仙台高等裁判所 昭和46年(お)1号 判決 1977年2月15日
再審請求人 那須隆
主文
原判決中殺人の点に関する本件控訴を棄却する。
仙台高等裁判所が昭和二七年五月三一日被告人に対し言渡した確定判決中銃砲等所持禁止令違反の罪につき、被告人を罰金五、〇〇〇円に処する。
原審未決勾留日数中その一日を金一、〇〇〇円に換算して右罰金額に満つるまでの分をその刑に算入する。
理由
(理由目次)
(控訴趣意と当裁判所の判断)
第一、被告人を犯人と主張する検察官の挙示証拠についての検討
一、直接証拠についての考察
(一) 海軍用開襟白シヤツ附着の血痕について
(二) 白ズツク靴の血痕について
(三) 被告人方周辺の血痕について
(四) 被害者の実母大沢信江の供述について
(五) 乳井節の証言について
二、状況証拠についての考察
(一) 目撃者について
(二) 凶器について
(三) 被告人の変態性慾的傾向について
(四) 本件発生前後の被告人の言動について
(五) アリバイの供述について
(六) 西田留藏に対する供述について
三、まとめ
第二、真犯人を名乗り出た滝谷福松の供述についての検討
一、滝谷の供述
二、右供述についての検討
1 離座敷(犯行現場)および就寝の状況と供述の関係
2 東側窓からの見透しと供述の関係
3 引き戸の施錠と供述の関係
4 縁側の巾員と供述の関係
5 本件凶行および潜り戸のところまでの逃走の状況
6 逃走経路と供述の関係
7 被告人方周辺の血痕と供述の関係
8 その他の状況と供述の関係
三、本件告白の経緯についての検討
四、まとめ
第三、結語
(本件と併合罪の関係にある罪の刑を定める裁判)
(用語例)
一、「原審」「原一審」-青森地方裁判所弘前支部
一、「原二審」-確定判決をした仙台高等裁判所
一、「棄却審」-再審請求棄却決定をした仙台高等裁判所
一、「異議審」-再審開始決定をした仙台高等裁判所
(控訴趣意と当裁判所の判断)
本件控訴の趣意は、仙台高等検察庁検察官検事吉岡述直が差出した昭和二六年四月一七日付青森地方検察庁弘前支部検察官検事沖中益太作成名義の控訴趣意書ならびに同年六月一九日付仙台高等検察庁検察官検事吉岡述直作成名義の控訴趣意要旨(但し銃砲等所持禁止令違反の点を除く。)、および昭和五一年九月二五日付同検察庁検察官検事宮沢源造作成名義の意見書に記載してあるとおりであるから、これを引用し、これに対し当裁判所は次のとおり判断する。
殺人の点に関する事実誤認、理由不備の主張について。
所論は本件が殺人事件であることは証拠上明らかであり、その犯人が被告人であることは、以下挙示する各証拠によつて明白である。即ち直接証拠として、(1) 被告人が本件発生当時着用していた海軍用開襟白シヤツに被害者松永すず子の血液型と同じB、M、Q、E型の血痕が附着しており、被告人の血液型はB、M、q型である。(2) 被告人がその頃常に履いていた白ズツク靴に噴出飛散したと思われるB型の人血痕が附着している。(3) 被害者松永すず子の居宅である高杉隆治邸内より同家大門出入口附近、その前の道路上、溝江信政方前道路上を経て木村産業研究所前道路に至るまでB型の人血痕があり、更に被告人方隣家の斉藤みよ方小門内外、同人方玄関前敷石上にもB型の人血痕、右斉藤みよ方と被告人方との境界垣根の笹の葉に人血痕が附着しているが、これらの人血痕は犯人が逃走の際犯人自身からか或は犯人の携行した物件から血液が滴下して生じたものと考えられる。尚警察犬も高杉隆治方邸内より血痕のある道路を進み、斉藤みよ方近くまで行つている。(4) 被害者の実母大沢信江のみた犯人は被告人に酷似している。(5) 弘前市在府町乳井節は本件の発生した昭和二四年八月六日夜同人方居宅において白いシヤツを着た男が同人方前道路上を木村産業研究所から斉藤みよ方の方へ駈けてゆくのを現認している。更に状況証拠として、(1) 本件の発生した日の夜被害者宅附近で被告人に似た、被告人の歩き方に酷似した男に出会つているものが数人おり、本件発生の翌朝の被告人の行動には不可解なものがある。(2) 凶器は大型ナイフと思われるが、そのようなナイフを被告人が所持していたのをみた証人がおるにも拘らず被告人はこれを否定している。(3) 本件は変態性慾者の犯行と思われるが、被告人にはその傾向が認められる。(4) 本件発生以後被告人の友人に接する態度に変化が現われ、犯人でなければ判らないようなことをよく知つており、また和術を心得紙一枚で証拠を残さず人を殺すことができると友人に話している。(5) 被告人のアリバイに関し被告人自身およびその家族の供述は全く支離滅裂である。(6) 本件発生後満一か月目の昭和二四年九月六日被告人は巡査部長西田留藏に対し悲愴な顔をして今晩だけは何も聞いてくれるなといつている。以上のように直接証拠、状況証拠が揃つており、本件が被告人の犯行であることは証拠上明白であるにも拘らず、原判決が単に「公訴事実中殺人の点については、その証明十分ならず結局犯罪の証明なきに帰するを以て」という理由のみで無罪の言渡しをしたのは、明らかに事実を誤認したものであり、かつ判決に理由を附さない違法を犯したものというべく、また真犯人を名乗り出た滝谷こと石垣福松の供述は信用できないのであるから被告人の有罪は動かし難く原判決は破棄を免れないというのである。
よつて所論に鑑み、本件一切の証拠を総合して検討考察するに、関係証拠によれば、被害者松永すず子が昭和二四年八月六日午後一一時過ぎ頃弘前市在府町七九番地高杉隆治方離座敷の階下八畳間に実母大沢信江等と枕を並べて就寝熟睡中何者かによつて頸部を鋭利な刃物で一突きに突き刺され死亡するに至つたことは明らかで、本件が殺人事件であることは所論指摘のとおりである。そこで
第一、先づ被告人が右事件の犯人であると主張する検察官のこれを裏付けるものとして挙示する前記各証拠について検討する。
一、直接証拠についての考察
(一) 海軍用開襟白シヤツ(以下本件白シヤツと略称する。)附着の血痕について。
1(イ) 被告人の検察官に対する昭和二四年一〇月二四日付供述調書、原一審証人川村勇治、同那須とみおよび被告人の原一審公判廷における各供述記載ならびに本件白シヤツの存在によれば、本件白シヤツは昭和二〇年中の戦後間もない頃被告人が大湊に赴いた際偶々貰い受けたもので、そのとき既に中古品であり胸の辺りに醤油のこぼれたようなしみがついていて汚いものであつたところ、以後同人において夏に作業用として着用し、本件発生の頃にも着ていたこと、同シヤツは旧海軍兵士用の開襟白シヤツで、その袖の長さは脇下から約四〇センチメートルあり着用した場合その袖口は肘よりかなり先になる所謂「七分袖」であることが認められる。
(ロ) 昭和二四年八月二二日付捜索差押許可状、司法警察員作成の同日付捜索調書、差押調書、原一審検証調書の各記載および原一審証人唐牛勇之助、同那須とみならびに被告人の原一審公判廷における各供述記載によれば、被告人は本件で逮捕された当日である昭和二四年八月二二日には、午前八時頃から本件白シヤツを着て自宅庭の松の木の手入れをしていたところ、警察官から弘前市警察署までくるように言われたため、同シヤツを脱いで被告人方玄関から入つて右側八畳間の東側に接した六畳間の鴨居に打ちつけてあつた衣服掛けにこれを掛けて着替えの上同警察署に出頭したが、その後同日午後四時一五分から一時間にわたつて警察官により家宅捜索がなされ、本件白シヤツが右衣服掛より押収されたこと、同シヤツは普段物置小屋の傘などが置かれている入口のところに掛けてあるもので、松の木の手入れをするときに、これを出して着たものであつたことが認められる。
2 ところで司法警察員作成の昭和二四年一一月一二日付関係書類追送書添付の本件白シヤツの写真三枚、松木明の検察官に対する昭和四八年七月二七日付第一回供述調書、鑑定人北豊および同平嶋侃一共同作成名義の昭和二四年九月一二日付鑑定書、鑑定人三木敏行作成の同年一〇月一九日付鑑定書、鑑定人古畑種基作成の昭和二五年九月二〇日付鑑定書、鑑定人松木明および同間山重雄共同作成名義の昭和二四年一〇月一九日付鑑定書の各記載および原一審証人松木明、同間山重雄ならびに原二審証人平嶋侃一の各供述記載および本件白シヤツの存在を総合すれば、本件白シヤツには右北・平嶋鑑定が着手された昭和二四年八月三〇日当時において褐色斑痕が別紙図面(三)A点に、同年一〇月一五日松木、間山鑑定が着手される直前において赤褐色の斑痕が別紙図面(三)、(四)に示すとおり、その前面におよそ一一箇所(同図面(三)のAからKまでの各点。以下符号で斑痕を示す。)存在していたことが認められる。そして
(イ) A点につき、前記北・平嶋鑑定においてベンチヂン反応試験、ルミノール反応試験ヘモクロモーゲン結晶試験はいずれも陽性の反応を示しかつB型であると判定されている。しかし北豊および平嶋侃一作成の昭和二四年一〇月一九日付報告書によれば、抗人血色素沈降素反応試験は沈降素の沈降価が酷暑に左右されたのか低くなつて疑陽性を呈し、人血とも獣血とも判定できなかつたことが認められ、棄却審証人船尾忠孝の供述記載によれば、かかる場合通常反応は陰性の意味に解すべきであることが認められるので、結局A点は人血反応陰性と解するのが相当である。
(ロ) B、C、D、Eの四点につき、前記松木、間山鑑定において、ピラミドン反応試験、抗人血清、家兎免疫血清反応試験はいずれも陽性の反応を呈し、かつB型であり、さらに右四点のうちB、Cの二点につきいずれもQ型と判定されている。尤も松木明の検察官に対する昭和四八年七月二七日付第一回供述調書の記載によれば、D、Eの二点については前記鑑定において顕著な血液反応があつたと判定されているが、人血反応試験および血液型検査を実施しなかつたことが認められる。また原一審証人松木明の供述記載によれば、左上ポケツト表Gおよび裏Hの各斑痕については陽性の血液反応はみられなかつたが、本件白シヤツの前面全体にわたる各斑痕は、はつきり血痕に類するもので、色彩形状等からおよそ同時期に附着したものと認められる旨供述している。
(ハ) F点につき、前記三木鑑定において「豌豆大の赤褐色」の色調を呈し、Q型であると判定されている。
(ニ) I、J、Kの三点につき、前記古畑鑑定において、E型でありまたMN式血液型検査においてM型と判定されている。なおL点は対照として使用されたことが窺われる。そして右鑑定においてさらに原一審で領置された犯行現場における被害者の血液が流出附着した畳表の血痕と右I、J、Kの斑痕を比較対照し、両者は共に赤褐色を呈し、「血痕の溶解度も殆んど同様抗原性がよく保たれている」とし、半年以上二年以内の附着時期を推定している。
3 ところで、被害者の血液型については前記畳表或は畳床藁の血痕を検査対象として、前記北・平嶋鑑定によれば、B型、M型、前記三木鑑定によればQ型、前記古畑鑑定によれば、B型、M型、E型とそれぞれ判定されたことが認められ、また原一審証人松木明の供述記載によれば、同人においても畳床藁附着の血痕を検査しB型、M型、Q型の判定結果をえていることが認められる。
したがつて以上の各判定結果を総合すれば、被害者の血液型はB、M、Q、E型であることが認められる。
他方被告人の血液型が前記三木鑑定によりB、M、q型と判定されていることは所論指摘のとおりである。
4 してみると本件白シヤツには、B、C、F、I、J、Kの六点の各斑痕において、被告人の血液ではなく被害者松永すず子の血液型と同じB、M、Q、E型の、しかも附着時期において本件犯行時と時期的に矛盾することもないと推定される「赤褐色」の血痕が附着していることが明らかであるというべく、かかる場合前記古畑鑑定によれば、本件白シヤツ附着の血痕と前記畳表附着の血痕が同一人の血液である確率は、ベイーズの定理を応用すれば九八・五パーセントという極めて高い確率をもつて推定されることが認められる。
5 叙上認定の事実を総合すれば本件白シヤツ附着の血痕は、本件凶行の際「噴出」または「迸出」した被害者の血液が附着したのではないかという疑いが極めて強いといわなければならない。
6 しかしながら右推定にはいくつかの疑問点が存在するので、以下その疑問点について考察する。
(1) 先づ前記古畑鑑定によれば、本件白シヤツに附着していた血痕は、前記畳表に流出した被害者の血液と同じ「赤褐色」を呈した血痕であつたというのであるから、被告人は被害者の返り血を浴びた本件白シヤツを、逮捕時までそのままの状態で着用していたことになるのである。しかも被告人はそれを家宅搜索にきた警察官の面前で何ら悪びれることもなく脱ぎ捨て、他の衣類と着替えたうえ警察署に同行していることは前記のとおりである。殺人を犯した犯人がこのような行動に及ぶということは全く考えられない、有りうべからざる行動である。ましてや本件では被告人は凶器を隠匿したこととなつているのである。凶器を隠匿した程のものが、返り血を浴びた本件白シヤツを平然と着用し、警察官の面前にこれを曝すということは、常識では到底考えられることではない。
