仙台地方裁判所 昭和31年(わ)70号 判決 1958年3月20日
被告人 池田源之助 外一名
主文
被告人池田源之助を死刑に処する。
被告人水戸良助を懲役十月に処する。
被告人水戸良助に対しこの裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。
被告人水戸良助に対し、未決勾留日数中右刑期に満つるまでこれを右刑に算入する。
本件公訴事実中被告人水戸良助が同池田源之助と共謀のうえ同被告人についての判示第一の強盗殺人罪を犯したとの点について被告人水戸良助は無罪。
理由
本件公訴事実の要旨は
被告人池田源之助は昭和三十年七月二十一日ころ、仙台市北目町二番地岩手自動車販売株式会社仙台支店よりアキツ号自動三輪車一台を金六十一万六千円で購入し、青森県上北郡大三沢町において運搬業を営んでいたもの、被告人水戸良助は右池田の従弟でこれと同居し、右運搬業の手伝をしていたものであるが、
一 被告人池田において右自動車購入残代金四十万円の支払に窮し、右会社の外交員鈴木秀男を大三沢町に呼び寄せ、殺害して同人が恰も右残代金を受領したまま拐帯逃走したものの如く擬装しその支払いを免れようと企て、同年十月二十四、五日ごろ、右鈴木秀男に対し手紙や電話を以て残代金の支払いをするから領収証および予て同支店宛被告人池田振出に係る約束手形を持参して代金受領に来て貰い度い旨申送り、同人が同年十一月二日右代金受領のため大三沢町に出張してくるや、同月四日に支払いをなす旨申欺いて滞在させその間同支店名義の金額四十一万円なる領収証一枚を作成させ且つ前記約束手形十二枚の手形金額受取欄に夫々受領の日時を記入させた後、同月四日大三沢町新町二丁目三十一番地の当時の被告人方において、午前十時過ころより午後十時ころまでの間数回にわたり睡眠薬を服用させて昏睡状態に陥れ、その後は被告人両名共謀のうえ、同日午後十二時ころ鈴木秀男を自動三輪車に乗せ大三沢町大字三沢字浜通地内の県道西側の原野に運び、同所において右鈴木の頸部を扼し、更にロープにて頸部を絞めて窒息死にいたらしめ、鈴木秀男の鞄より前記の領収証一枚および約束手形十二枚を奪取し、以て被告人池田において右残代金の支払いを免れて財産上不法の利益を得、
二 被告人両名は共謀のうえ、同年十一月九日ころ前記鈴木秀男の死体を前記被告人方西方約八十米の林檎畑に埋没して遺棄したものである
というにある。
被告人池田は当公判廷において、強盗殺人の点について、「鈴木秀男を殺害するつもりで大三沢町に呼んだのではない、水戸良助と共謀のうえ実行したのではない、水戸は全然関係ない、吉田儀一こと都万水との共同犯行である。犯行場所は公訴事実記載の場所ではなく根井に通ずる道路上である、殺す際公訴事実にいう如く頸部を扼したことはない」旨、死体遺棄の点について、「水戸良助と共謀のうえ実行したのではなく、単に手伝わせただけである」旨夫々争う外、大要公訴事実記載のとおりこれを認め、被告人水戸良助は、強盗殺人の点について「全然関係ない」旨、死体遺棄の点について「埋めることを手伝つたが死体であることは知らなかつた」旨全面的にこれを争う。
そこで順次各証拠の証明力を検討しつつ、右公訴事実の存否について判断する。
(註)(略)
第一章 強盗殺人の点について
第一節 被告人両名において争のない事実および争の少い事実の認定(略)
第二節 被告人池田、同水戸、横山よね子の各捜査官に対する供述(略)
第三節 本件犯行は被告人両名の共犯か否かについて(被告人水戸良助の無罪の理由)
