名古屋地方裁判所 昭和54年(ヨ)333号 決定 1979年7月19日
申請人 吉田昂弘
被申請人 丸紅株式会社
主文
一 本件申請を却下する。
二 申請費用は申請人の負担とする。
理由
一 申請人の本件申請の趣旨及び理由は別紙(一)のとおりであり、被申請人の申請の趣旨に対する答弁及び主張は別紙(二)のとおりである。
二 よつて検討するに、疎明資料によれば以下の事実を認めることができる。
1 被申請人は、全国各地及び海外に多数の支店、営業所を有する日本の代表的な総合商社であり、申請人は昭和三七年三月大分大学経済学部経済学科を卒業して、同年四月一日、本社採用のいわゆる幹部候補社員として被申請人に雇用されたものである。被申請人の就業規則によれば、幹部社員(資格区分上、管理職と一般職に分れる)の職種は特定職種の事務を除く一般的事務であつて特に限定されておらず、その勤務場所は被申請人の総合商社という性格上全店(全世界)にわたるとされている。
2 申請人は、同年五月一日、被申請人名古屋支社に配属され、同支社機械金属受渡課を振出しに同支社において主として建設工事関係の営業部門の仕事に従事し、昭和四五年一〇月以降同五三年三月三一日までの間は名古屋開発建設部に所属していた。
ところが、同年四月一日、申請人は勤務成績不良を理由に名古屋支社人事厚生部付への配転を命じられ(以下「別件配転命令」という)、異議をとどめてこれに応じた。右部署は、仕事に対する適性や能力及び健康上の理由等により、当面担当職務を決し難い従業員を配置しておくために設けられたポストであり、定められた職務はなく、多くの場合その適当な職務が決定されるまでの間の一時的な待命場所としての役割を果たしていた。申請人に対しても、被申請人は別件配転を命令するにあたり、簿記会計の勉強をするよう指示したのみであつた。昭和五三年度においては、名古屋支社における人事厚生部付従業員は申請人一名であつたが、他に東京支店(通常「東京本社」と称する、以下「東京本社」という)、大阪本店などにも右部署があり、被申請人会社全体では約三〇名を数えた。
申請人は、別件配転命令は申請人の組合活動及び思想信条を理由になされた不当なものであり、また、少なくとも昭和四七年以降、右と同一の理由によつて同期同学歴の者に比し年間約二〇〇万円の賃金差別を受けているとして、同年八月八日、名古屋地方裁判所へ被申請人を被告とし、別件配転命令の無効確認及び差別賃金相当額の損害賠償を求めて訴を提起した(同裁判所昭和五三年(ワ)第一九七四号、以下「別件訴訟」という)。
3 右のとおり人事厚生部付は臨時的なポストであるので、被申請人では同部付各従業員の適性を考慮して就労可能な者からその配転先の発見に努めていたが、申請人に対しても別件配転命令直後から直属の上司である同部部長補佐申請外松田清がたびたび希望職種、職務場所について打診し、昭和五四年一月一一日には東京本社人事厚生部企画課長申請外金田怜が申請人に面接して新配転先の希望を徴した。これに対し、申請人は別件配転直前の職場である名古屋開発建設部への復帰を希望した。そして名古屋以外への異動の場合は昇給又は昇格が前提である旨の口振りを示した。
申請外金田らは、申請人の右希望をもとにその配転を検討していたが、名古屋開発建設部では採算上新たな人員を受入れる余裕がなく、また申請人在職中の勤務成績が芳しくなかつたことから、旧職場では標準を下廻る評価が固定化しつつある現状を好転させることは望めず、むしろ営業部門でかかる不本意な評価を受けているのであれば、他部門において頑張り、能力の再評価を受けるのが会社にとつても本人の将来にとつても有益であると考えるに至つた。その考えのもとに申請人の受入先発見に努力していたが、名古屋支社の他部門では申請人の受入先がないため、東京、大阪で申請人の希望職種である開発建設部門関連の職場への配転を検討した結果、申請人の名古屋開発建設時代に修得した知識、経験を生かせ、かつ、人事厚生部付になつてから合格した簿記検定試験(二級)の知識を活用しうる職場として東京本社開発建設総括部総務企画課(管理部門)への配転を相当と判断し、関係者の受入同意を得て、社内の定期人事異動に含めその一環として昭和五四年三月二八日、一般職社員の人事異動の決裁権者である人事厚生部長において申請人の右配転を決定した。なお、他の人事厚生部付従業員についても、健康上の障害を有するものを除き、ほぼ新しい配転先を確保することができた。
通常被申請会社では、人事異動を内示する慣行はなかつたが、裁判中であるという特殊事情を考慮し、同日、申請外金田及び松田が申請人に対し右配転命令(以下「本件配転命令」という)を内示し、同月三〇日に正式に辞令が交付される旨伝えた。
