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名古屋地方裁判所 昭和49年(ワ)890号 判決 1974年10月03日

原告

伊藤静男

被告

右代表者

中村梅吉

主文

1  本件訴を却下する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

本件訴における請求の趣旨および請求の原因は別紙(訴状関係部分写)記載のとおりである。

理由

原告が、本訴で主張せんとするところは、多岐にわたりその細部については明確でないところもあるが、これを要するに、原告は、戦争を公害として執え、被告国のなす日本国の防衛たのめの装備の保有、増強(特に第四次防衛力整備計画の立案、決定、実施)、これのための国費の支出がいずれも戦争を誘発し憲法に違反する違法なものであるとし、被告国のこれらの行為を原告個人に向けられた不法行為であると構成し、この不法行為の差止として、被告国に対し右装備の廃棄、右国費の支出の禁止を命ずることを求めているものであり、このことは本件訴状の記載自体から明らかである。

原告の右主張は他に多くの問題を含む(例えば、戦争を公害として執えることが果して適当かどうか、前記装備の保有、増強、前記国費の支出が果して戦争を誘発し憲法に違反する違法なものかどうか、前記不法行為ありと仮定してもこれに対する差止が当然にできるのかどうか、また、これらの問題は何人がどのような手続でこれを判断するのが適当か等)のであるが、これらの点はさておき、これらがいずれに決められるべきであるにせよ、原告の右の主張は、畢竟、内閣が立案、計画し、結局は、国会がその権限と責任とにおいて決定すべき日本国の防衛政策そのものを目して原告に対する不法行為であるとし、国会の右の政策決定そのものを非難するに帰する。

しかし、そもそもかかる形態における被告国と原告個人との間の争を裁判所法第三条第一項にいう法律上の争訟とみること、換言すれば、本件における原被告間の争を司法裁判所が裁判をするに値する紛争形態をもつ紛争、すなわち、事件性(又は争訟性)を備えた紛争とみることは困難である。

けだし、一方、日本国におけるようにその国民の思想、信条が自由で多様化しており、その利害関係も複雑種々で一様化されていないところにおいて被告国が一国の防衛政策の如き政策決定をしようとするとき、これについての国民の意見が種々に分れることは当然であつて、それ故にこそ多数決原理によつて国民から選ばれた議員よりなる国会が存在するのであり、この国会が自己の権限と責任とにおいて、自らのルールに則り、自らの判断によつてこれを決定してゆく仕組になつていることについては多言を要しないところ、日本国の防衛政策に関する国会の特定の決定につき、あるいは原告がその国民の一人として精神的不快を感じ、ないしは危機感をもつことがあるかもしれないのであるが、同時にこれに賛成しこれにより安心感をもつ他の国民が存在することも当然に予想されるのであり、一国の防衛政策の如き政策については結局は国会がその権限と責任とにおいて広く内外の情勢をふまえ長期的視野にたつて統一的に判断決定してゆくべき性質のものであつて、かかる政策の決定の変更等については原告を含む国民の一人一人がこれに対する賛否を問わず結局は選挙等を通じて国会に対して働きかけてゆくべき筋合のものであり、もとより司法裁判所は国会の第三院たる働きをするものではないから、司法裁判所にこれらを期待すべき筋合ではないと考えられるからである。

他方、なるほど、防衛政策の如き政策に関する国会の決定であつても、これが間接的には原告の権利、利益に何らかの影響を与えうべきことは否定しえないところであるけれども、しかしこのことは何も原告についてのみ固有のことではなく他の日本国民の一人一人が等しく原告と同じような影響を受けうるのであり、このことは一国の政策決定の性質からみて当然のことであつて、この点からしても本件訴における原被告間の紛争が特定の法主体間における具体的特定的権利関係に関するもので、従つて、事件性を備えたものであるとみることが困難であるからである。尤も、当裁判所は、被告国の政策が適法に行われることについて原告個人がその国民の一人として一般的利害関係をもつことを認めるに吝かではないのであるが、このことを理由として国民が国策の是正を求めんとする形態の訴訟は、民衆訴訟(行政事件訴訟法第五条、第四二条等参照)として、法律により裁判所にその出訴が認められないかぎり(例えば、地方公共団体に関するものではあるが、地方自治の本旨、なかんずく住民自治の徹底のため地方自治法第二四二条の二は住民が民衆訴訟としてその住民の属する地方公共団体の財政運営の公正化適法化をはかる訴訟を裁判所に提起することを認めている)、許されない(そしてこのような出訴が認められるかどうかはまた一国の立法政策の問題である)ものと解すべきであり、本訴のような民衆訴訟につき、これの出訴を認める旨の法律の規定は目下のところ見出せない。

