名古屋地方裁判所 昭和54年(行ウ)23号 1986年10月31日
原告
黒田治郎
被告
一宮労働基準監督署長山田保男
右指定代理人
宮澤俊夫
同
横井保
同
鈴木孝雄
同
加世田稔春
同
浅田昭男
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求める裁判
一 原告
被告が昭和五二年一二月二六日付で原告に対してなした労働者災害補償保険法による休業補償給付を支給しない旨の決定を取消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
二 被告
主文と同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1 本件処分に至る経緯
(一) 原告は、愛知県稲沢市大矢町茨島三〇番地所在のソニー稲沢株式会社(以下「会社」という)にブラウン管製造工として勤務していたものであるが、昭和四八年六月頃から、作業量の増大に伴う作業環境の悪化と労働過重のため、足、膝痛及び腰痛(以下「本件疾病」という)を来し、翌四九年四月頃から疼痛が激化して就労困難な状態となった。
(二) そして原告は、同四九年五月一四日から休業のやむなきに至り、別表(一)記載のとおり昭和五二年九月一三日までの間通院治療を受けてきたが、同五二年六月三〇日以降においても腰痛や足痛、さらには、投薬治療に伴う湿しんの発生により挙措動作が不自由で、日常生活にも支障をきたし、自宅における療養を余儀なくされた。
結局、昭和四九年五月一四日以降、原告が就業したのは同年六月二六、二七日、同年一〇月一日より翌年一月七日まで、同五一年二月一〇日より同年八月二〇日までの間だけであって、その余の期間は休業した。
(三) 原告は、本件疾病が右会社の業務に起因するものであるとして、昭和四九年六月二七日被告に対し労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という)に基づく休業補償給付(以下「休業補償」という)の請求をしたところ、被告は昭和五一年七月七日、本件疾病は業務起因性が認められないとの理由で、一旦不支給の決定をしたが、その後、腰痛についての業務上外認定の基準が改定されたことから、昭和五一年一二月七日右不支給決定を取消し、原告の右請求を認め、休業補償の支給決定がなされた。
(四) かくして被告は、昭和五二年六月二九日までの原告の休業については、原告の請求を認めて休業補償を支給してきたのであるが、昭和五二年一〇月七日原告が同年六月三〇日から同年九月三〇日までの休業について、前同様にして休業補償の請求をしたところ、被告は同年一二月二六日、本件疾病は同年六月二九日をもって症状固定により治ゆしているとの理由で不支給の決定をした(以下「本件処分」という)。
(五) そこで原告は、本件処分を不服として、昭和五三年二月四日愛知労働者災害補償保険審査官に対し審査請求をしたところ、同五三年五月二九日付で、同審査請求を棄却する旨の決定がなされたので、更に同年六月六日同保険審査会に対し再審査の請求をしたところ、昭和五四年四月二八日付で、同再審査請求も棄却する旨の裁決がなされた。
2 本件処分には、事実の認定及び以下のとおりその手続を誤った違法があるから取消されるべきである。
(一) 被告は前記1(三)記載のとおり、原告の最初の休業補償請求に対し、一旦不支給としながら、昭和五一年一二月一七日これを取消して、支給決定をしたのであるが、その際、被告は原告に対し、右不支給決定に対する原告申立の審査請求を取り下げるよう強く求めて来た。
これに対し原告は、認定基準の変更などという形式的理由で、不支給決定が取消され、支給決定がなされたことに納得がいかなかったうえ、右審査請求は、もともと被告が本件疾病につき原告の腰痛のみを認め、つま先立ちで過酷な作業に従事した結果生じた足及び膝痛をも業務上の災害(以下「本件労災」ともいう)と認めないことが不服で申立てたものであったから、これを取下げる意思はない旨返答したところ、被告担当係官は原告に対し、右足及び膝痛も腰の悪いことに由来するものであり、腰痛による労災が認められたということは、一生これが労災で治療を受けられることを意味するから安心して取下げられたい旨強調したうえ、取下書に署名押印するよう求めるので、原告は右係官の説明を信じて、右要求に応じて審査請求を取下げたものである。
