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仙台高等裁判所秋田支部 平成14年(ネ)47号 判決 2003年8月27日

第一審原告(控訴人兼被控訴人)

甲野花子

同訴訟代理人弁護士

藤田紀子

山田忠行

豊田耕史

第一審被告(控訴人兼被控訴人)

同代表者法務大臣

森山眞弓

同訴訟代理人弁護士

豊口祐一

同指定代理人

阿部昇

外八名

主文

1  第一審原告の控訴に基づき、原判決を次のとおり変更する。

(1)  第一審被告は、第一審原告に対し、金七七〇万円及びこれに対する平成四年七月八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2)  第一審原告のその余の請求を棄却する。

2  第一審被告の本件控訴を棄却する。

3  訴訟費用は、第一、二審を通じてこれを一二分し、その一を第一審被告の負担とし、その余は第一審原告の負担とする。

事実及び理由

第1  控訴の趣旨

1  第一審原告

(1)  原判決中、第一審原告敗訴部分を取り消す。

(2)  第一審被告は、第一審原告に対し、金九三二七万七七六七円及びこれに対する平成四年七月八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(3)  訴訟費用は、第一、二審を通じて、第一審被告の負担とする。

2  第一審被告

(1)  原判決中、第一審被告敗訴部分を取り消す。

(2)  同敗訴部分に係る第一審原告の請求を棄却する。

(3)  訴訟費用は、第一、二審を通じて、第一審原告の負担とする。

第2  事案の概要

本件は、第一審原告(以下「原告」という。)が、第一審被告(以下「被告」という。)の設置するA大学医学部附属病院(以下「大学病院」という。)において排卵誘発剤を使用した不妊治療を受けたところ、卵巣過剰刺激症候群(以下「OHSS」という。)を発症し、その結果、脳血栓症を発症して左上肢の機能全廃等の後遺症が残ったとして、大学病院の医師らについて、排卵誘発剤による体外受精の方法を選択した誤り、説明義務違反、副作用を防止する注意義務違反、OHSSの重症化を予防する注意義務違反、脳血栓症の発症を予防する注意義務違反があったと主張して、被告に対し、債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償金九六五七万七七六七円及びこれに対する原告が脳血栓症を発症した平成四年七月八日から民法所定年五分の割合による遅延損害金を請求したところ、原判決が、説明義務違反の不法行為責任を認めて原告の請求の一部を認容し、その余の請求を棄却したので、原・被告双方が控訴した事案である。その余の事案の概要は、次のとおり当審における当事者の主張を付加するほか、原判決の「事実及び理由」中の「第2 事案の概要」1、2記載のとおりであるから、これを引用する。

(当審における当事者の主張)

1  原告の主張

(1) 副作用防止注意義務違反について

ア hMGの投与量について

原告は、排卵障害などの異常もなく、しかも三〇歳の若年であったから、OHSS発症の危険性が高かったにもかかわらず、原告に対して、一日量二二五IUという多量のhMGが投与された(通常一五〇IU又は一五〇IUから漸増させていく。)。この投与量は同種治療を行っていた他の病院に比較して明らかに多量であり、しかも、本件事故後、大学病院は採卵数の適正化のために初回治療で若年の場合hMGの量を一五〇IUから始めるとしたことからすれば、投与量と採卵数との間の相関関係は明白である。そして、採卵数とOHSSとの間に関係があることは後述のとおりである。したがって、hMGの投与量とOHSSの重症度あるいは反応の数との間に相関関係が認められるのに、これを否定して大学病院のhMGの投与量が不適切であったとはいえないとした原判決には誤りがある。

イ hCG投与時のエストロゲン値の測定について

大学病院の医師らは、原告にhCGを投与するに当たり、超音波診断法による卵胞のモニタリングしか行わず、エストロゲン値を測定しなかった。

しかし、OHSSの病態の重症化に関して、エストロゲン値のレベルは重要な指標である。エストロゲン値及び卵胞数によってOHSSの重症度を判定し、追加hCG投与の中止を判断するべきであったところ、平成四年六月二一日の診断時には卵胞発育数が多いと判断され、結果として二七個の採卵が行われたことからすれば、原告が卵胞数多数の基準を満たしていたことは明らかであったから、エストロゲン値の測定といったスクリーニング検査が必要であった。にもかかわらず、大学病院の医師らはこれを行わなかったのであり、重大な注意義務違反がある。

ウ hCGの投与の中止について

原告の採卵数は二七個であって異常に多数であり、多数の卵胞の過度発育がOHSSの重症化の決定因子であるとされているのであるから、原告に対するhCGの投与は中止されるべきであった。

(2) 重症化予防注意義務違反について

平成四年七月二日の時点で、原告に卵巣腫大、腹水貯留の症状が現れ、血液濃縮(ヘマトクリット値40.1パーセント)、白血球の増加(一万三七〇〇)も認められたので、その症状はOHSSの中等症に該当する。原告が三〇歳と若年者でOHSS発症の危険性が高く、かつ、大学病院まで片道三時間を要する場所に居住していて外来による厳重な経過観察ができない状態にあったことから、この時点で原告を大学病院に入院させて経過観察及び必要な治療を行う必要があった。にもかかわらず、大学病院の医師らは、原告を入院させず、同月六日の入院まで外来による経過観察すら行わなかったため、原告のOHSSが重症化して脳血栓症が発症した。原判決は、中等症のOHSSについて入院加療が不要としているが、厳重な経過観察が不可欠であり、これが困難な場合には入院が必要なのである。また、OHSSが発症した場合にそれが重症化しないよう適切な措置を講じることが重要であるにもかかわらず、この間、大学病院の原告の主治医らに連絡すら取ることができなかったのであり、同人らにそのような認識が欠けていたことは明らかである。

(3) 脳血栓症発症予防注意義務違反について

ア ヘマトクリット値

原告が平成四年七月六日に大学病院に入院した際、ヘマトクリット値が48.1パーセントとなっており、血液濃縮が進みOHSSが重症化していた。そして、その後、原告のヘマトクリット値は、補液や腹水除去によって一時的に変動しつつも、重症の領域内で変動を繰り返しており、改善傾向にあったわけではない。にもかかわらず、大学病院の医師らは、抗凝固剤、血栓融解剤等を原告に投与しなかったため、原告は脳血栓症を発症した。

