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佐賀地方裁判所唐津支部 昭和48年(わ)29号 判決 1976年3月22日

本籍 長崎県佐世保市白木町八七番地

住居 佐賀県西松浦郡有田町中部丙三、五六四番地

製陶所従業員 中山英司

昭和七年九月一六日生

右の者に対する殺人(変更前の罪名尊属殺人)、死体遺棄、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件について、当裁判所は検察官藤井俊雄出席のうえ審理し、次のとおり判決する。

主文

被告人を罰金三万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

押収してある日本刀一振を没収する。

本件公訴事実中殺人、死体遺棄の点については被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は法定の除外事由がないのに、昭和四八年二月二一日午前九時ころ、佐賀県西松浦郡有田町中部丙三、五六四番地自宅において、日本刀一振を所持したものである。

(証拠の標目)≪省略≫

(判示所為につき可罰的違法性を欠く旨の弁護人の主張に対する判断)

弁護人は判示日本刀の所持について、被告人が自己の意思で所有するに至ったものではなく、被告人の父が所有していたものを相続承継したもので、かつ、被告人は右日本刀を手入れすることもなく放置していたものであるから可罰的違法性を欠くと主張する。

前掲各証拠によれば、右主張どおりの事実が認められる。

しかしながら刀剣所持罪は、いわゆる行政犯しかも形式犯であって、刀剣の所持に関する危害予防という警察行政上の目的を達成するため、国家が法定の除外事由がない限り一般的にその所持を禁止し、所持に至った経緯、所持の態様を問わず、これを可罰的としているのであって、弁護人がその主張の根拠とする事情は量刑の事情として考慮すべき事柄ではあっても、可罰性の有無に影響を及ぼす事情とは考えられない。よって弁護人の右主張は採用しない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は銃砲刀剣類所持等取締法三一条の三第一号、三条一項に該当するところ所定刑中罰金刑を選択し、その所定金額の範囲内で被告人を罰金三万円に処し、右の罰金を完納することができないときは、刑法一八条により金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、押収してある日本刀一振は判示銃砲刀剣類所持等取締法違反の犯罪行為を組成した物で犯人以外の者に属しないから、同法一九条一項一号、二項本文によりこれを没収することとする。

(殺人、死体遺棄の訴因を無罪にした理由)

第一、公訴事実の要旨

被告人は、

第一、昭和四四年二月二二日午前二時三〇分ころ、佐賀県西松浦郡有田町中部丙七八四番地の実母松崎ミト(当時六〇年)方を訪れ、同女に「車を買いたいので金を一〇万円ほど貸してくれ」と頼んだが同女からすげなく断わられ、さらに貸してほしいと頼んでみたが「貸せない」との返事を繰り返されるに及んで激昂し、いきなり右手拳で同女の右顔面を殴って同女をその場に倒し、次いで、突嗟にかくなったうえは同女を殺害するもやむなしと決意し、同家炊事場にあった包丁を持ち出し、同女の頭部に数回切りつけ、さらにその場にあった腰紐を同女の頸部に巻きつけこれを交叉し、その両端を両手で握りながらこれを強く締めて頸部を絞めあげ、よって同女を即時、同所において窒息死に至らしめて殺害し、

第二、事件の発覚をおそれて同日午後一一時すぎころ、前記松崎ミト方に至り、同女の死体を自動車に乗せ、これを長崎県佐世保市木原町三二五番地の須田川堤まで運んだうえ、翌二三日午前零時ころ、同所の溜池中に投棄し、もって右死体を遺棄したものである。

第二、弁護人の主張の要旨

本件殺人、死体遺棄事件と被告人を直接結びつける証拠として、物的証拠は存在せず、被告人の捜査官に対する自白調書しか存在しない。しかも右自白調書は、いずれも違法な別件(判示刀剣所持事件)による身柄拘束中作成されたもの及びその影響下に作成されたものであって違法収集証拠であり証拠能力を有しない。仮りに右自白調書に証拠能力があるとしても、被告人の自白の内容は、取調べの進行につれて変転を重ね、真実体験した者であれば間違えるはずがないと思われる幾多の事項について食い違いがあり、虚偽の自白であることが明らかで、到底信用性を認めることが出来ない。よって本件は無罪である。

第三、当裁判所の判断

一、事件の発生

≪証拠省略≫を総合すると以下の事実を認めることができる。

1、昭和四四年二月二五日朝貝原エミ子は、親戚の藤井はぎのから、エミ子の実母で佐賀県西松浦郡有田町中部丙七八四番地居宅に一人で暮している松崎ミト(当時六〇年)が右藤井と外出する約束をしていたのに居宅に居ないようだとの話を聞いたので、同日午前一〇時すぎころ様子を見るために右ミト方を訪れ、表玄関から入ろうとしたが、玄関のガラス戸は内側から施錠されていて開けることができなかった。

そこでエミ子は、ミトがいつも買物などに行くときに施錠しないまま出入りしていた表縁側に廻りガラス戸に手をかけたところ、四枚のガラス戸のうち最も東端が施錠されていなかったので同所から家屋内に入り、各部屋を見て廻ったがミトの姿は見えず、表縁側の四畳半の間にはその東側の四畳の間に通ずるガラス戸の手前にマットレスが折りたたんで置かれ、その下に枕と電気毛布が置かれており、その北側の座敷六畳の間のタンスの横に預金通帳入れビニール袋一個と朱塗りの衣紋かけ一個が落ちており、表縁側押入れの中にはそこにしまわれてあるはずの布団一流れが見当らず、一旦外に出て牛乳箱を見ると配達されたままの牛乳ビンが三本入っていた。

