仙台地方裁判所 昭和48年(た)2号 判決 1984年7月11日
〔目次〕
主文
理由
第一 再審公判の問題点
一 公訴事実
二 認定事実及び争点
三 自白と補強証拠の関係
第二 捜査及び情況証拠について
一 捜査の経過
二 被告人に対する容疑関連事実について
三 動機―被告人は忠兵衛の妻を目撃したか
1 家族の者の不在証明
2 隣人むつ子の目撃供述
四 事件当夜のアリバイについて
五 盗癖及び家出した事情
六 犯行現場の状況について
七 兇器について
八 まとめ
第三 ジャンパー及びズボンその他の着衣等について
一 着衣、下駄の鑑定結果
二 ジャンパー及びズボンに血痕の付着証明がないことについて
三 ジャンパー及びズボンの同一性について
四 まとめ
第四 掛布団の襟当てに付着した血痕群
一 付着した斑痕群について
二 血痕群の血液型鑑定について
三 血痕群の付着状況と付着原因について
四 押収当時襟当てに多数の血痕群が付着していたか
1 捜査員の証言について
2 現場写真のネガの紛失について
3 襟当ての写真には血痕が写っているか
4 襟当ての写真の成立について
五 掛布団の保管、移動並びに二重鑑定をめぐる問題について
1 三木鑑定の経過について
2 平塚鑑定の経緯について
3 三木、平塚の二重鑑定をめぐって
4 まとめ
六 掛布団についての被告人及びその家族に対する弁明手続等について
七 まとめ
第五 自白の任意性及び信用性
一 自白の概要
二 自白の任意性
1 取調べの違法事由について
2 「自白」をした理由
三 個々の供述内容の信用性
1 動機についての供述
2 瓦工場での休憩についての供述
3 割山の崖道についての供述
4 被害者方屋内の状況についての供述
5 自在鈎についての供述
6 被害者らの寝ていた順序についての供述
7 兇器についての供述
8 兇器の所在場所についての供述
9 殺害方法についての供述
10 被害者らの反応についての供述
11 兇器の遺留場所についての供述
12 殺害後忠兵衛夫婦に何かを掛けたとする供述
13 放火場所についての供述
14 放火材料についての供述
15 稲杭についての供述
16 出火を確認した時間についての供述
17 返り血についての供述
18 ジャンパー、ズボンの洗濯についての供述
19 逃走中のその他のできごとについての供述
20 ジャンパー、ズボンの処理についての供述
四 録音テープの存在について
五 自白についての総合判断
第六 結論
別紙
第一 事件現場見取図
第二 犯行ルート図(被害者方宅地図付)
第三―一 襟当てに付着した斑痕群一覧表
第三―二 斑痕群一覧表添付図
第三―三 襟当ての写真、同上説明図
仙台拘置支所在監中
齋藤幸夫
昭和六年三月一六日 生
右の者に対する強盗殺人・非現住建造物放火被告事件について、仙台地方裁判所古川支部が昭和三二年一〇月二九日言い渡した判決(昭和三五年一一月一日最高裁判所において上告棄却の判決があり、同月二四日確定)につき、右の者から再審の請求があったところ、当裁判所は昭和五四年一二月六日再審開始の決定(昭和五八年一月三一日仙台高等裁判所において抗告棄却の決定があり、同年二月六日確定)をしたので、検察官佐藤謙一、山田一夫、吉野勝夫、宮崎明雄並びに弁護人島田正雄、青木正芳、袴田弘、佐藤唯人、西口徹、高橋治、佐川房子、岡田正之、阿部泰雄、佐藤正明、犬飼健郎、増田隆男各出席の上審理して、次のとおり判決する。
主文
被告人は無罪。
理由
略語例
確定審第一審=頭書の仙台地方裁判所古川支部における審理、確定審第二審=その控訴審の仙台高等裁判所における審理(判決は昭和三四年五月二六日)員面調書=司法警察員に対する供述調書、検面調書=検察官に対する供述調書
第一 再審公判の問題点
一 公訴事実
本件は、昭和三〇年一二月三〇日仙台地方裁判所古川支部に起訴された強盗殺人・非現住建造物放火被告事件の再審事件であって、その公訴事実は以下のとおりである。
(公訴事実)
被告人は、
第一 昭和三〇年一〇月一八日午前三時三〇分頃、現金を窃取する目的で宮城県志田都松山町氷室字新田一四〇番地小原忠兵衛方に押入ったが、忠兵衛等家族の寝ている姿を賭て予て面識ある忠兵衛に目を醒まされては困ると思い、家族全員を殺害したる上金員を物色せんと決意し、有合せたる刃渡八糎の薪割を以て就寝中の右忠兵衛(当五四年)同人妻よし子(当四二年)同人の長男優一(当六年)淑子(当一〇年)の頭部を順次数回宛切り付け即死せしめて殺害し、箪笥の抽斗を開いて金員を物色したが現金が見付からなかった為金員強取の目的を遂げず
第二 右犯跡を隠蔽せんが為、家屋を焼払はうと決意し、同家に有合せたる杉葉束、木屑等を右忠兵衛等の屍体の枕許に持ち来って所携の燐寸を用いて之に点火発火せしめ、因って現に人の住居に使用せざる右忠兵衛の所有していた間口三間半、奥行三間の木造藁葺平家一棟を全焼せしめ、以て焼燬したるものである。
(公訴事実の訂正)
当再審第一回公判期日(昭和五八年七月一二日)において、検察官は、公訴事実中、忠兵衛の年令「当五四年」とあるのを「当五三年」と、淑子の年令「当一〇年」とあるのを「当九年」と、「よし子」とあるのを「嘉子」と、「優一」とあるのを「雄一」とそれぞれ訂正した。
二 認定事実及び争点
公訴事実に関し、証拠上疑いの余地なく認定できる事実は、「昭和三〇年一〇月一八日午前三時五〇分頃、宮城県志田郡松山町長尾字氷室一四〇番地小原忠兵衛方に火災が発生し、同人所有にかかる約一〇坪五合の木造平家建家屋一棟が全焼し、焼跡から主人忠兵衛(五三歳)、妻嘉子(四二歳)、長男雄一(六歳)、四女淑子(九歳)の四人の死体が発見されたが、これらの死体には、いずれも頭部に刃物様の兇器で切りつけられたと思われる割創が存在したこと、犯人は同月一七日深夜から翌一八日の右時刻にかけて一家四人を殺害し放火したこと。」である。
右事件の容疑者として被告人が検挙されて犯行を自白し、その後これを撤回したが訴追されて、さきの確定審第一審において死刑の有罪判決を受け、頭書のとおり確定した。被告人の有罪を決定的に裏付ける主要な証拠としては、被告人の捜査段階における自白と掛布団襟当てに付着していた血痕群及びその血液型鑑定があげられる。本件再審公判において、検察官は、被告人の自白の任意性はあり、その真実性も十分存するところで、掛布団襟当てに付着した血痕群はこれを決定的に裏付けるものであって確定審第一、二審の有罪認定に誤まりはなく、かえって本件再審開始決定を維持した抗告審決定が無罪を言い渡すべき新証拠(ジャンパー及びズボンに関する宮内、木村鑑定)に関してなした判断は誤まりであると批判し、公訴事実につき有罪を主張している。
被告人は確定審第一審以来の無実の主張をもって本審公判にのぞんでいるが、弁護人は、被告人の自白は任意性並びに信用性に欠け、掛布団襟当てに付着した血痕群は工作された疑いがあり、その血液型鑑定も科学的価値に乏しく、また、ジャンパー及びズボンに当初から血痕の付着がなかったことは自白の虚構性すなわち被告人の無実を証明すると主張している。
三 自白と補強証拠の関係
右のように、本件審理の核心は公訴事実の成否にあり、その帰すうは被告人の自白の採否いかんにかかっているが、その判断に先立ち、自白を獲得した捜査手続とその補強証拠収集手続について一応の検討を試みる必要がある。本件の捜査手続には訴訟法上若干問題となる点が存するところであるが、その点は暫らく擱くとして、自白と補強証拠の構造にやや特異な関係が認められる。すなわち、本件では自白以前に見込み捜査が先行し、捜査員は、(一)被告人の犯行動機(借財、忠兵衛の妻を目撃したことなど)をあらかじめ想定、推認し、(二)この想定のもとに犯行現場の状況についての実行行為(殺人、放火)を推測していたと考えられるところ、自白はこれらに全面的に符合する形となっている反面、(三)犯行の往路(駅から瓦工場、山道を経て現場)と(四)犯行の帰路(現場から大沢堤、杉林を経て帰宅)の犯行ルートは、捜査員が予測したものではなく、自白によってはじめて明らかにされ、これを裏付ける実測、検証等が行われ、着衣、布団等の証拠が収集されたのである。以上のように、(一)ないし(四)の犯行の全容は捜査員の見込みと被告人の自白とが相互に補完、補強し合い、二人三脚的に組み合わされていることが顕著に設められるところ、被告人はその後自白を撤回し、これを全面的に否認するに至ったのである。そうすると、(一)、(二)に関する見込み補強証拠が自白を離れて客観的証拠によってもこれを維持し得るか否かを検討し、もしこれが揺らぐとするときは、その限度で自白の真実性もまた揺らぐものとしなければならないし、(三)、(四)に関する補強証拠も、それが被告人の自白を確固として裏付けるものでないときは、自白の真実性もまた弱まるものとしなければならないのである。
そこでこれらの諸点につき、順次検討を試みる。
第二 捜査及び情況証拠について
一 捜査の経過
確定審第一審第一二回公判調書中証人亀井安兵衛、千葉彰男の各供述部分、同第一三回公判調書中証人佐藤好一の供述部分、確定審第二審第三回公判調書中証人千葉彰男の供述部分、亀井安兵衛の昭和三三年一〇月三日付証人尋問調書、宮城県警察本部捜査第一課作成名義の「松山町の一家四人おう殺並に放火事件」と題する文書一綴(昭和五八年押第一九号の六、以下これを「県警文書」という。)その他逮捕、勾留の身柄に関する書証並びに被告人の各供述関係調書を併せると、次の事実が認められる。
(1) 宮城県警察本部は、本件の捜査のため、本部長の総指揮の下に、刑事部、他警察署員を含め総員六五名をもって特別捜査本部を編成し、古川警察署松山町巡査派出所に本部を設置し、強力な組織捜査を展開することとした。
(2) この事件は放火により現場が破壊されたことや犯行の動機も多様に推定されたため、現場を中心に半径約四キロメートルの地域にわたって浸透した捜査を行い多数の素行不良者等を含む容疑対象者があげられたが有力者をしぼり切ることができなかった。犯行の動機は、殺害手段が必要以上に残虐で、しかも二児まで殺した上放火していること、被害者方は零細農家で傍ら日雇をして暮し、現金を貯めている家とは思われないこと、忠兵衛の妻に異性関係の風評があったことなどから、痴情又は怨恨の線が有力と考えられたが、他方、本件直前の昭和三〇年一〇月一六日より居宅の増築工事に着手している関係上小金を貯めているとの風評もあることから、物盗りの線も考えられた。その結果犯行と直接結びつく有力な容疑者はあらわれなかったが、対象者は、被害者嘉子と交際関係のあると思われる男女五名及び物盗りの疑い一名(被告人)にしぼられた。
(3) 同年一一月二五日の捜査本部検討会では、捜査員のアンケートや無記名投票が行われ、痴情による犯行との見方が多数で、その有力容疑者として被害者嘉子と関係のあった某男があげられ、他方物盗りによる犯行との見方もあり、その有力容疑者として齋藤幸夫(被告人)があげられたが、検挙はあくまで慎重にすべきであるとの意見が交換された。しかし、右検討会後引続き行われた幹部の打合せ会議において、更に容疑者をしぼった結果、齋藤幸夫を別件傷害の容疑で逮捕し、取り調べるとの方針が決定された。
(1) 右方針に基づき、捜査員は翌一一月二六日古川簡易裁判所裁判官に請求して「被疑者齋藤幸夫は、昭和三〇年八月中齋藤虎治方で高橋一を手でひきずって転がし、更に二、三十回殴打し、全治一〇日間を要する歯根膜炎の傷害を負わせた」旨の傷害事件につき逮捕状の発付を受けた。
(5) 同年一二月二日捜査員らが上京し、都内の後記精肉店に店員として住み込み中の被告人を東京都板橋区内の板橋警察署に任意同行させた上同日午後六時四〇分右逮捕状を執行し、被告人の上京後の行動について関係者から事情聴取を行い、被告人に対しては当夜のアリバイの成否について質問するなどして本件捜査に入った。
(6) 翌一二月三日午前一〇時に被告人を古川警察署に引致し、以後主たる取調べは同署刑事係係長亀井安兵衛警部、同副係長千葉彰男警部補らが担当し、同日傷害事件について、翌四日には銃砲刀剣類等所持取締令違反事件について取り調べ、同月五日右傷害事件について勾留して本件の取調べを行ったところ、同月六日午後八時過ぎになって、被告人は犯行を自供した。
(7) 被告人は右自供後は全面自白し、同月八日に本件(強盗殺人・現住建造物放火事件)について逮捕、同月一二日本件について勾留され、同月一五日まで自白を維持し、現場検証で指示説明したり犯行の手記を書いたり、録音テープに自白をとられたりなどした。
(8) 同月一五日夜に至り、亀井警部宛に犯行を全面否認し、無実を訴える否認の手記(以下これを「否認の手記」という。)母宛の手記(いずれも被告人の同月一六日付員面調書添付)を書き、翌一六日朝これを提出したが、同日付で「この手記は母の顔が浮んだので嘘を書いた。今後は正直に話して潔ぎよく罪に服する覚悟である。」旨の調書をとられて一旦これを撤回した形となった。しかしその後は否認を貫き、以降の捜査、確定審公判、請求審公判を通じ無実を主張している。
二 被告人に対する容疑関連事実について
被告人は、昭和二〇年三月本籍地の国民学校高等科を卒業し、近在の村立南郷農学校に進学したが、第二次大戦が終戦となった同年八月これを中退し、宮城県志田郡鹿島台町で製材工として働き、昭和二六年秋、父虎治が同町内で開業した製材業を手伝い、一時期、岩手県釜石市で「とび」仕事や東京都足立区でトラックの運転助手をしたほかは家業に従事し、本件当時は鹿島台町平渡字上敷三七番地で製材業を営む兄常雄夫婦、祖母さきのほか弟妹ら一〇人の家族と共に起居し、父虎治、母ヒデは同町内で妹二人と共に別居し、製材店を営んでいた。以上は関係証拠によって明らかであるところ、県警文書及び亀井警部らの前掲供述によれば、捜査員が被告人を本件犯行の容疑者とした容疑事実とは、要約すれば以下のようなものである。
①三、四年前より不良仲間に出入りし、素行不良者で毎晩のように町内を俳徊し、ヒロポン常習者の噂もあること。
②鹿島台劇場で観覧中一時上映が中断した際に火をつけるぞと野次った事実があること。
③夏頃、鉄道員に傷害を与え、友人に短刀及び陸軍用短剣一振の保管方を依頼した事実があること。
④酒好きで町内の料理屋、飲食店に約一万円の借材があり、金銭に困っていたこと。
⑤一〇月一六日午前中被害者小原嘉子が子供二人を連れて被告人方に建築資材を買入れに来たのを目撃していること。なお、被害者忠兵衛方では増築のため、小金を貯めているという風評があること。
⑥一〇月一七日晩加藤浩と小牛田町に行き衣類を入質して飲食し、その後一人で午後一〇時頃鹿島台駅前に下車したが、翌一八日午前六時頃までのアリバイがないこと。
⑦事件発生後家出するまでの間三回にわたり、母ヒデより、「お前が小原さん達をやったのではないだろうな。もしそうだとしたら早く話して謝まれ」と促された事実があること。
⑧盗癖があり、一〇月二五日夜金澤定俊と共謀し、自宅より米七斗を盗み出して遊興し、同月二七日右金澤、清俊治と共に東京方面に無断家出し、所在不明であること。
⑨一一月二五日弟彰に対し、封書で俺のような人間になるな、真面目に勉強して立派な人になれと戒めている事実があり、同時に上京先の住居も判明したこと。
以上のほか被告人には土地カンがあり被害者を知っていること、その他余罪などから性格的にも犯行の動機が窺われることなどがあげられている。
右のような見込みをたてて捜査をすすめることは捜査の基本であり常道であると思われるが、問題はこれをもって直ちに被告人を犯人と決めつけることが出来るかどうかである。捜査の経過に徴しても、被告人に対する一般的な容疑はそれほど高度なものではなかったと考えられるのであり、そうだとすれば、右の見込み容疑の関連する個別的事実についても、果してそれらが本件犯行に関連ありといえるか、個々の事実はその後の進展により客観的な裏付けが得られたか否かなどについて検討を加える必要がある。
①の素行不良の点は一般的な性格行動に関するもので、同様の多くの青年、成人にも共通する事項であり、②の火つけの野次は関係者の裏付供述があるが(柳橋多美子、堀部保男の各員面調書)、被告人が酔って一時的に放言したものと窺われ(被告人のこの点に関する弁明供述はとられていない。)、共に本件犯行との関連性に乏しい事情である。③の傷害(別件逮捕、勾留の基礎となった事実)及び旧陸軍用短剣の所持等の事実も被告人の本件犯行を推測させるものではなく、かかる余罪をもってたやすく本件の容疑事実とすることは許されないものである。⑦の母から本件を問われた事実は、被告人も捜査、確定審公判においてこれを認め、母は何かことがあるといつもそのように言うと述べているところ、母ひでことヒデは昭和三〇年一二月一〇日付員面調書において、「事件の二、三日後幸夫に松山事件を知らないかというと、幸夫がおこって『母ちゃんおどけにもそんなことを話すのか』と言ったが、顔色や態度は変わらなかった。その一、二日後、また幸夫に、『警察の人が随分苦労しているがお前やらないか。やったら出て話せ』と言ったし、あと一回位言った。」と供述しているが、その会話の内容やその他のヒデの捜査員に対する供述調書を併せると、右のヒデの言葉は、ヒデが被告人を犯人と疑っていた趣旨ではなく、警察官の聞き込み捜査を目のあたりにし、母がわが子の身を案ずる一念から出た類のものと推察され、これを容疑事実に入れることは妥当でない。更に、⑨の俺のような人間になるなという弟への戒めも、被告人が犯行を暗に告白した趣旨とはとうてい考えられず、この言動も当時の被告人の素行から考えて格別不自然なものではない。
そうすると、犯行と関連性がもたれる容疑事実としては、④の借材があること及び⑤の被害者嘉子を目撃したことなどに関する物盗り動機、⑥のアリバイがないこと、⑧の盗癖及び犯行後間もなく家出して所在をくらませた事情などが有力なものとされよう。そこで更にすすんで以下にこれらについて検討する。
三 動機―被告人は忠兵衛の妻を目撃したか
捜査員の見込みによって形成された被告人の犯行の動機は、(一)被告人が飲食店に借財がありその返済と小遣銭に窮していたことのほか、(二)犯行前一〇月一六日頃忠兵衛の妻が被告人方に来て木材を買うのを被告人が目撃したことが重要であり、これを機縁として(三)被告人が盗みを決意したというのが捜査員の捜査の構図であるところ、ここではこの前提となるところの(二)の事実が果して客観的に裏付けられているか否かについて検討を加えるに、以下に説示するように、この点は必ずしも十分でなく、かえって被告人の否認供述(私はその時家にいなかった。)を裏付けてさえいるように思われる。
1家族の者の不在証明
まず、忠兵衛の妻嘉子が昭和三〇年一〇月一六日午前中被告人の兄常雄から杉材一本を購入したことは関係証拠によって認められる。大窪留蔵の昭和三〇年一〇月二〇日付員面調書、同年一二月一四日付検面調書によれば、大工の留蔵は同年一〇月一六日より忠兵衛方台所(別紙第一、犯行現場見取図の六畳間の北側に接する。)を拡げる改築工事を請負い、朝から仕事にかかったが、嘉子に齋藤製材所に行って土居に使う杉材を買って来るよう頼んだところ、午前一一時頃忠兵衛がこれを担いで来、嘉子は一二〇〇円払って来たと言っていた、というのである。
齋藤常雄の昭和三〇年一二月三日付、同月一四日付各員面調書、同月一六日付検面調書、齋藤彰の同月一六日付検面調書、齋藤勝の同月一八日付検面調書によれば、次の事実が認められる。
一〇月一六日は朝から常雄宅の北西七、八百メートル離れた田甫で一家で稲上げ(稲揚)をした。常雄のほか弟彰、勝も手伝い、常雄の妻美代子が稲丸きをし、父虎治が乾し方をした。稲上げをしている最中の午前中、妹トモ子が「お客が材料を買いに来た。」と言って迎えに来たので、常雄は、リヤカーの車の空気が抜けたと言っていた右の弟二人を連れて自宅に戻った。四十四、五歳位の女の人が子供と二人連れでリヤカーを持って来ており、敷桁に使う一六尺もの三寸角を彰、勝に手伝わせて製材し、一二〇〇円で売り渡した。常雄は会話をしているうちに同女が新田の小原忠兵衛の妻であることをはじめて知った。
以上の事実が認められるが、常雄は、そのとき「幸夫は居なかったと思う。姿ちゃんに聞いたら、幸夫は御飯を食べて出かけて行ったというので弟二人に製材を手伝ってもらった。」(一二月一四日付員面調書)、「家では玄関の戸も六畳、八畳の障子も開けていたように思うが、幸夫の姿は見えなかった。私は幸夫に忠兵衛の奥さんが材木を買いに来たこと等は話していない。」(同月一六日付検面調書)と供述し、彰は、「その日私達は稲上げをしておりましたが、幸夫兄はそれを手伝わずに遊びに行ったと憶えております。」と、勝は、「稲上げの日留守番は祖母と妹で幸夫兄が家に居たかどうかわからない。」とそれぞれ供述している。
以上によると、嘉子が常雄宅に材木を買いに来た時、被告人は家に居なかったのではないかと考える余地が十分あり、常雄の一二月一四日付員面調書は、被告人が自白を維持し、忠兵衛の妻を自宅で見たという供述をしていた段階のものであって、常雄らがことさら虚偽の申し立てをしたとは考えがたい。
これに対し、斎藤きさの昭和三〇年一二月一九日付検面調書によると、「稲上げの時、午前中幸夫が手伝わずに家でブラブラしていたので、お昼近くに私が幸夫に今日は稲上げだから手伝うんだぞ、と言ったと記憶している。」というのであり、これが被告人の在宅を裏付ける有力証拠とされているのである。しかし、きさは、七八歳の無筆の老女で、右供述時から約二か月前の午前中の平凡な挙動を鮮明に記憶していることが可能であろうか。当日は稲上げの日という印象的な日であったが、きさは右調書で「稲上げの日にお客さんが来たかどうか記憶して居りません。」と述べ、嘉子が訪れたこと、常雄らが稲上げ現場から戻り、製材して売ったことなど当然印象に残るべきことすら記憶していないのである。また、きさの同月一三日付員面調書では、被告人の動静に関する供述の中で、稲上げの日に関する供述はないもので、右検面調書はたやすく信用しがたい。
2隣人むつ子の目撃供述
金森むつ子の供述関係証拠によれば、むつ子は、常雄方の一軒置いて隣りの食堂「金森屋」の女将であり、一〇月一六日午前中、家の前で洗濯物を干していると女の人(被害者嘉子)が太い材木一本を積んだリヤカーをひき、女の子と男の子に後押しさせているのを見送ったという。
むつ子の昭和三〇年一二月二二日付検面調書は、「女の人がリヤカーをひいて行ったのは午前一〇時か一一時頃で、材木を常雄らが製材する時私は洗濯物を干したりしていたが、幸夫も家に居たのを見ている。私の記憶では、幸夫も製材を手伝っていたように思うが、兎に角家に居たことは間違いない。」と断定的な表現をもって被告人が在宅したとしている。
しかし、当日製材を手伝ったのは他の弟二人であり被告人はこれに加わっていないし、むつ子が女の人を目撃したという洗濯物干しの位置からは常雄宅を見通すことができない(確定審第一審の昭和三一年一二月一八日付検証調書)から、右検面調書は客観的事実にも合致しない。
むつ子は、確定審第一審第六回公判で、「嘉子が金森方前の道をリヤカーをひいて通ったのを見ただけで、嘉子が被告人方で材木を買ったところも、被告人がいたかどうかも見ていない」と供述し、昭和三〇年一二月一八日付員面調書においても「女の人が一〇歳位の女の子と七歳位の男の子に後押しさせ、太い材木一本を積んだリヤカーをひいて、私の家の東側の道路を南の方に下って行った。」とし、被告人がいたか否かについては、「その日は確か常雄、彰と被告人の三人で製板していたと思った。」と述べるにとどまり、被告人がいるのを見たとは言っていないのである。また、むつ子の確定審第二審昭和三三年一〇月三日付証人尋問調書によると、「普段、幸夫さんは家の中に居るのでその日も居たような気がするので、居たようだと話したわけです。」と述べ、これらの供述の方が自然である。
右検面調書には製材を手伝っていたとする以外には被告人がどうしているのを見たのかについて具体的な供述が全くないのであり、右のとおり被告人が製材を手伝っていたことが認められない以上、被告人がいたとする供述には具体性がなく、信用性に乏しいといわなければならない。検察官は、金森が確定審第二審の証人尋問調書においても、当日被告人が家にいたように記憶する旨述べ、更に右検面調書で述べたことは新鮮な記憶に基づき本当のことを述べた旨供述したことを指摘するが、新鮮であった点では右供述調書と符合しない先の員面調書の方がよりそうであったわけであり、被告人が家にいたように記憶すると述べた点も、「普段被告人は家の中にいるので、その日もいたような気がするのでいたようだと話した」と言っているにすぎず、明確な記憶に基づいて述べたものとは思われないから、これをもって右検面調書の信用性を高めるものとはいえない。
以上の次第であるから、右金森の検面調書における供述は、嘉子が家の前をリヤカーをひいて通ったとする点はともかく、被告人の所在に関する点は、自ら推測した事実を現に見たことのように述べられた疑いが濃く、信用することができない。
四 事件当夜のアリバイについて
事件当夜の昭和三〇年一〇月一七日、被告人が友人加藤浩と一緒に遠田郡小牛田町に出かけ、同町内の質店に衣類を質入れして金をつくった後小牛田駅前で飲酒したこと、その後同人と別れて上り列車に乗り、午後一〇時過び鹿島台駅で下車したことについては裏付けがある。その後のアリバイが成立するかについて、被告人の捜査段階の供述は変転している。
まず、同年一二月二日板橋警察署の取調べにおいて、「その晩は相当酔払っていたからあまり記憶がないが、母のところに泊り、翌朝明るくなってから起床し自転車に乗って帰宅した。」と述べ(司法警察員佐藤好一作成の昭和三〇年一二月五日付報告書)、その後「鹿島台駅下車後、駅裏町の金山という朝鮮人の飲み屋で飲んだ後のことは記憶にない。翌朝になって飲み友達の柴和喜雄さんの家に泊っていることがわかった。」と述べ(同月六日付員面調書)、その後自白により瓦工場のかまの中で休んだとの供述をし、自白を撤回した後は、「小牛田町からの帰り汽車の中で焼酎の酔が出て、乗ってから翌朝までのことは全然記憶にない。翌朝気がつくと家の炉端に座っていた。」(同月二〇日付検面調書)、「鹿島台駅下車後『二葉』の店の前で渡辺智子と立ち話をした後、家へ帰って寝た。」(同月二八日付検面調書)と述べている。
他方、母ヒデによれば、被告人が母方に泊ったのは同年九月末か一〇月初め頃一回あるのみであり(斎藤ヒデの同年一二月三日付員面調書)、柴和喜雄によれば、被告人が同人方に泊ったのは同年五月頃のことで、当夜は泊っていない(柴和喜雄の同年一二月六日付員面調書)、というのであり、渡辺智子らによれば、同女らは当夜、「二葉」の前で被告人に会ったことはない(確定審第一審第五回公判調書中証人渡辺智子、山本貴子の供述部分)、というのである。その他被告人の友人、知人ら多くの関係者の供述調書によっても、当夜の被告人の鹿島台駅下車後の行動を裏付けるものはない。
もっとも、被告人の兄常雄は、当夜一〇時過ぎ被告人が帰って来て、玄関の戸か勝手口の戸を開けた音がして座敷に歩いて行ったのもわかっていた(同人の昭和三〇年一二月三日付、同月二日付各員面調書)、戸の開いた音を夢うつつに聞いたような気もする(同月七日付員面調書)と述べ、確定審第二審では、「一八日朝四時頃火事で便所に起きたとき障子のすき間から八畳間に布団が三つ山になっていたので、幸夫がいたと思った。」(昭和三三年一〇月三日付証人尋問調書)と供述している。
ところで、被告人は、否認の手記で、「東京で逮捕されたとき、一七日の晩は何をしていたと聞かれた時はなんだか判りませんでした。松山でも一七日の晩の事を調べられましたがどうしても判りませんでした。今考えても判らないのですから判るはずがございません。」「その晩は一時頃には帰って来てるはずです。係長さんよく調べて下さい。お願いします。只、判らないことは、鹿島台駅で降りてからの事なのです。たしかに私はどこかで飲んでる事です。」と記憶を失ったことを切々と訴えている。この点につき、留置場の同房者高橋勘市は、昭和三〇年一二月五日付員面調書で「(斎藤は)『鹿島台に一〇時頃着く汽車に一人乗って家に帰ったのだが、どこをどう歩いたものか全然その後のことはわからない』と話し、『アリバイがあって若し俺がやらないと言えばどうなるんだ』と私に訪ねるので、私は、アリバイがあっても、やった事はやったと正直に言わないと警察から裁判所に行き、裁判所から連れて行かれ、自分の歩いた場所を聞き正され…るんだから隠しても駄目だ、と話してやると、「『俺は頭がクシャクシャしてコンがらがって来るので、何が何んだか解らなくなる』等と話しておりました。」と述べ、同月六日付員面調書で「(斎藤は)『俺は一〇月一七日の晩小牛田町の質屋に質を入れ、酒を飲んで小牛田駅まで来た事は解っているが、その後何処で誰とどんな事をやり、酒を飲み、何処を泊り歩いたものか今考えても全然その行動は記憶にない。』と話していた。」旨供述し、被告人が記憶を失った旨の前記供述を裏付けている。
検察官は、被告人の当夜のアリバイは成立せず、アリバイに関する被告人の供述自体虚偽の弁解であるとし、前記の兄常雄の供述は家族を庇う虚言だと主張する。家族の夜半の行動を証言によりゆるぎなく証明することは困難であるかも知れないが、家族の証言であるからといって一概にその信用性を否定すべきではない。また、本件のような重大犯罪をなす者はむしろアリバイ工作をしておくのが通常であり、まして、血の付いた着衣を洗って証拠を隠滅したとされる被告人が、当夜のアリバイ工作をしないまま上京したなどとはたやすく考えられないところ、以上の各供述の経緯に照らしても、被告人及びその家族がアリバイ工作をした形跡は認められないのである。また、被告人が四十数日前の酔余の行動についての記憶を全く喪失したとしても、このようなことは日常体験上しばしばあり得ることであるから、これを目して不自然なものということはできない。むしろ、本件捜査の経緯によれば、被告人が記憶を喪失したまま、連日の取調べに思いつきのアリバイを述べ、それを次々に崩され、混乱したと見る余地も十分に存する。
本件の場合、被告人に確たるアリバイがないことをもって、これを有力容疑事実とすることは相当ではない。
五 盗癖及び家出した事情
被告人の昭和三〇年一二月二三日付検面調書、確定審第一審公判調書中証人金澤定俊、清俊治(第六回公判)、神山豊治、阿住領、金沢明皓(第七回公判)、山本文子(第一〇回)及び被告人(第二四回公判)の各供述部分、山本文子、上部道子、金沢明皓の同月二日付各員面調書、斎藤虎治の同月三日付員面調書、斎藤美代子の同月一六日付検面調書その他関係各証拠を併せると、次の事実が認められる。
(1) 被告人は本件後の一〇月二五日夜金澤定俊を誘って自宅より米三斗入り一袋を無断で持ち出し、これを換金して遊興代に充て、同日夜再び自宅から四斗入り米一俵を持ち出し、金澤がこれを自転車で運び出し、同夜は二人で大野屋旅館に泊り、翌二六日朝同旅館にこれを売却したところ、これを察知した父虎治は、前にも米を持ち出した被告人がまたしても大量の米を盗ったとして怒り、駐在所に届け出た。被告人は呼び出され、父から厳しく叱責され、家に帰りづらくなり、その後金澤と「二葉」で飲みなおしをした際、同人が知人を頼って上京する考えであることを打ち明けられて自分も一緒に行く考えを起こした。そして翌二七日夜、一旦家に戻って兄嫁美代子に上京する旨告げ、着衣、履物等を風呂敷に包んで持参し、途中で合流した清俊治と三人で鹿島台駅午後一〇時四〇分発の上り夜行列車で上京した。旅費は金澤が友人から借金して工面した。
(2) 上京後被告人は、右二人と共に金澤の知人で、品川区のとび職神山豊吉方に赴いたが思うような仕事にありつけず、ヒロポンを打ったりして二、三日ぶらぶらし、一一月一日頃板橋区の飲食店「文よし」こと山本文子の女中で同郷の上部道子を頼り、そこに居候しながら職探しをしていたが、同月一四日頃から近所の板橋区板橋四丁目一〇八七番地の精肉店「まる金」こと金沢明皓方に雇われ、住込み店員として働いていたところ、一二月二日に捜査員に逮捕されるに至った。
以上の事実が認められるところ、関係証拠によれば、被告人は以前にも自宅から勝手に持ち出した米を売って遊興費に充てていた上、家中あげての稲上げも手伝わずに遊び歩き、新米が収穫されるや右のように米を持ち出したと認められるのであって、それらの行動は思慮分別に欠けるとのそしりを免れないにしても、これらを目して被告人に盗癖ありということはできない。また、被告人は上京当初、住居及び職業も不安定であり、捜査員の目からすれば、所在をくらませたと思われる事情が存在したということはできるが、その実態は前記のとおりであり、なお、被告人は「まる金」の住込みに際し、雇主に対しても、氏名や履歴を偽りなく申告し、家にもその住所を通知していたことが認められるのであるから、被告人の上京が犯罪からの逃避行であったということはできない。
