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名古屋地方裁判所 昭和50年(ワ)1666号 判決 1985年5月17日

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは各自、原告宮地孝典に対し金八三九八万四二六四円、原告宮地邦一、原告宮地千重子に対し各金五〇〇万円ずつ及び右各金員に対し、被告医療法人愛生会については昭和五〇年八月二九日から、被告鳥本雄二については同月三〇日から、被告福田浩三については昭和五一年九月一七日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告宮地孝典(昭和四二年四月一〇日生・以下原告孝典という。)は父である原告宮地邦一(以下原告邦一という。)と母である原告宮地千重子(以下原告千重子という。)との間に生まれた長男である。

(二) 被告福田浩三(以下被告福田という。)は被告医療法人愛生会(通称上飯田第一病院、以下被告病院という。)の理事兼院長兼外科部長であり、被告鳥本雄二(以下被告鳥本という。)は被告病院に勤務する外科医師である。

2  医療契約

(一) 原告孝典は昭和四九年九月二五日(以下特に年月日を示さない場合は、同日のことである。)午前〇時三〇分ころ腹痛と発熱を訴えて、救急自動車で被告病院に運ばれ、そこで同病院当直医水野恵介医師(以下水野医師という。)に緊急診察を受けた。

水野医師は、経過観察のうえ加療を要するとの診断をなし、原告邦一に対し「九〇%は風邪だがあと一〇%は分らない。今晩入院させ、朝一番に精密検査をしてあげよう。」と述べた。

そこで原告邦一及び原告千重子は直ちに原告孝典の法定代理人兼契約当事者として、被告病院との間で原告孝典の右風邪の治療及び精密検査とその結果判明するであろう症状についての医療を内容とする医療契約を締結した。(以下第一次医療契約という。)

(二) 同日午後四時ころ、被告鳥本は原告孝典を診察し、原告千重子に対し虫垂摘出手術(以下本件手術という。)を勧告した。

そこで、原告邦一及び原告千重子は直ちに原告孝典の法定代理人兼契約当事者として、被告らとの間で原告孝典の本件手術及びこれに附帯する処置を目的とする医療契約を締結した。(以下第二次医療契約という。)

3  本件手術の経過及び原告孝典の現在の症状とその原因

(一) 被告鳥本は同日午後四時四〇分ころ、第二次医療契約に基づき原告孝典に対し、腰髄腔にペルカミンS一・二CCを注入して腰椎麻酔(以下「腰麻」という。)を施した後、本件手術を行ったが、その術中原告孝典は心停止に陥り、同日午後六時五〇分ころ意識不明のまま手術室を出た。以来原告孝典は脳機能低下症により廃人と化した。

(二) 原告孝典の症状は、肉親と他人の判別がつかないほど知能が低下し、手足は麻痺し(両手の握力ゼロ)、頭部を支えられた状態で首を緩慢に約九〇度左右に動かせるだけで、発作的にうなり声、泣き声を発するのみで発語は一切なく、小便は失禁状態、大便は浣腸のみで排便し、固形物の摂取は不能で半流動物を長時間かけて口の中へ運んでやらねばならず、また、一日中附添って少量ずつ必要な水分を補給してやらないと脱水状態となる。

(三) 原告孝典の右脳機能低下症は次の原因に基づくものである。

(1) (腰麻ショック・高位麻酔ショック)

原告孝典は腰麻を施された後、身体の麻痺部分の血管が交感神経の麻痺により拡張し、そこに血液が滞溜し、心臓への静脈血の環流が減少したこと及びペルカミンSが高位に拡張し肋間筋が麻痺して呼吸抑制になったことにより血圧の低下、呼吸機能及び心機能の低下をきたし、ついには呼吸停止・心停止に至り、心停止状態が三分以上継続した。

その結果、脳に対する酸素の供給が不足し、脳機能低下症が発症した。

(2) (迷走神経反射)

被告鳥本は本件手術中逆行性に切除すべく虫垂根部をペアン鉗子で挟み、腹腔外へ牽引したが、その際迷走神経に刺激が加わり、原告孝典は迷走神経反射のもとに血圧の低下、呼吸機能・心機能の低下をきたし、ついには呼吸停止・心停止に至り、心停止状態が三分以上継続した。

その結果、脳に対する酸素の供給が不足し、脳機能低下症が発症した。

(3) (腰麻ショック・高位麻酔ショックと迷走神経反射の競合)

右(1)(腰麻ショック・高位麻酔ショック)、同(2)(迷走神経反射)の原因の競合により血圧の低下、呼吸機能、心機能の低下をきたし、ついには呼吸停止・心停止に至り、心停止状態が三分以上継続した。

その結果、脳に対する酸素の供給が不足し、脳機能低下症が発症した。

4  注意義務違反

原告孝典の脳機能低下症を惹起させたことについて被告病院には左記(一)の、被告鳥本には左記(二)ないし(九)の各注意義務違反がある。

(一) 精密検査義務違反

第一次医療契約の内容として被告病院は同日朝原告孝典に対し精密検査を行うことが約束されていた。被告病院は原告孝典に対し、適切な医療処置がとれるように本件手術前の同人の健康状態を認識するため、右精密検査を施行する義務があった。

然るに被告病院は同日朝、右精密検査を施行しなかったばかりか同日午後三時、被告病院内科医落合弘光医師(以下落合医師という。)が原告孝典を診察するまでの間、何らの診察及び治療行為もしなかったことにより、前記3(三)の結果を惹起させた。

(二) 検査義務違反

(1) 原告孝典は昭和四七年一〇月か一一月ころ髄膜炎で半月ほど入院したことがあり、平常時においても扁桃腺の弱い虚弱体質であった。原告邦一は原告孝典の入院に際し、水野医師に対し原告孝典の右既往症を告知した。

また、原告孝典には入院時から本件手術まで扁桃腺肥大、発熱、急性上気道炎の症状が認められた。(なお、原告孝典は午前九時ころには腹痛を訴えなくなった。)

被告鳥本は右のような原告孝典の既往症、身体的条件のもとでは、同人の健康状態について周到な診察、検査をなしたうえで本件手術を勧告し、施行すべき義務があった。

然るに、被告鳥本は右義務を怠り、カルテに記載された病名のほかは知ろうとせず、原告孝典に対し、わずかに触診したのみで本件手術を行い前記3(三)の結果を惹起させた。

(2) ペルカミンSによる腰麻の場合、血圧の低下・呼吸困難が起こりやすいので、これを防止しあるいは起こった時に適切な処置をとれるように呼吸機能検査、循環機能検査、心電図検査などの検査をして術前の身体的条件を十分に解明すべき義務があるところ、被告鳥本はこれを怠り、前記3(三)の結果を惹起させた。

(三) 腰麻選択の誤り

一〇歳以下の幼児に腰麻を施すことは危険性が高く、全身麻酔(以下「全麻」という。)の方が安全とされたこと、原告孝典は本件手術当時急性上気道炎を併発していたことを考慮すれば、被告鳥本は原告孝典に対し全麻の方法により麻酔を施す義務があるのにこれを怠り、ペルカミンSを使用して本件腰麻を行ったことにより、前記3(三)の結果を惹起させた。

(四) ペルカミンS注入量の誤り

ペルカミンSの注入適量は体重一〇kgあたり〇・四CCであり、原告孝典は本件手術当時体重が二〇kgであったから、同人に対しては〇・八CC以下の適量に抑える義務があるのに、被告鳥本は誤って一・二CCを注入し、前記3(三)の結果を惹起させた。

(五) 副作用予防措置の不実施

ペルカミンSを使用して腰麻を行うとその副作用として血圧低下を起こし、さらには呼吸停止・心停止に至ることも予測できたのであるから、これを防止するため被告鳥本は原告孝典に対し、前投薬として血管収縮剤、昇圧剤などを施用すべき義務があるのに、これを怠り本件手術に際し、右薬剤などの前投与を行わなかったことにより前記3(三)の結果を惹起させた。

(六) 麻酔技術の拙劣

被告鳥本は腰麻を実施する以上、注入されたペルカミンSが適正な範囲を超えて高位に上昇し、危険な高位麻酔にならないように適切な麻酔処置をとるべき義務があるのにこれを怠り、麻酔技術の拙劣により前記3(三)の結果を惹起させた。

(七) 本件手術の方法の誤り

逆行性の虫垂を切除する場合、虫垂根部を鉗子で挟み、腹腔外へ牽引すると腹腔内の迷走神経を刺激し、その反射により患者が心停止をきたすことが予測できたのであるから、被告鳥本は原告孝典に対し、まずキシロカイン等の局所麻酔薬を虫垂間膜に注射して迷走神経反射を遮断したうえで虫垂の切除を行う義務があるのにこれを怠り、右処置を施さないまま、虫垂を逆行性に切除すべく虫垂根部をペアン鉗子で挟み、腹腔外へ牽引したことにより前記3(三)の結果を惹起させた。

