間に条件関係があることを前提とし、これに加えて、社会通念上、公務が当該疾病等を発生させる危険を内在又は随伴しており、その危険が現実化したと認められることを要するものと解すべきである。

また、精神障害に起因する自殺の場合には、公務と精神障害との間に相当因果関係が認められること及び当該精神障害と自殺との間に相当因果関係が認められることが必要であるところ、本件において、太郎がうつ病にり患したことと太郎が自殺したこと(本件災害)との間に相当因果関係が認められることは当事者間に争いがないから、以下においては、太郎が従事していた公務とうつ病との間に相当因果関係が認められるか、すなわち、太郎がうつ病にり患したことが、太郎が従事していた公務に内在又は随伴する危険が現実化したものと認められるかどうかについて、検討する。

(2)  前記争いのない事実等に《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる的確な証拠はない。

ア 太郎の経歴、性格、健康状態等について

(ア) 太郎は、昭和六一年四月一日から宮城県内の中学校教員として勤務し、平成六年四月一日からは、C川中学校で勤務していた。

(イ) 太郎は、平成二年に教員である原告と婚姻し、平成五年には太郎との間に長女をもうけた。本件災害当時、太郎は、原告、長女及び太郎の両親と同居していた。原告は、平成九年夏ころ、太郎に対し、太郎の両親との別居の話を持ちかけたが、結局、同居を続けることになった。

(ウ) 太郎は、仕事に対する意欲にあふれ、まじめで責任感が強く、几帳面であり、他人から仕事を依頼されたときにも、嫌な顔をせずに引き受ける性格であった。また、穏やかな性格で、常に周囲の人間との協調性を考えて行動するが、必要以上に気を遣う面もあった。時にはユーモアのある会話で周囲の同僚を笑わせたり、同僚が仕事の悩みをかかえているときには、親身になって相談に乗るなどしており、周囲の同僚からの信頼は厚かった。

また、太郎は、生徒に対し、懇切丁寧な指導を行い、また、生徒の心をつかむのに長けていたことなどから、生徒から慕われていた。

(エ) 太郎は、パチンコを趣味にしており、時々、息抜きのためにパチンコに出かけることがあった。

(オ) 太郎は、本件災害以前において、既往歴は特になく、健康診断の結果においても異常所見は認められなかった。

なお、太郎の家系において、精神疾患にり患した者はいない。

イ 太郎の負債について

(ア) 太郎は、平成一四年七月、新車を購入するために、労働金庫から約二五〇万円を借り入れており、上記借入れに対する本件災害当時の返済金額は、一か月に二万円弱であった。

(イ) 太郎は、平成二年ころ、富国生命の生命保険に加入し、一か月の保険料は約一万七〇〇〇円であったが、平成一〇年七月末ころ、保険金額を下げたことから、その後の一か月の保険料は、一万五〇〇〇円弱になった。

(ウ) 太郎は、平成七年に住宅金融公庫からの借入れによって自宅を購入しており、本件災害当時、太郎及び原告の収入の中から、一か月に八万円程度の住宅ローンを支払っていた。

ウ 太郎が従事していた公務の内容について

(ア) 太郎は、C川中学校に赴任後、クラス担任(平成九年度は三年生の担任、平成一〇年度は一年生の担任であった。)及び英語の担当並びに生徒会の指導を担当していた。

このうち生徒会活動は、学校の全生徒をもって組織する生徒会が、学校における自分たちの生活の充実・発展や学校生活の改善・向上を図るために、生徒の立場から自発的、自主的に、学校生活の充実や改善向上を図る活動、生徒の諸活動についての連絡調整に関する活動、学校行事への協力に関する活動、ボランティア活動を行うことによって、生徒一人一人が自主的、実践的な態度を高め、人格形成を行っていくことが期待されるものであるため、学習指導要領においては、教員が中心になって生徒を引っ張るという指導ではなく、生徒の自発的、自治的な活動を助長する指導が生徒会会活動における適切な指導であり、そのためには、生徒を中心において必要な情報や資料を十分に提供し、生徒の自主的な活動を側面から援助することが大切であり、受容的な態度で、根気よく継続して指導を続けることが必要であるとされている。

平成一〇年度の生徒会指導は、太郎のほか、B山、D原が担当しており、太郎は、生徒集会等の各種会議の指導等を行った。同年六月ころからは、体育祭実行委員会の指導、文化祭実行委員会の指導が、同年七月ころからは、生徒会選挙実行委員会の各指導が行われ、校務分掌上は、体育祭の指導はD原が、文化祭の指導はB山が行うこととされたものの、B山及びD原は上記各指導の経験が乏しかったことから、経験が豊富な太郎が、体育祭実施要領の作成を行うなど、中心的、主導的に関与した。

(イ) 太郎は、C川中学校に赴任した当初からバドミントン部の顧問に任命され、その職務に従事していた。C川中学校バドミントン部は、強豪であり、平成一〇年度の市中総体においては、青葉区での優勝を果たした。

