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名古屋地方裁判所 平成25年(行ウ)9号 判決 2015年3月30日

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第1請求の趣旨

1  地方公務員災害補償基金名古屋市支部長が,平成23年1月5日付けで原告に対して行った地方公務員災害補償法に基づく公務外災害認定処分はこれを取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

第2事案の概要

本件は,名古屋市交通局の職員で名古屋市営バス(以下「市バス」という。)の運転士として稼働していたP1(以下「被災者」という。)の父である原告が,被災者が,日常的な過重労働により心身の疲労が蓄積していた中で,強い心理的負荷がかかる3件の公務に関連する出来事に短期間のうちに連続的に遭遇したことにより精神疾患を発症し,平成19年6月14日に自殺したと主張して,地方公務員災害補償基金名古屋市支部長が平成23年1月5日付けで行った地方公務員災害補償法(以下「地公災法」という。)に基づく公務外災害認定処分(以下「本件公務外災害認定処分」という。)の取消しを求める事案である。

1  前提事実(争いのない事実及び後掲の証拠から容易に認定できる事実)

(1)  当事者等

ア 名古屋市交通局は,名古屋市の自動車運送事業等を管理する名古屋市交通局長の権限に属する事務を処理する組織である(名古屋市交通事業の設置等に関する条例1条,3条各項)。(顕著な事実)

イ 原告は,被災者の父である。(争いがない)

ウ 被災者は,平成10年5月に大型自動車第2種免許を取得し,以後,有限会社P2において自動車学校への送迎バスの運転士業務に,P3株式会社において路線バス運転士業務にそれぞれ従事した(甲A12,73,原告本人)。

被災者は,平成13年4月1日,名古屋市交通局にバス乗務員として採用され,平成17年9月26日,P4営業所に配属された(争いがない)。

エ 被災者は,平成13年9月5日から同月22日まで,自然気胸によりP5病院に入院した(甲A26の1・2)。

また,被災者は,医療法人P6クリニックにおいて,平成18年5月22日,「アレルギー性鼻炎(主),左外耳道異物,急性副鼻腔炎,滲出性中耳炎の疑い」と診断され,同年6月9日,「急性咽頭気管支炎(主),急性副鼻腔炎,急性扁桃炎」と診断され,いずれについても内服薬や頓服の投薬を受けた(争いがない)。

(2)  添乗指導

ア 添乗指導とは,営業所の管理職等が通勤や市内出張等で市バスを利用(名古屋市交通局では「添乗」と呼ばれている。)した際に,運転士の接客態度,運転操作等について確認し,必要に応じて指導を行うことである。名古屋市交通局本庁の職員も随時添乗を行い,その結果を営業所へ報告して指導の参考としている。また,年4回実施されている接客サービス向上キャンペーン期間においては,営業所及び本庁職員が計画的に添乗を行っている。(甲D1の1・241頁)

イ 被災者は,平成19年2月3日午前8時15分から日常点検を開始し,午前8時35分から午後零時3分まで市バスの運転に従事した。午後零時8分から午後4時57分までは中休時間(朝夕のラッシュ時間を実労働時間とし,昼間の時間を休ませる勤務を中休勤務といい,その昼間の時間を中休時間という。以下同じ。)であったが,被災者は,臨時バスの運行のため,午後零時14分から日常点検を開始し,午後零時34分から午後3時27分まで市バス(○・○駅間の折返し運転の臨時バス)の運転に従事し,午後3時37分まで注油・精算業務に従事した。その後,被災者は,中休時間終了後の午後5時7分から午後8時53分まで市バスの運転に従事し,注油・精算業務後,午後9時4分にP4営業所を退所した。(甲A16の4・70頁,71頁,乙A2)

ウ 名古屋市交通局営業本部自動車部自動車運転課長であったP7は,平成19年2月3日午後1時過ぎ,○停留所から被災者の運転する臨時バスに乗車し,○停留所で降車した(以下,P7による前記臨時バスへの乗車を「本件添乗指導」という。)。(甲A31の2,52の2,乙A3)

エ P7は,前記臨時バスの運転に関して,「葬式の司会のようなしゃべり方はやめるように(自分ではソフトな言い方と思っているのか?)」「※キャンペーン添乗外とするが」と記載した添乗指導記録票(以下「本件添乗指導記録票」という。)を作成した。(甲A31の2)

オ 被災者の自殺後,被災者の自宅のノートパソコンから以下の内容の上申書(最終更新日時は平成19年2月5日午後1時48分。以下「本件上申書」という。)が発見された(甲A5の1・2,弁論の全趣旨)。

「上申書

私は外見上障害があるわけではありませんが,呼吸器系に弱点があります。季節を問わずアレルギー症状が現れます。突然くしゃみが止まらずにぎっくり腰になったこともあります。扁桃腺も腫れて声の出しにくいことも日常的です。薬は効果がありませんし副作用のことを考え服用していません。何も好きでこのような体質で生まれてきたわけではありません。だからといって全く発声していないわけではありません。自分なりに努力しています。にもかかわらずなぜ『葬式』呼ばわりされなければならないのでしょうか。基本的人権および職業選択の自由の侵害・不当な差別・パワーハラスメント・いじめであり,黙っていてはこのような行為がエスカレートし自分の将来に何らかの影響を及ぼしかねないと考え書面にしました。」

カ 被災者は,本件添乗指導以外に,平成18年4月30日に1回,同年10月27日に3回,平成19年2月1日に1回,同月22日に1回,同年4月23日に1回添乗指導を受けている。平成18年10月27日に被災者に対して添乗指導を行ったのは,P4営業所の所長のP8,副所長のP9及び首席助役のP10である。(甲A51の2~51の8,52の2)

(3)  乗客からの苦情

ア 名古屋市交通局は,平成19年5月3日午前零時27分,以下の内容の苦情(以下「本件苦情」という。)が記載されたメール(以下「本件メール」という。)を受信した(甲A50の1・2)。

「担当者様

5月2日,○から○まで家族4人(大人2人,幼児1名,乳児1名)で往復市バスを利用しました。

(中略。送信者の名字が書かれている。)と申します。

ベビーカーを乗せていたため,』(原文のとおり)ユリカで大人2名分の料金を合わせて支払う旨を乗る際に運転手さんに告げました。行きの運転手さんは『カードを2回通してください』とおっしゃられたのでそのようにして乗りこみました。

帰りも乗る際に2名分をユリカで支払う旨を通知しましたところ運転手は何も言わずカード挿入口に手をかざしてきました。手をよけた際に(行きは2回通すように言われていたので)2回カードを通したら

『あ~あ』っと言ったかと思うと舌打ちして『料金が余分に加算されっちゃったでしょ・・・』って言ってきました。こちらが『2人分なので2回通したのですが・・・』と言うと,『1回で2人分徴収するようにしたんだ』といい見せてくださいとも言わずに私のユリカをとりあげて料金の確認をしたかと思うとまた舌打ちをし,何も言わずに紙の金券のようなものを渡してきました。

いったいこの紙はなんなんでしょう?ユリカに返金していただけるのでしょうか?

何の説明も料金を余分にとったことへの謝罪もありません。

立腹していたところ,更に今度はベルトのようなものを持ってきて

『ベビーカーを180度回転させてください』と言ってきたので回転させたところ,何の説明もなしにベビーカーとバスの席とをベルトでつなぎはじめました。

つなぎ終わるとまたも何も言わずに運転席に戻って行きました。

安全のためだろうということは予想できますが,一言わたくしどもに断ってからベルトをするのが常識ではないでしょうか?

降りる際に外すのにとても苦労しましたし,外したベルトをそのまま置いておいていいのか運転席まで返しにいくのかの説明もありませんでした。

仕方ないので苦労してベルトを外し運転席まで返しに行きました。

楽しかったはずの外出が帰宅時のこの運転手の態度により一変しました。

○(○行き)18:32分発の運転手です。

バスに乗る際の不手際も運転手が一言『カードは1回で2人分徴収します』と言ってくだされば余分に徴収されることはなかったと思います。

ベビーカーをつなぐベルトに関しても目的を説明しこちらの了承を得た上で使用していただければ不愉快な思いをしなくても済んだと思います。

安全に運行することは運転手として大前提だと思いますが,ただ運転するだけでなくきちんとした接客態度で接していただきたいものです。(後略)」

なお,ユリカとは,名古屋市交通局のプリペイドカードのことである(争いがない)。

イ 被災者は,平成19年5月2日(水)午後6時31分から午後7時13分まで,○停留所から○停留所までの市バスの運転に従事した(甲A16の4・156頁)。

○停留所-○停留所間のバスは「○系統」である。同日当時の「○系統」のバスの時刻表によれば,平日の午後6時32分に○から発車し,午後7時13分に○へ到着するバスがある。(乙A5)

ウ 名古屋市交通局P4営業所助役のP11は,平成19年5月16日,被災者に対し,本件メールに関して事情聴取し,指導を行った。(甲A31の3,証人P11)

エ 被災者は,平成19年6月6日,P4営業所の模範的な運転士のバスに添乗し,同月11日,「過去に何度となくベビーカーをともなったお客様にご乗車いただいてきましたが,今回はじめてご意見をいただきました。正直その時にもどってあやまりたいと思います。とともに貴重なご意見をいただいたことに感謝いたします。こんな自分ですが,まれに『ありがとう』と声をかけていただくことがあります。一人でも多くのお客様に『ありがとう』と言ってもらえるようがんばっていきます。」などと書かれた添乗レポート(以下「本件添乗レポート」という。)を提出した。(甲A31の4・6)

オ P10は,平成19年6月9日,被災者に対し本件メールに関して指導を行った。(甲A31の7)

カ 被災者の自殺後,被災者の自宅のノートパソコンから以下の内容の進退願(最終更新日時は平成19年5月16日午後7時8分。以下「本件進退願」という。)が発見された(甲A5の1・3,弁論の全趣旨)。

「進退願

今回の苦情の件ですが,メールによると喋りもせず黙っていたとありますが,絶対にそのようなことはありえません。そもそも10日前のことをこまかく聞いてくるので記憶力の悪い自分は正直いって覚えていません。私は外観的には何も変わるところはありませんが精神的に参っています。身近な複数の友人が“うつ”になっており自分も他人事ではなくなってきているような気がしてなりません。

私は呼吸器系が弱く(くしゃみ・鼻水・鼻づまり・アレルギー・扁桃腺肥大),10数年前までは喘息も患っていました。友人との会話でも自分の声が伝わらず,よく尋ねられます。乗務中であれば,自分としては発声しているのですが,バスのエンジンはかかっているし,周囲の音にかき消され結局『黙っていた』と,捉えられかねないと思います。かといって,お客様に『聞こえました?』などといえば『バカにしているのか!』と言われ火に油です。

今後このようなメールや電話がかかることは絶対にありうることです。そのたびに『またおまえか!』と苦虫を潰したような顔をされては,私もこのような状況を好みません。乗務員として不適格であれば辞職を考えるしかありません。」

