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千葉地方裁判所 昭和43年(ワ)194号 判決 1974年9月09日

原告

永井義憲

外一名

右両名訴訟代理人弁護士

斎藤浩二

小泉征一郎

楠田進

被告

千葉県

右代表者知事

友納武人

右指定代理人事務吏員

土井盛夫

外三名

被告

最首洋一郎

外三名

右五名訴訟代理人弁護士

内山誠一

右訴訟復代理人弁護士

今村精一

主文

被告最首および被告千葉県は各自各原告に対し各金九二三万六九四一円およびうち各金八六三万六九四一円に対する昭和四〇年五月六日から、うち各金六〇万円に対する本判決確定の日の翌日から右各支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

原告らの被告最首および被告千葉県に対するその余の請求ならびにその余の被告らに対する請求を棄却する。

訴訟費用中、被告羽島、被告京徳および被告林にのみ生じた分は原告らの、その余の部分は一〇分し、その九を被告最首および被告千葉県の、その余を原告らの負担とする。

事実

第一、当事者の求める裁判

(原告ら)

被告らは連帯して原告両名に対し、各金一一八七万五四四四円およびこれに対する昭和四〇年五月六日から右完済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告らの負担とする。

との判決ならびに仮執行の宣言。

(被告ら)

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする

との判決。

第二、原告らの請求の原因

一、原告らおよび被告らの地位。

原告義憲は訴外亡義照の父であり、原告ハツはその母である。

被告最首は昭和四〇年五月四日当時千葉県立長生高等学校第二学年に在学し、同校のクラブ活動の一である柔道部に属し、柔道初段の資格を有していたものであり、被告羽島、同京徳はいずれも右高等学校の教諭であつて、右柔道部の指導監督に当つており、被告林は当時右高等学校々長の職にあり、右被告羽島、同京徳、同林はいずれも地方公共団体である被告千葉県の地方公務員である。

二、事故の発生

亡義照は昭和四〇年四月長生高校に入学し、同月一五日ころ同校柔道部に入部したが、同年五月四日同校の柔道場において、柔道部指導の教諭である被告京徳に対し退部を申出た。

しかし被告京徳らは「そんなこといわずにやつてみろ」といつて練習参加を強要したので、義照はやむをえずこれに参加した。

そして被告最首との練習中に義照が意識不明となる事故が発生し、五月五日午前零時ころ手当を受けるため千葉大学附属病院へ向う途中救急車内にて死亡するにいたつた。

三、死因

右死亡の原因は被告最肯の暴行にあり、右暴行により義照は右半球瀰蔓性硬膜下出血及び両側頭部皮下出血、咽喉頭、気管食道部の高度のうつ血、肺うつ血及び出血、頸部輪状擦過傷及び皮下出血班、右耳下部栂指頭大擦過傷及出血、両肩部、腹部(下腹部を含む)両側腰部、両膝部擦過傷及び出血、心臓、肝臓、腎臓のうつ血、心臓、膵臓の小出血班の傷害を受け、頭部の強打による内出血を直接の原因として死亡するにいたつたものである。

四、被告最首の責任

被告最首は右義照が退部を申出たのを知つていたので、上級生として右義照の行動を生意気だと思い、同人を懲らしめる意図のもとに激しい練習を仕掛け、数分後には絞め技により同人を気絶するに至らしめた。しかし乍ら被告最肯は右義照に活を入れたうえ、同人がフラフラと立上るのを更に掴えて約十五分間に亘り、大内刈、小内刈、大外刈、背負投げ等の立技を用いて同人を投げとばしたため右義照はついに頭を打つて昏倒し、意識を失うに至つた。

被告最首は右暴行により亡義照を死亡せしめたのであるが、その暴行を加えるについて次の(一)記載のように未必の故意を有していたものであり、そうでなくとも次の(二)記載の重大な過失があつたものである。

(一)  被告最首は本件当時長生高校二年生であり、且つ柔道初段の資格を有して柔道についてかなりの経験を有する者であつた。したがつて、最首としては常識上、或は柔道有段者としての経験から、柔道において、場合によつては身体・生命に対して危険を生ぜしめることがあり、殊に未経験者、初心者に対しては危険を生ぜしめるおそれがあるものであることを十分知つており、且つ知り得べき立場にあつた。

ところが被告最首が義照に対して付けた稽古の状況は常識に反した、異常に烈しい、苛酷なものであつた。最首は柔道初段であり、義照は入部以来二週間生れて始めて柔道を経験した者であり、これでは柔道のような専門的な技術修得を要する分野においては力量において大人と子供の差があるものである。それを最首は危険な絞め技を用いて気絶させ、更に活を入れた後、フラフラする義照をつかまえて烈しい立ち技の後、背負い投げにより義照を床にたたきつけているのである。一度気絶した者は、たとえ活を入れて息を吹き返えしたにせよ、その直後においては意識がもうろうとして身体が通常の反射防衛機能を発揮し得ないであろうことは誰しも判ることであるが、右常識に反して練習を継続したうえ背負いなげという、場合によれば頭を打つて死亡するという重大な結果を惹起するおそれのある危険な技を仕掛けるということは、最首において右義照が頭を打つて死亡するに至つても構わないという未必の故意あるものといわざるを得ない。

(二)  また被告最首は僅か入部二週間で、未だ受身の技などを十分に習得していない義照に対して稽古を付けるに当つては第一に打ち所が悪くて怪我をしたり不具になつたりすることのないよう細心の注意を払うべき義務があり、いわんや絞め技のような危険な技を仕掛けてはならない注意義務があるにもかかわらず、右義務を怠り、安易に絞め技を用いて同人をして気絶せしめ、第二に、右のように一度気絶した者はたとえ活を入れられ息を吹き返したとしても、意識がもろうとしており、そのまま柔道の稽古を続けることは重大な危険を生ぜしめるおそれがあるから直ちに稽古を中止して休息させるべき注意義務があるにもかかわらず、右義務に違反して乱取練習を継続し、大内刈、小内刈、大外刈等烈しい技を連続仕掛けたうえ背負い投げのような危険度の高い技を用いて義照を投げ倒し、頭部を強打せしめ、よつて死亡に至らしめたものである。

