前橋地方裁判所 昭和47年(わ)227号 判決 1973年8月11日
被告人 杉崎ミサ子
昭二三・二・一一生 無職
主文
被告人を懲役一二年に処する。
未決勾留日数全部を右刑に算入する。
理由
(罪となるべき事実)
一、本件犯行に至る経緯
(一) 被告人の経歴
被告人は、昭和二三年二月一一日父杉崎鉄造・母杉崎フジの三女として神奈川県小田原市久野二一六番地で生まれ、同市内の小中学校を経て、昭和四一年神奈川県立小田原城内高等学校を卒業し、同年横浜国立大学教育学部家政科に入学した。翌四二年同大学の統合問題が起つたのであるが、同大学学生自治会はこれに対応し、各クラスより二名づつ選出された委員をもつて構成する統合対策委員会を設け、学生側の要求を強く打ち出すこととしたところ、被告人は、右委員に選出されることとなり、委員として活動を続けるうち、学生運動に心をひかれるようになり、この思想傾向は、同年一〇月二一日の国際反戦デーにノンセクトとして参加したのを契機として決定的なものとなり、被告人はいわゆる新左翼といわれるもののうちM・L派や四トコ派といわれるグループに属する活動家らとともに三里塚闘争や各種デモに積極的に参加するようになつた。かく活動を重ねるうち被告人は同四三年八月ころ、京浜安保阻止共闘会議(以下京浜安保共闘という。)の前身ともいうべき「反帝平和青年戦線」のメンバー柴野春彦、牧田明三、高橋ふみ子および大槻節子らと知り会うようになり、以後同人らと交際を重ね、同四四年八月ころ、京浜安保共闘が結成されると、これに加盟すると共に、労働の実践を体験するためとして、同県川崎市の新日本電気株式会社に入社するかたわら、京浜安保共闘の下部組織である婦人解放同盟に加入して各種デモ、集会に参加し、同四五年一〇月ころには、右婦人解放同盟と、反戦平和婦人の会とが合体した婦人共闘会議の議長となつてこれを指導するようになつた。
かように被告人の政治活動は積極化する一方であつたのであるが、その行きつくところ被告人の行動は非公然化せざるをえなくなり、遂に被告人は日本共産党革命左派神奈川県委員会(以下革命左派という。)の指導者永田洋子らから地下活動に入るよう指示を受け、昭和四六年二月から四月まで埼玉県越ヶ谷市のアジトに潜伏する生活を送るようになり、さらに同年六月一日ころ、革命左派の人民革命軍の構成員がすでに結集していた東京都西多摩郡奥多摩町留浦きのこ岩一、六八八番地およびその付近所在の山岳ベース(以下小袖ベースという。)に入り、後記のように自らの手で殺害するに至る前記大学の学生であつた寺岡恒一(昭和二三年一月二五日生)と永田洋子ら組織員の承認を得て婚約し、その後山梨県東山梨郡三富村字広瀬一、八二〇番地の山岳ベース(以下塩山ベースという。)、神奈川県足柄上郡山北町中川無番地大滝沢支流マスキ嵐沢の山岳ベース(以下丹沢ベースという。)、静岡県静岡市井川田代地内高瀬地先のベース(以下井川ベースという。)を経て、同年一一月二三日ころ、群馬県北群馬郡伊香保町大字湯中子字蛇ヶ獄九九一番の二群馬県榛名郡有林伊香保経営区四林班一二小班内のベース(以下榛名山ベースという。)に入つて、後記の新党派の結成に参加するに至り、以後被告人は新党派の構成員として同県沼田市上発知町字迦葉山丙三五〇番の一迦葉山国有林一四林班ほ小班の山林内ベース(以下迦葉山ベースという。)、同県碓氷郡松井田町大字五料字中木四、四六〇番中木山国有林一三林班い小班の妙義山中籠沢の洞穴内のベース(以下妙義山ベースという。)などを転々としていたのである。
(二) 新党派(いわゆる連合赤軍)の結成に至る経緯
1 被告人は前述のとおり、世上いわゆる連合赤軍と呼ばれるに至つた新党派の構成員となるのであるが、右組織は、森恒夫を指導者とする共産主義者同盟赤軍派(以下赤軍派という。)と、永田洋子および坂口弘らを幹部とする革命左派とを母胎として結成されるに至つたものである。即ち、革命左派は、永田洋子、坂口弘らを指導者として、昭和四五年一二月には、約二〇名が活動を行つていたが、同四六年二月ころにかけ、その構成員四名が強盗傷人等で逮捕されたため、その余の同派の軍事組織たる人民革命軍の構成員である永田、坂口、寺岡恒一、吉野雅邦、雪野健作、前澤虎義、瀬木政児、中村愛子、加藤能敬、早岐やす子、岩田平治、岡山茂徳、金子みちよ、大槻節子、伊葉和子および被告人らは、いつせいに札幌、越ヶ谷、我孫子の各市、埼玉県大利根町等に潜伏するとともに、軍事訓練を受けるため中華人民共和国へ行くことなどを計画していたのであるが、結局これを放棄し、官憲の目にとまることなく革命準備行動をなすことも、人目につかぬ山中でならば、国内においても、これを充分なしうるとの結論に達し、昭和四六年四月末ころから六月下旬ころにかけ、前記永田、坂口、寺岡、吉野、雪野、前澤、瀬木、加藤、金子、大槻、向山、早岐、目黒滋子および被告人の一四名は、小袖ベースに入り、武力革命達成の手段として、銃による射撃練習などを行つていたが、同年六月一〇日ころ、同ベースで射撃練習中向山茂徳が同ベースから脱走するという事態が発生し、その後も一部構成員がベースから逃亡したりし、また警察に逮捕される者が出たりしたため、その都度山岳ベースが警察に発見逮捕される可能性が生じたとして、同年六月末ころ塩山ベースを、同年七月末ころ丹沢ベースを、同年一〇月末ころ井川ベースを、同年一一月下旬榛名山ベースをそれぞれ設け、次々に移動したのである。