以上の次第で、本件訴は、原告主張にかかる原被告間の紛争につき、結局、事件性を認めることができず、かつ、本訴の性格上この欠缺を補正しえないこともまた明らかであるから、これにつき口頭弁論を開くまでもなく不適法として却下を免れないものである。

訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条を適用する。

よつて、同法第二〇二条に従い主文のとおり判決する。

(海老塚和衛 小林真夫 川上拓一)

(別紙)請求の趣旨

一、被告は、原告のために自衛隊等(軍備)を増強してはならず、縮少、廃止しなければならない。

二、被告は、原告のために軍事費年間一兆九百三十億円の支出を増額してはならず、削減・廃止しなければならない。

三、訴訟費用は被告の負担とする。

請求の原因

“国家と雖も、個人の生命を犠牲にする権利はない。若し国家が個人の生命の犠牲を強うるならば、そのような国家はない方がよい。”

第一、本訴提起の意味

本訴は、多数の心ある、健康な良心を持つた日本人を代表して提起するものである。

日本国憲法第九条は、人類未曾有の原爆被害により覚醒した日本人が、人類史上初めて打立てた“生命至上主義”の金字塔であり、真理の灯りである。

これが実現に邁進すること、それこそ、われわれ日本人に課せられた使命であり、戦死した数百万の英霊に報いる唯一の道である。

而も、これが完全実施は日本民族破滅の道ではなく、逆に日本民族がこの地球上に生き残りうる唯一の道である。

然るに、目下の日本はこれに逆行、転進し、日本民族破滅への道を驀進している。日本が目下行つている軍備の増強は、ミサイル誘導機を備えつけているに等しい。戦争公害の危機は、生命の危機は刻々迫つている。現時点に於てこれを歯止めせずして何時の日に歯止めできようや。

憲法九条下の自衛隊の存在は、日本人の良心、道義心タイハイの元凶ともなつている。されば、明日知れぬ身の魂の呼びとして、敢えて本訴を提起するものである。

第二、本訴の請求権

一、基本的人格権侵害予防、排除請求権

(一) 生命権侵害予防請求権(生命、身体公害)

(二) 良心の権利侵害排除請求権(精神公害)

二、税金支払者の権利侵害排除請求権

第四次防衛力整備計画の実施、推進に伴う右権利侵害は、もはや原告らの受忍の限度を超えている。

第三、生命権侵害予防請求権

戦争は人間にとつて最大の公害である。この吾々にとつて最大の公害である戦争公害を防止しうる手段は、その方法は、その発生源である軍備戦力の絶滅以外には無い。

一、戦争公害の防波提としての憲法九条。戦争の悲劇、恐ろしさ、でたらめさ、残酷さ等その諸悪については古来幾多の人によつて説かれ、太平洋戦争、原爆投下等により吾々日本人自身、近来身近かに体験したところである。<中略>

今後戦争があるとすれば、兵器の進歩からみて、必ず先制攻撃をかける。その時日本は世界第一の被爆脆弱国で危険この上もない。だからこそ非武装こそ一番安全なのである。私は過去の体験に鑑み、日本が再び誤つた軍備国防の道を辿るのを見るに忍びず、全生命をかけて日本の再軍備に反対し、日本国憲法の安全実施を訴え続けている。<中略>自衛隊に於て特に注意すべきことは、旧軍隊と異り、常時臨戦体制にあるということである。現在の自衛隊は正にかつての関東軍のように臨戦体制である。一瞬にして現体制のまゝ戦斗行動に突入し得る。殊に航空自衛隊のごときは、領海に入つた所属不明の飛行機に対して、直ちに撃退もしくは着陸せしめる任務を与えられているから、いつ他国と武力衝突を起すかわからぬ危険状態にある。

ミサイル部隊は、ボタン一つで発射し得る状態になつているから、関東軍より危険である。自衛隊にシビリアンコントロールの制度が確立しており心配ないなどというのは、素人の気安めに過ぎぬ。<中略>

科学兵器が発達し、民族の存亡のかかる戦争公害、戦争災害の防止は、戦争が発生してからでは遅い、間に合わないのである。

ここに戦争公害差止の特質がある。一旦発生すれば、その後は飽くことを知らず、増殖を続ける軍備、戦力の早期撲滅、廃止こそ戦争悪、戦争公害を防止する唯一の手段、方法なのである。

憲法第九条によつて世界にさきがけ日本が選んだ道がこれである。然し、ここに至るには人類未曾有の原爆の被害体験と、数百万の人々の死の犠牲が存在している。

かくて日本は憲法第九条によつて完全に軍備、戦力の保有を禁止し(防衛の名によつても)、交戦権を否認した。軍備、戦力を保有しないこと、これこそ真に最善の戦争防止策であり、唯一、最大の公害予防策である。

