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仙台地方裁判所 平成18年(ワ)902号 判決 2007年10月16日

原告

A野太郎

同訴訟代理人弁護士

坂野智憲

同訴訟復代理人弁護士

三浦じゅん

被告

同代表者法務大臣

鳩山邦夫

同指定代理人

市木政昭

他7名

主文

一  被告は、原告に対し、四八四五万五七五四円及びこれに対する平成一七年一二月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを一〇分し、その七を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

事実及び理由

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

(1)  被告は、原告に対し、七三九六万六一八五円及びこれに対する平成一七年一二月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2)  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

(1)  原告の請求を棄却する。

(2)  訴訟費用は原告の負担とする。

(3)  仮執行免脱宣言

第二事案の概要

一  本件は、原告が、山形刑務所に収用されていたときに、肺がんにり患していたにもかかわらず、原告に対する検査を行った同刑務所の医務官が、胸部X線画像の異常陰影を見落としたか又はその評価を誤り、その後の鑑別に必要な検査を一切行わなかった過失により、手術適応のない末期がんに至り、早晩死を免れないとして、国家賠償法一条一項に基づき、慰謝料・逸失利益等の損害賠償金及びこれに対する肺がんの骨転移が確認されて治ゆ不能であることが確定した平成一七年一二月一九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

二  争いのない事実等(証拠等を掲げたもののほかは、当事者間に争いがない。)

(1)  当事者等

ア 原告(昭和二七年五月三〇日生)は、強盗致傷などの罪により、平成一六年六月一六日から平成一七年一二月二九日までの間、山形刑務所に収容されていた被収容者であった。

イ 被告は、山形刑務所を管理するものである。

(2)  診療経過

ア 原告は、平成一六年一〇月二七日、山形刑務所において、結核予防法に基づく定期健康診断として、間接撮影による胸部レントゲン検査を受け、医師による読影の結果、左肺部に気腫性嚢胞(ブラ)が疑われた。

イ 原告は、同年一一月二二日、同刑務所において、B山松夫医師(以下「B山医師」という。)により直接撮影による胸部レントゲン検査(以下「本件レントゲン検査」といい、その画像を「本件レントゲン画像」という。)を受けた結果、左上肺部に気腫性嚢胞があると診断された。

ウ 原告は、平成一七年七月下旬ころから右膝の痛みを感じるようになり、同年八月一日、同刑務所医務課を受診し、医務課長C川竹夫医師の診察を受けたところ、右膝に熱感、圧痛が認められたことから、同医師は、原告に対し、抗菌薬、鎮痛剤及び抗炎症剤を処方して経過観察を行うこととした。

エ 同刑務所の医務課では原告が訴える右膝の痛みの原因が分からなかったことから、原告は、同年九月一三日、山形市内にある篠田総合病院整形外科受診の許可を受け、同日以降同年一〇月二五日までの間、同病院に通院して検査を受けた。そして、同病院におけるMRI検査の結果、右脛骨近位部の骨腫瘍との診断を受けた。

オ 原告は、より専門的な病院での治療が必要であることを理由に、山形大学医学部附属病院(以下「山形大学病院」という。)の紹介を受け、同年一〇月二八日から同年一二月一九日までの間、同病院に通院して検査を受けた。そして、同日、病名は肺がん、右脛骨転移(ステージⅣ)であり、余命は六か月前後と想定されるとの確定診断(以下「本件診断」という。)を受けた。

カ 原告は、外部の医療機関で治療を受けるため、同月二九日、刑の執行停止により釈放された。

キ 原告は、平成一八年一月二三日から二八日まで、宮城県立がんセンターにおいて検査及び放射線治療を受けたが、今後の治療は無効と判断された。

その後、岡部医院の紹介を受け、現在に至るまで、同医院の岡部健医師(以下「岡部医師」という。)による疼痛緩和を目的とする治療を受けている。

三  争点

(1)  B山医師の本件レントゲン画像読影上の過失の有無

(2)  因果関係の有無

(3)  損害の有無及び範囲

四  争点に対する当事者の主張

(1)  争点(1)(B山医師の本件レントゲン画像読影上の過失の有無)について

(原告の主張)

ア 本件レントゲン画像には、左上肺野及びその辺縁肺門部に肺がんを疑うべき異常陰影が認められた上、原告は二〇年以上に渡って一日二〇本以上の喫煙歴があり、これは喫煙指数四〇〇以上の肺がんのハイリスクグループに当たるのであるから、B山医師は、上記異常陰影の画像的特徴を把握するために胸部CT検査を行うとともに、悪性か否かの鑑別を行うために喀痰細胞診及び気管支鏡検査等を行うべきであった。

しかるに、B山医師は、本件レントゲン画像の異常陰影を見落としたか、あるいはその評価を誤り、その後に肺がんの鑑別に必要な検査を一切行わなかった過失がある。

イ 刑事施設であったからといって、上記検査を行うことは可能であったのだから、被告の注意義務が軽減されることはない。

(被告の主張)

ア 刑事施設の医務課に求められる医療水準とは、高度な専門的医療ではなく、平均的であって、あらゆる種類の疾病に幅広く対応できるというものである。また、刑事施設は、施設間に医療格差を設け、医療専門施設、医療重点施設、一般施設の三段階に区分している。

そして、山形刑務所は一般施設であって、常勤医師は一人のみであり、レントゲン機器は存在するが、CTはなく、CT撮影等を実施するためには、被収容者を外部の病院に連行しなければならない等の特性があり、このような事情を考慮して医師の過失を判断する必要がある。

