仙台高等裁判所秋田支部 平成3年(行コ)1号 判決 1994年6月27日
控訴人
大館労働基準監督署長小美野昌泰
右指定代理人
小林元二
同
新沼則男
同
平澤勝男
同
安部信雄
同
清水一男
同
西村浩昭
同
野田洋一
同
佐藤要
同
加賀屋光
同
梶原義雄
被控訴人
甲野花子
右訴訟代理人弁護士
沼田敏明
同
虻川高範
主文
一 原判決を取り消す。
二 被控訴人の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 控訴の趣旨
主文同旨
二 控訴の趣旨に対する答弁
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
第二当事者の主張
当事者双方の主張は、次のとおり改めるほかは原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。
一 原判決二枚目裏二行目(本誌五八二号<以下同じ>34頁1段6行目)「二〇分」を「半」と改める。
二 同二枚目裏七行目(34頁1段14行目)「一六日」を「七日」と、八行目(34頁1段17行目)「遺族補償金」を「遺族補償給付」と、九行目(34頁1段19行目)「は業務上の」から一〇行目(34頁1段20行目)「ではない」までを「原因である脳出血は業務に起因して発症したとは認められない」とそれぞれ改める。
三 同三枚目裏四行目(34頁2段18行目)「フックが当たり」の後に「(以下、その詳細な態様はともかく、右のワイヤー切断事故を『本件事故』という。)」を、五行目(34頁2段19行目)「受けた」の後に「(以下、その部位、程度等の詳細はともかく、本件事故による太郎の負傷を『本件負傷』という。)」をそれぞれ加え、以下、原判決事実摘示中「本件外傷」とあるのを「本件負傷」と読み替えるものとする。
四 同四枚目表五行目(34頁3段7行目)「帰宅したが、」の後に「頭痛を訴え、」を加える。
五 同五枚目表一〇行目(34頁4段24行目)「完全麻痺」を「完全片麻痺」と改める。
六 同六枚目表一〇行目(35頁1段32行目)「とその後の」の前に「及びそれ以前の過酷な作業環境下での過重な業務による疲労の蓄積」を加える。
七 同六枚目裏八行目(35頁2段13行目)「太郎の頭部」から九行目(35頁2段13行目)末尾までを「被控訴人主張の日時、場所において、大森要太郎が操作していたクレーンのワイヤーが切断し、吊荷の木製電柱三本(その重量は争う。)、フック及びワイヤーの一部が落下したこと並びにその際、その下で中腰の姿勢で作業していた太郎が負傷したことは認めるが、本件事故の態様及び本件負傷の内容は否認する。」と、一〇行目(35頁2段16行目)「顔面の」を「落下したワイヤーの切断面の一部が顔面に接触したため、」とそれぞれ改める。
八 同七枚目表一〇行目(35頁3段4行目)「概ね」を削る。
九 同八枚目表七行目(35頁4段4行目)「考えられ、」から一〇行目末尾(35頁4段10行目)までを「考えられる。」と改め、同九枚目表初行末尾(36頁1段3行目)の後に改行して「仮に、太郎の死亡原因が非外傷性の脳内出血でないとするなら、本件負傷以降本件発症に至るまでの同人の稼働状況、本件発症後死亡時までの症状経過、治療内容等に照らして、本件発症は、非外傷性のくも膜下出血の発作であり、その後入院中に再発作が起こって同人は死亡したものである。」を加える。
一〇 同九枚目表九行目(36頁1段17行目)「発症」の前及び同行目(36頁1段18行目)「脳内出血」の後にそれぞれ「又はくも膜下出血」を加える。
第三証拠
原審及び当審記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
一 請求原因1及び2の各事実は、当事者間に争いがない。
二 太郎の死亡の業務起因性について
労働者災害補償保険法七条一項一号、一二条の八第一項四号、五号、同条の八第二項、労働基準法七九条、八〇条、七五条一項によれば、死亡した労働者の遺族が労働者災害補償保険法一二条の八第一項四号及び五号に基づき、遺族補償給付及び葬祭料を請求できるのは、労働者が業務上の事故により即死した場合のほか、業務に起因する疾病により死亡した場合であるが、右にいう業務に起因する疾病の範囲は、労働基準法七五条二項、同法施行規則三五条により同規則別表第一の二(以下、単に「別表」という。)に掲げられたものをいうこととなる。
そこで、以下、太郎が別表に掲げられた疾病により死亡したと認められるか否かについて検討する。
1 太郎の直接死因
前記請求原因1の事実、成立に争いのない(証拠・人証略)、原審における被控訴人本人尋問の結果、原審における鑑定の結果に弁論の全趣旨を総合すると、本件発症は、外傷性か非外傷性かはともかく、出血性脳血管疾患の症状の発現であり、その後の右疾病の増悪により脳幹部の神経障害による消化管出血及び嘔吐が発生し、吐物の誤嚥又は喀出不能により太郎は窒息死したこと、一般に出血性脳血管出血に罹患した場合、脳幹部の神経障害により消化管出血や嘔吐が発生することは稀ではなく、その機序について医学的説明が可能なことが認められ、右認定に反する成立に争いのない(証拠略)の各記載中、太郎の傷病名を「脳梗塞」(<証拠略>では「脳硬塞」と表記)とする部分は前掲各証拠に照らして採用できない。
右認定事実によれば、太郎の直接死因は気道閉塞による窒息死であり、それはもっぱら太郎の罹患した出血性脳血管疾患がもたらしたものと認められる。
2 出血性脳血管疾患の鑑別と業務起因性その一(因果関係論総説及び前提となる事実経過等)
そこで、太郎の罹患した出血性脳血管疾患が別表に掲げる疾病に該当するか否かについて検討するに、本件の事案の内容からして、問題となり得るのは別表一号の「業務上の負傷に起因する疾病」(以下「災害性疾病」という。)又は同九号の「その他業務に起因することの明らかな疾病」(以下「包括疾病」という。)に限定される。
ところで、(証拠略)によれば、当該症例が具体的にいかなる種類の出血性脳血管疾患であるかを確定的に鑑別(確定診断)するには、太郎の死亡した昭和五三年当時においても、精神、神経症状等の所見のほか、脳血管撮影及びCTスキャン等による諸検査が必要不可欠とされていたことが認められるが、(証拠略)及び原審(人証略)の証言並びに原審における被控訴人本人尋問の結果によれば、太郎が搬送された鹿角中央病院には、当時、CTスキャンはなく、脳血管撮影をなし得る設備もなかったことから、これら諸検査はなされていないこと及び太郎の死後に解剖もなされていないので、解剖所見も存在しないことが認められる。したがって、太郎の罹患した出血性脳血管疾患の具体的種類(疾患名)や発症部位(出血部位)を医学上一点の疑義も残さない程明確に確定するのは不可能に等しく、証拠により認定される諸事情と証拠として提出された医学的知見から、これを可及的合理的に推認していくほかない。しかして、本件事故により太郎が負傷したこと自体は当事者間に争いがなく、負傷の部位、内容、程度等がいかなるものであるにせよ、本件負傷が業務に起因することは明らかというべきところ、医学的知見を基礎として合理的に推認される太郎の疾病が、本件負傷に起因するか、または、太郎の業務ないし右業務及び本件負傷の双方に起因するものと認められるならば、右疾病は、災害性疾病又は包括疾病に該当するものというべきであるが、右各起因性を肯定するには、本件負傷又はこれと業務が右疾病発症の唯一の原因である必要はなく、他に共働原因となったと推認される素因、基礎疾患等があったとしても、本件負傷又はこれと業務が相対的に有力な原因であると認められれば足りるものと解するのが相当である。
以下、右の見地から検討する。
(一) 太郎の生活歴、家族歴及び基礎疾患等
前掲(証拠略)、成立に争いのない(証拠・人証略)、原審における被控訴人本人尋問の結果によれば、太郎は、昭和一四年一〇月五日生れ(死亡当時三九歳)で、昭和四二年、被控訴人と婚姻し、当時、猿田電気に電気工として勤務していたが、その後、約二年間小坂通運で雑役夫として稼働した後は、いずれも電気工として二箇所に勤務し、昭和五〇年以降は死亡時まで四戸電気工事店において稼働し、もっぱら配電工作業に従事していたこと、太郎は、被控訴人と婚姻した当時からほぼ毎晩晩酌として日本酒二合程度を飲酒し、時には家族や同僚と外で飲酒することもあり、四戸電気工事店勤務当時、二日酔いで翌日欠勤することもあったこと、太郎は、本件事故に遭うまで被控訴人を含む本人以外の者からは健康状態に格別異常はないと見られていたこと、少なくとも死亡前約三年間医療機関で受診した形跡はないこと、ただ、四戸電気工事店勤務当時、職場で同僚等に血圧が高い旨述べることがあったが、同工事店では従業員に対する定期健康診断は実施しておらず、また、太郎が個人的に健康診断を受けた形跡もないこと、太郎は、両親を同じくする五人兄弟(ただし、末弟は幼くして死亡)の二男(出生順で二番目)であるが、長男は、三五歳の時、いわゆる脳溢血に罹患し、母親も若年時ではないが脳溢血に罹患したこと、また、死亡届の記載によれば、太郎の父親及び父方の祖父も脳溢血で死亡(父親は死亡当時四四歳)したとされていることが認められる。原審証人(人証略)の証言(第一、二回)及び原審における被控訴人本人尋問の結果中には、太郎の父親及び祖父の死亡原因がいずれも脳溢血でないとする部分があるが、その証言及び供述には一貫性がなく、いずれも伝聞であることが明らかであるから、にわかに採用できない。