(八) 術中の管理不十分

被告鳥本は腰麻開始後、腰麻ショック・高位麻酔ショックあるいは迷走神経反射によるショックが発生する前兆を的確に発見し、迅速かつ適切な回復措置を講ずることができるように原告孝典にカルジオスコープを装着して心電図の波形を監視し、補助者である看護婦に対し常時脈搏をとるように指示するなど原告孝典の容態を十分監視する義務があるのに、これを怠り、原告孝典がショック状態に陥るまでカルジオスコープを利用せず、補助者である被告病院吉村恵子看護婦(以下吉村看護婦という。)に対し、五分毎に脈をとって報告するように指示しただけで、原告孝典が気持が悪いと訴えるまで異常事態の発生に気がつかなかったことにより前記3(三)の結果を惹起させた。

(九) 救急措置の不完全

被告鳥本は、原告孝典に異常が認められた時点で救急措置をとるべく直ちに他の医師の応援を求めるべき義務があり、また、他の医師の応援が得られるまでは補助者である看護婦に指示するなどして酸素吸入と併行して心臓マッサージを行う義務があり、さらにバグ操作による酸素吸入に抵抗を感じた時点では気管支痙攣が起きていたと考えられるから、直ちに気管に挿管してマウスツーマウスによる酸素の補給をなすべき義務があるのに、これらの義務をいずれも怠り、腰麻ショックが原因で血圧が低下したとの考えのもとに当初の数分間は自分一人で救急措置がとれるという判断をなし、他の医師の応援を求めず、被告福田が手術室に到着するまでの六、七分間漫然とバグ操作による酸素吸入のみに終始した。その結果、被告福田の到着時には既に原告孝典の心電図の波形は直線になっていたもので、被告鳥本は右各義務の懈怠により前記3(三)の結果を惹起させたものである。

5  債務不履行責任

被告鳥本は被告病院、被告福田の履行補助者である。

従って被告病院は第一次、第二次医療契約に基づく、前記4(一)ないし(九)の注意義務の不履行により、被告福田、被告鳥本は第二次医療契約に基づく、前記4(二)ないし(九)の注意義務の不履行により、後記7の損害を賠償すべき義務がある。

6  不法行為責任(選択的請求)

(一) 被告鳥本は被告病院の医療業務に従事中、前記4(二)ないし(九)の注意義務を尽さなかった過失により原告孝典の脳機能低下症を発症させたものであるから後記7の損害を賠償すべき義務がある。

(二) 被告病院は被告鳥本の使用者であり、被告福田は被告鳥本の監督者である。

よって被告病院、被告福田は後記7の損害につき民法七一五条に基づき賠償すべき義務がある。

7  損害

被告らの前記5の債務不履行ないし前記6の不法行為により原告らは次のとおりの損害を被った。

(一) 原告孝典 合計八三九八万四二六四円

(1) 逸失利益 合計二九二一万三三五二円

原告孝典は昭和四二年四月一〇日生れの男子であるところ、本件事故により一〇〇%労働能力を喪失した。

原告孝典は本件事故に遭遇しなければ一八歳から六七歳まで就労可能であり、毎年の収入額を一五五万六八〇〇円(昭和五五年度賃金センサス企業計、学歴計、男子労働者、一八歳~一九際の一か月あたりの現金給与額一一万九六〇〇円を一二倍にしたものに年間賞与その他の特別給与額一二万一六〇〇円を加えた額)としてこれを基礎に前記労働能力喪失割合によりホフマン方式により中間利息を控除して計算すると得べかりし利益の現価は二九二一万三三五二円となる。

(119,600×12+121,600)×18,765=29,213,352

(2) 看護料 四〇三七万〇九一二円

原告孝典は、昭和四九年九月二五日から昭和五〇年六月二〇日までの二六九日間、被告病院、名古屋大学病院、国立名古屋病院、伊豆韮山温泉病院に入院し、二四時間附添看護を要したので、一日当り五〇〇〇円、計一三四万円(一万円未満切捨)を要した。

また、原告孝典の昭和五〇年六月二一日以降の自宅療養中の看護は、同人の症状から二四時間看護を要し、原告邦一は仕事上、原告千重子は他の子供の養育上これが不可能であり、原告孝典のため家政婦を雇わねばならず、この費用として一日あたり四〇〇〇円が相当である。

原告孝典は昭和五〇年六月二一日以降五九年間附添い看護を要するので一日あたりの前記看護料四〇〇〇円を基礎にホフマン方式により中間利息を控除して計算すると三九〇三万〇九一二円となる。

(4,000×30×12×27.1048=39,030,912)

(3) 慰謝料 一〇〇〇万円

(二) 原告邦一、原告千重子

慰謝料 各五〇〇万円

(三) 原告らの弁護士費用(原告孝典において請求) 四四〇万円

よって被告らは各自、債務不履行責任ないし不法行為責任に基づき原告孝典に対し八三九八万四二六四円、原告邦一、原告千重子に対し各五〇〇万円及び右各金員に対し、被告病院については訴状送達の日の翌日である昭和五〇年八月二九日から、被告鳥本については訴状送達の日の翌日である同月三〇日から、被告福田については訴状送達の日の翌日である昭和五一年九月一七日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2(一)の事実のうち小野医師の原告邦一に対する発言内容は知らない。原告らと被告病院との間で原告孝典の病状に関し医療契約が締結されたことは認めるが、その内容は争う。その余の事実は認める。

同2(二)の事実のうち、被告らと原告邦一、原告千重子との間、被告病院を除くその余の被告らと原告孝典との間に契約関係があることは否認し、その余の事実は認める。

3  同3(一)の事実は認める。同3(二)の事実は知らない。

同3(三)の事実のうち、原告孝典の脳機能低下症が脳への酸素供給が不足したことにより発症したものであること、被告鳥本が本件手術中、逆行性に切除すべく虫垂根部をペアン鉗子で挟み、腹膜のあたり(腹腔外ではない。)に牽引したこと、その際迷走神経に刺激が加わり、原告孝典に迷走神経反射が起きた可能性があることは認め、その余の事実は否認する。

4(一)  同4(一)の主張は争う。

(二)  同4(二)(1)の主張のうち、原告孝典に急性上気道炎が入院時から、発熱が同日午後二時三〇分ころから本件手術時まで続いたことは認める。原告邦一が原告孝典の既往症を水野医師に告知したことは知らない。その余は争う。

(三)  同4(三)の主張は争う。

(四)  同4(四)の主張のうち、原告孝典が本件手術当時体重二〇kgであったこと、被告鳥本がペルカミンS一・二CCを原告孝典に注入したことは認め、その余は争う。

(五)  同4(五)の主張のうち、被告鳥本が本件手術に際し、原告孝典に対し血管収縮剤、昇圧剤などの薬剤の前投与を行わなかったことは認め、その余は争う。

(六)  同4(六)、(七)の主張は争う。

(七)  同4(八)の主張のうち、原告孝典がショック状態に陥るまでの間、カルジオスコープを利用しなかったことは認めるが、その余は争う。

(八)  同4(九)の主張は争う。

5  同5の主張のうち、被告鳥本が被告病院の履行補助者であることは認め、その余は争う。

6  同6の主張は争う。

7  同7の事実は知らない。

三  被告の主張

1  診察の経過

被告らの原告孝典に対する入院以後の診療の経過は次のとおりである。

(一) 午前一〇時三〇分ころ、被告病院内科医落合医師が原告孝典を診察したが、軽度の咳嗽、咽頭痛があり、咽頭が軽く発赤しているのみで、胸部理学的所見に異常はなく、急性上気道炎と診断して経過観察をすることとした。この時点では、回盲部軽度圧痛はあったが、腹痛の訴えはなく、腹腔内炎症の刺激が壁側腹膜に及んだ徴候の筋性防禦はなかった。

午後二時三〇分落合医師は原告孝典が発熱し、腹痛を訴えているとの報告を受けて同原告を診察したところ、回盲部圧痛、筋性防禦を認め、虫垂炎の疑いをもったので白血球数の検査を命じ、その増加が認められたので、外科での受診を指示した。

連絡を受けた被告鳥本は、午後三時四〇分ころ、落合医師と会い、同医師から原告孝典には発熱(三七度七分)、白血球数増加(一立方mm当り一万一三〇〇、正常値は六〇〇〇ないし八〇〇〇)、回盲部圧痛が認められ、上気道感染もあるが主病変は虫垂炎と思われるので、診察のうえ手術の適否を決定してほしいとの要請を受けた。

(二) そこで被告鳥本が原告孝典を診察したところ、回盲部圧痛、著明な筋性防禦、限局性腹膜炎の徴候であるブルンベルグ徴候、腹部の熱感が認められたので本件手術が必要と判断した。

同被告は附添っていた原告千重子に「原告孝典の盲腸炎(虫垂炎の通称)は確実であり、進行しているから腹膜炎(汎発性腹膜炎の通称)になるおそれがあるから手術した方がよい。」と伝えた。これに対し、原告千重子は夫である原告邦一と相談のうえ返事すると答え、被告鳥本は右返事を待つ旨伝えた後、被告福田に原告孝典の症状について報告し、指示を仰いだ。それに対して被告福田は被告鳥本に両親の同意を得たうえ腰麻にて虫垂炎の手術をするよう指示した。