イ(ア) B山医師は、本件レントゲン画像に見られた、左肺の嚢胞と嚢胞の間に存在する陰影について、気腫性嚢胞に伴う正常肺組織の変化したもの、すなわち、それぞれの嚢胞形成に伴い、肺組織が集まって生じたものと読影し、その際の問診において、原告から血痰等の肺がんを疑わせる自覚症状の訴えがなかったこと、喫煙歴についての申出もなかったことから、経過観察を行うこととした。

(イ) 岡部医師が上記画像について精査必要と診断したのは、原告が既に肺がんにり患していることを知っていたほか、平成一六年一〇月以降に判明した諸事情を前提にして読影した結果であるというのが自然である。

(ウ) 本件レントゲン検査の一年後に、山形大学病院において行われた胸部CT撮影においてすら、原告の左肺の陰影について、腫瘍よりも陳旧性病変の可能性が高いと読影されており、肺がんを疑うに足りるだけの所見は認められなかったこと、同病院が肺がんの疑いを持ったのは、原告が平成一七年八月から右膝痛を継続的に訴えていたために、同年一〇月に右膝のMRI検査及び骨シンチグラフィを行った結果、同部位に腫瘍性病変が認められ、それが他の部位から転移したものではないかと疑われたためであり、平成一六年一一月の段階では、原告は右膝痛を訴えていなかったことから、仮に同時点でCT検査を行っていたとしても、肺がんと診断されることはなかったというべきである。

(エ) 本件レントゲン画像に見られる陰影の大きさは、悪性を示唆する四センチメートル以上の大きさではない。

また、本件レントゲン画像に肺がんを疑うべき肺内転移、リンパ節転移又は遠隔転移を示す所見や肺門部型肺がんの特徴である閉塞性肺炎や閉塞性無気肺等の二次変化を示す所見は見られない。

(オ) 以上によれば、B山医師の読影は合理的なものであり、本件レントゲン画像に見られた陰影から肺がんを疑うことは客観的にも困難であったことから、B山医師に読影についての注意義務違反は存在しない。

(2)  争点(2)(因果関係の有無)について

(原告の主張)

ア 平成一六年一一月二二日の時点における胸部レントゲン画像上の異常陰影の大きさは、二〇ミリメートル×一五ミリメートルである。

上記画像上、リンパ節転移を疑わせる所見や肺内転移を疑わせる所見は認められないこと、原告は、上記時点において、身体の他の部位の異常を訴えていなかったこと、T1かつN0の場合に遠隔転移が生じている可能性はごくわずかであることから、上記時点における肺がんの進行度は、ⅠA期であった。

イ 原告の肺がんは非小細胞がんであり、そのⅠA期における五年生存率は七二ないし七七・四パーセントであって、外科的手術によって根治可能である。

ウ したがって、上記時点におけるB山医師の過失がなければ、手術適応のない末期がんに至らなかった高度の蓋然性がある。

(被告の主張)

腫瘍の成長は、単位時間当たりの腫瘍容量の変化で定義され、腫瘍容量が二倍になるのに要する時間(倍加時間)は一定である。原告は、平成一七年一〇月の時点で右脛骨の腫瘍の大きさが六センチメートルくらいに増悪していたのであるから、肺がんの骨転移巣の倍加時間を証拠上最も早い乳がんの軟組織転移巣の倍加時間より短い二〇日間と仮定しても、平成一六年一一月には、既に八万個ないし一四万個のがん細胞が原告の右脛骨に存在したと考えられること、原告の肺がんのタイプである非小細胞がんは進行が早くないために、骨転移巣の倍加時間は二〇日間よりも長いと考えられることからすると、原告の肺がんは、平成一六年一一月の時点で遠隔転移を生じ、既にⅣ期に至っていたと考えるのが自然である。

そうすると、B山医師の読影に過失があったとしても、当該過失と原告の損害との間の因果関係はないものというべきである。

(3)  争点(3)(損害の有無及び範囲)について

(原告の主張)

ア 慰謝料 三〇〇〇万円

(ア) 原告は、平成一八年二月の時点で余命一年と宣告され、早晩死を免れないことから、現時点において、既に死亡に匹敵する精神的苦痛を受けている。したがって、死亡したも同然と解して死亡慰謝料を請求する。

(イ) 仮に、死亡慰謝料が認められないとしても、平成一六年一一月二二日の時点における五年生存率が七二ないし七七・四パーセントあったにもかかわらず、B山医師の過失により、余命一年と宣告されるに至った。したがって、死亡慰謝料と同額の慰謝料が認められるべきである。

イ 逸失利益 三七二六万六一八五円

(ア) 原告は、昭和二七年五月三〇日生まれであり、本件訴え提起の時点における年齢は五四歳であるから、五四歳の男子労働者学歴計平均賃金六六一万一七〇〇円を基準とするのが相当である。

仮に、上記を基準としないとしても、原告は、釈放後に有限会社D原企画(以下「D原企画」という。)において雇用される確実な予定があり、その場合には毎月三〇万円及びパチンコ景品の売上の五パーセントの収入を得られた。

仮に、D原企画において原告が雇用されなかったとしても、原告は、釈放後に夫婦二人で韓国料理店を出店する予定であった。

仮に、原告が全く新たな職種に就く場合であっても、賃金センサスの同年齢同学歴の平均賃金か、少なくともそこから二ないし三割を減じた金額を得られたと考えるのが相当であり、山形刑務所に収容される直前の収入である月額一〇万円を基準にすることは著しく合理性を欠く。