本件公訴事実について被告人池田は前記の如く当公判廷において終始、自らの犯行であること自体は争わないが、被告人水戸は無関係である旨争い、昭和三十年十一月四日午後十時ころ被告人両名で三輪車に鈴木を乗せて池田方を出発し、午後十一時ころ青木電気屋前まで行つた(第一節5ないし9参照)がそこで水戸を帰宅させ以後同行しなかつた旨供述し、被告人水戸もこれと照応する供述をしてこれを争う。そして形式的には検察官の主張に副うような証拠も存するので、その真実性を検討しながらこの点に関する証拠を検討する。
一 被告人池田源之助の司法警察員に対する供述調書(略)
右供述調書によれば被告人池田は、本件犯行は吉田、水戸の三名の共同犯行である旨供述している。しかし池田の供述は、第二節に摘録したところのみをみてもわかるように、その都度変転極まりなく、何れが真実であるのか判断に苦しむ。右調書も、それまでに述べられている吉田との共犯説の中に唐突として水戸が登場し、その日のうちに検察官に対して自己の単独犯行を自供する(<19>イCd)等甚だ奇異の感を与えるのみでなく、水戸の果している役割としてそこに述べられていることも「車の助手台に乗つて行き」、犯行現場では「車の側に立つていて」「シートでくるむ時それに手をかけた」というに止まり、従来の供述に故らに水戸の行動を付加して述べているような感を与える。更に、水戸が犯行現場まで同行したと言い乍ら、犯行現場から帰る際途中で先ず吉田と別れた後一旦自宅の直ぐ近くである「水交社附近まで来て水戸を車から下し、自分は再び車で吉田方まで引返したうえ更に帰宅した」旨述べ、次いで、その帰宅時の状況として従来の帰宅時の状況(車が溝に入つたので水戸を起して手伝わせた状況)と同旨の供述をしているが、何故水戸だけを自宅近くまで車に乗せて来て又引返したのか、その間の事情は誠に不自然な感じを与えるだけでなく、従来述べてきた帰宅時の状況と一致させるため、虚構の事実を挿入したのではないかとの疑を懐かせられる。それ故この調書の記載だけが被告人池田の供述の中で特に真実性あるものとして信用する訳にはいかない。
二 被告人水戸の捜査官に対する各自白調書について
被告人水戸(以下この項において単に被告人とある場合は同被告人を指す)は昭和三十一年二月十五日司法警察員に対して自白(<7>ロ)して以来、司法警察員並びに検察官に対しては、本件犯行が自分と池田との共同犯行であること、犯行場所は四川目であることの二点について一貫して変らない供述をしている。しかしその殺害の方法については、第二節に摘録したところをみてもわかるように、先ず「鈴木の頸にロープをかけて池田と二人で引きずり廻した」(<7>ロ)とか、「手で頸を絞めようとした後右のようにした」(<9>ロa)とか、或は「そのようにした後三輪車で引きずり廻した」(<11>ロc、<15>ロ)とか、幾度かその供述は変遷している。(その詳細は第二節参照)
1 被告人の弁解する自白の理由
被告人が当初否認しておつたことは前記第二節に掲記したとおりであるが、その後何故にかかる自白をしたのか殺害方法についての供述が回を追う毎に変遷していること自体が供述の真実性について甚だ疑をさしはさむ余地を残すのであるが、同被告人は第四回の公判廷において右自供のいきさつについて検察官の問に対し次のように供述している。(摘録部分は公判調書引用の速記録原文のまま)
問 被告人は前にですね、池田と二人で大三沢町の郊外の方ですね、野原まで鈴木を持つて行つて殺したということを話しましたね。
答 はい
問 どうしてそう話したの
答 警察でさ、おれは間違なく帰つてると言つたら、嘘だこの野郎、きさまも行つていると。言わなかつたらおつかねいとこに入れるぞ、裁判所さ。おつかねんだぞ、といわれ、おらおつかねえから嘘を言つたわけしや。
(中略)
問 どういう嘘を言つたの
答 いやあんまり嘘言つたからさ、夜も寝ないで考えてさ明日(あした)こう云つたらと夜も寝ねいで考えて嘘言つたわけしや。
問 言つたことはどういうことを言つたの。