エミ子はミトの姪でミト方に牛乳を配達販売している藤瀬春子方を訪れミトの所在を聞いたり、ミトの妹で佐賀市に住んでいる小野満枝やミトの念仏講仲間の土井トモに電話で問合わせたりしたがミトの所在は判明せず、その後右土井および同じ念仏講仲間の吉永シオとともに再びミト方に赴き、ミトが普段貴重品をしまっていた裏縁側の布団タンスの中を調べたところ現金九万円、預金通帳などはちゃんと存在しており、さらに紛失物について詳しく調べたところ、前記布団の外に、電気毛布のカバー、枕カバー、毛布、さらに昭和四四年二月二一日にミトが貝原エミ子らとともに佐世保市内の病院に入院していたエミ子の夫貝原弘の見舞いに行った際に着用していた袷、トッパー、白足袋、その時に持っていたがま口財布などが家屋内に見当らないことが判明した。

エミ子は同日正午ころ一旦自宅に帰ったあと夫の母貝原さかえ、夫の妹江島操とともにミト方に赴き、裏縁側の雨戸を開けて更に詳しく調べたところ、江島操が座敷六畳の間の仏間の襖や畳の上に小さな血痕が点々と付着しているのを発見したので、その後エミ子の知らせでミト方に来た親戚の中島八郎らと相談のうえ同人が同日午後三時一七分ころ有田警察署に赴きミトの所在捜査を依頼した。

2、中島八郎から右届出を受けた有田警察署の高岸末啓警部補は他の署員とともに直ちにミト方に赴き、エミ子の指示説明によって同家屋内外の実況見分をなし、その結果座敷六畳の床柱の下から八三センチメートルの所に小豆大の血痕が一か所、仏間の北側襖の中央よりやや上方から下方に向って全般にわたり大豆大の血痕が一か所、針刺大の血痕が点々と一〇数か所、同襖の前の畳および床の間の前の畳二枚にわたって針刺大および擦過状の血痕が点々と数か所にそれぞれ付着していること、前記マットレスの下に置かれていた枕には端の方に約二・二センチメートルの鋭利な刃物で切られたような跡があること、表土間西側の炊事場の南側流し台の包丁刺しには薄刃包丁一本、出刃包丁二本(うち一本はステンレス製)が刺されており、同炊事場の炊事台の上にある水屋の戸棚の中には封筒に入ったステンレス製の薄刃小型包丁一本があり、同炊事台の棚に薄刃包丁一本が置かれていたこと、同炊事台に水の入った湯呑みが一個置かれており、その中に総入歯の下歯一個が入っていたこと、風呂場流し台の上に水の入った洗面器があり、その中に古タオル二枚、雑布一枚が入っていたこと等の状況を確認したが、右包丁にはいずれも兇行に使用された跡は見受けられず、右雑布等も血痕を洗ったような形跡は見受けられず、さらに出入口をこじあけたり、室内を物色したような形跡も見受けられず、犯人の足跡、遺留品、車轍痕と思われるものも発見するに至らなかった。

3、有田警察署および本件の捜査に加わった佐賀県警察本部捜査一課特捜班は前記ミト方居宅の状況から、ミトはその居室内で何者かによって殺害もしくは重傷を負わされたうえ、運び出されてどこかに遺棄されたものであると推定して、同月二六日から地元消防団などの協力を得てミト家を中心に山林や川などを捜索したところ、同月二七日午前九時五五分ころ、長崎県佐世保市木原町三二五番地通称須田川堤の西南寄りで国道三五号線の路肩下岸から北側約一・六メートルの地点で水深約二メートルの底にうつ伏せになって沈んでいるミトの死体を発見するに至った。

二、捜査の経緯

≪証拠省略≫を総合すると以下の事実を認めることができる。

1、松崎ミトの死体は前記須田川堤から引揚げられ、近くの公民館前広場で見分された後久留米大学医学部法医学教室解剖室に移され、昭和四四年二月二七日午後四時二〇分から鑑定のため解剖され、その結果右ミトの死体は腰巻き、シャツ、襦袢を身につけた寝巻き姿であり、頭髪はヘアピンで整髪されており、上顎には入歯があるが下顎は歯が欠落して入歯もないという状態であること、前頭頭頂部に二か所、後頭部に六か所の切割創が、左手掌に二か所の切創があり、右眼周辺には小卵大の赤紫色の腫脹があり、頸部には水平に走る三条の索痕があってその内部には右側頸筋間と気管周囲の軟組織間に著明な出血を伴った甲軟軟骨上角骨折が見られ、左第三ないし第六肋骨が骨折していること、死後硬直は全身の関節で緩解し、背面には淡赤紫色の死斑が発現していて指圧を加えても消褪しないこと、血液型はAMN型であることなどが判明し、直接の死因は絞頸による窒息死で他殺の可能性が強く、あまり固くない細い紐状のもので強く絞頸が行われて比較的急速に死に至った可能性が強く、同年二月二〇日から二三日までの間に死亡したと推定され、前記創傷はいずれも、非常に重い大型のものではないがある程度の重みのある有刃性の成傷器によるものと考えられるとの鑑定結果が得られた。

2、中島八郎の届出により、有田警察署は、佐賀県警察本部捜査一課特捜班とともに他殺の疑いのある失踪事件として捜査を開始していたが、死体が発見され解剖の結果が判明した時点から殺人事件に切替え、同署に捜査本部を設置してミト方家屋内外の血痕反応検査、ミトの近親者や友人に対する事情聴取、紛失物の捜査を続け、その結果、

(1) 前記ミト方座敷六畳間の畳、床柱、仏間の襖に付着している血痕はいずれもA型であり、マットレス、枕、電気毛布にも微量ながら血痕が付着してミトの血痕と認められること。

(2) 土井トモは同年二月二一日午後六時三〇分ころまでミト方でミトと話をしており、その後ミトの姿を見た者はいないが、ミト方の東隣に住む貝原福代は同日午後九時ころミト方の前を通った際にミト方の家屋内に電灯が点いているのを見ていること。

(3) 牛乳配達員の円田治見が同年二月二二日午前七時すぎころミト方に牛乳配達に行ったところ、いつもは牛乳箱に出されている空ビンがなく、その後二四日までの牛乳三本が配達されたままの状態で牛乳箱に入っていたこと。

