千葉地方裁判所 平成4年(行ウ)9号 判決 1996年7月15日
千葉市稲毛区穴川三丁目八番一六号
原告
吉田代一郎
千葉市中央区祐光一丁目一番一号
被告
千葉東税務署長 小野寺宗隆
右指定代理人
竹村彰
同
吉越満男
同
佐久間光男
同
田邉俊一
同
河村康之
同
戸田信之
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一原告の求めた裁判
被告が、被相続人吉田代次郎(昭和六二年二月九日相続開始)に係る原告の相続税につき、平成元年六月三〇日付けでした更正及び過少申告加算税賦課決定は、いずれもこれを取り消す。
第二事案の概要
一 争いのない事実
1 本件相続
原告の父吉田代次郎(以下「代次郎」という。)は昭和六二年二月九日に死亡したが、原告以外の法定相続人が相続放棄をしたため、代次郎の権利義務はすべて長男である原告が相続した。
2 本件課税処分の経緯
本件課税処分の経緯は、別紙一「本件課税処分等の経緯」記載のとおりである。
二 本件課税処分の根拠に関する当事者の基本的主張及び争点
1 本件相続により原告が所得した財産、債務、葬式費用及び課税価格の内訳及びその価額に関する原被告双方の主張は、別紙二「課税価格等の明細表」の「申告額」及び「被告主張額」欄にそれぞれ記載のとおりである。
2 すなわち、本件訴訟の争点は、「課税価格等の明細表」の番号5ないし11の貸付信託受益証券(以下「本件貸付信託」という。)及び13ないし24の割引興業債券(以下「本件ワリコー」という。)が本件相続財産に含まれるか否かの点である。
本件貸付信託及びワリコーについて、被告はいずれも代次郎の相続財産であると主張するのに対し、原告は原告の固有財産であると主張するものである。
三 争点に関する当事者の主張
1 被告の主張
以下の点からみて、本件貸付信託及びワリコーは原告の固有財産ではなく、代次郎の相続財産を構成するものである。
(一) 本件貸付信託及びワリコーの取得原資
代次郎は、昭和一〇年に家督相続により生前貸金業を営んでいた父の資産を承継取得するとともに、昭和一〇年代から二〇年代にかけて原告あるいは家族名義で不動産を購入することにより資産を形成し、取得した不動産からの地代、家賃収入を得ていた上、右資産を貯蓄性の保険に加入することなどにより増加させ、さらに千葉銀行に株式を取得するなどして、多額の資産を形成していた。
また、代次郎は、昭和三〇年代に千葉県建設業協会の役員を務めるなど、千葉県建設業界における実力者であったが、建設工事の受注業者を決定する入札等に際して業者間の調整を取り仕切ったり、建設業者に対する金銭貸付けをすることにより、多額の収入を得ていた。
これらの点からみて、代次郎は後に本件貸付信託及びワリコーを購入するために必要な相当額の資金を保有していたものである。
(二) 本件貸付信託及びワリコーの購入及び運用状況
代次郎は、(一)で述べた収入等によって形成した資金を仮名の普通預金口座に入金して蓄積し、仮名の定期預金に預け替えるなどして運用していたが、昭和四〇年ころから安田信託銀行(以下「安田信託」という。)千葉支店において貸付信託を購入して順次買増しを行い、償還・購入を繰り返し、また同五二年ころからは右資金を安田信託千葉支店及び千葉銀行中央支店の代次郎名義の預金口座に入金してワリコーの購入に充てるようになった。
代次郎は、これら貸付信託及びワリコーの新規購入や乗換え(更新)の手続を千葉市春日町の代次郎宅や安田信託千葉支店で行い、安田信託千葉支店内に代次郎が借りた同人名義の貸金庫に本件貸付信託及びワリコーの証券を保管し、右貸金庫の鍵は常時代次郎が所持していた。
そして、本件貸付信託及びワリコーの収益金及び償還差益は、代次郎が現金で受領し、貸付信託又はワリコーの償還ごとに、安田信託千葉支店内あるいは代次郎宅において、元本の書換え又は証券の買増しに充当し、新たにワリコーの購入がされないときには、安田信託千葉支店あるいは千葉銀行中央支店の代次郎名義の普通預金口座に入金した。
したがって、本件貸付信託及びワリコーは代次郎が自己の責任と計算において購入し、管理運用していたものというべきである。
(三) 原告名義の資産の管理運用
原告は、後記原告の主張(一)のように、原告所有名義の不動産の一部を原告が売却して本件貸付信託及びワリコーの取得原資に充てたものであると主張するが、原告名義の不動産は、その多くが原告が未成年の時期に取得されており、これらは代次郎が自己の出捐をもって取得したものである。
また、原告は、大学を中退した後は、代次郎宅に居住したことはなく、代次郎が死亡する直前を除いては、代次郎宅を訪問したこともないのであるから、原告が本件貸付信託及びワリコー含む資産の運用を代次郎に委ねたとは考えられない。
(四) なお、原告は、後記原告の主張(二)において、代次郎の内妻の中沢幸子が代次郎から生前贈与を受けたと主張する本件ワリコーの一部一億六〇〇〇万円あるいは本件相続開始後本件ワリコーの一部解約等により中沢が取得した金員を本件相続における課税価格から控除すべきであると主張する。
しかし、中沢が代次郎から生前贈与を受けたと主張する右ワリコーは、他のワリコーと一体となって管理運用されており、本件ワリコーの運用が代次郎によって行われていたこと及びワリコーが無記名証券であることからすると、生前贈与があったものとは認められず、右ワリコーは相続財産を構成するものと認められる。
また、中沢が取得した合計七六三万五九三三円の金員については、本件相続開始後に中沢が取得したのであるから、本件相続における課税価格には影響を及ぼさない。
2 原告の主張
(一) 原告は原告名義で一定の不動産を有していたが、これらはいずれも代次郎から生前贈与を受けたものであって原告の所有財産であった。そして、原告は昭和六〇年七月まで真柄建設株式会社の社員として勤務し、給与を得ており、右不動産の管理運用をする必要も時間的余裕もなかったので、代次郎の生前は、原告所有の不動産の譲渡代金、同不動産賃貸収入等給与以外の自己の財産の管理運用を代次郎に委ねていた。
代次郎は、原告の右財産の管理運用の一環として本件貸付信託及びワリコーを取得し、取得した右貸付信託等の運用益もすべて本件貸付信託及びワリコーの購入に充てていたものであり、本件貸付信託及びワリコーの運用について適宜原告に報告や相談をしていた。