答 三日の日に演習場に行つたわけつしや、源ちやんと、行つたわけつしや、この辺ならいいべなと言つて帰つて来たわけつしや。
(中略)
問 それから、
答 そしてここんとこ、三日の日に帰つて来たから、何処で殺したというから演習場だと嘘言つたわけつしや。
(中略)
問 どういう風にしてやつたと言つたの、
答 首絞めたのかと言うから、うんと言つたのしや。ロープでと言つたらこんどロープがわかんねえわけさ。それでいるうち、こんど検察庁さも、帰つたと、一番最初言つたわけしや。そして警察さ帰つて来たつけ、この野郎、検察庁から嘘言つたつて電話をよこしたぞ、警察に言つたとおりに言わないとだめだと警察がこういうわけしや。だからその通りに言つたつけ、そしたら検察庁で首の繩ないのかと、こう聞かれたわけつしや。こんどわかんねえわけさ。してそんならあした考えてこい。こう言われてその晩帰つて来たわけつしや。そしてその晩、こつちで、警察で調べられたわけさ。それで二人でこうやつたのかと、教えられてから……。
問 検察庁に初めて行つた時どういうふうに話したというんです。
答 だからさ、おれは最初にもよくいわないとだめだからと、言われたように言つたわけだけども、やんねもの小馬鹿くせえんだ。だから源ちやん帰つたと言つたわけさ。したつけ、だめだぞ嘘こいて。検察庁でね。その晩来たわけしや。
(中略)
問 一回目に検察庁に来る前に、被告人は野原まで行つて殺したということを警察には話したの。
答 いや言うようにいわれて話したす。
問 その日にどういうふうにしてやつたと言つたの。
答 だから首しめたのかというから「んだ」(そうだ)と言つたのしや
問 それから、
答 後なじよに(どんなに)した。言いようねいわけだ。そんだから、めくらめつぽうに、引きずり廻したと、こう嘘を言つたわけつしや。
問 どういう風にして引きずり廻したと言つたの。
答 だから、首さ繩かけて三輪車で引摺り廻したと云つたわけしや。
問 それは口から出まかせを云つたというの。
答 はい。現在は何処でやつたか、俺はわかんねえわけなのしや。
(中略)
問 家庭裁判所では何と述べましたか。
答 いやおらはやつてねえといいました。
問 初めから、
答 一回目には、言わねえと、うまくねえと思つてたからさ、だからまあ家庭裁判所でも一回目には言つたわけつしや。二回目の時に考えてみると小馬鹿くせえから二回目には行かねえとおら言つたわけなのしや。
問 その後更に検察庁で調べられましたね。
答 はい。
問 何といつたの。
答 だから、警察で調べられた時、おれさ写真出して、おれ検察庁に行かね前に、おれさ、写真出して、大体、鈴木さんに対して悪く思わないのかとぎりぎりすすめるわけつしや。だからぶんなぐられるかと思つておつかねんだから、おれはだから嘘を云つたわけしや。
(中略)
問 家庭裁判所に行つてから後です。警察に行つてないでしよう。
答 はい。
問 それで家庭裁判所の調べが終つてから検察庁に来ましたね。その時には何と述べたの。
答 その時には、おれは間違なく帰つたと言つたわけなのしや。
問 間違なしに途中から帰つたのだということを話した、と。
答 したつけ、こんど俺を調べた人ごせやいて(腹を立てて)嘘ばかりこいて、と。だからまたおつかなくなつたから、また嘘を言つたわけつしや。
(中略)
問 もう一度聞きますが検察庁に来た時、ごせやかれたというのはどういうごせやかれたの。
答 だから、おれが帰つたと言つたすぺ。おれ間違なく帰つて来たと言つたさ。そしたら、嘘だ、帰つた帰つたなんて嘘だ、こういうのつしや。だから、警察にも、こう言つてるんじやないかというのしや。だからおつかねえから警察でもおつかなくて、こつちでもごせやかれて、おつかねえから、嘘を言つたわけしや。
(後略)
