名古屋地方裁判所 昭和58年(わ)1018号 判決
《目次》
被告人等の表示
主文
理由
第一章認定事実及び補足説明等
一被告人らの身上経歴
二被告人甲の経営するヨットスクールの概要
1 沿革
2 特別合宿の内容及び推移
(北屋敷合宿所を使用するまでの状況)
3 特別合宿の内容及び推移
(北屋敷合宿所を使用していたころの状況)
4 特別合宿の内容及び推移
(宮東合宿所を使用してからの状況)
5 甲ヨットスクールの特別合宿生への対応
① 特別合宿の参加者に対するコーチらによる迎え
② 合宿所へ連行した後の措置
③ 早朝体操の強制
④ 海上訓練の強制
⑤ 監視と逃走した者に対する制裁
三Aに対する傷害致死事件(A事件)
(被告人甲、同甲2、同甲3、同甲4、同甲5、同甲6)
1 犯行に至る経緯等
2 罪となるべき事実
3 A事件についての補足説明
① Aの死因について
② 被告人らの暴行とAの死亡との因果関係について
四A2、A3に対する監禁致死事件(あかつき号事件)
(被告人甲、同甲2、同甲3、同甲5、同甲6)
1 犯行に至る経緯等
2 罪となるべき事実
① A2に対する監禁致死
② A3に対する監禁致死
3 あかつき号事件についての補足説明
① 公訴棄却の申立の主張について
② 逮捕監禁罪の成立について
③ A2とA3の死亡について
④ 監禁と死亡との因果関係について
五A4に対する傷害致死事件(A4事件)
(被告人甲、同甲2、同甲3、同甲6、同甲7、同甲8)
1 犯行に至る経緯等
2 罪となるべき事実
3 A4事件についての補足説明
① A4の死因について
② 被告人らの暴行とA4の死亡との因果関係について
Ⅰ 低体温死の可能性と因果関係について
Ⅱ 常滑市民病院の医療過誤の主張について
六被告人甲5に対する無罪判決の理由
七その余の事件
1 A6に対する傷害(被告人甲、同甲5、同甲6)、A7に対する暴行(被告人甲、同甲6)事件
① 犯行に至る経緯等
② 罪となるべき事実
Ⅰ A6に対する傷害
Ⅱ A7に対する暴行
③ 事件についての補足説明
2 A8に対する傷害事件(被告人甲6)
① 罪となるべき事実
② 事件についての補足説明
3 A9に対する暴行事件(被告人甲8)罪となるべき事実
4 A10に対する傷害、A9、A11に対する共同暴行事件
(被告人甲3、同甲7、同甲9)
① 犯行に至る経緯等
② 罪となるべき事実
Ⅰ A10に対する傷害
Ⅱ A9に対する共同暴行
Ⅲ A11に対する共同暴行
5 A10、A9、A11に対する暴行事件(被告人甲)
罪となるべき事実
6 A11に対する強要事件(被告人甲5、同甲6)
① 犯行に至る経緯等
② 罪となるべき事実
7 A12に対する監禁(被告人甲)、暴行(被告人甲2、同甲、同甲8)事件
① 犯行に至る経緯等
② 罪となるべき事実
Ⅰ 被告人甲の監禁
Ⅱ 被告人甲2の暴行
Ⅲ 被告人甲の暴行
Ⅳ 被告人甲8の暴行
③ 事件についての補足説明
8 A13に対する暴行事件(被告人甲2)
① 罪となるべき事実
② 事件についての補足説明
9 A14に対する共同暴行事件(被告人甲7)
① 犯行に至る経緯等
② 罪となるべき事実
10 A14に対する暴行事件(被告人甲)罪となるべき事実
11 A15に対する暴行(被告人甲6)、傷害(被告人甲)事件
① 犯行に至る経緯等
② 罪となるべき事実
Ⅰ A15に対する暴行
Ⅱ A15に対する傷害
12 A16に対する暴行(被告人甲3)、傷害(被告人甲2、同甲3、同甲5)、A15に対する傷害(被告人甲2、同甲3、同甲5)事件
① 犯行に至る経緯等
② 罪となるべき事実
Ⅰ A16に対する暴行
Ⅱア A15に対する傷害
イ A16に対する傷害
13 A17に対する暴行事件(被告人甲2)罪となるべき事実
14 A17に対する傷害事件(被告人甲7)罪となるべき事実
15 A18に対する監禁(被告人甲、同甲2、同甲6、同甲7)、傷害(被告人甲、同甲6)事件
① 犯行に至る経緯等
② 罪となるべき事実
Ⅰ A18に対する監禁
Ⅱ A18に対する傷害
③ 事件についての補足説明
16 A19に対する共同暴行事件(被告人甲2、同甲3)
罪となるべき事実
17 A20に対する暴行事件(被告人甲5)罪となるべき事実
18 A21に対する監禁(被告人甲、同甲2、同甲7)、傷害(被告人甲2、同甲6)事件
① 犯行に至る経緯等
② 罪となるべき事実
Ⅰ A21に対する監禁
Ⅱ A21に対する傷害
19 A22に対する傷害事件(被告人甲7)罪となるべき事実
20 A23に対する暴行事件(被告人甲6)罪となるべき事実
21 A24に対する監禁致傷事件(被告人甲、同甲9、同甲10)
① 犯行に至る経緯等
② 罪となるべき事実
③ 事件についての補足説明
22 A25に対する監禁事件(被告人甲9)
① 犯行に至る経緯等
② 罪となるべき事実
23 A26、A27、A28、A29に対する監禁致傷、A30に対する傷害、監禁事件(暴走族事件)
(被告人甲2、同甲6、同甲3、同甲5、同甲7、同甲8)
① 犯行に至る経緯等
② 罪となるべき事実
Ⅰ A26、A27、A28に対する監禁致傷
Ⅱ A29に対する監禁致傷
Ⅲ A30に対する傷害、監禁
第二章証拠の標目
第三章法令の適用
第四章暴走族事件を除く本件各事件についての争点に対する判断
一正当業務行為として違法性がないとの主張について
二被告人らの共謀について
第五章量刑の事情
一全体としての事情
二被告人らそれぞれの事情
三結論
別紙目録(訴訟費用の負担)
主文
被告人甲を懲役三年に、被告人甲2を懲役二年六月に、被告人甲3を懲役二年に、被告人甲6を懲役二年六月に、被告人甲7を懲役二年に、被告人甲8を懲役一年六月に、被告人甲5を懲役二年に、被告人甲4を懲役一年六月に、被告人甲9を懲役一年六月に、被告人甲10を懲役一〇月にそれぞれ処する。
この裁判確定の日から、被告人甲、被告人甲2、被告人甲3、被告人甲6に対し三年間、被告人甲7、被告人甲8、被告人甲5、被告人甲4、被告人甲9、被告人甲10に対し二年間、それぞれその刑の執行を猶予する。
被告人甲5に対する本件公訴事実中、昭和五八年七月一日付け起訴状の強制わいせつについて、同被告人は無罪。
訴訟費用は、別紙目録記載のとおり被告人らの負担とする。
理由
第一章 認定事実及び補足説明等
一 被告人らの身上経歴
1 被告人甲の身上経歴
被告人甲は、名古屋市立菊里高等学校を卒業後、昭和三五年四月、名古屋大学工学部に入学し、同四〇年三月に同大学を卒業したが、大学時代ヨット部に所属し、大学間対抗競技の小型ヨットのレースに出場したり、ヨット部の主将を務めるなどしており、大学卒業後すぐには就職することなく渡米し、ヨット部の先輩らとともに大型ヨットのレースに出場した。
その後、被告人甲は、昭和四一年八月に名古屋市内の会社に就職したが、昭和四四年、ヨットレース出場のため休職して再び渡米し、大型ヨットのレースに出場した帰国した後の昭和四五年に同社を退職した。
被告人甲は、以後、個人でヨットの販売、ヨットスクールを営む一方、国内外のヨットレースに参加し、昭和五〇年九月に開始された沖縄海洋博覧会記念のサンフランシスコ・沖縄間太平洋横断シングルハンドヨットレースにも参加して優勝した。そして、被告人甲は、右レースにおいて同被告人のスポンサーとなったヤマハ発動機株式会社からヨットの提供を受け、昭和五一年一一月ころ、愛知県知多郡美浜町内の河和海岸などにおいて子供を対象とした「甲・少年ヨットスクール」を開校した。なお、昭和四九年一一月二六日には、それまで個人で行っていた事業を「株式会社シー・ワイ・シー」の商号で法人組織としたが、昭和五六年一一月一日には、その商号を「甲ヨットスクール株式会社」と変更している。
2 被告人甲2の身上経歴
被告人甲2は、愛知県立犬山高等学校を卒業後、昭和四〇年四月、愛知大学法経学部に入学し、同四四年三月に同大学を卒業したものの、アルバイトをするなどして定職に就くことなく生活していたが、学生時代からヨットに興味をもち社会人のヨットクラブに出入りするなどし、ヨットを通じて被告人甲と顔見知りとなっていたが、その付き合いが卒業後も続いていたことが一因で、昭和五三年一月ころ、被告人甲の経営するヨットスクールのコーチとして採用され働くようになった。
