名古屋地方裁判所 昭和48年(ワ)2298号 判決 1984年2月22日
原告
可児一美
原告兼右法定代理人父
可児安一
同母
可児淑美
原告ら訴訟代理人
伊藤宏行
青木俊二
鈴村昌人
佐伯照道
被告
青山鍵夫
被告
青山隆
右両名訴訟代理人
饗庭忠男
後藤昭樹
太田博之
立岡亘
主文
原告らの請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは各自、原告可児一美に対し金二五一七万四〇〇〇円、同可児安一及び同可児淑美に対し各金五〇〇万円並びにこれらに対する昭和四八年一一月二五日から各完済に至るまで、それぞれ年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
原告可児一美(以下「原告一美」という。)は、原告可児安一(以下「原告安一」という。)、同可児淑美(以下「原告淑美」という。)間の長女である。
被告青山鍵夫(以下「被告鍵夫」という。)は、青山病院を個人経営し、その弟である被告青山隆(以下「被告隆」という。)は、右病院の産婦人科を担当する医師である。
2 原告一美の失明
原告淑美は、昭和四五年七月二二日午前七時一四分ころ、青山病院において被告隆のもとで原告一美を出産した。同原告は予定日が昭和四五年九月一五日のところ、それより約五五日早く、在胎週数三二週、体重一五四〇グラムの未熟児として出生したため、出生直後から同年九月二四日までの約六五日間、青山病院の保育器に収容されて看護を受け、同年一〇月二日体重二七八〇グラムで退院したが、その後、未熟児網膜症(以下「本症」という。)により両眼とも失明していることが判明した。<以下、省略>
理由
一当事者及び原告一美の視力障害
請求原因1の事実及び同2の事実のうち、原告一美が昭和四五年七月二二日午前七時一四分ころ、被告鍵夫の経営する青山病院において、担当医師被告隆のもとで出産予定日より約五五日早く、生下時体重一五四〇グラムで出生し、直ちに同病院内の保育器に収容されて看護を受け、同年一〇月二日体重二七八〇グラムで退院したことは当事者間に争いがない。
しかして、<証拠>を総合すると、原告一美は、出生後三か月検診の際瀬戸保健所の医師に眼の異常を指摘され、被告隆の紹介により名市大丹羽巽医師の、また親戚の勧めで三宅医師のそれぞれ診察を受けたところ、いずれも未熟児網膜症により視力障害があり全盲ではないが弱視であるとの診断を受けたこと、更に昭和四六年二月一日、天理病院眼科永田誠医師の診察を受けたところ、同医師は、オーエンス分類の本症瘢痕期Ⅲ度の疑いがあり治療不能であつて、原告一美は強度の弱視(眼前手動弁)で、小学校の普通教育は受けられない状態であると診断されたことが認められる。
右認定の事実からすると、原告一美が本症により強度の弱視になつたものと認めることができる。
二保育経過等及び本症の原因
1 原告一美の保育経過及び被告隆の医療措置
<証拠>を総合すると、青山病院における原告一美の保育経過は次のとおりであつたことが認められる。
(一) 原告淑美は、過去四回流産を経験していたので、流産を防止するため昭和四五年三月一四日青山病院に入院し、同年七月二二日午前七時一四分ころ原告一美を出産した。
(二) 原告一美は、生下時体重一五四〇グラムであり、在胎期間は三二週と一日であつた。
(三) 被告隆は、出生後直ちに原告一美を未熟児保育器(V五五―アトム)に収容した。同原告の出生時の状態は、呼吸不整があり、口唇、四肢末端に軽度のチアノーゼが認められ、一分後のアプガール・スコアは七であつた。
被告隆が原告一美の気道吸引を十分に行なつたところ、口唇、四肢末端のチアノーゼも消失した。
同被告は、未熟児の出生に備えて当初酸素を約二リットル流出させ保育器内を飽和状態にして用意させていたが、前記のとおりチアノーゼが消失したので酸素流出を止め、その後、同原告を保育器内に収容した。