また第六回公判廷においては前記大三沢病院で鈴木の死体を見せられた状況を供述した後検察官の問に対し(公判調書引用の速記録原文のまま)
問 (前略)首にかけた繩はどうしたと話しておつたの。
答 うんだから警察であの時信用しねえわけしや。おらも死体見たすぺ、うんだから(自分の左側頭部を指しながら)ここの傷はなにしたかつて警察で聞かれたわけしや。おら何したかわかんねえわけしや。警察が今度、何でしたか明日まで考えてこいやつて言つてそのままその晩寝たわけしや。何でやつたらここんとこ、こう巧く傷になるかなつてこう思つたわけしや。そいで丁度こう舟結びしてやつと、巧く傷つくようになるわけしや。そいでこうやつたらいいべなあつて思つておら言つたわけしや。
問 何結び、
答 (前略)舟結びでやつと、ここさ巧くつくわけしや。うんだからこういうふうに言うと後でごしやがれねえべつて思つて言つたわけしや。
(中略)
問 今の舟結びに結んでもどういうふうに結んでも頭に傷がつくんじやあないの引つぱつたら、どうして舟結びと言つたの。
答 だつて、首さ、何じよやつて掛つてつかあん時わかんねえもんだからこうやつたら傷つくなつて思つてやつたわけつしや。
(中略)
問 そして(家庭裁判所に行つた時)一回目に原つぱへ行つて自分も殺したと言つたのはどういうわけですか。
答 家庭裁判所さ行つた時、また警察さ戻るんじやねえかつて思つて、また警察で行かねえなんて言つて、威しつけられて面白くねえつて思つたから言つたわけしや。
問 二回目に言つたのは。
答 行かねえのに馬鹿くさいから、間違ねえ戻つて来たんだつて言つたわけしや。
(後略)
被告人の供述する自白のいきさつは以上摘録したところのみをみても推測されるように、甚だその趣旨を理解するに困難を感じ、供述に矛盾不統一を感ずるところがない訳ではない。
しかし同人の年令と知能程度(鈴木ビネー式によるIQ五六―五九、精神薄弱―魯鈍)(右供述の内容自体がこれを推認させると共に少年調査記録中の鑑別結果通知書により認められる)且つ被告人が取調べられた回数の多いこと、内容が多岐にわたつていることとを考慮に入れるならば、どうしてそう述べたと聞かれて、時として司法警察員の取調と検察官の取調を間違え、或いはその順序を間違えたり、また取調官との問答、その際の心理状態とを逐一詳細に記憶して説明することが出来ないことは容易に肯認しうるところである。そして被告人の言わんとするところは、警察における自白は結局捜査官の強制脅迫誘導に対しやむなく迎合して述べたものであつた旨、検察官に対する自白もその影響下になされたものであるとの趣旨に帰着するものと言える。被告人の右供述と第四回公判廷における証人小野寺義男の供述とを綜合すれば、そこに前記各自白調書の任意性を否定する程度の強制脅迫があつたとは認められないが、捜査官において或る程度の強制と誘導がなかつたか、またそれに対する被告人の迎合的供述がなされなかつたかについては右証人の供述ではこれを否定しているけれども、多大の疑問を存する。即ち、右摘録した、被告人の当公判廷における弁解を念頭において被告人の自供した犯行の態容とその変遷とを改めて検討してみるに、初めて犯行を自供した前記<7>ロの供述調書(31、2、15)においては、鈴木の首にロープを巻いて絞めたこと、そのため膝のあたりに血が出たこと、右ロープを二人で持つて廻つたら両側頭部がすれ、そこと膝と腓から出血があつた旨供述しているに止まるが、これは前記検証調書記載の死体梱包開披時の死体の外見的状況、損傷(第一節九1イハ2イロホ参照)と全く一致し、それ以上のなにものでもない。
