仙台地方裁判所 平成20年(ワ)1035号 判決 2009年11月20日
主文
1 被告は,原告に対し,金5000万円及びこれに対する平成20年6月26日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 この判決は,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
主文同旨
第2事案の概要等
1 事案の概要
本件は,被告との間で生命保険契約を締結していた原告が,被保険者が死亡したことから,死亡保険金の支払事由が発生したとして,死亡保険金の支払を求めた事案である。
2 前提事実(当事者に争いのない事実)
(1) 原告は,損害保険代理業及び自動車損害賠償保障法に基づく保険代理業等を目的とする株式会社であり,被告は生命保険業等を目的とする生命保険会社である。
(2) 原告は,被告との間で,平成17年(契約日が同年7月1日であるか,同年8月1日であるかについては後記のとおり争いがある),下記の内容の生命保険契約(以下「本件生命保険契約」という。)を締結した。
記
ア 保険契約者 原告
イ 保険者 被告
ウ 被保険者 訴外A(以下「A」という。)
エ 責任開始日 平成17年7月1日
オ 保険金額 a 主契約終身保険 死亡保険金100万円
b 定期保険特約 死亡保険金4900万円
カ 保険料 aにつき,毎月3236円(払込期間25年)bにつき,毎月3万0576円(払込期間10年)
キ 保険期間 aにつき,終身
bにつき,10年
ク 保険金受取人 原告
(3) 本件生命保険契約には,責任開始日からその日を含めて一定の期間内に被保険者が自殺により死亡したときは,保険金を支払わない旨の免責事由の定め(以下「本件免責事由」という。)があった(期間が2年か3年かについては後記のとおり争いがある。)。
(4) 平成19年8月3日,乙警察署に対し,Aが自宅で死亡しているとの通報がなされたことから,同署警察官がAの自宅に臨場したところ,Aが死亡しているのが発見された。
(5) 原告は,Aが死亡したことから,本件生命保険契約の支払事由が発生したとして,被告に対し,上記(2)オのa及びbの死亡保険金合計5000万円の支払を求めたところ,被告は,Aが責任開始日から3年以内に自殺したという本件免責事由を主張して,死亡保険金の支払を拒絶したため,原告は本件訴訟を提起した。
第3争点
1 改正保険約款の適用の可否(自殺による免責の期間は2年か3年か)
2 本件免責事由の有無(Aは自殺したものと認められるか否か)
3 Aの自殺は自由な意思決定に基づいてなされたものではないと認められるか否か
第4争点に関する当事者の主張
1 争点1について
(1) 被告の主張
生命保険証券(甲1)に記載されているとおり,本件生命保険契約には口座振替扱特約が付加されているが,口座振替扱特約2条により,本件生命保険契約の契約日は「会社の責任開始の日の属する月の翌月1日」,すなわち平成17年8月1日である。生命保険証券上も契約日は平成17年8月1日と明記されている。そして,被告における保険約款は平成17年7月2日に改正されているが,本件生命保険契約にもこの改正後の約款が適用されるから,同約款に基づき,自殺免責期間は責任開始日からその日を含めて3年以内である。Aの死亡は平成19年8月2日であるから,自殺免責期間内の自殺によるものである。
なお,本件生命保険契約の生命保険証券(以下「本件保険証券」という。)を作成した日は平成17年7月1日であるが,これは契約日ではない。商法649条2項(同法683条1項で生命保険にも準用される)も,保険証券の必要的記載事項として「保険契約ノ契約日」(8号)と「其(保険証券の)作成ノ年月日」を分けて規定しており,保険証券の作成日がすなわち契約日となるものではないことを当然の前提としている。
(2) 原告の主張
本件生命保険契約における自殺免責は,責任開始日から2年以内の自殺に限られる。