(4)  乗客の転倒事故

ア P12(当時75歳。以下「被害者」という。)は,平成19年6月7日,名古屋市交通局に対し,同年5月28日の○停留所発のバスに○停留所から午前11時30分頃乗車したが,○停留所を発車した後にバスが揺れ,バランスを崩して車内の階段に倒れ込み,腰と頭を打った(以下「本件転倒事故」という。),たいしたことはないと思って運転手に声をかけずに降りたが,心配になりいつも通っている病院でレントゲンを取り湿布薬をもらった,その後は順調だったが数日後に腰が痛くなったため連絡した旨申し出た。(甲A31の8)

イ 被災者は,平成19年5月28日午前10時23分○停留所発○停留所行の市バスの運転業務に従事した。同市バスは,○型車両であり,同日午前10時36分,○停留所を発車した。(甲A16の4・180頁,17の3の1,17の3の4・3頁,18,弁論の全趣旨)

ウ P10及び名古屋市交通局P4営業所の主任助役であったP13は,平成19年6月12日午後2時から午後2時15分頃まで,被災者に対し,本件転倒事故について事情聴取を行った。被災者は,午後2時30分頃,P13及びP4営業所の助役のP14とともにP15警察署へ向かい,本件転倒事故を届け出て,午後6時30分頃,P4営業所に戻り,午後10時頃,同営業所を退所した。(甲A31の8,52の2)

エ 被災者は,平成19年6月12日午後8時42分,上司のP16に対し,「今日,出勤時に2週間前に車内事故があったといわれました。自分は,全く覚えがなく,申し出もなく,正直納得できません。」というメールを送信した。これに対し,P16は,同日午後8時53分,被災者に対し,「本日,入庫したら確認します。」というメールを返信した。(甲A2の6,31の8)

オ 名古屋市交通局は,平成19年6月14日,被害者との間で,本件転倒事故に関して,同事故を交通事故扱いとしない,同交通局が見舞金として3万円を被害者に支払う旨の示談をした。(甲A31の9)

(5)  被災者の自殺

被災者は,平成19年6月13日までに何らかの精神疾患を発症し,その影響により,同日午前11時45分,名古屋市αにある伊勢湾岸自動車道P17インターチェンジ高架下において,牛乳パックに入れたガソリンを身体に浴びて焼身自殺を図り,同月14日午前6時13分,搬送先の病院で死亡した。(争いがない)

(6)  被災者の時間外労働時間数

平成19年6月12日より前6か月間の被災者の時間外労働時間数(週40時間を超える労働時間数をいう。以下同じ。)は,中休時間を労働時間に含めない場合,以下のとおりとなる(争いがない)。

平成18年12月15日から平成19年1月13日 58時間59分

平成19年 1月14日から     2月12日 65時間19分

2月13日から     3月14日 74時間23分

3月15日から     4月13日 43時間12分

4月14日から     5月13日 63時間26分

5月14日から     6月12日 72時間34分

(7)  自動車運転者の拘束時間及び休息期間に関する定め並びに被災者の拘束時間及び休息期間

ア 「自動車運転者の労働時間等の改善のための基準」(平成元年労働省告示第7号。以下「改善基準」という。)には,自動車運転者(労働基準法9条に規定する労働者(同居の親族のみを使用する事業又は事務所に使用される者及び家事使用人を除く。)であって,四輪以上の自動車の運転の業務(厚生労働省労働基準局長が定めるものを除く。)に主として従事する者をいう。以下同じ。)の拘束時間(労働時間,休憩時間その他の使用者に拘束されている時間をいう。以下同じ。)及び休息期間(使用者の拘束を受けない期間をいう。以下同じ。)等について,以下のような規定がある。なお,後記の改善基準5条1項柱書の「一般乗用旅客自動車運送事業」とは,道路運送法3条1号ハの一般乗用旅客自動車運送事業をいい(改善基準2条1項柱書),乗合バスの運転業務は,一般乗用旅客自動車運送事業以外の旅客自動車運送事業に該当する。また,改善基準5条1項2号の「一日」とは,始業時刻から起算して24時間をいい,「最大拘束時間」とは,1日についての拘束時間の限度をいう(改善基準2条1項2号)。(甲A21,22)

第1条(目的等)

1  この基準は,自動車運転者(中略)の労働時間等の改善のための基準を定めることにより,自動車運転者の労働時間等の労働条件の向上を図ることを目的とする。

2及び3は省略

第5条(一般乗用旅客自動車運送事業以外の旅客自動車運送事業に従事する自動車運転者の拘束時間等)

1  使用者は,一般乗用旅客自動車運送事業以外の旅客自動車運送事業に従事する自動車運転者(中略)の拘束時間,休息期間及び運転時間については,次に定めるところによるものとする。

一は省略

二 1日についての拘束時間は,13時間を超えないものとし,当該拘束時間を延長する場合であっても,最大拘束時間は,16時間とすること。この場合において,1日についての拘束時間が15時間を超える回数は,1週間について2回以内とすること。

三 勤務終了後,継続8時間以上の休息期間を与えること。

四及び五並びに2ないし5は省略

イ  ILO第153号条約(路面運送における労働時間及び休息期間に関する条約)には,休息期間について,以下のような規定がある(甲A22)。

第8条

1  運転者の1日当たりの休息期間は,労働日の開始から始まる24時間の間の少なくとも連続した10時間とする。

2  1日当たりの休息期間は,各国における権限のある機関により決定される期間の平均として計算することができる。但し,1日当たりの休息期間は,いかなる場合においても8時間を下回ってはならず,また1週間に2回以上8時間に減少されてはならない。

ウ 平成18年12月15日から平成19年6月12日までの被災者の拘束時間及び休息期間は別紙1のとおりである。同期間中の拘束時間は,全労働日150日中,13時間以下が48日,13時間超16時間以下が91日,16時間超が11日であり,休息期間は,8時間未満が1日,8時間以上10時間未満が60日,10時間以上が88日である。(甲A16の4,24)

(8) 本件訴訟に至る経緯

原告は,被災者の死亡が公務上災害であるとして,地方公務員災害補償基金名古屋市支部長に対し,平成20年7月2日,公務災害認定請求をしたが,同支部長は,平成23年1月5日,公務外の災害と認定する処分(本件公務外災害認定処分)をした(甲C1)。

そこで,原告は,同年3月1日,地方公務員災害補償基金名古屋市支部審査会に対する審査請求を申し立てたが,同審査会は,平成24年9月10日,審査請求を棄却した(甲C2)。

原告は,同年9月21日,地方公務員災害補償基金審査会に対する再審査請求を申し立てたが,同審査会は,平成25年7月8日付けで再審査請求を棄却した(甲C46)。

原告は,前記再審査請求申立てから3か月以上経過した平成25年2月28日,本件公務外災害認定処分の取消しを求めて本件訴えを提起した(顕著な事実)。

(9) 被告の認定基準

被告は,精神疾患の公務起因性の認定要件に関して,平成24年3月16日付けで,地方公務員災害補償基金理事長通達である「精神疾患等の公務災害の認定について(通知)」(地基補61号。以下「認定基準」という。)を同基金各支部長宛に発出した(甲C10)。認定基準においては,対象疾病に該当する精神疾患が「対象疾病発症前のおおむね6か月の間に,業務により強度の精神的又は肉体的負荷を受けたことが認められること」及び「業務以外の負荷及び個体側要因により対象疾病を発症したとは認められないこと」の要件をいずれも満たして発症したときに,地公災法施行規則別表1第9号に該当する疾病として取り扱われる。このうち,「業務により強度の精神的又は肉体的負荷を受けたこと」とは,具体的には,「人の生命にかかわる事故への遭遇」又は「その他強度の精神的又は肉体的負荷を与える事象」のような事象を伴う業務に従事したことをいい,認定基準第3の1(1)アに具体的事象が掲げられている。そして,業務による精神的又は肉体的負荷(以下「業務による負荷」という。)を受けたことが認められるか否かは,被災職員ではなく,被災職員と職種,職,業務経験等が同等程度の職員を基準にして客観的に判断される。

また,被告は,同日付けで,地方公務員災害補償基金補償課長通達である「『精神疾患等の公務災害の認定について』の実施について(通知)」(地基補62号。以下「実施通達」という。)を同基金各支部事務長宛に発出し,認定基準の具体的運用について通知した(甲C45)。実施通達においては,業務による負荷について認定基準第3の1(1)アの趣旨を踏まえて検討するため,別表「業務負荷の分析表」(以下,単に「業務負荷の分析表」という。)の積極的な活用を促している。また,認定基準において時間外勤務の時間数を指標にしているもので対象とされる時間外勤務及び正規の勤務時間外に行われたそれ以外の業務に関する活動(以下「時間外勤務等」という。)の時間数は,1日8時間(週40時間)を超える時間数に限られるとする。

認定基準及び実施通達の内容は,それぞれ,別紙2「精神疾患等の公務災害の認定について(通知)」及び別紙3「『精神疾患等の公務災害の認定について』の実施について(通知)」のとおりである(甲C10,45)。

2  争点

本件の争点は,被災者の死亡の公務起因性であるが,被災者が平成19年6月13日までに何らかの精神疾患を発症し,その影響で自殺したことについては争いがないため,特に被災者の精神疾患が公務に起因するか否かが争点である。

3  争点に対する当事者の主張

(1)  公務起因性の判断枠組み

(原告の主張)

地公災法に基づく補償を含む現行労災補償制度は,労働者とその家族の生活の安定をその制度目的としており,公務起因性の判断は,そのような制度目的に則して解釈されなければならない。労災補償制度では,発生した損害の公平な分担という損害賠償制度と異なり加害者保護の必要性がないから,損害賠償制度よりも救済対象を拡大する必要がある。よって,公務起因性の判断基準は,業務と関連性を有しない基礎疾患等が疾病等の原因となった場合であっても,業務が基礎疾患などを誘発又は増悪させて発症の時期を早めるなど,基礎疾患等と共働原因となって疾病等の発症等の結果を招いたと認められれば,相当因果関係があるとする共働原因論によるべきである。

そして,公務上外の認定における過重負荷の判断に際しては,被災者本人を基準とすべきである。なぜなら,労災補償制度の趣旨は,被災者とその遺族の生活保障にあり,また,「病的エピソードは,ぜい弱性と生活上のストレスとの相関によって起こる。」という「ストレス-ぜい弱性」理論によれば,生活上のストレスを各個体がどのように受け止めるかについては大きな個人差があるので,個体と切り離してストレス強度を判定するのではなく,個体が受けたストレスを個別・具体的にかつ総合的に判断すべきだからである。

(被告の主張)

ア 災害補償制度の一つである地方公務員労働災害補償制度は,業務に内在する危険性が現実化して被用者が負傷し又は疾病にり患した場合,使用者に何らの過失がなくても,その危険性の存在ゆえに使用者がその危険を負担してその損失補償に当たるべきであるとする危険責任に基づく制度であり,100パーセントの法定補償を支給するか否かしか認められておらず,因果関係の割合等に応じた補償の給付は認められない。そして,被災者に発症した疾病に関して,業務以外の要素が介在するとしてもなお,業務と疾病との間に相当因果関係を認め,業務に100パーセントの危険責任を負担させるためには,公務が当該疾病を引き起こすその他の要因との関係において相対的に有力な原因であったと評価できることが必要である。

