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仙台高等裁判所秋田支部 昭和32年(ネ)29号 判決 1966年10月12日

主文

一、原判決第一項中一審原告山下喜三郎の入会権確認請求を認容した部分を取消し、右請求を棄却する。

二、原判決第一項中のその余の一審原告ら(佐藤甚一を除く)の別紙物件目録記載三、五の土地についての入会権確認請求を認容した部分を取消し、右請求を棄却する。

三、原判決主文第二項を次のとおり変更する。

一審各原告(但し佐藤甚一及び長谷川久治を除く)に対し原判決添付第二目録記載の被告中被告今伝太郎は金二、〇一三円被告佐藤二三雄は金二四九円、被告山下文作は金七四八円、その余の被告は各自金二、九九二円を支払え。

一審原告長谷川久治に対し、被告今伝太郎は金一、七九一円、被告佐藤二三雄は金一五〇円、被告山下文作は金四五〇円、その余の右第二目録記載の被告らは各自金一、八〇二円を支払え。

一審原告らその余の請求を棄却する。

四、控訴人らその余の控訴を棄却する。

五、訴訟費用は第一、二審とも控訴人らの連帯負担とする。

六、原判決添付第四目録の土地の表示を本判決添付物件目録記載のとおり更正する(但し右物件目録二の面積を一七町八反八畝二八歩と、同一〇の山林とあるのを見継山と訂正する)。

事実

控訴人ら代理人並びに控訴人長谷川健逸、同佐藤賀市、同木山清芽、同佐藤長一(以下控訴人長谷川健逸外三名と表示する)は、「原判決中控訴人ら勝訴の部分を除きその余を取消す。被控訴人らの請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の連帯負担とする。」との判決を求め 被控訴人ら代理人は、控訴棄却の判決を求め、なお、当審において、青森県西津軽郡木造町大字越水字稲村五八番の一号及び同字長谷川六一番の一号山林中各個人に区分使用せる部分(別紙図面(1))の杉立木の部分についての入会権確認、並びに同字長谷川六一番の一号のうち高倉神社の境内(宮地、別紙図面(Ⅱ)の石標に囲まれた部分)についての入会権確認の各請求を取下げた。

当事者双方の主張並びに立証は、

被控訴人ら代理人において、

「控訴人、被控訴人らの居住している青森県西津軽郡木造町大字越水字長谷川及び同字稲村は、旧藩時代は、広岡村と称せられておつたが、明治初年の地租改正に前後する町村合併により越水村の一部となり、その越水村も明治二一年の町村制公布後の第二次町村合併により更に越水村の一部である大字越水となつたものである。そして、町村及びその一部である大字にのみ法人たる資格が認められ、大字でない部落の呼称は単に俗称となり法人たりえなくなつたので、当時の部落民全員の記名でもつて、入会権の主体である広岡部落を表示したものである。なお、屏風山官地民木林台帳には字長谷川一六〇番の一号は長谷川長蔵外三一名が山林の仕立人として表示されていて、五名の部落民が置かれているが、これは植栽当時に参加しなかつたという歴史的沿革に由来したものであろうが、明治に入るや、右除外されていた者も実質的に平等の入会権者として取扱われるようになつたものであるから、これは右仕立人の表示が単に部落を表示する形式的名義に過ぎないことを示しているものである(控訴人代理人は山下久之進が右除外されている者のうちの一人だと主張しているが、同人の先代山下蔵吉はどの台帳にも記載されている。同人方は明治九年頃分家したものであるのに共有名義人とされているのは、植栽後の分家者も亦権利にあづかる一例証というべきである。また控訴人長谷川健蔵方の分家も明治一四年の春である。)。

控訴人らは、地租改正により本件係争地が国有地になつた後は、従来その土地に入会権があつたとしても、それは消減し、控訴人らのうちいわゆる権利者(原判決添付第二目録の被告ら)の先代達が国よりこれを賃借して使用しているものと主張しているが、国との間において土地使用の契約をした事実も、また土地使用料の定めもなく(屏風山官地民木林台帳の記載は借地権者を示すものでもなければ、また立木所有者を示すものでもなく、単に「仕立人」を表示しているに過ぎない)、全く旧藩時の慣行により部落民が入会つて、国有地となつた後も入会権はそのまま存続していたものであり、被控訴人らはいずれも分家独立により入会権者となつたものである。

広岡部落は部落の戸数も少なく、松立木も主として旧藩時代に植栽し、その後は随時補植した程度であつたので、入会に関する作業の計画、山林の産物の配分、処分、次年度の伐採、補植等は部落民総員が山林現場、神社等に寄合して決定していたもので、労務提供は旧慣により常に一戸一人ということであつた。

なお、本件山林は保安林となつていた関係上、伐採許可申請は委員(五人程度)があたり、また、平等分配のための差金の授受も右委員が行つており、古くは分家側のものも右委員になつていたが、いつとはなしに本家側の者のみが、これを独占するようになつた。しかし、委員は単に事務上の世話をするに過ぎないので、分家側も特に異議を述べなかつたものであつて、委員を本家側が独占するからといつて、本家側のみが権利者であるということはできない。

五〇数年前、字稲村五八番の一号及び字長谷川六一番の一号のうち別紙図面(1)記載部分を当時の広岡部落民全員に対しほゞ平等に分割分配し、各自分配を受けた土地に杉を植栽し、右杉については各個人が収益しうるものとなつたが(なお、右個人の使用権は部落居住者の分家に対して譲渡ができる)、これは分家した者も入会権者となり、その権利は本家側の者と平等なものであることを示しているものである。