右によれば、太郎は、本件事故当時まで健康状態に格別異常はなかったやにも見られるが、その家族歴等に照らしても、脳血管疾患に罹患し易い素因又はその発症の基礎となる高血圧症等の基礎疾患を有していた可能性が低くはないが、確証はない。(証拠略)(医師林成章作成の太郎の死亡診断書)には、太郎が三年前から高血圧症であった旨の記載があるが、原審証人(人証略)の証言によれば、右は、太郎が前記病院に搬送された際に付き添って来た四戸由博(四戸電気工事店経営者、以下「四戸」という。)の言にのみ基づいて記載されたものであるところ、原審証人(人証略)の証言によっても、四戸は、太郎から血圧が高い旨聞いたことがあるだけで、血圧測定値等の医学的根拠から同人が高血圧症であることを確認していたものでないことが明らかであるから、太郎が高血圧症であったと断定することはできず、その可能性が低くないというにとどまるというべきである。
(二) 本件事故の態様及び本件負傷の内容
前掲(証拠略)、原本の存在とその成立に争いのない(証拠略)、原審証人(人証略)の証言により真正に成立したものと認められる(証拠略)、原審(人証略)の証言により真正に成立したものと認められる(証拠略)、原審(人証略)の証言により真正に成立したものと認められる(証拠略)、前掲(証拠略)により本件事故当時太郎が着用していた保安帽を太郎の死亡後に撮影した写真であると認められる(証拠略)、原審(人証略)の証言及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる(証拠略)、原審(人証略)の各証言に弁論の全趣旨を総合すると、昭和五三年一二月二七日午後一時半ころ、鹿角市<以下略>の四戸電気工事店作業場において、同工事店の従業員大森要太郎が建柱車のクレーンにより同車に積載していた木製古電柱を同作業場内に降ろす作業中、二、三本の右電柱を二点吊りで地上に降ろそうとした際、ワイヤーの巻きすぎにより(クレーンのビームを延ばしすぎたことにより必然的にワイヤーが巻かれすぎた可能性もある。)、ワイヤー(金車及びフックを吊るワイヤーと推測される。)が切断され、ワイヤーの全部又は一部、金車及びこれと一体をなすフック(金車及びフックの重量が合計約三〇・八キログラムであることは当事者間に争いがない。)並びに吊荷である右電柱が落下する本件事故が発生したこと(右日時、場所において、大森要太郎が操作していたクレーンのワイヤーが切断し、吊荷の木製電柱、フック及びワイヤーの一部が落下したことは当事者間に争いがない。)、本件事故当時、右クレーンのビームの先端の地上高は約五メートルを超えることはなく、四メートル未満であった可能性があり、落下前の金車及びフックの地上高は高くとも約三メートルであったこと、本件事故当時、太郎は、プラスチック製の耐電型保安帽を着用して右吊荷の下付近の地上において中腰の姿勢で束になったアース線を巻いた紙を剥がす作業をしていたこと、右保安帽は、物理的衝撃、外力の作用に対しては強度の耐用性を有するものではなく、高所から落下したりすると破損することがあること、本件事故直後、太郎は、後ずさりするようにし、タオルで鼻及び口付近を押さえていたが、転倒はしなかったこと、太郎が着用していた保安帽は地上に落ちたが、破損することなく、物体の衝突等の外力によることが明らかな損傷もなかったこと、本件事故により落下した右電柱は太郎に当たってはいないが、太郎は、右事故により少なくとも顔面の鼻の左下端及び口唇部左側上下二箇所に比較的小さな擦過傷又は軽度の圧挫傷を負ったこと(本件事故の際、太郎が右落下物の下で中腰の姿勢で作業していたこと及びその具体的態様、疾患内容はともかく、本件事故により太郎が負傷したことは当事者間に争いがない。本件負傷の部位、内容、程度が右外傷に尽きるものか否かは後に検討する。)、四戸は本件事故現場付近で作業中、ワイヤーの切断音と思しき音を聞いて本件事故を察知し、太郎が後ずさりしてタオルで顔面の一部を押さえている様子を現認したので、直ちに太郎のもとに行き、「大丈夫か」、「病院に行くか」と声を掛けたところ、太郎は、「何ともない」と返答したこと、そこで、四戸は、本件事故現場に隣接する右工事店事務所において、太郎の負傷箇所に塗り薬を付けさせたこと、その後、後記認定のとおり、太郎は、格別身体の異常を周囲の者に訴えることもなく、切断したワイヤーの修復作業等をして夕刻まで他の同僚等と共に就労したこと、以上の事実が認められる。
右認定事実によれば、本件事故により落下したワイヤーの一部及び金車、これと一体をなすフックの双方又は一方が地上に達する前に太郎の顔面又は頭部に当たったものと推認される。しかし、それ以上具体的に右ワイヤー等のどの部分がどのような態様で太郎の頭部又は顔面のどの部位に当たったのか、その際、太郎の身体のどこにどの程度の外力作用が加わったのかを確定できる証拠はない。ただ、右認定事実から推究していくと、金車及びフックの重量、本件事故直前の金車、フックの地上高及び太郎の作業姿勢を前提として、それ程物理的衝撃、外力の作用に対して耐用性を有しない太郎の着用していた保安帽に破損又は明らかな損傷が見られないことを考慮するなら、保安帽を着用していた太郎の頭頂部付近を落下してきた金車及びフックがそのまま直撃したとは考えられないし、本件事故後の太郎の状態や後記認定のような本件発症時までの太郎の就労状況からして、本件事故による太郎の身体に対する外力作用が、脳幹部又はそれ以外の脳実質に即刻重大な損傷を与える程強いものであったとは到底考えられない。また、クレーンの旋回中、ワイヤーの巻きすぎによりこれが切断したなら、ワイヤーは、単に垂直に落下したのではなく、左右に横振れしながら落下した可能性があるが、太郎の顔面の創傷の程度からして、激しく横振れしながら落下するワイヤーの一部が同人の顔面を側面(左側)から直撃したと推認するには無理がある。同様に、金車及びフックが保安帽を着用した太郎の頭頂部付近以外の頭部及び顔面の双方又は一方に当たったとしても、金車及びフックの重量、本件事故直前の右金車等の地上高及び太郎の姿勢、保安帽に明らかな損傷が見られないこと並びに顔面の創傷の程度に照らして、金車及びフックが、保安帽を着用していた太郎の頭頂部付近以外の頭部又は顔面に激しい勢いで衝突したと考えるのも困難である。なお、右認定のとおり、本件事故直後、太郎は、後ずさりしているが、これは、落下した金車及びフック、あるいはワイヤーが頭部又は顔面に衝突した物理的衝撃によるものとは解されない。すなわち、後ずさりする程の物理的衝撃を受けたとすれば、太郎の創傷(外傷)は右認定程度のものでは到底済まないと考えられるから、太郎は、不意に右金車等が顔面に当たったことに驚愕して咄嗟の防衛、逃避的反射運動として後ずさりしたものと推認するのが相当である。因みに、原審証人(人証略)は、本件事故により太郎が負傷する瞬間は目撃していないものの、同人とともに作業していた同僚等の中では金車及びフックの落下状況を比較的詳細に目撃していたやに見られるところ、同人は、金車及びフックは直接地上に落下したのではなく、太郎のすぐ横に積まれていた複数のコンクリート製電柱(最も高い部分で地上から約一・五メートル)のどこかの部分に一旦落下し、そこから右各電柱上を転がり落ちるようにして最終的に地上に落下し、太郎の前方で動きを止めた旨証言しており、他にこれを裏付ける客観的証拠はないものの、右証言の信用性に特段疑問を差し挟むべき証拠もない。右証言と太郎の保安帽の損傷の点及び顔面の創傷の部位、程度からすれば、仮に、金車及びフックが保安帽を着用した太郎の頭部及び顔面の双方又は一方に当たったとしても、それは、一旦右コンクリート製電柱上に落下した右金車等が転がり落ちるようにして地上に落下して行く過程において生じたものと考えるほかないから、右金車等の重量を考慮しても、太郎の身体に対して強い外力作用が加わったとは考えにくい。
そうすると、証拠上、本件負傷の具体的部位、内容、程度が右認定の顔面の創傷に留まらず太郎の身体、特に頭部(頭蓋内)に生じた何らかの損傷を含むとしても、その成因となった外力作用は特に強いものであったとは認め難い。