ところで右死体の梱包を解く際にはこの調書作成の取調官である小野寺義男も、被告人も共にその場にいてその状況を目撃していたことは前記小野寺の証言と被告人の当公判廷の供述(六回、四回)司法警察員作成の検証調書の記載により認められる。なおその目撃時間は小野寺証人のいう如く一分か二分、或いは一べつというような短時間ではなく被告人がいる際写真がとられていたことは右証人自らも認めるところであり、右検証調書添付の死体梱包開披に伴う多数の写真と照し合わせても、被告人の右当公判廷で弁解するような観察をする程度の時間的余裕はあつたと認められる。
してみると、右供述が前記のように死体梱包開披時の外見的死体の状況(特に首のロープ、損傷の部位)とのみ一致していることは全くの偶然であると即断して看過し去ることはできない。即ちそこに何らかの誘導或いは被告人の迎合的態度があつたのではないかとの疑を懐かせられるのである。なお殺害後死体をシートにくるむ際の状況としても「手は後と前に置いて」くるんだと述べているが―梱包の際或いは運搬の際ずれることがあると思われるのに―これまた右検証調書記載の死体梱包開披時の死体の腕の位置と一致していることも右疑を深める。(第一節九1ロ参照)
次に前記第二の<9>ロa記載のとおり殺害方法として鈴木の首に巻きつけたロープの巻き方が変り手で扼したことが加わつているが、ロープの巻き方を変えた経緯は不自然な印象を与えるのみでなく、その記載(これは被告人の当公判廷の供述の態容と照し合わせて、略供述のニュアンスのとおり録取している如くである)によると、何故死体にあつたような損傷が出来たかを説明するに腐心していることが窺われ、前記被告人の当公判廷(第六回)における供述中「船結び」を供述したいきさつについての弁解を措信せしめるに足る。また手で扼した事実の加わつたことについては、「申しおくれて」後から付加されるには余りにも重要な失念であり或いは取調官においても解剖立会の際の鑑定人の説明を念頭において発問し、被告人においてそれに迎合したのではないかとも考える余地がある。(小野寺義男の解剖立会の事実は、右証言の際自らこれを認め、又知り得る解剖結果の捜査官に対する告知については第十二回公判廷における証人赤石英の供述参照)そして殺害方法として以上の方法に新たに三輪車で引いた事実が加わつたのは、前記<11>ロのc供述即ち警察における最後の取調の際の供述であるが、第二節において池田の供述と対比して明白なごとく、それはすでにその前日<10>イbにおいて池田が吉田との共犯説を具体的に主張しその方法として三輪車を使用していることを供述した後であること、水戸もまた池田の外吉田も共犯者であることを述べると日を同じくして三輪車による殺害方法を供述しているところをみると、池田の供述状況を基礎とする取調の結果、水戸においてそれに迎合したのではないかとの疑を多分に懐かせられる。この殺害方法はその後検察官に対しても(<15>ロ)細部の点で一部変更された外大要は右警察において述べた殺害方法と変りない(<15>ロ参照)。以上の如く、被告人の自白調書特にその殺害方法についての供述をみると、調書自体としても被告人の弁解するようないきさつがあつたのではないかという疑が強い。
2 被告人の供述する殺害方法と死体の損傷との関係
これら回を追う毎に一部宛変更されて供述する被告人のいわゆる殺害方法を以て、前記鑑定書記載の損傷特に両側頭部の擦過傷ができるかどうかについて検討を要する。ところで被告人が犯行現場として述べるところは四川目演習場であること第二節記載のとおりであるが、当裁判所の検証調書(写真を含む)検察官の31、3、1付実況見分調書(写真を含む)司法警察員千葉雪男作成の31、2、23の犯行現場と認められる地点の写真撮影についてと題する報告書によれば、被告人の供述する地点は、大三沢町の市街地から県道を東方に走り四川目部落に入つて丁字に交叉するところから、北に約百四十一米進んだ県道西側約二十二米の地点であり、右各検証或いは実況見分、写真撮影時のいずれの場合も、土砂採取のため発堀されて、すでに本件犯行日時ころとは状況が異つているが、(なお水戸の<21>ロ参照)、同所一帯は砂地であり右地点附近の旧状を存する部分(前記各写真参照)より推測すれば、右県道に副い砂丘に似た起伏を有し、その上に所々雑草などが生えた、土質のあまり固くない丘稜状を呈していたものと認められる。