すなわち,原告が被告に本件生命保険契約の申込をしたのは平成17年6月16日であり,被保険者の健康状態等についての告知を経て,原告は,同年7月1日に第1回保険料相当額を被告に支払い,被告は同日付けで本件生命保険契約の保険証券を作成している。この時点で,本件生命保険契約の成立に必要な申込と承諾は平成17年7月1日に完結しており,契約内容も確定しているから,同日をもって本件生命保険契約が成立した。本件契約の「契約日」が平成17年8月1日となっているのは,口座振替扱特約を適用したことによる契約日の特則として,その日を基準にして契約年齢と保険期間を計算することになったからに過ぎない。
被告は,平成17年7月2日に保険約款の改正を行い,自殺免責の期間を2年から3年に伸長しているが,上記のとおり本件生命保険契約の成立はそれ以前である平成17年7月1日であるから,改正後の保険約款は適用されず,改正前の保険約款が適用され,自殺免責の期間は責任開始日から2年間に限られることとなる。そして,Aが死亡したのは平成19年8月2日の昼ころであるから,Aの死因がたとえ自殺であったとしても,自殺免責の期間を経過しており,免責が認められることはない。
2 争点2について
(1) 被告の主張
以下に掲げる事実からすれば,Aは平成19年8月2日に自殺したものであり,これは本件生命保険契約に適用される約款1条1項に該当し,被告は原告に対する死亡保険金の支払義務を負わない。
ア Aが死亡しているのが発見された平成19年8月3日,現場に臨場した警察官は,現場及び遺体の状況,関係者の供述,死体検案医の意見等をふまえて,Aの死亡に事件性はないと判断し,司法検視は行わず,行政検視のみを行った。これは,乙警察署警察官は,Aの死体は犯罪に起因するものではないと判断したことを意味する。
イ Aの死体を検案したC医師(以下「C医師」という。)は,現場に入室した直後に室内を調べた警察官より,廊下から居間に通ずるドアにベルトが掛けられていたとの証言を得たこと,遺体頚部に帯状の圧痕(赤紫色)を認めたこと,口腔内が吐物で充満していたことといった諸状況からみて,Aについて,縊頚行為はあったと判断し,これにより両側頚動脈や頚静脈が圧迫されたため,嘔吐して,吐物を吐き出せず窒息死したものと考えた。
Aは,このように自ら縊頚行為を行ったことによって死亡したのであり,自殺したものにほかならない。
ウ Aは,平成19年6月8日,医療法人社団Dクリニック(以下「Dクリニック」という。)を受診したが,その際,落ち込みが激しく気分変動が大きいこと,死にたいと思うこと,一昨年から女性関係の問題で妻との関係が悪化し,平成18年8月から別居を開始したこと,会社の代表と業界の副代表をしているが自分のポジションがわからないこと,憂うつで悲しいこと,イライラし0時に寝て1時30分から1時間毎に目が覚め,5時過ぎには覚醒してしまうことを訴えた。Dクリニック医師はこの訴えをふまえて,Aを気分変調症及び抑うつ状態と判断し,抗うつ剤であるルボックスと,デゾラムを処方した。
Aは,その後の同月18日,同年7月2日,同月24日にもDクリニックを受診し,抗うつ剤及び睡眠薬の処方を受けている。このほかAは,同年7月2日,腓腹筋痙攣(こむら返り)でEクリニック(以下「Eクリニック」という。)を受診したが,その際現病歴として「憂うつ」を挙げている。
このように,Aは,希死念慮を含む精神的な問題を抱え,死亡日の直前まで病院に通院し,抗うつ剤及び睡眠薬を処方されていた。
エ Aは,死亡日である平成19年8月2日の時点で50歳であり,Dクリニック及びEクリニックの診療録を見ても,吐瀉物誤嚥につながるような既往症はない。このように,高齢者でもなく特段の病歴もない者の場合,何らかの拍子に嘔吐したとしても,吐瀉物を吐き出すのが通常であり,そのまま吐瀉物を気管に詰まらせて窒息死するということは考えられない。
(2) 原告の主張
以下のとおり,Aの死亡の原因は,商法及び保険約款にいう「自殺」に該当するものではない。
ア Aがマンションのドアに吊したベルトは,下端部分の床からの高さが1.5メートル前後しかなかったものであり,この高さではAがそのベルトで首を吊ったとしても足が床に届いてしまい,自殺を成し遂げることが簡単にできないから,Aが本心から自殺を図ったということはできない。
Aが平成19年8月3日に発見されたときは,枕に頭をきちんと乗せて仰向けの状態で発見されている。
イ Aの死体の検案を行ったC医師は,Aの死亡原因については窒息による不慮の外因死としているだけであって,自殺とは認めていない。