4 右内示のなされた二八日は、別件訴訟の第五回口頭弁論期日であつたところ、申請人は右内示をきいて翌二九日、本件配転命令は別件訴訟の妨害を目的とするものである等を理由に人事権の濫用であつて無効であるとして、被申請人を相手方として名古屋地方裁判所に対し、「被申請人は申請人に対し、被申請人東京本社開発建設本部開発建設総括部への配置転換を命ずる旨の業務命令を発令してはならない」旨の仮処分決定を求める申請をした(同裁判所昭和五四年(ヨ)第三一五号)。同裁判所は、これを容れて同月三〇日、被申請人を審尋することなく右仮処分決定(以下「別件仮処分決定」という)をし同日午後一時三〇分申請人代理人に決定正本が送達された。一方同日(金曜日)、申請人は休暇をとつて出社しなかつたため、被申請人は申請人に対し本件配転命令の辞令を交付することができなかつた。
右決定正本は、被申請人に対しては郵便(速達)による送達に付され、翌三一日(土曜日)、被申請人名古屋支社へ郵便官吏が持参したが、受取人不在のため(被申請人は週休二日制で同日は休業しており、警備員の常駐するガレージ入口以外の出入口は閉鎖されていた)、送達未了となり、結局同年四月二日(月曜日)、再度送達に赴いた結果、午後一〇時同支社窓口事務員がこれを受領し、被申請人への送達が完了した(以上送達関係は別件仮処分申請事件中の郵便送達報告書により当裁判所に顕著な事実である)。
これより先、同月一日午後四時三〇分頃、中日新聞の記者が前記松田部長補佐に架電して、別件仮処分決定がなされた旨伝え、会社側の見解を求めたので、右松田は仮処分決定が出ておれば、それに対する今後の措置は弁護士と相談して決めるなどと答えた。そして、右決定がなされたことは翌二日の中日新聞朝刊に掲載され、右松田の談話が被申請人名古屋支社の見解として付記されていた。このように被申請人に対する仮処分決定が発せられたことは予想される状況にあつた。しかし前記のとおり、申請人に対する辞令交付は未了であつたので、右松田は同日午前八時四五分頃出社し右仮処分決定正本が送達されているか否かを調査した。しかしいまだ送達されていなかつたので午前一〇時近くまで待つてみたが、それでもまだ送達されていないことが確認された。そこで右松田は出社していた申請人を人事厚生課応接室に呼び、口頭で本件配転命令を伝え、辞令を交付しようとしたが、申請人は別件仮処分決定が出されていることを理由に、右辞令の受領は保留する旨答えてこれを受取らなかつた。右松田と申請人が右のようなやりとりをしたのが、ほぼ午前一〇時ごろであつた。
5 前記の如く、本件配転命令は、昭和五四年四月の定期人事異動の一環として行なわれたものであり、名古屋支社からは約二〇名の従業員が転出し、うち一般職の転出は申請人を含め七名であつた。申請人を除くその余の異動対象者に対しては、同年三月三〇日、辞令の交付を終えた。
なお、昇給、昇格は別途人事考課、昇格試験の結果によつて行なわれるもので、通常人事異動と関連するものではなく、今回の申請人の配転も昇給、昇格を伴なうものではなかつた。
6 申請人が同居している家族は、妻の申請外吉田純子と七歳と五歳の女児二人であるが、申請外吉田純子も名古屋支社採用にかかる社員資格上担当職(転勤制度はない)と呼ばれる被申請人従業員であり、申請人夫婦はいわゆる共稼ぎであるため、申請人も出勤途上次女を保育園へ送り届けるなどして子女の養育を分担している。
申請外吉田純子は、被申請会社を退職する意思はないので、申請人が東京へ転勤するときは、妻子と別居のやむなきに至る。申請人が家族と別居すれば、規定により別居手当(月額二万五千円ないし四万五千円)が支給され、単身者用の宿泊施設への入居が認められる。なお、申請外吉田純子が退職し申請人の転任に帯同するときは、被申請人は規定により社宅を提供し、同女に再就職の希望があればその斡旋をする用意があり、同年三月二八日、本件配転命令を内示したときにその旨申請人に伝えていた。
ところで、申請人は別件訴訟に関して法廷活動のほか、同訴訟を支援する会の構成員らと共に、法廷外活動(ビラまき、機関紙発行、闘争資金カンパ運動、支援団体との協議等)も活発に行なつており、これら諸活動及び弁護団や支援する会との打合せ等その準備活動のため殆んど連日忙殺されている状態にある。
三 以上の事実に基づき、本件仮処分申請の当否につき判断するに、被申請人は、本件配転命令は事実行為にすぎないからその当否は民事訴訟の対象とならず、本件申請は不適法であると主張する。
