仙台地方裁判所 昭和62年(ワ)371号 判決 1988年6月21日
原告
鈴木富美代
右訴訟代理人弁護士
小野寺照東
同
村松敦子
被告
朝日生命保険相互会社
右代表者代表取締役
高島隆平
右訴訟代理人弁護士
後藤徳司
右訴訟復代理人弁護士
廣野光俊
右訴訟代理人弁護士
日浅伸廣
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
被告は、原告に対し、金一四六三万九三二一円及びこれに対する昭和五八年一二月九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者等
(一) 原告は昭和三七年四月一日被告会社に雇用されて入社し、後記本件事故当時仙台市長町五丁目三番一六号所在の同会社仙台支社長町営業所で保険外交員として勤務していた。
(二) 訴外丹野圭輔(以下、「訴外圭輔」という。)は、右長町営業所に勤務していた原告の同僚である訴外丹野美智枝(以下、「訴外美智枝」という。)とその夫訴外丹野日出男との間に昭和五七年三月二七日に出生した長男で、後記本件事故当時一歳八か月であった。
2 本件事故と傷害の発生
(一) 訴外圭輔は、原告が昭和五八年一二月九日午前一〇時ころ、右長町営業所の二階の自席でキャスター付き椅子に腰をかけて保険設計書の作成に従事し、自席の前方にある手帳を取ろうとして腰を上げ再び椅子に坐ろうとした際、原告に対し、原告の知らないうちに原告の後に来て急に右原告の椅子を引いたため、原告はその場で後に転倒して臀部を床に強打し、第五腰椎亀裂骨折、第一仙髄領域知覚障害、膀胱直腸障害を負った。
(二) このため、原告は、同月一三日から昭和五九年四月二七日まで南仙台病院に入院し、その後約一年八か月の間ほぼ毎日通院治療したが改善しないので、昭和六〇年一〇月一五日から約二週間東北労災病院に入院して検査を受け、現在も対症療法を継続中である。そして、本件事故により原告には後遺症が残り、右後遺症は昭和六一年二月一二日に症状固定し、後遺障害一〇級と認定された。
3 被告の責任
(一) 被告会社の長町営業所では従業員らが子供連れで勤務することを認めており、訴外美智枝もこれにならって、かねてから訴外圭輔を連れて出勤していたが、右事故当日も訴外圭輔を連れて右長町営業所に出勤していた。
訴外美智枝は、右事故の際原告の席から約二メートル離れた場所で、他の同僚と話をしていた。
(二) ところで、幼児は生後七、八か月ころから這い始め、転落、転倒等事故に結びつく危険な行動をとることができるようになり、歩き始める一歳前後には育児玩具の押し車を押すことなども可能となり、さらに、一歳六か月ころには好奇心も旺盛で何にでも興味を示し、運動機能の発達とも相まって危険も高まり事故が発生しやすくなるので一層の注意が必要となる。そして、幼児には事物の是非善悪を判断する能力がないだけに、丈のあるフロアスタンドに寄りかかってこれを倒したり、物を投げたりするなど、その行動が場合により周囲にいる第三者の生命身体に対しても危険を及ぼしかねないものであることは十分予測し得るところである。
これを訴外圭輔についてみると、同児は本件事故当時生後一歳八か月で、前記長町営業所内を自由に動き回り、手の届く所にあるパンフレット、テープ、バッグ等を引っ張ったり、時には立て掛けてある折畳式の椅子を引っくりかえしたりもした。右のような訴外圭輔の発育程度や運動能力に照らすと、同児はキャスター付きの椅子程度のものは自由に押したり引いたりすることができるはずであるから、本件において、同児が原告の椅子を後に引き、同人を転倒せしめて傷害を負わせることは十分予見可能であった。
(三) このように幼児が第三者に危害を及ぼす行為をなし得ることが予測できるのであるから、被告会社としては、子供連れでの勤務を認める以上、子供を連れて勤務する従業員に対して、子供を十分監督しながら勤務するよう従業員教育、安全教育を徹底するとともに、育児室を設けるとか、子供の力では動かないような椅子を用意する等の物的環境を整備し、従業員の生命身体の安全を図るべき雇用契約上の安全配慮義務を負っているものというべきである。
