仙台地方裁判所 昭和35年(行)3号 判決 1961年10月23日
宮城県登米郡米山町字善王寺森ノ腰五六番地
原告
一条勲
右訴訟代理人弁護士
庄子作五郎
宮城県登米郡迫町
被告
佐沼税務署長
勝倉弥仲
右
指定代理人 古館清吾
同
宗像徳明
同
真鍋薫
同
門脇忠夫
同
村上憲司
右当事者間の昭和三五年(行)第三号贈与課税処分取消事件について、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、被告が原告に対し、昭和三四年六月三〇日附送達した贈与額に関する決定は、これを取消す。訴訟費用は被告の負担とする、との判決を求め、請求原因として、
一、原告は、昭和二九年一二月二五日実父一条幸男から別紙目録記載の不動産を買受けたが、登記費用がなかつたので、その所有権移転登記手続をすることができないでいたところ、昭和三三年八月二七日に至り漸く移転登記を経由した。
二、然るに、被告は、原告が右不動産の贈与を受けたものと誤認して、別紙目録記載の不動産の取得につき、昭和三四年六月三〇日原告に対し、金一万四、九八〇円の贈与税の決定を為し、原告はその頃、右決定の通知を受けたものである。
三、原告は同年七月二八日右課税決定に対し被告に再調査請求を為したところ、被告は、同年九月八日右請求を棄却する旨決定を為しそのころ原告に右決定の通知をした。そこで原告は、同年九月二九日更に仙台国税局長に対し審査の請求をしたところ、仙台国税局長は、昭和三五年一月二二日右審査請求を棄却する決定を為し、数日後原告に対し右決定の通知をした。
四、然るに、原告は何ら贈与税を負担する義務なきものであり、被告の為した右課税決定は、違法処分である。よつてその取消を求めるため、本訴に及んだ。
と述べた。
被告指定代理人は、主文と同旨の判決を求め、答弁として請求原因、第一項中、昭和三三年八月二七日原告主張のような登記がなされたことは認めるが、その余は否認する。同第二、三項は認める。
一、本件課税の対象として別紙目録記載の不動産(以下本件不動産と略す)につき、売買に因る所有権移転登記が為されたが、事実贈与である。即ち訴外一条幸男及び原告は、昭和二九年一月二〇日農地法第三条第一項の規定によつて、宮城県知事に対し本件不動産につき、贈与による右訴外人より原告に対する所有権移転の許可申請を為し、(昭和二九年一月二〇日吉田農業委員会受付、受付番号第四九九号)同知事はこれを許可し、同年二月二〇日達第一五八号をもつて、右訴外人及び原告に右許可の通知をした。
農地法施行規則第二条により、右訴外人及び原告から知事に提出された前記許可申請書の記載内容によれば、
(一) 所有権移転の理由。――当事者は親子であり、一条幸男は健康が勝れないので、長男である原告に無代価譲渡するものである。
(二) 移転の時期。――昭和二九年三月三〇日
となつており、右事実により、原告は一条幸男から本件不動産の贈与を受け、同二九年三月三〇日その引渡を受けたものと認められた。
二、よつて被告は、原告に対し、昭和三四年二月二一日贈与税の申告を促したが、原告はこれに応じなかつたので、次のような計算に基き贈与税決定を為し、原告に通知したものであると述べた。
<省略>
立証として、原告訴訟代理人は、甲第一號証乃至第一一号証、第一二号証の一乃至三を提出し、証人久下友三郎、一条幸男の各証言並びに原告本人尋問の結果を援用し、乙第一二号証、第一五号証の一、二の成立は不知、乙第八号証の二、第一一号証の四の成立を認めたが、錯誤に基き真実に反して成立を認めたものであるから、これを撤回し不知と答える。その余の乙号各証は成立を認めると述べ、被告指定代理人等は、乙第一、第二号証、第三号証の一、二、第四号証、第五号証の一乃至三、第六号、第七号証、第八号証の一乃至三、第九号、第一〇号証、第一一号証の一乃至四、第一二号乃至第一四号証、第一五証の一、二を提出し、証人鈴木鉄夫、大久保孝男、鈴木喜一、宗像徳明、久下まさ子の各証言を援用し甲第七、第八号証、第一〇号証の成立は不知、甲第四号証中法務局作成の部分の成立は認め、その余の部分の成立は不知、甲第九号証の中証明部分の成立は認め、その余の部分の成立は不知、と述べ、その余の甲号各証の成立を認め、乙第八号証の二、第一一号証の四の成立に対する原告の認否の撤回には同意しないと述べた。