イ 精神疾患の発症の原因は,環境由来のストレスと個体側のぜい弱性,反応性の2つの要素が複雑に絡み合っているとされている(「ストレス-ぜい弱性」理論)。精神疾患の公務起因性の判断に当たっては,こうした要因の中で,いずれが主要な因子であるかを判定することが求められるが,個体のぜい弱性については,しばしば外部から客観的に判断することが困難な場合がある。よって,個体が受けるストレスの大きさをできるだけ客観的に評価することが重要である。精神疾患が発症したとしても,業務によるストレスが客観的にみて精神疾患を発症させる程度に過重でない場合には,当該業務に危険が内在するものということはできず,当該精神疾患は,業務以外のストレスにより個体側のぜい弱性によって発症したとみるべきであり,この場合には公務起因性を認めることはできない。

そして,前記災害補償制度の趣旨や公務上の災害に対する補償の公正な実施の確保の観点からすると,過重負荷の判断基準は,通常想定される範囲の同種労働者の中で平均的な労働者を基準とすべきである。

(2)  本件における公務起因性

(原告の主張)

被災者は,市バス運転士として過重労働に従事することで心身の疲労が蓄積していた中で,強い心理的負荷のかかる3件の公務に関連する出来事に短期間のうちに連続的に遭遇したことにより急性ストレス反応又は不安・抑うつを伴う適応障害を発症したから,被災者の死亡の公務起因性は明らかである。

ア 市バス運転労働の心理的負荷

(ア) 質的過重性

日本産業衛生学会が1974年に公表した「運転労働における労働衛生施策に関する意見書」には,具体的なバス運転労働の負担として,精神的緊張が長時間連続する,局所に負担が偏り,心理的に飽和感,単調現象が起きやすい,たえず事故の不安に脅かされる,乗客が負傷したりすれば刑罰や行政処分を受ける可能性があることなどから,バス運転労働が質的に過剰であると指摘されている。また,市バスの運転士の業務が運転業務以外にも多岐にわたっていることからすると,市バスの運転士は,単に自動車を運転するだけではなく,乗客を安全・快適に輸送するために常に神経を集中しなければならない。以上によれば,市バス運転労働の心理的負荷は著しい。

(イ) 量的過重性

被災者は,上司から求められるままに公休日に出勤し,36協定や改善基準に違反する時間外労働もいとわず公務に従事していた。

また,被災者の勤務の多くは,拘束時間が長く,身体的,精神的疲労が蓄積される中休勤務であり,被災者は,改善基準やILO第153号条約の定めにかかわらず,不十分な休息期間しか与えられなかった。

なお,被告は,中休時間が自由な休憩時間であると主張するが,中休時間10分につき30円の中休手当が支払われていること,中休時間中に超過勤務等を命じられる場合もあることに鑑みれば,中休時間は真に自由な休憩時間ではなく,拘束時間と解すべきである。

イ 名古屋市交通局の労務管理及び職場の実態

名古屋市交通局の労務管理及び職場の実態は以下のとおりであり,被災者を含む同局に所属する運転士は,このような労働環境のもとで常に緊張を強いられていた。

(ア) 名古屋市交通局は,乗客にありがとうと言われるサービスを提供するという「ありがとう運動」を強く推進し,その結果,乗客の言い分を鵜呑みにし,運転士の言い分を聞くこともなく反省を迫ることとなった。

(イ) 名古屋市交通局は,リフレッシュ研修という教育訓練の名の下に退職強要などを行うことにより,日常的に運転士に過大な心理的負荷を与え,当局の考え方に服従させていた。運転士は,日常的に,リフレッシュ研修を心理的な重圧と感じていた。

(ウ) 市バスの営業所ではパワーハラスメントが日常的に横行しており,被災者もパワーハラスメントを受けていた。

ウ 本件添乗指導

(ア) 被災者は,昼食を取る時間もなく,停留所が少なく混雑が予想される臨時バスの乗務を命じられ,しかも,呼吸器系の持病への配慮なく「葬式のようなしゃべり方はやめるように」というハラスメントに該当する指導を受けていることなどからすれば,被災者が受けた心理的負荷は極めて強いものであった。

(イ) P4営業所の所長,副所長,首席助役という管理職のいわばトップスリーが平成18年10月27日のたった1日に被災者に対する添乗指導を行っていることなどからすると,名古屋市交通局が被災者に対して,何らかの隠された意図をもって,組織的に差別的な添乗指導を繰り返していたとしか考えられない。

エ 本件苦情

被災者は,本件メールの送信者(以下「本件送信者」という。)の指摘事項がなかったと確信していたにもかかわらず,長期間にわたって,業務の適正な指導の範囲を超えるようなパワーハラスメントともいうべき指導を受けており,このような指導が被災者にとって強い心理的負荷になったことは明らかである。

オ 本件転倒事故

本件転倒事故は,被災者の運転していたバスで起こった事故ではなかった。しかし,被災者は,身に覚えのない本件転倒事故の責任を押し付けられ,さらに,リフレッシュ研修の対象となるという強い不安にも駆られたものであり,被災者にとって極めて強い心理的負荷となった。

(ア) 被害者が当初供述した市バスと被災者が運転していた市バスの発車時刻が異なること,被害者の供述と被災者が運転していた市バスのBDCSデータ(各停留所の発車時刻と乗降者人数等を記録したデータ)が矛盾している(BCDSデータによれば,被災者が運転していた市バスには,被害者が乗車したという○バス停から同人が降車したという○までの区間を乗車している乗客はいなかったことになる。)ことなどからすると,本件転倒事故の発生したバス(以下「本件事故バス」という。)の運転士が被災者ではないことは明らかである。

(イ) 前記(ア)のとおり,被災者が本件事故バスの運転士であるという事実認定は誤りであるにもかかわらず,名古屋市交通局は,それらの論拠をいずれも理由があるかのように被災者に突き付けた。被災者は,「当日にはそんなことはなかったし,関係者よりそのような申し出もなく,乗車客より何のお叱りも受けなかった。」と弁解したが聞き入れてもらえず,やむにやまれぬところまで追いつめられた結果,本件事故バスの運転を自認させられた。

(ウ) 名古屋市交通局では,事故・苦情が年間3回に達した者は,リフレッシュ研修の受講対象者とされている。また,名古屋市交通局では,本件転倒事故のような発進反動(バスが発進する際,バス自体には加速する力が加わるものの車内の乗客にはその力が加わらずに乗客の身体が停止し続けようとするため,乗客の身体があたかも後ろに引っ張られるような状態になること。)による事故は,扉挟撃事故及び追突事故と共に3大事故と呼ばれ,そのうち重大事故を1件でも発生させた場合には,リフレッシュ研修の対象となると言われていた。

以上によれば,被災者が,本件添乗指導や本件メールによる苦情に加えて,発進反動により乗客を負傷させるという本件転倒事故の責任を押し付けられたことにより,リフレッシュ研修の対象となるという強い危惧を持ったとしても何の不思議もない。

そして,リフレッシュ研修は,実際には受講者に退職を迫るなどの威圧的な研修であり,被災者は,そのようなリフレッシュ研修の対象者となり,退職を迫られることを恐れていた。

(エ) 被災者は,かつて自転車の窃盗犯であると疑われた経験があり,警察に対するアレルギーが人一倍強かったと推認されるため,警察に出頭し,取調べを受け,実況見分に立ち会ったことによる心理的負荷は特に大きかった。

(被告の主張)

被災者には,客観的にみて強度の精神的ストレスを生じさせる出来事は発生しておらず,たとえ,被災者が職務遂行上感じた複数のストレスが被災者の精神疾患発症の一因となったとしても,当該精神疾患の発症は,被災者の個体的ぜい弱性・反応性に起因したものと考えられ,公務に内在ないし随伴する危険が現実化したとは認められない。よって,被災者の精神疾患発症と公務との間に相当因果関係は認められないから,被災者の死亡を公務外と認定した本件公務外災害認定処分は適法かつ妥当である。

ア 市バス運転労働の心理的負荷

(ア) 質的過重性

原告が引用する「運転労働における労働衛生施策に関する意見書」の前提となった「日本産業衛生学会 循環器疾患の作業関連要因検討委員会報告 職場の循環器疾患とその対策」は「循環器疾患」を前提とした40年以上前の報告書である上,同意見書が自動車運転労働の特徴として掲げる負担要因の中には,市バスの運転の労働環境に当てはまらないものが様々含まれていること,市バスが他の乗合バス事業者と比較して心理的負荷が著しい労働である客観的な事実はないこと,バス運転中の人身事故は,安全運転義務違反として減点を受けることはあるが,特段の重大な事故でなければ,原則として,その他の行政処分・刑罰について処分を受けることはないこと,被災者の乗合バスの運転士としての経験は浅くはなく,また,P4営業所に異動してから災害発生までに1年半以上経過しており,担当する路線の道路状況も十分把握した上で乗務していたものと考えられることからすると,被災者の従事した市バス運転労働が質的に過重であったとはいえない。

(イ) 量的過重性

被災者が従事した時間外労働の内容は,被災者本人が同意した上で他の運転士の代わりに市バスの運転をしたものであり,内容として特別困難を要するものではないこと,時間外労働時間数は,過重性が認められる時間数には及ばないこと,時間外労働の影響により被災者が精神疾患を発症したことを推認させるような客観的証拠はないことからすると,被災者が従事した市バス運転労働が量的に過重であったとはいえない。改善基準に定める拘束時間及び休息期間の規制に反しているからといって,あるいは,被災者の従事した時間外労働時間が36協定に定める時間を超えていたからといって,直ちに公務過重性があったとは認められない。

なお,中休時間は,労働に従事しておらず,仮眠や外出が可能な時間であり,疲労回復に充てることができる休憩時間である。原告が主張する中休手当は,中休勤務において,中休時間を設定することによって改善基準における拘束時間が長時間になるという特殊性に基づき支給している特殊勤務手当であり,中休手当の支給は,中休時間の実質が休憩時間であることに影響するものではない。

イ 本件添乗指導

(ア) 本件添乗指導記録票には「葬式の司会のような」という不適切な表現が含まれるものの,P10による被災者への指導は,被災者に不要な心配や動揺をさせないよう配慮して行われたものであり,被災者の心情を著しく傷つけるものではない。

(イ) 原告は,被災者に対して何らかの意図を持って,偏った計画的な添乗指導を行っていると憶測しているようであるが,そのような事実は全くない。

ウ 本件苦情

被災者は,その程度は別にして,本件苦情の対象が自分であろうという認識を持っていたと推認できる。他方,P11による指導は,被災者の特性を考え,被災者の心情に配慮しながら,同人に苦情が寄せられないようにするために行われたものであり,その内容は,他のバス運転士への対応と同じである。以上によれば,本件メールに対する被災者への指導は適切であり,強い心理的負荷を伴うものではなかった。