(2) 次に関係証拠によれば、犯人は寝ている被害者の右側から前かがみにしやがむ姿勢で凶行に及んだことが認められるところ、検死調書ならびに鑑定人木村男也作成の昭和二四年九月三日付鑑定書および鑑定人村上次男作成の昭和二七年一月三一日付鑑定書の各記載によれば、被害者の死因は左総頸動脈の円周の約三分の二の切断(損傷)による失血死であつたが、右損傷をもたらした創傷は、右前頸部から刺入し左方輪状軟骨の上縁を削ぎ、正中に向つて斜め上方に約二〇度の角度をもつて、また右上方から正中を越えて僅微ながら左頸稍下方に向い左後頸部に穿通する刺創で、同刺創は頸部内部において二条の創管をなし、恰かも襲撃が二度の刺突をもつて行われ、まず刃先が喉頭の前または前左に達したときに凶器を完全に抜き終らないうちに再び第二回の刺突が加えられたものと考察されたが、右刺突の順序はこれを決しえない状況であつた。そして木村鑑定人は左総頸動脈の傷口からの血液は非常な速力で恰かも噴水の如く迸出するが、左頸部の傷は僅微ながら上正中方から下側方に傾いているので、血液は直線的の噴出ではなくとも、かなり強い力で左頸に沿い左耳殻およびその後方(即ち敷布団の方向)に向いて流出したものと推定しており、村上鑑定人は、一気に右の創口から左の創口え向つて刺突され左総頸動脈、左頸静脈を傷つけた瞬間を考えれば、動脈よりの血液は同じ場所に出た静脈の血液を伴い「迸出」または「噴出」の形で右の創口に向つて突進する可能性はあるが、凶器が進んで左の創口を作り終えた時は、出血血液の大部分が左の創口から出る可能性がある。次に凶器が抜き去られる経過中に刃先が左総頸動脈や内頸静脈の部を超えて前右へ移つた瞬間を考えると、この瞬間には大部分の血液は左の創口から出ることが考えられ、凶器を抜き去り終つた瞬間には左の創口から大部分の出血があり、右の創口からは大して出血せずにすむことを推定しているので、いずれの場合を考察しても被害者の右側から右頸部を突刺し左頸部に凶器を穿通せしめた犯人の姿勢、体位に鑑み、その犯人の着衣に被害者の血液が「噴出」または「迸出」の状態で飛散附着することはなかつたのではないかと推定される。尤も村上鑑定人は右頸部の創口から少量ながら血液が「噴出」または「迸出」する可能性があることを推定しているけれども、原一審証人大沢信江の供述記載によると、同人は圧迫されるような夢をみて目を覚ましすず子の方をみた瞬間すず子の枕許に前かがみにしやがみ同女を覗きみるようにしていた白い開襟シヤツらしいものを着た若い男の右手が動き何か凶器をきらめかした様子を目撃し、次の瞬間すず子と叫び起き上ると同時にその男は蚊帳をまくり外に逃げ去つた。布団、敷布、畳は血の海になつていたというのであるから、これによると大沢信江は犯人が凶器を引抜いた瞬間右頸部から血液が「噴出」または「迸出」する状況は勿論白開襟シヤツにそれが飛散する状況も認めておらず、出血は専ら左頸部側に向つて流出していたことが窺われることならびに本件白シヤツに認められる前記B、C、F、I、J、Kの六点の斑痕の状況は相互に極めて不規則、不揃いで一見して「噴出」または「迸出」血液の飛散したものが附着したとは到底考えられない不自然な状況にあることが認められる(別紙図面(三)、(四)参照)ので、これらの事実に照らし同鑑定人の右推定は必ずしも前記認定を左右するものではないと判断される。それにも拘らず本件白シヤツに前記六点の「噴出」または「迸出」した血液が附着していたということは極めて疑わしい。
原二審証人古畑種基は裁判長の問に対し「シヤツの血痕は静脈血の噴射の主流によつてできたものとは認められない」と答え、さらに「そうすると凶器についた血液からあれ程の血がしたたると推断できるか」との問に対して「それは仮定が入つているから判らない」と述べており、同証人ですら本件白シヤツ附着の血痕が「噴出」または「迸出」血液により附着したものとは認めていなかつたことが窺われる。
(3) では本件白シヤツには警察でこれを押収した昭和二四年八月二二日当時から前記三木鑑定、古畑鑑定にいう如き「赤褐色」の斑痕が果して附着していたのであろうか。
(イ) 本件白シヤツには被告人がこれを貰い受けてきた当初から胸の辺りに醤油のこぼれたようなしみがついていたことは前記のとおりで、このことは原一審証人那須とみにおいて認確しているところであり、同人はその後何回か右シヤツを洗濯していることが認められる。
(ロ) 原一、二審、棄却審ならびに異議審証人引田一雄、鑑定人引田一雄作成の昭和二四年九月一日付および同月六日付各鑑定書、前記北、平嶋鑑定書、前記松木、間山鑑定書(同年一〇月一九日付)、同年八月二二日付捜索差押許可状、捜索調書、差押調書、同月二三日付捜索調書、差押調書、同月二四日付捜索差押許可状、同月二五日付領置調書の各記載によれば、弘前市警察署では同年八月二二日被告人方より本件白シヤツ一枚、白ズボン一枚、拳銃一挺を、同月二三日には国防色ズボン二着、同ワイシヤツ一枚、白シヤツ六枚、靴下二足、革バンド一本、ノート一冊、小手帳二冊、手紙六五通、名刺五枚、赤皮編上靴一足を、同月二五日には黒ズボン一着、浴衣一枚、革バンド一本、白ズツク靴(運動靴)一足、白運動シヤツ一枚をそれぞれ押収したうえ、同警察署長は当時弘前医科大学ならびに青森医学専門学校で法医学の講座を担当していた引田一雄教授の教室に、これら押収物を行李様の箱に雑然と詰込んで運ばせ、血液の附着したものがあるかどうかの鑑定を依頼した。同教授は北海道帝国大学医学部を卒業し、弘前医科大学に赴任する前台湾の台北帝国大学に在職していた当時「血痕の経時的変色について」と題する研究論文を発表している程の業績をもつ学者であり、本件発生と同時に同警察署より路上血痕の鑑定等を委嘱され、その鑑定に従事していたのである。同教授は行李詰めの前記押収物件を受取り鑑識係員と共に一点一点全部に目を通し、血痕とまではゆかなくとも黒ずんだしみのあるものを引出し、そのうちでも濃い色合いのものから順次ルミノール反応等を試み検査を進めた。その際本件白シヤツについては、肉眼で一応目を通しただけで詳しくは調べなかつたが、左肩から胸にかけて「赤褐色」とは思われない灰色がかつたあせたような黒ずんだ色(帯灰暗色)の斑痕が二、三点あつたのを認めたが、それは本件犯行現場附近の路上から採取した血痕(後記に詳述する)とは色調からして著明に相違したもので、これを血痕とした場合でもずつと古いものと思われるものであつた。ところが引田教授が検査を開始した翌日頃、何ら理由を告げることもなく同警察署では右鑑定物件を全部同教授の手許から引上げ、同年八月二七日国警本部科学捜査研究所の北・平嶋両鑑定人に、このうち本件白シヤツおよび白ズツク靴の二点を取出し血痕鑑定を嘱託して引渡したため、引田教授は本件白シヤツの斑痕についての調査はできず仕舞いに終り、既に検査の完了していた浴衣に認められた褐色斑痕、白ズツク靴、革バンド等に認められた暗色斑痕についてはすべて人血反応を認めることはできない旨の鑑定結果を報告した。ところが同月三〇日鑑定を実施した北・平嶋両鑑定人は、本件白シヤツの左襟の部分別紙図面(三)A点に「血痕様の褐色斑痕」を認め、検査の結果ルミノール反応、ベンチヂン反応共に陽性で、B型の反応を示したが、他の資料からの血痕証明はできなかつた旨鑑定していることが認められる。ところで北・平嶋鑑定における右褐色斑痕が人血とは認められないものであることは前記説示のとおりであるから、以上を総合すると本件白シヤツが引田教授の手を経て北・平嶋鑑定人の手許にあるまでの間それに附着していた斑痕の色合いは、「醤油のこぼれたようなしみ」「帯灰暗色」「褐色」といつたような色合いで表現できる程度のものであつて、本件犯行現場附近の路上から採取した血痕とは色調からして著明に相違したものであつたということができる。
因みに当審において取調べた引田教授の「血痕の経時的変色に就いて」と題する昭和一五年一〇月二一日付発表の論文についてこれをみるに、同人は瀘紙上に家兎血液を一滴滴下したものを多数作り、これらを屋外、室内、暗所の三条件に分けて実験を試みたのであるが、(1) 暗所に置いた場合血痕は略一週間に至るまで変色し、それ以後は九か月後に至るまで暗赤色の色調を持続する、(2) 室内に置いた血痕は九日目乃至一〇日目頃まで変色を続け、その後は埃の影響を受けない限り九か月後に至るまで変色しない、(3) 直接外気に曝した血痕は室内および暗所に置いた血痕に比し速かに変色しかつその黒色の度は最も強い、そして略二週間後に至つて灰白褐色となり、その後漸次灰白色の度を増加する、白木綿附着の家兎血痕の色は約二か月後屋外では灰白色、室内では赤褐色、暗所でも同様赤褐色であることが報告されている。これによれば本件白シヤツに人血が附着していたとすれば、その血痕の色合いは、被告人がこれを本件の発生した後毎日作業用に使用していたとしても押収された昭和二四年八月二二日当時は黒味を帯びた色合いのものであつたと思われ、物置に置いたままの状態であつたとすれば赤褐色の色合いを保つていたと推定される。このような血痕の経時的変色について特別の研究実績をもつ同教授が本件白シヤツ附着の斑痕の色合いについて、右に仮定した「黒色」または「赤褐色」を「帯灰暗色」と誤認するようなことはないと思われる。ましてや前記古畑鑑定にいう本件白シヤツに附着していた血痕は畳表に流出した被害者の血液と同じ「赤褐色」を呈した血痕であつたということを見誤ることはありえない。引田教授が路上血痕と著明に相違していたということは、弘前市警察署における本件白シヤツに対する取扱いの状況即ち本件白シヤツを初日に押収しておりながら、その後も引続き被告人方より白シヤツを数点領置してきていることならびにその際本件白シヤツを押収した他の諸々の証拠物件と共に十把ひとからげにして引田教授のもとに持参した極めて無関心な状況からも十分に推察される。
なお当審において取調べた上野正吉著「犯罪捜査のための法医学」によれば、血痕の色の変化について赤褐色から褐色、帯緑褐色、灰色と変化するが、直射日光に当てないように室内に置くと赤色ないし赤褐色の色は数週ないし月余に亘つて保持され、数年を経て始めて褐色ないし灰褐色となる。ところが弱くても日光に当てると数週で灰色となり、強い日光の照射下では数時間で灰色になると述べられている。これによれば被告人は本件白シヤツを作業用に使用していたのであるから、血痕が附着していたとすれば恐らくその色合いは灰色に変色していた可能性が強い。ところが前記古畑鑑定によれば、本件白シヤツ附着の血痕が「畳の血」と同じ赤褐色であつたというのであるから、本件白シヤツは全く直射日光に当てない室内に終始保存されていたとみなければならず、この点にも解き難い矛盾が感ぜられる。
これを要するに昭和二四年一〇月一九日付松木・間山鑑定ならびに三木鑑定および昭和二五年九月二〇日付古畑鑑定の結果本件白シヤツ附着の血痕が被害者の血液型と同じB・M・Q・E型であつたという結論を導き出した当時の斑痕の色合いと、これを押収した昭和二四年八月二二日当時の斑痕の色合いとの間に色合いの相違が瀝然としていることは疑いなく、この点は大きな疑問としなければならない。本件白シヤツが押収された当時弘前市警察署でこれを見分した当審証人三名は、その色合いの印象を色名帖を参考にして次のとおり述べている。即ち証人今武四郎は灰色がかつた赤紫(ぼたん色がかつたねずみ色)といい、証人山本正太郎は灰色がかつたピンク(赤みのあるねずみ色)と赤みがかつた鈍い紫色(赤ぶどう酒のような色)との間の色といい、証人間山重雄はあかるい紫(藤色)とあかるい赤紫(つつじ色)との間の色かまたはあさい紫(紅藤色)と紫がかつたピンク(薄紅色)との間の色であつたと証言し、三者三様の色合いを供述しているのである。本来同じ色合いの印象であるべき筈のものが、前記色名帖に照らし三者の色合いに濃淡の相違があるということは解せないことである。
このようにみてくると、本件白シヤツにはこれが押収された当時には、もともと血痕は附着していなかつたのではないかという推察が可能となるのであり、そう推察することによつて始めて前記(1) ないし(3) の疑問点即ち被告人が右シヤツを平然と着用していたことも疑問でなくなり、「噴出」または「迸出」血液の附着が不自然であるという疑問点も解消し、色合いの相違という重大な疑問も氷解する。
要するに血痕の附着を前提とする限り叙上の各疑問点を解明する必要があり、この解明ができない以上疑問を止めたままこれを事実認定の証拠に供することは許されず、また確率の適用もその前提を欠き全く無意味となるのであるから、結局本件白シヤツ附着の血痕をもつて被告人の本件犯罪を証明する証拠に供することはできないといわなければならない。
(二) 白ズツク靴(以下本件白靴という)の血痕について
1 司法巡査作成の昭和二四年八月二二日付領置報告書、同日付領置調書、被告人の司法警察員に対する同日付、同月二七日付、同月二八日付、同月二九日付および検察官に対する同月二五日付、同年九月一一日付、同月一四日付、同年一〇月二四日付各供述調書、原一審証人赤平よしえ、同今武四郎、同清藤吉一、同那須とみ、同角田和志郎の各供述記載および本件白靴の存在によれば、次の事実が認められる。
