千葉地方裁判所 平成9年(ワ)339号 判決 2001年12月20日
原告
甲野春子
原告
甲野夏子
右両名訴訟代理人弁護士
大槻厚志
被告
労働福祉事業団
右代表者理事長
若林之矩
被告
乙野次郎
外二名
右四名訴訟代理人弁護士
平沼高明
同
堀内敦
同
加々美光子
同
小西貞行
同
平沼直人
上記平沼高明訴訟復代理人弁護士
水谷裕美
同
正司伊久恵
主文
1 被告らは、各自、原告甲野春子に対し金三一九六万八八五九円、原告甲野夏子に対し金二五七六万八八五九円及び上記各金員に対する平成七年七月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は、これを五分し、その二を被告らの、その余を原告らの負担とする。
4 この判決は、原告ら勝訴部分に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求
被告らは、各自、原告甲野春子に対し金八八四二万五八〇七円、原告甲野夏子に対し金七二五五万五八〇七円及び上記各金員に対する平成七年七月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は、亡甲野太郎(以下「太郎」という。)が被告労働福祉事業団(以下「被告事業団」という。)の開設・経営する千葉労災病院において舌癌の手術を受けた後に呼吸停止及び心停止に陥って低酸素脳症に至ったことについて、太郎の妻と子である原告らが、被告事業団に対し、診療契約上の債務不履行責任又は不法行為責任に基づき(選択的併合)、その余の被告らに対し、不法行為責任に基づき、損害賠償の支払を請求した事案である。
1 争いのない事実等(争いのない事実の他は認定に供した証拠を掲記)
(1) 当事者等
ア 太郎は、昭和一三年一月一〇日生の男子であり、平成七年七月一一日当時、遊技場の経営等を目的とする××株式会社代表取締役であったところ(甲39ないし42、49)、平成八年一一月二〇日に死亡した。
原告甲野春子(以下「春子」という。)は、太郎の妻であり、原告甲野夏子(以下「夏子」という。)は、太郎及び原告春子の子である。(なお、原告らのほかに太郎の相続人はいない。甲35ないし37、38の(1)、(2))
イ 被告事業団は、千葉県市原市において労働福祉事業団○○労災病院(以下「被告病院」という。)を開設・経営しているものであり、被告乙野次郎(以下「被告乙野医師」という。)、被告丙野秋子(以下「被告丙野医師」という。)、被告丁野冬子(以下「被告丁野医師」といい、上記三名の被告医師を「被告医師ら」と総称する。)は、平成七年七月当時、被告病院に勤務していた医師である。
(2) 診療契約の成立
太郎は、平成七年四月五日、被告病院に入院するに際し、被告事業団との間において、太郎の舌腫瘍の治療に必要な診療を受けること及び舌癌に対し手術を行う場合は適正な術後管理を受けることを内容とする契約(以下「本件診療契約」という。)を締結した。
(3) 太郎の診療経過
ア 太郎は、平成六年一〇月ころから、舌の異常を感じるようになり、平成七年三月末ころから痛みが増してきたため、同年四月三日、和田耳鼻咽喉科医院を受診し(甲1の3、50)、同医院の医師から、精密検査を受けるように指示され、被告病院を紹介された。
イ 太郎は、同月四日、被告病院耳鼻咽喉科を受診し、被告乙野医師から舌右側に癌があり、右頸部へ移転しているとの診断を受け、同月五日、被告病院に入院して化学療法を受けた。太郎は、同年七月一一日、被告医師らにより舌半切術・右頸部郭清等の手術(以下「本件手術」という。)を受け、本件手術は、同日午後八時二〇分ころ終了した。太郎は、本件手術終了後、被告病院において主に術後管理等のために利用されている病室(四B病棟内のナースステーションと隣接しており、通路はアコーディオンカーテンで区切られている。病床は六床ある。以下「ICU室」という。)において、術後管理を受けることとなった。(ICU室の構造につき証人佐々木)
ウ 被告医師らは太郎の担当医であり、それぞれが責任をもって術後管理にあたるというチーム医療体制をとっており、また、太郎がICU室に移動した後は、主として山口秀子看護婦(以下「山口看護婦」という。)、佐々木優子看護婦(以下「佐々木看護婦」という。)他一名の看護婦らが太郎の術後の看護を行った。(証人山口、同佐々木、被告乙野本人)
エ 太郎は、ICU室へ入室後、同日午後九時五〇分ころから、息苦しさ等を訴えて、看護婦らから痰の吸引等の処置を受けていたが、同日午後一一時三〇分ころ呼吸停止に陥り、自発呼吸を回復したものの、同時五五分ころ心停止に陥った。その後、太郎に対し、心臓マッサージ、気管切開、酸素吸入等の蘇生術が施され、呼吸状態や血圧は安定したものの、太郎は、呼名反応を示さない等の意識障害を呈するに至った(以下、術後に太郎に発生したかかる事態を「本件事故」という。)。
オ 太郎は、引き続き被告病院に入院して、耳鼻咽喉科、神経内科、脳外科等で治療を受けていたが、上記意識障害は改善せず、自らの意思で食事や排尿、排便等ができない状態のまま、平成八年一月一一日ころ症状が固定した(甲1の(2)、乙1の(1)ないし(5))。太郎は、その後も、被告病院において入院加療を受けていたが、同年一一月二〇日午後九時四分ころ、被告病院において死亡した。
2 主たる争点及び当事者の主張
(1) 呼吸停止・心停止の原因等
ア 原告らの主張
本件手術は、太郎の右頸部等を切開し、頸部の内部組織を郭清し、舌と口腔底の切開を行い、口腔底と舌の欠損部を前腕部の皮弁を用いて皮弁を移植する等してなされたものであり、かかる手術部位に血腫や浮腫等が形成されて頸部が腫脹し、また、舌自体の炎症や舌根部への血液や滲出液の浸入により周辺組織が腫脹し、さらに、舌の鬱血等により舌根部又は咽頭が腫脹したことにより、気道閉塞となり、呼吸停止・心停止に陥り、低酸素脳症に至ったのである。