(四) 被告隆は、原告一美の呼吸状態及びチアノーゼに注意しながら経過を観察し、破水から娩出までかなり時間がかかつたことから、感染予防のため抗生物質(マイシリン0.5CC)、出血予防のため止血剤(ケーワン一〇ミリの三分の一アンプル)を注射し、三日間投与するよう指示した。同原告は胎便をし、チアノーゼもなく、経過は良好であつた。被告隆は原告一美の身体の栄養を考えて、蛋白同化ホルモン(デメロン五ミリグラム)を注射し、その投与の方法を指示した。
(五) 被告隆は、同月二五日午前一〇時から三時間おきに四回五パーセントぶどう糖三CCを鼻腔カテーテルで直接胃に通して強制栄養を開始し、翌日からミルクによる強制栄養を行ない、途中中止したこともあつたが徐々に増量していつた。
(六) 原告一美は、同月二六日午後七時ころ強制栄養後、突然胃の中のものが逆流嘔吐し、気道内に誤飲したため顔面、四肢に強度の中心性チアノーゼが認められた。そこで被告隆は、直ちに原告一美の気道吸引及び気管支吸引を行なつたところチアノーゼがとれてきたので、保育器のA供給口(低濃度用供給口)から一分間に二リットルの割合で酸素を投与し経過を観察した。原告一美のチアノーゼは徐々に軽快し、翌二七日午前二時ころ消失したが、急激に酸素量を下げることは危険であるので酸素量を一分間当り一リットルの割合に減量した。同被告は、その後も経過観察をしていたところ、呼吸不整やチアノーゼがみられなかつたので、同月二九日午前二時ころ酸素の投与を中止した。
被告隆が原告一美に投与した酸素量は、次のとおりである。
(1) 七月二六日午後七時から同月二七日午前二時まで一分間に二リットルの割合で約七時間投与した。この間の保育器内の酸素濃度は約三〇パーセントであつた。
(2) 同月二七日午前二時から同月二九日午前二時まで一分間に一リットルの割合で約四八時間投与した。この間の保育器の酸素濃度は二五パーセント以下であつた。
(右酸素投与の期間及び量については当事者間に争いがない。)
(七) 被告隆は、同月二七日原告一美に腹部膨満、嘔吐が認められたので強制栄養を中止したが、翌二八日にも腹部膨満が持続したため、腸麻痺と診断し、浣腸及び補液を行なつたところ、腹部膨満は軽度となつた。同月二九日、三〇日にも腹部膨満がみられたので再度浣腸及び補液を行なつたところ、ガスの排泄があり腹部膨満は軽快した。そこで同月二九日から強制栄養を再開した。
(八) その後、原告一美は腹部膨満もなく、強制栄養も順調で発育は多少遅れたが、特に異常は認められなかつた。
被告隆は、同年九月二日強制栄養に併せて経口哺乳を開始し、同月九日保育器内の温度を摂氏二八度に下げ、原告一美に肌着を着用させた。同月一四日保育器の四個の手窓を開放し、同月一八日には同原告を保育器の外に五時間移して様子を観察したところ、三七度二分の軽度の発熱をみたが特に異常はなかつたので、同月二四日同原告を保育器外に移したが、これもまた特に異常はみられなかつた。
原告一美の体重は、同年八月六日一三八〇グラムまで低下したがその後徐々に回復し、同月二五日一六〇〇グラムと生下時体重を超え、その後順調に体重が増加し、一〇月二日には二七八〇グラムとなり経過良好のため同日退院した。
2 本症の原因
<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
本症は、主として酸素療法を受けた未熟児に多く発生し、未熟な網膜に起こる非炎症性の血管増殖性病変である。その発生機序は未解明な点が多々あるが、網膜血管特に耳側血管は胎生九か月になるまで鋸歯状縁にまで達しないため網膜血管の新生は胎外環境で行わざるを得ず、この新生血管は酸素の過剰にも不足にも敏感に反応する。すなわち、過剰な酸素により動脈血酸素分圧が上昇すると、未熟な網膜血管は収縮閉塞して循環障害を起こし、血管末梢部の低酸素状態となつて、異常な血管増殖を惹起し、増殖した新生血管が硝子体内に侵入して、ひいては網膜剥離をきたすと考えられている。この病変は未熟なものほど発生しやすく、酸素が発症のひきがねの役割を果たしている。しかし、酸素投与をしない未熟児にも発生している(この点については当事者間に争いがない。)ので、結局その発生原因は未だ明確になつていない。