C医師は,乙第1号証において,ベルトが吊してあった位置から布団までの距離はせいぜい1.5ないし2メートル位で,首を吊ったが死にきれず,もうろうとしながらそこまで移動し,バタンと布団に倒れ,そのまま吐瀉物を吐き出す力もなく死亡した,ということは十分に考えられるとしているが,上記アのとおりのAが発見された際の状況からすれば,これは根拠のない憶測に過ぎない。
ウ Aは,以前から,原告代表者であるB(以下「B」という。)に,結婚を約束してくれれば妻とは別れるなどといって,Bに結婚を迫っていた。しかし,Bはこれを拒んでいたため,Aは「君と結婚できないなら,死んだほうがましだ。」などと口にしており,自殺をネタにしてBの気を引こうとしているところがあった。そして,Aは,Bの気を引くため,「昨日も睡眠薬を沢山飲んだが死なないで目が覚めた。」,「インシュリンを沢山打てば死ぬかもしれないと思ったが,死ねなかった。」などとさも人ごとのようにいって,何度か自殺まがいの行為を行ったことをBに話していた。
しかし,それを本当に行ったのかどうか,行ったとして本気で自殺しようと思って行ったのかどうかは不明であり,Aが希死念慮を有していたのかどうかについても不明である。
エ Aが死亡当日自分で首を吊ったのが事実だとしても,上記のとおりAがベルトを吊した高さは本気で自殺を図ったとは考えられず,現場に臨場した警察官も「本気で首を吊ったのかどうか不明です。」と述べている。
そして,当日Aが縊頚行為を行ったとしても,上記のとおりベルトの高さからしてAが自殺を完遂できなかった可能性が極めて高いこと,それまでAが自殺をネタにしてBの気を引こうとしたことが何度もあったことからすると,Aは,本心から自殺を図ったのではなく,Bの関心を引くため狂言自殺を図った可能性が大きい。
ゆえに,Aの縊頚行為と窒息死との間に何らかの因果関係が認められるとしても,Aの死は,狂言自殺に端を発する事故死なのか,自殺なのか不明なのであるから,自殺と認定することはできない。
オ 仮に,Aが自殺を図ったことが事実であったとしても,それがAが窒息死するどのくらい前のことなのか明らかではなく,またAは自殺が未遂に終わってから,自殺を断念して布団の中で就寝していたときに吐瀉物を詰まらせて窒息死したのであるから,Aの自殺行為と窒息死との間には相当因果関係が認められない。
3 争点3について
(1) 原告の主張
仮に,Aの縊頚行為が狂言自殺ではなく,いわゆる自殺と認められる場合であっても,その行為はAの「うつ」が原因でなされたものであるから,保険約款に規定する「自殺」には該当しない。
すなわち,商法及び保険約款に規定する「自殺」とは被保険者の自由な意思決定に基づき意識的に行われた自殺に限られ,被保険者に精神疾患による精神障害が生じている場合など,自由な意思決定をなし得ない状況の下になされた動作に起因する死亡はこれに当たらない(大審院大正5年2月12日大法廷判決・民録22輯234頁)。そして,Aは,Dクリニックにおいて,平成19年6月8日から抗うつ剤であるルボックス,デゾラム,アモキサンを処方されて「うつ」の治療を受けており,処方が死亡直前までなされていたことからして,Aの症状は軽度ということはできない。また,Aの「うつ」については,家庭不和や業界会務の負担という背景事情があったとしても,Aが自殺を実行したというには自殺の動機が甚だしく不明確であり,遺書の存在や覚悟の上での自殺であることを推認させる資料も存在しない。
したがって,仮にAの縊頚行為が自殺と認められる場合であっても,それはAの自由な意思決定に基づいてなされた動作ではなく,Aの気分変調症,抑うつ状態の下でなされた「うつ」を原因とする行為であって,精神障害に起因するから,商法及び保険約款に規定する「自殺」には該当しない。
(2) 被告の主張
原告は,商法及び保険約款に規定する「自殺」とは被保険者の自由な意思決定に基づき意識的に行われた自殺に限られ,被保険者に精神疾患による精神障害が生じている場合など,自由な意思決定をなし得ない状況の下になされた動作に起因する死亡はこれに当たらないとした上で,仮にAの縊頚行為が自殺と認められる場合であっても,それはAの自由な意思決定に基づいてなされた動作ではなく,Aの気分変調症,抑うつ状態の下でなされた「うつ」を原因とする行為であって,精神障害に起因するから,商法及び保険約款に規定する「自殺」には該当しないと主張する。