(三) 同日午後四時二五分原告孝典は手術室に入室した。被告鳥本は、本件手術に先立って、閉鎖循環式麻酔器を手術台頭側にセットし、直ちに使用可能なことを確認のうえ、手洗、器械渡しに看護婦池野悦子、雑用一般に婦長山内慶子(以下山内婦長という。)、患者監視係に吉村看護婦、待機連絡係に看護補助者沢辺久子を配置した。被告鳥本は、原告孝典を手術台に仰臥させ、同人を再度診察し、吉村看護婦に指示して糖質輸液剤の点滴、血圧及び脈搏の測定をなした。原告孝典の血圧は午後四時二八分、一一二mm/Hg(以下単位を省略する。)~六八、脈搏七八で正常であった。

(四) 被告鳥本は、原告孝典を右側臥位、頭高位にさせてその脊柱部を中心に消毒した後、同日午後四時三二分第三、第四腰椎間に穿刺を施し、針がクモ膜下腔に入り、脊髄液が流出するのを確認したうえ、〇・三%ペルカミンS一・二CCを約五秒かけて注入した。穿刺は一回でスムーズに成功し、血液の流出(血管内への薬液の流入)及び下肢の放散痛の訴え(馬尾神経への刺入)もなかった。その後、被告鳥本は、髄液腔内で薬液を限局させるため約一分間原告孝典を右側臥位の状態にとどめ、同原告が右下肢のしびれ感を告げたのち仰臥位にさせた。体位変換後である同日午後四時三五分の原告孝典の血圧は一二四~七〇、脈搏は八四で何ら異常はなかった。次いで、被告鳥本は、原告孝典の腹部を消毒して覆布で覆い、注射針で皮膚を刺し、その応答を順次聞きつつ麻酔高を確認したところ、剣状突起のやや下部から頭側に疼痛の応答があったので、麻酔範囲は適正と認めた。午後四時四〇分の原告孝典の血圧は、一二二~七二、脈搏は七八と正常であった。

被告鳥本は吉村看護婦に対し絶えず原告孝典の脈搏をみ、また五分毎に血圧を測定して報告するように指示し、山内婦長に原告孝典の顔面等頭部の監視にあたらせた。

以上の処置を終えた後、午後四時四〇分被告鳥本は原告孝典の右下腹部、外腹斜筋々膜を切開し、内腹斜筋及び腹横筋を筋線維を切断しない方向に分け、腹膜を露出して切開したが、この間原告孝典は何ら苦痛を訴えることなく、また、腹膜切開時の脈搏も全く異常がなかった。原告孝典の腹腔内は、腹水中等量、著明な大網下垂が認められ、炎症の存在は明白だった。そこで、被告鳥本は、大網を頭側に押しやり、盲腸より虫垂根部を求め、更に、先端に向ってたぐっていくと、先端は後腹膜に癒着して遊離不能だった。そのため被告鳥本は、逆行性に切除しようと虫垂根部をペアン鉗子で挟み、腹膜のあたりまで牽引したが、その時(午後四時四四分ころ)、原告孝典は「気持が悪い。」と訴え、同時に、吉村看護婦は原告孝典の脈搏が遅く弱くなったと報告した。そこで、被告鳥本は、直ちにペアン鉗子を外し、原告孝典に「どうしたか。」と尋ねたが応答はなく、唇にはチアノーゼが認められ、顔面は蒼白、呼吸は浅薄で、意識はなかった。被告鳥本が吉村看護婦に原告孝典の血圧値の報告を求めたところ、左撓骨動脈触診により最高血圧五〇との報告があった。午後四時四五分、被告鳥本は直ちに本件手術を中止した。

(五) 手術中止後、被告鳥本は、池野看護婦に原告孝典の創部をガーゼで保護させ、自ら手術台を操作して同原告をトレンデレンブルグ体位に変え、閉鎖循環式麻酔器により強制人工呼吸の操作をし、左手で原告孝典の顔面にマスクを当て、薬指と小指で下顎部を保持して頸部前面を伸展させて気道を確保し、酸素量を毎分四<省略>の割合による吸入にセットし、右手でゴム製バックを握縮加圧して気管内に酸素を圧入しようとしたが、非常な抵抗があった。被告鳥本は、右操作を行いながら、吉村看護婦に昇圧剤メキサン一アンプルを原告孝典の静脈内に急注させ、看護補助者沢辺に被告福田と被告病院外科医山口晃弘(以下山口医師という。)に対し緊急事態発生と応援方を電話通報させ、更に山内婦長に原告孝典の心搏動を視覚によりとらえるべくその左胸部にカルジオスコープの電極をセットさせ、心電図のモニターを開始した。モニターでは、最初、期外収縮(心臓が何らかの理由で次に来るべき周期より早く収縮すること)が頻発して低電位であり、心室細動(心室が不規則に局所的にゆれている状態で有効な収縮がなくなっていること)はなかったが、漸次自発呼吸がなくなった。

(六) 午後四時四五分、被告福田がかけつけたところ、原告孝典はトレンデレンブルグ体位で仰臥し、顔面はチアノーゼが強く、モニターの心電図の波形は極めて不規則で低電位であった。

次いで、山口医師も到着し、被告福田が全員を指導して、山口医師に強制人工呼吸及び気管内チューブの気管内挿管を、吉村看護婦に昇圧心搏増加強化剤(交感神経刺激剤)ノルアドレナリン一アンプルを点滴液内に混注し、更に、副腎皮質ホルモン剤ソルコーテフ一〇〇mgの静脈急注をそれぞれ指示した。被告鳥本は経胸壁心臓マッサージを施行し、時々正確なモニターの波形を知るためそれを中止しては、波形を観察していたが、午後四時四八分ころ、モニターは原告孝典の心停止を示した。

そこで、被告福田は、山口医師の強制人工呼吸に呼応して、被告鳥本と交代で経胸壁心臓マッサージを強力に行いつつ、ノルアドレナリン一アンプルを直接心臓腔内に注射して原告孝典の肺の聴診をしたところ、肺雑音(ラッセル)が聴かれたので、気管支痙攣による雑音と判断し、気管支拡張のため吉村看護婦に交感神経刺激剤ボスミン二分の一アンプルの右上搏部筋注を命じた。山口医師の酸素送入は、頻繁なチューブ内分泌物の吸引、自らの呼気のチューブ内送入などにもかかわらず、気管内チューブ挿入後も相変らず換気抵抗が強く十分にはできなかった。

ところが、ボスミン注射直後から原告孝典の顔面色調が回復し、山口医師の強制呼吸の抵抗も少なくなり、酸素送量も増加した。午後四時五五分(心停止後七分)、モニターに心搏動が再現し、次いで、自発呼吸も徐々に再開した。その時の血圧は九〇~五八、脈搏は一二〇であった。

(七) 原告孝典の状態が安定した午後五時二〇分、被告鳥本は原告孝典の手術を再開したが、虫垂突起は充血が著明で非常に肥厚しており、先端近くは膿苔が附着しており、化膿性虫垂炎の像で、手術の絶対的適応であった。

手術終了時は午後五時四二分であった。

2  本件事故発生の原因

(一) 本件事故の発生は、被告鳥本が逆行性に切除すべく虫垂根部をペアン鉗子で挟み、腹膜のあたりまで牽引したことによって生じた稀にみられる激しい迷走神経反射が、ペルカミンSによる薬物ショック(アナフィラキシーショック)のいずれかが起きたか、あるいは両者が同時に起きたことに起因するものである。

(二) 原告ら主張の事故発生原因のうち、迷走神経反射を除いては当を得ないものである。

原告らが請求原因3(三)(1)で主張する事故原因のうち腰麻ショック(腰麻ショックとは腰椎麻酔剤により下半身が麻痺されることにより、下半身の血管が拡張し、そこに血液が滞溜し、心臓への環流が充分でなくなり、血圧が低下して生ずるものである。)については、徐々に血圧低下が来、急激に瞬間的には来ないものであるが、本件では原告孝典は突然に「気持が悪い」と言い脈搏が遅く弱くなり、唇にチアノーゼが現われ、顔面蒼白、呼吸浅薄、意識もなくなり、血圧も最高が五〇となったのであるから本件事故原因は腰麻ショックとは考えられない。

高位麻酔ショック(高位麻酔ショックとは腰椎麻酔剤が高位に上がり、そのため呼吸をつかさどる肋間筋を麻痺させ、呼吸抑制となってショックとなるものである。)については、その症状の発現は緩徐で、酸素吸入及び昇圧剤の静脈急注により十分対処し得るところ、本件ではショック症状が急激に発現し、その直後の酸素吸入及び昇圧剤の急注にもかかわらずショック状態から回復しなかったこと、高位麻酔の場合、麻酔が醒めるまでは自発呼吸をすることができず、麻酔から醒めるには三〇分から一時間を要するところ本件では事故発生後約一〇分で自発呼吸が再開していること以上の点から本件事故原因は高位麻酔ショックとは考えられない。

