仙台高等裁判所 平成12年(ラ)60号 決定 2000年6月22日
抗告人 X
相手方 Y1
Y2
事件本人 A
主文
1 原審第1事件(山形家庭裁判所平成11年(家)第212号)について
原審判の主文第1項を取り消す。
相手方らの本件申立てを却下する。
申立費用及び抗告費用は相手方らの負担とする。
2 原審第2事件(山形家庭裁判所平成12年(家)第64号)について
本件抗告を棄却する。
抗告費用は抗告人の負担とする。
理由
第1 本件抗告の趣旨は、原審判を取り消し、本件を山形家庭裁判所に差し戻すとの裁判を求めるというものであり、その理由は別紙記載のとおりである。
第2 本件各申立ての趣旨等は、原審判の理由第1に記載のとおりであるから、これを引用する。
第3 当裁判所の判断
1 原審第1事件について
当裁判所は、相手方らの本件申立ては不適法であるから、これを却下すべきものと判断する。その理由は、以下のとおりである。
(1) 相手方らが事件本人につき監護者指定の申立てをするに至った経緯等については、原審判の理由第2の1に記載のとおりである。すなわち、抗告人は平成5年○月○日事件本人を出産したが、当時、生活状況が不安定であったことなどから、a児童相談所と協議し、事件本人はb託児園(乳児院)に入園措置となった。事件本人の父はBであり、抗告人は同人と重婚的内縁関係にあったが、同人は事件本人を認知していない。事件本人は平成6年2月1日、大阪府c子ども家庭センター(当時は大阪府c1児童相談所)にケース移管され、同センターは平成8年8月5日、事件本人を相手方らに里親委託した。なお、抗告人は平成7年4月5日、同センターに対して里親委託承諾書を提出していた。その後、抗告人は平成11年4月ころから事件本人の引取りを強く希望するようになり、同センターは抗告人の生活状況などを調査した上、里親委託を解除すべきものと判断したが、相手方らが事件本人の監護養育の継続を希望したため、引渡しの方向での調整は困難となった。そこで、同センターは、同年4月30日付けで相手方への里親委託を解除し、引取りへの調整のため、事件本人につき一時保護の措置(児童福祉法33条)を採るとともに、一時保護先として相手方らに事件本人を委託した。このような経過において、相手方らは平成11年6月15日、事件本人の監護者を相手方らと定めることを求めて原審第1事件の申立てをし、これに対し、抗告人は同年11月16日、事件本人の引渡しを求めて原審第2事件の申立てをしたものである。
(2) 民法766条1項は、父母が協議上の離婚をするときは、その協議により子の監護者を定めるものとし、協議が調わないとき又協議をすることができないときは家庭裁判所がこれを定めるものとし(子の監護者を変更するときも同様である。同条2項)、同条は、裁判上の離婚(771条)、婚姻の取消し(749条)、父の認知(788条)の場合に準用されている。そして、家事審判法9条1項乙類4号は上記各規定による子の監護者の指定を家庭裁判所の審判事項としているところ、家庭裁判所に対して子の監護者の指定の審判の申立てをすることができる者が協議の当事者である父又は母であることはいうまでもない。父母の協護が調わないとき又は協議をすることができないときは、家庭裁判所は、いわば父母に代わって子の監護者を定めるのである。
前記認定事実によれば、本件の場合、抗告人は事件本人の母であり、その親権者であるが、事件本人の父と婚姻することなく事件本人を出産し、その父は事件本人を認知していない。このような場合に、家庭裁判所が親権者と別に子の監護者を定め得るものとする規定は民法上存在しない。もとより、第三者である相手方らにその指定の申立権はない。原審は、本件については民法766条の規定の趣旨を類推し、事実上の監護者である相手方らに子の監護者の指定の申立権を認め、家庭裁判所の審判事項として審理することができると解すべき旨をいうが、家庭裁判所が子の監護者を定めるべきものとされている趣旨は前記のとおりであって、本件については、上記規定を類推適用する基礎を欠くものといわなければならない。すなわち、本件の場合、抗告人の有する親権から監護権を分離することはできないというべきである。そうすると、相手方らの本件申立ては不適法であるから、却下を免れない。本件抗告は理由がある。