しかるに、被告会社が右義務の履行を懈怠したために、本件事故が発生し原告が負傷したのであって、被告会社がこれを怠らなければ本件事故は回避し得たものである。
4 損害
<省略>
従って、原告が蒙った損害は右逸失利益の合計一四六三万九三二一円である。
5 結論
よって、原告は、被告に対し、雇用契約上の債務不履行による損害賠償請求権に基づき、右一四六三万九三二一円及びこれに対する本件事故の日である昭和五八年一二月九日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1(一)、(二)の事実は認める。
2 請求原因2の事実については、(一)のうち原告の椅子にはキャスターが付いていたことは認めるが、その余は不知、(二)は知らない。
3 請求原因3(一)の事実のうち、訴外美智枝がかねてから訴外圭輔を右長町営業所に連れて出勤していたこと及び本件事故当日も訴外圭輔を連れて右長町営業所に出勤していたことは認めるが、その余は否認する。(二)、(三)の主張は争う。
一歳八か月程度の幼児は周囲の危険から保護されるべき客体でありこそすれ、これが第三者に対して危害を加えるおそれのないことは明らかであるから、通常の場合かかる幼児の行為が第三者に危険を及ぼすことを予見することは不可能である。せいぜい落下し易い物とか倒れ易い物等それ自体危険性を備える物体との関連において、幼児がこれに接触して物を落下、転倒せしめるなどして第三者に対し危害を加える可能性を推定し得るものの、本件で問題になっているキャスター付きの椅子はそれ自体危険物ではないし、仮にこれが危険物だとしても、人の坐る瞬間にこれを引いて同人を落下転倒せしめるというがごとき行為は生後一歳八か月程度の幼児のなしうるものではなく、よってこれを予見することも不可能である。
右のとおり被告会社は本件事故について予見可能性を有しなかったのであるから、これを防止すべき義務もない。仮に被告会社に本件事故を防止すべき注意義務があるとしても、幼児は親の完全な支配下にあるのであるから、事故防止の責任はまず第一に保護者に課せられており、被告会社の負う注意義務は副次的、補充的なものにすぎないというべきところ、本件事故時においては訴外圭輔の母親である訴外美智枝が同児を十分監視していたのであるから、被告会社の義務は生じなかったというべきである。
4 <省略>
第三 証拠<省略>
理由
一請求原因1(一)、(二)の事実は、当事者間に争いがない。
二請求原因2(一)の事実のうち、原告の椅子にはキャスターが付いていたことは、当事者間に争いがない。
<証拠>を総合すれば、原告は昭和五八年一二月九日午前一〇時ころ、右長町営業所二階の自席でキャスター付き椅子に腰をかけて保険設計書を作成していた際、自席の前方にある手帳を取ろうとして腰を上げ再び椅子に坐ろうとしたが、そのまま床に転倒したこと、原告は転倒した直後訴外圭輔が、右原告の坐っていた椅子のあったところから約一メートル離れた地点に右椅子に手を掛けて立っているのを見ていること、付近にいて右場面を目撃した小島富美子が原告に対し、原告のそばを歩き回っていた訴外圭輔が原告が腰を上げた直後に同人の椅子を引いた旨話したこと、本件事故の際右長町営業所一階で勤務していた当時の右営業所の所長浅野泰男は、外務員から原告が訴外圭輔に椅子を引っ張られて転倒し尻をついて怪我をした旨知らされて現場に赴き、倒れていた原告を抱え起こして椅子に坐らせたこと、本件事故の後原告が病院で診察を受けたところ、第五腰椎亀裂骨折、膀胱直腸障害、両下腿知覚障害を負った旨診断されたことが認められ、これらの事実を総合すれば、原告が前記日時ころ前記営業所の自席で保険設計書を作成していた際、机の前方にある手帳を取ろうとして腰を上げ再び椅子に坐ろうとしたところ、訴外圭輔がその間原告の後に来て急に原告のキャスター付きの椅子を引いたため、原告はそのまま床に転倒して臀部を強打し、前記のとおり第五腰椎亀裂骨折等の傷害を負ったことを認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