理由
本件不動産について、昭和三四年六月三〇日被告が原告に対し金一万四、九八〇円の贈与税の決定を為し、右決定の通知はそのころ原告に送達されたこと。原告が右処分を不服として同年七月二八日再調査の申立をし、右申立は同年九月八日棄却されたこと。更に同年九月二九日原告は審査請求を為し、昭和三五年一月二二日仙台国税局長は右請求を棄却したことは当事者間に争いがない。
本件不動産は原告が訴外一条幸男より買受けたものであるか、贈与を受けたものであるかにつき当事者間に争いがあるから、以下これを按ずる。
成立に争いない乙第一、二号証、第一一号証の一乃至四(原告代理人が錯誤に基き真実に反して乙第一一号証の四の成立を認めたものであることを認めるに足る証拠がないから認否撤回は許されない)、証人鈴木喜一、鈴木鉄夫の各証言によると、訴外一条幸男は、昭和二九年一月二〇日健康が勝れないので長男である原告に無代価で同年三月二〇日本件不動産の所有権を贈与したいから許可して貰いたい旨の農地法第三条による許可申請書(乙第一号証)を宮城県知事宛てに提出し、同年二月二〇日知事の右許可決定があつたこと、右申請書を提出する際、一条幸男は吉田村農業委員会事務主任であつた訴外鈴木鉄夫にその代筆を依頼したのであるが、その時は同訴外人に対し、本件不動産を原告にくれてやると言つており、売買するとは言わなかつた事が認められる。
成立に争いない乙第一四号証によれば、原告は、昭和三三年一〇月三一日佐沼税務署長に対し、書面で、原告が一条幸男より、森腰前及び森腰所在の田、畑、宅地、山を買受け、その買受資金として、原告の父佐々木清人より昭和三三年七月五日金一〇万円を返済方法昭和三四年二月一日金五万円、同三五年一二月一日金五万円を支払う約で借受け、また、同年七月一日叔母久下すえ子より金一五万円の贈与を受けた旨回答した事実、
成立に争いない乙第一三号証によれば原告作成にかかる昭和三四年九月二八日付仙台国税局長に宛てた贈与税に対する異議申立書中に昭和二九年一二月実父一条幸男から田八反余、畑三反余等全財産を金五〇万円で買受けた。金二〇万円は原告の妻の実父佐々木清人より借受け、金二〇万円は東京都太田区大森町九丁目の原告の叔母の夫(叔父)久下友三郎より借用し、金一〇万円は同人から贈与を受けて、右代金五〇万円を支払つた旨記載している事実、
成立に争いない乙第三号証の一、二によれば、原告は、昭和三四年一二月四日付書面を以て仙台国税局協議団本部鈴木喜一宛ての書面で、原告が昭和二九年一二月父幸男から土地を金四〇万円、その他の全財産を金一〇万円と見積り金五〇万円で買受けた。
同月中に東京の叔父から金一〇万円、原告の妻の父から妻が金五万円、私が金一〇万円借りて金二五万円を父幸男に支払つた。残金二五万円は東京の叔父久下友三郎が支払つてくれた旨回答している事実、証人大久保孝男の証言によれば、佐沼税務署において、本件不動産は原告が一条幸男から買受けたものか贈与を受けたものかを調査したが、昭和三三年一〇月二一日原告から書面で、原告は昭和三三年叔母久下下志えから金一五万円を貰い、原告の妻の実父佐々木清人から金一〇万円を借りて、金二五万円を一条幸男に支払つた。残金一五万円は向う五ケ年々賦で幸男に支払うことになつている旨の回答があつた事実、
証人鈴木喜一の証言によれば、仙台国税局協議本部協議官鈴木喜一が、原告から昭和二九年度分の贈与税再調査決定に対する審査請求があつたので事実調査をした際、原告は同人に対し、本件不動産は宅地建物共で金五〇万円で買つたが、その代金五〇万円のうち金一五万円は叔母久下志えから貰い金一〇万円は原告の妻の父から借りて計金二五万円支払つた。残金二五万円は昭和三八年まで年賦で支払うことになつている旨述べている事実、
成立に争いない乙第四号証によれば、原告は昭和三五年一一月二一八日大蔵事務官の質問に対し、原告の妻の父佐々木清人から妻が金五万円を貰い、原告が一〇万円借りた。金三五万円は東京の叔父久下友三郎から借用した。金二五万円は昭和二九年一二月頃自宅で父に渡し、金二五万円は友三郎が東京で直接父に渡した。佐々木清人にも久下友三郎にも借りた金は全然返していない旨答えている事実かそれぞれ認められ、