3 被告人甲3の身上経歴
被告人甲3は、福島県立大沼高等学校を卒業後、昭和四八年四月、東洋大学社会学部に入学し、同五三年三月に同大学を卒業した後はアルバイトをして生活していた。被告人甲3は、大学在学中にはヨットクラブのアルバイトをした程度で、自ら操縦するなど本格的にヨットに乗った経験まではなかったが、同年八月ころヨット関係の雑誌で被告人甲の経営するヨットスクールにおいてコーチを募集している旨の記事を読んでこれに応募し、見習いの待遇を経て、同年一〇月ころ、ヨットスクールのコーチとして採用され働くようになった。
4 被告人甲6の身上経歴
被告人甲6は、昭和三六年三月大阪府立堺工業高等学校電気科を卒業し、大阪府内のタイヤ製造会社に就職して電気設備の点検、保守の仕事をした後、昭和三九年七月ころ、コンピューターの販売、修理の会社に転職して機器の修理の仕事に従事していたが、不規則な生活やアルコール依存の生活が続いたことなどが原因で十二指腸潰瘍や自律神経失調症を患うなど健康を害した上、仕事の先行に不安を感じたことから昭和五五年六月ころに退職した。
被告人甲6は、被告人甲と従兄弟の間柄にあり、以前から同被告人の経営するヨットスクールに時折出入りしていたことがあったため、退職後の昭和五五年八月ころから、被告人甲の勧めでヨットスクールに住み込み、手伝いをする傍らヨットの操縦を教わり、同五六年四月ころ、正式にコーチとして採用され働くようになった。
5 被告人甲7の身上経歴
被告人甲7は、岡山県立邑久高等学校を卒業後、昭和五三年四月、南九州大学園芸学部に入学し、同五七年三月に同大学を卒業したが、在学中ヨット部に所属して団体のヨットレースに出場した経験もあり、卒業の前年には、ヨット関係の雑誌で被告人甲の経営するヨットスクールにおいてコーチを募集している旨の記事を読んでこれに応募し、採用の内定を得ていたため、卒業してすぐにコーチとして働くようになった。
6 被告人甲8の身上経歴
被告人甲8は、昭和五五年三月宮城県立鹿島台商業高等学校を卒業し、仙台市内の運送会社のトラック運転手として一年位働いた後、やはりトラック運転手として宮城県塩釜市内で家業の運送業の手伝いをしたが、父親との折り合いが悪かったため、昭和五六年一二月ころ、実家を出て仙台市内の呉服販売会社で働くようになった。そして、間もなく、被告人甲8は、その関連会社に移ったが、昭和五七年二月ころ、名古屋支店に転勤となり、ホテルや旅館等で呉服の展示即売会をするうち、愛知県知多郡美浜町内の旅館「角屋」に立ち寄る機会が多くなり、その経営者などと親しくなるとともに、旅館に出入りしていた被告人甲などとも顔見知りとなった。
被告人甲8は、昭和五七年六月ころ、勤め先の会社の待遇等に不満を抱いて退職したが、その身の振り方を案じた角屋の関係者の斡旋により、同年七月から被告人甲の経営するヨットスクールのコーチとして採用され働くようになった。
7 被告人甲5の身上経歴
被告人甲5は、私立京都西高等学校を卒業後、昭和四五年四月、京都産業大学法学部に入学したが、同四六年六月に中途退学し、アルバイトをしたり喫茶店経営を学ぶためその専門学校に通ったりして、同四八年八月ころ、京都市伏見区内において喫茶店の経営を始めた。
被告人甲5は、昭和五一年一〇月ころ、琵琶湖にあったヨットクラブの会員となってヨットの操縦を覚え、その後、被告人甲の経営する大阪府貝塚市内のヨットスクールに出入りしてその手伝いをするうち、ヨットスクールのコーチとして働きたいと思うようになってその旨申し入れた結果、同五四年一〇月からコーチとして採用され、愛知県知多郡美浜町内の河和海岸で行われていた被告人甲の経営するヨットスクールで働くようになった。
8 被告人甲4の身上経歴
被告人甲4は、熊本県立御船高等学校を卒業後、昭和四七年四月、長崎造船大学工学部に入学し、同五一年三月に同大学を卒業して三重県内の造船会社に就職したが、不況による人員整理がなされたのを切っ掛けに同五四年六月ころ希望退職した。
被告人甲4は、大学時代ヨット部に所属し、全国規模の大学間対抗競技のヨットレースに出場したほか、就職後も地元のヨットクラブの会員としてヨットに親しんでおり、ヨット関係の雑誌に載っていた記事を通じて被告人甲の経営するヨットスクールがあることも知っていた。そして、被告人甲4は、造船会社を退職する前から、ヨットを用いて子供を指導するボランティア活動をしたいと考えており、被告人甲の経営するヨットスクールの合宿に参加してみたい旨の申し入れをしていたので、昭和五四年七月淡路島で行われた夏期合宿に参加し、合宿においてコーチの手伝いをしたが、このことが切っ掛けで、そのまま被告人甲の経営するヨットスクールのコーチに採用されて働くようになった。
9 被告人甲9の身上経歴
被告人甲9は、昭和三四年三月香川県立高松工芸高等学校機械科を卒業し、高松市内の造船会社等に勤務した後、同四三年ころから神戸市内の造船会社に勤務していたが、会社の業績の悪化による先行の不安が迫っていた昭和五三年七月ころ、ヨット関係の雑誌で被告人甲の経営するヨットスクールにおいてコーチを募集している旨の記事を読んでこれに応募し、被告人甲と会ってコーチとなることが決まったため造船会社を退職し、以後ヨットスクールのコーチとして働いていた。
被告人甲9は、高等学校時代にヨット部に所属し、国体のヨットレースで優勝するなどしたほか、高松市内の造船会社等に勤務していた時代には、毎年香川県の代表として国体のヨットレースに参加し、三位又は四位程度の成績を挙げていた。
10 被告人甲10の身上経歴
被告人甲10は、愛知県立千種高等学校を卒業後、昭和五一年四月、駒沢大学文学部に入学し、同五六年三月に同大学を卒業した。
被告人甲10は、中学校時代から父親にヨットの操縦を教わり、以後も趣味で時折ヨットに乗ることがあったが、大学在学中から、被告人甲の経営する神奈川県横須賀市内のヨットスクールにアルバイトとして出入りしており、夏休みや冬休みには愛知県知多郡美浜町内の河和海岸で行われていたヨットスクールにも参加し、コーチの手伝いをするようになっていた。
そのため、被告人甲10は、大学卒業後も就職することなく、ヨットスクールのコーチなどが太平洋横断ヨットレースに参加するためヨットをアメリカまで回航する際、その乗員として加わるなどしたほか、帰国した後は、昭和五六年八月から一か月位の見習いの期間を経て、九月ころから被告人甲の経営するヨットスクールのコーチとして採用され働くようになった。
二 被告人甲の経営するヨットスクールの概要
1 沿革
被告人甲は、前記のように、昭和四五年、それまで勤めていた名古屋市内の会社を退職し、以後、個人でヨットの販売、ヨットスクールを営んでいたが、その事業を会社組織で行うため、同四九年一一月二六日、株式会社シー・ワイ・シーを設立し、昭和五〇年九月、沖繩海洋博覧会記念のサンフランシスコ・沖繩間太平洋横断シングルハンドヨットレースにおいて優勝し、自らのスポンサーとなったヤマハ発動機株式会社から、その見返りとして、一人乗り用ヨット三〇隻の無償提供を受け、昭和五一年一一月ころから、愛知県知多郡美浜町内の河和海岸などにおいて子供を対象としたヨットスクール(甲・少年ヨットスクール)を開いた。
このヨットスクールにおいては、一般児童を対象に、ヨットの操縦技術の習得、向上を目指していたが、被告人甲は、ヨットスクールの普及によってヨット人口が拡大し、日本のヨットの操縦技術の水準が高まると考えたばかりではなく、その訓練過程において一般児童の体力、精神力が強化されると考え、ヨットスクールの運営、指導にあたっていた。
被告人甲が河和海岸において開いたヨットスクールは、当初、小学校三年生以上中学生までの児童を主に対象とし、隔週の日曜日を利用して月二回の訓練を行っていたもので、生徒数は五名位のものであった。そして、被告人甲が直接経営するものではなかったが、同じ時期にスクール名に「甲」の名前を使った同様の内容のヨットスクールが、浜名湖など他に五か所でも開かれ、被告人甲は、その巡回指導も行っていた。