イ 腹水除去等

大学病院の医師らは、原告のOHSSの病態が好転する徴候のないまま、腹腔穿刺により一五〇〇ミリリットルの腹水を除去しており、その結果、腹圧が下がってスペースができたところに血管から水分及びアルブミンが移動することとなり血液濃縮、血液凝固能を更に亢進させることになった。この場合、輸液などで水分を補給して血液濃縮を改善させようとしても更に腹水を増強させたり胸水を誘発することがあるため、ヘマトクリット値、血清蛋白、血液凝固能、尿量、腎機能、胸水をチェックしながら、徐々にかつ少量ずつ行うべきであった。また、このようなチェックを含めた重症度のOHSSにおける高度血液濃縮の治療は産婦人科では困難であって、経験のある内科医か専門家による必要があるから、少なくとも、平成四年七月七日早朝に原告が激しい頭痛を訴えた時点で、大学病院の医師らは、内科への相談あるいは転科を行うべきであった。

にもかかわらず、大学病院の医師らは、内科への相談、転科はもちろん、尿量測定、腎機能検査、胸水診断のための胸部デキュビタス写真の撮影も行っていなかった。

なお、大学病院の医師は、午後一一時に腹水除去を行ったが、その後にこれらのチェックをきめ細かく行うことはできず、しかも、就寝中の呼気や発汗によって血液凝縮が起こりやすい状態になるから、その施行時間も不適切であった。

ウ 前駆症状

原告の頭痛や吐き気等の神経症状は、平成四年七月二日から始まったところ、同月七日には激しくなり、神経症状が加わって、血栓症の発症が予見される状態になり、同月八日に脳血栓症を発症した。同月五日に原告の左上肢麻痺の訴えについて診療録に記載されておらず、その後も麻痺の症状についての記載がないとしても、これは大学病院の記載漏れにすぎない。

特に、原告は平成四年七月七日に吐き気、頭痛を訴えており、このような神経症状は、血液濃縮や血液凝固能亢進状態における血栓症発症の重要な前駆症状に該当する。特に、強い頭痛は腹水貯留では説明できない。

エ 血液凝固検査の結果等

平成四年七月六日に行われた血液凝固検査の結果につき、原判決は、OHSSの病態を考えれば当然であって、これだけで血栓形成が存在したと判断することはできないとするが、OHSSの病態はこれらの検査に加え、ヘマトクリット値、腹水貯留等の他の所見と総合して判断されるべきものであり、FDP―Dダイマー等の増加は原告が血栓準備状態にあったことを強く示唆しているということができる。なお、同月七日午前〇時三〇分に原告が入眠した事実はあるが、そのことが症状の改善を意味するものでもないし、入眠によって発症が不可抗力となるものでもない。

(4) 説明義務違反による損害額について

ア 因果関係のある損害

本件の場合、原告はOHSSのハイリスク患者であったことからすれば、大学病院の医師らによる血栓症又は塞栓症の発症についての説明義務が尽くされていれば、治療の開始、あるいは、少なくともhCGの投与について同意しなかった蓋然性が高い。また、原告が血栓症又は塞栓症発症についての危険性を認識していれば、平成四年七月四日から同月五日にかけて異常を感知した時点で近くの病院に受診するなどの対応を行い、あるいは遅くとも麻痺症状を感じて入院した時点で大学病院の医師らに注意喚起し、あるいは、専門医による診察を要求することが可能であったはずであり、そうすると、血栓症又は塞栓症の発症を防止できた可能性が飛躍的に高まったはずである。したがって、説明義務違反と原告の全損害との間に因果関係の存在を肯定すべきである。

イ 慰謝料額

排卵誘発剤を用いて体外受精を行うことには、妊娠の可能性を得るメリットと、その反面、OHSS発症による苦痛や、可能性は低いとしても最悪の場合に死亡に至る重篤な合併症を伴うといったリスクの両面があり、これらは、夫婦の人生設計に関わる重大な選択のための判断材料としてすべて開示されなければならない。不妊治療を受けなかったとしても原告の日常生活に何らの問題はないという点で通常の病気治療と根本的に異なる体外受精という特殊な医療についての事案であること、予想外のものとして生じた原告の障害の程度が極めて重度であること、原告には障害のほか、体外受精によって妊娠した子供を堕胎することまで余儀なくされ、しかも、夫も失うことになったのであり、これらの事情を考慮すれば、原告の精神的損害は三〇〇万円では低すぎるのであり、一六〇〇万円は下らない。

2  被告の主張

(1) 説明義務違反について

ア 本件において体外受精を行った場合の血栓症又は塞栓症発症の可能性や、血栓症又は塞栓症を発症した場合の症状について説明する義務があったか否かは、診療当時である平成四年時の臨床医学の実践による医療水準に照らし、体外受精を行った場合に血栓症又は塞栓症が発症する危険性があり、それによる重大な悪しき結果の発生する蓋然性がどの程度具体的に存したか否かを中心に判断されるべきことになる。

当時、体外受精は、基本的にはかなり安全な手技と考えられており、排卵誘発剤投与の副作用として、血栓症又は塞栓症が発症することはほとんど認識されておらず、しかも、その発生機序や具体的な発生確率等、当時の一般の産婦人科医には正確な情報も把握されていなかった。このように、診療当時の臨床医学の実践による医療水準に照らすと、体外受精により血栓症又は塞栓症が発症して重篤な症例が生じ得ることを大学病院の医師らが予見することは到底困難であり、これを患者に説明すべき義務があったとは解し難い。発症可能性の程度が著しく低い疾病についてまで説明義務を肯定すると、OHSSの合併症として発生する可能性のある疾病すべてについて説明が必要となり、医師に不可能を強いる上、施術を受ける患者に対していたずらに不安感を抱かせる結果となるのであり、相当でない。

イ 原判決は、大学病院の医師らが原告の血栓症又は塞栓症の発症を具体的に予測することは不可能であったと判断しているにもかかわらず、そのような場合にまで説明義務を肯定している点で、論理矛盾を犯している。