しかし,まず近時の裁判例では,原告の掲げる大審院判決にいう「精神病その他の原因により精神障碍中における動作」に該当するかどうかにつき,諸事情を総合的に勘案のうえ,被保険者がうつ病等の精神障害により自由な意思決定能力を喪失又は著しく減弱させた結果自殺企図行為に及んだといえる場合にのみ,これに該当するものとしている。
この点本件では,まずAはDクリニックに通院していたが,医師に対し自らの状態を整然と克明に説明しており,また医師の指示どおりにきちんと通院していたこと,Aは死の直前まで原告にきちんと出勤しており,Aが精神的に異常をきたしていた事実はないこと,Aには,強く思い焦がれたBに拒まれ思いを遂げられなかった,甲県●●●●会の副会長という地位に伴う重責に耐え切れなかったという自殺の動機があったこと等からすれば,Aがうつ病等の精神障害により自由な意思決定能力を喪失又は著しく減弱させた結果自殺企図行為に及んだとは到底いえず,Aの自殺は「精神病その他の原因により精神障碍中における動作」に起因するものではない。
第5当裁判所の判断
1 争点1について
(1) 本件保険証券(甲1)によれば,本件証券上「契約日」は平成17年8月1日と記載され,「その他付加されている特約・特則等」として「口座振替扱特約」が記載されていること,甲第6号証によれば,被保険者の自殺による免責の期間は責任開始の日からその日を含めて3年以内とされ(約款1条1項(1)i)),また口座振替扱特約を付加する場合,同特約の適用される保険契約の契約日は,会社の責任開始の日の属する月の翌月1日とする旨定められていること(同特約2条)が認められる。以上からすると,本件生命保険契約においては,原告は契約本体に併せて口座振替扱特約を申し込み,被告もこれを承諾したこと,同特約2条により契約日は平成17年8月1日との合意がされ,その結果本件生命保険契約には上記改正後の保険約款(以下「本件約款」という。)が適用され,自殺免責の期間は上記のとおり責任開始の日からその日を含めて3年以内と合意されたものと認められる。
(2) この点原告は,申込みと承諾の意思表示は平成17年7月1日に合致しているからこの時点で契約は成立している旨主張するが,上記認定の事実からすれば,被告は契約本体に併せて原告から口座振替扱特約の申込みがあり,同特約を承諾する結果,自殺免責の期間の起算点となる「契約日」については同年8月1日とする(その結果,改正後の保険約款である本件約款が適用される)との内容で承諾したものと考えられるから,意思表示の合致そのものは同年7月1日であるとしても,上記の意味での「契約日」は同年8月1日として契約が成立したものとみるのが相当である。
また,原告は保険約款の改正等については何ら知らされていないことを主張するが,「●●●●保険料口座振替のしおり」(乙第8号証)はその体裁からして口座振替扱特約を申し込むに際して被告から交付される文書と思料され,原告に対しても交付されていることがうかがわれるところ,これにはその冒頭に「詳しくは『ご契約のしおり』の口座振替扱特約を参照ください。」と記載されており,同時に交付される口座振替扱特約の条項を前提としていると認められること,本件生命保険契約においてこの「ご契約のしおり」に相当するのは甲第6号証であると認められるが,その内容は上記のとおりであることからすれば,原告も口座振替扱の特約がなされる結果,「契約日」が同年8月1日となることについては知りうるものと考えられること,保険会社が保険約款を変更するには内閣総理大臣の認可を要するものとされている(保険業法123条1項,4条2項3号)ことからしても,被告は原告からの申込みを受けた時点で保険約款が変更される予定であることを認識していたと考えられるし,ゆえに原告をはじめとする顧客に対してその旨を知らしめる手段を講じていたものと推認されること,本件証拠上,原告は改正前の保険約款が適用されることを前提として申込みの意思表示を行ったと思料される事情も見当たらなければ,契約後に改正後の保険約款が適用されることについて異論を述べた形跡も見当たらないこと(原告は,もし意に沿わないのであれば保険業法309条に規定するクーリングオフが可能であった可能性があるが,これを試みた形跡も見られない)等の事情に鑑みれば,原告の上記指摘は上記認定を左右するものではない。