右認定事実によれば、申請人は大学卒の幹部候補社員としてその職種を限定されず、勤務場所は全店(全世界)に及ぶという条件のもとに被申請人に入社したものであるが、職種や勤務場所についての限定がないからといつて、これら労働条件が雇用契約の内容になつていなかつたと判断するのは相当でなく、かえつてその職務内容の非限定性、勤務場所の広汎性からみると、大学卒の幹部候補社員にとつては、右各条件は重要な要素というべく、申請人は契約締結の際右各条件を充分理解しこれを承諾して入社したものと認めるのが相当である。すると右職種や勤務場所は、雇用契約の内容をなしていたものというべく、ただその契約における定め方として、右学歴にふさわしい処遇を受けることを期待して右労働条件については具体的に定めることをせず使用者たる被申請人に包括的な決定権を委ねたものというべきである。すると被申請人は契約の本旨に従い、業務上の必要性に応じて申請人の職種、勤務場所を個別的同意なしに決定、変更しうる権限を有すると認められる。そしてその権限行使は正当な範囲に止むべきで濫用してはならないことは当然である。本件配転命令も、かかる被申請人の変更権の行使に他ならないところ、右権利行使は前記の如く労働条件の重要な部分の変更をもたらすものであるから、その法的性質は単なる日常の労務指揮権(事実行為と解される)の範ちゆうにとどまらない。右は雇用契約によつて被申請人に与えられた形成権の行使と解され、それによつて申請人の法的地位に変動を生ずると解されるから、権利濫用にわたるとして紛争を生じた場合などその権限行使の当否は当然民事訴訟の対象となりうると解する。被申請人の右主張は採用できない。
四 申請人は、本件配転命令は別件仮処分決定に違反し無効であると主張する。しかしながら別件仮処分決定は、配転命令の事前差止めを内容とするものであり、被申請人に対し・・・への配転命令を発してはならない旨を命じているものである。しかし右仮処分決定は、いわゆる被申請人の任意の履行に期待する仮処分であり、被申請人の人事権に直接制限を加えるものではないから、被申請人がこれに従わず配転を命じてしまつたときは、その配転命令は、右仮処分決定の効力を受けて無効となるものではなく、別に実体法的な無効事由があるか否かによつてその効力が決せられるべきものである。したがつて本件配転命令が、別件仮処分決定に違反して当然無効となる旨の主張は理由がない。のみならず前記認定事実によれば、本件配転命令の発令時刻と被申請人に対する右決定正本の送達時刻とはほぼ同時刻であつて厳密な先後関係は明らかでなく、したがつて右決定が本件配転命令発令以前に被申請人に告知されたとの疎明はないことに帰する。したがつてこの点からみても本件配転命令は右決定に抵触するものとは認められず、申請人の右主張は失当といわざるをえない。
五 そこで次に、申請人の権利の濫用の主張につき判断する。
先に説示したとおり、被申請人は申請人の職種、勤務場所について包括的な処分権を有しているものであるから、被申請人に大幅な裁量の余地が認められるべきであり、右命令が業務上の必要性や人選の妥当性について相当な理由を備えるものである以上、右配転命令に従うことによつて申請人に著しい不利益、例えばその生活関係を根底から覆す等の特別な事情の存しないかぎり、権利の濫用ということはできない。
1 そこで、本件配転命令の相当性についてみるに、前記認定事実によれば、本件配転命令は申請人を名古屋支社人事厚生部付在籍一年にして同職場から東京本社建設総括部総務企画課への転勤を命ずるものであるが、元来、人事厚生部付は臨時的、変則的な職場であり(右部付への配転命令自体の当否は別件訴訟で争うべき事柄である)、被申請人としては早晩申請人を含め就労可能な同部付従業員の再配転を図らねばならない必要があつたと認められ現に申請人にも右部付から離脱して本来的職場への復帰を望んでいた。別件訴訟は右部付からの離脱を目的としたものということができ、したがつて部付の在籍期間が一年という短期間であることは、本件配転命令の不当性につながるものではない。そして、被申請人が申請人の配転先を探すに際し、申請人の希望する名古屋支社には受入先がないため国内の東京本社に勤務場所を求めたことは無理からぬことというべきであり、被申請人の営業所が全世界に散在していることを考えると、むしろ好意的ともいえる。これに伴なう従来の営業部門から管理部門への職種変更も、前認定の如きマンネリ打開の目的を有するものであり恣意的なものではない。しかもいずれも一般的事務たることに変りなく申請人の学歴、経験からみると管理部門の事務が営業部門に比して処理困難であるとか、特に申請人に負担を課するものとも認められない。しかも営業部門から管理部門への異動であるが同じく建設関係の部門であつて、申請人の従前の業務経験及び簿記の知識を活用しうることにも配慮した配転ということができる。しかも申請人は入社以来一七年間もの長きにわたり名古屋支社に在籍していることにも鑑みれば、人選の妥当性にも問題はない。以上によれば、本件配転命令は相当な理由に基づくものと認められる。
ところで、申請人は本件配転命令は昇格、昇給を伴なわず、被申請人が別件訴訟を妨害する目的で突然なした報復人事であると主張する。なるほど申請人が東京へ転勤すれば、別件訴訟の追行が不便となることは後記のとおりである。