また、原判決は、OHSSが重篤化した場合に血栓症又は塞栓症を発症する可能性があるといういわば抽象的レベルでの認識は一般化していたとするが、これを裏付ける証拠はなく、かえって、稀有な事例であるためほとんど認識されていなかったこと、OHSSの発症と脳梗塞症の発症との因果関係の有無は未だ明確でない部分が多いこと、排卵誘発剤の投与によってOHSSが発症する可能性は高いのに対して、同治療によって血栓症又は塞栓症が発症する可能性は極めて稀であったこと、平成四年当時に担当医が把握していた血栓症の報告例は一過性の失語症が現れたものの自然治癒したという症例が一例のみであったことなどからすれば、排卵誘発剤の投与によってOHSSが発症し、血液凝縮が起こる可能性が高いということはできたとしても、OHSSが重篤化して血栓症又は塞栓症に至る可能性はむしろ低いというのが平成四年当時の医師の一般的知見であった。

さらに、原判決は、平成四年当時の、OHSSの重症化により血液の濃縮が起こり、凝固亢進や血清形成のおそれがあることを指摘する論文が存在するとするが、学会報告の結果ないし地方部会報告にすぎず、一般の産科婦人科医師に対し、このような文献を逐一チェックすることを求めることはできないし、上記文書はOHSSに伴う抽象的な凝固亢進や血栓形成のおそれを記載したものであり、脳塞栓症又は脳血栓症の発症のおそれを直接的に記載したものではない。また、B医師が僅少な発症報告例を知っていたことをもってその症例の説明義務を課すのは余りに酷というべきである。

なお、原判決は、鑑定書の「血栓症又は塞栓症の危険性はほとんど認識されていなかった」との記載につき、そのような発症を「具体的に想定してOHSSに対処するということはほとんどなかったという趣旨」と解しているが、そのように解する根拠も実質的理由もない。

ウ 原判決は、不妊治療が緊急性に乏しく、また、生命や健康の維持促進のための治療行為でないとし、患者が危険性について認識していないことが通常であるとして、医師による治療の危険性についての説明義務を厳格化する。しかし、子供が欲しいと願う夫婦にとって不妊症は一つの重大な疾病であり、医師がこれに対して治療を行う責務があるのは当然というべきであるし、また、実施時期を失するときには精子や卵の劣化、その他生殖能力の低下等により、その予後に重大な影響があることから、緊急性に乏しいということもできない。原判決は、このような不妊治療の意義、重要性に関して理解していないといわざるを得ない。さらに、原判決は、不妊治療を受けようとする患者が重大な結果を生じるおそれがあることについて認識を有していないとするが、証拠に基づかない憶測にすぎず、むしろ、このようなリスクを認識し又は認識し得るというのが経験則に合致する。

(2) 副作用防止注意義務違反について

原告は、そのOHSSが重症化する例に該当していたと主張するが、平成四年当時のエストロゲン測定に関する認識を無視するものである。原判決が認定するとおり、高エストロゲン血症がOHSSを起こすとは限らず、低エストロゲン血症でもOHSSが発症することがあるし、原告のような遅発型OHSSは妊娠成立による内因性hCGの刺激によって発症するため、hCG投与の状況からその発症を予測することが不可能である。また、OHSSの発症をhCG投与時のエストロゲン値等によって予測することは困難であり、これを否定する見解も存在する。

また、超音波断層法により多数の発育卵胞の存在が確認された場合でも、それだけで重症OHSSが発症するということはできない。最大卵胞径が一八ないし二〇ミリメートルの大きく発育した卵胞の数からOHSSの発症を予測するとの見解によっても、原告の主席卵胞の最大径は一八ミリメートル、次席卵胞の最大径は一七ミリメートルで、大多数の卵胞が一八ミリメートル未満であるから、重症OHSSの発症が予測される状況には当たらない。

(3) 脳血栓症発症予防注意義務違反について

ア ヘマトクリット値が四五パーセント未満の軽度の血液濃縮をみるような場合には経過観察で十分であり、四五パーセントを超え、顕著な腹水を認めるような場合には入院加療が必要となってくる。そして、原告が平成四年七月六日に入院して以降の血液濃縮は明らかに改善傾向にあったし、同月七日のヘマトクリット値は四五パーセント前後の値であり、OHSSの重症度分類で中等症と重症の境界に相当するから、重症の領域内で変動を繰り返していたわけではない。

イ 腹水除去が腎機能の改善などの効果をもたらし、ヘマトクリット値を減少させることは医学的に明らかになっている。そして、ヘマトクリット値や血清蛋白の検査は、血管から腹腔内への水分やアルブミンの移動が徐々に起こることから考えると、患者の腹水の再貯留の状況なども考慮しながら半日から一日程度の間隔を空けて行うのが通常であり、血液凝固能や腎機能検査は腹水除去後に通例行われる検査ではなく、患者の必要に応じて考慮されるものである。さらに除去の量についても、患者の苦痛を軽減できる量の除去が必要で、かつ、患者の腹腔に針を刺すという医療行為を安易に反復できないことからも、ある程度まとまった量を除去する必要があり、本件の一五〇〇ミリリットルという量は常識的である。

そして、こまめにヘマトクリット値をチェックすることは採血を反復される患者にとって大変なストレスであってむしろ非難されるべきであるし、腹水除去そのものが短時間でヘマトクリット値の上昇をもたらすような事実も報告されていないから、原告が主張するようなチェックの必要性自体が認められず、したがって、内科への転科等も必要ない。また、腹水除去と無関係に内科への転科等が必要とされるという原告の主張についても、原告に脳梗塞発症まで明らかな前駆症状が認められなかった以上、そのような必要性はなかったし、OHSSの病態は内科医が一般臨床においてほとんどみる機会がないものであるから、転科等によって適切な治療が期待できるわけでもない。

施行時間についても、あえて午後一一時を選んだのではなく、原告の「お腹が苦しくて寝られない」との訴えに対処するための行為であるし、夜間に腹水除去を行ってはならないという記述は医学書のどこにもみられない。

ウ 原告は、神経症状が早い段階から現れていたとするが、平成四年七月五日に原告の左上肢に麻痺があったとの記載は診療録にはない。入院時には左下肢に麻痺の症状が現れて歩けなくなったとの主張は、原告が歩行入院したとの看護記録の記載とも、入院直後の全身所見の診察で左下肢麻痺の記載がないこととも矛盾する。診療録の記載の不備との主張は根拠がない。