(イ) 平成一七年一二月の時点では仮釈放間際であったことから、労働能力喪失期間は一三年であり、そのライプニッツ係数は九・三九四である。

(ウ) 生活費控除は四〇パーセントが相当である。

ウ 弁護士費用 六七〇万円

損害額の一割が相当である。

(被告の主張)

ア 慰謝料の額について

(ア) 原告は未だ死亡しておらず、今後生じるかもしれない死亡に対する不安や恐怖による精神的苦痛と死亡による精神的苦痛とは質的に異なるものというべきである。

また、岡部医師は、放射線治療が非常によく効いていると証言し、現に原告は裁判所への出廷を続けていることからすると、現時点において、死亡に匹敵する精神的苦痛を受けているとは到底言い難い。

したがって、原告が死亡慰謝料の支払を請求することはできない。

(イ) いわゆる赤本・青本にいうところの死亡慰謝料ないし第一級後遺障害慰謝料の金額は、あくまで被害者が原告のような死病を患っていないことを前提とするものである。平成一六年一一月の時点における原告の肺がんがⅠA期であったと仮定し、直ちに手術等の適切な措置を受けていたとしても、その時点における五年生存率は七〇パーセント前後であるから、原告は、がんの再発とそれによる死亡について、かなりの程度の不安や恐怖を感ずることを免れず、B山医師の過失によってその程度が若干高まった程度であることからすると、赤本等所定の慰謝料の額をそのまま採用すべきではない。

(ウ) 損害額賠償の目的は主として財産的損害の填補にあり、精神的苦痛に対する慰謝料は二次的・補充的に過ぎないことから、慰謝料の金額が逸失利益の額を大きく上回ることは失当である。

イ 逸失利益の算定について

(ア) 基礎収入について

a 原告は、仮に平成一六年一一月に手術等の適切な措置を受けていたとしても、五年生存率は七〇パーセント前後であるから、肺がんによる死に対する相当の不安の中で生活することを余儀なくされたものと推認される上、手術の影響による稼働効率の著しい低下も予想され、さらに、がんの再発防止のためにかなりの回数に及ぶ定期的な検査を余儀なくされたはずであり、一般の健康人と比較してその稼働能力は著しく低下しているものと言わざるを得ない。

b 山形刑務所収容中に、原告と親族等の間にD原企画への就職に関する具体的な約束はなく、仮にそのような約束があったとしても、D原企画は赤字経営であり、原告に対して毎月三〇万円程度の給与を支払う資力はなかった。

c 原告は、韓国料理店の出店計画を具体的に検討しておらず、また、原告と親族との間に出店に際しての具体的な資金援助の話は何らなされていなかった。原告は、事業に失敗し、かつ強盗致傷事件を起こして親族等からの信頼を失い絶縁状態に陥っていたのであるから、親族から資金援助を得られた蓋然性はないというべきである。

d 以上に加え、原告は、山形刑務所を満期で釈放された場合の年齢が五五歳であること、強盗致傷事件による受刑歴を有し、特に手に職を有しないことからすれば、原告が賃金センサストの平均賃金又はその二割から三割を減額した程度の収入を得られた蓋然性は極めて低く、収入としては、原告が強盗致傷事件を起こす以前の収入である月額一〇万円程度を上回ることはないというべきである。

(イ) 労働能力喪失期間

a 原告の刑期は四年六か月であるが、刑期が三年を超える受刑者で平成一七年に仮出獄を認められた者のうち、刑の執行率が七割未満の者は全体の七・九パーセントに過ぎないこと、特に原告と同じく強盗致死傷の罪名により受刑して刑期五年以内の者一七一人の中で、刑の執行率が五九パーセント以下の者はわずか二人(約一・二パーセント)に過ぎないことから明らかなように、執行刑期の半分で仮出獄となるような運用は存在しないこと、実際に平成一七年一二月に至っても地方更生保護委員会の委員面接の予定すら決まっていなかったことからすれば、原告の労働能力喪失期間の始期は、刑期満了時を基準とすべきである。

b 原告は、仮に平成一六年一一月に手術等の適切な措置を受けていたとしても、五年生存率は七〇パーセント前後にとどまるのであるから、通常の労働能力喪失期間の終期である六七歳まで稼働することができた高度の蓋然性はなく、その期間は大幅に短縮されるべきである。

(ウ) 以上によれば、原告の逸失利益は、通常の場合の金額を大きく下回るというべきである。

ウ 過失相殺ないし素因減額

肺がん患者の八〇ないし八五パーセントは喫煙者であり、喫煙者の肺がんにり患する確率は非喫煙者の一〇ないし二〇倍であること、原告は、山形刑務所に収容されるまでの間、自らの意思で二〇年以上に渡り一日二〇本以上の喫煙を続けてきたこと、原告の肺がんの原発巣は左肺のブラの周辺に存在するが、そのブラの主原因は喫煙であると考えられること、そのブラの部分が感染を繰り返してがん化したものと推測できることから、原告の喫煙歴が肺がんの発生という結果を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性が認められる。

したがって、原告の喫煙歴について過失相殺ないしは素因減額の法理を適用して考慮すべきである。

第三争点に対する判断

一  争点(1)(B山医師の本件レントゲン画像読影上の過失の有無)について

(1)  当裁判所は、B山医師には、本件レントゲン画像読影を誤り、その後の肺がんの鑑別診断を実施しなかった点において過失が認められると判断する。その理由は以下のとおりである。

(2)  《証拠省略》によれば、原告は、本件レントゲン検査当時、肺がん(非小細胞がんである扁平上皮がんであった可能性が高い。)を発症していたこと、本件レントゲン画像上、左上肺野に巨大肺嚢胞があり、その辺縁肺門部に二〇ミリメートル×一五ミリメートルの星形陰影を呈する腫瘤影(以下「本件陰影」という。)の所見があったことが認められる。