(二) ところが、昭和五二年六月二七日頃、被告から原告に対し、傷病補償年金の等級該当性認定のための届書と診断書の提出を求めて来たので、原告は同月二九日、前記前田医師に診断書を作成してもらいこれを提出したところ、同年七月八日被告からの呼出により原告が出頭すると、被告係官から原告に対し「診断書によれば、原告の疾病は治ゆしており、治療の必要がなくなったので、同年六月三〇日以降の労災認定は打切る。」との話が出された。
しかし、被告が右のような所為に出ることは、前記昭和五一年一二月一七日の原告との約束を一方的に反故にするものであって到底承服し難いものであるばかりか、そもそも、右前田医師の診断書は、原告の症状を診察したうえで作成されたものではなく、ただ、傷病補償年金の等級該当性のための資料ということで形式的に作成されたにすぎないものであるから、これをもって、労災認定を打切るための根拠とすることは、詐欺的取扱いであって許されないことである。
(三) しかも、右診断書作成の際、原告は前田医師に対し、原告の身体状況について「しゃがんだり、身体をねじったりすると頭の芯まで刺すような痛みを覚え、痛み止めの薬を服用すると足に湿しんが出て皮膚が潰瘍し、歩行困難となり、排便の始末にも不自由を来す状態である。」旨を訴えたが、同医師はこれを聞き流して、前記のような診断書を作成したものであって、右診断書は原告の症状を正しく診断していない。
(四) 更に、同五二年七月八日、原告が被告係官に右診断書が作成提出された経過等について説明したうえ、これまで会社が指定する医師の下で治療を受けてきたが、症状が一向に改善されないので、今後は原告が選んだ医師に治療が受けられるよう取り計らって欲しい旨を依頼したところ、同係官は中部労災病院の皮膚科の専門医を紹介するので、そこで十分な検査、治療が受けられるよう措置する旨を約束した。
しかるに同係官は、同年七月二二日中部労災病院へ出向いて診察を受けるよう原告に指示したのみで、同病院に対し格別の依頼をする等の誠意ある処置を採らず、そのため、原告は同病院においても十分な検査、診断を受けられなかったばかりか、医師からは「症状は固定している。原告の年齢等からして治ゆ、全快というようなことはない。」旨の説明がなされただけで、却って、原告は無理を押して出掛けたため、皮膚の炎症を悪化させてしまった。
また、同年八月六日には、会社の副工場長から無理矢理、名古屋市立東市民病院へ連れて行かれ、診察を受けさせられた。もっとも、その際、同副工場長は、担当医師が、本件疾病による症状が一向に改善されないのは、これまで治療に使われた薬害によるものである旨述べたのを、原告ともども確認している。
(五) 昭和五二年八月一六日再び被告から会社をとおして原告に対し、中部労災病院において診断を受けるようにとの指示がなされたが、原告は同病院における診察が前記のとおり、被告の約束にも反した不当なものであったので、これを断ったところ、同月二三日被告係官から原告に対し、指示に従わないから労災認定を打切る旨を伝えてきた。
しかしこれまた、前記約束に反するのみならず、極めて感情的処置であって、職権濫用行為である。
(六) 本件処分は、以上のような経過、とりわけ前記1(三)及び2(一)記載のような経過を辿って、本件疾病の発症後、相当の日時も経過した後になされたものであるため、本件疾病が発症した当時の原告の身体の状況とか、会社の作業環境について、十分な検証と検討が尽されていないし、今となってはこれをなす術もないものである。言い換えれば、被告が当初から、右会社の作業現場へ赴き、現場を検証するなどの証拠収集の処置を講じていたならば、最初から問題なく、本件疾病につき労災認定がなされていたであろうことはもとより、原告が本件疾病の発症後、昭和五一年一二月七日労災認定がなされるまでの間、会社から出勤を強要されるなどして右症状の悪化に苦しめられることもなかったであろうし、昭和五二年一二月二六日に至って本件処分がなされるといったようなこともなかったと思われるのであって、被告のこれまで採った措置は信義誠実の原則に反する不当なものである。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1(一)中、原告が会社にブラウン管製造工として勤務中本件疾病(但し、足、膝痛は腰部疾患に由来するもので独立の疾病ではない。)に罹患したことは認めるが、その余は不知。