なお右地点の南方約八十五米に人家があり、西南方、北方、北東方各四、五百米のところにも人家があつて、夜間はこれらの家の燈火が見える。(ここが現場であること自体、被告人の言うような大がかりな殺人行為をするには県道の直ぐ側であつて不適当と思われるが)一方第十二回公判廷における証人赤石英の供述によれば、両側頭部の擦過傷は「表面の非常に粗いところ、例えば道路だとか、或いは小石の河原だとか、そういうところをとにかく強力に、或いは相当な距離を引張つて歩かないと出来ない」ことが認められる。前記司法警察員作成の31、2、10検証調書、実況見分調書、赤石鑑定書の記載(これらの要旨は第一節九参照)に右犯行現場の状況及び赤石証言を綜合しこれと前記被告人の殺害方法とを対比して考察すれば、被告人が供述するいずれの方法によつてもその結果鈴木の死体に生ずべき損傷の部位程度は鈴木の死体に残つていた損傷の部位程度と一致しない。即ち被告人は警察における取調の際(<7>ロ、<9>ロa、<11>ロc)は、最後に三輪車でひいた事実が加わつてからもなお両側頭部の擦過傷には出血(この出血のことは検察庁に来てからかげをひそめている)を伴い生前の損傷のごとく供述されているが、このことは鑑定結果にいう死後の損傷であることと相反し、また被告人の供述するような要領で手でロープを持つて鈴木の体を引きずつた程度では現場の土質の点からもまた牽引力(ないし擦過力)の点からも死体に残つているような両側頭部の損傷が生ずることは不可能であり、且つそこに生ずる擦過傷の方向も異り、更に三輪車にロープを結びつけたうえ、被告人の供述するような要領で鈴木の体を引きずつた場合(三輪車でその供述する如く引いたという点は、右現場の状況、特にその起伏の程度からして、空車で運転すること自体困難な状況にあり、ましてそれにロープで死体をつないで引きずる場合は、ロープの長さは少くとも約五米以上(水戸の前記各調書と証第十七、二十四号)になる訳であるから、少くともそれ以上の半径をもつて運転することを要し益々困難なことと思われそのこと自体甚だ疑わしい事実の供述といえるが)にも、土質の点で難色のあることは前同様であると共に擦過傷の方向も異る筈である。
以上の如く被告人の述べる殺害方法は、客観的事実と医学上の実験則に合致しない極めて不合理な供述といわなければならないと共に、このことは右1の如き誘導による取調ないし迎合的な虚偽の供述の疑を益々深めるものである。
3 被告人の性格と取調官の方針
前記鑑別結果通知書には、前記被告人の知能程度と共に問題点として被告人に関し「根は恥かしがりやで単純に影響されやすい性格、且つ目立つ点はこのような自主的な、自発的な、抵抗力ある主体的意思力に乏しいため(中略)むしろ誰か強いものに自然な形で従属して安定してふるまつていることである。また最も目立つ点は極めて単純な、凡てに肯定的な楽天的な態度を性格的に持つていることで、単純で善意に人を信じ、そのままに従属することである」との記載があり、これによれば被告人は、性格的に誘導に乗じられ易いものを持つていることが窺い知られるのである。
一方捜査官としても、すでに第一節八において認定したとおり被告人において鈴木の死体の埋没箇所を案内して発堀させそれによつて鈴木の死体をはじめて発見したことから、同被告人が本件犯行に加担しているのではないかとの相当高度の疑を懐いて取調に当つたのではないかと思われる。