そして、本件陰影のような異常陰影が認められた場合には、それが炎症性の変化によるものか又は肺がんによる可能性が考えられること(一般開業医の医療水準を前提としても、肺がんの疑いを持つことは可能であったと認められる。)、レントゲン検査のみによって肺がんであるか否かの鑑別診断を確定的に行うことはできないこと、特に肺がんである場合には、進行度に応じて予後が著しく不良となることから、肺がんの可能性が考えられる場合には、速やかに肺がんかどうかの鑑別診断のために必要なCT検査、喀痰細胞診、擦過細胞診、TBLB(経気管支肺生検)等を実施すべきであるとされている。

しかるに、《証拠省略》によれば、B山医師は、本件レントゲン画像について、左肺に陰影を認めたものの、それは気腫性嚢胞間に存在するものであって、気腫性嚢胞に伴い正常肺組織が二次的変化したもの、すなわち、それぞれの嚢胞形成によって圧排を受けた正常肺組織が集まって生じたものであると判断し、肺がんの可能性を考慮することなく、肺がんの鑑別診断のために必要な検査を実施しなかったことが認められる。しかし、本件陰影部分は、本件レントゲン画像上、正常肺の部分と比較して白っぽい(これは、正常肺の部分よりも本件陰影部分の組織の密度が高くなっていることを意味する。)上、正常肺の部分に写っている血管や気管支等の正常組織が写っておらず、しかも本件陰影の下部が不整となっている(下部辺縁に凹凸がある。)ことが認められるのであるから、本件レントゲン画像のみから、本件陰影を正常肺組織の一部であると判断し、肺がんの可能性を否定したB山医師の判断は誤りといわざるを得ない。したがって、本件レントゲン画像から上記各所見を得た医師としては、本件陰影が肺がんである可能性を疑い、速やかに本件陰影が肺がんかどうかの鑑別診断をするために必要なCT検査、喀痰細胞診、擦過細胞診、TBLB(経気管支肺生検)等を実施すべき注意義務があったというべきであり、これをしなかったB山医師には平均的な医療水準から見て必要とされる諸検査を怠った過失(以下「本件過失」という。)があるというべきである。

(3)ア  以上に対し、被告は、本件レントゲン画像に見られる陰影の大きさは、悪性を示唆する四センチメートル以上の大きさではない、本件レントゲン画像に肺がんを疑うべき肺内転移、リンパ節転移又は遠隔転移を示す所見や肺門部型肺がんの特徴である二次変化を示す所見は見られないと主張する。

しかしながら、前記注意義務違反が認められるためには、レントゲン画像から肺がんの疑いを持ち得たことで足りる。被告が主張する上記所見は、いずれも画像所見のみから直ちに肺がんを強く疑うべき又は鑑別診断をなし得るとされる所見であって、このような所見が認められない場合に肺がんの疑いを持ち得ないということは言えない。前記のとおり、平均的な知識・経験を有する医師であれば、本件レントゲン画像上の本件陰影の種々の特徴を総合して、肺がんの疑いを持つことは十分可能であったというべきであるから、被告の上記主張は採用できない。

イ  被告は、本件レントゲン検査の際の問診において、原告から血痰等の肺がんを疑わせる自覚症状の訴えがなかったこと、喫煙歴についての申出もなかったことから、経過観察を行うこととした判断は合理的であったと主張する。

しかしながら、原告は、平成一六年一〇月二七日、山形刑務所において、結核予防法に基づく定期健康診断として間接撮影による胸部レントゲン検査を受けた結果、左肺部に気腫性嚢胞(ブラ)が疑われたため、同年一一月二二日、同刑務所において、再検査として、B山医師により直接撮影による本件レントゲン検査を受け、左上肺部に気腫性嚢胞があると診断されたものであるところ(前記争いのない事実等)、気腫性嚢胞の原因として喫煙等の背景も推定されていることに照らすと、再検査の結果気腫性嚢胞の確定診断を下したB山医師が、気腫性嚢胞の原因を把握するため、原告に対して原告の喫煙歴を確認した可能性は十分に考えられる。したがって、カルテ(乙A一。その記載内容は、本件レントゲン検査の日付も記載されていないなど、極めて簡潔なものである。)上に記載がないという理由のみで、「本件レントゲン検査の際にB山医師から喫煙歴を訪ねられ、収監されるまでは二〇年以上一日二〇本くらいたばこを吸っていた。」と答えたとする原告本人の陳述及び供述の信用性を否定することはできない。

また、肺がんの初発症状としては無症状である場合も存在することからすれば、自覚症状のないことが肺がんの疑いを否定する事情とまでは言えないこと、また、喫煙指数(一日平均喫煙本数×喫煙年数)が六〇〇以上の者を肺がんの高危険群とする知見が存在するものの、高危険群に属しない者(非喫煙者も含む。)であっても肺がんにり患する一定のリスクがある以上、仮に原告がB山医師に対して喫煙歴についての申出を行っていなかったとしても、原告の肺がんの疑いが否定されるものではないことからすれば、被告の上記主張は採用できない。

ウ  被告は、本件レントゲン検査の約一年後に、山形大学病院において行われた胸部CT撮影においてすら、原告の左肺の陰影について、腫瘍よりも陳旧性病変の可能性が高いと読影されたことをもって、本件レントゲン画像上も肺がんを疑うに足りるだけの所見は認められないと主張する。

