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佐賀地方裁判所 平成16年(モ)268号 決定 2005年1月12日

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別紙当事者目録記載のとおり

主文

1  被申立人(債権者)らと申立人(債務者)間の佐賀地方裁判所平成14年(ヨ)第79号、同第86号、平成15年(ヨ)第3号各工事差止仮処分命令申立事件について、同裁判所が平成16年8月26日にした仮処分決定を認可する。

2  異議申立後の訴訟費用は申立人(債務者)の負担とする。

理由

第1  申立ての趣旨

1  被申立人(債権者)らと申立人(債務者)間の佐賀地方裁判所平成14年(ヨ)第79号、同第86号、平成15年(ヨ)第3号各工事差止仮処分命令申立事件について、同裁判所が平成16年8月26日にした仮処分決定を取り消す。

2  被申立人(債権者)らの上記仮処分命令の申立てを却下する。

第2  事案の概要

本件は、有明海において漁業を営む被申立人(債権者)らが、国営諫早湾土地改良事業(以下「本件事業」という。)の工事によって漁業権、漁業行使権、人格権、環境権及び自然享有権を侵害されているとして、各権利に基づく妨害排除請求権を被保全権利とし、申立人(債務者)に対して、主位的には同工事の続行禁止の仮処分を、予備的には潮受堤防排水門の開門調査が行われ本件事業と有明海の漁業不漁との関係が明らかにされるまでの間の同工事の続行禁止の仮処分を求めたところ、当裁判所が被申立人(債権者)らの漁業行使権につき本案の第一審判決の言渡しに至るまでの同工事の続行禁止を命じる仮処分決定(原決定)をしたため、申立人(債務者)が、その取消し及び被申立人(債権者)らの仮処分命令の申立ての却下を求めて異議を申し立てた事案である。

第3  当裁判所の判断

1  本件事案の前提事実、争点及び争点についての当事者の主張は、原決定に記載(第2の1ないし3)のとおりであるから、ここにこれを引用する。

申立人(債務者)の本件異議理由の骨子は、要するに、「本件差止対象工事が、被申立人(債権者)らの漁業を営む権利を侵害するものではない。」、「被申立人(債権者)らに被保全権利は存在せず、被保全権利に対する侵害のおそれ並びに侵害及び損害との因果関係もないところ、本件事業の公共性、本件事業を中止することによって生じる巨額の損失等にかんがみると、本件工事を差し止めるまでの保全の必要性は認められない。」というにある。

そこで、以下、順次検討する。

2  被保全権利と損害について

(1)  申立人(債務者)は、被申立人(債権者)らの中には漁業を営む権利の疎明がない者(債権者番号30ないし33、35、36、38、39、41、43、44、46、50ないし53、57ないし59、61ないし64、67、78ないし80、89、90及び93)がいると主張する。

しかしながら、原決定に記載のとおり、上記被申立人(債権者)らについても、本件疎明資料による限り、原決定別紙5漁業行使権一覧表記載の各漁業行使権を有すると認めることができる。

(2)  申立人(債務者)は、被申立人(債権者)らの漁業を営む権利に対する侵害の疎明がないと主張する。

しかしながら、本件疎明資料によれば、被申立人(債権者)らには漁業(ノリ漁業、タイラギ漁業、漁船漁業)被害発生の事実を一応推認することができ、その理由は原決定記載と同一であるから、ここにこれを引用する。

3  本件差止対象工事と被申立人(債権者)らの漁業を営む権利に対する侵害性の有無

(1)  申立人(債務者)は、「(原決定は)現在進行中又は将来予定されている工事が被申立人(債権者)らの漁業を営む権利を侵害する可能性があるのか否かの検討を一切行っていない。既に完成した潮受堤防を原因とする漁業被害について疎明があったと判断するのみである。」と主張する。