六 犯行現場の状況について
本件捜査は、犯行が痴情によるとの見方を一方的に排し、物盗り動機によるとの見込みにたって行われ、被告人の自白も完全にこれに符合している。そこで犯行現場の客観的状況にはそれを疑わしめるものがないであろうかについて、亀井安兵衛作成の昭和三〇年一〇月一八日付実況見分調書と現場に遺留された物証に基づいて検討すると、自白は確かに、玄関の板戸があること、入口に岩竈が置いてあること、障子戸が建ててあること、布類を取り出した押入、箪笥のあったこと、切炉の位置など現場の状況によく符合している(県警文書)ように思われる。
①鉞(別紙第一現場見取図A)は雄一と淑子の中間頃に置かれ、ここに放置した旨の自白に符合する。しかしながら
②金鎚(同図B)は忠兵衛の足元の米入箱前に、
③鉈(同図C)は縁側雨戸寄りに、
それぞれ散乱している。これらは増築工事を請負った大工大窪留蔵によっても十分に説明されておらず、かかる物が寝室や縁側に散乱したことはどのように説明されるのか、自白はこれに触れていない。
④血痕が付着した提灯(同図E)は、忠兵衛の頭近くの押入前にある。これは、小原優子の昭和三〇年一〇月二一日付員面調書によれば、六畳間の丼皿類入罐わきに置かれてあったもので、何故このような所にあるのか、自白はこれも説明していない。
⑤アルミ製弁当から(同図F)は提灯の傍にあるが、何故かかるところに散乱しているのかについて、自白は説明していない。
⑥薬瓶(同図G)は、忠兵衛と喜子との間に散乱している。
県警文書及び確定審第二審第三回公判調書中証人佐藤好一の供述部分によれば、薬瓶は、三共製薬株式会社製の一〇〇CC入農薬パラチオン入りの空瓶と認められ、梨畑の消毒に使うもので小原方では使用しないものであったから、犯行との関連が疑われて捜査がなされたものであった。県警文書はこれについて、「この農薬は遠田郡小牛田町北浦と同郡南郷町の農家一四一戸に四九三本が販売されていることが判明した。そこで捜査員二名を一班として、二班を編成し、これを捜査にあて、農薬の買受先について二週間にわたり調査を行った。」「使用した個数と埋没したものをいちいち発堀し、その数を合わせ、紛失したものについては、その経過を詳細に調査するなど、苦しい捜査の連続だった。その結果三共製薬のものは一一五本で、殆んど果樹園の消毒に使用したことが判った。空瓶については、三一本が確認されたが、残り三五本は、処理経過が不明だった。」と記述し、約二ページにわたって捜査状況を報告し、「この捜査については、約二週間を要し、不眠不休で疲労は加ったが結論に至らずに終ってしまった。」と結んでいる。これほど苦労して捜査した物証について、見込み捜査も自白もこれを全く説明していない。
⑦千円紙幣五枚(同図H)は、箪笥(形態なく焼けている。)と米麦入の押入前に、半焼で落ちている。斎藤ふじよの昭和三一年二月五日付員面調書によると、同女は、前日の一〇月一七日朝親しなった嘉子に頼まれ現金五〇〇〇円(千円札五枚)を貸したというのであり、焼残りの現金はその五〇〇〇円でないかと推測される。狭い殺害現場に被告人が物盗り目的で入ったとすればその目にこれが解れなかったのは不自然のように思われる(自白は箪笥の上から二段まで開けて捜すのを中止したことになっている)。
⑧電灯の配線が切れている。前記実況見分調書によれば、配線は隣家の裏藪にある電柱からの引込線で、被害者方玄関の東隅のところから屋内に配線されて居り、その外線の約三〇センチメートルのところから焼け切れた如く切断されていたと認められる。右の切断が人為的切断であったとしたならば、当夜電灯がついていたまま犯行に及んで立ち去ったという被告人の自白は根底からくつがえされることになる。この電線については鑑定嘱託(宮古鑑第一三四〇号)がなされているが鑑定結果は、「電線の切断面はペンチやクリッパーの様なもので切断されたものではない。何か重い物でも上から落下するか引張られて切断したもののようである。」というのであるが、「鑑定書は作成されていない。」との回答がなされている(検事外山林一の昭和三七年一〇月一五日付仙台地裁古川支部裁判長宛書類送付の件)。配電線の切断原因についての科学的な究明がどの程度まで行われていたのかは詳らかではない。
七 兇器について
本件発生当日である昭和三〇年一〇月一八日に行われた実況見分において、忠兵衛方八畳間の焼跡にあった雄一及び淑子の死体の各頭部の中間付近から柄の消失した本件薪割(実況見分調書では鉞とされている。)が発見されたが、後記のとおり、被告人は右薪割が兇器であると自白した。弁護人は、右薪割は兇器ではないと主張する。
そこで、被告人の自白を離れて、客観的証拠により右薪割が兇器であることがどの程度裏付けられているか検討してみるに、右裏付証拠としては、薪割が死体の付近から発見されたことのほか、右薪割が被害者らの受けた創傷から推認される兇器に適合すること、右薪割の表面には多数の条痕が認められるところ、荒井晴夫及び丹羽口徹吉作成の鑑定書により、右条痕が鉄板に頭髪を人血で粘着し摂氏三〇〇度から三五〇度に加熱したものの条痕の状態、色沢に酷似する、とされていることがあげられる。
まず、各死体の創傷の点であるが、村上次男、三木敏行の死体解剖に関する各二通の鑑定書によれば、被害者らの頭部にはいずれも割創があり、その兇器について、忠兵衛の死体については「刃はあるが、甚しくさ鋭利でなく、刃線の長さは8.0センチメートル以上あり、かなり重さのある刃器」、嘉子については「鋭利な刃があり、人体に打ち込み、頭蓋骨を割截することのできるようなもので、刃線が鉈や斧のような刃線から急に断たれているもの、刃線の長さは八センチメートル前後あるいは刃線の長い鉈のようなものも考えられる。」、淑子については「刃があるが甚しく鋭利ではなく、かなり重さのある刃器で、刃の長さは7.0センチメートル以上あるもの」、雄一については「鋭利な刃があり、人体に打ち込み、頭蓋骨を割截することのできるような日本刀、鉈、斧などが考えられる。」とされている。これに対して、押収されている右薪割の刃部の重さは約1.8キログラムでかなりの重さがあり、また、刃線の長さも八センチメートルであり、右の条件をよく満たしている。この点について、弁護人から提出された宮内義之介作成の昭和三九年二月一五日付鑑定書及び船尾忠孝作成の「松山事件報告書」と題する書面はいずれも右薪割が本件の兇器であることを否定するものではなく、むしろその可能性があることを認めていると理解される。また、北条春光作成の昭和三八年一二月三〇日付鑑定書には、右薪割によっては淑子の頭部に存在していたと称されるような截痕のうちの一部ができにくいもののように想像される旨の記載があるが、それも右薪割が兇器でないと断定するものではなく、その根拠も示していないから、これにより先の結論が左右されるものとは思われない。
次に、薪割の条痕についてであるが、弁護人提出の今井勇之進作成の昭和三九年二月一日鑑定書によれば、本件薪割の組織を顕微鏡により調べ、その硬度を検討した結果、右薪割は摂氏四〇〇度ないし五〇〇度に加熱されたとの結論を得たとされており(なお、右今井は証人尋問においてむしろ五〇〇度に近い熱を受けていると述べたが、右鑑定書に記載されていないことでもあり、にわかに採用しがたい。)、これは焼入れによるものではないというのであるから、本件火災によるものと推認される。右結果は荒井・丹羽口鑑定が、前記のとおり、薪割の条痕は摂氏三〇〇度ないし三五〇度に加熱したものに酷似するとし、四五〇度以上では頭髪、血液は炭化しはじめ、五〇〇度以上では全く灰化しかすかに頭髪の条痕を残すのみであるとしていることと一見矛盾しているように思わせないでもない。しかし、荒井・丹羽口鑑定は、鉄板に頭髪を置き、これに人血液を加えて粘着させたものを電気炉で加熱した場合に、本件薪割にある条痕に似た条痕が生じるかどうかを実験したものであり、同鑑定の結果は、一定の加熱時間等のその他の条件のもとでは摂氏三〇〇度ないし三五〇度で本件薪割にある条痕と酷似した条痕が生じるとするにとどまり、それ以上の温度ではどのような条件でも生じないとする趣旨のものと理解すべきものではなく、かえって、四〇〇度の記載がなく、これに近い温度としては三七〇度があるところ、この温度では頭髪、血液の炭化甚しく指頭で摩擦してもほとんどそのままで条痕は明らかに残るとされていることからすると、四〇〇度程度では本件薪割の条痕と類似した状態となる可能性も十分窺われる。したがって、右今井鑑定は荒井・丹羽口鑑定の証拠価値を完全に否定するものとはいえないが、同鑑定の想定した温度と実際に本件薪割が受けた温度が食い違っていたことを示した点において、同鑑定の証拠価値を相当程度減殺したものと評価される。
最後に、松山事件捜査本部作成の昭和三〇年一〇月二六日付電話箋、司法警察員千葉作成の同月二七日付電話箋及び平塚静夫の昭和三八年一一月二五日付検面調書によれば、昭和三〇年一〇月二十五、六日頃平塚が行った本件薪割についての血痕付着検査の結果は陰性であったところ、前記今井鑑定書によると、本件薪割と同種類の炭素鋼に人血液を塗布してこれを加熱した場合、ベンチジン、ルミノールについては摂氏五〇〇度に加熱しても明瞭に反応が現われるというのである。しかし、右平塚鑑定は、本件薪割のどの部分について、どの程度綿密に行われたものであるか明らかでないのであり、本件の薪割の汚れた部分二一か所のうち一四か所がベンチジン検査で陽性を示したとする村上次男及び赤石英作成の昭和三九年三月二四日付鑑定書に照らすと、そのまま措信できると断定するのはちゅうちょされる上、右村上・赤石鑑定書によれば、鋼材に人血を塗布して加熱した場合最も鋭敏な血液検査では、三五〇度加熱時間二〇分、四〇〇度加熱時間一〇分までの条件では陽性の反応を示すが、加熱時間と加熱温度のいずれかの条件が右以上になると血痕反応を示さないというのであり、これに従えば、右今井鑑定書及び永瀬章作成の鑑定書によるも本件薪割に加わった熱は摂氏四〇〇度ないし五〇〇度で、火災の最盛期の加熱時間が三分ないし一三分と、加熱温度及び加熱時間共かなりの幅をもってしか認められるにすぎないから、本件薪割が右血痕反応の現われるべき条件にあったか否かは明らかでなく、たとえ右平塚の血液検査の結果が正しいとしても、そのことから直ちに本件薪割が本件の兇器であったことを否定することはできないことになる。
弁護人は、今井鑑定は東北大学金属材料研究所の教授がすぐれた電気炉を用いて行ったもので、これに対し村上・赤石鑑定は専門家でもない者が性能の悪い電気炉を用いて行ったものであり、血液反応の検査についても今井鑑定は正確性を吟味するために、県警本部鑑識課技師に加熱温度等を明らかにしないで鋼片の血液検査を依頼して、同様の実験結果を得ているから、今井鑑定の方が信頼性が高い旨主張する。確かに、今井鑑定は金属についての専門家によるもので、設備も整っていたと思われ、この点の条件は村上・赤石はいずれも法医学専攻の大学教授であるから、この点についてはやはり村上、赤石の判断の方が信頼できることは否定できないところである。してみると、いずれの鑑定が信頼性が高いかについては、にわかに判断することができないといわざるをえず、結局、右今井鑑定の結果をもって本件薪割に血痕が付着していなかったと断ずることはできないことに帰着する。
以上によれば、本件薪割が兇器であったとする客観的証拠のうち、荒井・丹羽口鑑定の証拠価値が相当程度減殺されたものの、依然として本件薪割が本件犯行の兇器として使用された相当高度な蓋然性があることは否定できないところであるが、被告人の自白を除いた証拠のみによりこれを断定するまでには至らない。
八 まとめ
以上によると、本件は、初動捜査において、嫌疑十分とはいえない被告人を捜査員が物盗り犯人との見込みをつけて別件逮捕したことにはじまり、見込みにそう自白を獲得したものの、容疑に関連するとされた諸事実は、客観的証拠によればいずれも関連性に乏しいかあるいはその裏付けが不十分なものであり、犯行現場の状況についても、被告人を物盗りと想定したときには説明し切れないいくつかの疑問点が存在するのである。
これを要するに、本件は、情況証拠からはその容疑自体が不十分とされるべき事案であるということができ、このことは自白の信用性を判断する上にも考慮しておかなければならない。
第三 ジャンパー及びズボンその他の着衣等について
一 着衣、下駄の鑑定結果
自白によれば、「被告人は犯行後帰る途中の山道でズボンに手を触れた際ヌラヌラと感じるほどの多量の血が付着していた。」というのであり、被告人がジャンパー及びズボンを着用し、下駄を履いていたとすれば、それらに血液が付着したと考えられる。関係証拠によれば、被告人の着衣等で鑑定に付された物件及びその鑑定結果は次のとおりである。
①ジャンパー(灰色)一着(昭和五八年押第一九号の二、ねずみ色ジャンパーで以下これを「本件ジャンパー」ともいう。)は、昭和三〇年一二月三日被告人の兄常雄から任意提出され、
②ズボン(薄茶色)一本(同押号の三、茶色ズボンで以下これを「本件ズボン」ともいう。)及び③白ワイシャツ一枚は、同月二日山本文子から任意提出され、
④白長袖丸首シャツ一枚は右同日上部道子より任意提出され、
以上の四点は、古川警察署長の嘱託書(宮古鑑第一五二九号)により、平塚静夫の昭和三〇年一二月二二日付鑑定書(以下本項では、これを「平塚鑑定」という。)の鑑定に付されたもので、すべて血痕の付着証明がないとされている。
⑤えび茶トックリセーター一枚、⑥白丸首長袖シャツ一枚、⑦白パンツ一枚の三点は、同月七日被告人より任意提出され、
以上の三点は、古川警察署長の鑑定嘱託書(宮古鑑第一五八四号)により、平塚静夫の昭和三〇年一二月二〇日付鑑定書(宮城県警察本部刑事部鑑識課長の鑑定結果回答書添付のもの)の鑑定に付されたもので、これらには血液が付着していないとされている。
⑧男物下駄一点(所有者勝の黒緒の竹張のもの)、⑨男物下駄一点(所有者彰の黒緒のもの)は同月七日被告人の弟彰より任意提出され、
以上の二点は、後記掛布団襟当てと共に同月九日付で後記三木鑑定に付され、「下駄には二組共、肉眼的にみて、血痕の斑痕はなく、諸所で行ったグアヤック試験、ヘモクロモーゲン試験等の成績は陰性で、下駄にも血痕の存在を立証し得ない。」と鑑定されている。当夜被告人は弟らの右のいずれの下駄を履いていたことが窺われるから、右の鑑定結果には軽視しがたいものがあるといわなければならない。
二 ジャンパー及びズボンに血痕の付着証明がないことについて
自白によれば、「被告人は犯行直後血の付いた本件ジャンパー及びズボンを大沢堤の溜池で土を混ぜて洗った。」というのであり、被告人の昭和三〇年一二月九日付員面調書、上部道子の昭和三一年一月一四日付検面調書、斎藤美代子の昭和四六年七月一六日付弁護人に対する供述調書などによれば、本件ジャンパーは事件後九日目頃の昭和三〇年一〇月二七日被告人の兄嫁美代子が風呂場の残り湯で固型油脂石けんを使用して手洗いしたこと、ズボンは事件後二九日目頃の同年一一月一五日頃、東京の上部道子が固型油脂石けんを使用し、水で手洗いしたことが認められる。そこで確定審第二審判決は、「当時被告人が着用したジャンパー及びズボンは右のように洗ったことが明らかであるから、これらに血痕斑を発見しなかったとて必ずしも異とするに足りない。」旨の判断を示した。これに対し、被告人及び弁護人は、再審請求手続において、本件ジャンパー及びズボンには当初から自白にいうような血液は付着していなかったと主張し、その反証につとめたのであり、本件ジャンパー及びズボンを被告人が当時着用したとすれば、当初から血液が付着しなかったとの証明が得られるときは、被告人の右自白の真実性は否定されることになろう。そこでこの点について、血痕付着の有無について検討をすすめると、
(1) 前記平塚鑑定(鑑定期間昭和三〇年一二月九日から一二日まで)によれば、「本件ジャンパーについては、前、後部の汚斑のうち血痕に類似すると思われるものについてベンチジン検査をし、いずれも陰性をみとめたので血液は付着していない。本件ズボンについては、血痕類似の汚斑についてベンチジン検査を、ズボヅ全面についてノミノール検査をしたところ、表左前下方の赤褐色の粟粒大の斑痕一か所が陽性を示したほかは陰性であった。右の陽性点は人血か否か、血液型も判明しない。」というのである。
更に、平塚静夫の昭和三七年一〇月二二日付、昭和四六年六月二五日付各尋問調書によれば、右鑑定に際し、ジャンパー及びズボンのそれぞれについて一部切り取りが行われたこと、ベンチジン検査は陽性反応が出た一か所を含めて二、三か所直接法によって行い、他は間接法で行ったこと、平塚鑑定人自身これらの物件はあらかじめ洗濯されたものであることの説明を受けていたことが認められる。そして平塚は証人尋問調書で、「ジャンパーは割りときれいになっていないように記憶しており、はじめから血痕が付いていなかったということは、この鑑定結果からはいえないが、ズボンは割りとよごれており、経験的にいって、付いていないのではなかろうか。陽性を呈した部分は黄色がかった薄いもので、血液のものでないだろうと思っていた。」と述べ、「ジャンパーとズボンは、鑑定当時の状況から見て、最初から付いていないような感じであった。」と述べている。
(2) 船屋忠孝作成の昭和三七年六月二五日付「血痕検査成績」によれば、「本件ジャンパー及びズボンについてベンチジン検査直接法を行ったところ、ジャンパーには九個の血様斑が付着していたが陽性成績を示すものはなく、ズボンには一七個の血様斑が付着していたが、そのうち一個(表前面左内側中央部)のみが陽性を示したほかはすべて陰性であり、右血様斑のみヘモクロモーゲン結晶法により検査したが陽性であった。ジャンパーには人血の証明はできない。ズボンには人血が一か所のみに付着しているが、微量で血液型は判定できない。」という。
同人作成の昭和三七年八月二〇日付「松山事件報告書」は、対照実験にかかるもので、「木綿片に人血を付着させ、一定時間後洗濯石けんで洗濯、乾燥させた検体についてベンチジン検査をしたところ、間接法では陰性となったが直接法では陽性を示したところから、ズボンにヌルヌルという多量の血液が付着した場合、普通の洗濯を二度行った程度ではベンチジン直接法による予備試験が陰性となることはあり得ない。本件ズボンに多量の血液が付着したとは到底考え難く、付着した血痕が洗濯によって洗い落とされたと判断するのは法医学の実際上妥当ではない。」とする。
前記ズボンの鑑定では、ベンチジン直接法によって陰性となった箇所が明らかにされており、その箇所は、自白が真実であるならば当然付着していたであろうはずの部位であることのほか、船尾忠孝は、昭和三九年一月一四日付証人尋問調書でも、一度布にべっとりとついた血液が二回位の洗濯で完全に落ちてベンチジン直接法検査で陰性化することはあり得ない旨重ねて断言している。
(3) 宮内義之介作成の昭和四四年三月一〇日付鑑定書(鑑定期間は、昭和四二年二月六日から昭和四四年三月一〇日まで)によれば、「透過光線によって認めた本件ジャンパーの九個の褐色斑痕とズボンの一七個の暗褐色斑痕合計二六個を切り取り、マラカイトグリーン試験を施したところ、いずれも陰性であり、顕微鏡検査により布地表面に認められた暗褐色の一部斑痕について抗人線維素沈降素吸収試験をして人線維素の有無を検査したが、いずれも陰性であった。更に前記斑痕についてフイブリンプレート法により検査したが陰性であった。
対照実験として、本件ジャンパー及びズボンと同質のコール天地及び綿ギャバジン地にそれぞれ人血を付着させ、付着後三〇分、一時間、二時間、五時間、一二時間、二四時間放置して自然乾燥させたものに砂をかけて水洗いし、コール天地は九日目に、ギャバジン地は二九日目に固型洗濯石けんで水洗いし、乾燥させた布地に、もむ、はらう、たたく等の物理的刺戟を加えた後各種の検査をしたところ、三〇分後洗濯のものはマラカイトグリーン、ルミノール試験は陰性であったが、顕微鏡検査の結果、布地に人線維素が認められ、抗人線維素沈降素吸収試験フイブリンプレート法による試験はいずれも陽性であった。その他のものは検査結果がすべて陽性であった。以上から、フイプリンプレート法は血液を三〇万倍に稀釈してもなお人血証明が可能であり、かつ、陳旧血痕や腐敗血痕についても有効な方法であり、対照実験の結果と比較して、本件ジャンパー及びズボンがフイブリンプレート法による検査の結果陰性であるのは、一時付着した血液が洗濯によって脱落、消失したからではなく、当初から付着していなかったためであると判断される。」としている。
(4) 木村康作成の昭和四四年五月一日付鑑定書(鑑定の嘱託を受けた日は、昭和四四年四月一〇日)によれば、「本件ズボンについて、前記平塚鑑定及び前記船尾忠孝の「血痕検査」において指摘された各一個の血痕反応が認められた箇所と思われるところの周辺及び対照として同ズボン布地の他の部分について、ベンチジン、マラカイトグリーン、ルミノール、抗人ヘモグロビン沈降素反応及びフイブリンプレート法の各検査をしたが、いずれも陰性の結果を得た。ベンチジン検査、フイブリンプレート法は共に日時を経過しても血液であれば陽性を呈するので、血液が変性して陰性の結果が出たとは考えられず、前回までの試験で血液付着部分を消費してしまい、現在のズボンには血液が残存していないと考えるのが妥当である。」としている。
右宮内、木村各鑑定結果は、宮内義之介の昭和四六年七月九日付証人尋問調書、木村康の昭和五一年一二月二日付、昭和五三年一二月一八日付各証人尋問調書、同人の当公判廷における供述によっても確認されている。
以上の諸鑑定結果を合わせると、本件ジャンパー及びズボヅには、当初から自白でいうところの血液が付着していたとは考えがたく、当初から血液は付着していなかったかなり高度の蓋然性が認められるというべきである。
検察官は、右各鑑定中宮内鑑定及び木村鑑定に対し、(一)着衣に付着した血液は洗濯により脱落、消失する可能性が強いこと、(二)宮内、木村鑑定の実験方法は、本件の場合と条件を異にして行われたものであるから、その実験の成績は本件の場合に妥当しないこと、(三)宮内鑑定で用いた抗人線維素沈降素吸収試験は鋭敏度が低く、法医学界でその信頼性が承認された方法ではなく、フイブリンプレート法による検査結果もそれが紫外線、薬品による影響のほか、経年による人線維素の変性、破壊という事象がありうることを考慮しないで導き出されたものである点で信頼を置くことができないことを理由として、これを批判しているが、その論旨は、専ら再審開始決定の結論を維持し検察官の即時抗告を退けた抗告審決定の判断理由を攻撃するものである。当裁判所は再審請求審である右抗告審と異る立場にあり、認定の方法も若干異にするものであるが、所論にかんがみ、当裁判所の考え方を以下に説示する。
まず、宮内鑑定において行われた対照実験においては、前記のとおり、洗濯による影響を十分考慮して実施される等本件ジャンパー、ズボンの条件にできるだけ近い条件をつくって行われていると認められる。もっとも、実験の性質上やむを得ないことながら、経年の条件については、本件ジャンパー、ズボンは鑑定当時すでに一一年余経過していたのに対し、対照実験に供された布地については血液付着後数十日で検査されている。そこで、問題となるのは、宮内鑑定に用いられた抗人線維素沈降素吸収試験及びフイブリンプレート法がどの程度信頼性があるものであるのか、経年による影響はどの程度あるのかという点であるので、この点を中心に検討してみる。
抗人線維素沈降素吸収試験は人の線維素原でウサギを免疫してつくった抗体を用いて、これと反応する人線維素の存在を証明するものであるが、矢田意見書及び再審第四回公判証人富田功一の証言によると、右吸収試験は鋭敏度が低く人線維素の検出には不適当な試験法とされているというのであり、鋭敏度が低いという点については実際に右対照実験を実施した木村教授も認めているところである(再審第三回公判の同人の証言)。これに、本件ジャンパー、ズボンについての右吸収試験が前記のとおり長期間を経たのちに行われたものであるところ、右吸収試験は、対象物が時間を経ると反応の感度が落ちる(右富田証言)ということも考慮すると、宮内、木村鑑定の右吸収試験の結果をもってただちに本件ジャンパー、ズボンに当初から血液が付着しなかったと判断することはできないと思われる。
一方、フイブリンプレート法は、人血中に含まれているプロアクチベーターが血液凝固の際フイブリン塊の中に取り込まれることを利用し、プロアクベーターの存在を証明することによって人血の存在を証明しようとする方法であり、その鋭敏度につき、血液を四〇倍に稀釈した血痕について陽性の報告例(昭和四四年三月一〇月付宮内鑑定書添付の中島論文)が示され、洗濯血痕に対する有効性について、乾燥した血痕を四回洗剤で洗った後にも証明可能とされている(高橋健吉の昭和五一年一二月六日付尋問調書添付の三上ほかの論文)。陳旧血痕についての有効性については、一四年経過した血痕について報告例(筒渕美允ほか「フイブリン平板法による人血証明について検討(第一報)」北海道内犯罪科学研究会講演要旨(写)もあるが、保存状態良好な一〇年経過及び五四年経過のものを検査したところ、一〇年経過のものは四例のうち陽性、陰性各二例、五四年経過したものは八例のうち陽性二例、凝陽性一例、陰性五例となったという結果も示されている(前記高橋証人尋問調書)。
以上によれば、フイブリンプレート法は鋭敏度が高く、洗濯された対象物にも有用な検査法であるが、血液付着から長期間を経過した場合には、陰性になることがあると認められるところ、宮内、木村鑑定は、前記のとおり、検査の時期については、本件ジャンパー、ズボンの検査時と対照物の検査等が著しく異なることが明らかであるから、フイブリンプレート法の結果のみからただちに本件ジャンパー、ズボンに当初から血液が付着していなかったものと断定することはできない。しかし、右のとおり一〇年以上経過した場合でも陽性になる場合もあるのであるから、右フイブリンプレート法による検査結果もそれなりの証拠価値があると思われ、血液が付着したとされる時からそれほど経過していない時期になされた前記平塚鑑定の結果及び各平塚尋問調書に加え、前記船尾鑑定及び右宮内、木村鑑定のフイブリンプレート法による検査結果をも併せ考えると、本件ジャンパー、ズボンには当初から多量の血液は付着していなかった蓋然性が高いと認めることができるのである。
三 ジャンパー及びズボンの同一性について
検察官は、被告人の事件当夜における服装は本件ジャンパー及びズボンとは異る蓋然性が高いから、被告人がこれらを本件当夜着用していたものとして血液付着の問題を論じたこと自体その前提に誤りがあると主張する。前記のとおり、本件ジャンパー及びズボンには当初より自白でいうような血液が付着していなかったかなり高度の蓋然性が認められるから、本件ジャンパー及びズボンが本件当夜着用していたか否かが重要争点となるので、所論にかんがみ検討するに、まず、本件当時、被告人が所持、使用していた上衣、ズボンは、被告人の昭和三〇年一二月二三日付検面調書、確定審第一審第一〇回公判調書中証人山本文子の供述部分、上部道子の昭和三〇年一二月二日付員面調書、昭和三一年一月一四日付検面調書、斎藤美代子の昭和三〇年一二月三日付、同月七日付、同月八日付員面調書、同月一六日付検面調書によれば、次のとおりと認められる。
(1) 上衣については、①本件ねずみ色ジャンパーと②焦茶と薄茶の縞ジャンパー(被告人が取調検察官の面前で着ていたもの。)の二点と外にえび茶のセーター一着である。被告人は上京に際し①を置き②を持参し、えび茶セーターを主に着ていたと認められ、兄嫁美代子のいう白っぽいジャンパーは①のものと思料される。
(2) ズボンについては、兄嫁美代子の特定によれば、①ねずみ色ニッカズボン、②黒サージズボン、③紺サージズボン、④黄色っぽいサージズボンでそのほか紺色ニッカズボンは質入れされたのか当時はなかった、という。本件「茶色」ズボンは④の黄色っぽいズボンを指し、被告人がいう空色ニッカズボンは①のニッカズボンを指すと思われ、被告人はこの二点と②の黒サージズボンを持参して上京したものと考えられる。
そこで、本件当夜、被告人は右のうちどの上衣及びズボンを着用していたかについて検討する。
(3) 被告人は、上衣については、捜査段階では「白ジャンパー」「ジャンパー」「空色ジャンパー」「ねずみ色ジャンパー」と述べ、確定審第一審第二三回公判では「ねずみ色の白っぽく色のさめたジャンパー」と述べ、これはすべて①の本件ジャンパーを指すものと認められ、供述は略一貫している。しかし、ズボンについては、当初「空色ニッカズボン」(司法警察員佐藤好一の昭和三〇年一二月五日付報告書)と述べたほか「茶色ズボン」(同月五日付、六日付員面調書、同月九日付録音テープ供述、同月一一日付、二一日付各検面調書)と略一定した供述をし、確定審第一審第二三回公判で「白っぽいズボン」と述べている。
(4) 事件前日の一〇月一七日行動を共にした加藤浩は昭和三〇年一二月三日付、同月二五日付各員面調書、同月一五日付検面調書で、上衣については「ねずみ色のあせた木綿のジャンパー」、「白ゎぽいねずみ色のさめたボタン付きジャンパー」「白っぽいジャンパー」と供述し、これはすべて①の本件ジャンパーを指すものと認められるが、ズボンについては「木綿の長いズボン」「白いニッカズボンあるいは褐色の普通のズボン」「白っぽいズボン」と供述している。
(5) 兄嫁美代子は、被告人の当夜の着衣について、「白っぽいジャンパー」と「ねずみ色ニッカズボン」(昭和三〇年一二月七日付員面調書)、「ねずみ色ニッカズボン」で上衣は記憶がない(同月八日付員面調書、同月一六日付検面調書)と供述している。
以上によると、上衣については、被告人は当夜①の本件ジャンパーを着ていたことについては被告人並びに関係者の供述は一致しているから、その蓋然性は高度なものと考えられ、②の焦げ茶と薄茶のジャンパーであった蓋然性は低いものである。仮りに、当時検察官の面前で着用していた②の方のジャンパーだとするとそれについての鑑定結果が示されるべきであろうが、この点についての証拠はない。
ズボンについては、被告人の供述はやや一貫性を欠くものの、本件ズボンであると供述しているのが本旨と思われるが、美代子その他の関係者の供述を併せると、被告人が当夜着用していたのは④の茶色ズボンでなはなく、あるいは①のニッカズボンの方ではなかったかとの疑問が提起される。その意味では本件ズボンについては当夜着用のものとの断定はできないかも知れないが、なお、当夜着用していたことの蓋然性はかなり高度に存するものというべく、検察官は、被告人が当夜着用したのはニッカズボンであろうと主張するが、右のような証拠関係の下では、この説が成り立つ余地はあるとしても、これもそれほど高度の蓋然性を有するとはいえないように思われる。もしそうなら、その当時鑑定に付されたのか否か、鑑定の結果はどうであったかについての検討をも必要とするが、この点についての証拠もないのである。
四 まとめ
以上によると、本件ジャンパー及びズボンは、事件当夜被告人が着用していたとは断定できないにせよ、かなり高度の蓋然性があることは否定できず、その余の着衣や下駄と共に血液が付着しなかった蓋然性が高いと認められることから、着衣に血が付いたという自白の信用性はかなり疑問としなければならない。
第四 掛布団の襟当てに付着した血痕群
一 付着した斑痕群について
掛布団(昭和五八年押第一九号の四)及びその襟当て(同号の一)は、昭和三〇年一二月八日付古川警察署司法警察員巡査部長佐藤健三作成の捜索差押調書(以下これを「本件差押調書」という。)によれば、同日被告人の兄斎藤常雄方より、事件当時被告人が使用していたと認定されて押収され、東北大学医学部法医学教室鑑定人三木敏行の鑑定に付されたもので同鑑定人作成の昭和三二年三月二三日付鑑定書(以下これを「三木鑑定書」又は「三木鑑定」という。)によれば、その概況は次のとおりである。
掛布団は、長さ約170.5センチメートル、幅約130.5センチメートル、厚さ約5.5センチメートルの大きさのもので、表側面は更紗模様、裏側面はぶどう茶色で、いずれも木綿地である。掛布団には白木綿の襟当てがしてあり、左右径は約一二六センチメートル、頭足径は表側面が約二七センチメートル、裏側面(体に接する側)は約三七センチメートルある。