しかしながら、《証拠省略》によれば、陳旧性の炎症とは、一定期間炎症の変化を見た結果、変化がなくなったものをいうのであるから、一回のCT検査のみから陳旧性の炎症であったと診断することはできず、なお肺がんの疑いを排斥することはできないはずである上、実際に、山形大学病院では、上記CT検査を実施した後に右脛骨近位部骨腫瘍から生体組織を採取した上で病理組織顕微鏡検査を実施し、肺原発の転移性腫瘍組織であるとの診断をしていることからすれば、山形大学病院の医師は、上記CT画像から肺がんの疑いを否定しきれなかったからこそ、上記検査を実施したと推認するのが合理的である。したがって、上記CT撮影の読影結果は、本件レントゲン画像上肺がんの疑いを否定するに足りる根拠とは言えないというべきである。

二  争点(2)(因果関係の有無)について

(1)  当裁判所は、B山医師の本件過失と原告の肺がんがⅣ期まで進行したこととの間には相当因果関係が認められるものと判断する。その理由は以下のとおりである。

(2)  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

ア TNM臨床分類

(ア) TNM分類とは、がんの進展度の分類である。T因子は原発腫瘍の進展度(Tumor)、N因子は所属リンパ節転移の有無や程度(lymph node)、M因子は遠隔転移の有無(metastasis)を表し、各々の組み合わせにより、以下のとおり病期(ステージ)が定められている。

(イ) T因子(原発腫瘍の進展度)

TX 原発腫瘍の存在が判定できない、あるいは画像上又は気管支鏡的には観察できないが、喀痰又は気管支洗浄液中に悪性細胞が存在する

T0 原発腫瘍を認めない

Tis 上皮内がん

T1 腫瘍の最大径が三センチメートル以下で、肺組織又は臓側胸膜に囲まれており、気管支鏡的にがん浸潤が葉気管支より中枢に及ばないもの

T2 腫瘍の大きさ又は進展度が、最大径が三センチメートルを超えるもの、主気管支に浸潤が及ぶが、腫瘍の中枢側が気管分岐部より二センチメートル以上離れているもの、臓側胸膜に浸潤があるもの、肺門に及ぶ無気肺又は閉塞性肺炎があるが一側肺全体に及ばないもののうち、いずれかであるもの

T3 大きさと無関係に隣接臓器、すなわち胸壁・横隔膜・縦隔胸膜・壁側心膜のいずれかに直接浸潤する腫瘍、腫瘍が気管分岐部から二センチメートル未満に及ぶが気管分岐部に浸潤のないもの若しくは無気肺又は閉塞性肺炎が一側肺全体に及ぶもの

T4 大きさと無関係に縦隔・心臓・大血管・気管・食道・椎体・気管分岐部に浸潤の及ぶ腫瘍、同一肺葉内に存在する腫瘍結節又は悪性胸水を伴う腫瘍

(ウ) N因子(所属リンパ節転移の有無や程度)

NX 所属リンパ節が判定できない

N0 所属リンパ節転移なし

N1 同側気管支周囲及び(又は)同側肺門リンパ節及び肺内リンパ節転移で、原発腫瘍の直接浸潤を含む。

N2 同側縦隔リンパ節転移及び(又は)気管分岐部リンパ節転移

N3 対側縦隔、対側肺門、同側又は対側斜角筋前若しくは鎖骨上窩リンパ節転移

(エ) M因子(遠隔転移の有無)

MX 遠隔転移が判定できない

M0 遠隔転移なし

M1 遠隔転移あり。ただし、同側又は対側の他肺葉に存在する腫瘍結節も含まれる。

(オ) 病期分類

潜伏がん TX N0 M0

0期 Tis N0 M0

ⅠA期 T1 N0 M0

ⅠB期 T2 N0 M0

ⅡA期 T1 N1 M0

ⅡB期 T2 N1 M0

T3 N0 M0

ⅢA期 T1 N2 M0

T2 N2 M0

T3 N1、2 M0

ⅢB期 Tは関係なし N3 M0

T4 Nは関係なし M0

Ⅳ期 Tは関係なし Nは関係なし M1

イ 病期診断の方法等

(ア) T因子の診断には、CT、MRI、超音波検査、気管支鏡検査等を単独又は組み合わせて行う。

(イ) N因子の診断には、CT、MRI、気管支鏡下針生検、FDG―PET、縦隔鏡検査、胸腔胸鏡等を単独又は組み合わせて行う。

(ウ) 肺がんで頻度が高い遠隔転移部位としては、肝、副腎、脳、骨が挙げられる、肝、副腎転移の検索にはCT又は超音波検査が、脳転移の検索にはCTかMRIが、骨転移の検索には全身骨シンチグラフィが用いられる。また、中高年で体幹、骨髄、四肢近位の安静時痛、夜間痛が持続的、漸増性に増悪する場合、骨転移を疑う。

ウ 非小細胞がんの治療法及び予後

(ア) Ⅰ期及びⅡ期

外科的切除単独が標準的治療法である。切除例の五年生存率は、臨床病期では、ⅠA期が六五ないし六六・九パーセント、ⅠB期が四一・八ないし四五パーセント、ⅡA期が三八・四パーセント、ⅡB期が三三・七パーセントであり、病理病期では、ⅠA期が七〇ないし七七・四パーセント、ⅠB期が五五ないし五七・一パーセント、ⅡA期が四八・六パーセント、ⅡB期が四三・五パーセントである。

また、平成六年における本邦の肺がん登録合同委員会の報告によれば、臨床病期では、ⅠA期が七二パーセント、ⅠB期が五〇パーセント、病理病期では、ⅠA期が七九パーセント、ⅠB期が六〇パーセントであった。