したがって本件貸付信託及びワリコーは原告の固有財産であり、代次郎の相続財産ではない。
(二) なお、中沢は、本件ワリコーのうち一億六〇〇〇万円について代次郎から生前贈与を受けたと主張しており、かつ、本件相続開始後に中沢は本件ワリコーの一部解約により五〇〇万円及び本件ワリコーの割引料の一部計二六三万五九三三円の合計七六三万五九三三円を現実に取得したものであるから、仮に本件ワリコーが代次郎に帰属していたとするならば、少くとも右一億六〇〇〇万円又は七六三万五九三三円は代次郎の相続財産とはならないから、本件相続における課税価格から控除すべきである(少なくとも過少申告加算税の額は減額すべきである。)。
第三争点についての判断
一 無記名有価証券の帰属について
本件貸付信託及びワリコーは、すべて無記名の有価証券であると認められる(弁論の全趣旨)。
ところで、無記名有価証券の帰属については、証券に権利者の表示がないので、その購入資金の出捐者及び取得の状況、その後の証券の占有・管理状況等を総合して判断するほかはないが、証券の占有者以外の者が取得資金を支出したとか、占有者が売買等によりその所有権を第三者に移転した後引渡しをせずに引き続き占有しているなどといった事情が認められない場合には、当該証券を現実に占有し支配管理している者がその所有者であると認めるのが相当である。
そこで以下、右の見地から本件貸付信託及びワリコーが代次郎の所有であったか(相続財産)、原告の所有であったかについて検討する。
二 代次郎及び原告の生活状況
1 代次郎(明治三一年一〇月二日生れ)は、昭和一〇年一月一四日父國次郎の死亡により吉田家の家督を相続し、昭和一八年ころまで、千葉市穴川三丁目八番一六号の自宅を本宅として、同人の妻吉田志げ(以下「志げ」という。)や長男の原告その他の家族とともに生活していたところ、昭和一八年ころから同市春日町一丁目一〇番二号に別宅を新築して別宅を生活の本拠とするようになり、中村はつと関係して子供をもうけたりしたが、本宅には一月に数回ないし一年に数回帰るだけの状態になった。
そして、昭和三七年ころ、一時北海道に行ったりした後、春日町の別宅で中沢と同居するようになり、そのころ中沢と内縁関係に入った。
(乙第二号証、第一七号証、原告本人。なお、代次郎の家族関係は、別紙三「被相続人吉田代次郎相続関係図」のとおりである。)。
2 一方、原告は、昭和一二年一〇月七日に穴川の本宅で出生後(七人の女児のあとに生まれた長男で、代次郎が三九歳のときの子であった。)、本宅から千葉市内の高校、東京の大学に通ったが、大学三年のころに中退して働くようになり、昭和三〇年代の一時期東京で生活した後、昭和三七年ころ穴川の本宅に戻り、現在まで本宅で生活している(乙第一五号証、原告本人)。
原告は、昭和四〇年ころ代次郎の世話で株式会社八洲建設(以下「八洲建設」という。)に就職し、昭和四四年ころまで勤務した後、昭和四五年ころ株式会社真柄建設に就職し、昭和六〇年七月ころ同社を退職するまで同社に勤務していた(原告本人)。
三 本件貸付信託及びワリコーの取得及び異動推移の概要
1 本件貸付信託について
(一) 昭和四一年一一月に安田信託の千葉支店が開業したが、代次郎は、そのころから同支店に無記名の貸付信託を開設するようになり、これを乗り換え(満期に更新すること)たり新たに開設したりしていたが、昭和五〇年一二月ころには安田信託千葉支店に本件貸付信託のうち別紙四「貸付信託の異動推移表」のNo.1、2、5、6、7、8の六本が存在した(甲第三四号証の念証に記載されている。)。そして、それらは、同支店の帳票類と照らし合わせると、同表のとおり昭和四六年ないし五一年に乗り換え(更新)又は開設されたものと認められる(乙第一〇号証など)。
また、同支店に代次郎関係の貸付信託として「貸付信託の異動推移表」の”いろはにほ”によって表示されたもの(昭和四四年ないし四五年に乗り換え又は開設されたもの)が存在したことが明らかであり(乙第一〇号証など)、これらはその償還期間・金額等に照らし、また関係者の申述を総合すると、前記昭和五〇年一二月六本のうち五本の貸付信託に乗り換えられたものと認定するのが合理的である(安田信託の行員らは、同人らが千葉支店に勤務していた昭和四七年から昭和五二年ころまでの間に代次郎関係で新たに多額の貸付信託が開設された記憶はないと申述するところ、当時から安田信託の行員にとって、顧客から新規預金ないし貸付信託の開設を得ることは銀行員の成績に影響するものであり、また、安田信託千葉支店にとって代次郎は大口の取引相手であったから、右行員の記憶に誤りがあるとは考えにくい。また、代次郎と生活及び行動を共にしていた中沢の申述も右認定に沿うものである。)。
さらに、安田信託の関係者及び中沢の申述(乙第二ないし第四号証)などを総合すると、本件貸付信託のうち前記六本は、安田信託千葉支店の開業直後からその後比較的間もないころに開設されたものと推認することができる(もっとも、当初の償還期間が五年に満たないなどの疑問も残る。)。
そして、本件貸付信託の推移は、ほぼ別紙「貸付信託の異動推移表」のとおりと認められ、その後、昭和五三年に開設された同表No.4の貸付信託と合わせた本件貸付信託七本が相続時に存在したと認められる。
(以上につき、甲第一九、第二〇、第三四、第四二、第七八号証、乙第二ないし第七号証、第九号証の一ないし四、第一〇、第二〇、第五六、第五七号証、証人須藤、証人石坂)
(二) 原告の主張について
(1) これに対し、原告は、昭和四九年ころ以降の推移については、ほぼ右のとおりであることを認めるが、それらはいずれも右の時点で新たに開設されたものであって、昭和四四、四五年に開設されたもの(”いろはにほ”号のもの)が乗換え(更新)されたものではないとし、その開設(取得)に当たって、原告の資金が用いられたものであると主張する。
そして、安田信託の行員の記憶の正確さを疑問視し、例えば冨士本申述(乙第六号証)では、昭和四九年八月から昭和五二年七月までの在任中新規に貸付信託が開設された記憶はないとしているが、甲第七八号証の念証のとおり昭和五一年七月に「貸付信託の異動推移表」No.9の分(一号第二五六回)が開設されていることなどを指摘する。しかし、甲第七八号証の念証によっても右No.9の貸付信託が新規開設のものか乗換え(更新)のものかは断定できず、右冨士本申述を虚偽のものとは断定しがたい。
