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仙台地方裁判所 昭和40年(わ)295号 判決 1968年4月20日

主文

被告人佐藤栄司を罰金一〇、〇〇〇円に処する。

被告人藪田佳則を罰金三、〇〇〇円に処する。

右各罰金を完納することができない時は、金五〇〇円を一日に換算した期間、当該被告人を労役場に留置する。

訴訟費用中証人常陸角治、同高橋泰志、同斎藤秀夫(第二四回公判)、同池田亀夫および鑑定人池田亀夫に支給した分を除きその余は被告人両名の連帯負担とする。

理由

第一、本件の背景となる事実

一、東北大学青葉山、川内地区移転計画

被告人両名は、いずれも東北大学の学生であつたものであるが、東北大学は、仙台市片平丁に同大学本部と理、工、法文、経済、教育の各学部を、同市北六番丁に農学部を、北四番丁に医学部を、川内地区に教養部をそれぞれ有しその他の施設も市内各所に散在していて不便であることや、最近の科学技術振興政策に伴い、理工系学部の拡充の要請をみたすためには、片平地区は敷地面積(七万坪)が狭隘であるため、適地を他に求めて全学的に移転し、施設を一ヶ所に集中する計画が、昭和三六年ころより検討されはじめ当時の黒川学長ら首脳部において、前記教養部のある川内地区に隣接した広大な青葉山、川内地区の国有地(三三万坪)を獲得のうえ、理工系学部、教養部を青葉山地区に、農学部を久保田山地区に、法、文、経済の各学部および教育学部教育科学科を川内地区に、教育学部教員養成課程を、同大学附属小、中学校が農学部敷地に隣接してあるところから、農学部の移転跡にそれぞれ移転し、同市内各地に分散している各種研究所を片平地区に集めて、抜本的な学園整備を行うとの構想のもとに、全学的な配置計画と年度割(八年)をつけた移転計画を立て、同大学の最高審議機関である評議会の審議を経て計画案を文部省と財務局に提出し、当時青葉山に入植していた開拓農民の離農問題を含んだ青葉山川内地区国有地取得の折衝工作を行う一方、右計画は当初は常設機関たる施設設定審議会で審議されていたが、昭和三八年九月からは、各部局代表の推進委員からなる「東北大学青葉山、川内地区移転整備推進本部」(以下単に移転推進本部という)を設けて、土地問題解決待ちの形で移転計画の審議が進められていた。

二、教育学部教員養成課程分離問題

東北大学は、昭和二四年、新制大学設置に際し、一府県一大学設置主義のもとに、宮城師範学校、同女子師範学校を同大学教育学部に包摂し、教員養成課程(学校教育科)として教育科学科と併置し、小、中学校教員の養成を行なつていたが、その後同課程卒業者が宮城県内の学校に就職しないで他県に流出することが多いなどの理由で宮城県議会、小中学校教育界から教員養成のための専門大学設置の要望が起り、昭和三九年八月に至り、文部省は東北大学に対し教員養成を目的とする宮城学芸大学(仮称)設置を前提として、東北大学教育学部から教員養成課程を分離することの可否について正式に諮問した。

同大学評議会は、昭和三九年一一月二四日、教員養成課程分離の可否を教育学部の意思決定に委ねたが、同学部教員養成課程の教官で構成する同学部教授会川内部会は、これに先立つ一一月一六日、いち早く分離反対の決議を行い、一方同学部教育科学科の教官で構成する同片平部会は分離養成の意見が強く、片平部会出の当時の皇光之学部長は川内部会の全体教授会開催の要求を容れず、一二月一日、定例教授会を招集したが、同定例教授会においても、教育学部としての意思統一ができず、結局学長への答申は両部会の意見をそのまま併記して提出することとなつたが、皇教育学部長は学長に対し、意見不統一につきよろしく御処置願いますと善処方を依頼した付記をつけて答申した。

一方同大学では、制度審議会においても教員養成課程分離問題を検討していたが、当時の石津照璽学長は、右分離の可否を評議会の討議にかけ、昭和三九年一二月一五日、学外の仙台グランドホテルにおいて開催された評議会において「宮城学芸大学(仮称)設置に伴う東北大学教員養成課程分離の可否」なる議題のもとに審議し、教育学部教授会の意思不統一にかかわらず、教員養成課程を分離する旨の全学的な最終意思決定を行い、翌一六日、その旨文部省に答申した。

ところで右分離決定に際し、農学部長は、農学部の敷地が新たに発足する宮学大の敷地として予定されていた事情にかんがみ、農学部の久保田山移転時期は、同学部教授会が将来自主的に審議して決定する旨表明した。また右分離決定は、教育学部教授会の全体的意思が不統一であるのに、宮学大を昭和四〇年度に発足させるため、全学的な評議会でやや性急に押し切ろうとしたところに問題があつたため、評議会開催当日東北大学々生、職員ら多数が、これに反対して抗議のため仙台グランドホテル内外に集結し、同ホテルの営業に支障をきたしそうになつたので、同ホテルの要請で警察機動隊が出動、待機した場面もあつた。

三、農学部移転問題

青葉山地区に入植していた開拓農民は、当初離農を望まず、農学部の移転先として予定されていた久保田山地区を代替地として要求していたが、昭和三九年末には離農工作が完全に成功し、東北大学は久保田山を含む青葉山、川内地区国有地三三万坪を当初の予定どおり入手できる見通しがつき、学園の具体的移転計画検討の段階に入つていた。

一方文部省は昭和四〇年一月一一日、東北大学教育学部教員養成課程の分離に伴い、「国立宮学大設置準備委員会」を開催し、昭和四〇、四一年度に東北大学農学部の主要施設を久保田山に新営して移転を完了し、その間宮学大は仮校舎として東北大学富沢地区の施設を利用し、昭和四二年度末には、附属小、中学校のある移転後の農学部跡に補修新設して移転を完了するとの方針を立て、国会の審議を経て昭和四〇年四月、宮城教育大学が発足し、東北大学学長が同大学の学長を兼任して、東北大学教養部富沢分校に仮設された。

ところが農学部教授会は昭和四〇年一月二七日、学長に対し、その移転予定地とされていた久保田山地区は、風、水、土質の三点において農学部の研究用地としては不適当である旨の意見書を提出し同年六月三〇日の評議会において正式に久保田山地区は農学部の研究用圃場としては不適当であり、同学部が必要とする圃場を造成するには、普通の方法で客土をすれば五年はかかり、土質についても見解不一致のため未だ検討を要するが、少くとも向後五ヶ年間は移転できない旨を表明したため、移転推進本部においては移転計画に重大な支障をきたし、最善の解決策を検討し続けていた状態であつた。

四、昭和四〇年七月一七日、移転推進本部会議、評議会の開催

(一)  ところで東北大学は、宮城教育大学の校舎建築予算で久保田山に農学部の校舎を新築し、農学部の現建物を同大学に与えるとの同大学発足以前からの「振替」案に則り、他方では既に宮教大が発足しているところから、農学部を昭和四一年度に移転させるとの線に添つた昭和四一年度予算の概算要求を昭和四〇年七月二〇日ころまでに文部省に提出する考えでいたが、農学部移転の見通しがつかないでいたゝめ、要求予算中、文教施設予算だけが審議未了の状態にあつた。したがつて東北大学は右概算要求の提出を目前に控えて農学部移転問題を解決する必要に迫られ、七月に入つてから連日のように移転推進本部会議を開いて対策を検討する一方、評議会を七月一三日午後一時三〇分から同大学本部会議室において開催し、「昭和四一年度概算要求について」審議する運びとなつた。

(二)  一方東北大学の学生は、青葉山、川内地区移転計画の進行と、教育学部教員養成課程の分離と宮城教育大学の発足、農学部移転問題と相ついで発生した一連の事態に対し、各学部学生自治会、東北大学学生自治会連合を中心として、青葉山川内地区移転計画は、昭和三五年以来の池田内閣の科学技術振興政策に則つた理工学部偏重の産学協同路線の推進であり、大学が独占資本の利益に忠実に奉仕する大学と化していくものである。教育学部教員養成課程の分離と宮教大の新設は、かつて廃案となつた大学管理法案の基調となつた文教政策や、中央教育審議会、教育職員養成審議会等の答申に則り、文部省の指導方針を忠実に教授する職業教員の養成を目的とする目的大学設置の突破口であり、旧師範学校制度の復活である。また評議会が教育学部の意思を無視して、しかも学外の仙台グランドホテルにおいて教員養成課程分離の強行決定したことは大学の自治の侵害であり、学園移転計画も、当初国有地取得のためであつた仮の「事務局素案」が各学部、特に農学部の意向を無視して強行実施されようとしているとの認識に立ち、反対抗議行動を展開していた。