本件白靴は被告人の父資豊が履き古して放置していたものであつたが、被告人はこれを昭和二四年七月上旬頃靴修理業清藤吉一に修理を依頼し、一週間位後に修理を終えて受け取り、以後これを常用し、本件犯行のあつた同年八月六日も履いていた。そして同月二一日午後四時頃弘前市亀ノ甲町一九栗田敦夫方を訪れたときもこれを履いていたのであるが、同日午後九時頃同人方より帰宅しようとしたところ雨が降つていたため、本件白靴を同人方に預けて下駄を借りて帰宅した。同日午後一一時頃警察官今武四郎は栗田方を訪れて本件白靴の紐に血痕らしいものが附着していることを発見し、翌二二日同靴を領置した。その際における本件白靴は、左右両足とも前底は合成ゴム様のものであるが、踵は皮革であり、いずれの踵もその半分位に皮をつぎあてて修理した跡があつた。またいずれの後端にも摩滅を防ぐ鉄片各一箇が打ちつけてあり、また各上部は白色のズツク靴で靴紐を通す金属環が五箇づつ二列に並び、そこに一本の紐が通してあつた。左足の靴の前底で拇指があたる部分には、長径約四・五センチメートル、短径約三センチメートルの惰円形状にゴムが貼りつけて修理されてあつた。
2(イ) 鑑定人引田一雄作成の昭和二四年九月一日付鑑定書の記載によれば、同鑑定は同年八月二四日付弘前市警察署長からの鑑定嘱託に基づき実施されたものであるが、本件白靴の右足紐に附着する小指頭大の褐暗色の斑痕の一部その他斑痕と思われる箇所につきベンチヂン反応試験、ルミノール反応試験を実施したが、すべて陰性であつたことが認められる。
(ロ) 前記北・平嶋鑑定(昭和二四年九月一二日付)によれば、ルミノール反応試験において、本件白靴の紐の通る金属環の部分のみが一様に中等度の螢光を発し、また同部分はベンチヂン反応試験において弱陽性の反応を呈したこと、しかしさらにヘミン結晶ヘモクロモーゲン結晶試験を実施したが、いずれも陰性であり、結局血痕であることを証明することができなかつたことが認められる。そして北・平嶋両名作成の昭和二四年一〇月一九日付報告書によれば、右検査に当り紐や金属環の部分に限らず靴全体について念のため検査した結果もすべて反応がなかつたことが窺われる。
(ハ) ところが鑑定人松木明および間山重雄共同作成の昭和二四年一〇月一九日付鑑定書の記載によれば、別紙図面(五)に示す左足の靴において、水道の水で靴クリームを洗い落す前にア、イ、ウの三点、洗い落した後にあ、い、うの三点の各斑痕を認め、ウ点に人血にしてB型を、う点に人血を、そしてあ、い点に弱い血液反応をそれぞれ認め、右足の靴において、水道の水で靴クリームを洗い落す前にア、イ、ウ、エ、オの五点、洗い落した後あ、い、うの三点の各斑痕を認め、ウ点につき人血を認めたに過ぎなかつた。
(ニ) 前記古畑鑑定(昭和二五年九月二〇日付)によれば、ルミノール反応試験において、いずれの部位においても螢光を発せず血液の附着を証明できなかつたことが認められる。
(ホ) 松木、間山鑑定は、水道の水で洗い落す前の斑痕である左、右両足の靴の各ウの二点につき血液反応のみならず人血であること、さらに左足の靴についてはB型であることまで判定しているのに対し、前記引田鑑定、北・平嶋鑑定は血痕であることの証明すらできなかつたことに鑑みまた前記古畑鑑定の結果に照らし、右松木・間山鑑定はたやすく信を措き難いものがあるといわざるをえない。当審において始めて提出された鑑定人松木明の昭和二四年一〇月四日付鑑定書の記載によれば、靴紐についている斑痕は人血である、靴両底および右靴の上にある斑痕はいずれも血液であるという鑑定結果を出しているが、右鑑定は同年八月二〇日(本件白靴が領置された以前の日付である。)および同年一〇月四日の二回に亘り実施したとあり、血液と思われる各斑痕を切り取り検査したものの如くであるが、それがいつの時点でなされたものか詳らかでなく、右靴の上の斑痕についても切り取り検査したのは右靴の右上側とあるから別紙図面(五)のア点に相当すると思われるのであるが、同鑑定人がその後実施した鑑定では、右靴の人血はウ点のみであつたことは前記説示のとおりで、右鑑定書には日付を始め内容においても矛盾しかつ杜撰な点が多く認められるので前記認定を妨げるものではない。
3 これを要するに本件白靴に附着した斑痕の存在をもつて、本件の罪証に供することはできないことが明らかである。
(三) 被告人方周辺の血痕について
1(イ) 司法警察員作成の昭和二四年八月八日付報告書二通および領置調書二通、鑑識係技手間山重雄作成の同月一八日付「図面作成の件」と題する書面、同「血痕滴跡状況図面作成について」と題する書面(以上二通の書面を以下間山書面二通と略称する。)、被告人の検察官に対する昭和二四年九月一日付供述調書の各記載、原一審証人今武四郎、原一、二審証人斉藤みよの各供述記載によれば、昭和二四年八月八日午後一時頃被告人方東隣りの弘前市在府町二九斉藤みよ方屋敷内の玄関前敷石上に直径一ないし二・四センチメートルの血痕様斑痕六点、同屋敷内の南側(道路寄り)で被告人方寄りにある笹藪の中の笹の葉上に同様斑痕七点、被告人方屋敷内で斉藤みよ方との境界となつているさわらの生垣附近の笹藪の中の笹の葉上に同様斑痕八点が、また同日午後二時頃に斉藤みよ方表門の東側に接する潜り戸の敷居上に同様斑痕二点が発見されたことが認められる。
(ロ) 鑑定人松木明作成の昭和二四年八月三〇日付鑑定書の記載によれば、斉藤みよ方玄関前敷石上の斑痕について、ピラミドン反応試験、抗人血清家兎免疫血清反応試験が共に陽性を呈し、かつB型であることが、また同鑑定人作成の同月一五日付鑑定書の記載によれば、右各笹の葉上の斑痕は、米粒の三分の一位の大きさで、赤褐色を呈し、一葉上に一箇ないし数箇附着していたが、これらは右各反応試験において共に陽性を呈したことが、そしてさらに原一審証人松木明および原二審証人間山重雄の各供述記載によれば、斉藤みよ方潜り戸の敷居上の斑痕は、松木明において検査したところ右各反応試験において陽性を呈したことがそれぞれ認められる。
しかしながら鑑定人古畑種基作成の昭和二六年一〇月一三日付鑑定書の記載によれば、右笹の葉上の血痕様斑痕をとどめている笹の葉一四枚の表裏の各斑痕につき、ベンチヂン、ルミノール各反応試験を試みたところ陰性を呈し血液の附着を証明することができなかつたことが明らかである。
右松木鑑定と古畑鑑定とは時期的に相違するところはあるが、古畑鑑定はさらに笹の葉の特性にも留意し、種々の事例を設定して検討を加えてみたが、右陰性の反応につきなんら疑念を抱くべきところは見出されなかつたことに鑑みると、右笹の葉上の血痕に関する松木鑑定には、たやすく採用し難いものがあるといわざるをえない。
(ハ) 司法警察員作成の昭和二四年八月一〇日付報告書および領置調書、弘前市警察署長作成の同月二〇日付鑑定嘱託書控、鑑定人松木明作成の同月三〇日付鑑定書ならびに前記間山書面二通の各記載によれば昭和二四年八月一〇日午後一時頃被告人方便所附近の石上より直径〇・三センチメートルの血痕様斑痕一点が発見されたが、鑑定の結果右斑痕は血痕でないと判定されたことが認められる。
(ニ) 司法巡査作成の昭和二四年八月一四日付報告書、司法警察員作成の領置調書、弘前市警察署長作成の同日付鑑定嘱託書控、前記間山書面二通、鑑定人松木明作成の昭和二四年八月三〇日付鑑定書の各記載、原一審証人渋谷富三郎、同那須とみ、同松木明、同佐藤正、同佐藤くにおよび原一、二審証人間山重雄の各供述記載によれば、昭和二四年八月一四日午後三時頃捜査中の警察官が被告人方裏より通じる覚仙町佐藤くに方裏出入口附近にあつた漬物石上に小豆粒大の血痕様斑痕一点を発見し、鑑定の結果ピラミドン反応試験、抗人血清家兎免疫血清反応試験は共に陽性を呈し、かつB型と判定されたことが認められる。
(ホ) 以上の検討結果を総合すると、斉藤みよ方屋敷内の玄関前敷石上および被告人方裏より通じる佐藤くに方裏の漬物石上にB型の人血痕が、また斉藤みよ方潜り戸の敷居には人血痕がそれぞれ附着していたことが認められる。
2 ところで他方
(イ) 司法警察員作成の昭和二四年八月七日付報告書および領置調書、前記間山書面二通、弘前市警察署長作成の同日付鑑定嘱託書控、鑑定人引田一雄作成の昭和二四年九月六日付鑑定書、原一、二審検証調書の各記載によれば次の事実が認められる。
本件犯行の翌早朝現場附近の捜査を開始した警察官は、昭和二四年八月七日午前六時頃高杉隆治方敷地内の玄関前附近から表門に至る間の敷石上に五点、同門に接してその北側わきにある潜り戸の道路側から同門前のアスフアルト路上に出て同路上を南方に進み、突き当つて西方に折れた先の在府町溝江信正宅前路上に至る間に一八点の点在する血痕を発見した。これらの血痕はおおよそ大豆大から雀の卵大であつたが、鑑定の結果人血にしてB型と判定された。(別紙図面(一)、(二)参照)
(ロ) 司法警察員作成の昭和二四年八月八日付報告書および領置調書、前記間山書面二通、前記検証調書二通、弘前市警察署長作成の同月一二日付鑑定嘱託書控、鑑定人松木明作成の同月三〇日付鑑定書の各記載および原一審証人横山博、原二審証人間山重雄の各供述記載によれば、次の事実が認められる。
翌八日午前九時頃溝江信正宅前を西方に進み、十字路交差点を北方に行つた先の右側に所在する在府町木村産業研究所の前の電柱附近に直径約一センチメートルの血痕一点が発見され、鑑定の結果人血にしてB型と判定された。
(ハ) ところで被害者松永すず子の血液型がB、M、Q、E型であることは前記説示のとおりであるから、これに右血液滴下の状況ならびに前記古畑鑑定において、高杉隆治方屋敷内から木村産業研究所前に至る間の各血痕は、犯人の歩行にしたがつて、犯人自身或は犯人の携行物件から血液が滴下して生じたものであると認めることができる旨述べている点を総合すれば、叙上説示の路上血痕は、被害者松永すず子の血液に由来するものと認定できると共に犯人の逃走経路を示しているものということができる。
そして本件全証拠によるも、木村産業研究所前から北方にのびかつそののびた先から東西に走る斉藤みよ方ならびに被告人方(ここまでほぼ二〇〇メートルの距離がある。)家屋の所在する道路上の一帯には、血痕らしきものは何一つ発見されなかつたことが明らかである。
3 そこで被告人方周辺より発見された前記血痕と被害者の血液に由来する前記路上血痕との関連性について考察してみるに、若し関連性があると仮定した場合犯人は斉藤みよ方玄関前敷石上に立つてなお六滴の血液を滴下せしめていることになるのであるから、木村産業研究所前から斉藤みよ方までおよそ二〇〇メートルの道路上に、現場から右研究所前までの場合と同様必ずや幾滴かの血液の滴下があつてしかるべきである。しかるにその間には一滴の血痕も発見されなかつたことは前述のとおりであるから、この事実は右仮定を一応否定するに足るものということができる。或は捜査不十分のためまたは通行人に踏み消されたため血痕を発見できなかつたという疑問も考えられないわけではない。しかしそうなれば犯人は斉藤みよ方に六滴、被告人方裏より通じる佐藤くに方裏の漬物石上に一滴それぞれ血液を滴下せしめていることになるので、犯人が斉藤みよ方から境界の生垣を抜けて被告人方に逃走したとしてその境界附近は勿論それとは別の逃走路を選んだとして佐藤くに方裏に至るまでの間には、その周辺に必ずや幾滴かの血痕はあつた筈である。それが斉藤みよ方潜り戸の敷居上に人血痕が発見されたのみで周辺の他の箇所からは一切発見されなかつたということは不可解の一語に尽きる。右認定の諸事情を総合すれば前記関連性はこれを否定するのが相当であり合理的であると判断される。してみると被告人方周辺より発見された血痕は被害者の血液に由来するものとは認め難く、右血痕をもつて本件犯罪の証拠に供することはできないといわなければならない。
なお原二審証人今武四郎、同唐牛哲夫の各供述記載および原二審検証調書の記載によれば、唐牛哲夫は本件発生後警察犬を使つて離座敷東側窓下の草の踏みつけられた跡の臭いを頼りとして二回に亘り犯人の足取りを追跡させたところ、その経路は、東側窓下より北方、次いで西方え進んで離座敷の南西方向に接続して所在する高杉隆治方母屋の西側裏をひと廻りして東方の表門の附近に出ながら、潜り戸を通らずに、南側隣家の木村産業研究所との境に近い生垣を抜けて右表門前の南北に走る道路に出、前記路上血痕滴下のあとを辿つて同研究所前を北方へ直進し丁字路に突き当る少し手前の西側の杉見方空地内に入つて同所の井戸の回わりをめぐつて、元の道路に戻り、右丁字路を西方へ折れて、斉藤みよ方に至る手前で追跡を止めていることが認められる。ところが本件の犯人は高杉隆治方表門側に逃走しており警察犬はそれを外れていることが明らかであるから、警察犬の嗅覚は犯人とは別の嗅いを追つた可能性があり、またそれが斉藤みよ方手前に至つて止まつたことは、同家玄関前敷石上に滴下した血痕との結びつきを寧ろ否定することとなるのであるから右警察犬の追跡には全く証拠価値を認めることはできない。
(四) 被害者の実母大沢信江の供述について、
1 大沢信江の司法警察員に対する昭和二四年八月八日付および検察官に対する同月三一日付各供述調書の各記載、原一審証人高杉隆治、原一、二審証人松永藤雄および同大沢信江の各供述記載によれば次の事実が認められる。
被害者松永すず子(本件当時二十九才)は夫松永藤雄の転勤にしたがつて昭和二二年六月頃から長男(本件当時八才)および長女(同四才)を伴い、高杉隆治方二階離座敷に移り住むようになつたが、すず子の実母大沢信江(当時五九才)は昭和二四年八月一日その居住地の桐生市をたつて翌二日に右被害者方に着き、三日に夫藤雄は長男を連れて所用のため酸ケ湯温泉に約一週間の予定で赴いた。
