伊丹簡易裁判所 平成15年(ハ)563号 判決 2005年2月23日
兵庫県●●●
原告
●●●
同訴訟代理人弁護士
大前治
同
稲野正明
同
松丸正
同
大江千佳
同
上原邦彦
同
吉岡良治
同
岩永惠子
同
岩城穣
同
中森俊久
同
養父知美
同
村瀬謙一
同
三木憲明
同
増田尚
同
山田暁子
同
山本香織
同
岡本英子
神戸市中央区下山手通4丁目18番2号
被告
兵庫県住宅供給公社
同代表者理事長
●●●
同訴訟代理人弁護士
●●●
同
●●●
同
●●●
同
●●●
同
●●●
同
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同
●●●
同
●●●
同
●●●
主文
1 被告は,原告に対し,金22万6811円及びこれに対する平成15年11月10日から支払済みまで年5パーセントの割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は,これを4分し,その1を原告の負担とし,その余は被告の負担とする。
4 この判決は,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
被告は,原告に対し,30万4000円及びこれに対する平成15年11月10日から支払済みまで年5パーセントの割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,後記建物を賃借して敷金35万4000円を交付した原告が,被告に対し,原告と被告との間の建物賃貸借契約について建物の通常の使用に伴う損耗分の修繕費等及び玄関鍵の取替費用を賃借人である原告の負担とするとの合意(以下「本件特約」という。)が成立していないこと,仮に本件特約が成立していたとしても,特定優良賃貸住宅の供給の促進に関する法律(以下「特優賃法」という。)等に違反し,公序良俗に反し無効であると主張して,上記敷金から原告の責に帰すべき事由による損耗分の修繕費等5万円を控除した残額30万4000円と遅延損害金の支払を求めた事案である。
1 前提事実(当事者間に争いのない事実並びに証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実《末尾に主要な証拠を掲記した。》)
(一) 被告は,地方住宅供給公社法に基づき設立された特殊法人である。
(二) 本件賃貸借契約
原告は,被告から,平成9年6月1日,兵庫県●●●所在のマンション「●●●」(以下「本件マンション」という。)の205号室(以下「本件建物」という。間取り・位置は別紙1のとおり。)を,次の約定により賃借し(以下「本件賃貸借契約」という。),同日,引渡しを受けた。(甲1,乙6)
(1) 期間 平成9年6月1日から平成10年3月31日まで(以後1年ごとの自動更新)
(2) 賃料 月額11万8000円(その後月額10万7000円に改定された。)
(3) 共益費 月額1万0500円
(三) 本件賃貸借契約における約定等
(1) 本件賃貸借契約において,敷金は,家賃の3か月分の35万4000円と定められ,原告は,被告に対し,同契約締結の際,敷金として同金額を差し入れた。ただし,その後,敷金は上記(二)(2)の賃料改定に伴って32万1000円に変更され,被告は,原告に対し,上記敷金35万4000円のうち3万3000円を返還した。
本件賃貸借契約には次の趣旨の約定が存する(以下摘示する条項は,本件賃貸借契約書の条項である。)。(甲1)
ア 敷金(8条)
賃貸人は,本物件の明け渡しがあったときは,遅滞なく,敷金の全額を無利息で賃借人に返還しなければならない。(8条3項本文)
ただし,賃貸人は,本物件の明け渡し時に,家賃の滞納,原状回復に要する費用の未払いその他の本契約から生じる賃借人の債務の不履行が存在する場合には,当該債務の額を敷金から差し引くことができる。(8条3項ただし書)
賃貸人は,賃借人から当該敷金以外,権利金,謝金等の金品を受領し,その他賃借人の不当な負担となるものを一切徴収しないものとする。(同条6項)
イ 補修費等の負担区分(16条)
賃借人は,本住宅について,別冊の修繕費負担区分表に定めるところにより修繕費等を負担するものとする。(16条1項)
賃借人は,修繕又は取替えを必要とする箇所を発見したときは,速やかに賃貸人に通知するものとし,賃貸人と協議の上,修繕等を実施する。(同条2項)
ウ 賃借人の原状回復義務(17条)
賃借人は,次の各号に該当するときは,直ちにこれを原状に回復しなければならない。ただし,賃借人の責に帰することができないと賃貸人が認めた場合は,この限りではない。(17条1項)
① 住宅又は付属物若しくは共用の施設の損害,破損,毀損又は,滅失したとき
② 賃貸人に無断で原状を変更したとき
③ 模様替えその他施設に変更を加えたままで住宅を退去しようとするとき
賃借人は,前項による原状回復をせず,賃貸人に損害を与えた場合は,賃貸人の定める費用を賠償しなければならない。(同条2項)
エ 賃借人の退去に伴う費用負担額(21条)
賃貸人は,17条に規定する賃借人の原状回復義務の内容を明らかにするために,賃借人が退去する住宅(付属物を含む)の検査を行うものとする。(21条1項)
賃貸人は前項の検査結果に基づき,別冊の修繕費負担区分表に定めるところにより,修復に要する費用を査定し,賃借人が負担すべき額(以下「住宅復旧額」という。)を確定するものとする。(同条2項)
オ 敷金の清算(22条)
賃借人が退去時において,家賃等の未納又は14条に定める延滞損害金,又は前条に定める住宅復旧額もしくは15条,17条に定める義務の不履行がある場合は,賃貸人は敷金のうちから延滞損害金,滞納家賃等,賠償金及び住宅復旧額等を賃貸人の指定する順序に従って控除後,住宅明け渡し後に残金を返還する。