3  本件手術並びに標記の各処置につき何らの債務不履行も不法行為もない。

(一) (精密検査の不履行について)

被告病院は第一次医療契約においては原告孝典の腹痛の原因究明とその治療につき約したのであるが、前記被告の主張1(一)(二)のとおり種々検査のうえ落合医師、被告鳥本が急性虫垂炎と診断したのであるから被告病院に債務不履行はない。

(二) (被告鳥本の診断・検査の不十分について)

本件事故の原因と考えられる稀にみられる激しい迷走神経反射ないしペルカミンSによる薬物ショックを事前に検査により予測することは不可能である。

また、術前の検査は麻酔及び手術の内容によって決められるもので、腰麻による虫垂切除の場合、呼吸機能検査、循環機能検査は医療の一般水準からは行われていない。従って原告の主張する右検査は不要である。また心電図は術前には行われなかったが、術後のものが正常であるから術前も当然正常であったといえ、問題はない。

なお、被告鳥本は前記被告の主張1(一)(二)のとおり単に触診をしたのみでなく、十分に診断を尽している。(もっとも虫垂炎診断の決め手は触診で他に有効適切な診断方法はない。)

(三) (麻酔方法の選択の誤りについて)

一〇歳以下の幼児につき、全麻が安全で腰麻は危険だと必ずしも言えない。乳幼児に腰麻が行われないのは、暴れたりして危険なためで、全麻には麻酔中気管内挿管により気道が確保されるとの長所があるが、手術後上気道部に異常がなくとも気管内チューブの刺激ないし圧迫による声門浮腫、喉頭痙攣、術後無気肺、術後肺炎等の危険な合併症が考えられる。

原告孝典は当時七歳五か月で腰椎穿刺に十分協力できたし(現に穿刺は一回でスムーズに行われた)、また、被告鳥本は、原告孝典の急性上気道炎を配慮したからこそ全麻の術後合併症を避けるため腰麻の方法を選択したのである。

(四) (注入適量の誤りについて)

本件で使用されたのは〇・三%ペルカミンS一・二CCで塩酸ジブカイン含有量は三・六mgで適量であった。単に薬液の量のみではその適否を決し難い。のみならず、脊椎麻酔では、くも膜下腔のスペースによって薬量を限定すべきで、普通の静脈麻酔又は全麻のごとく体重kg当り何mgというように規定するのは誤りである。

(五) (前投薬の不投与について)

人体は副交感神経と交感神経が拮抗してバランスを保っているのであって、むやみに血管収縮剤・昇圧剤を使って交感神経を刺激することは避けるべきである。ことに、腰麻は上半身正常であるのに下半身にのみ麻酔が及び、血管収縮剤・昇圧剤は体全体に作用するため自律神経のバランスをくずす危険性が高いから、現在では、特別な疾患から、必ず腰麻によって血圧低下が生ずると思われる場合の他は、一般に血管収縮剤・昇圧剤は使われない。

また、血管収縮剤・昇圧剤は、麻酔途中で血圧低下がみられたときに急注すれば血圧の低下を防止しうるのである。本件では血圧低下に備え、静脈に急注できるよう予め輸液五%オイトリット五〇〇CCの点滴を三方活栓を利用して行っていたが、原告孝典の血圧は、同日午後四時二八分、血圧一一二~六八、脈搏七八と正常で、血圧低下をきたすような異常疾患は全く認められなかったのである。

(六) (麻酔技術の拙劣について)

高位麻酔になることを防止するためには、局所麻酔剤を必要な量にとどめ、必要以上麻酔剤が高位に上らないように調節することである。前記被告の主張1(四)のとおり被告鳥本は原告孝典に対し、ペルカミンSによる腰麻を施すにあたり同人の体位、穿刺部位、麻酔剤の量及び注入の速度のいすれについても万全の注意を払い、注射針で同人の皮膚を突いてその応答を聞いて麻酔高が剣状突起のやや下であることを確認したものでその処置に不適切な点はない。

(七) (手術方法の誤りについて)

迷走神経反射による突然の徐脈・血圧低下は稀有であるうえ、そのほとんどは軽く、心停止に至ることを予測できない。虫垂の切除時又は切除のための牽引時に、患者が気分が悪いと訴えることがよくあるが、それはあくまで一時的症状でそれ以上には進行しない。

右症状は迷走神経反射によるものであろうと言われているが、特にその防禦のため、局所麻酔剤を浸潤させたり、中枢近くで迷走神経を遮断したりすることは一般に行われていない。かえって、迷走神経の遮断は、交感神経系の優位(興奮状態と同じ)をきたし、その支配領域のバランスをくずすおそれがある。

のみならず、本件では、原告孝典の虫垂間膜根部にキシロカイン等の局所麻酔剤を注射することは不可能であった。虫垂間膜根部は、手術開口部からみて一杯に詰った小腸をかき分けた深部にあり、虫垂先端は腹腔背側部(ちょうど箱の底にあたる)に癒着しているのであるから、注射すべき盲腸から虫垂移行部(虫垂間膜根部にあたる)も底部にあたり、この部分は指一、二本でさぐり当てねば判別できない。ここに局所麻酔剤を注射するには、視覚で注射針刺入部位を確認のうえその部位を固定せざるをえないから、虫垂根部を牽引し、小腸の間から手術口部へ引出して露出し、虫垂間膜を広げる操作は不可欠である。本件では、虫垂を切除しようとして、その根部を鉗子で挟み、腹腔外へ牽引しようとした時、原告孝典は悪感を訴えたのであるが、仮に迷走神経反射防御のため局所麻酔剤注射をしようとしたとしても、虫垂根部を鉗子で挟み、牽引する操作は不可欠であるから本件事故の発生は避けられなかった。

(八) 前記被告の主張1のとおり被告鳥本は本件手術開始後吉村看護婦に原告孝典の脈搏を常時診させ、山内婦長に原告孝典の顔面等頭部の監視にあたらせており、本件手術の間十分な管理をしたのであるが、原告孝典のショック症状があまりに短時間のうちに進行し、それ以前に容態の急変を予測しうる徴候が全くなかったので、これを避けることができなかった。

(九) (救急措置の不十分について)

(1) 被告鳥本が原告孝典の異常事態に対し、その原因として最初に考えたのはペルカミンSによる薬物ショックであった。

しかし、ショックの原因が薬物ショックであれ、迷走神経反射であれ、ショック状態は同じであり、これに対する救急措置の内容には差がない。

即ち、ショック状態に対する救急措置は気道を確保しての酸素送入、人工呼吸であり、血管を確保しての副腎皮質ホルモン剤、昇圧剤、循環血液量確保維持のための輸液の注入であり、心臓マッサージ、心臓内注射である。被告鳥本、被告福田らの行った前記被告の主張1(五)ないし(六)の救急措置は右基準からみて不適切な点はない。

(2) 原告孝典は気管支痙攣の状態に陥り気管支以下の部分が攣縮して気管内挿管によっても酸素の供給ができない状態になったのであるから、山口医師が到着するまでの間被告鳥本が挿管の措置をとらなかったことについて落度はないというべきである。

第三  証拠(省略)

理由

一1  請求原因1(当事者)、同2(一)の事実のうち、原告孝典が昭和四九年九月二五日午前〇時三〇分ころ腹痛と発熱を訴えて救急自動車で被告病院に運ばれ、そこで同病院当直医水野医師に緊急診察を受けたこと、水野医師は経過観察のうえ加療を要するとの診断をなしたこと、そのころ原告らと被告病院との間で原告孝典の病状に関し、医療契約(その内容には争いがある。)が締結されたことは当事者間に争いがない。

原告邦一の本人尋問の結果(第一、二回)によれば水野医師は原告孝典を診察した際、原告邦一に対し「九〇%は風邪だがあと一〇%が分らない。今晩入院させ朝一番に精密検査をしてあげよう。」と述べたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

ところで、水野医師が原告邦一に対し約束した右「精密検査」の意味をめぐって当事者間に争いがあるが、成立に争いのない乙第一号証の一九、二〇、原告邦一(第一、二回)、原告千重子、被告福田(第三回)の各本人尋問の結果によれば、原告孝典は同月二四日他医院で風邪と診断されて帰宅後三度にわたり腹痛を訴え、三度目には唇が紫色になったため被告病院に運ばれたこと、右経過は原告邦一から水野医師に伝えられていること、水野医師は原告孝典の病状について急性上気道炎、急性腸間膜リンパ腺炎、虫垂炎(疑い)との診断をなし、原告孝典の腹痛の原因としては腸間膜リンパ腺炎のほか虫垂炎の可能性も考えたことが認められる。

以上の事実に基づき考察すると、右「精密検査」とは原告孝典の腹痛の原因を究明する目的でなされる検査のことであり、それ以外の目的のための検査でないことが明らかである。