また、控訴人らは、松立木は入会の対象とならないと主張しているが、他にも松立木が入会の対象となつている事例もあるうえ、本件係争の松立木も広岡村中仕立にかゝるものとして広岡部村落の総有であり、明治以降も度々風倒木、枯損木として伐採されて平等に部落民に配分されてきたものであるから、控訴人らの右主張は不当である。

控訴人らは昭和七年の調停調書第四項の「土地」は「地上立木」を意味するものと主張しているが、「土地」はあくまでも「土地」であり、もし「地上立木」を意味するならば、被控訴人らは右調停に応じていない筈である。なお、旧来の入会権を消滅せしめるためには入会権者全員の合意が必要であるのに、右調停に参加しなかつた入会権者があるので、右調停によつて従来の入会関係が一変して、山林が個別的所有の対照となつたとの控訴人らの主張は失当である。

本件係争山林中字長谷川一六三番の一号がもと農商務省所管から陸軍省所管に組替えられ、第二次大戦後大蔵省所管を経て再び農林省所管となつたこと、並びに右土地が控訴人長谷川健逸外三名の主張するように分筆されたことは認めるが、その間に右地上の立木を国が買上げた旨の控訴人ら代理人の主張は否認する。

次に、字長谷川六一番の三、四、五号の立木は控訴人らの主張するように皆伐されたけれども、その後植林されており、雑木も依然として存在するものである。もつとも右六一番の三、五号附近には一部疎開者の住宅が不法に建設されている部分もあるが、これがために右土地について入会権確認を求める利益を失うものではない。

また、控訴人らは、字長谷川六一番の一号の一部(俗称ナカツネ)の杉立木を昭和二三年伐採したときは、その植林に参加した分家からは一人一五〇円づつ徴収して分配し、植林に参加しなかつた者には分配していないと主張しているが、右主張は控訴人提出の乙第一七号証に「杉植付セヌ者ヨリ一人ニ付一〇〇円一三名」との記載があり、互に矛盾しているので、誤りであること明らかである。右地上の杉立木は終戦二、三年前にも伐採し、いずれも平等に配分したものである。

なお、被控訴人亡佐藤多吉、同亡佐藤良吉、同亡長谷川茂七各死亡後のそれぞれの世帯主は被控訴人佐藤喜一郎、同佐藤勇蔵、同長谷川茂であるので同被控訴人らが入会権者となつたものである。

また、被控訴人長谷川久治は昭和二八年三月六日先代長谷川栄四の死亡により、控訴人今伝太郎は昭和二八年九月一六日先代今平内の死亡により、控訴人佐藤二三雄は昭和三〇年三月九日先代佐藤粕太郎の死亡により、控訴人山下文作は昭和三〇年一〇月一一日先代山下慶吉の死亡により、それぞれその先代死亡後の世帯主として入会権者となつたものであり、それぞれの相続分は、被控訴人長谷川久治は九分の一、控訴人今伝太郎は四分の一、同佐藤二三雄は一二分の一、同山下文作は四分の一である。

被控訴人山下喜三郎が控訴人ら主張のとおり離村したことは認める。

原審において、被控訴人らは、「広岡部落は明治中葉に三六戸あり、・・・・・広岡部落中の意味で『何某外三五名』と届出た」と主張していたが、右「三六戸」を「三七戸」と、「何某外三五名」を「長谷川市之助外三六名」と訂正する。ほか三六名とは原判決添付第二目録の被告二八名先代又は先々代と、長谷川万之助、佐藤喜一郎、長谷川岩太郎、山下寅吉、工藤長之助、坂本三郎、今金四郎、今佐太郎、佐藤弥左エ門である。

原審で長谷川藤一郎先代菊次郎は調停申立人ではないと主張したが、これは誤りであつたので撤回する。

なお、原判決添付第四目録の土地の表示は、地番地積に一部誤りがあつたので、それを別紙物件目録のとおり訂正する。

「控訴人長谷川行が当審においてなした原審での自白の撤回には異議がある。」と述べた。

立証(省略)

控訴人ら代理人において

「昭和七年の調停条項第四項は本件山林の松立木について控訴人ら権利者(原判決添付第二目録の被告ら)の共有権を被控訴人らが承認したものであり、同第二項は被控訴人らに物権的入会権を認めたものではなく主木以外の薪炭材について債権的請求権(分配率は平等ではない)を恩恵的に与えたものであるから、平等の物権的入会権ありとの確認を求める被控訴人らの本訴請求は、右調停の既判力に反するものであり、却下さるべきである。

なお、右第四項が立木についての共有権を直接認めたものでなく、控訴人らが国に対して持つていた係争地の賃借権につき控訴人らの共有権(即ち賃借権の準共有)を認めたものであつたとしたら、被控訴人らは他人の土地に入会うことになり、その場合は立木に入会権は及ばないものであるから、立木は控訴人ら権利者の共有物であることに変りはない。

被控訴人ら主張のように、旧藩時代、本件土地に部落民が入会つていたとしても、それも他人所有土地の入会であるから薪炭材に限り松立木には及ばなかつたものである。

また、明治初期に国有地となつた土地については、従来の入会権は消滅したものであるから(大審院大正四年三月一六日判決)、被控訴人ら主張する入会権は存在しないものである。