したがつて同被告には民法第七〇九条の責任がある。

五、被告羽島および被告京徳の責任

被告羽鳥、同京徳の両名はいずれも柔道部の部活動の現場の指導監督に従事していたものであるが、特に新入部員を迎えた早々の時期であつたから、新入部員の練習については、特に指導に細心の注意を払い事故を未然に防止すべき立場にあつた。したがつてあらかじめ教師の監督なしに絞め技を行うべきでないことを教示するとともに、練習の状況を監視すべき義務があるが、右被告両名はこれを怠り、被告最首の義照に対する練習中、被告羽鳥は練習現場たる道場を離れており、被告京徳は自ら上級生の乱取練習に参加していたため、被告最首の前記暴行にまつたく気づかなかつたものである。もし、被告羽鳥あるいは被告京徳が被告最首の付げいこの状況を見守つていれば、被告最首の異常な烈しさに気づき、これを制止しえたものである。

しかも被告京徳は義照から退部の申出を受けたのであるから被告羽鳥に伝えて注意を促し、また練習前に部員に対して報復行為のないよう厳重注意すべきであるのにこれを怠つたものである。

右両名の過失も本件事故の一因であるから、右被告両名には民法第七〇九条による責任がある。

六、被告林の責任

被告林は学校長として使用者である被告県に代つて被告羽鳥および被告京徳を監督し、学校業務を管理する立場にあつたが、当時をさかのぼること約三年前、空手部にリンチ事件があつて空手部が解散させられるに至つたこともあつたから、かかる不祥事を防止するため細心の注意を払う義務があるが昭和四〇年四月七日の同高校の入学式に際し全教諭立会のもとに入学生徒に対して部を退部する際には担任の教師を通じて申出るように注意したにとどまり、担任教師に対する具体的な監督をしなかつた。

したがつて同被告には民法第七一五条第二項の責任がある。

七、被告県の責任

本件事故は、被告県の公権力の行使にあたる公務員である被告羽鳥、被告京徳および被告林がその職務を行うについて過失により惹起したものであるから、被告県は国家賠償法第一条による責任がある。

かりに被告羽鳥および被告京徳の指導、監督が公権力の行使にあたらないとしたならば、次のように主張する。

被告県は高校教育という事業のため、被告羽鳥および被告京徳を使用するものであるところ、右被告両名が右事業の執行について本件事故を惹起したものであるから、民法第七一五条第一項による責任がある。

八、損害

(一)  亡義照の逸失利益

亡義照は昭和二四年三月一九日生の男子で、死亡当時満一六才であつた。

ところで厚生省統計調査部編「昭和四〇年簡易生命表」によれば同人の平均余命年数は53.97年であるから、同人は六三才まで十分稼動し得た筈である。

同人は常日頃大学へ入り専門の研究をしたい旨家人に語つており、同人の、長柄町立昭栄中学校在学中の成績も常に上位を占めていた。したがつて長生高校卒業後大学に入学する能力はあつた。

また同人の家族も教育環境に恵まれており、同人を大学に進学させる十分な経済的条件を具えていたのである。即ち、同人の父である原告永井義憲は現在大正大学講師大妻女子大学教授、早稲田大学教授で文学博士の学位を有しており、兄義瑩現在東京農業大学農学部大学院博士課程に在学し、妹万里は現在大妻女子大学文学部に在学している。右の状況からすれば同人が生存していたならば大学に進学、卒業し得たであろうことは確実に推察し得るのである。

よつて同人は二十三才で大学を卒業し、少くとも六十三才まで四〇年間稼動し収入を得るものと考えられる。右収入の計算の基礎となる大学卒男子労働者の年令別平均賃金は、労働省統計情報部編賃金センサスによるのが最も合理的であるが、口頭弁論終結時(昭和四九年)に最も近接した年度である昭和四八年度のものは未発表であるから、同部編昭和四七年賃金センサス第一巻第一表全産業男子労働者企業規模計新大卒平均賃金を1.1倍したものを昭和四八年度のそれとするのが最も合理的である。なんとなれば、賃金センサスにおける新大卒平均賃金の各年度における前年比はいずれも1.1倍を優にこえているからである。(昭和四三年より昭和四六年まで、二〇―二四才の年令帯についてみれば、昭和四四年は同四三年の1.114倍、四五年は四四年の1.16倍、四六年は四五年の1.197倍、四七年は四六年の1.157倍である。因みに「自動車損害賠償責任保険損害査定要綱」昭和四八年一二月一日実施においても年令別平均賃金を四七年賃金センサスの平均給与額の1.1倍したものを充てている。)

右収入から控除すべき生活費は全稼働期間を通じて平均五〇パーセントとみるのが妥当である。

右により純収入を計算すれば別表一の通りとなる。

そして各年令帯毎にその最後の年令に達したときにその年令帯における純収入の合計額をうけとるものとして、ホフマン式計算法により、年五分の中間利息を控除して本件事故当時の現価を求めると別表二の通り合計金一九四六万七二〇円となる。

ところで亡義照が十六才より二三才(卒業時)に達するまで七年間に亘り、養育費の支出を要する。その額は毎月二万円(通例、一ケ月一万円とされているが、念のためこれを二倍に計上した)とすれば一ケ年で二四万円となり、ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除して事故当時の現価を算出すると次の通り金一四〇万九八三二円となる。

240,000円×5.8743(ホフマン係数)

=1,409,823円

同人は本件事故により右金員の支出を免れたので、前記収入の合計金額から控除すると、差引逸失利益は金一八〇五万〇八八八円となる。

(二)  義照の精神的損害、金一〇〇万円

義照は前途有為な学生であり、自分の将来に対して胸をふくらませ、希望に溢れて勉学にいそしんでいた。それを自分の気にすすまぬ道を途中から転換しようとした矢先に、本件事故にあつたものである。

よつて、その慰藉のために金一〇〇万円の支払を受けるのが相当である。

(三)  相続

義照の損害賠償債権は右(一)、(二)の合計金一九〇五万〇八八八円となるが、義照の死亡により原告両名は右損害賠償債権を各二分の一である九五二万五四四円宛相続した。

(四)  原告らの精神的損害

義照は生来まじめで勉強好きであり、文学、歴史などに深い興味を示し、中学の成績も常に上位であつた。したがつて仏教文学を専功して文学博士の学位をえた原告義憲にとつては、いわば自分の跡とりのようにも思われ、原告ハツともどもそのゆく末を楽しみにしていた。ところがこれを奪い去られ、しかもその原因について本人に咎めるべきところがないものであつただけに、その衝撃は大きく、悲嘆は限りなかつた。義照のほかには子供は兄義瑩と妹万里だけであつてこれから老境に入るに従い淋しさは言葉に尽くせないものがある。よつて原告らはそれぞれ慰謝料として各金一五〇万円の支払を受けるのが相当である。