本件の発生した同月六日は夫がいまだ留守中で、被害者と信江および長女の三名は、入浴後午後一〇時前後頃に離座敷階下八畳の間に蚊帳を吊り、南から順次被害者、長女、信江の順で枕を西、足を東に向けて床についた。そして蚊帳の中央部の上にある二燭光の水色の豆電球はつけたままとし、蚊帳の上に新聞紙二枚を置いて右電球の明りが長女のところだけに差し、信江と被害者のところには来ないようにしていた。そして本件の凶行はその後間もなく発生し、犯人を目撃したのは大沢信江ただ一人であつた。
2 原一審証人大沢信江は、犯行時にみた犯人は被告人に間違いなく、面通しでみたときには、被告人が犯人と全く同じであり、卒倒するように感じたほどであつたと供述する。そして同証人は検察官に対する昭和二四年八月三一日付供述調書において、犯人の横顔と後姿をみている。今でも犯人の横顔や後姿をみればその人が犯人であるかどうかの判断がつくと思うと述べた後、その供述の日と同じ日に中津軽地区警察署写真室の硝子窓から被告人を透視し、犯人とそつくりである、右側からみた横顔の輪郭も全然同一である、頭髪が少しもつれて前に出ている恰好、また後姿、胴の細さ、肩の下つているところも全く同じで、犯人と酷似している、と述べているのである。
3 しかしながら同人は本件犯行後間もない頃に作成された司法警察員に対する昭和二四年八月八日付供述調書では、その晩は寝るとき二燭光の小さな電気をつけていたので、娘を殺した犯人の顔は殆んどみなかつたが、服装だけは大体みえたと述べているのであつて、これによると同人は結局犯人の輪郭から受けた印象をもつて被告人を観察したに過ぎないことが認められる。それでいながらかくまでに断定的なことを供述するというのは、被告人が容疑者として検挙された以後における同人に対する憎しみが強く働き、先入感に大きく左右された疑いが極めて濃厚であるといわなければならない。したがつて右証人の証言をもつて本件犯罪の証拠に供することは合理性に乏しく、かつ危険である。
(五) 乳井節の証言について
弘前市在府町五九に居住する原二審証人乳井節が、犯行のあつた昭和二四年八月六日夜一一時過ぎ頃同人方居宅において、白シヤツを着、半ズボンをはいた男が同人方前道路上を木村産業研究所の方から斉藤みよ方の方へ駈けてゆくのを目撃した旨述べていることは所論のとおりであるが、このことは前記路上血痕より推認される犯人の逃走経路からも推察されることであつて、右経路が被告人方周辺の血痕と結びつかない本件では、何ら犯人を特定・立証するに足る証拠となるものではない。
二、次に状況証拠についての考察
(一) 目撃者について
検察官は目撃者として、原一審証人川村としえ、同竹内栄二、同竹内とみ、同澤口健藏、同吉谷寅吉、同佐藤忠司、同小野三郎を挙示しているが、右各証人の供述するところは、その男は内股であつたとか、白シヤツ半ズボンを着て白ズツク靴を履いていたとか、丈は五尺四寸位、肩のなで型の恰好は被告人に似ているとかいう程度であつて、被告人であると特定できるには程遠い状況である。そして被告人が本件の発生した翌日即ち昭和二四年八月七日早朝海藏寺の墓地にきたのを目撃したという原一、二審証人花田よねの証言は、日時の点で記憶が明確でなく、所論のような翌早朝の被告人の行動が不可解であるとする点の証拠になりうるものでない。
(二) 凶器について
鑑定人木村男也作成の鑑定書の記載によれば、本件犯行に使用された刃器は、片刃の鋭利なもので峰の厚さは二、三ミリメートル前後、刃巾は一センチメートルから一・五センチメートル、精々二、三センチメートル位まで、刃渡りは七、八センチメートルから一五センチメートル位と推定していることが認められる。原一審証人小野三郎の供述記載によれば、昭和二三年秋頃菊池方で被告人が大型ナイフをズボンのポケツトから出したのをみたことがあるというのであるが、そのナイフは折込み式で白い細い金属性の鎖がついており、片刃で柄の長さも刃渡りと同じ位か、それよりも長い位で、刃巾は一・五センチメートル位、非常に切れそうであつて、罐切りなどがついているような恰好のもので大変に立派なものであつたというのである。また原一審証人高橋ヤナは、昭和二〇年頃被告人が大型ナイフを持つているのをみたが、それは畳んであつて長さは四寸位、罐切りなどがついていたようで、柄の木部は焦茶色、木部の上の金属部分は錆びていたが、端の方に鎖がついていたと供述し、原一審証人船水快彦は、昭和二〇年一一月頃被告人が折込み式のナイフを持つているのをみたが、それは片刃で刃の先端は丸味を帯び、その切先きから柄のつけ根までの長さは約三寸五分ないし四寸位、刃巾は約八分、ビールの栓抜きもついていたが相当錆びていて特に良いものとは思わなかつたと供述し、被告人が前記推定の刃渡り、刃巾に副う折込み式ナイフを所持していたのをみた証人のいることは所論のとおりである。しかし被告人の司法警察員に対する昭和二四年九月七日付、同月八日付、検察官に対する同月一九日付、同月二七日付、同月二九日付および同年一〇月一日付各供述調書の記載によれば、被告人は捜査官に対する取調において、大型ナイフを持つていたことはないこと、しかし妹芳子から昭和二三年五、六月頃貰つた折込み式のナイフを持つていたことはあるが、それは同女が弘前の師団司令部の参謀長の給仕をしている時に参謀長から貰つたもので立派なものである旨述べているのであつて、被告人は別に検察官が主張するように証人のみたナイフの所持を全面的に否定していたわけではない。
(三) 被告人の変態性慾的傾向について
検察官は、本件が変態性慾者の犯行であるという仮説を立てているのであるが、この仮説自体合理性に乏しい。被告人の司法警察員に対する昭和二四年八月二三日付、同月三一日付、同年一〇月一三日付、および検察官に対する同月一四日付各供述調書の記載、原一審証人小野三郎、同船水快彦、同今井正二、同那須とみ、同那須資豊、同石戸谷みほ、同角田和志郎の各供述記載によれば、被告人は弘前市に所在する東奥義塾中学に在学中はそれ程目立つことのない、おとなしい生徒であつて、昭和一八年三月同校を卒業した後一時満洲国興安総省に開拓団の経理指導員として赴いたが程なく帰国し、昭和二〇年五月頃青森県通信警察官を拝命したものの仕事としては専ら電話工事に従事していたため、司法警察官を強く希望して昭和二一年三月三一日付で右通信警察官を依願退職し、警察官の募集を待ちつつ、林檎店の事務員や種苗店の外交員などを勤めていたが、昭和二三年夏頃から本件により逮捕されるまでの間は定職がなく、自宅において耕作、掃除など家事の手伝いに従事していたもので、およそ被告人の知人、友人、雇主、近隣の者やその家族らが被告人について語るところは、真面目、努力型、仕事熱心であり、また温順で親切で近所の世話をよくしてくれる、頭脳は明晰であり、博学であるが、自説を曲げない強情さや勝気な一面がある、金銭に関しては不正はなく、強情さがなければ模範的であるというのである。そして被告人の精神鑑定をした原二審鑑定人石橋俊実の鑑定書の記載によれば、被告人が変態性慾者であるという断定は下しえないとしている。右認定の事実に照せば、検察官の仮説が仮に当をえていたとしても、被告人を変態性慾者と認めるべきなんらの傾向も存在しないのであるから、検察官のこの点の主張は採用の限りでない。尤も原一審鑑定人丸井清泰作成の鑑定書の記載によれば、「表面柔和に見えながら、内心即ち無意識界には残忍性、サデイスムス的傾向を包藏しており、相反性の性格的特徴を顕著に示す」「精神の深層即ち無意識界には、婦人に対する強い興味が鬱積していたものとみることができる」「本件犯行の起つた日時及びその直後における被疑者那須の行動、被害者に対する関係その他被疑者那須の警察官及び検察官に対する供述を検討してみると精神医学者、精神分析学者としての鑑定人は、凡ての事実を各方面から又あらゆる角度から考察し、被疑者那須は少くとも心理学的にみて、本件の真犯人であることの確信に到達するに到つた」としている。しかしながら右判断の資料として考えられるものを検討してみると、原一審証人菊池泰一、鈴木みちゑ、川村礼一郎らの「ねちねちしている」「ねつちりした尻の長い人だ」「現実的でない事を考えている人だと考えられる」「奇抜な思想の持主であるらしく、特に女の話などに就ては『強姦』とか『殺人』とかいう言葉が出たりした」という供述からどうして「残忍性を包藏し」「……猫のような態度がその反動である」といえるのか、また原一審証人大内芳二の「友人が死亡すると那須隆は誰よりも早くそれを知り、花を上げなければならないと友人の間を歩くのは不思議な点であり、偶然にその家に行つて聞いて来るのが一寸解せない位早い」という供述からどうして「偽善的」「博愛主義的傾向」という評価がでてくるのか首肯するに足るものがなく、右大内芳二や元の雇主の供述である「一種の性格破綻者」とか「人によつて都合のよいように言う」とか「極めて陰険かつ狡猾で図太い」とかいうところから「精神における分裂的傾向、両極的相反性傾向、所謂二重人格的傾向等はいずれも相当顕著で」「これらは広義の変質的傾向とみて差支えないものである」としているが、右資料を同鑑定人自身が正しいものとして把握できたとする検討の過程は見当らない。要するに右鑑定書の内容を仔細に検討すれば、個々の資料に対する検討が不徹底で、全般的に独自の推理、偏見、独断が目立ち、鑑定結果に真犯人まで断定するに至つては、鑑定の科学的領域を逸脱したものというべく、かかる鑑定に証拠価値を認める合理的理由は乏しい。
(四) 本件発生前後の被告人の言動について
被告人の司法警察員に対する昭和二四年八月二六日付、同年九月四日付、検察官に対する同月一一日付、同月二七日付各供述調書の記載、原一審証人栗田敦夫、同赤平よしえ、同赤平としえ、同船水快彦、同清藤吉一、同菊池英子の各供述記載によれば、被告人は赤平としえ、清藤吉一、菊池英子等に対し、犯人の侵入、経路、殺害方法を手真似身振りを交えてしきりに話して聞かせたこと、栗田敦夫方には本件発生前は一、二日おきに訪ね、長居して屡々泊つたりしていたが、本件発生後は泊ることもなく、来ても短時間で帰えり、話題は専ら本件殺人のことであつて、前後に相違がみられるということ、また被告人は紙一枚でも人を殺せるとか、人に気付かれないで部屋に入る方法とか、音を立てないで歩く方法とかを話し、また音を立てずに歩いてみせたり、さらに手の平を刀のようにして咽喉を殴れば倒すことができるとか、泥棒はタンスを下の方から開けるとか述べ、空手や忍術の話にも関心を抱いていたことが認められる。しかし被告人は警察官になることを希望していたのであるから本件殺人事件に強い関心を持つことは自然であり、侵入経路や殺害方法は新聞等で知りうる事柄であるから、それを知人に話して聞かせたからといつて何ら異とする程のことではない。また本件のような衝撃的な事件が発生し、一人被告人のみならず、大多数の市民の目が捜査の推移に集中していた折であつてみれば、栗田敦夫に対する被告人の態度に変化がみられたとしても少しも不思議なことではない。その他の点についても被告人の前記各供述調書によれば、これらは本とか人から聞いたことなどの請け売りで、警察官を希望していた被告人として、当時定職がなく時間をもて余していたことが認められるのであるから、紙一枚で証拠を残さず人を殺すことができるといつたような話題に耽り或は実演してみせたりすることがあつても、これをもつて特異な言動とみることもできない。
(五) アリバイの供述について
原一審公判廷における被告人の供述記載によれば、被告人は一貫して犯行当夜は自宅にいたと述べているところ、被告人の司法警察員に対する供述調書二六通、検察官に対する供述調書一二通中アリバイに関する部分の各供述記載によれば「被告人は捜査の当初の段階では、菊池方に将棋を差しに行つたと思うと述べた後は将棋を差しに行つていなければ家にいたという供述をなし、それが昭和二四年八月二二日より同月二六日まで続き、その後同月二七日二八日には、にわかに記憶がないということに変り、その後同月二九日から同年九月一〇日にかけて公園とか映画館に行つていたということに変り、それが、同月一〇日より同年一〇月二四日までの間の検察官の取調に対しては家にいたという供述に戻つていることが認められる。
他方被告人の家族等が捜査官の取調を受けた際述べたところは、原一審における証言として、被告人の父親である那須資豊は、自分は自分の部屋にいて被告人がいたかどうか判らないと述べたと供述し、妹芳子も被告人がいたかどうか判らないと述べたと供述し、母とみは自分は被告人は菊池方へ行つたか或は映画へ行つたかもしれないと述べたが、子供等が交番で取調を受けて戻つてきてからきくと、或る者は被告人は家にいないと答え、或る者は寝ていたと答えてまちまちであつたと供述し、妹綾子は自分は午後九時頃寝たがそのときは被告人は帰つていないと述べたと供述し、妹節子は八月六日の晩のことははつきり判らない、外出していたとしても午後一〇時頃までに家に帰つてきていると述べたと供述し、妹文子は被告人は家にいたと述べたと供述している。即ち本件当夜のアリバイについて、被告人の供述は変転し、家族の供述も区々であることは検察官指摘のとおりである。しかしこのことが直ちに被告人の犯行を裏付けるものと即断することはできない。本件のような重罪事件を惹き起こした犯人であれば寧ろ明確なアリバイを工作するのが一般であると思われる。捜査官のアリバイ追究に対し、被告人の供述が幾変転し、家族の供述も区々であつたということは、事件当夜特に記憶に残ることもなく、平凡な一日を過ごしたため後に至つてその日の行動を思い出せなかつたとみることもできるのであり、また家族相互の供述がまちまちであつたことは、工作らしきものが何一つなかつたことを立証するに余りあることであるから、これらの事実よりすれば寧ろ被告人を始め家人にとつて事件当夜記憶に残る何事もなかつたからだとみることの合理性を窺わせるものがある。