その間、ベース内においては人民革命軍構成員として銃を軸として警察等の権力機関をせん滅するとの課題が主として構成員の幹部らより提起され、被告人らベース生活者は、これを実行するため、各ベース内で射撃、戦闘の訓練を行つたり、警察官を射殺してピストルを奪取するため多数の交番の実態調査を行つていた。また、構成員を真の革命家に育成するためと称し、常時自己批判、相互批判を行つていた。
なお前記した者のほか同年七月ころ小嶋和子が塩山ベースに同年八月から九月にかけ、岩田平治、寺林真喜江、伊藤和子、中村愛子、加藤倫教、加藤元久らが丹沢ベースに、同年一二月山本順一および山本保子が榛名山ベースにそれぞれ入つていた。
2 赤軍派は、森恒夫が最高指導者となり昭和四五年一一月ころには、革命のための軍事組織である同派中央軍を二〇数名で構成しており、東京都などにアジトを設け活動を続けてきたが、昭和四六年二月ころから同年五月ころにかけ、幹部らが相次いで逮捕されたため、組織が弱体化し、オルグ活動により組織の再建、拡大を図るとともに多数の交番を調査してピストル奪取を企図していた。そして、革命達成のためには、人の要素が第一であり、構成員の訓練、育成が急務であつて、そのためには山岳ベースの設置が不可欠であるとして同年一一月、山梨県南巨摩郡早川町大字新倉字木当尾の新倉山にベース(以下新倉ベースという。)を設け、同年一二月二日ころまでに、森恒夫、坂東国男、山田孝、植垣康博、青砥幹夫、進藤隆三郎、山崎順、行方正時および遠山美枝子の合計九名が右ベースに入つた後に前澤虎義、山本保子らにオルグされベース入りすることになつた奥澤修一は、当時、森恒夫のひきいる右赤軍派のシンパであつたにすぎなかつた。
3 赤軍派の森、革命左派の永田らは、昭和四五年一二月ころから接触を始め、同四六年一月には両派合同の集会をもつまでになり、同年四月には、赤軍派は資金に困窮していた革命左派に金銭を提供し、一方革命左派は、赤軍派に銃および実砲を譲り渡すなどして両派は次第に緊密の度合いを深めていつた。同年六月以降森、永田、坂口らはしばしば会合を開いて両派の合同について討論を重ねたのであるが、同年八月ころには、両派は党自体の合同はさておき、とりあえず両派の軍事組織だけでも統一しようとの機運がたかまり、その結果「統一赤軍」の結成がみられたが、これが後に「連合赤軍」と改称されることになつたのである。
さらに赤軍派の森、坂東、山田、植垣、青砥、進藤、山崎、行方、遠山の九名と、革命左派の被告人、永田、坂口、吉野、寺岡、前澤、岩田、金子および大槻の九名は、同年一二月上旬赤軍派の新倉ベースで三日間にわたり合同軍事訓練および討論を行つた。その討論により、銃を軸として権力機関に対するせん滅戦を実行しこれを拡大恒常化し得る新党派を結成することおよび構成員が生命を賭して真の革命戦士になることをあらためて誓いあつた。
その後の同年一二月下旬赤軍派の森、坂東、山田は革命左派の榛名山ベースに赴き、同派の永田、坂口、寺岡、吉野と新党派結成のための路線問題について討論を重ねた結果、基本的合意が成立し、右七名を臨時指導部として決定した。そして同指導部は討論を続ける一方、赤軍派の新倉ベースに残留していた植垣、青砥、進藤、山崎、行方および遠山を榛名山ベースに呼び寄せ昭和四七年一月三日右ベースにおいて、森、永田、坂口、坂東、寺岡、山田および吉野の七名を中央委員(以下C・Cという。)とする新党派の結成を宣言したのである。新党はその正式の名称、綱領を定めるに至らなかつたが、その中核目標は前記のとおり、真の革命戦士による銃を軸とする権力機関のせん滅戦であつたのであり、新党結成時の構成員は、右C・Cの他、赤軍派の植垣、青砥、山崎、行方、革命左派の前澤、岩田、寺林、伊藤、中村、加藤倫教、加藤元久、金子、大槻、山本順一、山本保子および被告人の一六名であつたが、同月二〇日ころ、前示した奥澤修一がこれに加わつた。新党結成後も、ベースからの脱走逃亡者が出ると、警察の発見・逮捕をおそれ、ベースの移動を続けたのであつて、前同月二九日ころには迦葉山ベースに、さらに同年二月一〇日ごろには妙義山ベースに移動するという生活を続けていた。
(三) 榛名山以降の山岳ベースの移動および生活状況
各ベースでは「銃によるせん滅戦」遂行のため、学習・戦闘訓練・弾丸の製作・「総括」要求および討論などを行つていた。日常生活においてはC・Cと他の構成員との関係は、平等を建前とし、すべてのことがらは全員の同意によつて決せられるものとしていたが、実際は構成員の力の相違から結局はC・Cのみが問題を提起し討論を独占する傾きが強く中でも森、永田の両名は強い指導力を持ち他の者はおおむね右両名の主張を正当としてとらえ、結局森、永田を中心とする集団指導体制がとられるに至つていたものであつて、構成員らもこれを是認し右両名を真の革命戦士として尊敬し、その指導のもとにすぐれた革命家たらんとしていた。日常C・Cとくに森・永田はほとんど肉体労働をせず、最高方針の決定・討論の提起・構成員に対する指示などをしていたのであり、またベース内では些少な金でも個人所有は許されず銃等の武器はもとより生活に必要な物資や金銭は、すべて組織の所有であり、山本夫婦の子供である頼良さえも組織の子として扱われていた。