襟当てには斑痕が多数付着しており、多くは赤褐色で色調には濃淡の種々の程度のものがあり、布地のごく表面にのみ薄くあるものから、裏面にまでしみ通るものもあり、形は不規則形のものが多く、飛沫状を呈するものはない。斑痕は、襟当て書側面に三五群、裏側面には五一群に及び、各斑痕群は、一個ないし数個の微細な斑痕によって構成されており、それらの付着の位置、大きさ、形態・形状、色彩、色調、襟当て裏へのしみ通りの有無などについては別紙第三―一「襟当てに付着した斑痕群一覧表」と同第三―二「斑痕群一覧表添付図」(三木鑑定書の添付図を転記し、表側面及び裏側面に併せて一枚の布片に見立てた形にしたもの。仰向けに寝て布団を正しく被った場合に、寝ている人の右側をそれぞれ襟当ての右側又は左側と、寝ている人の頭側又は足側をそれぞれ襟当ての上方又は下方と呼称する。)のとおりである。
二 血痕群の血液型鑑定について
三木鑑定書によれば、付着した斑痕群のうち表側面「リ」「ヌ」、裏側面「つ」「ま」は血痕ではないが、その他のものは人血と鑑定され、この三木鑑定及び第一審鑑定人古畑種基作成の昭和三二年七月一七日付鑑定書(以下これを古畑鑑定」という。)によれば、襟当てに付着した人血液型は、それが一名に由来するときはA型、二名以上に由来するときはA型又はA型とO型が混在したものと考えられるとされているところ、被害者側の血液型は忠兵衛がO型、嘉子、雄一、淑子がいずれもA型と認められ(確定審第一審鑑定人三木敏行作成の昭和三一年一二月一三日付、同月一四日付、同村上次男作成の同年五月二日付、同月三一日付各鑑定書)、他方、被告人側の血液型は、被告人及び弟彰、妹幸子、征子がいずれもB型、祖母きさ、母ヒデ、兄常雄とその妻美代子、弟勝、妹恵子のいずれもO型と認められる(確定審第一審証人三木敏行の昭和三二年四月三〇日付尋問調書、古畑鑑定)。以上から、三木鑑定は、「本件の四名の被害者のうち、小原忠兵衛のみの血液が付着したことは否定しうる。他の三名の嘉子、雄一、淑子のうち一名の血液が付着した可能性、四名の被害者のうちのどの二名ないし三名又は四名のすべての血液が付着した可能性はあると思われる。」としている。
弁護人は、右三木鑑定及び古畑鑑定の結果は無価値であると主張する。これらを批判するものとして須山弘文作成の昭和五二年八月七日付鑑定書(以下これを「須山鑑定」という。)及び木村康作成の昭和五三年九月二七日付鑑定書(以下これを「木村鑑定」という。)がある。
まず三木鑑定に対する須山鑑定の批判の第一点は、「三木鑑定は、人血検査の抗人グロビン沈降素吸収試験を行うにあたり、表側八群、裏側九群の斑痕をまとめて検査に供し、陽性を認めているが、このようにまとめて検査するのであれば、これらの斑痕が同一機会に生じたという前提が必要であろう。」という。木村鑑定もこの点同旨の批判をする。しかし、三木鑑定の内容に、証人三木敏行の昭和五四年一月二〇日付証人尋問調書及び同人作成の昭和五五年三月一五日付松山事件関係に関する意見書(以下これを「三木意見書」という。)を併せると、三木鑑定は、肉眼検査で血痕らしくない表側面「リ」「ヌ」及び裏側面「つ」「ま」の四群並びにその他血痕と思われる斑痕の一部を抜き取り、それぞれグアヤック検査、ルミノール検査をし、前者については陰性、後者については陽性の結果を得たことにより、肉眼検査の正しさを確かめ、残余の斑痕を血痕と判定したものであると認められる。そして、三木鑑定がすべての斑痕群について精密に観察し、これを個々的に記録していること(別紙第三―一参照)、また、矢田昭一作成の昭和五五年三月一五日付松山事件鑑定書に対する意見(以下これを「矢田意見書」という。)によれば、「三木鑑定が行われた当時においては、ごく微量の斑痕が多数存在する場合の人血及び血液型の鑑定方法としては個々の斑痕について、予備試験から段階的な検査の全過程を行うことは不可能又は至難のことであった。」と認められる。したがって、三木鑑定人が専門家としての立場から肉眼検査により、かつ抜き取り検査で血痕と確認した上人血検査を行ったとしても、その検査方法、結果があながち不当であるとは考えがたい(矢田意見書はこれを妥当な方法であるとしている。)。
次に、須山鑑定は、三木鑑定に対する批判の第二点として、「三木鑑定は、血液検査をするにあたり、表側一四群、裏側九群の合計二三群の斑痕を切り取り、これを細分してまぜ、二分して型特異的凝集素の吸収試験を行って人血A型の結果を得ているが、その成績がA型であるとしても、すべての斑痕にA型質が存していたか否かは明らかでない。」とし、木村鑑定も「A型物質が検出されても、三木鑑定では通常行う段階的検査を経て人血であることが確認されていない以上その斑痕を人血A型であるとは判定しがたいし、人血A型であったとしてもすべての斑痕が人血A型であると判断することはできない。」とする。しかし、三木鑑定の血液型試験で使用した抗A血清は人血由来のものであると判断することはできない。」とする。しかし、三木鑑定の血液型試験で使用した抗A血清は人血由来のもので、人のA型物質である場合にのみ吸収試験の成績はマイナスとなり、人以外の動物、植物、細菌のA型物質でプラスとなる(矢田意見書)ところ、三木鑑定ではマイナスの結果であったのであるからそれは人に由来したものであることが明らかであり、また、本件掛布団襟当ての多数の斑痕は、主として襟当てに限られ、擦過血痕の変形であって一定の配列、方向などの規則性が認められない上、付着しているものが掛布団の襟当てという限定された用途のものであれば(矢田意見書)、それが被告人の行動を介して生じたか否かはともかくとして、このような多数の血痕は同一機会、同一機序により生じたと判断することは必ずしも不合理ではない。したがって、A型の人血が付着したとの証明は揺らぐことはないものと考えられる。なお、木村鑑定は、三木鑑定のように血痕をまとめて検査するような方法では、少量のB型が混入しても殆どの斑痕がA型であった場合には吸収試験ではA型と判定される結果が出るはずである、と批判しているが、右の批判が妥当であるとしても、本件において被告人やその家族の血液型には含まれない被害者側のA型の人血が付着したか否かが重要な問題であるところ、右批判もまたA型の人血が検出されたという結論を左右するものではない。
次に、古畑鑑定に対する須山鑑定の批判の要点は、「古畑鑑定では、襟当ての各斑痕の形態、付着血痕の部位、諸検査に用いた斑痕の部位が明示されていないので、人血の証明部位、その後の血液型検査部位が明らかでない。」というにあるが、他方、須山鑑定は、人血の証明ができた部分を集めて血液型検査をしたという古畑証言を信頼することができるとすれば、これらの人血痕の中にA型と判定される血液型が付着していたという結論は妥当である、としている。証人古畑種基の昭和四〇年一二月三日付証人尋問調書によれば、右趣旨の証言がなされており、その信用性を疑うべき事情は見当たらない。
右の古畑証人尋問調書によると、「古畑鑑定の血液型検査成績は一見A型もB型も両方あるように見えるが、この布団を常用している人の血液型がB型と思われ(なお掛布団を押収直前に使用していたと認められる弟彰の血液型はB型分泌型、被告人はB型非分泌型と認められている。)、そのB型質の付着した部分を除くと血液型はA型であろう。」というのである。古畑鑑定に対する木村鑑定の批判の要点は、「古畑鑑定は多数の血痕を集めた上検査した部分を明らかにしていない異常な検査の仕方をしており、このことが血液型を一つの型に決定することの困難を惹き起した点で妥当でない。」としつつ「古畑鑑定の成績は一見してAB型の成績であるから、多数の血痕群の中にはB型あるいはABの血痕が混在していたと判断するのが妥当であろう。」というにある。もっとも、証人木村康の昭和五三年一二月一八日付証人尋問調書及び当審第三回公判(昭和五八年九月二七日)供述によれば、「古畑鑑定の成績からみればA型とのみ判定するのは妥当ではなく、A型(二名以上のときはO型も混在する。)のほかAB型も付着したとする可能性がある。」というのである。しかし、古畑鑑定では、斑痕以外の部分をとって対照実験をした結果B型物質が検出されており、現に押収当時B型分泌型の彰がこの布団を使用していたことを考慮すると、やはりA型の人血が付着していたとみるのが妥当である。
以上のとおり、三木、古畑鑑定を総合すると、襟当てにA型の人血痕が付着していたことが認められるが、この血痕は、被告人その他これを使用する可能性の存する家族に由来するものではなく、被害者らの血液型に一致するものである。
三 血痕群の付着状況と付着原因について
検察官は、掛布団の襟当てに付着した血痕群は、被告人が本件犯行によって返り血を頭に浴び、頭を洗わないままその二、三時間後に帰宅して寝たという被告人の行動から、頭髪ないし手指を介して二次的、三次的に襟当てに付着した、と主張する。血液型鑑定の結果は前記のとおりであり、被害者らの血液が被告人を介して付着した可能性を科学的に証明してはいるが、それでは血痕群が犯行当日の朝の被告人の右行動に由来するといえるかどうかについて、付着状況(別紙第三―一、二)をつぶさに検討するに、次のような問題点がある。
まず第一に、付着状況から付着の原因を推測することが困難であり、右主張のような原因から血痕が生じたと認めるのは不自然なことである。
付着状況に関して、三木鑑定は、「表側、裏側の個々の血痕はいずれも小さく、不規則形で、金平糖状、飛沫状あるいは感嘆符状を示すものはない。したがって動脈から噴出したり滴下して生じたものでないと推測され、少量の血液を擦りつけたり、微量の血液をおし当てたり、又は軽く接触して生じたと考えるのが妥当であろう。」としつつ、「襟当て全体として、血痕の状態からどのようにして付着したかを具体的に指摘することは困難であった。」としている。証人三木敏行の昭和四〇年一二月二日付証人尋問調書によると、襟当てに二次的に付着した場合どういう方法でおし当てたり、あるいはこすりつけたことが想定されるかについて、「私もそれはかなり考えたが、どのようにして付いたのかを具体的に指摘することはその当時考えても困難であったが今になって考えてみると更に困難である。」と述べ、
弁護人・問 頭髪に付着した血が更にこすりつけたり、おし当てたり……したため、このような付着状況は生じ得るか。
答 そういう可能性はあると思います。そういうふうにしてもできると思います。ただそれは抽象的にそういえるだけあって、具体的な問題になりますと、頭の毛の長さ、付着の時間とかいろいろおこってまいりますから、抽象的に可能性があるということはいえると思います。
問 鑑定書には、(血痕群)が真中と両端の間が少しあいて……(と記載されているが)
答 やはり(襟当ての)中央では疎でということが書いてございまして、全体としてどうしてできたか私もわからなかったんでございます。私の鑑定書には、頭からこすりつけ、頭というのを指定したところはない。頭の髪の毛からということは書いていない。
問 頭髪から付かなくともいいんですね。
答 いいと思います。
と述べ、頭髪を介して二次的に付着した具体的な可能性については終始積極的には証言していないのである。ところで、同人は、三木意見書において、右の血痕群について、仮に毛髪に付着した血液が二次的に襟当てに付着し、更に手指を介して三次的に付着したと考える場合、極めて適切な機序であると考えられる。」と述べているが、これは同人の従来の立場を一挙にくつがえし、しかもこれについて何ら説得的な説明を加えていないものであるから、右の意見はただちに採用できない。
古畑鑑定によれば、血痕群が「具体的にどのような状態で付いたものか明らかにすることは極めて難しい。」としつつ、「強いて説明すると、血液がある物体、例えば人の頭髪などにつき、それが二次的に触れたためできたとも考えられる。」と記述している。しかし、証人古畑種基の前記証人尋問調書によれば、同証人は、「どういうふうにしてついたかというのを無理に考えてみれば、なにか寝ている人が頭の中に血が付いて、それで布団を被るとか、頭をかくとかしたときであったら付く可能性はあるという、一つの可能性を言っただけで、こうだと申し上げているわけではない。返り血のようなものではないように思われる、ということです。鑑定書の『強いて説明すると云々』は可能性の一つを書いたので、これは省略してよろしいんです。どうして付いたか確かなことはわからないという趣旨です。」と供述している。
当再審証人木村康は、さきに三木鑑定をもとに襟当て血痕の復元を試みたものであるが、付着原因について、「真っすぐ布団を被って行儀良く寝ていた場合には、その場だけその頭髪のところが付着した極く狭い範囲だけ付着する。ところが頭髪を左右にこすりつけた場合には、頭のついたところの範囲に付くが、表側のところまでは普通付かない。実際の襟当てに付いていた散在の仕方は表の方にも満遍なく特定の偏りなく付いているが、そういうことから考えると、どうもあの布団を被ってそれで頭をこすったという動作によってできるものでなかろう。」と供述している。
以上の法医専門家の鑑定ないし証言は、襟当てに付着した血痕の機序について、それが頭髪を介して二次的又は三次的に付着したことによるという可能性についてむしろ消極的な見解を示していると考えられる。
第二に血痕の付き方に重要な矛盾が見られることである。
前記の木村証言を引用するまでもなく、血の付いた頭髪のまま掛布団を被って寝たとするならば、頭と接触する掛布団の裏側面の方の頭と接触する部分に血痕が付くはずであって、表側面に付くことは通常起り得ることではない。ところが表側面にも、別紙第三―一、第三―二に記載したように、「リ」「ヌ」を除く三三群もの血痕が上下、左右に満遍なく(但し中央は疎である。)付着している。かような多数の血痕群が全面的に付くということは、検察官の主張する被告人の行動と矛盾する。前記三木証言尋問調書においても、同証人はこの理由を尋ねられ、「布団を裏返しにしないという前提をとらなければわからない。」と供述しているのである。
それでは、手指を介して、表側面に三次的に付着したと考え得るであろうか。血痕の付着状況を精査すると、表側面と裏側面の付着のし方の矛盾はますます増大する。濃く大粒の血痕及び微少ながら赤褐色の濃いものは殆ど表側面に散在し、その右側四半分(「イ」〜「レ」)に集中し、右地裏へしみ通るものも多い(以下○印は血液の裏地へのしみ通りがあると付記されたもの。)。その例として、○「ロ」(a)(麻実大)、○「ロ」(b)、○「ホ」(a)(碗豆大)、○「ヘ」(a)(小豆大)、○「ヘ」(b)、○「ヲ」(a)(碗豆大)、○「ヲ」(b)、○「ヲ」(c)(粟粒大)、「ワ」(a)(小豆大)、「ワ」(b)(粟粒大)、「レ」(a)(米粒大、粟粒大から蚤刺大までの数個)の六群十数個を数える。表側面中央より左半分の全群(「ツ」〜「コ」)には、微少ながら濃いものとして、「ツ」(粟粒大)、「ネ」(a)、「ム」(a)(b)(c)(d)、「ウ」、「オ」(c)、「ヤ」(a)、「マ」(a)(b)(b')(七個)(c)(d)、「フ」(a)(七個)(b)の八群約二八個を数える。
これに対し、裏側面では、殆どすべて薄く又は淡い微少痕で占められ、碗豆大、麻実大級のものはない。濃いものとしては「ろ'」一群と比較的濃いものとして「を」(b)(蚤刺大)があげられるほか、「に」(小麻実大)、「ほ」(半粟粒大)、「ふ」(a)、「る」(a)(b)は裏面の方が表面より濃いか粒が大きい。以上のうち「る」(a)(b)と「ふ」(a)は襟当て下縁の反転しめくれたところに付着しているが、「に」「ほ」は縫い付けられた襟当ての布地の裏面の方から付着されたことになるという、救いがたい矛盾を露呈している。
第三に、襟当てに多数の血痕が付着しながら、掛布団の本体、敷布などに血痕の付着がないことに疑問があることである。
右のように掛布団の襟当てには多数の血痕が付着し、それは辺縁部はもとより、裏面へしみ通るほど濃いものも存するというのに掛布団本体にはその付着が認められていない。三木鑑定によれば、「襟当てに近い所では特に綿密に観察を試みたが、血痕斑痕の存在は認められなかった。グアヤック検査、化学発光検査の成績は陰性であり血痕の存在は証明されない。」とされ、敷布(掛布団と同時に押収されたもの)についても、「グアヤック試験、化学発光試験、ヘモクロモーゲン試験、抗人グロビン沈降素反応はすべて陰性であり、敷布には血痕の存在を立証し得ない。」とされている。掛布団については、古畑鑑定においても「布団(襟当て付)の主として襟当て部分に限って血痕が付着し」と記載され、後記平塚静夫の掛布団鑑定においても、掛布団の裏面には血痕の付着証明がなかったとされている。
検察官は、これを不自然なものではないと主張するが、その主張する機序からすれば常識的には起り得ない事象であるから、そのゆえんを論証すべきであった。現に、三木敏行は、前記証人尋問調書で「当時どうして襟当てだけに(血痕が)付いておって、外の部分に見つからないんだろうかと不審に思い、襟当て以外の布団本体を更によく見たが見つからなかった。」と供述しているのである。
また、頭髪を動かしたことにより、襟当てに血痕が付着するならば、その場合枕カバー及び敷布にも当然血液が付着すると考えられる(船尾忠孝の昭和三六年一一月一八日付鑑定)ところ、右のように敷布については血痕の付着は立証されず、枕カバー等については、当時捜索された形跡もない。
以上のように、襟当てに付着した血痕群は、その付着状況から推認し得るはずの付着原因、機序を容易に説明し得ないのみならず、その付着のし方に関しては重要な矛盾や疑問がみられるのである。少くとも、被って寝たはずの掛布団の襟当てに血痕が付着したとするならば、裏側面より表側面の方に濃くまた大粒のものが多かったり、裏側面の布地にあべこべに付着していたことは矛盾であり、血痕が襟当てにのみ付着して掛布団本体や敷布などに付着したとは認められないのは何故かという疑問が生ずるはずであって、これらの点は掛布団から取り外された襟当てに血痕が付着した、という想定でもとらない限り、容易に解消されないのである。このような血痕の付着状況にまつわる不自然、矛盾、疑問は、この血痕がそもそも検察官の主張するような機会、機序によって生じたであろうかということに対し重大な疑問を抱かせ、ひいてはこの物証それ自体の真正さに合理的な疑いをさしはさむ余地を与えるものである。
四 押収当時襟当てに多数の血痕群が付着していたか
1 捜査員の証言について
古川警察署佐藤巡査部長によって作成された本件差押調書には三枚の白黒写真が添付され、その一枚目は押入の全景を写した写真(以下これを「押入の写真」という。)、二枚目は敷布団を三つ折りにした上に敷布を拡げた写真(以下これを「敷布の写真」という。)、三枚目は掛布団の襟当ての一部を大写しにした写真(以下これを「襟当ての写真」ともいう。)であって、襟当ての写真には一個の斑点が丸印で囲まれ、矢印で血痕と朱書されており、別紙第三―三はこれを写真製版したものである。
確定審第一審第二三回公判(昭和三二年九月七日)調書中証人佐藤健三の供述部分、同証人の昭和四〇年一一月二五日付証人尋問調書によると、「同人は古川警察署の上司亀井警部の命令で本件捜索差押に赴き、押入の中の布団は幸夫のものかと尋ねたところ、おばあさんが確かにそうだ、と言った。襟当てには血痕が付いていた。何か所か忘れたが相当か所付着していた。襟当ての写真ではわからないような血痕があまたあったことは事実でこの写真は一番大きい血痕に焦点を合わせて撮ったものと思う。写真は宮城県警察本部鑑識課の菅原警部補に撮らせた。写真の丸印と血痕の朱書は同証人が書き入れたものである。掛布団と敷布を風呂敷に包み、古川警察署の自動車で同署へ運んだが、その物件を同署のどこに置いたかは記憶にない。」と供述している。右証人尋問調書では、目撃した血痕の数などについては、「なんでも真中にちょっと大きなのが一つ、全部に米粒かごま粒大というのが相当部分に付着していたのが認められ、その他もやもやしたもの……血痕のようなすれているものが認められたのです。」と証言しているが、三木鑑定にあらわれた多数の血痕群の、それも表側面右側に大きなものが集っていたという特徴的なことなどには触れられていない。
菅原利雄の昭和四〇年九月二三日付、同年一一月二五日付証人尋問調書によると、同人は、当時宮城県警察本部刑事部鑑識課現場係の警部補で、本件掛布団その他証拠物件の保管を担当し、以前には法医理科、写真などの技術指導を受けた者と認められる。そして、同人は、昭和三〇年一二月八日午前中古川警察署に寄ってから常雄宅に行き、同日午後二時二〇分から午後三時までに行われた掛布団等の押収現場において、佐藤巡査部長に頼まれて、鑑識課のローライコードサメラ(六×六サイズ)に一二枚撮りフィルムの入ったもので、それまで同人が出張先で写した残りのフィルムで四コマほど写し、その三枚が本件差押調書添付の写真であと一枚は人を入れたところを写したという。同人は前記九月二三日付証人尋問調書で付着状況につき、「付着していた面積については言えませんが、きたないという意味ではなく、何度も洗って汚れたという白布に肉眼で見える非常に小さい黒っぽい褐色の薄ばんだようなものがある面積に一つだけでなく見取れました。」と供述し、数条の流れが交錯するわん曲の点線を描いて見せている。しかし、三木鑑定書によると右のような状況は襟当ての表側面及び裏側面のいずれにも見られない上、三木鑑定書によると斑痕の多くは赤褐色で濃いものや碗豆大、麻実大のものも含まれていたはずであるのに、右証言では、斑痕が黒っぽい褐色の薄ばんだようなものと表現されるに止まっている。更に、
弁護人・問 目立って大きな点はなかったか。
答 比較的よく目立つ汚れみたいなものがあったように思いますが。
問 いくつ位あったか。
答 それはわたしが書いたような点々に比べるとまるっきり少い数でした。
問 この写真(襟当ての写真)を見ると、このようなものを出そうという気持はあったのか。
答 接写レンズがあればそれで撮影が出来たのですが、なかったものですから、可能な限り撮ろうということで撮ったのです。
問 写真は点を撮るつもりではなかったか。
答 始めから点を写そうとは思っていませんでした。
と供述しているが、ここでも赤褐色の血痕(後記のとおり写真の点は「ヲ」(a)と思われるのである。)の目撃証言はない。更に一一月二五日付証人尋問調書では、
弁護人・問 襟当てについて写真を撮ったそのあとで、詳しくどのような状態にあったとか観察したことはありませんでしたか。
答 それはですね。監査とかそのような立場にあるものですから、たとえば液体についてもこういう風にしたらこんな風につくじゃないかとそれを前提として考えますから……確認はしませんがそんなことで見たのではないかと思います。
問 三木先生に渡す前にその布団を見ていますか。
答 それ以外にはありません。時間がなかったものですから。
問 この前、襟当てに血痕付着状況を紙に書きましたが、それは布団を写真に撮る時見た感じで書いたのですか。
答 それもありますが、その外にも……。
裁判長・問 その外にもとはなんですか。
答 三木先生に渡す時に見た時、前に見た時の感じはこんなような状態でございます、位のことは言ったんではないかと思います。
問 その時見た感じでそれに基づいて書いたというのですか。
答 そうです。それから現場で見た時に考えたことによってでございます。
と供述しているが、右状況は、三木鑑定にあらわれた血痕の付着状況にそぐわないように思われる。
同人は、押収した掛布団及び敷布については翌一二月九日本件についての実況見分をすませた後古川警察署に立ち寄り、それを持って仙台市内の東北大学の法医学教室に行き三木助教授にこれを手渡した旨三木鑑定書の記載にそう供述をし、前示のとおりそれ以外布団は見ていないと証言している。しかしながら後述するように掛布団及び敷布は一旦宮城県警察本部鑑識課に運ばれたことは動かしがたい事実であり、菅原警部補もこれに関与していたことも明らかなところであって、右菅原証言にはかかる重要事項についての証言が回避されている。
2 現場写真のネガの紛失について
ところで、菅原警部補は、現場で写真を撮ったという一二月八日に古川警察署でそのフィルムを現像したと述べる一方、そのネガを紛失した、と言う。前記九月二三日付証人尋問調書によると、「(この写真のネガは)私としては佐藤巡査部長に渡したと思いますがわかりません。」「ネガの保管は撮影袋に入れて鑑識課の箱に年代別に入れて保管しておくが、どこで保管したか全然記憶がない。古川署の方にやったと思う。」と述べているが、佐藤巡査部長の証言には古川署にネガが送付された事情は見当たらない。更に、同警部補は、「ネガは家へ持って帰ることはない。」「時にはネガをバラ半紙に包んでおくこともありますので、そのようにして自分の机に入れて置いたのかもわかりません。ただ鑑識課のネガ袋に入れたことは全然なかったと思います。」と述べ、
裁判長・問 どうして鑑識課の箱に入れなかったのか。なにか理由でもあったのか。
答 一般的にはフィルムを鑑識課の写真係に渡してそこで現像し、ベタ焼をして事件名とか年月日を記入して箱に入れて保管するはずですが、本件の場合は現像焼付をわたしがして鑑識課にさせなかったわけです。それでネガも佐藤部長に渡したがその他の書類と一緒になってしまったのか、それで鑑識課の箱に入っていないと思います。
問 本件のネガは事件関係のものだから、一般的には県警本部鑑識課に引き継ぐべきだと思われるがどうか。
答 それが自分の落度でした。しかしどこかから出て来るものと思いますが。
と述べた上、「わたしとしましては、昭和三五年に転勤命令を受けた際にネガ袋に入れないで事務机に入れて置いたのを他の物と一括整理処分したのではないかと思います。これが一番考えられることです。」とも証言している。以上の証言内容は、鑑識課員の、それも物証の保管にある者の発言としてはとうてい納得できるものではなく、ネガの「紛失」が作為的になされたか又は重大な懈怠に基づいたとの疑惑を抱かせるものである。けだし、本件は県警本部をあげての組織捜査が行われた重大事案であったこと、本件関係の写真のネガはすべて鑑識課に長年にわたり保管、保存されていることは関係者の証言によっても確かめられており、現に当時鑑識課員であった石垣秀男も二十年余を経た後においてもすみやかに襟当てを写した写真のネガフィルムを引き出しているのであり、このようなネガを軽々に「紛失」するということはあり得べきことではないからである。
そこで捜査内部ではどのように処理されたかを検討するに、昭和四〇年七月三日付司法警察員八島孝作成の古川署長宛「写真原板保管の有無について報告」と題する書面によれば、「菅原利雄が掛布団撮影に使用したカメラは県警鑑識課所有のもので、現像焼付は鑑識課において処理し、写真のみ当署に送付されたものであるから原板は鑑識課において保存されたものと思料される。」というもので、古川署にネガが渡されたとは認めがたい。また、同年九月二〇日付宮城県警察本部長より仙台高等裁判所第一刑事部裁判長宛右同様の回答書によれば、「県本部において撮影した写真原板は事件ごとに一括して当本部鑑識課において保管しているのであるが、調査した結果該当の写真原板を発見できず、古川警察署写真係担当者について再度調査するも発見するに至らないで、該原板は正規に保管される以前に紛失したものと思われる。なお、事件捜査にかかわる写真原板は、照会の原板を除く外は所定の保管により当課に保管されている。」とされ、結局ネガの紛失の原因については、その責任を持つべき県警本部側によっても解明されていない。
このネガの紛失は、一連の差押写真ことに襟当ての写真にまつわる疑問点と写真撮影の時期、場所など写真証拠の価値評価に欠かすことのできない事項を客観的に解明することを阻み、襟当て血痕群の成立の真正の証明を困難にしているのである。
3襟当ての写真には血痕が写ってしるか
弁護人は、「本件襟当ての複製を用いて本件差押調書添付の襟当ての写真(以下これを「差押写真」ともいう。)と同一条件で写真撮影したところ、多数の血痕が写ったのに、右の襟当ての写真には「血痕」として矢印で指示された斑痕が一点のみしか写っていない。これは本件捜索差押当時襟当てには三木鑑定時のような八十数群もの血痕が付着していなかったことを示すものである。」と主張する。右疑問点は再審請求審で弁護人より提起され、検察官に襟当ての写真のネガを提出するよう求めたのに対し、検察官はこれに応じなかった経緯が窺われる。
そこで、当裁判所は、三木鑑定書の斑痕の状況とその付属写真等を参照しつつ、襟当ての写真について詳細に観察を試みたところ、次のような結果を得た。
(1) 襟当ての写真は、掛布団の襟当てが付いている部分を折りたたんだ状態で撮影されており、襟当ての表側の右寄り部分全部とそれに続く裏側の右寄り部分の一部にかけて写されているものと認められる。
(2) 「血痕」として矢印で指示された円内の中心部に斑痕様のものを別紙第三―三襟当ての写真説明図(以下同様。)の①とする。その位置は、襟当ての右縁からやや離れ、掛布団のへりの部分ないしその付近に当たると思われる所にあることから、三木鑑定書でいう「ヲ」がその該当候補と考えられる。
そこで、形状を比較してみると、①は縦がやや長く、横がやや短い惰円形に近い形をしているが、三木鑑定書付属写真其の一の(四)に写っている「ヲ」の(a)も同様であり、類似しているといえる(但し、右(四)の写真は差押写真とは上下さかさまに写されている。)。また、右(四)の写真には「ヲ」の(a)の右下に「ヲ」の(b)と思われる斑痕がぼやっと写っているが、差押写真のこれに対応する位置である①の左上部にも同様のぼやっとした斑痕様のものが見えるようにも思われる。
①の中心から右縁までの距離を計ってみると、約4.1センチメートル(写真のままに計ると約4.0センチメートルであるが、右縁部近くがゆがんでいるのを考慮した。)であり、三木鑑定による「ヲ」の(a)の位置が右縁から21.0センチメートルであるから、右写真と実物の比率は1対5.12(写真の右縁までの距離を約4.0センチメートルとしても1対5.25である。)で、おおよそ一対五といいうるところ、①の大きさを計ると、上下は約0.1センチメートル、左右は0.1センチメートル弱であり、実物は上下が0.6センチメートル、左右が0.4センチメートルであって(三木鑑定書)、これも右比率に近いのである。
したがって、①は「ヲ」の(a)にその位置、形、大きさがいずれもよく符合していると判断される。弁護人の依頼に基づき復元襟当ての撮影による鑑定を行った千葉大学工学部教授石原俊も矢印で示された円内の斑痕を「ヲ」と推定し、これをもとに右各鑑定を行っている(同人作成の昭和四五年一二月七日付、昭和四六年九月二五日付各鑑定書)。
(3) 写真のやや左下の襟当てが畳に接している部分近くに左下から右上にほぼ平行に走っている二本の斑痕らしき線様のものを②とする(なお、別紙第三―三の写真は写真製版のため右斑痕は判然と写っていない。以下③、④についても同じである。)。その形状は極めて特徴あるものであり、三木鑑定書付属写真其の二の(四)に写されている「よ」によく似ている。
また、②は①の左下方にあるが、「よ」は襟当ての裏側の右寄り部分の上方にあり、右襟当てを差押写真のように写せば、「ヲ」の左下となる位置にあるから、①、「ヲ」との位置関係もよく符合している。
差押写真の右二本の斑痕様の線のうち、「よ」の(a)に当たると思われる右側のもの(②の(a)とする。)の長さを計ってみると、0.1センチメートル強であり、実物(0.8センチメートル―三木鑑定書)との比率はこれもまたおおよそ一対五に近い。
②の(a)の中心から右縁までの距離は約5.4センチメートルであり、実物は26.8センチメートルである(三木鑑定書)から、その比率は1対4.69で、ほぼ一対五である。
更に、①と②の(a)との左右の差を計ってみると約1.1センチメートルないし約1.2センチメートルであるが、これと、「ヲ」の(a)の右縁までの距離21.0センチメートルと「よ」の(a)の右縁までの距離26.8センチメートルの差5.8センチメートルとの比率は、1対5.27ないし4.83であって、これも約一対五である。
以上の次第であるから、②は「よ」によく符合するといわなければならない。
(4) 写真の襟当ての右上縁近くに横長の斑痕らしきものを③とする。これはその位置関係から「ホ」の(a)に該当することが考えられる。
三木鑑定書によると、「ホ」の(a)は碗豆大(左右径0.6センチメートル、上下径0.4センチメートル)の惰円形であり、付属写真其の一の(二)にこれが写されている(但し、上下さかさまである。)が、③はこれを斜め下方から見て上下が縮まった形に似ているように思われる。
そこで、③の左右の長さを計ると約0.1センチメートルであり、実物の0.6センチメートルとの比は一対五に近いといいうる。
③の中心から右縁までの距離は約1.3センチメートルであり、実物は6.7センチメートルである(三木鑑定書)から、その比は1対5.15である。
