佐世保簡易裁判所 昭和32年(ろ)203号 判決 1958年3月14日
被告人 杉原敏夫
主文
被告人は無罪。
理由
本件起訴状記載の公訴事実は「被告人は昭和三十二年六月二日午前九時十分頃佐世保市本島町虎屋百貨店前道路の交叉点において警察官の手信号による停止の信号に従わないで自動三輪車を運転通行したものである。」というにあつて、罰条は道路交通取締法第五条第一項、同法施行令第二条第一項第三号に違反し、同法第二十九条第二号に該当するというにある。
仍て審究するに、被告人の当公廷における供述及び証人岩永武夫に対する尋問調書の記載に依れば、被告人が昭和三十二年六月二日午前九時過頃佐世保市本島町虎屋百貨店前国道上の交叉点において、警察官が手信号に依る「止れ」の信号を表示していた際、ダイハツ自動三輪車を運転操縦して横断歩道の中央附近から交叉点の中央附近迄進行して警察官の手信号に従わなかつた事実を肯認することができる。而して、被告人が右の如く警察官の手信号に従わなかつた事情を検討するに、当裁判所のなした検証調書の記載、前記証人岩永武夫に対する尋問調書の記載及び被告人の当公廷における供述を綜合すると、被告人は前記国道上を佐世保駅方面より前記交叉点を経由し同所を右折して同市勝富町方面に赴くべく、積載量一屯の前記自動三輪車に煉瓦約一屯位を満載しこれを操縦して右交叉点附近に差しかかつた。折柄右交叉点では岩永武夫巡査が交叉点中央の信号台上に立つて手信号に依る交通整理に当つていた。被告人は右交叉点の手前である同市下京町及び右交叉点間の国道が緩徐な下り勾配となつて居り、岩永巡査の手信号が「進め」の信号であつたので右自動三輪車のエンジンはかけたまま、ギヤーは入れたままでクラッチペタルを踏んでクラッチのみ外して方向指示器を上げて徐行しつつ横断歩道手前の停止線を超えて右交叉点内に入つたが、クラッチを噛み合わせた途端それ迄発動を続けていたエンジンが停止し、横断歩道の中央附近で右自動三輪車は停車してしまつた。その時迄は岩永巡査の手信号は「進め」の信号であつたので、被告人は急遽ペタルを数回踏んでエンジンを始動したが、その時には岩永巡査の手信号は既に「止れ」の信号に変つていた。被告人は信号が「止れ」に変つていることを認め自己の右自動三輪車の後方には既に他の自動車が詰めかけて停車しているのを見て、後退不可能を知るや、右横断歩道を通行する歩行者の交通の妨害になることを虞れて、右自動三輪車を交叉点中央に向けて進発させ、岩永巡査の立つている信号台の片側附近迄進み出て停車した事実を認めるに足る。
思うに、かかる場合自動車の運転者が採るべき処置としては、エンジンが始動するや、後退可能である限り、直ちに自動車を運転してこれを停止線の外迄後退せしめ、交叉点の外に出ることが法の許した(その限りにおいて法の命じた)唯一の適法な行為であつて、エンジンが始動した後においても、或はなお依然として横断歩道上に停車を続け、或は自動車を操縦して交叉点内を進行するが如きは法の厳に禁止するところ(第一段の規範)といわねばならない。然しながら他面、本件の場合の如くエンジンが始動した折には既に後退不可能な状態に立ち至り、右に言う如き適法な処置を採るべきことが期待し難い状態にあつた場合において、次の「進め」の信号に変る迄の「止れ」の信号の継続せる期間、そのまま停車を続けることに因つて、横断歩道上の歩行者の交通の妨害となる虞があるときは、他の車馬の交通の妨害とならない方法を選んで緩衝地帯等別の場所に転進すべく、又他に転進すればより大なる危険を招来する虞がある場合においては、却つて停止の状態に止まるべく、等々、要するに他の車馬並びに歩行者の交通の妨害となることを極力避止して危険の発生を未然に防止するに必要且つ十分の注意を払い、それに相当した行為態度を選ぶべき、条理上当然要求せられる義務(第二段の規範)があるものというべきであつて、その選ぶべき方策は当該具体的交通の状況に応じて決せられるべき性質のもので、これを一律に決し難いことは多く論ずる迄もない。
かかる観点から被告人の採つた本件処置を考究するに、前記交叉点は市内目抜の繁華街であり、午前九時過の事件当時において右交叉点における横断歩行者は相当量に上つていたことを窺うに十分であつて、被告人が前記横断歩道における歩行者の交通の妨害になることを虞れ、且つ車馬の交通の状況を考慮して前記の如く、自動三輪車を交叉点中央に進み入れたことについては、それ相当に理由の存したことを推断するに十分であり、而もこれに因つて他の車馬の交通に危険を生ぜしめた特段の事情は認められないので、被告人が危険発生の防止上必要な注意を怠つた事実の認め難いことは言う迄もない。本件の場合、被告人にはなお、緩衝地帯に自動三輪車を進み入れる等、他に選び得べきより善い方策が仮令残されていたとしても、至短時間のうちに言わば速断即行を要求されている行為者に対し、常に最良最善の方策のみを期待することは決して好ましいことではない。
被告人の選んだ処置は、前記の意味における第一段の規範に違反する行為ではあるが、その行為当時においては他に適法な行為を選ぶべき余地は残されていなかつたのである。而も前記の意味における第二段の規範の面からは、本件行為に対して反規範的評価を与えることは妥当ではない。換言すれば法が責任、非難の規範として、自動車の運転者の交通の安全性に対する一定の人格態度を期待するところは、本件行為に依つてもなおその最少限度のものは尽されているというべきである。これを要するに、本件行為についてはこれを総括的に見て他に適法な行為を期待し得る可能性がない場合に該るとして、責任を阻却するのを相当と思料する。
仍て本件被告事件は罪とならないので刑事訴訟法第三百三十六条に則り無罪の裁判を言渡すべきものとする。
(裁判官 真庭春夫)