(六) 西田留藏に対する供述について
原一審証人西田留藏の供述記載によれば、同人は「本件発生後満一か月目の晩夕食後一応取調べたいと思い被告人の所へ行くと、被告人は今晩だけは何も聞いてくれるなと言つた。被告人は悲愴な顔をして月を眺め頭を垂れて取調べないように言つた。自分はその時那須が犯人でないか、おそらく良心の呵責から何も聞かないでくれといつたと考えている。」と供述していることが認められる。しかし本件発生後満一か月目の同証人が録取した昭和二四年九月六日付供述調書の記載によると、被告人の供述として「八月六日のことについて、これまで色々嘘を申し上げ誠に申し訳ありません、これから正直に申し上げます。」とある部分に続いて「この時午後八時四五分被疑者は室内から事件発生後一か月犯行当夜の月を眺め全く善に立ち帰つた表情を見せ、今度は謝りますと過去の罪を今此処に自白せんとの態度で本職に申立てた。」と記載されているその後の内容は、右証人が被告人から受けた印象とは全く逆に、八月六日の晩は映画館にいつて午後一〇時過ぎ頃戻つた旨述べて、犯行を否認しているのであつて、右証人の印象は思い違いでしかなかつたことが明らかであるから、同証人の原一審における前記供述部分は問題にならない。
三、まとめ
これを要するに検察官が被告人の本件犯行を立証するものとして挙示した叙上各直接証拠、状況証拠はいずれも被告人の本件犯罪を立証するに足るものでないことが明白であるといわなければならない。身分帳の記載中被告人が本件犯行を認めたような記載部分があるが、右記載の全体を通覧し、併せて当審における被告人の供述を総合すれば、右は被告人が身辺の差し迫つた事情のため仮出獄をにわかに希望した余りの便法に過ぎなかつたことが明らかであるから本件の証拠とはなりえず、他に記録を精査し、本件一切の証拠を検討しても本件が被告人の犯行であることを認めるに足る証拠は何一つ存在しない。
第二、次に真犯人を名乗り出た滝谷こと石垣福松(以下滝谷と略称する)の供述について検討する。
一、滝谷の供述
(一) 滝谷作成の南出一雄弁護士に宛てた昭和四六年六月二四日付、同年七月九日付および同月一一日付各上申書、棄却審証人滝谷(第一、二回)の供述記載、異議審証人滝谷の供述記載、同年六月五日弁護士南出一雄法律事務所において同弁護士ら立会のもとに滝谷の供述を録音したソニーカセツト録音テープ棄却審書記官渡辺達夫作成の昭和四八年一〇月二六日付写真撮影等報告書、棄却審の実施した検証調書の各記載によれば、滝谷の供述するところはおよそ次のとおりである。
1 自分が本件殺人事件の犯行に使用した凶器は、右事件のあつた一〇日位前に、ミシン修理に使う長四角形のヤスリを自宅にある手回しのグラインダーにかけて、片刃で切先を短刀の様に曲げ、これを砥石でさつと研ぎ、柄にはドライバーの丸い柄をつけて作つたものであつた。古いことで記憶ははつきりしないが、刃渡りは約二〇ないし二五センチメートル位、刃巾約三ないし三・五センチメートル、峰の厚さ約〇・三センチメートル位のものであつた。
2 本件犯行当夜の自分の服装は、袖が手首のくるぶしから上約五・五センチメートルまである白色のカツターシヤツを着、黒の長ズボンおよびゴム底で歩いても音がしない黒色のズツク靴を履き、帽子、眼鏡を着用せず、覆面はしなかつた。また当時身長は約一七一ないし一七二センチメートル位、髪の毛をのばし、分けていた。
3 その頃、癖の様になつていたが、当夜も女性にいたずらしようと思つて、午後一一時前頃に家を出て歩き廻つていたところ、いつしか原判示高杉隆治方附近に来たが、そのとき本件犯行の一〇日か二週間位前に高杉方二階でミシンを修理したことがあり、その折二二、三才位の娘が二人いたことを思い出して高杉方に入ることにした。自分は昭和二三年頃からヒロポンを常用していたので頭も普通ではなかつたと思う。
4 高杉方へは表門わきの潜り戸から入つた。潜り戸には錠がなく、そこを通りながら腰のバンドの内側に挾んであつた前記の凶器を取り出し、鞘代りに巻きつけてあつた布切れを取り去つて、これをズボンのポケツトに入れ、凶器を握持してまず表門のほぼ正面(西方)の勝手口に向つたが、それはミシン修理に赴いた際、勝手口から入つたからである。しかし勝手口には錠がかかつていて入れなかつたので裏手へ廻わろうとして表門の方に戻り、東側道路に面した庭の方に来た(別紙図面(一)参照)。
5 すると原判示犯行現場である離座敷の一階東側窓の下に差しかかつたので、同所に生えていた草の上に立ち、爪先立つて座敷の中を覗いてみた。その頃自分の視力は一・五であつたが、部屋の中は薄暗く、右方(北方)はぼやつとしてよくみえなかつたが、三〇秒位覗いているうちに、自分の前方に頭を向う側、足を手前側にして寝ている人(被害者)の頭の部分がみえ、その者が頭の恰好から女と判つた。当時、被害者と会つたこともなく、もとより同女を目あてにして来たわけではなかつた。覗いたときは、窓のガラスを通してであつたかどうかは記憶がない。多分夏だから窓は開いていたのではなかろうかと思う。また部屋に電灯がついていなかつたように思うが、はつきりした記憶はない。覗いたときに蚊帳が吊つてあることに気付いたかどうかも記憶がない。
6 それから同女の身体に触れてみたいと思い(姦淫するまでの意思はなかつた)、南側にまわり、大きな四枚戸位の引き戸のあるところに来て、その東側から二枚目の戸の腰板の部分に手をかけて横に引いたら、錠がかかつておらず開いたので、身体が入る位開けた。右引き戸は下の方が板張り(腰板)で上は硝子が入つていた。引き戸の前には踏み石があつたと思う。引き戸を開けたところ、そこは縁側になつていた。縁側は板敷であつたような気がする。
7 そこで縁側に膝をつけ、左手に凶器をもち、ズツク靴を履いたまま、這うようにして三、四歩進んだら敷居のようなところがあり、そこからすぐ座敷で、蚊帳が吊つてあつた。蚊帳までは障子その他の障害物はなく、すつと行けた。
8 そこで蚊帳の縁側寄りの裾の真中あたりを少し身体が入る位あけて、伏せるようにして中に入つた。一番手前に被害者が寝ていたが、同女の頭の位置は右敷居から約五〇センチメートル北方、西の壁から約一メートル東方の附近であつたと思う。蚊帳に入つた際には、被害者の北隣りに子供が寝ていたことには気が付かなかつたと思う。
9 被害者は上を向いて寝ていた。その服装は記憶がない。自分は同女の首から腰までの間の右横に、右膝は左膝よりやや同女に近づけてしやがみ、同女の上に屈みながら左手で(その頃凶器は自然に右手に持ちかえていた)、同女の乳房のあたりをすつと触れたら、同女が目を覚ましたように、ぐつと動いたように感じたので、咄嗟に気付かれたら大変と思つて右手の凶器で同女ののどをぐつと刺した。刺すときには凶器を逆手に持ち、刃を自分の方に向けていたが、刺した箇所はのどの真中辺かどうかははつきり判らない。ただ、垂直に突き刺したつもりであつたが、同女が左の方(北方)へぐつと首をねじつたので、さらに頸部が切れ、そのときに水が流れるように「ゴボゴボ」というような音がした。
凶器を思い切り刺したところ、止まつてそれ以上刺さらなくなつたし、被害者が首をねじつたとき凶器が全然動かなかつたから、頸部を突き抜けて布団に刺さつたと思う。そして被害者ののどから右の「ゴボゴボ」という音がした瞬間、余りひどいことをしたなと感じ、また同時に子供のかなり大きな泣き声がしたので、隣に子供が居て、被害者の血を浴びて気がついたのかと思つて、一気に凶器を抜いて蚊帳から出て、侵入した引き戸から庭へ逃げた。子供の泣く声は聞いたが、子供はみなかつた(なお、滝谷は前掲昭和四六年六月二四日付上申書および録音テープでは、被害者を刺す前に同女の左隣りに、性別は判らないが、小さい子供が一人寝ていることが判つた旨述べていて、棄却審における同人の供述(第二回)記載と相違する。)。被害者の母親の姿はみなかつたし、「すず子」と叫ぶ声も聞かなかつた。
右凶行の際に自分は血を浴びなかつたと思つた。ただ凶器を握つている右手の、手の平から手首にかけてだいぶ血がついた。被害者は声を発しなかつた。
10 引き戸から出て、庭伝いに、通つてきた潜り戸のところに向つて走つたところ、その戸まで着かないうちに犯行現場の座敷の方から「泥棒」と叫ぶ女の声を聞き、被害者のほかにまだ人が居たことが判つた。「泥棒」という声は何回も叫ばれたわけではない。
11 凶器を手に掴んだまま潜り戸から出て、別紙図面(二)のとおり右方(南方)へ曲り、進んでまた右方(西方)へ、さらにその先を右方(北方)へ曲り進んだが、血が垂れていたので、垂れないようにしようとして、木村産業研究所の中に入つた。
当時、同研究所の屋上にはダンスホールがあり、同ホールにはダンスをしに「しよつちゆう」行つていて、その際研究所の門から入つて約二〇メートル先の北方寄りにある小屋に附属している便所を使用したことがあつたから、その小屋の傍を抜け、便所の裏(東側)の暗いところに行つたところ、そこに井戸があつた。井戸のあることは、そこに行つてみて初めて知つた(滝谷は異議審では井戸があることは前から知つていたと述べ前記上申書も知つていたことを前提にした供述が記載されている。)。そこで鞘代りにしていた布を凶器に巻きつけて三〇秒位で同所を出た。
12 同所を出るとき、自転車に乗つて北方から近づいて来た人がいたが、それを通過させてから、研究所を出て、別紙図面(二)のとおり右方(北方)へ進み、突き当つて左方(西方)へ折れ、那須隆方前を通つて茂森町に出た。それからその通りを右方(北方)へ進み、さらに右方(東方)に折れて覚仙町の通りを東進し、突き当つて左方(北方)へ曲つて本町に出て、次に右方(東方)、さらに進んで右方(南方)に曲り、当夜午後一二時前頃に自宅に戻つた。
木村産業研究所のほかには、途中立ち寄つたところはないし、一人として行き会つた者はいなかつた。
自分がこのように遠回りして自宅に戻つたのは、警察犬を使つてにおいを追跡されるという心配が瞬間的に頭にひらめいたからである。
13 自宅に戻り、屋外の水道で手に着いた血を洗つてから居間に入り、凶器は家の中の天井裏に隠した後、休んだ。そのとき奥村正行は自分の寝室とカーテンで仕切られてある店の方で寝ていた。ところで帰宅後着衣を一寸みたが血は着いていなかつた。しかし念入りに調べてみたわけではない。
14 本件犯行の翌日新聞やラジオで本件「教授夫人殺し」のことが報道され、結果の重大さに驚いたが、弘前市百石町にある映画館「大和館」に行つて、その二階のスクリーンに向つて左側の便所内に凶器を捨てた。
二、右供述についての検討
1 離座敷(犯行現場)および就寝の状況と供述の関係
(1) 離座敷の状況
司法警察員作成の昭和二四年八月七日付実況見分調書中、一項(イ)(ロ)(ハ)の記載および添付の図面No. 1(同調書には、その形式、内容において欠陥のあることは否定できないが、原二審証人前田武雄の供述記載によれば、右作成は右日付より後のことであつたこと、しかし棄却審証人笹田一雄の供述記載によれば、同調書中少くとも一項「位置と家屋の間取構造」(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)の各記載は、犯行後間もない頃になされた見分の結果のとおりの記載で、客観的状況の記述であることが認められる。)、司法警察員作成の同月七日付検視調書、原一審証人高杉隆治の供述記載および昭和二五年四月二一日付原一審検証調書ならびに昭和二六年七月二七日付原二審検証調書の各記載によれば、次のとおり認められる。
高杉隆治方表門は南北に通ずる道路に接し、同門わきの潜り戸からその北西方向に位置する離座敷までは直線距離で約一三メートルあつて、その間の一帯は庭園に造られてあり、庭木が東側道路沿いの生垣に沿つて植えられてあるほか、やや迂回する状態で飛び石が潜り戸の近くから離座敷まで続いていた。離座敷階下の状況をみるに、同階下は八畳間の南側に接して巾約一・五メートルの縁側があり、同所にはリノリユームが張つてあつたが、その縁側の南端には四枚戸の引き戸が取り付けられ、さらにその南側はすぐ庭園に続いていた。右引き戸の構造は、いずれの戸も腰板の上に四段の八枚の硝子が二枚づつ横に嵌め込まれてあるものであつたが、上の二段は透明硝子、下の二段はすリ硝子であつた。また引き戸のすぐ外側には、縦約一・二一メートル、横約〇・四二メートル、高さ約〇・三〇三メートルの踏み石が置かれてあつた。右表門わきの潜り戸は当時錠がなく、開閉は昼夜を問わず常に自由な状況であつた。
(2) 就寝状況