右行動に参加していた学生らは七月一三日、大学本部入口玄関前で元村理学部長、矢島文学部長ら評議員をとり囲み、評議会場への入場を三〇分間余も遅らせ、さらには多数学生が本部二階廊下および評議会場たる大会議室に通ずる秘書室に立入り、学長会見を要求した。石津学長は学長室から評議会に出席することができず、事態収拾のため午後二時三〇分から小会議室において、三〇分間ということで学生代表一〇数名と学長会見を開始したが、学生らは時間が経過しても学長を執拗に追及して放さず、評議員からの再三の呼出しがあつて、学長は午後四時、会見を打切つて評議会に出席した。

ところが学生らは、学長は中座しただけだと主張してなおも学長会見を要求して小会議室を立退かず、評議会開始後、大学院学生が前記学生らを小会議室から退室させて、午後五時から約一時間にわたり学長会見を行つた。

大学首脳部は翌一四日、移転推進本部会議を一七日午前一〇時から、評議会を午後二時から、それぞれ大学本部二階大会議室で開き、農学部移転問題と昭和四一年度予算の概算要求のための「仮地割決定」を各審議することに決定したが、農学部は早急に移転できないことは了承され、それを前提として処理を進めることにし、「仮地割決定」も移転を希望する部局についてのみ話し合い、内部的には拘束されないものとする方針であつた。

ところが、学生らは、一部教官から本地割決定がなされるとの誤まつた情報の提供があつたことと、これまでの移転推進本部会議、評議会の審理状況を考え、昨年一二月の評議会において、教育学部教授会の統一意思決定がないのを無視して、教員養成課程分離の決定が強行された前例があるとして、来たる一七日には移転推進本部会議と評議会においては、農学部の意向を無視して農学部の久保田山移転の決定と、最終的な本地割決定が強行されるものとの観測に立ち集会を開き反対抗議行動を展開した。

一方会議設営担当の大学事務当局においては、去る一三日にみられた多数学生の秘書室乱入、評議員の評議会場への入場妨害、学長会見の要求などは、いずれも学生らの会議引延し作戦であり、一七日にも同様な行動が予想されると考え、両会議の円滑な進行が妨害されることを恐れ、警備員の手薄も考慮のうえ、七月一五日、学生部、庶務部、経理部の部課長らは、学生らが本部二階廊下へ立入るのを避けるために、本部二階庶務課の廊下に便所を内側にして遮断扉を設置することを相謀り、翌一六日夕刻、施設部を通じて工事を依頼し「新設扉」と呼ぶ右遮断扉を設置した。

(三)  七月一七日、移転推進本部会議は、開始を午前九時に繰上げて本部二階大会議室で開かれたが、庶務課秘書主任芳賀繁は、午前九時三〇分ころ、各推進本部会議委員の会議場入室を確認のうえ、新設扉を施錠し、総務掛長根立満らが石井庶務課長の指示のもとに右新設扉外側に、「会議開催中につき閉鎖中云々」なる貼紙を貼付し、本部二階廊下の通行を遮断した。ところで、当時東北大学文学部学生(三七年入学)で東北大学自治会連合副委員長であつた被告人佐藤栄司をはじめ、同連合書記長横田有史ら自治会連合の委員をはじめとする学生達は、小雨降る中を午前九時ころから本部前に参集し、本部入口の階下ホールに入つて抗議集会を開いていたが、まもなく二階廊下の新設扉を発見するに至り物理的に通行を遮断している扉を前にして、会議の強行をいよいよ非難し、抗議のための学長会見申し込み、各学部長会見申込みの手続をとつた。

そのうち移転推進本部会議は午前一一時三〇分ころ終了し、一部委員が新設扉のある廊下を通らずに庶務課の部屋と庶務部長室との間の扉を開けて本部建物外に退出した際、廊下から庶務課の部屋に入り庶務課職員に対し抗議していた二、三〇名の学生が庶務部長室に入り込み、続いて事務局長室に入ろうとしたが、これを阻止しようとした石井庶務課長に対し、「バリケード(新設扉)の設置理由を階下ホールにいる学生達の前で釈明しろ」と要求し、数名の学生が同人をとり囲んで室外に押し出し、一〇〇名から一五〇名ほどの学生が集まつている階下ホール植木鉢の前に連行し、同所において同人は横田有史からハンドマイクを突きつけられて新設扉設置の理由を問いただされた。

この間被告人佐藤ら多数の学生は、新設扉を足蹴りしたり、貼紙をはがしたり秘書室に立入り、事務職員に抗議する一方、学長会見を要求した。その後、本部二階にいて混乱を憂慮した林竹二教育学部長、法学部広中俊雄、祖川武夫各教授が村上学生部長を介して学長会見をあつ旋をし、学生との間で種々会見条件を交渉した結果、学生代表は一〇名会見時間は午後一時三〇分から評議会開始予定時刻の午後二時までの三〇分間とすること等の条件のもとに、事務局長室で学長会見を行うこととなつたが扉の開放が遅れ午後一時四五分ころから、村上学生部長、林、広中、祖川各教授立会いのもとに事務局長室において、学生代表一〇名が入室し学長会見が開始された。そして被告人佐藤が会見代表団長として自己の姓名を名のり、午前の移転推進本部会議の決定内容、午後の評議会での審議予定事項、最近の警察官学内立入り問題、文教政策、新設扉の設置理由についてと次々に学長の回答を求め、意見を問いただして会見予定時間をはるかに過ぎても食い下りを止めなかつたので、学長は三時三〇分ころ、評議会出席のためということで一旦会見を打切り、評議員の広中教授と共に局長室を退出して大会議室に入り、評議会は三時四五分ころ開始された。ところで学生らは右学長会見を行う一方、芳賀繁を介して学部長会見を申込み、本部二階小会議室で評議会開催を待機していた教養部々長、理学部々長は会見を拒否し、斎藤秀夫法学部長が庶務課廊下で、矢島文学部長が庶務課入口付近で学生らにとり囲まれて問答をしたほか、林竹二教育学部長は、学長会見に立会い中、学生の呼出しに応じて事務局長室を退出し、午後二時ころから三時三〇分ころまでの間庶務部長室において、当時教育学部三年生で、同学部学友会総務委員長であつた被告人藪田佳則を含む、教育学部学友会総務委員ら数名と会見した後、評議会に出席したが、被告人藪田は右林教育学部長との会見後、後記のように他の学生らに混じつて事務局長室に入室した。

一方、学長会見に出た学生らは、学長会見打切り後も、局長室に残つた村上学生部長に対し、階下ホール学生の面前でバリケード設置について説明しろと要求し、代表数名と学生部長室でなら会見するという村上学生部長と意見が一致せず押問答をしていたが、このころ、二階廊下あるいは階下ホールにいた学生二〇名位が事務局長室に入り込み、同室は騒然とした状態になつていた。

第二、罪となるべき事実

一、前記(第一の四の(三))のような状況下において、東北大学事務局長曾我孝之(当時六〇年)は、隣りの学長室で評議会の開催を待機していたが、午後三時四五分ころ、騒がしくなつた事務局長室の様子を窺うため、学長室から事務局長室に通ずる扉を開けて局長室に入室した。ところが同局長を見つけた学生らは口々に「局長だ」「青葉山移転計画の元兇だ」「文部官僚出てゆけ」などと叫びながら局長をとり囲み、容易に脱出できない状態としたので、局長は村上学生部長の向い側の応接用肘かけ椅子に腰をおろしたところ、学生らはそれまでの村上学生部長に対する追及の鉾先を局長に転換し、「バリケードを設置した理由を階下ホールの学友の前で説明せよ」と要求したが、局長は大勢入つて来たことを難詰して学生らに退去の要求をもつて応酬し、これを拒否した。