同1(二)中、原告が本件疾病により、昭和四九年五月一四日から休業するに至ったこと、その主張の病院等のうち別表(一)の14を除く病院等において通院治療を受けたことは認めるが、同表14は不知。その余は争う。
なお、昭和四九年五月一四日から昭和五二年六月二九日までの間の原告の通院、治療、休業日数、原告の休業補償請求と支給の状況、傷病名は別表(二)記載のとおりである。また、別表(一)の11以下の通院は本件疾病の治療とは関係のないものである。
同1(三)(四)(五)は認める。
2 請求原因2は争う。
但し、同2(一)中、原告主張のとおりの審査請求の申立があり、これが取下げられたこと、同2(二)中、原告が昭和五二年六月二九日(但し受理は三〇日)傷病補償年金に関する届書に前田医師作成の診断書を添付して提出したこと、被告が同年七月八日原告を一宮労働基準監督署へ出頭させたこと、同2(四)中、原告が中部労災病院及び名古屋市立東市民病院で受診したことは認める。
三 被告の主張
1 休業補償の支給要件
(一) 休業補償は労働者が業務上の負傷又は疾病による療養のため労働することができないため、賃金を受けられない場合に、その休業第四日目から支給されるものである(労災保険法一四条一項)。このことは、労働者が単に休業し、賃金の支払を受けられないというだけでは足りず、療養のために労働することができなかったことが必要な要件となっているものである。
(二) ところで、労働基準法(以下「労基法」という)七七条には「労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり、なおったとき身体に障害が存する場合においては、使用者はその障害の程度に応じて」障害補償を行うべきことが規定されており、また同法七六条には、労働者が業務上の災害による療養のため労働不能の状態になり賃金を受けられない場合においては、「使用者は、労働者の療養中」必要な休業補償を行うべきことが規定されている。このように、法令上「なおったとき」あるいは「療養中」というような表現がとられているため、「なおったとき」の意義が、各労災保険給付の支給事由の有無に、重要な係わりを有することとなる。
(三) そして、労災保険の実務において、治ったとき(治ゆ)とは業務上の負傷又は疾病に対して、医学上一般に認められた医療を行っても、その医療効果が期待し得ない状態に至ったものであり、負傷にあっては創面がゆ着し、その症状が安定し医療効果が期待できなくなったとき、疾病にあっては急性症状が消退し、慢性症状は持続してもその症状が安定し、医療効果がそれ以上期待できない状態になったとき(これを症状固定と称することもある)をいうとされている。
2 これを本件についてみると、以下のとおり本件休業補償請求は理由がなく、被告のなした本件処分が適法であることは明らかである。
(一) 原告提出にかかる昭和五二年一〇月七日付休業補償給付請求書には、診療担当者の証明欄が空白となっており、療養の事実が不明であったばかりか、原告提出の「診療担当者の証明のない理由」と題する書面によれば、原告が本件休業補償請求期間中に、原告の腰痛について医師の治療を受けていない事実が判明した。
(二) そこで被告が原告から事情を聴取し、原告を診療した医師の所見を徴し、調査した結果は次のとおりである。
(1) 原告からの事情聴取
昭和五二年一〇月一九日、被告係官が原告宅において、原告本人から事情聴取したところ、原告は、昭和四九年五月頃より、椎間板ヘルニヤもしくは椎間板障害の傷病名で休業し、稲沢市民病院から前田外科医院へと転医、加療していたが、昭和五〇年九月末にレントゲンを撮ったところ、腰や足に湿しんが出るようになり、その後も投薬により体に湿しんが出るようになった。また、昭和五一年二月より職場に復帰し、働き始めたが腰痛よりも足痛となり(昭和五二年二、三月頃より)、現在も時々、疲れた時に足痛となるものの、足、腰とも調子は良くない。昭和四九年五月頃に比較すれば、良い方に向ったと思う旨を述べ、「私が医師の治療を受けなくなったのは、あまり医師が信頼できなくなったため」と述べた。