以上のとおり、③は「ホ」の(a)に符合すると思われる。
(5) 更に、差押写真の襟当ての右縁の中央付近縫目の線のすぐ右側に接着した状態にあり、円形に近い形をしているが、三木鑑定書付属写真其の一の(一)に写されている「ロ」の(a)(但し、上下さかさまに写されている。)もその位置及び形状が同様である。
その大きさは、④は直径が0.1センチメートル弱であるのに対し、「ロ」の(a)は直径0.3センチメートルであり(三木鑑定書)、これも一対五の比率からそれほど離れていないと思われる。
また、④の上縁(三木鑑定書の表側下縁に対応する。)までの距離を計ると約3.6センチメートルで実物の19.3センチメートル(三木鑑定書)との比は1対5.3であるが、差押写真の襟当ての上縁が幾分向こう側に巻き込まれていることを考慮すると、右比はほぼ一対五となるといってよいと思われる。
したがって、④は「ロ」の(a)によく符合しているといえるのである。
(6) ひるがえって、三木鑑定書及びその付属写真により、三木鑑定に付された襟当てを差押写真のように写した場合、見えて然るべき斑痕を検討すると、位置的に写真に写された範囲に入る斑痕は多数あるが、そのほとんどが極く小さなものであったり、薄いものであったりして、襟当てを部分に分けて接写している右付属写真にも明確に写っていないのであり、大きさや濃さが条件に適うものとしては、前記の「ヲ」の(a)、「よ」、「ホ」の(a)、「ロ」の(a)にほかにはわずか「ヘ」と「ワ」の(a)があげられるのみである。
三木鑑定書によると、「ヘ」は(a)が右縁から左方9.3センチメートル、下縁から上方(写真では上縁から下方に相当する。)6.1センチメートルにあり、(b)が(a)の右上方(写真では右下方)0.8センチメートルにある。したがって、「ヘ」の(a)は「ホ」の(a)の上方4.6センチメートル、左方2.6センチメートルにあることになるので、これまでの結果から襟当ての写真が実物の約五分の一に縮少されて写されていると考えられるから、③の下方約0.9センチメートル、左方約0.5センチメートル付近、「ヘ」の(b)はその0.1センチメートル強右下方にあることになり、いずれも③の下方やや左にあるY字型のしわの右の明るくなっている部分(⑤で示す。)あたりがこれに当たるが、明確にこれらに該当すると思われる斑痕は認められない。しかし、同所は特に光が強く当たっていると認められる所であるので、そのため斑痕が写らなかったことが考えられる。
また、「ワ」の(a)は「ヲ」の(a)の左下方(写真では左上方)約3.7センチメートルにある(三木鑑定書)から、襟当ての写真では①の左上方約0.7センチメートルということになり、⑥で示す影になった所付近がこれに当たる。ここには「ワ」の(a)に相当する斑痕は認められないが、右影のために見えないということが考えられるのである。
以上の次第であって、襟当ての写真には、三木鑑定に付された襟当てを右写真のように写した場合見えて然るべき斑痕八個(「ヘ」と「よ」はそれぞれ二個と数えた。)のうち(1)ないし(5)のとおり五個についてその位置、形、大きさがよく符合する斑痕様のものが認められるのである。
右襟当てと斑痕状態が同じものを復元することが極めて困難なことは、各石原鑑定に用いられた各復元襟当てが必ずしも実物と同じになっていないことからも明らかであり、まして、しわ等の原因によって偶然に実物と同じような位置、形、大きさに斑痕様のかげが生じるということはとうてい考えられない。
したがって、襟当ての写真に写された襟当ては三木鑑定に付されたものと同一物であり、少なくとも、「ヲ」の(a)、「よ」、「ホ」の(a)、「ロ」の五個の斑痕が付着していたと判断されるのであり、更に、写って然るべき他の三個の斑痕が見えないことについても相当の理由が考えられることを考慮すると、右写真撮影時にはすでに鑑定時の斑痕付着状況にあった蓋然性が高いといわなければならない。そうすると、差押写真に関する弁護人の右主張はくつがえされるように思われる。
4襟当ての写真の成立について
しかしながら、襟当ての写真が差押調書に添付されているからといって、それが本件捜索差押当時常雄宅で撮影されたものとは速断できない。この写真がどこで焼付けられ、どのように送付されたかについての佐藤巡査部長や菅原警部補らの証言はやや瞹眛である。それのみならず、撮影者菅原警部補は、押収当時常雄宅で写した四枚の写真の中の三枚が本件差押調書に添付された旨証言しているが、この証人は、掛布団等の保管、移動の重要事項について証言を回避している上、肝心の写真のネガを「紛失」したと称している者である。右証言については、その証人の属性や立場などを考慮した上でその信用性の有無を決しなければならないのであって、たやすくこれを信用することはできない。
ところで調書添付の三枚の写真のうち一枚目の押入の写真は別として、二枚目の敷布の写真は被写体に光がスポットされており、菅原の前記一一月二五日付証人尋問調書によると、これは自然光線を利用したのではなく電光をスポットして写した写真であるというが、果して常雄宅でスポット撮影がなされたのであろうかについても同証人は、「スポットされて写された写真です。それが何かと言われても今はわかりません。」と供述するに止まっている。
次に、襟当ての写真については、写真の右斜め方向から光線が入っているが、この点に関し、同証人は、「日光か電灯かわかりませんがこれは斜光線です。」と述べ、「露出をたっぷりかけて斜光線を使って撮った。」とも証言している。しかし、果して当時、常雄宅の日光の入り込む位置があったのか、また、斜光線用の電灯をどのように用いたのか等について具体的な供述がない。この写真は、前記の検討からも明らかなように、襟当ての血痕を写すのに最も良い部分を撮影の対象としていると思われ、この写真の撮影者は襟当て全体を観察し、血痕群の位置、大きさ、濃さなどを念頭においたと推測されるが、常雄宅で果してかかる作業が行われたとすれば、立会人の常雄らにはどうして血痕が示されなかったのか、菅原証言の斑痕目撃が三木鑑定書とあまりにも食い違うのは何故かなど様々な疑問が生じて来る。
以上によると、襟当て写真については、被写体の同一性の点はともかく、その成立、すなわち真の撮影者、撮影時期と場所に関しては疑問が存するところ、捜査員らの証言は軽々に信用することができず、立会人その他信頼できる第三者の証言もなく、撮影の機会と場所の手がかりを客観的に証明し得る一連のネガフィルムも「紛失」されたとして提出されない以上、右疑問は払拭されないことに帰し、右写真をもって押収当時すでに襟当てに多数血痕群が存していたとはたやすく認定できない。
五 掛布団の保管、移動並びに二重鑑定をめぐる問題について
1三木鑑定の経過について
三木鑑定書の記載内容、証人三木敏行の昭和四〇年一二月二日付証人尋問調書(以下これを「三木証言」という。)、証人菅原利雄の前掲各証人尋問調書、三木敏行から仙台地方検察庁古川支部検察官宛の昭和三〇年一二月一〇日付、同月二六日付各電話聴取書、同月一二日付勾留状その他関係証拠によれば、掛布団の押収から三木鑑定が証拠として提出されるに至るまでの経過は次のとおりと認められる。
①掛布団は前示のとおり昭和三〇年一二月八日常雄宅より敷布と共に押収され、菅原利雄の供述によれば、同人が翌九日古川警察署より掛布団、敷布及び下駄を風呂敷に包み、東北大学法医学教室の三木敏行助教授にこれを渡した。
②三木助教授は古川警察署長の鑑定嘱託により、鑑定処分許可状に基づき、右同日、これらの物件について、血痕、人血付着の有無、付着状況と時期等六項目にわたる鑑定事項を受諾した。
③同月一二日襟当ての血液付着検査が行われた(鑑定書記載による。)。
④同月二〇日検察官から布団の血液型検出、鑑定人の結論を得るまで数日を要することを理由とする被疑者齋藤幸夫に対する勾留延長請求(認容)がなされた。
⑤右同日付で三木敏行から検察官宛に「さきに鑑定嘱託された布団の血液型検出についてその結論を得るまで以後四、五日を要する。」旨の電話連絡があった。
⑥同月二六日付で三木敏行から検察官宛に、「齋藤幸夫が使用せる布団に付着せる血液については目下鑑定中なるも、結果の見透しについては次のとおりの見込みである。容疑者齋藤幸夫のものではない。被害者四名の血液型なりと見るも矛盾しない。」旨の電話連絡があった。
⑦同月三〇日被告人は仙台地方裁判所古川支部に起訴された。
⑧昭和三二年三月二三日付で三木鑑定書が作成された。鑑定所要日数は昭和三〇年一二月九日より昭和三一年一月一五日までの三八日間と昭和三二年三月二日より同月二三日までの二一日間の合計五九日間である(三木鑑定書記載による。)。
⑨昭和三二年三月二三日(確定審第一審第一六回公判)に検察官申請により三木鑑定書等が提出され、同年五月九日(同審第一八回公判)に三木鑑定書取調済となった。
以上の経過が認められるところ、菅原利雄の証言によれば、①のとおり、掛布団及び敷布は昭和三〇年一二月九日三木助教授に渡され、三木もこれを受け取ってから鑑定終了までの間掛布団を他に持ち出したことはなかったというのである。
しかしながら、以上の鑑定経過には、若干の修正すべき点が存する。すなわち、以下に述べるように、(一)掛布団と敷布とは同月中宮城県警察本部鑑識課に運ばれていたこと、(二)同課技師平塚静夫が、鑑定嘱託に基づいて同月二二日と二三日に掛布団について行った旨の鑑定書が存したことにより、前記①ないし⑥の経過は修正されなければならないのである。
2平塚鑑定の経緯について
まず、写真一二葉(昭和五一年四月二一日付検察官請求証拠調請求書添付)とそのネガフィルム一二コマ(昭和五八年押第一九号の五)、裁判所書記官佐々木忠司作成の報告書並びに証人石垣秀男の昭和五一年六月七日付証人尋問調書によって検討するに、一二枚の写真は「松山殺人事件」「理化物件」「フトン」と表示のネガ袋に入っており、昭和年月日の日付欄には301213とペン書きで記入され、そのうち「13」が鉛筆の横線で消されて「22」の数字が記入されている。
一二枚の写真(25冊七八四丁以下、以下丁数順)は、二枚続き六組のネガを焼付けたもので、①床上の掛布団表全景、外一枚(人脳様のもの)、②床上の掛布団全景裏、同表、③床上の敷布全景、同上、④ブロックにかけられた掛布団襟当て大写し左側、同右側、⑤ブロックにかけられた掛布団襟当て大写し左側、同右側、⑥市街地の写真、ブロックにかけられた敷布となっており、いずれも直射日光の屋外(①の一枚を除く。)写真である。右のうち、④、⑤のネガ四コマを全紙版陽画に引押した前記佐々木報告書によれば、襟当て表側面及び裏側面に、その位置、形状が三木鑑定に符合するような相当数の斑痕が写し出されている。
石垣証言によれば、これらの写真(前記一枚を除く。)は、当時宮城県警察本部鑑識課写真係であった同人が、昭和三〇年一二月中の晴天の日に同県警察本部屋上でローライコードカメラに一二枚撮りフィルムを入れて撮影したものと認められるが、ネガ袋の日について、同証人は、それが写真撮影の日かフィルムを整理した日か数字の意味の記憶はない、というのであり、撮影日は一二月二二日(鉛筆書きの日)か一三日(ペン書きで抹消された日)とも思われるが、それ以外の日であった可能性も否定できない。石垣証人は、これを午前中撮影した写真であると供述しているが、⑥の市街地の写真は冬の午後の風景である(屋上から仙台市街地の北西を対象とし、近郊の山を遠望し、陽光の影は画面の左から右へ走っている。)ことからして、これは一二月中の午後、晴天で床面に敷布等を置き得る日であることが推察される。
次に、証人鈴木隆の昭和五一年六月七日付証人尋問調書によれば、「本件掛布団は午後三時か三時半頃県警本部鑑識課の理化学実験室に持ち込まれ、同課の化学担当をしていた同証人のほか、刑事部長佐藤寅之助、鑑識課長高橋秋夫、現場係の菅原利雄らが部屋に入り、ルーペでかわるがわる布団を見た。」という。そして、「布団の白い襟当てには点々と血痕様のものが付着しているのを見た。」とし、「布団は勤務時間の午後五時の時点では片付いていた。石垣秀男はさきの屋上の写真に関し、布団を持ち込んだとき、これは室内で(撮るには)ちょっと無理で屋外で撮るにしても暗いから今日はだめだということは話したことがあると言っていた。」旨供述している。
以上によれば、掛布団と敷布は宮城県警察本部鑑識課に運ばれ、鑑識課員らによって午後三時ないし三時半過ぎ頃から午後五時頃までの間に点検され、その翌日以降晴天の日の午後に石垣秀男によって前記の写真が撮影されたと認められる。
関係証拠によれば、右点検の際同課技師平塚静夫も立会していたと認められるところ、平塚静夫の昭和五一年五月二四日付証人尋問調書、平塚静夫作成の昭和三〇年一二月二八日付鑑定書(以下本項ではこれを「平塚鑑定」又は「平塚鑑定書」という。)、同人作成の「伺案鑑定結果の回答について」と題するペン書き書面(以下これを「平塚伺案」という。)、その他関係証拠によれば、次の事実が認められる。
平塚鑑定書は、古川警察署長の昭和三〇年一二月二二日付鑑定嘱託書(宮古鑑第一五六二号)に基づくもので、鑑定嘱託事項は掛布団についてさきの三木鑑定と同一であるが、鑑定した事項は、掛布団の裏面に人血が付着しているか否か、付着しているとすればその血液型、その他参考事項について、というのであり、「布団裏の黒褐色の汚斑の各部についてベンチジン検査、ルミノール検査を行ったが、汚斑はいずれも陰性であり、掛布団の裏には人血が付着していない。」との結果が示され、鑑定は同月二二日着手し、同月二三日終了した旨記載され、前記②の掛布団の全景裏、同表と同一ネガによるものと思われる写真が添付されている。
右鑑定について、平塚静夫は、前記証言で、「この掛布団を鑑定して大学の三木研究室に回した。鑑定は掛布団の裏側に限り、襟当てを除いた布団本体についてなした趣旨である。これを肉眼的に検査したが、直感的に斑痕は非常に少いという感じをもった。襟当てには一〇個以下しかついていなかったし、大きいものとしても小豆大か米粒大位のもので、そういうものが若干ついているなという感じであった。その鑑定の時、襟当てが部分的に切り抜かれていたということは一切ない。それは断言できる。布団に限らず右事件の物の管理は菅原利雄が中心になっていたように思われる。添付写真についても、通常は鑑定者が写真係を頼んでスケールを入れて撮るのが例であるのに、あの事件に関する限り、平塚らは単なる鑑定だけであり、その物件の保管は菅原が主体になって動いており、この布団の処理については一般的なやり方とは違いがあるような感じであった。」と述べ、鑑定時における襟当ての血痕等に関し、
弁護人・問 布団の表で右下方のしみがあったというような記憶なのか。
答 それがございます。裏についてはくわしくは見ておりませんのでわかりかねますが一応は見たんです。ただルーペを使っていちいちずっと見ているわけでは決してございませんので、私の経験では大体見当がつくんです。それで見ておって、ああ血痕ないな、これは大学へ頼まなくちゃだめだと、こういう感じを持ちました。
問 肉眼検査の段階で、いわゆる血痕と目してすぐ鑑定に入るべきしろ物は着いていないと。
答 着いていないというよりも血痕かどうかわからないけれども、色の着いたものはあったんですね。
と述べ、終始斑痕らしいものは一〇個以下であって、多数の血痕群は見ていなかった旨の供述をし、
問 八十数群の(血痕が)着いているなんていうことについては見落すはずがないと(証言段階以前に弁護人に)述べていたけれども、(証言段階で)よみがえった記憶の関係でいうと、(斑痕が)一〇個以下というふうな記憶ははっきりしているのでしょうか。
答 それは目にふれる部分ですね。それから細かいものがあったと聞いておりますのでね。
問 だから聞いているんですが。
答 三木さんの鑑定書の中に五十数個というようなことが記載されておりますね。すくなくともわれわれとしては、そんな数のものがあるということですね。ほんとうのことを言って夢にも思わなかったんです。ただ感じとして大きいのだけ数個あるなといいますか、そういうみかたをしかしておらないんです。
問 それであなたがあとで八十数群のしみが着いていたということを、三木さんの鑑定書に出ているということをあとでほかから聞いて、夢にも思わなかったと。
答 実際驚いたんです。
と述べている。これより先に平塚静夫は昭和四六年六月二五日付証人尋問調書で、「布団は当時高橋秋夫と刑事部の佐藤寅之助がそれを鑑識課の実験室に持って来た。布団を肉眼的に見たがちょっとわからない気がした。見ただけではどこに付いているか全然わからない状況だった。当時三木助教授に聞いたが、血液は少いということを話していた。」旨供述しているが、右調書で平塚は「敷布団」を検査したと述べているが、これは掛布団の記憶違いと推察される。ここでも平塚は肉眼で見ても血痕の付着を視認し得なかったと受け止められる趣旨の供述をしているのである。
3三木、平塚の二重鑑定をめぐって
以上によれば、一二月九日に三木鑑定に付せられたはずの掛布団は、一二月中に県警察本部鑑識課に運ばれたことは動かしがたいものとなり、更に同月二二日平塚鑑定に付せられ、平塚鑑定人は、その鑑定した時には三木鑑定にいう肉眼で視認可能な多数の血痕群があるとは夢にも思わなかったと証言していることが明らかとなった。そこでこのように錯綜する証拠と事実関係はどのように解決されるべきであろうか。
まず、三木鑑定が行われていたのに、重ねて平塚鑑定が二重に行われた理由と必要性については、これを詳らかにする証拠はないが平塚鑑定書の原案で平塚技師自身の起草になる平塚伺案には、朱ペンで「この鑑定書は東北大学法医学教室三木助教授の依頼により作成したものである。」との書き込み記載があり、これは平塚技師の手になるものと認められる。その趣旨についても三木、平塚ら関係者の供述を含め、これを詳らかにする証拠はないが、平塚伺案には、係長、部長、本部長の決裁印が押捺されており、捜査業務上の内部文書としての形式と体裁を整えており、右朱書の信用性を否定すべき特段の事情も認められない。そうすると、三木鑑定に付された掛布団は三木鑑定以後、三木の依頼により平塚鑑定に付せられたと推論することは一応可能である。
次に平塚鑑定が行われた日については、鑑定嘱託と鑑定書記載により一二月二二日に着手し、二三日に終了したと一応認め得るものの、この日付の記載に関する平塚の証言(昭和五一年五月二四日)はやや瞹眛であること、掛布団等が県警察本部鑑識課に運び込まれたのは二二日の可能性もある(ネガ袋鉛筆書きの日)が、一三日の可能性もある(ネガ袋ペン書き抹消日)こと、昭和三〇年一二月二二日付の平塚鑑定嘱託書(25冊、前示宮古鑑第一六五二号)にはその受付スタンプの日付印の昭和「31」年のゴム印が、「30」とペン書きで、12月「24」日のペン字が「21」をペン字で改ざんしたようなあとが残されているなど内部処理手続に若干の疑わしい点が窺われるが、さりとて、鑑定書の日付記載が虚偽であったことを断定するに足りる資料もなく、また、それが右のように疑わしいとしても、検察官の主張するように一二月八日ではあり得ないことは、後述のとおりである。
そうすると、平塚鑑定は、少くとも三木鑑定に付されたとされる日の昭和三〇年一二月九日以後の、一三日又は二二日若しくはそれ以外の日であるとの蓋然性があり(一三日、二二日がより高い。)、その際には襟当てには、三木鑑定にいう多数の血痕群が付着しておらず(平塚証言)、したがって右血痕群はそれ以後付着されたとの推論を容れることは証拠上可能である。
この推論は、略弁護人の主張にそうものであるが、この立場によると、平塚鑑定時には襟当ての切り取りは全くなかったのに、三木鑑定において、一二月一二日に血液検査(襟当ての切り取り)が行われたことと矛盾するに至る。しかし、三木証人は、昭和四〇年一二月二日付尋問調書で、「一二月九日に(掛布団等を)おそらく受け取ったと思うが、日付のずれはあるかも知れない。」「鑑定嘱託書の日付と鑑定資料を受け取る日は、時として数日間ずれることがある。」と述べ、昭和五四年一月二〇日付尋問調書で、「血痕付着の切り取りは一二月一二日よりもっと後であった。検査の内容からいうと、一二日までに全部終わらしていることは無理だったと思う。この検査は表の記載だけでもかなり時間がかかった。」と述べているところからして、切り取り検査は一二日以後であったと認められるから、平塚鑑定と必ずしも矛盾するものではない。
もっとも、以上の推論は、前記県警察本部屋上の写真、石垣証言、平塚鑑定、平塚証言等を軸としているが、これがより高度の蓋然性を有すると言い得るためには、掛布団は一体、常雄宅から古川警察署に運ばれた後、いつ、どこでどのように保管され、移動したのか、県警察本部に掛布団が運ばれた日は正しくは一二月の何日であったか、石垣が撮影した写真のネガの日付はいつか、平塚鑑定が重ねて行われた真の意味(併せて平塚伺案の朱書きの真の意味)などが明確にされる必要があろう。しかしこれらの点が不明瞭、不明確であるのは、これらの点について証拠保全をし、釈明義務のあるはずの捜査員側がその義務を懈怠し、若しくはその後その真相解明に当たっても終始消極的な姿勢をとり続けていること(現に石垣の撮影した写真や平塚鑑定書などは確定審の事実審公判に提出されず、かかる二重鑑定が行われたこと自体再審請求審を通じ、長年にわたって事実上秘匿されたにひとしい状態に置かれていたのである。)に由るものといわざるを得ない。むしろこれらの諸点を含め、錯綜する二重鑑定等の問題については、本来証拠提出責任を負うべき検察官において、これを釈明若しくは解明し、前記推論の不合理性を指摘すべきではなかろうか。
この点について、検察官は以下のように主張する。「襟当て付の掛布団は、昭和三〇年一二月八日午後二時二〇分から午後三時の間に被告方で押収された後、同日夕刻宮城県警察本部鑑識課に持ち込まれ、刑事部長佐藤寅之助、平塚技師、同課員ら数名の者が検査し、血痕様斑痕が多数認められたので三木助教授に鑑定依頼をすることとし、同日平塚技師が令状なしに掛布団の裏面本体についてベンチジル、ルミノール検査をし、同夜はこれを鑑識課で保管した。翌九日午前中県警本部庁舎屋上でこれを写真撮影し(石垣秀男の写真)、その日のうちに菅原警部補が三木助教授に届けた。」という。そして、平塚鑑定書の作成が一二月二二日、二三日の両日行われたような記載になっていることについては、「平塚が一二月八日に鑑定処分許可状なしに検査を実施したため、鑑定許可状を得た後である二二日と二三日の両日にわたって検査をしたかのごとき鑑定書を作成したものと推認される。」というのである。
しかしながら、まず、掛布団が一二月八日に押収先の常雄宅から宮城県警察本部鑑識課に持ち込まれたという証拠はどこにもない。前記のように、佐藤巡査部長は古川警察署の上司亀井警部の命令により押収し、同日は古川警察署に持ち帰ったと証言し、同行した菅原警部補もその日は古川署に寄ったと証言しているのである。仮りに一二月八日の押収当日に掛布団が県警察本部鑑識課に運ばれたとするならば、一体誰が何故に直接搬入したのか、また、鈴木隆の証言によれば、掛布団は午後三時か三時半頃に鑑識課に持ち込まれ、午後五時までには片付いていたというのであるから、時間的に考えても検察官の推論は成り立たないのではないか、まして八日夜はこれが鑑識課で保管されたなどという証拠はないのではないかなどの疑問が提起され、かえって収拾がつかなくなるように思われる。更に、九日午前中に県警察本部屋上で掛布団と敷布の写真撮影が行われたとの主張の具体的な根拠がないのみならず、右写真が午後の撮影にかかるものであることは、前示のとおり客観的に争いようのない事実なのである。そして、仙台管区気象台長作成の昭和五八年一一月一一日付気象資料照会回答書によって、検察官の主張する昭和三〇年一二月九日と、石垣証言並びに写真ネガ袋の記載によって撮影された可能性のある同月一三日(抹消された日)及び同月二二日(鉛筆書きの日)のそれぞれについて仙台市の気象状況を検討すると、
(1) 一二月九日は、晴れ時々雪の天気で、午前は七〜八時0.2mm、八〜九時0.6mmの降水量を伴う雪、一一時、一三時、一六時にも雪が記録され、この日は屋上の床面や壁面に掛布団や敷布を置いて撮影するのにふさわしくない日である。
(2) 同月一三日は、終日快晴の天気で降水量の全く記録されなかった日である。
(3) 同月二二日は、午前八、九時は雨で0.0mmの降水量、一〇時、一一時晴、一二時曇、一三時〜一五時晴、一六時曇である。
以上によれば、屋上で一二月中の午後撮影可能であったのは右の三日間のうち、九日を除く、(2)、(3)の各ネガ袋記載日であったということができ、検察官の主張はこの点からも否定的に解される。
また、平塚が一二月八日に掛布団を令状なしに検査し、後日鑑定処分許可状を得て日付を仮装した旨の主張も全く証拠に基づかない推論(かような捜査内部の例外的処理事情は推認ではなく、本証によって裏付けるべきである。)である。掛布団が一二月八日に持ち込まれたという前提がそもそも根拠を欠き、むしろ成立しない公算が大であることに加え、前示平塚静夫の証言によってもこのような事情を窺うことができないのである。
以上のとおりで検察官の推論は根拠を欠き採用できない。この推論は三木鑑定の記載を絶対視し、掛布団が一二月九日に三木助教授の教室に運び込まれた後三木鑑定書作成までの間門外不出であった、という仮定の上に組み立てられたものと思料される。しかし、証拠は相対的に評価されなければならないのであって、前示のように掛布団等が一二月九日以後に宮城県警察本部に持ち込まれたこと、平塚鑑定が行われたことは客観的な事実であり、これらを三木鑑定の記載にそわないからという安易な推論で一蹴することは許されないのである。
4まとめ
以上によると、掛布団は、昭和三〇年一二月八日に押収された後、その保管、移動状況が不明確であり、同月九日に嘱託されたはずの三木鑑定とは別途に、宮城県警察本部鑑識課に運び込まれ、平塚技師の鑑定に付されたことは動かしがたいところ、その日は同月二二日又は一三日頃であり、かつ、平塚鑑定の時点では、襟当てには三木鑑定にいう多数の血痕群は付着していなかった、との推論はこれを容れる余地がある。この推論を否定し、又はもろもろの疑問を解明するに足りる検察官の主張、立証は不十分であるといわざるを得ない。
六 掛布団についての被告人及びその家族に対する弁明手続等について
確定審第一審公判調書中佐藤健三(第二三回)、齋藤彰(第二〇回)、齋藤美代子(第一九回)、前示捜索差押調書、齋藤さきの昭和三〇年一二月一七日付員面調書、齋藤常雄の昭和三一年二月四日付検面調書その他関係証拠によれば、掛布団と敷布は、昭和三〇年一二月八日常雄方で前示のとおり押収されたが、これは普段、布団の上げおろしをしていた祖母きさが「掛布団は幸夫のもので上京後彰が使用している。」と申し立てたことによって特定されたものであること、ところがその後帰宅した弟彰がそれは自分の布団だと主張したため、同月一六日仙台地検古川支部で事情聴取され、翌一七日常雄方から別の掛布団二枚が改めて任意提出されて即日仮還付されたことが認められ、掛布団の使用状況につき祖母きさと弟彰との見解が相違していたことが窺われる。
被告人は、掛布団が押収された翌日の一二月九日から、「堤で髪は洗わないがあるいは血が付いたかも知れない」(同月九日付員面調書、同旨同日付録音テープ)、「着ていた布団は木綿の布団で弟は別の布団に寝ている。私も弟達も傷つけたり怪我したことはない。そのとき(犯行後)のべられていた木綿物の私の布団にもぐり込んだ。襟掛けは白いものである。」(同月一五日付員面調書)との供述を録取され、更に、同月一七日頃検察官から二組の布団(前示のものと思われる)を示され、それが弟彰の使用したものかどうかを尋ねられ、わからぬと答え(被告人の弁護士守屋和郎に対する昭和三九年八月一九日付供述調書)、検察官より捜索差押調書添付の写真を示され、「私の布団のように思う。血が付いている事等全然見たことない。」(昭和三一年二月六日付検面調書)との供述を録取され、その自白、否認段階を通じ、襟当て血痕についての状況設定を着々と固められていた反面、以上のいずれの段階においても、被告人はもとより、押収に立会した兄常雄、掛布団の使用を主張した弟彰らに対しては、司法警察員並びに検察官側より掛布団は示されず、襟当てに所定の血痕が付いていたことすら知らされないまま、約一年三か月余を経過した確定審第一六回公判(昭和三二年三月二三日)において掛布団と鑑定の証拠申請がなされ、そこではじめてその全容が被告人側に明らかにされたのである。このような捜査、訴追の方法は、被告人らに弁明の機会を今く与えないもので、手続の公正、公平さを疑わしめるものがある。
以上のほか、弟彰が少くとも被告人の上京後約四〇日にわたって掛布団を使用したとするならば、当然多数の血痕群に気づくであろうと思われるのに、その様子は窺われず、この点からも本件掛布団の襟当てには果して常雄宅に在宅当時から血痕群が付着していたのであろうかにつき疑いがもたれるのである。
七 まとめ
三木鑑定は、掛布団の襟当てに付着した血痕群の血液型が被告人家族のそれとは一致せず、被害者らのそれと一致することを証明したが、他方、右鑑定によれば、その付着状況の点から、血痕群が被告人の行動を介して生じたとするにはあまりにも不自然、不合理な付着状況が認められるのである。そして、右物証については、押収、保管、移動並びに鑑定経過に若干の疑義がみとめられ、そのことが押収当時果して襟当てに右の血痕群が付着していたであろうかにつき払拭できない疑問と、押収以後に血痕群が付着したとの推論を証拠上容れる余地とが残されているのであり、これらにかんがみると、本物証は、これをもって有罪証明に価値のある証拠とすることはできない。
第五 自白の任意性及び信用性
一 自白の概要
被告人が自白するに至った経緯は、第二の一で判示したとおりである。自白の内容のうちいくつかについては、自白期間中においても変遷があるが、その点は個々に後述するとして、最終的な自白の概要は次のとおりである(被告人の昭和三〇年一二月六日付ないし同月一五日付各員面調書、同月一一日付検面調書)。
(1) 私は、ほとんど毎晩のように飲食店、料理店、旅館等で飲み歩いたため、借材が重み、その返済と小遣銭の捻出に窮していた。
(2) 私は、昭和三〇年一〇月十五、六日頃忠兵衛の妻(嘉子)が製材業をしていた兄常雄方に来て材木を買っていったのを中の座敷から見て、忠兵衛方で普請をすることを知り、同人方には二、三万円位はあると思った。
(3) 私は、忠兵衛方には一度も行ったことはなかったが、所在場所は知っていた。
(4) 飲み友だちの加藤浩が預っていた柔道大会の前売券の売上金を同人と私の二人で使いこんでしまったことから、私と右加藤は同月一七日の晩金策のため小牛田の質屋に行き、両名の衣類数点を質入れして、加藤が二五〇〇円を受けとり、両名はその金の一部で小牛田駅前の屋台で飲食した。私は清酒と焼酎をあわせ三、四杯飲んだ上、ひとりで汽車に乗って午後一〇時過ぎ頃鹿島台駅に着いた。
(5) 私は、その後、歩いて家に帰ろうとしたが、その途中、忠兵衛の妻が材木を買いにきたことを想起し、同人方に金を盗みに行こうと思い立った。
(6) そこで、私は自宅に帰らず、自宅付近の瓦工場のかまの中に入って休息しながら時間をつぶし、翌一八日午前三時頃そこを出発した(別紙第二参照)。
(7) そのときの服装は、下は茶色ズボン、白パンツ、上はねずみ色のジャンパー、えび茶のセーター、丸首半袖アンダーシャツを着ており、足は素足に下駄をはいていた。
(8) 私は、瓦工場の東側を通る船越街道を北に向かい、切通し手前から近道である山道を通って忠兵衛方に着いた(別紙第二参照)。
(9) 忠兵衛方入口のあたりでしばらく中の様子を窺い、一家が寝ているようであったので格子戸を引いてみたら鍵がかかっておらず、すぐあいた。
(10) 中に入ると狭い土間で、左の方に岩竈が置いてあった。土間の奥に六畳板の間があり、板の間と次の八畳間の境は紙障子が立てられていたが、少し破れており、障子と障子の間が一尺五寸あいていた。電灯は一灯だけで、六畳間と八畳間のほぼ中間の六畳間の方にあった。
(11) 八畳間には押入の方から忠兵衛、その妻、子供二人という順で頭を板の間の方に向けて寝ていた。
(12) 私は忠兵衛によく顔を知られており、目をさまされて顔を見られたらまずいと思い、忠兵衛方一家全員を殺した上金を盗ろうと決意した。
(13) まきか丸太でもないかと思い、外に出てみると風呂場の壁に薪割が立て掛けてあったので、持って中に入り、これで忠兵衛、その妻、子供二人の順に頭を三、四回ずつ殴りつけて殺した。
(14) 薪割をそのあたりに捨て、顔を見るのがいやさに押入の中から何か引っ張り出して忠兵衛夫婦の顔にかけた。