被告人佐藤は、これに対し、他の学生らとともに口々に「椅子ごと下に持つてゆけ」と叫び、その意思を共通にした数名の学生が、局長の腰かけていた右応接用肘かけ椅子を持ちあげようとして揺り動かして前に押し倒したが、局長はすぐ立ち上がつて脇の応接用テーブルの上に廊下側を向いて腰をかけ、左手でテーブルのふちをつかみ、右手に持つていたボールペンを振り回し、近よる学生を振り払つて学生らに連れ去られまいとした。すると被告人佐藤は「テーブルごと持つてゆけ」と叫び、これに同調した数名の学生がテーブルの両端に手をかけ、テーブルごと持ちあげようとしてテーブルを廊下側に傾けて倒し、床上にずり落ちた局長は、今度は倒れたテーブルをとびこえて、村上学生部長がかけていた、左隣りの応接用肘かけ椅子に腰かけた。その後も曾我局長は評議会に出席するので行かせてくれとか、正式な手続をとれば学生代表と会見すると申し出たのに対し、被告人佐藤ら学生はこれを承知せず、あくまで局長に対し、階下ホールに集まつている学生の前に出て釈明せよと要求し続けたが、その間被告人藪田は、被告人佐藤の前記「局長を椅子ごと、あるいはテーブルごと下に持つて行け」との呼びかけに同調し、他の二、三名の学生とともに、局長を、腰かけていた応接用肘かけ椅子(ベアリング付)ごと、村上学生部長の左隣りの位置から廊下出入口方向に向けて出入口敷居の近くまで押し出し、局長が学生の力がゆるんだすきに両足を床にふん張つて元の位置に押し戻すと、再度他の数名の学生と共に、局長を椅子ごと廊下方向に向けて二、三歩押し出し、もつて、被告人両名は、以上のとおり他の数名の学生と共同して、曾我局長に対し同人を階下に連れ出そうとして一連の暴行を加え、(但し、被告人藪田は最後の押し出し段階から加担した。)

二、同日午後五時ころ、事務局長室に入つていた庶務課総務掛長根立満は、学生らが事務局長の机上に集積されていた書類を勝手にかき回しているのを発見し、とがめて書類を全部かき集めたところ、学生の間から「この中に我々の思想調査をした書類がある。それを出せ」という声があがり、根立と押問答をしている間に、一学生が「これが思想調査の書類だ」と一文書を引き抜いた。そこで根立はそれを取り戻し、再度奪取されることを恐れてその文書を丸めてズボンの左脇ポケットに入れ、局長の机に体を押しつけて取られまいとした。すると学生らは口々に「ここで思想調査をやつている書類を発見した」と騒ぎ出し、これを聞きつけた被告人佐藤はじめ局長室内にいた大多数の学生は、根立の周囲に集まり書類の提出方を詰めよつたが同人はこれを拒否した。すると被告人佐藤は「下に連れて行つて書類を出させろ」と叫び、根立をとり囲んでいた二、三の学生が同人を両脇から腕組みし、後ろから押すなどして局長室廊下側入口付近まで引きずり出したので、同人は連れ出されまいとして入口に坐りこみ、なおも書類を取られまいとしてズボンのポケットを押えていた。

しかし被告人佐藤は、根立をとり囲んで他の学生らと共に口々に「立て」、「立て」と叫び、自から先頭になつて無理矢理根立を立たせ、二名の学生が両脇から腕を組んで同人を持ちあげ、他の学生が後ろからズボンのバンドをつりあげて、ずるずると二階廊下を階段の降り口付近まで引き出し、さらに同所から二、三名の学生が加わつて足をつかんで持ちあげ同人を仰向けにしたまま、宙に浮かせ、二〇数段ある階段を運びおろし、村上学生部長、石井庶務課長を囲んで多数学生が集まり騒然としている階下ホールの床上に投げ出した。

そして被告人佐藤は、根立を運び降ろす集団と共に階下に降り、ホール内に集まつていた学生一同に向い根立を指示して、「今二階の事務局長室で我々学生の思想調査をした書類を見つけたが、この男がズボンのポケットの中に入れて持つておる。出させなければいけないと思うがどうか」と呼びかけ、ホールに集まつていた学生らは口々に根立に対し「出せ出せ」と要求したが、同人は床上に坐つたままこれに応じなかつた。すると被告人佐藤は、村上学生部長と石井庶務課長に対し、根立に書類を出させるよう命令せよと要求したが、同人らから拒否されるや東北大学自治会連合書記長横田有史、松本某ら数名の学生と階段の下に集まつて相談のうえ、学生一同に向い「何としてでもここで取らなければいけないと思うがどうか」と呼びかけ、集まつた学生らも賛同し、そこで被告人佐藤は根立に対し、「三分間の猶予を与えるからその間に書類を出せ」と命じ、自己の腕時計によつて一分、二分と時間を知らせ、三分経過後「三分経つたが出すのか、出さんのか」と言つて根立に書類の提出を詰めより、同人が「疲れた疲れた」と手を振りこれを拒否すると、被告人佐藤は「取れ」と他の学生に号令をかけて根立に近づき、周囲にいた一〇名位の学生が根立をとり囲み胴上げするようにしてかかえあげ、二、三メートル移動した位置において、ズボンのポケットから右文書を取りあげた。

もつて、被告人佐藤は、右のとおり他の数名ないし一〇名位の学生と共同して、根立を事務局長室から階下玄関内まで連行し、さらに同所で所持文書を取り上げるに際し、それぞれ、根立の身体に不法な有形力を行使して暴行を加え

たものである。

第三、証拠の標目(省略)

(事実認定についての補足説明)

弁護人らは村上、曾我、根立、石井、その他検察官申請の大学事務局職員らの本件公訴事実に関する供述は、すべて被告人らに対する悪意に満ちており、その供述相互間に矛盾するところが多く、曾我局長ら一派の作られたシナリオに基づいて供述されているもので、とうていこれを信用すべきものではないと主張しているが、右証人らの供述と、これと反対趣旨を供述する弁護人申請の諸証人、とくに学生である証人らの供述と対比するときは、その地位、年輩、社会的経験の深さ、被告人らに対する立場、証言時の供述態度等からして、おのずから前者の証人らの供述を信用せざるを得ないのであつて、これらが被告人らをおとし入れる悪意を有しているものとは認められず、またこれら証人の供述相互間に、種々一致しない点があることはそのとおりであるが、それは各人の目撃位置の差や、知覚力、記憶力等の差があることと、当日の現場の騒然たる状況下においては、逐一正確な事実の経過を認識することは必ずしも期待しがたいこと等の事情を考慮すれば、その範囲内で生じ得る誤差であると考えられ、前記罪となるべき事実認定の大綱においては、ほぼ矛盾はないといい得るのであり、右のように誤差があることは、かえつてこれらの供述が作られたシナリオに基づくものでないことを示しているともいい得るのである。また弁護人提出の事務局長室の現場写真と見られる新聞写真には、村上、曾我両人が並んで腰をかけたソファの前の応接テーブル上に湯呑み茶碗が置かれ、曾我局長は湯呑み茶碗を手にしている状態が写つており、弁護人らはこれをもつて、テーブルに腰かけたところをゆさぶり落されたという曾我証人や、その目撃状況を述べる他証人の供述は信用性がないと主張するが、局長室での状況に関する右証人らの供述によれば、右写真の撮影者たる河北新報社のカメラマンその他報道関係各社のカメラマンが、局長がテーブルに腰をかけた前後頃局長室に入室し写真撮影をしたが、その際局長らをとりまいていた学生らはこれに協力的態度に出て、カメラマンは局長や村上学生部長にポーズをとらせるようにして撮影した、というのであつて、外部者である報道関係者の入室により、学生らと局長らの攻防状態は一時的に休戦状態となつた時点の撮影場面であると認められるから、そのような場面があるからといつて、カメラマンの右撮影の前、後においてテーブルのゆさぶり行為等がなかつたとはいえない。したがつて、この点の弁護人の主張も是認し得ない。

以上の次第で、前記弁護人らの事実認定上の主張には賛同しがたい。

第四、傷害の訴因に対する判断

被告人両名に対する傷害被告事件の起訴事実の要旨は、

被告人佐藤栄司、同藪田佳則の両名は、他の数名の学生と共謀のうえ、昭和四〇年七月一七日午後四時ころから同六時ころまでの間、仙台市片平丁七五番地所在の東北大学本部二階事務局長室において、同大学事務局長曾我孝之(六〇年)に対し、「バリケードを作つた理由を下の学友の前で説明しろ」と要求したが、同人が応じないため、被告人ら両名において、曾我局長をとり囲んでいた一〇数名の学生らに対し、「局長を下に連れ出せ」と大声で指揮し、他の学生四、五名と共に、局長が腰かけていた椅子および応接用テーブルを倒して同人を床上に転倒させ、さらに同人を腰をかけた椅子ごと押し出す行為をくりかえし、午後六時ころ、同人を椅子ごと強引に事務局長室外に押し出し、よつて同人に対し約六週間の加療を要する椎管内障の傷害を負わせたものである、(以上は釈明により補充された内容を含む)