ところで山嶽ベース建設の目的が「銃を軸とした権力機関に対するせん滅戦」を遂行するための革命戦士の育成訓練であつたものであり、そのため各構成員を短期間に集中的勢力により革命戦士として育成することが急務であるとされていたためこれにそつて各構成員が過去においてどんな考えで行動したか、現時点でそれをどのように考えるか、問題点を具体的にどのように止揚していくのか、過去の自己から具体的にどんな方法で革命戦士として変革して行くのか等の諸点を提示し、自己批判相互批判を行なう「総括」と称する方法がベースにおいて頻繁になされるようになつていたのであるが、昭和四六年一二月二三日ころから、森、永田が中心となつて臨時指導部の者が、加藤能敬、小嶋の両名に対しこの「総括」を要求し、過去の行動における失敗・不行跡および欠点等を告白させ、その言動・態度より、日和見主義的・分派的・敗北主義的言動・ブルジヨア的傾向・闘争における熱意の欠如等があるとみなした点に関し、徹底した自己批判を行わせ、革命戦士化しようとしたところ、右両名は森、永田らのみるところでは期待するような「総括」を達成することはもとより、真剣に「総括」しようとする態度すらみられないように受取られる言動をつづけたので、同月二七日未明森、永田ら臨時指導部の者は、加藤能敬、小嶋には真剣に「総括」する態度がみられず、このまま討論を中心とする「総括」を続けるだけでは構成員の革命戦士化の目標は遠のくばかりであるから、まず真剣に「総括」しようとする気持をつくらせるため、このうえは生命をかけての「総括」が必要であるとし、他の構成員とともに「総括」を援助すると称して両名を手拳で多数回にわたり殴打したうえ、さらに両名が脱落逃亡して警察に組織の情報をもらすことにより組織が壊滅することをおそれて両名を緊縛するに至つたのである。さらに同日ころ、臨時指導部の者らは、尾崎に対して同様「総括」を要求し同月二九日夜から同月三〇日夜にかけ、同人を多数回にわたり手拳で強く殴打し、膝蹴りするなどしたうえ、緊縛して榛名山ベース内の柱等につなぎ、酷寒の外気にさらし、その間ほとんど食事を与えなかつたため同月三一日夜ころ、右尾崎は死亡した。尾崎の死亡後、臨時指導部の者は、全体集会を開き森・永田から構成員に対し尾崎の死を知らせ、尾崎は革命戦士になることを放棄し、敗北した結果死んだのであると説明して尾崎の死亡を正当化し、さらに革命戦士となるための「総括」は命がけのものであつて、「総括」できなければ死ぬ以外に途はなく、総括を達成するためには仮借なき暴力が必要であつてこれこそ同志の総括する者への援助に外ならないと説き、他の構成員もこれを了承し、ここに援助と称する暴力による「総括」が組織的に是認され、その総括ができない者は組織を売る可能性があり、その可能性があるものは、逃亡するおそれがあるものとしてこれらを緊縛して苛烈なる暴行を加え食事も与えず酷寒の外気にさらすもまたやむなしとし、その結果右のような総括が要求された場合にはそのものの生命に危険が生ずることは全員の予見するところとなつたのであり、さらに小嶋、加藤能敬が総括を受けて死亡するに至つて、右予見はますます確固たるものになつて行つたのである。かくて被告人の所属するいわゆる連合赤軍は、榛名山および迦葉山等に山林を伐採してベースを構え武器弾薬を貯えて武力革命の拠点とすべく準備し、その間革命達成の妨げとなると判断した同志を粛清するためあるいは総括に付するものとしあるいは死刑に処するものとして短期間に次々と残虐なる暴行を加えて殺害し、その死体を山中に遺棄する等の犯行をかさねたものである。
すなわち
二、本件犯行
被告人は、
第一、前記小袖ベースから逃亡した向山茂徳(昭和二六年二月八日生)および昭和四六年七月初旬ころ名古屋方面へ交番調査に赴いた際逃亡した早岐やす子両名の処置につき、塩山ベースにおいて永田の提案のもとに吉野、前澤、瀬木、加藤能敬、金子らと協議の結果、いつたんは両名の所在を突きとめて、山岳ベースへ連れ戻し、小屋を作つて監禁することを決めたのであるが、その後七月下旬ころ、丹沢ベースにおいて、永田、坂口、寺岡、吉野、瀬木らは、右両名の処置について再度協議の結果向山、早岐の両名を連れ戻したとしても、これを監禁するには人手を要するし、両名には真の革命戦士となりうる可能性がなく、むしろ同人らは裏切者で警察に組織の内容や活動を通報する危険があることなどの理由から組織を守るためこの際両名を殺害するにしかずと考えを変えたものの、ことの重大性から、右計画はその協議者以外の者には秘匿され、従つて被告人はそのことを知らずなお右両名を発見のうえベースに連れ戻そうと苦心していたが、同年八月八日ころ寺岡から向山を小田急沿線のアパートに誘い出すことになつているから明日午後一時までに同人に飲ませるため睡眠薬を用意して同線成城学園前まで来れとの命を受け金子と共に上京し、睡眠薬や飲食物を買い求めて同所に至り同月一〇日午後六時ころ、寺岡の指示で向山がとらえられている東京都小平市回田町一三六番地所在回田荘二階F号室に赴いたところ同所では既に向山が大槻と座つて話をしながらウイスキーを飲んでいたので、被告人らは大槻と共に、向山に右睡眠薬を飲ませて眠らせようとしたが、同人がこの企てにのらず、時が過ぎるうち、永田よりその状況の報告を求められ同女の命により、被告人は同日午後一〇時二〇分ごろ右アパート付近の氷川神社で吉野および瀬木と会い、さらに右状況の詳細を報告して一足先に同室に戻り、間もなく吉野、瀬木の両名も部屋に入つて来たが、その姿を見て向山は大いに驚き立ち上がつて帰ろうとしたが瀬木においてこれを引きとめ、問答の末同日午後一一時ころ、吉野において瀬木に対し「ちよつと話があるから外に出よう。」と声をかけて両名立ち上りざま隙をとらえて吉野は向山の背後から中腰になつて自らの右腕を向山の首にかけて後へ引き倒すように引つ張り、瀬木は向山の腹を手拳で強打し、かつ足蹴にした。