(五)  弁護士費用

以上(三)、(四)を合計すると各一一〇二万五四四四円となるが、弁護士費用はその約七パーセントの各七五万円が相当である。

九、よつて原告両名は、被告らに対して連帯して損害賠償金各一一八七万五四四四円(一一七七万五四四四円の誤と思われる)およびこれに対する義照死亡の翌日である昭和四〇年五月六日から右支払ずみに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

第三、右に対する被告らの答弁

一、請求原因第一項の事実は認める。

二、同第二項の事実中、被告京徳らが義照に対し、練習参加を強要したことは否認する。

義照は被告京徳の説得により、退部の意思を撤回し自ら柔道着に着替えて練習に参加したものである。

その余の事実は認める。

三、同第三項中、右死亡の原因が被告最首の暴行によるものであることは否認する。その余の事実は知らない。

四、同第四項中、被告最首が柔道初段であり、亡義照が入部以来二週間始めて柔道を経験したものであること、および被告最首が亡義照と柔道の練習を行い、大外刈から寝技をかけたことは認める。

その余の事実は否認する。

被告最首は当時有段者として、一年生の新入部員と練習をすることになつており、偶然何人目かの一年生として義照と練習したものである。被告最首は、義照が被告京徳に退部の申出をした部室にはいず、柔道場で練習中であり、また誰からも右事実を知らされず、右事実をまつたく知らなかつた。

義照は、入部以来すでに三週間を経過して、一七四、六糎の身長および体重五五キログラムの体格ならびにその腕力を利用して、その技倆の進境は著しいものがあつた。義照は、受身練習はほぼ完全に修得し、危険を避けるため双方でかける技を約束して練習する「約束練習」も終り、自由に有段者と技をかけ合うほどに上達していた。体力のない被告最首がつぶされることもしばしばあつた程である。大人と子供の差があるというのはあたらない。

被告最首は自由技をかけ合う練習をし、次いで大外刈から寝技に入り数分間押えたり押えられたりした。この間被告最首は“絞め技”らしきものを二回ほど行つたことは事実である。しかしこの“絞め技”は絞め技の外形をしているだけで絞め技とは言えないものである。絞め技が真にきまれば、蘇生しても意識は数時間正確でなく以後は柔道の練習はできないことは柔道家のひとしく認めるところである。しかし被告最首の二回目の“絞め技”らしきもののさい、同被告が義照が気絶したものと感ちがいし、かねて聞いてはいたが実際にはその正確な方法も知らないいわゆる“活”をいれて、義照に「大丈夫か」と聞いたところ、同人は「大丈夫です」と元気よく答えているのである。その後は両名の話し合いのうえで立技を約一五分続けている。練習は二名の専門技術をもつた顧問教師の指導の下に行われていたのであり若し仮に義照がフラフラの状態であつたとすれば、顧問教師にわからぬはずがない。

五、同第五項中、被告羽鳥および被告京徳が柔道部の部活動の練習現場の指導監督に従事していたことは認めるが、その余の事実は否認する。

クラブ活動は特別教育活動の内にあつても、生徒が自主的に立案運営するもので、顧問教師の役割は技術面、金銭面について指導助言するにとどまる。その活動自体も教師の勤務時間外に行われるもので、正課体育授業における柔道とは質的に異る。

柔道部では、普通最初の礼の時から遅くとも準備運動中かそれが終了するまで、少くとも被告羽鳥か被告京徳のいずれかが出席することになつており、被告京徳が生徒と稽古している時は被告羽鳥が全体を、被告羽鳥が稽古しているときは被告京徳が全体を見ることになつていた。

初心者は講義一時間、受身二〇―二五時間、足りない生徒にはさらに五、六時間、その後打ち込み練習五時間、それから暫時乱取りに入り、そして基本練習が終るまでは部員同志が勝手な練習をしないように、新入部員の入つてくる学年はじめにはいつたん上級生も乱取り稽古をやめさせ、新入部員に対しては絞め技、関節技はしないように注意していた。被告最首の絞め技は積極的に用いたものではなく固め技からの脱出の時の自然のなりゆきであつた。

義照の場合には二〇時間かからずに受身はだいじようぶだと判断されており、しかも本件事故までには乱取り稽古に入つて四日が経過しているので、前記状況下での練習に参加させたことに右被告両名について責められる点はない。

被告羽鳥は糸井という生徒のBCG潰瘍が化膿し、柔道着に血がにじんでいたため、保健室に包帯をとりにいくために、被告京徳に声をかけた上で、五―七分の間柔道場から席をはずしたが、これは、監督者の義務の履行であつて過失に値しない。

被告京徳は上級生の技術指導をしていたが、その際も目立つ行為があればチェックできるようにしていたうえ、被告羽鳥が席をはずしてしばらくして技術指導をうち切つてステージのところへもどつたときに本件事故が発生したものである。

被告京徳は義照から聞いた話の内容は退部の申込というより、相談であり、しかも従来柔道部の新入生の退部者二―四名についてトラブルがなかつたのであり、この義照の話から、何らのトラブルを予想することはできなかつた。したがつてこれを被告羽鳥に連絡する必要もなかつたのである。

六、同第六項中、被告林が校長であり長生高校の総括管理者であること、入学式の時に退部の際には担任とか顧問の先生を通じて申出るように訓示したことは認めるが、その余の事実は否認する。右訓示は自校では退部に伴うトラブルがなく、特段の予見可能性はなかつたが、新聞その他他校の例に照し、万一の場合を慮つてしたものである。

クラブ活動は学校教育の一環として校長の一般的管理下に行われるが、放課後顧問教師の勤務時間外においては生徒の自主的運営の下に行われ、校長の監督権は大幅に制約を受けている。しかし、その中で柔道部については、危険を伴うスポーツであるから、専門家の顧問教師四名を配属し、一人だけはどんな場合であつても現場で指導するように委託し、またクラブ活動指導計画を作成させ、その結果についても校内巡回して見ていたものである。事故発生当時も被告羽鳥および被告京徳が指導監督にあたつていた。