(4) 同年二月二五日午前一〇時すぎころ貝原エミ子がミト方表縁側四畳半の間にはその東側の四畳の間に通ずるガラス戸の手前にマットレスが置かれているのを目撃していること、渕上時次は、同年一月末ころからミト方の北東裏で車庫移転に伴う整地作業に従事しており、コンクリート作業に水を使う必要上、かねてミトから昼間随時ミト方に立入って屋内の水道を使うことを許諾されており、同年二月二三日午後二時ころ、水を使う必要があったのでミト方表縁側の旋錠されていないガラス戸を開けて表縁側四畳半の間に入り、その東側の四畳間を通ってミト方北東隅の炊事場に行った時には前記場所にマットレス等が置かれているのは見ていず、さらに同年一月一九日ころまでミト方の東側二部屋と二階を借りていた松本保が同年二月二三日の夕方ミト方に残していたお膳などを取りに来た際、右渕上と同じ経路で出入りしているがマットレス等が置かれているのは見ていないこと

等の事実が判明し、さらに死斑は死体の下面に現われ、死後一〇時間以上そのままの状態で経過した場合は体位を変えても一旦死体の下面に出現した死斑はそのまま残り、指圧によっても消褪しなくなるものであるところ、ミトの死体は前一、3記載の如く水底にうつ伏せになっている状態で発見されたのに、その死体背面には指圧によっても消褪しない死斑があることなどから捜査本部ではミトは同年二月二一日午後九時以後床に就いてから翌朝午前七時すぎころまでの間に、ある程度の重みのある有刃性の成傷器で頭を傷つけられたうえ紐状のもので頸を絞められて殺害され、死体は一〇時間以上仰向けの状態で放置され、その後再びミト方に侵入した犯人によって運び出され須田川堤に遺棄されたものであると推定したほか、犯人は二回以上ミト方に出入りしていること、外出着などを持出してミトが外出したように偽装していることやミト方の出入口にこじあけられたような跡がないことなどから、犯人はミトと顔見知りでミト方に容易に出入りでき、ミトが一人暮しで外出が多いことなどその日常生活をよく知っている者と思われると推理し、犯人はミトの近親者ではないかとの推測を抱くに至った。

3、そこで捜査本部はミトと先夫中山正男との間の子である被告人、ミトの長女貝原エミ子、エミ子の夫貝原弘、その弟貝原重光、亡夫松崎昌幸の兄松崎正二郎、昌幸の弟松崎幸吉、昌幸の妹中島モン、ミトの姪婿の松本保らについて捜査したところ、被告人と貝原エミ子にはポリグラフ検査の結果陽性の反応が認められて容疑が残ったたがその余の近親者はポリグラフ検査の結果陰性と出たり、あるいは殺害の動機が認められないとの理由で容疑は薄いとの結論が出された。

なお捜査本部では近親者に対する捜査を行う一方いわゆる流しの犯行の可能性も考えて地元の素行不良者や前歴者に対する捜査も行ったが容疑者と認められる者は発見するに至らなかった。

4、捜査本部は事件発生直後から被告人に対する捜査を続けていたが、その結果

(1) 被害者ミトは、昭和六年ころ中山正男と結婚して被告人外一名をもうけたが昭和九年ころ正男と離婚して被告人らを残したまま西有田町の実家に帰り、その後松崎昌幸と結婚して貝原エミ子をもうけ、エミ子が結婚し、夫昌幸が昭和四〇年七月事故死した後は事故の補償金、約一五〇万円の保険金、三か月に一度貰う約一万八、〇〇〇円の厚生年金や右エミ子からの援助等で一人暮しをしていたものであるが、昭和四二年春ころ被告人とミトは三〇余年振りに親子の対面をし、その後は被告人が週二回くらいの割合でミト方を訪れていたこと、

(2) 被告人はミトから小遣いとして毎月二、〇〇〇円多い時には一万円を貰い、昭和四三年六月にはバイクを買って貰っており、その後テレビを買換えるためミトに借金を申込んだがミトから断わられ、一時ミト方に遊びに行かなかったこともあること、

(3) ミトの行方不明が判明した昭和四四年二月二五日の夜被告人が貝原エミ子方に電話して、ミトが所持していた現金はどうしているかと尋ねていること

等の事実が判明し、被告人がミトに金を無心し、ミトの財産に関心を抱いていたような様子がうかがえることから、被告人がミトに金銭的な要求をしてトラブルが生じたことがミト殺害の動機になったのではないかとの推測がなされ、さらに、

(4) 被告人は、ミトの行方不明に誰も気付いていない同年二月二三日朝藤瀬春子に「二二日晩ミト方に行ったがカーテンが閉まっていてミトがいなかった、ミトはどこに出かけているのだろうか」と尋ね、同日昼ころ佐世保市内の玉屋でエミ子に「二、三日前からおふくろがいないようだ、どこに行ったか知らないか」と聞いており、自らミト方に赴いて確かめることなく、ことさらに尋ね廻っているような態度が見られたこと、

(5) 同年二月二七日ミトの死体が須田川堤で発見された時、発見現場近くに来た被告人の嘆き方が激しく、捜査官やその場に居合わせた貝原重光にその態度が異常に見えたこと、

等の点から捜査本部は被告人に対する容疑を深めた。

一方捜査本部のエミ子に対する容疑は、エミ子にミト殺害の動機と思われる事実が見当らず、ミトの右眼周辺の腫脹は強い力で打撲したもので、女性の力によるものとは考えられないこと、エミ子は事件当時幼児を抱え、夫の母と同居しており夜中に家を出るのは不可能であること、女性の殺人犯人で現場に二回以上赴くのは稀であること、共犯の可能性については当時夫の貝原弘は佐世保市内の病院に入院していて共犯になり得ず、他に共犯者と考えられる者は見当らないことなどから薄いということになった。