大沢信江の司法警察員に対する昭和二四年八月八日付および検察官に対する同月三一日付各供述調書、司法警察員作成の検死調書の各記載、原一審証人高杉隆治、原一、二審証人松永藤雄、同大沢信江の各供述記載、前記原一、二審検証調書の各記載によれば次の事実が認められる。
本件犯行当夜即ち昭和二四年八月六日夜の離座敷階下八畳間における被害者松永すず子、実母大沢信江および長女の就寝状況は前記第一、一、(四)に記載したとおりで、各布団の位置は、被害者と信江の分は互に少し離して敷き、長女の子供用のそれは被害者の布団に略重なるように敷いたが、被害者の布団は右座敷とその南側の縁側との間の敷居から丁度畳の横巾(約〇・八七メートル)だけ離して敷居と平行に、また同布団の上端は西側壁から約一メートル東方に離して敷いた。そして蚊帳の中央部の上にある二燭光の水色の豆電球は右就寝の際つけたままとしながら、蚊帳の上に新聞紙二枚を置いて、右電球の明りが長女のところだけに差し、信江と被害者のところには来ないようにしておき、また縁側と座敷との間にある敷居上の硝子戸は閉めなかつた。
ところで被害者が床に就いた時刻は信江よりも五分位後であつた。
(3) 滝谷が、高杉方表門わきの錠のかけられてなかつた潜り戸から屋敷内に入り、表門附近から東側道路に面した庭の方にきて本件犯行現場の離座敷に至つたこと、被害者は東側から見た場合に、前方(西)に頭を、手前(東)に足を向け、蚊帳を吊つて寝ていたこと、離座敷の南側には、腰板の上に硝子が入つていた四枚の引き戸があり、その前に踏み石があつたこと、引き戸に接する室内は縁側となつていたこと、縁側の先に敷居があり、さらにそのすぐ先は座敷であつて、引き戸から座敷に至る間には、障害がなかつたこと、被害者は座敷の縁側寄りに寝ていて、頭は西の壁から約一メートル位東方であつたと供述するところは、前記状況と符合する。
尤も滝谷が、縁側は板敷であつたような気がするとか、被害者の頭の位置は敷居から約五〇センチメートル離れていたとかいうところは、実際はリノリユーム敷であり、頭の位置は敷居から畳の横巾即ち約八七センチメートル離れていた状況とやや相違するし、また犯行当時被害者のすぐかたわらに寝ていた長女を認めたか否かの点について、その供述に多少曖昧な点は見受けられるが、本件後長期間を経過していることによる記憶の薄れや、犯人として室内の状況について犯行当時すべてにわたり明確な認識をもつわけのものではないのが通常であるから、この程度の相違は、それ程重要なことではない。
2 東側窓からの見透しと供述の関係
次に、滝谷が離座敷東側窓から覗いたことにつき供述するところを検討する。
前記実況見分調書、同検視調書、棄却審写真報告書、原二審および棄却審証人笹田一雄および同今武四郎の各供述記載、前記原一、二審検証調書および棄却審検証調書の各記載によれば、次の(1) 、(2) の事実が認められる。
(1) 本件犯行当時には、北側の窓には固く錠がかけられていたが、東側窓の室内より操作する落し錠は外れていた。そしてその窓下には繁つた草の上に、窓から室内を覗く際に踏みつけたと思われる足跡が薄く残つていた。
(2) 東側窓は丈約一二四センチメートル、巾(ただし枠内側の巾)約三六・五センチメートルの硝子戸四枚からなり、その両側の二枚づつが縦に蝶番で結合されて、その各二枚づつが折畳まれるようになるほか、さらにその各全体が外側へも開かれる所謂観音開きの構造であつた。右各窓の硝子は四段となつていて、最上下の各一段は丈において中央二段より小さく、しかも横に二枚の硝子-中央二段は各一枚の硝子-が嵌め込まれてあつたが、硝子はすべて不透明であり、北から二枚目の硝子戸の下から三段目の上方隅に縦約〇・一二メートル横約〇・一八メートルの三角形状に硝子が壊れて穴があいていたが、同部分は地上から約二・二一メートルの高さであつた。さらに南から二枚目の硝子戸の下から三段目は硝子が外されて、そのあとに煙突を通す穴(径約一〇・六センチメートル)があいている亜鉛板が嵌め込まれてあつたが、同穴の位置も地上から約二・〇三メートルの高さであつた。そして東側窓には、同窓を十分覆う大きさのカーテンが取り付けられてあり、また東側窓の敷居下辺の高さは、直下の地表から約一・二一メートルで、その窓下の地表僅か東寄りには長さ一メートル位、巾八〇センチメートル位、西方から東方に傾斜する深さ二〇センチメートル位の窪みがあり、同所には草が生い繁つていた。
(3) 滝谷の身長は、青森県警察本部鑑識課長作成の「指紋原紙等の写送付について」と題する書面添付の犯罪手口原紙二通によれば、昭和三二年当時約一・六六メートル、昭和三四年の測定では一・六八二メートルであつたことが認められる。
(4) 原二審証人大沢信江は「六日の晩は非常に暑かつた。すず子が暑い暑いといつて窓を開けていたが、寝るときは私が全部閉めた」と供述するけれども、東側窓の錠が外されているところからみれば、或は前記のとおり信江よりあとから床に就いたすず子が暑さに寝つかれないまま、再び同窓を開けたものと思われる。したがつてもし滝谷が同窓にかけてあつたカーテンに手をかけて少し開き、爪先立つて室内を覗いたとすれば、その供述するところの「東側窓の下に生えていた草の上に立ち……座敷の中を覗いてみた。部屋の中は薄暗く、右方(北方)はぼやつとしてよくみえなかつたが、三〇秒位覗いているうちに寝ている被害者の頭の部分がみえ、その頭の恰好から女と判つた」(滝谷の視力の点はこれを明らかにする証拠はないが、昭和三四年撮影の同人の写真によれば、同人は眼鏡を使用していなかつた。また前記検視調書によれば被害者の頭髪は犯行当時一般の婦人のそれと同様の状態であつた)との状況は、証拠との関係においてよく一致するばかりでなく、右窓下の繁つた草の上に窓から室内を覗く際に踏みつけたと思われる足跡が薄く残つていた状況は、滝谷の供述の信憑性を裏付けるに十分である。したがつて滝谷が室内を覗くとき、カーテンに手をかけたか、或はカーテンの隙間からみえたか、の点の情況について同人に記憶がないとしても、左程信憑性に影響を及ぼすものではない。棄却審証人今武四郎、同笹田一雄の各供述中右認定に副わない部分殊に笹田証人が、室内における人の有無を確認するだけで三分間以上を要したと証言するところは、原二審検証の結果と著るしく相違して採用し難く、むしろ滝谷の供述の方が、当時の明暗の状況によく合致すると思われる。
3 引き戸の施錠と供述の関係
次に滝谷が縁側南側の引き戸の施錠につき供述するところを検討する。
前記実況見分調書、大沢信江の検察官に対する昭和二四年八月三一日付供述調書、原二審証人大沢信江の尋問調書の各記載および前記原一審検証における同人の指示説明によれば、引き戸の錠は差込みのうえ、ねじつて締める構造のものであつたが、単に差込まれただけでは、戸を一寸かかえ上げたりすることにより、音もたてずに開けられること、犯行当夜は引き戸の錠はすず子においてかけたものと思われ、信江も同錠が差込まれてあることに記憶はあつたが、すつかり差込まれ、ねじつて締めてあつたか否かについては記憶がないこと、警察官の見分の際、当夜は右錠が差込まれてあつただけのように窺われたことが認められる。
そうすると犯行当夜は引き戸について十分な施錠がなかつたため、滝谷の供述するごとく引き戸の腰板に手をかけて、その手加減によつて同戸を外から容易に開けることができたということも十分に考えられるところである。
4 縁側の巾員と供述の関係
次に滝谷が縁側の巾員につき供述するところを検討する。
棄却審証人高杉治郎の供述記載(第一、二回)および同検証調書の記載によれば、高杉方では昭和三六年六月に、本件犯行現場となつた離座敷を二階部分共そつくり母屋から切り離して曳行し、表門から入つた正面(北方)突き当りの奥まつた箇所に(当初の位置からは、母屋を隔てて南西方の箇所。したがつて、本件犯行当時の母屋の勝手口のあたりは、右曳行前に取り払われていた。)移築し、東側窓を含む東側壁面の部分に廊下、玄関および部屋等を継ぎ足してモルタル塗を施し、縁側は巾約九〇センチメートル広くして、その分だけ座敷を狭めたことが認められる。そして棄却審検証において、滝谷が犯行当時の縁側の巾は這うようにして三、四歩で渡れたとして指摘した地点は、右事実に副うごとく現況の縁側と座敷との間の敷居より約八〇センチメートル南側の位置であつた。
この縁側の巾に関する滝谷の供述と指示説明は極めて信憑性が高いというべきである。 5 本件凶行および潜り戸のところまでの逃走の状況
次に滝谷が本件凶行および離座敷から戸外に出て潜り戸のところまで逃走した状況等につき供述するところを検討する。
大沢信江の司法警察員に対する昭和二四年八月八日付および検察官に対する同月三一日付各供述調書、前記実況見分調書、前記検視調書の各記載、原一審証人高杉隆治、同岩船善四郎、原一審および原二審証人大沢信江の各供述記載ならびに前記原一、二審検証調書の各記載によれば、次のとおり認められる。
(1) 信江は眠りについてから一時間位した頃に、ふと目が覚めると、白い開襟シヤツらしいものを着た若い男が、被害者の右肩から右腹部までの間で、しかも同女の敷布団の縁のあたりにしやがみ、身体全体はやや同女の顔の方を向いている恰好で、前屈みになり、同女を覗きみるようにしている姿が目に入つた。そのとき、被害者の頭は普段のとおりに枕の上にあつて左肩は枕の下になつており、顔はやや左側を向き、左手の二の腕は掛布団の上で肘関節から曲げて腹の中程におかれ、異常な姿勢ではなかつた(なお、当時被害者はズロースを穿き、腹巻を締め、素肌の上に浴衣地の寝巻を着ているのである。)。
信江は男の姿が目に入ると同時位に、男の右手が動いているように感じたが、咄嗟に飛び起き「すず子」と一回叫ぶと同時に、男は蚊帳をまくり、引き戸から外へ逃げて行つた。
(2) 縁側の引き戸のうち東側から二枚目の戸が、約三六・三六センチメートル位開いていて、信江はそのあたりまで行つて、「泥棒、泥棒」と叫んだが、男の姿は三間(五・四五四メートル)位前方の庭の暗闇の中に、ぼんやりその白い上衣だけが認められた。
(3) 右(1) (2) の間に、信江が認めた男の特徴は、「腕が半分ほど出ていたから半袖と思うが、白の開襟シヤツを着ており、また脛がみえたから半ズボンか長ズボンをまくり上げて穿いていたと思う。ズボンの色は白色か国防色であり、皮バンドをしていた。身長は一・六一メートル位、肩は垂れ、やせていたようで、髪は普通に分けていた。眼鏡はかけず、帽子もかぶつていなかつた。履き物は足袋か靴のようであつたが、逃げてゆくとき足音が全く聞えなかつた。」というものであつた。
(4) 信江は縁側よりすぐに引き返えして、蚊帳の西南隅の吊手一箇所を外し、被害者の枕許に寄つたが、そのとき同女は頭を枕から外して布団の南側脇の畳の上に乗り出しており、首から血が出ていた。
信江は被害者を抱き上げたところ、首から血がどんどん出ており、同女は一言「死んでしまうわ」と息たえだえに言つただけで、その後はただハアハア息をするのみであつた。信江は被害者の首に手拭を当てたりしたが、すぐさま高杉隆治の居る所へ赴き、同人を呼び起して、病院と警察への連絡を頼み、また被害者の許に戻つたが、同女は凶行を受けてから、五分位後に死亡した。
(5) 高杉隆治は警察署等に電話し、また警察官が現場に来る前に表門の所に赴いたところ、潜り戸は約四〇センチメートル位開かれてあつた。
(6) 警察官により、本件犯行時刻は同日午後一一時一〇分頃と推定された。
(7) 以上の状況と滝谷の供述について検討するに、
(イ) 滝谷が供述する、当時髪の毛をのばしていたこと、犯行時刻が午後一一時過頃であること、被害者の首から腰までの間の右横に、右膝は左膝よりやや同女に近づけてしやがみ、同女の上に屈んでいたこと、凶行時において被害者は首を左側に向けていたこと、他から叫び声がしたときは、まさに凶行に及んでいたところであつたこと、叫び声を聞くや直ちに蚊帳から出て侵入した引き戸から庭へ逃げたこと、引き戸は侵入の際身体が入る位開けていたこと、庭伝いに走り潜り戸まで着かないうちに、犯行現場の離座敷から「泥棒」と叫ぶ女の声を聞いたこと、帽子、眼鏡を着用せず、覆面はしなかつたこと、開襟ともいえる白のカツターシヤツを着ていたこと、ゴム底で歩いても音がしない靴を履いていたことなどの供述は、前記証拠から認められる状況とまことによく符合する。
(ロ) 滝谷が信江の存在に気付かなかつたということについては、先に長女のことについて述べたところと、同様のことが言いうるのであり、また信江の「すず子」という叫び声も、同女が極度に驚愕狼狽した余り、明瞭な発声にならず、滝谷の耳にはこれが「子供のかなり大きな泣き声」として記憶に残つていたとしても不思議ではない。滝谷の身長や、体格については、仙台高等裁判所秋田支部昭和三七年一〇月二五日判決の同人に対する強盗傷人事件の被害者が滝谷について証言したところは、「その男の人相は頬骨が高く、やせ型で、背は五尺三寸位(一・六〇一メートル)であり、前髪を額に垂していた」というのであつて、大沢信江の供述する犯人の特徴と類似していることは注目される。