なお、太郎は、高校時代、バドミントン部に所属していた。

部活動の時間帯は、夏期休業中を除き、平日は、季節に応じ、午後四時四五分ないし午後六時一五分まで、土曜日(ただし、第二土曜日及び第四土曜日は原則として中止)は午後〇時から午後四時まで、日曜日及び祝日は、午前九時から午後三時までとされ、生徒は、部活動終了時刻の一五分後には完全下校することとされていた。そして、生徒は、原則として、部活動顧問の指導のもとに活動をすることとされていたことから、部活動顧問は、原則として、部活動の開始から生徒の下校までの間、部活動の指導に従事することになっていた。

加えて、太郎は、部活動指導の一環として、市中総体、県中総体等の各種大会への引率や、土曜日、日曜日及び祝日に、校内外における練習試合を組み、実施していた。

なお、所定勤務時間外における部活動の指導に対しては、教員特殊業務手当が支給されることとされており、太郎はこれを申請、受給していた。

(ウ) 太郎は、平成一〇年四月から、初めて教員免許を持たない社会科の授業を一週間に四コマ担当するようになった。なお、同年度に太郎が一週間に担当した授業等のコマ数の合計は二三コマであった。

太郎は、社会科教諭から、指導方法の助言や、指導ノート、板書用ノート、ワークシートの提供を受けて、授業の準備を行ったが、指導経験のない科目であるために、免許を有する科目(英語)に比べ、授業の準備に多くの時間を費やした。

太郎は、同年五月六日、七日、免許外科目を初めて担当する教員を対象とする中学校免許外担任研修会(社会)に参加した。同研修会においては、参加した各教員が作成した「社会科指導上の悩み・問題点」を題材とする資料が配布されたが、太郎が作成した資料には、「教科書中心に教えているが、どこまで教え、どこから教えないのかが分からない。」、「一時間の授業の速度がまだつかめない。もらさず教えなくてはと、ゆっくりとなりがち。社会科の先生方からはもっと急がないと教科書が終わらないと言われているが…。」、「一時間ずつ教材研究をして授業に臨んでいるが、何しろ社会科指導が初めてなので、授業に広がりがないように思う。地理と歴史の関係、時代と時代のつながりなど、授業が断片的になり、それ以外のことを質問されても答えられないのではないか、という不安が常につきまとっている。」、「『事実をきちんと教えなければ』という思いから、板書中心の『詰め込み式授業』になってしまう。考えさせる場面や、グループ学習など、授業の工夫を、どんな点についてどのようにやればよいのか。」、「ねらいの焦点化がむずかしい。一時間の授業の中で、教えるべき事象が多すぎる気がする。そしてそれらを生徒がどの程度理解しているかまだ不安である。」との記載がある。

(エ) 太郎は、平成九年四月から県中体連バドミントン専門部副委員長に選任された。平成一〇年度における県中総体は、夏期休業中の同年七月二四日、同月二五日に開催され、太郎は、県中体連バドミントン専門部副委員長の立場から、専門部会への出席するなどして、その運営等の職務に従事した。

(オ) 平成一〇年八月二二日から同月二五日まで、仙台市において、本件全中大会が開催されたところ、太郎は、本件全中大会実行委員会の総務部部長に就任した。

同実行委員会は、同年三月一七日に設立され、同年六月上旬以降、定期的に開催され、同年八月三日には開会式等のリハーサルが行われた。

実行委員会総務部の業務内容は、関係団体との渉外・連絡調整に関すること、各種会議の開催に関すること、大会要項の作成に関すること、各種文書の作成と発送に関すること、大会役員・競技役員の委嘱に関すること、プログラムの編成に関すること、出店業者との連絡調整に関すること、報告書作成に関すること、救護に関すること、会場の美化・警備に関すること、経理に関すること等とされており、太郎が、本件全中大会の準備として特に時間を費やしたのが、本件全中大会の日程、競技役員等の業務内容・大会期間中の行動予定等の開催要項を記載した業務必携(甲二)の作成(太郎は総務部の部分を担当)であった。

もっとも、前記のとおり、同年七月二五日までは、県中体連の職務を兼ねていたため、太郎が本件全中大会の職務に本格的に従事したのは同月二六日以降であった。そして、八月一日は業務必携の作成担当者が、各担当部分の原稿を持ち寄り、同月三日には、第一次印刷分の配布、同月一二日には印刷業者への納品がなされたが、上記原稿の取りまとめ等の業務も総務部の仕事であった。

エ 平成一〇年六月以降における太郎の勤務時間・内容について

(ア) C川中学校における太郎の所定勤務時間(夏期休業中を除く。)は、月曜日から金曜日までは、午前八時二〇分から午後五時〇五分までであり、うち休憩時間が午後一時一〇分から午後一時四〇分までの三〇分間及び午後四時〇五分から午後四時二〇分までの一五分まで、休息時間が午前一〇時三五分から一〇時五〇分までの一五分間及び午後四時二〇分から午後四時三五分までの一五分間とされ、勤務時間の合計は八時間であった。

また、土曜日の勤務時間は午前八時二〇分から午後〇時二〇分までであり、うち午前一〇時三五分から午前一〇時五〇分までの一五分は休息時間とされ、勤務時間の合計は四時間であった。

なお、平成一〇年当時、公務員については、週休二日制の導入によって、全土曜日が休日とされていたものの、学校においては、週五日制を導入するための条件整備の遅れなどから、当面、第二、第四土曜日のみを休日とする四週六休制が導入された。そして、本来は休日である第一、第三土曜日に出勤した分は、指定休として、長期休業期間中にまとめ取りをさせる措置が採られていた。