そして、松立木が控訴人ら権利者の先代らの共有となつたのは、明治九年の地租改正処分により土地は「官有地」に編入され「毛上」は従来附着していた旧藩時代の諸種の負担や瑕疵を一切芟除し、新たに控訴人ら権利者の先代の共有物として創設公認され、かつ公簿にその旨登録されたものである。

右共有権は、譲渡性なく、また分割は許されず、共同相続の目的ともならず、部落退去者は権利を喪失し、復帰すれば権利を回復するという性質のものであるから、その性質は、かりに民法所定の共有でないとしても、いわゆる総手的共有か、少くともそれに最も近い権利の一態様であり、入会権のごとき総有ではない。

本件係争地中字長谷川一六〇番の一号外三筆については莇ケ岡部落から分家してきた長谷川佐吉、長谷川兵助、長谷川健逸(以上は莇ケ岡にも共有権がある)と山下久之進(広岡部落の山下久一の分家)が権利者から除外されているが、もしも総有関係であれば、このような差異はないはずであり、また単に「村中持」と表示さるべきものである。

なお、当初権利者は三七人であつたが、その後漸減して現在二八人となつているが、その都度その権利の変動に応じ公簿でも削除されているものである。

被控訴人らは字稲村五八番の一号等の分割使用をもつて平等入会のあらわれであると主張しているが、右分割は契約自由の原則により分家側に利用させたものであり、また分割当時の部落民全員に分割使用させたものではないから、これをもつて入会権ありとすることはできない(右区分使用権は部落民に対しては本家、分家をとわず譲渡しうるものである)。

また、大正一二、三年頃、字長谷川六一番の一号の一部約一町歩と、字稲村六〇番、同六二番の一部約三町歩に杉を植栽した際当時の分家側にも植栽せしめたが、それは入会権を認めたものではなく、単に情愛上植栽せしめたに過ぎず、従って昭和二三年右六一番の一号の杉を伐採したおり、右植栽した分家側からは一人一五〇円の金員を徴収して一人一石づつ分配し、植栽した当時は分家していなかつた者には分配をしなかつたものである。

係争松立木が控訴人ら権利者の共有であることは、また所轄営林局もそれを認めて、その縁故を理由に別紙物件目録四、五、七、八、一二、一四の各土地を控訴人ら権利者に有償払下をしたことによつても、明らかである。

本件係争山林は共有者のみが管理していたもので、分家側の者が山林行事に労力を提供しているのは、薪炭材に関する入会関係の義務としてであつて、経営管理の権限を有するものではない。

なお、字長谷川一六三番台帳面積一五町五反六畝一〇歩は大正六年一二月一一日陸軍用地に組替えられて、その地上立木も国に買収されたものであるから、かりにそれまで入会権があつたとしても、右買収により消滅したものである。そして右土地及び立木は昭和二七年控訴人らが国から払下を受け、その後空地の二町歩に控訴人らのみが五万本補植したものであるから、右土地も入会地であるとの被控訴人らの主張は失当である。

原審での控訴人の時効取得の抗弁に対し、被控訴人らは本件係争山林に立入り補植し、根払した旨主張しているが、明治初年から松立木は一回も補植したことなく、また根払等をしたこともない。また立木のみの時効取得もありうるものである。

被控訴人山下喜三郎は相控訴人ら主張のとおり他に転出しているので、同人は入会権を主張することはできない。

被控訴人らの当事者等死亡後の世帯主及び相続関係についての主張、並びに係争物件の表示の訂正はすべて認める。控訴人長谷川行は原審で被控訴人らの入会権についての主張を認めていたがそれは撤回する。」と述べ、

立証(省略)

控訴人長谷川健逸外三名において、

「本件係争山林が旧藩時代被控訴人ら主張のように広岡部落により管理経営され、また収益の分収もされてきたものであること、広岡部落は明治中葉に三七戸あつたことは認めるが、本件山林に現在も入会権ありとの被控訴人らの主張は失当である。

即ち、本件山林は明治九年の地租改正の法律によつて、管理維持の面に大きな変革を迎えたのであるが、特殊性格を有する本件山林については、共有管理とするか、部落有として維持するかについて、関係官庁との間に相当期間交渉が続けられたものであり、その間一旦民地民木として長谷川市之助外三六名に払下げが決定したが、その後関係官庁の要請に応じて民地の部分を返上し、結局現在の営林局屏風山官地民木林台地に「土地」は官地とし、これに共有の永代借地権を認め、「立木」はその管理人である当時の部落居住者長谷川市之助外三六名の共有民木として登載されるに至つたものである。

なお、字長谷川一六〇番の一号、字稲村五〇番は長谷川市之助外三一名の共有名義になつており、当時の広岡部落の住人であつた控訴人長谷川兵助、同長谷川佐、同長谷川健逸の先代等と佐藤弥左エ門、佐藤清五郎が除外されているが、これは右の者たちが植林に参加しなかつたためと考えられる。右控訴人らの先代等と佐藤清五郎とは俗称四軒屋といわれ、初め莇ケ岡部落に属していたものである。

共有権利者のうち絶家となつた者はその都度共同連名で営林局及び県庁等の監督官庁に届出て、名義の訂正を行つているが、他地域に出て行つた者は復帰の機会があるため共同人名簿から除いていない。