ただし,控除すべき額が敷金の額を越える場合は,賃借人は不足額をただちに賃貸人に支払わなければならない。
(2) 本件賃貸借契約16条1項,21条2項記載の「別冊の修繕費負担区分表」(以下「区分表」という。)は,別紙2のとおりである。(甲2)
(3) 被告は,本件賃貸借契約の締結にあたり,被告発行の「住まいのしおり」と題する文書(以下「本件しおり」という。)が被告から原告に交付された旨主張している。
本件しおりは,「1.入居者の手続き(入居にあたって)」(1頁以下),「2.契約時のお約束」(4頁),「3.家賃等のお支払い」(5頁以下),「4.入居中の各種手続き」(7頁以下),「5.禁止事項・注意事項」(11頁以下),「6.退去時の手続き(退去にあたって)」(13頁以下)及び「7.快適な生活を送るために」(15頁以下)と各題する7項目から成る34頁(まえがきを除く。)の冊子である。
そして,本件しおり中「6.退去時の手続き(退去にあたって)」と題する項目には,「[3]みなさまの負担となる退去跡補修費」として「退去跡補修については,『修繕費負担区分表』(略)に基づいて工事を行います。なお,玄関錠の取替,畳の表替,フスマなどの張替,室内全塗装,クロス貼替え(クッションフロアーシート張替を含め)については,全て新しくさせていただきます。この場合,お預かりしている敷金で充当させていただきますが,不足する場合は,別途請求させていただきますので,お支払いいただくことになります。(不足するケースが予想されますので予めご承知おき下さい。)」との記載,「[4]敷金の返還」として,「敷金は,みなさまの負担となる退去跡補修費,未納家賃等がある場合はそれらを控除し,すべての手続が終了後(退去跡補修費における不足分がある場合は当該不足額の納入後,退去跡補修工事の完了及び未納家賃及びその他の債務額の完済が確認されたとき),残額をご返還いたします。」との記載,「[5]鍵の返還」として,「玄関の鍵は退去日に,住宅所有者へ返還してください。なお,玄関鍵は退去跡補修工事の時にシリンダー鍵ごと取替えを行います。費用については入居者負担です。」との記載がある。(乙1)
(四) 敷金の不返還等
原告・被告間の本件賃貸借契約は,遅くとも平成15年10月19日終了し,原告は,被告に対し,同日,本件建物を明け渡したところ,被告は,原告に対し,上記敷金の残額32万1000円を返還せず,かえって,同年11月10日,住宅復旧額として次の合計45万2551円を計上し,9万8432円の不足予定額が生じた旨通知した。(甲4,5)
玄関鍵(シリンダーのみ)取替 7000円
畳表替 2万6100円
襖貼替 1万3050円
戸襖張替 4500円
クロス貼替 22万7875円
網戸張替 6000円
木目化粧部キズ補修工 4万円
その他キズ補修 6000円
(洋室1扉表面凹み,玄関框キズ,洋室2扉の枠キズ,LDサッシ額縁下枠キズ)
和室戸襖損傷修理 1万円
塗装工事 7500円
(玄関框,LDサッシ額縁,洋室2入口枠)
クーラー取付用部品補充 2700円
(袋ナット,座板)
クーラースリーブキャップ取付 3200円
洋室2物入折戸上部コマ欠損 1500円
室内美装(ハウスクリーニング) 3万円
床ワックス掛 1万3650円
小計 39万9075円
諸経費 3万1926円
工事費計 43万1001円
消費税 2万1550円
合計 45万2551円
(五) 賃借人である原告の責に帰すべき事由による本件建物の損耗及びその住宅復旧額
原告は,本件賃貸借契約の期間中,本件建物の①和室戸襖及び②LD(リビング)床フロアー木目化粧部を過失により損傷し,上記部分の住宅復旧額は多くても合計5万円である。
2 争点
(一) 本件賃貸借契約について,目的物の通常の使用に伴う損耗分(以下「通常損耗分」という。)の修繕費等及び玄関鍵の取替費用を賃借人である原告の負担とするとの合意(以下「本件特約」という。)が成立したか。
【被告の主張要旨】
(1) 通常損耗の補修費を賃料に含めて徴収するか,賃料以外の名目で徴収するかは,賃貸業者の経営判断の問題である。すなわち,継続的な事業として建物賃貸を行うのであれば,通常損耗を補修して建物の使用価値を維持する必要があり,そのためには補修費を何らかの形で賃借人から徴収しなければ事業として成り立たないが,関西地方では,賃料を低めに設定して賃借人の入居を容易にする一方で,当然必要な通常損耗の補修費に充てるための資金を別途賃借人から徴収するために,賃貸借契約において,関東地方における敷金と比較すると多くの月数の賃料に相当する敷金の交付を求めるとともに,相当な割合の敷引の特約をする慣行があり,長年にわたりこのような慣行に従った建物賃貸借が一般化していたことは関西地方においては周知の事実である。このように賃料を高めに設定して退去後の通常損耗の補修費に充てる資金を契約時ないしは退去時に別途賃料以外の名目で徴収するかは,地域の慣行や建物賃貸業者の経営方針によって変わりうるものであって,理論的に定まっているものでも,また,定まるべきものでもないし,まして社会通念として確立しているとはいえない。本件賃貸借契約は,通常損耗の補修費を賃料とは別に徴収するために敷引の特約を付するという慣行が広く行われてきた関西地方における特優賃建物の建物賃貸借契約であって,このような関西地方の社会経済的な状況からすると,関西地方では,通常損耗の補修費の負担義務が賃借人にないとの認識が一般的であるとはいえず,むしろ,建物を賃借する場合には,毎月の賃料とは別に通常損耗の補修費を敷引その他の名目で徴収されるとの認識を有しているのが一般的である。