二、生命尊重主義、地球上に日本民族が生き残るための戦略としての憲法第九条。<中略>

吾国の最高裁も、戦後「生命の価値は全地球の重さより重い」と判示してこのことを是認した。

戦前、戦中に於ては「万山重からず君恩重し、一髪軽からず、吾命軽し」で人間の生命は、君のため、国のために鴻毛の軽きにたとえられた。戦時中の軍隊では、赤紙一枚の召集令状で集められた人の命は、馬よりも安価にあつかわられたと云われる。そして、何百万の人々が、君のため、お国のためということで死んでいつた。然し、それらの人々が生命を犠牲にしてまで守らねばならぬとされた価値とは一体何であつたか。

国は本来個人の生命を尊重し、その生命を守つてこそ存在価値があるのであり、その本来国によつて守られるべき生命を犠牲にして国を守るというのは、全くもつてナンセンスである。

横井庄一さん、小野田寛郎さんの生還をよしとする日本国民は、凡てこのことを自覚し、是認しているとみなければならぬ。原爆により、日本国民は国を守るという虚名の下に生命を犠牲にすることを止めた。国を守ることよりも、個人個人の生命を守ることの重要さ、大切さを知つた。そして、その生命を守る手段、方法として無条件降伏し、一切の軍備、戦力を放棄した。

国を守ることを止め、凡ての軍備を戦力を放棄することにより、日本国民の、日本民族の生命は、この地球上に生き残ることが出来た。

今日、地球上に日本民族が生存するのは、吾々日本国民が今日生きているのは、これ凡て一切の軍備を、戦力を投出し、放棄したことに基因している。これは厳たる事実である。

それは戦前、戦争中に於ては予想もされ得なかつたことであり、神国日本、生きて虜囚の辱しめを受けずの戦時教育からすれば、およそ考えられぬことである。

然し、敗戦により、原爆被害により日本国民は戦争のおそろしさを知り本来の国家と個人との在り方、生命の価値を覚つたというべきである。そのような自覚の上に立つて、生命の尊重を第一義として、人類多年の理想であつた憲法第九条が日本で始めて開花し、個人尊重の憲法第一三条が生れたのである。

そして、科学兵器の発達した今日、日本民族が地球上に生き残るための戦略として打ちたてられたのが戦力抛棄という憲法第九条の手段、方法である。

それは人類史上曾てない原爆被害という体験を経ることによつて、地球上、日本民族が始めて取得しえた“知恵の実”とも、いうべきものである。

三、戦争公害の防波堤破壊行為としての第四次防衛力整備(軍備増強)計画の実施

第四次防衛力整備(軍備増強)計画の実施は、戦争公害の防破堤の破壊作業に等しく、日本民族の生命の危機を招来するものである。

五兆円余の国費を使用して実施されんとしている第四次防衛力整備計画は、軍備の増強繁殖行為であり、前述の戦争公害予防役としての憲法第九条、生命尊重主義、地球上に日本民族が生き残るための戦略としての憲法第九条の存在価値を全く踏みにじるものであり、折角設定した戦争公害の防波堤を、その歯止めを打砕くに等しい行為である。

されば、これが原告を含めた日本民族の生命の危機につながつていることは明白である。

“四次防、世界百四十四ケ国中第七位の軍備の保持”

政府の行為によつて、再び戦争の惨禍が、その発生源が造成されつつあるのである。繰り返すようであるが戦争は起きてからでは遅いのである。発生源の造成そのものが、生命の危機につながるのである。

軍備の保有、増強そのものが、戦争公害による原告等の生命権の侵害につながるのであり、戦争公害による生命権の侵害予防としては、軍備の保有、増強を禁止させる以外に手段、方法は無いのである。

「軍備こそ最大の公害である」とのノエルベーカ氏の言は、この意味で真に至言というべきである。

四、戦争公害差止の特殊性

戦争公害の特質は、公害の発生、即生命被害の発生というこでとある。他の公害にみられる様に徐々に被害が発生してくるのでなく、瞬間に、即ち、戦争の発生と同時に、原告等の生命がブツ飛ぶ危険が在るということである。そして、戦争が起きてから差止訴訟を提起していても何の役にもたたぬということである。

されば、その発生源であり、一旦発生すれば、その増強繁殖すること“癌”の如く、逐には民族の死滅をもたらす軍備の発生を早期に発見し、摘除手術する以外に戦争公害を防止し、生命の危険を免がれる手段、方法は無いのである。

従つて、戦争公害の差止めは、軍備発生の差止めであり、軍備保有の禁止となるのである。

日本の国に軍備を保有することは、原告等個人の住居の側に何時爆発するとも知れぬ爆発弾が存在するのと同様である。即ち、日本が軍備を保有しておれば、科学兵器の今日、何時相手国からミサイルが、原爆が飛来せんとも限らぬのである。