なお、原告は吐き気や頭痛をもって血栓症の予見が可能であったとするが、このような一般的な愁訴から直ちに脳血管障害に関わる神経症状を疑うことは、通常あり得ないし、原告の吐き気も頭痛も、OHSSの一般的な臨床症状として理解可能な範囲内であった。本件の臨床経過では、血液濃縮が改善傾向にあったこと、血液凝固検査の異常が一般的なOHSSの病態で説明可能な軽度なものであったこと、他に麻痺などの神経症状を認めなかったことなどから、脳梗塞症の発症を具体的に予見し得る状況にあったとはいえない。原告の脳梗塞症は、体のどこかの動脈ないしは心臓で形成された血栓が血流に乗って運ばれ、両側の内頚動脈を突然閉塞したために発症したものと考えられ、原告の臨床症状は極めて突発的であり、麻痺などの明らかな前駆症状がなくても何ら不自然な点はない。

(4) 説明義務違反による損害額について

原告はハイリスク患者でないのみならず、原告夫婦は長年不妊に悩み、子供をもつことを切望していたこと、不妊の原因は原告の夫が閉塞性無精子症にあったこと、地元の新聞で大学病院が体外受精に成功したとの記事を見て希望を持ち受診したことなどからして、説明義務が尽くされていたとしても、原告が治療の開始ないしhCGの投与に同意しなかった蓋然性はむしろ低い。

第3  当裁判所の判断

1  当裁判所も、大学病院の医師らの義務違反の不法行為責任を認め、控訴人の本訴請求の一部について認容すべきものと判断する。その理由は、以下のとおり付加、訂正し、当審における当事者の主張に対する判断を付加するほか、原判決「事実及び理由」中の「第3 争点に対する判断」に記載されたとおりであるからこれを引用する。

(1)  原判決二一頁二〇行目<編注本誌二〇八頁一段五行目>「46」を「47」に改める。

(2)  同二六頁一行目<同二〇九頁二段三七行目>「47、」を削る。

(3)  同二九頁一〇行目<同二一〇頁三段一七行目>末尾の次に、改行して、次のとおり加える。

「しかしながら、原告のOHSSは中等症であったから経過観察を要したところ、原告が自宅から大学病院まで片道約三時間を要する所に居住しており、必要がある場合にすぐに大学病院を訪れて診療を受けるというわけにはいかなかったこと、平成四年七月五日に症状が悪化してきた原告が大学病院に電話をしたもののB医師とC医師に連絡をとることができず、翌日に予約していた外来診察まで待つことを余儀なくされたことからすれば、大学病院の医師らが原告に対する経過観察を行う義務を十分に尽くさなかったといわざるを得ない。

もっとも、原告が大学病院に電話をした平成四年七月五日の時点で原告の症状が入院を要するものであったか否か明らかではないため、大学病院の医師らの経過観察義務違反が直ちに重症化予防義務違反に結び付くともいい切れない。さらに、同日から原告が脳血栓症又は脳梗塞症を発症した同月八日まである程度時間が経過していること、同月六日に原告が入院した後、安静及び輸液によってその血液濃縮状態はヘマトクリット値をみる限り改善傾向にあり(甲63、調査嘱託の結果)、おう吐感も相当おさまった(乙1)こと、入院後の治療として、同月七日午後一一時に腹水除去が行われるまでの間は、検査以外には輸液が行われたにすぎないこと、ヘマトクリット値が高いからといって必ずしも血栓症又は塞栓症が発症するわけではなく(調査嘱託の結果)、原告が麻痺等の前駆症状もなしに脳血栓症又は脳塞栓症を突然発症したこと、原告の脳血栓症又は脳梗塞症が具体的にいつどのように形成されたのか明らかではないことなどからすれば、同月五日に原告の症状が悪化した時点において大学病院の医師らと連絡をとることができ、その時点で入院することができたとすれば原告が脳血栓症又は脳梗塞症を発症しなかったであろうことを是認し得る高度の蓋然性を認めるには足りない。」

(4)  同三三頁九行目<編注 本誌二一一頁四段三五行目>「原告は」から同一四行目<同二一二頁一段九行目>末尾までを次のとおり改める。

「OHSSの合併症としての血栓症又は塞栓症に関する危険性について説明義務が尽くされなかった結果、原告は、主に体外受精による妊娠という結果を期待していたところ、実際には、その期待が裏切られただけではなく、三〇歳という年齢で予想外の重大な後遺障害を残すことになり、しかも、そのような後遺障害が残った結果として、妊娠自体は成功していたにもかかわらず子供の中絶を余儀なくされ、また、夫とも離婚するに至ったというのである。仮に上記の説明義務が尽くされた上で、原告がその危険性を承知しながら自らの意思によって大学病院における体外受精を選択し、その結果として同様の経過をたどったのであれば、自らの決断の結果として時間をかけてでもそのような事実を受け入れるほかないであろう。しかし、全く予想外の結果としてみれば、期待していた結果が夫との間に子供を設けて幸福な家庭を築くというものであったこととの対比からしても、余りに深刻かつ悲惨な事態というほかなく、このことを受け入れることを求めるのは酷にすぎるというべきである。また、仮に説明義務が尽くされた結果として、原告が治療を断念した場合には、その後子供を持つことはできないとしても、それ以外の点について何ら健康上問題なく生活を送ることができていたはずであり、このような結果との対比からしても、原告の現状は深刻かつ悲惨な事態ということができる。したがって、大学病院の医師らの説明義務違反によって原告が自己決定の機会を奪われたことによる原告の精神的苦痛は極めて甚大であるということができる。

さらに、上記のとおり、大学病院は、原告に対する経過観察を怠り、その結果、原告に自宅待機を余儀なくさせ、その間に適切な治療を受ける機会を喪失させたのであり、これによって原告に対して精神的苦痛を与えたということができる。よって、この点も慰謝料の算定に当たって考慮されるべき事情というべきである。