以上の諸点を綜合して考察すれば、被告人水戸の捜査官に対する自供調書中自分と池田との共同犯行である旨の記載部分は真実性あるものとして証拠に採用することは出来ない。
(三から五まで略)
第四節 被告人池田と吉田儀一こと都万水との共同犯行か否かについて(略)
第五節 被告人池田の犯意についての検討(略)
第六節 犯行の場所について(略)
第七節 殺害方法について(略)
第二章 死体遺棄の点について
死体遺棄の点については、被告人水戸において知情の点を争うのであるが、同被告人も31、2、10警調以来、強盗殺人の点について自白する以前からこれを認めているところであり、且つ被告人両名の各検調により認められる池田帰宅時の状況、並びに死体埋没前の死体の梱包の状況(裁判所の検証の際の被告人池田の指示説明によれば、梱包からは血が流れ蛆がでていたという)から推量しても、被告人水戸において右梱包が死体であることを知らなかつたとは認められない。
以上検討したところにより、当裁判所は次のとおり事実を認定する。(なおこれまで記載したところでは、事実認定の資料とする証拠と、証拠の証明力を検討するうえに用いた証拠とが混在し、争のない点については証拠の記載を簡略にしたので、改めて右事実認定に用いた証拠の標目を一括記載する。)
(罪となるべき事実)
第一 被告人池田源之助は、本籍地に生れ同地の小学校高等科を卒業後家業の農業の手伝をしていたが、昭和二十一年秋ころから仙台市苦竹駐留の米軍キャンプ等で働くようになり、その後同二十五年末ころからは青森県上北郡大三沢町駐留の米軍キャンプ等に勤め、同二十八年ころまで同地に在住していた。その間大三沢町で米軍物資の不正持出の廉により窃盗罪に問われ、この罪により同年六月三十日仙台高等裁判所において懲役六月三年間刑執行猶予の判決言渡をうけた。その後暫くは生家に戻つて家業の手伝等をしていたが、健康的に農業に適しないところから、父親の手伝で宮城酪農角田支店として宮城県酪農協同組合の牛乳の委託販売を始めた。そのうち仙台市内のキャバレー等で遊興を重ねるうち右牛乳代金の使いこみ等多額の負債を生じ、結局は父親の方でこれを弁償することにして解決をつけたが、郷里に居辛くなり、再び大三沢町に行つて一旗あげようと考えた。そして、前に大三沢町に居たころ知合つた伊藤茂夫が自動三輪車を用いて運送業を経営しているのを見て、自分も三輪車を購入して同地で運送業を営もうと目論み、知人の紹介で知つた岩手自動車販売株式会社仙台支店(仙台市北目町二番地所在)の外交員鈴木秀男の勧誘により、同三十年七月二十一日ころ、同支店よりアキツ号自動三輪車一台を金六十一万六千円で購入することになり、その際、右代金のうち二十万円を銀行から借りて支払い、残代金四十一万六千円については同年八月二十一日を第一回とし、毎月二十一日に三万六千円(最終月は二万円)づつの月賦払としてその旨の約束手形十二通を右支店宛振出し、なお三輪車の所有権は代金完済とともに移転することにして右三輪車の引渡を受け、その後間もなくそれを大三沢町に陸送させたうえ、自分も水戸良助を助手として伴つて大三沢町に赴き、同年九月中旬ころからは同町新丁二丁目三十一番地白石与七郎方に間借し、妻子、祖母をも呼び寄せて水戸と五人で暮すようになつた。しかし仕事の方は思わしくなく、方々に借金しながら、その日の米代にも事欠く有様で、三輪車の月賦の方も同年八月分九月分とも支払えず、その間右仙台支店からの再三の請求に対し、僅かに生家の弟の方から、同年九月末までに二回にわたつて合計六千円を支払つてもらつただけだつた。