なお、後記のとおり、被控訴人は、原審におけるその本人尋問において、「本件事故当日、帰宅した太郎の右肩付近にひっかいたような傷があった。」旨供述し、前掲(証拠略)にも同旨の記載があるほか、前掲(証拠略)には、「右肩に手拳大の赤く腫れたところがあり、湿布をした。」旨の記載部分がある。右によれば、被控訴人の見た太郎の右肩付近の外傷様のものが、擦過傷のようなものなのか、または、炎症性の腫張のようなものなのかが判然とせず、被控訴人の右供述等は、やや信用性に乏しい。この点を措くとしても、前掲(証拠略)、昭和五三年一二月二七日午前、太郎が運搬していたとの同種類のパンザーマストを撮影した写真であることにつき争いのない(証拠略)に弁論の全趣旨を総合すると、太郎は、本件事故のあった日の午前中、成田聡とともに、一個の重量約三〇キログラムないし約五〇キログラムのパンザーマスト(組み立て鋼板柱)を一人又は二人で肩に担ぎ、山中の登り斜面もある場所を四、五〇〇メートル運搬する作業をしていたことが認められることに照らすと、被控訴人が、本件事故当日、帰宅した太郎の右肩付近に右のような何らかの外傷様のものを見たとしても、それは、同日午前中のパンザーマストの運搬作業の際生じた可能性があり、これが本件事故によって生じたと直ちに認めることはできず、他に、太郎が、本件事故により右肩付近を負傷したことを認めるに足りる証拠はない。
(三) 本件事故から本件発症に至る経過
(1) 稼働状況等
前掲(証拠略)、ワイヤーのさつま編み作業を撮影した写真であることにつき争いのない(証拠略)、昇柱器及びこれによる昇柱作業を撮影した写真であることにつき争いのない(証拠略)、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる(証拠略)、原審(人証略)の各証言に弁論の全趣旨を総合すると、太郎は、本件事故当日、前記認定のとおり、顔面の負傷箇所に塗り薬を付けてから、作業に復帰し、本件事故により切断したワイヤー(一本のワイヤーは六本の鋼線からなる。)を、「さつま編み」といわれる各鋼線をほぐしてこれを複雑に組み合わせ編み上げて修復する熟練と根気を要する作業をした後、本件発症の現場でコンクリート製電柱を建てる作業を他の従業員とともに夕刻まで行なったこと、翌昭和五三年一二月二八日、太郎は、平常の時刻に出勤し、秋田県鹿角郡小坂町内の現場で、他の従業員とともに木製電柱をコンクリート製電柱に建て替え、電線を張り替える作業に終日従事したこと、太郎は、右作業において、回数はそれほど多くはないが電柱に昇り降りしており、木製電柱に昇るには足に昇柱器といわれる器具を装着してその爪を電柱に打ち込みながら昇ったが、それには体力を要すること、本件発症の日である同月二九日、太郎は、右同様通常に出勤し、午前中から、鹿角市十和田毛馬内字高田内所在の現場で、他の従業員とともに、右二七日に建てたコンクリート製電柱に電線を張る作業をしていたところ、同日、午後四時三〇分ころ、本件発症をみたこと、以上の事実が認められるほか、四戸や太郎の同僚は、本件事故後作業に復帰してから本件発症に至るまでの間、太郎が身体の不調を訴えたりしたことはないし、同人の様子に格別異常はなく普段どおり作業をしていた旨一致した証言又は控訴人署員に対する供述をしている(<証拠略>)。しかし、太郎に異常は見られず普通どおり作業していた旨の右証言や供述は、後述する被控訴人の供述(被控訴人作成の報告書及び被控訴人からの聴取書の記載を含む。)するところの太郎の右期間内における家庭での状況と隔絶するやにも見られる。しかして、太郎の死亡に業務起因性が認められると本件は労災事故というべきところ、一般に労災事故が発生すると、使用者は、民事上の責任を追及されるほか種々の不利益を被ることから、時としていわゆる労災隠しをしてその責任や不利益を免れようとすることがあるのは経験則の教えるところであるから、右証言や供述の信憑性は吟味されるべきである。しかるところ、太郎の家庭での状況についての被控訴人(前同)の供述を除いては、四戸や同僚の右証言や供述と矛盾、抵触するような具体的証拠は存しない。また、被控訴人の供述(前同)によっても、太郎が被控訴人ら家族に対して、頭痛等の身体の不調により、「同僚とともに仕事ができなかった。」、「仕事を中断して休憩した。」、「休憩、早退、翌日の欠勤又は通院のための職場離脱等を求めたが、四戸が許可しなかった。」等のことを述べていたとは認められない(被控訴人の供述(前同)中には、太郎は、本件事故を起こした大森要太郎を庇って頭痛等を我慢した旨被控訴人に述べたという部分があるが、仮にそうだとしても、激しい頭痛や身体の不調があれば、本件事故との関連を言わずに欠勤等することもできたと思われるが、太郎はそこまではしていない。)。してみると、四戸や同僚の右証言や供述は、同人らの見たところでは、太郎は、格別異常なく右認定のような体力や集中力を要するような作業をも行なっていたという限りでは信憑性があるというべきである。
(2) 家庭での状況
被控訴人は、原審におけるその本人尋問において、「本件事故当日、太郎が帰宅したところ、鼻や口唇付近にかすり傷が、右肩の上部にひっかいたような傷があったほか、鼻孔内に血腫があり、同人は、頭痛等を訴え、晩酌はコップ三分の一程度飲んだだけで、夕食もうどんを少量しか食べないで早めに床に就いたが、頭痛がすると言って一晩眠らなかったように思う。翌昭和五三年一二月二八日は、普段午前六時ないし六時三〇分ころ起きる太郎が起きてこないので、被控訴人が午前七時ころ起こしたが、頭痛等を訴え、洗面等もせず朝食も全く摂らないで出勤した。同日帰宅した後も、依然頭痛等を訴え、晩酌をほんの少ししただけで夕食も食べずに早めに床に就いた。被控訴人が、太郎に持たした弁当を見たところ、ご飯を二口位食べただけであった。太郎は、この晩も眠れない状態であった。同月二九日も、太郎は、自ら起きず被控訴人が午前七時位に起こしたが、頭痛(こめかみの疼痛)を訴え、朝食も食べずに出勤した。被控訴人が、後に見たところ、この日、太郎に持たせた弁当も少し箸を付けた程度でほとんど食べていなかった。」旨供述し、前掲(証拠略)(被控訴人作成の報告書)、(証拠略)(弁護士井上克樹の被控訴人からの聴取書)、(証拠略)(控訴人署員の被控訴人からの聴取書)及び(証拠略)(右同)にも同旨の記載がある。前記のとおり、被控訴人の供述(前同様、右各報告書及び聴取書を含む)は、四戸や同僚の証言等する職場での太郎の様子と隔絶しているやに見られる。しかして、被控訴人の供述によれば、太郎は、本件事故から本件発症に至るまでの二日間、かなりの頭痛や身体の不調を自覚し、ほとんど食事をせず、睡眠もとっていなかったことになるが、いかに太郎が電工として熟練していたとはいえ、体力を要し、また、高所での作業等危険を伴うから相応の注意力、集中力も要すると考えられる前記認定のような作業を、周囲の者が同人の身体の異常、不調を気付かないくらい普段と変わりなくこなしていけたとはにわかに考えにくい。また、被控訴人の供述どおりとすれば、太郎の家庭での状況は単なる一時的な身体の不調ではすまず、尋常ならざるものであったといわざるを得ないが、そうだとすれば、妻である被控訴人が、何故、無理矢理にでも太郎に医師の診察を受けさせたり、同人を欠勤させなかったのかとの疑問が生ずる。そうすると、被控訴人の右供述をそのまま全面的に採用することは躊躇せざるを得ないが、反面、他の証拠に照らしてこれがすべて虚偽であると断ずることもできない。
(3) 以上によれば、太郎は、本件事故後本件発症に至るまでの間、頭痛、食欲不振等の自覚症状があり、その身体の不調、特に頭痛の程度は、本人が内心に秘めておくだけで敢えて妻にも話す気にもならない程ごく軽微なものではなかったが、職場ではこれを周囲の者にさとられず普通どおりに作業ができる程度のものであったと一応推認するのが相当である。
(四) 本件発症から死亡に至るまでの経過
前掲(証拠略)、原審(人証略)の各証言並びに原審における被控訴人本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。
(1) 昭和五三年一二月二九日午後四時三〇分ころ、前記鹿角市十和田毛馬内字高田内所在の現場で、太郎において、電柱上の地上約一〇メートル付近で作業中、突然、左手、左足をだらりとして具合が悪くなる本件発症が起こった(右事実は当事者間に争いがない。)。太郎の異常に気付いた同僚が太郎を電柱から降ろし、近くの民家に連れて行って寝かせたが、同人は失禁しており、民家では、発汗し、片手(証拠上明確でないが、おそらく右手と推測される。)で後頭部から後頸部付近をさすっていた(その際、頭痛を訴えていたという同僚もいる。)。
(2) 太郎は、右同日午後六時五分ころ、救急車で鹿角中央病院に搬送されたが(太郎が右病院に搬送されたことは当事者間に争いがない。)、搬送に当たった救急隊員の現場到着時の所見は、意識不明、脈拍緩慢、呼吸正常、顔色蒼白、瞳孔うつろうで、搬送中酸素吸入措置が採られた。
(3) 太郎は、右病院到着後直ちに入院したが、その当時同人は、同病院の林医師の所見では、左側麻痺、歩行不能、発語及び応答不能で意識不明瞭であったが、痛覚刺激に対する反応はあり、血圧は二四〇/一二〇mmHgである。なお、看護婦に対しては、頭痛を訴えていた形跡がある。