沖繩海洋博覧会記念のヨットレースで優勝した被告人甲が、児童を対象にヨットスクールを開いていることを伝える記事は、昭和五二年六月ころから新聞に掲載されるようになり、「海のしごきで独立心養成」(昭和五二年六月一日付読売新聞)、「甲艇長、新たな挑戦」、「全国にヨット塾」(昭和五二年六月二日付中部読売新聞)、「荒っぽくしごかれるチビッ子ヨット教室」(昭和五二年七月二日付報知新聞)などという見出しのもとに、ヨットの訓練によって子供の独立心、我慢強さ、集中力が養われるとの内容の記事を伴って報道された。
さらに、昭和五二年一一月ころからは、「情緒障害児ヨット訓練で自立心」、「甲さんが実証」(昭和五二年一一月一一日付朝日新聞、全国版)、「風と戦い、元気が出たよ」、「登校拒否にヨット療法」(昭和五二年一一月一二日付朝日新聞、名古屋版)、「独立心を養うのに最適」、「現代っ子の欠点を直す」(昭和五二年一二月一日付中部経済新聞)などの見出しのもとに、登校拒否などの問題を抱えた児童がヨットスクールにおいて被告人甲の訓練を受け、四か月で普通の児童と同じように学校に通うようになったことなどを紹介した上、被告人甲の経営するヨットスクールの訓練がいわゆる「情緒障害児」の立ち直りに効果がある旨を伝える記事が新聞に掲載されるようになった。
被告人甲は、ヨットスクールの訓練が情緒障害児の立ち直りに効果がある旨を伝える記事が掲載された直後より、登校拒否などの問題を抱えた児童の父母らから多くの問い合わせを受け、また、ある程度の期間児童の身柄を引き取って訓練し、治してもらいたい旨の要望を聞いたため、これらの児童を対象に、一定期間の合宿訓練を内容とするヨットスクールを開くことを考えた。
そして、第一回の合宿訓練は、被告人甲の知人の会社が持っていた厚生施設を借用し、河和海岸において、昭和五二年一二月末から翌年の正月にかけて四日間の日程で行われ、参加費用一人四万円を支払って四名の児童が参加した。
その後、昭和五三年二、三月ころ、一〇名位の児童が参加して第二回の合宿訓練が五日間の日程で行われ、以後、登校拒否などの問題を抱えた児童一〇名位を対象に、ほぼ同様の合宿訓練が月に一回の割合で継続して行われた。なお、途中で合宿施設は、愛知県知多郡美浜町内の名古屋鉄道河和駅近くにあった、以前に観光船の切符売場として使用されていた建物となり、昭和五四年九月ころからは、愛知県知多郡<番地略>所在の旧河和観光館の建物(以下「北屋敷合宿所」ともいう。)となった。そして、合宿期間についても、児童の様子によっては五日間の期間を延長する場合もでてきていたが、北屋敷合宿所を使うようになってからは、五日間という合宿期間の定めがなくなり、その結果、常に合宿生を抱える状態となっていった。(従来から行われていた一般児童を対象としたヨットスクールは「一般スクール」又は「日曜スクール」と呼ばれ、これに対し、登校拒否などの問題を抱えた児童を対象とした合宿訓練を内容とするヨットスクールは「特別合宿」と呼ばれたので、その生徒は「特別合宿生」ともいう。)
また、合宿訓練を行うようになったころ、開催するヨットスクールの名称も、それまでの「甲・少年ヨットスクール」から「甲ジュニアヨットスクール」に改められ、その後、更に「甲ヨットスクール」に改められた。(以下において、被告人甲の経営するヨットスクールについては、時期を区別することなく「甲ヨットスクール」という。)
2 特別合宿の内容及び推移(北屋敷合宿所を使用するまでの状況)
特別合宿の対象となるのは、当初においては、登校拒否の問題を抱えた児童が主であったが、次第に家庭内暴力、自殺未遂又は自殺願望、無気力、非行などの問題を抱えた児童の父母らからの問い合わせ、入校申込が増えたため、これらの児童も特別合宿の対象とされた。
そして、甲ヨットスクールにおいては、登校拒否の問題を抱えた児童を含めたこれらの児童を「情緒障害児」として、積極的に、特別合宿の対象とするようになり、被告人甲は、ヨットスクールの訓練により情緒障害児が立ち直ったことを広く宣伝するようになった。
すなわち、被告人甲は、特別合宿を始めて間もなくのころから、「甲少年ヨットスクールでは、登校拒否等の情緒障害児の快復に非常に大きな効果をあげております。特に、登校拒否の場合は5泊5日の合宿(進歩の度合で日数を延長する児童もあります。)とその後の一般児との日曜スクールでほぼ100%の成績をあげております。」(「登校拒否等の情緒障害児のヨットスクールについて」)、あるいは、「最近あれこれ論じられる現代っ子の問題点は全て精神力の弱さということに集約されると思われます。その顕著な例が、近年非常にふえている登校拒否等の情緒障害、非行、自殺であり、それらを生んだ社会的背景として、親の甘やかし、過保護、だめな先生、ものの豊かさ、塾、受験戦争、TVの影響などがあげられています。」、「これらヨットの持つ利点を最大限に生かし、しかも安全にトレーニング出来るようにしたのが、私の甲少年ヨットスクールでこの半年間だけでも10名以上の情緒障害児を完治させています。」(「甲少年ヨットスクールに於ける教育的意義について」)などという内容のパンフレット等を作成して宣伝していた。
第二回の特別合宿をした昭和五三年二、三月ころの甲ヨットスクールは、被告人甲を除くと、専任のコーチが被告人甲2を含めても三名位であり、コーチらに対して月額六万円程度の給料を支払っていただけであったが、同年七月ころ、被告人甲9をコーチとして採用し、妻帯者であった同被告人に月額二〇万円の給料を支払うこととしたため、他のコーチに対してもほぼ同額の給料を支払うことになり、また、その後も同年中に被告人甲3を含め三名の専任コーチを採用した上、ほぼ同額の給料を支払うことになった。他方、当初、河和海岸において開いたヨットスクールでは無償提供を受けたうちの五隻位のヨットを使用したのみであったが、次第に訓練用の一人乗り用ヨットやモーターボートを購入してその数を増やしており、昭和五三年ころには、一人乗り用のヨットの総数は五〇隻位になっていた。このように、甲ヨットスクールの指導体制や物的設備も次第に充実していったが、これに伴い年間の経費も増大していた。
なお、被告人甲が河和海岸においてヨットスクールを開いたころ、浜名湖などにおいて開かれたヨットスクールは、スクール名に「甲」の名前を使い、被告人甲が巡回指導を行っていたものの、同被告人が直接経営するものではなかったが、昭和五二年から同五三年にかけて、甲ヨットスクールの東京校(訓練場所は神奈川県横須賀市長浜海岸)、大阪校(訓練場所は大阪府貝塚市脇浜海岸)を相次いで設けた。これらは、いずれも日曜スクールであり、昭和五四年初めころ以降、被告人甲3が東京校の、被告人甲9が大阪校の各責任者となっており、被告人甲2は、同甲の指導の下で、河和海岸において開いていたヨットスクール(名古屋校)の責任者となっていた。
経費の増大に対応し、特別合宿の参加費用は、当初は四日間の日程で四万円であったが、その後漸次引き上げられ、昭和五四年の初めころには、入校金及び第一回目の合宿(通常五泊五日)の費用は五〇万円となった。
被告人甲は、子供が情緒障害児となるのは精神力のトレーニング不足が原因であるとして、ヨットの操縦技術の習得、向上を目指す訓練過程において精神力のトレーニングができると考え、甲ヨットスクールにおいて、当初から厳しい訓練を実践していた。
被告人甲は、昭和五三年に甲ヨットスクールにおける訓練の基本方針及びその実情を自ら以下のように記している。