これを見た被告人は思いがけぬ吉野らの行動に一時唖然としていたが、事を急ぐ瀬木より向山の足部を押えろとせかされためらう暇もなく金子が向山の両足に抱きついてその足を押えるや被告人もまた瀬木から「タオルを持つて来い。」といわれて即座に同室本棚の上のタオルかけよりタオル一本をとつて瀬木に渡したところ、瀬木はそのタオルをたちまち向山の首に一巻きしたあとその片方を同人が掴み、他方の端を被告人の前に突き出して「これを持て。」とうながされた。ここに至つて被告人もはじめて吉野、瀬木両名が向山を殺害する意図を固めていることを察知し、一瞬躊躇したものの、向山に対し、ことここにまで及んだ以上、このまま同人を生かしておいては、いずれ同人は逃亡し組織の内情を権力機関に洩らすことになることは明らかであるから、この際組織防衛のためには吉野、瀬木らの意図どおり同人を殺害するにしかずと咄嗟に決意し、ここに吉野、瀬木らと共謀のうえ両手で右タオルを掴んで引き向山の首を締めつけ、よつて間もなく同所において、同人を頸部絞扼にもとずく窒息により死亡させ、もつて殺害し、
第二、森、永田、坂口、遠山、行方、寺岡、植垣、前澤、岩田、青砥、寺林、伊藤、中村、加藤倫教、加藤元久および山本保子と共謀のうえ、昭和四七年一月三日未明ころ、榛名山ベース付近において、総括にかけられるなどして死亡した者の死体が警察に発見され、被害者の身元および犯行が発覚し、ひいては新党派の組織が明るみにでて構成員が逮捕されるに至ることなどをおそれ、同月一日ころ同ベース床下で死亡した小嶋和子(昭和二四年一一月一二日生)の死体を遺棄しようと企て、右の者らが見守るなかを遠山および行方が同人の死体を同ベース東南約一〇〇メートルの雑木林内に運び、同所において、スコツプで穴を掘り、遠山が死体の着衣を剥ぎ取つて、死体をその穴に投げ入れ、岩田、伊藤、中村、加藤倫教、加藤元久、山本保子および被告人らが、各々スコツプで土をかぶせたり、付近からかき集めた木の葉を穴を埋めた土の上に撒くなどして埋没し、もつて死体を遺棄し
第三、(1) 昭和四六年一二月末日頃に至つて新党派においてC・Cの地位にあり、また被告人と夫婦の間柄にもあつた寺岡恒一に対してにわかに永田洋子らの批判がたかまり同月二九日全体討論がなされその席で被告人らは永田らから寺岡との関係について総括を求められ永田の意向で離婚を宣言するに至つたが、寺岡に対する批判はなおやまず森、永田、坂口、山田、吉野らが、昭和四七年一月一六日ころ、榛名山ベースにおいて、協議の結果、寺岡は、小嶋の死体を埋没する際全員に対し死体を殴打するように指示し自らも殴打したりしたが、これは本来の「総括」要求とまつたく関係のない行為であつて、革命戦士の育成という目的からはずれた行動に走つており、その理論的武装という面でも、深刻な自己総括を経ないで、安易に赤軍派の理論に同調し、さらに、男女の基本的同質、平等を目指す組織にいながら、その言動には、例えばさきに遠山美枝子に総括を求め、いわゆる暴力的援助として同女を緊縛した際なんの必要もないのに、いかがわしい言葉を発しつつ、その膝の間に棒切れをさし入れたりした一事をとつても明らかなように、女性に対し、いわれなくべつ視の態度をあらわすなど、組織の目指すところに背馳する言動が多く組織の指導者たる地位にありながら、むしろ組織にとつてマイナスとなる結果を招いているうえ、真岡事件など過去の闘争に際しては常に動揺して悲観的な見とおしを立て、自ら方針を提起しようとしながつたなど指導者としての適格を疑われてもやむえないようなことがあつたのに、従前の活動における自己の失敗を隠してC・C内で自己の地位を向上させることにのみ心を労していることなどの点を総合し、同人は組織を私物化し組織を裏切ろうとしたものであるから「総括」の可能性はほとんどなく、同人において右諸点について明確適切な回答をなさないときは、直ちに同人を死に至らせる「死刑」とすることを決め、前同月一七日夕刻日光方面へベース適地の調査に寺岡とともに赴いていた坂東の帰着をまつて、同人の賛同を得たうえ、翌一八日未明ころ、同ベース内において、森、永田、坂口、坂東、山田、吉野のC・Cが被告人のほか、植垣、寺林、青砥、中村、加藤倫教、加藤元久、山本保子、金子、大槻、山崎および山本順一らを集めたうえ、その前に寺岡を引き出して組織に対する裏切者であるとして同人の追及を開始するや、被告人は、右追及開始の状況からして、少なくとも寺岡は暴力的援助をともなう「総括」を求められ、結局死亡するに至ることになるやも知れぬことを悟りつつ、その結果を認容のうえ、右追及に加わり、まず森、坂東、坂口、吉野、植垣および青砥らにおいて、こもごも寺岡の顔面を手拳で殴打したうえ、森が手製ナイフで寺岡の大腿部を突き刺し、ついで坂東が寺岡の左上腕部をナイフで突き刺し、同人に警察との関係を追及するのを、前記その場に居合わせた者と共に見守り、寺岡が警察との関係は否定しつづけたものの、永田、坂口が逮捕されれば党は自分の思うままになり私物化できると考えた旨の言や、あるいは日光方面に赴いた際同行者を殺害のうえ逃亡したく思つた旨の告白を耳にし、これを理由に、森および永田より、かねてC・C間で協議されていたところに則つて、居合わせた全員に対して寺岡を直ちに死に至らしめんことが提案されるに至つて、被告人も居合わせたその余の者と共にこれに「異議なし。」