(2)  しかしながら、本件事業は、昭和61年12月2日付けで計画策定され、平成元年に着工、平成4年10月に潮受堤防工事着工、平成9年4月14日に潮受堤防閉切り、平成11年3月に潮受堤防工事完成へと進み、今後、平成19年ころまでにかけて農地整備工事等、水域工事、内部堤防工事及びその他の工事が予定されている一連の大型公共工事である(その詳細は原決定第2の1(4)参照)。

このような一連の工事の進行途中において、申立人(債務者)が主張する如く、既に完成した工事部分(潮受堤防)を切り離し、今後行われる予定の工事のみに着目して、当該予定の工事が被申立人(債権者)らの漁業を営む権利を侵害する可能性がないとの理由で、当該工事の続行禁止を求める被申立人(債権者)らの被保全権利の発生を否定するのは(かかる申立人(債務者)の主張を貫徹すると、既に完成した工事部分による被申立人(債権者)らに対する被害発生の疎明がなされたとしても、被申立人(債権者)らの救済は後日の妨害物撤去請求ないし損害賠償請求訴訟で解決するほかないということになる。)、あまりに硬直した解釈と言わざるを得ない。なぜなら、本件事業の既に完成した工事部分(潮受堤防)と被申立人(債権者)らの漁業被害との間には後述のとおり一応の因果関係の疎明が認められる以上、今後とも被申立人(債権者)らには上記工事部分(潮受堤防)による漁業被害の継続、ひいては回復しがたい被害を被る虞れがあると懸念されるところ、他方、申立人(債務者)は本件事業の施行主体であり、上記工事部分を自ら完成させた者である上、本件事業による漁業被害を将来的にできる限り最小限に抑えるための種々の工夫あるいは事業計画の修正等をなし得る立場にあり、これをなすことが必ずしも不経済ないし不可能事でもないと思料されるほか、被申立人(債権者)らにとって、漁業被害を将来的に防ぐための第一歩としては工事の差止め以外に他の有効な代替手段も見当たらず、その意味で差止めが被申立人(債権者)らが採り得る現時点で唯一の最終的な手段と思料されるからである。

かかる意味において、被申立人(債権者)らの有する漁業行使権に基づく妨害予防請求権には、本件の特質に照らし、申立人(債務者)に対する、被申立人(債権者)らに発生することの懸念される漁業被害を未然に、かつ、将来的に最小限に抑えるための種々の工夫あるいはそのための事業計画の修正等を求めるための、現在進行中又は将来予定される工事の差止めを求める権利を内包していると解するのが相当である。したがって、申立人(債務者)の上記主張は失当である。

4  因果関係について

(1)  申立人(債務者)は、「農林水産省九州農政局が平成14~15年度で実施した開門総合調査(乙105、乙134)によれば、数値シミュレーションと観測データの分析等により、潮受堤防の締切りによる影響は、ほぼ諫早湾内に止まっており、諫早湾外の有明海全体にはほとんど影響を与えていないという結果が得られている。」旨主張するが、そもそも数値シミュレーションの正確性の担保が明らかでない上、同省農村振興局長が平成15年3月に委嘱した中・長期開門調査検討会議の報告書(乙135)でも、「赤潮については、水質、流動及び底層の貧酸素化が、底生生物については、流動、赤潮、底層の貧酸素化及び底質の変化が関係しているという可能性が指摘されており、間接的ではあるが、開門総合調査の検討の中で諫早湾干拓事業との関係を一部明らかにできたと考えられている。しかしながら、有明海における赤潮の発生メカニズムや底生生物の減少要因等の生物関係の課題については、行政対応特別研究等による調査研究が進められている段階にあることから、これらも含めて、本分野に関係する試験研究機関等による新たな知見を期待することとされている。」(6-1頁)と指摘されていることに照らすと、上記開門総合調査の結果をもって、「潮受堤防の締切りによる影響は、ほぼ諫早湾内に止まっており、諫早湾外の有明海全体にはほとんど影響を与えていない」とまで即断することはできないというべきである。