しかし、本件配転命令は相当の理由を有するものであり、前認定のとおり、定期人事異動の一環として行なわれたものであつて、申請人には人事厚生部付への転任直後別件訴訟提起前からたびたび申請外松田清らがその再配転先の希望を打診していたのであるから、何の予兆もなく突然なされたということはできず、また、一般に従業員の配転と昇格、昇給は随伴するものではない。むしろ申請人が入社以来十数年にわたり名古屋支社から動かず、勤務成績も良好でないという配転のための決定事由が、申請人の別件訴訟提起前から存在していた点に鑑みると、本件配転命令までに訴訟が係属したということをもつて、訴訟妨害の配転と推測することは当を得ない。従つて、被申請人が人事異動に藉口し、もつぱら右訴訟妨害の目的で本件配転命令をなしたというには、特段の立証を要するというべきところ、これを認めるに足りる十分な疎明はなく、申請人の右主張は認められない。
2 本件配転命令が、別件仮処分決定に違反しないことについては先に説示したとおりであるが、前記認定事実によれば、昭和五四年四月一日に申請外松田清は中日新聞の記者の取材によつて右決定のなされたことを伝えられ、かつ、翌二日朝の同新聞紙上で右決定が出された旨報道されており、右決定が正式に送達されていなかつたとしても、事実上右決定のあることは予想していたと認められる。
しかし、前記の如くは本件配転命令自体は相当の理由を有するものであるうえ、そもそも右命令の辞令は本来三月三〇日に交付される予定であつたこと、そして被申請人は、特例としてこれを内示したため申請人はこれを知つたこと、しかるに申請人は承知しながら休暇をとつたため、同日の発令ができなかつたこと、右内示により申請人は別件仮処分申請をすることができたものであり、また三〇日に申請人が休んだため発令が遅れ、仮処分が先行する結果となつたこと、三一日に被申請人に対する右命令正本の送達が未了となつたのは、同日が休業日にあたり受取人が不在であつたためであり、特に被申請人に悪意を認め難いこと及び四月二日当日も右松田は一応仮処分決定正本の送達がないことを確認し、そのうえで発令していることなどの事情をも参酌すれば、事実上右松田が別件仮処分決定のなされたことを知りながら本件配転命命を発令したとしても、右一事をもつてしては未だ労使間の信義則に著しく反し権利濫用であると認めるには至らない。
3 さらに、申請人は本件配転命令によつて別件訴訟の追行、これをめぐる組合活動が事実上不可能となり、また、妻子と別居を余儀なくされ生活上甚大な不利益を蒙る旨主張する。
なるほど、申請人が東京に転勤すれば、弁護士との打合せなどの訴訟準備、口頭弁論期日への出廷等別件訴訟追行の便が現在より遙かに悪くなることは容易に想像しうるところである。
しかしながら、当裁判所に顕著な事実によれば、別件訴訟において申請人は六名の訴訟代理人を委任しており、口頭弁論期日はおおむね一・五か月に一回の割合で開廷され、現在までに七回の期日が重ねられていることが認められる。そして主張の段階にあつては、申請人本人としては必ずしも自ら口頭弁論期日に出廷する必要はなく、出廷する場合も、東京―名古屋間の往来に要する時間は比較的短時間であり、約一・五か月に一回の割合の開廷であるから弁護団との事前折衝等の時間を考慮に入れても、年間の訴訟追行に要する時間は有給休暇をとることによつて十分賄いうると考えられるし、そのための交通費、連絡費等の出費の増加も訴訟当事者として受忍できない程のものとは考えられない。仮に申請人の出廷困難のため訴訟追行に支障をきたすときは、民訴法三一条によつて移送の申立をすることも可能であり、被申請人は現段階から右移送に同意の意思を表明している。そして、訴訟追行の不便を理由に転勤命令を拒めるとすれば、申請人は別件訴訟係属中は事実上勤務場所を特定されることになり、かえつて不当な結果を招くというべきである。
なお、申請人のいう別件訴訟をめぐる組合活動とは何を指すか不明であるが、まず申請人が東京へ転任することによつてその組合活動が著しく阻害されることになるとの疎明はない。そして、前記認定事実によれば、申請人は別件訴訟の支援団体の会員と共に連日の如く訴訟外の活動も行なつており、申請人が東京へ赴任すれば少なくとも自ら右活動に携わることが困難となるのは明らかである。しかし、これら正規の訴訟活動外の運動に支障を生ずることまで、訴訟の相手方当事者の正当な権利行使を拒む理由とするのは相当でなく、右の不利益を権利濫用の一事情として考慮することはできない。
さらに、前記認定事実によれば、申請人は東京へ転勤することによつて妻子と別居せざるをえなくなり、子供の養育についても妻の申請外吉田純子一人にその負担がかかることになるなど、二重生活による相当の経済上、精神上の不利益を蒙ることが推測される。しかし、別居するとしても当然のことながら申請外吉田純子の収入には変化がなく、申請人には東京において単身者用の宿泊施設が用意され、別居手当も支給されるというのであるから、別居によつて生活上甚大な不利益が生ずるとは到底認め難く、元来、一般職従業員である申請人には転勤がありうることであり、それによつて共稼ぎ夫婦である申請人ら夫婦が申請外吉田純子が退職しない限り別居せざるをえなくなることは、申請人らにとつて入社の時期に当然予想すべき事態であつたといえるから、これを理由とする申請人の権利濫用の主張は失当である。