(2) 本件特約は,民法616条,598条が規定する賃借人の原状回復義務を超えた義務を賃借人に負担させる内容となっており,賃借人に民法の規定とは異なる内容の義務を課すものであるから,本件特約が成立するためには,通常損耗分の補修費等が賃借人の負担になることが契約書等で明示され,賃借人が明示された内容を理解した上で,これを受け容れる意思表示をしたことが必要である。
しかし,上記民法の各条項は任意規定であるから,民法の規定と異なる法律関係を設定する合意であるからといって,本件特約が成立するためには,賃借人が外部に表示した意思から一定の契約内容を設定しようとする意思の合致だけでは足りず,賃借人の内心の意向の合致や任意規定の内容を理解した上でこれと異なる定めをすることの認識までを必要とする特殊な合意である必要はない。
むしろ,契約自由の原則の下においては,契約当事者に不測の損害をもたらすことがないよう契約関係の安定を図ることが重要であるから,当事者の合意形成に違法・不当な影響がない場合には,当事者が内心において特約の内容が自己に不利益で,不満に思いながらも,全体としての契約の成立を優先し,消極的に特約を受け容れた場合であっても,文書又は言動によって外部に表示された意思表示に基づいて両当事者の意思の合致があれば,特約が成立するというべきである。
したがって,賃借人が,特約の内容が通常損耗分の修繕費を賃借人の負担とすることであることを了知し,これを受け容れてその旨の合意をし,当事者間で取り交わされた文書や当事者の言動からその旨の意思の合致があれば,本件特約が成立したといえる。
(3) 本件賃貸借契約16条は「賃借人は,本住宅について,区分表に定めるところにより修繕費等を負担するものとする。」旨規定し,また,同契約21条は「賃貸人は,区分表に定めるところにより,修復に要する費用を査定し,賃借人が負担すべき額を確定する。」旨規定し,本件賃貸借契約を締結しようとする者が,退去時の原状回復費用を区分表の記載に基づいて負担する旨理解できるような内容であることは明らかである。
そして,区分表は,賃貸借継続中の原状回復と賃貸借終了・退去後の原状回復とに分けた上で,原状回復の対象となる賃貸建物の構造材・造作・付属設備等を具体的に分類し,分類した項目に基づき前者を(1)ないし(4)の表に,後者を(5)の表に掲記した上で,原状回復費用の負担区分欄,入居者(賃借人)欄又はオーナー(賃貸人)欄に丸印を付けるという方法で負担区分を明確に定め,特に,退去跡の補修については,補修の要否の判断基準となる具体的な状況を(5)の「退去跡補修費等負担基準」(以下「本件負担基準」という。)の「基準になる状況」欄に,原状回復としての修繕・取替え等の内容を「施工方法」欄にそれぞれ具体的に明記して,その費用を退去者(賃借人)に負担させるものと,オーナー(賃貸人)に負担させるものに分け,退去者欄及びオーナー欄に丸印を付けるという方法で賃貸人と賃借人の負担区分を明確に定めて,賃借人がどのような原状回復義務,修繕義務を負うか詳細に規定している。
さらに,区分表の本件負担基準においては,賃借人の故意過失がなくても汚損されることが多い,フスマ・障子紙については,汚損につき「手垢の汚れ・タバコの煤けなど生活することによる変色を含む」と,各種床仕上材については,「生活することによる変色・汚損・破損と認められるもの」と,各種壁・天井等仕上材については,「生活することによる変色・汚損・破損と認められるもの」と括弧書きで注記して,「生活することによる変色等」を含むことを明確にしており,一般・通常人から見ても,退去者(賃借人)がいわゆる自然損耗であってもその補修費を負担すべきことが定められていると容易に判断できる内容となっており,しかもその記載方法は一覧性の高いものとなっている。
しかも,被告担当者は,本件賃貸借契約締結の際,原告に対し,本件賃貸借契約書,区分表及び本件しおりを交付し,これらの書面に基づいて契約内容の概要を説明し,特に本件特約に関しては,本件しおりの本件特約に関する部分を読み上げて説明し,原告はこれに対し異議を述べなかった。
よって,原告は,区分表で賃借人負担とされている部分の補修費は,それが通常損耗であっても,賃料とは別に支払う義務を負うことを理解し,これを受け容れた上で,本件特約を含む本件賃貸借契約を締結したことは明らかである。
この点,原告は,被告から本件特約についての説明を受けていない旨主張し,そのことを本件特約の成立を否定する根拠としているが,仮に契約内容の説明が十分でなかったとしても,そのために意思表示の瑕疵が生じていない限り,契約の成否に影響を及ぼさないところ,本件賃貸借契約は,通常人にとって特殊な契約ではなく,かつ,通常損耗分の補修費が賃料以外の名目で賃借人負担となるのが一般的な関西地方で締結されたもので,本件賃貸借契約書及び詳細かつ一覧性の高い区分表のみによっても特約の内容を理解することは十分可能であるから,口頭による説明が多少簡略だったとしても,意思表示の瑕疵が生じることはない。
(4) 本件特約により原告が負担すべき補修費は,上記前提事実(四)のとおり,45万2551円であるから,被告が原告に対して返還すべき敷金は存在しない。
【原告の主張要旨】
(1) 本件特約が成立するためには,原告・被告がその内容を認識した上で申込・承諾の意思表示がなされることが必要であることは勿論,特に住宅賃貸を業とする被告が法的知識に乏しい一般市民である原告に対して契約書面を示しながら十分に特約の内容を説明するなどして,その内容を理解させたことが必要であり,被告が原告に対して本件特約の内容を具体的に明示して,原告が負担内容を了承したことが必要であるが,本件では,以下のとおり,かかる事実はなく,本件特約は成立していない。