(イ) 平成一〇年度の夏期休業は、七月二一日から八月二五日までであり、夏期休業期間中の勤務時間は、平日の午前八時二〇分から午後五時五分までとされていた。

教職員は、夏期休業中に年間一四日及び夏期休業中の第一、三、五土曜日分の指定休を申請すること、七月一日ないし九月三〇日までの間に四日間の夏期休暇及び一日間の夏期職免を申請することとされていた。太郎は、平成一〇年七月三一日、同年八月一日、同月四日ないし七日、同月一〇日、同月一二日ないし一五日、同月一七日及び同月一八日に指定休を、同年七月二九日に職専免(夏期職免。なお、職専免とは、職務専念義務が免除される日のことをいう。)を、同月二七日、同月二八日、同年八月一九日及び同月二〇日に特休(夏期休暇)を申請した。しかしながら、太郎が実際に仕事を行わなかったのは、同月一五日の午後のみであった。

(ウ) 太郎の自宅からC川中学校までの所要時間は車で約一〇分であった。

(エ) 平成一〇年六月一日以降、本件災害前日までの間における、太郎の勤務時間・内容の詳細は、別紙「勤務時間表」記載のとおりである。これによれば、太郎の勤務時間の合計は、同年六月に二七八時間五〇分、同年七月に二七九時間四〇分、同年八月(ただし二三日間)に二五一時間二〇分であり、一か月当たり一〇〇時間を超える超過勤務(ただし、一週間当たり四〇時間を超える勤務時間を超過勤務時間とする。)をしていたものと認められる。

これに対し、原告は、太郎の勤務時間は別紙「被災者の労働時間」のとおりであったと主張する。原告主張の勤務時間は、主に原告本人及び太郎のC川中学校における同僚であったB野の記憶に基づいて作成された被災者動静表(甲一・八二頁以下。以下「基本証拠」という。)によるものであるところ、基本証拠は基本的に信用することができるというべきであるから、原告主張の勤務時間のうち基本証拠に沿う部分はこれを認定することができる(この認定を覆すに足りる証拠はない。)が、以下の各項目に係る原告の主張については、以下の理由から採用することができない。

a 原告は、同年六月六日及び同月七日の退勤時間がいずれも午後七時五〇分であったと主張するが、基本証拠によれば、同月六日の退勤時間は午後四時五〇分、同月七日の退勤時間は午後〇時二〇分であったと認めるのが相当である。

b 原告は、同月一五日の出勤時間が午前七時五〇分であったと主張するが、基本証拠によれば、自宅を出発した時刻は午前六時五〇分であること、太郎は同月一三日から一五日までの三日間、市中総体の職務に従事しており、同月一三日及び一四日は、同月一五日と同様に午前六時五〇分に自宅を出発して、午前七時二〇分に出勤しているところ、同月一五日のみが他の二日間と異なる出勤時間であったと推認することに合理性はないことからすれば、同月一五日の出勤時間は、午前七時二〇分であったと認めるのが相当である。

c 原告は、同日の退勤時間が午後六時であったと主張するが、基本証拠によれば、同日の市中総体は午後四時で終了しており、その後に参加した反省会が公務であるとは直ちに認め難いことから、同日における退勤時間は市中総体の終了時刻である午後四時と認めるのが相当である。

d 原告は、同月二九日の退勤時間が午後六時五〇分であったと主張するが、基本証拠によれば、太郎は、県武道館における全中大会実行委員会をもって同日の勤務が終了したと認められるところ、県武道館から太郎の自宅までの所要時間は三〇分程度と認められること(弁論の全趣旨)からすれば、同日の退勤時刻は帰宅時刻の三〇分前である午後六時三〇分と認めるのが相当である。

e 原告は、同年七月二一日及び同月二二日の退勤時間がいずれも午後〇時四〇分であったと主張するが、基本証拠によれば、太郎は、同月二一日及び同月二二日には部活指導のみを行ったものと認められるところ、夏期休業中の部活動実施確認書(甲一・二六一頁)によれば、同月二一日及び同月二二日における部活動の終了時刻は午後〇時であったと認められ、午後〇時以降に部活動が実施されたことを認めるに足りる証拠はないことからすれば、同月二一日及び同月二二日における退勤時間はいずれも午後〇時と認めるのが相当である。

f 原告は、同月二四日の退勤時間が午後七時三〇分であり、同月二五日の退勤時間は午後九時三〇分であったと主張する。しかしながら、太郎は、上記両日に県中総体の業務に従事したことが認められ、かかる職務の終了時刻が、同日における退勤時間であると考えられるところ、基本証拠には上記両日における退勤時間の時間は記載されていないものの、原告が記憶に基づいて作成した「災害発生一か月間の勤務状況調査票」(甲一・二六頁)によれば、上記両日の勤務終了時刻は午後七時とされていること、太郎は、同月二五日の午後八時三〇分から県中総体の反省会に参加しているところ、これが公務であるとは直ちに認め難いことからすれば、上記両日における退勤時間はいずれも午後七時と認めるのが相当である。