(4) 右林医師は、太郎の症状等からして脳内出血を疑い、脳内の血液循環を改善する低分子デキストラン、ビタミンB剤、細胞代謝賦活性剤、意識障害治療剤、呼吸調節剤、強心利尿剤及び降圧剤等を投与した。被控訴人は、同日午後六時一五分ころ、子息とともに右病院に到着したが、その際、太郎は「お前達、何しに来た。」、「こめかみが痛い。」旨述べ、左腕の点滴を右手で取ろうとし、被控訴人の見たところでは、左腕もいくらか動かし、左右の足をこするようにしていた。また、太郎が、「寒い」と悪寒を訴えたため、看護婦が同人の足元付近に湯たんぽを置いた。そのころから、太郎が被控訴人らに頭痛等を訴えることはなくなり、「トイレに行きたい。」と言って自ら起き上がろうとする動作をしたりしたが、その後、太郎は、興奮状態となった。同日午後八時ころ、兄夫婦が右病院に赴いたところ、太郎は、「俺は何の病気だ。」との趣旨のことを述べ、さらに、身体を動かすため、左腕の点滴が血管から外れたため、左足に点滴したが、同人が右足でこれを外そうとするので、同人の嫂が同人の両足に跨がって押さえ付けるようにした。また、そのころ、太郎は、「暑い、暑い」と言ってバスタオルであおぐような動作をした(被控訴人は、太郎が両手を使ってバスタオルであおぐようにした旨供述し、前掲<人証略>は、右手でこれをした旨証言する。)。右林医師は、鎮静剤を投与したが、太郎の興奮状態は同日午後一〇時三〇分ころまでは改善されなかった(なお、看護記録では、それまでの間の太郎の所見として、瞳孔反射に関すると推測される「左>右」との記載及び「上肢除能強直云々」との記載があるが、それらの意味は、右記載者である前掲<人証略>の証言によっても解明できない。)。その後、太郎は何も言わなくなり、興奮状態はやや改善されたが、時々痰を絡ませたり、吃逆(しゃっくり)があった(そのころ、呼吸障害が生じて、酸素吸入又は人工呼吸の措置をした形跡がある。)。同年一二月三〇日午前〇時ころの血圧は二五〇/一二〇mmHgであった。
(5) 右同日午前〇時四五分ころ、太郎の容態が急変して呼吸困難となったため、林医師は、強心剤、呼吸調整剤及び抗生剤等を投与して心臓マッサージをしたところ、自発呼吸が見られるようになったが、いびき様の呼吸であった。同日午前一時三〇分ころ、太郎の血圧は二四〇/一二〇mmHgであり、そのころ、絡んだ痰の吸引措置をしたが、同人は、コーヒー様の痰を排出した。同日午前二時ころ、再度痰の吸引措置をしたが、午前二時三〇分ころ、太郎は、大量のコーヒー様吐物を排出し、全身が青黒くなり午前二時三五分、死亡した(太郎が、右病院で、右時刻に死亡したことは当事者間に争いがない。)。
右認定につき補足するに、鹿角中央病院入院後死亡するまでの間の太郎の容態や診療経過については、看護記録を含む診療録の記載が時系列的に正確に整理された詳細なものとはいえず(例えば、診療録には、一二月二九日欄に「呼吸促迫」、「痙攣発作」との記載部分があるが、それが同日のいつの時点の所見であるかは右林医師の証言によっても不明である。)、右林医師や当時の担当看護婦であった前掲(人証略)の各証言も記憶の欠落が多いため、右認定事実のうち、特に太郎の言動等に関する部分の多くは、被控訴人本人の供述や太郎の親類の証言に依拠している。したがって、これらは、医師、看護婦等の専門家の観察、見分に基づく供述、証言ではないので、細部については医学的見地から疑問が生ずるかもしれないが、右供述及び証言の信頼性を根本から否定せざるを得ないような事情を認めるべき証拠はない。
以上の事実関係に基づいて、検討を進める。
3 出血性脳血管疾患の鑑別と業務起因性その二(医学的及び法的考察)
(一) 外傷性急性硬膜下血腫の可能性
(1) 被控訴人は、第一次的には、太郎の死亡原因となった出血性脳疾患は、本件事故に起因する外傷性急性硬膜下血腫の特殊型である旨主張し、これに副う証拠として(証拠略)(いずれも日本大学医学部助教授、同学部附属駿河台日大病院脳神経外科部長である佐藤公典医師作成の意見書)及び原審(人証略)の証言(以下、右各意見書と証言を総称して「佐藤意見」という。)が存在する。ところで、前掲(証拠・人証略)(秋田県立脳血管研究センター病院長)の証言及び原審における鑑定結果(鑑定人右中島医師、以下、右証言と鑑定結果を総称して「中島鑑定」という。)、前掲(証拠略)(新妻博医師作成の意見書。同医師は、右意見書作成当時東北大学医学部附属病院脳神経外科講師であり、後記原審証言当時は、国立仙台病院第二脳神経外科医長)、成立に争いのない(証拠略)(右同)及び原審証人(人証略)の証言(以下、右各意見書と証言を総称して「新妻意見」という。)並びに前掲(証拠略)(東北大学医学部教授、同大学附属脳疾患研究所長である小暮久也作成の意見書)及び当審証人(人証略)の証言(以下、右意見書と証言を総称して「小暮意見」という。)によれば、頭部外傷又は頭部打撲に起因する外傷性の出血性脳血管疾患としては、通常、頭蓋内の出血及びそれによる血腫の生ずる部位により、脳実質(脳組織)内に血腫を生ずる脳内血腫、くも膜と脳実質に接する軟膜との間に出血するくも膜下出血、くも膜と硬膜との間に血腫を生ずる硬膜下血腫、硬膜と頭蓋骨との間に血腫を生ずる硬膜外(上)血腫の四種に大別されること、硬膜下出血は、さらに急性、亜急性及び慢性と三種に分類されるが、その定義については分類の観点、発症機序の理解等から学説上必ずしも一致を見てないが、伝統的には、受傷後から発症までの期間を基準として、おおよそ三日以内のものを急性、それ以降三週間以内のものを亜急性、三週間以降のものを慢性というものとされていることが認められる。
佐藤意見は、右伝統的分類に従った急性硬膜下出血の定義を前提として、主に高血圧性脳内出血の可能性との対比から(その理由は、控訴人が原審当時においては、太郎の死因が非外傷性の高血圧性脳内出血であるか、その蓋然性が高いと主張していたことにあると推測される。)、結論として、太郎の死因となった疾患は、本件負傷による急性硬膜下出血の特殊型と考えるのが妥当であるという。その理由の要旨は次のとおりである。すなわち、「高血圧性脳内出血とした場合、本件発症時の太郎の麻痺の状況からして、考えられる出血部位は、被殻又は視床であるが、これらの場合、意識障害が進行する前に完全な弛緩性麻痺が出現するはずであるが、太郎にはそれが見られないこと、また、発症後、頭蓋内圧亢進を抑制するような治療をしない限り、麻痺の程度が一時的にでも軽減することはないはずであるが、本件では、右治療をしていないのに、麻痺の軽減が見られること、興奮状態になることは少ないのに、本件ではこれが発生していること、頭痛を伴うこともあるが激しいものでないのに、本件では発症後の頭痛の程度は軽いものではなかったと推測されること、知覚障害が先行するはずであるが(視床出血の場合)、本件ではその形跡がないこと等に照らして、高血圧性脳内出血と考えるには疑問がある。急性硬膜下血腫の多くは、脳実質の損傷を伴い、したがって、受傷直後から脳症状を呈するのに対し、慢性硬膜下血腫は軽微な外傷によるものが大多数である。しかし、急性硬膜下血腫でも脳実質の損傷を伴わないかこれがほとんどない例が少数だがある。この場合、外傷時の外力は大きいものではなく、顔面外傷のみによってもかような急性硬膜下血腫が生ずる可能性がある。本件の場合、硬膜下血腫であるなら、本件負傷から本件発症時までの太郎の頭痛及び食欲不振は、血腫形成及びその増大による頭蓋内圧亢進による症状と考えられる。一般に急性硬膜下血腫では突然片麻痺が発現することはないが、脳実質の損傷を伴わないものであれば、慢性硬膜下血腫でも見られるように突然片麻痺が発現することもあり得る。本件の場合、発症後、一時的にせよ麻痺の程度が改善していること、痙攣発作が出現していること、意識障害が進行する前に完全片麻痺になっていないこと、興奮状態が続いたことは、硬膜下血腫とすれば、矛盾なく理解できる。以上のような発症までの症状、発症後の症状経過からして、本件の場合、急性硬膜下血腫の特殊型(受傷による脳実質の損傷を伴わないか、これがほとんどなく、かつ受傷後三日以内に発生したという意味での「特殊型」)と考えるのが妥当である。」というものである。佐藤意見は、前記のとおり、控訴人の主張との関係で、もっぱら高血圧性脳内出血との対比において、外傷性の急性硬膜下出血の可能性が高い旨いうものであるから、右意見が高血圧性脳内出血の可能性を否定的に述べる部分も意見全体の構成上重要な意味を持つと解され、本来、これを切り離して右意見の当否を論ずるのは相当でないとの批判もあろうが、佐藤意見でも若干触れられており、また、後述するように、本件で検討の対象とすべき出血性脳血管疾患は、右の二つに尽きるものではないから、ここでは、佐藤意見が、太郎の死亡原因は急性硬膜下出血(の特殊型)と考えるのが妥当であるとする部分の当否につき考察する。