(2) 本件賃貸借契約書及び区分表の内容が具体的・明確とはいえないこと
本件賃貸借契約21条の文言は,民法が定める賃借人の負担義務を超える義務を課すことが明確なものではない。
また,区分表は,本件賃貸借契約書と一体ではない上,その「基準になる状況」欄には不明確な記載が多い。例えば,「錠」の項目には,「単位」欄に「セット」と「個」の2つがあるが,両者の意味は不明であるし,「基準になる状況」欄に「交換」,「施行方法」欄に「交換」となっており,意味内容が不明である。その他の項目欄も,例えば,「汚損・毀損・汚れ・自然摩耗」とはそれぞれいかなる程度の損耗状態をいうのか不明確であるし,「補修・調整」とはいかなる程度の原状回復であるのかも明確ではない。畳表・縁の欄にあっては,「基準になる状況」欄が空白である。
(3) 被告が原告に対し,本件特約について具体的な説明をしていないこと
ア 原告は,平成9年4月ころ,被告の阪神北事務所において,本件賃貸借契約の締結手続を行い,その際,被告担当者から,預金口座振替制度による家賃の支払方法,入居引越の際の注意事項,契約書の署名押印箇所等について簡単に説明を受けた。原告が同事務所にいた時間はわずか10分から20分程度で,そのうち被告担当者が本件賃貸借契約書の大まかな内容を説明した時間は,署名押印箇所の説明等を含めてわずか5分程度だった。被告担当者は,契約内容について,本件賃貸借契約書の冒頭2枚に記載された重要事項を示して説明するのみで,3枚目以降に記載された条文については,「あとで読んでおいてください。」と言うだけだった。
イ 被告担当者は,原告に対し,区分表の内容をそのページを開いて説明しなかった。
仮に,被告担当者が原告に対し区分表を用いて一定の説明をしたとしても,21頁にわたる区分表の内容を原告が理解できるように懇切に説明しなかった。区分表は,建物専用部分の修繕費,建物共用部分の修繕費,屋外附帯施設等の修繕費,集会所・電気室・ポンプ室等の修繕費,退去時の補修費,保守点検業務の概要,付録まで多岐にわたる内容であり,これらを逐一説明するには数十分以上が必要であるが,原告が説明を受けたのは10分ないし20分であり,また,被告担当者は,原告に対し,退去時の補修費のみを特に取り上げて詳細に説明しなかった。
ウ 原告は,被告から本件しおりを交付されていないし,仮に本件しおり又はこれと類似の書面を交付されたとしても,その交付時期は,本件賃貸借契約の締結後である。
しかも,本件しおりは,34頁にわたるものであり,これを懇切に説明するには数十分以上が必要であるが,被告担当者は,原告に対し,十分な時間を確保して本件しおりの内容を説明しなかった。
また,退去時の原状回復費用については,本件しおりの中盤付近(13頁)の1ページに記載されているのみであるところ,被告担当者は,この部分を特に取り上げて丁寧に説明しておらず,かつ,その部分は太字,アンダーライン等の体裁はとられていない。
(二) 本件特約は,公序良俗違反として無効か。
【原告の主張要旨】
本件特約は,以下に述べるとおり,公序良俗に反するものであり,無効である。
(1) リフォーム費用を賃借人に負担させるのは当然ではないこと
賃貸物件は経年劣化するから,新築同様にきれいにするというのは困難であり,入居期間が長いほど経年劣化が進みリフォーム費用も膨大となるから,新築同様にきれいにするという過大な負担を賃借人に課すことは公序良俗に反する。
また,リフォーム費用は,賃貸事業で不可欠な費用であるから,賃貸事業を営む被告自身が負担すべきである。
そして,リフォームが不可欠なら,リフォーム費用は賃貸人が賃借人に対して賃貸目的物を使用収益させるための費用になるから,それは使用収益の対価である賃料に含まれていると考えるべきである。賃料は毎月支払われ,長く入居した者ほど累積支払額が増加するから,入居期間の長さに比例して増加する経年劣化部分の補修費用は賃料から充てられると解するのが合理的である。
(2) 工事の内容が過大であること
本件のリフォーム費用は45万2551円で,賃料の3か月分を超えており,高額である。また,被告が示した工事内容は,クロスの全面的な貼替等,新築同様の工事を行うものであり,損耗の程度や補修の必要性等を考慮せず,壁や床の面積に応じて一律に金額を算出したものである。かかる過大な工事費用を賃借人に負担させることは極めて不合理である。
(3) 特優賃法違反について
特定優良賃貸住宅制度(以下「特優賃制度」という。)は,建築の際の補助金や賃料減額のための補助金等の制度を含むものであり,これらを超えて入居者に過大なリフォーム費用を負担させることは,賃貸人が二重取りをすることとなり,許されないところ,本件特約は,民法616条,598条が規定する賃借人の原状回復義務を超えた義務を賃借人に負わせる内容となっており,賃借人の不当な負担となることを賃貸の条件としてはならない旨定めている特優賃法施行規則13条に違反し,公序良俗に反している。
(4) 住宅金融公庫法違反について
本件特約は,賃借人の不当な負担となることを賃貸の条件としてはならない旨定めている住宅金融公庫法施行規則10条に違反し,公序良俗に反している。
【被告の主張要旨】
本件特約は,本件特約をなす必要性があり,その内容も暴利行為ではないなど合理的であって,公序良俗(民法90条)に反せず,また,賃借人に対する不当な負担(特優賃法施行規則13条)に該当せず,有効である。
(1) 本件特約の必要性
ア 社会情勢の変化と本件特約の必要性