(3) 以上より,本件生命保険契約における自殺免責の期間は,責任開始の日からその日を含めて3年以内と認められるから,Aの死亡した平成19年8月2日は当該期間内であると認められる。
そこで,次にAの死亡は自殺によるものか否か,免責事由の該当性(争点2)が問題となるため,次において検討する。
2 争点2について
(1) まず,上記争いのない事実に加え,証拠(事実ごとに後掲)及び弁論の全趣旨を総合すれば,以下の事実が認められる。
ア Aの遺体及び現場の状況等
平成19年8月3日,Bは,前日よりAと連絡が取れなかったため,原告従業員のFとともに,A宅に赴き,同日午前10時45分頃,A宅のマンション管理人と3人でA宅の鍵を開けて中に入ったところ,Aは,玄関から入って左側の和室において,布団の上で仰向けに倒れていた。このときAの遺体は,枕に頭を乗せて仰向けに寝た姿勢であり,右足はまっすぐ伸ばし,左足の膝はくの字に曲げ,両腕は体の横に自然に伸ばした姿勢となっており,左耳の横に吐瀉物がたれていた。Aはワイシャツとスラックスを身につけていたが,ワイシャツのボタンは上から1番目と2番目のボタンがはずれていたが,苦しんでもがいたような形跡は見られなかった。同管理人が手配して救急隊員が現場に臨場したが,Aが死亡しているのが確認されたため,同管理人は警察に連絡した。(甲7)
連絡を受け,乙警察署警察官が臨場したところ,Aの遺体には頚部に内出血が見られ,かなりの量の吐瀉物を口や鼻に詰まらせ,口から漏れて流れていた状態であったが,頚部骨折やいわゆる「吉川線」(首を絞められた際に被害者自らが首に付けるひっかき傷),争った場合にできる内出血といったものはみられず,部屋の中にも争った形跡はなく,現場に遺書はなく,現金も数十万円残されていた。これらのことから,同警察官はAの死を犯罪に起因するものではないと判断し,行政検視を行うこととした。(乙1)
なお,居間と食堂の間のドアの上から,バックルに通して輪の状態になったベルト(これは2本のベルトをつないでいたものであった)がぶら下げられており,輪は人が頭を入れることのできる大きさで,輪に頭を入れてドアを閉めるとバックルが引っかかって輪が固定されるような状態であったが,ベルトの掛けられたドアの高さは約2メートル,ベルトの下部は床から約1.5メートルほどであり,ベルトの下には踏み台になるような物は置かれていなかった。(甲7,乙1)
同日午後1時30分頃,警察官の依頼を受け臨場したC医師がAの行政検視を行った。Aの直腸温は34.5℃,死後硬直が強かったこと,背部の死斑が指圧により消失したこと,皮膚の感触等を総合し,死亡時刻を平成19年8月2日昼ころと推定した。遺体の頚部及び耳の後には内出血が見られたが,とても薄いもので,他人に首を絞められた場合のような強い圧痕ではなかった。また,アルコール中毒や酩酊状態で吐瀉物により死亡した場合などに見られる,ビール缶や酒のびんが散乱しているというような状況も見られず,多量に薬を内服したような薬の空きパッケージも見られなかった。(甲4,乙1,C医師の書面尋問回答書(以下「回答書」という。)15)
イ 死体検案医であるC医師の医学的知見等
C医師は,平成9年より甲県警警察医を委嘱され,平成21年5月までに,検案数約220件,縊頚自殺については約50件を経験している医師である。(回答書12)
C医師は,現場に臨場していた警察官から上記ア記載の事情を聞き,また遺体の頚部にわずかな帯状の圧痕を認めたことから,縊頚行為はあったものと判断し,Aの死亡証明書に「布団に横になる前にベルトを首に巻きドアにひっかけ縊頚自殺を図った形跡も残されていた。」と記載したが,明らかな縊頚死状態などで死亡していなかったことから,診断上は自殺とはせず,縊頚死ではないと判断し,死亡証明書の「直接死因」も「吐瀉物による窒息死」と記載している。(回答書7ないし10)