従って、原告孝典が入院した際に原告らと被告病院との間で締結された医療契約の内容は、翌朝原告孝典の腹痛の原因を究明するための精密検査をなしその結果判明した病状につき治療をなすことであると解するのが相当である。

2  請求原因2(二)の事実のうち、午後四時頃被告鳥本が原告孝典を診察し、原告千重子に対し本件手術を勧告したこと、その頃原告孝典と被告病院との間で本件手術及びこれに附帯する処置を目的とする医療契約が締結されたことは当事者間に争いがない。

(原告邦一、原告千重子と被告病院との間の医療契約の成立について)

原告邦一(第一、二回)、原告千重子、被告鳥本(第一回)の各本人尋問の結果によれば、原告邦一、原告千重子は、被告鳥本から本件手術の勧告を受け、被告病院に対し同意したことが認められるが、右同意の趣旨は原告孝典と被告病院との間の医療契約の締結につき原告孝典の親権者として同人を代理してなしたものと解するのが相当であり(原告邦一、原告千重子と被告病院との間の医療契約締結の意思表示と解すべきではない。)、他に原告邦一、原告千重子と被告病院との間の医療契約締結の事実を認めるに足りる証拠はない。

(原告らと被告福田、被告鳥本との間の医療契約の成立について)

一般に病院に勤務する医師が手術を患者に勧告し、患者側でそれに同意する場合、手術についての医療契約は右医師の使用者である病院と患者との間で成立し、特に明示的に病院とは別個の医療契約を締結しない限り、医師は病院の被用者ないし履行補助者として手術を施行するにとどまるというべきである。

本件においては原告らと被告福田、被告鳥本との間で被告病院とは別に特に明示的に医療契約を締結したことを認めるに足りる証拠はなく、原告らと被告福田、被告鳥本との間に契約関係は認められないというべきである。

二  原告孝典の症状及び診療の経過

請求原因3(一)(本件手術の施行、原告孝典の脳機能低下症の発症)は当事者間に争いがない。右争いのない事実に前掲乙第一号証の一九、二〇、成立に争いのない乙第一号証の一、二、九、一〇、一四、一六、二一、乙第二号証の一ないし九、乙第四号証の一ないし四、乙第五号証、証人落合弘光、同山内慶子の各証言、被告鳥本(第一、二回)、被告福田(第一ないし三回)の各本人尋問の結果に弁論の全趣旨を総合すれば、原告孝典の症状の変化及び診療の経過、被告らの処置は次のとおり認められ、この認定を覆えすに足りる証拠はない。

1  落合医師は午前九時三〇分ころ、看護婦を通じて原告孝典の入院時の診療録(乙第一号証の一〇、一九、二〇)の引き継ぎを受けた。落合医師は右診療録を見て緊急に診察する必要はないと判断し、外来診察が一段落した午前一〇時三〇分ころ、原告孝典をその病室において診察した。原告孝典は咽頭部が多少発赤しており、急性上気道炎と認められ、回盲部に軽度圧痛があったが腹部に自発痛はなく虫垂炎を疑わせる筋性防禦の所見もほとんどなかった。そこで落合医師は更に経過を観察することとしたが、その際、同医師は当直医水野医師が診療録(乙第一号証の一〇)に記載したリンコシン(抗生物質)三〇〇mgの筋肉注射の指示は経過観察上虫垂炎の症状を見落す原因となることがあると考え、その記載を抹消した。

なお、落合医師が午前一〇時三〇分ころ原告孝典を診察したという右認定事実については、反証として、右診断結果の記載が欠落した診療録(乙第一号証の一〇)及び原告千重子の本人尋問の結果中の同人は午前中病室をあけずに原告孝典に付添っていたが落合医師が診察に来たことはないとの供述部分がある。

これに対し、証人落合弘光は、診察録に診断結果の記載が欠落しているのは、同医師が当時外来の診察中で、原告孝典の診察後は病室から診察室に戻らねばならず急いでいたため記載しなかったからであると証言し、さらに同証人は経過観察上抗生物質の投与は虫垂炎の症状を見落とす原因となることがあるので右診察録に記載されたリンコシン三〇〇mgの筋肉注射の指示部分を抹消したと証言しているが、右証言は乙第一号証の一〇によれば、右診療録中には右証言に符合する抹消部分の存在が認められること及び、同証人の証言する右記載の抹消の理由が合理的で首肯し得るものであることに照らして措信できるというべきである。

そして原告千重子の前記供述については、証人落合が診察時にはその場に原告孝典以外に家族の人はいなかったと証言していることに加え一般に附添人が所用で一時患者から離れることも全くないとは言えないことからすれば原告千重子が附添を離れた間に落合医師が診察した可能性を否定し得ず、その限りにおいて右原告千重子の供述は採用できない。

2  午後二時三〇分、落合医師は原告孝典が発熱し、腹痛を訴えているとの報告を受けて同人を診察したところ、体温は三七度三分で回盲部に圧痛があり疼痛が回盲部に限局し、筋性防禦が認められたので同医師は虫垂炎を疑い、白血球数の検査を命じた。検査の結果は正常値を超える一万一三〇〇個であったので同医師は虫垂炎と確信し、手術の必要ありと判断し、被告鳥本に連絡し手術の適否の判断を要請した。

3  被告鳥本は落合医師から連絡を受けて午後三時四〇分ころ同医師に会い原告孝典の症状について説明を受けた後診察したところ、腹部に自発痛があり、マクバーネー点に圧痛とかなり強い筋性防禦及びブルンベルグ徴候が認められ、腹部全体に熱感があったため、化膿性ないし壊阻性の虫垂炎と診断し、本件手術が必要であると判断した。

そこで被告鳥本は附添っていた原告千重子に対し本件手術を勧告したところ、同人は夫と相談の上返事すると答えたので被告鳥本は右返事を待つこととし、被告福田に電話で原告孝典の症状と本件手術を行う旨報告しその指示を仰いだところ、被告福田はいつものようにやっておいてくれと述べた。

なお、原告千重子は本人尋問において被告鳥本は「盲腸炎だからすぐ手術しなければ危い。」と述べたと供述するが、右供述は、被告鳥本の本人尋問の結果(第一回)に照らして採用できない。

4  原告孝典は同日午後四時二五分手術室に入室した。被告鳥本は本件手術に際し、介助者として看護婦三名と連絡係として看護補助者一名を配した。被告鳥本は原告孝典を手術台に寝かせ再度診察した後、偶発症に備えて血管確保の意味で五%オイトリット五〇〇CCの点滴を開始するよう吉村看護婦に指示した。午後四時二八分の原告孝典の血圧は一一二ないし六八、脈搏七八と正常であった。

被告鳥本は原告孝典を手術台の上で右測位にした後、体を海老のように曲げて膝を屈曲して腹に付けるような姿勢をとらせ、枕を頭部にあてて高位にし、次いで穿刺しようとする脊柱部を中心に消毒し、ルンバール針を用いて第三腰椎と第四腰椎の椎間に穿刺を施し、内針(マンドリン)を抜いて透明な脊髄液が流出するのを確認したうえ〇・三%のペルカミンSを入れた注射筒をルンバール針に接続して同剤一・二CCを約五秒かけて注入した。その後被告鳥本は髄液腔内で薬液を限局させるため約一分間原告孝典を右側臥位の状態にとどめ、原告孝典が足にしびれ感がある旨告げた後、ルンバール針で同人の大腿のあたりを軽く突いて左右の下肢の痛みの状況を比較したところ、左下肢にのみ痛みがあることを確認したので同人を仰臥位にさせた。

被告鳥本は再度ルンバール針で軽く突いて痛みの範囲を確認したうえ、手術台を原告孝典の頭側に一〇度下方に傾けて、トレンデレンブルグ体位にし、約三〇秒間して手術台を水平位に戻した。体位変換後の午後四時三五分、原告孝典の血圧は一二四ないし七〇、脈搏八四で何ら異常はなかった。

次いで被告鳥本は原告孝典の腹部を消毒した後、コンプレッセンで覆い、その上から未使用のルンバール針で腹部を突いて麻酔高を確認したところ剣状突起の下、二、三センチメートルから頭側で痛みの応答があったので麻酔範囲は適正と認めた。

5  被告鳥本は本件手術を行うにあたり吉村看護婦に対し、術中常時原告孝典の脈搏をとり五分毎に血圧を測定し報告するように指示し、山内婦長に対しては原告孝典の顔面等の監視にあたるように指示した。