近時,居住用賃貸物件への入居希望者の賃貸物件に対する要求は,雨露をしのげれば足りるというものから,より快適な生活を求めるものへと変化しており,かかる社会情勢の変化は,入居者が比較的短期間で家族構成や収入に見合った賃貸物件に移っていく傾向や,新築や建築後間もないきれいな賃貸物件を選択する傾向に現れている。
そのため,賃貸業者間では,このような入居希望者の要求に対応するため,新築でない賃貸物件の場合,旧賃借人の退去時から新賃借人の入居時までの間に旧賃借人の賃貸借契約期間中に生じた通常の生活に伴う損耗や汚れ等についても,補修,取替又はクリーニングによってリフォームをし,新築同様にきれいにするのが通例となっている(以下,このクリーニング等を「リフォーム」,そのためにかかる費用を「リフォーム費用」という。)。
これを賃貸人側から見ると,賃貸物件に入居者を確保するためには賃貸物件についてリフォームを行う必要があり,何らかの方法でリフォーム費用を事業費に盛り込む必要がある。すなわち,リフォーム費用は居住用住宅の賃貸事業における必要不可欠な費用であるから,これを何らかの方法で賃借人に転嫁すること自体は何ら違法ではない。
そして,リフォーム費用の転嫁方法としては,①家賃に上乗せする方法,②敷引特約をする方法及び③退去時に実費精算する方法等が考えられ,本件賃貸借契約では,本件特約として③の方法がとられたものである。
イ 特優賃制度の下でもリフォーム費用の転嫁は認められるべきであること
本件建物を含む本件マンションは特優賃制度を利用して建築された建物であり,本件賃貸借契約は特優賃法の規定の範囲内で締結されなければならないが,同法が適用される場合であっても,リフォーム費用の転嫁が認められなければ,賃貸事業が成り立たないのは同様であり,転嫁ができないことになれば,特優賃制度を利用する者がいなくなり,中堅所得者向けに優良な賃貸住宅を提供するという目的が実現できなくなりかねない。
したがって,特優賃法が適用になる場合であっても,リフォーム費用を賃借人に転嫁することは可能である。
(2) 本件特約の合理性
ア 本件特約は,リフォーム費用を退去時に実費精算することを規定しているが,上記のとおり必要性が認められるし,以下に述べるとおり,リフォーム費用を家賃に上乗せするなどしながら,さらに本件特約で二重取りをするというような,賃貸人の優越的地位の不当利用や暴利行為といった不合理な事情はないから,公序良俗に違反しない。
イ 賃料にリフォーム費用が上乗せされていないこと
特優賃法3条5号は,「賃貸住宅の家賃の額が近傍同種の住宅の家賃の額と均衡を失しないように定めるものであること」と規定し,通達(建設省住管発第4号,建設省住建発第110号)でも,「賃貸住宅の家賃の額については,近傍で供給されている複数の賃貸住宅について家賃の額並びに立地,規模,構造,設備及び築後年数を申請書に添付させ,それらの諸要素を勘案の上,近傍の賃貸住宅の家賃の額を上回ることのないように定められること。なお,近傍に比較するのに適切な賃貸住宅が存在しない場合においては,不動産鑑定等適切な方法により家賃の額が定められること」とされている。
また,本件マンションのように特優賃法12条に基づき建設費用の補助を受けた場合は,同法上の家賃限度額の制限を受ける(同法13条1項,同法施行規則20条)。
本件建物の家賃設定の参考に供するため,本件マンションのうち1室の比準賃料について,近傍の賃貸住宅の家賃を調査し,比較検討を行った上で鑑定し,本件建物の賃料月額を算定したところ,11万8000円との結果を得た。そして,特優賃法上の家賃限度額は,月額21万4197円と算出されたので,本件建物の賃料は,そのまま月額11万8000円と決定された。
この鑑定において,4件の賃貸物件が比較の対象とされたが,いずれも敷引特約が付され,又は,本件特約と同旨の特約が付され,賃貸借契約期間中に生ずる通常の生活に伴う損耗や汚れ等の補修費についても賃借人が負担する形で実費精算がされていたが,同鑑定では,これらの額を毎月の賃料に配分して実質賃料額を決定し,これと対比して比準賃料を決定するという操作が行われていないので,上記の賃料11万8000円にはリフォーム費用は何ら反映されていない。
ウ 原告が負担した住宅復旧額が実質的に相当であること
本件の住宅復旧額は合計45万2551円(消費税込)であり,決して高額な負担ではなく,また,復旧額を原告の入居期間である6年5か月(77か月)で除すると5877円となるが,その額を,本件賃貸借契約上の賃料に加算しても,その額は,月額12万3877円であり,特優賃法上の家賃限度額を大きく下回っており,リフォーム費用は不当ではない。
エ リフォームの内容が相当であること
本件特約において賃借人の負担とされているのは,畳表替,玄関鍵取替,クロス貼替,洗い清掃と,いずれも近時の入居希望者の要求の変化に対応するために必要な更新若しくはクリーニング又は小修繕であって,賃借人にとって大きな負担になるものではないし,リフォームの方法に複数の選択肢がある場合は,賃借人の立会の下,損耗等の程度に応じてできるだけ賃借人の負担の少ない方法を選択している。
(三) 賃借人である原告の責に帰すべき事由による損耗の有無及び原告の負担すべき額
【被告の主張要旨】
賃借人である原告の責に帰すべき事由に基づく損耗及び原告の負担すべき額は,別紙3の「被告の主張要旨」欄記載のとおりであり,その額は合計34万4083円である(なお,「部屋・項目」欄の「玄関」,「廊下」,「洋室1」,「洋室2」等は別紙1の間取り図の記載に対応する。)。
【原告の主張要旨】
別紙3の「原告の認否」欄記載のとおり(なお,賃借人である原告の責に帰すべき事由による損耗であることを認めたもの及び明らかに争わないものについては,上記「原告の認否」欄に○印を,否認するものについては,同欄に×印をそれぞれ記載した。)。
第3争点に対する判断