(2) また、原告は、甲第二五号証の四を引用して、昭和四〇年の安田信託千葉支店開業当時に開設されたのはほ号第一二八回の一億円であり、それは昭和四五年一一月に満期により解約されて吉田マンションの建築資金に使われたから、本件貸付信託のほとんどが昭和四〇年の安田信託千葉支店開業当初から存在したものの乗換えであることはありえないと主張する。
しかし、原告の引用する甲第二五号証の四は比較的簡単なメモであって、その意味するところが原告主張のとおりであるかは断定しがたい(もっとも、前記認定のとおり、本件貸付信託のほとんどが昭和四〇年の安田信託千葉支店の開業当時から存在したかは、疑問の余地もある。)。
(3) 中沢の申述等の信用性について
原告は、中沢の聴取書は、虚偽の申述内容を記載したものであって信用できないとして、その根拠をるる述べる。
たしかに中沢は代次郎の内妻であって、代次郎の生前から本妻の長男である原告とは必ずしも円満な関係にあったものではなく、むしろ対立関係にあったものと認められる。しかし、その申述内容のうち、関係者の人間関係等について語ったものは中沢の主観的な認識を述べたものであってかたよりがあるということもできるが、乙第二ないし第四号証、第一六号証の聴取書のうち代次郎の財産形成や管理の過程を語った部分は特に虚偽の事実を述べたものとはみられない。
また、原告は、代次郎は重要な場面では中沢に席をはずさせるなどしており、中沢は取引の重要部分は知らないはずであると述べ、確かに、そのような状況もあったと認められるが、中沢は昭和三七年ころから昭和六二年の代次郎の死亡までの二五年にわたって、二度ほどごく短期間代次郎のもとを離れたほかは終始生活をともにしていたものであって、代次郎の財産管理の状況を知る立場になかったとは到底考えられない。
(三) そして、本件貸付信託の開設及び管理の状況について概観するに、当初の開設の手続は代次郎自らが安田信託千葉支店と折衝して行ったと認められるし、その後も、代次郎は、貸付信託の収益金を受領するため自ら中沢に自家用車を運転させて安田信託千葉支店に赴き、また、乗換えの手続も自ら同様にして行ってきたことが認められる。(乙第二ないし第六号証)。
2 本件ワリコーについて
代次郎は、ある時期に貸付信託よりもワリコーの方が収益がよいと判断して、昭和五二年ころから日本興業銀行(以下「興銀」という。)東京支店において、取引先の名義を代次郎としてワリコーの現物取引(直接証券の受渡しと現金のやりとりを行う取引)を行い、これを継続して本件相続開始に至った(本件相続開始後の昭和六二年四月から、原告名義の口座で保護預りによる取引が行われるようになった。)。
そして、本件ワリコーの乗換えは、興銀担当者が春日町の代次郎の別宅に赴き、償還日を迎える回号のワリコーと同類のワリコーに乗り換える方法で行い、乗換時や購入時の割引料は現金で代次郎に交付しており、興銀の担当者は原告と会って取引をしたことはないことが認められる。
これら本件ワリコーの取得経緯は、別紙五「割引興業債券の異動推移表」のとおりであると認められる。
(乙第八号証、第二一号証の一ないし四、第二二号証、第二三号証の一ないし一一、第五七号証、証人須藤、証人石坂)。
四 本件貸付信託及びワリコーの取得原資等について
1 代次郎の資産形成過程
代次郎については、昭和一〇年代から昭和四〇年代にかけて、以下のような過程を経て資産を形成していった経緯が認められる。
(一) 土地の譲渡による収入、農業収入など
(1) 代次郎は、昭和一〇年一月一四日、貸金業を営んでいた父吉田國次郎の死亡により吉田家の家督を相続し、同人の資産を承継取得した(当時三六歳。乙第一五、第一七号証)。
(2) 國次郎の生前の大正一〇年ないし昭和九年ころ、國次郎又は代次郎は当時の千葉市穴川、弥生町(現在の千葉大学の敷地)などに相当数の土地を取得し、代次郎の長女吉田まつ、代次郎の妻吉田志げ及び原告の名義にしてあったが(一部の土地は当初代次郎の弟の吉田武雄名義としてあった。)、昭和九年ころから昭和一六年ころにかけて右各土地はいずれも文部省等に売却され(旧東京帝国大学第二工学部の敷地となった。)、これにより一定の収入が得られた(乙第三〇号証ないし第四五号証)。
ところで、前記のとおり代次郎が昭和一〇年一月に家督を相続し戸主の地位にあったこと、及び右各土地が吉田まつらの名義になったころ吉田まつ(大正一〇年一月生れ)は未成年ないし成人後間もない時であり、原告は出生後間もない時期であったこと(乙第一五号証)を勘案すると、これらの土地はいずれも國次郎ないし代次郎が取得原資を支出し、妻子の名義を利用してその所有権を取得し、その上で第三者に右の土地を売却し売却収入を得たものであると認められる。
(3) 代次郎は、とび等の建築関係の仕事をするかたわら、農業や不動産取引等もしていたが、昭和一〇年代から二〇年代ころにかけて、代次郎には不動産の売買による収入や農作物の売買等による農業収入があった(乙第一七号証、原告本人)。
(4) 代次郎は、前記(1)ないし(3)の資産や収入について、千葉銀行などの口座を使って家族名義あるいは無記名の預金をしたり、保険に加入するなどして、資産の運用・増加を図るとともに、税金対策を行っていた(乙第一七号証)。
(5) なお、代次郎は、昭和二三年一〇月に千葉銀行の株式四〇〇〇株を取得したのを初めとして、その後も同銀行の株式を取得し、これらの株式の名義を適宜志げ、中沢らに変更したり再度自己名義に戻したりしたほか、自己名義で又は志げや中沢らの名義で有償又は無償増資を引き受けるなどして千葉銀行の株式を増加させ、相続開始時までに二六万株余りの株式を保有するに至ったが(乙第一六号証、第二七、二八号証、証人石坂)、このことも、代次郎が相当の資金を有するに至っていたことを物語っている。
(二) 地代・家賃収入
(1) 代次郎による不動産取得
ア 代次郎の出捐による不動産の取得