エ 本件転倒事故

(ア) 名古屋市交通局は,被害者,被害者を介助した知人男性,本件事故バスを運転した可能性のあった運転士からの事情聴取を経た後に被災者の事情聴取を行い,被災者が「私の運行する時間帯であれば,そうでしょう。」と答え,警察への届出を了解したことから警察への事故届を行っており,本件事故バスの運転士の特定方法及び警察への届出は,妥当かつ適法になされた。この経緯においては,各運転士の証言を尊重しており,BCDSデータは証言の確認程度に使用したまでである。なお,BCDSは,機器としての限界があり,作動する環境によっては必ずしも100パーセント正確に乗降客を計測するものではない。

(イ) P10は,一方的な決め付けにならないように留意しながら被災者から事情を聴き,被災者から警察への事故届の了解を得ており,事故届を出すことを強要したり,本件転倒事故を叱責したり,再発防止のための指導をしたりしたことはない。また,警察から帰所後,被災者に対する事情聴取や指導は行われていない。よって,本件転倒事故及びその後のP4営業所の対応は,被災者に心理的負荷を及ぼすものではなかった。

(ウ) リフレッシュ研修は,1年以内に有責事故・苦情が3件に達した職員のうち,所属営業所等の度重なる指導でも成果が表れず,自動車運転課長により特別な研修が必要と判断された者に対して行われ,安全運行と事故防止,接客・接遇の技術向上を図ることを目的とし,事故の分析,実車訓練,危険予知訓練,職員としての心構えなどを内容として実施されるものであり,名古屋市交通局の考え方に服従させようとする労務管理手段ではない。ほとんどの市バス運転士は経験することがなく,意識をする必要もない。被災者は,リフレッシュ研修について何も述べていない。

以上によれば,被災者がリフレッシュ研修を恐れていたとか心理的負荷と捉えていたという推定は,不自然・不合理である。

第3当裁判所の判断

1  公務起因性の判断基準

(1)  地公災法に基づく補償は,地方公務員等の公務上の災害(負傷,疾病,障害又は死亡をいう。以下同じ。)等について行われるところ(地公災法1条,26条,28条,28条の2,29条,31条,42条,45条1項),同補償制度が使用者の過失の有無を問わずに被災公務員の損失をてん補する,いわゆる危険責任の法理に由来する制度であることに鑑みれば,「公務上」の災害とは,公務に起因する災害,すなわち公務員が公務に起因して負傷,疾病,障害又は死亡した場合をいい,公務と災害との間には,相当因果関係が認められることが必要と解される(最高裁昭和51年11月12日第二小法廷判決・集民119号189頁参照)。

そして,地公災法に基づく補償制度は,使用者が公務員を自己の支配下に置いて労務を提供させるという公務関係の特質を考慮し,公務に内在する各種の危険が現実化して災害が発生した場合には,使用者に無過失の補償責任を負担させるのが相当であるという危険責任の法理に基づくものであるから,公務と災害との間の相当因果関係の有無は,その疾病が当該公務に内在する危険が現実化したものと評価し得る否かによって決せられるべきである(最高裁平成8年1月23日第三小法廷判決・集民178号83頁,最高裁平成8年3月5日第三小法廷判決・集民178号621頁参照)。

また,今日の精神医学的・心理学的知見としては,環境由来のストレス(心理的負荷)と個体側の反応性・ぜい弱性との関係で精神的破綻が生じるか否かが決まるという「ストレス-ぜい弱性」理論が広く受け入れられており,環境由来のストレスについては,多くの人が一般的にどう受け止めるかという客観的に強度を評価することが前提とされている(甲C4,7,8)。

そうすると,精神疾患の公務起因性は,環境由来のストレスのうち公務に内在するストレス(心理的負荷)の強度により判断されるべきである。そして,その判断は,当該公務員と職種,職場における立場,経験等の点で同等の者(以下「平均的労働者」という。)を基準とすべきであり,平均的労働者にとって,当該労働者の置かれた具体的状況における心理的負荷が一般に精神疾患を発病させ,死亡に至らせる危険性を有しているものであって,特段の公務以外の心理的負荷及び個体側の要因のない場合には,公務と精神疾患発症(すなわち災害)との間に相当因果関係が認められると解するのが相当である。

そして,証拠(甲C4から10,45)及び弁論の全趣旨によれば,認定基準及び実施通達は,専門家による度重なる議論や近時の精神医学的・心理学的知見を踏まえて作成されており,公務起因性の存否を判断する基準として詳細な基準や要件を定めており,公務の過重性を量的,質的な観点から客観的に把握しようとする点において,地公災法に基づく補償制度の危険責任の法理にもかなうものであるから,合理的なものであると認められる。

したがって,認定基準及び実施通達は,本件公務外災害認定処分時には発出されておらず,また,裁判所による行政処分の違法性に関する判断を直接拘束するものではないが,それらを適宜参照しつつ,公務と精神疾患発症との間の相当因果関係を判断するのが相当である。

(2)  以上に関し,原告は,公務起因性の判断について,公務と関連性を有しない基礎疾患等が疾病等の原因となった場合であっても,公務が基礎疾患等と共働原因になって疾病等の発症等の結果を招いたと認められれば相当因果関係が認められ,公務の過重性の判断は被災者本人を基準とすべきである旨主張するが,これによると公務起因性が認められる範囲が広がりすぎることになりかねず,危険責任の法理に由来する地公災法に基づく補償制度の趣旨に合致しないことになるから,採用できない。

2  本件における公務起因性

(1)  市バス運転労働の心理的負荷

ア 質的過重性

原告は,要するに,バスの運転は精神的緊張が長時間連続する,局所に負担が偏り,心理的に飽和感,単調現象が起きやすい,たえず事故の不安に脅かされる,乗客が負傷したりすれば刑罰や行政処分を受ける可能性があること,市バスの運転士の業務は多岐にわたることなどから,市バス運転労働が質的に過重である旨主張する。

確かに,日本産業衛生学会が1974年に発表した「運転労働における労働衛生施策に関する意見書」(甲B5)には,原告の主張に沿う記載が認められ,市バス運転労働にも原告が指摘するような特徴があることは否定できない。

しかし,実施通達は,認定基準第2の1(2)の「その他強度の精神的又は肉体的負荷を与える事象」に該当する事象と判断できる場合の一つである「発症直前の1か月以上の長期間にわたって,質的に過重な業務を行ったこと等により,1月当たりおおむね100時間以上の時間外勤務を行ったと認められる場合」(認定基準第3の1(1)ア(イ)⑥)の「質的に過重な業務を行ったこと等」の具体例として,「①制度の創設等に携わったこと,②繁忙部署に異動したこと,③組織の合理化等により自ら処理すべき業務が大きく増加したこと,④業務の失敗に対応したこと,⑤限られた期間内に大量の作業を行う必要が生じたために当該作業に従事したこと等」を挙げているところ,被災者の従事した市バス運転労働がこれらの具体例に該当するとは認められず,業務の質という観点からみて,これらの具体例と同程度の心理的負荷を有するということはできない上,前記前提事実(1)ウのとおり,被災者は,市バス運転業務に6年従事し,それ以前にもバス運転業務に従事しており,バス運転業務の十分な経験を積んでいることからしても,業務の質から受ける心理的負荷を重視することは相当とはいえない。

したがって,被災者の従事した市バス運転労働が質的に過剰であったとは認められない。

イ 量的過重性

(ア) まず,被災者の時間外労働時間数について,原告は,中休時間が休憩時間ではなく,時間外労働時間数に含まれる旨主張する。

確かに,中休時間を営業所内で過ごしている運転士は,車両故障や交通事故,運転士の急病等の緊急事態が生じた場合に,その代替運転士として乗務を命じられることがあり,被災者もそのような乗務命令を受けたことがあった(前提事実(2)イ,弁論の全趣旨)。

しかし,証拠(乙A14,15)及び弁論の全趣旨によれば,そもそも中休勤務ないし中休時間は,市バス運転事業の性質上,朝夕のラッシュ時に一時的に事業量が増大するため,これに対応するために設けられた勤務形態ないし拘束時間であって,各営業所所属運転士の担当バス便及び勤務時間は予め決められており,中休時間は休憩時間として仮眠や外出をすることも許されていることが認められる。また,証拠(甲A16の4)によれば,被災者は,平成18年12月3日から平成19年6月12日までの間に合計67日の中休勤務があったが,中休勤務中に出勤することになったのは,同年2月3日の1日のみであったことが認められる。以上によれば,運転士が,中休時間に,前記緊急事態に備えて待機することを命じられていたとは認められない。

よって,中休時間を労働時間であると認めることはできず,時間外労働時間数には含まれないと解するのが相当である。そうすると,被災者が平成19年6月13日までに何らかの精神疾患を発症したことに争いはないところ,同月12日より前6か月間の時間外労働時間数は前記前提事実(6)のとおりであって,1か月間当たりの時間外労働時間数の平均は62時間58分であり,その最大は74時間23分であると認められる。

(イ) また,原告は,被災者が改善基準やILO第153号条約の拘束時間及び休息期間の制限を超過する労働に頻繁に従事していたことから,被災者の従事した市バス運転労働が量的に過重であった旨主張する。

そこで検討するに,証拠(甲A21から23)によれば,改善基準及びILO第153号条約は,拘束時間が長時間となって休息期間が減少すると,睡眠時間を含む労働者の生活時間が減少し,労働による疲労を十分に回復することができなくなるため,十分な休息期間を確保することを目的として拘束時間や休息期間の制限を設けているものと解され,実施通達も,「時間外勤務等の過重性の検討に当たっては,(中略)時間外勤務等の時間帯,不規則性,実質的な睡眠時間の確保等の状況も,必要に応じて考慮する。」としていることから(甲C45),本件において,業務の量的過重性を判断するに際しては,拘束時間及び休息期間の長さを考慮すべきである。ただし,拘束時間には休憩時間(中休時間を含む。)が含まれており,休憩時間は,休息期間と同程度に疲労が回復するとはいえないものの,疲労の回復に充てることが可能であるから,改善基準やILO第153号条約の規制を超過した場合であっても,被災者の従事した市バス運転労働が直ちに量的に過重であったと判断することはできず,実際に稼働していた時間の長さ,具体的には時間外労働時間数も考慮する必要がある。

これを本件についてみるに,前記前提事実(7)ウのとおり,精神疾患発症前6か月間において,拘束時間が13時間を超えた日数は全労働日数の7割弱に上っており,改善基準の「1日についての拘束時間は,13時間を超えないものと」するとの定め(前提事実(7)ア)が必ずしも順守されておらず,拘束時間が相応に長時間となっていたと認められる。また,休息期間が10時間未満の日数は全労働日数の4割強に上っており,ILO第153号条約の「運転者の1日当たりの休息期間は,労働日の開始から始まる24時間の間の少なくとも連続した10時間とする。」との定め(前提事実(7)イ)が必ずしも順守されておらず,十分な休息期間が与えられていたとはいえないことも認められる。