Aの死亡の機序については,容易には説明できないものの,縊頚行為はあったものと判断されることから,これにより両側頚動脈や頚静脈が圧迫されたため,嘔吐し,吐物を吐き出せず窒息死したものと考えられる。両側頚静脈を強く,一定時間圧迫すると脳内圧力が高まると考えられ,嘔気・嘔吐を起こす可能性は推測される,それからすぐに確実に死に至ることではないが,諸条件が合えば死に至る可能性はある。他の機序は不明だが,多くの薬は多量に内服した場合は場合によっては悪心,嘔吐があるとされており,また抗うつ剤などは多量に内服した場合意識がもうろうとなることもあるとされていることから,可能性は低いが,薬物を大量に内服した場合はありうるかもしれない旨述べている。(乙1,回答書15ないし16)
ウ 死亡前のAの精神疾患の状況等
Aは,平成19年6月8日,Dクリニックを受診し,治療を受けた。その際,Aは,落ち込みが激しく気分変動が大きいこと,死にたいと思うこと,一昨年から女性関係の問題で妻との関係が悪化し,平成18年8月から別居を開始したこと,会社の代表と業界の副代表をしているが自分のポジションがわからないこと,糖尿病でインシュリン及びベイスンの処方を受けていること,憂うつで悲しいこと,イライラし0時に寝て1時30分から1時間毎に目が覚め,5時過ぎには覚醒してしまうことを訴えた。Dクリニック医師はこの訴えをふまえて,Aを気分変調症及び抑うつ状態と判断し,抗うつ剤であるルボックスと,デゾラムを処方した。
Aは,その後の同月18日にもDクリニックを受診し,夜は午前0時から5時まで寝るが1回起きてしまうこと,昼間だるく,本調子になるのに1時間かかることを訴え,Dクリニック医師から,ルボックスと睡眠薬であるハルシオンの処方を受けた。
また,Aは,同年7月2日にもDクリニックを受診し,大分落ち着いているが起伏が大きいこと,寝付けずハルシオンを服用しても寝るまでに1時間半かかり,朝に眠気が残ること,良い時と悪い時の差が大きいことを訴え,抗うつ剤であるアモキサンと,睡眠薬としてハルシオンに加えアモバンの処方を受けた。
さらに,Aは同月24日にもDクリニックを受診し,大分良く,ネガティブな考えは少なくなったこと,ハルシオンで眠れること,気分の変動はまだあることを述べ,アモキサン,ハルシオン及びアモバンの処方を受けた。
このほかAは,同年7月2日,腓腹筋痙攣(こむら返り)でEクリニックを受診したが,その際現病歴として「憂うつ」を挙げた。(以上につき乙4,乙6,当事者間に争いなし)
エ AとBの関係等
Aは,●●●●として働く傍ら,会社を経営するなどしていたところ,Bの前夫が経営する会社がAに書類作成を依頼していたことから,Bと知り合った。Bは,Aに保険代理店を共同で経営することを誘われたことから,平成16年7月に原告を設立し,Aは原告の取締役となった。
Aは,平成10年ころから妻との関係が悪化しているなどとBに話すようになり,平成18年8月には新たにマンションを購入して妻及び子らと別居し,単身暮らすようになった。
Aは,平成19年4月に●●●●の仲間と共同して●●●●法人を設立してその代表者になり,同年5月からは甲県の●●●●会の副会長にもなったが,このころから,副会長の責務の負担が影響したのか,それ以前から見られた感情の起伏が激しくなり,ささいなことで周囲を怒鳴るなどするようになった。
Aは,以前から,原告代表者であるBに,結婚を約束してくれれば妻とは別れるなどといって,Bに原告での業務以外の交際を迫っていた。しかし,Bはこれを拒んでいたため,Aは「君と結婚できないなら,死んだほうがましだ。」などと口にし,自殺を口にしながらBの気を引こうとするようになった。平成19年6月ころには、Aは,「インシュリンを沢山打てば死ぬかもしれないと思ったが,死ねなかった。」などとBに告げるなどし,同年7月17日の朝には,Bの他原告従業員のいる前で「病院で処方された睡眠薬を7月14日に全部飲んで死のうと思ったら,丸二日も眠ってから目が覚めたのでもっと飲まないとだめだ。」などと述べた。また,「インシュリンを打って,睡眠薬を飲んだが死ななかった。」などと述べたこともあった。しかし,Aは,Bに上記のような発言をするに続けて,結婚してくれ,仕事の後も付き合ってくれ等の発言をしていたことから,Bには自殺を口実にBの同情を買おうとしているとしか思えなかった。