然し、日本が全く軍備を保有せず、非武装となれば、その日本に対して突如ミサイル攻撃を加える国があるということは、到底考えられぬことである。

従つて、個人の住居の側に存在する爆発弾は生命権侵害予防として、即刻取除かしうる権利があるのと同様日本国内の軍備の存在は、生命権侵害予防として即刻これを除去、撤廃せしめる権利があるというべできある。

而して、この権利は憲法第九条によつて日本国民に与えられ、認められた平和的生存権でもある。

斯様に、現在の軍備の増強は、原告等の生命権に対する侵害としては、既に緊迫性、緊急性を帯びていると云つても決して過言では無いのである。而も、軍備の増強が“癌”の如き性質を帯びているからには、早期摘除以外に戦争公害防止の手段はないのであり、この意味からしては、第四次防衛の現在既に遅く、手遅れの感が無いでもないのである。

従つて、生命権侵害予防としての戦争公害差止のための軍備保有禁止請求は目下の緊急事であり、遅すぎることはあつても、早すぎることは決して無いのである。

本訴請求の必要性が生命権侵害予防として緊急性、緊迫性を有することガンの発見摘除におけると同質である。

第四、良心の権利侵害排除請求権

(一) 「良心の自由、良心を健康に保つ権利」憲法一九条は、日本国民の基本的人権として、良心の自由を、良心を健康に保つ権利を保障した。而して、この権利は、国家権力によつても侵害されることのない絶対権として保障されたものである。然るに、自衛隊(軍備)の存在は、原告ら個々の日本人の良心の健康を著しく侵害し、日本人の心の世界、良心の世界に於ても最大の公害をもたらしており、第四次防衛力整備計画実施に伴う、世界百四十四ケ国中第七位の軍備の増強、保有は、もはや健康な良心の堪え得る限界を超えている。

(二) 原告ら日本国民と軍備保有、違憲の認識

日本国憲法は第二章で戦争抛棄を規定し、第九条に於て、日本国の戦力保有、軍備保持を禁止する旨明規した。而して、この憲法第九条に就ては、一部に於て、御都合主義のコジツケ解釈がなされているが、その文章自体からして、成立国会の吉田総理の説明からして、文部省が発行し義務教育の中学校で教材とした「憲法のはなし」の解説からして、大学での講義、大多数の公法学者の解説書からして、札幌地裁の長沼判決からして、この判決に対する大新聞の賛意的見解からして、原告ら大多数の良識ある日本国民は、日本は完全に戦争抛棄を決意し、一切の軍備戦力は保持を禁止したものと解するのであり、自衛隊の存在は違憲であるとの認識を有するのである。

而して、この認識は正しいと原告は確信しているが、かく確信するには右の通り十二分の相当性が在ると謂わねばならない。

(三) 認識と現実とのギヤツプ、著しい差異

然るに、現実に於ては、政府は原告らの支払う税金で以て、四次防、世界第七位の軍備を堂々と保有せんとしているのである。一体これが法治国として許されることであろうか。<中略>

(四) 四次防による軍備増強の違憲性、違憲度は、もはや原告らの良心の堪え得る限界を超えている。

斯る日本の現況の中に、法治国民として居住することは、良心を傷つけること著しいものがあり、良心の健康は何時の間にか、徐々に徐々に害せられ、殆どの日本国民の良心は病み、衰ろえ、著しく健康をそこね、死の直前にあると云つても決して過言ではない。

今にして、現時点に於て、この違憲状況を止めざれば、身体の死の前に日本人の良心は、その心はすべて死滅するのである。

第三、税金支払者の権利侵害排除請求権

第四次防衛力整備計画実施による軍備の増強、これに伴う五兆円余の税金の使用は、原告ら税金支払者の権利を著しく、而も違法に侵害するものであり、直接的密接な利害係関を生じている。<中略>

而して、税金の軍備費への支出、使用は、吾国の憲法は第九条でこれを厳に禁止しており、許されざるところである。而も前述してきた通りこれが使用に伴う軍備の保有、増強は、戦争公害の発生源の造成行為であり、窮極的には、原告ら税金支払者の生命の危機につながるものである。

原告ら税金支払者としては、自分の金で自分の首をしめる繩を作らせている様なものである。

加、昭和四八年度所得税申告用紙には、納税金千円の内六五円が軍事費に使用されると明示してあり、原告ら税金支払者と被告の軍事費使用との間には、もはや直接的密接な利害関係が生じていることは、明白である。

即ち、原告ら税金支払者は被告の違法の軍事費使用により千円の内六五円の割合で余分に税金の支払いをさせられている訳である。従つて、被告の軍備増強、これに伴う軍事費の増額使用は著しく税金支払者の権利を侵害するものである。

而も、抑々税金の軍事費への支出、使用は、憲法上許されざるところの違法使用である。

されば、被告の軍備の保有、増強、これに伴う軍事費の支出、使用の禁止請求は、原告ら税金支税金支払者の権利である。<以下略>

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