g 原告は、同月二七日の出勤時間が午前九時一〇分であったと主張するが、基本証拠によれば、太郎は、同日の午前中、バドミントン講習会の職務に従事したものと認められるところ、バドミントン講習会は青葉区体育館で開催されたと認められること(甲一・一〇五頁)、太郎の自宅から青葉区体育館までの所要時間は三〇分程度と認められること(弁論の全趣旨)からすれば、同日における出勤時間は、太郎が自宅を出発した時刻の三〇分後である午前九時三〇分であったと認めるのが相当である。

h 原告は、同月一三日の出勤時間が午前八時一〇分であったと主張するが、基本証拠によれば、太郎は、同日の朝から全中大会の抽選会の職務に従事したと認められ、同抽選会は、宮城県第二総合運動場で行われたものと認められること、太郎の自宅から上記場所までの所要時間は三〇分程度と認められる(弁論の全趣旨)ことからすれば、太郎の出勤時間は、太郎が自宅を出発した時刻の三〇分後である午前八時三〇分であったと認めるのが相当である。

i 原告は、同月一七日の出勤時間が午前八時四〇分であったと主張するが、基本証拠によれば、太郎は、同日の朝から、宮城県第二総合運動場において、業務必携のプロ校正に関する職務に従事したものと認められること、太郎の自宅から上記場所までの所要時間は三〇分程度と認められる(弁論の全趣旨)ことからすれば、太郎の出勤時間は、太郎が自宅を出発した時刻の三〇分後である午前九時であったと認めるのが相当である。

j 原告は、同月一九日の退勤時間が午後一一時であったと主張するが、基本証拠によれば、太郎は、午後一〇時に帰宅したと認められること、帰宅直前には、全中大会に関する打ち合わせを行っていたと認められる(打ち合わせの場所は不明である。)ことからすれば、退勤時間は、帰宅時刻の三〇分前である午後九時三〇分と認めるのが相当である。

k 原告は、同月二〇日の出勤時間が午前七時三〇分であったと主張するが、基本証拠によれば、太郎が自宅を出発したのは午前七時四〇分であり、出勤時刻は午前七時五〇分であったと認められる。

l 原告は、同月二一日の退勤時間が翌二一日の午前一時であったと主張するが、業務必携(甲二)によれば、総務部の職務は午後六時までとされており、太郎が同時刻以降に何らかの職務に従事したことを認めるに足りる証拠はない(むしろ、A田の陳述書(甲一・四三頁)によれば、太郎は、開会式終了後、A田と一緒に車で滞在先のホテルに帰り、居酒屋で飲食をしたことが認められるのであって、深夜まで職務に従事していたとは認め難い。)ことからすれば、同日の退勤時間は午後六時と認めるのが相当である。

(オ) 前記(エ)の勤務時間に加えて、太郎は、少なくとも県中総体が終了した七月下旬以降、深夜まで全中大会の準備等の職務を行っていたものと認められることから、実際の勤務時間は前記(エ)の時間よりも相当程度上回っていたものと推測される。

オ 太郎が自殺に至るまでの言動等について

(ア) 太郎は、平成一〇年六月末ころから、原告や職場の同僚に対し、夜眠れないこと、朝起きられないこと、気が沈むこと、自信がないこと、仕事に出たくないこと、仕事が手につかないこと、疲れ易いこと、頭が痛いこと、食欲がないこと等を訴えたり、あるいは周囲から上記のような様子が見て取れるようになった。

(イ) 太郎は、同年七月中旬ころ、D原に対し、体育祭の仕事の分担について、「ちょっと疲れているから、一歩、引いてていいですか。」と述べた。

(ウ) 同月二一日から夏期休業が始まった。太郎は、同月下旬、C川中学校の校内において、D原に対し、「疲れたー。」、「(全中大会の)段取りがいま一つなんです。」と述べた。

また、太郎は、そのころ、原告に対し、不安な様子で「こんなことで全中大会できんのかや。」と述べた。

(エ) 太郎は、同年八月上旬、C川中学校の校内において、B山から「全中大会大丈夫っすか。」と聞かれたのに対し、「分からない。とにかくやるだけ。早く終わらないかなあ。」と述べた。

また、同じころの太郎とD原との会話は次のとおりである。

D原「夕べも遅かったの。」

太郎「ここんところちょっと毎日遅いです。」

D原「大丈夫なの。顔に疲れが出てるよ。」

太郎「うーん。実は今けっこうきついです。」

D原「少し手を抜かないと。」

太郎「いやあ、そうもいかないんで。」

(オ) 太郎は、このころ、原告に対し、「こんな生活していたらいつか過労死してしまうよな。」とつぶやいた。

(カ) 太郎は、同年八月のお盆過ぎ、C川中学校の職員室において、D原に対し、「ここのところ毎日一一時、一二時で、家にも寝に帰っているようなもんです。」、「けっこう、今がピークだったりして。でも後少しで終わりっすから。」と述べた。

(キ) 太郎は、同月二〇日には深夜まで残業し、翌二一日午前一時ころに帰宅したが、寝付けない様子で何度も寝返りをうっていた。

(ク) 太郎は、全中大会の開催前日である同年八月二一日の朝、食欲がなかったため、朝食を摂らずに自宅を出発した。

太郎は、同日以降、ホテルに滞在していたが、同日午後八時三〇分ころ、A田が太郎の部屋を訪れたところ、業務必携を開きながら、「明日から大丈夫かやー。」と述べて心配した様子であった。