被控訴人らは割地をもつて入会の根拠としているが、当時の部落一体の習慣からみて、分家を除くのは非情と思えたので、分家側にも区分使用さしたが、分家からは各金一五〇円を経費として徴収し、大正年代に全員で植林したものである。即ち控訴人らの借地権に基く共有権が基礎となつて右使用割当がなされたもので決して入会権によるものではない。もし、右分割が入会権に基づくものであるとすれば、その後の情況変化によりその補正をする必要があるのに、それをしていないこと、また昭和七年の調停の際にもそれが問題となつていない点からみても、入会権に基づくものでないこと明らかである。

なお、昭和七年の調停条項第三項により明らかなとおり、被控訴人らはたゞ労務を提供するだけであつて、本件山林の管理に参加せず、共有権利者である控訴人ら全員が集合協議して管理運営を行い、権利者のうち約五人程度の委員が事務を代行しているものである。

また、藩政時代から大正にかけて用材については慣行が全く成立していないものであるから、右調停条項の第二項は、単に薪炭材のみを意味し、これも権利者側の任意的解釈の線に沿つて分家側に分与してやることを約束したものであり、分家側は右調停条項第四項により権利者側の共有権を認めたものである。

本件係争土地中字長谷川一六三番の一号は陸軍省に所管替になつたが、立木は買収されなかつた。しかし右土地はその後、字長谷川一六三番の一号一反七畝六歩、同一六三番の二号三反四畝二四歩、同一八六番七反九畝一〇歩、同一八七番二反三畝一五歩、同一八八番四町八反一畝一四歩、同一八九番一反八畝二一歩、同一九〇番二町五反八畝一六歩、同一九一番五町四反一畝一七歩に分筆され、内前二筆は訴外今貞子に、その余は控訴人ら権利者に売渡されたものであるから、入会地から除外さるべきである。

字長谷川六一番の三、四、五号、稲村五〇番には松立木は一本もなく、また右六一番の三、五号は目下疎開者らの住宅が建築されて使用されているので、入会権は存在しない。

なお、被控訴人山下喜三郎は昭和三〇年三月二四日当時から東京都千代区霞ケ関三丁目一番に転住して離村したものであるから、同人は入会権を主張しえないものである。

当事者等死亡による世帯主の変更についての被控訴人らの主張は認める。

原審で、長谷川藤一郎先代菊次郎が昭和七年の調停に利害関係人となつている旨主張したが、これは長谷川長丈先代菊次郎の誤りであつたので、そのように訂正する。」と述べ、

立証(省略)

理由

一、既判力の主張について

控訴人らは、被控訴人らの本訴請求は青森地方裁判所弘前支部昭和七年(小調)第四三号調停事件につき調停委員会により成立し裁判所により認可された調停の既判力に反するものであるから却下さるべきだと申立てているので、まずこの点につき判断するに、控訴人らの主張する内容の調停が認可されたことは当事者間に争いなく、また、(旧)小作調停法第四〇条によれば、それは裁判上の和解と同一の効力を有するとあり、民事訴訟法第二〇三条は調書に記載された裁判上の和解は確定判決と同一の効力を有する旨規定している。

そして、確定判決の効力とは、通常既判力、執行力、形成力を意味するものであるので、裁判上の和解、ひいては調停も既判力を有するものと解せられる余地があるが、裁判上の和解、調停は、ともに裁判所がこれに関与しても、その実質はあくまでも私人たる当事者の自治的な紛争の解決である点からみて、紛争の公権的判断としての裁判(及びそれに準ずるもの、例えば、仲裁判断)の特性である既判力を承認することはできない。

従つて、既判力が、いわゆる一事不再理の効力を有するものとしても、前記調停には既判力を認めることができないので、既判力に反するものとして不適法却下を求める控訴人らの申立は認容しえたいものである。

のみならず、(旧)小作調停法は、小作料其の他小作関係につき生じた争議を調停により解決するために設けられたものであり(同法第一条)、右にいう小作関係とは、小作人と地主(土地所有者、永小作人又は他人の土地の賃借人)との間に成立する有償的な農地耕作使用の関係を意味するものである(昭和二四年法第二一五号により新設された(旧)農地調整法第一四条の二第二項参照)。

従つて、右のいわゆる小作争議以外の紛争につき(旧)小作調停法による調停をなした場合は、調停をなしえない事項につき調停をなしたもので、その瑕疵は重大であり、それに調停としての効力を認めることはできないと解せられるところ、控訴人らの主張する前記調停は、山林の使用収益の紛争につきなされたものであつて、いわゆる小作争議に含まれるものでないこと明らかであり、かつ、当時それについて調停をなしうる旨の法規は存在しなかつたものであるから、右調停はそれに含まれている実体法上の和解又はそれに準ずる契約としての効力が生ずることはともかく、調停としての効力は有しえないものと解せざるをえない。