というにある。

よつて以上順次検討する。

一、第三、四、六回公判調書中の証人曾我孝之、第五回公判調書中の証人若松英吉、第一〇、一一回公判調書中の証人佐藤養治、第一三、一四回公判調書中の証人河野末治の各供述記載および安中俊作作成の写真撮影報告書、北目幸太郎作成の図面第四図を綜合すると、次の事実が認められる。すなわち、根立が階下に連れ出された後、局長室に残留していた学生らはなおも曾我局長に対し階下に降りることを要求し、午後六時ころ、土屋慶之助はじめ五、六名の学生は、応接椅子に坐つている局長を椅子ごと外に連れ出そうとし、ベアリングのついた右椅子を廊下に向けて押し出しはじめ、廊下に降りる降りないで押問答をしながら、学生が椅子を後ろから押し出すと、局長が両足を踏んばつて押し戻すということをくりかえしながら少しずつ、廊下に向つて移動し、局長室と廊下との間の敷居(高さ約二センチメートル)まで押し出されたので、局長は、右敷居に両足の靴のかかとをあててふんばり、押し出されまいとしたが、学生らの押し出す力には抗しきれず、片足を上げた際、腰部に電撃様の激痛を覚え、そのまゝ遂に廊下にまで押し出され、さらに階段方向に椅子の向きが変わつてようやく停止したが、同所においてなおも食いさがる学生らと押問答をしていた。その後局長の疲労を心配した事務局職員あるいは評議会を終了した中村医学部長の連絡により、東北大学附属病院内科から滝沢啓夫講師、鈴木敏己助手がかけつけ、局長は、学長室のソファーで診察や注射を受け、午後九時半ころまで学長室で休んでいたが、約三〇分位庶務部、課長らと情報交換や協議をした後、午後一〇時すぎ石井庶務課長ら事務局職員と共にタクシーに乗つて、仙台市東一番丁にある中華料理店に赴き、二階に上がつて夕食を食べた後、タクシーで帰宅し、風呂に入つて就寝したが、腰部の痛みが治まらず、翌一八日(日)早朝、東北大学附属病院整形外科に赴き、若松栄吉助教授の診察を受け、椎管内障と診断され、即日同病院整形外科に入院し、骨盤索引、コルセット療法により治療を受け、約五週間後の八月二一日、同病院を退院し、同月二三日リハビリテイシヨンのため東北大学附属病院鳴子分院に転送され、温泉治療を受けて翌九月九日、椎管内障は完全に治ゆして同院を退院した。

二、次に第五回公判調書中の証人若松英吉の供述記載、証人池田亀夫の当公判廷における供述、鑑定人池田亀夫作成の鑑定書、医師若松英吉作成の診断書、同人作成の昭和四〇年八月九日付、同九月一一日付各答申書、曾我孝之に対する東北大学医学部整形外科入院病歴一冊(訳文付)を綜合すると、椎管内障とは脊椎管内壁の障害に起因して神経症状を呈する疾患の総称であるが、そのうち椎間板ヘルニアと呼ばれるものは、椎間板(椎間軟骨ともいう)内部に退行変成が生じ、中味の髄核が周囲の繊維輪の亀裂を通して後に突出し、これが脊椎管内の神経根を圧迫して症状を呈する場合であり、椎間板の変成を必須不可欠の条件とし、その基盤の上になんらかの外力が加わることを誘因として発症するもので、これは椎管内障の大部分を占める代表的疾患であること、そして本件において、曾我孝之が昭和四〇年七月一八日、東北大学附属病院整形外科において診療を受けた際、挫骨神経痛の症状を呈しており、六〇才という年令と、既往症として「キツクラ腰」を二、三回やつたという問診結果から、腰部椎間板に変成を生じていたと見るべきことは明らかであり、椎管内障に含まれる他の疾患の徴候が認められなかつたことから、同人の右診断時の傷病は前記椎間板ヘルニアとほとんど同一であるとみなしてよいことが認められる。

三、そこで次に、右傷害と被告人らとの結びつきの如何について検討する。

検察官は、本件傷害が直接的には、学生らが昭和四〇年七月一七日午後六時ころ、曾我局長を椅子ごと事務局長室から廊下に押し出した行為の結果発生したものとして本件起訴をなしていることは、起訴状と冒頭陳述に際しての釈明を通じて明らかである。

そして、第四回公判調書中の証人曾我孝之の供述記載によると、既に認定したとおり、七月一七日午後六時ころ、学生らに椅子ごと局長室から廊下に押し出されようとされ、敷居に両足の靴のかかとをあてゝふんばり、押し出されまいとこらえたが抗しきれず片足をあげた際、腰部に電撃様の激痛を覚え、その後学長室で休んでいたが、前かがみになり背中を丸くして一定の状態を保つていると痛くないが、動くと激痛を覚えたという事実が認められ、第三回公判調書中の証人村上恵一、第八回公判調書中の証人石井久夫、第一五回公判調書中の証人芳賀繁の各供述記載によれば、曾我局長は滝沢講師が診察した際あるいは学長室において、また料理店八仙において、腰部の痛みを訴えていたことが認められる。

一方、第五回公判調書中の証人若松英吉の供述記載、証人池田亀夫の当公判廷における供述、鑑定人池田亀夫の鑑定書を綜合すると、曾我孝之に発症した椎間板ヘルニアは、椎間板の変成を必須不可欠の条件とし、この基盤のうえに何らかの外力が加わることを誘因として発症するが、その外力は強力なものから日常の生理的運動範囲の外力でも誘因となりうること。しかして椎間板ヘルニアの発症時には、腰部に電撃様の疼痛を覚え、あるいは電撃様の痛みを伴つた座骨神経痛を覚えるのが病理学的所見であり、その後個人差はあるが、繊維輪から脱出した髄核が神経根を圧迫しない様な姿勢をとると、痛みが緩和するものであることが認められる。

ところで前記曾我孝之の供述記載によれば、学生らに局長室から廊下に押し出される際、電撃様の腰痛を自覚し、その後一定の姿勢を保つていると痛くないが、体を動かすと激痛を感じたというのであり、また右時点以前の局長室における学生らとの交渉過程においては、なんら腰痛の自覚症状がなかつたことが認められる。

そうだとすれば、曾我孝之の負つた椎管内障ないしは椎間板ヘルニアの傷害は、既に同人の腰部椎間板に変成を生じていたところに、右学生らの廊下への椅子ごとの押し出し行為によつて加わつた外力が誘因となつて発症したものと認められる。弁護人らは、前記一に記載したような、廊下に押し出された後の曾我局長の行動を云々し、同人の右傷害発症は学生らの押し出し行為と関係がなく、それ以外の誘因によつて生じたものであると主張しているが、右認定のように、発症による痛みは姿勢のとり方によつて緩和することが可能であり、曾我局長もこの方法をとりつつ痛みをこらえて行動していたものと認められるから、右弁護人の主張は理由がない。

四、そこで次に被告人らが右廊下への押出し行為に関与していたかを検討する。

(一)  第一〇、一一回公判調書中の証人佐藤養治の供述記載、証人山脇武治、同植松大義の当公判廷における供述および証人土屋慶之助の当公判廷における供述(一部)によれば曾我局長が、午後六時ころ学生らに局長室から廊下に椅子ごと押し出された際、椅子を押し出していた学生は、土屋慶之助、今野正保、下垣光也、植松大義、前田正洋らであつたことが認められるが、さらに被告人両名が右押し出し行為に加わつていたことは、これを確認するに足りる証拠がない。

まず被告人佐藤については、第一三、一四回公判調書中の証人河野末治の供述記載によれば、同人は当日終始階上で警備員として勤務していたが、右廊下への押し出し行為の際、局長の右側に土屋、左側に下垣がおり、椅子に手をかけていたかどうかはつきりしないが、土屋の前に被告人佐藤がいたと思う。被告人佐藤は、根立を階下に連れ出す集団と共に階下に降りたが、その後二、三〇分して局長室に戻つてきた。そして河野が廊下から局長室に入ろうとしたら、被告人佐藤と下垣から「いいからいいから、君なんか入る必要はない」と両側から室外に押し返された、というのであり、第三、四回公判調書中の証人曾我孝之の供述記載によれば、被告人佐藤はそのときの指揮者であつたと見えて、二階と廊下との間を往来していたり、しよつちゆう大声でどなつて号令かけていた、しかし廊下への押出し行為の際、被告人佐藤がいたかは、はつきりわからない、というのである。

