八鹿簡易裁判所 昭和35年(ろ)3号 判決 1960年12月09日
被告人 小谷修
大一三・六・一〇生 農業
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実の要旨は「被告人は昭和三十五年四月三日午前十一時四十分頃兵庫県美方郡村岡町八井谷所属道路上においてかねて山林の境界線の争いを続けていた小谷茂(当四十七年)と山の権利証について口論となりたる末殴合いとなり手拳を以て同人の鼻部を殴打し、よつて治療約七日間を要する鼻部挫傷等を蒙らしめたもの」と謂うにあり、なるほど被告人及び証人小谷茂(一部)の当公廷における供述並びに医師松田隆作成の診断書によれば、被告人と小谷茂間にはかねて前記同町八井谷所属山林の境界に関し民事上の紛争があり、被告人が小谷茂において自己の所有地であると主張する山林内の杉苗木数本を数回に亘り引抜いたことで両者間の対立は激化していたこと、公訴事実記載の時刻頃同町八井谷字帰田四百二十八番地の一、畑地の北側県道上において右民事上の紛争に基因し互に口論が交わされたこと、その頃右畑地に移動して後、被告人が小谷茂の顔面鼻部を手拳で一回殴打し、ために同人に対し全治約一週間を要する鼻部挫傷を負わせたことがそれぞれ認められるけれども、進んで、弁護人の主張する右所為が正当防衛行為に該当するか否かにつき判断するに、当裁判所の検証調書に被告人の当公廷における供述、同人の検察官及び司法巡査(二通)に対する各供述調書並びに証人小谷茂の当公廷における供述の一部、医師大林章三作成の診断書を総合すれば、前示認定のとおり被告人と小谷茂とが口論を交わした直後、被告人は小谷茂より「この馬鹿野郎」と怒鳴られ矢庭に左手で胸部を突かれ、次いで自己の下腹部を長靴履きのまゝ足蹴りにされたため、当時現場は数日前よりの降雨のため路面がやわらかくしめつていたことも手伝つて同県道上南側にある傾斜面の長さ約二米、約一・五米位にある前記畑地上に転落して腰部等を強打し、起き上ろうとするところを更に小谷茂より自己の頭部附近を一回足蹴りにされたうえ、引続きその頭部顔面を数回に亘り手拳で連打され、更に殴り掛ろうとする同人と自己とが近接した距離で向い合つていたため、全く予期していなかつた右各暴行を防ぎその場より遁れるため同人に対しやむなく前掲暴行(鼻部一回殴打)に及び、右転落の際に脱げその直後拾つて手に持つていたツツカケ下駄で防禦態勢を保ちつゝ、前記県道に接続する畑上で小谷茂に一回引倒されながらも同県道にかけ登つて右現場より遁れ去つたが、右暴行をうけた際、右側頭部、観骨部下顎部、左側頭部各打撲傷、右頭部小腫脹、左側頭部皮下腫脹、右顎部歯根腫脹、下唇部歯牙損傷等の傷害を蒙つたことが認められ、この認定に反する証人小谷茂の尋問調書の記載及び同証人並びにその父にあたる証人小谷喜太郎の当公廷における各供述の一部は前顕各証拠と対比し(被告人はその取調に当つた検察官及び司法巡査の各面前更に当公廷において終始一貫性のある比較的具体性を帯びた矛盾のない供述をしているのに反し、当裁判所における公判期日及期日外の各証拠に際し、証人小谷茂の供述内容にはいずれも瞹昧不明確な点が認められ、特に前掲診断書による被告人の受傷部位程度と被告人を殴打したのは一回であると供述する同証人の証言内容には著しい相違点が認められる。)且つ被告人の前示受傷部位に照してたやすく信用できないところであり、他に右認定を覆すに足りる的確な証拠は見当らない。
叙上の認定事実によれば、被告人の小谷茂に対する前示暴行は、これに先立つ同人の前掲一方的な連続的暴行々為を排除するため防衛意思をもつてなされたものと解すべきところ、右一連の暴行々為につき、これを各個別的に切離して観察するときは、特に兇器又はこれに類似するものをもつてする侵害行為のようにその加害の程度において切迫した強度性が見受けられないけれども、当該行為が連続性を有し且つ、被告人が前記畑上に転落後何等の時間的余裕を与えないで執拗に継続されなお侵害の危険性が現存していた点に鑑み、前示加害行為は相当度の切迫性を帯びていたものと認めるのが相当であり、前叙加害行為の態様及び被告人が間近にいる小谷茂より引続き暴行をうける危険性が存していたこと、同現場の地理的状況特に当時降雨のため足場がしめつていたうえ、被告人はツツカケ下駄を履いていたため、長靴を履いていた加害者小谷茂と比べ敏捷な動作のしにくい状態に置かれていたこと等諸般の事情を考慮すれば、右各具体的状況下で被告人が前示小谷茂の暴行を排除して現場を遁れるため防衛意思をもつて同人の鼻部を手拳で一回殴打した所為は、その手段方法及び右加害行為の態様程度と比較考量してみて自己の身体に対する危害を防止するための適正且つ妥当な防禦行為と認めるのが相当である。
してみると、被告人の前示行為は右小谷茂のなした急迫不正の侵害行為に対し自己の身体を防禦するための已むなき措置として正当防衛に該当し、その違法性を阻却されるべき筋合のものであるから、被告人に対しては刑事訴訟法第三百三十六条前段に従い無罪の言渡をなすべきものである。
よつて主文掲記のとおり判決する。
(裁判官 大西一夫)