太郎は、平成七年七月一一日午後一一時三〇分に一回目の呼吸停止に陥り、同時五五分に二回目の呼吸停止に陥るとともに、最大七分から八分の心停止を生じた。
イ 被告らの主張
太郎は、移植皮弁周辺には相当量の鬱血が認められ、血腫により気道が狭窄したと考えられる状態であったが、舌根部には手術操作を加えておらず、血流障害があったとしても、移植皮弁そのものは、当初、壊死に陥らなかったのであるから、気道に多少の圧力があったとしても、それで気道が閉塞したとは考えられない。また、咽喉頭浮腫は生じておらず、血腫が形成された原因も不明である。
太郎の心停止時間は、一分ないし二分間である。
(2) 被告らの責任原因
ア 原告らの主張
(ア) 被告医師らの過失(注意義務違反)
本件手術が、一〇時間にも及ぶ大手術であり、しかも、右舌半切除、右頸部リンパ郭清等、気道に接するか、その直近の手術であったこと等に照らせば、被告医師らは、手術後、血腫や浮腫の発生による舌根部、咽頭の腫脹等により、生命維持にとって不可欠な気道が閉塞される危険性があり、これにより心停止・呼吸停止に陥り、その結果、低酸素脳症に至る可能性は十分予見し得たものである。
したがって、被告乙野医師は、太郎の主治医、本件手術の執刀医及び太郎の術後管理者として、また、被告丙野医師、被告丁野医師は、本件手術の助手及び太郎に対する医療チームの一員として、本件手術の部位、態様及び時間等に照らし、手術後少なくとも六時間は被告医師らのうち少なくとも一名が被告病院内にとどまる等して、太郎の容態の急変等に即応出来る体制を整えておく注意義務があった。
そして、平成七年七月一一日午後一一時三〇分ころの呼吸停止(一回目の呼吸停止)に対し、気道確保の施術、すなわち、直ちに口腔内エアウェイを挿入し、創部の縫合部を開創し、血腫を除去し、気管切開を行う等の処置を施せば、その後に太郎に生じた二回目の呼吸停止や心停止による低酸素脳症を回避することは十分可能であった。
しかるに、被告医師らは、本件手術が極めて順調かつ成功裏に終了したことから、太郎の術後管理を怠り、当直医の池間医師が整形外科医であるにもかかわらず、同人に緊急時の指示等をすることなく、被告乙野医師は午後一〇時ころ、被告丙野医師及び被告丁野医師は午後一一時ころ、被告病院から退出し、結局、午後一一時三〇分から五五分の間、被告病院内に被告医師らが不在のままの状態にした。その結果、太郎の気道確保のための有効な処置が取られず、同時五五分ころ太郎の気道閉塞による呼吸停止(二回目の呼吸停止)及び心停止に陥らせ、低酸素脳症に至らせたものである。
したがって、被告医師らには不法行為(共同不法行為)責任がある。
(イ) 被告事業団の使用者責任
被告事業団は、被告医師らを使用し、被告医師らが被告事業団の業務を執行中、前記過失により本件事故を惹き起こしたのであるから、被告事業団には、民法七一五条一項に基づく責任がある。
(ウ) 被告事業団の債務不履行
被告事業団は、本件診療契約に基づき、太郎の術後の容態の急変に適正に適正に対処することが可能なように医師を適正に配置するべき注意義務があった。
しかるに被告事業団は、上記注意義務を怠り、太郎の一回目の呼吸停止を生じた直後に適正な処置を取ることができず、太郎を低酸素脳症に至らしめた。
また、被告事業団は、履行補助者たる被告医師ら前記(ア)の不完全な履行により、太郎を低酸素脳症に至らしめた。
したがって、被告事業団には本件診療契約に基づく債務不履行責任がある。
イ 被告らの主張
(ア) 被告医師らの過失(注意義務違反)の不存在
本件手術は、気道に直接損傷が加えられず、縫合部も咽頭にないため、気道内に血液が流れ込むおそれは少ない。術後出血がもっとも起こりやすいのは麻酔の覚醒時に体動が激しく起こる際であり、覚醒が良好であればICU室に移動して一時間も問題がなければ通例十分である。太郎は、手術中の出血量も少なく、手術は極めて順調に行われ、その後の覚醒も順調で、新たな出血もなく、術創部からの出血を吸引するためのリリアバックドレーン(以下「ドレーン」という。)も機能し、術後の状態も申し分なかった。ICU室に移った後は、太郎は会話もできるほどであった。したがって、被告医師らには、原告ら主張のように、本件手術後六時間被告病院内で待機する義務はなかった。
被告医師らに太郎の呼吸停止・心停止を予見すべき義務はない。術創からの出血も静脈性のものであり、ドレーンが機能していたことに照らせば、通例では短時間のうちに大きな血腫が生じることはない。また血腫が形成されたとしても、解剖学的見地から、通例では血腫によって気道が圧迫・閉塞されることもない。さらに、鼻からネーザルエアウェイを挿入していたにもかかわらず、呼吸困難に陥いることも通例では生じない。
低酸素脳症は回避し得なかった。太郎の午後一一時三〇分ころの呼吸停止に対しては、アンビューバックによって呼吸状態が改善している以上、その時点において、被告医師らが診察していたとしても、気管切開や経口エアウェイの処置を取ることはない。被告乙野医師がICU室に到着した時点では、太郎は、血圧や脈拍に異常はなかった。
(イ) 太郎に対する術後管理の状況
被告らは、太郎に対し、ICU室において、モニター機器などによる厳重な観察やベテラン看護婦らによる継続的・重点的な看護を行い、非常時には当直医による応急的処置や担当医師がごく短時間(二〇分ないし三〇分)で駆けつけられる場所に所在するような厳重な管理体制を取っていたものであり、本件手術当日の当直医池間医師に対して、引き継ぎの際に、太郎は重症患者として報告がなされた。
太郎の呼吸困難・呼吸停止に対しては、池間医師によりアンビューバッグによる人工呼吸が施され、適切な処置がなされている。その後、池間医師が担当医師による処置が必要であると判断し、被告丙野医師に連絡がされ、同医師により血腫の除去等や気管切開が行われている。
(3) 損害