ところで、検察官申請の他の証人佐藤養治によると、(第一一回公判調書中同人の供述記載)同人は厚生課寮務掛であり、当時松風寮の寮生でもあつた被告人佐藤とは、種々会議にも出席していて十分面識があり、被告人佐藤が根立を運び降ろす集団と共に階下ホールに降りたのを、階段下の法制掛の部屋の角から見た後、(もつとも同人は、被告人佐藤が学生服を着用していた旨、他の各証人と異なる供述をしているが、同人の被告人佐藤に対する認識は前記事由により誤まりがないと認められる。)二階に上がり、局長室前の廊下において曾我局長が室外に押し出されてくる状況を正面から目撃し、その後局長室に入つて、廊下に横向きになつた局長の椅子の状況を目撃していたが、被告人佐藤は、右押し出し行為の前後において、局長室および局長室外廊下にはいなかつたように思う、というのである。また、他の証人遠藤栄一(第一二回公判調書中同人の供述記載)、同芳賀繁(第一五回公判調書中同人の供述記載)によると、遠藤は警備員として、芳賀は局長の秘書としてそれぞれ局長室の様子を見に行き、局長が廊下に押し出された直後の状況を目撃したが、その際被告人佐藤がそばにいたかはわからぬ(遠藤)、または付近にいなかつた(芳賀)と供述している。

一方、河野末治の前記供述記載によれば、同人の被告人佐藤に対する面識は、警備員仲間であれが佐藤だということで顔だけは知つていたという程度であつて、事件発生後一〇日位して学生部長室で写真を提示され、当時押し出し行為に関与していた学生の指名を求められたが、直ちには判別できず、吉岡英二の助言的指示によつて、ようやく被告人佐藤と、土屋、下垣がわかつたことが認められ、また同人は、弁護人の反対尋問に対し、結局被告人佐藤が根立の件で階下に降りてから、再び局長室に上がつて来たかは、はつきりしない、帰つて来たように思うとしかいえないと供述しているのである。

以上の諸供述を検討すると、河野末治は、土屋慶之助、下垣光也に対しては事実に即応した正しい認識をしているのであつて、被告人佐藤に関する供述部分も一がいに信用性がないということはできないが一方、既に「罪となるべき事実」の二で認定したとおり、被告人佐藤は根立をめぐる騒ぎが起きてから、同人や他の学生らと共に階下に降り、同所において指導的役割を演じているのであり、第二回公判調書中の証人村上恵一の供述記載によれば、被告人佐藤は評議会が終了して階下に降りて来た評議員の教官らに対し、根立からとりあげた文書を読みあげ、思想調査の文書でないかと訴えていた事実が認められ、各種証拠を検討すると、根立が階下に降ろされてから曾我孝之が廊下に椅子ごと押し出されるまでの時間が、おおよそ三〇分から四〇分の間と推察されることからしても、河野末治はあるいは他の学生を被告人佐藤と誤認しているのではないかとの疑いがあつて、右被告人佐藤に関する供述部分は直ちに採用しがたく、他に被告人佐藤が根立と共に階下に降りた後、再び局長室に戻り、局長の廊下への押し出し行為に加担していたことを認めるに足る証拠はない。

次に被告人藪田については、同被告人は局長室に入つたことは認めながら午後四時三〇分ころ、村上学生部長と共に廊下に降りてそのままホールにいた旨弁解しているところ、同被告人が右時点以後に局長室にいたことを認めるに足りる証拠は全くない。

(二)  しかしながら、直接の実行々為に加担していない者であつても、いわゆる共謀共同正犯として責任を問われる場合もあり、本件起訴がその趣旨でもあることは、起訴状および冒頭陳述の釈明を通して明らかである。そこで、この観点における被告人らの責任の有無をさらに検討する。

ところで共謀共同正犯が成立するためには、二人以上の者が特定の犯罪を行うため、共同意思のもとに一体となつて互いに他人の行為を利用し各自の意思を実行に移すことを内容とする合意をなし、実行々為者は、他の共謀者との間に形成された右犯罪共同遂行の合意に拘束され、これに支配されて犯罪を実行したとの事実が認められなければならず、右のような事実が認められる以上、合意を確定させたのみで直接実行々為に関与しない者といえども、実行々為者の行為をいわば自己の手段として犯罪を行つたという意味において、実行々為者と異なるところはなく、共同正犯としての刑事責任を負うべきものと解すべきであるが、これを本件についてみるに、本件起訴状にいう共謀が、局長室内におけるいわゆる現場共謀であることは検察官の主張するとことであるから、曾我局長が局長室に入室した以後被告人藪田については、村上学生部長が局長室を退出した午後四時三〇分ころまでの間に、被告人佐藤については、根立掛長が廊下に連れ出された時点(午後五時二〇分ころ)までの間に、被告人両名ないしは各被告人と前記土屋慶之助ら五名の実行々為者との間に、局長をむりやり室外に椅子ごと押し出す旨の共同意思が形成確立したこと、およびこれが実行々為時たる午後六時ころまで継続して土屋らを支配し、同人らをして問題の廊下への押し出し行為に至らしめたと認められるか否かを検討すべきことになる。

既に認定したとおり、曾我局長が局長室に入室した際、その場に居あわせ同人を発見した被告人両名を含む学生らは、青葉山移転計画の元締であり、新設扉設置の究極の責任者であると認識していた曾我局長に対し、階下ホールにいる多数学生の前に出て扉設置の理由等を説明すべきことを要求していたことは明らかである。そして被告人佐藤は他の学生と共に、局長が村上学生部長の向いの椅子に腰をかければ「椅子ごと持つてゆけ」と叫び、応接用テーブルに腰をかけると、「テーブルごと持つてゆけ」と叫び、これと意思を共通にする数名の学生が椅子や応接テーブルに手をかけ持ち上げようとしてこれらを倒したりし、さらに、曾我局長が村上学生部長の横の椅子に坐つた後も、被告人薮田は二、三名の学生と共に、曾我局長を椅子ごと局長室入口の敷居の辺りまで押し出し、曾我局長は両足をふんばり自力で元の位置に押し戻し、さらに数名の学生が局長室入口の敷居一尺手前辺りまで押し出し(この時被告人藪田は二、三歩押したのみ)たのであるが、これらの認定に供した前掲証拠によると、二回目の押し出しのときも局長は椅子を坐つたまゝ、両足で押し戻したが、いずれの場合も局長の押し戻しの退路を妨害する者はなく、その間も、被告人佐藤ら学生は、局長に対し階下に行くよう要求していたこと、さらに右二回の押し出し行為後、被告人佐藤が、「局長は下に降りそうにないから、学生を上に連れて来て話を聞こうじやないか」と他の学生に呼びかけたところ、局長のうしろにいた被告人藪田他何人かの学生が「駄目だ、下に連れてゆけ」といつて反対した事実が認められる。

(右被告人間の問答の点に関し、これを認めた証拠は、前掲証人村上恵一の供述記載、および同吉岡英二の供述記載であるが、そのうち村上恵一の供述記載によれば、被告人藪田は、学長会見の代表団の一員でもあつたという部分があるが、同被告人が学長会見の代表団員であつたことは他の証拠上これを認めがたくかえつて、代表団員ではなかつたことが認められるところである。また右村上恵一の供述記載によれば、同人は、事件前には藪田に対する面識はなく、事件後の七月一九日、後記吉岡英二の指示のもとに被告人藪田の入学当時の写真を見て、はじめて同人の氏名を確認したことが認められる。一方、右吉岡英二の供述記載によれば、同人は、学生課総務掛長で、学長会見申し込みの受付事務を担当し、従来学長会見申し込みに来た被告人藪田とは以前から面識があり、本件当日の学長会見に記録係として立会つているが、被告人藪田は学長会見の際には局長室にはいなかつたようだと供述しているのであつて、以上の事実からすれば、吉岡英二には被告人藪田に関する誤認があるとは窺えず、被告人藪田のその余の行動に関する供述記載部分も同様であると考えられる。

したがつて、被告人藪田が学長会見に出ていたという村上恵一の供述部分は、同人の記憶の誤まりであると認められる。しかし、その故をもつて同人が被告人藪田に関する他の供述部分も同様に誤まつているとは断定できず、村上、吉岡両人とも、被告人佐藤については以前から面識があり、被告人佐藤に対する誤認混同がないことは明らかであつて、同被告人の前記発言は動かし難い事実であると認められ、被告人藪田は村上学生部長が階下に降りて行くまで局長室にいたことは同被告人も認め、また既に認定したとおりであるから、結局、村上、吉岡両人の供述記載と総合して右問答の事実はこれを認定し得る。)

さらに既に認定した事実と、第三回公判調書中の証人曾我孝之の供述記載によれば、村上学生部長が四時三〇分ころ階下ホールに降りた後、なおも局長室に残つた被告人佐藤らは、曾我局長に対しても、階下に降りることを要求し続け、被告人佐藤が、局長に対し「局長さん、ひとつ是非下へ行つて下さいよ。お頼みしますよ。」と柔和に出たり「出て行かんか」と大声で叫んで要求し、これに対し曾我局長はあくまでこれを拒否し続け、この過程において局長室内で、二、三度椅子の押し出し、押し戻しの行為があつたが、その後午後五時すぎ、予想もしなかつた根立事件が、局長室内で突発し、学生らの関心が根立に集中して曾我局長の方は一時沙汰止みの形となり、被告人佐藤は、根立を階下に運び出す一団とともに階下に降り、同所で率先して根立を糾弾する言動をしている間に、問題の廊下への押し出し行為が、午後六時ころ、局長室に残つた土屋慶之助らによつて行われたとの事実が認められる。(なお学生らがたえず局長室を出入していることも窺え右最後の押し出し行為の集団が前のそれと同一であるとの保障もない。)