七、同第七項中、被告県が被告林、被告京徳および被告羽鳥の使用者であることは認めるがその余の事実は否認する。公権力の行使とは国家統治権にもとづく優越的な意思の発動としての権力作用をいうが学校教育は、本来国民に対する支配権力の行使をその本質とするものではなく、国民の教化、育成をその本質とする非権力作用に属するものであり、しかもクラブ活動にあつてはその性質からして生徒の自発性を尊重して教師の指導、監督がなされるので、教師の意思は生徒に優越しても、著しく非権力的な社会作用である。したがつて被告羽鳥らは「公権力の行使に当る公務員」には当らず、したがつて国家賠償法第一条の適用はないものである。

八、同第八項中原告両名が義照の両親であることは認めるが、その余の事実は知らない。

第四被告らの主張

一、(義照の直接死因)

義照は幼時病弱であり小学校に一年遅れて入学している。義照は国立病院川上博士の解剖所見においては明らかに胸腺残存及び小腸のリンパ組織の過形成が見られる旨の記述がある。これによると明らかに義照は胸腺淋巴性体質であつたことを推断される。

胸腺淋巴性体質の者即ち胸腺が相当の年齢に達して残存、且つ身体の諸所に於ける淋巴装置の発育旺盛なるものは軽微の原因によりショック死に至ることもあることは医家多数の実見例の報告によつて明なるところである。

ただ医家の表見例の多くは所謂ショック死にありては突然心動停止即ち其の場に斃死するを通例とするけれども実見例においては応々にして数時間の後発死する場合が無いではないから義照が数時間後に死亡したとしてもその胸腺淋巴性体質の結果であるとの結論を否定する論拠とはならない。

而して川上博士は解剖診断の結果について頭部打撲による大脳右半球の広汎な硬膜下出血、側頭部の小指頭大の皮下出血、大脳の浮腫等の症状は普通常人の場合においては死に至ることは有り得ない程度のものであると説明している。

したがつて、義照の死因は少くともこれ等の頭部打撲による症状の結果ではなく(その他の出血又はうつ血は致死の結果を生ずる虞れはない、他に特記すべき病変もなく、したがつてその死因は明らかに義照の胸腺淋巴性体質にある。

而して胸腺淋巴性体質は解剖の結果でなければ判明しないものでありその生前においては絶対に何人も之を知ることは出来ないものであるから義照が胸腺淋巴性体質のために死亡するに至つたとしても被告最首との柔道稽古のため生じたものではないから被告最首の行為と義照の死亡との間には相当因果関係はない。

二、(社会的相当性)

スポーツはその持つている意義と効用を全うさせる為には、それに伴うある程度の危険も容認せざるを得ないのであり、又換言すれば、このような危険を孕むスポーツに被害者が参加していること自体危険に対する受忍の意思表示と解してもよく、いずれにせよ、フェアー・プレーの精神及び諸ルールに則つて行われた行為については仮にそれが傷害、致死というような重大な結果を招来したとしても原則として社会的相当行為によるものとして違法性が阻却される。

被告最首が訴外亡義照と組み始めてから、同訴外人が昏倒する迄の間に右両名のとつた行動は

(a)  乱取り開始数分後、被告最首は訴外義照の右後方から右手を延ばした体勢(但し、これがいわゆる正規の絞め技でないことは前述したとおり)に入つた際、やや右訴外人の力がゆるんだように感じたので、先にかけた右手をはずし、右訴外人の両肩を後方へひらくようにしたら(但しこれがいわゆる正規の活の入れ方ではない、又活の入れ方を右被告は知らなかつた)義照は再び元気に組み直しできたこと。

(b)  その後乱取りを約十五分間継続し、互いに投げたり、投げられたりしたこと。

(c)  最後に被告最首のとつた背負投げにより、右訴外人がこれを受け損じて頭を打つて昏倒したこと。

等である。

これらを考察するにいずれの行動をとつても、すべて柔道ルールならびにフェアー・プレーの原則に則つて行われたものである。即ち(a)の行動に関して述べれば、被告最首は柔道の技の中では、危険度の高いしめ技を右訴外人に対してかけたという事実はなく(仮に正規のしめ技を施したとすれば、その場で直ちに昏倒してしまう)又は、右訴外人の受け身の巧拙を見極めながら、右訴外人が受け身が充分でないと見るやすぐ巳れの技を解いて相手の体勢を立て直してやる等細心の注意を払つているものであり、(b)の行動に関して述べれば、新入生は入部後二週間は徹底的に受け身の稽古をし、その間に基本的な受け身の型をマスターするものであるが、それ以後は実際に試合を行つて何回も投げられ、もつて経験を積むことによつて、受け身についても熟練する以外になく、その為に乱取りによる稽古を行つたものであり、更に(c)について述べれば(b)の乱取りの稽古中、それまで順調に受けていた右訴外人がたまたま被告最首の背負投げを受け損じて発生したものであつて典型的な偶発事故である。無論、被告最首は右訴外人の退部の意思を知る由もなく、従つて又特にしごきの故意を持つたものではなく、他の新入部員に比し義照に特に激しい稽古をつけたという事実もない。その間、二十分程度で、時間にしてもそれ程長くはなく、又他の新入部員達も同様に稽古を行い、誰一人として怪我をする者もいなかつたのである。

よつて被告最首のとつた行動は、正にスポーツそのものであつて、柔道の練習以外の何ものでもなく、何ひとつとして反則はない。したがつてかかる練習中に発生した偶発的事故に関して責任はない。

三、(因果関係の中断)

仮りに義照の死が被告最首らの過失に起因するとしてもその過失と義照の死との間には第三者の過失行為が介入しているから被告らに致死に対する責任はない。即ち、義照が本件事故後、意識不明の間に原告らは義照の入院した山之内病院が脳外科治療設備が不完全であつたことや、義照の病状がはつきりと好転しないことなどもあつて、結局最終的には原告らの強い意思にもとづき、千葉大学付属病院に入院させることとなつた。然し頭部を打ち、頭部内出血中の疑いがあり、意識の回復しない患者にとつて絶対安静が何よりも大切である。それにもかかわらず、主治医付添のうえとはいえ、悪路を長距離移送したことは、小康を保つていた患者を死に転移させるにひとしい処置である。

現に移送の途中、当時最も悪路であつた山武郡土気町の土気の坂をのぼりきつたところで義照は死亡しているのである。従つて若し、義照を自動車等により移動させる等のことなく絶対安静を保つて居たとしたら或は死の結果を来さずして回復し得たらんものと思料される。にもかかわらず、これを移動させた為に遂に死亡させるに至つたものであり、致死の原因はその移動にあるものといわなければならない。仮りに初めに被告らに柔道稽古中の過失により(或は故意により)義照に傷害を与えたものとしても致死については、その責任はない。