4 以上の次第で、申請人の権利濫用の主張は認めるに由なく、他にこれを認めるに足りる疎明もない。
してみると、本件転任命令は有効であり、申請人の本件申請は結局その被保全権利について疎明がないことに帰し、事案の性質上保証をもつて右疎明に代えることも相当でないから、これを却下することとし、申請費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり決定する。
(裁判官 井上孝一 佐藤壽一 島本誠三)
別紙(一)
申請の趣旨
一 被申請人が、申請人に対し昭和五四年四月二日になした昭和五四年四月一日付で東京本社開発建設本部開発建設総括部総務企画課への配置転換を命ずる旨の業務命令の意思表示の効力は仮にこれを停止する。
二 申請費用は被申請人の負担とする。
申請の理由
一 被保全権利
1 本件配転命令は、本件配転命令の発令を禁止する旨の別件仮処分決定(名古屋地裁昭和五四年(ヨ)第三一五号)に背反し、これを無視して強行された人事権の行使であり、すでにこの点において違法、無効たるを免れないものである。
右仮処分決定は昭和五四年三月三〇日発せられた。因みに、申請人は同日決定正本を受領、被申請人への送達手続は同日とられたが、翌三一日同決定正本は被申請人により受領を拒否されたものの、翌々日の四月二日(翌日の四月一日は日曜日で休日)被申請人に送達された。本件配転命令は前同四月二日(月曜日)申請人に対して告知されたものである。本件配転命令が有効に存在する右仮処分決定に反して無効なものであることは明らかである。
2 かりに然らずとするも、被申請人は大商社でありながら、土曜休日であることを利してか不信義にも右仮処分決定正本の受領を拒み、日曜あけの前同四月二日、同日中日新聞朝刊記事及び同記者の被申請人への取材記事(同記事の内「丸紅名古屋支社の話」)によつて明白に知られるとおり、右仮処分決定の発せられたこと及びその内容を当然知つたにかかわらず、同決定を尊重する態度はおろか、同決定になんら意を用いて再考するなどの態度をとることなく、また申請人に対して誠実に交渉しようとの態度をなにひとつ示すことなく、一方的に本件配転命令を告知したものである。かかる人事権の行使は明白に労使関係を支配する信義則に反し、権利濫用として無効たるほかないものである。
3 申請人は一年前名古屋支社建設部から人事厚生部付(名古屋)への配転命令を受け、異議をとどめてこれに応じたものであるが、昨年八月名古屋地裁に対し被申請人を被告として右配転命令の効力を争い、かつ同期同学歴の従業員と比較して大幅な昇給昇格差別(申請人は昭和三七年四月大学卒入社、一般職のまま主事補にも昇格されず、また年間差別賃金約二〇〇万円)が存在するので、この賃金差別撤廃を求めて訴を提起し(同裁判所昭和五三年(ワ)第一九七四号)、同事件は審理継続中である。しかるに被申請人は昭和五四年三月二八日第五回口頭弁論期日終了後、申請人に対し突然業務上の理由及び必要性もないのに右訴訟追行の妨害を目的として、本件配転の内示をおこなつたものである。申請人が内示に続く本件配転命令に応ずるとすれば、右訴訟の追行、これをめぐる組合活動は事実上不可能になることはもちろん、同支社に勤める申請人の妻、学童保育、保育園に通う二児との別居を余儀なくされ、生活上の不利益は甚大であり、これに加えて昇給、昇格なき本件配転命令は報復人事としか評しようのないものであり、いわんや別件仮処分決定を無視して強行されるにおいては、権利の濫用として無効であることを免れないものである。
二 保全の必要性
本件配転命令が及ぼす影響については、本件配転命令の強行発令によつて、一層明白となつた。
即ち、被申請人会社の態度に徴するところ本件配転命令が発令された以上、申請人が、右配転命令が違法無効であつても、これに従わなければ、業務命令違反を理由に懲戒解雇を強行されることは必至であり、これを避けんが為には、本件配転命令に従うことによつて、夫婦別居による生活上の不便どころか、前述の本訴裁判の取組みが著しく困難ないし不可能になることを申請人は甘受せざるを得ない立場に追い込まれること必至であり、かくては申請人が回復し難い損害を蒙ること何人も疑いえないところである。
別紙(二)
申請の趣旨に対する答弁
一 申請人の申請を却下する。
二 申請費用は申請人の負担とする。
被申請人の主張
一 本件申請の趣旨は不適法なものである。
申請人は、本件配転命令の意思表示の効力を仮に停止するとの請求をなしているが、本件配転命令は、いわゆる法律行為としての意思表示ではないのであるから、法律上の争訟を判断する民事訴訟手続において有効無効の判断の対象となるものではない。したがつて、申請人の請求の趣旨の記載方法は誤りであり、到底適法な請求とはいえない。すなわち被申請人(以下「会社」という)と申請人の労働契約(会社は世界的総合商社であり、申請人は大学卒で会社の全国採用に応じた幹部候補社員であつた)においては労働の種類、態様については一般事務(営業含)であり、労働の場所については全店(全世界)なのであるから、本件配転命令は、会社と申請人間の労働契約の範囲内において申請人から被申請人会社に委ねられた範囲内における労働力の一利用行為であり、法律判断の対象外たる事実行為であるといわなければならないのである。したがつて、本件請求は失当である。