以上の事実を考察するに、曾我局長が局長室に入室後、その場に居あわせた学生らが、同局長に対し、階下に降りて扉設置の理由を説明するよう要求し、これをかたくなに拒否して応じない局長とのやりとりの過程において、東北大学自治会連合の副委員長でもあり、直前の学長会見の代表団長としてその場の指導的立場にいた被告人佐藤は、特に目立つ命令的な発言をしていたものであるが、曾我局長に対し、階下に行つて説明するよう強く迫つていたとはいえ、同局長を「椅子ごと下に連れ出せ」また「テーブルごと持つてゆけ」と号令をし、これに応じて意思を同じくした付近の学生が椅子やテーブルに手をかけこれを倒したりしたが、逃がれようとする局長の身体に手をかけて連れ出しを強行するまでには至らず、局長が向いの応接椅子に移ることによつて、その場は一旦治まり、その後もなお階下に降りるよう説得交渉が続けられ、その間に被告人藪田らの椅子ごとの押し出し行為やその他の学生による押し出し行為が数回行われたというのが事実の経過であると認められ、右によれば、前記の行動を通じて窺われる、局長を椅子ごと室外に押し出して階下の多数学生の前に連行しようとする共同意思自体、是非ともこれを実現しようというほど強固であり、かつ結束的・持続的なものであつたとは認められず、現場において意思を共通にして個々的に行動している間はともかく、その場を離れた後までも他の者を支配し拘束するほどの、確定的強固な共同意思が形成されていたと認むべき事実関係にはなかつたものというべきである。このことは被告人藪田が、被告人佐藤の提案に対し、あくまでも局長を階下に連れて行くよう反対したという事実を考慮しても、なお右意思の実体に消長を来たすものではない。

以上のとおりであつて、被告人らが局長室にいた間に成立したと見られる、局長を椅子ごと室外、階下に連れ出すとの共同意思は、個々の具体的な椅子の押し出し行為等に相伴つて発生し消滅するという浮動的なものとも認められるから、被告人両名が、局長室に在室して命令し、あるいは他の学生と共に行動した行為についてはともかく、局長室の退出と同時にいわゆる共犯団体から離脱したと見るのが相当であり、したがつてその後約四〇分ないしは一時間三〇分後に他の者によつて行われた行動につき、刑事責任を追及されるべきものではないといわなければならない。

よつて、曾我局長の本件椎間内障の傷害の発生原因となつた、土屋慶之助ら数名の学生の椅子ごとの押し出し行為は、被告人らの意思とはかゝわりのない別個の意思によつて行われたものと解すべく、この点につき被告人両名が共謀共同正犯として刑事責任を負うべきものとは断じがたい。

五、以上の次第であるから、被告人両名が他の学生らと共謀のうえ、ないしは共同して曾我局長に前記の傷害を負わせたとの点については、その犯罪の証明がないことに帰する。しかしながら、検察官は右傷害の直接原因となつた暴行行為のみならず、その以前からの局長室における学生らの一連の暴行行為をも、共通の意思にもとづくものとして起訴の対象としていることは明らかであり、(この場合、理論的には、傷害の事実が認められれば、これと直接結びつかない前段階の暴行も、重い傷害罪に吸収されてしまうことになる。)被告人両名が右前段階における暴行行為に関与していると認められることは前認定のとおりであるから、結局において、包括一罪として起訴された訴因の一部が認められないことに止まる。

第五、正当行為である等の主張に対する判断

弁護人らは、被告人両名は本件公訴事実のごとき暴力沙汰とはなんら関係がないと主張する一方、七月一七日(本件当日)における学生のとつた行動、およびその一員として被告人両名のとつた行動は正当行為である、などと主張し、その趣旨はやや理解しがたいが、これを善解すれば、公訴事実が認められた場合の仮定的主張として、次のような主張をしているものと理解すべきである。

一、被告人佐藤の、根立総務掛長に関する公訴事実について。

根立が取り上げられた本件文書(昭和四〇円押第一〇九号の二)は、その内容において、特定の思想に関する学生の行動を調査したスパイ文書であつて、学問の府としての大学において、最大の権限と責任を有する教員団の意思に基づかず、全く無権限・無責任の事務局職員により作成されたということは大学の理念、大学の自治の本旨にもとるものである。しかして被告人佐藤ら学生は、本件文書をいち早くスパイ文書であるととらえ、これをひたかくしにする文部官僚根立に対し、その任意の提出を求めたが、同人は強くこれを拒否したため、責任者である村上学生部長に提出を指示させるべく階下に連れてゆき、多くの学生の前で更に口々に任意にその提出方を促し、村上学生部長や石井庶務課長に対し、その提出方を求めたが、両名は、いずれもスパイ文書を隠すことに加担し拒否したのである。そのため、いさゝかの物理力を用いてこれが提出を求めても、それは憲法一二条により保障され、ある意味では義務づけられた権利の行使と義務の履行の範囲に属する相当な手段方法であり、かゝるスパイ文書をひた隠すという憲法的にも許すべからざる行為に比し、階下に連れて来て、その提出を求められるがごときことは、違法なスパイ文書をかくまう様な行為をした根立としては、当然甘受すべき範囲のことであり、その法益を比較しても問題になる範囲のものではなく、被告人佐藤の行為は憲法九七条、一二条にもとづく正当行為であり、自由をその侵害から護るための正当防衛行為である。

二、被告人両名の曾我局長に関する公訴事実について。

東北大学石津学長その他大学の首脳部は、文部省等の思うまゝの方向に大学を変えて行くために、教育学部教員養成課程の分離問題に際して大学自治破壊行為を行い、さらに大学の自治を破壊しながら青葉山移転計画を強行しようとし、学生らの正当な意思を無視して会見を拒み、当然行うべき意思の疎通を行わない態度であつたので、被告人両名らを含む学生は教員養成課程分離の際の学長らの自治破壊行為の再現を感じ、必死になつて大学の自治を守る行動をとつていたのである。そして本件新設扉(バリケード)の設置は、学生らの正当な抗議におびえ、その学生の要求を正しく批判し指導し受けとめるという教育的方法を放棄し、大学の自主的な考えによる青葉山移転問題についての検討を放擲して、文部官僚の予定した線に沿つて、形だけいかにも大学の討議にかけたかのごとく装つて、全く非民主的な方法によつて審議を強行し、大学の自治を破壊しようとする意思の現われであり、しかも本件扉が学長ら教員団の意思に基づかず作成されたことは、大学の自治の本旨に反するものである。

しかして被告人両名の行為は、右大学の自治を破壊しようとする勢力に対し、学問の自由、大学の自治を守るべく立上つた行動であつて、正に憲法九七条、一二条にもとづく正当行為であり、憲法上保障された自由権に対する正当防衛であり、自然法秩序からすれば正に抵抗権の正当な行使である。

当裁判所は右に対し次のとおり判断する。

まず第一点について考えるに、第三回公判調書中の証人村上恵一の供述記載、証人広中俊雄、同外尾健一、同林竹二の当公判廷における各供述を綜合すると、

東北大学学生部は、以前から、学生の無届掲示や無届集会等の秩序違反行為を現認し警告した場合、学生部名義で「学生の行動について」なる違反行為報告文書を作成し、学生の補導について審議する厚生補導協議会に資料として提出していた例があつたが、昭和四〇年四月一六日開催された評議会の席上、たまたま前日の一五日挙行された東北大学入学式当日における一部学生の騒がしい行動について、評議員の間で話題とした者があり、若干の質疑応答があつて打切りとなつたが、これが契機となつて学長の諮問により、学生課長において、即日関係者から事情を聴取して作成した文書のコピーが本件文書であることが認められ、本件文書が他に格別の意図経緯によつて作成されたものと認むべき証拠はない。

しかして、「東北大学」名の入つた用紙二葉にわたる本件文書の内容は次のとおりである。

入学式当日における「日本民主青年同盟」(―略称「民青同」―)系学生の行動について

学生部

(1)  午前8時頃、「民青同東北大学教養部総班」の旗3本と、明善寮の旗1本を持つて、学生約30名が記念講堂前に集結した。

(2)  学生は8時30分頃から、新入生、父兄に対して(1)ベトナム問題、(2)日韓会談、(3)沖繩返還、(4)青葉山移転問題、(5)宮城教育大学問題等に関するアジビラの配布を始めた。学生部職員は直ちに中止を命ずると共に、責任者の氏名を明らかにするよう要求したが応ぜず。学生の大部分は教養部所属の者と判断した学生課長は、教養部関係者の出動を要請。学生部、教養部職員共同で再び学生の説得に努めたが学生は依然として応じなかつた。