「なるべく冬期に、まずその子に陸上でヨットの乗り方を教える。しかし、ヨットのところまで来ないので、引きずったり、ぶったりしてヨットのそばに立たせる。ぶたれる痛さに、子どもは不承不承ヨットのそばに立つ。それから、「よく聞いていろ。一度しか言わない。」と言って、ヨットの乗り方・転覆した時のおこし方を教えておいて、「わかった」という返事を取っておく。次に、転覆しても安全なようにウエットスーツ(半袖・半ズボンでからだの四分の三をおおうことができる)とライフジャケットを着せ、一人でヨット(このヨットは子ども向きに特別設計したものであり、転覆しやすく帆走もテクニックを要する)に乗せ、沖合一〜二キロメートルのところに引っぱって行く。コーチはエンジン付きの救助艇で行く。ここで、「一人で岸まで帰れ」といってうっちゃってくる。コーチ艇はいちもくさんに岸へ帰る。岸では、望遠鏡で子どものようすを見る。残された子どもは、「おとなのくせに子どもをいじめる」「人権じゅうりんだ」「教え方が悪い」「卑怯者」などとわめくが、われわれに落ち度は無く、無視する。ヨットはたちまち転覆し、子どもは海に放りだされる。一〇分ぐらいたったところでコーチ艇はそばに行き、「早く艇を起こして岸まで走れ」といって、すぐに岸へ帰ってしまう。子どもはもう手が疲れており、自由に動かない。はじめの元気はなく、「もう一度教えてください」「助けてください」など哀願調になっている。泣いてみせるのもいるが、涙がでない場合が多い。さらに一〇分ぐらいたってそばに行き、かなり強い調子でしかりつける。それに対して、子どももかなり強く救助を依願するが、聞かずに帰ってしまう。悪いのは子どもが説明を聞いて理解しなかったからであり、われわれではない。モンクがあるのなら、自分と海に言えばよい。三〇分めにまたそばまで行く。寒さのために口も十分にまわらないが、ウエットスーツを着ている部分は十分にあったかいということには気がつかない。手足はしびれるように冷たいが、ライフジャケットは浮力が七キログラムあり、おぼれて死ぬことは不可能である。子どものそばに行って、いきなりコーチ艇の上に引きずりあげ、テレビの刑事もののように胸倉をつかまえて、「テメェ、オレをなめやがって」という調子でおどす。近ごろの子どもは、テレビのドラマばかり見ているので、十分芝居がかった行動をしないと通らないところがある。これに対し、子どもはなにかいおうとするが、そのひまを与えず、平たいもので子どもの太股・尻などをなぐる。大きな音がし、痛いが打撃はたいしたことはない。次に「死んじまえ!」とか、「帰って来るな!」とかのことばと共に、もう一度海にほうりこむ。これで子どもは完全につぶれて素直になってくる。それから交渉が始まる。「なぜやらぬ」「わからないからです」「教えたじゃないか」「聞いていませんでした」「だれが悪い」「ぼくです」これで十分である。子どもをコーチ艇に引き上げ、ヨットを引っぱって岸へ帰り、一〇〜二〇分たき火にあたらせて休ませた後でもう一度教えると、子どもは必死になって聞く。聞く必然性ができたからである。」(「月間生徒指導」に掲載された「ヨット訓練による情緒障害児の指導」)
北屋敷合宿所を使用するまでの特別合宿は、通常五日間の日程で、月に一回の割合で行われていたが、昭和五四年二月一二日から一六日までの期間に行われた第一二回の特別合宿では、参加した生徒(特別合宿生)のA31(当時一三歳)が死亡する事件が発生し、その身体に傷が認められたことなどから、被告人甲らが業務上過失致死の嫌疑で取調べを受ける事態が生じた。この事件(以下「A31事件」ともいう。)について、被告人甲らは不起訴となったが、この事件の後の昭和五四年三月ころから、被告人甲は、生徒の父母らから健康診断書を提出させていた従前のやり方を改め、訓練に耐えうる状態か否かをチェックする目的で甲ヨットスクールにおいて健康診断を実施することとし、大学のヨット部の先輩であり、愛知県知多市内において医療法人平病院を経営する平医師に依願して、同病院において入校直後の健康診断を行うようになった。しかし、その後も、訓練の基本方針の変更はなく、その実情についても変化はなかった。
3 特別合宿の内容及び推移(北屋敷合宿所を使用していたころの状況)
甲ヨットスクールでは、特別合宿を継続的に行うようになった昭和五三年から海水浴客が多くなる夏期に、特別合宿生ばかりではなく日曜スクールの生徒も参加して河和海岸以外の場所で合宿訓練を行うようになり、昭和五三年、同五四年は淡路島で、昭和五五年、同五六年は三重県の答志島で合宿訓練が行われた。(以下「夏期合宿」という。)
一方、特別合宿は、当初、名古屋鉄道河和駅の近くにあった、以前に観光船の切符売場として使用されていた建物を借りて行われていたが、昭和五四年にはこの建物の明渡しを求められるようになっていたところ、同年の夏ころにはその使用ができなくなったため、夏期合宿を終えた同年九月ころ以降、旅館「角屋」の経営者で地元の支援者でもあった岸本鋼一の斡旋により、北屋敷合宿所の建物を借りて使用することができるようになった。この北屋敷合宿所は、昭和五七年五月二〇日の火災で建物が焼失するまで合宿施設として使用され、同年六月ころ以降は、愛知県知多郡<番地略>所在の建物(以下「宮東合宿所」ともいう。)が合宿施設となった。
そして、北屋敷合宿所を使うようになってからは、特別合宿については、最初に一〇日間分として入校金及び合宿の費用を徴収するが、合宿期間の定めは事実上なくなり、以後一日一万円の割合で費用を徴収することとなった。
甲ヨットスクールの専任のコーチは、昭和五三年には、被告人甲を除くと、被告人甲2を含めて七名であったところ、同五四年七月ころに被告人甲4が、同年一〇月に被告人甲5が相次いで専任コーチとして採用されたが、同年中に辞めたコーチもいたことから、同年末の時点での専任コーチは、被告人甲2、同甲9、同甲3、同甲4、同甲5ほか三名位の計八名位であった。
特別合宿は、登校拒否の問題を抱えた児童のみならず、家庭内暴力、自殺未遂又は自殺願望、無気力、非行などの問題を抱えた児童も対象となっていた。そして、当初においては、参加者が小学生及び中学生であった特別合宿も、次第に高校生などを含む年齢の高い者の参加の割合が増加していった。このため、特別合宿が始まったころは、父母が自ら児童を集合場所としていた名古屋駅まで連れて来ていたので、被告人甲やコーチは、同所で児童を引き取ってマイクロバスなどの車両に乗せ、河和の合宿施設に連れて行くことで足りていたが、非行などの問題を抱え、年齢の高い者を父母が自ら集合場所又は合宿施設まで連れて来ることができないことから、甲ヨットスクールのコーチなどが、父母から特別合宿への参加の申込のあった対象児童などを、その自宅まで迎えに行くことも多くなった。
そして、昭和五四年ころに甲ヨットスクールが配付したパンフレットには、「ヨットスクールへの参加の仕方」として、「1.申込、2.子供の説得、3.2が出来ない場合は命令(了解はとる必要がない)、4.3の場合、無理に集合場所までつれて来る、5.4が出来ない場合はこちらから迎えに行く、6.合宿」と記載した上、「注意 決して子供をだましてつれて来てはならない。命令され、無理強いされた事で子供は合宿をやる理由が出来る。だましてつれて来ると、「だまされた」という事にしがみつき、自分を弁ごしてしまう。又、さぼる口実にする。中学生にもなると腕力では押し出せないようにもなるので、こちらから迎えに行く。多少手荒な方法でつれて来ることもある。」と記載して、父母が自ら集合場所まで連れて来ることができない場合に、甲ヨットスクールのコーチなどが有形力を行使して連れて来ることもある旨明らかにしていた。
北屋敷合宿所を使うようになってからは、特別合宿の合宿期間の定めは事実上なくなったが、このころから、特別合宿に参加する者を甲ヨットスクールのコーチなどが連れて来ることも多くなり、特別合宿生の入校の態様としても稀な状態ではなくなった。それに伴い、特別合宿生の合宿施設からの逃走も増えたので、逃走を防ぐため、夜間、特別合宿生の寝ている部屋の出入口付近に交替でコーチなどが見張りに立つことや、逃走した者を捕まえて殴打するなどの体罰を加えることが行われるようになった。
甲ヨットスクールの専任のコーチの増減をみると、昭和五年五月ころ、短期大学を卒業したばかりの甲11がコーチとして採用され働くようになり、また、同年八月ころからは、被告人甲6が北屋敷合宿所に泊まり込みながらヨットスクールの手伝いをするようになった。そして、被告人甲6が正式にコーチとして採用されたのは、昭和五六年四月ころであるが、特別合宿生との関係ではヨットスクールの手伝いをするようになって間もなくコーチとして扱われており、同年中に辞めたコーチもいたことから、同年末の時点での専任のコーチは、被告人甲2、同甲9、同甲3、同甲4、同甲5に甲11、被告人甲6を加えた計七名であった。そして、これら専任コーチは、他に用事がない限り、北屋敷合宿所二階のコーチ専用部屋に寝泊まりして共同生活をしていた。