(イ) ⅢA期

基本的に切除が可能である。外科的切除単独の五年生存率は、臨床病期で二〇・一パーセント、病理病期で二〇・五パーセントとのデータがある。

(ウ) ⅢB期

基本的に切除が不能であり、化学療法及び放射線療法が治療の中心であるが、一部の症例では外科的切除の有用性も指摘されている。欧米で放射線療法が行われた場合の生存期間中央値は一〇か月、五年生存率は五ないし七パーセントであった。また、日本で外科切除を行った場合の五年生存率は五パーセント前後である。

(エ) Ⅳ期

いわゆる末期がんであり、基本的に外科的切除の対象とはならない。五年生存率は数パーセント程度である。

(3)  争いのない事実等及び前記一(2)、二(2)の事実によれば、本件レントゲン検査当時における原告の腫瘍径は、二センチメートル×一・五センチメートルであったことから、TNM分類におけるT因子はT1と認められる。また、腫瘍径が二センチメートル以下の末梢小型肺がんのリンパ節転移陽性率は概ね二〇パーセントとの報告があること、上記時点において、原告に所属リンパ節転移があったことを認めるに足りる的確な証拠はないことからすると、N因子はN0と認めるのが相当である。そして、原告は、上記時点では未だ右膝痛を訴えていないこと、手術可能な肺がんを持つ患者に骨転移が見られる頻度は全体で九・三パーセント程度とされていること、T1又は縦隔リンパ節転移がない症例における遠隔転移の頻度は一三ないし二五パーセントであり、T1及びN0の場合における遠隔転移の頻度はより低いと考えられること、他に遠隔転移があったことを認めるに足りる証拠はないことからすれば、M因子はM0と認めるのが相当である。

そうすると、上記当時における原告の肺がんの病期はⅠA期であったと認められる。

これに対し、被告は、平成一七年一〇月の時点で右脛骨の腫瘍の大きさが六センチメートルくらいに増悪していたのであるから、肺がんの骨転移巣の倍加時間からすると、平成一六年一一月の時点で遠隔転移を生じ、既にⅣ期に至っていたと考えるのが自然であると主張する。しかしながら、倍加時間の概念は、モノクローンの細胞(一種類の遺伝子を持つ細胞)の集合体で組織されるがん細胞では成り立つものの、肺がんのようにポリクローンの細胞(複数の種類の遺伝子を持つ細胞)の集合体で組織されるがん細胞には直ちに当てはまらないこと、また、がん細胞の成長速度は生着した生体組織から出される内分泌物等の成長促進因子の有無や免疫機能等の成長阻害因子の強弱等によって大きく異なることからすると、倍加時間の概念を用いて平成一七年一〇月の時点における右脛骨の腫瘍の大きさから本件レントゲン検査当時の骨転移の有無(がん細胞の大きさ)を推知することは困難というべきである。したがって、本件レントゲン検査当時には既に骨転移を生じていたとする被告の上記主張は採用することができない。

(4)  原告は、平成一七年七月下旬ころから右膝痛を訴えており、山形大学病院における検査の結果、肺がんの右脛骨転移が認められたことからすれば、上記のころには、肺がんの病期がⅣ期に至っていたと認められる。そして、原告の肺がんは非小細胞がんであったと考えられるところ、肺がんの病期がⅠA期の場合には、外科的手術によって根治可能であり、五年生存率は約七割程度とされているから、B山医師の本件過失がなかったならば、原告に対して速やかに肺がんの鑑別診断のための検査が実施された結果、ⅠA期の肺がんとの診断がなされ、これに対する外科的手術が実施されることによって肺がんは根治し、その結果、原告は、実際にⅣ期の肺がんであるとの診断を受けた平成一七年一二月一九日の時点において、なおⅣ期の肺がんに至っていなかった高度の蓋然性、すなわち相当因果関係が認められるというべきである。

三  争点(3)(損害の有無及び範囲)について

(1)  慰謝料 二八〇〇万円

ア 上記二のとおり、B山医師の本件過失がなかったならば、原告の肺がんの病期がⅣ期にまで至らなかった高度の蓋然性が認められるところ、前記のとおり、Ⅳ期の肺がんは、生存率が数パーセント程度に過ぎないこと、原告は、平成一七年一二月一九日、山形大学病院の医師から余命が六か月前後であるとの宣告を受けた結果、自らの余命がわずかであることを初めて認識し、その結果、自らが間もなく確実に死に至ることに対する多大な不安感、恐怖感を感じたことが容易に推定されるところ、このような不安感、恐怖感は死亡に比肩すべき精神的苦痛と評価するのが相当である。

上記事実に、B山医師の本件過失の態様、原告には妻及び二人の子がおり一家の支柱というべき立場であること及びその他本件口頭弁論に顕れた諸般の事情を総合考慮すれば、原告の上記精神的苦痛に対する慰謝料は二八〇〇万円と認めるが相当である。

イ 被告は、平成一六年一一月の時点における原告の肺がんの病期がⅠA期であった場合における五年生存率は七〇パーセント前後であるから、B山医師の本件過失によって不安や恐怖が若干高まった程度であると主張する。

上記被告の主張は、ⅠA期の肺がんであったことを認識したことによる精神的苦痛とⅣ期の肺がんであることを認識したことによる精神的苦痛が同質のものであることを前提に、その量的な差が損害であるとの趣旨であると解される。しかし、五年生存率が約七割であり手術により根治可能とされるⅠA期の肺がんに罹患したことを認識したことによる精神的苦痛と、五年生存率が数パーセント程度であり、外科的治療の適応のないⅣ期の肺がんであることを認識したことによる精神的苦痛とを質的に同じものと見ることはできない。そして、質の異なる精神的苦痛の量的な差を観念することは困難というべきである。したがって、被告の上記主張を採用することはできない。