ア 原告らの主張
(ア) 太郎の損害
太郎は、前記(2)ア(ア)ないし(ウ)の被告らの過失及び注意義務違反により低酸素脳症に至り、平成八年一月一一日の経過をもって低酸素脳症の症状が固定し、この時点において労働能力を完全に喪失し、下記のとおり損害(合計一億三五一一万一六一四円)を被った。
a 症状固定前の損害
合計一〇一五万六八三〇円
(a) 治療費 二一〇万四八三〇円
(b) 休業損害 五八三万二〇〇〇円
(c) 入院慰謝料 二二二万円
b 症状固定後の損害
合計一億二四九五万四七八四円
(a) 治療費 二〇七万三六〇〇円
(b) 逸失利益
九六八八万一一八四円
本件手術により、太郎の舌癌は全て除去され、予防的に頸部郭清術もなされたのであって、近い将来における死亡が客観的に予測される事実は存在しないから、太郎はその後一一年間にわたって稼働が可能であった。
太郎は、平成七年七月一一日当時、××株式会社の代表者取締役であり、不動産業及びパチンコ店二店舗の経営者として稼働していた。そのため、退院直後から業務に復帰することは可能であり、本件手術により太郎の仕事が制限され収入が減少するという状況にはなかった。
(c) 後遺障害慰謝料 二六〇〇万円
(イ) 太郎の損害賠償請求権の相続
原告らは、太郎の死亡により、前記(ア)の損害額合計一億三五一一万一六一四円の二分の一である六七五五万五八〇七円宛の損害賠償請求権を相続した。
(ウ) 原告らの損害
a 葬儀費用
原告春子について 一二〇万円
b 慰謝料
原告ら各自について 五〇〇万円
本件事故により、原告春子にとっては夫との、原告夏子にとっては、父親との、愛情の交流を含む人間としての関わりあいを断ち切られたのであり、各々の精神的打撃は計り知れないものがある。その精神的苦痛に対する慰謝料は原告ら各自について五〇〇万円を下回らない。
c 弁護士費用
原告春子について 一四六七万円
原告らは、被告らが太郎及び原告らが被った損害の任意の賠償に応じないため、やむなく原告ら訴訟代理人に対し、本訴の提起、追行を委任し、その費用及び報酬として原告春子が上記の金員を支払う旨約した。
イ 被告らの主張
仮に被告らに責任があるとしても、損害の発生及びその額について争う。
(ア) 症状固定前の太郎の損害について
術後六か月間は入院ないしリハビリの期間であるから、就労不可能であり、休業損害は生じない。
(イ) 症状固定後の太郎の損害について
a 死亡後の逸失利益について
太郎は、本件手術からおよそ半年後の平成八年二月六日、舌の左側部分に舌癌を再発した。太郎は、この舌癌の局所再発やそれに対する放射線照射、糖尿病、副鼻腔炎(蓄膿症)などにより、頸部皮膚壊死、頸動脈出血を来たして死亡したものである。癌の再発メカニズムに照らせば、太郎は本件事故当時、すでに舌の左側部分に癌が転移していたことは明らかであり、太郎の再発癌はもはや手術できるような状態にはなく、仮に手術をしても救命することは困難である。また、癌が再発した場合の生存率や治癒率は極めて低い。
したがって、太郎においては、本件事故当時において「死亡の原因となる具体的事由が存在し、近い将来における死亡が客観的に予測されていたなどの特段の事情」が存在していたといえ、太郎には死亡後の逸失利益は認められない。
b 就労可能性について
本件手術は、舌の機能的な回復を図るものではなく、身体的に障害が残るので、本件事故がなかったとしても、就労は不可能であり、逸失利益は発生しない。少なくとも労働能力喪失率を一〇〇パーセントとすることは現実的ではない。
(ウ) 慰謝料について
癌という極めて重篤な疾患患者に対する術後管理が問題となっている事案であることを考慮すべきであり、原告らの主張する慰謝料額は過大にすぎる。
第3 当裁判所の判断
1 被告病院における診療経過(平成八年七月一三日ころまで)
前記第2の1の事実及び証拠(甲1の(3)、3ないし8、15、29、乙1の(1)、(2)、2ないし5、証人五十嵐啄司、同佐々木、同山口、原告春子本人、被告丙野本人、同乙野本人)並びに弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められる。
(1) 本件手術終了までの経緯
ア 平成七年四月四日、太郎は、被告病院の耳鼻咽喉科を受診し、被告乙野医師により舌右側に最大径約4.5センチメートルの潰瘍を伴う腫瘍(癌。以下「本件舌癌」という。)が存し、右頸部に転移しているとの診断を受け、同月五日、被告病院に入院し、主に投薬を中心とした化学療法を受けた。
なお、本件舌癌は、平成六年一〇月には舌の異常が感じられるようになっており、本件手術当時、太郎には摂食障害や発語障害が生じていた。
イ 太郎は、平成七年七月一一日(以下、特に断らない限り平成七年七月一一日を指す。)、本件舌癌の外科的切除を目的とした舌(右側)半切除術、右頸部郭清術、前腕皮弁による舌再建術を内容とする本件手術を受けた。本件手術の執刀医は、被告乙野医師及び甲田三郎医師、助手は、被告丙野医師、被告丁野医師及び乙田四郎医師であり、被告乙野医師は、本件手術を含め太郎に対するチーム医療の責任者であった。本件手術は、午前一〇時一七分ころから午後八時二〇分ころまでの約一〇時間に及び、麻酔時間は午前九時一五分ころから午後八時三五分ころまでの約一一時間二〇分に及んだ。
ウ 本件手術の内容は、大要以下のとおりである。まず、右頸部を「エ」字型に切開し、頸部内部の外頸静脈等を剥離し、胸鎖乳突筋、肩甲舌骨筋を切断し、その下の内頸静脈を二重結紮して切断し、頸部のリンパ節や脂肪組織等の内部組織等とともに上方へ剥離した(右頸部郭清術)。次に、舌中央部に針糸を懸けて前方に引き出し、舌根部を残して右側舌半分、口腔底を切開し、右切開部を下顎骨内側より剥離し、同部より頸部郭清の内部組織とともに摘出した(舌半切除術)。そして、左前腕皮弁を採取し、舌正中部、舌根部及び下顎歯肉部と縫合し、静脈は外頸静脈部と、動脈は顔面動脈とそれぞれ吻合させ、左前腕部の皮膚欠損部に左大腿部より採取した皮弁を移植した(再建術)。