そのうち同年十月初めころ、右仙台支店の方から、同月七日までに残代金全額を支払わない場合には右三輪車を会社の方へ引上げる旨内容証明郵便で請求を受け、更に同月七日自ら右仙台支店を訪れて支店長ら関係人に会つたが、その際にも直ぐ残代金の支払がない場合には車を引上げる旨厳しく申入れられ、翌日支払う旨話してその場を取りつくろつて帰つたが、家計の苦しさはいぜんとして変らず到底その支払能力はなかつたので、早晩右三輪車を仙台支店の方へ返さねばならない事情に立至つた。一方被告人は金銭的に見栄が強く、大三沢町の知人らには三輪車は会社から貰つたものだと言つていたし、また生家の方にはそれまで右窃盗事件や牛乳代金の使いこみ等度々迷惑をかけており、三輪車の購入についても親の反対を押切つて購入した事情もあり、郷里の人達には成功して帰るとか、順調に仕事している等と公言し、自分もまたそのつもりであつたのに、今更車を引き上げられては生活の基礎を失い、それまでの実情が知られて周囲の人の物笑の種になると苦慮した末、鈴木秀男を大三沢町に呼び寄せ、殺害して同人が恰も右残代金を受領したまま拐帯逃走したもののように擬装しその支払を免れようと企てた。
そこで同被告人は、同年十月二十四、五日ころ、前記鈴木秀男に対し、残代金全額支払うから領収書と前記約束手形を持つて集金に来るよう手紙や電話で申送り、同年十一月二日右代金受領のため同人が大三沢町に赴くや、前記経済的事情は口に出さず同月四日に支払をなす旨申欺いて滞在させ、その間予め同人をして前記仙台支店作成名義同月四日付金額四十一万円の領収証一枚を作成させ且つ右約束手形十二通の手形金額受取欄にそれぞれ同日付受領の月日を記入させたうえ、同日午前十時過ころから午後十時ころまでの間数回にわたり、前記白石方の自宅で多量の睡眠薬(カルモチン等)を服用させて昏睡状態に陥れ、午後十時過ころ病院へ連れて行く旨家人の前をつくろつて鈴木を三輪車の荷台(ボデー)に寝かせて自宅を出発し、同日午後十二時過ころ同町六川目庭構道路上(同町海岸沿に南北に走る県道に沿うて六川目部落があるが、そこから西方へ谷地頭に通ずる巾員約六・四米の里道を約八百二十米進んだところ)まで運び、同所において右鈴木の頸部を手指またはこれと同程度の柔軟な物体で強く扼圧し、これによる窒息のため死亡させ、前記領収証一枚および約束手形十二通を奪取し、以て前記残代金の支払を免れて財産上不法の利益を得、
第二 被告人池田源之助、同水戸良助は共謀のうえ、同年十一月九日ころ、前記鈴木秀男の死体を前記白石方西方約八十米の林檎畑に埋没して遺棄し
たものである。
(証拠の標目)(略)
(法令の適用)
被告人池田に関する判示第一の所為は刑法第二百四十条後段に、被告人両名に関する判示第二の所為は同法第百九十条に各該当し、被告人池田の右各罪は同法第四十五条前段の併合罪であるが、右第一の罪について所定刑中死刑を選択し、同法第四十六条第一項本文に則つて他の刑を科せず、同被告人を死刑に処し、被告人水戸については右刑期範囲内において懲役十月に処する。被告人水戸については、同人が犯行当時未だ少年であり、且つ知能程度が低く、また被告人池田の使用人として同居していた関係上偶々本件に関与するに至つた事情等を考慮し、同法第二十五条第一項を適用してこの裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、同法第二十一条により未決勾留日数中右刑期に満つるまでこれを右刑に算入する。なお訴訟費用については、被告人両名ともこれを納付する資力がないものと認められるので刑事訴訟法第百八十一条第一項但書によりこれを負担させない。
本件公訴事実中、被告人水戸が同池田と共謀のうえ、同被告人に関する判示第一の罪を犯したとの点については、犯罪の証明がないので、被告人水戸に対しては刑事訴訟法第三百三十六条後段により無罪の言渡をする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 山田瑞夫 宮崎富哉 金隆史)