(ケ) 同月二二日、仙台市体育館において、全中大会の開会式が行われた。

太郎は、朝に開会式の準備をしていた際、A田に対し、「さっぱり眠れなかったやー。」と述べていた。

(コ) 太郎は、同日夜、滞在先のホテルの地下の居酒屋で、A田と飲食をした。その際、A田から「全中大会が終われば、来年はA野先生が県の委員長ですね。」と冗談交じりに言われたのに対し、「いやー、俺はできないなあ。」と笑いながら答えた。

(サ) 同月二三日は、全中大会の一日目の競技が実施された。原告は、競技終了後の午後五時ころ、太郎に電話をしたところ、太郎はとても疲れている様子であった。

同日午後六時三〇分から、太郎が滞在していたホテルにおいて、全中大会の役員等が参加するレセプションが開催された。太郎は、全中大会の会場を最後に閉めなければならなかったために、やや遅れてレセプションに参加したが、その席上において、来賓の名前を読み間違えた。

もっとも、太郎は、レセプション会場において、いつものように冗談を飛ばしながら楽しく飲んでいる様子であった。

なお、太郎は、全中大会の開催期間中に、トーナメントのくじ引きや練習会場についての総務部に対するクレームや、昼食券や弁当を配る段取りがうまくいかないというトラブルを経験していた。

太郎は、同日午後九時ころから、A田ほかの大会役員の教員らと一緒に、ホテルの最上階で一時間ほど飲食をしたが、あまり会話をせず、疲れている様子であった。そして、太郎が会計をしている間に、他の教員らは、太郎一人を残してエレベーターに向かい、乗り込んだ。太郎もエレベーターの前まで来たが、他の教員らは、エレベーターの扉の「開く」ボタンを押していたにもかかわらず、扉が閉まってしまったために、太郎一人を残して下の階に降り、そのまま解散した。

太郎は、同日午後一〇時ころ、ホテルの部屋に戻った。

太郎は、同日午後一〇時半ころ、A田に対し、電話をかけた。電話の内容は、閉会式で使用するCDに関することであったが、A田は、太郎が、他の教員らが先に帰ったことについて怒っているのではないかと不安になり、謝るために、太郎の部屋を訪れた。すると、太郎は、たばこを吸っており、顔色は白く、かなり疲労している様子であった。

太郎は、同時刻ころ、自宅に電話をかけ、原告に対し、「かなり疲れている。レセプションがうまくいかなかった。レセプションの後の二次会の会計をしていた時、他のメンバーがみんなエレベーターに乗ってさぁーっと行ってしまって、一人になってしまって。」と力がなく寂しそうな様子で話した。また、「明日の朝一番で、CDを取りにC川中に行かなければならない。」、「一時間おきに目が覚めて、よく眠れない。」などと話した。

(シ) 太郎は、同月二四日午前六時ころ、滞在中のホテルの自室において、ドアの蝶番に帯を掛けて首をつり、自殺した。

カ 精神疾患に関する医学的知見

(ア) 病因

現在の精神医学において、精神障害の成因は、環境由来のストレス(外的要因)と個体側の反応性、脆弱性(内的要因)との相対的関係で把握されており、ストレスが大きければ個体側の脆弱性が小さくても精神障害が発症する一方、個体側の脆弱性が大きければ、ストレスが小さくても精神障害が発症するものと考えられている(このような考え方を「ストレス―脆弱性理論」という。)

うつ病等の気分障害は、内因性精神障害に分類され、うつ病になる人は、脳の神経情報伝達系に何らかの機能異常を持つなどの素因を有しているとする知見が存在するが、その詳細は未だ明らかではない。そして、このような知見においても、素因のみでうつ病は発症するものではなく、精神的要因すなわち執着性格ないしメランコリー親和型人格(仕事の上では正確、綿密、勤勉、良心的で責任感が強く、対人関係では他人との衝突や摩擦を避け、他人に心から尽くそうとする傾向を示し、道徳的には過度の良心的傾向を示すなど、一定の秩序に固執して初めて安定した存在として生活を営むことができる人格をいう。)等の人格的要因、幼少時期の生育環境、成熟後の心理的葛藤、社会的要因や身体的要因等のストレス(外的要因)が加わったときに、うつ病が発症すると考えられている。

(イ) ICD―10

a うつ病エピソード

(a) 患者は、通常、抑うつ気分、興味と喜びの喪失及び活力の減退による易疲労感の増大や活動性の減少に悩まされる。わずかに頑張った後でもひどく疲労を感じるのが普通である。

(b) 他の一般的症状には以下のものがある。

① 集中力と注意力の減退

② 自己評価と自信の低下

③ 罪責感と無価値感

④ 将来に対する希望のない悲観的な見方

⑤ 自傷あるいは自殺の観念や行動

⑥ 睡眠障害

⑦ 食欲不振

(c) うつ病エピソードは、重症度のいかんに関わらず、通常少なくとも二週間の持続が診断に必要とされるが、もし症状が極めて重症で急激な発症であれば、より短い期間でもかまわない。