原告は当公廷における本人尋問に対し、原告は昭和二九年か昭和三〇年末頃久下友三郎から金一〇万円を貰い、妻の父から金五万円貰い、妻の父から金一〇万円借りて金二五万円として父に渡した。残金二五万円は父が東京に行つて久下友三郎から受け取つた。その金二五万円は原告が久下から借りたのである。妻の父に対し借用証を入れたかどうか記憶がない旨供述しており、原告の言うところが前後矛盾撞着していることが認められる。
また、成立に争いない乙第五号証の一、二、三によれば佐々木清人は、昭和三四年一一月二二日仙台国税局協議団本部宛ての書面で、佐々木清人が昭和二九年一二月二三日金一〇万円を原告に貸し、同人から金一〇万円の借用証をとつている。これと前後して原告の妻に金五万円を無証文で渡した。返済されていない旨回答している事実、
成立に争いない乙第六号証によれば、佐々木こはるが昭和三五年九月二六日大蔵事務官の質問に対し、自分は亡佐々木清人の妻であるが、夫が、原告に何でも金一〇万円とか貸したと聞いている。貸す時夫から別に相談を受けないので何時借したかわからない。娘が可愛いから貸したのであつて、証文はとつてないから持つていない。原告に貸した金は手持ちの金から貸したものと思う旨答えた事実がそれぞれ認められ、佐々木清人の言うところが原告または妻佐々木こはるの言うところと一致していない。(例えば原告は全然借金を返済していないといつているのに、佐々木清人は半額返済を受けたと述べている。また原告から借用証をとつてあるかどうかにつき、佐々木清人とその妻の言うところが相反している。)
また、成立に争いない乙第八号証の一、二、三によれば、久下友三郎が昭和三四年一一月一七日付仙台国税局協議団本部に宛てた回答書で、昭和二八年五月頃原告の弟成二と菅原一と二人で土木事業をやるといつて富士建設株式会社を設立したが、その時、自分は名義を借してくれと頼まれ株主となつた。そして半年以内に返すから金を貸してくれといわれて、自分と妻との二人で株主の名義で出資の型で金を菅原一に渡した。その後原告は幸男の全財産を金五〇万円で買取ることになつたので、原告の妻の実父が金一五万円、自分が二度に金三五万円原告の為に出金した。右金三五万円のうち金一五万円は自分の金を出し、金二〇万円は自分の兄久下丑松より借用して出した。金一〇万円は昭和二九年一二月末原告方で原告に渡し、金二五万円は同三〇年二月末東京で幸男に渡し、同人から金二五万円の受取証を取つた旨回答している事実、
成立に争ない乙第九号証によれば、久下友三郎は昭和三五年九月二一日東京国税局直税部資産税課伊藤竜美の質問に対し、自分は五年位前富士建設株式会社に出資したことは事実である。出資証券は貰つたが仙台の妻の父の方に預けてある。妻久下志えの名義でも出資した。前記会社の設立資金として妻の志えの兄に貸したが兄弟の間柄なので証券は貰つていない。兄が上京した際現金で渡した。その金は預金から下したのではない旨回答している事実、
成立に争いない乙第一〇号証によれば、久下友三郎は昭和三五年一一月一〇日大蔵事務官の質問に対し、富士建設株式会社は昭和二八年四月頃設立された会社であるが、設立の時自分名義で金一五万円、妻志えの名義で金一〇万円計金二五万円出資した。
右出資金は簡易保険をさげたり、自分の勤め先の石井鉄工所から金一万円か金二万円位借り、島畑徳彦から金三万円借りた。あとは自分の手持の現金の中から出した。預金から下げたのではない。実は兄久下丑松から金一五万円借用し、あとの差額を手持の現金から出した。自分は自宅で金二五万円を一条幸男に渡したこともないし同人から借用証を貰つてもいない。自分は富士建設の出資金の外に金は出していない。原告に金三五円を貸したことはない。自分のところは生活が楽でないので金六〇万円の大金を出すなんて事はできない。自分は石井鉄工所に勤め現在月金三万五、〇〇〇円の給与を受けているがいろいろ差引かれるので手取り金二万五、〇〇〇円位である。家族六人で生活費は月約金三万円位かかるので毎月の赤字はボーナス等で埋めている旨述べている事実がそれぞれ認められ、