5、捜査本部は被告人がミト殺害の最も有力な容疑者であると考えるに至ったが、被告人と本件殺人、死体遺棄事件を結びつける直接的な証拠はなく、ミト殺害に使われた凶器やミト方から搬出された布団類、着物類は発見することができず、昭和四七年九月ころまで捜査は進展しなかった。

即ちミト方から搬出された物件の捜査に関しては、昭和四四年二月二七日ころ、西有田町から有田町に通勤していた今泉善次郎から、同月二三日午前七時一五分ころ有田町広瀬伯山の峠にさしかかったところ、道路脇の山林の松の根元に白い包が捨てられているのを見たが、翌二四日午前六時ころ同所を通った時にはその包はなかったとの届出が有田警察署員に対してなされ、同署員が右現場に赴いたがその付近から包らしいものは発見されず、また同年一〇月ころ須田川堤の水を抜いた際堤の中を捜索したがミト方から持出したと思われる布団類、着物類は発見されなかった。

しかし、捜査の結果、ミト方から搬出された掛布団はミトが昭和四三年一一月九日有田町赤絵町の法元寺で行われた「月の友寝具」展示会で購入したテルミーと呼ばれる和布団であり、その鏡地の模様はコスモス様の花柄であって、赤絵町に住む松尾慶子が右展示会で同月八日に右と同模様のテルミー掛布団を購入している事実が判明した。

6、昭和四七年九月二九日田代守、田代利也の親子が前記伯山の山林内に松茸狩りに行った際木綿のカバー地が腐敗消滅して化繊の鏡地と綿だけが残った掛布団を発見し、有田警察署にその旨届出たので、捜査本部は、現場に赴いて右掛布団を領置し、松尾慶子が持っていた前記テルミー掛布団を買受け、右二枚の掛布団の異同を佐賀県警察本部刑事部鑑識課に鑑定依頼したところ、二枚の掛布団は同一製品であると断定され、前者の掛布団は山林内に三年内外放置されたものと推定された。

さらに昭和四三年一一月八日から三日間法元寺で開かれた前記展示会においてテルミー掛布団を購入した四七名について捜査したところ、ミトを除いて全員持っているとの事実が判明した。

以上の経過から捜査本部では伯山から発見された掛布団はミト方から搬出されたものであると断定し、右掛布団発見後約二か月間にわたって右発見現場の周囲を捜索したが、ミト方から搬出されたと思われるものは発見できなかった。

7、捜査本部は、昭和四八年一月二六日有田警察署で捜査検討会を開き、ミト方から搬出された掛布団が被告人宅からわずか三〇〇メートルしか離れていない地点で発見されたことから、被告人に対する本件殺人死体遺棄事件の容疑は極めて強くなったと判断し、被告人居宅にはミト方から搬出された物がなお存在する可能性があるとして、同年二月一九日伊万里簡易裁判所裁判官に対し、被告人を本件殺人、死体遺棄の被疑者とする被告人居宅の捜索差押許可状を請求し、同日右許可状の発付を受けた。

三、被告人が本件殺人、死体遺棄について自白するに至る経緯

≪証拠省略≫を総合すると以下の事実を認めることができる。

1、捜査本部は、松崎ミトの命日と推定される昭和四八年二月二一日を期して被告人を取調べることを決定し、同日午前八時前ころ被告人宅に警察官三名を派遣して被告人に任意同行を求め、同日午前八時三〇分ころから有田警察署において被告人の承諾を得てポリグラフ検査を行い(同検査の途中原重製陶所から被告人に電話があったため、三名の警察官が被告人とともに右製陶所に赴き、用件が済んだ後再び同署に任意同行した)、右検査終了後午前一〇時ころから同署一階の当直室で野口章警部補が土井昇巡査部長を補助者として被告人を尊属殺人、死体遺棄の容疑で取調べた。

野口警部補はまず「今日は何の日か知っているか、今日はひとつ仏さんに成仏してもらうためにも本当のことを話してもらいたい。」と切り出し、その後被告人宅の近くの山林からミト方の掛布団が発見された旨を告げ、被告人がミトを殺害したのではないかと追求し、途中杉原荒男警部が当直室に顔を出して被告人にありのままを話しなさいと言ったりしたこともあったが、被告人はミトの殺害を否認し、同日午後五時ころ取調べを終った。

その間正午の休憩時間中に野口警部補は、被告人宅を捜索中日本刀が発見されたとの連絡を受けたので午後の取調べの際被告人に日本刀の所持について質問したところ、被告人は所持の事実を認め、以前から所持していたものであると弁解した。

2、捜査本部は、被告人が有田警察署に赴いた直後の同年二月二一日午前八時三〇分ころから、前記捜索差押許可状により被告人居宅を捜索したところ、間もなく二階洋服タンスの中から刀渡り六五・五センチメートルの黒鞘付きの日本刀一振を発見したのでこれを領置し、被告人宅において被告人の妻中山君江から右日本刀は被告人と右君江が結婚した当時には既に被告人宅に存在しており、引き続き保管しているとの供述を得たのでその旨の供述調書を作成した。

捜査本部では右日本刀の登録の有無等について捜査したところ、同日午後五時二五分ころまでに、右日本刀は佐賀、長崎両県の教育委員会には登録されていず、発見届や所持許可の申請はなされていないことが判明した。

3、捜査本部では「松崎ミトに対する切割創の成傷器が未だ発見されず、解剖結果から右日本刀が成傷器である疑いが十分考えられ、殺人事件について追求されることを予想して中山英司が逃走するおそれがある」旨の捜査報告書を疎明資料のひとつとして昭和四八年二月二一日午後六時ころ伊万里簡易裁判所裁判官に対し、銃砲刀剣類所持等取締法(以下銃刀法と略称する)違反を被疑事実として被告人に対する逮捕状を請求し、間もなく右逮捕状の発付を受け、前記取調べ終了後警察官の要請で有田警察署に居残っていた被告人に対し、同日午後八時二〇分ころ右逮捕状を執行した。