ちなみに、有明海湾奥における振幅の減少に対する潮受堤防締切りによる影響の度合いを調査した種々の数値シミュレーションの結果には10パーセントから75パーセントまでの数値のばらつきが見られ、このことは各調査に当たる研究者の設定する計算条件に差異があることを意味しており、データ解析と数値計算に基礎をおく数値シミュレーションの正確性の担保が現時点では必ずしも科学的に明らかではないと評せざるを得ない(甲3180)。

(2)  このように本件事業(諫早湾干拓事業)と漁業被害の原因となる有明海の赤潮・貧酸素水塊発生現象との間の関連性の有無については、いまだ科学的に決着を見ない状況にある(なお、両者間には、本件とは別に、公害等調整委員会において「有明海における干拓事業漁業被害原因裁定申請事件」が係属しており、その裁定結果が待たれるところである。)ところ、そもそも民事訴訟における因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるというべきであり、そして、さらに民事保全手続においては、暫定性、迅速性というその手続の特質に基づき、実体的要件(被保全権利、保全の必要性)の立証は、当事者の主張が一応確からしいという心証を裁判官に与える挙証としての疎明によってなされることに鑑みれば、民事保全手続における因果関係の立証の有無については、通常人が特定の事実が特定の結果発生を招来したという関係の存在を、確信するに至らなくとも一応確からしいという心証を持ちうるものか否かということで判断すべきである。この観点からすれば、本件の全疎明資料を検討する限り、上記の開門総合調査、ノリ不作等検討委員会の見解以降に得られた各種調査(経済産業省・国土交通省・環境省・農林水産省の4省が連携して平成13~14年度に実施した国土総合開発事業調整費調査=国調費調査、水産庁が中心となり独立水産総合研究センターが大学や関係県の水産研究機関等と連携して平成13~15年度で実施している行政対応特別研究等)の結果を踏まえても、現時点では、本件事業(諫早湾干拓事業)が有明海で生じた漁業被害の唯一の原因とまでは断じ得ないものの、少なくとも漁業被害に一定程度寄与していることについての因果関係の疎明はあると認めることができる。

5  保全の必要性について

(1)  申立人(債務者)は、「本件干拓工事を続行することによって潮受堤防外で漁業を営む被申立人(債権者)らに対し、著しい損害を与え、あるいは急迫の危険を生じさせる可能性はない。」と主張する。

確かに、疎明資料(乙137)によると、本件事業は、平成15年度までに前面堤防を除く中央干拓地を囲む堤防がほぼ完成し、農地整備工事も半分程度進み、全体として事業の進捗率は94パーセント(総事業費ベース)に達していること、現在実施中の主要な工事は、陸地での工事である前面堤防工事(進捗率83パーセント)と農地整備工事(進捗率45パーセント)であり、今後実施が予定される工事のほとんどが陸上工事であることが認められる。しかしながら、仮に、この陸上工事による直接的な新たな漁業被害の可能性はないとしても、既に完成した潮受堤防は今後とも存続することが十分認められることからすると、上記3(2)に触れたとおり、一連の本件事業による漁業被害の継続の可能性はこれを否定できないというべく、その排除ないし予防を求める請求権の存在及び原決定記載のとおりの保全の必要性を十分に肯認でき、申立人(債務者)の上記主張は採用することができない。

(2)  次に、申立人(債務者)は、工事差止めによって被る申立人(債務者)及び地域社会の損害が多大であること、特に、農業関係(優良農地の確保とその有効利用に対する地元の期待)及び防災関係(高潮防止、洪水被害の軽減)の損害が大きく、本件事業は優良農地の確保と防災機能の面で高度の公共性又は公益性を有するうえ、本件工事が中止となれば巨額の損失が発生する等と主張する。