その他本件に現れた一切の事情を考慮すれば、原告の被ったこれらの精神的苦痛を慰謝するのに相当な損害賠償金の額としては、七〇〇万円が相当である。」

(5)  同一七行目<同二一二頁一段一五行目>「三〇万円」を「七〇万円」に改める。

(6)  同一九行目<同二一二頁一段一八行目>「三三〇万円」を「七七〇万円」に改める。

(当審における当事者の主張に対する判断)

(1)  副作用防止注意義務違反について

ア hMGの投与量について

本件の原告のようにGnRHaを併用してhMGを投与する場合、GnRHaの脱感作現象により内因性ゴナドトロピンが抑制されるため、hMGの投与量が増加するとされており、大学病院の医師らが原告に投与したhMG量二二五IUは、我が国の他の医療機関と比較しても同等程度かそれ以下であったと認められる(甲3、43、44、乙13、17、19ないし21、鑑定の結果)。そして、証拠を検討しても、大学病院の医師らがhMGの投与量について通常の場合と異なる配慮を行わなければならなかったとするべき事情も見いだせない(年齢の点については後記のとおりである。)のであり、原告に対するhMGの投与量が不適切であったということはできない。そもそも、OHSSの発生機序は完全には解明されておらず、排卵誘発剤を使用した体外受精を行う場合にその発生自体を完全に予防することは不可能ないし困難である(甲4、9、46、乙10、鑑定の結果、調査嘱託の結果)上、hMGの投与量とOHSSの重症度あるいは反応の数との間に相関関係はなく、投与量よりも患者の排卵誘発剤に対する感受性が重要な要素であるとの見解もみられること(甲4、乙4の2、18、鑑定の結果)を、上記の投与量についての検討に併せ考慮すれば、原告のOHSSの発症の原因をhMGの投与量に求めることには無理があるといわざるを得ない。

この点、原告は三〇歳の若年であった点を挙げるが、hMGの投与量を二二五IUとする医療機関について三〇歳以下の患者に対する投与量を二二五IUより減少させるべきとの指摘はみられない(甲43、44)。さらに、三五歳以下の若年の患者がOHSSのハイリスク患者として指摘される文献がみられる(甲4、9)ものの、原告の三〇歳という年齢についてどの程度のリスクが認められるのか必ずしも明らかではないし、それ以外の排卵障害、体型、エストラジオール、卵胞数、ネックレスサイン、妊娠、黄体維持療法、刺激法といったリスク要因(甲4、9)との関係の中で年齢というリスク要因がどれだけOHSS発症と結び付きが強いのかという点も不明であることからすると、原告が三〇歳であったということだけから大学病院の医師らが原告のOHSS発症を強く予想、警戒すべきであったともいい難い。

さらに、原告が指摘するhMG投与量を一五〇IU又は一五〇IUから漸増させていく方法は、無月経、無排卵症に対する治療として行われる場合か(甲7、8)、GnRHaとhMGとを併用しない場合(甲43、44)のいずれかについての量であり、原告に対する投与とは場面を異にする事例についてのものということができる。

なお、原告が指摘するとおり、大学病院においては、できるだけ多くの卵子を採取することが妊娠率の向上をもたらすという考え方に基づいて比較的多量のhMGが投与されていたが、本件事故の後の平成四年九月から、OHSSの予防指針(以下「予防指針」という。)を定め、初回治療で若年の場合にhMGの投与量を一五〇IUに減量しことが認められる(甲18)が、上記のとおりそれ以前の投与量が他の医療機関と比較して平均的なものであったこと、平成九、一〇年に公表された論文においても、なおhMGの投与量につき二二五IUとしている医療機関が存在すること(乙13、19)なども併せ考慮すれば、本件事故当時の医療水準として、hMGの投与量を二二五IUとしたことが不適切であったことを示すものとまではいえない。

イ hCG投与時のエストロゲン値の測定について

高エストロゲン血症がOHSSを起こすとは限らず、低エストロゲン血症でもOHSSを発症することがあること(甲4、45、鑑定結果、調査嘱託の結果)、原告のような遅発型のOHSSは、妊娠早期の血中hCGの上昇によって発症するため、エストロゲン値によるOHSSの発症予測が不可能であること(乙14の2)は、原判示のとおりである。また、エストロゲン濃度からOHSSの発症を予測することは一般的に困難であるとの見解もみられる(乙39の2、鑑定の結果)。

さらに、OHSSとエストロゲンの関係を肯定する見解においても、hCG投与を中止する指標として、より直接的に卵巣機能を反映するとされている血中エストロゲン値(甲46)につき(もっとも、血中エストロゲン値の測定はラジオアイソトープが必要で実地臨床上実用的でないとされる(甲46、証人B)。)、どの数値(単位はpg/ml)を用いるかに関して統一見解が得られておらず、証拠上みられるもので八〇〇、一〇〇〇、一七〇〇、三〇〇〇、四〇〇〇(甲4、5、調査嘱託の結果)と相当幅があるし(特に、甲4は、六頁では四〇〇〇より多ければハイリスク群、それ以下であればローリスク群と分類している一方で、別の執筆者による一七頁では一〇〇〇より多い場合にはOHSS発症の危険性が高くなると言及している。)、一二〇〇以上の場合にはhCGの量を五〇〇〇IUとするとして投与中止には言及しないものもある(甲44)。そして、簡易キットが開発されており一般の診療施設で測定可能な尿中エストロゲン値については、精度、感度に限界があることから(甲46)、より一層、hCG投与中止を判断するための指標として用いることに困難を伴うものと考えられる。

以上の点を考慮すると、原告へのhCG投与時にエストロゲン値を測定しなかったからといって、大学病院の医師らに注意義務違反があったと認めることはできない。

ウ hCG投与の中止について

hCG投与に先立って行われた超音波断層検査により、原告には発育卵胞数が左右一〇数個ずつ認められたが、その主席卵胞の最大径が一八ミリメートル、次席卵胞の最大径が一七ミリメートルであり、卵巣の大きさの異常も、重症のOHSSを発症するおそれが強いとされているネックレスサインも認められなかったところ、B医師は、直径一〇ミリメートル以上あるこれらの発育卵胞をすべて穿刺して採卵したことが認められる(乙1、証人B)。