なお右日本刀とミト殺害の結びつきについては翌二二日佐賀県警察本部刑事部鑑識課に対し、右日本刀の血痕付着の有無、ミト損傷の成傷器と思われるか否かについて鑑定を依頼し、これに対し、血痕付着を認めない、ミトの傷が右日本刀によるものではないとは言えないとの鑑定結果の回答が同月二七日になされた。

4、昭和四八年二月二二日午前九時ころから野口警部補が土井巡査部長を補助者として、有田警察署二階の取調べ室で被告人を殺人、死体遺棄について取調べ、同日午後には前日行ったポリグラフ検査の結果が陽性と出ていることが判明していたので、野口警部補は、右の結果を被告人に告げて被告人を追求したが、被告人は否認を続け、同日午後五時ころまでに同警部補による取調べは終了した。

なお野口警部補による殺人、死体遺棄についての取調の中途で土井巡査部長が数時間銃刀法違反事件について被告人を取調べ、被告人は、右事件について事実を認め、日本刀を所持するに至った経緯および身上関係について供述したので同日付供述調書二通が作成された。

同日午後六時ころから八時ころまでは、杉原警部が鳥井秋光警部補を補助者として殺人、死体遺棄について被告人を取調べ、ポリグラフ検査の結果は陽性と出ている、心の中に何か隠しているのではないかなどと述べて追求したが、被告人は右犯行を否認した。

5、翌二三日も前日同様野口警部補が午前九時ころから午後五時ころまで殺人、死体遺棄事件について被告人を取調べ、事件発生当時の被告人の不審と思われる行動や前記ポリグラフ検査の結果を述べたりして追求し、夕食後の午後六時ころからは杉原警部が鳥井警部補を補助者として取調べたが、被告人は否認を続け、午後七時三〇分ころ杉原警部が疲労のため退席したので鳥井警部補が交替し、被告人に対して約三〇分間親子の情愛などについて話し、「明日自分が取調べることになったら本当のことを話してくれ」と告げて取調べを終り、その後鳥井警部補は上司の杉原警部に対し、二四日は自分に取調べをさせてくれるよう願い出てその承諾を得た。

なお同日午後六時四三分被告人は銃刀法違反の容疑で佐賀地方検察庁伊万里支部に送致された。

6、翌二四日右地検支部で弁解録取書が作成された後午前一〇時三〇分ころから、有田警察署において、鳥井警部補が土井巡査部長を補助者として被告人を取調べ、まず前記日本刀がミト損傷に使われたのではないかとの質問を被告人が否定したので、右日本刀の件の取調べは一〇数分間で終わり、鳥井警部補は、前日に引続いて親子の情愛について話し、もしミトを殺しているのであればこの際はっきりして胸のもやもやを出しなさいなどと説得したところ、約一時間後に被告人が「やりました」と述べて本件殺人、死体遺棄事件を自白するに至った。

四、本件殺人、死体遺棄事件自白後の取調べの経緯

≪証拠省略≫を総合すると以下の事実を認めることができる。

1、鳥井警部補は、昭和四八年二月二四日午後一時ころから本件殺人、死体遺棄の動機、方法について被告人を取調べ、右自供により同日付被告人自供調書を作成し、午後三時ころから右自供に基づいて被告人の案内で死体遺棄現場である須田川堤、着物等を処分したという佐世保市木原町地内山(以下単に木原山という。)中、掛布団を捨てたという伯山に赴きそれぞれ現場確認をしたが、須田川堤の死体遺棄現場は被告人も以前から知っており、木原山中で被告人が指示した着物等の処分現場には処分の痕跡が見当らず、また伯山の掛布団発見現場は周囲に白いビニールテープが警察官の手で張られており、遠くから見える状態であり、さらに同行した杉原警部がその方向を示唆しているのであり、右現場確認によって被告人と本件殺人、死体遺棄を結びつける証拠は発見できなかった。

一方捜査本部は、前記被告人の自供調書を疎明資料として、同日伊万里簡易裁判所裁判官に対して、尊属殺人、死体遺棄を被疑事実として被告人に対する逮捕状を請求し、同日逮捕状の発布を受けて午後五時四五分にこれを執行した。

2、同年二月二六日は、鳥井警部補が被告人を取調べて同日付自供調書を作成し、同日被告人は尊属殺人、死体遺棄の被疑事実で佐賀地方検察庁唐津支部検察官に送致され、即日同検察官は当庁裁判官に勾留請求をなし、当庁裁判官は、即日被告人に対し被疑事実を告げこれに関する陳述を聞いたところ、被告人は右被疑事実を認めたので被疑者陳述録取調書にはその旨記載され、同日勾留状が発せられ、該勾留状は即日執行された(その後勾留は同年三月一七日まで延長された)。

3、勾留後被告人は、鳥井警部補に対して同年三月二日まで自供を続け、その間同年二月二七日付、同二八日付、同年三月一日付、同二日付各自供調書が作成されたが、被告人は、右三月二日付自供調書に記名指印した直後鳥井警部補に対して従来の自供を翻えし、同月四日および六日検察官から身上関係等について取調べを受け、同月四日付および六日付各供述調書が作成されたが、尊属殺人、死体遺棄については否認を続けた。

4、ところが同年三月六日の夜被告人は、鳥井警部補および丸山親夫警視から否認の理由などを厳しく問い質された結果、否認の態度を覆えして再び自供するに至り、翌七日の検察官の取調べでは自供し、同日付自供調書三通が作成され、同月八日は被告人の立会による検察官の実況見分がなされ、同月一八日付で実況見分調書が作成されたが、同月一二日の検察官による取調べの途中、被告人は、弁護人と接見し、接見終了後の取調べに対しては否認したので、前半は自供、後半は否認の同日付供述調書が作成され、以後被告人は否認を続けたまま同年三月一七日に起訴された。