(3)  9時頃、佐藤栄司(文・4)が、ハンドマイクにより、新入生、父兄に対し(イ)ベトナムにおけるアメリカの「侵略行為」反対、(ロ)日韓会談粉砕、(ハ) 沖繩返還を呼びかけ始めたので、直ちに中止を命じたが応ぜず。(なお配布したアジビラには、前述の様に、青葉山移転反対、宮城教育大学設置反対等が書かれていたが、マイクによる呼びかけでは、これ等の問題については全く触れていなかつた。)

(4)  9時30分頃には、学生は約70名程度に増加。同じ頃、南ベトナムの戦争の写真を貼付したパネルを講堂前に持ち込んだ。9時40分頃から1時間に渉り、所謂「学内集会」を行なう。会は佐藤栄司が(3)に述べた3つの問題について学生に訴える形で進められ、「沖繩を返せ」等の歌を合唱して終つた。この間、再三に渉る大学側の中止命令に一切応ぜず。

(5)  「学内集会」後、学生は漸次減少していつた。最後まで残つていた学生(約30名)も、午後5時頃には、教養部構内に向けて引き揚げた。

さて右のごとき文書作成の経過と、文書自体の記載内容から考えると、本件文書は前記入学式当日において、騒がしい行為をした学生らの行動や、これに対する制止等の事実について、学生課長が学長や評議員に対しその内容を報告するための目的で作成された、事実調査の文書であると認められ、これが弁護人ら主張のような思想調査の文書でないことは明らかである。「民青同系学生の行動について」とする表題も、本文をよく読めば、「民青同」の旗を持つた学生らが騒がしい行為をした、ということから付されているに過ぎない。しかして、大学が学生に対する自主的管理権を有し、これを指導監督する権限と責任を有する以上、学内における秩序を乱す学生の行動を把握し、教育的見地からこれを健全な方向に導びこうと努めることは当然のことであるから、本件文書は、右目的範囲を逸脱しているものではなく、憲法の保障する信条、思想の自由等をなんら侵害するものではないというべきである。この点に関する弁護人らの主張は誤解または偏見に基づくものであつて、とうてい賛同しがたい。

また、根立満が、本件文書を学生から取り戻し、被告人佐藤らの提出要求に応じなかつた行為も、しかく提出を拒否する必要はなかつたとはいえ、もとよりそれによつて本件文書が、憲法の保障する思想の自由等を侵害する性質を帯びるに至るものではない。

よつて弁護人らの正当防衛の主張は、その前提を欠き採用の限りでない。

もつとも、行為の違法性は実質的に判断すべく、行為が健全な社会通念に照し、目的の正当性、手段の相当性といわゆる法益の権衡の要件をみたし、かつ特にその行為に出ることがその際における具体的状況に照し、緊急を要するやむを得ないものであり、他にこれに代わるべき手段方法を見出すことが著しく困難であるような事情が認められる場合には、正当行為としてこれを認めるべき余地がある。

これを本件にみるに、本件文書の「入学式当日における「日本民主青年同盟」(―略称「民青同」―)系学生の行動について」と題する表題をみるとき、一見、特定の思想関係の学生の行動を監視し、情報蒐集を継続した結果作成された文書であるとの誤解を招く恐れなしとしない。そして本件文書を事務局長机上の文書中に発見した学生が、これを一べつして思想文書であると速断し騒ぎ出したとしてもあながち無理からぬところである。学生らは、大学当局において学生の思想調査を行つておるとしてこれを嫌悪し警戒していたとの事情はなかつたが、大学との対話を欠き、事務当局に対して不信の念を抱いていた被告人佐藤ら学生は、思想調査の文書だと叫び出した一学生の言をそのまゝうのみにして騒然となり身を挺してその提出を拒否する根立の行動から、ますます思想調査の文書であるとの疑惑を強めたわけであつて、その旨誤信するに至つたことは一面やむを得ぬところがあつたとはいえる。しかし、これに対処するに被告人佐藤ら学生のとつた行動は、その手段方法において、もはや健全な社会通念と法律秩序の精神に照し、とうてい是認することはできないものといわなければならない。

すなわち、文書の性質についての誤信がやむを得ないものであつたにしても、現に思想調査行為、法益侵害行為が目前で行われている場合とは異なり、本件では要するにいかがわしい思想調査の文書が大学事務局職員の手中にあり、その提出を拒まれているという事態に直面しているに過ぎない。(但し、客観的にはそうではなかつたのであつて、学生らの主観においてそう認識されていただけである。)そして、学問思想の自由を最も尊重すべき大学内において部外者であればともかく大学人の一部を構成する事務局職員の手中に「思想調査」の文書がある、と見られる場合にも、事実を究明し明確ならしめるための措置として、まさに文書を発見した際に是非ともこれを取りあげなければ、実効を挙げがたく、その目的を十分に達成し得ないものとは考えられない。学生らとしては、厚生補導委員たる教官に訴えて、当該文書の内容を後日右教官を介して了知させてもらうという方法も可能であろうし、当該文書の保管者であり、根立の究極の上司である曾我事務局長が、当時点において局長室に在室していたのであるから、局長を追及し、または説得して根立に文書を提出させるよう取りはからわせるという方法も可能であつたと思われるのである。しかるに被告人佐藤を含む学生らは、右のような方法をとることなく、多数学生のいる階下ホールまで根立を強引に運び降ろし、たまたま階下にいた村上学生部長、石井庶務課長に騒然たる事態の故に一応助力を拒否されたとはいえ、文書を取りあげるために根立に対し加えた行為は、集団的暴力の行使であり、はなはだ行き過ぎの行為であつて、当時の具体的事情を考慮に入れても他の行為を期待できないものとは決していえないところである。したがつて、その余の判断をするまでもなく、被告人佐藤の行為が正当行為であつたとの主張は採用の限りでない。

次に第二点について考えるに、本件起訴事実の発生に至つた具体的事情は、既に「第一、本件の背景となる事実」の項で詳述したとおりである。

本件の遠因となつた、東北大学の青葉山移転計画等、大学の制度、施設の改廃設定に関し、その担い手である大学の学長、教授その他の研究者が自主的に決定し管理すべき権限と責任を有することは、大学の自治の当然の帰結であるが、大学教育の場で一分子を構成する学生においても、大学の諸問題に対する意思を、右権限と責任を有する教員団に反映させることは望ましくあり、このためには常に両者間に相互に批判的なコミユニケーシヨンと学問的対話が行われていることが望まれる、といえる。

ところで東北大学における各種大学問題、特に宮教大問題が、その担い手である教員団の手によつて自主的に処理される過程において、反対意見に十分耳をかさず、やや性急にことを処理し過ぎた嫌いのあることは、前記第一の項で認定した事実経過に照し明らかであるが、一方大学を構成する教員団と学生との間に円滑な対話を欠き、意思疎通が十分に行われなかつた嫌いもあり、そのために相互不信を招き、疑惑と誤解のうえに不必要な混乱を招来する結果となつたもので、いわゆる新設扉の設置も、学問の府としての大学における措置としては、教育的見地から見て必ずしも適切であつたとは断じ難いところである。したがつて、被告人両名を含む学生らが、宮教大問題、農学部移転問題の処理過程に大学の自治の侵害があるとの認識に立ち、その抗議行動に出た心情、および右抗議行動を封じようとした新設扉の設置により、ますます憤慨してこの点についても強く抗議しようとした心情については、これを了解し得ないでもない。しかしながら、被告人両名の局長室における曾我事務局長に対する判示の行為は、最高学府に学ぶ学生としてはあるまじき、節度ある抗議行動から逸脱した集団的暴力行為であるから、目的が正当であるからといつて、その手段においてとうてい正当性があるとはいえないものである。また正当防衛ないし抵抗権の主張については、そのいう自由の侵害が直ちに排除行為を必要とするほど、急迫であり現在のものであるとは認められないから、右主張も前提を欠き採用の限りではない。弁護人らの正当行為である等の主張はすべて理由がない。