平成19年8月1日,Aは,「マンションで上手く首を吊るところが見つかったので,どうするのか見に来ないか」とBを誘ったが,Bはいつものことであろうと考え無視していた。(以上につき甲7)
(2) 以上の事実を前提に,Aの死因,動機の有無等につき検討する。
ア まず,Aが死亡したとみられる現場の状況及び遺体の状況からするに,遺体の頚部にわずかな帯状の圧痕が認められ,耳にも内出血がみられたこと,居間と食堂の間のドアの上から,バックルに通して輪の状態になったベルト(以下「本件ベルト」という。)が掛けられていたこと,上記圧痕の状況や現場の状況からして他者に首を絞められたとは考え難いこと,アルコール中毒や酩酊状態で吐瀉物により死亡した場合などに見られる,ビール缶や酒のびんが散乱しているというような状況も見られず,多量に薬を内服したような薬の空きパッケージも見られなかったこと等の事実からすれば,A自身による,本件ベルトに首を入れて絞めるという縊頚行為自体はあったものと認められる。
そして,これにより両側頚動脈や頚静脈が圧迫されたため,嘔吐し,吐物を吐き出せず窒息死したものと考えられるとの上記医学的知見に加え,薬物を大量に内服したことにより嘔吐した可能性も考えられないではないが,その可能性は低いとの上記医学的知見に加え,遺体の周囲に大量の薬を服用した形跡も見られないこと,他の機序により嘔吐して窒息する可能性もうかがわれないこと等を併せ考慮すれば,Aは,本件ベルトに首を入れるという縊頚行為に及び,それにより両側頚動脈や頚静脈が圧迫されたため,嘔吐し,吐物を吐き出せず窒息死したものと認めるのが相当である。
加えて,縊頚行為がどの程度の強さであったのかについては,上記のとおり頚部に圧痕が見られ,これにより両側頚動脈や頚静脈が圧迫されて嘔吐したものと認められる以上,かかる事態を引き起こす程度の強さではあったとまでは認められる。また,両側頚静脈を強く,一定時間圧迫すると脳内圧力が高まり,嘔気・嘔吐を起こすことで死に至る可能性はあるとの上記医学的知見をも併せれば,縊頚行為はある程度の強さであり,またある程度の時間継続したものであったことがうかがわれる。
他方において,Aが本件ベルトから約1.5メートル離れた和室の布団の上で,枕に頭を乗せて仰向けに倒れていたものであり,苦しんでもがいたような形跡も認められないこと,本件ベルトはこれが掛けられていたドアの高さで約2メートル,ベルト下部は床から約1.5メートルほどの高さに過ぎず,ベルトの下には踏み台になるような物は置かれていなかったことからして,足が宙に浮くような首を吊った状態にはなりえず,縊頚行為が中断されたとすればこれは自らなしたものと考えられること等からすれば,Aは縊頚行為に及んだものの,縊頚行為による苦痛等から自らこれを中断し,和室に移動して布団に横になったものと認められるのであって,縊頚行為により直ちに死亡したものでないことはもちろん,直ちに意識がもうろうとしたであるとか,嘔吐を催したとも認められない。また,現場に遺書はなく,現金等もそのまま残されていたこと等に照らしても,計画的に自殺を試みたとも考え難い。
そうすると,Aは,何らかの理由で突発的に上記縊頚行為に及んだものの,苦痛等から自らこれを中断し,その後上記和室に移動して布団に横になっていたところに,嘔吐して汚物を吐き出せずに窒息死したものと認められる。そして,意識のある状態で嘔吐を催せば,反射的にしろ抵抗するなり苦しむなりするのが通常であろうと考えられるところ,上記のとおりAに苦しんだ様子が全くみられないことからすれば,Aは何らかの理由で無意識状態(睡眠中であったというのが一般的であろうが,Aが睡眠薬の処方を受けて所持していたと考えられることからすれば,薬効の影響下にあった可能性もあるが,いずれにせよ明確には認定できない)にある最中に嘔吐したものであることがうかがわれ,これを妨げる事情は見当たらない。
イ 次に,Aの死に至る経緯ないし自殺に至る動機等の有無についてみるに,Aがうつ状態を訴えて気分変調症及び抑うつ状態と診断され,抗うつ剤及び睡眠薬の処方を受けていたこと,その際に希死念慮を有していたと認められることは上記認定のとおりであり,一般的にうつ病は自殺の重要な危険因子であるとされていることからしても,Aがかかる精神症状の影響で自殺を試みることというのはありうると考えられる。