1 争点(一)(本件賃貸借契約について,本件特約が成立したか。)について
(一) 本件賃貸借契約17条1項は,「賃借人は,次の各号に該当するときは,直ちにこれを原状に回復しなければならない。ただし,賃借人の責に帰することができないと賃貸人が認めた場合は,この限りではない。」と規定しており,賃借人の責に帰することのできない損耗の原状回復を賃貸人の負担とする趣旨と解される。そして,本件でいう通常損耗分,すなわち,賃借人が賃借物を通常の方法で使用することに伴って生じる損耗は,賃借権が目的物の使用を内容とすることからすると,賃借人の責に帰することのできない損耗に該当するとみるのが相当である。
これに対し,区分表の本件負担基準の内容は別紙2のとおりであり,通常の使用による損耗か否かを明示的に区別せず,「フスマ・障子紙」の「汚損(手垢の汚れ・タバコの煤けなど生活することによる変色を含む)」,「各種床仕上材」の「生活することによる変色・汚損・破損と認められるもの」,「各種壁・天井等仕上材」の「生活することによる変色・汚損・破損」が退去者(賃借人)の負担とされ,また,玄関鍵については,「錠」の項目で「交換」が退去者(賃借人)の負担とされている。
また,本件しおり中「6.退去時の手続き(退去にあたって)」と題する項目には,「[3]みなさまの負担となる退去跡補修費」として「退去跡補修については,『修繕費負担区分表』(略)に基づいて工事を行います。なお,玄関錠の取替,畳の表替,フスマなどの張替,室内全塗装,クロス貼替え(クッションフロアーシート張替を含め)については,全て新しくさせていただきます。この場合,お預かりしている敷金で充当させていただきますが,不足する場合は,別途請求させていただきますので,お支払いいただくことになります。(不足するケースが予想されますので予めご承知おき下さい。)」との記載,「[4]敷金の返還」として,「敷金は,みなさまの負担となる退去跡補修費,未納家賃等がある場合はそれらを控除し,すべての手続が終了後(退去跡補修費における不足分がある場合は当該不足額の納入後,退去跡補修工事の完了及び未納家賃及びその他の債務額の完済が確認されたとき),残額をご返還いたします。」との記載,「[5]鍵の返還」として,「玄関の鍵は退去日に,住宅所有者へ返還してください。なお,玄関鍵は退去跡補修工事の時にシリンダー鍵ごと取替えを行います。費用については入居者負担です。」との記載がある。
区分表及び本件しおりの記載は,その文言上いずれも当該部分にかかる通常損耗分を退去者(賃借人)負担とする趣旨とみるほかなく,その限度で本件賃貸借契約本文(17条1項)と齟齬するといわざるを得ない。
(二) ところで,一般に賃貸借契約は,民法601条の規定に照らしても明らかなように,賃貸人が賃借人に対して,賃貸目的物の使用収益をさせるとともにその対価として賃借人が賃貸人に対して賃料を支払うことをその本質とする契約である。そして,賃貸目的物は,時間の経過によって自然劣化するとともに,賃借人による通常の使用によって必然的に損耗することが予定されているのであって,賃借人が賃貸人に対して支払う賃料には,上記劣化や損耗によって生ずる賃貸目的物の減少価値を補うという意味が当然に含まれているというべきである。したがって,賃貸借契約に際し,賃借人の故意又は過失によるものは別として,社会通念上時間の経過によって生じる自然劣化や賃貸目的物の通常の使用によって必然的に生じる損耗についてまで,賃借人が原状回復義務を負担するとすることは,賃貸借契約の本質からは導かれないところである。
そうすると,通常損耗分か否かを問わず,本件建物の修繕費等を賃借人である原告の負担とする旨の本件特約は,賃借人である原告に対し,法律上,社会通念上当然に発生する賃料支払義務等とは趣を異にし,原状回復義務を加重する新たな義務を負担させるものというべきであり,賃借人である原告にそれを負担させるためには,その必要があり,かつ,暴利的でないなど,客観的理由の存在が必要であるが,それに加えて,特に,賃借人である原告が本件特約の趣旨を認識し又は認識し得べくして義務負担の意思表示をしたことが必要であると解すべきである。
(三) そこで,これを本件についてみるに,まず,区分表は,本件賃貸借契約書の別冊であり,その一部であって特則ではないから,これをもって本件特約の成立を認めることはできず,これらの関係を合理的に解釈すると,区分表は本文の趣旨に反しないように解すべきであるから,これは本件賃貸借契約17条に反しない限度,すなわち,通常損耗分を賃借人の負担としない限度においてのみ有効であると解すべきである。また,本件しおりは,その体裁に照らすと,本件賃貸借契約書及び区分表の細目を具体的に説明するための文書であり,契約書やその付属書類ではなく,これに基づいて契約書及び区分表の内容を変更する性格のものではない。
(四)(1) 次に,証拠(甲1,2,10,11,乙1,6,8,証人●●●《以下「●●●」という。》,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,本件賃貸借契約の経緯等について,以下の事実が認められ,●●●の供述(乙8,証人●●●)及び原告の供述(甲10,原告本人)中,上記認定に反する部分はいずれも採用できない。
ア 原告は,本件マンションの所在場所,広さ等が気に入ったことから,同マンションの入居者募集に応募して当選し,被告は,遅くとも平成9年4月ころまでに,原告に対し,本件賃貸借契約書(借主及び連帯保証人の各住所・氏名欄が空欄のもの),及び,契約に当たって必要な書類や注意事項等を記載したA4版の用紙1枚を交付又は送付し,原告は,同契約書の借主の住所・氏名欄に必要事項を記載して署名・捺印するとともに,●●●にその連帯保証人の住所・氏名欄に必要事項を記載して署名・捺印してもらうなどした。