その後、術創部の皮下や粘膜下に生じた出血を吸引するための装置であるドレーンを頸部の切開線の外側から二本挿入し、切開した皮膚を元の位置に戻して縫合し、ドレーンが機能しているのを確認して、縫合部に抗生剤の軟膏を塗布し、縫合部全体にガーゼを当てて絆創膏で固定した。また、太郎の呼吸を補助するために、鼻腔内にネーザルエアウェイ(以下単に「エアウェイ」ということがある。)を挿入した。
エ 本件手術中の太郎の出血量は約四〇〇ccであり、本件手術は特に問題もなく順調に終了した。太郎はバイタルチェックを受け、手術終了時の血圧は一六一/七三mmHg(最高/最低。以下血圧については単に数値で表示する。)、脈拍六九であり、呼吸状態も良く、意識もあり、麻酔からの覚醒も順調であった。
オ なお、太郎は本件手術当時、糖尿病の既往があったが、感染症等には罹患していなかった。
また、本件手術後の病理検査の結果では、本件舌癌のリンパ節転移は認められなかった。
(2) 本件手術後の経過
ア 被告医師らは、約一週間の予定でICU室で太郎の術後管理を行うことにして、太郎にドレーンやエアウェイを装着させたまま、ICU室に移動した。その際、原告春子が太郎に対し声をかけたところ、太郎はうなずいて応答していた。
イ 午後九時五〇分後ころ、太郎は、ナースコールをして、ICU室に来室した佐々木看護婦に息苦しさを訴えた。太郎には、ウルトラネブライザー(痰を吸引しやすくするため気道に湿気を与えるための噴霧器)が設置され、佐々木看護婦は、鼻腔内に挿入されていたエアウェイからチューブを入れて、頻繁に痰を吸引した。
午後一〇時ころ、太郎が喘鳴を起こしていたため、佐々木看護婦が吸引を行ったところ血性痰が認められた。太郎の動脈血中の酸素飽和度(以下単に「酸素飽和度」という。)は一〇〇%を示し呼吸状態は良好であった。
被告乙野医師は、看護婦ら、当直医や被告丙野医師及び被告丁野医師に対し、太郎の術後管理について何らの具体的な手術をしないまま、午後一〇時すぎころ、帰宅のため被告病院から退出した。
午後一〇時三〇分ころ、太郎は、咳払い等をして息苦しさを訴えたり、もがくように体を動かしていたが、酸素飽和度は九八パーセントないし一〇〇パーセントを示し、特に呼吸困難に陥っているような状態ではなかったため、看護婦らは、頻繁に吸引を行い、そのまま経過を観察していた。
午後一〇時三五分ころ、山口看護婦は、被告丙野医師及び被告丁野医師に太郎の上記症状を報告したところ、両医師から、様子を見るように指示を受けた。被告丙野医師は、上記報告を受けた際、特に太郎を診察することはしなかった。
午後一〇時四〇分ころ、太郎の頸部縫合部上を覆っていたガーゼ上に一センチメートル程度の大きさの血性のしみが認められた。太郎の体動が続き、最高血圧が約一五〇であったため、山口看護婦は太郎に対し、吸引の際に力まないように指示し、太郎はこれにうなずいたが、体動はおさまらなかった。太郎は、意識清明であり、チアノーゼはなく、脈拍は一二〇であった。
被告丙野医師は、当直医や看護婦らに対し、太郎の術後管理について何らの具体的な指示をしないまま、午後一一時ころには、帰宅のため被告病院から退出した。また、被告丁野医師も、看護婦らに何か異常があれば連絡するように指示したのみで、具体的な指示をしないまま、午後一一時前には、帰宅のため被告病院から退出した。
ウ 午後一一時ころ、太郎のガーゼ上の血性のしみが約五センチメートルの大きさに拡大し、また、ドレーンから排出された出血量の増量が認められた。看護婦らは、危険な状態と考え、被告丁野医師に上記症状を報告するためその自宅に電話したが、同医師が帰宅途中であったため家族に伝言したのみであった。また、太郎の体動が続き、血圧も上昇していたため、山口看護婦は、ソセゴン(痛み止めの薬剤)を注射しようとしたが、太郎が拒否したので、注射をせず、そのまま様子を観察していた。
午後一一時二〇分ころ、太郎は、依然として咳払い等をして喘鳴を頻繁に繰り返しており、看護婦らは、その度に吸引を施した。太郎は、酸素飽和度九八パーセント、意識清明であり、チアノーゼはなく、脈拍は一三〇台であった。しかし、太郎の体動がさらに激しくなり、ガーゼ上の血性のしみが約一〇センチメートルの大きさに拡大し、最高血圧も二〇〇に上昇したため、山口看護婦は、これ以上出血が増えると危険であると判断し、太郎にソセゴン一五gを注射した。
午後一一時二五分ころ、被告丁野医師は被告病院に電話し、山口看護婦から太郎の上記症状につき報告を受け、すぐに被告病院に戻ることにした。
エ 午後一一時三〇分ころ、佐々木看護婦が太郎に対し吸引を行っていたところ、突然太郎の酸素飽和度が低下し、呼吸停止に陥った。太郎は、眼球を上転させ、チアノーゼを示し、脈拍は八〇に低下していた。山口看護婦が気管に空気を送るために、太郎の口腔内に舌を押し広げてエアウェイを挿入し、佐々木看護婦が吸引を開始したところ、太郎は自発呼吸を回復した。太郎の舌は口からとび出すほど大きく腫れていた。その後、看護婦らは、太郎にアンビューバックを装着して人工呼吸を行い、当直医の丁川医師に連絡した。
丁川医師は、すぐにICU室に駆けつけたが、山口看護婦に対し緊急に喉に穴をあける道具であるトラヘルパーの準備を指示しただけで、それ以上の処置を取らなかった。この時点での太郎の最高血圧は一〇〇、脈拍は九二であった。
そのころ、被告丙野医師は、佐々木看護婦から太郎が呼吸停止に陥ったとの電話連絡を受けた。午後一一時三〇分すぎころには、看護婦らは原告春子に連絡をした。
オ 午後一一時四〇分ころ、太郎は、自発呼吸を続けていたが、呼吸状態が完全には回復していなかったため、佐々木看護婦は、アンビューバックで酸素吸入を続けていた。太郎は、最高血圧一〇〇、脈拍九三であり、チアノーゼは徐々に消失した。