(d) 前記(b)の症状のいくつかが際立っていたり、特別に臨床的な意義があると認められている特徴的な症状を身体性症状といい、その典型的な例は、普通は楽しいと感じる活動に喜びや興味を失うこと、普通は楽しむことができる状況や出来事に対して情動的な反応性を欠くこと、朝の目覚めが普段より二時間以上早いこと、午前中に抑うつが強いこと、明らかな精神運動制止あるいは焦燥が客観的に認められること、明らかな食欲の減退、体重減少、明らかな性欲の減少がある。そして、上記身体性症状のうちおよそ四項目が明らかに認められた場合、身体性症候群が存在するとみなされる。

b 軽症うつ病エピソード

前記a(a)の症状のうち、少なくとも二つが認められ、さらに、前記a(b)の症状のうち少なくとも二つが認められることが、診断の確定のために必要である。いずれも症状も著しい程度であってはならない。

軽症うつ病エピソードの患者は、通常、症状に悩まされて日常の仕事や社会的活動を続けるのにいくぶん困難を感じるが、完全に機能できなくなるまでのことはない。

c 中等症うつ病エピソード

前記a(a)の症状のうち、少なくとも二つが認められ、さらに、前記a(b)の症状のうち少なくとも三つ(四つが望ましい。)が認められることが、診断の確定のために必要である。いくつかの症状は著しい程度にまでなる傾向を持つが、全体的で広汎な症状が存在すればよい。

中等症うつ病エピソードの患者は、通常、社会的、職業的あるいは家庭的な活動を続けていくのがかなり困難になる。

d 精神病症状を伴わない重症うつ病エピソード

前記a(a)の三症状の全てが認められ、さらに、前記a(b)の症状のうちの四つが認められ、かつ、そのうちいくつかの症状が重症でなければならない。

重症うつ病エピソードの患者は、制止が顕著でなければ、通常かなりの苦悩と激越を示す。自尊心の喪失や無価値観や罪責感を持ちやすく、特に重症な症例では、際立って自殺の危険が大きい。身体性症状はほとんど常に存在するものと推定される。

e 精神病症状を伴う重症うつ病エピソード

診断基準は前記dと同様であるが、前記dと異なり、患者には、妄想、幻覚あるいはうつ病性昏迷が存在する。

(ウ) 長時間労働と精神障害との関係

黒木宣夫ら「精神疾患発症と長時間残業との因果関係に関する研究」(乙一一)によれば、長時間残業による睡眠不足が精神疾患発症に関連があることは疑う余地もなく、特に長時間労働が一〇〇時間を超えると、それ以下の長時間残業よりも精神疾患発症が早まるとの結論が得られた。

キ 精神疾患に起因する自殺の公務災害の認定について(平成一一年九月一四日付け地基補第一七三号)

本件において、宮城県支部長、支部審査会及び審査会が公務起因性の判断を行うに際して用いた上記基準の概要は、以下のとおりである。

(ア) 次のいずれかに該当し、かつ、被災職員の個体的・生活的要因が主因となって自殺したものではないこと。

a 自殺前に、公務に関連してその発生状態を時間的、場所的に明確にしうる異常な出来事・突発的事態に遭遇したことにより、驚愕反応等の精神疾患を発症していたことが、医学経験則に照らして明らかに認められること。

b 自殺前に、公務に関連してその発生状態を時間的、場所的に明確にしうる異常な出来事・突発的事態の発生、又は行政上特に困難な事情が発生するなど、特別な状況下における職務により、通常の日常の職務に比較して特に過重な職務を行うことを余儀なくされ、強度の肉体的過労、精神的ストレス等の重複又は重積によって生じる肉体的、精神的に過重な負担に起因して精神疾患を発症していたことが、医学経験則に照らして明らかに認められること。この場合において、精神疾患の症状が顕在化するまでの時間的間隔が、精神疾患の個別疾病の発症機序等に応じ、妥当と認められること。

(イ) そして、前記(ア)の認定要件を判断するに当たっては、自殺の直前から六か月(特別の事情があると認められる場合は一年)前程度までさかのぼって調査を行う。

ク 本件災害に関する医師の意見書

(ア) 宮城県支部長が依頼した医師作成に係る意見書

a 太郎は、本件災害以前に疲弊うつ病にり患していたと思われる。

b 太郎がり患した疲弊うつ病の遠因としては、多忙な校務、免外授業の負担、生徒会の指導主任としての任務上の負担などが、近因としては、平成一〇年四月ころからの全中大会の準備に関わる精神的緊張と負担が同年七月ころから特に重くのしかかり、大会終了直後に至って、おそらくは大会運営に関する不満足感とともに(客観的には成功したと思われる状況でも、抑うつ的な状態の患者はこれを過小に評価し、決して満足しないものである。)自殺を企図したものであろう。

c うつ病が最も重症になると、例えば昏迷状態になり、無言無動で自殺することさえできなくなる。これに対し、軽症のうつ病では、自殺をするくらいの気力が残っているので、自殺が多いとされている。