しかし,前記期間において,改善基準の定める最大拘束時間である16時間を超えた日数は全労働日数の1割未満に,改善基準及びILO第153号条約の定める休息期間の最低限度である8時間を下回る日数は1日にとどまっており(前提事実(7)アからウ),拘束時間が非常に長時間になっていた,あるいは休息期間が極端に短かったとは認められない。また,認定基準では,「発症直前の1か月以上の長期間にわたって,質的に過重な業務を行ったこと等により,1月当たりおおむね100時間以上の時間外勤務を行ったと認められる場合」に業務による強い負荷があったとされ(認定基準第3の1(1)ア(イ)⑥),実施通達では,「時間外勤務等の過重性は,原則的にその原因となった出来事等の過重性と関連させて検討する(特に,1月当たりおおむね80時間以上の時間外勤務等を行っていた場合には,留意する)。」とされているところ(甲C45),前記(ア)のとおり,被災者の時間外労働時間数は,1か月当たりの平均が62時間58分であり,その最大時間数も80時間に満たないから,時間外労働時間数自体が精神疾患発症と関連性を有する程度に長時間であったとは認められない。

これら事情に鑑みると,被災者の従事した市バス運転労働は,改善基準やILO第153号条約の規定に照らして問題がなかったとはいえないものの,量的に過重であったとまでは認められない。

ウ 小括

以上のとおり,被災者の従事した市バス運転労働は,質的にも量的にも過重であったとはいえないから,それによる心理的負荷は,平均的労働者にとって強いものであったとは認められない。

(2)  本件添乗指導

ア 事実認定

前記前提事実及び後掲の証拠によれば,以下の事実が認められる。

(ア) P7は,平成19年2月3日,○停留所において,節分の日に運行される節分バスの運行状況を確認した後,被災者の運転する臨時バスに乗車した。(前提事実(2)ア,イ,乙A2,3,証人P7)

(イ) P7は,前記臨時バスにおける被災者のアナウンスが非常に小さい声で抑揚もなく,葬式の司会者のようだと感じたため,平成19年2月3日の帰庁後に「葬式の司会のようなしゃべり方はやめるように」などと記載された本件添乗指導記録票を作成し,同月5日に同指導票をP4営業所へ送付した。また,P7は,同指導票を作成した同月3日が土曜日で,営業所へ文書を送付する文書集配車が稼働しておらず,本件添乗指導記録票が被災者の所属するP4営業所に届くまでに時間がかかるため,同日,P4営業所に電話をし,P10に対し,「P1運転士は,小さい声で抑揚もなくて,お葬式の司会者のようなアナウンスをしておったから,大きな声ではっきりと案内をするように指導してほしい。」と伝えた。(前提事実(2)ウ,甲A31の2,乙A3,4,証人P7,同P10)

(ウ) P10は,本庁の課長であるP7からの指示を被災者に忠実に伝えなければならないと考えた一方で,被災者はアナウンス自体はしているから,P7の指摘は主観的な判断であってたいしたことではないとも考えた。そこで,P10は,P7からの電話があった平成19年2月3日当日か翌日にP4営業所内の階段で被災者とすれ違った際,被災者に対し,「実はP1の臨時バスに乗車した本庁の課長から電話で連絡があったんだよ。内容は,アナウンスが声が小さくて抑揚がないと,葬式の司会者のようなアナウンスだった。大きく伝えるように注意しとけという電話があったんだけど,アナウンスの指摘を受けることはたいしたことではない。あんまりくよくよせず,気にせずに,今後も声がお客様に伝わるように頑張ってね。」と伝えた。(乙A4,証人P10)

(エ) 被災者は,平成19年2月5日午後1時48分頃,「なぜ『葬式』呼ばわりされなければならないのでしょうか。基本的人権および職業選択の自由の侵害・不当な差別・パワーハラスメント・いじめであり」などと記載された本件上申書を作成した。なお,被災者は,同上申書を名古屋市交通局に提出していない。(前提事実(2)オ,弁論の全趣旨)

イ 心理的負荷の強度

前記アのとおり,被災者は,アナウンスの声が小さく抑揚がないという失敗によりP10から注意を受けている。この出来事は,「業務により強度の精神的又は肉体的負荷を受けたこと」の具体例として認定基準に掲げられる場合(認定基準第3の1(1)アの(ア)①及び②並びに(イ)の①から⑪)には該当しない。この場合であっても,認定基準第3の1(1)ア(イ)の「⑫ ①から⑪までに準ずるような業務による負荷があったと認められる場合」に該当する場合があるところ,実施通達の業務負荷の分析表には,本件のような「仕事の失敗」について,出来事例として「業務に支障を生じさせる失敗をした」,「失敗の責任を厳しく問われた」が,過重な負荷となる可能性のある業務例として「社会的な関心を持たれる案件の処理で対応を誤り,行政に対する住民の信頼を低下させた場合」,「繁忙業務を任せた部下職員が自殺したため,管理監督責任を問われた場合」が,着眼する要素として「失敗の程度 ・日常的なものか否か,問題化するような大きなミスか否か」,「失敗への本人の関与の程度 ・失敗の原因,・本人の過失の程度」,「問責等の有無 ・叱責,懲戒処分等,責任をどのように問われたか」,「損害の発生と程度 ・業務への支障の有無,・対外的影響,・フォローの余地」が挙げられている。

そこで,以下,業務負荷の分析表の前記記載を参照しつつ,本件添乗指導の心理的負荷の強度を検討する。

(ア) 失敗の程度,損害の発生と程度

アナウンスの声が小さく抑揚がないという失敗は,乗客に対して様々なアナウンスを行う市バスの運転士の業務(弁論の全趣旨)で生じる失敗としては頻度が高く,比較的日常的にあり得ること,アナウンス自体は行われており,乗客が乗り過ごす等,乗客等に何らかの損害を与えたとは証拠上認められないこと,名古屋市交通局やP4営業所の業務に支障を与えたり,対外的に影響を及ぼしたりしたとも証拠上認められないことからすると,失敗の程度は軽微であり,何らの損害も発生していないと認められる。

(イ) 失敗への本人の関与の程度

失敗の原因は必ずしも明らかではないが,被災者の呼吸器系の持病(前提事実(1)エ)が一因になった可能性があり,そのことにはやむを得ない面があること,アナウンスの聞こえ方は乗客のそのときの行動や受け止め方等によっても左右されるものであることからすると,被災者の過失の程度は必ずしも大きくはないと考えられる。ただし,自らの持病が一因となった失敗について注意を受けることは,被災者に対して一定の心理的負荷を与えると認められる。

(ウ) 問責等の有無

前記ア(ウ)のとおり,被災者は,失敗についてP10から口頭で注意を受けている。そして,P10は,被災者に対して,本庁の課長の指摘を忠実に伝える中で不適切な表現を使用しているものの,被災者のアナウンスを殊更に批判せず,たいしたことではないから今後も頑張るようにと激励している。そうすると,P10による注意は,業務上必要な注意・指導の方法として適切な範囲を逸脱するものであったとは到底いえない。

(エ) 小括

以上のとおり,失敗は軽微なものであり,損害も発生していないこと,同失敗に対するP10の注意は,適切な範囲を逸脱するものではなかったことからすると,被災者の持病が失敗の一因となっている可能性があること,被災者は,自分のアナウンスが葬式呼ばわりされたことに納得せず,これをパワーハラスメントなどであると感じていた可能性があること(前記ア(エ))を考慮しても,本件添乗指導の心理的負荷は,前記の業務負荷の分析表の「仕事の失敗」の「過重な負荷となる可能性のある業務例」の心理的負荷には到底及ばず,平均的労働者にとって弱いものであったと認められる。

なお,被災者に対しては,本件添乗指導以前にも平成18年10月27日の3回の添乗指導を含む複数回の添乗指導が行われ,本件添乗指導後も2回の添乗指導が行われているものの(前提事実(2)カ),被災者が本件添乗指導以外の添乗指導に気が付いていたかは証拠上明らかではないことに加えて,被災者が平成18年度に受けた添乗指導の回数(6回)が名古屋市交通局の全乗務員の添乗指導の回数の平均(9.6回)よりも少ないこと(乙A1),本件添乗指導以外の添乗指導では指導事項がないこと(甲A51の2から8)などに鑑みれば,本件添乗指導以外に複数回の添乗指導を受けたことをもって,前記心理的負荷が強まるとは認められない。

(3)  本件苦情

ア 事実認定

前記前提事実及び後掲の証拠によれば,以下の事実が認められる。

(ア) 本件送信者は,平成19年5月3日,名古屋市交通局に対し,同月2日に乗車した市バスの運転士がユリカから過大に料金を徴収したことに気付き,説明や謝罪なく金券を渡した,ベビーカーと市バスの座席をつなぐベルトの外し方や外した後の処理の説明をしなかったなどと記載された本件メールを送信した。同メールに記載された本件送信者の乗車した市バスの運転士は,被災者であった。(前提事実(3)ア,イ)

(イ) 名古屋市交通局自動車運転課指導係から本件メールについて知らされたP11は,平成19年5月16日,被災者をP4営業所の事務所に呼び出し,本件メールを読み上げ,覚えていないかと尋ねたところ,被災者は,「覚えていない。何日もたっているから分からない。」と答えた。これに対して,P11が本件送信者のユリカの乗車履歴を確認すれば同人がどのバスに乗ったか判明するが,覚えていないか再度確認したところ,被災者は,「はっきりと覚えてないけど,そういうことがあったかもしれない。」,「ベビーカーの説明は日頃している。声が小さくてぼそぼそしゃべってしまうので,聞こえてなかったかもしれないです。」と答え,また,ユリカに関して,「引換券を渡したかもしれない。渡したかどうかも分からない。何日も経ってるから分からない。」と答えた。被災者の説明を聞いたP11は,「あったかなかったかという事実よりも,声が小さいということを述べているので,声が小さいとお客様に伝え切れないということがありますので,伝わるようにマイクの音量を上げるなどしてこれから接客してください。」と指導をした。これに対して,被災者は,「はい。」と答えた。P11による事実確認及び指導は,10分から15分程度かかった。なお,被災者が行った1回で2人分徴収する扱い,過徴収した場合は金券を交付するという扱い及びベビーカーの固定に関する扱いは,いずれも正しい扱いであった。(前提事実(3)ウ,甲A31の3,乙A8,証人P11,弁論の全趣旨)

(ウ) 被災者は,平成19年5月16日のP11による事実確認及び指導後,「今回の苦情の件ですが,メールによると喋りもせず黙っていたとありますが,絶対にそのようなことはありえません。」,「私は呼吸器系が弱く(中略)乗務中であれば,自分としては発声しているのですが,バスのエンジンはかかっているし,周囲の音にかき消され結局『黙っていた』と,捉えられかねないと思います。」,「乗務員として不適格であれば辞職を考えるしかありません。」などと記載された本件進退願を作成した。なお,被災者は,同進退願を名古屋市交通局に提出していない。(前提事実(3)カ,弁論の全趣旨)

(エ) 被災者は,平成19年6月6日,P4営業所の模範的な運転士のバスに添乗した。(前提事実(3)エ)