と答えて賛成しここに右寺岡を殺害すべく共謀のうえ、吉野の提案を容れ、アイスピツクで心臓を刺すこととし、坂口、加藤倫教、加藤元久が右寺岡の身体をおさえ、森、吉野、植垣、青砥がそれぞれアイスピツクでその左胸部を一〇回位突き刺し、さらに後頸部を同様アイスピツクで数回突き刺した。この様子を目前にした被告人もいまだ愛情を失つていない寺岡の断末魔の苦しみを見るにたえかね咄嗟にアイスピツクをとつてその後頸部に突き刺すなどしたが寺岡は容易に死亡せず、これをみてとつた植垣がさらに両手でその頸部を扼し、ついで被告人、坂口、吉野、寺林、加藤元久、大槻および山本順一らがサラシ布およびロープを頸部に巻きつけて、その両端を引つぱつて絞める所為に及んだため、間もなく、同所において、右寺岡を左胸部刺創に基づく失血および頸部圧迫に基づく窒息により死亡するに至らしめて殺害し、
(2) 森、永田、坂口、坂東、吉野、植垣、寺林、山崎および山本順一と共謀のうえ、右寺岡の死体が警察に発見され、被害者の身元および犯行が発覚しひいては新党派の組織が明るみにでて構成員が逮捕されるに至ることをおそれ右死体を遺棄しようと企て、同日朝ころ、被告人、寺林、山崎および山本順一が寺岡の死体を同ベース内から床下に運び、その着衣を剥ぎ取り全裸にしたうえ、翌一九日夜ころ、坂口、坂東、吉野、植垣および山本順一の五名が寺岡の死体を手製担架に縛りつけ、群馬県群馬郡榛名町大字榛名山甲八四五番地の道路まで運び上げ、同所から山本順一運転の自動車でこれを同郡倉淵村大字中尾十二塚二、八五四番の一先道路まで運び、翌二〇日未明ころ右坂口ら五名で同所付近の杉林内に穴を掘り、寺岡の死体をその穴に入れ土をかぶせて埋没し、もつて死体を遺棄し、
第四、新党派構成員である山本順一(昭和一八年八月二四日生)に対し、同人を含め、被告人のほか、坂口、坂東、吉野、植垣、前澤、青砥、伊藤、中村、加藤倫教および加藤元久らにおいて、迦葉山ベース建設作業中、そのための仮泊場所である群馬県沼田市上発知町迦葉山丙三五〇番の一迦葉山国有林一五林班い小班の二先林道脇に設置したテント内に集合した昭和四七年一月二五日夜なされた全体討論において、右山本順一の討論や決意表明に明確でない態度を示すところがあり、かつ、自動車運転中事故が多く闘争に主体的に取組もうとしていないと認められるなど、その任務を十分果さないでいながら幹部に対しては批判的な言動があつたうえ、無断で妻子を榛名山ベースに連れて来るなど、革命戦士として、客観的な状勢をみきわめ、主体的に何にとりくむべきかを把握する努力に欠けるなどの点を理由に坂口、坂東らから「総括」が要求されたにかかわらず、山本順一は、ときにC・Cを批判するかと思えば、ときにはC・Cの指導に無条件で服従する旨答えるなど首尾一貫しない言動を示したため、坂口において、同人が榛名山ベースに赴いて、森、永田よりうけた指示にもとづき短期間で全力を集中して総括をさせるためと、むしろ総括が数多くの人になされるに至つて後の段階では、表立つて意識されるところでも主たる目的となつた組織からの脱落逃亡の危険防止のため右山本順一を殴打緊縛すべきであるとして、まずC・Cである坂東、吉野にその意を通じ、同人らの賛同をえたうえで、前同月二六日夜被告人のほか、植垣、前澤、寺林、伊藤、中村、加藤倫教、加藤元久および奥澤をテントに集め山本順一を正座させてその囲りを他の構成員で取り囲ませておいて、坂口自らまず山本に「総括」ができたか否か詰問し、同人が「断固やる。」とか「自分が情けない。」などと断片的な言葉を発するのみで確固たる決意表明をなしえずにいるのをみてとり、坂東、吉野と暗黙のうちに意思相通じて、このうえは山本に苛烈な暴行を加えて革命戦士化をうながすほかなく、右暴行によつて、死に至すことあるもやむなしと決意して、それぞれ手拳で正座している同人の顔面腹部を数十回に渡つて激しく殴打し始めるのを、被告人においても認めるに至るや、その余の居合わせた構成員と暗黙のうちに右暴行によつて死に至ることもやむなしと相互に意思相通じ、坂口の指示に従つて、他の構成員らとともに、こもごも「どうなんだ。」「何故黙つているんだ。」などと詰問しつつ手拳などで山本の顔面、腹部をそれぞれ数回づつ殴打した後逆えび型に緊縛し、雪上にシート一枚のみのテント内に放置し、さらに同月二九日夜ころ、その両手足を緊縛されたまま、寝袋に押し入れられ、迦葉山ベースまで坂口、植垣らの手によつて運ばれてきた右山本を、被告人において坂東、吉野、伊藤らとともに同ベース床下の柱にロープでその身体を縛りつけ、同月三〇日午前一時ころまで、被告人らの監視のもとに、ことさら酷寒の外気中にさらし続けるなどし、その間前後約四日間を通じて同人に食事を与えず、よつて、そのころ、同ベース床下において、前記暴行により妻保子の呼びかけにも、ただ涙を流し、頭をすりつける仕種が精いつぱいの体力という有様にまで衰弱させた挙句、遂に右山本を妻保子、子頼良をベースに残したまま凍死するに至らしめてこれを殺害し、