(ハ) 服装については、滝谷は本件犯行当時左前膊部に入れ墨をしていてこれを隠すために袖の長目のシヤツを着ていたことを供述し、信江が犯人は半袖の白色開襟シヤツであつたというところとは相違するし、またズボンについて滝谷が黒の長ズボンであつたというのに対し、信江は白色か国防色で半ズボンか、或は長ズボンであつたとしても脛がみえるようにまくり上げていたとする点においても相違がみられる。しかしこれらも狼狽した信江において闇の中を逃走する犯人の姿をみる際に誤認の余地がなかつたとは言い切れないことであり、目を覚ました瞬間に同女の目に映つた白開襟シヤツは、滝谷のカツターシヤツの白色と符合する。
(ニ) 次に被害者の創傷およびその成因と滝谷の供述について検討してみるに
原一審鑑定人木村男也作成の昭和二四年九月三日付鑑定書、同鑑定書添付の引田一男作成の検案鑑定手記、および原二審鑑定人村上次男作成の昭和二七年一月三一日付鑑定書の各記載によれば、次の事実が認められる。
a 被害者の死因は左総頸動脈の円周の約三分の二の切断(損傷)による失血死であつたが、右損傷をもたらした創傷は右前頸部から刺入し、左方輪状軟骨の上縁を削ぎ、正中に向つて斜め上方に約二〇度の角度をもつて、また、右上方から正中を越えて僅微ながら左頸稍下方に向い、左後頸部に穿通する刺創であつた(切傷を受けた部位につき、木村鑑定は、甲状腺円錐葉上部および左葉、左内頸静脈、左迷走神経のほか、一〇箇所を列記する。)。
そして右貫通刺創の長さは約六ないし八センチメートル、右前頸部の創口の長さは両創縁が触れるように一直線に近くして計測した場合において約三・五センチメートル、左後頸部のそれは略右前頸部の創口の長さに照応した。そして創口はいずれも被害者の身体の長軸に対し、横に切り開くものであつた。
また左後頸部の創傷の約一センチメートル下方に、同傷と平行して長さ約一・五センチメートルの弁状傷が存した。
b 貫通刺傷は頸部内部において二条の創管をなし(同創管は、前左方に僅かに彎出した弓状に近いもので、方向の異る二条のものと認められた。)、恰かも襲撃が二度の刺突をもつて行われ、まず刃先が喉頭の前または前左に達したときに、凶器を完全に抜き終らないうちに、再び第二回の刺突が加えられたものとも考察されたが、右刺突の順序についてこれを決することはできなかつた。
c 貫通刺傷は、被害者を基準にして、刃を左方に、峰を右方に向けて突刺した結果のものと認められた。
d また、頸部における貫通刺創および弁状傷のほかには、損傷その他暴行を受けた痕跡は全くなかつたし、右刺創は、声帯その他発声管内、発声に関する神経には及ばなかつた。
e bの二条の創管の成因を考察するうえにおいて、受傷時に被害者の顔がやや左側に向いていた場合を想定すると、創管は前右から後左に向いおよそ一直線に並ぶと認められ(しかし、頸部内部の創管は皮膚創口の長さ約三・五センチメートルほどにはなく、厚い所で約二・五センチメートルである。)、この程度の顔や頸部の回転、傾斜によつては、前頸部正中の皮膚に対し頸部の臓器、組織の変位が起きるところであるから、結局、刺突の際に加害者の手元が僅微ながら狂い、また被害者において刃尖の刺つた瞬間から無意識、反射的に頸を廻わしたことがあれば、これらが複雑に関連することにより、頸部内部の二条の創管(前左方に僅かに彎出した弓状の創管)が生ずるものと考察された。
f a後段の弁状傷は、犯人の手許が少し狂つて、例えば一度左に突き抜けた刃尖がさらに下方の皮膚に軽く刺さつて直ちに外づれたために生じたものとも考察された。
g 滝谷が被害者の右横に坐して被害者の咽喉部を垂直に刺したとすれば、まず凶器は逆手にもたなければ、体勢としては極めて不自然であるから、「逆手に持つて」刺したとの供述は首肯できる。また刃が自分の方に向いていたとする供述部分は、左右の横向きは除いて、その角度は一六〇度から一七〇度の巾のある範囲内のことであるから、右横に近い内側の刃向きであれば、柄の握りにぐつと力を入れて一気に突き刺せば刺創の方向と必ずしも矛盾しない。
次に被害者が凶行時に上を向いていたとする点も同女が真上より約二〇度顔を左方に傾けていたことをも「上を向いて」と表現できるのであるから、その場合上方より垂直に突刺して本件創傷を生起せしめうるので、滝谷の供述と刺突の状況との間に矛盾はないこととなる。
被害者が真上より約二〇度顔を左方に傾けていたときに、滝谷がその供述のとおり一気に刺突したところ被害者がさらに首を僅かに左方に傾けたとするならば、凶器の峰が輪状軟骨の上縁の附近にあたつていて、これが起点をなして刃先の方でさらに下方の創傷を拡大したこと、そしてその際左総頸動脈の創口と密着していた刃が少し離れて、該動脈から血液が逆出し(木村鑑定によれば、その方向は左頸に沿い左耳殻およびその後方に向つて流出したことが推定されている。)それが一因となつて滝谷の供述するごとき「水の流れるようなゴボゴボという音」を発したこと、そして凶器を抜き去るとき上方の創傷をもさらに切り開いて拡大したこと、そして凶行後被害者の屍体検案に際し、被害者の顔が真上に向くように位置せしめたとき、右凶行によつて生じた傷は右輪状軟骨附近において接する方向の異る二条の創管の存在を示すことになつたことが推察でき、この項についての滝谷の供述は、事件当時鑑定人が被害者の叙上各創傷と成因について考察したところと微妙に合致し、同供述の信憑性は極めて高いということができる。
そして滝谷が「被害者が首をねじつたとき凶器が全然動かなかつた」と述べているところは、被害者が首を左に傾けたとき頸部を突き抜けた凶器の刃先が下方の皮膚にあたつたためであり、その際a後段の弁状傷が生じたとみれば、これまた創傷の状況は滝谷の供述に微妙に符合する。ところで滝谷は凶器が「頸部を突き抜けて布団に刺さつたと思う」と供述するが、棄却審証人笹田一雄の供述によれば、前記実況見分調書における見分の際、被害者の敷布団に損傷があつたかどうかについては確認されなかつたことが認められ、同実況見分調書にもその点の記載はなく、他にこの点の状況を判断しうる証拠はない。
(ホ) 滝谷は凶行によつて手の平から手首にかけて被害者の血がついたが、着衣には気付くほどには附着していなかつたと供述するので、次に被害者の出血状況につき検討する。
前記実況見分調書、前記検視調書の各記載、大沢信江の検察官に対する昭和二四年八月三一日付供述調書、原一審証人大沢信江および高杉隆治の各供述記載、前記原一、二審検証調書および昭和二五年八月二八日付原一審検証調書の各記載によれば、被害者の鮮血は、同女の頭髪、前胸部、背部、腰部に流れ、その衣類はもとより敷布団、畳に大量に滲みわたり、蚊帳の南側中央下部、座敷南西隅のタンスの下部、その附近の柱(縁側と座敷の間の敷居の西端のもの)の下部等には、明らかに迸出飛散した状況で附着していたこと、被害者のすぐ北隣りに寝ていた長女にも鮮血が飛び散つていたことが認められる。
しかしながら前記木村鑑定および村上鑑定を総合すれば、左総頸動脈部に損傷を受けた場合に、創口と凶器の密着の度合如何によつて、犯人が凶器を刺したときから、抜き終る瞬間および抜き終つた極く短い時間内に合計して少量の血液が被害者の右側創口から「あふれ出る」可能性(村上鑑定では「迸出」または「噴出」の状態と表現するが、その可能性が少ないことは前記一、(一)に述べたとおりである。)はあり、さらに凶器を抜き終つた後の短時間内(数秒ないし三〇秒位までの間。)に被害者が頭部や顔の姿勢を変化せしめた直後に、せいぜい一〇秒位のところは、なお血液があふれ出る力は残りうるものであつたこと、また左頸部の傷は僅微ながら上正中方から下側方に傾いているため、血液は直線的の噴出ではなくとも、かなり強い力で左頸部に沿い左耳殻およびその後方に向つて流出したものと推定されることが認められる。
そうすると滝谷が供述するごとく、凶器を一気に抜いて直ちにその場から立ち去つたとすれば、その極く短時間内においては被害者の右側創口から血液が着衣に容易に認めうるような程度に附着することもなかつたとみる余地があり、その後、前記認定のとおり、大沢信江が被害者の許に駆けつけるまでの間に、被害者が動いて右側創口から蚊帳の方向に、或は左側創口から長女の側に血液が迸出し、信江が蚊帳の吊手を外した際、或は被害者を抱いたりしたときの同女の体勢によりさらに各創口から血液が周囲に迸出飛散したことも推測できるところであるから、滝谷が「手の平から手首にかけて被害者の血がついたが、着衣には気付くほどには附着していなかつた」と供述するところは、証拠上首肯できるところであり、不合理な点は認められない。
(ヘ) 凶器について
次に本件犯行について用いられた凶器について滝谷の供述するところを検討する。
前記木村鑑定によれば、本件犯行に使用された刃器が、片刃の鋭利なもので、峰の厚さは、二・三ミリメートル前後、刃巾は一センチメートルから一・五センチメートル、精々二・三センチメートル位まで、刃渡りは七、八センチメートルから一五センチメートル位と推定されたことは前記第一、二、(二)記載のとおりである。そうすると滝谷の供述する凶器は、右推定の刃器に較べて長さにおいて一二・三センチメートルから五センチメートル位、刃巾において二・五ないし〇・七センチメートル大きいほかは、峰の厚さ、片刃である点において一致する。しかも右推定刃器の長さについては、右鑑定によれば、凶器が輪状軟骨を截断していないことから、重量の軽い刃器と推定したことによるのであつて、右推定の長さ以上に長い刃器でも本件創傷をもたらすことが可能であることは同鑑定においても指摘しているところであるから、右長さの相違は左程重要ではない。また刃巾についても異議審における証人滝谷の供述によれば、それ程正確な記憶でないことが窺われるので、この点の相違もそれ程重要なことではない。寧ろ滝谷方で働いていたことのある三浦五郎の検察官に対する昭和四八年一〇月二六日付供述調書の記載によれば、三浦自身ミシン修理に使う長さ約二一センチメートル位のヤスリを素材として暇をみてはこれをグラインダーにかけ、刃渡約一五センチメートルの七首様の刃物を作つていたことが認められるので、滝谷がヤスリを素材として本件凶器を作つたと述べていることは十分にありうることである。
(ト) 滝谷が引き戸から出て潜り戸まで着かないうちに犯行現場の離座敷の方から「泥棒」と叫ぶ女の声が聞えたと供述するところは、信江が「泥棒」と叫んだとき男の姿は三間(五・四五四メートル)位前方に見えたとする前記証拠と合致するところであり、この点は滝谷の供述の信憑性を裏付けるに十分である。
6 逃走経路と供述の関係
滝谷が高杉方潜り戸から逃走していつた経路について供述するところを検討する。
(1) 高杉方屋敷内から木村産業研究所前に至る間の各路上血痕が、被害者の血液によるものとみて、なんら矛盾しないことならびに同所前から北方にのびた道路上一帯には血痕が発見されなかつたことは前記第一、一、(三)、2において認定したとおりである。
(2) 次に滝谷の供述する井戸について検討するに、棄却審証人木村文丸および同木村キセの各供述記載、同審検証調書および同写真報告書の記載によれば、木村産業研究所の階上は、本件発生当時ダンスホールに使用されており、井戸は滝谷の供述する箇所にあつて、直径一メートル位で、今次大戦前からあつたが、その終戦時には既に使用しておらず、木村産業研究所の者らは永いことその所在すら知らなかつた。
同研究所の管理者は、本件再審請求がなされて(昭和四六年七月一三日再審請求)よりこれを探し、同井戸傍の小屋を修理していた大工に教えられて始めてその所在を知つた程であつた。そして右小屋附属の便所は、終戦直後一時使用していたことが認められる。
(3) 以上を総合し、また前記第二、(二)、5、(5) に説示の高杉隆治は警察官が現場に来る前に表門の所に赴いたところ潜り戸は約四〇センチメートル開かれてあつたとの点を併せ考えると、滝谷が供述するところの「凶器を手に掴んだまま潜り戸から出て、別紙図面(二)のとおり右方(南方)へ曲り、進んでまた右方(西方)へ、さらにその先を右方(北方)へ曲り進んだが、血が垂れていたので垂れないようにしようとして、木村産業研究所の中に入つた。当時同研究所の階上にはダンスホールがあり、同ホールにはダンスをしにしよつちゆう行つていて、その際研究所の門から入つて約二〇メートル先の北方寄りにある小屋に附属している便所を使用したことがあつたから、その小屋の傍を抜け便所の裏(東側)の暗いところに行つたところ、そこに井戸があつた。」「そこで鞘代りにしていた布を凶器に巻きつけて…同所を出た。」(それから)「右方(北方)へ進み…茂森町に出た。」という逃走経路は、前記証拠によつて認められる当時の状況にまことによく符合するものということができる。
なお原一審検証調書の記載によれば、高杉方表門前の路上血痕のうち一点は門前の橋から北方約二・七二メートルのところに滴下していることが明らかである(別紙図面(一)参照)。これは滝谷が上申書の中で「自分がこのように遠回りして自宅に戻つたのは、警察犬を使つてにおいを追跡されるという心配が瞬間的に頭にひらめいたからである。」と述べているところから窺われる、高杉方門を出て北に行きかかつたが、思い直して南に方向を変えて逃走した状況を彷彿させるものがある。
7 被告人方周辺の血痕と供述の関係