(オ) 名古屋市交通局自動車運転課から本件苦情に関して被災者を再指導するよう指示されたP10は,平成19年6月9日,P4営業所事務所に被災者を呼び出し,「○(被災者が所属していた名古屋市交通局内のクラブ)で遠方に旅行することはない?」,「不慣れな交通機関を利用して困ったことってあるんじゃない?」と尋ね,被災者が「あります。」と答えると,「当然,不慣れな交通機関を利用して困れば不安だったでしょう。どうしていいか分からなかったでしょう。」,「このお客様もP1と一緒のように不安だったんじゃない?困ってたんじゃない?我々,一見すると乗り慣れたお客様ばかりが乗ってるように見えるけれども,中には,我々からは分からないですけど,不慣れなお客様も乗ってらっしゃるんで,全てのお客様が安心,快適に利用いただくためにも,全てのお客様により良い接客をしなければいけないんだよ。」,「大きな声でお客様に伝わるように接客してね。」と伝えた。これに対し,被災者は,「はい。」と答えた。(前提事実(3)オ,甲A31の7,乙A11,証人P10,弁論の全趣旨)

(カ) 被災者は,平成19年6月11日,P10に対し,「正直その時にもどってあやまりたいと思います。とともに貴重なご意見をいただいたことに感謝いたします。」などと記載された本件添乗レポートを提出した。これに対してP10が「よく反省してるね。」,「これからも引き続き頑張ってね。」と伝えたところ,被災者は,「はい。」と笑みを浮かべながら答えた。(前提事実(3)エ,甲A31の6,乙A11,証人P10)

イ 心理的負荷の強度

前記アのとおり,被災者は,本件苦情の対象の運転士として事情聴取及び一連の指導を受けている。この出来事は,「業務により強度の精神的又は肉体的負荷を受けたこと」の具体例として認定基準に掲げられている場合(認定基準第3の1(1)アの(ア)①及び②並びに(イ)の①から⑪)には該当しないが,業務負荷の分析表の「仕事の失敗」には該当する。そこで,業務負荷の分析表の仕事の失敗に関する記載(前記(2)イ)を参照しつつ,本件苦情による心理的負荷の強度を検討する。

(ア) 失敗の程度,損害の発生と程度

本件苦情は,ユリカやベビーカーの取扱いに関して乗客に十分なアナウンスをしなかったという失敗であり,乗客がユリカやベビーカーを頻繁に利用する市バスの運転業務において非日常的とまではいえない失敗であること,ユリカの徴収,金券の交付,ベビーカーの固定に関する扱い自体はいずれも正しいものであったこと,本件送信者には何らの身体的及び財産的損害が生じておらず,大きなミスとはいえないこと,本件苦情が名古屋市交通局やP4営業所の業務に支障を与えたり,対外的な影響を及ぼしたりしたという事情は証拠上認められないことなどからすると,失敗の程度は軽微であり,何らの損害も発生していないと認められる。

(イ) 失敗への本人の関与の程度

a まず,原告は,被災者は本件送信者の指摘事項がなかったと確信していたにもかかわらず事情聴取及び一連の指導を受けており,その心理的負荷は強かった旨主張しているところであり,仮に,被災者が本件メール記載の出来事がなかったと認識していたとすると,責任のない苦情について問責等を受けたと受け取めることになって,その心理的負荷は強くなり得るから,本件メール記載の出来事に関する被災者の認識及びその認識が心理的負荷の強さに与える影響について検討する。

前記ア(イ)のとおり,被災者は,本件メールを読み聞かせられた後,いったんは覚えていない,分からないと答えたものの,本件メールの送信者の乗車履歴の確認を提案されると,「はっきりと覚えてないけど,そういうことがあったかもしれない。」,「ベビーカーの説明は日頃している。声が小さくてぼそぼそしゃべってしまうので,聞こえてなかったかもしれないです。」,「引換券を渡したかもしれない。渡したかどうかも分からない。」と答えていること,その後のP11の指導,模範的な運転士のバスへの添乗,P10の指導,本件添乗レポートの提出について関係者に不満を述べるなどしておらず,本件添乗レポートをP10に提出する際には笑みを浮かべながら「はい。」と答えていることからすると,被災者は,明確な記憶はないものの,本件メール記載の出来事があったかもしれないと認識していたと認められる。

そして,そのような状況で指導を受けることになった場合,平均的労働者は,本件苦情に関して明確な記憶がないため指導を受けることに完全には納得できないものの,指導を受けること自体はやむを得ないと感じるものと考えられるから,明確な記憶はないものの,本件メール記載の出来事があったかもしれないという認識は,明確に記憶にある出来事について指導等を受ける場合よりも若干心理的負荷を強めるとは考えられるものの,その強さを大きく左右することはないというべきである。

これに対し,原告は,被災者は本件送信者の指摘事項がなかったと確信していた旨主張し,前記ア(ウ)のとおり,本件進退願には,「今回の苦情の件ですが,メールによると喋りもせず黙っていたとありますが,絶対にそのようなことはありえません。」との記載がある。しかし,本件進退願には,バスのエンジンなどの周囲の音に自分の声がかき消され,乗客に黙っていたと捉えられることがあり得る旨記載されていることや,他に前記アで認定した事実からすれば,被災者が説明をしたものの伝わらなかったという可能性まで否定しているとは認められないから,原告の主張は採用できない。

b 次に,業務負荷の分析表の「仕事の失敗」の着眼する要素である「失敗への本人の関与の程度」について検討する。本件苦情に関する失敗の原因は必ずしも明らかではないが,P11による事情聴取の際の被災者の回答(前記ア(イ))及び本件上申書の記載(前記ア(ウ))によれば,説明はしたものの,呼吸器系の持病の影響で説明の声が小さくて本件送信者に伝わらなかったことが原因となった可能性がある(現に,P11やP10は,説明したものの伝わらなかったということを前提に,被災者への指導を行っている(前記ア(イ),(オ))。)。そこで,呼吸器系の持病の影響で説明の声が小さく聞き取りづらかったということが失敗の原因であることを前提とすると,必要な説明は行っていること,呼吸器系の持病により声が小さくなることにはやむを得ない面があることに鑑みれば,被災者の過失の程度は必ずしも大きくはない。しかし,そのような持病が一因となった失敗に対して注意を受けることは,被災者に対して一定の心理的負荷を与えると認められる。

(ウ) 問責等の有無

前記アのとおり,被災者は,P11から事情聴取を受けた後,一連の指導を受けたことが認められ,事情聴取及び指導のそれぞれで心理的負荷を受ける可能性があるが,以下のとおり,事情聴取及び指導は適切なものであったと認められる。

a 事情聴取について

本件メールに記載されている市バスが被災者の運転する市バスと一致しているから(前記ア(ア)),被災者にまず事情確認を行うことは通常の手続であること(甲D1の1・244頁),P11は,本件メールを読み上げて被災者の記憶を確認し,覚えていないと答える被災者に対し,本件送信者の乗車履歴を確認して被災者が運転士かどうか確認する機会を与えた上で再度記憶を確認しており,被災者の弁解の機会を奪うような方法が用いられたとは証拠上認められないことからすると,事情聴取は適切であったと認められる。

b 指導について

P11及びP10は,「はっきりと覚えていないけど,そういうことがあったかもしれない。」,「ベビーカーの説明は日頃している。声が小さくてぼそぼそ喋ってしまうので,聞こえてなかったかもしれないです。」,「引換券を渡したかもしれない。渡したかどうかも分からない。」などと答えた被災者に対し,乗客に伝わるようにアナウンスを行うよう指摘するなど被災者の前記回答内容を前提とした指導を行うにとどめ,本件送信者の指摘事項の有無を殊更に追及することはしていないこと(前記ア(イ),(オ)),模範的な運転士の市バスへの添乗及びレポートの作成は,接客態度について言葉で指導を受けるよりも有益であり,名古屋市交通局において,乗客から苦情があった場合の通常の指導方法であること(甲D1の1・244頁)からすると,一連の指導は適切であったと認められる。

(エ) 小括

以上のとおり,失敗の程度は軽微であり,損害は発生していないこと,被災者への事情聴取及び一連の指導は適切なものであったことに鑑みると,被災者は,本件メール記載の出来事の明確な記憶がなかったこと,被災者の持病が失敗の一因となっている可能性があること,被災者は,本件苦情に関する指導に納得せず,一時は辞職まで考えた可能性があること(前記ア(ウ))を考慮しても,本件苦情による心理的負荷は,業務負荷の分析表の「仕事の失敗」の「過重な負荷となる可能性のある業務例」の心理的負荷には到底及ばず,平均的労働者にとって弱いものであったと認められる。

(4)  本件転倒事故

ア 事実認定

前記前提事実及び後掲の証拠によれば,以下の事実が認められる。

(ア) 被害者は,平成19年6月7日,名古屋市交通局に対し,同年5月28日午前11時30分頃に○停留所から乗車した○停留所発のバスにおいて,○停留所発車時にバスが揺れて転倒して腰と頭を打った(本件転倒事故),数日後に腰が痛くなった旨申し出た。(前提事実(4)ア)

(イ) 被災者は,平成19年5月28日午前10時23分○停留所発○停留所行の市バスの運転業務に従事した。同市バスは,○型車両であり,同日午前10時36分,○停留所を発車した。(前提事実(4)イ)

(ウ) P4営業所主任助役であったP18は,平成19年6月7日,名古屋市交通局自動車運転課から,本件転倒事故について伝えられ,本件事故バスの運転士を確認し,事故処理を行うことを要請された。(乙A9,証人P18,同P10)

(エ) P18は,本件転倒事故についてP10に報告するとともに,平成19年6月11日までに,P4営業所の助役であるP14とともに被害者の自宅を訪問し,被害者から事情を確認した。被害者は,P18らに対し,「5月28日午前11時半頃,○から乗り,○を発車した際に転びました。」,「両手にスーパーの買い物袋をもってバス中央付近に立っていたのですが,バスが発車した際,体を支えきれずにバランスを崩して車内の階段のところへ倒れ込んでしまいました。腰と頭を打ちましたが,その時はたいしたことないと思いました。」,「バスに乗っていた知り合いの男性に助け起こしてもらいました。たいしたことないと思ったので,そのまま○で降りました。」,「運転士さんは気付いていなかったと思いますよ。」と答えた。(甲A31の8,乙A9,証人P18)

(オ) P18は,平成19年5月28日午前11時33分○停留所発の市バスの運転士であるP19に事情を確認した。P19は,P18に対し,「乗客が車内で転倒した記憶はないです。」,「○停から乗車されたお客様はなかったですし,乗客はたいして乗っていませんでした。」と答えた。そこで,P18がP19運転の前記市バスのBDCSデータを確認したところ,○停留所の乗車客数が0人であり,P19の回答と合致した。(甲A31の8,乙A9,証人P18)

(カ) P18は,P10とともに再度被害者宅を訪問し,事情を確認したところ,被害者は,本件事故バスに乗車してから転倒するまでの経緯及び本件転倒事故後の状況について前記(エ)と同内容の回答をした。また,P18らが複数台の市バス車内の写真を被害者に見せたところ,被害者は,○型車両が本件事故バスである旨回答した。P18らは,被害者に対し,本件事故バスへの乗車時刻を再度尋ねたが,被害者は,「記憶がはっきりしないので,転んだ際に助けて下さった知り合いの男性に聞いてください。この方はいつも行くP20整形外科で会う知り合いの方です。」と答えた。(甲A31の8,乙A9,11,証人P18,同P10)