昭和五五年になると、特別合宿生の中での高校生などを含む年齢の高い者の割合は更に増加し、特別合宿生のA(当時二一歳)が死亡する事件(以下「A事件」ともいう。)が発生した昭和五五年一一月四日ころは、合宿所にいた特別合宿生一三名(Aを含む)のうち中学生が七名であり、その余は高校生又は高校中退者などの年齢の高い者であった。しかし、特別合宿生の人数自体についてはそれほどの変化はなく、常時一〇名前後ないし十数名位の人数で推移していた。
昭和五十六年六月に開始された、神戸ポートピア博覧会記念のサンフランシスコ・神戸間太平洋横断シングルハンドヨットレースには、甲ヨットスクールから被告人甲9、同甲4のコーチ二名と元特別合宿生の乙1が参加し、その準備のためなどもあって、同年三月から八月ころまでの間は、被告人甲3、同甲5、甲11らも渡米するなど、北屋敷合宿所には、被告人甲を除くと被告人甲2、同甲6の二名位した専任コーチはいない状態であった。
元特別合宿生の乙1が太平洋横断ヨットレースに参加する旨の新聞記事が掲載された昭和五六年の途中ころからは、特別合宿への参加申込も次第に増加するようになっていたところ、昭和五六年八月から同年一二月にかけて、情緒障害児に対する甲ヨットスクールにおける訓練の様子などが、作家、評論家の上之郷利昭の取材、記述によるノンフィクション記事(「スパルタの海」)として、中日新聞、東京新聞等に一一五回にわたって連載され、この連載が開始されたころから、特別合宿への参加申込が急増した。そのため、甲ヨットスクールでは、北屋敷合宿所に受け入れることができるだけの特別合宿生を参加させたが、特別合宿に参加できない者も多数いる状態となった。
被告人甲は、昭和五六年一一月一日、株式会社シー・ワイ・シーを甲ヨットスクール株式会社と商号変更した。同会社の本店は、従前と同様被告人甲の住居地(株式会社シー・ワイ・シーのころから自宅建物の一部が会社の事務室として使用されていた。)であり、目的は、ヨット(新・中古艇)の販売及び輸入販売、ヨット教室の経営等であって、被告人甲が代表取締役、同被告人の妻甲12が取締役となっていた。なお、昭和五七年一一月二八日には被告人甲2も会社の取締役となった。
昭和五六年一月ころ、特別合宿生の健康管理等の目的で、看護婦として乙2が採用され、また、同年九月ころには、被告人甲10が正式に専任のコーチとして採用された。そして、乙2は、昭和五七年の途中までは合宿所に寝泊まりし、その後は通勤して、訓練生の怪我の処置をするなどの仕事にあたっていたが、あまり身体が丈夫ではなかったので、仕事を休むことも多かった。
特別合宿の参加費用は、昭和五七年になると更に引き上げられ、同年初めころには、入校金五〇万円のほか一日一万円の割合による合宿費の前払金五〇万円の計一〇〇万円を一括して徴収することとなった。
北屋敷合宿所の建物は木造二階建で、二階部分がコーチら及び特別合宿生の宿泊場所となっており、一二畳のコーチ専用の部屋を除くと、一五畳、四畳、六畳の三部屋が特別合宿生の宿泊場所とされ、参加申込が急増した当初、収容人員を二〇名位としていたこともあったが、昭和五七年四月ころには、三〇ないし四〇名位の特別合宿生を収容していた。
特別合宿生の増加に従い、昭和五七年になると、一月ころ、乙3が職員として採用され、合宿費用の管理や電話の受付などにあたるようになったほか、専任のコーチの採用も相次いだ。すなわち、昭和五七年二月ころには、乙4が、同年四月ころには、被告人甲7及び元特別合宿生の乙5がそれぞれ採用された。
被告人甲は、多数の参加申込があるにもかかわらず、特別合宿生を増やすこともできない状況にあったことなどから、昭和五七年五月六日ころ、甲ヨットスクール株式会社名義で宮東合宿所の建物(登記簿上の所在地は、愛知県知多郡<番地略>、鉄骨造陸屋根三階建)及びその敷地(二筆、登記簿上の地積合計一八四平方メートル)を購入したが、その直後の昭和五七年五月二〇日、北屋敷合宿所が火災で焼失したため、同年六月ころ以降は、宮東合宿所の建物が合宿施設となった。
4 特別合宿の内容及び推移(宮東合宿所を使用してからの状況)
宮東合宿所の建物は、国道二四七号線の道路と知多湾の北方海岸沿いの堤防に挾まれた場所に位置し、以前にレストランとして使用されていた鉄筋コンクリート造三階建の建物を改造したもので、一階に、事務所、調理場及びカウンター、座敷、便所等が、二階に、通路を挾んでコーチの部屋と女子訓練生の部屋のほか浴室、便所等が、三階に、男子訓練生の部屋と被告人甲のための校長室等がそれぞれあった。コーチの部屋と訓練生の部屋はいずれも、いわゆる大部屋であり、就寝には寝袋を利用する雑居生活をしていた。
北屋敷合宿所においても、特別合宿生の合宿施設からの逃走などを防ぐため、夜間に見張りを置くだけではなく、コーチ専用の部屋の押し入れに逃走のおそれのある者を入れ、ふすまにフック式の鍵を取り付ける対策をとっていたが、宮東合宿所では、同じ目的で、二階の女子訓練生の部屋及び三階の男子訓練生の部屋にそれぞれ格子戸付きの棚(以下「格子戸付きの押し入れ」又は「押し入れ」という。)が設置された。男子訓練生の部屋の押し入れは、部屋の南側に設けられた三段の棚と部屋との境に木製の格子戸(幅四ないし六センチメートル位、厚さ二センチメートル位の木で作ったもの)を取り付けたもので、各段の高さは、上段が約八七センチメートル、中段が約六八センチメートル、下段が約七〇センチメートルであり、奥行はいずれも約一二五センチメートルであった。女子訓練生の部屋の押し入れも、三段の棚のうち中段及び下段にそれぞれ格子戸が設置されているほかは、ほぼ同様である。押し入れは、コーチ自らの手で作られたもので、特別合宿生のうち逃走のおそれのある者が、就寝時、この中に入れられ、格子戸の掛け金に南京錠で施錠することにより、物理的、心理的に逃走を防ぐ役割を果たしていた。押し入れには、多いときで一段に三、四人位の者が入れられていた。
このほかに、階段の中間には人の通行を感知する警報装置も取り付けられた。
宮東合宿所を使用するようになってからは収容人員も増加し、昭和五七年七月ころには、七〇ないし八〇名位の特別合宿生を収容していた。
また、昭和五七年七月ころには、被告人甲8がコーチとして採用され働くようになったので、このころの専任コーチは、被告人甲2、同甲9、同甲3、同甲4、同甲5、甲11、被告人甲6、同甲10、乙4、被告人甲7、乙5、被告人甲8の一二名であった。
特別合宿生の合宿所における一日の生活、訓練のスケジュールは次のとおりである。
午前六時起床
起床後午前七時ころまで海岸でのトレーニング
午前七時過ぎころ朝食
午前八時三〇分ころから正午までヨットの操縦等の訓練
正午過ぎころ昼食、その後昼休み
午後一時三〇分ころから午後四時三〇分ないし五時ころまでヨットの操縦等の訓練、後片づけ
午後六時過ぎころ夕食、入浴、その後自由時間
午後九時三〇分ないし一〇時就寝、消灯
朝の海岸でのトレーニング(以下「早朝体操」という。)の内容は、時期によって若干異なるが、おおよそランニング数百メートル、準備体操、腕立て伏せ五〇ないし一〇〇回位、腹筋及び背筋運動各数十回、スクワット及び握力強化運動各数百回、柔軟体操など(なお、腹筋運動は、昭和五七年ころまではあおむけに寝て足を上げ、二、三分間静止した状態を続ける運動を繰り返していたが、その後、あおむけに寝て上体を起こす動作を繰り返す運動になった。)であり、早朝体操の各種目をこなせない者に対しては、コーチが罵声を浴びせ、手や棒で殴打し、足蹴りするなどの体罰を加えていた。
甲ヨットスクールでは、昭和五四年二月にA31が、同五五年一一月にAがそれぞれ特別合宿中に死亡する事件が起きていたが、宮東合宿所に移転した後も、昭和五七年八月一四日には、夏期合宿が行われた奄美大島からの帰途、乗っていたフェリー「あかつき」船上から特別合宿生のA3、同A2が行方不明となる事件が起き(以下「あかつき号事件」ともいう。)、さらに、昭和五七年一二月一二日には、A4が特別合宿中に死亡する事件(以下「A4事件」ともいう。)が起きたほか、コーチの行為により特別合宿生が負傷する事件が多数起きていた。