従つてこの点からみても、控訴人らの既判力の主張は認めることはできない。

一、入会権について

(一)  旧藩時代の入会慣行

原審における控訴人長谷川行(第一回)の供述により成立の認められる甲第一号証の一ないし四、成立に争いのない甲第五号証の三により成立の認められる甲第二、三号証、弁論の全趣旨により成立の認められる甲第八号証の二と甲第一八号証、成立に争いのない乙第三九号証の一ないし九、原審証人新岡謙作の証言、原審における控訴人長谷川行(第一ないし第三回)、当審における控訴人山下岩雄(第一回)の各本人尋問の結果に弁論の全趣旨を総合すれば、被控訴人らが本訴で入会権を主張している別紙物件目録記載の本件土地(但し字長谷川六一番の一号からは別紙図面(Ⅱ)の石標に囲まれた部分を除く、また同地の面積を一七町八反八畝二八歩と、字稲村五九番の一の山林とあるのを見継山と各訂正する。なお字長谷川一六三番地の一号は控訴人長谷川健逸外三名の主張するようにその後分筆されていることは被控訴人らも認めているが、他の土地との関係上もとの表示を使用することとする)は、屏風山と呼ばれる山林の一部であるが、屏風山はもと七里浜と呼ばれる津軽半島の西海岸にある幅約一里の砂丘地帯であつて、日本海からの潮風や、飛砂が内陸数里に及び、その地方は耕作不能な荒地となつていた。天和二年ときの藩主津軽信政が津軽平野開発のために防風、防砂の目的で右海岸砂丘地帯に造林しようと計画し、地元の農民らに黒松や雑木を植裁させ、これが成林し、遠くからみればあたかも屏風を張り回らしたような形であつたので屏風山と呼ばれるようになり、その後も引き続き地元村民により植林が行われたので、その後津軽平野は一大穀倉地帯となつた。本件土地も、右屏風山の植林事業の一環として、当時地元であつた広岡部落の部落民が黒松、雑木を植林したもので、その植林の功により広岡部落民は本件土地に立入つて、防風、防砂の目的を害しない範囲で、風倒木や、害虫木、雑木等を採取して薪炭材等に利用していたことが認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

従つて、旧藩時代は、藩有地であつた本件土地に、広岡部落が入会権を有していたといえる。

(二)  明治以降の入会権

控訴人らは、本件土地は明治初期の地租改正の際国有地になつたものであるから、右入会権は消滅した旨主張している。

なるほど、本件土地が右主張のように国有地となつたことは当事者間に争いがなく、また明治初年の地租改正の際の官民有区分により国有地に編入された土地については、従来の入会権は存続しえないものとの判例(大判大正四年三月一六日)やこれに賛する見解もあるが、右地租改正当時において国有地となつた土地につき従来の入会権を消滅せしめる旨の法規は存在せず、また民法自体も一般に慣習による入会権の存続を承認しており、特に民有地と国有地とを差別していないので、国が極力国有地上の入会権を排除しようとしてきたことは認めるとしても、それはあくまでも事実上の問題であり、国有地上には入会権は法律上存在しえないとの右判例及びそれに賛する見解には従うことはできない。

そこで、本件土地については、国有地となつた後に入会権が排除されたか否かについて判断することとする。

控訴人らはその点に関し、国有地編入により、その地上の松立木は控訴人らのうちの権利者(原判決添付第二目録被告ら)の先代らの共有となり、本件土地は国から同人らが賃借し使用してきたもので、従来の入会権は消滅したものであると主張しており、成立に争いのない乙第三九号証の一ないし九(各屏風山官地民木林台帳謄本)によれば、一見、控訴人ら主張のように右先代らが本件土地を国から借受け、その地上の松立木を共有しているものと認められ、また右主張に副う控訴人ら本人の供述もあるが、右台帳の樹木所有者欄には仕立人長谷川市之助外三六名、仕立人長谷川市之助外三一名とわざわざ肩書のところに仕立人と記載されていること、及び成立に争いのない甲第一五号証と前記甲第一八号証の各記載、当審証人岩見清の証言、原審被告長谷川長蔵(第三、四回)の本人尋問の結果に照らし、本件土地に借地権が設定され、従来の入会権は消滅したとはたやすく認めることができない。なお、弁論の全趣旨により成立の認められる甲第四号証、乙第四三号証の一、二と、当審証人岩見清の証言及び当審における控訴人長谷川行の本人尋問の結果に弁論の全趣旨を総合すれば、明治一三年に屏風山に関係している地元六六ケ村の総代原田豊太郎外数名より青森県令に対し、屏風山保護取締のために屏風山を永代世無代価で拝借を願出たこと、その後明治二二年に再度屏風山の管理を郡長に委託されたしと、委託願委員高橋正一郎外一一名から青森県知事に願出た結果、許可を受けたので、取締規約を作つて関係一一ケ村より総代、取締役を選び屏風山の保護取締にあたつていたこと、右一一ケ村よりなる組合は明治四〇年過ぎに解散したことが認められるが、右はたゞ、屏風山に関係する地元一一ケ所よりなる組合ともいうべきものに対し、屏風山の保護取締を委託したものであつて、そのことから、控訴人らの主張する控訴人ら先代らに国が本件土地を貸与したものと確認することはできない。

むしろ、前記台帳に共有名義人と記載されている者も他村に移転したものは権利者でなくなること、本件土地に伐採後に植栽できること。使用収益の範囲は松立木のみならず雑木等毛上物一切に及ぶこと(以上は当事者間に争いない)に、前記第三号証、成立に争いのない甲第六号証の三、甲第一五号証、前記甲第一八号証、原審被告長谷川長蔵(第二回)の本人尋問により成立の認められる乙第二三号証、原審証人新岡謙作、同長谷川正隆、同佐藤勇蔵及び当審証人岩見清の各証言、原審における被控訴人長谷川伝三郎、原告佐藤甚一の各本人尋問の結果、当審における被控訴人長谷川平次郎の本人尋問の結果、当審及び原審における被控訴人長谷川喜和次郎、同佐藤嘉七の各本人尋問の結果、原審における控訴人長谷川行、同山下久一、被告長谷川長蔵の各本人尋問の結果、並びに当審における各検証の結果を総合すれば、入会権は本件土地が国有地に編入された後も消滅せずに存続していたもので、その内容は右各証拠に弁論の全趣旨を総合すれば次のとおりであることが認められる。