(キ) P10は,平成19年5月28日午前11時13分○停留所発の市バス(○型車両)の運転士のP21に対し本件転倒事故について確認したところ,P21は,転倒事故の記憶はない旨答えた。(甲A31の8,乙A11,証人P10)

(ク) P10は,被害者の回答(前記(カ))中の知り合いの男性であるP22から話を聞くためにP20整形外科へ連絡を取ったところ,P20整形外科がP22と連絡を取り,平成19年6月12日午前10時45分にP20整形外科でP22と会うこととなった。P10は,P14とともに,同時刻頃P20整形外科へ行き,P22から事情を確認したところ,P22は,「○発の10時23分のバスを利用してます。私は毎日このバスを利用してここに来ているので間違いありません。今日も,この10時45分にこのP20整形外科で待ち合わせしたのも,それだから指定したんだ。」,本件転倒事故について「運転士さんはどうやら気付いている様子ではなかった。」と答えた。また,P10らが市バスの車内の写真を見せたところ,P22は,本件転倒事故があった車両が○型車両である旨回答した。(甲A31の8,乙A11,証人P10)

(ケ) P10は,平成19年5月28日午前10時23分○停留所発の市バスの運転手は被災者で,同市バスは○型車両であり,P22の回答(前記(ク))と合致したことから,平成19年6月12日午後2時頃,被災者をP4営業所の所長室に呼び出し,P13とともに事情確認を行った。P10が「5月28日に車内転倒事故が発生してるんだよ。転倒なさったお客様や介助してくださったお客様の証言によると,○発10時23分のバスで○型だったんだよ。調べるとP1のバスが該当するんだけど,何か思い当たることはない。何かあったら教えてよ。」と尋ねると,被災者は,「車内転倒事故を起こしたことはありません。実際に,転倒なさったお客様から申出があったわけでもなく,ほかのお客様からも指摘を受けたことはなかったので,なかったですよ。ですけども,僕が運転する時間帯であれば,そうでしょう。」と答えた。さらに,P10が「転倒なさった方と介助された方も,運転手さんは気付いていないということをおっしゃってたんで,P1もたぶん気付いてなかったか,気付いてないのも無理はないけど,実際にこの時間帯に事故が起きてるのは確かなんで,交通局として指導しないといけないんだよ。警察への届出も必要なんだ。」と説明したところ,被災者は,警察への事故届を了解した。その後,被災者,P13及びP14は,本件転倒事故を届け出るためにP15警察署へ向かったが,P10は,その際,P4営業所の出入り口において,被災者に対し,「昨日,前向きな内容の添乗レポートをもらった矢先のことで私としても残念に思うから,P1君はもっとそういう気持ちかもしれないけど,気落ちすることなく気持ちを切り替えて,また頑張ろう。」と声をかけた。(前提事実(4)ウ,乙A10,11,証人P13,同P10)

(コ) 被災者は,平成19年6月12日,P15警察署の警察官の取調べを受け,実況見分に立ち会った。また,同署の警察官は,同日,同署において,被害者の取調べを行った。P13らが取調べ後に被害者に対して謝罪したところ,被害者は,「私もこの件については事を荒げなくて,穏便に済ましたいと思います。」と述べた。その後,P13及びP14は,被害者を自宅まで送り届けたが,その際,P13が被害者に対し,「おけがの状態にもよりますけど,乗務員がまだ若いし,将来性もあるもんで,できましたら寛大なお心で接していただけませんか。」と述べたところ,被害者は,「分かりました。でも,私の一存ではちょっと決めかねるから,息子にも相談したい。」と答えた。また,被害者の自宅にいた息子が「いろいろ聞いたけれども,本人の問題だから,私としては関与しません。」と答えたので,P13らは,被害者に対し,再度「将来があるもんですから,寛大な気持ちでよろしくお願いします。」と述べた。(前提事実(4)ウ,乙A10,証人P13,弁論の全趣旨)

(サ) P13は,平成19年6月12日午後6時半頃にP4営業所へ戻った後,被災者に対し,被害者とのやり取りを説明し,被害者に電話をかけることを告げ,被災者が了解した後,被害者に電話したところ,被害者は,「一度明日医者に行ってみる。その上で,医者の診断もあおいで,私の考えも伝えたい。」と述べた。その後,P13は,被災者に対し,「ひょっとしたらええ方向に行くかもしれんよ。」と伝えた。(乙A10,証人P13)

(シ) 被災者は,平成19年6月12日午後8時42分,上司のP16に対し,「今日,出勤時に2週間前に車内事故があったと言われました。自分は全く覚えが無く,申し出もなく,正直納得できません。」というメールを送信した。(前提事実(4)エ)

(ス) 名古屋市交通局は,平成19年6月14日,被害者との間で,本件転倒事故に関して,同事故を交通事故扱いとしない,同交通局が見舞金として3万円を被害者に支払う旨の示談をした。(前提事実(4)オ)

イ 心理的負荷の強度

前記アのとおり,被災者は,本件事故バスの運転士としてP10らの事情聴取や警察の取調べを受けるなどした。この出来事は,「業務により強度の精神的又は肉体的負荷を受けたこと」の具体例として認定基準に掲げられる場合(認定基準第3の1(1)アの(ア)①及び②並びに(イ)の①から⑪)には該当しないが,業務負荷の分析表の「仕事の失敗」には該当する。そこで,業務負荷の分析表の仕事の失敗に関する記載(前記(2)イ)を参照しつつ,本件転倒事故の心理的負荷の強度を検討する。

(ア) 失敗の程度,損害の発生と程度

証拠(甲A58)及び弁論の全趣旨によれば,名古屋市交通局では,本件転倒事故のような発進反動事故が通常当該運転士の過失が大きい事故であり,運転士自身の十分な安全確認,注意喚起等を行った上での運転操作により防止することができるため,扉挟撃事故及び追突事故と合わせてその防止を重点的に図っていること(以下,これら3種類の事故を合わせて「3事故」ということがある。),名古屋市交通局の浄心営業所,御器所分所及び大森営業所では,平成16年度は2件ないし11件の3事故が,平成17年度は0件ないし4件の3事故が発生していること,乗務員100人当たりでは,平成16年度は2.4件から5.4件の3事故が,平成17年度は0件から2.1件の3事故が発生していることが認められる。

以上によれば,本件転倒事故は,非日常的なものとまではいえないものの,名古屋市交通局がその防止を重点的に図っている事故の一つである発進反動事故であり,前記各営業所では,3事故を起こした者に対し,1日乗務を外しての個別指導をしていること(甲A58)からすると,発進反動事故は,名古屋市交通局においては,軽微なミスと扱っていないことが認められる。また,前記アのとおり,被害者は,本件転倒事故により,腰や頭を打ちつけて腰の痛みを訴えており,一定の損害が発生したことが認められる。

しかし,被害者は,本件転倒事故を名古屋市交通局に申し出てから5日後の平成19年6月12日には示談に前向きな姿勢を示しており,現に同月14日,交通事故扱いしない,名古屋市交通局から3万円の見舞金を受け取る旨の示談に応じていることからすると,本件転倒事故は,問題化するような大きなミスであるとはいえず,また,被害者の腰のけがは軽微なものであり,その他業務への支障や対外的影響があったとは認められない。

これら事情を総合すると,本件転倒事故については,失敗の程度は重大とはいえず,損害も大きなものではなかったと認められる。

(イ) 失敗への本人の関与の程度

a まず,原告は,被災者は本件事故バスの運転士ではなかったにもかかわらず自認に追い込まれており,その心理的負荷は極めて強かった旨主張しているところであり,仮に,被災者が本件転倒事故を起こしていないと認識していたとすると,責任のない事故について事情聴取等を受けたと受け取めることになり,その心理的負荷は強くなり得るから,本件転倒事故についての被災者の認識及びその認識が心理的負荷の強さに与える影響について検討する。

この点,前記ア(シ)のとおり,被災者は,上司に対し,「今日,出勤時に2週間前に車内事故があったといわれました。自分は全く覚えがなく,申し出もなく,正直納得できません。」というメールを送信したことが認められる。しかし,同メールには,本件転倒事故を起こしていないと明確に記載されているわけではなく,前記ア(ケ)から(サ)のとおり,被災者は,P10から,被害者及びP22の話によれば本件事故バスの運転士に被災者が該当する旨伝えられて事情を聴かれると,「車内転倒事故を起こしたことはありません。実際に,転倒なさったお客様から申出があったわけでもなく,ほかのお客様からも指摘を受けたことはなかったので,なかったですよ。ですけども,僕が運転する時間帯であればそうでしょう。」と答えていること,P10から警察への届出が必要であると説明されると,警察への事故届を了解したこと,P10らによる事情聴取以降,本件転倒事故について調査していたP10やP13らに対して同事故を否定していないことが認められる。そうすると,被災者は,明確な記憶はないものの,被害者等の話のとおりであれば,本件転倒事故を起こしたかもしれないと認識していたと認められる。

そして,そのような状況で,事情聴取等を受けた場合の心理的負荷については,平均的労働者であれば,明確な記憶がないため本件転倒事故に関して事情聴取等を受けることに完全には納得できないものの,事情聴取等を受けること自体はやむを得ないと感じるものと考えられるから,明確な記憶はないものの,本件転倒事故を起こしたかもしれないという認識は,明確に記憶にある出来事について事情聴取等を受ける場合よりも若干心理的負荷を強めるとは考えられるものの,その強さを大きく左右することはないというべきである。

なお,前記のとおり,被災者は,明確な記憶はないが,本件転倒事故を起こしたかもしれないと認識していたと認められるところ,仮に,本件転倒事故が被災者の運転していた市バスで発生していないことが事後的に明らかになったとしても,そのことは被災者の当時の認識に直接影響するわけではないから,被災者が死亡前に受けた心理的負荷の強さは直ちに左右されないというべきである。

b 次に,業務負荷の分析表の「仕事の失敗」の着眼する要素である「失敗への本人の関与の程度」について検討する。本件転倒事故の原因は必ずしも明らかではないが,本件転倒事故のような発進反動事故は,一般的に,十分な安全確認等を行った上での運転操作により防止することが可能であること(前記(ア))からすると,被災者には安全確認等不十分の過失があった可能性が高い。