なお、児童福祉法28条は、都道府県は、保護者に児童を監護させることが著しくその福祉を害する場合には、親権者の意に反するときでも、家庭裁判所の承認を得て里親委託等の措置を採ることができる旨を定めているから、そのような場合には上記の措置が採られるべきであり、また、民法834条所定の要件がある場合には、親権喪失の宣告の申立てがされるべきである。
2 原審第2事件について
当裁判所も、抗告人の本件申立ては不適法であるからこれを却下すべきものと判断するが、その理由は、原審判の理由説示(第2の1及び2。ただし、9頁9行目の「いわざるを得ない」まで)のとおりであるから、これを引用する。
3 以上のとおりであって、原審第1事件の申立ては不適法であるから、原審判の主文第1項を取り消して相手方らの本件申立てを却下することとし、原審第2事件に関する原審判は相当であり、本件抗告は理由がないので棄却することとし、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 大内俊身 裁判官 吉田徹 比佐和枝)
(別紙)
抗告理由
1 原審判は事件本人の親権者である抗告人の母親としての立場を十分に考慮することなく、事件本人の福祉を必要以上に、また一面的に強調して、結局、被抗告人が事件本人を親として育てたいという願望を満たす結論を導いているが、その結果実母である抗告人の我が子と生活をともにし愛情を注いで養育したいという悲痛な叫びを軽視する内容となっている。
2 民法の大原則は親権者が子の監護権を有するとするものであり、例外的に父母が離婚する場合は親権者と別に一方の監護権者と定めうるとしている(民法820条、同766条)。
確かに民法766条2項をもとに、父母以外の第三者にも監護権を認める考え方があるが、親権を有する親が、監護権を行使するという民法820条の大原則に反するものであってはならない。
民法が父母に親権及び監護権を認める理由は、親子結合体の本質として「未成熟の子を哺育、監護、教育することを機能とする親と子の間の結合である」(我妻栄、法律学全集「親族法」)と捉えているからである。親と子の関係は世の中で唯一無二のものであり、親が子供に対して無償の愛情を注ぎ、子供がその愛情の中で育っていくというところに本質がある。このため、父母には親権者、監護権者として単に権利だけでなく、重い義務も課しているが、親子の間においては、通例、親権は義務として意識されずに子に対する無償の愛情の行使として行われているのである。このようにしてこそ子の円満な人格の発展が可能になるのである。
このような親と子の関係は、他のものをもっては代えがたいものである。子供の福祉は親と子の結合体にこそ存するのである。このような親子の結合体は、父母の離婚の場合を除き、特別な事情のない限り切り離されることがあってはならないのである。
3 本件の問題は、抗告人が平成5年○月○日、事件本人を出産した際、抗告人の許で事件本人を育てる条件が十分ではなかったことと及び、よく事情のわからなかった抗告人が周りの勧めもあり、一時乳児院に預かってもらうという気持ちで預けたことに端を発したのである。
抗告人は、事件本人を預けた後、事件本人をいつも引き取りたいとの思いで、児童相談所に対して何度も申し出ていたが、児童相談所の方は「一度話合いをしよう」と回答するだけで、まともに抗告人の要求に応えようとせず、その内に児童相談所は事件本人の所在さえ教えなくなり、引取ができないまま日時を経過したのである。
4 その間、児童相談所から養子縁組の話が出されたことがあるが、抗告人は事件本人を手放す気持ちは全くなく、反対に引取を希望し、その話を断っていた。
また児童相談所から里親の話が出されたが、この話についても抗告人はあまり乗り気ではなかったが、一時的なことであるとの説明を受け、これには結局応じることになった。しかし、この時も里親が誰であるとか、里親の住所は全く教えられることがなかった。
さらに里親に委託した後も、児童相談所は、抗告人と事件本人が親子として親しみを失わせないようにするため、定期的に会わせることもしなかった。
他方、里親の方は、児童相談所とどのような話をしていたのかわからないが、里親という立場を弁えずに、実の親であるかのような養育を事件本人に対して行っていたものと推察される。
いずれにしても、抗告人は子供を預けた後、親としての立場は認められず、着々と子供を手放すようにさせられていたというのが正しいのである。