代次郎は、昭和一〇年代から昭和三〇年代にかけて(原告が幼児ないし未成年の時期)、売買や自作農創設特別措置法一六条による政府売渡しなどにより、当時の千葉市穴川町、緑町、轟町、稲毛町付近の多数の土地を取得し、原告名義で所有権取得の登記をした。また、その後代次郎の死亡までに取得した不動産も、本件相続税の対象となった別紙「課税価格等の明細表」1、2の家屋を除き、ほとんどが原告名義となっている(甲第一ないし第四号証、第五号証の二、第六号証の二、第七ないし第九号証、第一一ないし第一三号証、第二一ないし第二四号証、第四六ないし第四八号証、第五七ないし第六七号証、第六九、第七〇、第七二号証、第七三号証の一、第八一ないし第八六号証、原告本人)。
右各土地は、ほとんどすべて代次郎が自己の出捐をもって取得したものであると認められる(乙第二、第三、第一七号証、原告本人。この点は、原告も認めるところである。)。
イ 不動産の管理状況
原告名義の不動産に係る固定資産税は原告の名義で支払われてきたが、その領収書には、原告が大学を中退してからは全く同居したことのない、千葉市春日の代次郎宅の住所が記載されたものもあり、これらの事実からしても右固定資産税及び都市計画税はすべて原告名義で代次郎が納付していたと認められる(甲第四一号証の一の一ないし一〇の四、原告本人)。
また、原告名義の不動産の権利証は、代次郎が借りていた銀行の貸金庫及び代次郎宅の貸金庫に保管されており、原告の実印及び印鑑登録証明書も代次郎が所持していた(乙第一、第二号証)。
さらに、後述するとおり、原告名義の不動産のうち賃貸物件に供しているものの賃料の大部分は代次郎が集金していた。また原告名義の不動産の売買交渉も全て代次郎が行っており、売買契約書等の書類は代次郎が借りていた銀行の貸金庫に保管されていた(原告本人)。
右にみたとおり、原告名義の不動産はすべて代次郎が管理していたものである。
ウ 原告の主張について
ところで、原告は、原告名義の不動産は代次郎がその出捐によって取得したことは認めつつ、原告が未成年のころから代次郎が順次原告に贈与していったものであり、原告は代次郎に贈与を受けた不動産の管理・運用を委託していたものであると主張する。
しかし、前記のとおり原告名義の不動産に関する売買契約書、権利証及び原告の実印等はすべて代次郎が所持しており、右不動産を売却する際の交渉にも原告が自ら当たることはなくすべて代次郎が行っていたものであり、これらの事実からすると、これらの不動産が原告に贈与されたもので、単に権利証等を代次郎が保管していたものであるとは認めがたい。
確かに、代次郎は不動産の名義を区々にしたわけでなく、長男である原告に不動産を集中しようとしたことがうかがえるから、いずれは不動産を原告に譲渡しようとした意思がうかがえなくもない。しかし、取得名義を原告にしたこと以上に、贈与に関する契約書等の書類が作成されたとは認められないし、ごく一部を除いて贈与税が納付された形跡もないのであって、原告に対する贈与を明確に認定することは困難であるといわざるを得ない。
なお、代次郎は、ほとんどの土地について原告名義で土地を取得していたが、代次郎名義で取得した不動産もあり、それらについて原告名義に更正登記をしたり、それを錯誤を原因として代次郎名義に戻したりしており、さらに原告が代次郎を被告とする訴訟を起こして、その判決により真正な登記名義の回復を原因として原告名義の登記にしたりしたこと、その過程で、代次郎は、父國次郎が國次郎の所有財産を孫に当たる原告に遺贈した旨の内容の虚偽の遺言書を偽造したりしたことが認められる(甲第三六、第五九号証、原告本人。原告は、本人尋問で、右遺言書の偽造は税金対策のためにしたものであると供述する。)。
これらのことは、代次郎が不動産の名義を便宜的に原告の名義に移転したりこれを借用したりしていたことを示すものであり、不動産のほとんどを原告名義にしたのも、明確に贈与をしたというよりは、税金対策(主として相続税の回避)のために原告の名義にしたものとみるのが合理的である。
原告は、不動産の一部について贈与税を支払ったものがあることを述べるが、それは、原告名義の不動産の一部にとどまると認められる。
(2) 地代・家賃の収入
代次郎は、その所有する不動産から継続的に地代・家賃の収入を得ていた。すなわち、
ア 代次郎は、千葉市穴川町、轟町、稲毛町内に原告名義で所有していた土地及び家屋を第三者に賃貸し、昭和二七年ころから昭和六一年ころまで地代及び家賃の収入を得ていた(甲第一六号証、第五七ないし第六二号証、原告本人)。
イ 代次郎は、昭和五一年ころから昭和六一年ころまで、千葉市穴川町内などに原告名義で所有する土地を駐車場として第三者に賃貸し、賃料収入を得ていた(甲第一七、第五二号証)。
ウ 代次郎は、昭和四八年ころ、千葉市穴川町内に鉄筋コンクリート五階建一棟のマンションを新築し(代次郎死亡後の昭和六二年四月に至って原告名義で所有権保存登記をした。)、昭和四八年六月一日、賃貸人を原告名義とし、自らは賃貸人の代理人という形式で、安田信託に社宅(一五戸分)として賃貸した。その後、昭和五〇年一月二〇日、右賃貸借契約を変更し、賃貸人を原告と代次郎の共同名義とした。
そして、本件相続開始時まで順次右契約に基づく賃料を増額し、駐車場代等も安田信託に支払わせるなどして、右マンションからの賃料収入を継続的に得ており、これにつき二分の一ずつをそれぞれの所得として所得税の確定申告をしていたが、代次郎が全体を収受、管理していた。
(甲第一四号証の一ないし一二、第一五号証、第二五号証の一ないし三、第二六号証の一、二、第四〇号証の一ないし四、乙第二、第三号証、原告本人、弁論の全趣旨)
原告は、右マンションは代次郎の出捐で建築されたが、原告に贈与されたものであると主張する。しかし、右登記及び賃貸人名義の推移に照らすと、原告主張の贈与の事実は疑わしいが、少くとも賃料収入の二分の一は代次郎に帰属するものと認められる。
(三) 建設業界実力者としての収入
代次郎は、昭和三〇年代から昭和四〇年代にかけて、千葉県内の建設業界における実力者の地位にあり、右地位を背景にした建設工事の受注調整などにより多額の収入を得ていたことが認められる。すなわち、
(1) 代次郎は、前記のとおり戦前から建設業(とび)をしていたが、昭和二〇年代ころから不動産関連事業等を通じて千葉県内の建設業者と親密な関係になり、また、自ら吉田組の商号で建設会社を設立したり(吉田組として小学校の建築を請負ったこともあったようであるが、同時に建設工事の受注、斡旋等を容易にするために会社の商号を利用していたものと考えられる。)、八洲建設の経営に関与し、その顧問となるなどして、次第に千葉県建設業界における自らの地位を高めていった。