OHSS発症の危険因子として小、中卵胞が多数発育していることを挙げる文献等がみられる(甲4、5、9、51、乙10、調査嘱託の結果)。そして、このような卵胞は未成熟であるために採卵されずにhCG投与後に嚢胞化して卵巣の腫大を招くことがOHSS発症と関係するため、卵巣腫大についてのチェックも併せて必要とするものもある(甲4)。また、OHSS発症予防法として、可能な限り卵胞を穿刺することを挙げるものもある(甲4、5、9)。これらの指摘に照らせば、B医師の上記所見及び処置は、OHSS発症のリスクを念頭に置きつつ妊娠可能性を残す方法として不合理ということができない。さらに、OHSSの発症については各患者の卵巣の感受性が重要との指摘や(甲4、乙4の2、18、鑑定の結果)、また、原告のような遅発型のOHSSの発症につき採卵数による予測は不可能であるとの指摘もある(乙14の2)。したがって、原告の採卵数が二七個であったことをもって、OHSS発症の可能性が高かったと認めることはできず、大学病院の医師らに原告に対するhCGの投与を中止すべき義務があったということはできない。

なお、原告が指摘するとおり、大学病院においては、本件事故の後の平成四年九月から、予防指針を定めてこれを施行してきたところ、採卵数一〇ないし一四個の場合と一五個以上の場合についての妊娠率に有意差が認められないのに対してOHSS発症率はおよそ五倍に上昇することが示されたため、B医師、C医師等が平成七年一〇月にこの点についての論文を公表したことが認められる(甲18)。しかし、大学病院におけるこのような研究は、不幸にして原告に起こった本件事故を契機に行われ、その結果得られた知見であったことが認められ、したがって、大学病院の医師らが本件事故以前に予防指針と同様の対応をとらなかったからといって、平成四年当時の医療水準に照らし、直ちに注意義務違反があったということまではいい難い。

(2)  重症化予防注意義務違反について

ヘマトクリット値が四五パーセント未満の軽度の血液濃縮をみるような場合には安静と水分補給が望ましいものの入院加療までは特に必要がないのに対し、同値が四五パーセントを超え、顕著な腹水を認めたり、急激に尿比重が高まってきたりする場合には入院が必要とされる(甲4、63、乙37、鑑定の結果、調査嘱託の結果)。本件の原告の場合、平成四年七月二日の時点でヘマトクリット値が40.1パーセントであり、その他に、特に入院加療を要するような症状もみられなかったのであるから、同日に原告を入院させなかったことをもって大学病院の医師らに注意義務違反があったとは認められない。

なお、上記のとおり、大学病院の医師らが原告に対する経過観察を行う義務を十分に尽くさなかったということはできるが、そのことをもって直ちに重症化予防義務違反を認めることも、経過観察義務違反と原告の脳血栓症又は脳塞栓症との間の相当因果関係を認めることもできない。

(3)  脳血栓症発症予防注意義務違反について

ア ヘマトクリット値について

入院時の原告のヘマトクリット値は、48.1パーセントであった(乙1)ところ、この数値は、異常とまではいえないが他の所見と合わせて警戒をし始めてよい程度の血液濃縮を示すものであった(甲63)。そして、その後の安静及び輸液により、原告の血液濃縮状態は、ヘマトクリット値をみる限り、改善傾向にあったということができる(甲63、調査嘱託の結果)。

この点、原告は、改善傾向にあったわけではなく、重症の領域内で変動を繰り返していたにすぎないとする。確かに、ヘマトクリット値が四五パーセントを超えた場合に重症と分類する文献もある(甲4、5、9、鑑定結果)が、これらのいずれも、その措置として輸液、蛋白補充、腹水除去等が求められているにすぎず、抗凝固剤、血栓融解剤等の投与を必要とするものはみられない。また、仮に重症の領域内であったとしても、原告の血液濃縮が、傾向として、改善の方向にあったということができる。そうすると、原告のヘマトクリット値の推移から、大学病院の医師らに血栓症や塞栓症の発症を疑って抗凝固剤、血栓融解剤等を投与すべき義務を認めることはできないというべきである(甲63)。

イ 腹水除去等

原告の腹水除去の量は一五〇〇ミリリットルであり、同時に一〇〇〇ミリリットルの輸液が行われたところ、このような措置は医療上問題ないということができる(鑑定の結果、調査嘱託の結果)。また、一五〇〇ミリリットルを約四〇分かけて除去しており、その時間についても問題はない(鑑定の結果)。午後一一時という時間についても、原告が強い腹満感を訴えたことへの対処であるからやむを得ないというべきであったし、このような時間に腹水除去を行うことが不適切であることをうかがわせる証拠もない。

さらに、OHSSの治療法として腹水除去を挙げる文献(甲4、5、9、42、52)をみても、ヘマトクリット値、血清蛋白、血液凝固能、尿量、腎機能、胸水をチェックしながらこれを行う必要があると指摘するものは見当たらない。かえって、腹水除去により血液濃縮が改善され、ヘマトクリット値が減少したとの研究結果もみられる(乙40の2)。

なお、原告は内科への転科又は相談が必要であったとするが、腹水除去の際、あるいは、それ以外の機会においても、原告の症状は、重症度のOHSSに一般にみられる症状と変わりがなく、また、ヘマトクリット値をみる限り血液濃縮は改善傾向にあったのであるから、本件において高度血液濃縮治療に関する上記諸検査を行うために内科に転科又は相談する具体的必要性を認めるに足りない。また、内科への転科又は相談によって結果が良くなったとまではいい切れない(甲63)ことからも、大学病院の医師らの義務違反を認めることはできない。

ウ 前駆症状について

原告主張の前駆症状を認めるに足りる証拠がないことは原判示のとおりである。診療録に記載されていないことについて、原告は記載漏れであると主張するが、記載漏れがあったことをうかがわせる事情も認められない。吐き気、おう吐、頭痛が血栓症又は塞栓症の指標となり得る(鑑定の結果)としても、他方で、吐き気、おう吐については重症度のOHSSに一般的にみられる症状であり、これらに通常の頭痛が伴うことにより大学病院の医師らに血栓症又は塞栓症を疑うことまで要求することはできない。また、本件において原告が腹水除去後に強い頭痛によってしばらく動くことができなかったことが認められる(乙1)が、原告のヘマトクリット値がほとんど上昇していなかったことや、原告がその後入眠したこと(この事実は原告の頭痛がある程度軽快したことをうかがわせる。)などからすれば、この時点においても、大学病院の医師らが原告の血栓症又は塞栓症を予測すべきであったとまではいえない。