(2) 前田外科医院の前田清医師の所見
(ⅰ) 前田医師は、昭和五二年六月二八日、本件疾病についての今後の治療の要否について、ほとんど治療は要しないと思われる、との所見を示した。
(ⅱ) 被告係官が、前田医師から、昭和五二年一〇月二〇日事情聴取したところ、同医師は「原告の椎間板障害は、X線上著変なく、昭和五二年六月二九日をもって症状は、固定したものと考える。」「本人はなかなか固定したものとは思っていないようだ。」と原告の症状を説明した。
(3) 中部労災病院の吉田一郎医師の所見
吉田医師は、昭和五二年八月一日付け意見書により、原告の症状について、脊椎、脊髄症状なく、疼痛も高度でないので、すでに症状固定の時期と判断するとの所見を示した。
(4) 名古屋市立東市民病院の藤野文雄医師の所見
藤野医師は、昭和五二年八月一八日付け意見書により、本人の愁訴している皮膚病は、本件疾病の治療及び業務との因果関係はないとする所見を示した。
(5) はちや整形外科病院の蜂谷弘道医師の所見
蜂谷医師は、昭和五二年一二月一日被告受付意見書により、原告の足部障害は「初診時に於て足部に変形及び腫張を認めない。X線上において第一、第二中足骨部に化骨像を認める。特にめずらしい疾患とはいいがたいが本人の労働との関連に於て強迫観念があり、特に症状がとれなかったものと判断する。」また「これは、腰痛にも原因すると本人が訴えているが、そのような不確定要素で労災と判断するなら国民全員が労災になってしまうと考える。」として、本件疾病との因果関係を否定する旨の所見を示した。
(三) 以上のことから、原告の主張する本件疾病なるものは、原告の愁訴にすぎず、原告に対し引き続き医療行為を継続しても医療効果の期待できない状態にあり、また原告の訴える皮膚病、足痛も、本件疾病及び業務とは因果関係のないことが明らかとなったので、被告は、原告の症状は、昭和五二年六月二九日に症状固定し、治ゆの状態にあったものと判断して、原告に対する本件休業補償請求を不支給と決定したものである。
3 なお、被告が原告から昭和五二年六月三〇日診断書と届書を徴した理由は次のとおりである。
(一) 業務上の負傷又は疾病による療養を開始したのち一年六か月を経過した日において、又はその日以後の日において、当該負傷又は疾病が治っていないこと及び当該負傷又は疾病による障害の程度が労働省令で定める傷病等級に該当している場合には、所轄労働基準監督署長は傷病補償年金の支給の決定をしなければならないこととされている(労災保険法施行規則一八条の二)。なお、傷病補償年金を受ける者には、休業補償は、行わないこととされている(労災保険法一八条二項)。
このため、所轄労働基準監督署長は、療養開始後一年六か月を経過しても治っていない労働者について、傷病の状態の立証に関し必要な医師の診断書その他資料を添付して、前記届書を提出させるものとされている(同法施行規則一八条の二)。
(二) 被告は原告に対し、療養開始後一年六か月を経過した後の日である昭和五二年六月二七日右届書の提出を求めたところ、原告は前田医師作成にかかる診断書を添付した「傷病の状態等に関する届」を提出した。
右診断書及び同年七月七日における右前田医師に対する事情聴取によれば、前田医師は原告の症状について「今後の治療は要しない。就労すべきものと考える」旨の所見を被告に示した。また、被告の同月八日における原告に対する事情聴取時には、原告は、現在の症状については「よくもなければ悪くもなく、変りない、しかしX線をかけると左足に水泡ができるし、一日一回一時的に足がつる。」医師が就労をすすめていることについては「悪くなると困るので働きたくない。」などと述べていた。
さらには前記中部労災病院の吉田医師の意見によれば、原告の症状について、脊椎、脊髄症状なく、疼痛も高度でないので、すでに、症状固定の時期と判断するとの所見であった。
被告は、以上の医師の所見、原告からの事情聴取等を総合判断した結果、原告が主訴する椎間板障害による腰痛は、既に症状が固定したものと認定し、同年八月二七日傷病補償年金の支給要件に該当しないとしてこの旨を原告に通知した。
第三証拠関係(略)
理由
一 本件処分に至る経緯