そして、昭和三〇年代には千葉県建設業協会の役員(常務、参与)に就任し、その後は副会長として同会会長の下で会長の相談役的な立場から、建設工事の入札等の際に受注業者の決定について業者間で話合いがつかない場合の業者間の調整や、特定業者が受注できるようにするための斡旋など、いわゆる談合の取り仕切り役を担当するようになり、談合が成立した場合にはいわゆるリベートとして多額の金員を受領していた。(乙第二、第三号証、第一七ないし一九号証、原告本人)
(2) また、代次郎は、昭和三〇年代から昭和四〇年代にかけて、千葉県建設業協会役員の地位やその保有する資金力を背景に、建設業者等に対して一回当たり約五〇〇万円ないし一五〇〇万円の単位で多額の資金を銀行の利率よりも高価の金利で貸し付け、相当程度の利息収入を得ていた(乙第二、第一六、第一八、第一九号証、)。
例えば、代次郎がかねてからその経営に関与していた八洲建設に対しては、代次郎は建設業協会の役員の地位を利用して同社が建設工事を受注できるよう取り計らったりしたほか、同居していた中沢の名義を利用するなどして定期的に多額の資金を貸し付けていた。そして、昭和四四年ころ、八洲建設の経営が悪化し始めると、代次郎は右貸付金を回収するために、同社が所有していた土地に中沢を名義上の抵当権者として抵当権を設定させたり、八洲建設が工事代金の支払のために受領して銀行に預け入れていた約束手形の交付を受け、最終的に発注先から昭和四四年(八洲建設が倒産した年)から昭和五〇年にかけて元利総額で七二五〇万円を回収した(乙第一六、第四六、第四八号証の二、第四九ないし第五一号証、第五三ないし第五五号証、証人石坂)。
また、代次郎は、昭和四〇年ないし昭和四四年ころにかけて、稲毛町内の暴力団関係者のために立て替えた礼金の数千万円を回収した(原告本人)。
さらに、代次郎は、東金市所在の鈴木建設株式会社に対して、総額約一五〇〇万円を貸し付けていたところ、昭和四〇年代の後半には右債権の回収を終えた(乙第一六、第一八号証、証人石坂、原告本人)。
2 資金の管理運用
(一) 代次郎は、前記のとおり昭和三〇年代以前から保有し継続的に取得していた資金・収入等を、自己名義の預金口座に入金するほか、千葉銀行等に設定した仮名又は借名の普通又は定期預金口座に入金し、定期預金についてはマル優(小額貯蓄非課税制度)の上限である三〇〇万円を上限として小口に分散して口座を設定しこれにより利子課税を不当に免れるなどして運用していた。
そして、昭和四〇年一一月に安田信託千葉支店が開設された後は、それまで仮名又は借名預金で運用していた資金の一部を無記名式貸付信託の購入に充て、その後貸付信託の購入額が昭和四七年に三億円に達するまで順次買増しを継続し、以後、償還・購入を繰り返して本件相続に至った。
さらに、昭和五二年ころからは、それまで仮名ないし借名預金で運用していた資金及び貸付信託の収益金などを、安田信託千葉支店及び千葉銀行中央支店の代次郎名義の普通又は定期預金口座に入金し、右預金口座及び仮名ないし借名預金の口座に入金した資金を順次ワリコーの購入に充てていった。代次郎が購入したワリコーの購入日と代次郎名義又は代次郎以外の者の名義で代次郎に帰属すると認めることができる預金の解約及び出金状況とを照合すると、昭和五六年以降に新規購入したワリコーの原資の多くは代次郎に帰属する安田信託千葉支店及び千葉銀行中央支店の普通預金及び定期預金口座から支出されたものと認めることができ、その内訳は別紙六「預金等から支出されたと認められる割引興業債券の内訳」のとおりであると認められる。
(乙第二、第三、第一一、第一六、第一七、第二四、第二五、第二六号証の一ないし二一、弁論の全趣旨)。
(二) 以上のとおり、代次郎は、昭和四〇年代ころまでに、資金を蓄積してこれを課税を免れながら運用していたが、これらの資金を昭和四〇年代に貸付信託の、昭和五〇年代にワリコーの取得にそれぞれ充てていったものと認めることができる。
3 原告の主張について
以上に対し、原告は、本件貸付信託及びワリコーの取得及び異動の推移について前記第二の三の2にみたように主張するとともに、これらはいずれも原告の資金によって取得された原告の固有財産であって、原告が代次郎に管理・運用をゆだねていたものであると主張する。
右取得原資について、原告は、<1>原告名義の不動産の譲渡代金、<2>原告名義の不動産からの地代・家賃収入、<3>原告の妻の実家の遺産、<4>原告の母からの借入金などを主張し、本件ワリコーについては<5>貸付信託の収益等も主張する。
(一) 不動産譲渡収入及び地代・家賃収入について
(1) 不動産譲渡による収入について
原告が貸付信託の購入原資と主張する不動産売却代金(甲第六八号証)についてみると、昭和三一年から昭和五二年にかけて原告名義の一定数の土地が売却されていることはうかがえるが(甲第一ないし第一三号証(枝番を含む))、その金額を裏付ける契約書等の証拠はなく、譲渡代金のうち不動産譲渡所得税を課せられた金額とこれを控除した残額等の別、右残額のうちのいくらが貸付信託の購入原資に充てられたのかは明らかでない。
そして、前記認定のように、原告名義の不動産も実質的には代次郎の所有とみられ、こうした売却の手続及び代金の収受、管理、支出も代次郎が行っていたと認められるので、不動産売却代金の一部が貸付信託の購入代金に充てられたとしても、原告がその出捐で購入したものとみることはできない。
(2) 地代・家賃収入について
地代・家賃収入が本件貸付信託及びワリコーの取得資金に充てられたことは前記認定のとおりであるが、前記のとおり不動産は代次郎の所有とみるべきであり、地代・家賃も代次郎が収受・管理していたものであるから、代次郎の所有とみることができるものである。
(二) 遺産及び借入金について
(1) 原告は、昭和四五年に妻の実父の樋沼丑五郎の遺産として現金八〇〇万円及び株式(時価四〇〇万円相当)の形で合計一二〇〇万円を取得したと主張し、樋沼洋志名義の昭和六三年作成の証明証(甲第五三号証)を提出するが、右証明証以外に右事実を確認すべき資料はないし(相続税の確定申告書等は提出されていない。)、原告の妻が実家の相続によって取得した財産を本件貸付信託の購入に充てた過程が明確に立証されたとはいえないというべきである。