イ 原告は,平成9年5月末ころ,被告の阪神北事務所において,被告担当者の●●●から,本件建物の鍵の引渡並びに区分表,本件しおり及び設備機器取扱説明書等の交付を受けるとともに,入居説明を受けた(以下「本件入居説明」という。)。なお,原告は,本件入居説明までの間に,被告担当者から本件賃貸借契約の契約内容について具体的な説明を受けたことはない。
本件入居説明の際,●●●は,原告に対し,主に本件しおりを用いて,入居手続,家賃等の支払,入居中の各種手続及び退去時の手続等について順次説明し,退去跡補修費については,区分表を示しながら,玄関錠のシリンダーの交換,畳の表替,フスマの貼替は原告の負担であること,その他は,退去後立会の上,区分表に基づき負担してもらうこと等を説明し,さらに,利用状態によりクロスの貼替箇所が増加するなどして同補修費が敷金をオーバーした場合には追加で支払ってもらうこともあるので,使用上気を付けてほしい旨説明した。もっとも,●●●は,原告に対し,本件賃貸借契約書の各条項について,「あとで読んでおいてください。」と言うのみで説明を加えず,また,区分表については,用語の定義等の具体的な説明をしなかった。
本件入居説明の際,原告は,●●●に対し,家賃の振込方法や入居引越の際の注意事項等について質問したが,上記退去跡補修費については質問しなかった。また,●●●も,原告に対し,質問はないかどうかと聞くのみで,上記補修費の意味を十分理解したかどうか尋ねるなどして確認しなかった。
なお,本件入居説明に要した時間は,長くても20分ないし30分程度だった。
ウ 原告・被告間の本件賃貸借契約は,遅くとも平成15年10月19日終了し,原告は,被告に対し,同日,本件建物を明け渡し,これを受けて,同月24日,被告担当者らは,同契約21条に基づき,本件建物の補修箇所の査定を行い,同査定には原告や本件建物の所有者も立ち会った。この査定では,被告担当者が,原告に対し,本件建物につき別紙1のとおり補修箇所を指摘したが,原告はこれに対し格別反論しなかった。
(2) 上記前提事実,上記(1)の認定事実,証拠及び弁論の全趣旨によれば,原告は,遅くとも平成9年4月ころまでに本件賃貸借契約書(借主及び連帯保証人の各住所・氏名欄が空欄のもの)の交付を受けたものの,区分表や本件しおりについては本件入居説明時に初めて交付を受けたこと,本件入居説明までの間に,被告担当者から本件賃貸借契約の契約内容について具体的な説明を受けたことはないこと,本件しおりは7項目から成る34頁(まえがきを除く。)にわたる冊子であり,その中で「6.退去時の手続き(退去にあたって)」と題する項目は13頁以下に記載されていること,区分表は,21頁(もくじの頁を除く。)にわたる冊子で,本件負担基準自体も3頁に及んでいること,本件入居説明の際,原告は,●●●に対し,本件建物の退去跡補修費について質問しなかったこと,●●●も,原告に対し,質問はないかどうかと聞くのみで,上記補修費の意味を十分理解したかどうか尋ねるなどして確認しなかったこと,本件入居説明に要した時間は長くても20分ないし30分程度だったことが認められ,●●●が原告に対し,本件特約について十分に説明したとするには疑問が残る。また,●●●が原告に対し,口頭で,玄関錠のシリンダーの交換,畳の表替,フスマ及びクロスの貼替に要する費用は,仮にそれらが通常損耗であってもその修繕費等が全て原告の負担である旨明確に説明したとまでは認められない。のみならず,被告は,●●●が原告に対し,本件入居説明の際,どの程度の時間をかけて,具体的にいかなる文言で本件特約について説明したのか,その際,本件賃貸借契約書,区分表及び本件しおり等をどの時点でどのように示したのかについて的確な立証をしていない。そうすると,●●●は,本件賃貸借契約の締結にあたり,原告に対し,形式的な手続を履践したに過ぎないといわざるを得ず,これのみをもって,賃借人である原告が本件特約の趣旨を認識し又は認識し得べくして義務負担の意思表示をしたと認めることはできない。
なお,平成15年10月24日に行われた本件建物の補修箇所に関する査定では,被告担当者が,原告に対し,本件建物につき別紙1のとおり補修箇所を指摘し,原告はこれに対し格別反論しなかったものの,このことのみから直ちに,本件特約が成立したとはいえない。
(五) 以上によれば,被告は,原告に対し,本件特約について十分に説明したとは認められず,したがって,原告が,本件特約の趣旨を認識し又は認識し得べくして義務負担の意思表示をしたものとは認めるに足りないから,本件特約が成立したものとみることはできない。
ア なお,被告は,本件賃貸借契約は,通常損耗の補修費を賃料とは別に徴収するために敷引の特約を付するという慣行が広く行われてきた関西地方における特優賃建物の建物賃貸借契約であって,このような関西地方の社会経済的な状況からすると,関西地方では,通常損耗の補修費の負担義務が賃借人にないとの認識が一般的であるとはいえず,むしろ,建物を賃借する場合には,毎月の賃料とは別に通常損耗の補修費を敷引その他の名目で徴収されるとの認識を有しているのが一般的である旨主張する。確かに,関西地方において,建物賃貸借契約に敷引特約を付することが広く行われてきたことは当裁判所に顕著であるが,敷引特約は,一般的には,賃貸借契約成立の謝礼,賃料の実質的な先払,契約更新時の更新料,建物の通常損耗の修繕に必要な費用,新規賃借人の募集に要する費用及び新規賃借人の入居までの空室損料等様々な性質を有するものにつき,渾然一体のものとして一定額の金員を賃貸人に帰属させることをあらかじめ合意したものと解されており,関西地方において通常損耗の補修費が賃料とは別に敷引その他の名目で徴収されるとの認識を有しているのが一般的であるとは直ちにいい難い。よって,被告の上記主張は理由がない。