エ 血液凝固検査の結果等について

原告の血液凝固検査の結果につき軽度の異常が認められるが、これは、原告のOHSSの状態からして当然のことであり、この段階で抗凝固剤による治療が必要であったとはいえない(甲63、調査嘱託の結果)。

オ 結論

以上から、大学病院の医師らに脳血栓症発症予防注意義務違反を認めることはできないというべきである。上記で認定した原告の症状の推移をみても、平成四年当時の医療水準を前提とする限り、OHSSの合併症としての血栓症又は塞栓症を現実に発症した事例が少数にとどまっていて、その治療に当たった経験を持つ医師の数が絶対的に少なかった上、知見としてもOHSS自体やそこから生じる合併症の発生機序につき未解明な点が多かったことからすれば、大学病院の医師らが、不妊治療の現場において、重症度のOHSSに一般的にみられる症状であるのか、それとも、それとは区別される血栓症又は塞栓症の発症の徴候であるのかを識別し、これに適切に対応することができなかったとしても、やむを得ないところがあり、そのことをもって医師の注意義務違反とすることは困難である(鑑定の結果、調査嘱託の結果)。

この点、原告が提出したD作成の「鑑定意見書」(甲63)には、脳梗塞の発症を予測することが可能であったとの記載がみられるが、「特にOHSSに脳梗塞の合併があることは昨今では広く知られている事実であるので」という前提の下に記載されており、平成四年当時の医療水準を前提とした意見ではないから、採用することができない。

(4)  説明義務違反について

ア(ア) 大学病院は、平成二年三月、本邦で初めて閉塞性無精子症の男性の精巣上体精子を使用した体外受精に成功し、その結果は大きく新聞に報道された(証人E、原告本人)。また、大学病院は、不妊治療に積極的に取り組む大学として知られていた(証人F)。原告夫婦は、新聞報道をみて自分たちも子供を持つことができるかもしれないと考え、大学病院において不妊治療を受けることとし、治療を開始した(証人E、原告本人)。

(イ) 平成四年当時、OHSSから血液濃縮が起こることは広く一般に認識されており(甲46、51)、血液濃縮が亢進した場合には血栓症又は塞栓症を発症する可能性があるという事実も一般化していた(証人B、証人F)上、OHSSの重症化により血液の濃縮が起こり、凝固亢進や血栓、塞栓形成のおそれがあることを指摘する論文等も存在し、これらのうちには、死亡例について触れるものや、脳血栓症、脳梗塞症の発症について報告するものもあった(甲5、6、10、11、12、13、29、41、42、47)。当時、我が国において、少なくとも、旭川医大(平成四年・論文)、秋田大(昭和五六年・翻訳、平成四年・研究報告)、東北大(平成二年・症例報告)、杏林大(平成三年・症例報告)、国立西埼玉中央病院(平成四年・症例報告)、東京女子医大(平成四年・症例報告)、自治医大(平成二、三年・症例報告)、岐阜大(平成二年・論文)がそのような知見を有していたことになる。

なお、平成四年ころの日本産婦人科学会の調査報告にはOHSSの副作用として重篤なものはなかった旨の報告があった(乙6、7)が、調査目的が副作用の把握を目的とするものではなく、副作用に関する調査方法も極めて簡便なものにすぎなかったこと(甲22)、実際に上記の実例が存在し、その中には重篤な例もみられることなどからすれば、学会による調査報告をもって上記知見の存在が否定されるとはいい難い。

(ウ) 平成四年当時、B医師は、OHSSに血栓症又は塞栓症を合併した海外の報告二、三例を英語の文献を読んで知っていたほか、国内の事例一例を知っており、自治医大がOHSSに関して凝固系の活性化についての研究を行っていることも知っていた(証人B)。

(エ) B医師は、本件事故後の平成四年七月八日、原告の姉であるGに対し、排卵誘発剤は血を固まりやすくする性質があり、その固まった血が原告の脳に飛んだと思われ、その血の固まりが心臓に飛べば心疾患となるし、肺に飛べば肺塞栓を起こすと説明した(証人G、証人B)。

イ  原判決が説示するとおり、不妊治療を行おうとする医師には、患者が不妊治療を受けるべきかどうかを自らの意思で決定できるようにするため、妊娠・出産が期待できる適切な不妊治療の方法や当該不妊治療を行った場合の危険性等について特に十分に患者に説明する義務がある。とりわけ、患者に重大かつ深刻な結果が生じる危険性が予想される場合、そのような危険性が実現される確率が低い場合であっても、不妊治療を受けようとする患者にそのような危険性について説明する必要があるというべきである。そして、このような説明義務は、患者の自己決定の尊重のためのものであり、そのような危険性が具体化した場合に適切に対処することまで医師に求めるわけではないから、その危険性が実現される機序や具体的対処法、治療法が不明であってもよく、説明時における医療水準に照らし、ある危険性が具体化した場合に生じる結果についての知見を当該医療機関が有することを期待することが相当と認められれば、説明義務は否定されないというべきである。

本件の場合、大学病院の不妊治療における地位及び評価からすれば、不妊治療を受けようとする患者は、大学病院に対し、治療内容のみならず、リスク管理についても通常の病院以上のものを期待していたというべきである。そして、OHSSと血液濃縮、血液濃縮と血栓症又は塞栓症との関係は広く知られていた上、OHSSと血栓症又は塞栓症との直接の結び付きについての知見も相当程度に広まりつつある状況であったということができる(特に、知見の普及はその伝達に要する時間が比較的短いのであり、実際に、上記の知見は、その後、短期間に普及して一般的なものとなり、大学病院も、原告の症例をきっかけにして、この問題についての研究を深めるに至っている(甲4、18、27、28、30、32ないし34)。)。しかも、B医師自身も、上記東北大学の症例報告を知っていたほか、海外の症例についても認識していた上、本件事故後に、原告の姉に対し、原告の症状について、その脳疾患が血栓形成によるもので、その血栓は排卵誘発剤を原因とする旨説明したというのであるから、B医師には、OHSSによって血栓症又は塞栓症が発症するという危険性についての認識に欠けるところはなかったというべきである。そうすると、原判示のとおり、B医師は、原告に対して本件の不妊治療を説明する際に、血栓症又は塞栓症発症の可能性や、血栓症や塞栓症を発症した場合の症状についてひととおりの説明をする必要があったというべきであり、普通の一般的な盲腸炎の手術程度の危険性を説明しただけでこの説明義務が尽くされたとは到底いえない。したがって、大学病院の医師らには説明義務違反があったということができる。