(2)  逸失利益 一七九五万五七五四円

ア 基礎収入について

(ア) 原告は、釈放後にD原企画において雇用される確実な予定があり、その場合には毎月三〇万円及びパチンコ景品の売上の五パーセント相当額の収入を得られたはずであるから、上記得べかりし収入額をもって原告の逸失利益を算定する場合の基礎収入額とすべきであると主張し、原告本人及び証人E田花子も上記内容の収入約束があった旨陳述・供述する。

しかし、当裁判所は、原告の主張する上記金額をもって原告の逸失利益の基礎収入額とすることは相当ではないと判断する。その理由は、以下のとおりである。

a 《証拠省略》によれば、以下の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(a) 原告は、パチンコ店の経営等を営業内容とする有限会社A田文化センター(以下「A田文化センター」という。)の代表取締役であったが、同社の経営が悪化したため、平成一二年七月ころ、同社の代表者を引責辞任し、その地位を原告の妹であるE田花子に譲った。原告は、平成一三年の春ころに仙台に転居し、その後は、勤労意欲の欠如から定職に就こうとしなかったが、パチンコ店関係者の知り合いが多かったことから、パチンコ店に雑貨を卸す仕事を行っていた。その仕事を始めた当初の収入は一か月三〇万円程度あったものの、次第に収入が減少していき、当面の生活費にも窮するようになったことなどから強盗致傷事件を起こし、山形刑務所に収容された。

(b) 原告は、A田文化センターの代表者を退いた際、これが原因で同社の経営に関わる親戚との間で確執が生じ、釈放後も同社に再び戻ってパチンコ店の経営に携わることは困難な状況にあった。

(c) D原企画は、キムチの販売、パチンコ店の景品の卸販売及び買取、不動産経営等を業とする会社であり、もとの代表者はE田花子であった。しかし、E田花子がA田文化センターの代表取締役に就任するに伴い、同人はD原企画の代表者を退き、その地位を知人であるB野梅夫に譲った。

(d) A田文化センターは、資金繰りの悪化により、その所有していたパチンコ店の底地を競売に付された。D原企画は、A田文化センター所有の上記土地に対する競売が実行されるに先立ち、競売回避の目的で上記土地を金融機関からの借入金によってA田文化センターから買い取った。D原企画は、現在、金融機関に対する上記借入金債務の返済資金に充てるため、地代名目で年間九〇〇万円をA田文化センターから受け取っている。

(e) しかし、D原企画は、A田文化センターから受け取っている上記地代収入が全収入額の六割近くを占めており、他の実質的な営業収入は多くなく、金融機関からの上記借入金債務を抱え、上記地代収入を計上してもなお相当額の損失を計上している状態であり、経営状態は困難な状況にあると言える。

(f) 原告本人及び証人E田花子の陳述・供述する上記収入約束の内容は、D原企画が上記のように経営困難な状況にあるにもかかわらず、原告による中古パチンコ台の卸販売や原告の妻の作るキムチ販売による収入に期待して、月額三〇万円の固定給プラス歩合給を保障するというものであり、客観的にその実現可能性が裏付けられているわけではなく、上記収入の保障約束が書面化されているわけでもない。

b 上記aの事実によれば、原告が釈放後にD原企画において雇用され毎月三〇万円プラス歩合給の収入を保障されていたというのは、原告の近親が、その好意により、原告が釈放された後の原告ら家族の生活の一時的な援助を計画していたというにとどまるものと見るのが相当であって、原告の収入を長期的に保障するに足りるものと見ることは困難といわざるを得ない。したがって、原告の逸失利益を算定するにあたり、この収入約束に基づく金額をもって基礎収入額とすることは相当ではないというべきである。

(イ) 上記(ア)aの事実に加え、刑務所に収容される前の原告の収入額は月額三〇万円には達していなかったことが窺われること(原告本人の供述によれば、強盗致傷事件を起こす直前の月額収入は一〇万円程度であった。)、本件過失がなかった場合、本件診断のなされた平成一七年一二月一九日の時点(五三歳)では、未だ懲役刑の執行中であり、職に就いて収入を得ていた可能性はないと推認されること、後記のとおり、職に就けない状態は刑期の満了する平成一九年七月(五五歳)当時まで継続したことが推認されることを総合すると、原告が、釈放時以降就労可能年数に至るまでの間同年代の男子労働者の平均年収を下回らない収入を得られたとすることはもちろん、月額三〇万円を下回らない収入を得られたと推認することも合理的とは言い難い。

(ウ) しかし、原告は、山形刑務所に収容されていた期間中、上記強盗致傷事件を起こしたことを深く反省し、釈放後は妻と一緒に韓国料理店を営みたいとの考えを有していたことが認められる一方、原告の近親者も、上記(ア)aのとおり、原告の上記夢を実現すべく、さまざまな援助を準備していたことが窺われるから、これらの事情を総合考慮すると、原告が本件過失によってステージⅣの肺がん、右脛骨転移の重大な病気に罹患した結果、生涯上記夢を実現することができず、これにより相当額の得べかりし利益を失ったことが推認できるというべきところ、民事訴訟法二四八条の趣旨に従い、本件過失と相当因果関係の認められる得べかりし利益を算定するにあたり、原告は、平成一七年の賃金センサス第一巻第一表学歴計・産業計・企業規模計による五五歳から五九歳の男子労働者の平均年収六三八万一五〇〇円の五〇パーセント(三一九万〇七五〇円)を下回らない程度の収入を得られたものであり、原告が本件過失によってステージⅣの肺がん、右脛骨転移の重大な病気に罹患した結果、上記得べかりし利益を一〇〇パーセント喪失したと認めるのが相当である。