以上の処置を終えて午後四時四〇分、被告鳥本は原告孝典の開腹に着手した。午後四時四〇分の血圧は一二二ないし七二、脈搏は七八で正常であった。

被告鳥本はマクバーネーの切開方法により開腹し、腹膜を切開すると、中等量の腹水と手術野に大網が降りてきているのが認められた。被告鳥本は大網を頭側に押しやった後、両手にピンセットをもって盲腸より虫垂根部を求め、更に先端に向かってたぐっていったが、先端は後腹膜に癒着して遊離不能であった。そのため被告鳥本は虫垂の根部を切断した後、虫垂間膜の処置をする逆行性の切除方法をとることとし、ペアン鉗子で虫垂根部を挟み、腹膜のあたりまで牽引したが、その時(午後四時四四、五分ころ)、急に原告孝典が「気持が悪い。」と悪心を訴え、それとほぼ同時に脈搏をとっていた吉村看護婦が脈が遅く弱くなった旨を報告した。被告鳥本は直ちにペアン鉗子を離し、「どうした、ぼくどうした。」と原告孝典に対し声をかけたが返答はなく、顔色は蒼白で、唇にはチアノーゼが認められ、呼吸はやや浅い状態で意識はなかった。吉村看護婦に血圧値の報告を求めたところ、最高血圧五〇との報告があった。午後四時四五分ころ、被告鳥本は直ちに手術を中止した。

6  手術中止後、被告鳥本は虫垂根部を挟んだままペアン鉗子の先を腹腔内に入れて虫垂間膜を元の位置に戻したうえ、池野看護婦に対し傷口をガーゼで保護するように指示し、原告孝典の頭側へ回り自ら手術台を操作して原告孝典をトレンデレンブルグ体位に変え、看護補助者の沢地を大声で呼び、被告福田と山口医師に対し患者の容態が急変したのですぐ来て欲しいと電話で連絡するように指示した。

被告鳥本は原告孝典をトレンデレンブルグ体位にした後、気道を確保して左手で顔面に酸素マスクをあて、酸素が毎分四<省略>の割合で流れるように調節したうえ右手でバグを握縮加圧して原告孝典の自発呼吸に合せて気管内に酸素を圧入したが、しだいにバグの加圧に抵抗が生じ酸素の入りが悪くなった。被告鳥本は右操作を行いながら吉村看護婦に指示して昇圧剤メキサン一アンプルを点滴についている三方活栓から急速に静注させ、山内婦長に指示してカルジオスコープの電極をセットさせ、心電図のモニターを開始させた。モニターの波形はかなり不規則で心室性の期外収縮がみられ、低電位であったが、心室細動はみられなかった。

原告孝典は暫時自発呼吸がなくなっていった。

7  被告福田は院長室にいたが、沢地から電話連絡を受けて直ちに手術室に駆けつけた。

原告孝典に異常事態が発生してから被告福田が手術室に到着するまでに要した時間は、前記6認定のとおり被告鳥本は異常事態発生後、直ちに被告福田に電話通報を指示していること、被告福田本人尋問(第一回)の結果によれば院長室と手術室は同じ階にありその距離は約三〇メートルであり、二〇秒から二〇数秒で駆けつけることが可能であると認められることからすれば約一分前後であると推認することができる。(原告らは被告福田が入室するまで六、七分かかっていると主張するが右事実を認めるに足りる証拠はない。)

被告福田が到着した時点では自発呼吸はほとんどなくモニターの波形は不規則で低電位であり、心室細動に移行する前段階の状態を示していた。

なお、原告邦一の本人尋問の結果(第二回)及びこれにより真正に成立したものと認められる甲第七号証によれば、本件事故後、原告邦一、原告千重子が被告福田及び被告鳥本に対し事故の説明を求めたところ、被告福田は原告らに対し、手術室に駆けつけた時は既にモニターの波形は平坦になっていたと述べた事実が認められるが、被告福田(第二、第三回)、被告鳥本(第二回)の各本人尋問の結果によれば、右発言は新聞記者同席のもとで原告らから詰問的に説明を求められて冷静さを欠き、原告孝典のショック状態がいかに急激に起きたものであるかということを示すため、誇張した表現で述べられたものであることが窺われ、必ずしも正確に事実を表現したものとは認められないと言うべきである。

被告福田は被告鳥本から状況の報告を受けた後、吉村看護婦に対し副腎皮質ホルモン剤ソルコーテフ一〇〇mgの静脈急注とノルアドレナリン一アンプルの点滴液内の混注をそれぞれ指示し、自らは経胸壁心臓マッサージ(以下心マッサージという。)を実施した。被告福田が到着してから約一分後には山口医師も到着して緊急処置に加わった。

それまで酸素の送入にあたってきた被告鳥本が山口医師に対し、バグの加圧に抵抗があることを説明すると、同医師は気管内チューブの気管内挿管を提案し、自らそれを実施し、以後山口医師が被告鳥本に代って呼吸管理を担当することになった。被告鳥本は山口医師到着後は被告福田と交代して心マッサージを施行し、時々心臓の本来の波形を知るため手を休めてモニターの波形を観察していたが、山口医師が気管内挿管に成功して間もなくしてモニターの波形は直線となり心停止状態を示した。

なお、原告孝典が心停止状態に陥った時刻は前記の経過並びに被告福田(第一回)、被告鳥本(第一回)の各本人尋問の結果によれば、午後四時四七、八分であると推認される。

8  一方山口医師は挿管後もバグの加圧に抵抗があったので気管内の分泌物で気管が詰まったためと思いチューブで分泌物の吸引をしたが分泌物はあまり認められなかった。そしてその後もやはりバグの加圧に抵抗があったのでチューブに口をつけてマウスツーマウスで自らの呼気を肺に送入し、以後バグによる加圧とマウスツーマウスを交互に施行したが、相変らず換気抵抗が強く十分に送気できなかった。

9  被告福田は原告孝典が心停止に陥ると被告鳥本と交代して心マッサージを行ったが、その際、直接心臓腔内にノルアドレナリン一アンプルを注射した。また、被告福田は山口医師が酸素の送入に苦労しているのを見て聴診器で原告孝典の肺を聴診したところ喘息様の音が聴かれたので気管支痙攣による音と判断し、気管支拡張のため、吉村看護婦にボスミン二分の一アンプルの右上膊部筋注を指示した。

なお、気管支痙攣の発生時期については、前記6ないし9の認定のとおり、被告鳥本はバグの加圧による酸素の送入を開始してしばらくしたバグの加圧に抵抗を感じていること、気管内挿管後も抵抗は続き、山口医師が気管内の分泌物を吸引しても抵抗はなくならなかったこと、その後の被告福田の聴診では原告孝典の肺部に喘息様の音が聴かれたこと及び証人弥政洋太郎の証言、被告福田(第一回ないし第三回)、被告鳥本(第一、二回)の各本人尋問の結果によれば、気管支痙攣が起きた場合、気管支以下が攣縮し、その内腔が狭くなるため気管内挿管をしても肺への酸素の送入が困難になることが認められること、以上の事実を総合すれば、原告孝典は酸素吸入開始後しばらくして気管支痙攣に陥ったものと推認することができる。

原告孝典は午後四時五五分少し前にようやく心搏動が戻り、間もなく自発呼吸も徐々に回復した。午後四時五五分、原告孝典の血圧は九〇ないし五八、脈搏は一二〇であった。以後、血圧、脈搏とも安定したが、原告孝典の意識は依然としてなかった。

10  原告孝典の状態が安定した午後五時二〇分、被告鳥本は原告孝典の虫垂摘出手術を再開し、虫垂を逆行性に切除したところ、虫垂は先端が根部の倍くらいの太さに腫れており、色は赤黒く、先端付近に膿苔が付着して化膿性虫垂炎の像を呈していた。手術は五時四二分に終了した。

11  現在原告孝典は頭部を支えられた状態のもとで首を回すことができるだけで、発作的にうなり声、泣き声を発し、発語は一切なく、小便は失禁状態、大便は浣腸のみで排便し、固型物の摂取は不可能であり、半流動物を長時間かけて口の中に運んでやらねばならない状態で、将来にわたり右状態は継続する見込みである。

三  原告孝典の脳機能低下症の発生原因

1  原告孝典の脳機能低下症が脳への酸素供給が不足して発症したものであることは当事者間に争いがなく、右事実に前記二5ないし9認定事実及び証人弥政洋太郎の証言、被告福田の本人尋問の結果(第二、三回)、鑑定の結果を総合すれば、原告孝典は本件手術中虫垂根部をペアン鉗子で挟まれて牽引された直後から約一〇分間にわたり心機能及び呼吸機能が低下し、そのうちの七、八分間は心停止、呼吸停止の状態となり、その間心マッサージの継続によりある程度の血液の循環は確保されたものの、酸素吸入後しばらくして発生した気管支痙攣により換気が不全となり、血液の循環の緩慢化とあいまって同人の脳に供給される酸素の量が減少した結果、低酸素症による脳機能低下症が発症したものと認めることができる。

2  成立に争いのない甲第三、第四号証、証人百瀬隆、同弥政洋太郎の各証言、被告福田(第一、三回)、被告鳥本(第一回)の各本人尋問の結果、鑑定の結果を総合すれば、

(一)  (迷走神経反射)

迷走神経反射は腹膜刺激、腸管牽引などの手術操作により迷走神経に加えられた刺激により、反射機構が賦活されたために起こるもので、この場合、徐脈、血圧下降が突然的に起きる。そして呼吸停止、意識障害は血圧下降に附随して起こる二次的現象ということができる。