(15) それから奥の箪笥の前に行き上から二つの引出しをあけて中を見たが金がなかったので金を盗るのはあきらめた。
(16) 死体をこのままにしておいては証拠が残るので家に放火しようと考え、外に出てたきつけになる物を探した。風呂場の右手奥の方に木小屋があり、ここから杉葉一束を持ってきて忠兵衛の枕元の障子のそばに置き、再び外に出て入口の角の所にあった短い木屑などの入ったりんご箱を持ってきて、杉葉のまわりに木屑類をばらまき、ジャンパーのポケットに入っていた広告マッチで杉葉に火をつけた。
(17) いくらか赤く燃え上ったのを見て早足で逃げた。忠兵衛の家の下の辻あたりで振り返って見たら家の中が赤くなっていた。
(18) 来た道を急ぎ足で引き返したが、切通しの平坦な所あたりで半鐘の鳴る音が聞え、振り返ってみると、忠兵衛方上の空が赤くなっていた。そのとき両手でズボンに触わり、ヌラヌラと血がついているのがわかった(別紙第二参照)。
(19) それで、船越街道に出てしばらく行った所にある大沢堤の溜池のうち上の池に入り、土をこすりつけてズボン、次にジャンパーを洗った。ジャンパーを着ているとき切通しの方角からトラックのエンジンの音が聞こえたので、堤防を馳けて池の東側の杉林の中に逃げ込んだ(別紙第二参照)。
(20) 杉林の中で明るくなるまで待っていたが、その間にサイレンが聞こえた。薄明るくなってから、下駄を持って裸足で走って家に帰った(別紙第二参照)。
(21) ひき屑小屋に入ってジャンパーとズボンを脱いでまとめておき、玄関の硝子戸をあけて中に入り、自分がいつも寝ている一番奥の八畳間の真中の布団に入ったが、眠れないまま朝七時頃起きた。
(22) 犯行時着ていたジャンパーは同年一〇月二〇日頃兄嫁が、ズボンは東京に出てからのちの同年一一月十五、六日頃上部道子が洗ってくれた。
二 自白の任意性
1取調べの違法事由について
弁護人は、被告人の自白は任意性がなく、これを証拠として用いることは許されないと主張し、取調べの違法事由とし、①違法は別件逮捕による取調べ、②長時間、深夜の取調べ、③数人がかりの取調べ、④誘導による取調べ、⑤偽計によるアリバイくずしの取調べ、⑤自白を強制し小突いたこと、⑦同房者を通じて自白を示唆したことをあげている。そこでこれらの事由について検討し、併せて被告人の自白がいかなる動機に主として根ざしていたかについて考察し、自白の任意性について判断する。
(1) 弁護人は、被告人は別件による傷害罪で逮捕され、その直後から本件について取調べを受けたものであるから、自白には任意性がないと主張する。
前記のとおり、捜査員は、被告人を本件について取り調べるため、本件と全く関係のない別件単純傷害事件で昭和三〇年一二月二日に逮捕し、同月五日に勾留し、別件逮捕の直後から本件についての取調べを行っていることが窺われるのであって、右は違法又は不当な別件逮捕というべきであるが、これは違法捜査と証拠能力の関係について末だ判例や実務の正しい考え方が必ずしも浸透したと思われない昭和三〇年当時のものであり(現に裁判所も別件勾留をみとめ、右の別件逮捕を追認していたのである。)、今日的水準をもって違法、不当を高度のものと断ずることは酷に失すると思われる。それのみならず、違法又は不当な別件逮捕、勾留に基づく自白が直ちに任意性を欠くものとは解されず、任意性の有無については、逮捕、勾留の長短、その間の取調べの方法、内容、捜査の対象となる事案の重大性、被告人の供述に与えた影響度などを勘案して決すべきものと解される。右は別件逮捕とはいえ本件の容疑の見込み証拠もかなり収集されていたこと、被告人は当初かなり強く否認したこと、そして別件逮捕の日から数えても五日目(別件匂留日の翌日)の同月六日には重大犯罪である本件を全面自白したこと、捜査員はその翌々日の八日に本件につき強盗殺人、現住建造物放火の逮捕状を執行したこと、被告人はその後も自白を重ね、むしろ現場で犯行状況を指示するなどして捜査に協力し、自白が厚く積み重ねられるに至ったことを併せ考えると、右の別件逮捕のみをもって被告人の自白の任意性を否定することは相当ではない。
(2) 弁護人は、被告人は朝九時から夜は早くても一〇時半、遅いときで一二時頃まで取り調べられており、自白には任意性がないと主張する。
被告人は確定審第一、二審公判において右趣旨の供述をし、否認の手記においても午後一一時頃まで調べられたと述べられているところ、取調べに当たった亀井安兵衛は「遅くとも午後一〇時前後にやめていた。」と述べ(第一審第一二回公判)、かなり長時間にわたる取調べが行われたものと認められるが、他方、被告人は午後八時頃就寝したこともあった(高橋勘市の昭和三〇年一二月四日付員面調書)と認められ、また、自白した後は連日深夜にわたる取調べが行われる必要もなかったと思われる。本件事案の重大性にかんがみると、取調べが捜査の初期に深夜に及んだことがあったとしても、全体として取調べが過度に不当であったとまではいえない。
(3) 被告人は、警察では常に亀井安兵衛、佐藤好一及び千葉彰男の三人で取り調べられたと言う(確定審第一審第一一回公判)が、右亀井、千葉(同第一二回公判)、佐藤(同第一三回公判)の各供述のほか、被告人の各員面調書を総合すれば、千葉が一二月五日の午前まで主に別件の傷害等の事件について取り調べたのち、五日午後からは主として亀井が主任、佐藤が立会として取調べがされたことが認められ、佐藤の確定審第二審における供述(第三回公判)、阿住領の佐藤好一に対する昭和三〇年一二月三日付員面調書によれば、佐藤は一二月三日には東京で裏付捜査を行っており、被告人の取調べには当たりえなかったが、佐藤が古川署に戻った後は三人が同じ部屋にいたこともあったと認められる。しかしそうだからと言って被告人が自白を強制されたとはいえない。
(4) 弁護人は、被告人の自白のうち秘密性のある供述は裏付証拠の変化に応じて大きな変転を重ねているが、これは誘導によるものである旨主張する。
確かに、後記のとおり、鹿島台駅で汽車を隆りてから忠兵衛方に行くまでの時間の過し方、兇器の所在場所、ジャンパー、ズボンの処理状況等について自白中も供述が変転としており、これは前の供述が不合理であることから捜査員が追及した結果、被告人が供述を変えたという経緯が窺われるのであるが、捜査の初期において、不合理な点や供述の矛盾について捜査員が追及するのはむしろ当然のことであり、また、変転後の供述については捜査員側が知っていたものではなく、少くとも犯行現場の往路、復路の犯行レート(別紙第二)は捜査員から問われるままに被告人が述べたものと認められ、右自白がすべて捜査員の誘導によるものとはいえない。また誘導したことが、直ちに自白の任意性を失わしめるものではない。
(5) 弁護人は、アリバイの点につき、捜査員は被告人の家族の供述(齋藤常雄の昭和三〇年一二月三日付員面調書のことと思われる。)により本件発生当時被告人が帰宅していたと思まれる事実をつかんでいたのに、被告人に対し家にいないはずだと言ったのは、被告人を混乱状態ちおとし入れようとしたもので偽計による取調べである旨主張する。
しかし、捜査側は、事件当夜どこにいたのかはっきりしないことをもって被告人を容疑者とした一つの根拠とし、別件逮捕にまで踏み切ったものであるところ、右常雄は被告人の兄であり、その供述の内容も、当夜被告人が帰ってきたのを見たというのではなく、玄関のあく音を聞いたというにとどまるものであることからすると、捜査員が常雄の供述により被告人が当夜そのまま家に帰ったと考えていたとは思われない。そして、右事実を前提とすると、仮りに捜査員が被告人に対し家にいないはずだと言ったとしても、アリバイ捜査における被疑者の供述をテストする枠内にあり、偽計を用いたということはできない。
(6) 被告人は確定審において「やらないと言うと、いつまでも出られない、やったと言え、と言われた。」、「佐藤好一にやったと言えと言って額を小突かれた。」と述べている(第一審第一一回公判)が、亀井らは強制したことはないと言い、佐藤は小突いてはいないが、被告人が頭を下げているので頭を上げて話を聞けと言ったことはある(前記公判における各供述)と言う。
しかし取調べにおいて、被告人を有力容疑者としていた捜査員が、被告人のアリバイ供述の矛盾を突き、自白を要求したであろうことは、捜査の経過からも十分推測されるのみならず、被告人は、否認の手記で亀井係長に宛て「(連行された)其の日一日も(一〇月)一七日のアリバイの事がどういても判りません。だが私がやったのではない事だけは叫んだつもりです。其の日一日係長さん方々に私が殺したんだ、私が犯人だと言われた時の気物(持)を御察し下さい。」と書いており、このことは同房者高橋勘市も昭和三〇年一二月五日付員面調書で「(齋藤は)警察は俺がやったんだと思って調べてやがる。俺はやった覚えはないんだ、と言っていた。」と述べ、県警文書も(齋藤幸夫)……頑強に犯行を否認し続け、(当夜の行動の)矛盾を追及されると再び沈黙するといった状況で手古摺らせていたが、情理をつくした取調べと虚偽の供述の非を悟ったのか……犯行の状況を供述した。」と記述していることからも裏付けられる。被告人の確定審第一、二審における取調べを受けたことに関する供述も、その大筋は信用することができるが、これらを併せると、捜査員は厳しく自白を要求したと認められるが、仮りにその際、被告人を小突いたような事実があったとしても、暴行、脅迫を用いてまで自白させたものとまではいいがたい。
被告人は、昭和三四年一二月一二日付上告趣意書において、捜査の違法、取調べについて、佐藤警部のみならず千葉警部補から再三にわたって暴力を振るわれ、脅迫的な文句を受けた旨を綿々と綴っている。しかし、かかる事情については、確定審第一、二審においても具体的に供述された形跡がなく、また、捜査員に対して十分な反対尋問が行われたとも認めがたいところである。したがってこれをたやすく採用することはできない。
(7) 被告人は、同房者の高橋勘市から「警察に来たらやらないこともやったことにして裁判の時に本当のことを言うんだ。」「未決に行けば何でも食べられるし、外で散歩もできる。部屋に布団もある。」と言われて、自白することにしたと言う。
後述のとおり、捜査員が右高橋を被告人と同じ房に入れ、毎日被告人の言動を尋ねていたことは相当な行為とは思われず、また右高橋が言ったことばが被告人が自白をすることを決意する上に影響を与えたものともみられるが、捜査員が高橋に対し被告人が働きかけるよう求めた事情は窺われない。
2「自白」をした理由
亀井安兵衛、千葉彰男及び佐藤好一の前記各証言によると、被告人が自白した際の状況は次のとおりである。
すなわち、「被告人は一二月五日と六日の日中に取調べを通じて被告人の本件当夜の行動について追及され、『鹿島台町の母のところに泊った。』とか、『裏町の金山という飲食店で飲酒した。』とか、『柴和喜雄の家に泊った。」とか供述したものの、裏付捜査によりこれらが次々と崩され、六日夜の取調べでも初めはそれまでと同様の供述をしていたが、『明日本当のことを言うから、少し考えさせてくれ。』と言い、捜査員から話せるなら今夜話してもよいでないかと言われて、午後八時過ぎ頃になって実は自分一人でやったと自供し、その経緯を自白したので調書が作成された。自供前は深刻な表情で下ばかり向いて、つっけんどんな態度であったが、右調書の作成が終わった同日午後一〇時頃には、非常に安心したようで、胸をなで下ろし、朗らかな笑顔さえ見せた。」というのであり、これによれば、被告人が当夜の行動について次々と虚偽の事実を述べたが、いずれも効を奏せず、追い込まれて、とうとう本当のことを述べ、心の重荷を降ろしたという状況が窺われなくもない。
これに対し、被告人は、否認後の手記及び昭和三三年一二月二五日付上甲書において、自白をした理由について次のとおり説明する。
すなわち、「被告人は、昭和三〇年一二月二日朝東京都板橋の金沢方で逮捕されて板橋警察署に連行され、同警察署において宮城県警察本部の佐藤警部から本件に関し、当夜の行動、宿泊場所について尋ねられ、同日の夜行列車で松山町巡査部長派出所に押送され、翌三日捜査員から傷害事件と本件の取調べを受け、事件当夜の行動を尋ねられたが思い出せず、次の日もまた調べられるのかと思うと頭が変になりそうに思った。同月五日も午前九時頃から一日中アリバイの件について尋ねられたがどうしても思い出せず、こんなことを毎日やられたのでは頭が狂ってしまうのではないかと思った。そのころ、自分の気持ちを話せるのは同房者の高橋しかいないと思い、自分が本事件で調べられていることを話すと、高橋から『ここに来たらやらないことでもやったことにして早く出た方がよい。そして裁判のときに本当のことを言うんだ。』と言われ、また、取調室から寒い留置場に疲れて帰ってくると、高橋から『未決に行けば何でも食べられ、外を散歩することもでき、部屋には布団もある。』と聞かされたため、未決に行って早く母に会いたい、裁判の日にはっきり言えばよいと思い犯行を認めた。」というのである。
そこで、被告人の右説明の真実性について順次検討することとする。
(1) まず、被告人の逮捕の年月日(被告人は金沢方から任意同行で板橋署に赴いた上同署で逮捕されているが、被告人が金沢方で逮捕されたと思い込んだとしてもやむをえないことである。)、身柄の移動状況のほか、取調状況もおおよそ被告人の右説明のとおりであることは前述したとおりである。
(2) 次に本件事件当夜の行動についての記憶の点であるが、高橋勘市の各員面調書によれば、被告人が一二月四日午後五時頃取調べから帰り、高橋と話した際「本件事件の前日友だちと小牛田に行き入質し、飲酒して一人で帰ったが、その後友だちとオートバイで出かけた。どこでどんなことをしたか全然わからない。」「アリバイがある。」などと話し、高橋から「アリバイがあっても正直に言わないと実地検証するから隠してもだめだ。」と言われると、「俺は頭がくしゃくしゃしてコンがらがってくるので何が何だかわからなくなる。」と言っていたこと(昭和三〇年一二月五日付員面調書)、一二月六日午前七時頃、高橋から前日何を調べられたか尋ねられた際、「本事件のことを聞かれたが、俺は一七日の晩小牛田の質屋に行き酒を飲んで駅まで来たことはわかるがその後は全然記憶ない。」と言ったこと(同月六日付員面調書)が認められ、これらの事実は被告人の前記説明を裏付けているように思われる(判示第二の四 事件当夜のアリバイ参照。)。
また、前述のように被告人は取調官に対して当夜の行動についてあれこれ供述を変転させているのであるが、この事実も被告人が本当に当夜の行動を記憶していないためであると理解できなくもない。
更に、被告人は犯行を自白していた際の供述(同月七日付、同月一二日付各員面調書、同月一一日付検面調書)中でも、「鹿島台駅からの帰途金山飲食店に寄った。」と言ったり、「寄ったかどうかわからない。」と言ってみたり、「瓦工場まで行く途中の記憶がない。」などと述べていることもこれに符合しているようにみえるのである。
(3) 次に同房者高橋から自白の示唆があったかどうかという点であるが、まず、被告人の高橋に対する信頼が大きかったことは、被告人が同人に対し取調状況を逐一詳細に話していること(高橋の各員面調書)が物語っているが、被告人が高橋に話したことが捜査員に筒抜けになっていて同人から裏切られたと知るや、「警察から聞かれても何も聞いてないと言ってくれ」と言って、それ以後一切話さなくなったこと(同人の昭和三〇年一二月一〇日付員面調書)によってその一端が窺える。
高橋勘市は確定審第一審第一四回公判において、「やっていないことでもやったことにして早く出たらよい。」などと言ったことはなく、「やったことは正直に話した方がよい。」と言っただけであると述べたが、「本当のことを言って早く未決の刑務所へ行った方がよい。」と教え、更に、自白前に被告人からどの位の刑に処せられるだろうかと聞かれて、五、六年の刑で済むと言ったとも述べており、同人の昭和三〇年一二月六日付員面調書によると、高橋が自分は前科五犯だが刑は大した事がなかったと話したり、人殺しをするとうなされる、もし人殺しをしたなら、正直に白状して心からお詫びをするとうなされないそうだと言ったりしたことが認められ、また、同月八日付員面調書によると、被告人が「俺は大それたことをしたからやったことを全部話して、こんな寒いところから暖かい未決に行って自動車運転でもやるかな」と話したというのであるが、「未決が暖かい」ことは未決囚の経験のある高橋(同人の前科調書によると同人は当時すでに懲役刑の前科四犯がある。)には知り得ても、経験のない被告人には特段の事由のない限り知り得ないことであるから、高橋から教えられたものと思われるのである。
以上に加えて、高橋は昭和三〇年一二月三日から九日まで被告人と同房であったが、その間四日から九日まで毎日被告人の房内における行動や被告人の話した取調状況を極めて細かく捜査員に供述しており、局外者としては余りに関心が高過ぎること、高橋は暴行、窃盗、詐欺の容疑で勾留されており、自己の被疑事実を否認していたこと(高橋の昭和三八年七月六日付証人尋問調書)を併せ考えると、高橋は自己の事件について有利に取扱ってもらいたいとの思惑から、本事件について捜査員に協力して被告人に自白させようとしていた疑いがあり、被告人が否認の手記で述べるように、「ここに来たらやらないことでもやったとして早く出た方がよい。」とまで話したかどうかはともかく、これに類することを述べたことはまず間違いないところと思われ、警察の留置場よりも拘置所、刑務所の生活の方が快適であることを教えたり、刑が重いものとはならないと言うなどして自白するよう示唆した状況が十分窺われるのである。
してみると、この点の被告人の説明も十分根拠があるといわなければならない。
(4) 後に詳述するように、被告人の自白調書、とりわけ自白当初のものの中には、午後一〇時過ぎに鹿島台駅に着いたのち、そのまま忠兵衛方坂道を下りた道路で二〇分位見ていた(いずれも昭和三〇年一二月六日付員面調書)、あるいは大沢堤で着衣を洗濯しおわったころトラックが来たとき、人目に立ちやすく、しかも長い堤を杉林まで歩いて行った(同月七日付員面調書)という一見して不自然、不合理な供述がある。また、ジャンパー、ズボンの処理について、被告人方に戻って、これらを脱ぎ緑側の竿に掛けておいた(同月七日付員面調書)というのも、それ自体としては不合理ではないが、家の者に尋ねれば当然客観的事実に合致しないことが容易に判明する供述である。
そして、これらの供述はその内容からしてとても記憶違いと思われないのであり、ことさら虚偽の事実を述べたとしか考えられない(捜査員も当然このことに気づき、いずれものちの供述調書で訂正されている。)。
右のような供述が含まれていることは、自白時に被告人が真に反省して本当のことを述べ、心の重荷を降ろしたとする状況とは矛盾するものであり、むしろ被告人が説明するように捜査時には認めるが、裁判のときに否認するつもりであったことに符合するのである。
以上のとおり、被告人の自白をした動機についての説明はおおむね裏付けが存するように思われるのであり、この程度の動機で犯人でない者が本当に四人もの人を殺害したという兇悪事犯を自供するのかという疑問は残るものの、右の説明はこれを排斥するわけにはいかないものがある。
3任意性の判断
以上によると、捜査の初期においては、捜査員も被告人のアリバイ供述の矛盾を突き、かなり強固に取り調べたと認められるが、拷問や脅迫を行った事実はなく、被告人の方もこれに対し、頑強に否認し続けたとみられることは前示(本項1(6))のとおりであり、被告人が自白を決意した最も大きな動機は、同房内で信頼を寄せていた同房者高橋の自白示唆にあったものと思われる。
高橋勘市の員面調書は昭和三〇年一二月四日から一〇日までの間に、六通、検面調書は二通(同月一六日、一九日)で、いずれも被告人の房内における一般的な言動、会話の状況、松山事件についての犯行、否認の供述や証拠の処理、アリバイなどについて被告人の語ったことが克明に録取されているが、その中でも、同人は毎回のように、「齋藤は毎晩うなされていました。」「人を殺したのであのように唸るのだと思います。」「私は齋藤が人殺しをしたと思っております。」等々被告人を犯人に仕立てるような報告をしていたことが認められる。同人を被告人と同房させる事由が他に見当たらないことをも勘案すると、同人はいわゆる謀者として捜査に利用されたものと考えられるが、この捜査により、被告人は信頼していた高橋にひそかに四六時中監視され、密告されたことにより、正当に受けるべき身柄勾留の利益を損われたのみならず、同房者の不確かな情報に基づいて捜査員が黒の心証を一層増幅させていたふしが窺われるのである。更に、右捜査は、他事件で身柄勾留中の被疑者を他目的の捜査に利用した点で、その同房者の基本権をも侵害したおそれがあり、代用監獄制度の運用をも危くするもので許容しがたい。
しかしながら、高橋の自白示唆は、同人の供述内容からみると、捜査員との共謀に基づいたものとは認めがたく、むしろ捜査員に迎合した高橋の発意によるものと認められること、たやすくこれを信じた被告人の軽率さも軽視できないこと、被告人は同月六日、七日の別件勾留中のみならず、本件勾留中の八日から一五日までの間自白を維持し、往復路の犯行レートを説明し、犯行現場での犯行状況を再現し(九日朝と一三日の夜間検証)、捜査に協力していたことのほか、本件事案と自白の概要をも併せ考えると、被告人の自白の任意性は肯定され、右の事情は信用性の判断において勘案するのが相当である。
三 個々の供述内容の信用性
1動機についての供述
本件犯行の動機について、被告人の自白は、「飲食店等に借材が重み、その返済と小遣銭の捻出に窮していたところ、忠兵衛の妻嘉子が被告人方に材木を買いに来たことを思い出し、忠兵衛方では普請しており、小金があるだろうと考えて、同人方に盗みに入ることを思い立った。同人方に侵入し、忠兵衛らが寝ているのを見たとき、同人らに顔を知られており、目をさまされて顔を見られたり、騒がれたりしたらまずいと思い、忠兵衛方家族全員を殺して金を盗ろうと決意した。」としている(昭和三〇年一二月七日付員面調書)が、被告人及び弁護人はこれを否定する。
そこで、動機とされる右各事実が客観的証拠により裏付けられているか、それが本件の動機として十分なものといえるかについて順次検討する。
まず、借材を返済しなければならなかったという点であるが、検察官は、当時被告人には①飲食店「三好」に一三二〇円、②旅館「大野屋」に一二〇〇円、③山口理髪店に三五〇円、④飲食店「すみれ」に三六〇円、⑤同「金森屋」に一五二〇円、⑥同「光月庵」に一八〇〇円、⑦食料品商佐々俊夫に七〇〇円、⑧酒類販売業笠原英一に二九〇円、⑨熊倉安司に五〇〇円の合計八〇四〇円の借金があったと主張し、貸主側の捜査員に対する各供述調書(①歌野コトの昭和三〇年一二月八日付員面調書、同月一九日付検面調書、②大野国子の同月一〇日付員面調書、同月一九日付検面調書、③山口雄三の同月九日付員面調書、同月一九日付検面調書、④金成一の同月六日付員面調書、同月一九日付検面調書、⑤金森むつ子の同月一九日付検面調書、⑥佐々木清之助の同月八日付員面調書、同月一九日付検面調書、⑦佐々俊夫の同月八日付員面調書、同月一九日付検面調書、⑧笠原英一の同月一四日付員面調書、⑨熊倉安司の同月二三日付員面調書)によりこれが認められる。
また、被告人が貸主に出会ったときに、自分の方から「勘定もう少し待ってくれ。」(⑤の金森の検面調書)、「秋になったら払うから待ってくれ。」(⑦の佐々俊夫の検面調書)などと言った事実が認められ、借金を気にかけていた様子が窺われなくもない。
しかし、右借金は、当時の金員の価値が現在とは大きく異なることを考慮しても、極めて多額というほどではなく、前記各証拠によると、①の「三好」の借金は半年前仲間数人と飲んだ時の未払分で、被告人はその支払い担保のため黒色オーバーを置き、その後支払いの催促のなかったものであり、②の大野屋に対する借金は昭和二八年春ころのことで、二年半も前のことであり、その際袖付のゴム製中古雨合羽一枚、中古ねずみ色背広上衣一枚を置いてきており、本件発生後に被告人が大野屋に行き、右借金の返済を求められたときには「時効にかかったから今頃ないと思っていた。」と答えているのであって、気にしていなかったことが窺われ、⑥の光月庵に対する借金は、昭和三〇年七月の飲み代の未払分で、被告人は二、三日後に払うと約しその担保に自転車一台を置いてきたがそのまま放置したため、本件犯行前である同年八月頃被告人の父虎治が支払方を約して右自転車を返してもらい、同年一一月親が決済したものであるほか、⑤の金森屋(確定審第一審第六回公判調書中の証人金森むつ子の供述部分)から返済するよう求められてはいるが、厳しく追求されたものではなく、その他の者に対する借金はいずれも小口の寸借分で、これらの者からは請求すらされていないのである。
してみると、被告人は飲食店等に借財があるため、それ以上の借り飲みをすることがしにくい状況にあったとはいいうるにしても、借金の返済を迫られて困り切っていたものとは思われないのであって、人を殺害してまで金を盗ることを決意する動機となりうるのかについては疑問がある。
次に小遣銭がほしかったという点であるが、被告人は犯行のあった翌日である一〇月一九日の夜、清俊治、早坂隆や佐藤隆吉と飲酒し(被告人の昭和三〇年一二月一三日付員面調書、清俊治の同月一六日員面調書、早坂隆の同月一四日付員面調書、同月二一日付検面調書、佐藤隆吉の同月一四日付員面調書)、同年一〇月二五日、六日にも二日にわたり金澤定俊らと飲んでいる(金澤定俊の同年一二月三〇日付検面調書)のである。前者は清らに御馳走になったものであり、後者は被告人方から米を盗み出し、これを売り払った金で飲んだものであることからすると、当時被告人が小遣銭に困っていた状況が窺われないではないが、現に飲酒できているのであるから、飲酒することが全くできないところまで追い込まれていたわけではないといいうるであろう。また、犯行のあった時期はちょうど新米が収穫されるころであり、実際に被告人がしていたように米を持ち出して売れば飲食代を捻出できないこともなかったのである。
したがって、小遣銭の捻出ということも、窃盗の動機としてならともかく、四人もの人を殺害して金を盗るという重大な犯行の動機としては十分のものとは思われない。
検察官は、この点について、被告人は当初金員窃盗の目的で忠兵衛方に赴き、その後家人を殺害して金員を強奪しようと決意したものであるから、右の借材の返済、小遣銭ほしさといった程度の動機でも不自然、不合理でないと主張する。
右の主張は、被告人が忠兵衛方に侵入した際、同人らに気づかれて抵抗されたというような切羽つまった状況に追い込まれたため、同人らを殺害する決意をしたというのであれば、正しい見方であろう。しかし、本件の自白では、被告人は忠兵衛方家族の寝姿を見ているうちに、顔を見られたり、騒がれたりするおそれがあると考えたというだけで家人の殺害を決意したというのであり、この経緯自体やや唐突の感を免れないことは別としても、右の経緯を前提とする以上、やはりこの程度のことでも窃盗から強盗殺人の意思に転化しうるほどの強い動機があったはずであると考えざるをえないのであり、自白で述べられている右の各動機はこれを十分満たすものとはいいがたいのである。
なお、検察官は、右のほか、被告人が料理店「二葉」の女中渡辺智子に恋慕して、同女と結婚したいとの望みをもち、母に打ち明けたが、周囲の反対を押し切り家出をしてでも智子と結婚したいと思いつめ、同女の前借金の返済、家出の資金がほしかったことも動機であったとする。
確かに、被告人の昭和三〇年一二月二八日付、同月二九日付各検面調書、渡辺智子の同月二七日付、昭和三一年一月二二日付各検面調書、山本貴子の昭和三〇年一二月二七日付検面調書、菅野重蔵の同月二八日付検面調書、齋藤ヒデの同月三一日付検面調書、上部孝志の同日付検面調書、確定審第一審第六回公判調書中の同人及び清俊治の各供述部分等によれば、当時被告人は料理店「二葉」の女中渡辺智子に思いを寄せ、結婚を申し込んだこともあり、同女も自分に好意を抱いていると考え、同女と結婚したいと母ヒデに打ち明けたが、賛成してもらえなかったこと、それでも智子をあきらめ切れず、家出をしてでも同女と一緒になろうと考えたこともあること、同女には「二葉」に二万円の借金があると聞いていたことが認められる。しかし、他方、智子の方では被告人を単なる客の一人と考えていただけであって、結婚の申込みに対してはとり合わなかったこと、智子自身借金の額を正確に知らず、また当時これの支払いに迫られていたわけではなかったことが認められ、被告人が智子と一緒になるためにまとまった金を必要とするような客観的状況さえ十分に認めがたいところである。
仮りに右が本件物盗り犯行の動機であるならば、犯行の動機のなかで相当な重みをもつはずのものであるから、被告人の自白中に当然供述されて然るべきであるのに、智子とのことは自白中は一度も供述されておらず、被告人が犯行を否認するに至ったのちに、主として検察官の取調べに基づき、事後に付加された動機と推認されるものである。これは不自然であり、智子の件はこれを動機としてたやすく認定することはできない。
次に、盗みに入る先を忠兵衛方にした理由とされる嘉子が常雄方に材木を買いに来たのを被告人が見た点について検討する。
被告人の自白によれば、そのときの状況は次のとおりである。
「犯行の二日位前の一〇月一六日頃の午前一〇時頃、忠兵衛さんの奥さんが私の家にリヤカーをひいて材木を買いに来た。その日は仕事を休んでいたときで、確か中座敷にいたと思うが、兄常雄と奥さんが取引する状況を見ていた。忠兵衛さんの奥さんは名前はわからないが、四十二、三歳位で、右か左の眼が悪い人で、四、五年前にも四、五回位私の家に来たことがあるので知っていた。その日は昼頃から遊びに行った。」(昭和三〇年一二月七日付、同月一四日付各員面調書)
これに対して、被告人は、否認の手記で「私はそのとき家に居なかった。」と述べ、確定審第一審第一三回公判廷で、その日は午前八時半頃上部孝志の家に行っており、そのとき家におらず、嘉子が来たことは知らなかった旨述べているが、前示(第二の三)のように、一〇月一六日午前中嘉子が子供二人を連れて木材を買いに来たとき、被告人は不在ではなかったかと思われ、被告人が当時自宅にいたとする裏付けは十分でなく、被告人の弁解はこの点でも容れる余地がある。
そこで更に、右被告人の自白の内容についてみてみるに、忠兵衛の妻嘉子が杉材一本を買ったのを見て、家の増築をすると想像しうるかの点は、検察官主張のとおり、嘉子が常雄から購入した材木が末口四寸か五寸、長さ一五尺のもので、梁の上に使用する「土居」と称する角材であった(確定審第一審第五回公判調書中の大窪留蔵の供述部分)こと、嘉子は常雄に代金を渡した際、同人に対し普請をしているので材料が足りなくなったときはよろしく頼むと話しており(前記常雄の昭和三〇年一二月一四日付員面調書)、被告人が右話を聞いていたことも考えられる(被告人の同月一四日付員面調書)ことからすると、右のように想像し得たと考えても不自然ではないとしても、常雄の右員面調書によれば、同人はこのとき嘉子とは初めて会ったのであり、「新田の小原」と言われてもどこの人かわかりかねていたが、同女から「七、八年前に主人が御世話になった」と言われて、忠兵衛の妻であることがわかったというのである。そして、右供述調書は被告人が犯行を自白していた当時のものであって、常雄が被告人の犯行を否定するためことさら虚偽の事実を述べたものとは考えにくいものであることを併せ考えると、被告人が自白調書で述べるように、嘉子が四、五回も被告人方に来ていたということ、被告人が嘉子を忠兵衛の妻と識別できたということについては疑問の余地がある。
また、被告人は、前記のとおり、嘉子が材木を買いに来たときの状況を、その容貌の特徴についてまで供述しているのであるが、嘉子が被告方から材木を買ったことについては、大窪留蔵の昭和三〇年一〇月二〇日付員面調書により捜査員が事件直後から情報を得ていたのであり、県警文書によると、捜査員は忠兵衛の妻嘉子の行動、性向等について詳細に調べていたことが認められ、同女の容貌についても事情を知っていたことが窺知されるから、被告人が捜査員の取調べの際の質問状況等に応じて虚偽の供述をすることも不可能であったわけではない。
それでは、被告人の公判廷における弁解はどうであろうか。
上部孝志の同年一二月二二日付検面調書には、「昭和三〇年一〇月一四日頃から一七日頃までの四日間ほど続けて被告人と映画を見に行ったが、映画は午後一時から始まるので毎日午後零時すぎ頃家を出た。被告人は午前一一時頃から午後零時過ぎ頃に私方に私を誘いに来ていたが、四日のうちいつの日が何時頃であったかは記憶していない。」と被告人の右弁解と矛盾する供述がされている。