三被告隆の責任
1 医師の過失の判断基準
医師は、人の生命及び身体の健康の管理を目的とする医療行為に従事するものであるから、医療行為をなすにあたつては、その当時確立している臨床医学の水準(一般的医療水準)に基づいて、その病状を把握し、治療を尽くすべき注意義務を負つているというべきである。しかしながら、具体的医療行為を実施するにおいては、人的物的にさまざまの診療環境を必要とし、実際にはこれらが不十分であることから生ずる制約も存在しており、また当該医師が高度の臨床医学の知見を有し治療法等を修得している場合もあるから、これらを含めた当該医師の置かれた診療環境等の具体的諸事情を総合的にあわせ考慮し、当該措置又は不措置が社会的批難に値いするか否かによつてこれを決すべきものと考える。
2 酸素療法上の過失の成否
(一) 原告一美に対する酸素投与の期間及び量は前記のとおりであつて、当事者間に争いがない。
<証拠>を総合すると、原告一美が出生した昭和四五年七月ころのわが国における酸素管理に関する一般的医療水準は、次のとおりであつたことが認められる。
(1) 昭和四〇年ころまでは、本症の病態についてオーエンス等の分類法が紹介され、本症は高濃度の酸素を長期間投与された未熟児に発生するものとされ、その予防のため未熟児に対する酸素投与を制限し、その濃度を四〇パーセント以下に保つべきであるとされた。
(2) ところが、昭和四〇年ころ、植村恭夫らの研究者により、本症は酸素濃度を四〇パーセント以下に保つた場合にも、また酸素を使用しない場合にも発生していることが報告され、未熟児にチアノーゼあるいは呼吸障害がみられたときに特発性呼吸障害症候群(IRDS)による脳障害を防ぐため酸素を投与すべきこと、しかし動脈血酸素分圧(PaO2)値をモニターし一定限度内に止どめることは容易ではなく、現時点ではPaO2値の測定と眼底検査の両者で監視し、この両者の関係を追求していることなどが文献に見られるようになり、未熟児の眼科的管理の重要性がいわれるようになつた。
(二) 右の事実並びに前記認定にかかる原告一美の保育経過及び担当医の医療措置に基づいて、原告ら主張の過失の有無について検討する。
被告隆は、原告一美出生後チアノーゼの有無や呼吸状態を観察しながら、強度の中心性チアノーゼの発生とともに酸素の投与を開始し、酸素濃度を当時安全値とされていた四〇パーセントの範囲内である三〇パーセント以下(毎分二リットル)に抑え、七時間後にチアノーゼが消失したが、急激に酸素量を下げる危険を避け、酸素量を毎分一リットルに減少するに止どめるなど、慎重にその量を調節して観察を続け、酸素量減少から四八時間後酸素投与を中止したものであり、被告隆がした酸素管理の措置はいずれも適切な措置であつたものというべきである。
なお、前記のとおり昭和四五年当時動脈血酸素分圧を経時的に測定し、一定限度内に止どめることは容易でないとされていたのであるから、被告隆がこれを測定しなかつたことをもつて過失があるということはできない。
3 低体温放置及び全身管理による過失の有無
原告一美の体温経過については当事者間に争いがないところ、<証拠>を総合して認められる昭和四五年七月ころまでのわが国の未熟児保育における体温調節及び全身管理についての知見に照らして、原告一美の前記保育経過及び担当医の医療措置に基づき、原告ら主張の過失の有無を判断する。
(一) 低体温放置について
原告一美の体温は、出生後約一五日間摂氏三四度以下の低体温であり、その後も約一〇日間近く三六度以下であり、必ずしも好ましい体温ということはできないが、被告隆は経過観察を続けながら体温の上昇をはかつていたのであるから、これをもつて直ちに本症の結果に対し過失があつたということはできない。なお、<証拠>によれば、馬場一雄医師は、昭和四〇年九月発行の「産婦人科治療」の中で、一五〇〇グラム以下では生後二週間まではなお三四度ないし三六度が多く、中には三二度台も散見される、しかし、その後漸次上昇し三〇日を過ぎれば全例三五度ないし三七度を示す旨報告している。