即ち、広岡部落は明治初年の町村合併により越水村の一部となつたが、なお旧村は本件土地に対する入会権の主体として依然存続していた。ところが、明治九年頃、本件土地は国有地に編入され、その地上の松立木は広岡部落が労力を投じて植栽保護してきた功により広岡部落有のものと認められたが、既に広岡部落は右合併により行政村たる資格を失い単なる自然村として俗称せられるにとどまつていたので、植林後に分家したため植林に参加していない分家の者も含めて当時の部落の戸主全員を仕立人とすることによつて、対外的に村中仕立であり広岡部落総有のものであることを表示するようにしたため、現在の屏風山官地民木林台帳に仕立人として記名共有の形式がとられているものである(乙第二三号証によれば当初は仕立人を村用掛神久三郎をもつて村中仕立であることを表示しようとしていたもののようである。なお、本件土地の一部については仕立人長谷川市之助外三一名とあつて、当時の部落民中五名の者が除外されているが、右除外された者もその土地について他の者と同じように使用収益しているので、その表示の差異をもつて、本件松立木が部落有のものでなく、単純な個人共有とすることはできない)。

そして、右仕立人名義人となつている者は勿論、その後分家して広岡部落に一戸を構えるようになつた者は、村山と呼ばれている本件山林の補植、根払、伐採等に参加すると共に当然本件山林の毛上物一切の収益に参与してきたもので、即ち、戸主あるいは世帯主は旧戸、分家をとわず入会権者となり、後記昭和七年の調停の際の紛争を除き、本件紛争に至るまで山委員(右調停前は分家側からも選出されていた)の連絡により各戸一人づつ本件山林に出て共同して松立木、新たに植栽した杉立木、風倒木、害虫木、老齢木、雑木等を伐採し、各戸ほゞ平等に分配していたが、時には学校、消防屯所、火の見櫓、防火用貯水池、神社、共同墓地の休憩所等の資材や農道、農道の橋等の改修、あるいは学校の薪炭材にあて、売却した代金を消防屯所等の建築費にあてたり消防ポンプやホース等を購入したりして部落の公共的事業等に使用してきた(右入会はいわゆる団体直割利用形態である)。

なお、大正初期の頃、別紙図面(Ⅰ)記載の部分を当時の本家分家全部にほゞ平等に分割配分し、右分配を受けた各戸はそこに杉を植栽し、その杉は植栽した者が収益し、他の入会権者の収益権は及ばないとされているが、他方その杉に対する権利は他村に居住する者には譲渡しえないものとし、いわゆる個人分割利用形態といわれる入会慣行が成立している。

控訴人らは松立木は入会権の対象となりえないものといつているが、雑木、松立木とも旧藩時代に広岡部落が仕立てたものであり、かつ松立木は地租改正の際に広岡部落有のものとされた点からみて、松立木を入会権の対象から除外すべき理由はないし、また前記のとおり松立木も用材あるいは薪炭材として入会権の対象として収益されてきたものである。

また、昭和七年の調停以後、いわゆる共有名義人側のみから、本件入会山の委員が選らばれ、また時には薪炭材の配分等につき分家側を差別していたこともあるようであるが、これは入会集団における共有名義人側の社会的、経済的地位を不当に行使したものであり、それにより従来の入会慣行の内容が法的に変化したものと認めることはできない。

以上の認定に反する原審及び当審における控訴人ら各本人の供述は措信せず、他に右認定を左右するに足る証拠はない

(三)  調停について、

控訴人らは、昭和七年の調停により、かりに従来入会権があつたとしても、それは消滅したものであると主張している。

右調停は前記のとおり調停としての効力は認めえないが、それがために調停に含まれている実体法的効力まで否認する謂れはないので、右調停により如何なる実体法的規制がなされたかを検討することとする(右調停の当事者、係争土地と本件の当事者、係争土地は一部相違しているがこれにはふれないでおく)。

調停条項第二項は、共有名義者側は分家側に対し従来の慣行に従い地上産物を分与する旨、第四項は、分家側は係争土地に対する共有名義人の従来の共有権を認める旨、それぞれ定めている。

これにつき控訴人らは右第二項の慣行の内容には松立木は含まれておらず、第四項により共有名義人らの松立木の共有権が認められた旨主張しており、控訴人らのうちには当審或は原審においてそれに副う供述をしているものもあるが、にわかに措信しがたく、むしろ、前記のとおり松立木についても入会慣行は既に存在していること、また右調停も共有名義人が伐採売却した松立木の代金を分家側に分与しなかつたことに端を発した(このことは成立に争いのない乙第二四号証、原審における被控訴人長谷川喜和次郎の本人尋問の結果(第三回)等により明らかである)ものであるから、争の中心であつた松立木を除外するならば、その旨を調停条項に当然明記すべきであること、等を考慮すれば、当然、松立木も右従来の慣行の対象に含まれていると解せざるをえない。