しかし、右上部は公判廷においては、「被告人が来たのは大体午前一〇時頃で、午前九時頃から一一時半頃までの間である。」と述べており(確定審第一審第二三回公判)、この供述に従えば、被告人の言う午前八時半頃と相容れないものではない。
もっとも、同供述中で検察官に対して記憶のとおり正直に述べたと言っていること、右検面調書の作成されたのが供述内容から約二か月後であるのに対し、右公判廷における供述がされたのは昭和三二年九月七日で、供述内容から約二年後であることから記憶の程度に大きな差があると推認されること、前記のとおり、映画の始まるのが午後一時であり、被告人は上部方では昼食をとらないまま映画に出かけた(上部の右公判廷における供述)が、右映画が終わるのが午後五時頃であった(上部の右検面調書)ことからして、午前八時半頃上部方に行ったというのはいかにも早すぎるように思われることなどからすると、右検面調書の方が信用性が高いと考えられるが、これとても約二か月前のことについての供述であり、その内容は一〇月一六日当日のことを明確に答えているのではなく、四日間位のことを概括的に述べているにすぎないから、全く正確なものとまではいいがたく、これをもって直ちに被告人の右弁解を否定することはできない。
かえって、齋藤常雄の前記昭和三〇年一二月一四日付員面調書には「嘉子が来たとき祖母きさに被告人はいないかと尋ねたところ、朝食をとって行ったと言うので探さなかったが、いなかったと思う。」と被告人の弁解にそう供述もあるのであり、これが被告人の自白時のものであって一概に排斥できないことは前述のとおりである。
したがって、被告人の右弁解はこれを容れる余地がある。
以上の次第であるから、嘉子が被告人方に材木を買いに来たのを被告人が見たとする被告人の自白には十分な裏付けがなく、このとき家にいなかったとする被告人の公判廷における弁解も排斥することができない。
以上のとおり、盗みに入る先を忠兵衛方とした理由とされる嘉子が材木を買いに来たのを被告人が見たとする点は、十分な裏付けがないと判断されるのみならず、被告人の自白において本件を犯した動機であるとする借材の返済、小遣銭の捻出は、重大犯罪の動機として十分なものとはいいがたい。
2瓦工場での休憩についての供述
犯行当夜鹿島台駅に着いたのちの行動について、被告人は、当初の自白(昭和三〇年一二月六日付員面調書)においては、「ぶらぶら歩いて家の方に向かい、瓦工場前を通って忠兵衛方に行った。」と述べたが、昭和三〇年一二月七日付員面調書においては、「鹿島台の裏町の金山という飲食店(「すみれ」)に入って飲食し、午後一一時頃そこを出て、歩いて家の方に向かい、瓦工場の前を通って忠兵衛方に行った。」と言い、同月八日付員面調書で初めて「金山に寄ったのは誤りで、駅から出てそのまま家の方に向かい、時間をつぶすため瓦工場に入り、かまの中で約三時間休み、その後忠兵衛方に行った。」と瓦工場で休憩したとの供述がされている。
この点について、弁護人は、被告人が鹿島台駅に着いたあと、そのまま忠兵衛方に向かうと遅くとも一八日午前零時前には到着してしまい、侵入時間と推定される午前三時頃との間に三時間のずれが生じることから、捜査員がつじつまを合わせるため被告人を誘導して言わせた虚偽の事実である旨主張し、これに対して、検察官は、本件自白は、通常の場合と同様にまず犯行の概略を聴取して調書を作成し、その後具体的供述を求めたもので、この過程で被告人が記憶を喚起されて瓦工場での休憩の事実を供述するに至ったものであり、その信用性は高い旨主張する。
そこで、まず、被告人が瓦工場での休憩について供述した経緯についてみてみるに、当初の自白で述べるように、被告人が午後一〇時過ぎ頃鹿島台駅に着いたあと、そのまま忠兵衛方に行ったものとすると、到着時間が早すぎてつじつまが合わず、その間約三時間もの空白が生じることになること(司法警察員作成の同年一二月九日付報告書によると、鹿島台駅から忠兵衛方までは普通歩行で三一分、緩漫歩行でも四六分半しかなからない。)、そしてそのことは当然被告人を取り調べた捜査員にもわかっていたと思われること、被告人は、前記のとおり、一二月七日付員面調書では、右空白時間の行動について金山飲食店で飲食したと述べ、翌八日付の員面調書でこれを否定したのであるが、これは捜査員が同店の経営者らに対しこの点を確認したところ、そのような事実がないことが判明したためと思われること(同店経営者金成一の同年一二月六日付員面調書では被告人の同店への借金について述べられ、最後に被告人は一〇月一七日の晩は来たような覚えはないとされているにとどまり、右金成一の娘金山峯子の同年一二月九日付員面調書、同月二二日付検面調書で具体的な供述により当夜被告人が来ていないことが述べられている。)、被告人も確定審第二回公判において、「小牛田から帰った時間と犯行の時間が合わないと言われて、休んだことにした。」と述べていることからすると、被告人が当初時間的に不合理な供述をしたため、捜査員からその点を追及され、まず金山飲食店のことを述べ、これが客観的事実に反することから、更に追及された結果、瓦工場での休憩の話をしたものであると推認される。
そこで、右供述の信用性を更に検討する。瓦工場で休憩した事実については、捜査員が被告人の自白前に知っていたことを窺わせる事情は存在せず、被告人においても、自ら創作したことである旨述べている(前記第二審第二回公判)のであるから、右供述は捜査員に誘導されたものではないと判断され、その内容も、瓦工場内にあるかまの数、位置、その中の一つにわらが積み上げられていたこと等客観的な状況に符合する(及川直記の同年一二月一九日付検面調書)。
しかしながら、右瓦工場は被告人方のすぐ近くにあり(前記司法警察員作成の同月九日付報告書によれば、その間は約二七五メートルである。)、被告人はそこでよく遊んだこともあって、その状況についてよく知っていたと認められ(被告人の同月八日付、同月一二日付各員面調書、及川直記の右検面調書、達久誠一の同月一五日付員面調書)、自白において述べられている客観的状況は犯行のあった当夜にだけあった状況でもないから、経験者でなければ述べえない供述とはいえず、また、被告人が確かに瓦工場の中で休憩したことの裏付けがあるわけでもない。
そして、そもそも被告人が当夜瓦工場のかまの中で三時間も休んだというのであれば、被告人のこの晩の行動において時間的にも相当比重の高い場面であり、忠兵衛方に盗みに入る前に時間待ちをしたというのであって、その意義も決して低いものとは思われないのであるから、その前の行動も後の行動も記憶していながら、瓦工場における休憩の事実のみを忘れていたものとは考えがたく、当初の自白において瓦工場に言及しながら、この事実について触れられなかったのは不自然である。
また、被告人は、前記のとおり、右空白時間の行動について、一二月七日付員面調書において、金山飲食店で飲食したと述べているところ、これが客観的事実に反しているのであるが、このことも右瓦工場での休憩の供述は、三時間の間わらの上に腰かけたり、あおむけになって休んだというのみであって、そのときのまわりの状況、心理状態等についても触れておらず、具体性に乏しく現実感に欠けるとのそしりを免れない。
してみると、右供述は、被告人が捜査員から時間のつじつまが合わないことを追及された結果、よく事情を知っている瓦工場を持ち出して、そこで休憩したという架空の事実を案出したのではないかとの疑問があり、その信用性は高いものではない。
3割山の崖道についての供述
被告人は、自白の最初の段階から一貫して、「割山の手前左側の山道を忠兵衛方に行き、帰りも同じ道を引き返した。」と述べている(昭和三〇年一二月六日付、同月八日付各員面調書、同月一一日付検面調書)が、検察官は、右山道は忠兵衛方に通じる道路があるということすら発見困難な道であり、しかも歩行に難渋する場所であるから、夜間同所を通行したということは、体験者でなければ到底思い及ばないことであり、しかもいったん道路に入ると他人に出会う危険のほとんどない場所であるから、犯行に赴く者が通行する道路としては最も適したものであって、被告人の右供述は信用性が高いと主張する。
これに対して、被告人は、確定審の公判廷において、「捜査員の誘導で述べたものではなく、夜間は通ったことはないが、忠兵衛方のある部落に移動製材の仕事に行くときにはいつも通っていたので、そのように述べた。」と説明している(第二審第二回公判)。
右山道を往復したことについては、捜査員が事前に知っていた事情が窺われず、秘密性のある供述といいうるが、忠兵衛方のある新田部落に行く際いつもこの山道を通っていたことは、すでに自白中である被告人の右昭和三〇年一二月一一日付検面調書にも述べられているので、真実と認められ、検察官作成の同月一三日付検証調書によれば、被告人は同日行われた夜間検証の際、無灯火でかつ下駄ばきなのにかかわらず、灯火をつけた係員より速く歩行したことが認められるのであって、被告人がこの山道にかなり慣れていたことが窺われる。
したがって、被告人が説明するように、被告人が犯行を自白するに当たり、忠兵衛方に往復する道順として慣れた道である山道を通ったと創作して述べることもありえないことではなく、必ずしも経験者でなければ述べえないというものではない。
なお、被告人が右山道を通ったことの裏付けとして、当夜山道の入口に近い佐々木立平方の飼い犬が唸ったことが一応考えられるが、同人は確定審の公判廷において、犬が唸ったのは午前二時過ぎ頃であると証言している(昭和三一年五月一五日付証人尋問調書、なお、昭和三〇年一二月二四日付検面調書では午前二時半頃としている。)ところ、被告人の自白によれば、被告人が忠兵衛方に行くため山道を通った時刻は午前三時前後頃と推測される(昭和三〇年一二月七日付員面調書)ことと符合せず、むしろ、奥寺剛が馬に乗って付近を通ったと思われる時刻である午前二時二〇分ないし四〇分頃あるいは午前二時一五分頃(確定審第一審第六回公判調書中の同人の供述部分、同人の同月二三日付検面調書)の方が近いと思われる。右佐々木は前記公判廷において、同人方の飼い犬は人が道路を通った場合に吠えも唸りもしないと述べているが、犬の性向についての供述であって、事の性質上間違いのない供述とも思われない。
したがって、右事実は裏付けとはなり得ず、そして、そのほかにも被告人が山道を通ったことの客観的証拠はないのである。
検察官は、前記夜間検証時に被告人が「忠兵衛方に行く途中、山道でつまずいた。」と説明し、その場所を指示し、「あの晩はもっと暗かったと思う。」とも言っている(前記検察官作成の同年一二月一三日付検証調書)ことをあげて、自白の信用性が高いとする。
この点について、被告人は確定審第二審第二回公判において、検証の際、「暗い晩なのによく登ったな。一度もつまづかなったか。」と聞かれたので、つまづいたと述べ、事件当夜小牛田に行ったときは検証のときよりもっと暗かったので、「もっと暗かった。」と述べたものであると弁解する。
検証時より事件当夜は暗かったことが客観的に裏付けられ、被告人の右検証時の言葉は実感のある供述であり、各供述の信用性は相当高いと判断されるが、右は検証現場における指示説明供述であり、被告人の右弁解をありえないこととして一概に排斥することもできない。
また、検察官は、前記検証時に被告人が「帰る途中、山道の途中で振り返ると忠兵衛方の上空が赤くなっていた。」と説明し、その場所を指示したが、忠兵衛方からその場所までの歩行時間は約三分である(前記検証調書)ところ、永瀬章作成の昭和三一年四月二七日付鑑定書によれば、本件家屋に放火したのち被告人が振り返ったと言った地点で上空が赤く見えるまでの所要時間は二分半ないし五分であるとされ、被告人の右供述が裏付けられたものであるから、右は経験者でなければ述べえない真実性のある供述であると主張する。
被告人は、この点について「燃えたかどうか確めてみなかったかと聞かれたので、そう述べた。」と言うのみである(前記第二審第二回公判調書中の被告人の供述部分)が、右鑑定結果は上空が赤くなるまでの所要時間についてのものであって、右時間以後は相当時間上空が赤くなっていたことが推測される(右鑑定書によれば、点火から最盛期までの所要時間はおおよそ七分から一五分位である。)ので、結局右鑑定と矛盾するのは放火後二分半も経たないうちに上空が赤くなっていたという供述だけということになるから、被告人がいい加減に述べ、これが右鑑定結果と矛盾しないものであったとしても、それほど不思議なこととも思われない。
したがって、この点をとらえて真実性のある供述であるとする検察官の右主張は失当である。
4被害者方屋内の状況についての供述
被告人は、その自白において、被害者方屋内の状況につき、玄関の戸に施錠のなかったこと、玄関土間の左側に岩竈のあったこと、電灯は一灯だけで六畳間と八畳間の間で六畳間側に吊してあったこと、六畳間と八畳間の境の障子が一尺五寸位開いていたこと、その障子が破れていたことを供述している(昭和三〇年一二月六日付、同月八日付各員面調書)が、検察官は、被告人は右供述をするまで一度も忠兵衛方に行ったことがない(この点は確定審第一審第二二回公判調書中の同人の供述部分で被告人も認めている。)にもかかわらず、右供述はいずれも客観的事実と符合するから、本件犯行を経験したのでなければ述べ得ないもので、信用性が高いと主張する。
他方、被告人は、確定審の公判廷において、玄関の戸に施錠のなかったこと、電灯が一灯で六畳間と八畳間の境の六畳間側に吊してあったこと、六畳間と八畳間の境の障子が一尺五寸位開いていたことについては、捜査員の尋問に応じて創作したことであると述べ(第二審第二回公判)、岩竈については、間取りについて誘導されたと述べている(第一審第二四回公判)ことから同様の趣旨を述べるものと思われるが、障子が破れていたことについては尋ねられていない。
しかし、自分で創作したとはいっても、取調べは通常被疑者が一人で一方的に話すものではなく、捜査員が質問し、被疑者がこれに答え、更に質問し答えるというように質問と答が積み重ねられる形で行われるものであるところ、捜査員がすでに知っている事実については、誘導すればもとよりのこと、ことさら誘導する意図がなくとも、質問の端々にこれが窺われ、被疑者においてこれを察知してこれに応じた答をし、あるいは、答に対する反応にこれが表われるため、被疑者が捜査員の反応を見て供述を変えるなどした結果、捜査員の知っている客観的事実に符合する供述調書ができることもあり得ないことではない。したがって、被告人が捜査員においても知らなかったことを述べ、のちに客観的事実に符合することが確められた場合には信用性が極めて高いといいうるのに対し、すでに捜査員において客観的事実を知っている場合の供述は、必ずしも経験者でなければ述べられないものとは断定できず、その評価は割引いて考える必要がある。
この観点からみると、施錠がなかったこと、玄関土間の左側に岩竈があったこと、電灯が一灯で六畳間と八畳間の境の六畳間側に吊してあったとの供述は客観的事実に符合するが、これらはいずれも自白前に捜査員において知悉していたことである(小原優子の昭和三〇年一〇月二一日付員面調書、司法警察員作成の同月一八日付実況見分調書)。また、障子が開いていたとする供述は、電灯一灯を六畳間と八畳間との間の六畳間寄りに吊して点灯して、忠兵衛らが八畳間の方に就寝していたことから、それほど困難なく導き出せる事実と思われ、その開き具合が一尺五寸位であったことは思いつきで述べ得ることであり、しかも障子が開いていたことについては客観的な裏付けもない。
障子が破れていたとする点は、小原優子の右員面調書にはないが、新田としの及び尾形ミユキの各員面調書(いずれも昭和三〇年一二月八日付)に記載がある。新田、尾形の右各員面調書は被告人がその点の供述をした員面調書と同じ一二月八日に作成されており、被告人の取調べに当たった捜査員が右新田らの取調べの結果を知っていたかどうかは必ずしも明らかではないが、弁護人が指摘するように、この日被告人は右供述調書のほかに、別件の傷害等に関する各検面調書と弁解録取書を取られているところ、高橋勘市の「昼すぎころ被告人が検察庁に行って来たとか言うて房に帰ってきた。」という供述(同月八日付員面調書)により右検面調書の取調べは午前中に行われたと推認され、弁解録取書はその記述自体により午後二時三〇分ころ作成されたことが認められるから、被告人の右員面調書についての取調べは同日午後二時三〇分以降であったと思われることを考慮すると、すでに知っていたことも十分ありうるというべきである。
このようにみてくると、被告人の忠兵衛方屋内の状況に関する右供述は、その多くが客観的事実に合致すると認められるものではあるが、捜査員も知らなかった事実を述べたものではなく、必ずしも経験者でなければ述べられないものと断ずることはできない。
なお、被告人は、自白の際、右のほか、忠兵衛方の間取り等について供述し、その図面を作成している(同年一二月七日付員面調書等)が、その内容は、箪笥の位置について、やや変遷がないではなく、玄関土間に入って左側の壁の向う側は縁側であるのに六畳板の間の一部であるとし、右壁を認識していなかったのではないかと思われる(前記一二月七日付員面調書添付の被告人作成の忠兵衛方図面を見ると、歩いた経路を示す線が右壁のある所を横切っている。――なお、経験者がこのようなことを誤まるかどうかについては疑問がある。)点に違いがあるほかはほぼ客観的事実に符合するものの、これまた捜査員が自白前に知っていたことであって(小原優子の前記員面調書)、秘密性のある供述とはいえないこと右と同様である。
反対に、事件発生当時実施された実況見分時に現場にあったもので、被告人の自白に表われない主なものとしては、六畳間と八畳間の境でほぼ中央の六畳間側のところにあった湯釜(別紙第二参照。)のほか判示第二の六に説示したように、②の金鎚、④の提灯、⑤のアルミ製弁当、⑥の薬瓶、⑦の千円札五枚がある。
このうち、湯釜は犯行当時同じ場所にあれば当然気づかなければならない位置にあったものである。その形状等からして火災時に右場所に移動したことも考えられないではないが、それにしても六畳板の間か八畳間の右場所からそう離れていないところにあったと思われるから、被告人の自白がこれに触れていないのはやや不自然のように思われる。また、他の物件はいずれも殺害現場である八畳間にあったものであり、被告人が当時高度の興奮状態にあったためこれらに気づかなかったこともありうること等の事情を考慮しても、これらに全く触れていないのはやはり不自然の感を免れない。
また、司法警察員作成の同年一〇月一八日付実況見分調書によると、八畳間の畳は取りはずされ六畳間北西側壁に立て掛けてあり、八畳間には畳が敷いてなかったことが認められるところ、被告人の自供調書では、「座敷の方は畳が敷いてあったかあるいは敷いてなかったのかはっきりしない。」とされている(同年一二月一二日付員面調書)が、被告人は右八畳間でそこに寝ている四人を次々に殺害し、箪笥を物色し、杉葉や木屑を持ち込んで放火したということからすると、そこに畳が敷いてあったかどうかわからないというのは疑問である。
以上の次第であるから、被害者方屋内の状況についての供述は信用性が高いとはいいがたい。
5自在鈎についての供述
検察官は、「被告人が昭和三〇年一二月七日付員面調書添付図面において、被害者方六畳間切炉の上に自在鈎が吊されていた旨図示したので、これに基づき、警察官が現場を捜索した結果、自白どおり、鉄製自在鈎が発見された。したがって、自在鈎に関する供述は客観的証拠により裏付けられた信用性のあるものである。」と主張する。
しかし、司法警察員作成の同月七日付発見捜査報告書によると、鉄製の自在鈎が忠兵衛方で発見されたのは同日午前一〇時頃であると認められるのに、被告人の同月六日付員面調書には自在鈎に一切触れられておらず、翌七日付員面調書で初めて触れられてはいるが、添付図面に鈎があったとする場所を示して、「かぎ」と表示してあるにすぎないのであり、自在鈎があった旨の供述が出てくるのは翌八日付員面調書が初めてであることからすると、被告人の自供に基づいて右自在鈎が発見されたとするのは疑問である。
検察官は、この点について、被告人が六日の帰房後か七日の取調べの当初に右添付図面を作成し、これを見た取調官がその裏付けのため急きょ忠兵衛方焼跡を見分させたものであると言うが、わざわざ自在鈎を探すために被害者方に赴いたのであるならば、右報告書にその旨の記載があって然るべきであるのに、その旨の記載はなく、「被害現場を捜査中」発見したとされているのみであり(前記司法警察員作成の発見捜査興告書)、また、もしその結果裏付けを発見したのであれば、当然すぐにその旨の報告がなされ、取調官としては被告人の自供を裏付ける有力な資料を入手したことになるから、被告人のその日の供述調書に自在鈎についての供述が記載されるはずであるのに、七日付の供述調書には前記の図示の外は何ら自在鈎に関する記載がない(右供述調書は二九枚綴り、図面二葉添付のものであり、取調べ、調書作成には相当長時間を要したものと推認される。)のであって、検察官の右説明は得心のいくものではない。
そのうえ、矢吹徳之進、尾形ミユキ、新田としの、大窪留蔵の各同年一二月八日付員面調書によれば、忠兵衛方の六畳間には木の鈎が、台所下屋には鉄の角棒でできた自在鈎がそれぞれ下げてあり、鉄製の自在鈎は下屋を取り壊した際取り外して風呂場の前に置いたことが認められるのみで、切炉のところにあったとする客観的証拠はないこと、忠兵衛方焼跡については、すでに同年一〇月一八日に実況見分が行われており、もし自在鈎が発見時の場所にあれば、右自在鈎は、最も短くなっていた場合でも長さ約94.3センチメートル、幅約一五セソチメートルの相当大きな物である(昭和五八年押第一九号の一〇)から、そのときに発見された実況見分調書に記載されているはずでないかと思われるのに、その記載がないことからすると、六畳切炉付近に鉄製の自在鈎が本当にあったかどうかについても疑問がある。
検察官は、自在鈎が兇器と目されていたわけでないので実況見分時にその存在が捜査員の注意をひかなかったとしても不合理でないと言うが、右実況見分は事件直後犯人も犯行態様も判明していない段階において段階において行われたものであって、どのようなことが犯人の発見につながるかもしれないのであるから、現場は細心に見分されたと推認され、死体の発見された隣室にあり、しかも、特に発見しがたい状態にあったとは思われない(前記報告書には鈎がどのような状態にあったのか記載されていないので、特殊な状態にあったと考えるわけにはいかない。)相当大きな物に気づかなかったとは考えがたい。
検察官は、また、実況見分調書の記載は、現場に存在した物全てにわたって網羅するものではないと言う。
この点についても、前述と同様どのような物が将来証拠となるかわからないのであるから、見分した状況はできるだけ詳細に記述されているはずであるといいうるが、右実況見分調書添付写真のうち六畳切炉付近を写したNO.12の写真の右下部には罐様の物が見えるにもかかわらず、調書本文には触れられておらず、図面にも記載されていない事実があるので、鈎についても発見しながら記載しなかったという可能性も完全には否定できない。しかし、その場合でも、被告人の取調べに当たった亀井安兵衛は右実況見分を実施した者であって、鈎の所在をすでに知っていたと思われるから、被告人の右供述が秘密性のあるものとはいえないこととなる。
他方、被告人は自在鈎について自供したことにつき、「炉の上に何かなかったかと聞かれたので、鈎があったかなと思って述べた。」旨説明している(確定審第二審第二回公判)が、当時の本件現場あたりの家には大概炉があり、その上にはだいたい自在鈎を吊していたことが認められる(右同公判の亀井安兵衛の供述部分)から、被告人の右説明が不自然なものとはいえない。
以上の次第で、結局、自在鈎については、被告人が思いつきで述べたとしても必ずしも不合理ではなく、また、自在鈎が被告人の自供に基づいて事件現場から発見されたという点にも疑問があるから、この点の供述は決して真実性が高いとはいえない。
6被害者らの寝ていた順序についての供述
通常被害者方一家四人は八畳間で六畳板の間の方に頭を向けて寝ており、その並び方は押入の方から忠兵衛、雄一、淑子、妻嘉子の順であった(小原優子の昭和三〇年一〇月二一日付員面調書、同年一二月一六日付検面調書)が、死体は、押入の方から忠兵衛、嘉子、雄一、淑子の順に並んで発見された(司法警察員作成の同年一〇月一八日付実況見分調書)。そして、被告人の自白による被害者らの寝ていた順序は、右死体発見時の状況に合致する。すなわち、「私は六畳間の境から首を中に入れて見たところ、一番よく見えたのは奥さんの頭で、寝ている順序は、押入の方から忠兵衛さん、奥さん、男の子、女の子といずれも頭を六畳間の方にして寝ていたようでした。」(同年一二月六日付員面調書)、「私はこの障子の間から中の様子を窺ったら、押入の前から忠兵衛、忠兵衛の妻、子供、子供という順で四人とも頭を板の間の方に向けて寝ている姿が見えました。」(同月一一日付検面調書)と供述している。
この点について、被告人は、「事件直後の河北新報に掲載されていた事件現場の見取図に書いてあった死体の状況を覚えていたので、それを供述した。」と説明する(同月三〇日付検面調書、確定審第一審第二四回公判、第二審第二回公判)ところ、当時これに該当する新聞記事が存在し、被告人が河北新報の本件記事を読んでいたことは同人の自白調書である前記昭和三〇年一二月一一日付検面調書、同月一四日付員面調書にも記載されている。
しかし、検察官は、およそ真犯人でない者が、その供述の五〇日も前に読んだ新聞記事の死体の位置の略図をなお正確に記憶していたというのは甚だ疑問である旨主張する。
確かに、右のようなことはこの事件に特殊の関心を持っていた者でなければ通常考えられないが、本事件は当時寒村に突発した衝撃的な大事件であり、連日のように本件に関する記事が新聞に大きく掲載されていたと考えられるのであるから、事件発生現場近くに住んでいた被告人としても大きな関心を抱いていたであろうことは容易に推認されるところであって、被告人が本件について特に関心を持ち、それに関する新聞記事を記憶していたこともありえないわけではないと思われる。
7兇器についての供述
検察官は、被告人は兇器として薪割を使用したと自供しており、これが荒井・丹羽口鑑定(昭和三〇年一二月一日付)、村上鑑定(昭和三一年五月二日付、同月三一日付)、三木鑑定(同年一二月一三日付、同月一四日付)により科学的に裏付けられているばかりか、被告人は薪割について略図を書き、柄の長さが二尺位としている(昭和三〇年一二月八日付員面調書添付図面)ところ、右供述のあとである昭和三〇年一二月九日付平野稔次の員面調書により、右薪割の柄の長さが二尺位であったことが認められるのであり、右事実は捜査員が被告人の自供前に把握していなかったと認められるから、誘導によるものではあり得ないのであって、真に体験した者でなければ述べ得ない信用性の高い供述である旨主張する。
しかしながら、右薪割は被害者方八畳間の雄一と淑子の各死体の間にあるのが発見されたものであって(司法警察員作成の昭和三〇年一〇月一八日付実況見分調書)、そのこと自体からすでに本件の兇器として用いられたのではないかと思わせるに十分な事実であり、被告人も自白調書において兇器がまさかりである旨河北新報に掲載されていたのを見たと述べている(同年一二月一四日付員面調書)のであるから、被告人が兇器を薪割であると述べ、これが客観的事実に合致しても、それほど自白の信用性を高めるものとも思われない。
また、右薪割の柄の長さについても、被告人は三尺位であったとも言っており(同月六日付員面調書)、他方、小原優子の同年一二月一六日付検面調書、大窪留蔵の同月一四日付検面調書では二尺五寸位と言っているのであって、被告人の供述並びに客観的事実のいずれもが必ずしもはっきりしないのであるから、これをもって信用性を高めるものともいいがたい。
8兇器の所在場所についての供述
兇器の薪割があった場所に関する被告人の自供は、当初は、①「殺す刃物がないかと六畳間を探したところ、玄関のところに置いてある岩竈のうしろの土間の所に柄だけ見えた物があるので、引き出してみると柄の長さ三尺位のまさかり(薪割)であった。」というものであった(昭和三〇年一二月六日付員面調書)が、②「岩竈のうしろの縁側の続きの板の間の所に置いてあったのを持ち出した。」(同月七日付員面調書)と変わり、一二月九日実況見分に立ち会った際には六畳板の間の縁側寄りの所であると指示説明し(司法警察員作成の同月九日付実況見分調書)、実況見分から帰った後の同日の取調べにおいて、更に、③「まさかりの置いてあったのは岩竈のうしろ側であったと話したが、本当は風呂場の前の壁に柄を上にして立てかけてあった。」(同月九日付員面調書)と変転している。
①の「岩竈のうしろの土間」から②の「板の間の縁側寄りの所」に変わった点については記憶違いということもありうるとは思われるが、②から③の「風呂場の前の壁の所」への変転は、屋内から屋外に出たということになる重大な変更であり、被告人が実況見分に立ち会って現場の状況をあらためて見た結果記憶が喚起されたということでは説明しがたいものである。
この②から③への変更については、被告人が公判廷で、「最初は家の中にあったと言ったが、検証(右実況見分を指す。)によって、その位置は縁側続きで八畳座敷からでないと行けないことから、どこか別の場所でないかと聞かれて、家の近くに風呂場があるようなので、風呂場に立てかけてあったと述べた。」と説明している(確定審第一審第二四回公判)ところ、被告人が実況見分前には岩竈のうしろの状況について誤解していたと思われることは前記4のとおりであり、取調べに当った亀井安兵衛も、薪割の所在が変わったのはどうしてかとの質問に対し、「現場に行って岩竈のうしろを見たところ壁になっているようなので、被告人に尋ねたところ、場所が違っていた。」と被告人の右説明にそう供述している(確定審第二審証人尋問調書)。
また、③の供述中には、これまで間違ったことを述べてきた理由、今回正しい事実を述べることとした理由等について何ら納得のいく説明がされていない。
そうすると、被告人が説明するように、実況見分を契機として捜査員から更に薪割の所在場所について追及されたため、被告人が単なる思いつきで③の供述をしたのではないかとの疑問を払拭することができない。
なお、大窪留蔵は同年一二月一四日日付検面調書で、「一〇月一六日も一七日も薪割が風呂場の壁に置いてあったのを見た。」と述べ、確定審第一審第五回公判でも「薪割は風呂場の前あたりにあった。」と供述しており、これが③を裏付けているようにみえなくもないが、右検面調書が作成されたのは供述内容から約二か月経過したのちであり、しかもそれより数日前である一二月八日付員面調書では「薪割があったかわからない。」旨述べ、翌九日付員面調書でも「子どもが木を割るのにナタか薪割を使っていたが、どこに置いたかわからない。」旨の供述をしており、この時点では薪割があったかどうかすらはっきりしなかったものであること、それにもかかわらず、右検面調書には薪割があったこと、それが置いてあった場所を思い出したきっかけ等について何の説明がされていないことなどからすると、右大窪の検面調書、公判廷での証言に十分な信用性があるとすることができず、右のほかには③の供述を裏付ける客観的証拠はない。
したがって薪割の所在場所についての供述も真実性が高いとはいいがたい。
9殺害方法についての供述
検察官は、昭和三〇年一二月七日付員面調書において、被告人は被害者らの寝ていた姿勢、殺害の方法についてまで詳細に供述しており、これが解剖結果等によって裏付けられていると主張する。
確かに、被告人の右自白内容は、被害者らの顔が向いていた方向については、前記死体の並んでいた順序を掲載していたと思われる新聞にも記されていないにもかかわらず、忠兵衛が縁側の方(押入と反対方向)、嘉子が上向き、男の子、女の子がいずれも押入方向を向いていたとし、忠兵衛は右耳の頭部の所、嘉子は左耳脇の頭の所、男の子は左耳にかけ頭と顔、女の子は左耳のあたりの頭と顔をいずれも三、四回切りつけたとするところ、これが解剖によってわかる創のある箇所及びそれから推認できる顔の向きとよく一致しているのであるが、一家四人を惨殺する犯人は高度の興奮状態にあったはずであるから、四人の被害者がどちらの方向を向いて寝ていたか、どこに切りつけたかをいちいち正確に記憶しているというのは、かえって不自然とも思われる(ちなみに、被告人の同月一一日付検面調書では、夢中であったので余りはっきり記憶に残っていないと述べている。)のであり、被害者らの傷害の部位、個数については、司法警察員が事件発生直後の同年一〇月一八日に行った実況見分(同日付実況見分調書)や被害者らの死体の解剖(村上次男、三木敏行作成の各鑑定書。各解剖に被告人を取り調べた亀井安兵衛が立ち会ったとの記載がある。)の際にすでに捜査員に判明していたと思われ、前述のとおり、これにより寝ていた向きは推認されることを考え併せると、被告人が捜査員の取調べに合わせて供述し、その結果解剖結果と合致したものでないかとの疑問が残る。