証人久下友三郎は、当公廷において、自分は昭和二八・九年頃富士建設の出資として金一〇万円位出した。自分の家族が出資したかどうかわからない。昭和二九年秋原告から幸男に田畑を売られると困るから金五〇万円出して呉れと願われた。それで、金三五万円を原告に貸してやつた。そのうち金一〇万円は昭和二九年一二月頃原告方で原告に渡した。この金一〇万円は、兄久下丑松から借りたものである。残金二五万円は、昭和三〇年春東京の自分の家で一条幸男に渡した。この金二五万円は、自分の父久下倉吉から借りた金である。父は骨董品を売つて都合してくれたものである。兄丑松には昭和三五年末金五万円丈返済した旨証言しており、久下友三郎のいうところは前後まちまちで矛盾撞着しているのみならず、原告の言うところとも一致しない点か多い。
証人大久保孝男の証言によれば、佐沼税務署において、本件不動産は原告が一条幸男から買受けたのか、贈与を受けたのかを調査したが、昭和三三年一〇月か一一月頃一条幸男か右署において口頭で昭和二九年頃から翌年春までの間に一回に金四〇万円の支払を受けた旨述べた事実を認められ、
証人一条幸男は当公廷において、自分は、昭和二九年暮田畑全部を金五〇万円で原告に売ることを承諾し、その場で金二五万円受取つた。その時久下友三郎は原告に対し金一〇万円はお前にくれるといつていた。残金二五万円はその翌年東京の友三郎の家で同人から受け取つた。受取証を友三郎に出したかどうか忘れた。その時友三郎は右金二五万円は友三郎の父から都合して貰つた旨証言し、一条幸男の言うところが前後一致していない。
成立に争いない乙第七号証によれば、佐々木清人は田畑八、九反位耕作している農家であり、中位以下の生活をしており、他人に金を貸す余裕はない。昭和二九年四月三〇日現在で米山農業協同組合における同人の貯金高は金三六〇円、出資金は金五二〇円であつた。昭和二九年中の最高の貯金残高は一二月三日の金二万一〇八四円で、同年中の最高引出額は一二月二二日の金一万円であり、一二月三一日現在の貯金高は金一七五九円であつたことが認められる。
成立に争いない乙第一二号証、証人久下まさ子の証言によれば、久下まさ子は昭和二〇年久下丑松と結婚し昭和三六年三月一八日丑松が死亡するまで同居していた。家族は父倉吉と子供二人で五人家族であり、生活費は月金三万円位かかり、丑松は石井鉄工所に勤め月収約金三万円であつたので生活に余裕がなく預金することはできなかつた。丑松は金一〇万円というような大金を持つていなかつた。また倉吉は昭和三五年六月九日七六歳で死亡したが、昭和一八年頃から職がなかつたので、丑松から月金五〇〇円から一〇〇〇円位の小遣を貰つていた外は何も取入がなかつた。丑松の家には書画骨董とか売却するようなものは何もなかつたし、倉吉が書画骨董類を売却したことがなかつた。また、久下まさ子は倉吉、丑松と永年同居していたのに同人等が久下友三郎に金を貸したということは聞いたことがないということを認めるに充分である。
以上の事実を綜合すれば本件不動産は昭和二九年三月三〇日一条幸男より原告に無償贈与されたものであり、原告が昭和二九年一二月二五日幸男から本件不動産を買受けその代金を支払つたとの原告の主張は虚構の事実であることを認定するに充分である。甲第四号証、第七号証その他の証拠によつても右認定を左右することができない。
証人鈴木鉄夫、大久保幸男の証言、原告本人尋問の結果によれば本件不動産の昭和二九年三月当時の時価が金一九万九九二三円以上であつたことを認めるに充分であるから、相続税法第二一条の二による本件不動産の贈与による取得財産価額を金一九万九九二三円と認定し、同法第二一条の四、五を適用して贈与税額を金一万四九八〇円と算定した被告の贈与税の決定は何ら違法でない。
よつて右決定の取消を求める本訴請求は失当であるからこれを棄却すべく、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 新妻太郎 裁判官 小林謙助 裁判官 矢部紀子)
目録
<省略>
田計 二二筆 八反一畝二八歩
畑計 二筆 一反七畝二五歩