また、原告一美の強度の中心性チアノーゼは、強制栄養の後に突然嘔吐し気道内に誤飲したために発生したものと認められ、原告主張のように低温度のためにチアノーゼを惹起し酸素投与に至つたものとは認められない。
(二) 全身管理について
原告一美の体重の増加は、ホルトの体重曲線からみると著しく遅れており、初期における栄養状態は良くなかつたが、生後五日目に強度の中心性チアノーゼを惹起したことや腹部膨満のため強制栄養を中止したことなど個別的な事情があり、一般的に右体重曲線より低いからといつて過失があつたということはできず、被告隆の全身管理について、医師の裁量の範囲内における措置ということができる。
4 眼底検査を怠つた過失の有無
被告隆が原告一美に対し眼底検査を実施させなかつたことは当事者間に争いがない。
<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 昭和四五年当時の眼底検査についての一般的知見
(1) 植村恭夫医師は、昭和四〇年ころからその論文の中で、本症は早期に適切な治療を施すことにより改善が期待できるとされているので、早期発見、早期治療のため、生後三週間から三か月までの間に未熟児に対し、一、二週間毎の定期的眼底検査の必要性を提唱した。
(2) 植村医師は、昭和四〇年九月から国立小児病院において、未熟児の定期的眼底検査を開始し、その経過観察例を次々と「臨床眼科」等の専門誌に発表した。
(3) 永田医師は、後記のとおり昭和四三年及び同四五年に光凝固を施行した事例を報告したが、光凝固法を成功させ、わが国から本症による失明を根絶するためには、第一に、未熟児網膜症活動期病変の実態とその意義をすべての小児科医、産科医、眼科医が十分に認識して熱意をもつて未熟児の眼科的管理を行なう必要があること、第二に、眼科医が生後一か月から三か月までの最も危険な時期における網膜周辺部の観察を完全に行ない、直像鏡のみによる眼底検査で満足してはならない旨述べ、まだ臨床医の間において眼底検査に対する認識が十分でないことを指摘した。
(4) 昭和四五年当時、未熟児の定期的眼底検査を実施していた病院は、国立小児病院(植村医師)、天理病院(永田医師)、名鉄病院(田辺、池間医師)、関西医科大学附属病院(塚原医師)など少数の病院であり、ここでは本症の先駆的医師たちが眼底検査を実施することによつて本症の病態を観察し、光凝固等の治療を試み、これらの結果を専門誌等に発表し、また、その追試研究を行なつていた。
(5) 当時の愛知県における状況は次のとおりであつた。
(イ) 名市大における未熟児保育は全国でも高い水準にあり、昭和四二年ころからインテンシブケア(集中治療ユニット)方式によりその全身管理を行ない、また眼科の馬嶋医師らと協力体制をとり眼底検査を実施した。昭和四五年ころには、同大学に光凝固の設備がなかつたので、これを受けさせるため名鉄病院へ患者を転院させることがあつた。
(ロ) 愛知県小児科医会は、昭和四五年一月一八日名鉄病院において例会を開き、同病院池間医師から「未熟児網膜症」と題する講演があり、その中で光凝固による治療法が発表され、愛知県小児科医会会報に掲載された。
(ハ) 名鉄病院では、昭和四四年初めころから田辺医師により光凝固が実施され、他の病院からの転医による光凝固も行なつていた。
(二) 被告隆の認識等
(1) 被告隆は、昭和三六年三月名市大医学部を卒業し、昭和三七年四月同大学産婦人科に入局し、昭和四三年三月から同年八月まで婦人科助手として勤務し、この間昭和三七年から昭和四二年五月まで公立陶生病院に代務医として関与した。
被告隆は、昭和四三年八月同大学助手を辞めた後、兄の経営する青山病院を手伝うことになり、同病院が昭和四四年四月産婦人科を新設したのでその担当医となるまで、内科・外科の見習いをしていた。
(2) 被告隆の同大学での研究テーマは、いわゆる子宮頸管の無力症に対する検査であつて、未熟児保育には関与していなかつた。