1 原告は、会社にブラウン管製造工として勤務していたものであるが、右業務に従事中、本件疾病(但し、足、膝痛については後記のとおり腰部疾患とは別個独立した労災とは認められないところである。)に罹患し、昭和四九年五月一四日から休業するに至り、別表(一)11以下を除く病院等へ通院し、その治療を受けたこと、そこで原告は被告に対し、別表(二)の1記載のとおり、同年六月二七日休業補償の請求をしたところ、被告は昭和五一年七月七日業務起因性が認められないとして一旦不支給決定をしたが、その後腰痛についての業務上外の認定基準が改定されたことから、昭和五一年一二月七日右不支給決定を取消して、原告の請求を認め、休業補償支給決定がなされたことは当事者間に争いがなく、原告本人尋問の結果と弁論の全趣旨によれば、原告は本件疾病につき、別表(二)記載のとおり労災認定を受け(なお、原告主張の疾病が総て認められたわけではなく、腰部の疾患のみが認められたものである。)、休業補償の支給を受けていたことが認められる。
2 ところが、昭和五二年一〇月七日、原告が同年六月三〇日から同年九月三〇日までの休業補償の請求(以下「本件請求」という)をしたところ、被告は本件疾病は症状固定により治ゆしているとの理由で本件処分をなすに至ったこと、これに対し、原告がその主張のとおり審査請求及び再審査請求をしたけれども、いずれも理由なしとして棄却されたことは当事者間に争いがない。
二 本件処分の適否
1 休業補償の支給要件
休業補償の支給が認められるためには、労働者が休業し、賃金の支払が受けられなかったというだけでは足りず、労働者が業務上の負傷又は疾病により「療養のため」労働することができず休業したことが必要であり、一方、当該負傷又は疾病が「治ゆ」したときは、障害補償給付が認められるのは格別、休業補償の支給はもはや認められる余地のないことは労働基準法七六条、七七条、労災保険法一二条の八、一四条、一五条等の労災給付関係諸規定の文言、体裁から明らかである。
そして、労災保険法の「治ゆ」とは、医学上一般に認められた治療行為を行ってもその医療効果が期待できない状態に至ったものであり、負傷にあっては創面の治ゆした場合をいい、疾病にあっては急性症状が消退し、慢性症状は持続してもその症状が安定し、医療効果がそれ以上期待できない状態になったとき(症状固定)をいうものと解するのが相当である。
2 そこで被告が原告の本件疾病が治ゆしたものと認めたことの適否につき検討する。
(一) 被告が本件疾病が治ゆしたものと認めるに至った経緯とこれに供した資料等
(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(1) 被告は、労災保険法の改正(同法一二条の八等)に伴い、昭和五二年四月一日から労災による長期療養者に対する保険給付の取扱いが変ったことから、原告の本件疾病による療養の開始後一年六か月以上を経過した昭和五二年六月二七日、右一二条の八第三項所定の傷病補償年金支給の要否を決するため、原告に対し、傷病の部位及び状態についての届書とこれを証すべき医師の診断書を添付して提出するよう求めた。そこで原告は同年六月二七日主治医である前記前田外科医院の前田清医師の診断を受け(なお診断を受けてないかのように言う原告本人の供述は<証拠略>に対比して採用し難いところである。)、翌二八日診断書を作成してもらい、これを添付して翌二九日右届書を被告に提出した(原告が右届書と診断書を提出したことは当事者間に争いがない。)。ところが、右診断書には、原告の主訴として「足部疼痛、ひきつりを訴えることがある。」との記載はあるものの傷病名は「椎間板障害」、X線による検査所見上は「著変なし」、今後の治療の要否は「殆ど治療を要しないと思われる。」、今後六か月間の療養の見通しは「就業すべきものと考える。」旨、傷病補償年金はもとより休業補償の支給も認められない結果を来す所見が示されていたため、被告係官は同年七月七日原告の傷病の状態等に関し、右前田医師に事情聴取したところ、同医師からは原告の同年六月二七日当時の症状は右診断書に記載したとおりであるが、更に敷衍して「原告に対しては、同年初頃から、もはや療養の必要はない旨を申し渡したが、本人は腰痛はほとんど治ったが、時々足がつっぱる、靴をはくと調子が悪く、就労については自信がないようなことを言っていたので、四月頃から月に一、二回来院して理学療法のみで経過を観察したが、変化が見られず、治療行為を行っても効果が期待できないので、他の総合病院で諸検査を受けるよう本人に勧めた。