二 本件仮処分申請は申請自体失当である。
本件仮処分申請は、いわゆる任意の履行を期待する仮処分であるから直ちに却下されるべきである。すなわち仮処分申請が認容されるには、保全の必要性すなわち、直ちに保全されなければ、回復し難い損害が発生するような場合でなければならないところ、いわゆる任意の履行を期待する仮処分申請は、その命令の履行の強制手段がないのであるから、任意の履行を期待する仮処分命令を出したところで被命令者がその命令に応じなかつた場合には全く無力なものであり、裁判所が保護しようとした目的は達成できないこととなり、保全命令を出す実益は全くない。
三 本件配転命令の合理性
1 申請人は、昭和三七年三月大分大学経済学部経済学科を卒業し、同年四月一日会社との間に労働契約を締結し、同日本社(大阪)人事部付を命ぜられ一カ月の研修を経て、同年五月一日名古屋支社に配属され、同日以降同支社機械金属受渡課、ついで同支社機械部建設機械課、同支社機械第二部建設機械課、同支社建設部建設課、同支社建設部建設第一課を経て昭和四五年一〇月以降昭和五三年三月三一日までは名古屋開発建設部(課はない)にそれぞれ所属し、各々の業務に従事していた。
しかし、その間の申請人の勤務態度の劣悪性のために申請人は昭和五三年四月一日付にて人事厚生部付となり、本件配転がなされるまで、名古屋支社内での受け入れ先を探すための材料とすべく簿記の勉強を継続してきた。
しかして申請人は、人事厚生部付の直接の動機であつたそれまでの申請人の勤務態度を深く反省したのか、人事厚生部付の間努力した甲斐があり、昭和五三年一〇月頃簿記検定(二級)に合格した。そのため会社は、申請人の右努力と、簿記の知識を認め、申請人に再出発の機会を与えるべく、早急にどこか受け入れ先を探すべき努力を開始したのであるが、残念ながら各古屋支社においては申請人の受け入れ先は皆無であつた。そのため会社は、名古屋支社での配転をあきらめ支社外への受け入れ先を求めることとし、申請人にもその意思を確認することとしたのである。
2 会社人事厚生部企画課長金田怜は昭和五四年一月一一日申請人の配転についての希望を聞くべく名古屋支社に赴いた。その際金田の「名古屋にこだわると受入先が限られ、又いまのところ受入れ先もないから申請人の希望する就労も遅くなる」という説明に対し、申請人は「名古屋にこだわると受入れ先が限られ、就労が遅くなり、難しいということは判ります。但し、東京大阪と言われても女房も働いているので困ります。でも主事補に昇格させてくれるか、ある程度昇給を考えてくれるなら女房を辞めさせて勤務してもよい。ただ職種はやはり経験のある開発建設関係を希望します」などと答えたのである。そこで金田は、申請人は必ずしも名古屋支社内にこだわつてはいないとの感触を得たため、その旨被申請人会社に報告したのである。
しかして会社は、申請人が名古屋開発建設部勤務中に修得した知識及び人事厚生部付で修得した簿記、会計の知識を生かせる部門ということで東京あるいは大阪での配属先を検討し始めたのである。
その結果、東京本社開発建設総括部総務企画課がようやく受け入れを承諾したため、被申請人会社は申請人を定期的人事異動の一環として右総務企画課へ配属し、再出発の機会を与えることとしたのである。なお、右総務企画課における申請人が従事するであろう業務は、総務企画課長の指揮の下で左記事項の一部又は全部を担当することである。
記
<1> 開発建設本部営業各部の予算、決算、資金並に経費の総括
<2> 本部内外の事務連絡・調整
<3> 営業分析・調査統計に関する事項
<4> 新事業の企画・推進
3 以上略述した本件配転命令の理由からすれば、本件配転命令は申請人のたつての就労の希望をかなえていること、申請人がこれまで従事してきた業務と密接な関係のある職場への配転であることが明らかであり、まことにやむを得ないものといわなければならない。
四 本件配転命令が別件仮処分決定に違反する、との主張について
1 別件仮処分決定が会社に送達(告知)されたのは、昭和五四年四月二日午前一〇時三〇分であり、一方、本件配転命令が申請人に通知されて発効したのは、同日午前一〇時である。すなわち、本件配転命令は、別件仮処分決定の発効前に発令されたものであるから、本件配転命令について別件仮処分決定違反を論ずる余地は、全く存しないのである。
2 仮に百歩を譲り、本件配転命令が何らかの理由によつて、別件仮処分決定に違反するものとされた場合においても、本件配転命令は、これによつて、何らその効力を左右されないのであり、その理由は、つぎのとおりである。