第六、公訴棄却の主張に対する判断

弁護人らは、本件公訴は棄却されるべきであるとして、その理由を次のように主張している。

一、本件につき、検察官は公訴権を有しない。すなわち、大学は、「学問の自由」の一環として認められる大学の自治の一内容として、施設および学生の管理に関し自主的な秩序維持機能を有し大学内部に発生した刑事事件であつても、大学がその自主的秩序維持機能により処理し得る範囲内と判断する事案については、第一次的処理機能は大学に認められており、その限りにおいて警察権の発動は排除されている。したがつてその大学の有する第一次的でかつ最終的な右処理機能により、その事案が処理されれば、もはやそれ以上の処理は不要になり、刑訴法第二四八条の、犯罪後の情況により訴追を必要としなくなつたものとして不起訴処分がなされなければならない。にも拘わらず公訴提起が行なわれた場合には、公訴提起自体が規定に違反したものとして無効の評価を受け、同法第三三八条四号により公訴が棄却されなければならない。

二、また、本件公訴は、大学の自治を否定するために行なわれた公訴提起であるので、公訴権の濫用として公訴が棄却されなければならない。

本件公訴前の昭和三九年八月一〇日、仙台地検池田浩三検事正が東北大学に斎藤秀夫法学部長を訪問した際、斎藤部長は、「七月一七日のことは、性格的に大学移転問題の処理の際の出来事で、学内問題なので、大学の自治の観点からも、教育的見地からも、大学において真剣に取り組むべき問題であつて、外部の捜査権の介入は絶対にさけるべきである」ことを要望あるいは意見として述べた。しかるに池田検事正は、学内捜査等本件捜索遂行過程に数々の大学の自治を侵害する違法行為が行なわれたのに、そのような捜査に立脚して本件公訴提起を命じたのである。これらのことは、大学にひそかに警察の捜査を進めさせた一部大学人および文部官僚が、一方的に強行しようとしていた反動的な東北大学青葉山地区移転整備計画が、学問の自由、大学の自治を守る民主的大学人により、一頓挫せざるを得なくなつた事態の中で、前者の要請により、後者を弾圧すべく本件公訴が起訴されたと考える以外、当時の検察庁の態度は理解することができないのである。

したがつて、本件公訴は学問の自由、大学の自治を否定し、日本の平和と民主主義を破壊しながら進行する反動文教政策に抗して、学問の自由、大学の自治を守るべく立上つた大学構成メンバー、特にその中の学生グループを弾圧し、大学の自治を否認する目的のために提起されたもので、公訴権の濫用として本件公訴を棄却すべきである。

当裁判所は、右に対し次のように判断する。

憲法によつて学問の自由が保障され、大学における学問の自由を保障するため、伝統的に大学の自治が認められていること、この自治の権能が大学の施設および学生に対する管理権をも内容とし、学内の秩序維持については大学に自主的な秩序維持権能が認められていることについては、当裁判所もこれを認めるにやぶさかではない。しかしながら、右の自主的秩序維持権能と警察権ないし犯罪捜査権、公訴権との関係を考えると、公共の危険の除去による社会秩序の維持、犯罪の予防ないしは鎮圧を目的とする行政警察権の行使に属するものは、大学内の秩序維持が、大学自治の本旨に則り第一次的には大学学長の責任と管理のもとにその自主的処理に任せられている以上、大学当局の能力において処理することが困難ないし不可能な場合に、大学当局の要請により初めて発動されることが適切、妥当であると解すべきであるが、特定の犯罪の捜査、被疑者の逮捕等、司法警察権ないし犯罪捜査権の発動は、大学内で発生した犯罪に対しても、任意の手段あるいは法的手続に従つて独自になし得るものと解すべく、大学当局の要請ないし許諾のもとに初めて発動しうるものとすべき筋合のものではなく、ただ大学における自治の本義にかんがみ、右司法警察権ないし犯罪捜査権の行使といえども、慎重に行い、必要の限度をこえないことが強く要請されるにすぎないものである、と考える。けだし大学の自主的秩序維持権能といえども、それは治外法権を意味するものではなく、学内で学生、職員らによる犯罪行為が発生した場合にも、学内事件なるが故に国家の刑罰権の行使を免かれるべき理由はないから、特定の犯罪容疑について刑罰権行使の前提手続たる、捜査機関による捜査権行使がなされる場合には、大学の右秩序維持権能を理由に捜査権行使を拒否し得る理由はないというべきだからである。なお、その犯罪容疑が建造物侵入器物損壊等、比較的軽微であつて重大な人権侵害に至らないようなものについては、大学が事態収拾に警察力の発動を要請しなかつたような場合には、大学の自主的処理の意思を尊重し、捜査機関においてあえて捜査権を行使するのを差しひかえることが望ましくあり、また実際上もそのような慣行が形成されつつあると考えられるが、それは例外的であつて、原則ではないというべきである。

検察官の具体的公訴権の行使についても、以上によつて結論はおのずから明らかであろう。

以上の観点から本件を考察するに、本件は大学構内において、大学生が多数共同して曾我事務局長および根立事務職員に対し、暴行を加え、事務局長には全治六週間の傷害を負わせたという被疑事実のもとに捜査が進められ、公訴提起がなされたことは本件記録上明らかであり、また事実そのとおりの犯罪事実が存在したことは、前記事実認定および関連の説示に示したとおりである。被告人両名は、曾我局長に対する傷害の点についてはその犯罪の証明は十分でなかつたが、起訴当時においてその犯罪の証拠が皆無であつたとか、極めて薄弱であつたとは認められず、右の点も含めて公訴提起をなすべき嫌疑は一応十分であつたと、本件審理の経過からして認められるところである。

そうであるならば、これは単に大学内の秩序紊乱行為として、大学の自主的秩序維持権能の名のもとに大学当局者の処理のみにまかされるべき事案ではなく、重大な人権侵害の犯罪として、社会人として刑事責任を追及されなければならない事案であるといわなければならず、したがつて、検察官が本件につき公訴権を有しないとの前記主張は全くその理由がない。また、右のような事案の性質上、司法警察権ないし犯罪捜査機関の捜査権が、大学の意向にかかわらず介入したとしてもなんら違法でなく、大学の自治を侵害したことにもならないというべきである。

(なお、証人池田浩三、同斎藤秀夫(第三二回公判)の当公判廷における供述を綜合すると、当時の仙台地方検察庁検事正池田浩三は、本件事件の特殊性にかんがみ、事件の具体的処理にあたつては事前に石津学長、斎藤秀夫法学部長ら大学首脳部と面会して大学当局の意向を打診し、その学生に対する自主的管理権にもとづく被疑者学生の処分の意思の有無をただし、処分がなされるならば検察庁としても処理上参考とする意向を伝えたが、東北大学では本件起訴がなされるまでに、早急な措置が取られなかつたことが認められる。)

その他本件公訴が、大学の自治を否認し、大学移転計画に反対する被告人ら学生を弾圧する目的のために提起されたと認めるに足りる証拠はないから、本件公訴提起が公訴権の濫用であるとする理由は認められない。

よつて、本件起訴は適法というべきであるから、弁護人らの公訴棄却の主張は理由がない。

第七、法令の適用

被告人両名の判示第二の一の各所為、被告人佐藤の判示第二の二の所為は、いずれも暴力行為等処罰に関する法律第一条、罰金等臨時措置法第三条第一項第二号に各該当するので、それぞれ所定刑中罰金刑を選択し、被告人佐藤については右各所為の罪は刑法第四五条前段の併合罪であるから同法第四八条第二項により各罪所定の罰金の合算額の範囲内で罰金一〇、〇〇〇円に、被告人藪田については、所定金額の範囲内で罰金三、〇〇〇円に各処することとし、右各罰金を完納することができないときは、同法第一八条により、金五〇〇円を一日に換算した期間、各被告人を労役場に留置することとし、訴訟費用中、証人常陸角治、同高橋泰志、同斎藤秀夫(第二四回公判)、同池田亀夫および鑑定人池田亀夫に支給した分を除きその余は、刑事訴訟法第一八一条第一項、第一八二条によりこれを被告人両名に連帯して負担させることとする。

なお、本件公訴事実中傷害の点については、結局証明がないことは前に説示したとおりであるが、右は一罪として起訴された訴因の一部であるからこの点につき特に主文において無罪の言渡をしない。

また、弁護人は、暴力行為等処罰に関する法律は、大正一五年治安警察法第一七条の廃止とひきかえに本来治安立法として生れたもので、その制定の経緯から、国民の基本的人権、就中「結社の自由」「団結権」が最大限に保障されている現憲法下では全く存在を許されない法律であり、労働運動、民主主義運動さらには本件被告人両名を含む学生運動全般に対し、適用されない法律であると主張するが、他の要請によつて許容される適法性の限界を越えた暴力行為に対しては、たとえ右各種運動中の行為といえども本法の適用を免れないものと解すべきであるから、右主張は採用しない。

よつて、主文のとおり判決する。

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