(イ) 笠原医師の意見書及び証言

a 太郎は、これまで精神科疾患にかかったことはなく、また、性格的にも、明るく外向的性格と考えられ、一般的にうつ的タイプと言われる、几帳面で神経質で内向的でうまく気分転換ができない、という性格ではなく、精神的脆弱性は感じられない。

b ストレス要因である仕事の内容に着目すると、平成一〇年六月以降の各職務の重責、重圧、長時間労働によって、同年七月上旬に精神疲労が出現し、同年七月中旬から下旬にかけてうつ病を発症したと考えられる。そして、同年七月下旬以降の全中大会の直前準備や大会運営による精神的な負担により、うつ状態が一層悪化し、それゆえ、全中大会開催中には、判断力や集中力がうまく働かずにミスが生じ、周りの言動や行動に対しても過剰に反応してしまい、強く自責を感じ、自殺に至ったと判断する。

c 同年六月下旬にうつ状態であったことを示す事実はなく、また、仮に上記時点でうつ状態であったとしたら、その後に重なる職務を適切にこなすことはできなかったはずであるが、太郎は、疲れながらも仕事をこなしていたのであるから、上記時点でうつ状態であったとは言えない。

d うつ病発症後に、さらに業務上の負担があったと考えられる場合、そのことが、うつ状態を一層悪化させて自殺に至らしめたと判断すべきである。

(ウ) 千葉意見書

a 太郎は、平成一〇年七月中旬以降、ICD―10のうつ病の診断基準の主要な症状のうち、興味と喜びの喪失と活力の減退による易疲労感の増大や活動性の減少の二つが認められ、一般的な症状のうち、自己評価と自信の低下、罪悪感と無価値感、将来に対する希望のない悲観的な見方、睡眠障害、食欲不振の五つが認められるため、中等度うつ病エピソードと診断される。

b 平成一〇年四月以降、仕事内容・仕事量の大きな変化と勤務・拘束時間の長時間化があるなど、人生の中で稀に経験することもあるというレベルの強い心理的負荷があった。

c 業務以外の心理的負荷としては、家のローンの返済があるが、日常的に経験する一般的に問題にならない程度のものである。

d 個体側の要因としては、うつ病の既往も家族歴もなく、うつ病を引き起こすような身体疾患のり患もない。

e 同年八月二三日の夜には、これまで苦楽を共にしてきた同僚との絆が切れてしまったような状況に置かれ、大切な対象を喪失し、自己評価の更なる低下を招き、重症と診断されたであろう状態となって、重症うつ病と診断する根拠の一つである自殺観念に襲われ、自殺観念から逃れることができずに自殺したものと考えられる。

(エ) 黒木意見書

a 精神障害、特にうつ病は、生物学的、心理的、社会的側面が絡み合って発病する。精神疾患の発症の主な原因を主因といい、副次的な原因を誘因という。

診断学的には、内因性、心因性にこだわらず、ICD―10やDSM―Ⅳで診断されることが通常となっているが、臨床場面では、内因性精神障害、心因性精神障害、器質性精神障害という従来診断が便宜上、使用されている。

気分障害は、個人の性格要因、疾患発現に対する遺伝的脆弱性要因、脳内アミン減少等の脳神経科学的要因及び発症前に受けた心理社会的因子としてのストレス因の相互関係により発病する。

b うつ病は、素質としての脳の神経情報伝達系に何らかの欠陥をもっており、これと関連してホルモン系の中枢である間脳の機能の低下を伴うことが多いとされ、うつ病の発症は、素因の存在を前提として、精神的、身体的ストレスが加わった時に発病すると考えられている。この場合、ストレスが誘因として関与しているが、特に発症に有力な原因と考えられるストレスを「病因的意義のあるストレス」と定義した場合、これに起因することが確実なストレスに起因したうつ病は、二〇パーセント以下と考えるのが精神医学界の常識である。

c 長時間残業による睡眠不足が精神疾患発症に関連があることは疑う余地もなく、特に長時間残業が一〇〇時間を超えると精神疾患発症が早まるとの報告、四時間未満の睡眠が二〇週続いた時点で八〇パーセントの精神疾患発症率があったとの報告、四ないし五時間睡眠が一週間以上続き、かつ自覚的な睡眠不足感が明らかな場合は精神疾患発症、特にうつ病発症の準備状態が形成されると考えられるとの報告等がある。

d 原告に対する事情聴取結果をもとに判断すると、太郎のうつ病発症時期は平成一〇年六月下旬であり、自然経過の中で希死念慮(自殺念慮)が生じ、発作的に死に至ったものと判断できる。

仮に、うつ病が上記時期に発症していないとしても、疲労感、倦怠感は同年七月中旬には存在していたと判断するのが妥当であり、同年八月中旬には睡眠障害が確認されていることから、同年七月中旬には抑うつ気分、思考や行動の抑制も出現していた可能性が高く、うつ病の発症時期は同年七月中旬と判断される。

e うつ病は、軽症でも自殺念慮は認められるのであり、症状が増悪する結果自殺に至るというものではない。うつ病の症状の程度は、自殺念慮を基準にしたものではなく、症状の数とタイプ等によるものである。自殺するかどうかは、うつ病が発症してしまえば、症状の程度がどの段階であるかを問わない。

f ICD―10の基準に照らすと、疲労感の増加、抑うつ気分、自殺直前の希死念慮、集中力低下や思考抑制が存在していた可能性、睡眠障害は認められるものの、自信喪失、罪悪感、焦燥を伴う精神運動性変化などは持続的に存在していたとは断言できず、中等ないし重症うつ病に該当するとは断言できない。

g 本件では、客観的に見て通常人をしてうつ病を発症せしめる程の公務による過重負荷は認められない。

(3)ア  太郎の内的要因について

前記(2)の認定事実によれば、太郎の性格は、勤勉で責任感が強く、几帳面であり、常に周囲の人間との協調性を考えて行動するという面があり、うつ病等の精神疾患の精神的要因であるメランコリー親和型性格と共通する側面を有するものの、かかる性格は、実社会において比較的よく見られる程度のものというべきものであり、また、太郎は、本件災害以前において、精神疾患にり患したことはないことからすると、太郎の上記性格は、個体としての脆弱性を強める程の精神的要因として大きく評価することはできない。