別件仮処分決定は、講学上「債務者の任意の履行に期待する仮処分」といわれているものである。したがつて、会社が、別件仮処分決定に従わず、その信念に基づいて申請人に配転を命じた以上、その効力は、人事権濫用の有無のみから判断さるべきものである。このように別件仮処分決定は、本来その性格上、本件配転命令の効力を左右するものではない、と解するのが正当である。
五 本件配転命令が権利の濫用である、との主張について
1 会社は本件配転命令を申請人に告知した段階においては、前述のように、別件仮処分決定の送達を受けていなかつたため、その具体的内容はもちろん、その存在さえ、これを知らず、かつ、これを知る方法もなかつたのである。
別件仮処分決定のような種類のものは、少なくとも審尋によつて債務者に意見を述べる機会を与えたうえでなされるのが通例であつて、債務者に右のような機会を与えないでなされることは、極めて異例なことであるのみならず、会社は、三月二八日、名古屋地方裁判所に対し、申請人から本件配転について、何らかの仮処分申請がなされたときは、審尋又は口頭弁論によつて、会社にその意見を述べる機会を与えてほしい旨の上申書を提出しているので、裁判所が、会社の意見を聴かないで、別件仮処分命令を発する等ということは、会社側としては、全く予想しえないところであつた。
また、同年四月一日午後三時四〇分頃、会社の松田人事厚生部長補佐が、中日新聞社会部の柳田記者から電話による取材を受けたときにも、松田部長補佐は、別件仮処分決定の存在を知らない旨、明確に答えており、「二日に・・・弁護士とも相談して今後の措置を決めたい」と述べたのは、あくまで、別件仮処分決定の存在を前提とした仮定的意見である。なお、「二日に吉田さんと話し合う」というのは、仮処分決定の存否とは全く無関係であつて、本件配転命令に従い円満に新任地に赴任するよう説得する、との意味である。そして、四月二日午前八時四五分から午前九時前までの間に出社した松田部長補佐と斉藤名古屋人事厚生課員は、疎甲第三号証の新聞を読んだけれども、社内の通信室その他関係部署につき、別件仮処分決定の送達の有無を調査したところ、送達のないことが確認されたので、右新聞記事は何らかの間違いであろうと考えたが、さらに念のため、午前一〇時まで待つたけれども、いぜんとして別件仮処分決定の送達がなかつたので、ついに本件配転命令を発令するに至つたのである。したがつて、会社が別件仮処分決定の存在を知りながら、これに意を用いることなく、一方的に本件配転命令を発した、との申請人の非難は、全くあたらない。
2 昭和五四年四月一日付け定期異動(本件配転もその一環としてなされたものである)については、すべて三月三〇日に辞令を交付して発令されており、申請人に対する本件配転命令のみが、四月二日に告知されたのであるが、その理由は、申請人が三月三〇日に有給休暇をとつて出社しなかつたからである。そして、申請人が同日出社しなかつた理由は、申請人が同月二八日会社の金田人事厚生部企画課長から本件配転が決定した旨伝えられたときに、あわせて同月三〇日に辞令を交付する旨告げられていることから推して、辞令交付を意図的に遅らせるためであつたことは明白である。このように、会社が、他の従業員に対する場合と異なり、申請人に対してのみ、四月二日に本件配転命令を発せざるをえなくなつたのは、もつぱら申請人の行為にその原因が存するのであるから、申請人が自己の行為に起因して本件配転命令の発令が遅れたことを把えて、本件配転命令は別件仮処分決定に意を用いることなく発令されたものである、と主張することは、まさに労使関係を支配する信義則に違反するものである。
3 さらに、申請人のような一般職の人事異動については、人事厚生部長が決定権を有するところ、園部人事厚生部長は、既に三月一九日に本件配転を決定していた。ただ園部人事厚生部長は、別件訴訟が係属中であるため、特に慎重を期して、管理職人事異動と共に、三月二八日開催の本部長会議に上程して、その承認を得たのである。したがつて、会社の内部における意思決定は、別件仮処分決定がなされる前であることはもちろん、その申請さえされていない(右申請がなされたのは三月二九日である)時点において、既に確定的に成立しているのである。このように、会社は、別件仮処分決定の存在を知りながら、あえてこれに意を用いることなく、本件配転命令を決定したものではないのであるから、会社が労使関係上の信義則に違反していないことは、誠に明白である。
右の点に関連して、申請人は、会社は土曜が休日であることを利して、三月三一日(土)に送達されたはずの別件仮処分決定の受領を拒んだ、旨主張している。しかしながら、別件仮処分決定が三月三一日(土)に会社に送達された事実自体が存しないのであるから、会社がその受領を拒んだ事実は絶対になく、申請人の主張は、虚構の一語に尽きるものである。