5 抗告人は事件本人の引取を終始児童相談所に申し出ていたが、児童相談所は一向に応えることなく、これに対して抗告人がやむなく平成11年初め頃、必死になって引取を求めると、児童相談所は、それ以上里親への委託ができなくなり、引取への調整を理由として事件本人につき一時保護措置を執るとともに、一時保護先として被抗告人らに事件本人の委託を行った。
抗告人は、児童相談所が事件本人の所在を一切教えようとはしないので、仕方なく、代理人弁護士Cに依頼して、児童相談所に厳しく所在を明らかにするよう求めたところ、児童相談所ははじめて事件本人の所在を教えるに至った経過もある。
このようにして、児童相談所は、抗告人の再三の引取の意向を無視した上、それ以上引取の意向を無視できなくなったところで一時保護措置という手段をとったが、これは実親の正当な要求を無視するものであるとともに、里親が事件本人を養育したいという要求を満たすのが主たる目的と考えられる措置であり、後に詳しく述べるように、権限を濫用したものということができるのである。
6イ 原審判は、民法766条を引用して、親の離婚に当り、子の福祉に鑑み、親権関係と監護関係の分離が必要である場合には、親の協議又は家庭裁判所の審判により監護者の指定を可能にするとした上で、本件では被抗告人が里親委託開始より3年7ヵ月の期間監護状態を継続した事実をもとに、被抗告人の監護権が認められるとしたが、以上に述べる通り、原審判は民法766条の解釈適用を誤るものであるとともに、里親の本質を誤解したものであり正しくない。
ロ (民法766条の解釈適用を誤っているという点について)
民法766条1項は、原審判も指摘するように親の離婚にあたり、親権者と監護権者が別に定められることがあることを規定するものであるが、本件では親は離婚しておらず、事件本人の出生より現在に至るまで抗告人が一貫して母として親権を有しており、本条の適用対象ではないのである。
なお、民法766条2項に関して、父母以外の第三者を監護権者として指定できるかどうかの問題があるが、本条の2項はあくまで1項を受けての規定であることを考えると、2項の解釈についても、原則として、父母が離婚している場合に、父又は母が他方に監護権者を変更する場合の規定として捉えるべきである。父母が離婚していないにも拘らず、2項をもとに第三者を監護権者としうるのはごく特別な場合に限定すべきである。即ち、父又は母が子供に対する愛情が欠けるなどして、子供を養育するのが著しく不適当な場合に限定すべきである。本件ではこのような事情は全くなく、このような場合、第三者である被抗告人らに監護権を認めるのは民法820条及び同766条の趣旨に反することになるのである。
なお、先例によると夫婦関係が破綻して別居状態にある時も、民法766条の類推適用が、あるとされているが、本件はこのような場合にも該当していないのであり、同条の適用の余地はないのである。
ハ (里親の本質を誤解したものである点について)
原審判は、里親制度があくまでも、委託期間だけのものであり、委託期間が終了したあとは実親に戻す必要がある事実を十分に考慮していない。
本件では、抗告人は、かなり以前より再三児童相談所に対して事件本人の引取を要望していたが、児童相談所はその願いを聞き入れようとはせず、事件本人の所在や里親の住所、氏名を教えようともしなかった。そして、平成11年4月30日には引取要求をそれ以上拒絶できないとなると、今度は法の趣旨に反して、里親委託を解除して、一等保護措置に切替え、あくまでも里親での養育を維持しようとした。
児童相談所の行った一時保護措置が権限の濫用であることは、以下に述べる通りである。
即ち、緊急保護が行われるのは
<1> 棄児や家出をした児童などで、現に適当な保護者や宿所がないため、その児童を緊急に保護する必要のあるとき。
<2> 虐待や放任などにより、その児童を保護者が一時的に引き離して保護する必要のあるとき。
<3> 児童の自己又は他人の生命、身体、財産などを害し、もしくはするおそれのあるとき
とされているが、本件ではそのいずれにも該当しないのはいうまでもないことであり、児童相談所の権限濫用は明らかである。この濫用行為により、抗告人は、母として子と一緒に住み、親子共同生活を営み、その中で子供の養育を行うという母親としての当然の基本的な権利を妨げられるとともに、里親たる被抗告人は里親制度の趣旨に反して、実親を排除して事件本人を我が子として育てる実績を作ることに資することになったのである。