なお検察官は被告人に対する前記取調べに際してはすべて取調状況を録音テープに録音した。

五、被告人の捜査官に対する殺人、死体遺棄についての自白調書等の証拠能力

1、問題の所在

前記認定によれば、被告人は、まず、銃刀法違反の被疑事実で逮捕され、その逮捕期間中に別罪である(尊属)殺人、死体遺棄事件について取調べを受け、同事件について初めて自白したものであることが明らかであるところ、このようにある事実(別件)で身柄拘束中の被疑者に対し、身柄拘束の基礎にはなっていない別の事実(本件)で取調べることが適法か否かがまず検討されなければならないが、右の適法か否かを一義的に決することは困難である。

即ち、何人も現行犯逮捕の場合を除いては、裁判官が発し、かつ、犯罪を明示した令状によらなければ、逮捕されない旨の令状主義の原則を定めた憲法三三条および同原則を担保するために定められた刑事訴訟法、刑事訴訟規則の諸規定(刑事訴訟法一九九条、同規則一四二条一項、一四三条、一四三条の三)の趣旨を強調すれば、裁判官による事前審査がなされていない余罪(本件)について取調べをすることは、令状によらずに逮捕されたと同様の結果をもたらすことになって許されないと解されるが、これを貫くと、余罪の取調べのため逮捕のくり返しによって身柄拘束期間が長期化し、あるいは同時審判の利益を損うことがある等被疑者に不利益になる場合があり、さらに、捜査の流動性、発展性を考えると、令状主義はある程度の修正を余儀なくされるものと考えられるのである。

従って、令状により身柄拘束中の被疑者の余罪の取調べの適否は、具体的事件に即して検討されなければならないが、余罪の適法な取調べのためには、少くとも、現に発付されている令状の基礎となった被疑事実について、逮捕乃至勾留の理由および必要性が存すること、およびこれと表裏をなすことであるが、余罪の取調べをなす捜査官に令状主義潜脱の意図のないことが客観的に認められることが必要であるといわなければならない。

2、そこでまず、本件において銃刀法違反罪の逮捕の理由および必要性があったかどうか、同時に捜査官の意図はどうであったかについて判断する。

(1) 前記認定によれば、右逮捕状を請求した時点において、捜査官はすでに前記「証拠の標目」に掲げた証拠のうち「公判調書中の被告人の供述部分」以外の証拠をすべて収集しており、逮捕の理由(相当な嫌疑)があったことは明らかであるが、同時に右収集証拠によれば、日本刀不法所持の事実は明らかで、罪証隠滅の余地は全くないばかりか、すでに公訴提起に必要な証拠の収集を終えていたか、又その気になれば終えることができた(仮りに捜査官が被告人の供述調書が必要と思料するならば逮捕状請求時までに該調書を作成し得たはずである。)かであったと認められる。

(2) ところで、逮捕は、いうまでもなく被疑者の取調べを直接の目的とするものでなく、罪証隠滅および逃走の防止を目的とするものであるから、右のように全く取調べの必要のない事件の被疑者についても、諸般の事情から逃走の虞れが認められる場合は、逮捕の必要を認めるべきであると考えられる。しかし、このような逮捕は専ら公判出頭の確保を目的とするものであるから、逮捕後直ちに公訴提起の手続をとり、いわゆる逮捕中求令状事件として裁判官に身柄拘束の必要性の有無の判断を委ねるべきであるのみならず、≪証拠省略≫から判明する被告人の当時の年令、職業、家族状況および銃刀法違反の罪質から考えると、被告人には逃走の虞れもなく、逮捕の必要性はなかったものと認められる。

尤も、捜査官は、銃刀法違反の逮捕状請求に際し添付した捜査報告書で、「日本刀がミト損傷の成傷器であった疑いが十分に考えられ、殺人事件について追求されることを予想して逃走する虞れが十分に考えられる。」と記載して逮捕の必要性を根拠づけている。

しかし、もともと前記解剖鑑定の結果ミト損傷の成傷器と推定されたのは、「非常に重い大型のものではないが、ある程度の重みのある有刃性のもの」という広範囲の刃物であって、日本刀がその中に含まれることをもって、ミト損傷の成傷器であった可能性が強いとはいえず、当時存在した証拠から客観的に判断すれば、前記日本刀が右成傷器であっても矛盾しないという消極的な可能性しかないことは明らかであって、右日本刀の所持とミト殺害の関連性は非常に少ないものであったといわなければならない。

しかも、前記認定によれば、捜査官は、右日本刀を昭和四八年二月二一日午前八時三〇分に被告人方居宅の捜索に着手して間もなく発見し、領置しているのであるから、右日本刀がミト損傷に使用された疑いが生じたならば、直ちにルミノール反応検査を依頼し、判定を急がせるなどして右の疑いを明らかにすべきであり、そうすれば、右日本刀には血痕の付着が認められないことが一両日中には判明したはずである(ルミノール検査がさほど長時間を要するものでないことは、松崎ミト方および須田川堤のルミノール検査については、いずれも鑑定嘱託の翌日に鑑定結果回答書が作成されていることから明らかであり、前記ポリグラフ検査の場合にみられる如く、回答書が作成される以前にも、その結果を捜査官が知ることができるはずである。)。

そうすると、仮りに逮捕当日の状況では逮捕の必要があったとしても、その翌日以降これを継続すべき必要性はなかったことが明らかである。

(3) 又、前記認定によれば、捜査官は、昭和四八年二月二一日朝から被告人に任意出頭を求め、殺人、死体遺棄事件で取調べ、正午の休憩時間中被告人方から日本刀が発見されたとの連絡を受けるや、一応日本刀の所持について質問し、被告人が右事実を認めたのに調書を作成せず、その後も殺人、死体遺棄事件について取調べを続け、同日午後六時すぎころ右日本刀の不法所持で逮捕状を請求してその発付を受け、午後八時二〇分ころ逮捕状を執行し、日本刀の不法所持については翌二二日中に数時間取調べて調書二通を作成しただけで、以後は同罪について取調べをすることなく、専ら殺人、死体遺棄事件で被告人を追求し、翌々日の二四日午前一一時三〇分ころ右事件について被告人の自白を得るに至ったものである。