他方,Aは,Bに対し,自身の自殺をほのめかしてBの同情を誘うかのごとき言動を繰り返していたことも上記認定のとおりであるが,かかる言動自体はBの同情を誘うが為のいわばポーズでしかない可能性もあり,実際にAが自殺企図行為に及んだことをうかがわせる証拠もないことからすれば,上記言動の大半はAの自殺の動機となりうることを示すにとどまり,自殺の動機であるとまでは認められない。Aの医療記録(乙4)をみても,Aがその発言どおり睡眠薬を大量に服用したと認めるには至らないところである。
加えて,Aの死亡は本件生命保険契約の締結からおよそ2年が経過した後のことであるから,死亡保険金目的で自殺したとも考え難いところである。
ただし,Aは,推定死亡日の前日である平成19年8月1日に,Bに対し,「マンションで上手く首を吊るところが見つかったので,どうするのか見に来ないか」と述べている。これは,上記のとおりAが実際に自宅マンションで縊頚行為に及んだと認められることと符合していることからして,このときのやり取りが契機となって縊頚行為に及んだ可能性を示しているといえるし,それまではBの同情を買うためのポーズないし口実でしかなかったのが,これについては実際に行為に及んでいると考えられることからすると,上記同日の言動はそれまでのものとは質的に異なるものであったと考えられる。
ウ 以上を総合すると,Aは,上記平成19年8月1日の出来事を契機とし,自ら縊頚行為に及び,ある程度の強さないし時間でこれを行ったものの,自らこれを中断し,和室に移動して布団に横になったが,その後縊頚行為により両側頚動脈や頚静脈が圧迫されたことから嘔吐し,無意識下のため汚物を吐き出せずに窒息死したものと認められる。
(3) そのうえで,Aの死亡が,商法680条1項1号及び本件約款にいう「自殺」に該当するか否かについて検討する。
ア 商法680条1項1号は,被保険者の自殺による死亡を保険者の保険金支払義務の免責事由の一つとして規定しているが,その趣旨は,被保険者が自殺をすることにより故意に保険事故(被保険者の死亡)を発生させることは,射倖契約である生命保険契約上要請される信義誠実の原則に反するものであり,また,そのような場合に保険金が支払われるとすれば,生命保険契約が不当な目的に利用される可能性が生ずるから,これを防止する必要があること等によるものと解される(最高裁判所平成16年3月25日第一小法廷判決・民集58巻3号753頁参照)。かかる趣旨は本件約款においても同様と考えられる。
かかる趣旨からすれば,商法680条1項1号及び本件約款にいう「自殺」とは,被保険者が自分の生命を絶つことを意識し,これを目的として死亡の結果を招く行為,すなわち,被保険者の自由な意思決定に基づき意識的に行われた自殺をいうと解される。
イ これを本件についてみると,Aは自ら縊頚行為に及んだものであるから,この点は自由な意思決定に基づきなされたものであるとはいいうる。
しかし,上記認定のとおり,Aはその後,自らの意思でこれを中断し,布団に横になったが,縊頚行為の影響で嘔吐し窒息したものと認められる。そうすると,Aは自らの生命を絶つ行為を中止したことで,生命を絶つという自由な意思決定を消失させたものと評価すべきであるから,縊頚行為により作出された死亡という結果への因果の経過はこの時点でいったん中断したものというべきである。
そして,上記認定のとおり,その後嘔吐により窒息したのはAの無意識下においてのことであると認められるから,そこにAの死亡という結果に対する自由な意思決定というものを見いだすことはできない。
よって,Aの死亡は,商法680条1項1号及び本件約款にいう「自殺」には該当しないものと認めるのが相当である。
したがって,被告は本件生命保険契約に基づく死亡保険金の支払義務を免責されないものというべきである。
3 結論
よって,その余の点について判断するまでもなく,原告の請求は理由があるからこれを認容することとし,訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条,仮執行の宣言につき同法259条1項を各適用して,主文のとおり判決する。
(裁判官 安福達也)