(2) 佐藤意見は、まず、本件負傷の内容は、前記認定のような顔面の擦過傷だけではなく、頭蓋内病変(前掲<証拠略>によれば、架橋静脈又は皮質動脈の損傷又は破綻をいうものと推測される。)も含まれるものと推定し、その上で、本件負傷時に直ちに右血管の破綻が生じて出血したのか、右負傷時には破綻に至らない血管損傷が生じただけでその後にこれが破綻して出血したかはともかく、いずれにせよ、本件負傷時又はそれから近い時期に右血管が破綻して硬膜下に出血が生じて血腫を形成し、それが増大する過程で太郎に頭痛や食欲不振の症状をもたらしたと推定するものであり、これらの推定の主な具体的根拠は、太郎に頭痛や食欲不振の症状が見られたことにあると解される。しかして、前記認定のとおり、その程度はともかく、太郎は、本件負傷後本件発症に至るまでの間に、頭痛や食欲不振を訴えていたから、佐藤意見の右各推定は、その根拠とする前提事実の存否の判断に誤りがあるとは直ちにいえない。さらに、中島鑑定は、太郎の頭痛は、単に本件事故による打撲によるものではなく、本件事故による頭蓋内病変に呼応するもの、具体的には、髄膜刺激によるものと頭蓋内圧亢進によるものである旨述べているし、小暮意見は、頭痛の発生機序及び発症形態を詳細に説明した上、「今日、脳挫傷を全く伴わずに進展して短期日のうちに死亡する急性又は亜急性硬膜下血腫の症例の報告は五〇を超えているであろう。脳挫傷を伴わず、皮質動脈の破綻を原因として発生する硬膜下血腫には、外傷を契機とするものと、契機が不明な特発性のものがあるが、両者は、臨床的にも類似点が多い。この疾病は、皮質動脈の解剖学的特徴、動脈硬化等の一定の条件が満たされたとき、そこに何らかの物理的衝撃が加わることによって発症するものであり、理論的にはその外力の質は問われない。」とし、本件事故の態様につき、前記認定と概ね符合する事実を前提として、「本件事故によって太郎の頭部の接線方向に働いたのみであったと推定されるが、同人の保安帽が脱げて同人は二、三歩後退したことからすると、この時の接線方向への外力、または、それに対する反射的な逃避運動が特発性の急性又は亜急性の硬膜下血腫の成因となる物理的衝撃になった可能性は否定できない。この場合の硬膜下血腫は、次第に増大して頭蓋内の占拠性病変として脳を圧迫、偏位又は変形させて行き、架橋動脈等が牽引されて頭痛を生じさせ、さらに血腫の増大につれ頭蓋内圧の亢進に伴う頭痛を生じさせる。このようにして、本件負傷時から本件発症までの間の太郎の頭痛は、本件負傷によって脳挫傷を伴わずに発症、進展した硬膜下血腫の症状として説明可能である。」とする。右のとおり、中島鑑定は、本件事故により頭蓋内病変が生じて本件発症前の太郎の頭痛をもたらしたという点では佐藤意見を積極的に支持するものであり、小暮意見は、太郎の右頭痛につき、広義の外傷性の硬膜下血腫によるものとして了解可能であるとする点で、佐藤意見を裏付けるものとも評価できる。
しかし、小暮意見は、太郎の頭痛が外傷性の硬膜下血腫による症状として了解可能であるというに留まり、それが医学的に唯一又は最も合理的な説明可能な原因とまでいう趣旨とは解されない。中島鑑定も右頭痛の成因に関する限り、佐藤意見を支持するが、後述のとおり、太郎の死因と直接結びつく本件発症の原因となった脳血管疾患は、本件負傷の内容をなす頭蓋内病変とは異なるものであるとし、この点では小暮意見も同様の結論となっている。さらに、新妻意見は、その詳細を正確に理解し難い部分があるが、本件負傷から本件発症までの二日間、太郎の意識は清明で就業可能であり、かつ本件発症前に意識障害以外の吐き気、嘔吐等の前駆症状又は架橋症状もないまま、突然片麻痺が出現していることからして、外傷性の(皮質動脈破綻による)硬膜下出血は否定的に考えざるを得ないという趣旨と解される。成書(<証拠略>、「脳神経外科学」一九八六年六月二〇日改訂版)にも、「急性又は亜急性硬膜下血腫(その定義は一応前記認定のとおり)は、受傷後意識消失があり、その後清明期を経て意識消失に至る例が約三分の一あるが、一般に受傷直後から意識消失状態となることが多い。症状が重いため、強度の頭痛を訴えるほかは主訴がない。慢性硬膜下血腫(定義については右同)は、発生機序につき、軽度の外傷性のもの以外の原因不確定の特発性のものが考えられる。症状として、意識清明例では、頭痛を訴えるものが最も多く、それが段々強くなり時に嘔吐を伴う。」旨記述されており、小暮意見も、新妻意見や右成書の記載を敷衍して次のとおり説明する。すなわち、「本件事故により脳実質の損傷を伴わない硬膜下血腫が発生したとすると、脳室及びくも膜下腔に存する脳脊髄液や血液が頭蓋外に移動して頭蓋内圧の亢進を抑制する機能が働くが、血腫の増大により脳の変形、偏位が生じて脳室が縮小してくる。血腫が増大すると、脳室は更に縮小して右抑制機能が働きにくくなり、脳の一部が転位する脳ヘルニア(本件では、テント上の内圧亢進によるテント切痕ヘルニア)切迫状態となり、物が二重に見える、瞼が垂れ下がる、頭痛、吐き気、嘔吐等の前駆症状が出現する。更に血腫が増大して頭蓋内圧が亢進すると、テント切痕ヘルニアが生じて脳幹上部や中脳の機能が停止し、意識障害や片側又は両側上下肢の麻痺が生じ、以後、頭蓋内圧亢進に対する処置(根本的には血腫の除去等の外科的手術であり、それまでの間の処置としては、高浸透圧製剤の投与等)をしない限り、ヘルニアは一層促進されて、病状は不可逆的に悪化する。かように、硬膜下出血の場合、通常、その症状は段階的に発生してくるもので、太郎の場合、頭痛以外の右前駆症状の発現があった形跡もなく、電柱上で作業中、突然、片麻痺と意識障害を主徴とする本件発症をみるに至ったことからすると、本件発症は、硬膜下血腫による頭蓋内圧亢進がもたらす右テント切痕ヘルニア又は右ヘルニア切迫状態によって発生した症状としては考えにくい。かように前駆症状もなく、突然片麻痺、意識障害に移行するような硬膜下血腫の症例報告は見い出せなかったし、仮にかような例があり得るとしても、非常に稀であると考える。」というものである。
以上によれば、佐藤意見がいうように、本件事故により、硬膜下出血が生じて血腫となり、それが太郎に頭痛、食欲不振等の愁訴をもたらした可能性は否定できない。しかし、本件発症時の片麻痺及び意識障害出現を硬膜下血腫の症状の進行に伴うものとして理解しようとすると、その時点で、テント切痕ヘルニアが発生したと考えるほかないが(これに反する佐藤意見の一部は、小暮意見と対比して採用できない。)、その場合、頭痛のほか、吐き気、嘔吐等の前駆症状があるはずであるが、太郎には、本件事故当日からあった頭痛以外には、前駆症状とおぼしき症状の存在は認められないことからして、本件発症を本件事故に起因する外傷性硬膜下出血の症状と考えるには難点がある(佐藤意見も、前記のとおり、脳実質の損傷を伴わない急性硬膜下血腫では、突然、片麻痺が出現することもあり得ると述べるにとどまり、それが異例であることは否定していない。)。
(3) そこで、右のような難点を考慮してもなお、太郎の死因となった疾患を外傷性硬膜下血腫と考えるのを相当とする事情があるか否かについて検討する。佐藤意見は、前記のとおり、本件負傷後の頭痛のほか、<1>発症後、一時的にせよ麻痺の程度が改善していること、<2>痙攣発作が出現していること、<3>意識障害が進行する前に完全片麻痺になっていないこと及び<4>興奮状態が続いたことをもって、外傷性硬膜下血腫の根拠とするかのようである。もっとも、佐藤意見は、これらを積極的な根拠とするというより、高血圧性脳内出血では説明困難なこれらの事情は外傷性硬膜下血腫とするなら矛盾なく説明できるというにとどまるという趣旨に解される部分もあるので、以下、その点も含めて検討する。右<1>の麻痺の一時的改善は、新妻意見や小暮意見でもその存在を前提として論及されているところである。しかし、麻痺の改善があったかは疑問もある。すなわち、前記二、2、(四)、(4)認定のとおり、被控訴人が鹿角中央病院に到着してから、被控訴人の見たところでは、太郎が左腕をいくらか動かしたり、左右の足をこするようにしていたこと、午後八時ころ、太郎が身体を動かすため左腕の点滴が外れたこと、また、そのころ、同人は、バスタオルであおぐような動作をしたことが認められる。しかし、被控訴人が見たという状況は曖昧であり、これを本件発症時に生じた太郎の左側麻痺の改善と即断できないし、午後八時ころの身体を動かしたとの点についても、これをもって左側麻痺の改善とは直ちに認め難い。残るバスタオルであおいだとの点は、左手でこれをしたというなら、なるほど左側麻痺の改善というべきであろう。しかし、前同所記載のとおり、被控訴人は、両手であおいだと供述するが、前掲(人証略)は右手であおいだと証言しており、被控訴人の供述が正しいとすれば、麻痺の改善を認めるべきであろうが、右証人の証言が正しいとすれば、それ以前に両側性の麻痺に進行していたことを認めるべき確たる証拠のない本件においては、右事実をもって麻痺の改善の徴憑とはいえないこととなる。