ちなみに、日本刀の不法所持事件については、同月二三日午後六時四五分に至ってようやく検察官に送致したのである。

(4) そうすると、捜査官は、日本刀の不法所持罪については逮捕の必要性がないか、又は逮捕翌日には必要性がなくなったのに、同罪の逮捕による身柄拘束状態を違法に継続し、これを利用して、専ら、いまだ逮捕状を得るだけの資料のない(この点については前記「捜査の経緯」の記載によって明らかである。)殺人、死体遺棄事件につき被告人を取調べたものであり、その他の点の考察をまつまでもなく右取調べは違法であるというべきである。

3、よって、右取調べによって得られた被告人の自白の証拠能力について判断する。

前記認定の諸事実に鑑みると、右取調べの違法性の程度はこの種別件逮捕による取調べの類型の中でも最も大きなものであって、他の事情を考慮するまでもなく、右自白に基づいて作成された被告人の司法警察員に対する昭和四八年二月二四日付供述調書は証拠能力がないと断定せざるを得ない。

4、進んで右自白調書作成後に作成された被告人の供述調書等の証拠能力について判断する。

前記認定によれば、捜査官は、前記違法収集にかかる自白調書を疎明資料として殺人、死体遺棄罪につき逮捕状、続いて勾留状を得て身柄拘束を継続し、右身柄拘束期間中に被告人の司法警察員に対する昭和四八年二月二七日付、同二八日付、同年三月一日付、同二日付、同六日付各供述調書、検察官に対する同年三月四日付(一〇枚のもの)、同六日付、同七日付(三通)、同一二日付各供述調書、検察官作成の実況見分調書、裁判所書記官作成の被疑者陳述録取調書の被告人供述部分、押収してある録音テープ五巻の各証拠を収集したものであるところ、かかる違法な別件逮捕に引続く本件逮捕、勾留は違法な身柄拘束であり、その間に収集した被告人の供述調書等は原則として証拠能力を有しないといわなければならない。

尤も、右本件の逮捕、勾留が違法な別件逮捕によって得た証拠がなくても認められた場合、あるいは本件逮捕、勾留中に得た被告人の供述調書等が、実質的にみて違法な別件逮捕によって得た証拠に基づかず、又はその影響が排除された状況の下で作成されたと認めうる特段の事情の存する場合には、別件逮捕中に作成される証拠の違法を引継かず、証拠能力を認めうることがあると解すべきである。

これを本件についてみるに、前記認定によれば、殺人、死体遺棄罪による逮捕およびこれに続く勾留は、前記違法収集証拠である被告人の司法警察員に対する昭和四八年二月二四日付供述調書の存在によって初めて認められたものであり、右逮捕、勾留中に得た前記各証拠が右供述調書の違法を引継がない特段の事情は認めることができず、かえって右供述調書に基づき、これを利用して、あるいはその影響下に作成されたものであると解されるから、いずれも証拠能力を有しないといわなければならない。

六、最後に前記証拠能力のない自白調書等を除いた証拠によって、殺人、死体遺棄被告事件について有罪を認定できるかどうかについて検討する。

(一) ミトの近親者の犯行であるとの推測

先に認定した「事件の発生の1、2及び捜査の経緯1、2の(4)」の事実によると、昭和四四年二月二五日午前一〇時ミト方四畳半の間からその東側の四畳の間に通ずるガラス戸の手前に置いてあったマットレスは、同月二三日の夕方にはそこになく、置き替えられたものであること、ミトの死体の死斑の位置および状況から、ミトは殺害後一〇時間以上仰向けの状態で放置され、その後再びミト方に侵入した犯人によって運び出されたことが推認され、犯人は少なくとも二回以上ミト方に出入りしていることが認められる。又、犯人はミトの外出着やミトが外出時に持ち歩くがま口などを持ち出して、ミトが外出しているように巧みに偽装していることや、ミト方の出入口にこじあけられたような跡がないことなどから、犯人はミトと顔見知りでミト方に容易に出入りでき、かつ、ミトが一人暮しで外出が多いことや、外出時の服装や、その日常生活を良く知っている者、即ちミトの近親者でかつ地元に住んでいる者であると推測される。ちなみに「捜査の経緯3」によると捜査本部ではいわゆる流しの犯行の可能性も考えて、地元の素行不良者や前歴者に対する捜査を行なったが、容疑者と認められる者を発見し得ていない。

(二) 近親者中被告人以外の者の嫌疑

1、先に認定した「捜査の経緯3」の事実によると、捜査本部は地元に住んでいる近親者多数について捜査したが、その中被告人及び貝原エミ子を除く者については、ポリグラフ検査の結果が陰性と出たり、殺害の動機となった事情が認められなかった。貝原エミ子は同検査の結果陽性反応がでたが、同女についても殺害の動機となった事情が発見されず、又ミトの顔面にある打撲症からみて女性の力によるものとは考えられず、又同女の夫弘は、佐世保市内の病院に入院してアリバイがあり、エミ子の共犯者たり得ないことが認められ、従って被告人以外の近親者が犯人である可能性は薄い。

(三) 被告人に対する嫌疑

1、被告人には本件犯行の動機となり得る事情があった。

(1) 先に認定した「捜査の経緯4」によると、ミトは、昭和六年ごろ中山正男と結婚して、被告人をもうけたが、昭和九年ごろ(被告人の三才時ごろ)離婚して、被告人を残したまま西有田町の実家に帰えり、その後松崎昌幸と結婚してエミ子をもうけたものであるが、エミ子が結婚し夫昌幸が昭和四〇年七月事故で死亡した後は、事故の補償金や三か月に一度貰う一万八、〇〇〇円程度の厚生年金、エミ子の援助等(夫昌幸の死亡時保険金を一五〇万円受取った)で細々と暮していた。昭和四三年春ごろ、被告人とミトは三〇余年振りに親子の対面をしたのであるが、その後被告人は、ミト方を週に二回位の割合で訪ねるようになり、ミトから毎月小遣として二、〇〇〇円多い時は一万円を貰い、昭和四三年六月にはバイクを買って貰ったことがある。ミトは、幼児であった被告人を残して、三〇余年も放置していたことに対する後めたさと不憫さから被告人にこのようにしてやったものと思われる。