午後一一時四一分ころ、酸素飽和度は九二パーセント、脈拍が一二〇ないし一三〇台になり、また、血圧は二一六/八六に上昇した。
午後一一時四三分ころには八〇パーセントに低下し、血圧は二〇四/八二、脈拍は一三八であった。丁川医師は太郎に対し、心機能を補強するためにボスミン一A及びメイロン二五〇mlを側管より注射した。
カ 午後一一時五一分ころ、血圧は一一二/六〇、脈拍は一二六となり、五四分ころには、脈拍が三八にまで低下し、五五分には脈拍を触知できない状態になった。同時に、心電図モニター上の心拍数が零を示し、太郎は心停止に至った。丁川医師は、心臓マッサージを施行し、看護婦らは、太郎の舌を押し広げて口腔内にエアウェイを挿入し、呼吸を頻繁に施した。太郎の舌は口唇からとび出してしまうほどに腫脹していたが、呼吸停止には陥っていなかった。
午後一一時五六分ころには、酸素飽和度九五パーセント、血圧一四一/八〇、脈拍一三〇となった。
キ 同月一二日(以下特に断わらない限り平成七年七月一二日を指す。)午後零時ころ、被告丙野医師がICU室に駆けつけ、直ちに太郎を診察したところ、太郎は自発呼吸は認められたが呼名反応はない状態であった。血圧は二二〇/八〇、脈拍は九八、酸素飽和度は八〇パーセント台であった。被告丙野医師は、術創部からの出血が呼吸停止及び心停止の原因ではないかと考え、頸部のガーゼを外したところ、頸部全体に腫脹が認められた。そのため、被告丙野医師は、術創からの出血が皮下に貯蓄していると考え、前頸部と下顎部の縫合部を抜糸して開創したところ、皮下組織内部に母指頭大の凝塊血五ないし六個が生じていたので、これを除去し、ガーゼで創部を拭いて止血処置をした。凝塊血は静脈性のものであり、動脈性の出血により大量の血液が固まっているという状態にはなかった。その後、太郎の酸素飽和度は、一〇〇パーセントに回復した。
そのころ、被告乙野医師は、看護婦らから太郎が危篤状態であるとの電話連絡を受けた。
午前零時一〇分ころ、太郎の最高血圧は二〇〇台であり、被告丙野医師は、血圧の上昇を抑えるために、山口看護婦に指示して、太郎の鼻腔内にアダラート(抗高血圧薬)一カップを注入した。
午前零時一五分ころには、太郎は、自発呼吸も認められ、酸素飽和度九九パーセント、血圧一五四/六〇、脈拍九四となり、チアノーゼも消失したが、呼名反応を示さないままであった。被告丙野医師は、太郎が再度呼吸停止に陥る危険があると判断し、そのころ、ICU室に駆けつけた被告丁野医師とともに、気管切開を開始した。その際、気管内に大量の血性痰や血液はなかったが、気管は圧迫され左側に寄っていた。
太郎のバイタルサインは、午前零時二〇分ころ酸素飽和度八八パーセント、血圧一五六/八〇、脈拍九三となり、三〇分ころには酸素飽和度九四パーセント、血圧一五四/六四、脈拍一〇一となっていた。そのころ、被告乙野医師が、ICU室に駆けつけ、同医師は直ちに太郎の診察をはじめ、気管に高研式カニューレ一〇号を挿入し、四〇分ころから酸素吸入(Tピース一二l・五〇パーセント)を開始した。
午前零時四五分ころ、酸素飽和度九八パーセント、血圧八五/四〇、脈拍一二八となった。気管切開終了後、頸部や創部の処置のためペンローズ・ドレーンを二本挿入して再縫合した。
午前零時五三分ころ、太郎は、酸素飽和度九六パーセント、血圧九五/四三、脈拍一二六であり、チアノーゼも認められなかったが、意識状態は、対光反射が緩慢にあるだけで、呼名反応はないままであった。
ク その後、被告医師らは、CT検査を施行し、意識状態を診断するために、被告病院の脳神経外科の五十嵐啄司医師(以下「五十嵐医師」という。)に診察を依頼した。五十嵐医師は、太郎を診察し、太郎は痛みに対して開眼し右上肢以外の四肢も弱い反応を示すが、意思疎通はできない状態にある、CT上は皮質と髄質の境界の喪失等が認められず正常の範囲内であり、頸部に形成された血腫が頸動脈を圧迫し、血流を遮断している可能性もあり得るが、特に脳外科的な処置の必要はなく、先ず全身状態を改善させることが優先であるとの診断をした。
ケ 太郎は意思状態を改善しないまま、平成七年七月一三日ころ、MRI及びCT等の諸検査の結果、低酸素脳症であるとの診断を受けた。
(3) 認定の補足説明
原告らは、太郎は心停止の際に二回目の呼吸停止に陥ったものであり、心停止の時間は七分ないし八分であると主張する。
しかしながら、上記の呼吸停止の点については、太郎が心停止に陥った際に蘇生処置をした証人山口は、太郎の呼吸が停止したことを明確には供述しておらず、かえって、同佐々木は、太郎が呼吸はしていたと思う旨供述しているのであり、他にこの点を認めるに足りる証拠はない。また、心停止の時間については、証人五十嵐は、ショック状態から心停止に至った時間を記載したものであり心停止の時間を記載したものではない旨を供述しているところ、甲第7号証及び乙第1号証の1(被告病院作成の入院診察録)には、「モニター上で、ショック→心停止の時間が七〜八分」との趣旨が記載されていることに照らすと、同人の上記記述は信用するに足りるものであり、他にこの点を認めるに足りる証拠はない。
また、被告らは、当直医の池間医師に対し、太郎は、重症患者として報告がされていたと主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。
2 呼吸停止等の原因(争点(1))について
(1) 前記1(2)の事実によると、太郎は、平成七年七月一一日午後一一時三〇分ころに呼吸停止に陥り、午後一一時四五分ころ心停止となったものであるが、同月一二日午前零時ころ、被告丙野医師が、術創部の頸部のガーゼを外したところ、頸部全体に腫脹が認められ、皮下組織内部に、母指頭大の凝塊血が五ないし六個生じているのが認められ、太郎の気管は圧迫されて左側に寄っていたことが認められる。