この点については、斉藤みよ方玄関前敷石上および被告人方裏より通じる佐藤くに方裏の漬物石上の各B型の人血痕ならびに斉藤みよ方潜り戸の敷居に発見された人血痕がいずれも被害者の血液に由来するものでないことは前記第一、一、(三)において説示したとおりである。したがつて滝谷が木村産業研究所を出て、「右方(北方)へ進み、突き当つて左方(西方)へ折れ、那須方前を通つて茂森町に出た」「木村産業研究所のほかには、途中立ち寄つたところはない」と供述しているところは、証拠上も何ら矛盾が認められない。
8 その他の状況と供述の関係
(1) 滝谷の供述中「本件犯行の一〇日か二週間位前に高杉方二階でミシンを修理したことがあり、その折二二、三才位の娘が二人いた」ということについては、岩谷信子(昭和六年九月一八日生)の検察官に対する供述調書の記載によれば、同人は「私は高杉隆治方の五女で、昭和二四年八月頃は在府町の家に両親等と居住していたが、その頃白銀洋裁学院に通つていたのでシンガーミシンを私の部屋に置いており、その修理は常日頃土手町の飯村ミシン店に頼んでいたが、滝谷ミシン店の前に洋裁店があつて、私の姉がよくその店に洋服の仕立を頼みに行つていたことから、近くにミシン店があることを知り、本件殺人事件のあつた頃そこに頼んでみようということから、滝谷ミシン店に私がミシンの頭を外して持つてゆき修理を頼んだことがある。修理が終つて同店の親父さんでなく息子がその頭を取付けに来た。そのとき私の部屋で作業したのであるが、そこに丁度私の小学校時代の同級生秋元みよが遊びに来ていたので、若しそのとき二〇才前後の娘が二人いたと云つているのであれば、このみよと私のことを云つているのではないかと思う。」と述べており、滝谷の前記供述の正確性を十分に裏付けている。
(2) 高杉隆治方表門の正面(西方)に同人方勝手口があつたことは、昭和二五年四月二一日付原一審検証調書により明らかである。
(3) 滝谷が「自宅に戻り……休んだ。そのとき奥村正行は自分の寝室とカーテンで仕切られてある店の方で寝ていた。」と供述するところは、棄却審証人奥村正行の証言によりこれを認めることができる。
(4) 犯行の翌日「百石町にある映画館大和館に行き、その二階のスクリーンに向つて左側の便所内に凶器を捨てた」と供述するところは、検察官に対する戸沢武および下山三郎の各供述調書の記載によれば、その当時の大和館は昭和三〇年頃屋根だけを残して改築され、その際便槽は汲み上げてセメントを流し込み修理を施こしたことが認められるので、今となつてはこれを確める由もないが、二階のスクリーンの向つて左側に女便所があつたことは右記載により認められるので、この点の滝谷の供述は事実と符合しないわけではない。
(5) 次に動機について、滝谷は「その頃癖のようになつていたが、当夜も女性にいたずらしようと思つて、午後一一時前頃に家を出て歩き廻つていたところ、いつしか高杉隆治方附近に来た……。」と供述する。
昭和二五年六月五日言渡の青森地方裁判所弘前支部、同二六年九月二五日言渡の仙台高等裁判所秋田支部の各判決謄本、身柄関係報告書、棄却審証人小田桐敏勝、同田沢ツル、同奥村正行、同滝谷福松(第一回)の各供述記載によれば、滝谷は、小学校高等科を卒業後国鉄弘前機関区に勤めたが、昭和二四年五月末に退職し、以後弘前市大字相良町六番地小田桐昌一方に間借りしてミシンの修理販売業を営んでいた父滝谷竹二郎の許で右修理業を手伝つていたが、そのかたわらダンスに凝り、また国鉄機関区に勤めていた頃覚えたヒロポンの施用をも継続していたもので、同年九月三日逮捕され、同二六年九月二五日仙台高等裁判所秋田支部において懲役七年の刑に処せられた事件の概要は、
(イ) (窃盗)昭和二四年四月下旬頃弘前市在府町木村産業研究所階上のダンスホールにおいて女性所有の手提等を窃取し
(ロ) (強姦致傷)同年五月六日午後九時三〇分頃ダンスホールに入場するにあたり、その料金に窮して、同市大字下鞘師町において屋台店から売溜金を窃取しようとしたが、店番をしていた当時二一才の女性が、容易にその隙をみせないと知るや強取を決意し、矢庭に同女の背後から抱きついてねぢ倒し、同女の首をしめたりした上、所携の匕首で同女の右頸部および右腰部に切りつけたところ、同女が救を求めたため現金強取の目的を遂げなかつたが、同女に対し右暴行により右頸部等に治療約一か月を要する傷害を負わせ
(ハ) (建造物侵入、強姦致傷)同年七月二一日午前零時頃姦淫の目的をもつて同市大字本町所在の弘前医科大学附属病院看護婦宿直室に侵入し、就寝中の当時二四才の看護婦を姦淫しようとして、同女に対し押し倒したりする暴行に及んだところ、同室の看護婦に叫ばれたため、姦淫の目的を遂げなかつたが、右暴行により所持していた鋭利な刃器で、右被害者の右膝蓋部等に全治一〇日間を要する切創を負わせ
(ニ) (建造物侵入)同年九月二日午後一一時頃看護婦を姦淫する目的で右病院内に侵入した
というものであつたことが認められる。即ち滝谷がその頃ヒロポンを常用する不良の徒輩で、夜半凶器を所持して街中を歩き回つては、女性に襲いかかる性癖を有し、かつ凶暴な性格の持主であつたことは明らかである。そして大沢信江の検察官に対する昭和二四年八月三一日付供述調書、前記実況見分調書の各記載によれば、本件犯行によつて被害者の下着が乱された形跡は全くなく、また家の中を物色された形跡もなかつたことが明らかであるから、以上の諸事実を総合すれば滝谷が動機として述べているところは首肯できるところであり、ヒロポン常用と性格の凶暴性のゆえに本件殺害の挙に出るということもこれまた十分にありうることである。
三、次に滝谷が真犯人を告白するに至つた経緯について供述するところを検討してみるに、
1 滝谷作成の前記上申書、同証人滝谷(第一、二回)の供述記載によれば、滝谷は強盗傷人の事件で秋田刑務所拘置場に留置されていた頃から、那須隆が無実の罪で自分に代つて服役していることに悩み、信仰の力でこれを解決しようとしてキリスト教に関心を寄せ、修道女との間においても、それとなく右悩みについて教えを乞う文通を重ねていたところ、右事件で有罪判決が確定し服役中の昭和四六年二月頃宮城刑務所内病舎に入所していた折、同じ病室内にいた村上一夫に対し、自分の代りに殺人で一五年の刑をつとめた人がいるが、自分がその事件の真犯人であると告白したことが認められる。
2 函館地方検察庁検察事務官作成の前科調書、昭和三五年二月八日付逮捕状(写)、昭和四九年三月一日付東北地方更生保護委員会委員長名倉誠一作成の「捜査関係事項について(回答)」と題する書面(添付の各書類を含む。)、身柄関係報告書の各記載によれば、滝谷は、昭和三五年二月一日強盗傷人の事件で同月八日逮捕され、同年三月一一日より昭和三七年一月二五日までは弘前、柳町各拘置支所、同月二六日から昭和三八年六月三日までは、秋田刑務所拘置場、同月四日(右事件判決確定)から同年七月二四日までは秋田刑務所、同月二五日から昭和四六年三月一一日まで宮城刑務所にそれぞれ入所していたことが認められる。
3 棄却審証人林仁子の供述記載および領置にかかる書簡二四通の各記載によれば、滝谷は前記のとおり秋田刑務所拘置場に留置されていた頃から、自分の罪深い過去を反省し、キリスト教にその救いを求め、偶々知り合つた修道女林仁子との間に文通を重ね、その間本件をにおわせるような「このまま打ち明けないでかくし通したとき死後の運命はどうなるか」といつた質問を出して教えを乞い、贈られた聖母マリヤの像を肌身離さず持つて朝晩祈りを捧げ、昭和四六年三月一一日宮城刑務所を出所するまで、この文通は続いていたことが認められる。
4 棄却審および異議審証人村山一夫の供述によれば、滝谷が服役中の昭和四六年二月頃宮城刑務所内病舎に入所していた折、同じ病室にいた村山一夫らに対し、本件犯行の真犯人が自分であることを告白したことが明らかである。
5 以上によれば滝谷が告白までの経過として、自分に代つて那須隆が無実の罪で服役していることに悩み、秋田刑務所拘置場に留置されていた頃からキリスト教に救いを求め、修道女と文通を重ねて教えを乞い、遂に宮城刑務所を出所する間際の昭和四六年二月頃同刑務所内病舎に入所中同じ病室にいた村山一夫に自分が真犯人であることを告白したと述べているところは、すべて証拠によつて裏付けられるのであり、告白の動機に必ずしも不自然な点は認められない。
四、まとめ
検察官は滝谷の供述の信憑性に深い疑惑の念を抱いているが、かりに滝谷が全く本件にかかわりのない人間であるとすれば、その供述するところはすべて虚偽架空の事実を供述していることになるのであり、それにしてはこれまで述べてきたようにかくまでに微細な点に至るまで客観的証拠と合致するような供述をすることは到底できるものではない。そこに第三者の示唆介入があつたと仮定しても、その第三者が滝谷の前記告白の動機まで作り上げることはできないことであり、前記証人村山一夫の供述記載および録音テープによれば、村山一夫が本件にかかわり合いを持つたといえば同人が宮城刑務所を出所した当日即ち昭和四六年四月末頃一回滝谷に会つて、更めて告白の事実を聞き、半信半疑の中にも見物がてら事実の有無を確めるべく同年五月中三回始めての土地である弘前市に出向いたことであつてその間一、二回滝谷と調査の結果を話合い、弘前市の図書館で当時の新聞記事に目を通し、また同年五月二八日頃那須隆方に保管されていた裁判記録を借受けて、これを南出一雄弁護士に取次いだこと位であることが認められる。この程度のかかわり合いしか持たない村山一夫が、滝谷と協力して、かくまでに証拠と合致した架空の事実を作り上げるということはできることではない。ましてや滝谷が南出一雄弁護士事務所で同弁護士に対し、本件犯行の状況を詳細にわたり告白したのは同年六月五日であり、那須隆の前記裁判記録を同弁護士が受取つたのは、その僅か八日程前の同年五月二八日頃であるから、何人と雖もこのような短期間に複雑かつ微妙な証拠を微に入り細をうがつて調査し、滝谷のために架空の供述を作り上げる作業をすることは不可能である。領置にかかる新聞記事の記載には、証拠に符号する滝谷の供述の微細な点まで触れたものはない。この点の検察官の疑惑は当をえたものとはいい難い。
これを要するに滝谷の供述は証拠によつて認められる客観的事実にまことによく符合していることが明らかで、僅かに被害者の母信江および長女が同室に就寝していたことを知らなかつたこと、信江が「すず子」と叫んだのを「子供のかなり大きな泣き声」と記憶していること、刃器の刃巾、犯行当時滝谷が穿いていたズボンの長短等において供述と証拠との間に相違が認められる程度で、それ以外は滝谷が動機として述べるところを始め、高杉方に目をつけて同家勝手口に赴いた事情、離座敷の東側窓から屋内を窺い、南側引き戸から侵入した状況、蚊帳の中に入り被害者に凶行におよんだ際の両者の位置とその姿勢、被害者の創傷から推察される刺突の状況が極めて微細な点に至るまで供述と符合していること、信江の叫び声を聞き引き戸から屋外に逃走し、潜り戸を出る前に同女の「泥棒」と叫ぶ声を聞いていること、さらには血液滴下の状況によく符合する、表道路に出て一瞬自宅に近い北方に走りかけて思い直し南に方向を変えて逃走し、木村産業研究所に逃げ込み、井戸のところで血の滴りを止めていることなどその供述はすべて証拠と合致し、間然するところがないのである。先きに挙げた多少の相違は滝谷あるいは大沢信江の記憶違いということも十分に考えられるのであつて、事柄の性質上それ程重要なことではなく、滝谷の供述には全体として真実性を認めるに十分であり、告白の経緯についてもその真実性を首肯することができるので、当裁判所は以上の事実に前記第一において述べた本件を被告人の犯行と認めるに足る証拠がない事実ならびに滝谷は真犯人を名乗りでて以来棄却審、異議審ならびに当審に至るまで一貫して自分が真犯人である旨不動の供述をしている事実に照らし、本件の真犯人は滝谷であると断定する。
第三、結語
以上説示のとおりであるから、本件殺人の点について被告人に対し犯罪の証明なきものとして無罪の言渡をした原判決の認定は、正当であつて何ら事実誤認の違法は存しない。尤も原判決が単に「証明十分ならず」「犯罪の証明なきに帰す」とのみ判示して、その理由の詳細を説示しておらないことは所論のとおりである。しかしながらその理由を詳細説明することは固より好ましいことではあるが、これを原判決程度に説示したからといつて必ずしも違法とすることはできないのであるから、原判決に所論理由不備の違法も存しない。論旨は理由がない。
よつて刑事訴訟法第三九六条により、原判決中殺人の点に関する本件控訴を棄却する。 (本件と併合罪の関係にある罪の刑を定める裁判)
仙台高等裁判所が昭和二七年五月三一日被告人に対し言渡した確定判決中銃砲等所持禁止令違反の罪につき、同判決摘示の法条を引用し所定刑中罰金刑を選択し、所定罰金額の範囲内において被告人を罰金五、〇〇〇円に処すべく、刑法第一八条第二一条を適用し、原審未決勾留日数中その一日を金一、〇〇〇円に換算して右罰金額に満つるまでの分をその刑に算入すべきものとする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 三浦克巳 裁判官 松永剛 裁判官 小田部米彦)
別紙(一)~(六)<省略>