後遺症についてはほとんどない。本年始めよりX線上等他覚的に見て良くなっている。」との説明がなされた。翌七月八日被告係官は原告から直接、現在の症状について事情聴取したところ、原告は「良くもなければ悪くもない、X線をかけると左足に水泡ができるが、二、三日静かにしていれば治る。一日一回長い時で三〇分位、右足の背部がつることがある。」とのことであったので、同係官は原告に対し中部労災病院で、右の疾患の点も含め、本件疾病につき、検査を受けるよう勧めた。原告は右勧めに従って、同病院の吉田一郎医師の検査、診断を受けたが、同医師の所見(診断書及び意見書)も、結論的には前田医師と略同一であって、原告の本件疾病は症状固定の時期にあるというものであった。そこで被告は以上の医師の所見、事情聴取の結果を総合して、同年八月二七日、原告が訴える腰部の疾患は、既に症状が固定しており、足痛、水泡は右腰部の疾患とは因果関係がなく、従って、原告の本件疾病は傷病補償年金の支給要件を充たさないものと認め、その旨原告に通知した。
(2) 右傷病補償年金の支給の要否を決する過程において、被告係官は、原告から腰部の疾病の治療中に足部、腰部に水泡や診しんが出るとか、足がつるなどの症状の訴えがなされたことから、これらの症状が本件疾病の治療ないしは本件業務に起因する疾病であるかについて確認すべく、原告を診察した(昭和五二年八月三日)名古屋市立東市民病院の藤野文雄医師の意見を求めたところ、同医師からは原告の訴える疾患ないし症状は、本件疾病の治療とも、また本件業務とも何ら関係がない旨の所見が寄せられた。
(3) その後昭和五二年一〇月七日に至り、原告から被告に対し本件請求がなされた。被告は、この段階で右(1)(2)のとおり、本件疾病は既に症状固定により治ゆしたとの一応の心証を得ていたわけであるが、更に右請求の許否を決するため、被告係官において原告から事情聴取したところ、原告はこれまで自己を診療した前記前田医師ほかの所見あるいは診療方法等に対し不信あるいは不満を述べたが、右所見が誤っていることを窺わせる格別の資料ないしは症状の指摘等はなかった。もっとも原告は腰部の疾病とは別の疾病として足部の痛み等を強く訴えたので、被告係官は、別表(一)記載のとおり原告を診療したことのあるはちや整形外科病院の蜂谷弘道医師に右の点を中心にして、原告の症状について意見を徴したところ、同医師は初診時において足部に変形腫張を認めず、原告の訴える足部の痛み等は本件疾病とは因果関係がなく、業務起因性もない旨の所見を示した。また被告係官は前記前田医師に対しても原告の症状について再度意見を求めてみたが、同医師の所見も前同様であった。
(4) 被告は、以上の診断結果や調査結果を総合して原告の本件疾病は、すでに症状が固定し、治ゆしたものと認め、本件請求に対し不支給の決定をなすに至った。
(5) 以上のとおり認められ、この認定に反する原告本人の供述は前掲各証拠に対比してにわかに措信し難く、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
(二) 右認定したところからすれば、被告は、原告が足部、腰部に未だ痛みなどの症状が残っている旨を訴えていたのに対し、治ゆについて前記の見地に立ったうえ、本件疾病は昭和五二年六月二九日には症状固定し、治ゆしたものと判断したものであることが明らかであり、この判断の過程及び結論に格別不合理、不都合な点は見当らないところである。
3 これに対し、原告は本件処分が違法である理由を主としてその手続的な面から種々主張するので以下検討する。
(一) 原告の主張(一)(請求原因2の(一)、以下同じ)について
本件疾病につき別表(二)の1記載のとおり労災認定がなされるまでに、請求原因1の(三)記載のような経過があり、同時に右不支給決定に対する審査請求も取下げられたことは当事者間に争いがなく、その際、被告係官が原告に対し、右審査請求を取下げるよう勧めたことも原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨からこれを認めることができる。
しかしながら、原告の足部、膝部の疾患が、原告の主張するとおり、被告の見解と異なって、会社の作業から直接生じたものとされようと、あるいは被告のいうように腰部の疾患に由来するものとされようと、本件疾病につき、前記のとおり労災認定がなされたならば、いずれにせよ右足部、膝部の疾患についても療養と休業補償が受けられるわけであるから、原告には、右審査請求により不服申立をする利益はなくなるものというべく、従って、被告が右審査請求の取下げを勧めた措置に格別問題とすべき点はないというべきである。
また、原告は被告が右審査請求の取下げを勧めた際、原告に対し、本件疾病につき一生労災保険で治療が受けられるかのようなことを述べたとの点についても、被告がそのようなことを述べたことを認めるに足りる証拠はないばかりか、そもそも、本件労災認定の基礎とされた本件疾病がすでに症状固定し、治ゆと認定された以上、これに対し治療するとか、そのための休業補償を支給するといったことは労災保険法上許されないことであるから、被告係官が本件疾病の治ゆの有無にかかわらず、労災保険で一生治療が受けられるなどといった話をする筈もないのであって、原告の右主張はいずれも採用し難いところである。
(二) 同(二)について
被告が原告に対し、昭和五二年六月二七日傷病の部位及び状態についての届書及び診断書の提出を求めたこと、これは労災保険法一二条の八第三項に根拠を置く正当な措置であること、右届書及び診断書は、原告主張のとおり、右規定による傷病補償年金の等級の該当性認定のために必要な書類であるとともに、長期療養中の労働者の疾病の治ゆ認定の判断の資料ともなるものであることは前認定のとおりである。従って、被告が右届書及び診断書をもって、本件(休業補償不支給)処分の認定の資料としたからといって、これをもって詐欺的取扱いであるなどとは到底いえないし、その他被告の右取扱いに非難されるべき点は認められず、原告の右主張は採用できない。
(三) 同(三)について
前田医師の診断の方法あるいは診断結果が、中部労災病院の吉田医師ほかの診断、所見等に対比して正しいものであることは、前認定のとおりであるから、原告のこの点の主張は採用できない。
(四) 同(四)(五)について
本件全証拠によっても原告が主張するような、被告係官が原告に対し、不適切な指示を与えあるいは職権濫用に相当する言動をなしたことを認めるには足りないので、右主張も採用できない。
(五) 同(六)について
被告が本件疾病につき、当初の原告の休業補償請求を不支給としながら、後日腰痛についての業務上外の認定基準の変更を機に、これを取消して支給を認める処分をしたことは前記のとおりであり、その際、被告は原告の会社における作業環境について労災認定に通常必要とされる以上に、格別の証拠の保全措置をとるなどしなかったであろうことは、右のように当初の不支給処分が変更された経緯に照らして窺い知ることができ、また、原告が本件疾病に罹患した後、昭和五一年一二月七日労災認定がなされるまでの間、本件疾病はいわゆる私傷病として扱われたため、会社から就労を勧められ、時には、原告は無理をして出勤するなどしたことのあったことも、原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨からこれを認めることができる。
しかし、たとえ右のような事情があるからといっても、本件疾病については、被告がこれを労災と認め、休業補償の対象としていたわけであり、ただ後日、客観的資料により症状が固定し、治ゆしたことが判明したことから本件の処分に至ったものであって、かように症状が固定し治ゆした以上、なお休業補償の支給を打切ることなく、本件疾病による療養あるいは休業補償を支給するが如きことはもとより許されるべきでないことは前記(一)において述べたとおりであるから、原告のこの点の主張もその余の点につき検討するまでもなく採用できない。
三 以上の次第で、被告のなした本件処分は適法であって、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 宮本増 裁判官 福田晧一 裁判官 佐藤明)
別表(一)
<省略>
別表(二)
<省略>