証拠(被告乙野本人、被告丙野本人)及び弁論の全趣旨によると、舌根部と咽頭部は隣接しているところ、舌根部から咽頭部にかけては明確な境界があるわけではなく、粘膜及びその粘膜下の組織は互いに連絡していること、頸部は、舌根の下部に舌骨、甲状軟骨、輪状軟骨があり、この舌根の下部については、圧迫によって気道が閉塞する可能性は低いことが認められる。
上記の太郎の頸部の状態と医学的知見によれば、気道が閉塞した部分は、舌根部ないし咽頭部であると推測するのが相当である。
(2) 前記1(2)の事実によれば、上記の頸部の状態のほか、同月一一日午後一一時三〇分の時点で、太郎の舌は、口からとび出すほど大きく腫れていたことが認められる。
ところで、証拠(甲16、被告丙野本人)及び弁論の全趣旨によると、舌癌を含む口腔癌の手術においては、手術直後は、手術侵襲や麻酔による呼吸機能回復の遅れとともに、気道内分泌量の過多、舌根沈下、口腔内創からの出血、頸部における血腫形成と浮腫などにより気道の狭窄がおこりやすく、また、血腫が発生し急激に頸部の腫脹が増強すると、咽頭浮腫のため気道閉塞が起こりやすいこと、本件手術では舌根部には手術侵襲が加えられていないが、粘膜下に血液や浸出液が入り込んで鬱血を起こし、舌根部が腫脹する可能性があったことが認められる。
上記の太郎の頸部及び舌の状態と医学的知見によれば、舌根部に血液や浸出液が入り込んで鬱血を起し、腫脹したこと、ないしは頸部の血腫のため頸部が腫脹し、咽頭浮腫が生じたことにより、太郎が気道閉塞に陥り、呼吸停止・心停止に至ったものと推認するのが相当である。
被告乙野は、この点に関し、本件手術のように舌根部を残した舌半分の切除の場合は、咽頭浮腫による気道閉塞は起こらない旨供述するが、舌根部と咽頭部は隣接しており、舌根部から咽頭部にかけて明確な境界線があるわけでなく、粘膜及びその粘膜下の組織は互いに連絡していることは前記(1)のとおりであるから、上記供述は採用できない。
3 被告ら過失等(争点(3))について
被告医師らに医師としての過失及び注意義務違反があったか、被告事業団に本件診療契約上の債務不履行があったかどうかについて検討する。
(1) 前記1(2)のとおり、太郎は、平成七年七月一一日午後一一時二〇分ころには最高血圧が二〇〇に上昇し、ガーゼ上の血性のしみが大きさも一〇センチメートルと拡大し、体動も続くという状態になり、午後一一時三〇分ころには呼吸停止に陥り、その後も血圧等の不安定な状態が続き、五五分ころ心停止に陥っているのであるから、太郎に対して、まず、術創部を診断して止血処置をするなど、気道狭窄を予防するための処置を施し、呼吸停止に陥った後においては、気管切開などの処置により気道の確保を酸素投与を行うべきであり、かかる処置を迅速かつ確実に行えば、太郎の心停止、低酸素脳症は起こらなかった可能性が非常に高いものと認められる。
しかるに、当直医及び看護婦は、太郎に対して吸引や薬剤の投与の処置をしただけであり呼吸停止後においてもエアウェイの挿入、アンビューバックの装着等第一次的な呼吸補助の処置と薬剤の投与がなされただけでそれ以上の蘇生処置がとられなかったことは、前記1(2)のとおりである。
(2) ところで、本件手術は、一〇時間に及ぶ手術であって、太郎は、手術部位は限定されていたものの、本件手術により相当大きな全身的侵襲を受けたものと考えられる。舌癌を含む口腔癌の手術においては、手術直後は、手術侵襲により、気道内分泌量の過多、舌根沈下、口腔内創からの出血、頸部における血腫形成と浮腫などにより気道の狭窄が起こりやすく、また、血腫が発生し急激に頸部の腫脹が増強すると、咽頭浮腫のため気道閉塞が起こりやすいことは前記2(2)のとおりであり、また証拠(甲16)によれば、血腫は手術終了後六時間以内に起こることが多いとされていることが認められる。そうすると、太郎に対しては、厳重な術後管理が必要とされていたものというべきである。
そして、上記によれば、被告医師らは、太郎が本件手術後に気道閉塞に陥るおそれがあることを予見できたものというべきであり、また、被告丙野医師及び被告丁野医師については、看護婦から、太郎が同月一一日午後一〇時三〇分ころ体動が激しくなっているとの報告を受けたのであるから、太郎が気道閉塞に陥るおそれが強かったことを予見できたものというべきである。
しかるに、前記1(2)のとおり、被告乙野医師は、本件手術についてのチーム医療の責任者であったのに、被告丙野医師、被告丁野医師、池間医師、看護婦らに何の指示をすることもなく、同月一一日午後一〇時すぎに被告病院から退出し、被告丙野医師、被告丁野医師も、看護婦から、上記太郎の異常状態の報告を受けながら、同日午後一一時には被告病院を退出していたのであるから、被告医師らは、太郎の術後の状態を厳重に管理すべき注意義務を怠ったものというべきである。
(3)ア 被告らは、本件手術は直接気道に操作を加えていないので血腫によって気道が閉塞されることはないし、エアウェイを挿入していたにもかかわらず呼吸困難に陥ることも考えられないことから、呼吸停止及び心停止を予見できなかったた主張し、被告乙野及び被告丙野も同主張に沿う供述をするが、太郎が咽頭浮腫ないし舌根部の腫脹により気道閉塞に陥ったと推認されることは、前記2(2)のとおりであり、被告乙野及び被告丙野の各供述は採用できない。
イ 被告らは、術後管理はICU室においてベテラン看護婦による監視をし、当直医も呼吸停止や心停止に対し適切な処置を行ったと主張する。しかし、前記(2)で検討したとおり、被告らは、特に、緊急事態に即応できるように厳重な術後管理をすべき義務を負っていたのであって、単にICU室において監視するという管理だけでは足りないことは明らかである。また、被告医師らがICU室に駆けつけた後、直ちに、止血処置や気管切開、酸素吸入等を講じたにもかかわらず、太郎の意識状態は改善しなかったのであるから、上記の当直医及び看護婦らの第一次的な処置だけでは不十分であったことも明らかである。したがって、被告らの上記主張は採用できない。