甲ヨットスクールに対しては、情緒障害児の立ち直りに効果がある旨の新聞記事(昭和五二年一一月ころ)や上之郷利昭の取材、記述によるノンフィクション記事(昭和五六年八月から一二月)等の好意的なマスコミ報道もなされていたが、死亡事件が起きるたびに、訓練の基本方針及びその実情に対しては強い批判も浴びせられ、A4が死亡する事件が起きた後には、暴力批判の報道が週刊誌の記事等を中心に強くなった。
昭和五八年三月ころには、宮東合宿所の前の国道二四七号線の道路を走行する暴走族が、合宿所の前付近において、甲ヨットスクールを標的とするかのように「人殺し」などと罵声を浴びせながら、爆音を響かせるなどの暴走行為をすることが多くなり、これに腹を立てたコーチらが、同年四月二四日、暴走族を捕まえて殴打する等の暴行を加える事件(以下「暴走族事件」ともいう。)が起きた。
甲ヨットスクールでは、コーチのうち被告人甲2、同甲6、同甲3、同甲5、同甲7、同甲8が昭和五八年五月二六日に暴走族事件で逮捕され、被告人甲も同年六月一三日にA4事件で逮捕された後は、被告人甲9が校長代理として、残っていた被告人甲4、同甲10らと特別合宿を続けていたが、被告人甲9、同甲10が同年八月八日に逮捕され、被告人甲4も同年九月二六日にA事件で逮捕されたため、甲ヨットスクールは、事実上閉鎖された。
昭和五八年ころに甲ヨットスクールが保有していた船舶は、一人乗り用のヨット一〇〇隻位(うち三〇隻位は東京校、大阪校で管理していた。)、救助艇(和船)六隻、モーターボート一隻、本部艇(カッター)一隻、クルーザー六隻等であった。
5 甲ヨットスクールの特別合宿生への対応
① 特別合宿の参加者に対するコーチらによる迎え
北屋敷合宿所を使うようになった昭和五四年九月ころ以降、特別合宿の合宿期間の定めは事実上なくなった。これは、登校拒否の問題を抱えた児童だけではなく、次第に家庭内暴力、自殺未遂又は自殺願望、無気力、非行などの問題を抱えた児童も特別合宿の対象とされ、特に非行の問題を抱えた比較的年齢の高い者の入校が増えて、短期間では訓練の成果がでない者が多くなっていたところ、継続的に合宿訓練を行う施設が確保されたことによるものであった。
また、このため、北屋敷合宿所を使うようになって間もなくのころから、特別合宿に参加する者を甲ヨットスクールのコーチなどが連れて来ること(以下「新人迎え」ともいう。)も増えた。
被告人甲は、すでに、昭和五三年九月ころには、被告人甲9と一緒に、暴れる児童の手足を押さえるなどして無理に自動車に押し込んだ上、おとなしく従おうとしない児童を何度も殴打して鼻血を出させるなど手荒な方法で連れて来たことがあり、昭和五四年ころには、コーチなどが迎えに行く場合には、「多少手荒な方法でつれて来ることもある。」ということを記載したパンフレットを配付していた。
被告人甲は、コーチに対しても、子供が嫌がっても親の承諾があるから力ずくでも連れて来るよう指示していた。そして、専任のコーチとして働くようになった者は、被告人甲の指示を聞いたり、先輩のコーチらと一緒に、特別合宿に参加する者(その多くは未成年者であったが、成年に達した者も含まれていた。以下では区別することなく「子供」又は「児童等」ということもある。)を迎えに行き、連行を拒否する子供の身体を押さえ付けたり、殴り付けたりして連れて来ることを経験するうち、父母らから迎えを依頼されるような者に対しては、理屈や説得は無駄であり、有形力を行使するなどの手荒な方法を使っても、無理にでも連れて来なければならないと考えて、新人迎えに行くようになった。
甲ヨットスクールでは、特別合宿に子供を参加させたいと希望する父母ら保護者から申込書の送付を受けていたが、入校者の選定は被告人甲が専ら行っていた。申込書は、甲ヨットスクールにおいて作成した様式のもので、当初は、保護者の名前、住所、職業、年収、合宿参加者の名前、生年月日、家族構成、子供の成長経過及び現状等を記載する内容のものであったが、昭和五七年ころから、「特別合宿申込書」の表題の下に、成長経過、現在の症状をより詳細に記載しやすいものとなり、また、迎え希望の有無、自宅付近の地図も記載できるようになった。
被告人甲が選定した入校者について、その者を迎えに行く時期、迎えに行くコーチの指名などの決定は、同被告人のほか、名古屋校の責任者で甲ヨットスクール全体の副校長格であった被告人甲2が行っていた。
新人迎えをする場合は、連行を拒否する者を制圧し、無理にでも連れて来なければならないので、少なくともコーチ二名が自動車に乗って行くのが通常であり、昭和五六年ころからは、特別合宿生の中で入校期間も経過し、訓練の成果が上がり、コーチにとって比較的信頼の置けると認められる者(以下「番外」又は「番外生」ともいう。)が加わるようになり、後には、番外生が連行にあたってコーチの補助をすることもあった。
新人迎えの場合、無理に自動車に押し込んだ子供が合宿所へ向かう途中に暴れるおそれがある場合には、その抵抗力を奪って安全確実に連行するために、ロープや手錠を用いて子供の身体を拘束することもあった。
手錠は、昭和五五年ころから使われていたが、その後コーチが購入するなどして、昭和五七年夏ころには、宮東合宿所のコーチ部屋に数個の手錠が置かれており、新人迎えを指示されたコーチが、特別合宿申込書の写などで子供の現在の症状やその体格等から手錠が必要であると判断した場合には、自由に持ち出すことができるようになっていた。
② 合宿所へ連行した後の措置
新人迎えによって合宿所まで連れて来られた子供は、逃走などを防ぐため、通常一週間ないし一〇日間位就寝時には押し入れに入れられた。
北屋敷合宿所においても、昭和五四年ころから、特別合宿生の合宿施設からの逃走などを防ぐため、夜間に見張りを置いたり、逃走のおそれのある者をコーチ専用の部屋の押し入れに入れ、ふすまにフック式の簡単な鍵を取り付けるなどの対策をとっており、新人迎えによって連れて来られた子供が、入校の当初、この押し入れに入れられていたこともあった。
宮東合宿所を使用するようになって間もなく、合宿所の二階と三階にそれぞれ格子戸付きの押し入れがコーチ自らの手で作られ、新人迎えによって合宿所まで連れて来られた子供は、入校の当初は、就寝時には全員押し入れに入れられるようになった。また、階段の中間には人の通行を感知する警報装置も取り付けられたが、夜間の見張りも続けられた。夜間の見張りは、北屋敷合宿所の当時は、コーチが交替で行っていたが、次第に番外生も加わり、宮東合宿所に移ってからは番外生が一時間交替で夜間の見張りに立つことが通常となっていった。
コーチの一部の者は、非行、家庭内暴力が原因で入校した者や新人迎えの際に連行を拒否して暴れた者などに対しては、合宿所に着いて間もなく、これらの者に甲ヨットスクールが従前生活してきた場所とは違うところであることを知らしめ、コーチに対する反抗を断念させるとともにその指示に従わせることを意図して、特段の理由もなく殴打するなどの有形力を行使していた。新しく入校した特別合宿生を殴打するか否かについての明確な基準はなく、コーチが特別合宿生と会った際の髪型、服装、態度等から受ける印象といったコーチの主観で決められ、ヨットの木製の舵棒(ティラー)や卓球のラケット様の形状をした木製の物等で特別合宿生の尻、太股等を数回ないし十数回殴打することが多かった。
新しく入校した特別合宿生を特段の理由もなく殴打することは、昭和五七年一一月ころには、被告人甲2らコーチの一部の者によって一般的に行われていたが、被告人甲も、その必要性を肯定し、認容していた。
③ 早朝体操の強制
早朝体操の内容は、新しく入校した特別合宿生にとって特に厳しいものであり、各種目を完全にこなせる者は皆無であったが、こなせない者に対しては、見回りのコーチが罵声を浴びせ、手や棒で殴打し、足蹴りするなどの体罰を加えていた。
被告人甲は、早朝体操における体罰については、基礎体力がないまま精神力強化のトレーニングをしても良い結果はでないし、自主的に自分の身体を鍛えようとして、前向きに早朝体操に取り組む者は甲ヨットスクールに入校しないとの考えから、これを積極的に肯定し、自らの著書において、「ヨットスクールのやり方は、厳しさが基本です。しかもそれは中途半端ではありません。殴ります。蹴ります。あえいでいる子供の背にあえて乗ることもします。それが私たちの基本方針なのです。」(「私が直す!」)と明言し、自らも体罰を加えていた。