(ウ) 問責等の有無

前記アのとおり,被災者は,P10らから事情聴取を受け,その後警察への事故届に同行し,取調べを受け実況見分に立ち会ったことが認められる。上司から事情聴取を受けたにとどまらず,警察に届け出てその捜査の対象となることは,一定程度の心理的負荷となるものであるが,以下のとおり,それらの手続自体は適切であったことが認められる。

a P10らの事情聴取について

前記アのとおり,本件転倒事故の際被害者を助けたP22が供述した平成19年5月28日午前10時23分○停留所発の市バスの運転士が被災者であり,被害者及びP22が供述した本件事故バスの形状と被災者の運転した市バスの形状が一致しているから,被災者にまず事情確認を行うことは通常の手続であること(甲D1の1・244頁),P10は,被害者やP22によれば本件事故バスの運転士が被災者である旨伝えて,「何かあったら教えてよ。」と尋ねており,被災者の弁解の機会を奪うような方法が用いられたとは証拠上認められないことからすると,P10らの事情聴取は適切であったと認められる。

b 警察への届出への同行

市バスの運転中に事故が起きた場合,業務上過失致傷罪(当時)等の犯罪が問題になり得るので,名古屋市交通局が警察へ事故の届出をし,それに際して関係する運転士を同行し,取調べや実況見分に協力させることは通常の手続であるところ(甲D1の1・244頁,弁論の全趣旨),被災者が,P10らに対し,本件転倒事故について「僕が運転する時間帯であれば,そうでしょう。」と答えて同事故を起こしたバスの運転士であった可能性を認め,P10から「警察への届出も必要なんだ。」と説明されると,警察への事故届を了解しており(前記ア(ケ)),被災者の明示的な意思に反して警察への事故届に同行させていないことからすると,被災者を事故届に同行させたことは適切であったと認められる。

c 警察の取調べ及び実況見分

被災者は,P10らに対し,本件転倒事故について「僕が運転する時間帯であれば,そうでしょう。」と答えたから(前記ア(ケ)),警察が業務上過失致傷罪等の犯罪の成否等の判断のために,被災者を取り調べ,実況見分に立ち会わせることは通常の手続であること(甲D1の1・244頁,弁論の全趣旨),警察の取調べや実況見分の方法に問題があったとは証拠上認められないことからすると,警察の取調べ及び実況見分は適切であったと認められる。

(エ) 小括

以上のとおり,本件転倒事故について,被災者には過失があった可能性が高いこと,上司からの事情聴取に止まらず,警察に届け出て捜査の対象となったことからすると相当程度の心理的負荷が認められるところではあるが,その失敗の程度は重大とはいえず,損害も大きなものではなかったことや,P10らの事情聴取,警察への届出への同行並びに警察の取調べ及び実況見分の手続は適切であったことに鑑みると,業務負荷の分析表の「仕事の失敗」の「過重な負荷となる可能性のある業務例」の心理的負荷と同程度の強度とはいえず,被災者が,本件転倒事故を明確には記憶していなかったこと,本件転倒事故を起こしたと疑われることについて納得していなかった可能性があること(前記ア(シ))を考慮しても,心理的負荷が平均的労働者にとって強いものであったとは認められない。

ウ リフレッシュ研修について

原告は,被災者が,退職強要などの行われていたリフレッシュ研修を日常的に心理的な重圧と感じていた上,本件添乗指導,本件苦情及び本件転倒事故の3件の苦情・事故を起こしたことによりリフレッシュ研修の対象者となって退職を迫られることを恐れており,それが強い心理的負荷になった旨主張する。そして,被災者の同僚の証人P23は,名古屋市交通局に採用された時,上司から,「3事故は防げる事故だから,もしやった場合は研修所に行かされるよ。」と言われた,市バスの運転士は,3事故のうち一つでも起こした場合にはリフレッシュ研修の対象になると認識していた旨供述するほか,その主張に沿う新聞記事(甲A3の6)や関係者の陳述書(甲A60,62)が存在する。

しかし,証拠(甲D1の1・187頁,235頁,236頁,452頁)によれば,リフレッシュ研修の対象者は,原則として,1年以内に苦情・事故が合計3件に達した者で,所属内の厳しい指導に対して成果が上がらない者であること,同研修の受講者数は,平成14年度が6人,平成15年度が8人,平成16年度が5人,平成17年度が0人,平成18年度が2人,平成19年度が2人であったこと,平成18年度及び平成19年度の同研修の受講者は,いずれも,1年以内に複数回の苦情又は事故を発生させ,職場での度重なる指導の効果がなかった者であることが認められる。

そして,前記(3)ア,(4)アのとおり,被災者は,本件苦情と本件転倒事故の2件を発生させたと疑われていたものの,本件添乗指導は乗客による苦情ではない上,本件添乗指導記録票には「キャンペーン添乗外とする」と記載されており(前提事実(2)エ),本件添乗指導は,リフレッシュ研修の対象となる「苦情・事故」に該当するものではない。また,P4営業所での指導の成果が上がらなかったと認めるに足る証拠も見当たらない。そして,3事故を起こした者が直ちにリフレッシュ研修の対象となるものではないことは,前記認定のとおりである。

以上のとおり,被災者はリフレッシュ研修の対象者には該当せず,被災者自身がリフレッシュ研修の対象となる具体的な可能性について認識していたと認めるに足りる証拠もないから,前記イで認定した心理的負荷の程度を修正すべきものとは解されない。したがって,原告の前記主張を採用することはできない。

なお,リフレッシュ研修の内容は,その対象者が前記のような者とされていたことから,一定程度厳しいものであった可能性はあるが,過度に威圧的であるとする新聞記事(甲A3の6)を裏付けるに足りる証拠はなく,関係者の陳述書(甲A60,62)も具体性を欠き,その他,リフレッシュ研修の内容が過度に厳しいものであったと認めるに足りる証拠はない。よって,被災者がリフレッシュ研修を日常的に心理的な重圧と感じていた旨の原告の主張も採用することができない。

(5)  原告のその余の主張について

原告は,名古屋市交通局の過酷な労務管理により,被災者を含む運転士が常に緊張を強いられてきた旨主張するが,以下のとおり,原告の主張は採用できない。

ア 原告は,名古屋市交通局がありがとう運動を推進しすぎた結果,乗客の言い分を鵜呑みにし,運転士の言い分を聞かずに反省を迫った旨主張し,元市バス運転士のP24の陳述書(甲A61)には,苦情の電話に対して,運転士の言い分を聞かずに謝罪をさせた具体例の記載があり,また,P25(甲A60),P24(甲A61)及び元市バス運転士のP26(甲A62)の陳述書には,いずれも乗客からの苦情に従って運転士の言い分を聞かないという風潮があった旨の記載がある。

しかし,P24の陳述書中の前記具体例については,当該運転士からの伝聞であると思われ,同運転士の供述その他の裏付け証拠は見当たらない。また,P25,P24及びP26の陳述書中の前記風潮については,内容が抽象的で,その記載を裏付ける証拠は見当たらない。以上によれば,P25,P24及びP26の陳述書の前記各記載を直ちに採用することはできず,他に原告の主張する事実を認めるに足りる証拠はない。

イ 原告は,名古屋市交通局の営業所ではパワーハラスメントが横行しており,被災者もパワーハラスメントを受けていた旨主張する。そして,証拠(甲A2の3,甲D1の2・369頁から625頁)によれば,被災者の死亡後にP4営業所の職員に対して実施されたアンケートに対して,複数の職員が被災者へのパワーハラスメントの事実を記入していることが認められ,また,P25(甲A60)及びP26(甲A62)の陳述書には,営業所において威圧的な叱責がよく行われていた旨の記載がある。

しかし,前記アンケートの回答は具体性に欠け,第三者から伝え聞いた事実を記載しているものも多く,回答内容を裏付ける証拠は見当たらないから,直ちに採用することはできない。また,P25及びP26の陳述書の前記記載も具体性に欠け,その記載内容を裏付ける証拠は見当たらないから,直ちに採用することはできない。そして,他に原告の主張する事実を認めるに足る証拠はない。

(6)  公務による心理的負荷の全体評価

前記(1)から(4)のとおり,被災者の従事した市バス運転労働自体の心理的負荷は強度であったとは認められず,本件添乗指導,本件苦情及び本件転倒事故による心理的負荷も強度であったとは認められない。もっとも,実施通達が,「対象疾病発症前のおおむね6か月の間において,業務による強い負荷を与える事象には該当しないが相当程度の負荷があると認められる出来事が複数存在する場合には,それらの出来事の関連性,時間的な近接の程度,数及び各出来事の内容(負荷の強弱)等を総合的に判断することにより,全体として業務による強い負荷を与える事象となる可能性があるので,留意する。」としているとおり,本件における公務を全体的にみて心理的負荷の評価を検討する必要がある。

この点,前記(2)から(4)のとおり,本件転倒事故の心理的負荷が相当程度であったこと,本件添乗指導,本件苦情及び本件転倒事故の3つの出来事が6か月以内に発生しており,特に平成19年5月16日から同年6月11日にかけて行われた本件苦情による指導と同月12日に行われた本件転倒事故に関する事情聴取及びその後の対応については時間的間隔がほとんどないことが認められるが,本件添乗指導及び本件苦情の心理的負荷はいずれも弱いものであって,「相当程度の負荷があると認められる出来事」には該当しないものであるから,これら3つの出来事を全体的にみても,その心理的負荷は,強いものであったとは認められない。そして,前記(1)のとおり,被災者の従事した市バス運転労働は,質的にも量的にも,過重であったとまでは認められず,また,その労働による疲労の影響で本件添乗指導や本件苦情を受け,あるいは本件転倒事故を引き起こしたと認めるに足りる証拠もないことからすると,前記3つの出来事の心理的負荷に被災者の従事した市バス運転労働の心理的負荷を併せた心理的負荷の評価としても,強いものであったとは認められない。

(7)  原告提出の医学的意見書について

なお,原告は,被災者の死亡について公務起因性を認める旨記載された2通の医学的意見書(甲B1,2)を証拠提出するが,以下のとおり,いずれも直ちに採用することはできない。

ア P27の意見書(甲B1)について

P27の意見書(甲B1)は,被災者の死亡について「本件は,本来健常な生活を送っていた者が,本人の生来性の性格と合いまって,職務に関連して体験されたいくつかのエピソードが大きなストレスとして働き,その結果,抑うつ反応や不安が惹起されてうつ気分が持続していたところへ,更に大きなストレスが加わった結果,きわめて短期間(1日程度)に激しい怒りと自責が外と内に同時に向った結果,いわゆる急性ストレス反応が現れて死に至らしめたものである」から公務起因性が認められるとしており,当裁判所の公務起因性の判断基準(前記1)と異なり,本人の性格と公務が共働原因になって精神疾患を発症させた場合にも公務起因性が認められるという立場を前提にしていると考えられる。よって,P27の意見書を直ちに採用することはできない。

イ P28の意見書(甲B2)について

P28の意見書(甲B2)は,本件添乗指導について「『葬式の司会のようなしゃべり方は,やめるように(自分ではソフトな言い方と思っているのか?)』(中略)と,発語の小ささを非難され」たとし,本件苦情について「『進退願』の末尾にあるように『乗務員として不適格であれば辞職を考える』と記しており,事実関係の誤認に異議を述べ」たとし,本件転倒事故について「本人が否認しているにも拘わらず,一方的な事情聴取をうけ,交通局から警察に連れて行かれ」たとしており,当裁判所の認定した事実(前記(2)ア,(3)ア,(4)ア)と異なる事実を前提に公務起因性を判断している。よって,P28の意見書を直ちに採用することはできない。

(8)  小括

以上によれば,本件の公務に関連する心理的負荷の程度は,平均的労働者が精神疾患を発症する程度に強度であったとは認められない。

そうすると,公務と被災者の精神疾患発症との間に相当因果関係があると認めることはできず,被災者の死亡について公務起因性は認められない。

第4結論

よって,本件公務外災害認定処分は適法であり,原告の請求は理由がないからこれを棄却することとして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 田邊浩典 裁判官 吉岡大地 裁判官 三木裕之)

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