また、太郎が、他にうつ病にり患しやすい内的要因を有していたとは証拠上認め難い。

イ  太郎の従事していた公務の加重性(外的要因)について

前記(2)の認定事実によれば、太郎は、平成一〇年度においても前年度から引き続き、学級担任、生徒会指導、部活動指導の職務に従事しており、それ自体、義務教育課程における生徒の指導という重要な責任を伴うものであるから、一定の精神的負荷を与えるものというべきであるが、上記に加えて、平成一〇年四月以降、免許外科目である社会科を初めて担当するようになったことが認められる。社会科は、指導経験がない科目であるゆえ、太郎は、指導方針や実際の授業内容をどのようにすべきかについて悩み、一コマの授業の準備に多くの時間と労力を費やしたものと推認でき、このことは、太郎に対し、相当な精神的負荷を与えるものであったというべきである。

そして、太郎は、同年七月上旬に全中大会実行委員会の総務部部長に就任したが、全中大会は、部活動に所属する運動部の全国大会として位置づけられるものであり、大会運営等を総括する立場ともいうべき総務部の職務の重責は多大なものであったと解される。加えて、そのころから、太郎が校務分掌上割り当てられていた生徒会指導において、文化祭、体育祭、生徒会選挙の各実行委員会の指導が重なっていたこと、また、太郎が副委員長を務めていた県中体連が開催する県中総体が同月二四日、二五日に開催される予定であったために、太郎は、その大会運営の準備等の職務を行わなければならなかったことから、業務必携の作成等の全中大会の職務は、県中総体の終了後の短期間に集中的に行わなければならなかったものと認められる。そのため、太郎は、県中総体終了後の七月下旬以降、学校における超過勤務に加え、自宅においても深夜に至るまで、全中大会の準備の職務に従事していたと認められ、これにより極めて大きな精神的負荷が与えられていたというべきである。

さらに、太郎が全中大会実行委員会の総務部部長に委嘱を受けたのは、同年七月七日であるが、実行委員会は、同年三月一七日に設立され、同年六月上旬以降定期的に開催されていたことからすれば、太郎が全中大会の役員になることは、上記委嘱以前の時点において、既に実質的に決定されていたというべきである。そして、C川中学校における年度予定は、年度当初の時点で決定されていることをも考え併せると、太郎は、総務部部長に正式に委嘱を受ける以前から、同年七月における職務の状況を把握しており、この時期が近づくに連れて、次第に不安感、重責感が募り、それが多大な精神的負荷となっていたものと推測され、このことから、前記認定事実のとおり、同年六月末以降、不眠、食欲不振等のうつ病エピソードを訴えるようになったものと理解するのが合理的である。

そして、太郎は、同年七月中旬以降、「疲れた。」と疲労感を訴え、また「全中大会できんのかや。」と自信の低下ないし将来に対する悲観的な訴えをするようになったことからすれば、遅くとも、上記時期ころまでには、軽症のうつ病にり患していたものと認めるのが相当である。

上記のように、太郎の従事していた職務内容は、太郎に対して質的に極めて大きな精神的負荷を与えるものであったと認められる上、太郎は同年六月以降、一か月に少なくとも約一〇〇時間以上の超過勤務を行っていたと認められるところ、長時間労働が一〇〇時間を超えると、精神疾患の発症が早まるとの報告があることに照らせば、太郎が従事していた公務は、労働時間というその量から見ても、極めて大きな精神的負荷を与えるものであったというべきである。

ウ  そして、前記事情に加え、前記公務以外に太郎に対してうつ病を発症させる外的要因となり得る事情は証拠上認め難いことをも総合考慮すると、太郎が従事していた公務は、社会通念上、うつ病を発生させる危険を内在又は随伴しており、その危険が現実化したといえる関係にあるものと認めるのが合理的であり、したがって、太郎が従事していた公務とうつ病との間には、相当因果関係があると認められる。

エ  前記のとおり、太郎がうつ病にり患したことと本件災害との間に相当因果関係が認められることは当事者間に争いがない(なお、証拠上も、太郎は、同年七月中旬ころまでに軽症のうつ病にり患していたところ、同月下旬以降に全中大会の準備等の公務の加重性が増し、全中大会大会期間中のトラブル等が原因で、自殺念慮に襲われ、自殺するに至ったものと認められる。)。

オ  そうすると、本件災害は太郎が従事していた公務に起因するものと認められるから、本件災害の公務起因性を否定した本件公務外認定処分は、違法というべきであって、取消しを免れない。

三  以上によれば、原告の請求は理由があるからこれを認容することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 潮見直之 裁判官 近藤幸康 千葉直人)

<以下省略>

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