しかして、他の証拠をもってしても、右供述と右証言のいずれの信用性が高いかを確定することはできない。そうすると、佐藤意見(さらに新妻意見や小暮意見)のいう麻痺の改善があった否(ママ)かは疑問が残るから、佐藤意見は、その前提において誤解がある可能性を否定できない。この点を措くとして、太郎の麻痺の程度の改善があったとした場合、これが外傷性硬膜下血腫の根拠となり得るかが問題であるが、前記説示のとおり、仮に本件発症が外傷性硬膜下血腫の症状の出現であるとすると、その時点でテント切痕ヘルニアが発生していたものと解されるが、一般に右ヘルニアが一旦発生すると、頭蓋内圧の亢進を阻止する措置をしない限り、症状は不可逆的に悪化するから、麻痺の程度が一時的にせよ改善することは考え難く、小暮意見も同旨を述べる。これに対し、佐藤意見は、硬膜下血腫のように脳(実質の意味か)が外からの血腫によって圧迫されている場合は、麻痺の程度が改善又は動揺する可能性があり得るというが、小暮意見に照らしてにわかに採用できない。仮に、右佐藤意見のいうような可能性もあり得るとしても、小暮意見によれば、本件発症を、外傷性硬膜下血腫以外の非外傷性の出血性脳血管疾患、具体的にはくも膜下出血と考えた場合、麻痺の程度の一時的改善は十分説明可能であることが認められるから、麻痺の程度の改善の点は、外傷性の硬膜下血腫を積極的に裏付ける症状経過とはいえない。なお、前同所認定の事実によれば、太郎は、入院後、意識状態が一時改善したことが認められるが、小暮意見によれば、この点も外傷性硬膜下血腫では説明困難な症状経過であることが認められる。右<2>の痙攣発作については、前記のとおり診療録にその旨の記載があるものの、これがいつの時点で発生したものかは不明であるが、前掲(証拠略)、成立に争いのない(証拠略)に弁論の全趣旨を総合すると、痙攣発作は、脳内出血やくも膜下出血でも出現する症状であることが認められるところ、佐藤意見も高血圧性脳内出血でも右発作が出現すること自体は認めながら、硬膜下血腫の方がその頻度が高い旨いうものである。しかして、佐藤意見もその頻度の相違について具体的には論じておらず、他にこれを明らかにする根拠もないから、この点を太郎の疾患鑑別の決め手とするまでには至らない。右<3>の意識障害と麻痺の程度の点については、本件発症時から死亡時に至るまでの間の太郎の意識状態の推移を明らかにする的確な証拠はないし、麻痺の程度の推移についても必ずしも明確でないことは前記のとおりであるから、右<3>の点は、前提事実につき多分に佐藤医師の推測が含まれているものといわざるを得ないから、佐藤意見にはにわかに左袒できない。右<4>の興奮状態の持続の点は、佐藤意見においても、くも膜下出血でも出現されるとされているほか、前掲(証拠略)によれば、高血圧性脳内出血でも出現し得る症状であることが認められるから、これも右同様鑑別の決め手とすることはできない。
以上によれば、佐藤意見が、太郎の死因となった出血性脳血管疾患を本件事故による外傷性の硬膜下血腫と判断した積極的根拠として挙げる点も必ずしも右疾患特有の臨床症状ではなく、また、その一部は前提事実の認定につき直接証拠の裏付けのない推測が多く含まれていること、さらに右意見の挙げる太郎の臨床症状がそのとおり存在していたとしたら、かえって硬膜下血腫の一般的症状経過と齟齬することに照らし、挙示の諸点を総合しても、根拠としては薄弱といわざるを得ない。
(4) 以上のとおり、佐藤意見は、太郎の死因が非外傷性の高血圧性の脳内出血であるとする控訴人の主張を念頭に置いて、これとの対比から、特に本件事故の存在及びその後の太郎の頭痛、食欲不振の訴えを重視し、これら愁訴と本件発症後の症状経過等との連続性、整合性を考慮して医学的考察を加えた結果、外傷性の急性硬膜下血腫の特殊型との結論に達したものと推認される。しかして、佐藤意見は、太郎の右愁訴についても考察の対象とした点では、傾聴に値するものがあるが、佐藤意見も自認するとおり、そもそも右意見のいう急性硬膜下血腫の特殊型は、硬膜下血腫全体の中でもまさに特殊な例であるにも拘らず、右意見がいうその根拠の大半は、硬膜下血腫の一般類型の臨床症状と太郎の症状との類似点を挙げるだけで、しかも、一部は前提事実の認定に問題があり、また、他の出血性脳血管疾患でも見られる臨床症状もあるし、硬膜下出血の臨床症状としても説明困難な部分があること、さらに、突然の片麻痺の出現については十分な説得力ある説明がなされていないこと等の難点を有するものといわざるを得ないことに鑑みると、佐藤意見を全面的に排斥するのは相当でないとしても、その結論として述べる太郎の死因が右疾患であるとする部分はにわかに採用できないというべきである。
(二) 他の外傷性の出血性脳血管疾患の可能性
前記認定のとおり、一般に、外傷性の出血性脳血管疾患としては、硬膜下血腫のほか、脳内血腫、くも膜下血腫及び硬膜外(上)血腫があるが、前掲(証拠略)、佐藤意見、中島鑑定及び新妻意見によれば、太郎が、本件事故によりこれら疾患に罹患し、あるいは仮に罹患したとしても、その疾患が本件発症及びそれに続く死亡時までの症状をもたらした可能性は否定的に考えざるを得ない。すなわち、右各証拠によれば、受傷後数時間ないし数週間後に脳実質内に血腫が発生する外傷性遅発性脳内血腫が存在し、その機序は未だ十分解明されていないが、臨床的には、一般に原因となった頭部外傷が重篤で頭蓋骨骨折や脳実質の損傷を発生させ、意識障害を伴うことが多いことが認められるところ、本件の場合、太郎は、本件事故から本件発症時までの間、意識障害もなく通常どおり就労していることからして、同人が本件事故により右疾患に罹患した可能性は考えにくい。また、前掲(証拠略)及び佐藤意見によれば、外傷性の硬膜外血腫は、大部分の例で頭蓋骨の線状骨折、時には陥没骨折の所見があることが認められるが、本件の場合、前記認定説示の本件事故の態様からして、右のような骨折を生じさせる程の外力が太郎の頭部に加わったとは認め難いから、同人が、本件事故により右疾患に罹患した可能性は極めて低いというべきである。次に、中島鑑定及び新妻意見によれば、外傷性のくも膜下出血は、大別して、椎骨動脈の破断によるものと、脳表の微細な血管の損傷によるものがあるが、前者の場合、少数例を除き即死かそれに近い経過を辿ること、後者の場合は、出血の程度により臨床症状は様々であるが、出血の程度が軽ければ、軽度の頭痛程度の主訴しかないこと、本件の場合、本件事故から本件発症に至るまでの間の太郎の状況からして、椎骨動脈破断によるくも膜下出血は考察の対象外となるが、本件事故により、脳表の微細な血管が損傷した可能性があることが認められ、中島鑑定は、右微細血管の損傷の結果、本件発症時までの太郎の頭痛がもたらされた可能性がある旨述べる(なお、新妻意見は、右中島鑑定に対して否定的な見解をとる。)。しかし、中島鑑定も、右の外傷性くも膜下出血が進行して本件発症に至ったこと、換言すれば、本件発症の原因疾病が外傷性くも膜下出血であることは否定している。中島鑑定は、その理由を特に述べていないが、右鑑定及び新妻意見がその可能性を示唆する外傷性くも膜下出血が、通常の脳動脈瘤破裂等によるくも膜下出血とは明らかに成因、機序及び臨床症状を異にするものであることは右鑑定及び小暮意見によって認められるところ、右のような脳表の微細な血管損傷によるくも膜下出血が進行して、頭痛や食欲不振以外の何の前駆症状もないまま突然片麻痺や意識障害へと症状が移行するとは考え難いから、太郎が本件事故により右のような外傷性くも膜下出血に罹患したとしても、それが本件発症の原因疾病とは認め難い。以上によれば、太郎の死因となった出血性脳血管疾患が外傷性の硬膜下血腫以外の外傷性疾患である可能性は否定的に考えざるを得ない。
(三) 小括
そうすると、太郎が、本件事故により、外傷性の硬膜下血腫又はくも膜下出血に罹患し、同人に頭痛等の愁訴がもたらされた可能性は否定できないとしても、そして、また、それが同人の死因となった出血性脳血管疾患であることも完全に否定はできないが、証拠上、これを積極的に肯定するのは困難である。したがって、右出血性脳血管疾患が本件負傷だけに起因して発症した災害性疾病と認めるまでには至らないといわざるを得ない。
(四) 出血性脳血管疾患の鑑別
太郎の死亡原因となった出血性脳血管疾患につき、控訴人は、第一次的に非外傷性の脳内出血、第二次的に非外傷性のくも膜下出血である旨主張し、被控訴人も、第二次的には、非外傷性の脳内出血である旨主張する。
中島鑑定は、要旨、「本件は、電柱上での作業中、突然、発症していること、左半身麻痺を呈していること(くも膜下出血の初期には、血腫が脳実質を破壊しないため、片麻痺は生じない。)、太郎は、発症直後から頭痛を訴えていること、同人は、発症直後は、意識が清明ではないにしても、ほぼ保たれており、頭痛を訴えたり、入院後自分の病名を聞くなど合目的的反応をしていること(くも膜下出血の典型例では、頭痛のため、興奮、錯乱状態を呈するに至る。)などの理由から、くも膜下出血より脳内出血の蓋然性が高い。」とする。