第五、右に対する原告の反論

一、第四の一に対して

死因が胸腺淋巴性体質であることは否認する。義照には右半球瀰蔓性硬膜下出血、咽喉、気管、食道部の高度うつ血、肺うつ血、および出血、心、肝、腎のうつ血、心の小出血班等の症状があつたがこれは首を絞められたことによるものであり、頭部輪状擦過傷および皮下出血班、右耳下部栂指頭大擦過傷および出血は首をしめられた痕である。したがつて、頭部打撲、首の絞扼によるものであることは否定できない。

二、同二に対して、

被告最首は、いわゆるしごきのために行つた行動であつて、社会的相当性のある行動ではない。

三、同三に対して、

同三の事実中、原告らが山之内病院に入院していた義照を意識不明の間に千葉大学付属病院に転院させんとして主治医付添のうえ移送中、義照が死亡したことは認めるが、その余の事実は否認する。原告らは主治医の訴外早田博士に相談し、専門医である訴外河野稔博士に相談し、そのままではだめだといわれ、そのすすめで移送を決定したものである。

第六、証拠<略>

理由

一請求原因第一項の事実は当事者間に争いがない。

二亡義照が昭和四〇年四月長生高校に入学し同月一五日ころ同校柔道部に入部したが同年五月四日同校の柔道場において柔道部指導の教諭である被告京徳に対し退部を申出たこと、しかし被告京徳から説得を受け(強要されたかどうかは別として)、柔道の練習に参加し、被告最首との練習中に意識不明となる事故が発生し、五月五日午前零時ころ手当を受けるため千葉大学附属病院へ向う途中救急車内にて死亡したことは当事者間に争いがない。

三亡義照の死因について

(一)  <証拠略>によると、次の事実が認められる。

1  義照は当日午後五時一〇分ころから、五分ほど訴外富田初段と練習をしたあと、被告最首と練習をしたこと、被告最首との練習中投技をかけられ頭を打つたり、また首をしめられ、一度は床を叩いて合図してはなして貰い一度は力が抜けたので異常を感じた最首が自らはなして活をいれることがあつたこと。

2  義照は死後三九時間二七分後に解剖検査を受けたのであるが、その際の診断によると、右半球瀰蔓性硬膜下出血及両側頭部皮下出血、咽喉頭、気管食道部の高度のうつ血、肺うつ血及び出血、頸部輪状擦過傷及び皮下出血班、右耳下部栂指頭大擦過傷および出血、両肩部、腹部(下腹部を含む)両側腰部、両膝部擦過傷及び出血、心臓、肝臓、腎臓のうつ血、心臓、ひ臓の小出血班の傷害の存したこと、

3  右1、2、の事実をも考え合わせると、(イ)、亡義照は柔道練習中相手から受けた絞めにより、意識消失ないし混濁を来し、(ロ)、さらに投げをかけられ右側頭部打撲を受け、(ハ)、右硬脳膜下出血が開始(あるいはこれと同時に右側頭部の骨折から右硬脳膜外出血も発生)し、(ニ)、右硬脳膜下出血の昂進により脳腫脹が進展し、これによる呼吸麻痺で死亡したものであること。

(二)  被告らは、亡義照の死因は、同人の生来有する胸腺淋巴性の体質によると主張する。

<証拠略>によると、死因のわからない急死者を調べてみると胸腺淋巴組織の肥大があつたことから胸腺淋巴組織の肥大が原因となつて急死するのではないかとの学説が出て来たのであるが、その後、これは原因ではなく、結果にすぎないことがわかり、現在では胸腺淋巴性体質という考えは否定に傾いていること、しかも胸腺は、一五才から一六才までの間に重量が一番重いものであることが認められる。

したがつて、<証拠略>には亡義照が胸腺残存症あるいは胸腺淋巴性体質であつたとの言葉が出ており、また胸腺の重量は一二才くらいが最大である等右認定に反する証言があるが前記証拠と対比すると、右記載ならびに証言は採用できない。

以上の考察からすると、亡義照の死因は亡義照の胸腺淋巴性体質によるものであるとの被告らの主張はたやすく採用しえない。

(三)  さらに被告らは、亡義照の死亡は、亡義照を山之内病院から千葉大学付属病院に移動させたことにあると主張するので判断する。

原告らが山之内病院に入院していた義照を意識不明の間に千葉大学付属病院に転院せんとして主治医付添のうえ移送中、義照が死亡したことは当事者間に争いがない。証人早田正敏鑑定証人上野正吉の各証言および原告義憲の本人尋問の結果によれば、亡義照は事故当日の午後七時ころ山之内病院に運びこまれたのであるが、その際脈博や呼吸は比較的正常だつたが四肢は全く緊張がなかつたこと、それで同病院の外科医である早田医師は酸素吸入、点滴静注、それに止血剤を使用し、容態を見守つたが、頭蓋内出血の疑いを感じ、経過からみて手術をしなければ助からない状態であることが判明し、千葉大学の医師と連絡をとつたうえ原告義憲と相談し、移送する事に決定し、救急車に同医師が酸素吸入器その他必要な薬、医療器具をもつて同乗し同日午後一一時三〇分に病院を出発し、ゆつくり千葉へ向つたこと、入院時から出発時まで病状は刻々悪くなつてゆき、病院を出て三〇分後に死亡するに至つたことが認められる。

右認定に反する証拠はない。

一般的にいえば、頭部を打ち頭部内出血中の疑いがあり意識の回復しない患者にとつて安静が必要であるが、しかし、安静にしたとしてもそのまま放置するときは単に死期を待つにすぎない場合にあつては、専門医による手術を受けるために移送することの方が適切と考えられるところ、本件にあつては右に認定したことからして、後者の場合にあたるのであつて、右移送が亡義照の死因になつたとは考えられないし、そのようなことを認めるに足る証拠もない。

したがつて、被告の右主張は採用しえない。

(四)  以上(一)ないし(三)を総合し、かつ亡義照が練習をした相手中訴外富田については、亡義照を死亡するにいたらせる傷害を与えた行為が何ら認められず、ほかに亡義照に加害行為をした者の存在が認められないことからすると、被告最首の行為によつて、亡義照が死亡するに至つたといわねばならない。