(4) 被告事業団は、被告医師らを使用し、被告医師らが被告事業団の業務の執行中、前記過失により本件事故を惹き起こしたのであるから、被告事業団には不法行為上の使用者責任があるというべきである。
4 太郎の死亡原因及び太郎の死亡と本件事故との相当因果関係について
(1) 本件事故後の太郎の症状等
前記第2の1の事実及び証拠(甲1の(1)ないし(3)、2、6、23の(1)、(2)、35、乙1の(1)ないし(5)、証人五十嵐、被告乙野本人)並び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
ア 本件事故後、太郎の意識状態は改善せず、意思疎通もできずに寝たきりの状態のまま、引き続き被告病院に入院して治療を受けていた。
太郎は、平成七年七月二一日、脳外科により、失外套状態(眼球運動はあるが随意的ではなく、疎通性も失われ、精神的な反応は全くない状態)が継続しているとの診断を受け、同月二八日、神経内科により、大脳機能が広範に障害されているとの診断を受け、同年八月二二日、頭部のMRI検査の結果、脳萎縮が進行し、脳室及び脳溝が拡大しているとの診断を受け、低酸素脳症が悪化していることが認められた。
また、同年九月一五日、脳外科により、全般的な神経状態は本質的に改善されず、慢性期に至っているとの診断を受け、同年一一月六日、MRI検査の結果、びまん性脳萎縮が認められ、基底核がスポンジ様になる等の低酸素脳症の悪化の所見が認められた。
イ 上記のように、太郎は、被告病院の耳鼻咽喉科、脳外科、神経内科等において諸検査や治療を受けたが、意識障害は改善せず、自発的に開眼し、自発的眼球運動はあるが、外界への反応はなく、四肢は屈曲拘縮位のまま動かず、失外套症候群を呈し、平成八年一月一一日ころ、症状が固定したとの診断を受けた。太郎は、鼻腔からの経管栄養を受け、糞尿失禁があり導尿等を実施し、四肢は麻痺し意思疎通は全廃というほぼ植物状態に近い状態を呈していた(以下「本件後遺障害」という。)。
ウ 太郎は、症状固定後も、引き続き被告病院で入院治療を受けていたが、平成八年八月一三日ころから口腔底から頸部にかけての縫合部皮膚上に瘻孔が形成された。その後、瘻孔は徐々に拡大し、同年一〇月一六日ころ壊死に至り、同月二六日ころから頸動脈からの出血が認められた。この出血は、本件手術により舌根部及び下顎歯肉部に移植された前腕皮弁の皮膚皮下組織が壊死し、筋皮弁へ壊死が進み、その下にある頸動脈が剥き出しになり頸動脈も壊死に至り、血管がもろくなって、生じたものである。その後も瘻孔部から動脈性出血が続いたため、同月二八日、被告乙野医師らは、大量出血や気道内流入による呼吸停止を来す危険性があると判断し、出血を止めるために、同日午後四時ころから総頸動脈結紮術を施した。同手術により太郎の出血は治まった。
エ 太郎は、同年一一月一八日午後一一時三〇分ころから血圧が低下し、同月一九日ころから呼吸も浅くなり、同月二〇日午後八時二〇分ころ血圧が三〇以下に降下し、被告乙野医師により心臓マッサージ等の蘇生処置が講じられたが、午後九時四分死亡した。
(2) 太郎の死亡原因
被告らは、太郎は、舌癌の再発により死亡したのであり、太郎の死亡原因は舌癌の再発であると主張する。
確かに、乙第5号証(被告病院作成の病理組織検査報告書)には、舌根部にはアヤシイ所見が認められるとの記載があり、また、乙第1号証の3(被告病院作成の診療録)の平成八年二月六日の経過記録及び指示事項欄には、「肉芽→再発か?」との記載が、また同年三月一九日には、再発部位への放射線照射の依頼をしている旨がそれぞれ被告乙野医師により記載されているが、他方、被告乙野も、本人尋問において、癌の再発や転移についてはあいまいな供述をしているにすぎず、被告病院作成の死亡届兼死亡診断書(甲2)には、舌癌の再発を窺わせる記載は全く存しないことを合わせ考えると、上記の各記載の存在だけから直ちに舌癌が再発していたと断定することはできない。
そして、証拠(甲2)によれば、太郎の直接の死因が敗血症であることは明らかであり、敗血症は血液中に細菌が入り感染症を生じて全身状態を悪化させる傷病であるところ、前記(1)ウの事実及び証拠(乙1の(3)ないし(5)、被告乙野本人、原告春子本人)によれば、太郎は、平成八年八月一三日ころから瘻孔部から悪臭を発し滲出液、膿汁等を流出させて同部分の下にある頸動脈から出血したこと、総頸動脈結紮術により、太郎の出血は一応止まったが、壊死部分は依然として悪臭を発生させ、滲出液等を流出させていたことが認められる。
また、乙第1号証の3(被告病院作成の入院診療録)の平成八年一〇月二七日の経過記録及び指示事項欄には、頸動脈出血の原因につき、腫瘍の影響及び感染によるものと思われるとの趣旨が被告乙野医師により記載されており、被告乙野も、本人尋問において、壊死の部分が感染巣になり緑膿菌その他混合感染を起こして徐々に全身状態が悪化したとの供述をしているのである。
以上の各事実を総合して考慮すれば、太郎は、平成八年八月一三日ころから、瘻孔部において何らかの感染症に罹患し、敗血症に至り、全身状態を悪化させて死亡したものと推認されるのであって、太郎の死亡原因が舌癌の再発であることは認めることはできない。
(3) 本件事故と太郎の死亡との相当因果関係
前記(1)認定の事実と前記(2)に判示したところによれば、太郎は、本件事故により心停止を起こして低酸素脳症に至り、低酸素脳症の悪化等により全身の衰弱が進行したところ、口腔底から頸部にかけての縫合部皮膚上に形成された瘻孔部において何らかの感染症に罹患し、敗血症に至り、全身状態を悪化させて死亡したものと推認することができるから、本件事故と太郎の死亡との間には相当因果関係があるものというべきである。
5 太郎の損害
(1) 治療費 二五九万二九四〇円