新妻意見は、要旨、「くも膜下出血の場合、一般的には、突然、激しい頭痛、吐き気、嘔吐を生ずることが多く、始めから片麻痺を伴う例は稀であるから、本件の場合、右疾患は考えにくい。突然の片麻痺で発症していること、入院時の血圧が異常に高いこと、入院後不穏状態にあったこと、発症後、多少症状の改善がみられたものの、原則として次第に増悪して約一〇時間前後で死亡していることなどからすると、脳内出血の方が考え易い。その原因については、一般的には外傷性のものを除く脳内出血の半数以上が高血圧性のものであることから、まず、高血圧が考えられる。ほかに、太郎は発症時三九歳と比較的若いことから、脳動静脈瘤奇形などの血管異常(その破裂)も考えられる。」とする。
また、前掲(証拠・人証略)の証言によれば、太郎の治療に当たった前記林医師も、死因を高血圧性の脳内出血と診断していることが認められる(なお、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる<証拠略>(寺田昭夫医師作成の意見書)及び<証拠略>(佐藤進医師作成の意見書)中にも、太郎の傷病名を「脳出血」とする部分があるが、成立に争いのない<証拠略>及び<証拠略>の各一によれば、右は、秋田労働基準局の係官が、太郎の直接死因が「脳出血」であることを前提として、これと本件事故や業務との因果関係につき意見照会したのに対する回答であることが認められるから、右各意見書の右記載部分は、疾患の鑑別に当たって重視できない。)(ママ)
これに対し、小暮意見は、本件発症は、(高血圧性)脳内出血又はくも膜下出血(脳内血腫を合併)によるものと推定されるが、後者の可能性が高いとする。その理由の要旨は、「まず、本件発症後の症状経過を見ると、最初は非常に悪く、その後一時期回復したかに見え、再び、急激に増悪して死亡している。これを無理、矛盾なくできるだけ合理的に解釈していくと、くも膜下出血の可能性が高い。具体的には、太郎は、発症して入院した後、被控訴人らが病院を訪れたころまでの間に意識状態の改善が見られる(前記二、2、(四)、(4)認定の病院に到着した被控訴人らに話しかけたり、点滴を取ろうとしたころまでの間)。また、午後八時ころには、「暑い」と言って両手でバスタオルを掴みあおいだとの事実を前提とし、また、被控訴人は、この時点で、左手、足も動いたと供述していることを踏まえると、この時点で、左半身の麻痺の程度が改善したように見える(右の時点で麻痺が改善したように見えるとする点については、前記説示のとおり、証拠上は確定できないが、その点は一応措く。)。脳内出血とした場合、出血部位は、被殻又は視床と推定されるところ、血腫の側脳室への穿破による一時的に頭蓋内圧の減少により、右のとおり意識状態が改善したと推定することは可能であるが、脳内出血は必然的に脳組織そのものを直接的に破壊するから、それによって生じた神経症状(巣症状)としての麻痺が、右のような機序で改善することはあり得ない。また、午後一〇時三〇分過ぎころ、容態が急変したと見られるが(前記二、2、(四)、(4)認定の痰を絡ませたり、吃逆があり、呼吸障害が生じたことを指すほか、小暮意見は、被控訴人作成の陳述書(<証拠略>)を根拠に意識がなくなったとの事実を認定しているが、この点は、診療録では確認できない。)、高血圧性脳内出血の場合、特別な誘因もなくかように容態が急変することはない。したがって、高血圧性の脳内出血の可能性は低い。これに対し、太郎の疾患をくも膜下出血と考えると、同人の右のような症状の推移を矛盾なく説明できる。すなわち、太郎の場合、くも膜下出血だとすると、その症状からして中大脳動脈瘤破裂が原因と推定されるが(弁論の全趣旨によれば、その理由は、左半身麻痺が生じたことにあると推測される。)、本件の場合、脳内血腫が合併したものと推定される。この場合、血腫による被殻や内包への圧迫が比較的軽度であるから、意識障害、麻痺等の症状も軽症であることが多い。脳内血腫を合併していても、その局所症状は、本来の脳内出血の症状と比較すると極めて軽微である。くも膜下出血では、発症時に意識障害を来しても、しばしば一過性で、三〇分ないし二時間以内に回復することが多く、この時片麻痺等の神経症状も軽減するのが特徴である(これは、血腫の拡散等の代償効果によって頭蓋内圧の亢進が抑制されることによる。)。先のように、太郎の意識障害状態や麻痺の程度が改善されたのは、かようなくも膜下出血の一般的な症状経過と符合する。また、くも膜下出血の場合、初回発作後、二四時間以内に再出血する可能性が最大である(ある文献では、なかでも六時間以内の再出血率が三分の一と最も高いと報告されている。)。脳内血腫を伴うくも膜下出血は特に再出血を来し易く、この場合は、血腫が急激に増大するので予後不良となり易い。午後一〇時三〇分過ぎころ、太郎の容態が急変したのは、動脈瘤が再破裂したためと推測される。その結果、頭蓋内圧が急激に上昇してテント切痕ヘルニアが起こり、脳幹部の障害等による消化管出血、嘔吐が発生して死亡するに至った。かように、太郎の右容態急変以降の症状経過もくも膜下出血でしばしば発生する初回発作後短時間内の再出血(再破裂)が起こったものとして無理なく説明できる。」というものである。
以上のとおり、太郎の本件発症の原因疾患又は死因となった原因疾患については、医学者の間でも意見が分かれるが、各々が自説の根拠とするところ、また、他説の難点として指摘するところは、成書や文献(前掲<証拠略>)の記述等に照らしても、首肯できる部分が多い。中でも小暮意見は、太郎の症状経過を詳細に分析した上、医学的知見から検討を加えたもので、説得力あるものとも評価できる。しかし、小暮意見も、前記説示のとおり、その前提とする症状経過の認定において、その立論上重要な意味を持つ筈の幾つかの点で疑問があり、また、脳内血腫が合併していたとする点などは、太郎の症状との整合性を維持するための推測とも考え得る余地もある(小暮医師も、当審におけるその証人尋問において、「一般にくも膜下出血の場合、発症時点で片麻痺が出現することは少ないが、本件の場合、脳内血腫を伴っていたから、片麻痺を出現したと推定される。かかる症例は、くも膜下出血の中の少数例又は特殊例である。」旨証言する。)。しかし、前記のとおり、本件においては、そもそも具体的疾患名の鑑別に不可欠な検査資料等が決定的に不足していることからすれば、小暮意見を含む右各鑑定、意見が、多分に当該疾患の一般論や推測を含めて考察検討し、それぞれの結論を導いていることはやむを得ないものであり、それ以上に正確な具体的事実、根拠に基づく鑑別を求めることは不可能を強いるに等しいというほかない。そうすると、本件において、本件発症の原因となり、また、同人の死因に直結した出血性脳血管疾患は、非外傷性の脳内出血、中でも高血圧性脳内出血であるか、非外傷性の(脳内血腫を伴う)くも膜下出血のいずれかであると推定できるが、そのいずれであるかを確定するのは証拠上困難といわざるを得ない。
(五) 本件負傷及び太郎の業務と非外傷性の脳内出血又はくも膜下出血との関係
被控訴人は、仮に本件負傷が太郎の直接死因でなく、同人に脳血管疾患の基礎疾病があったとしても、本件負傷に起因するストレスによる血圧上昇と本件事故前の業務による疲労の蓄積、右事故後の作業の結果、基礎疾病を増悪させて本件発症の原因となった脳血管疾患を発病させた旨主張するので、この点について検討する。
(1) 太郎の素因、基礎疾病(基礎疾患)等
前掲(証拠略)、新妻意見及び小暮意見並びに弁論の全趣旨を総合すると、非外傷性の脳内出血の最大の危険因子が高血圧であり、非外傷性のくも膜下出血の成因となる脳動脈瘤は、先天的又は若年時の何らかの後天的原因、ないし高血圧性の動脈硬化症等によるものとされていることが認められるところ、前記二、2、(一)認定説示のとおり、太郎は、その生活歴及び家族歴等から見る限り、脳血管疾患に罹患し易い又はその発症の基礎となる高血圧症等の素因又は基礎疾患を有していた可能性が低くはないが、確証はない。しかし、前記説示のとおり、本件発症の原因疾患が非外傷性の脳内出血又はくも膜下出血であると推定されることに照らすと、少なくとも、脳内出血とすれば脳動脈の壊死等(前掲<証拠略>)、くも膜下出血とすれば脳動脈瘤等、いずれにせよ何らかの血管病変が基礎疾患として存していたことはほぼ疑う余地がないし、さらに、前掲(証拠略)、成立に争いのない(証拠略)、新妻意見及び弁論の全趣旨によれば、非外傷性の脳内出血の過半数が高血圧性のものであり、くも膜下出血も高血圧症例に見られることが多いことが認められ、右事実も考慮するならば、太郎に高血圧症の基礎疾患が存した可能性はかなり高いものと推認するのが相当である。
(2) 本件負傷による血圧上昇及びストレス発生の可能性と本件発症の関係