四次に被告らの責任について検討する。

(一)  被告最首の責任

1  原告は被告最首に亡義照の死亡について未必の故意があつたと主張するが、同被告に死亡を認容するほどの動機が存在したことは原告主張の事実からしても窺えず、証拠上も未必の故意を認めるに足りる証拠はない。

2  <証拠略>によると、次の事実が認められる。

イ 亡義照は昭和四〇年四月長生高校に入学し、同月一四日柔道部に入部したが、中学では柔道の経験はなく入部から事故当日まで二一日間あるが、その間柔道部は対外試合を控えていたので、日曜、休日も練習を行つていたが、亡義照はその間の日曜休日の五日は練習に参加せず同人の練習量は一六日間であつた。

ロ 柔道部では柔道四段の被告羽鳥が新入生に基本練習終了まで当つていたが、毎日新入生の指導に二時間をかけ、基本練習として受身には約二五時間を目安として指導し、受身が完了すると技の練習(静止のまま)に入り片方は技の練習、片方は受身の練習という形で交互に五、六時間行わせ、それがすんだ後(約一五日を経過するころ)実際に動いて双方で約束をさせて技をかけ合うことを行わせるが、足技から「ひざ車」「大外刈」手技から「体落」「背負投」腰技から「つりこみ腰」寝技は「けさ固め」を択ばせ、その後次第に自由練習に入つていくものであるが、しかし、新入部員に対して絞め技、関節技をかけることは禁じていた。

ハ ところで義照は被告羽鳥の見るところでは、受身は一応の修得をしたとみられたので四月二七日から乱取りに入り、事故当日はその五日目ころであつた。

ニ 被告最首は中学時代から柔道をやり、事故当日の約一年前である高校一年の六月か七月に初段となつたものである。

ホ 事故当日の昭和四四年五月四日長生高校柔道部は学校の柔道場で午後四時に練習を開始し、四時三〇分まで準備体操、その後四時四五分まで打込練習、その後五時四〇分まで乱取練習が行われたが、本件事故の発生により練習は中止された。

ヘ 当日、亡義照は午後三時半に授業が終了したので、しばらくしてから柔道場へ行つたところ、すでに準備運動が始つていたので、まず三年生用の更衣室にゆき三年生の訴外糸井守に、自分は柔道部や団体生活とは性格があわないし、練習もつらいのでやめたいと話した。そこヘマネージャーの訴外石田義広や、主将の訴訴外石崎公一が来て、苦しいことは誰でもあるんだからもう少しやつてみろといわれた。更に被告京徳も来てその様子を聞き、我儘な性格をなおすためにもいい場だから続けたらとすすめたので、亡義照は結局当日の練習に加わつた。亡義照は当初打込練習をしたり、上級生の練習を見ていたが、まず二年生の初段の訴外富田と五分ほど練習をやり、二、三分休んだのち、被告最首からやるかと声をかけられたのでこれに応じて立ち上がり練習に入つた。被告最首は亡義照の姓名はまだ知らなかつたが、同人が新入生であることは分つており、最初背負技をかけたところその受け方からして受身はできるものと判断した。

それで立技である背負技、小内刈、大内刈などの練習を五分ほど、次いで寝技のうちの押え技であるけさ固め、四方固め等に入つたが、そのうちに亡義照は柔道着のえりで頸動脈が圧迫されて首が絞められる状態になつたので、手で床を叩き、被告最首は技をはずした。そのあとふたたび同様の形となつたが、その際被告最首は亡義照の力が技けるのを感じ、活をいれ大丈夫かと聞いたところ、大丈夫との返事があつた。その後ふたたび立技に入り、投げの練習をした。そうして被告最首が亡義照を背負い投で投げた後か、組みついてくるときに、亡義照は被告最首のえりをつかんでしやがみこんでしまい、それ以後意識を失つてしまつた。

ト 右乱取練習の際、主将が五分ごとに合図をし、そこで相手をかえるのであるが、続けても良く、その五分の間は休んではいけないこと、しかし新入生に限り、休んで良いこと、しかし亡義照は休まず被告最首に声をかけられると、黙つて立ち上りこれに応じていた。

右認定に反する証拠はない。

右事実からすると、被告最首は高校二年生で未成年者であるが有段者であり、柔道は投げたり投げられたりするものであつて、その危険性を認識しそのためには受身が大切であり、十分にこれを修得する必要性のあることを承知していたと考えられるところ、初心者の指導にあたる時は、相手の技術の程度身体の状態、疲労度を把握し、これに応じた指導をなし、相手の技能をこえる技をかけたり、あるいは、相手の疲労等に留意せずに技をかけたり、相手が技を受け損じて頭部を打撲するなどの危険な行為をしないようにする義務があり、更に絞め技をかけて相手が意識を失つた場合には活を入れて意識が戻つたとしても、以後は練習を中止して休ませなければならない義務(この点については当事者間に争いがない)があるところ、これを怠り、かかる注意を払わず、当初相手の受身が一応できると判断できたにせよ、まだ新学期が始つた四月の翌月である五月の四日であつて、身体が大きいにせよ、体力ができていないことからして疲労し易く、疲労した際受身を仕損じるおそれのあることに思いをいださず、次々と技をかけ、しかも二度も首をしめる形となつて、意識を失う事態を生じ、被告最首も右事態を認識したにもかかわらず休ませるといつた処置をとらずに技をかけ、かかる過失によつて、亡義照は被告最首の投げ技を受け損じて頭部を強打し、死亡するに至つたものと判断される。

被告らは、柔道はスポーツであつて、社会的相当性のある行為であつて、たまたま被告最首の投げによつて亡義照の死亡事故が発生しても、それについて責任はないと主張する。勿論柔道はスポーツであり、したがつて有形力の行使自体が社会的相当性の行為として違法性のないものであることは当然である。しかしながら、そこには規則(ルール)にしたがつた有形力の行使であることを必要とすることは勿論、規則がなくても、危険を防止するために守るべき義務があるところでは、これを守るべく、この義務を過失によつて怠つて事故を発生させた場合には、その過失責任が問われるものである。柔道の社会的有用性と過失責任とは相反するものではない。したがつて柔道の社会的有用性は認めるが、それだからといつて、被告最首の前記過失責任を左右するものとは考えられない。