なお、検察官は、殺害の順序について、被告人が忠兵衛、嘉子、男の子、女の子の順であると述べたことを信用性の高い事由に挙げているが、右順序は、気づかれ反抗された場合に抵抗力の強い者を先に殺害したとするもので、経験者でなくても十分述べうるところであり、しかも、これを裏付ける証拠がなく、客観的事実に合致するのかどうかも明らかでないのである。
よって殺害方法についての供述もまた信用性が高いとはいえない。
10被害者らの反応についての供述
自白において、薪割で殺害した際の被害者らの反応については、「夢中になっていたので、被害者らが叫んだか、唸ったかよくわからなかった。」(昭和三〇年一二月六日付員面調書)、「夢中だったので、泣き声をたてたり、起き上がったということは全く覚えていない。」(同月七日付員面調書)、「四人を殺したとき誰だったか一人か二人か『ううん』といった唸り声をたてたように思うが、その唸り声もあまり高いものではなかった。」(同月九日付員面調書)、「忠兵衛を殴りつけてからは夢中であったので当時のことはあまりはっきり記憶に残っていない。」(同月一一日付検面調書)と述べられている。
右は昭和三〇年一二月九日付員面調書の内容がやや趣きが異なるものの、全体的にみると、基本的には夢中であってよくわからないというものであり、犯人が四人の被害者らに切りつけた際には高度の興奮状態にあったと思われるから、これだけを取り上げてみれば、右趣旨は不自然でないといいうるであろう。
しかし、前記のとおり、被害者らの寝ていた顔の向き、切りつけた場所について極めて詳細に述べていることと対比すると、あまりに曖昧な供述であり、弁護人が主張するように、被害者らの反応については客観的資料が残っていないことから、捜査員において誘導することができなかった結果ではないかと疑う余地もなしとしない。
11兇器の遺留場所についての供述
検察官は、兇器の遺留場所について、被告人は自白の最初の段階から「男の子と女の子の間に捨てた。」旨供述しているが、右供述は実況見分の結果と合致するものでその信用性は高いと主張する。
確かに、被告人は初めて自白した際すでに、「使ったまさかり(薪割)は男の子と女の子の中間ころに捨ててきた。」と述べており、(昭和三〇年一二月六日付員面調書)、その後も「使ったまさかりは子供と子供の間ころの布団の上にポンと投げ捨ててきた。」(同月八日付員面調書)、「四人とも殺してから薪割をその辺に捨てた。」(同月一一日付検面調書)と供述しており、これが、薪割の刃部が雄一と淑子の死体の間から発見された事実(司法警察員作成の同年一〇月一八日付実況見分調書)に符合している。
しかし、右薪割発見の事実は、もとより捜査員が自白前に知っていたことであって、秘密性のある供述とはいえず、被告人が捜査員の取調状況に応じて供述し、その結果客観的に符合するものとなったとみる余地もないではない。
12殺害後忠兵衛夫婦に何かを掛けたとする供述
検察官は、被告人は昭和三〇年一二月七日付員面調書において、忠兵衛らを殺害後、忠兵衛夫婦の顔に何かを掛けた旨の供述をしているが、これは村上、三木両鑑定人による死体解剖結果と合致しており、しかも、被告人は確定審第二審第二回公判において右供述は警察官から誘導されたのではなく、自ら述べたというのであるから、信用性の高い供述というべきであると主張する。
しかしながら、検察官が取り上げた確定審第二審第二回の被告人の供述は、
裁判長・問 自白調書(五冊目四二丁表以下)に「忠兵衛、奥さん、男の子、女の子と殺したあとで、顔を見るのが嫌だったので忠兵衛さんの辺りの押入から何か引張り出し、忠兵衛さんと奥さんの顔にそれをかけたような覚えがあるが、物は何だったか見当がつかない」とあるが、これは、何に基づいて述べたか。
答 殺したあとに顔を見るのが嫌な気分になるものだと警察官が言うので、何も、そんなこと知らんと言うと、犯罪やる人はそんな気になるものだが何かやったのでないか、顔をかくすとか何かしたのでないかときくので、知らんと言っても責められたので、何かかけたと述べたけれども、そんなものかけたかどうか知りません。
問 押入から何か引張り出したということは警察官から言ったのか。
答 何かかけたと言ったし、かけるものといえば、押入に入っているものと思って、私からそう言ったのです。
問 押入から引張り出したということは、被告人が創作したのか。
答 はい。
というものであって、掛けた物を押入から出した点はともかく、何かを掛けたことは警察官に誘導されて供述した旨述べていると理解すべきである。
そして、捜査員は自白前に忠兵衛夫婦の死体頭部に厚手の布片が付着していたことを知悉していたが、それがなんであるかまではわからなかった(司法警察員作成の昭和三〇年一〇月一八日付実況見分調書)ものであるところ、被告人のこの点に関する当初の供述が「かけたような覚えもありますが、その物はなんだったか全く見当つきません。」(同月七日付員面調書)という暖昧で、しかも右捜査員が知っていたところを出ないものであること、掛けた何かを押入から出したとする点は、被告人の言うように、思いつきであって述べうると思われること等を考え併せると、被告人の確定審第二審における説明は十分容れる余地があるというべきである。
したがって、被告人の右供述が信用性の高いものであるとはいえない。
13放火場所についての供述
被告人の自白では、放火場所について、「忠兵衛と妻嘉子の頭に近い所に嘉子の身体にそうように杉葉を置き、杉葉に火をつけ、その上に木屑を散らした。」(昭和三〇年一二月八日付員面調書)としたが、これは永瀬章作成の昭和三一年四月二七日付鑑定書が発火場所を「八畳間の隣室との間仕切障子に近い部分と推定する。」とした結論と符合する。
しかし、この点の被告人の自白は一貫していたわけではなく、最初の自白調書である昭和三〇年一二月六日付員面調書では、「杉葉を六畳間と八畳間の障子の所の六畳間側で男の子の頭のあたりに置いてマッチで火をつけた。」と六畳間側に放火したと述べ、翌七日付員面調書でも同様の供述をしていたのであり、これが同月八日付員面調書で変更された理由について、同調書には「前に述べたのは嘘であった」というのみで得心のいく説明がされていないことからすると、同調書の供述は捜査員により客観的事実に合うよう誘導されたものではないかとの疑いを払拭できない。
検察官は、前記の永瀬鑑定書により初めて発火場所が明らかになったものであるから、捜査員が誘導するわけがないと言うが、本事件発生直後に司法警察員によって実況見分がなされ、その際被害者らの死体の頭部前に杉炭のようなものが発見されているのであって、当然それが放火に使われたものと推測していたと思われ、また火災現場を見分している以上、一番焼毀の著しい場所もわかっていたと思われるから、右鑑定結果を待つまでもなく、八畳間の被害者らの頭部付近が放火場所であると見当をつけていたことが十分考えられるのである。
したがって、検察官の右主張は採ることができず、結局、放火場所についての供述も高度の信用性があるものとはいいがたい。
14放火材料についての供述
検察官は、被告人は最初の自白(昭和三〇年一二月六日付員面調書)において、放火の材料として木小屋にあった杉葉を使用した旨述べ、その後取調べの進展に伴い、同月八日付員面調書で杉葉のほかに木屑も使用した旨述べているが、杉葉を用いたとの点は経験者でなければ述べ得ない供述であり、木屑を用いたとの点は、忠兵衛の頭部付近から発見された炭片が鑑定の結果杉材の炭化したものであると判明したことと合致すると主張する。
まず杉葉を使用したという点については、事件直後の司法警察員作成の同年一〇月一八日付実況見分調書に、木小屋についての記載はあるが、杉葉については触れられておらず、捜査員側が杉葉を放火材料として念頭に入れていなかったことが窺われ、被告人も、後記のとおり、杉葉については誘導によってではなく自ら述べたものである旨の説明をしているのであるから、この点の供述は秘密性のある供述ということができる。
そして、実際忠兵衛方木小屋に杉葉の束が置いてあったことが確認されており(大窪留蔵の同年一二月九日付員面調書、木皿正二の同月二六日付員面調書)、しかも、木小屋に行って杉葉を発見した際の状況についての被告人の自供は、「木小屋の入口から中に入りましたが中は真暗で何が置いてあったのかわからなかったが、入って行くうち、足につかっとしたので杉葉だと思ってそれを持って家の中に入った。」(同月八日付員面調書)と実感のあるものであることからすると、経験者でなければ述べるのが困難な供述とはいいうるであろう。
しかし、他方、被告人はこの点につき「警察官から何に火をつけたと聞かれ、初め障子につけたと答えたら、いやそうではないだろうと言われ、杉葉か何かがよいと思って杉葉と言った。」旨説明している(確定審第二審第二回公判)ところ、当時としては放火材料としてまず杉葉を思いつくことが不自然なことではなかったと思われ、杉葉などが木小屋に置かれるのもごく自然なことであるから、被告人が木小屋から杉葉を持ってきて火をつけたと思いつきで述べることも不可能とはいいがたく、被告人の右説明を全く否定し去ることはできない。
次に、木屑を使用した点については、忠兵衛の頭部付近に炭片が多数存在し、これが薪木よりやや太い杉材ようの物が燃えて炭化したものであるとみられる(司法警察員作成の前記実況見分調書、佐藤孝治作成の同年一一月二九日付鑑定書)ことは、被告人の取調べ前に判明していたのであり、捜査員は炭片のあった位置、状況等からして右炭片が放火と何らかの関連があることは十分わかっていたものと推認され、他方、木屑が事件直前に現場にあったことは大窪留蔵の供述(同年一〇月二〇日付員面調書)により捜査員がすでに知っていたことであるから、捜査員において右木屑が放火材料として使われたのではないかと推測していたことも十分考えられる。したがって、右供述は秘密性のあるものとはいいがたい。
これに加えて、木屑を使ったとの供述は自白当初なされず、一二月八日になってなされたものであるが、なぜそのような経緯をたどったのかについては、当初の自白の際すでにもう一つの放火材料である杉葉については述べているのであるから、記憶がはっきりしなかったとか、述べるのを忘れたということではとうてい説明がつかないのであって、疑問があること、放火場所についても、前述したように、誘導されたのではないかとの疑問が残ることをも考慮すると、被告人の木屑に関する供述についても捜査員の誘導によるものではないかとの疑いをさしはさむ余地がある。
なお、検察官は、被告人は木屑が木屑箱に入っていたと述べているが、この木屑箱についての被告人以外の者の供述はいずれも被告人の右供述ののちに得られたものであるから、木屑に関する供述は誘導によったものではないと主張する。
確かに、木屑箱に触れている大窪留蔵、小原忠子及び上野真一の同年一二月九日付各員面調書、小原優子の同月一三日付員面調書はいずれも被告人の木屑、木屑箱についての供述がなされた後に作成されたものであるが、事件直後に右大窪から木屑があったことについては供述を得ており(前記一〇月二〇日付員面調書)、被告人の右供述まで一月半もの期間があったことからすると、放火材料であった可能性のある木屑について捜査をするうち、捜査員において木屑箱についても知りえた可能性がないとは断定できず、また、被告人においても木屑があったとすれば木屑箱があったであろうと考えて思いつきで述べることも十分可能であると思われる。
以上の次第で、放火材料についての供述のうち、杉葉を使ったとする点は経験者でなければ述べられない供述とまでは断定できず、木屑を使ったとする点は十分な信用性があるとはいいがたい。
15稲杭についての供述
被告人は、昭和三〇年一二月一三日に実施された検察官の夜間検証に立ち会い、忠兵衛方の木小屋で放火材料として使用した杉葉のあった位置を指示した際、木小屋内に立て掛けてあった稲杭について「この稲杭にぶつかった記憶がないので、多分あの晩この稲杭はこの位置に立て掛けてなかったのではないかと思います。」と述べた(同日付検証調書)が、その後右稲杭は本事件当時は木小屋の梁上にのせてあったもので、事件直後死体解剖台を作るのに用いられたのち、一本だけ梁に上げずに立て掛けておいたものであることが判明した(木皿正二の同月二六日付員面調書、昭和三一年二月四日付検面調書)。
被告人はこの点に関し確定審の公判廷において、「警察で杉葉のほかに何も触ったものがないことにしていたので、そう述べた。」と言うのみで(第二審第二回公判)、納得のいく説明をしていない。
放火に用いられた杉葉のあった具体的位置は、捜査員にわからないことであるから誘導する余地はなく、被告人が自らの意思に基づいて指示したものと推認されるところ、その位置として立て掛けてあった稲杭のそばの地点を指示した(前記検証調書のほか検察事務官作成の同年一月五日付実況見分調書)上、現にある稲杭について事件当夜はそこになかったと思う旨述べ、それが後に客観的事実に符合することがわかったのであるから、経験事実の供述かと思わせる真実性の高い供述といわなければならない。
もっとも、被告人がいい加減に言ったことがたまたま客観的事実に符合したということもありえないことではないので、経験事実の供述であると断定することはできない。
16出火を確認した時間についての供述
被告人は、自白当初「放火後、小原方坂道を降りた道路で二〇分位見ていたら煙が外に出てきた。」と述べ(昭三〇年一二月六日付員面調書)、翌七日には「精々一、二分位」であったと訂正している(同月七日付員面調書)が、検察官はこの点について取調べが進展するにつれ記憶が整理された結果であるとする。
永瀬章作成の昭和三一年四月二七日付鑑定書によれば、放火後最盛期までの所要時間はおおよそ七分から一五分位であったことからしても右当初の供述が真実と合致しないことが明らかであるが、犯罪者、とりわけ四人を殺害するという重大な罪を犯した者がその現場付近で自分の姿を見られるのを極めて恐れるものであることは言うまでもないことであるところ、深夜とはいえ、被告人は放火をしてきたというのであるから出火に気づいて人が来ることが予想されるにかかわらず、二〇分もの間現場のすぐそばで出火状況を見ていたというのは全く考えられないことであり、時間の経過についての記憶は曖昧であるという通例を考慮に入れても、右供述は記憶違いとは思われないのであって、むしろあえて虚偽の事実を述べた疑いが濃いのである。
したがって、捜査員も右供述の不自然さに気づいて被告人を追及したことは容易に推察されるところであり、この結果訂正したのちの「精々一、二分位」見ていたという供述についても、信用性が高いとはいいがたい。
17返り血についての供述
被告人は、自白において「両手がズボンに触ったら、ヌラヌラしたので、ズボンに血がいっぱいついていたと感じた。」(昭和三〇年一二月七日付員面調書)、「半鐘の音を聞いた時にズボンに手を触ってみたらぬるぬるとした手触りで、血のついていることがわかった。」(同月一一日付検面調書)と多量の返り血を浴びたことを供述しており、これが四人もの人を薪割で頭部を殴打して殺したとすると着衣にかなり多量の返り血を浴びると思われること(須山弘文作成の犬を薪割で殺した場合に関する昭和五二年八月七日付鑑定書もこれを裏付ける。)に符合しないではない。
しかし、返り血について、被告人は自白当初「血痕は案外つかないようで、ズボンは前側に、ジャンパーも同様前側についた。」(昭和三〇年一二月六日付員面調書)とむしろ余りつかなかった趣旨の供述をしており、一貫していないこと、多量の返り血を浴びたであろうことは、捜査員はもとよりわかっていたと思われ、被告人において思いつきで述べることも可能であったと推測されることのほか、後述のとおり、右供述と密接な関係をもつジャンパー、ズボンを洗ったとする供述の信用性が高いとはいえず、その処理に関する供述はむしろ信用性に乏しいこと、判示第三のとおりジャンパー及びズボン等に血液が付着しなかった蓋然性が高いこと等の諸事実を総合すると、返り血に関する右供述の信用性についても疑問ありとしなければならない。
18ジャンパー、ズボンの洗濯についての供述
被告人の自白調書には、「犯行を終えての帰途、ズボンに触ったらヌラヌラとして血がいっぱいついたと感じたので、大沢堤の溜池でズボン、ジャンパーを脱いで順次土を混ぜて洗った。」旨の供述がある(昭和三〇年一二月六日付、同月七日付員面調書、同月一一日付検面調書)が、検察官は、右洗濯に関する供述は、初めて自白した昭和三〇年一二月六日にすでになされており、捜査員の追及によりなされたものではなく、経験者でなければ述べえないものであると主張する。
しかし、高橋勘市の同月六日付員面調書によると、被告人が自白する前である一二月六日の昼、食事のため取調べから帰房した被告人が「着物の洗濯をしたろうと調べられた。」旨を同房の高橋に話したことが認められ、これによれば被告人が自白する前すでに捜査員から着衣の洗濯の件を追及されていたことが窺われるから、捜査員の追及によるものでないとする検察官の主張は疑問である。
また、被告人は右の供述をした経緯について「最初は返り血は浴びたがそのまま家に帰ったと述べたけれども、それはおかしいと何度も言われたので、困ってしまい、洗って帰ったと言った。するとどこで洗ったと聞かれたので堤と答えた。」と説明する(確定審第一審第二四回公判)ところ、返り血を浴びた旨の供述をした以上、その処理が問題とされ、洗濯をして落したということが頭に浮かぶことは当然のことであり、洗濯した場所を大沢堤とすることも忠兵衛方から被告人方までの帰途にあること(別紙第二参照)から自然に導き出されることであり、血を落とすということから水だけでなく土を混ぜて洗濯したとすることを思いつくことも十分ありうることであるから、被告人の右説明も根拠のないことではないように思われる。
かえって、右自白の内容をみるとズボン、ジャンパーの順に洗ったことはわかるものの、それではジャンパーを洗うとき洗い終わっていたズボンはどうしていたのか、土を混ぜて洗ったというが、どの程度の土を着衣のどのあたりにこすりつけたのか等についての記述がないのであって、具体性に乏しく現実感の伴わない供述という印象を避けえない。
してみると、右供述は経験者でなければ述べえないものとはいいがたい。
なお、検察官は、右自白は洗濯の際、手足、顔は洗ったが頭は洗わなかったとしているところ、これが被告人の使用していた掛布団の襟当てに被害者の血液と同型の血痕が付着しているとする三木、古畑鑑定により科学的に裏付けられていると言うが、右血痕の関連性に疑問があることは前述のとおりであるから、これをもって信用性が高いとすることはできない。
19逃走中のその他のできごとについての供述
検察官は、被告人の自白調書中において、逃走途中、大沢堤で洗濯した際トラックと遭遇したこと(昭和三〇年一二月七日付員面調書)、割山の大きな道に出る頃に半鐘の音を聞いたこと(同月八日付員面調書)、杉山に入って間もなく消防のサイレンが鳴ったのを聞いたこと(同月九日付員面調書)を供述しているが、これらにそう客観的事実が存することが他の証拠によって裏付けられているから、単なる偶然の一致ではなく、真実被告人が経験した事実であると主張する。
確かに、被告人の自白では、放火後被告人は忠兵衛方前で一、二分様子を見たのち、来た道を引き返し、山道を通って大沢堤に至り、そこで約一〇分の洗濯をしおわったころトラックが来た(同月七日付、同月九日付各員面調書)とするところ、忠兵衛方から大沢堤までの歩行時間が約八分である(検察官作成の同月二〇日付実況見分調書)ことかるすると、放火時からトラックに遭遇するまでの時間は一九分ないし二〇分位ということになるが、他方、村上重一の昭和三〇年一二月一二日付員面調書、鳥海等の同月九日付員面調書、司法警察員作成の同月一七日付捜査報告書によると、トラックに乗っていた右村上及び鳥海が火災を発見してから大沢堤にさしかかるまでの時間は約九分二〇秒であり、永瀬章作成の鑑定書によると、点火後外部に火が見えるに至るまでの所要時間は二分半ないし四分(雨戸がしまっていた場合の鑑定結果であるが、被告人の自白ではしまっていたとされている。)であり、最盛時が七分ないし一五分後であることがそれぞれ認められ、村上らが火災を発見したのは外部に火が見えてから最盛時までの間と推認されるので、点火時から村上らのトラックが大沢堤にさしかかったのは一一分五〇秒から二四分二〇秒位あとということになって、右自白による時間とおおよそ符合するものと思われる。そして、右村上、鳥海の各員面調書及び司法警察員作成の捜査報告書によると、村上らが山船越集会所を出発したのが午前三時四〇分ないし五〇分頃であり、大沢提にさしかかったのがそれより約一〇分一〇秒後であることが認められるから、被告人が洗濯をしていた時刻は午前四時ないしそれより少し前頃ということになり、この時刻を基準とすると、被告人が半鐘やサイレンを聞いたというのは、午前三時五〇分頃から四時過ぎ頃まで半鐘を鳴らしたという村上重雄の同年一二月九日付員面調書、午前四時頃から四時一〇分頃までサイレンを鳴らしたという菊地光の同日付員面調書と時間的に矛盾しない。
しかし、右トラックは毎朝定期的に野菜運搬のため運行されていたものであり、しかもトラック運送をしていた村上重一、鳥海等が火災の早期発見者であったことは同人らの右各供述調書により明らかであるから、同人らが事件直後から火災発見の状況、事件当時の運行状況について詳しく尋ねられたであろうことは容易に推認されるところであって、被告人が「時間的に車に会わなければならないと言われたので、馬車と言ったら違うと言うので、トラックと会ったと供述した。鹿島台の方から来たと言うと違うと言うので、船越の方からと答えた。」と述べている(確定審第二審第二回公判)のも理由なしとはしないのである。
また、半鐘、サイレンについては、被告人は「火事になれば鐘か何か鳴るものだが、鳴らなかったかと聞くので、鳴ったと言った。割山から大きな道に出る頃というのはその頃と想像した。」「サイレンを聞かなかったかと聞かれたので鳴ったのかなと思い、鳴ったと述べた。」旨説明する(同公判)ところ、火事があったのであるから半鐘やサイレンの音について尋ねるのは当然であり、これに対して聞いたと答えることは経験者ならずともなしうることであり、その時刻については、半鐘やサイレンはいずれも一〇分程度鳴らされており、被告人の行動についての時刻もはっきりしないのであるから、被告人がいい加減に述べたことが客観的事実と矛盾しないとしても不思議ではなく、火事の発見状況、消火状況を捜査する間に捜査員が知っていたことも十分あり得るから、被告人が捜査員の取調状況に合わせて述べたと考えられなくもない。
したがって、右トラック、半鐘及びサイレンについての供述は経験者でなければ述べられないものとはいえない。
かえって、トラックとの遭遇の供述については、トラックのエンジン音を聞いたときの被告人が何をしていたのかについて、「ズボンをはいている時トラックが来る音をした。」(同月七日付員面調書)から「ズボンをはきジャンパーを着ている時聞こえた。」(同月一一日付検面調書)に変わっているが、その理由について説明されておらず、どちらであったのか判然としないこと、トラックから隠れるのであれば堤のかげに身を伏せれば足りると思われるのに、人目に立ちやすい堤の上を杉林まで走って行ったというのは不自然である(同月七日付員面調書では歩いて行ったとしているがなおさら不自然である。)こと等の疑問点があるのであって、真実性の高い供述とはいえない。
被告人の自供では、杉林に逃げ込んだあと明るくなりかけるまで同所で長時間隠れていたとする(同月七日付員面調書)。
しかし、右供述は、一〇月半ばの明け方水洗いしたばかりの濡れた着衣を身につけていたというのであるから、相当寒い思いをしたと思われるにもかかわらず、「じっと下を見つめていた。」とするのみで、この点に何ら触れられておらず、その間どのようなことを考えていたのか等について述べていないのであって、現実感の乏しい供述といわざるを得ない上、右供述が自白当初の一二月六日付員面調書に触れられていないこと、杉林に入ったきっかけがトラックが来たことであるとされているところ、トラックに関する供述が、先に述べたとおり、真実性の高いものとはいえないことをも考慮すると、杉林で隠れていたとする供述も信用性が高いとはいいがたい。
なお、被告人が明け方下駄を持ち素足で走ったとする供述は、秘密性のある供述であり、確定審第一審の証人栗田辰吾、同佐々木しづをの昭和三一年五月一五日付各尋問調書、検察官作成の昭和三〇年一二月三〇日付実況見分調書により大沢堤近くに住む右栗田、佐々木が「したした」という素足で走るような音を聞いたことが認められることで裏付けられているようにみえなくもないが、この証人らが音を聞いたというのは午前三時過ぎとか午前五時前とかいうのであり、しかも栗田はトラックの通過より前のことであったというのであって、被告人のいう午前六時前頃(同月七日付員面調書)と一致しないように思われる。
したがって、右各証言は裏付けとしては薄弱であるから、被告人の右供述も真実性が高いとはいえない。
20ジャンパー、ズボンの処理についての供述
被告人の自白では、ジャンパー、ズボンを洗濯し、これを着て杉林に隠れていたとされているが、被告人方に帰ったのち、右ジャンパー、ズボンをどうしたのかについては供述が変遷している。
すなわち、昭和三〇年一二月七日付員面調書においては、①「座敷に入る前にズボンとジャンパーを脱いで縁側の竿に掛けた。」としたが、翌八日付員面調書では、②「家に入る前に家の裏に立ててあるひき屑小屋に行って、そこにあった竿にジャンパーとズボンを掛けて干した。」、翌九日付員面調書では「ひき屑小屋の梁にきゅうり掛けに使う竹が二、三把上げてあった。ばらになっていた方の竹を一、二本とって並べその竹に掛けた。」となり、更に、③「ひき屑小屋のきゅうり竹に干したと言ったのは嘘で、ひき屑小屋の上の北隅にまるめて置いた。」(同月一〇日付員面調書)と変わっている。
①については、「縁側の竿にはおしめを干してあり、一八日の朝それをかたづけたり外の竿に移したりしたので、ズボン、ジャンパーが干してあれば当然気づくはずであるが、そんなものはなかった。」とする被告人の兄嫁齋藤美代子の同月七日付、同月八日付各員面調書、②については「おが屑小屋の梁にきゅうり竹を渡していたのは昭和二九年六月頃までで、それ以後は渡したことはなく、昭和三〇年七、八月頃からおが屑を入れ始め、一〇月一七、八日頃までにはほとんど一杯入れた。」とする兄齋藤常雄の昭和三〇年一二月九日付員面調書とそれぞれ被告人の自供を否定する客観的証拠があり、これらの供述調書はその日付や内容から捜査員が被告人の①、②の自供の裏付捜査をした結果得られたものと推認されることから、捜査員は被告人からまず①の自供を得て裏付けを取るべく美代子に尋ねたところ、これが否定されたため、更に被告人を追及して②の自供を得たが、これも常雄の右供述で否定され、もう一度被告人を追及した結果、③の自供を得たという経緯が窺われる。
右の経緯に加え、①、②の自供はその内容からして、記憶違いとは考えられず、ことさら虚偽の事実を述べたものであると思われること(被告人の同月八日付、同月一〇日付各員面調書でも前の供述は嘘であったとしている。)③についてもその裏付けが全くないこと等を併せ考えると、③の自供もまた虚偽である蓋然性が相当高いといわなければならない。
なお、検察官は、被告人は返り血の有無が犯行の決め手になることに不安を感じて、着衣の特定、その事後処分については、取調べの都度思いつきでその場凌ぎの供述をしたもので、真実を語っていないと解されるから、右事項に関する供述が変遷していることをもって被告人の自白全体の信用性に影響を及ぼすものと評価するのは相当でないと主張する。
そこで、この点に付言すると、高橋勘市の各供述調書により、被告人が同房であった高橋に対し「ジャンパーは焼き捨てた。」と話したことがあり(同月七日付員面調書)、同人に対し、最初の自白前に「着ていた物についた血で殺された者の血のことがわかるか。火事で焼けても洗濯をしてもわかるか。」と尋ねて、「わかる。」と言われた(同月六日付員面調書)ことが窺われることからすると、検察官が言うように解する余地もなくはないとしても、四人もの人の頭部を薪割で殴打して殺害した場合犯人は相当多量の返り血を浴びると考えられ、そのとき着ていた物が発見されているか、あるいはそれの処分状況が判明しているかどうかが、犯人を特定する上で重大な点であるところ、被告人の着衣に関する供述が虚偽であるとすれば、その点についての自供が得られていないこととなり、それでは真実はどうであったのかについて検察官から何らの主張もなく、これを証明すべき証拠もないのであるから、被告人を犯人とするには重大な疑点があることになるのであって、やはり自白全体の信用性に影響するといわざるを得ないのである。
四 録音テープの存在について
録音テープ(昭和五八年押第一九号の七、一二、一三)によると、被告人が昭和三〇年一二月九日司法警察員の質問に応じて、本件についての犯行の動機、犯行に至るまでの経緯、忠兵衛方の状況、犯行の手段、態様、犯行後の行動について、被告人の前記自白と同様の内容の供述をし、最後に犯行についての自責の念を述べた状況が録音されていることが明らかである。
右録音状況について、被告人は「一つの問答が終わると録音機を一時停めて、今度はこういう風に尋ねるから、このように話せと言われ、それから録音機を再びかけて録音したものである。」と述べている(確定審第一審第一三回公判)が、岩崎俊一作成の昭和三二年四月二一日付鑑定書によると、右録音テープには継目はなく、録音が停止されているのは、冒頭の説明文を入れたことによると思われるもの、上半分から下半分に移るときのものを含めて八か所にとどまり、このうち被告人が供述した直後に停止されているのは二か所にすぎないことが認められるから、この二か所においては質問を受ける前に答を教えられた可能性は否定できないにしても、右録音は約三九分間にわたり、一一〇余りの問答があることを考慮すると、被告人の述べるように質問の都度教えられたということはありえない。
しかし、右録音テープは、現に被告人を取り調べている状況を録音したものではなく、すでに自供した内容の全体をそつなく盛り込み、供述調書の形をとるかわりに録音という形をとって表わしたものにすぎない。
被告人は否認の手記で、「係長さん方々に涙を流して私が悪かったとあやまるんだと言われましたが、私が殺した犯人でないのにどうして泣く事が出来ましたでしょうか。係長さん方々には私の態度を見てさぞ驚いた事でしょう。私がその犯人であったら涙を流してお詫びを致します。又今までお手数をかけて本当にすみませんでしたとあやまります。私にはそれが出来ないのです。係長さん判っていただけますかこの自分の気物(持)。私が犯人だったらこうしたろうなと考えながらしゃべるのですから係長さん方々にはまるでデタラメの様に私がしゃべっている様に聞えるのでしょう。」と述べており、録音テープの会話は、これに符節が合うようにも思われる。その一例として殺害状況の供述について再録すると 亀井係長・問 うん、(忠兵衛の)家の前から……。
答 忠兵衛さんの家の、家の前まで来ましたら、家の中から薄暗い電燈がついていたように思います。<警笛>入口の前で一〇分ほど中の様子をうかがいました。ぐっすり寝ていたようなので<警笛>中に入り戸を開けて中に入り<口笛>障子が一尺五寸位ほど開かっていたようです。その中、その中から顔を出して中を見ましたら
<柱時計の音八個>
問 ……ずうっと話しなさい。
被告人……いいすか(小声で)。
問 うん(小声で)。