三使用者は、労働者が労務提供のため設置する場所、設備もしくは器具を使用しまたは使用者の指示のもとに労務を提供する過程において、労働者の生命及び身体等を危険から保護するよう配慮すべき義務があるが、その具体的内容は労務提供場所等当該具体的状況等により異なり、また、使用者に右安全配慮義務があるというためには、使用者に右危険の存在を予見することが可能な状況があったことを要するというべきであるから、そこで、被告会社に本件事故の予見可能性があったか否かについて検討する。
1 <証拠>によれば、幼児の一般的な成長過程をみると、生後七、八か月ころから這い始め、次いでつかまり立ちをし、生後一〇か月ころには伝え歩きを、そして生後一二か月ころからは独り歩きを始めるが、右のように運動能力が発達し、行動範囲が広がるにつれて、転倒、転落等の事故も急激に増えるので、倒れ易い家具を片付け、また、家具の上に不安定な物を置かないなど事故防止には十分気をつける必要があるとされている。しかしながら、これらにおいて述べられていることは、いずれも幼児の安全に関するものであって、幼児が第三者に及ぼす危険性について論じたものではない。そして、およそ幼児はその運動能力からしても、その行動が周囲にいる第三者とりわけ大人に対して危害を及ぼすということは通常はあり得ないものと考えられる。原告は、幼児が丈のあるフロアスタンドに寄りかかってこれを倒したり、机上の置物を落したり、或いは物を投げたりすれば、周囲の第三者の生命身体も危険にさらされるのであって、このことは十分予測し得る旨主張するが、幼児が右のようなことをしたとしても、幼児の能力等からして、それにより引き起こされる事態が周囲の第三者の生命身体に危害を及ぼすほど深刻なものであるかは甚だ疑問であるし、仮にそのようなことがあり得るとしても極めてまれなことというべきである。
2 <証拠>を総合すれば、以下の事実を認めることができる。
(一) 訴外美智枝は昭和五八年七月ころから訴外圭輔を連れて出勤するようになり、本件事故当時子供連れで勤務していたのは同女だけであった。訴外圭輔は、右長町営業所に来るようになった当初から営業所内を歩き回り、手の届く範囲内のパンフレット、スライドテープ、資料等を引っ張り出し、立て掛けてある折畳式の椅子をひっくりかえしたりしたため、その都度他の従業員も訴外圭輔に注意を与えていたが、もとより右の注意は訴外圭輔の安全を慮ってのものであり、また、本件事故が起こるまでの間に、同児の行動によって他の従業員が負傷したことはなかった。
(二) 被告会社には、かつて訴外美智枝以外にも子供連れで勤務していた従業員がいたが、本件事故以前には連れてきた子供が他の従業員を負傷させたり、会社の器物を壊したりしたということはなかった。
(三) 訴外美智枝は被告会社の保険外交員で、右長町営業所に出勤し三〇分ないし一時間の朝礼後外回りに出かけるのが通例であり、同人が訴外圭輔と共に右長町営業所にいる時間自体短いものであるうえ、右長町営業所においても訴外美智枝は訴外圭輔の行動を十分監視していた。
(四) 本件事故の際も、訴外美智枝は原告から約二メートル離れたところで、訴外圭輔の行動を見守っていた。
(五) 原告の坐っていた椅子にはキャスターが付いており、訴外圭輔もこれを動かすことができたが、このことをもって、同児の手の届くところに右のような椅子を置いておくことが、周囲の者にとって危険であるといえないばかりか、本件事故はたまたま同児が原告の椅子を動かし、原告がそれに気付かず腰掛けようとしたために発生したものと認められはするものの、もとより同児が原告を転倒せしめることを意図して行なったものではない。
3 以上において検討した幼児の運動能力、訴外圭輔の営業所内における行動状況、訴外美智枝の監督状況、本件事故時の状況等に鑑みれば、被告会社において、本件事故を通常予見することが可能であったとは認め難いものであり、また、仮に予見できたとしても、万一の事故防止のため幼児の行動を監視すべきはその保護者である幼児の母親なのであり、その母親がそばにいる状況下で、被告会社に幼児の行動についての監視義務があったなどと認めることはできないものである。
従って、本件事故について被告会社に債務不履行責任があったと認めることはできない。
四よって、その余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官磯部喬 裁判官遠藤きみ 裁判官石井浩)
別紙<省略>