そして、この体罰は、手を抜いて早朝体操に真面目に取り組もうとしない者に罰を与え、訓練に集中させるため加えられる意味もあるが、また、持っている能力をより向上させるためには、罵声を浴びせ、殴打するなどして能力の限界まで挑戦させる必要があるとして、真面目に取り組んでいるか否かにかかわらず加えられた。
新任のコーチは、早朝体操における体罰の厳しさに驚き、古参のコーチが加える体罰を傍観して、当初はほとんど殴打、足蹴りなどを加えることをしないが、甲ヨットスクールでの生活を続け、特別合宿生の訓練に対する消極的、拒否的態度に接するうち、特別合宿生に対しては、理屈や説得は無駄であり、体罰を加える方が手っ取り早いし、コーチが手を抜いたら見透かされて訓練の効果が上がらないという考えを持つようになり、次第に体罰を加えることに心理的な抵抗を感じないようになっていった。
そして、非行の問題を抱えた比較的年齢の高い者の入校が増え、また、特別合宿生の数自体も増えてくるに従い、手拳による殴打や足蹴りなどのほか、竹や棒等で殴打することも一般的に行われるようになった。
早朝体操においては、その他に、ランニング中に突堤上から訓練生を海に突き落としたり、砂浜で訓練生を海に浸けるなどの方法による体罰が加えられていた。
④ 海上訓練の強制
甲ヨットスクールが海上訓練に使用していたヨットは、被告人甲の要求に基づき特別に設計された一人乗り用のヨットで、通称「かざぐるま」と呼ばれていた。このヨットは、従来の子供用ヨットに比べ、スピードは出るがヨット操縦の技術が向上しなければ転覆しやすいという特徴を持っていた。
海上におけるヨットの操縦訓練は、ウエットスーツ、ライフジャケット、ヘルメットを着けた訓練生を一人乗り用のヨット「かざぐるま」に乗せ、コーチが救助艇(和船)から指示を与える方法で行われていたが、真面目に訓練に取り組んでいないと判断した訓練生に対しては、コーチが救助艇を故意にヨットに衝突させて転覆させたり、ひしゃく様のあかくみやバケツで海水をかけたり、あかくみやティラー等で訓練生を殴打するなどの体罰を加えていた。
⑤ 監視と逃走した者に対する制裁
特別合宿生は、例外的な場合を除き、自ら望んで入校したものではない上、合宿所での自由を拘束された生活、厳しい訓練及びコーチからの体罰等に耐えられないため、甲ヨットスクールからの逃走を企てるものも多かった。
特別合宿生の逃走は、昭和五十三年ころの特別合宿を始めた当初からあったが、新人迎えによる入校者が増えるに従い、逃走を企てる者も多くなっていった。
甲ヨットスクールでは、特別合宿生の逃走を防ぐため、そのおそれのある者を就寝時に格子戸付きの押し入れ等に入れること、夜間にコーチ、番外生が見張りに立つことなどの対策をとっていたが、特別合宿生に対する監視は、昼夜を問わず実施されていた。早朝体操の時には、番外生やコーチら(以下「番外生等」ともいう。)が特別合宿生の存在を確認するためにまず点呼をとり、ランニング中にも要所に番外生等が立って見張りをしていた。また、特別合宿生が合宿所にいる場合には、一階に番外生等が立って見張りをし、特別合宿生が入浴のため角屋へ行く場合や健康診断のため平病院へ行く場合などには、必ず番外生等が引率し、逃走しないよう見張りをしていた。
逃走した者があるとコーチがその捜索にあたった。特別合宿生は原則として現金を一切持たされておらず、逃走した者も徒歩で逃げるか通りがかりの自動車に乗せてもらうなどの限られた方法しかなかったので、逃走に成功する者もいたが、自動車を利用するなどしたコーチに見付けられ、連れ帰られる者も多かった。
逃走に失敗した者に対しては、ティラーや卓球のラケット様の形状をした木製の物等で尻、太股等を殴打するなど、コーチによる体罰が加えられた。
三 Aに対する傷害致死事件(A事件)
(昭和五八年わ第一五二二号、被告人甲、同甲2、同甲3、同甲4、同甲5、同甲6に対する各傷害致死被告事件)
1 (犯行に至る経緯等)
A(以下「A」ともいう。)は、昭和三四年八月一六日に出生し、昭和五〇年三月、大阪府内の同志社香里中学校を卒業した後、同年四月、同志社香里高等学校に進学した。Aは、高校進学後の実力考査の成績が非常に悪かったことなどから、一学年の二学期からは頭痛などを理由に登校を拒否したり、早退することがあった。Aの両親は、この対策として、家庭教師をつけたり、担任の西坂教諭が監督をしていたラグビー部に入れたりしたが、その後も、Aの学業成績は相変わらず振るわず、欠席、遅刻等も目立った。しかし、進級等に差し支えるほどの欠席はなく、Aは、昭和五三年三月、同高等学校を卒業した。
Aは、高校を卒業したものの、学業成績が悪かったため自らの希望した同志社大学の一部への推薦入学を得ることができず、他の大学の入学試験にも不合格となったため、予備校に通って大学受験の勉強をするようになったが、予備校への進学は数か月で辞めてしまった。Aは、その後は自宅で受験勉強をする生活をしていたが、真面目に受験勉強をするというわけでもなく、しかし、進学を諦めることもできずこれに固執するという状態で日を過ごしていた。
Aの両親は、高校を卒業して三年目になる昭和五五年になると、Aが何事をするのも面倒くさい様子で洗面等もしなくなった上、筋が通らず一貫性のないことを言ったり、訳の分からないことを言うようになったとしてその精神状態を心配し、同年一〇月二日、京都市内の医療法人三聖病院に相談に行くなどAの様子に困り果てていた。そのころ、甲ヨットスクールの訓練生であった乙1がいわゆる情緒障害児を克服して太平洋横断のヨットレースに出場するまでになったことを伝える記事が全国紙に掲載されたが、これを知ったAの両親は、相談の上、ヨットスクールから特別合宿の入校案内等を取り寄せ、さらに、乙1の両親に電話をして甲ヨットスクールの様子を問い合わせたりしていた。
このような状態にあったところ、大学入学のための共通一次試験申込締切日ころである昭和五五年一〇月一五日ころ、Aが自室で暴れ、たんすの中の物などが室内に散乱し、ガラスが二、三枚割れるなどの状態となり、近所の人の通報でパトカーが駆け付ける事態が起こった。
そのため、Aの父A'は、Aの状態を心配した挙げ句、電話で被告人甲と連絡をとり、同被告人の関西出張の折りにAの入校の件で面談して話し合うことになった。
昭和五五年一〇月二五日ころ、Aの両親は、大阪市内のホテルの喫茶店で被告人甲および甲9コーチと会い、甲ヨットスクールの厳しい訓練内容、入校のための費用などの説明を受けるとともに、Aのこれまでの生活の様子などを被告人甲らに伝えて対応を相談した。この話し合いの中で、Aの両親は、生活の様子などからAに精神分裂病の疑いを感じていること、Aの年齢が二一歳になっていることを心配しながらも、甲ヨットスクールへ入校させてくるれよう頼んだが、このときの話し合いではAの入校を決定するなどの結論を出すまでには至らずに別れた。
しかし、Aの行動、生活の様子に困り果てていた父A'は、その二、三日後、被告人甲に電話をかけ、Aを入校させてくれるよう再び依頼した。
このため、被告人甲は、Aの生活の様子などを両親から聞いた限りでは、明らかに精神分裂病であるとも考えられなかったことや、一応入校させてみて精神病であることが分かった段階で家に送り帰してもよいと考え、Aの父A'からの電話があって間もなく、甲ヨットスクールの特別合宿生としてAを受け入れることを決意し、すぐに被告人甲2にその旨及びAが入校するに至った概要を伝えるとともにAの新人迎えの手配をするよう指示した。
被告人甲の指示を受けた被告人甲2は、昭和五五年一〇月二九日ころ、A方に電話をかけ、甲ヨットスクール側で同月三〇日にAを迎えに行く旨伝えるとともに、被告人甲6、同甲5に対し、新たに入校するAの新人迎えをするよう指示した。
被告人甲3、同甲4は、Aの入校前においては、Aに関して他のコーチらから、近々成人に達した無気力な者が特別合宿生として入校する旨の話を聞いていた程度の認識であり、同月三〇日も朝食後ころから愛知県半田市内の造船所で船の修理作業のため一日中出掛けていたため、夕方に旅館「角屋」において訓練生の保護者の招待で開かれた夕食会に出席した際、連れて来られたAを認めて、その入校を知った。
2 (罪となるべき事実)