また一時保護措置として、適当な者に一時保護委託をすることもできるとされているが、一時保護の本来の目的からいって、一時保護の委託は例外的な場合のみ認められるのであり、委託先は、警察署、福祉事務所、施設、その他児童福祉に深い知識と経験を有する者に限定されるべきであるが、本件では以上のような資格を有しない里親に委託をするものであり、単に里親の要求を満たすためのものでしかないのであり、一時保護制度が濫用されている事実がよくわかるのである。
さらに、一時保護委託は必要最小限の期間に限られるべきであるとされているが、本件では一年もの長期に及んでおり、一時保護が単に里親の要求を満足するためだけに行われたものであることが明らかとなっているのである。
以上のようにして、児童相談所の一時保護は、児童相談所が権限を濫用して行ったものであり、その間、抗告人は事件本人を引取を拒絶され、親と子が一緒に生活をする機会を奪われたのである。
原判決は、このような経過を十分に捉えて、結論を下すべきであったが、長年、抗告人が事件本人の引取要求をしている事実、里親は実親が望めば里子を返さなければならない事実、児童相談所の行った一時保護の違法性を十分に考慮することなく、近視眼的に事件本人のためになるという理由により、被抗告人の監護権を認めたが不適当極まりないのである。
7 イ 子の福祉は、親と子が毎日生活をともにし、親が子の成長を愛情もって見守るなかに存するのであり、それ以外の何物でもないのである。永い間引き離されていた本件では、事件本人が母親のもとで生活をするには、一時期不安も伴うことはあるかもしれないが、それはやむを得ないことであり、親子の愛情があれば、十分に乗り切ってゆけるのである。
これまで抗告人は再三引き取りたいという希望を児童相談所に対して述べてきたが、その間、児童相談所は、仮にすぐに引取ができない事情があったにせよ、親と子の面会を十分に行い、将来の引取に備えるべきであったが、このような努力を行うことなく、その反対に事件本人や里親の所在さえも教えず、親と子の引き離しに努めてきているのである。このような状態で、親と子の間に一時期、普通の親と子にみられる親密さが欠けたとしても何ら不思議なことはないのである。長期間子の所在を教えないようにしてきた児童相談所のやり方がこのような親と子の関係を作ってきたものであり、抗告人には何の責任もないのである。
ロ 被抗告人に監護権を認めることは今後も親と子の断絶を固定することにつながるが、このようなことは決して子の福祉になるとは考えられないのである。抗告人の方に子に対する愛情が欠けているならばともかくも、抗告人は事件本人に深い愛情をもっており、ともに生活をし、事件本人の成長を見守りたいのであり、このような親の立場を否定しては親の人権を侵害するだけでなく、事件本人の福祉にもつながらないのである。
原審判は、特別養子縁組を前提として事件本人を里子にしたというが、抗告人は一度も養子縁組を承諾したことはなく、にも拘らず、もし児童相談所が養子縁組を前提にして里親委託をしたのであれば、この点についても、実親たる抗告人の人権を無視したものであり、事件本人の福祉にも反する行為であったといえるのである。里親たる被抗告人においても、養子縁組をしたい気でいたのかもしれないが、実親の真意を確認しないで、養子縁組を前提に里親となったのであれば里親の趣旨を逸脱するものであり、結局、事件本人の福祉にも反することになるのである。
8 イ 以上のようにして、父母が離婚もしておらず、また夫婦関係が破綻し、別居状況にもない本件においては民法766条の適用の余地はないものと思料するが、以下原審判が、事件本人を相手方に引き渡すことが「明らかに事件本人の福祉に反する結果となる」と判断している部分について述べる。
ロ 原審判が、上記判断をしている理由として以下のものがある。
<1> 事件本人は抗告人が母であるという認識はなく、心理的な親は被抗告人であり、被抗告人と生活したいと思っている。このような状態で抗告人に引き渡すと、一時的にせよ、両親を喪失するのと同様の心理状況になる。
<2> 事件本人は3年7ヵ月間にわたり、東北地方の農村部で生活してきたが、突如大阪という大都会に住むことは生活環境を大きく変えることになる。そのような環境の中で抗告人と親子という心理的親子関係を築き上げる必要が生じる。