従つて第四項は、屏風山官地民木林台帳等に仕立人として記載されている者の範囲をそのままにしておき、新たに分家により権利者となつた者を台帳等に追加記載しないとの趣旨のものであつて、これにより松立木は共有名義人のみの共有であることを定めたものとは解することはできない。

よつて、右調停は入会権の内容を従来どおりとする旨のものであるから、それによつて従来の入会権の内容が変更された旨の控訴人らの主張は採用できない。

(四)  時効取得の抗弁について

控訴人らは、松立木については昭和七年七月九日の右調停成立以来共有名義人は善意無過失で占有を始め、所有の意思を以つて平穏且つ公然に占有しているから昭和一七年七月八日に所有権を取得したと主張している。

しかし、右調停は前記のとおりの趣旨であるから、調停により共有名義人らが松立木を同人らのみの所有とする意思を有したものとは認められないのみならず、松立木は前記のとおり入会権の主体たる広岡部落という実在的綜合人の総有に属するものであり、その占有も右綜合人がなしているものと認められ、かつその構成員たる部落民も時とともに変化していくので、入会集団のうちの特定の者が、それを時効取得するには、右松立木に自己の所有に属する旨の明認方法をほどこすなどして、自己の所有意思並びに排他的な占有意思を継続かつ確定的に明示するを必要とすると解すべきであるのに、そのような事実は全証拠によるも認めることはできない。

従つて時効取得の抗弁も理由がない。

(五)  訴権放棄等の契約について、

被控訴人の一部或はその先代は控訴人らに対し、「本件係争地につき将来絶対に訴訟を提起しないこと、これに違背した場合は分与を受けない」旨約束したので、本訴提起により分与請求権を喪失したものであり、又かかる行為は信義則に反するから本訴請求は失当であると控訴人らは主張している。

しかし、民事裁判制度も、単に私人の権利、利益を保護するためだけのものではなく、同時に法秩序維持という国家的利益の保護も目的としているものであるから、右制度の利用権能である私人の訴権も、個人の利益のためのみならず、法秩序維持という国家的目的のためにも認められているものというべきである。

従つて、訴権というものは、それを行使するの義務はないとはいえ、その行使はあくまでも当事者の自由意思にまかすべきもので、これを訴提起前に予め放棄することはその併有する公益的性質の点からみて許されないものというべく、私人間において予め訴を提起せざる義務を生ぜしめる不作為契約も、特定債権を自然債務たらしめる実体的な契約と解する余地のない入会権に関する本件においては、公序に反するものとして民法第九〇条により無効であり、また、右不作為契約に違反した場合は入会権者たる地位を失う旨の契約は、不法条件を附したものとして、民法第一三二条により無効であると解せざるをえない。

従つて、控訴人らの主張する契約はすべて無効であり、また被控訴人らに無効な契約に拘束されそれに違反しないことを求めるのは不当であるから、控訴人らの右契約或いは信義則の主張は採用できない。

(六)  字長谷川一六三番の一号等について

控訴人ら代理人は、右地上の松立木は大正六年一二月一一日その土地が陸軍用地に組替えられるとともに国に買収されたので右地上の入会権は消滅し、その後昭和二七年に控訴人らが国から右土地及び松立木の払下を受けたものであると主張しており、当審における控訴人山下岩雄はそれに副う供述をしているが、成立に争いのない甲第三号証と弁論の全趣旨(相控訴人長谷川健逸外三名の松立木は買収されていない旨の主張)に照らし、にわかに措信しがたく、又、乙第二三号証は、たゞ「陸軍にて買収の趣き県知事に通知あつた」との記載であり、右記載からは実際買収されたものか否か不明であり、他に右松立木が国に買収されたことを認めるに足る証拠はないから、右控訴人ら代理人の主張も亦失当である。

なお、控訴人らは右土地外数筆が国から控訴人らに売渡した旨主張しているが、入会収益権は地盤所有者の変動によつて変更を受けないものであるから、本件土地の一部が控訴人らの所有となつたとしても、従来の入会権は消滅せず、そのまゝ存続しているものである。

次に控訴人長谷川健逸外三名は、宇長谷川六一番の三、四、五号及び字稲村五〇番には松立木が一本もなく、また右六一番の三、五号には疎開者らの住宅が建設されているので入会権は存在しない旨主張している。

当審での検証(第一回)によれば、字稲村五〇番には小柴と小さい松が生立しており、字長谷川六一番の四号にも雑木が存在していることが認められるので、右両筆はなお入会権の対象となりうるものであるが、字長谷川六一番の三、五は生立木は全くなく建物が建築されて宅地化されているものであることが認められるから、もはや入会権の目的たる収益が不能となつたものとして右二筆についての入会権は消滅したものというべきである。