(2) 原告は、昭和四三年に母志げから五〇〇〇万円を借り受けて、二口の貸付信託の購入資金に充てたと主張するが、右借入れの事実を裏付ける志げの預金等の存在及び資金の流れを認めるべき証拠はなく(証人須藤)、そもそも志げに右のような多額の金銭を融通できたものとは認めがたいところである。
(三) 貸付信託の収益金について
本件貸付信託の収益金が本件ワリコーの購入原資に充てられた可能性はあるが、本件貸付信託は代次郎に帰属するものとみるべきであるから、その収益金も代次郎に帰属するものと認められる。
五 本件貸付信託及びワリコーの管理運用の状況について
1 吉田家の遺産の管理運用について
代次郎は、前記のとおり昭和一八年ころから千葉市春日町の別宅に居住し、昭和三七年ころからは右別宅で中沢と生活し、原告らを含む妻子らに対しては、その所有する不動産、現金、預金、有価証券等の資産の管理運用にほとんど関与させようとはしなかった(乙第二、第三、第一七号証)。
一方、原告は大学を中退した後は春日町の別宅に居住したことはなく、昭和三七年ころ東京から千葉市穴川町の代次郎の本宅に戻って生活を始めた後も、代次郎の死亡直前を除いて春日町の家に来訪することはほとんどなかったものであり、原告と代次郎の接触は、代次郎が中沢に付き添われて月に一回程度穴川町の本宅付近を見回るときくらいしかなかった(乙第三号証、原告本人)。
このように原告が未成年のうちに代次郎が原告らと別居生活を始めた後は、原告と代次郎が同居したことはなく、また原告が代次郎の別宅に来訪したこともあまりなかったものであり、このことと、代次郎が本件貸付信託及びワリコーの取引を全て行い、また自己の財産について家族の他の者には決して関与させようとはしなかったこと(乙第二ないし第四号証、第六ないし第八号証、第一六、第一七号証)などを併せ考慮すると、原告が本件貸付信託及びワリコーを含む資産の管理運用を代次郎に委託していたとか、代次郎が本件貸付信託及びワリコー等の運用について原告に報告ないし相談していたと認めることはできない。
2 本件貸付信託及びワリコーの管理運用状況について
(一) 本件貸付信託及びワリコーの収益金の受領状況
(1) 貸付信託について
「貸付信託の異動推移表」記載の各貸付信託の収益金のうち、昭和五四年一一月以降に収益配当金が発生する貸付信託は別紙七「貸付信託の収益配当金の発生月一覧表」のとおりであるところ、「課税価格等の明細表」28ないし30記載の代次郎名義の千葉銀行中央支店及び同安田信託千葉支店の普通預金口座の昭和五四年一一月以降の入金状況をみると、概ね各貸付信託の収益配当金の発生月に対応する月の二〇日又は二一日に一〇〇万円前後の金額の入金がされており、右金額は被告担当者が本件課税処分の際に調査した安田信託千葉支店備付けの無記名式貸付信託収益金支払記入票等と一致していると認められる。
したがって、昭和五四年一一月以降の前記各貸付信託の収益金は概ね代次郎名義の普通預金口座に入金されており、右収益金の入金状況等は別紙八「吉田代次郎名義普通預金口座に入金したと認められる貸付信託の収益配当金」記載のとおりであることが認められる。
(乙第一〇ないし第一三号証、第一六、第二〇号証、弁論の全趣旨)
(2) ワリコーについて
興銀東京支店の岩田の申述(乙第八号証)及び中沢が保有していたワリコー計算書によれば、代次郎は、ワリコーの取引の際には償還期限の到来したワリコーを同額のワリコーに乗り換えて割引料を現金で受領する方法を採っていたことが認められるところ、右計算書及び「割引興行債券の異動推移表」記載の各ワリコーの回号と「課税価格等の明細表」28ないし30記載の代次郎名義の普通預金口座への入金状況とを照合し、前記岩田の申述及び被告担当者が調査したところと併せ考慮すると、代次郎が受領した前記割引料の入金年月日及び額、ワリコーの回号及び元本額は別紙九「吉田代次郎名義預金口座に入金されたと認められるワリコー割引料」記載のとおりであると認められ、ワリコーの割引料のほとんどが代次郎名義の普通預金口座に入金され、新たにワリコーの購入が行われないときは、そのまま引き出さず、右預金口座の残高が高額になるのを待って、これを原資として新規のワリコーを購入したものと認められる(乙第八号証、第一一ないし第一三号証、第二二号証、弁論の全趣旨)。
(二) 本件貸付信託及びワリコーの保管状況について
(1) 代次郎は、安田信託千葉支店内に自分名義で借りた貸金庫及び千葉市春日町の別宅の金庫の中に、原告などの名義で自分が所有する不動産の権利証、実印、預金通帳等とともに本件貸付信託及びワリコーの証券を保管しており、右貸金庫の鍵は代次郎が常時所持し、右別宅で同居していた中沢以外の者に預けることはなかったものであり、死亡直前の昭和六二年一月中旬ころに中沢を右貸金庫の開閉手続の代理人とした時点までは、右貸金庫からの本件貸付信託及びワリコーの出し入れも自ら行っていた(乙第三、第四号証)。
(2) 本件貸付信託及びワリコーの各証券は、代次郎の死亡の前後にかけて順次原告の管理下に入ったものであるが、本件貸付信託については、昭和六二年二月三日ころ、代次郎が千葉市内の病院に入院した際に、原告が中沢に対し前記貸金庫の鍵及び同貸金庫に保管されている本件貸付信託受益証券等の引渡しを強く求め、中沢がやむを得ずこれを原告に引き渡したこと、本件ワリコーについては、代次郎の死後も春日町の代次郎宅において中沢が管理していたところ、同年四月ころ右ワリコーの存在を原告が知り、代次郎の知人を通じて本件ワリコーの引渡しを強く中沢に対して求めたため、中沢はやむを得ず右知人を介して本件ワリコーの証券を原告に引き渡したことが認められる(乙第一、第四号証、原告本人)。
(3) 右のとおり、本件貸付信託及びワリコーが原告の管理下に入ったのは概ね本件相続開始前後のことであり、特に本件ワリコーが原告に引き渡されたのは昭和六二年二月九日の相続開始から二か月以上経過した後の同年四月一五日であったこと、また、代次郎が生前、ワリコーのことを原告には決して話さないように中沢に言っていたこと(乙第四号証)、原告は代次郎の死後前記貸金庫及び春日町の別宅の金庫を開けた際に、枚数は定かではないが本件ワリコーの証券の紛失に初めて気がついたと供述していることからすると、原告は本件相続開始時点でワリコーが存在するか否か、又はどの程度の金額、枚数で存在するか等の具体的な事実は何ら把握していなかったものと認められる。