したがつて被告最首は過失により不法行為をした者として、民法第七〇九条第七一一条により原告らに対して後記損害を賠償しなければならない。

3  原告らは、被告最首の右練習は、リンチもしくは退部者に対するしごきとしてなされたと主張するので判断する。

<証拠略>には、柔道部には退部者にしごきをかける習慣があり、被告最首は亡義照が退部の申出をしたことを知つてしごきをかけたことを原告義憲に認めたとの記載や供述があり、<証拠略>によると、昭和三三年四月二九日、長生高校野球部で一年生部員が上級生の三振したのを笑つたことから二年生部員が一年生部員を殴り、五日間の停学処分を受けたことや、昭和三八年一〇月ころ、同高校で応援練習の際上級生が下級生をこづいたりするとか、水をくんだバケツに頭を押しつけたとかの風評があつたこと、昭和四〇年度の同校の入学式において、被告林は校長としての訓示の際、運動部を退部する旨の申出をするときには、いざこざを避けるため担任の教諭またはクラブ指導教諭を通してするようにのべたこと、亡義照には数箇所に及ぶ擦過傷や首をしめた跡がみうけられることが認められるのであるが、柔道部に退部者にしごきをかける習慣はなく、被告最首は亡義照が退部を申出たことを知らなかつたとする証人石崎公一、同石田義広、同糸井守の各証言、被告最首、被告林、被告羽鳥、被告京徳の各本人尋問の結果および柔道の練習を見ていたが、亡義照が倒れるまで異常な事態に気づかなかつたという証人山田拓の証言と対比すると、前掲証拠はにわかに措信し難く、成立に争いがない甲第一二号証の一、二も原告両名の本人尋問の結果と同価値のものであり、ほかにこれを認めるに足る証拠はない。

被告林の本人尋問の結果によれば、被告林が右の訓示をしたのは、同被告が長生高校に現実にそういつた事態が発生する空気を感じたためではなく、新聞紙上で退部をめぐつて暴力沙汰のあつたことを知つて、老婆心から述べたことであり、また過去において空手部が解散したのは暴力沙汰があつたからではなく、指導者を欠くにいたつたためであることが認められる。

また、被告京徳の本人尋問の結果によれば、被告京徳は本件柔道場にいて一緒に練習していたことが認められるのであるが、顧門教諭のいるところで、共謀のうえリンチないししごきをかけることは通例ありえないことと考えられる。

(二)  被告県の責任

1  <証拠略>によると、長生高校柔道部は同校の特別教育活動の一環としてのクラブ活動を行うもので、生徒が自主的に行うものであり、当時柔道部は三年生が一一名、一、二年生がそれぞれ一二名くらいで、練習中の指揮は主将の訴外石崎公一が当つていたが、柔道は危険を伴うので、生徒に任せつきりにすると事故の発生が予想されるため、同校では右活動に助言ならびに指導にあたる教諭を顧問教諭として置いていたがその指導の重点は部員の管理(生徒の入・退部)、健康管理、事故防止であり、被告羽鳥は体育担当の教諭で柔道四段であり、被告京徳は柔道二段であるので、校長の被告林から職務として委嘱されて、その任に当つているものでしかも練習の際は、誰か一人は立会うように指示され、そのようにしていること。事故のあつた当日も被告京徳は柔道場にゆき、部員と共に準備運動をしたのち、三年生部員らとともに練習をしていたこと、被告羽鳥は、被告京徳が稽古をやつていたので稽古をせず全体の状況を見ながら三年生の生徒や一年生の生徒に練習の技について個人的な指導をしていたこと、その後包帯をとりにいつている間に本件事故のしらせを受けたこと、その間、被告羽鳥も被告京徳も亡義照の練習について特別の指示をしたことはないこと、被告京徳は当日亡義照から退部の申出を受けたが、その申出およびその申出の撤回を深刻なものと感ずることがなかつたため特に亡義照の練習に注意せず、また被告羽鳥にこれを告げもしなかつたことが認められる。

右認定に反する証拠はない。

右事実からすると、かかるクラブ顧問の教諭のクラブ活動における活動は、単なる一私人としての助言ではなく、優越的な意思を内在する公的な活動であり、国家賠償法にいう公権力の行使に当る行為といわねばならない。

右に反する被告の主張は採用しない。

2  次に被告県の公務員である被告京徳や被告羽鳥に過失があつたかどうかを検討する。

右1に認定した事実からすると、柔道部の指導教諭としては共同して部員の健康管理および事故防止について監視助言し、かかる点に欠けるところのないようにすべき義務があり、特に新入部員の入つた新学期の四月、五月の上旬などは、新入部員につきいまだ柔道部の活動に耐えうる体力や技能ができていない虞れが十分に感ぜられるところであるから、自ら、あるいは部員を通して新入部員の練習状況を十分に監視し把握すべく、しかも退部の申出をした者の中には、性格的に一応撤回したもののまた練習中嫌気がさしたり、練習に身が入らず受身を仕損じるといつた事故も考えられるのであるから、かかる者に特に注意を払うべき義務があり、しかもこのように重点をおいて監視するときは、部員が四〇名くらいであつても十分に監視できるものと考えられる。

別表三

稼働期間

昭和年月日

年令

平均

月間賃金

給与額

平均

年間賞与

その他の

特別給与額

年間

総収入

ライプニツツ係数

計(年間総収入

×ライプニツツ

係数)

47.4~48.3

23才~

24才

63,400

137,700

898,500

0.67683(8年の単純係数)

608,131

48.4~49.3

24才~

25才

69,740

151,470

988,350

0.64460(9年の  〃  )

637,090

49.4~54.3

25才~

50才

88,990

342,650

1,410,530

2.7908(14年の年金係数9.8986

~9年の年金係数7.1078)

3,936,507

54.4~59.3

30才~

117,920

496,830

1,911,470

4.9975(19年の  〃  12.0853

~14年の  〃  7.1078)

9,514,341

59.4~64.3

35才~

141,240

668,800

2,363,680

1.7313(24年の  〃  13.7986

~19年の  〃  12.0833)

4,092,239

64.4~74.3

40才~

176,110

926,880

3,040,180

2.3943(34年の  〃  16.1929

~24年の  〃  13.786)

7,279,102

74.4~84.3

50才~

190,630

908,700

3,196,200

1.4698(44年の  〃  17.6627

~34年の  〃  16.1929)

4,697,774

84.4~87.3

60才~

63才

116,930

356,200

1,759,360

0.3183(47年の  〃  17.9810

~44年の  〃  17.6627)