証拠(甲20の(1)ないし(13)、21の(1)ないし(14))によれば、太郎は、入院治療費として、平成七年七月一日から同年一〇月一五日までの間に一五八万五四九〇円を、同月一六日から平成八年一月一五日までの間に五一万九三四〇円を、同月一六日から同年一一月二〇日までの間に二〇七万三六〇〇円をそれぞれ要したことが認められる。
ところで、前記1(1)認定の本件舌癌の大きさ及び本件手術の態様等と証拠(甲46ないし48)及び弁論の全趣旨によれば、太郎は、本件事故がなくとも、本件手術後、少なくとも三か月間は被告病院において入院治療を受ける必要があったと認められるから、平成七年七月一日から同年一〇月一五日までの間の入院治療費のうち、呼吸停止・心停止によって生じた低酸素脳症の治療、検査に要した費用及び同月一六日から平成八年一一月二〇日までの間の入院治療費が本件事故と相当因果のある治療費であるということができる。
上記事実によれば、平成七年一〇月一六日から平成八年一一月二〇日までの間の入院治療費は合計二五九万二九四〇円となるが、平成七年七月一日から同年一〇月一五日までの間の入院治療費のうち、呼吸停止・心停止によって生じた低酸素脳症の治療及び検査に要した費用の額を認めるに足りる証拠はない。
そうすると、本件事故と相当因果のある治療費は二五九万二九四〇円となる。
(2) 逸失利益(原告ら主張の休業損害を含む) 三〇九四万四七七八円
ア 前記1(1)認定の本件舌癌の大きさ、進行度及び本件手術の態様等と証拠(甲46ないし48)によれば、太郎は、本件手術後、咀嚼及び言語の機能に軽度の障害を残し、日常会話や食事の際に軽度の障害が生じたものと認められる。この障害は労働基準法施行規則別表第二身体障害等級表第九級六号に該当するものと認められ、旧労働省基準局長通牒別表第一労働能力喪失率表では、その労働喪失率は三五パーセントとされている。
証拠(甲19の(1)、39ないし42、49、原告春子本人)及び弁論の全趣旨によれば、太郎は、本件事故当時、遊技場の経営等を目的とする××株式会社の代表取締役であり、同社の経営や遊技場の店長、従業員の指導等に携わり、平成六年には年額一一六六万四〇〇〇円の収入を得ていたことが認められる。
上記の太郎の職務の内容等に照らすと、太郎は、本件手術による上記障害が残存しても、なお十分稼働可能であるものの、その労働能力は二〇パーセント喪失したものと推認するのが相当である。
イ ところで、前記1(1)認定の事実と証拠(甲30の(1)ないし(3)、31ないし34、乙1の(1)、5、6)によれば、太郎の本件舌癌はステージⅢに相当するところ、医学文献によると、舌癌のステージⅢの五年生存率は約五〇パーセントないし六〇パーセントとされていることが認められるから、太郎の五年生存率は約五〇パーセントないし六〇パーセントと認めるのが相当である。
そうすると、太郎の稼働可能年数が通常人と同様であるということはできず、その稼働可能年数は約五年間であると認めるのが相当である。
ウ 上記事実と前記(1)の事実によれば、太郎は、本件事故がなければ、約三か月間入院加療を受けた後の平成七年一一月二一日から少なくとも五年間は稼働可能であり、その間に、年間一一六六万四〇〇〇円の八割に相当する収入を得ることができたものと推認することができる。そして、前記4(3)のとおり、本件事故と太郎の死亡との間には相当因果関係があるから、太郎の死亡後はその生活費を控除すべきところ、太郎の生活費はその全期間について収入の三割を必要とみるのが相当である。
以上を基礎として、ライプニッツ方式により年五分の割合による中間利息を控除して、平成七年一一月二一日当時の現価を算出すると、三〇九四万四七七七円となる(計算関係は下記のとおり。円末満切捨)。
計算式
1166万4000円×0.8×{0.9523+(1−0.3)×(4.3294−0.9523)}=3094万4778円
(3) 慰謝料 一五〇〇万円
本件事故の態様及び結果、症状固定日までの入院期間、太郎の余命年数その他本件に顕れた一切の事情に照らせば、太郎の慰謝料としては、一五〇〇万円が相当と認められる。
6 相続及び原告らの損害
(1) 相続
前記5のとおり、太郎の損害は合計四八五三万七七一八円であるところ、原告春子は太郎の妻、原告夏子はその子であり、他に相続人はいないから、原告らは太郎の死亡により法定相続分に従い、上記損害の二分の一に当たる二四二六万八八五九円宛を相続したものである。
(2) 葬儀費用
弁論の全趣旨によれば、原告春子は、太郎の死亡に伴いその葬儀を執り行い、葬儀費用として一二〇万円を下らない支出を余儀なくされたものと認められる。
(3) 原告らの慰謝料
原告ら各自につき 一五〇万円
原告らは、本件事故により甚大な精神的苦痛を被ったものであるところ、前記5(3)の事情に照らせば、原告らの精神的苦痛に対する慰謝料としては、原告ら各自につき一五〇万円が相当と認められる。
(4) 弁護士費用
原告春子につき 五〇〇万円
弁論の全趣旨によれば、原告らは、原告ら訴訟代理人に対し、本訴の提起、追行を委任し、原告春子がその費用及び報酬を支払う旨約したことが認められるところ、本件事案の性質、訴訟の経緯及び認容額等の諸般の事情に照らすと、本件事故と相当因果関係のある原告春子の弁護士費用は、五〇〇万円と認めるのが相当である。
(5) 上記によれば、原告春子の損害は合計三一九六万八八五九円、原告夏子の損害は合計二五七六万八八五九円になる。
第四 結語
以上によれば、原告らの請求は、不法行為に基づき、原告春子が被告らに対し三一九六万八八五九円、原告夏子が二五七六万八八五九円及び上記各金員に対する不法行為の日である平成七年七月一一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないので棄却する。
(裁判長裁判官・丸山昌一、裁判官・菅原崇、裁判官・本多智子)