およそ、普通の親子関係であるならば、さしたる収入もなく、娘の援助を受けて細細と暮している老母に対しては、逆に被告人から小遣銭を渡してしかるべきであるが、被告人は、前記のとおり当然のことのようにミトから小遺銭を貰い、ミトにテレビを買い替えるからと云って借金を申し込み、断わられた時はしばらくミト方に行かなかったことが認められる。これらの事実からすると、被告人のミトに対する感情は、通常の母親に対する愛情とは異なり、かなり打算的なものがあったのではないかと推認される。

(2) 被告人の当公判廷における供述によれば、ミトは殺害された当時、家主から家の明渡しを求められていたので家屋を新築する予定であったが、その資金の一部にあてるため、昭和四四年一月末日ごろ、小野満江から四九万円を借りたことがあり、被告人は右事実を聞き知っていたことが認められ、又前記「捜査の経緯4」で認定したように被告人はミトの行方不明が判明した同年二月二五日夜エミ子に電話してミトが所持していた現金はどうしているかと尋ねたことが認められる。

(3) 以上の事実から、被告人は、ミトの財産に対して強い関心を抱いていた様子がうかがわれ、被告人がミトに金銭的な要求をしてトラブルが生じ、それがミト殺害の動機になることは充分考えられ得る。

2、被告人はミト方玄関のカギを所持していた。

被告人の当公判廷における供述によれば、被告人は、昭和四四年一月末ころ、ミトから同女方玄関の鍵を預けられ、ミトが留守する時は、盗難等の用心のため、外部に留守であることがわからないように国道に面した表四畳半縁側のカーテンを昼間は開け、夜は閉めるように、又工事に来ている左官等に水道を使用させるため、裏木戸の止め金の掛けはずしをするように依頼されていたことが認められ、被告人は本件発生当時右鍵を所持してミト方に容易に出入り出来る事情にあった。

3、本件発生後の被告人の異常な行動

(1) 先に認定した「捜査の経緯4」によれば、被告人は、ミトの行方不明に誰も気付いていない昭和四四年二月二三日朝藤瀬春子に、「二二日晩ミト方に行ったがカーテンが閉まっていてミトがいなかった、ミトはどこに出かけているのだろうか」と尋ね、さらに昼ころは、佐世保市内の玉屋で貝原エミ子に「二、三日前からおふくろがいないようだが」と話しかけている。被告人は前記のとおり鍵を預かっており留守中のこと、特に左官に水道を使わせることを頼まれていたのであるから、ミトの行方が真実気になるならば、玄関の鍵を使って家に入いり確かめるのが普通である。

しかるに、被告人は、同月二五日エミ子がミト方に行き、ミトの行方不明を確認するまでそれをしていない。(被告人は当公判廷で鍵を預かっていたのを忘れていたと述べるが、右供述は、鍵を預かってから一月もたっていないこと、又留守中の前記用事をするために預かっていた鍵であることからしてにわかに措信し難い。)。

(2) ≪証拠省略≫によれば、前記ミトの行方不明が明らかになった日、被告人は、病院や、タクシー会社に行って、「怪我をした六〇前後の女の人が担ぎこまれていないか」とか「六〇才位の女の人を乗せたことはないか」等尋ね廻っていることが認められ、前記「捜査の経緯4」で認定したとおり、同月二七日須田川堤でミトの死体が発見された時、発見現場に来た被告人の嘆きかたが激しく、捜査官や居合わせた人達が異常に思うほどであった。

これら被告人の行動や態度は、前記被告人とミトとの関係に照らすと芝居じみて感じられる節がある。

4、ミト方から搬出された布団が被告人宅の近くで発見された。

先に認定した「捜査の経緯5、6」によると、ミトの家から見当らなくなった掛布団は、ミトが昭和四三年一一月九日有田町赤絵町法元寺で行なわれた「月の友寝具」展示会で購入したテルミーと呼ばれる和布団であり、その鏡地の柄はコスモス様の花柄であるが、昭和四七年九月二九日被告人宅からわずか約三〇〇メートル離れた伯山山中から、三年内外放置されたと認められる同一製品同一柄の掛布団が発見され、右掛布団はミト方から搬出された掛布団であると認められる。

5、被告人はポリグラフ検査の結果陽性反応がでた。

ポリグラフ検査回答書(二通)によると、被告人は、昭和四四年四月二四日にポリグラフ検査を受け、①ミトさんが行方不明になっていることは人が騒動する前から知っていましたか。②松崎ミトさんを殺した覚えがありますか。③ミトの死体を堤に捨てに行ったか。④マットレスはあとであなたが動かしたかとの質問に対し、いずれも「いいえ」と答えているが、顕著な心理的動揺を示し、陽性反応が現われた。更に昭和四八年二月二一日にもポリグラフ検査を受けたがこの時も右①②③の質問に対して陽性反応を示している(この時は④の質問はなされなかった)ことが認められる。

(四) 結論

以上の情況証拠によって認められた事実を総合勘案すると、当裁判所は、被告人が犯人ではないかとの疑を持つものであるが、これのみをもってしては未だ被告人が犯人であると断定するに足らず、前記のとおり被告人の自白調書は証拠として採用することが出来ないものであり、他に被告人と犯行を結びつけるに足る証拠がないので、被告人が犯人であるとの確信を抱くには至らない。結局本件殺人、死体遺棄被告事件については犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡田安雄 裁判官 仲家暢彦 裁判官赤塚健は転任につき、署名捺印することができない。裁判長裁判官 岡田安雄)

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