560,004

合計

31,325,188

しかるに共同して監視に当つた被告羽鳥および被告京徳は、練習中亡義照が意識を失つたことなどにまつたく気づかなかつたため、何らの指示も与えていないのであるから右監視の義務を怠つた過失があつたものといわねばならない。

しかも右過失によつて本件事故がおきたことは明らかである。そうすると、被告千葉県は国家賠償法第一条により、被告千葉県の公権力の公使に当る公務員がその職務を行うにつき過失により亡義照および原告らに与えた後記損害を賠償しなければならない。

(三)  被告羽鳥、被告京徳および被告林の責任

被告京徳および被告羽鳥は、被告県の職務執行の際に前記過失によつて本件事故を惹起させたものであるから、国家賠償法第一条により損害賠償責任は被告県のみが負担し、被告京徳および被告羽鳥は負担しないものといわねばならない。

被告林については、既に認定したように、有段者たる顧問教諭に常に立会うようにとの特別の柔道部の指導を依頼していたものであり、特に過失があると認めるべき証拠もないのであるが、かりに過失があるとしても、その過失は学校長としての公務執行上のものであるから、同様に国家賠償法第一条により被告県が損害賠償責任を負担するにとどまり、その公務員たる被告林は民法第七〇九条あるいは民法第七一五条第二項の代理監督者として責任を負担することはないといわねばならない。

したがつて、被告林、被告羽鳥および被告京徳は、その余の点につき判断するまでもなく、原告らに対する損害賠償責任を負わない。

五損害

(一)  亡義照の逸失利益

<証拠略>によれば義照は昭和二四年三月一九日生の男子であることが認められ、したがつて同人は本件事故当時満一六才となるが、第一二回完全生命表(昭和四〇年)上、満一六才の男子の平均余命年数は53.97年であるから、同人は本件事故にあわなければ、六三才に達するまで十分稼働しえたと考えられる。

<証拠略>によると、義照の父である原告義憲は大妻女子大学教授、兄の義瑩は東京農業大学大学院博士課程在学中、妹の万里は大妻女子大学文学部在学中であり、亡義照の中学の成績も上位であつたことが認められ、右事実からすると、亡義照は、本件事故にあわなければ、高校卒業後大学に進学し、昭和四七年三月、二三才の時に大学を卒業し、稼働を開始しえたと考えられる。

<証拠略>(昭和四七年賃金センサス)によると、全産業の男子の大学卒の労働者の平均賃金は別表(一)記載のとおりであること、昭和四三年から昭和四七年の間平均賃金はおおむね前年の1.1倍をこえる上昇をしていること(なお五〇才以上の年間賞与その他の特別給与額は、必ずしもそうではないが)、したがつて昭和四八年度においては平均賃金中、平均月間きまつて支給する現金給与額および二〇才以上五〇才未満の年間賞与その他の特別給与額はその1.1倍、五〇才以上のそれは前年と殆ど同一と推定することができる。

亡義照は、本件事故にあわなければ、右と同様の収入をあげえたと考えられる。これをライプニツツ式計算法により年五分の割合による年毎に中間利息を控除の上合算してその事故当時における現価を求めると別表(三)のとおり金三一、三二五、一八八円となる。

ところで右収入をあげるのに生活費を必要とするが、各稼働期間を通じて原告ら主張の五割をこえると認めるべき証拠はないので、各稼動期間につき、その収入の五割を控除すべく、これを控除した残額の現価は右金額の二分の一である一五、六六二、五九四円に等しい。

ところで原告らは、亡義照は、生存していれば事故当時から七年間、養育費として毎年二四万円を費消すると考えられるとしてその控除を自認するので、これを控除することとするが年毎にライプニツツ式計算法により(原告はホフマン式計算をしているが、収入の計算に際し、ライプニツツ式を使用したので、こちらも同じ計算法による)年五分の中間利息を控除して、事故当時の現価を求めると次の式により一、三八八、七一二円となる。

240,000×5.7863=1,388,712

よつて前記一五、六六二、五九四円からこれを控除した一四二七万三八八二円が亡義照の得べかりし利益の喪失の損害の一時払額である。

(二)  亡義照の精神的損害

亡義照が本件事故により、多大の精神的ならびに肉体的苦痛を受けたことは、すでに認定した事故の態様等からして明らかである。しかして亡義照の年令その他、既に認定した諸事情を考慮すると、亡義照は慰謝料として一〇〇万円の支払を受けるのが相当である。

(三)  相続

右(一)、(二)からすると亡義照の損害賠償債権は右(一)、(二)の合計額である金一五二七万三八八二円となるが、右事実と前出甲第一号証によると、同人の死亡により原告両名がそれぞれ右の二分の一である金七六三万六九四一円宛相続したことが認められる。

(四)  原告らの精神的損害

原告両名が亡義照の両親であることは当事者間に争いがなく、原告両名の各本人尋問の結果によると、本件事故による亡義照の死亡により多大の精神的打撃を受けたことが認められる。しかして本件事故の態様、事件のおきた日時の金銭の価値、亡義照の損害賠償債権を右に認定した限度で相続したこと、その他一切の事情を考慮すると、原告らはそれぞれ各金一〇〇万円の慰謝料の支払を受けるのが相当である。

(五)  弁護士費用

以上、原告らの損害賠償債権額は各八六三万六九四一円宛となるところ、原告らが弁護士に依頼して本訴遂行に当つたことは記録上明らかであり、訴訟の性質、態様、期間を考え合わせるとその費用中右認容額の約七パーセントに当る各金六〇万円を、本件事故による弁護士費用の損害としてみるのが相当である。

六(結論)

そうすると原告らの被告最首および被告県に対する請求は各自各金九二三万六九四一円、およびうち各金八六三万六九四一円に対する本件損害の発生の翌日である昭和四〇年五月六日から、うち各金六〇万円に対する本判決確定の日の翌日から右各支払ずみに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由がある(弁護士費用については、支払期限の主張立証がないから、本判決確定の日の翌日から遅延損害金を付けることとする)からこれを認容し、その余は理由がないから棄却し、その余の被告らに対する請求はいずれも理由がないから棄却し、訴訟費用については民事訴訟法第八九条第九二条第九三条を適用し、仮執行の宣言はその必要が認められないから付さないこととし主文のとおり判決する。

(渡辺桂二 浅田潤一 小松峻)

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