(エ) 被告は、原告は、仮に平成一六年一一月に手術等の適切な措置を受けていたとしても、肺がんによる死に対する相当の不安を感じていたはずであること、手術の影響による稼働効率の著しい低下も予想されること、がんの再発防止のための定期的な検査を余儀なくされたことから、一般の健康人と比較してその稼働能力は著しく低下していると主張する。しかしながら、ⅠA期の肺がんは手術によって根治可能なのであるから、適切な手術がなされれば、その後の労働に支障が生じるとは考え難い上、再発防止のための定期的な検査を受けることが必要であるとしても、長期間の入院を強いられるようなものではないと考えられるから、これによって労働能力が著しく低下するとまでは認め難い。したがって、被告の上記主張は採用できない。

イ 労働能力喪失期間について

(ア) 《証拠省略》によれば、原告は、平成一五年五月一七日に、懲役四年六か月(未決勾留日数一〇〇日算入)の宣告を受けたこと、刑期が三年を超える受刑者で平成一七年に仮出獄を認められた者のうち、刑の執行率が七割未満の者は全体の七・九パーセントに過ぎないこと、原告と同様に強盗致死傷の罪名により受刑して刑期五年以内の者一七一人の中で、刑の執行率が五九パーセント以下の者はわずか二人(約一・二パーセント)に過ぎないこと、原告は、刑の執行が停止された平成一七年一二月においても、仮釈放に先立って必要な地方更生保護委員会の委員による面接の予定すら決まっていなかったことが認められることからすれば、原告が刑期満了前に仮釈放により釈放されたと認めることは困難である。

したがって、労働能力喪失期間の始期は、刑期満了時である平成一九年七月(五五歳)を基準とするのが相当である。

(イ) 被告は、原告が仮に平成一六年一一月に手術等の適切な措置を受けていたとしても、五年生存率は七〇パーセント前後にとどまるから、通常の労働能力喪失期間の終期である六七歳まで稼働することができた高度の蓋然性はないと主張する。

しかしながら、前記のとおり、肺がんの病期がⅠAの場合の五年生存率が約七〇パーセントあるということは、五年を超えて生存する者が約七割存在するということであって、全ての者の生存期間が肺がんにり患していない者と比較して短いということを意味するものではない。そして、肺がんの病期がⅠA期の場合は外科的手術によって根治可能であることからすると、五年を超えて生存する場合には、基本的に肺がんにり患しない者と同様の余命を認めるのが相当というべきであるから、原告は、本件レントゲン検査後に速やかに手術を受けていれば、六七歳まで労働能力の全部又は一部を喪失しなかった蓋然性が高いというべきである。

(ウ) したがって、原告の労働能力喪失期間は、五五歳から六七歳までの一二年間と認めるのが相当である。

ウ そこで、上記基礎収入額三一九万〇七五〇円を基礎とし、前記のとおり、原告には妻及び二人の子がいることから、生活費控除率を三〇パーセントとし、ライプニッツ方式に従い年五パーセントの割合で本件診断時以降の中間利息を控除して(係数八・〇三九二)本件診断時の原告の逸失利益の現価を算定すると、一七九五万五七五四円(一円未満切り捨て)となる。

三一九万〇七五〇円×(一-〇・三)×八・〇三九二=一七九五万五七五四円

(3)  過失相殺ないし素因減額について

被告は、原告は、山形刑務所に収容されるまでの間、自らの意思で二〇年以上に渡り一日二〇本以上の喫煙を続けてきたのであり、原告の喫煙歴が肺がんの発生という結果を招来したのであるから、原告の喫煙歴について過失相殺ないしは素因減額の法理を適用して考慮すべきであると主張する。

しかしながら、原告が本件レントゲン検査を受けた当時既に肺がんにり患しており、その病期がⅠAであったことが原告の慰謝料及び逸失利益の金額に影響を与えるものではないことは前記のとおりであって、原告の喫煙歴とⅠA期の肺がんであったこととの間には一定の関係を考慮することは可能であるとしても、これがⅣ期まで進行したことは専らB山医師の本件過失に原因があるというべきであるから、原告の喫煙歴を過失相殺ないし素因減額の事情として考慮し、原告の損害額を減額することは相当ではないというべきである。

(4)  弁護士費用 二五〇万円

弁論の全趣旨によれば、原告は、被告が任意の支払に応じないために本件訴えを提起して、その訴訟遂行を原告訴訟代理人弁護士に委任したことが認められるところ、本件訴訟の事案の内容、訴訟経過、認容額等を総合考慮すれば、B山医師の本件過失と相当因果関係のある弁護士費用は、二五〇万円と認めるのが相当である。

(5)  合計

前記(1)、(2)及び(4)の合計額は、四八四五万五七五四円である。

(6)  なお、原告は、ステージⅣの肺がん、右脛骨転移との診断(本件診断)が確定された日から遅延損害金の支払を求めているものと解されるところ、本件診断がなされたのは、上記争いのない事実等のとおり、平成一七年一二月一九日であるから、同日をもって遅延損害金の起算日と認めるのが相当である。

四  以上によれば、原告の請求は、四八四五万五七五四円及びこれに対する平成一七年一二月一九日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 潮見直之 裁判官 近藤幸康 千葉直人)

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