第五、新党派構成員である並木こと金子みちよ(昭和二三年二月七日生)に対し、同女が吉野の子供をみごもつていたことから、時にそれを利用して吉野を通じて新党派内における自己の地位を確立しようとし、時に、吉野との離別を口にして吉野の活動を妨げたことのあること、会計担当の立場を利用して組織の主婦きどりで自分勝手な行動をとる一方構成員に口やかましく指示し、しかも相手によつてその態度を変えること、森に色目をつかうような態度をとつたこと、尾崎に「総括」を求めた際、尾崎と坂口を格闘させたことにつき、そのようなC・Cのやり方は無意味である旨発言したりしてC・Cの方針を批判するが、それに替わる提案を全くしない無責任な態度があることなどを問題とされ、これら諸点を「総括」すべきものとされていたのに、同人にはまじめに「総括」しようとする姿勢がない旨森、永田によつて榛名山ベース内において判断が下され、昭和四七年一月二六日、真剣な命がけの「総括」をさせるため緊縛することとされて、右ベース内に居あわせた山本保子、寺林の両名がその旨指示を受け、両名とも暴力的な総括を受ければ死亡するに至ることもあるを知りつつ真の革命戦士を組織の構成員にもつためにはかかる結果となることもやむえないとして、これに応じ、永田と三名して意思相通じ、金子の両手足を縛り、さらに森がその両足首を縛つたうえ、四名してベース内柱に縛りつけたことを、同日坂口を通じて、当時ベース建設作業中であつた迦葉山ベース付近において聞知するや、前同様死亡するに至ることもあるを知りつつ、かかる結果も革命戦士育成の大事の前にはやむえないものとして、同様の意思をもつ坂東、吉野、植垣、前澤、伊藤、中村、加藤倫教および加藤元久らと意思相通じて、この措置を是認し、金子に対し命がけの「総括」を暴力的な援助をもつて、死を賭して求めることにし、そのあと前同月二八日、永田が坂東、坂口にはかつてとり決めた、金子の逃亡を断念させるために森、永田、坂口、坂東そして青砥、奥澤、山本保子による手拳あるいはだ円状の針金をもつての殴打も当然のこととして是認し、同日夜から翌二九日未明にかけて、両手足を緊縛したままの同女が、森、坂口、坂東、奥澤、山本保子の手によつて寝袋に押し入れられて迦葉山ベースに運ばれてくるや、森、永田、坂口、坂東、吉野、植垣、青砥、前澤、伊藤、中村、寺林、奥澤、山本保子、加藤倫教および加藤元久と共に同月二九日夜、前同ベース床下の柱にロープでその身体を縛りつけて、ことさら酷寒の外気中にさらし続け、あるいは同ベース内の柱等にその身体をロープで縛りつけておくなどし、同年二月四日迄の間ほとんど食事を与えず、よつて同年二月四日朝ころ、同ベース内において、前記暴行等により衰弱した右金子を凍死するに至らしめて殺害し、
第六 、(1) 新党派において、C・Cの地位にあつた山田孝(昭和一九年五月四日生)に対し、夙に理論に走りこれをことさら弄び、革命に対する実践的な意欲に欠けるところがあり、これが、例えば山岳ベースで各人に武器として与えられていたナイフを無責任に取扱い、これを置き忘れたりした行動とか、さきに加藤能敬らの死体を倉淵村に埋没に赴いた際、官憲の目を異常な迄におそれ、仲間の行動を過度におさえ、作業能率を低下させることになつた所為などに顕著に表われたとして非難の声があつたところ、昭和四七年一月二九日、右山田上京不在中の迦葉山ベースにおいて、C・Cである森、永田、坂口、坂東、吉野らによつて、まづ山田の非実践性と官僚性が問題とされ、同月三一日ベースに立帰つた山田に向つて、右C・Cら五名において、同人の問題点の表面化したところとして、全員が一丸となつて革命戦士化の努力を命がけで行なつている時点である前同月二四日に奥澤を連れて公衆浴場に入浴したりするのは、警察に組織の存在、活動を知られる端緒をつくるものであるとの判断のもとに、入浴の点を、その他シンパよりの自動車入手に努力せずこれを回避しようとしたことや、かつて赤軍派時代自宅から運動に参加するというブルジヨア的行動をとつたことなどについて追求が開始されるに至つたのであるが、山田はこれに対し、その問題の所在点さえ把握していないと追求者をして感じさせる程度の回答しかなさず、奥澤のような革命戦士として未熱な者を入浴させたことのみを誤りとする官僚的な態度を示すなどしたため、遂に同年二月二日に至つて、前記C・Cら五名によつて、他の構成員による監視のもと実践化のため薪拾いの労働をさせて「総括」を求めることと定められ、直ちに、森の口から、被告人は植垣、前澤、寺林、青砥、伊藤、中村、加藤倫教、加藤元久、奥澤および山本保子らとともに、その旨の説明を受け、これを了解して山田の「総括」の監視に当ることになつたのであるが、しかし、右監視下で労働する山田の態度に真摯なものが欠け、C・Cの監視している時としからざる時とでは、熱中度が異るとみたC・Cら五名は、結局山田も、これまでの他の者と同様、命がけで「総括」を求めるほかなく、そのためには殴打、緊縛を必要とし、このため同人を死に至すことがあるもやむえないものと、相互に意思相通じて決意するに至り、これに従い同月三日夜、右C・C五名は、山田をベース床に正座させたうえ、居合わせた植垣、前澤、寺林、伊藤、中村、加藤倫教、加藤元久および山本保子らをまわりに呼び寄せ、C・Cらと共に山田をとりかこませて、まず森が山田の態度を罵倒しつつ顔面を手拳で殴打し、続いて他のC・Cも永田を除き殴打に加わるに至つたのであり、かかる状況をみたその余の構成員も、山田の「総括」には暴力的な援助を必要とすること、そして、これに伴ない同人を死に至すこともありうるが、革命戦士団育成のためには、それもやむえないものと、それぞれ了解し、暗黙のうちに、相互にその意思相通じ、まず植垣、寺林、中村などは手拳で山田の顔を数回ずつ殴打するに至り、またこのころ榛名山ベースに赴いて、青砥、奥澤とともにその場に戻つてきた被告人も、この有様を目撃し、前記構成員と同様の意図を懐いて暗黙のうちに意思相通じてこれに加わり、坂東、吉野、植垣、前澤、青砥、寺林および加藤元久らの手で逆えび型に縛りあげられ同ベースの丸太敷の床にうつぶせにされた山田を中村と共に監視し、その後同ベース床下の柱や同ベース内の土間に緊縛された後、同月七日夜ころ、寝袋に入れられて、ベースの移動にともない迦葉山ベースより群馬県碓氷郡松井田町大字五料字中木四、四六〇番中木山国有林五林班い小班地内の林道脇空地に仮設置したテント内にそのまま約一日余にわたつて閉じ込められるという経過を辿つた右山田を被告人らと意思相通じた坂口、坂東、吉野、植垣および青砥らがさらに、同月一〇日未明ころ、妙義山ベース前まで手製担架で運んだうえ、同ベース前に設置したテント内に同月一二日未明までそのまま放置しておくに至らしめ、これらの間一度は解縛したものの前後約一〇日間を通じて常時構成員の監視下におき食事をほとんど与えず、よつてそのころ、右テント内において、前記暴行等により衰弱した同人を凍死するに至らしめて殺害し
(2) 坂口、寺林、青砥、奥澤、吉野および植垣と共謀のうえ、、同月一五日夜ころ右山田の死体が警察に発見され、被害者の身元および犯行が発覚し、ひいては新党派の組織が明るみにでて構成員が逮捕されるに至ることをおそれ、右死体を遺棄しようと企て、坂口、寺林および青砥らとともに妙義山ベース前において右山田の死体から登山ナイフを用いて着衣を剥ぎ取つて全裸にしたうえ、前記中木山国有林六林班ち小班先林道まで運び降ろし、奥澤運転の自動車で同県甘楽郡下仁田町大字西野牧字上野出口一五、二六四番地の三道路まで運び翌一六日未明ころにかけて奥澤、吉野、植垣および青砥の四名で同所付近の杉林内に所持して来たスコツプで穴を掘り山田の死体を埋没し、もつて死体を遺棄し、
第七、森、永田、坂口、坂東、吉野、山田、植垣、青砥、前澤、寺林、中村、奥澤、伊藤、山本順一、山本保子、加藤倫教および加藤元久らと共謀のうえ、同年一月二四日ころから同年二月上旬ころまでの間、迦葉山ベース建設のための木材に使用するため、保安林の区域内である同県沼田市大字上発知字迦葉山国有林第一四林班ほ小班において、その産物である沼田営林署長蒲沼満管理にかかる杉九二本、檜五本およびイタヤ楓五本の合計一〇二本の立木(価格約六七、五七六円相当)を伐採して窃取し、
第八、前記新党派が共産主義革命のため銃を軸として警察等と権力機関とのせん滅戦を遂行するための武器を所持していることを認識し、森恒夫、永田洋子、坂口弘、坂東国男、寺岡恒一、山田孝、吉野雅邦、植垣康博、前澤虎義、岩田平治、寺林真喜江、青砥幹夫、伊藤和子、中村愛子、加藤倫教、加藤元久、金子みちよ、大槻節子、山崎順、行方正時、山本順一および山本保子と暗黙のうえ意思を相通じて
(1) 治安を妨げ、かつ人の身体財産を害する目的をもつて、昭和四七年一月初旬ころから同年二月六日ころまでの間、前記榛名山ベース内および前記迦葉山ベース内において、爆発物である手製爆弾約八個、ダイナマイト二〇個並びにその使用に供すべき導火線四本、電気雷管一一六個および工業用雷管三個の器具を
(2) 法定の除外事由がないのに、右期間右記載の各場所において
イ 黒色火薬約八キログラム、散弾銃用実包約八〇〇発、ライフル用実包三〇数発およびけん銃用実包約五〇発を
ロ ライフル銃一丁、けん銃一丁および散弾銃九丁を
それぞれ新党派構成員の共有として共同して隠匿所持し
たものである。
(証拠の標目)(略)
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は、判示二の第三(1)、第四、第五および第六(1)の各殺人の所為につき、当時被告人はいわゆる連合赤軍の私設軍隊の兵士として、山岳ベースにあり、森・永田ら警察より指名手配を受け官憲による発見・逮捕を極度におそれ、警察への通謀を何よりも敵視する幹部のもとにあつて、幹部の指示命令に従順ならざる態度を示したり、組織より脱走し警察に通謀したりする気配をみせることは、直ちに、自らが「総括」にかかり一命を失うに至ることを意味することになり、ただ幹部の命ずるまま判示各殺人行為に加わるほか、すべなく、当時の被告人には他の行為にでうる期待可能性はなく、その責任は阻却されると主張するので、これにつき次に判断する。
前掲証拠(略)とくに被告人の当公判廷における供述、被告人の司法警察員に対する供述調書、被告人の検察官に対する昭和四七年三月三一日付、同年四月二六日付、同年五月一日付、同年四月二日付、同月七日付、同月一三日付、同月二一日付、同月二二日付、同年五月七日付、同月四日付各供述調書謄本、永田洋子の同年五月八日付供述調書謄本、森恒夫の検察官に対する昭和四七年四月二六日付同年五月三日付および同月六日付、各供述調書謄本を綜合すると次のような事実が認められる。