即ち、血圧下降が高度になれば脳血流が減少し、意識水準の低下を来すが、脳幹部の循環不全により呼吸中枢や血管運動中枢が機能不全となり更に悪循環が始まる。又麻痺高が第六胸椎以上に及ぶと副交感神経優位のため気管支痙攣発生の可能性もあり、気管支痙攣は換気を困難にし、これによって低酸素症が助長され、同反射をさらに増強させ悪循環となる。症状が激しいと心停止、脳死に至ることもある。

(二)  (ペルカミンSによるアナフィラキシーショック)

局所麻酔剤による過敏反応に陥った場合、全身のび慢性発赤や蕁麻疹様発疹、掻痒感、顔面と眼瞼浮腫、声門浮腫、気管支痙攣、呼吸困難、チアノーゼ、血圧低下、徐脈となり治療に反応しない時は心停止に至るとされている。この過敏反応の起こる明確な機序は不明であるが、気管支喘息、アレルギー疾患が患者自身あるいは家族に存在しているときはかかる反応を起こす可能性が高い。

ペルカミンS(ジブカイン)の腰麻によるアナフィラキシーショックは一般に極めて稀である。その事例においては症状の発現時期は薬液注入後一〇~三五分で、初発症状は全身発赤、掻痒感と喘息発作であり、心停止に至るまでの時間は約一〇分と短い。

との各医学的知見が認められる。

3  そこで右医学的知見と前記二5ないし9認定の原告孝典の症状とを対照したうえ、鑑定の結果を参酌して以下検討する。

(一)  (迷走神経反射について)

原告孝典が悪心を訴え、血圧が急激に降下したのは被告鳥本が虫垂根部をペアン鉗子で挟んで牽引した直後であることは迷走神経反射を強く疑わせる要因であり、その後気管支痙攣に陥り呼吸停止、心停止に至り、約七、八分後に救急措置により自発呼吸が回復したという一連の症状の経過も前記医学的知見と矛盾するものではなく、また、前掲甲第三号証によれば、第六胸椎まで麻酔剤が及んだ場合、剣状突起のあたりまでが麻酔範囲にあることが認められるところ、前記二4認定のとおり被告鳥本が本件手術前に麻酔範囲を確認したところ剣状突起のやや下まで及んでいたのであるから、麻酔剤は第六胸椎のあたりまで上昇していたものであると認めることができ、気管支痙攣発生の条件が具備していたこと、以上を総合すると原告孝典の急激な血圧低下、自発呼吸の弱化、悪心はいずれも本件手術の際の虫垂根部のペアン鉗子による牽引が刺激となって生じた迷走神経反射に起因する可能性がきわめて高いと認められる。

(二)  (ペルカミンSによるアナフィラキシーショックについて)

本件においては腰麻約一〇分後に急激に血圧降下、徐脈となり、次いで気管支痙攣が起き、更に約五分以内に心停止、呼吸停止に至ったものでその症状の発現が急激であることは前記アナフィラキシーショックの医学的知見に合致するが、一方原告邦一の本人尋問の結果(第一回)によれば、原告孝典は喘息ではないことが認められ、また原告孝典がショック状態に陥った際にペルカミンSによるアナフィラキシーショックの初発症状である全身発赤、掻痒感が生じたことを認めるに足りる証拠がないこと、その後も顔面浮腫等の過敏反応を呈したことを認めるに足りる証拠がないことはいずれもペルカミンSによるアナフィラキシーショックを否定する要因である。

しかしながら、鑑定の結果で引用する参考文献中には右過敏反応を伴わないペルカミンSによるショックの事例が一例(ただし、気管浮腫の症状はある。)報告されており、右事例の患者の症状の経過は本件と類似していることからすれば本件においてアナフィラキシーショックの可能性を全く否定することもできないというべきである。

(三)  従って、原告孝典の本件事故の原因としては、迷走神経反射である可能性が高いもののアナフィラキシーショックの可能性も否定し得ず、結局証拠上いずれであるかは特定できないというべきである。よって、本件事故の発生原因は迷走神経反射かアナフィラキシーショックのいずれかまたは両者が同時に発生したと認定するのが相当である。

4  原告らは本件事故の原因として腰麻ショック、高位麻酔ショックを主張するが、採用できない。

(一)  (腰麻ショックについて)

前掲甲第三、第四号証、証人百瀬隆、同弥政洋太郎の各証言、被告福田(第一回)本人尋問の結果、鑑定の結果を総合すれば、高位麻酔とは別に腰麻に伴って生じる血圧降下が原因となってショック症状を来すことがあることが認められるが、証人百瀬隆、同弥政洋太郎の各証言によれば、この場合血圧降下は徐々に来るものであり、急激に瞬間的には来ないものであることが認められる。本件では前記二5認定のとおり原告孝典は突然に悪心を訴え、徐脈となり血圧が五〇に降下したものであるから腰麻ショックとは認め難い。

(二)  (高位麻酔ショックについて)

(一)の前掲各証拠及び被告鳥本の本人尋問の結果(第一回)によれば、高位麻酔ショックとは腰麻剤が高位(第四胸椎以上)にまで上がりそのため呼吸をつかさどる肋間筋が麻痺し呼吸抑制となってショック状態になるものであることが認められるところ、右の関係証拠に照らして前記二4認定の被告鳥本が腰麻に際してとった処置は妥当であったと認められ、右処置により麻酔剤が高位に及んだ可能性はないこと、被告鳥本は原告孝典の血圧が降下した直後(午後四時四四、五分ころ)に再びトレンデレンブルグの体位にしている(前記二6認定のとおり)が、被告鳥本の本人尋問の結果(第一回)によれば、麻酔剤の薬液が脊髄腔内で流動する時間は五分ないし七分であることが認められ、右措置をとったのは前記二6認定のとおり麻酔剤注入後約一〇分経過してからであり、右措置により高位麻酔になった可能性も少ないこと、また証人百瀬隆の証言によれば高位麻酔により肋間筋が麻痺して呼吸抑制ないし呼吸停止に陥った場合、麻酔が醒めるまで約三〇分ないし一時間呼吸抑制の状態が続くことが認められるところ、本件では前記二9認定のとおり腰麻を行った約一五分後には自発呼吸が回復していること、以上を総合して判断すると、腰麻後ペルカミンSが脊髄内を上昇して高位麻酔になった可能性は否定されるべきであると考えられる。

四  被告の診療行為の当否

1  前記三認定のとおり、原告孝典の脳機能低下症の原因は迷走神経反射ないしペルカミンSによるアナフィラキシーショックまたは両者が同時に発生したことによるものと認められるから、これを惹起させる行為及びこれに対する措置としての医療行為を除くその余の被告鳥本の行為はいずれも右原告孝典の脳機能低下症との間に因果関係を欠くもので注意義務違反を構成しないものである。そうとすると、原告らの請求原因4(四)ないし(六)の各主張はいずれも原告孝典の脳機能低下症が右原因以外の原因(腰麻ショック、高位麻酔ショック)によって惹起されたものであることを前提とする主張であるからその前提において失当というべきである。

2  請求原因4(一)、(二)(検査義務の懈怠)の主張について

請求原因4(一)、(二)の各主張はいずれも本件手術前に原告孝典の本件事故を防止するために十分な診察、検査をなすべきところそれを怠ったというものであるが、注意義務として右検査義務が肯定されるためには前提として本件事故の原因と考えられる迷走神経反射ないしアナフィラキシーショックの発生を事前に予測し得る検査方法が存在することが必要である。(原告らの右各主張においてその検査方法が何であるかは主張自体不明確である。)

以下、本件証拠に照らして右検査方法及び検査義務について検討する。

(一)  (迷走神経反射についての検査方法、検査義務について)

証人弥政洋太郎の証言によれば、心停止、呼吸停止に至る強度の迷走神経反射は稀であること、そして、鑑定の結果によれば、迷走神経反射は患者自身の体質により、また幼児、神経質な人に起こりやすいとされていること、更に証人浅井昭の証言によれば迷走神経反射に対して敏感な体質であるか否かを調べる検査方法として自律神経の検査があるが、術前に体質を完全に診断することは難しく、仮に体質的な過敏性が判明したとしても、手術において迷走神経反射が起きるかどうかは予測が困難であること、一般に右検査は術前に行われていないのが実情であることがそれぞれ認められる。

以上の事実を総合すれば、本件の如き強度の迷走神経反射の発生を検査により事前に予測することは困難であり、虫垂炎摘出手術に際し、注意義務として迷走神経反射発生予知のための検査義務はないというべきである。

(二)  (アナフィラキシーショックについての検査方法、検査義務について)