同被告は、公立陶生病院で初めて未熟児保育に関与したが、同病院で眼科的管理をはじめたのは昭和四五年九月以降であつた。
(3) 被告隆は、昭和三七年ころから本症またはRLF(後水晶体線維増殖症)について認識していたが、それは未熟児に高濃度の酸素を長期間過剰投与すると失明の危険があるという程度の認識であつて、環境酸素濃度を四〇パーセント以下に制限して、できるだけ長期間にわたらないように投与すれば本症発生の危険はないと考えており、本件のように三〇パーセント以下の酸素濃度で本症が発生することは予想しなかつた。そのため昭和四五年一一月ころ、原告淑美の申出により名市大眼科の丹羽医師に原告一美の眼底検査を依頼し酸素投与量を報告したところ、診断の結果、本症発生の電話連絡を受けたので、初めて酸素を過剰投与しない未熟児にも本症が発生することを認識した。そこで昭和四六年以降は同医師に未熟児五、六例の眼底検査を依頼したが異常はなかつた。その後昭和四七年末ころから、公立陶生病院にて新生児退院後の眼底検査を依頼するようになつた。
なお、原告らは、昭和四五年八月八日付中日新聞朝刊に、本症による失明を恐れて母子が飛び降り心中を図つた旨の事件が報道されたので、右新聞記事を読んで被告隆に原告一美は大丈夫かと問いただしたうえ、本症発生の予防について注意するよう求めた旨主張し、原告本人安一、同淑美は右主張に沿うごとき供述をしているが、右供述自体あいまいで被告隆の供述に照らしてにわかに措信できないし、他に被告隆が当時中日新聞の右記事内容を了知したことを明らかにする証拠はない。
(三) 右認定の事実関係に基づき、被告隆の過失の有無について判断する。
昭和四五年当時、生後三週間ないし一か月後から眼底検査を行なうべきであるとの報告がなされていたが、同検査は全国多数の病院や臨床医の間では実施されるに至つておらず、先駆的眼科医を擁する一部の病院においてのみ、定期的眼底検査が実施され、本症の予防法ないし治療法を究明する努力がなされていた。しかも、後記のとおり光凝固法は当時まだ臨床実験の段階であつて、本症について確立された予防ないし治療の方法はなく、一般の臨床医が未熟児の眼底検査を実施しても、その検査結果を本症の予防ないし治療に結びつけて利用することはできない状態であつた。
愛知県においては、当時未熟児保育につき全国的に高い水準をもつ病院もあつたが、一般的医療水準として特に異なつた事情は見当らない。
してみると、眼底検査を実施することが本症の予防ないし治療に重要であることが強調されていたことを考慮しても、その予防ないし治療方法が確立していない以上、それらと結びつかない眼底検査を未熟児に対し実施することが、昭和四五年当時一般の臨床医に課せられた確立した医療水準であつたということはできない。
したがつて、本件当時、未熟児の保育管理に携わる産婦人科医に、眼科医に依頼して未熟児の眼底検査を実施させ本症の発見に努めるべき注意義務があつたものとはいえず、被告隆がこれを実施させなかつたことをもつて過失があると認めることはできない。
なお、被告隆が公立陶生病院に勤めていたのは昭和四二年五月までであり、同病院で眼底検査等の眼底管理をはじめたのは昭和四五年九月以降であるから、同被告は本件当時右事実を知りえなかつたし、その他全証拠をもつてしても、被告隆が右認定にかかる当時の医療水準を超える高度な知見を有していたとは認められない。
5 治療措置を怠つた過失の有無
被告隆が原告一美に対し、光凝固法による治療を実施させなかつたことは当事者間に争いがない。
<証拠>を総合すると、昭和四五年当時の本症に対する光凝固法についての一般的知見は、次のとおりであつたと認められる。
(一) 昭和四三年四月、永田医師らは、生下時体重一四〇〇グラムと一五〇〇グラムの女児に対し、本症のオーエンス分類Ⅱ期からⅢ期に移行した時期に、初めて全身麻酔下に光凝固を施行したところ、頓挫的にその病勢を停止させることができた旨報告し、光凝固が本症の有効な治療法となる可能性のあることを示唆した。しかし、本症には自然治癒傾向が強いことや、発育後の眼球にいかなる影響が現われるか未解明であることを指摘し、それが正当な治療手段か否かについては断定できず、今後の追試に待つ他ないとしている。