以上の認定により、本件貸付信託及びワリコーは代次郎が管理していたものであると認めるのが相当である。
3 原告の主張等について
原告は、本件貸付信託及びワリコーは自己の固有財産であるが、原告が会社員として勤務し多忙な毎日を送っていたことから、代次郎に対し包括的に自己の資産の管理運用を委ね、本件貸付信託及びワリコーの管理運用についても適宜その報告を受け、また自ら管理の一部を行ってきたと主張する。
しかし、管理運用を委任した時期及び具体的にどのような資産をどのように運用し、どの位の利益を受けていたかについて具体的な主張はなく、これを裏付ける証拠もない。
さらに問題となる点について検討すると、以下のとおりである。
(一) 念証(甲第三四、第七八号証)について
(1) 安田信託千葉支店は、代次郎との取引に関する資料を保管していたが、その中に念証と題する書面が二通(昭和五〇年一二月一一日付けの甲第三四号証及び昭和五一年八月二一日付けの甲第七八号証)含まれていた。
これらは、いずれも「私」と称する人物が安田信託に対し貸付信託の取扱いを指示し、安田信託がその指示された取扱いを引き受けた旨を記載した文書であるが、甲第三四号証の念証は「貸付信託の異動推移表」のNo.1、2、5、6、7、8の貸付信託を対象とするものであり、甲第七八号証はNo.9の貸付信託を対象とするものである。
右指示の部分の末尾をみると、甲第三四号証の念証には「私」の代理人として吉田功子(原告の妻)が記名押印しているが、甲第七八号証の念証には「私」の代理人として代次郎が記名捺印している。
そして、右指示の内容として、いずれも、
ア 収益配当金は、「私」又は私の指示する者に支払うこと、
イ 「私」が死亡その他の事由により受取り不可能の場合は予備受益者に支払うこと
などが記載されているが、予備受益者としては、甲第三四号証の念証については原告及び吉田国代志(原告の子)が記載され、甲第七八号証の念証には中沢が記載されている。
(2) ところで、原告は、甲第七八号証の「私」は原告を指すことが明らかであり、甲第三四号証も同様であると主張するが、甲第三四号証の場合、「私」の死亡の場合の予備受益者として原告及び国代志を指名したことからして、「私」が代次郎を指すことは明らかであり、甲第七八号証についても、若干疑義はあるが、代次郎を指すものと理解するのが相当である。
(3) そうすると、昭和五〇年一二月当時、少くとも本件貸付信託のうち「貸付信託の異動推移表」の前記No.1、2、5、6、7、8の六本は、代次郎の所有のものとされていたことが認められる。
(二) その後に作成されたメモ等について
(1) 甲第一九号証(昭和五四年一二月四日付けのメモ)について
これは、右日付で、当時の貸付信託を記番号、金額及び満期日を記載したメモであり、作成名義人の記載はないが、安田信託千葉支店の者が作成したと推認される。
そして、原告は、代次郎から右メモを受領したと供述するが、そのことから、原告への報告のために交付されたものとは認めがたい。
(2) 甲第二〇号証(昭和五四年一二月九日付けの「預り書」)について
右は、「貴殿の下記貸付信託受益証券はたしかにお預かりいたしました。」として、当時の貸付信託の記番号を記載し、代次郎の署名捺印がなされ、宛名として原告の氏名が記載されているものである。
しかし、原告の供述によっても、右書面の作成された経緯が明確でないし、前記念証の内容と照らし合わせてみると、代次郎が本件貸付信託を原告のために預かっていることを示すものとは断定しがたい。
(3) 甲第四二号証(昭和六〇年三月二一日付けのメモ)について
これは、右日付当時の貸付信託を記載したメモであり、安田信託千葉支店が作成したものとみられるところ、原告の氏名が付記されているものの、その作成経過も明確でなく、代次郎が原告に報告のために交付したものとは認めがたい。
(三) 甲第四三号証(興銀の計算書)について
右は、興銀東京支店が作成した「吉田様」宛のワリコーの計算書であるが、これを原告が所持しているからといって、代次郎の原告に対する報告等を認定することはできない。
(四) 原告の手紙(甲第四四号証)について
原告は、原告の手紙(昭和五五年から昭和六〇年までのもの。甲第四四号証の一ないし六)に、代次郎と会った記載があることから、原告が代次郎と疎遠だったわけではないことを主張し、また、安田信託関係者の氏名を記載してあることなどを指摘して、原告が安田信託関係者と貸付信託について何回か打合せをしたことがあると主張する。しかし、代次郎との接触に関する記載は、直ちに代次郎から本件貸付信託及びワリコーの管理について報告を受けたことなどの証拠とはならないし、安田信託関係者の氏名の記載についても、安田信託千葉支店の行員たちは、本件貸付信託のような大口の顧客の関係者であるにもかかわらず、原告と面談したことがないと申述しているのであって、これらの点にかんがみると、前記手帳の記載をもってしても、原告が本件貸付信託の取得・運用について積極的に安田信託の関係者と折衝していたとは認めがたい。
(五) 原告は、また、本人尋問において、代次郎から贈与された不動産やその収益で取得した財産の管理については、常に代次郎から報告をうけていた、代次郎は晩年には「財産の管理を原告に引き継ぎたい」と述べていたが、原告が多忙であったため引継ぎができないでいるうちに代次郎が死亡したものであると供述するが、その供述には具体性や裏付けが乏しく、採用しがたい。
(六) 相続放棄の経過について
原告は、本件貸付信託及びワリコーが代次郎の相続財産に含まれないことを他の相続人に説明し、他の相続人も原告の説明を了承した上で相続放棄をしたものであると主張するが、相続人の間で右のように完全な了解が得られたことを証明する的確な証拠はない(なお、原告と相続人の一部の者との間に訴訟が継続している模様である。)。
六 中沢による本件ワリコーの一部の取得の有無について