イ また,被告は,①本件賃貸借契約16条1項が「賃借人は,本住宅について,区分表に定めるところにより修繕費等を負担するものとする。」と規定し,区分表の本件負担基準は,通常損耗分であってもその補修費が賃借人の負担になることがあることを明確に規定しており,同契約16条1項,17条1項本文,ただし書を合理的に解釈すれば,「賃借人の責に帰することができないと賃貸人が認めた場合は,この限りではない。」との同契約17条1項ただし書の規定は,同条項本文の「直ちに」にかかるものと解釈するのが自然である,②同契約17条の趣旨は,同契約27条と相俟って,賃借人が室内電気幹線を無断で増設したことにより系列の住戸に停電が発生するおそれがあるなど他の住戸の居住関係に悪影響を与え,又は,マンションに損害を与えるおそれがある場合には「直ちに」原状回復すべきところ,前入居者や第三者が住戸を毀損し又は変更を加えたことが明らかな場合,住戸への毀損又は変更が直ちにマンションに損害を与えるおそれがあると判断できない場合には,当該入居者の負担を考え,「直ちに」原状に回復しなくてもよい旨を規定したものである,として,同契約17条1項が通常損耗分の補修費を賃貸人の負担とする趣旨の規定であると直ちに解することはできない旨主張する。
しかし,①については,本件賃貸借契約21条は,賃借人の退去に伴う費用負担額について,「賃貸人は,17条に規定する賃借人の原状回復義務の内容を明らかにするために,賃借人が退去する住宅(付属物を含む)の検査を行うものとする。(21条1項)」,「賃貸人は前項の検査結果に基づき,区分表に定めるところにより,修復に要する費用を査定し,住宅復旧額を確定するものとする。(同条2項)」と,17条を引用した上で,賃借人が「直ちに」履行すべき原状回復義務を明らかにするためではなく,広く賃借人の原状回復義務の内容を明らかにするために検査を行う旨規定していることに照らすと,同契約17条1項ただし書の規定が同条項本文の「直ちに」にかかるものと解するには無理がある。また,②については,本件賃貸借契約17条1項は,賃借人が自ら同条項各号に定める行為をしたことを前提とする規定とみるのが自然であるし,同条項の文言に照らすと,住戸への毀損又は変更が直ちにマンションに損害を与えるおそれがあると判断できない場合か否かは同条項の適否とは無関係である。よって,被告の上記主張は理由がない。
(六) 以上のとおり,本件特約の成立が認められないから,争点(二)は判断する必要がない。そして,本件賃貸借契約17条1項により,賃借人の責に帰すべき事由による損耗の修繕費等については賃借人の債務不履行として賃借人の負担となり,それ以外の損耗の修繕費等については賃貸人の負担となる。
2 争点(三)(賃借人である原告の責に帰すべき事由による損耗の有無及び原告の負担すべき額)について
(一) 賃借人である原告の責に帰すべき事由による損耗の有無について
賃借人である原告の責に帰すべき事由による損耗の有無については,別紙3の「認定」欄中の「帰責事由に基づく損耗の有無」欄記載のとおりである(賃借人である原告の責に帰すべき事由による損耗であると認定したものには,同欄に○印を,認定できないものには同欄に×印をそれぞれ記載し,主要な証拠は,上記「認定」欄中の「主要な証拠」欄に掲記した。)。
(二) 原告の負担すべき額について
(1) クロスについて
天井クロス又は壁クロスに原告の責に帰すべき事由による損耗があった場合,その損耗箇所を含む天井クロス又は壁クロス1面分の貼替費用を,その損耗を発生させた賃借人である原告の負担とするのが公平であるから,上記費用を原告の負担すべき額と認めた(なお,各部屋等の壁面4面の各面積については,的確な証拠は存せず,各壁面がすべて同一面積であるものと推認した。)。
また,賃借人の入居期間の長短を問わず,クロスの貼替費用の負担が同一であるとすれば,賃借人相互間の公平を欠くから,賃借人の入居期間を考慮するのが相当である。そこで,本件では,減価償却資産の考え方を取り入れ,本件建物が新築物件であり,原告の入居期間が6年4か月以上であることから,上記貼替費用の10パーセントをクロスの残存価値として,原告の負担すべき額と認めた。
(2) クロス以外について
本件でクロス以外に原告の責に帰すべき事由による損耗があった場合,これについては,消耗品としての性格が強く,損耗の軽重にかかわらず価値の減少が大きいから,減価償却資産の考え方を取り入れることにはなじまない。そこで,本件では,クロス以外については,原告の入居期間を考慮せず,その修繕費等をそのまま原告の負担すべき額と認めた。
(3) そうすると,原告の負担すべき額は,別紙3の「認定」欄中の「金額」欄記載のとおり,合計9万4189円となる(理由及び計算式は,上記「認定」欄中の「理由・計算式」欄に記載した。)。
(三) したがって,被告による敷金からの控除は9万4189円の限度でのみ適正と認められるから,被告が原告に返還すべき敷金の額は,下記計算式のとおり,22万6811円であり,その履行期は,被告が,原告に対し,本件建物の住宅復旧額として合計45万2551円を計上し,9万8432円の不足予定額が生じた旨通知した平成15年11月10日の前日の同月9日とみるのが相当である。
(計算式)35万4000(円)-3万3000(円)-9万4189(円)=22万6811(円)
3 結論
よって,原告の請求は主文第1項の限度で理由がある。
(裁判官 入子光臣)
<以下省略>