<3> 抗告人は手のかかる乳児がおり、全面的に事件本人の養育に時間をかけることはできない。
以上から、事件本人には精神的負担がかかり、明らかに事件本人の福祉に反するというものである。
しかし、いずれも、親子の本質をわきまえずに、目先のことだけをみた判断であり、これから十数年にわたって事件本人が成長していく過程において、母のもとで生活できるか否かという事実から比べると、それほど重大な理由ではなく、むしろ、ここで親子の共同生活を否定する方が事件本人の福祉に反するものである。また百歩譲って、抗告人に事件本人を渡すのにおいて何らかの問題があるとしても、以上のような理由では「明らかに事件本人の福祉に反する」とはいえないのである。
以下各々の点について述べていく。
ハ i (<1>について)
これまで3年半余り、里親や児童相談所が抗告人を母であるとして、事件本人に教育せず、事件本人と母の面会の機会を頻繁に持ってきていない場合、幼い事件本人が被抗告人を親と思ったとしても、何ら不思議はないのである。それよりも、自分の本当の母が抗告人であることをもし事件本人が自覚していないのであればそのような養育こそ問題があったのである。今後も当然事件本人にとって、抗告人がこの世で唯一の母であるという事実は隠しようのないことであり、原審判は被抗告人を監護者とすることにより、抗告人と事件本人の親と子の共同生活の必要性について真剣な検討を行っているとは考えがたいのである。今はなついていなくても、母が子に対して愛情を有している限り、共同生活をともにすれば間もなく事件本人も自然に母になついていくものである。
今まで抗告人の意思に反して、事件本人と長期間引き離しておきながら、その結果、事件本人が抗告人になついていないという事情を重視するのは、あまりにも目先に捉われたものであるとともに、母に対して酷な考え方である。また今後の母と子の無限の可能性に目を塞ぐものであるとともに、抗告人に対する公正な見方でないし、ひいては事件本人の福祉にも反するものである。
ii (<2>について)
確かに農村部分と都会との環境に差があるのは事実であるが、原審判はこの事実を強調しすぎている。テレビもなく交通の発達していない時代ならばともかく、現代では、どこにいても共通のニュースを見、娯楽を楽しみ、考え方も同じようになり地域性が失われていく中で、このようなわずかな環境の差が親子の共同生活を妨げる事実になるのであろうか。全く理由になっていない。
原審判は、事件本人がこれまで交流を妨げられてきた抗告人と共同生活をするのにおいて、なんらかの戸惑いがあるのは事実であるが、新しい環境で新しい生活を始めることは人生につきものであり、マイナスに考える必要は全くないのである。それよりも、本当の母と愛情あふれた共同生活を始められることを考慮すると、原審判のように否定的な見方をする必要は全くないのである。
子供の順応性は大人の考えるより遙かに進んでいるのである。環境の差などといっていると、農村の人が都会に出て生活をしたり、さらに海外で生活など一切できなくなるのであり、原審判の考え方は物事を固定的に、且つ否定的にみようとするものであり正しくない。
iii (<3>について)
一人の母親が乳児と事件本人位の児童を育てることは全く世間でも一般にみられるものである。原審判は「全面的に事件本人の養育には時間をかけること困難」というが、小学生になると学校はあるし、友達との遊びや習い事も出てくるのであり、親が「全面的に」子供をみる必要など全くないのである。毎日食事をともにし、学校に送ってやり、帰宅を待って学校の話を聞いてやれば十分なのである。原審判は「全面的」といって何を考えているのであろうか。
抗告人は、事件本人に弟ができることを大変良いことと思って、その面からも是非手許で育てたいと思っている。子供にとって兄弟がいることはどれほど子供の福祉につながるのか原審判は全く考慮していない。
ニ 以上のようにして原審判が事件本人の福祉に反するとして掲げる理由は、母と子が共同生活を妨げる理由とは殆んどならないものである。最も重要なのは母が子に対して愛情を持っているか否かである。この点については原審判も正しく判断しているが、原審判の掲げる理由は母の愛情がある状況で母と子の共同生活を妨げる理由には全くならないのである。
9 以上より、原審判は取り消されるべきである。
以上