被告人は、日本人民の解放を切願し、共産主義革命の達成を目指し、すでにベース入りする以前から、永田らの指導のもとに革命には人の問題が第一であつて、ブルジヨア意識を払拭し、革命実現のためには何物をも捨ててかえりみず、一生を革命にささげて悔いのない真の革命家の手によらなければ、革命は実現しないものであるとの信条をいだくにいたり、ベース入りして後は、この信条をますます確固たるものとし、山岳ベースをもつてかかる真の革命家育成のため不可欠の場としてとらえ、自らもかかる真の革命家たらんとし、いまだいわゆる暴力的援助による「総括」が被告人にふりかかるものとは思えない初期の段階で既に、組織から夫婦として認められるに至つていた寺岡恒一に対し永田らの判示批判をたやすく受け入れ寺岡はブルジヨア意識を捨てきれないでいるものであつて自己の革命家たらんとするに支障となるものとして、ためらうことなく離別を宣言までして、革命運動に邁進していたのであり、革命への真摯な努力を怠つているとみられた組織員に対しては、自分に比べて真剣味の足りない態度をとつているものとして、これに強い態度で、いわゆる命がけの「総括」を求めるのも一面当然なこととして受け入れ、かかる「総括」をしきれぬ者は敗北者であり、脱落すれば、官憲に通謀される危険もあり、組織が、革命の拠点とする山岳ベースも発見され、組織は壊滅に至るおそれがあるものとし、「総括」を達成しえぬ者は同志の暴力的援助のため敗北死するもまたやむをえないことと思料するに至つていたのである。夫であつた寺岡恒一の「死刑」に当つても、被告人は、当公判廷(第六回)において幹部である永田の目を意識し、消極的な態度をとることによつて、自己に責任が及ぶおそれのあることを危惧し、自ら手を下して同人を死に追いやつたとも述べているが、さらにその気持は複雑で別れたとはいえなお愛情を残す寺岡の断末魔の苦しみを軽減せんとし、手を下したとも切々と訴えているのである。また、同人を「死刑」に処するに当つては、被告人は他の構成員とまつたく同じように、幹部である森より提案を受けるや、ただちにこれに賛同しており、これに対する疑義・反駁をなしうる機会も一応は与えられていると認められるのである。また、さきに認定したように、被告人は寺岡との離別を宣言し、組織より容認されており、その処刑に当つては、組織より他の構成員と異別な取扱いをまつたく受けていないところからみて、被告人は当時寺岡に関しても、他の被総括者に対するとおおむね異ならない態度でことに当ることが客観的にも、主観的にもできえたものといえる。彼此勘案すれば、被告人は、寺岡に対しても、他の構成員に対すると同じく、真の革命家たることに敗北した者として、死亡するに至るもやむをえない者として私情をすててあえて処刑に当つたとみるべきものであり、同人に対する行為も、他の被総括者に対するそれと異質なものとは言い難いのである。そして、被告人の右のような敗北者と認められたものに対する措置については、森・永田ら幹部あるいは構成員らとの討論が経由されているのであつて、被告人がかかる際疑問ないし反論を提出する機会も必ずしも与えられていなかつたわけではなく、さらにまたベースからの脱走もこれまた望みえないことではなく、現に脱走者はかなり初期の段階より最後まであとをたたなかつたのである。
以上のとおりであるとすれば、被告人には暴力的な援助をともなう「総括」に従うほかなく、そのほかの行動をとりうる余地はまつたくなかつたと速断することはできないのであつて、被告人としては夫寺岡恒一への愛情もあつてベース入りをし、そこで行なわれる「総括」の残忍さに迷いをいだきつつ、自己へ「総括」の及ぶことをおそれ、幹部の指示に従つていたという面が存したことももちろん否定することはできないけれども、しかし、被告人は、ただそれのみで判示の前掲各殺人行為を犯していたというのではなく、他面、共産主義革命の正しさを信じ、これが実現のため不可欠な真の革命家の育成のためには命がけの「総括」は何んとしても経由しなければならないところであり、それに失敗した者には、死もやむをえないところであり、すでに組織防衛のため行つた向山茂徳殺害事件に加わつていた被告人としては、かかる結果も真の革命家の集団である組織を守るために、大事の前の小事として意識され、ベースにとどまりつつ、本件殺人事件に加わつたものとみられる。従つて、被告人には右各行為時そのほかの行為にでる余地はまつたくなかつたとし、期待可能性がなかつたものとする弁護人の主張は採用することができないのである。
(法令の適用)
被告人の判示二の第一、同第三の1、同第四、同第五、および同第六の1の各所為はいずれも刑法六〇条、一九九条に、同第二同第三の2、および同第六の2の各所為はいずれも刑法六〇条、一九〇条に、同第七の所為は刑法六〇条、森林法一九八条に、同第八の1の所為は刑法六〇条爆発物取締罰則三条に、同第八の2のイの所為は刑法六〇条火薬類取締法五九条二号、二一条に、同第八の2のロの所為は刑法六〇条銃砲刀剣類所持等取締法三一条の二第一号、三条一項に、それぞれ該当し、判示第八の2のイおよびロの所為は一個の行為で二個の罪名にふれる場合であるから刑法五四条一項前段、一〇条により重い判示第八の2のロの銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪の刑で処断することとし、判示二の第一、同第三の1、同第四、同第五および同第六の1の各罪についていずれも有期懲役刑を、同第七、同第八の1、同第八の2の各罪についてはいずれも懲役刑をそれぞれ選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪なので、同法四七条本文、一〇条により最も犯情の重い判示二の第三の1の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一二年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数全部を右の刑に算入することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項但書により被告人には負担させないこととする。
よつて主文のとおり判決する。