アナフィラキシーショックについては前記三2(二)認定のとおりその機序は不明であり、証人百瀬隆の証言、鑑定の結果によればその予知の可能性は極めて少ないことが認められる。また、鑑定の結果によれば、アレルギー体質の患者にアナフィラキシーショックが起きている事例が多いことから、問診により患者及び家族のアレルギー疾患の既往歴を調査することが妥当であるが、これで完全に予知できるわけではないこと、使用する薬剤に対する皮膚反応、粘膜塗布反応によりアレルギー反応の有無を検出できることもあるが、これとて確実な検査方法でなく、一般に腰麻の場合、このようなテストが行われていないのが実情であることが認められる。

以上の事実を総合すれば、アナフィラキシーショックの検査に関しては術前に問診をなすのが妥当であるとまでは言えるとしても、注意義務としての検査義務はないというべきである。

(なお、前記認定のとおり原告孝典は喘息ではなく、また、家族内の喘息ないしアレルギー体質の者の存在についてもこれを認めるに足りる証拠はない。)

なお、原告邦一(第一、二回)、原告の千重子の各本人尋問の結果によれば、原告孝典が本件事故の一年半ほど前に髄膜炎で約二週間入院したこと、日頃から虚弱体質であったことが認められ、また本件手術前に原告孝典には急性上気道炎、発熱の症状が認められたことは前記二1ないし3認定のとおりであるが、右原告孝典の既往症及び本件手術前の身体的条件と迷走神経反射ないしアナフィラキシーショックとの間の因果関係を認めるに足りる証拠はなく、従って本件において検査義務の有無を判断するにあたり、右既往症、身体的条件は考慮する必要はないというべきである。

(三)  以上によれば、本件手術に際し、迷走神経反射ないしペルカミンSによるアナフィラキシーショックの発生了知のために検査をなすべき義務はなく請求原因4(一)、(二)はいずれも理由がない。

なお、原告らは請求原因4(一)において被告病院が二五日朝原告孝典に対し、精密検査をしなかったと主張するが、前記一1認定のとおり第一次医療契約の内容は原告孝典の腹痛の原因の究明のため九月二五日朝精密検査をしてその結果判明する病状について治療をなすことであり、右精密検査の範囲は腹痛の原因究明という目的により限定されたものであるが、前記二1認定のとおり、午前一〇時三〇分ころ、落合医師は原告孝典を診察、検査しており、その医療措置に不適切な点を認めるに足りる証拠はなく、右精密検査の目的は達しているというべきである。

3  請求原因4(三)(腰麻選択の誤り)の主張について

前掲甲第三、第四号証、証人百瀬隆の証言、被告福田(第一回)、被告鳥本(第一回)の各本人尋問の結果によれば、腰麻は患者を側臥位にしてルンバール針を腰椎間に穿刺して行うものであるが、その際に患者が暴れると針が折れたり、脊髄を損傷する危険性があることから、ききわけのない乳幼児に対しては事実上行われないこと、小児であってもききわけさえよければ五、六歳から腰麻の方法がとられることが認められる。

原告孝典は当時七歳であり、前記二4認定のとおり一回で腰椎穿刺に成功したのであるから被告鳥本の処置に何ら問題はない。

また、上気道炎を併発している時は全麻の方法によるべきであるという主張についても、証人百瀬隆、同弥政洋太郎の各証言、被告鳥本の本人尋問の結果(第一回)によれば、上気道炎があるときに全麻の方法によると麻酔剤のガスによる刺激を受け、右症状が悪化するおそれがあること、又全麻は気管に挿管して行うため、菌が下方に拡散して肺炎を起こす可能性があること、その他気門浮腫、無気肺等の合併症も考えられることから上気道炎がある場合、全麻は禁忌とされていることが認められる。

前記二2認定のとおり、原告孝典は本件手術当時、上気道炎の症状があったのであるから、腰麻の方法をとった被告鳥本の選択に何ら問題はない。

4  請求原因4(七)(手術方法の誤り)の主張について

成立に争いのない甲第五号証、証人弥政洋太郎の証言、被告鳥本の各本人尋問(第一回)の結果を総合すれば、虫垂摘出手術において虫垂の先端が後腹膜に癒着している場合、虫垂の根部を切断してから虫垂間膜の処理を行う逆行性の虫垂切除術がとられるが、その際、虫垂の根部を視野におさめることができる程度にまで引き上げる操作が必要であること、その際に患者の血圧が一時的に少し下がったり、悪心を訴えることがよくあり、それは迷走神経反射に起因すると考えられていること、その防止のため、虫垂間膜根部に局所麻酔剤を注射し、浸潤麻酔することにより迷走神経をブロックする方法があることが認められる。

ところで、手術前に迷走神経反射が起こるか否か、これが起こる場合その程度を検査により予見することは困難であること、心停止に至るような強度の迷走神経反射は稀であることは前記2(一)認定のとおりであり、証人弥政洋太郎の証言によれば前記の浸潤麻酔により迷走神経をブロックする方法は一般にはあまり行われていないこと、仮に迷走神経反射により心停止に至っても通常は適切な救急措置で蘇生できることが認められ、以上の事実を前提に考えると、逆行性に虫垂を切除する場合、迷走神経反射によって心停止に至る最悪の事態をも想定して局所麻酔剤による浸潤麻酔を予め施す注意義務まではないと解するのが相当である。

のみならず、証人弥政洋太郎の証言及び被告福田(第一回)、被告鳥本(第一回)の各本人尋問の結果によれば、虫垂間膜の根部に局所麻酔剤を注射する場合、虫垂間膜を視野に入れてその位置関係を確認する必要があること、そのためには虫垂根部を右位置関係を確認することができる程度にまで牽引する操作が不可欠であること(被告鳥本の本人尋問の結果(第一回)によれば、牽引しないで注射を行うことは、注射針により、腸管を穿刺する危険性があることが認められる。)が認められる。

本件では前記二5認定のとおり、虫垂根部を牽引したのは腹膜のあたりまでであり、証人弥政洋太郎の証言、被告鳥本の本人尋問の結果(第一回)によれば浸潤麻酔のためになす牽引の程度とそれほどの違いはないことが認められる。

以上によれば、仮に本件において浸潤麻酔を施したとしてもその際の虫垂根部を牽引する操作により同様の迷走神経反射が生じたであろうことが推認でき、結局浸潤麻酔の方法によっても、本件事故は避け得なかったものと認められる。

5  請求原因4(八)(術中の管理不十分)の主張について

被告鳥本は本件手術に先立って吉村看護婦に対し術中常時脈をとり五分毎に血圧を測って報告するように指示し、山内婦長に対しては原告孝典の顔面等頭部の監視にあたるように指示したことは前記二5認定のとおりであり、証人山内慶子の証言によれば両者とも右指示を実行していたことが認められる。

以上によれば、被告鳥本、看護婦らは術中十分に管理をなしていたものであるが、前記二5認定のとおり原告孝典の容態が急変したためその発生を予測し得なかったものであり注意義務違反はない。

6  請求原因4(九)(救急措置の不完全)の主張について

(一)  (他の医師の応援を求める義務の懈怠)

前記二6認定のとおり、被告鳥本は原告孝典に血圧降下等がみられると直ちに被告福田、山口医師に応援を求め、被告福田は約一分後には駆けつけたのであるから、被告鳥本に注意義務違反はない。

(二)  (心マッサージの不実施)

被告福田が手術室に到着するまでの間、被告鳥本が心マッサージをしなかったことは前記二67認定のとおりであるが、被告鳥本の本人尋問の結果(第一回)によれば心マッサージをしなかったのは被告福田が駆けつけるまでの間、低電位ながらまだ多少心機能があったので、まず酸素送入をなし、静注した昇圧剤メキサンの効果を待とうとしたことによるものであることが認められる。

前掲甲第四号証、証人百瀬隆、同弥政洋太郎の各証言、被告福田本人尋問の結果(第一回)、鑑定の結果によれば、ショック状態に患者が陥った際の救急措置の基本は気道の確保、人工呼吸、心マッサージであり、その三つを併行して行うことが望ましいことが認められるが、本件では右のとおり心機能が多少あったこと、心マッサージをしなかった時間は被告福田が駆けつけるまでの約一分間にすぎないことからすれば、被告鳥本においてなした右処置は医師の裁量の範囲内であり、注意義務違反を咎むべき懈怠があったとはいえない。

(三)  (挿管義務の懈怠について)

前記二6ないし9認定のとおり原告孝典は血圧が低下してからしばらくして気管支痙攣の状態に陥り、被告鳥本は山口医師が到着して挿管するまでの間(約二分近く)、バグの加圧による酸素送入に終始していたものであるが、同認定のとおり、気管支痙攣に陥った場合、気管内挿管をなして人工呼吸を行っても気管支以下に送気することは困難であるから、仮に被告鳥本において気管支痙攣発生後直ちに挿管をなし人工呼吸を行ったとしても、本件結果は避け得なかったものと推認される。従って原告主張の注意義務と結果発生との間に因果関係はないというべきであり、右主張は理由がない。

六  結論

以上判示のとおりであって被告病院、被告鳥本の医療行為には何らの注意義務違反も認めることはできないからその余の事実について判断するまでもなく、原告らの本訴請求はいずれも理由がない。よってこれらを失当として棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

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