原告は、仮に本件ワリコーが原告の固有財産でないとしても、中沢が本件ワリコーのうち一億六〇〇〇万円は自分が代次郎の生前に代次郎から貰ったものである旨申述していること(乙第二号証)(右一億六〇〇〇万円は本件ワリコーが現物取引されていたころの合計金額であり、課税価格とされた約五億円と、被告が本件課税処分のための調査時点で原告名義の口座で保護預りによる取引がされているものとしてその購入残高を把握した三億三〇〇〇万円余りとの差額に相当する。)、及び中沢が本件相続開始後にワリコーの一部解約等により合計七六三万五九三三円を取得したことから、右一億六〇〇〇万円ないし七六三万五九三三円は相続財産とはならず課税価格から控除すべきであると主張する。そして、被告担当者が本件課税処分に当たり作成した別口預金系統表(乙第二一号証の一ないし四)等によれば、中沢が昭和六二年三月二八日にワリコー第五五〇回五〇〇万円を解約して引き出すとともに割引料を取得し、合計七六三万五九三三円くらいの金額を得たことが認められる(乙第二、第三号証、弁論の全趣旨)。
しかし、中沢が生前に贈与を受けたと主張する右一億六〇〇〇万円のワリコーは、他のワリコーとともに代次郎自身が一体的に管理運用していたものであると認められる(乙第一、第三、第四、第八号証、弁論の全趣旨)から、右一億六〇〇〇万円のみが中沢に生前贈与されたとは認定できないし(原告自身右贈与を認めているわけではない。)、また、原告が主張する中沢による七六三万五九三三円くらいの金員の取得も、本件相続開始後における事実であって、本件相続における課税価格に影響を及ぼすものとは考えられない。
七 本件貸付信託及びワリコーの帰属について
以上のとおり、本件貸付信託及びワリコーは無記名証券であるところ、代次郎は、自己の資金と収入を原資として貸付信託及びワリコーに係る受益証券を購入したこと、右貸付信託及びワリコーの収益金等の受領手続も代次郎が自ら行い、右収益金等は概ね代次郎が管理する自己名義の普通預金口座に入金されていたこと、右貸付信託及びワリコーの取引を担当した銀行員も本件貸付信託及びワリコーは代次郎に帰属するものと認識していたこと、本件貸付信託及びワリコーが代次郎が借りていた銀行の貸金庫及び代次郎が中沢と二人で生活していた穴川の別宅の金庫に保管されていたことなどが認められ、これらの事実を併せ考慮すると、本件貸付信託及びワリコーは代次郎に帰属していたと認めるのが相当であり、代次郎の相続財産であると認められる。
第四本件課税処分の適否について
一 課税価格
以上のとおりであるから、課税価格は「課税価格等の明細表」46のとおり一一億一九六一万八〇〇〇円(純資産額の一〇〇〇円未満を切り捨てた金額)である。
二 原告の納付税額
別紙一〇「納付税額の計算明細表」のとおり、原告の納付税額は四億四九九八万〇六〇〇円となる(相続税法一六条(昭和六三年法律第一〇九号改正前のもの)参照)。
三 本件更正処分の適法性について
「本件課税処分等の経緯」のとおり、本件更正処分に係る原告の納付すべき金額は、二の金額と同額であるから、本件更正処分は適法と認められる。
四 本件過少申告加算税賦課決定の適法性について
原告に課されるべき過少申告加算税の額は、本件更正処分により新たに納付すべき税額(三億八四五三万九三〇〇円)について、(1)国税通則法六五条一項(昭和六二年法律九六号改正前のもの。)の規定により右税額(同法一一八条の規定により一万円以下の端数切捨て後の三億八四五三万円。以下同じ。)に一〇〇分の五の割合を乗じて算出した金額(一九二二万六五〇〇円)と、(2)同条二項の規定に基づき、右納付すべきこととなった税額のうち期限内申告税額(六五四四万一三〇〇円)を超える部分に相当する金額(三億一九〇九万円)に一〇〇分の五の割合を乗じて算出した金額(一五九五万四五〇〇円)との合計額三五一八万一〇〇〇円となる。
そして、本件過少申告加算税賦課決定により原告に賦課決定された過少申告加算税は三五一八万一〇〇〇円であって右金額と同額であるから、本件過少申告加算税賦課決定は適法である。
なお、原告は、中沢が本件ワリコーの一部解約金等を取得したことから、少なくとも本件過少申告加算税賦課決定を見直すべきであると主張するが、採用できない。
第五結論
以上のとおりであるから、原告の本訴請求は理由がないので棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岩井俊 裁判官 大西達夫 裁判官堀晴美は、転補のため署名捺印することができない。裁判長裁判官 岩井俊)
別紙一
本件課税処分等の経緯
<省略>
別紙二
課税価格等の明細表
<省略>
別紙三
被相続人 吉田代次郎相続関係図
<省略>
別紙四
貸付信託の異動推移表
<省略>
別紙五
割引興業債券の異動推移表(1)
<省略>
割引興業債券の異動推移表(2)
<省略>
割引興業債券の異動推移表(3)
<省略>
割引興業債券の異動推移表(4)
<省略>
別紙六
預金等から支出されたと認められる割引興業債券の内訳(1)
<省略>
預金等から支出されたと認められる割引興業債券の内訳(2)
<省略>
別紙七
貸付信託の収益配当金の発生月一覧表
(昭和54年11月以降収益配当金が発生する貸付信託)
<省略>
別紙八
吉田代次郎名義普通預金口座に入金したと認められる貸付信託の収益配当金(1) 千葉銀行中央支店 吉田代次郎名義普通預金(口座番号43723)
<省略>
吉田代次郎名義普通預金口座に入金したと認められる貸付信託の収益配当金(2) 千葉銀行中央支店 吉田代次郎名義普通預金(口座番号43723)
<省略>
吉田代次郎名義普通預金口座に入金したと認められる貸付信託の収益配当金(3) 千葉銀行中央支店 吉田代次郎名義普通預金(口座番号2368030)
<省略>
別紙九
吉田代次郎名義普通預金口座に入金したと認められるワリコー割引料(1) 千葉銀行中央支店 吉田代次郎名義普通預金(口座番号43723)
<省略>
吉田代次郎名義普通預金口座に入金したと認められるワリコー割引料(2) 千葉銀行中央支店 吉田代次郎名義普通預金(口座番号43723)
<省略>
吉田代次郎名義普通預金口座に入金したと認められるワリコー割引料(3) 千葉銀行中央支店 吉田代次郎名義普通預金(口座番号43723)
<省略>
吉田代次郎名義普通預金口座に入金されたと認められるワリコー割引料(4) 安田信託銀行中央支店 吉田代次郎名義普通預金
<省略>
別紙一〇
納付税額の計算明細書
<省略>