答 忠兵衛さんが北の方を向いて、次は奥さん、男の子、女の子と寝ていたわけです。そこで常に顔見知りなので騒がれては大変だと思い、家の前の風呂場の、風呂場の前に立ててあったまさかりを持って家の中に入りました。忠兵衛さんの奥さんの前、前あたりに行き、忠兵衛さんのあた、あたまの辺を三回か四回位殴りました。続いて奥さんのあた、あたまを同じく三回か四回殴り、子供の、子供の前まで歩き、男の子を同じく三回か四回なぐ、なぐり、また次に寝ていた女の子を三回か四回殴りました。<ザーッと車の通るような音>その時はただ夢中、夢中なので、誰かうなったような気がします。<警笛>あまり、恐ろしさのあまり、押入、押入の中からなんか引っ張り出して頭にかけたような気がします。箪笥の<警笛>ひき出し、一番上のひき出しを開けて見ましたら、あんまりいいものが入っておらず、金もなかったわけです。また次のひき出し、ひき出しを開けてみましたら、それもあんまりいいもの、いいものもなく、金もなかったので、またそれを閉め直し出ようとしましたが、これは後に証拠が残っては大変だと思い火をつけて焼こうと思い ―中略― 木小屋の中に入り<音>足にさわっ、足にさわった杉っ葉を持って家に、家の中に入り、奥さんの頭の辺に置き、杉っ葉ではまだ足りないと思い、入口の左方にあった箱を持ちました ―以下略。
と述べているが、殺害行為についても印象的なものがなく、臨場感に欠ける内容となっているように思われる。
更に、
問 帰る順序は、さっき簡単に話してあるようだが、もう少し詳しくだね。
答 はあ。
問 話せ。話せるか。
答 <間合いあり>また同じ来た道を夢中で戻りました。割山の付近まで来ました時、忠兵衛さんの方を振り返ってみましたら、真っ赤に燃えてたようです。その時、ズボンの方に手をやりましたら、ヌラヌラとした血がいっぱい付いていたようです。
問 それから。
答 それから、その割山を下りて、大きな道路に出る付近で、半鐘が鳴ったようです。
問 それは堤に行って着物を洗う前だね。
答 はい。
問 半鐘の音を聞いてそれからどうしたの。
答 血の付いた服を着たままでは人に見つかるとまずいと思いまして、家に帰る途中の堤の所でそのズボンとジャンパーを洗いました。
問 どういう風にして洗ったかね。
答 水ぎわの所に下駄を脱ぎ、下駄を脱ぎ、水に約二尺位入ったように思います。水の中の土をまぜてゴシゴシ洗いました。そこで顔に血が付いていたように思いましたので、手と足と顔を洗いました。
問 う―頭は洗ったかね<汽笛の音>
答 頭は洗いませんでした。
問 その時手拭やハンカチは洗ったのか<警笛>。
答 いや、全然洗いません。そういうものは持っていませんからそのままです。
問 洗ってからどうした。
答 洗ってジャンパーを着、ズボンをはいた、はき終ったところへ遠くの方から船越の方から自動車の音が聞えて来ました<警笛>。見つかってはまずいと思い、池の方の向かいの杉林の中に隠れました。その堤と杉林の中間頃に、中間頃でトラックが通り、通って行ったような気がします。
と述べているが血の付いた位置、洗った様子などについて具体的な説明もない。ことに自責の念を述べる部分については、
問 現在君の気持はどうなんだ。
答 ……
問 まあ顔見知りの人達をね。ああやってやったんだが、その後の君の気持はだね。
<間合いあり、背景音の振子の音が中断する>
答 ……いいすか(小声で)。あの仏のような忠兵衛さんを、忠兵衛さん一家を殺害し、また火をつけて焼いたことは本当に申し訳ないと思います。これからは心を入れ換え、真人間になりますから、忠兵衛さん一家かたがたお許し下さい。
と、全く抑揚のない棒読み口調で語られ、真に悔悟している気持が表われているものはとうてい思われない。
右録音テープは、被告人が自白をしたことの裏付けにはなるとしても、供述調書に比し新味のある供述が含まれている訳でもなく自白の信用性を高めるものとはいえない。
五 自白についての総合判断
本件自白の特色の一つは、その多くの部分が客観的事実に符合しているものの、その中に秘密性のある供述がほとんどないということである。
すなわち、客観的事実に符合する自供としては、被告人には飲食店等に借金があったこと、本事件の前に忠兵衛の妻嘉子が被告人方に材木を買いに来たこと、忠兵衛方内の状況、被害者らの寝ていた順序、薪割が兇器であることとこれを子供二人の間に捨てたこと、被害者らの顔を向けていた方向とどこを殴打したかということ、殺害後忠兵衛夫婦に何かを掛けたこと、放火場所、放火材料として杉葉、木屑を使ったこと、検証当時木小屋内に立て掛けてあった稲杭が事件当時そこになかったこと、トラックとの遭遇、半鐘とサイレンを聞いたこと等があげられるが、このうち被告人の供述時に捜査員が知らず、その後客観的事実に符合することが確認されたと思われるのは、放火材料として杉葉を使ったということと、稲杭が犯行当時木小屋内に立て掛けてなかったことだけであって、その他の供述はすべて自供当時捜査員がすでに知っていたことないし十分に知りえたと思われることである。
そして、捜査員のわからない殴打した際の被害者らの反応についてはあいまいな供述がされているのに対して、捜査員が知りえた被害者らが向いていた方向とどこを殴打したかについては、右と同じ場面であるにかかわらず、信じがたいほど詳細にかつ客観的事実に即して述べられていることからすると、右客観的事実が事前にわかっていた供述には、捜査員の知識が反映しているのではないかとの疑問が払拭することができないのであって、客観的事実に符合するからといって、ただちにその信用性が高いとは断定できないものがある。
また、右秘密性があり、かつ客観的事実に符合する供述も、真実であると断定することまではできず、かつ供述全体のごく一部にとどまるから、自白全体の真実性を決定づけるほどのものとはいえないのである。
本件自白の二番目の特色は、犯行の重要な事実のうちいくつかについて供述が変転していることである。
変転のみられる供述としては、犯行状況の重要な場面である兇器の所在場所、放火材料として木屑を使ったことと放火場所に関する供述、犯行自体ではない犯人を特定する上で極めて重要である着衣の処理状況、被告人の行動として客観的証拠で確認できる鹿島台駅までの足どりと犯行現場である忠兵衛方に到着するまでの時間的なずれをうめる意味のある瓦工場での休憩の供述があげられ、これらの供述が自白全体の中に占める比重は決して小さくない。
そのうえ、放火材料と放火場所についての供述を変更した点は供述内容を詳細にしあるいは記憶違いを訂正したとみるとしても、その他の点の変更はいずれも単なる記憶違いとは考えられないのであり、特に着衣の処理状況については虚偽の事実を次から次に述べたものであることが明らかであって、被告人が自己の経験しない事実を思いつきで供述し、裏付捜査によりその不合理なことが判明して、追及を受けると、更に同様の供述をしてその場を糊塗してきたのではないかとの疑いがある。
そうであるとすれば、変転のない供述のうちで客観的証拠による裏付けのないもの、すなわち、山道を往復したということ、大沢堤で着衣を洗濯したこと、杉林内に隠れていたということ等の供述も、矛盾する証拠が発見されなかったため変転としなかったにすぎず、これまた被告人の思いつきによる供述にすぎないのではないかとの疑問の余地があるといわなければならない。
本件自白のもう一つの特色は、具体性に乏しく現実感に欠ける供述が所々に見られることである。
すなわち、瓦工場のかまの中で三時間の間休憩した際の状況について、わらの上に腰かけたり、あおむけになって休んだというのみで、そのまわりの状況、心理状態等に何ら触れられておらず、杉林内に夜明けまで隠れていた際の状況についても同様である。また、殺害した方法は全く単調でありそのときの被害者らの反応についての供述や大沢堤で着衣を洗っていた状況、トラックに遭遇したときの被告人の状態についての供述も瞹眛であり、現実感が乏しいといいうるであろう。
右の事実は、もとよりそれ自体右各供述の信ぴょう性に疑問を抱かせるものであるが、更に、右の各供述がいずれも客観的証拠による裏付けが存在しないないしは十分にない事実についてのものであることから、先に述べた事由とあいまって、被告人が現実には存在しなかった事実を思いつきで創作したのではないかとの疑いを一層深めることにもなるのである。
以上のとおりであって、被告人の自供のうち、客観的証拠による裏付けのない供述については思いつきによる供述ではないかと疑う余地があり、客観的事実に符合する供述も捜査員の知識が反映しているのではないかとの疑問があることから、必ずしも被告人が犯人であることを意味しないように思われ、真実性が高いと思われる供述もなくはないが、これも自白全体の真実性を決定するほどのものではないのである。
右に加えて、被告人の自白の任意性は認められるもののこれを獲得した際の捜査活動には不当なものもみられたこと、虚偽の自白をした動機についての被告人の説明にはおおむね裏付けがあり、一応首肯できるものであること等をも併せ考えると、被告人の自白はたやすく信用できないと判断される。
第六 結論
以上の次第であって、被告人の自白は、客観的証拠に符合する事実が多く含まれているものの、容易に信用しがたく、また、本件犯行当時被告人が使用していたとされる掛布団の襟当てに多数の斑痕が付着し、これらから被告人方家族に由来するものではなく、被害者家族に由来すると考えて矛盾のないA型人血が検出された事実が認められるが、捜査員が押収したときすでに鑑定時のように付着していたかについて疑問の余地があるばかりか、その付着状況は被告人の自白から窺われる付着経緯にそわず、むしろこれと矛盾していると思われ、これをもって本件犯行と被告人を結びつけることはできず、かえって、本件犯行態様から犯人の着衣には相当多量の血液が付着したと推認されるにもかかわらず、犯行当夜被告人が着用していた蓋然性の高いジャンパー、ズボンからはこれにみあう血痕は検出されず、当初から付着していなかったかなり高度の蓋然性が認められるのである。
したがって、本件犯行が被告人によって行われた事実はこれを認めるに十分な証拠がなく、本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条に則り被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。
よって、主文のとおり判決する。
(小島建彦 片山俊雄 加藤謙一)
別表第三―一
襟当てに付着した斑痕群一覧表(表側面)
斑痕 群
斑痕(群)の
位置 約cm
斑痕の大きさ
約cm
形態・形状
色彩
色調
裏へのしみ通りの有無
備考
イ
右縁左方0.6 下縁上方24.5 上端の下方大3.5
直径 0.6
類円形
僅かに赤褐色
ごく薄く濃淡あり
無
ロ
(a) 右縁左方1.15 下縁上方19.3
麻実大(直径0.3)
不規則円形
赤褐色
有
位置、略縫目の部分
(b) (a)の左方0.15
径 0.05
(c) 中心、(a)の略中心の左方0.65
右微上方より左微下方に走る長0.15 巾大0.02
下僅か右方に突湾した弧状の線状
極めて薄い
無
(c') (c)の右上端の上方0.1
蚤刺大
ハ
(a) 中心、右縁左方5.1 下縁上方5.5
上右方より下左方に長2.2 巾0.5
赤褐色
上右端及び下左端は僅かに濃く、その間は甚しく薄い
全体として極めて色が薄い
(b) (a)の上右端の右方1.2
左右長0.15 巾大0.02
極めて薄い
ニ
中心、右縁左方5.6 下縁上方8.7
範囲、右上方より左下方に長5.9 巾0.3
最小 蚤刺大
最大 長径1.3 短径0.15(右上端部にあり)、左下端部には半粟粒大のものあり
点々と散在、不規則な楕円形あるいは線状で、いずれも略右上方より左下方に走る
赤褐色
左下端部で濃く、右上方に行くにつれ薄くなり、かすれ様になるものが多い、半粟粒大のものは最も濃い
全体として色が薄い
ホ
(a) 中心、右縁左方6.7 下端上方1.5
豌豆大(左右径0.6 上下径0.4)
楕円形
赤褐色
濃い
有
(a') (a)の下縁略中央より右下方
半粟粒大(径大0.03)ないし蚤刺大、左上のものが最大、右下のもの最小
長さ0.5の略一直線上に四個の斑痕
薄い
無
ヘ
(a) 中心、右縁左方9.3 下縁上方6.1
小豆大(右上方より左下方に長0.4 巾0.2)
不規則な蒲鉾形
赤褐色
濃い
有
(b) (a)の上右方0.8
左上方より右下方に
長0.25 巾0.1
不規則形
ト
中心、右縁左方12.2 下縁上方8.3
上右方より下左方へ
長1.9 中央巾0.3
右上端に行くにつれ狭くなり、ニと略平行している
赤褐色
薄い
下左端の長さ0.35の間は他より濃い
無
チ
中心、右縁左方11.5 下縁上方3.4
ニの左下方の延長上
上右方より下左方へ
長0.9 巾0.3
淡赤褐色
有
ややこわばる
リ
中心、右縁左方5.5 下縁上方22.5
左上方より右下方へ
長1.4 巾0.4
淡黄褐色
ヌ
右縁左方8.0 下縁上方22.0
径0.6
極めて僅かに黄褐色
ヌ'
中心、右縁左方一二 下縁上方24.5斑痕 群範囲、上左方から下右方へ長さ三、これと直角の方向に長さ一
粟粒大ないし蚤刺大
三個の斑痕
下右方より上左方に長軸をなし、同方向に擦つて生じたような形
赤褐色
下右端は濃く上左端は薄い
全体として極めて僅かに黄褐色
長0.1及び0.3
上下に走る巾の狭い二條の線状
濃い
ル
右縁左方12.9 下縁上方15.6
径 0.4
僅かに赤褐色
ヲ
(a) 上端部右縁左方21.0
豌豆大(前後径0.6
左右径0.4)
赤褐色
大部は有(b)の左端の一部は無
一般的に色調は濃い
(b) (a)の左前端より左僅前方
長0.8 巾0.6
不規則形、右より左へ擦つて生じたような観
右側濃く左に行くにつれ薄い
(c) (b)の左下端の左下方0.4
粟粒大(径0.1)
無
ワ
(a) 中心、右縁左方23.3 上縁下方大3.0 ヲ(a)の中央の下左方3.7
小豆大(左右径0.5
上下径0.3)
赤褐色
濃い
(b) (a)の右方0.9
粟粒大(右上方より左下方に長0.15 巾0.1)
(c) (a)の右上方1.1
粟粒大(直径0.1)
カ
(a) 中心、下縁上方4.6 右縁左方23.8
上下長 0.6斑痕 群
左右巾 0.15
赤褐色
無
痂皮状にへばりつく乾血様物付着
(b) (a)の中心の右上方0.7
径大0.05
淡赤褐色
(a)と略類似した性状を呈し痂皮状をなす
(c) (a)の中心の右下方0.8斑痕 群 (b)より0.6
粟粒大(径0.1)
帯黒褐色
(b)に略類似するが稍乾燥する
ヨ
中心、下縁上方8.9 右縁左方24.2
上右方より下左方に斑痕 群 長0.7 巾0.4
赤褐色
左下端部最も濃く右上方に行くにつれ薄くなる、全体として薄い
無
タ
下縁上方10.4 右縁左方25.9
粟粒大(径0.1)
赤褐色
カと類似した性状で稍乾燥する
レ
(a) 中心、下縁上方15.5 右縁左方31.5斑痕 群 範囲、右下方より左上方に長3.2 巾1.0
粟粒大ないし蚤刺大斑痕 群最大米粒大(右下端部にあり)
数個散在
茶褐色
全体的に濃い斑痕 群但し左上方のものは薄い
性状は略カに類似する
(b) (a)の略中央の右上方3.0
半粟粒大
ソ
(a) 右縁左方50.0 上縁下方大三
右上方より左下方に
長1.5 巾2.0
淡褐色
薄い
無
僅かにこわばる
(b) (a)の下方9.2
上右方より下左方に
長0.9 巾0.4
茶褐色
(c) 中心、(a)の左下方4.8 範囲、直径1.8
半粟粒大ないし米粒大
数個の斑痕
赤褐色
(d) (a)の左上方5.0
直径0.15
(e) (a)の左微下方9.2
直径0.1
淡赤褐色
ツ
右縁左方63.0 上縁下方3.0
粟粒大(径0.15)
赤褐色
濃い
有
ネ
(a) 左縁右方63.0 下縁上方17.3
半粟粒大(直径0.1)
赤褐色
濃い
(b) 中心、(a)の上微右方0.65
上下長0.15
巾大 0.02
(a)と同様色
ナ
左縁右方五七 下縁上方7.2
左右径0.8
上下径0.3
不規則形
淡赤褐色
全体としてややこわばる
ラ
中心、左縁右方53.0 下縁上方6.3
左下方より右上方に
長0.7 巾0.2
極めて僅かに褐色
ややこわばる
ム
(a) 中心、左縁右方52.3 下縁上方22.7
径 0.15
赤褐色
濃い
(a)(b)(d)は略一直線上に位置する
(b) 中心、(a)の上右方0.2
径 0.1
(c) (b)の上微右方 0.1
半粟粒大(直径大0.05)
(d) (b)の右上方 0.6
粟粒大(直径0.1)
ウ
左縁右方44.7 下縁上方17.7
粟粒大(径0.15)
赤褐色
濃い
キ
左縁右方46.0 下縁上方8.1
径 0.2
淡赤褐色
ノ
左縁右方46.8 下縁上方4.6
径大0.05
僅かに赤褐色
オ
(a) 左縁右方30.0 下縁上方17.0
範囲、上右方より下左方に長0.5
上方より順に
蚤刺大(直径大0.05)
粟粒大(直径0.1)
米粒大(直径0.2)
三個の斑痕が相接し、いずれも左右に長軸をなす
赤褐色
(b) (a)の上端の上左方0.2
半粟粒大(直径大0.05)
(c) (b)の上左方0.2
半粟粒大(直径大0.05)
濃い
ク
(a) 上縁部
左縁右方27.0
麻実大(直径0.25)
赤褐色
(b) (a)の前右方に長0.3 後左方に長2.3 これより右後方に巾大0.6の範囲
蚤刺大
一二個の斑痕斑痕 群(a)に近い所では密、後上端に行くにつれ疎となる
ヤ
(a) 中心、左縁右方25.1 下縁上方22.1
上下径 0.5
左右径 0.1
赤褐色
下端では濃く上端へ行くにつれ薄い
(b) (a)の下端の右下方0.3の所より下微左方
長0.3 巾0.1
薄い
(c) (a)の上端の上方0.1の所より上微左方
長0.5 巾0.05
マ
(a) 左縁右方28.9 下縁上方20.4
米粒大
(左右径0.25上下径0.1)
赤褐色
濃い
(b) (a)の左下方0.9
半粟粒大
(b') 範囲、(b)を中心とし右上方より左下方に長1.0 巾0.2
蚤刺大
七個の斑痕
(c) (a)の下方1.2
右上方より左下方に
長0.1 巾大0.03
(c') (c)の右端に接する
右上方より左下方に
長0.2 巾0.1
淡褐色斑痕 群
(c'') 中心、(c')の左下方0.4及び0.8
右同様の斑痕
赤褐色
(d) (a)の右上端より上方0.1
蚤刺大(直径大0.05)
濃い
ケ
中心、左縁右方20.6 下縁上方22.3
範囲、右上方より左下方に長0.7 巾0.2
蚤刺大
四個の斑痕
赤褐色
比較的濃い
径0.05(左下端部のもの)
フ
(a) 中心、左縁右方20.5 下縁上方24.8
範囲、右上方より左下方に長2.5 巾0.4
蚤刺大
七個の斑痕
赤褐色
濃い
(b) (a)の左下端部の左微下方2.1
蚤刺大
(c) (a)の右上端の左上方0.8
直径 0.15
淡褐色
コ
(a) 上縁部
左縁右方6.3
左右径 0.3
前後径 0.15
淡暗赤色
薄い
(b) (a)の左微後方0.8
粟粒大(直径0.15)
赤褐色
エ
左縁右方 13.9
下縁上方 7.25
左右径0.25
上下径0.1
不規則形
淡暗赤色
(裏側面)
い
右縁左方7.3 下縁上方32.5
直径大 1.5
僅かに褐色
ろ
(a) 右縁左方8.6 下縁上方13.5
米粒(左右径0.3上下径0.15)
赤褐色
(b) 中心、(a)の左下方1.1
左右長0.7斑痕 群上下巾0.02
線状
(c) (b)の右端の右方0.4
半粟粒大(直径0.05)
(d) (b)の右端と(c)との間に横走
巾大 0.05
僅かに暗赤色
(e) (a)の下僅左方2.2 (b)の下方1.4
蚤刺大(直径0.03)
赤褐色
(f) (a)の下僅左方3.6
粟粒大(直径0.1)
(g) (a)の右僅上方1.5 範囲、米粒大(直径0.2)
蚤刺大ないし半粟粒大(直径0.05)
三個の斑痕斑痕 群
は
(a) 右縁左方7.1 下縁上方6.2
直径 0.1
赤褐色
(b) (a)の左上方0.4及ひ0.7
それぞれ蚤刺大(直径大0.02)ないし粟粒大(直径0.1)
(c) (a)の上右方0.9
蚤刺大(直径0.02)
0.05距て二個の斑痕
(d) (c)の右方0.2
蚤刺大(直径大0.02)
(e) (a)の上方2.1
左右径0.2斑痕 群上下径0.1
に
右縁左方5.2 下縁上方20.5
小麻実大(直径 0.15)
淡褐色
裏面の方が濃い
ほ
右縁左方6.9 下縁上方25.5
半粟粒大(直径0.05)
赤褐色
薄い、裏面の方が濃い
へ
(a) 右縁左方11.1 下縁上方19.3
半粟粒大(左右径0.1斑痕 群上下径0.05)
帯黒褐色
(b) (a)の上微左方2.5
蚤刺大(直径大0.02)
赤褐色
(c) (a)の上左方5.0 (b)の左僅上方3.4
蚤刺大(直径0.03)
余り濃くない
と
右縁左方13.4 下縁上方30.3
粟粒大(直径大 0.07)
赤褐色
少し薄い
ち
(a) 右縁左方12.8 下縁上方8.3
半粟粒大(直径 0.05)
三個の斑痕
赤褐色
ろの左下方、はの左方に位置する
(b) (a)の左僅下方4.3
(c) (a)の下左方3.9 (b)より3.3
り
(a) 下縁上方0.55 右縁左方18.1
左僅下方より右僅上方に長 0.15巾 0.02
赤褐色
淡い
無
位置、下の縫目の部分
(b) (a)の左端の下方0.15
(a)と略平行に左上方に長 0.1巾大 0.02
(c) (b)の左上方0.2
蚤刺大(直径大0.02)
(d) (a)の左端の上微左方0.15
左微上方に長0.1 巾0.02
薄い
ぬ
(a) 右縁左方17.3 下縁上方3.7
右微上方より左微上方に斑痕 群長 0.15斑痕 群巾大 0.02
三個の斑痕
赤褐色
ちの左下方、りの上方に位置する
(b) (a)の左下方1.5
蚤刺大(直径0.02)
(c) (a)の左微下方3.1
直径 0.03
る
(a) 下縁上方0.3 右縁左方27.5
蚤刺大(直径大0.02)
赤褐色
襟の下縁部は折れ、及転し、めくれているので裏面の方が表面より大きく、濃く、明瞭
(b) (a)の右微下方0.2
蚤刺大(直径大0.01)裏面では粟粒大
濃い
を
(a) 中心、右縁左方27.3 下縁上方2.2
下僅左方より上僅右方へ長 0.15巾大 0.03
赤褐色
(a') (a)の上右端の延長した方向
長 0.6 巾0.15
布片の表層をかすつたように走る
極めて薄い
(b) (a)の下左端より下僅左方0.
蚤刺大(直径 0.01)
比較的濃い
わ
右縁左方24.4 下縁上方17.2
粟粒大(直径 0.15)
赤褐色
か
右縁左方20.0 下縁上方20.6
左上方より右下方へ長 0.3巾 0.2
赤褐色
薄い
よ
(a) 中心、右縁左方26.8 下縁上方28.8
下左方より上右方へ長0.8 巾0.15 上右端が最も幅が広い
赤褐色
上右約三分の一の間はやや薄い
(a') (a)上右端の延長方向
長 3.2 巾 0.4
極めて薄い
(b) (a)の下左端の左方0.3
(a)と略平行に上右方へ長 0.6中央巾 0.15
上右端に行くにつれ薄くなる
た
下縁上方35.0 右縁左方31.2
粟粒大(上下径0.1左右径0.05)
赤褐色
上縁に近い
れ
(a) 下縁上方24.5 右縁左方32.7
粟粒大(左右径 0.2
上下径 0.15)
三個の斑痕
赤褐色
やや薄い
よの左下方
(b) (a)の下左方2.7
粟粒大(直径大0.07)
(c) (a)の下右方5.6
粟粒大(直径大0.06)
淡帯赤褐色
そ
(a) 下縁上方13.4 右縁左方34.9
蚤刺大(直径大 0.02)
赤褐色
(b) (a)の右下方3.5
蚤刺大(直径大0.03)
やや薄い
つ
右縁左方32.0 下縁上方9.2
米粒大(左右径 0.35
上下径 0.2)
赤褐色
かなり薄い
ね
(a) 右縁左方32.0 下縁上方7.0
半粟粒大(直径 0.05)
赤褐色
(b) (a)の左下方1.1
蚤刺大(直径大0.01)
(c) (a)の下僅左方1.0
蚤刺大(直径大0.01)
やや薄い
(d) (a)の下僅左方2.1
左右径 0.1斑痕 群上下巾大 0.03
線状
薄い
な
(a) 下縁上方1.2 右縁左方32.0
直径 0.1
赤褐色
やや薄い
(a') (a)の下縁に接する
蚤刺大(直径0.01)
(a)と同様
(b) (a)の左上方2.4
粟粒大(直径大0.15)
淡い
ら
(a) 中心、下縁上方12.3 右縁左方37.9
上左方より下右方へ走る
長 0.8
中央巾 0.15
左下方に突湾した不規則な三か月状
赤褐色
薄い、上左三分の一は殊に薄くかすれ様となる
(a)の左下縁略中央から左下方へ走る
長 0.5 巾大 0.1
極めて薄い
(a)の右上方で(a)の右上縁の上半に接する
直径大 0.5
(a)の下端
上右方に走る
長 0.25 巾 0.1
(a)より更に薄い
右斑痕の上右方に接する
直径大 1.7
全体として極めて僅に赤褐色を呈する如き観を帯びる
(b) 中心、(a)の下僅左方大1.0
上左方より下右方へ走る長大0.9巾0.1(右下端部―最も広い) 左上方に行くにつれ細くなりかすれ様となる
右上方に突湾した弧状
赤褐色
(b) (b)の下端
右下方に走る
長 0.7 中央巾 0.1
右上方に突湾した弧状
薄い
中央にはこれと直角に巾大0.02のやや濃い部分あり
左僅上方に走る
長 0.5 巾0.2
薄い
(c) (a)の略中心の左僅下方2.1
左右径0.1巾大0.02
む
(a) 中心、右縁左方43.6 下縁上方15.0
麻実大(直径 0.3)
赤褐色
辺縁はややにじむ
(b) 中心、(a)の右方1.9
左僅上方より右僅下方に
長 0.7
中央巾 0.25
やや薄い
下左縁では著しく薄い
(c) 中心、(a)の左僅下方1.6
左僅上方より右僅下方に
長 0.7
中央巾 0.3
薄い
所々更に著しく薄い
う
中心、右縁左方40.3 下縁上方21.8
麻実大
(左上方より右下方へ
長0.25 巾0.15)
赤褐色
薄い
ゐ
(a) 右縁左方40.5 下縁上方26.3
粟粒大(直径0.15)
赤褐色
(a') (a)左上端
左上方に長 0.1
線状
薄い
(b) (a)の上方2.1
左方に走る
長大 0.25
巾 0.03
(b') (b)の左端の下方0.1
蚤刺大(直径大0.01)
薄い
の
(a) 右縁左方48.0 下縁上方25.3
粟粒大(直径0.1)
赤褐色
(a') (a)の右下方大0.05
左右径0.1
上下径大0.03
お
中心、右縁左方48.3 下縁上方20.3
直径大2.5の中に蚤刺大
(直径大 0.03あるいはそれ以下)
数個の斑痕
僅かに黒褐色
薄いものもある
汚れた様な感が伴う
く
(a) 右縁左方48.0 下縁上方30.2
上下径大 0.15
左右巾 0.03
線状
赤褐色
薄い
(b) (a)の下僅右方0.9
蚤刺大(直径大0.02)
や
(a) 中心、右縁左方50.9 下縁上方10.3
直径大 1.2
全体として極めて僅かに黄褐色調
(b) 中心、(a)の右下方2.0
直径大 1.4
赤褐色
(a)よりやや薄い
ま
(a) 中心、右縁左方55.7 下縁上方3.0
直径大 2.0
全体として極めて僅かに黄色調
(b) 中心、(a)の上僅右方3.0
上右方より下左方へ
長 2.5
巾径 1.5
赤褐色
(a)よりやや薄い
け
(a) 中心、右縁左方58.6 下縁上方4.4
左右径 0.15
上下径 0.1
赤褐色
薄い
(b) (a)の左下方5.2
蚤刺大(直径大0.01)
(c) (b)の左下方0.3
直径 0.02
ふ
(a) 右縁左方58.8 下縁上方0.2
上下径 0.1
左右径 0.2
赤褐色
裏面の方が濃い
布がまくれ裏面が表側に出ている
(b) (a)の上僅右方4.8
直径 0.1
薄い
こ
(a) 右縁左方62.0 下縁上方31.0
麻実大(直径 0.2)
赤褐色
薄い
(b) (a)の上方2.0
蚤刺大(直径 0.1)
(c) (a)の左下方3.3
粟粒大(直径 0.08)
薄い
(d) (a)左微下方4.5
左上方より右下方に
長 0.5
巾 0.15
え
(a) 左縁右方66.2 下縁上方1.8
蚤刺大(直径 0.05)
赤褐色
(b) (a)上右方0.25
直径大0.01
(c) (a)の下僅左方1.2
蚤刺大(直径大0.02)
て
(a) 中心、右縁左方大61.5
下縁上方17.0
上左方より下右方へ
長 3.0
巾 1.5
不規則形
僅かに暗赤褐色
右上で最も濃く左下に行くにつれ薄くなり、かすれ様となる
(b) (a)の中心の下左方6.5
直径 0.1
赤褐色
(b') (b)の左上方0.05
直径 0.1
薄い
さ
左縁右方49.8 下縁上方3.0
上下径 1.0
左右径 0.6
赤褐色
極めて薄い
き
(a) 左縁右方42.3 下縁上方 0.2
直径 0.15
赤褐色
(a') (a)の右下端
右方に長 0.08
巾は起始部で最も広くいずれも大0.05 尖端部に行くにつれ細くなり尖端部は円鈍
(a'') (a)の右下端
右下方に長0.05
(b) (a)の右僅下方0.5 下縁上方0.15
左僅上方より右僅下方へ
長 0.2
巾 0.1
左端円鈍、右端尖る
(c) (a)の上僅右方1.9
直径 0.15
薄い
ゆ
(a) 左縁右方47.4 下縁上方 11.4
蚤刺大(直径大0.02)
赤褐色
(b) (a)の右微上方2.6
直径 0.5
僅かに暗赤色を帯びた部分がある
中央部でやや濃く周辺に向い薄くなる
め
左縁右方56.0 下縁上方35.8
左右径 0.15
上下巾 0.02
赤褐色
み
(a) 中心、左縁右方51.0 下縁上方25.2 上下長2.4の線上
長軸は左上方より右下方に走る
最長 0.15
最小直径 0.05
短い線上又は楕円形の斑痕一〇個散在
赤褐色
(b) (a)群略中央の右方0.6
直径 0.02
(c) 中心、(b)の右上方2.2
上右方より下左方へ
長 0.6 巾 0.3
極めて薄い
(d) (b)の右微上方4.3
蚤刺大(直径 0.02)
し
(a) 左縁右方38.2 下縁上方11.7
左右径 0.2
上下径 0.15
赤褐色
薄い
(b) (a)の左上方4.0
直径 0.01
ゑ
(a) 左縁右方三二 下縁上方三七
直径 0.15
淡黄褐色
(b) (a)上左方0.3
上左方より下右方へ
長 0.15
巾 0.05
(a)と同様色
ひ
(a) 中心、左縁右方26.4 下縁上方14.8
上左方より下右方へ
長 0.8
巾 0.3
淡黒色、僅かに褐色調
(b) (a)の上僅右方6.8
上僅右方より下僅左方へ
長 0.8
巾 0.3
(a)と同様色
も
(a) 左縁右方18.1 下縁上方25.0
左右径 0.2
上下径 0.1
不規則形
赤褐色
(b) (a)の左微下方0.6
蚤刺大(直径0.02)
少し薄い
(c) (a)の左微上方1.0
蚤刺大(直径0.01)
薄い
(d) (a)左下方2.9
直径 0.15
(e) (a)の左上方3.8
長 0.15
巾 上下に0.02
線状
(f) (a)の左下方4.8
直径 0.1
せ
中心、左縁右方7.0 下縁上方36.7
左僅上方より右僅下方に
長 2.8の線上
線状或は不規則な楕円形、点々と一〇個の斑痕
赤褐色
長軸はいずれも左僅上方より右僅下方に走り左上端のものが著明で巾が広く右下端にあるものは巾が狭い斑痕 群左上端のもの長0.15巾0.1(最も著明)
す
左縁右方5.9 下縁上方33.4
直径 0.1
赤褐色
い'
左縁右方7.0 下縁上方27.7
直径 0.15
赤褐色
周辺に向いにじむ
ろ'
左縁右方8.0 下縁上方27.5
左右径 0.5
中央巾 0.15
中央部に蚤刺大の斑痕欠損部三個あり
赤褐色
濃い
辺縁部はかすれる
は'
左縁右方0.4 下縁上方11.3
直径 0.35
赤褐色
に'
左縁右方11.0 下縁上方10.1
左上方より右下方に
長 1.2
巾 1.0
右下端は円鈍、右上端は少し尖る
赤褐色
ほ'
(a) 左縁右方13.6 下縁上方2.3
左右径 0.2
上下巾 0.05
赤褐色
(b) (a)の右方2.95
直径 0.03
薄い
(c) (a)の上僅右方1.2
帯黒褐色
(註)1 斑痕群の位置について、三木鑑定書原文中左の表上段記載の部分は誤記と思われるので、同表下段記載のとおり訂正した。
斑痕群
タ
ケ
て
さ
斑痕(群)の位置
三木鑑定書原文
左縁右方25.9
下縁上方2.23
右縁右方61.5
下縁上下3.0
本表の表示
右縁左方25.9
下縁上方22.3
右縁左方61.5
下縁上方3.0
(註)
2 三木鑑定書付図「襟当て布団表面側」は、中央下部が破損しているため、「え」「て」の二点が欠落したと思われるので、
第三-二の斑痕群一覧表添付図には左記によりこの二点を記載した。
え点 右三木鑑定書付図には「け」「ふ」点の左方に何の表示もない斑痕の記載があるが、鑑定書中の「え」点の位置の記載から、この斑痕を「え」点として特定した。
て点 右三木鑑定書中の「て」点の位置((註)1で修正)の記載から、おおよその位置に「て」点を表示した。