ところで、国の行う公共事業が第三者に対する関係において違法な権利侵害又は法益侵害となるかどうかを判断するに当たっては、侵害行為の態様と侵害の程度、被侵害利益の性質と内容、侵害行為の持つ公共性又は公益上の必要性の内容と程度等を比較検討するほか、被害の防止に関して採り得る措置の有無及びその内容、効果等の事情をも考慮し、これらを総合的に考察して決すべきものと解される(最高裁昭和56年12月16日大法廷判決・民集35巻10号1369頁、最高裁平成7年7月7日第二小法廷判決・民集49巻7号2599頁、最高裁平成10年7月16日第一小法廷判決・訟月45巻6号1055頁)。

これを本件につきみるに、

ア まず、本件事業は諫早湾の干拓工事であり、中でも潮受堤防の設置と被申立人(債権者)らの漁業被害との間に一応の因果関係の疎明が認められる以上、当該潮受堤防の存在する限り、被申立人(債権者)ら漁業者に将来的にも漁業被害の継続する可能性を否定できず、その生計に重大な影響が及ぶことが懸念されると認めざるを得ない。

イ 他方、申立人(債務者)が平成15年度までに本件事業に投下した費用は、疎明資料(乙137、141)によると、潮受堤防工事約1183億円、内部堤防工事約261億円、農地造成工事約67億円であり、これに本件事業の実施に必要な用地補償費、測量試験費等を加えると、その総額は約2303億円になること、さらに工事差止めによる請負契約解除に伴う賠償金として約4億円、必要最小限の保全対策にかかる経費として年間約1億円が見込まれるほか、干拓事業の未完成による事業効果の未発現額(農業生産の遅れによる損害)として年間約45億円の損失を生じ、他に仕掛かり中の前面堤防工事が中断されることにより洪水時に干拓地が湛水するおそれもあること、背後地対策の南部承水路工事の中止により背後地の排水に対する完全な防災機能が発揮されない状況が続くこと等が一応推認される。

ウ しかしながら、本件事業の広域性、広汎性からすれば、上記アの漁業被害が被申立人(債権者)らを含む有明海沿岸の多くの漁業者にまで及んでいる可能性を否定できず、また、総務省行政監察局の行政監察結果報告書(甲1055の1・2)におけるわが国の農用地造成事業・干拓事業を取り巻く情勢等をも考慮に入れると、本件事業の農業上の必要性と防災上の効果を前提にしても、本件事業の中止によって生じる損失額が前者(漁業被害)を上回ると軽々に断定することは相当でない。

エ このようにみてくると、「既に完成した部分及び現に工事進行中ないし工事予定の部分を含めた本件事業全体を様々な点から精緻に再検討し、その必要に応じた修正を施すことが肝要となるところ、その再検討にあたっては二次被害の発生防止や防災効果の維持等種々の観点も加味せざるをえず、かつ、本件事業規模の巨大性という特質から、当該検討には一定程度時間を要することは明らかであり、その間に現在予定されている本件事業による工事が着々と進行していったならば、前提事実の変動からその再検討自体をより困難なものとするであろうことは容易に推認できるところである。」として、「重要なのは本件事業の一時的な現状維持(現状固定)であり、その観点からは内部堤防工事等の差止であっても、被申立人(債権者)らに生じる著しい損害又は急迫の危険を避けるために必要というべきであって、保全の必要性は認められる。」とした原決定の判断には、いまだ変更すべき点があるとは認めることができない。

6  以上によれば、原決定は相当であるからこれを認可することとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 榎下義康 裁判官 田中芳樹 裁判官 森喜史)

(別紙)

当事者目録

申立人(債務者)

申立人(債務者)指定代理人

債権者番号 被申立人(債権者)

<省略>

被申立人(債権者)ら代理人弁護士

<省略>

被申立人(債権者(債権者番号89、90、93、96~103))ら代理人弁護士

代理人河西龍太郎(債権者番号30~36、38、39、41~44、46、49~53、57~59、61~64、67、72~76、78~80関係)復代理人弁護士

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