4 会社は、三月二八日、本件配転の決定を申請人に告げたが、それ以前である一月一一日には、前記金田人事厚生部企画課長が申請人の意向を打診しており、さらに松田部長補佐は、昭和五三年四月頃から、申請人に対し、配転先について希望があれば申し出るように伝えており、とくに、同年一〇月簿記検定(二級)に合格してからは、同年一一月二七日、同年一二月一二日、同月二〇日及び昭和五四年一月一七日と四回にわたつて、「簿記検定(二級)に合格したことを念頭に置いて、これを生かすような配転先を探しているが、希望があれば申し出てほしい」旨申請人に告げて、その意向を打診してきたのである。
したがつて、会社が、三月二八日に至り、突然申請人に本件配転の決定を告げた、との申請人の主張は、全く虚構であり、会社は、あらかじめ十分申請人の意向を打診したうえで、本件配転を決定しているのである。
5 新幹線を利用した場合における東京―名古屋間の所要時間は、わずか二時間であり、交通は極めて便利であつて、申請人が本件配転に応じたとしても、別件訴訟の追行上、不利益を受けることは、絶対にありえないところである。しかも、会社は、申請人が望むのであれば、別件訴訟を東京地裁に、移送されることに同意する意思さえもつているのであるから、申請人が、東京転居により、別件訴訟追行上不利益を受けるおそれは、一層皆無である。
6 つぎに、申請人は、昭和四八年八月以降、組合役員に就任したことはなく、格別目立つた組合活動をなしていた事実もないのであるから、本件配転に応ずることによつて、その組合活動が不可能となるなどということはありえない。とくに、東京―名古屋間の前叙のような交通事情及び東京本社には同一組合の本部と支部組織があり、申請人が本件配転に応じた場合には、当然東京支部組織の一員となるから、東京において組合活動をなすことが十分可能であることに想いを致せば、組合活動が事実上不可能となる、との申請人の主張は虚構である。なお、申請人は、「別件訴訟をめぐる組合活動」という趣旨の表現を用いて、あたかも、組合がその名において別件訴訟の支援活動をなしているかの如き口吻を洩らしているが、実際には、そのような事実は全くない。
7 申請人が本件配転命令に従つて東京に転居し、かつ、その家族が従前通り名古屋に居住することとすれば、申請人夫婦は別居することとなる。
しかしながら、既に述べたように、申請人は、いわゆる大卒者として、会社の本社採用に応じた幹部候補社員であつて、労働の場所(勤務地)は全店(全世界)であることを熟知し、かつ承諾している者であるから、夫婦共働きを続ける以上、その勤務地のいかんによつて、夫婦別居の状態が生ずることは、当然予測していたところである。しかも、東京―名古屋間は、交通も至便であるから、週休二日制を利用して、申請人が名古屋に帰省することも十分可能であり、さらに、申請人が、家族との別居を嫌い、妻を退職させて、家族全員が東京に転居するのであれば、妻に再就職の意思がある限り、会社は、あつ旋の労をいとわないことを申請人に告知ずみであること等を考慮すれば、本件配転命令が、場合によつては、一時的に夫婦別居の状態を生ぜしめることがあるとしても、これを理由に、人事権の濫用である、となすことは、明らかに不当である。
8 申請人は、本件配転命令には、昇給、昇格が伴わないから報復人事である、と主張している。
しかしながら、昇給は、労使交渉を経て決定されるために、毎年五~六月頃に決定されたうえ、四月一日に遡及して実施されるのが通例であるから、本件配転命令に昇給が伴わなかつたことは、むしろ当然である。さらに、申請人のいう昇給は、昇格に伴う昇給の意味であるとしても、主事補への昇格は、能力評定及び業績評定を基礎とし、さらに簿記及び面接試験の結果(社内では通常主事補昇格査定といわれている)に基づいて行われるものであつて、理論上も実際上も、配転に伴つて行われるものではない。したがつて、昇格を伴わない人事異動は、日常茶飯事の如く行われているのであつて、本件配転命令に限つて、昇格を伴わなかつたわけではない。そうであるとすれば、格別の事由を示すこともなく、ただ単に、昇格、昇給を伴わなかつたから本件配転命令は報復人事である、となす申請人の主張は、全く不当である。
9 本件配転命令に正当理由の存することは前記三のとおりであるところ、これによつて申請人が自己の受ける不利益として主張するところは、これまで詳述してきたように、勤務地の特定がない本社採用の幹部候補社員の場合には、通常生ずるものであるから、通常予測されないような著しい不利益とは到底認められず、さらに、申請人がその特殊事情に基づく不利益として主張しているところは、いずれも前提事実を欠いているため、その主張の如き不利益が生ずるものと認めることは到底不可能である。
したがつて、本件配転命令を権利の濫用であるとなす申請人の主張は、すべて理由がないことに帰する。
六 保全の必要性、緊急性の不存在
前記五に記載したところによれば、申請人主張の本件仮処分申請の必要性、緊急性が存在しないことは明らかである。