ウ(ア) この点、被告は、OHSSによって血栓症又は塞栓症が発症することの認識は当時ほとんどなく、学会報告の結果や地方部会の報告にすぎないものまで逐一調査することはできないなど主張とする。

しかし、上記認定のとおり、そのような知見は相当程度普及していたというべきである。そして、発生機序等が知られていないことが説明義務を認める妨げにならないことは上記のとおりである。また、B医師については、上記認定のとおり、OHSSの合併症としての血栓症又は塞栓症の発症について説明を行うに足りる知見を有していたということができる。さらに、大学病院の不妊治療についての地位及び評価を前提とすれば、患者がそのような危険性についての調査まで期待したとしても不当なものということができず、上記の知見の普及の程度も併せ考慮すれば、大学病院の医師らにそのような知見を獲得しておくように求めることも酷なこととはいえない。

なお、鑑定の結果には、排卵誘発剤を使用している患者の「産婦人科医は血栓症や塞栓症の可能性をほとんど認識されていなかった」との記載があるが、説明義務における知見と治療法における知見との相異を前提とすれば、原判決のいうとおり、重症度のOHSSの一般的な症状と血栓症又は塞栓症の発症の徴候との識別を念頭に置いた治療法が行われることはほとんどなかったとの意味であると理解することが可能である。

(イ) 被告は、発生可能性の程度が著しく低いものまで説明することには無理があるとするが、そのうち発生した場合に生じる結果が重大なものについて説明義務が肯定されるのであって、特に不可能を強いるものではないし、患者の自己決定の確保のために必要である以上、そのような手間を惜しむ理由もない。

(ウ) 被告は、そのような危険性の告知がいたずらに患者に不安感を抱かせるものであり、また、原判決は不妊治療の重要性、緊急性を理解していないと主張する。

しかし、不妊治療の重要性、緊急性を前提としたとしても、患者に対して重大な結果が生じる危険性についての説明が不要ということにはならない。説明によって患者に不安感が生じ、子供を持つという希望をあきらめるということになったとしても、患者の決断として尊重されるべきである。もちろん、医師が確率の低い危険性であることを説明して不安を除去することは十分あり得ることであるが、そのような不安を生じさせないために危険性を説明しないことは、患者の自己決定を排除して治療を実施することを意味し、不妊治療についてそのことを正当化する根拠を見いだすことはできない。いずれにせよ、このようにいうことが不妊治療の重要性、緊急性について理解していないとの非難は当たらない。

なお、被告は、医療の進歩の阻害についても言及するが、不妊治療の進歩のために患者に予想外の危険まで負担させる考え方は余りに不公平であって、到底支持することができない。

(エ) 原告は、原判決が治療に際しての大学病院の医師らの血栓症又は塞栓症の発症の予見可能性を否定しながら、説明義務を肯定することには矛盾があるとするが、上記の説明から明らかなとおり、医師の治療に関する医療水準については治療法自体についての知見の普及が必要であるのに対し、説明義務における医療水準は、危険性が具体化した場合に生じる結果についての知見が普及していれば足りるのであるから、全く論理矛盾は存在しない。

(5)  説明義務違反による損害額について

ア 全結果との相当因果関係について

原告は、OHSSのハイリスク患者であったから、説明義務が尽くされていれば治療の開始、あるいは、hCGの投与に同意しなかった蓋然性が高いとするが、原告が長年不妊に悩み、子供を持つことを切望していたこと、OHSSの重篤化によって血栓症又は塞栓症が発症する確率が極めて低いこと、原告の年齢が三〇歳でありOHSS発症のハイリスクの基準に該当するとしても、他のハイリスク要素と比較して年齢によるリスクの程度が必ずしも明らかではないことからすれば、原告が不妊治療を断念していた高度の蓋然性を認めることまではできない。また、大学病院における治療法がGnRHaを併用してhMGを投与した後にhCGを投与するという方法であった以上、hCG投与を拒否するということは治療そのものを拒否することを意味するから、原告が大学病院における不妊治療に同意しながらhCG投与について同意しなかったという事態を想定することはできない。

また、原告は、血栓症又は塞栓症の発症について危険性の認識があれば異常を感じた時点で大学病院の医師らに注意喚起をしたはずであるとする。しかし、これは、入院時から麻痺症状があったという事実を前提としているところ、この事実を認めるに足りる証拠がないことは上記のとおりである。そして、当時の治療に関する医療水準として重症度のOHSSの一般的な症状と血栓症又は塞栓症の発症の徴候とを識別することが困難であったことからすれば、原告が医師に対して血栓症又は塞栓症の発症に関する注意喚起等を行った高度の蓋然性を肯定することもできない。

イ 慰謝料額について

上記のとおり、説明義務を尽くされないまま原告に生じた結果が、全く予想外の結果のもので、期待していた結果との対比からしても、また、仮に説明義務が尽くされた結果として治療を断念した場合の結果との対比からしてみても、余りに深刻かつ悲惨な事態というほかなく、自己決定権が侵害されたことによる原告の精神的苦痛は決して小さくない。さらに、上記のとおり、大学病院の医師らは、原告に対する経過観察を怠ったことによって原告に精神的苦痛を与えたというべきである。したがって、上記のとおり、これを慰謝するのに相当な損害賠償金の額は、七〇〇万円が相当である。

なお、原告は、慰謝料額が一六〇〇万円を下らないと主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。

2  よって、原告の控訴は一部理由があり、その余は理由がないから、その旨原判決を変更することとし、被告の控訴はすべて理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・矢﨑正彦、裁判官・潮見直之、裁判官・西岡繁靖)

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