(七)  ところで、一審原告ら(佐藤甚一は当審において訴を取下げたので、同人を除く)及び被告らが原判決当時いずれも広岡部落に居住する一家の世帯主であることは弁論の全趣旨により明らかであり、その後一審原告山下喜三郎は東京に住居を移し、広岡部落を離れたことは当事者間に争いがないので、右山下喜三郎を除くその余の原告(並びに一部原告死亡後の入会権確認についての訴訟承継人、即ち亡佐藤多吉承継人被控訴人佐藤喜一郎、亡佐藤良吉承継人佐藤勇蔵、亡長谷川茂七承継人長谷川茂。入会権者であつた先代が訴訟中死亡した場合は、同人に代り世帯主となり入会権を取得したものは、民事訴訟法第二〇八条第一項の「其他法令に依り訴訟を続行すべきもの」に該当し、訴訟手続を当然承継するものと解する)は、入会権者である一審被告らと平等の割合をもつて別紙物件目録一、二、四、六ないし一四(但し、当審において取下げた部分即ち別紙図面(Ⅰ)の区分使用せる部分の杉立木及び別紙図面(Ⅱ)の石標で囲まれた部分を除く)につきその地上の松立木、雑木、小柴その他一切の産出物につき平等の割合を以つて採取する入会権を有しているものというべきであるから、その部分についての請求を認容した原判決は正当であるが、右物件目録三、五の両筆については前記のとおり入会権は消滅したものと認められるので、この部分の入会権を認容した原判決は失当として取消を免れない。

又、原告山下喜三郎は広岡部落を離れたので、入会権利者たる資格を喪失したものであり、同人の入会権確認請求を認容した原判決は取消さざるをえない。

(なお、被控訴人らは、控訴人長谷川行の原審における自白の撤回に異議を述べているが、或る入会集団において特定人が入会権利者であるか否や、入会収益権の範囲如何等は合一にのみ確定すべきものと解せられるので、いわゆる準必要的共同訴訟として共同訴訟人の一人が自白してもその効果はないものである)。

三、損害金請求について、

入会団体の中の一部の入会権者が違法な収益によつて他の入会権者の固有権たる収益権を害する場合は、それによつて損害を受けた入会権者は、その損害の賠償を請求しうるものと解せられるところ、

(一)  昭和二七年七月頃原判決添付第二目録被告ら(被告今伝太郎については先代亡今平内、被告佐藤二三雄については先代亡佐藤粕太郎、被告山下文作については先代山下慶吉)が共同して別紙物件目録記載二の山林より黒松一〇〇石を伐採売却して金一七万五、〇〇〇円をえたことは当事者間に争いがないが、原審における控訴人佐藤善蔵、同長谷川健蔵の各本人尋問の結果によれば、被告らは内金八万四、〇〇〇円を中学校建築資金に寄附し、残りの九万一、〇〇〇円を同被告らのみで分配したことが認められ、これに反する証拠はない。

右寄附は入会団体からなされたものとみられているので、残りの九万一、〇〇〇円が当時の入会権者に平等に分配さるべきものであつたことになる。

そして、弁論の全趣旨によれば、当時の入会権者は右被告ら(一部先代)と原判決添付の第三目録被告ら、並びに一審原告ら(原告長谷川久治については先代亡長谷川栄四)の六八名であると認められるので、入会権者一人当り金一、三三八円が分配さるべきであるのに、第二目録の被告ら(一部先代)のみでそれを分配したので、入会権者である原告(一部先代)らは各自金一、三二八円の損害を受けたことになる。

(二)  昭和二八年九月下旬、第二目録被告ら(被告佐藤二三雄については先代亡佐藤粕太郎、被告山下文作については先代亡山下慶吉)が共同して別紙物件目録記載六、七の山林より黒松四二本を伐採して同人らのみで分配したこと、その時価は金一一万二、五〇〇円であつたことは当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によれば当時の入会権者の総数は同じく六八名である。(但し、原告長谷川久治、被告今伝太郎は共に先代死亡により入会権者となつていた)ので、右違法な分配により原告らが受けた損害は一人金一、六五四円となる。

そして、右はいずれも、第二目録被告ら(その一部は先代)の共同不法行為による損害であるから、同人らは各原告(その一部は先代)に対し、各自連帯して右(一)(二)の損害金合計金二、九九二円を支払うべき義務があることになる。

ところで、個別的な入会権者の収益権を害した結果生じた損害賠償請求権及びそれに対する賠償義務は、通常の金銭債務として相続の対象になると解せられるところ、弁論の全趣旨により原告長谷川久治は昭和二八年三月六日先代長谷川栄四死亡により九分の一の相続分を、被告今伝太郎は昭和二八年九月一六日先代今平内の死亡により四分の一の相続分を、被告佐藤二三雄は昭和三〇年三月九日先代佐藤粕太郎の死亡により一二分の一の相続分を、被告山下文作は昭和三〇年一〇月一一日先代山下慶吉の死亡により四分の一の相続分を各相続したことが認められるので、原告長谷川久治は被告らに請求しうる損害金は合計金一、八〇二円にとどまり、被告今伝太郎は右原告に対しては金一、七九一円、その余の原告に対しては金二、〇一三円、被告佐藤二三雄は原告長谷川久治に対しては金一五〇円、その余の原告に対しては金二四九円、被告山下文作は原告長谷川久治に対しては金四五〇円、その余の原告に対しては金七四八円の賠償義務を負うものである。

しかるに原判決は右原告及び被告らについても他の者と同じく前記金二、九九二円の損害賠償請求権と義務を認容しているので、原判決を変更して前記範囲内において原告らの損害賠償請求を認容し、原告らのその余の損害金請求は失当として棄却することとする。

四、よつて本件控訴は一部理由があるので、その範囲において原判決を変更し、その余の控訴を失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九六条、第九三条、第九二条を適用し、なお原判決添付第四目録の土地の表示に一部誤りがあるのでこれを更正することとし、主文のとおり判決する。

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