非外傷性の脳内出血又はくも膜下出血は、いずれも出血部位に存した前記のような血管病変が破綻(破裂)して発症するものであるが、前掲(証拠略)、中島鑑定及び新妻意見によれば、右の血管病変の破綻(破裂)を生じさせる機序(発症因子、引金因子)の一つとして急激な(ある程度の期間に亘る慢性的、持続的なものではないという意味で)血圧上昇があること(もとより、かような血管病変が自然増悪した結果、確たる誘因もなく破綻(破裂)することがあることも公知の事実である。)、しかして、一般に外傷、頭痛があれば、それによるストレスのため、その程度はともかく、血圧上昇が生じ得ること、また、その機序は未解明であるが、ストレス(心身の負荷)自体が出血性脳血管疾患の危険因子又は発症因子となることがあるとの医学的見解が存在することが認められる。したがって、本件においても、本件負傷により、太郎に血圧上昇が生じた可能性は否定できない。双方の論旨は異なるものの中島鑑定及び新妻意見も、右の点については結論においてこれを肯定している(小暮医師は、当審におけるその証人尋問において、本件事案におけるこの点についての見解を述べるのを慎重に回避しているが、右可能性を積極的に否定する証言はしていない。)。ところで、成立に争いのない(証拠略)、新妻意見、当審における証人(人証略)の証言に弁論の全趣旨を総合すると、一般に非外傷性の脳内出血やくも膜下出血の発症因子(血圧上昇を介して右各疾患を発症させるという意味での発症因子を含む。)には、頭痛や他の要因(ストレッサー)によるストレスのほか、生活環境、気象、身体的負荷、飲酒等様々のものがあり、これらと基礎疾患である血管病変の進行状態や高血圧症の程度等の要因が絡み合って、右各疾患を発症させるものであり、したがって、医学的には、ある臨床例について、いかなる因子又は要因が発症の最大の、あるいは最有力の原因であるかを厳密に確定するのは通常は困難であることが認められる。しかし、労働者災害補償保険法上の業務起因性の有無は、法的判断事項であり、業務起因性を肯定する場合、それが医学的知見を無視するようなものであってはならないことは当然であるが、常に医学的確証の裏付けを必要とするとまでは解する必要はなく、本件のような場合、業務上のものと認められる因子が医学的にも相対的に有力な発症因子である蓋然性が高いことが是認されれば足りるものと解するのが相当である。本件において、かような見地から検討しても、なお、本件負傷によるストレスが本件発症の相対的有力因子であると認めるのは困難である。その理由は、以下のとおりである。
<1> 太郎の基礎疾患である血管病変が、本件事故当時又は本件発症時までに、確たる発症因子がなくとも自然的に血管が破綻(破裂)する寸前まで進行していたことを認めるべき証拠はないこと、太郎は、高血圧症であった可能性が高いが、その症状の程度、進行状況を具体的に明らかにする証拠はないこと、証拠上、本件負傷以外に脳内出血又はくも膜下出血の発症因子となるような事情を積極的には見い出せないこと(被控訴人主張の業務による過重負荷については後述するとおり、これを肯定できない。)等の点は、本件負傷によるストレス(それによる血圧上昇)が、太郎の罹患した右疾患の相対的に有力な発症因子であることを推認させるといえなくもない。
<2> しかし、一般に、ある要因によってストレスが発生するか否か、発生するとして、それがどの程度のもので、それにより生体にいかなる影響を与えるかについては個人差があると考えられるし、また、そもそもストレスの程度等を客観的に測定するための尺度や判断基準が確立していないことは、前掲(証拠略)及び弁論の全趣旨に照らして明らかである。右事実と前記のとおり、脳内出血やくも膜下出血の発症因子には様々のものがあり、これらと基礎疾患の進行程度等が絡みあって右各疾患が発症することを前提として考えるならば、業務上の負傷又は業務によるストレスが、本件のような出血性脳血管疾患発症の相対的有力因子であるというには、右のような個人差を考慮しても、一般的に相当程度のストレス、特に急激な血圧上昇を生じさせるに足りるだけの蓋然性を有すると認め得る要因(ストレッサー)の存在が肯定されるか、そうでなければ、当該個人にとって、ある具体的要因が、相当程度のストレスを生じさせて急激な血圧上昇を発生させた蓋然性が高いことが肯定されることを要すると解するのが相当である。本件について、これを見るに、本件事故により太郎が負った外傷は、前記認定のとおり顔面数箇所の軽度な擦過傷又は圧挫傷であり、この程度の外傷が急激な血圧上昇を発生させる程のストレスをもたらすとは通常考えにくい。さらに、前記認定説示のとおり、太郎は、本件事故により、右外傷に留まらず、硬膜下血腫に罹患し、その血腫増大による頭蓋内圧亢進に伴う頭痛が本件発症時まで継続した可能性があるが、前記認定説示のとおり、その頭痛は、当人が妻に話す程のものではないと思う程ごく軽微なものではなかったにしても、本件発症時までの二日間、職場の同僚等に身体の不調をさとられることもなく、相応の体力、集中力を要する作業を普段どおりこなせる程度のものであったと一応推認されることからすると、右頭痛又はその原因となった頭蓋内圧亢進によるストレスが、太郎に急激な血圧上昇を生じさせた蓋然性が高いとまでは認め難いといわざるを得ない。
そうすると、本件負傷によるストレスが、太郎の罹患した非外傷性の脳内出血又はくも膜下出血の相対的に有力な発症因子であるとはにわかに認め難い。中島鑑定は、本件負傷による頭痛及びそれによるストレスが、右疾患発症の相当有力な原因である旨いうが、右認定説示したところからして採用できず、他に、右事実を認めるに足りる証拠はない。
(3) 太郎の業務と非外傷性の脳内出血又はくも膜下出血との関係
被控訴人は、本件負傷のほか、それ以前の過酷な作業環境下での過重な業務による疲労の蓄積と本件負傷後の作業が相俟って太郎の基礎疾患(疾病)を増悪させた旨主張する。
前記認定のような太郎の電工としての作業は、特に冬期にあっては相対的には厳しい環境下でのものとも考えられるが、過酷な作業環境と評するのが相当とまではいえないし、成立に争いのない(証拠略)、原審(人証略)の証言により真正に成立したものと認められる(証拠略)によって認められる太郎の本件事故前約一年間の就労状況に照らしても、本件事故前、太郎に過重な労務負担があったとは認め難く、他にこれを認めるべき証拠はない。また、本件事故前、太郎に業務による疲労の蓄積があったことを認めるべき証拠もない。新妻意見(前掲<証拠略>の意見書)中には、太郎が暮れの押し詰まった時期、寒い屋外で電柱に昇り、寒風にさらされながら就労していたことが本件発症に大きな影響を与えたと考えられるとする部分があるが、右意見書の記載及び原審における新妻医師の証言によれば、右部分は、その記載するような本件発症時における太郎の作業環境等が本件発症の相対的有力原因であるという趣旨でないことは明らかであるし、成立に争いのない(証拠略)によれば、本件発症日である昭和五三年一二月二九日の鹿角市十和田毛馬内所在の秋田地方気象台毛馬内観測所における最高気温は零下〇・二度、最低気温は零下四・一度(本件事故日である同月二七日の最高気温は八・九度、最低気温は〇・五度、翌二八日の最高気温は九・六度、最低気温は零下一・八度)、最大風速は五メートルであることが認められる。これによれば、なるほど、太郎は、本件発症当日、寒冷下の屋外で寒風の中作業していたといえるが、右(証拠略)によって認められる同月二〇日から同月三〇日までの観測記録によれば、本件発症日又は本件事故の日から本件発症の日までの間の気温、風速等が、右地域における当時の気象状況に照らして格別寒冷、強風であったとは認められない。前記認定の太郎の職歴等からすると、同人は、以前からかような気象状況下で就労することも稀ではなかったと推認されるし、前記認定の本件事故から本件発症時までに同人が従事した作業内容も電工である同人にとっては特に異例のものではないと認められるから、本件事故から本件発症に至るまでの間の作業が、本件発症に影響を与えた可能性はあるとしても、その程度はさほどのものではないと考えられ、これと前記説示の本件負傷による頭痛によるストレスを併せ考慮しても、これらが、太郎の脳内出血又はくも膜下出血の相対的に有力な因子であったとは、なお認め難い。
他に、太郎の右疾患が本件負傷及び同人の業務の一方又は双方に起因することを認めるべき証拠はない。
(4) 小括
以上によれば、太郎の死因と推定される非外傷性の脳内出血又はくも膜下出血が包括疾病に該当すると認めることはできない。
三 結論
以上の次第で、太郎が、業務に起因する疾病により死亡したと認めることはできないから、被控訴人の本訴請求は理由がない。よって、これを認容した原判決は不当であるから、これを取り消し、被控訴人の本訴請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 武藤冬士己 裁判官 佐藤明 裁判官和田夫は、退官のため署名、押印できない。裁判長裁判官 武藤冬士己)