(二) 昭和四五年五月、永田医師らは、光凝固を施行した四例の追加報告を行ない、治療法の成否を決定する最も重要な要因は実施の時期であるとし、また前論文の二症例と今回の四症例の臨床実験をふまえて、六例における治療経験から、重症未熟児網膜症活動期病変の大部分の症例は適切な時期に光凝固を行えばその後の進行を停止せしめ、高度の自然瘢痕形成による失明または弱視から患児を救うことができることは、ほぼ確実と考えられるようになつたと報告し、この治療法を全国的規模で成功させ、わが国から本症による失明例を根絶するためには幾多の困難な事情が存在する旨述べ、その施行のための病院内の態勢を整えることや、病院間の連絡を密接にする必要があることを指摘した。
(三) 同年一一月、永田医師は、本症の病態、眼底検査及び光凝固の方法等につき、総括的説明を加え、現在光凝固装置はすでに相当台数全国的に設備されているので、これを各地区ごとにわけ本症治療のネットワークを作れば、本症による失明例を根絶することも夢ではないが、必要なことは眼科医、小児科医の熱意であり行動力であると思われる旨述べている。
(四) 昭和四四年ころから、永田医師の前記提唱を受けて、全国各地で光凝固の追試を始める病院が出はじめ、昭和四六年四月以降その追試結果が続々と報告された。
同年四月、関西医科大学眼科教室の上原医師らは五例について、同年九月九州大学医学部眼科教室の大島医師らは二三例について、昭和四七年五月名鉄病院の田辺医師らは二三例について、それぞれ光凝固を施行した結果を報告し、その他にも数多く追試結果が報告されるようになり、次第に治療法として有効性が認められるに至つた。
右認定の事実関係からすると、本件当時は、本症の治療法として光凝固が一部の病院及び研究者によつて実施され、追試がはじめられたところであり、未だ光凝固法が一般的医療水準として、一般の病院及び臨床医の間に普及定着していたものではなく、これが本症に対する治療法として次第に普及してきたのは、早くても昭和四六年九月ころ以降であることが窺える。なお、被告隆が光凝固につき特に知見を有していたことを認めるに足る証拠は存しない。
したがつて、被告隆が原告一美に対し、本症の治療を目的とした光凝固法の実施を依頼しなかつたことをもつて過失があると認めることはできない。
6 原告ら主張のその他の過失の有無
次に原告らは、被告隆が眼科医に転医させることを怠つた過失及び説明指導を怠つた過失を主張するので、この点について判断する。
原告主張の措置は、いずれも本症を確知する唯一の手段である眼底検査とその治療法である光凝固が一般的医療水準として確立していたことを前提とするが、前記認定説示のとおり、本件当時は末だ眼底検査及び光凝固法が一般的医療水準にまで高められていたものとはいえないし、被告隆も特にこれを超える知識を有していたものとは認められない。
したがつて、被告隆が眼底検査及び光凝固法を受けさせるため他に転医させ、説明指導をする義務はなく、これを欠いても過失があるということはできない。
7 以上のとおりであるから、原告一美が本症に罹患し強度の弱視に至つたことはまことに気の毒であるが、これについて、その看護保育にあたつた被告隆に過失があつたということはできない。
四被告鍵夫の債務不履行責任及び不法行為責任
原告安一、同淑美と被告鍵夫との間に昭和四五年七月二二日原告一美の保育医療を内容とする準委任契約が締結されたことは当事者間に争いがない。
しかして、被告鍵夫の履行補助者である被告隆に過失が認められないことは前記認定のとおりであるところ、青山病院経営の被告鍵夫に原告主張の義務違反のないことも、右認定事実に徴して明らかであるから、被告鍵夫に債務不履行に基づく責任を負わせることはできない。
そして、被告隆及び同鍵夫に過失が認められない以上、原告主張の不法行為が成立しないことも明らかである。<以下、省略>
(土田勇 寺本嘉弘 酒井正史)