被告人甲、同甲2、同甲6、同甲5は、昭和五五年一〇月二九日ころ、Aを甲ヨットスクールの特別合宿生として入校させ、Aに訓練をさせるために、場合によっては、Aに対し、殴打、足蹴りなどの有形力を行使することも一向に構わないとの意思を相互に通じ、また、被告人甲3、同甲4も、Aの入校を知った後には、特別合宿生のAに訓練をさせるために、他のコーチの有形力の行使を容認し、かつ、自らも有形力を行使するなど、これに承継加担する意思を相通じ、共謀の上、以下のとおり暴行を加えた。
<新人迎えのときの暴行>
被告人甲6、同甲5は、Aの新人迎えのため、同月三〇日正午ころ、大阪府枚方市須山町二丁目二番地のA'方に普通乗用車で到着した。
被告人甲6、同甲5は、A'方一階の部屋でAと会い、こもごも甲ヨットスクールで訓練を受けてみないかなどと話をしたが、Aが、「自分には大事な研究がある。」「家には金もない。」などと言ってこれを拒否し、二階の自室に上がってしまったので、被告人甲6、同甲5は、Aのこのような態度を見て、本人の承諾を得て甲ヨットスクールの合宿所(北屋敷合宿所)まで連れてくることはできないと考え、間もなくAが一階のトイレに入って出てきた機会に、被告人甲5がAの顔面を平手で一回殴り付けた。さらに、被告人甲6、同甲5は、一旦はおとなしくヨットスクールまでついて行く様子であったAが玄関で「やっぱり行かない。」などと言って拒否する態度を示し玄関内で寝転がる状態となったため、被告人甲5がAの上半身を抱きかかえるようにつかみ、被告人甲6とAの父A'が両足をそれぞれつかんで、家の前の道路上に停めてあった自動車まで運び、その後部座席に押し込んだが、その途中、被告人甲6及びA'が暴れるAの身体等をこもごも手で数回殴り付けた。
そして、被告人甲6が自動車を運転し、被告人甲5が後部座席のAの脇に座った状態で、途中役割を交替したりしながら、Aを同日夕方ころ愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(北屋敷合宿所)に連れて来た。
<一〇月三一日の早朝体操のときの暴行>
Aは、合宿所に到着した翌日である昭和五五年一〇月三一日の早朝体操から甲ヨットスクールの特別合宿生として訓練を受けることになった。
同日午前六時ころ、訓練生が合宿所北側の玄関前に整列して点呼を受け、早朝体操のため海岸の方へ向かおうとしたところ、Aのみがその場に崩れるように座り込んだため、被告人甲6は、被告人甲、同甲5とともにその場に残り、立ち上がるようAに声をかけていたが、一向に動こうとしないことから、近くの水道の蛇口に取り付けられていたホースを引き寄せ、Aの頭の上から全身に水をかけた。しかし、それでもAが動こうとしないので、被告人甲6は、被告人甲の指示で、もう一度同様に水をかけた。
このようにして水をかけられたAは、座り込んでから数分位して立ち上がり、海岸の方へ歩いて行った。
早朝体操は、北屋敷合宿所の東方約一〇〇メートル位のところにある愛知県知多郡河和港南側の海岸で行われ、砂浜におけるランニングのほかは、堤防から砂浜に降りるコンクリートの階段で腕立て伏せなどが行われていた。
同日の早朝体操には、被告人甲、同甲2、同甲3、同甲4、同甲5、同甲6が参加し、号令をかけたり、訓練生の運動の様子を見ていた。
同日午前六時過ぎころ、被告人甲6は、腕立て伏せの運動のできないAに対し、竹の棒で背中や臀部付近を一〇回位殴り付け、早朝体操が行われていた間、被告人甲5、同甲2、同甲3も、手でAの頭部や身体をこもごも殴り付け、被告人甲3は、Aの大腿部を足蹴りした。
さらに、Aが階段の付近で寝転がり動かなくなったのを見た被告人甲は、被告人甲6に命じて、同被告人とともに二人でAの手足をつかみ、海の中へAの身体を投げ入れ、その後、海岸においてAの頭部付近を手で殴り付けた。
<一〇月三一日の昼ころ、旅館「角屋」駐車場における暴行>
同日の午前中、Aは、被告人甲6に引率されて健康診断のため平病院に行き、同被告人の運転する自動車に乗って昼ころ、愛知県知多郡<番地略>所在の旅館「角屋」の駐車場まで戻って来た。被告人甲5は、Aが自動車から降りようとしないため、右平手でAの顔面を二回位殴り付け、さらに、被告人甲3、同甲6とともに三人でAの腕などをつかんで自動車から引きずり降ろした。
その後、駐車場付近で訓練生やコーチらが角屋から提供された昼食をとっている間、Aは食事をすることなく駐車場のコンクリートの地面の上に寝転がっていたが、昼過ぎころ、昼食を終えた訓練生らが合宿所へ帰るころになっても動こうとしなかった。
被告人甲、同甲4を除くその余の被告人らはAの周りを取り囲み、立ち上がらせようとしてこもごも声をかけたが、Aがなおも動き出そうとしないため、そのうちの一人がAの胸や腹付近を足蹴りし、被告人甲6が水道の蛇口につないだホースから出した水をAの全身に浴びせた。
さらに、被告人甲3、同甲5は、Aの身体をつかみ、引きずるようにしてAを自動車のところまで運び、自動車の中へ頭と足が上下逆向きになる状態のまま押し込んで合宿所まで戻った。
<一〇月三一日午後の海上訓練のときなどの暴行>
同日の午後一時過ぎころ、午後の海上訓練のため出発するころになってもAが動こうとしなかったので、被告人甲6、同甲5は、Aの身体をつかんで引きずりながら同人を合宿所から海上訓練に出発する海岸(愛知県知多郡<番地略>付近の新江川北側海岸)まで連れて行った。
被告人甲は、海岸まで連れて来られたAが波打際に倒れ込んだのを見て、立つよう命じ、なお立たないことから、Aの頭部をつかんで顔を海水につけるなどした。
Aは、その後、被告人甲3の運転するモーターボートに乗せられ、海上に出た後、他の訓練生の乗っているヨットに移されたが、動こうとせず、ヨットの操縦に必要な行動をとろうとしないため、ヨットが転覆して海中に投げ出され、またモーターボートの上に引き上げられた。
被告人甲3は、Aをモーターボートからヨットに移そうとした際、Aが動こうとしないため、その顔面を平手で一回殴り付け、転覆して海中に投げ出されたAをモーターボートの上に引き上げた際、訓練行動をとろうとしないことを叱り付け、その顔面を平手で数回殴り付けたほか、海上訓練の際、柄のついたひしゃくで海水をAの頭の上からかけるなどした。
その後、Aは、モーターボートに乗せられて海岸まで連れて来られたが、同日午後四時ころ、海上訓練が終わった際、被告人甲、同甲4を除くその余の被告人らは、海岸に横たわったAの周りに集まり、「情けない男だ」などと言いながら、こもごも、その身体を殴り付けたり、足蹴りにした。
Aは、海岸から合宿所まで一人で歩くことができず、他の訓練生に抱えられるようにして合宿所へ戻ったが、夕食時も疲れた様子で横になっていた。
Aは、同日の就寝時になっても、合宿所二階の部屋の中で四つん這いの状態であったので、被告人甲3は、他の訓練生が寝袋を敷くのにじゃまになるとして腹を立て、Aの臀部を一回足蹴りした。
<一一月一日の早朝体操のときの暴行>
同日午前六時ころ、被告人甲5は、他の者と一緒に、Aの身体をつかみ引きずるようにして同人を合宿所から早朝体操をする海岸まで連れて行った。
早朝体操の際、Aは相変わらず各種目をこなすことができなかったため、被告人甲2、同甲6は、竹の棒でAの身体をこもごも数回ないし多数回殴り付け、被告人甲4は、Aの顔面を平手で数回殴り付け、被告人甲5、同甲3は、Aの顔面又は身体をこもごも手で殴り付けるなどした。
<一一月一日午前中の作業のときの暴行>
同日午前中は炭焼きのための穴堀り作業が行われたが、Aがほとんど動こうとせず、座り込んだりする状態であったため、被告人甲2は、Aの足の辺りを二、三回足蹴りにし、被告人甲6は、Aの臀部付近を木片で二回位殴り付けた。
<一一月一日午後の海上訓練のときの暴行>
同日の午後からの海上訓練において、被告人甲6は、Aがヨットに乗ったもののその水抜き栓をはめ忘れていたため、叱り付けながらAをヨットから海水中に突き落とし、被告人甲3は、救命胴衣をつけて浮いているAのそばにモーターボートに乗って近付き、バケツで海水をかけたり、Aのかぶっていたヘルメットを叩いたりしたが、その後、被告人甲6は、海に浮いているAのそばに近付いたモーターボートの上からAの身体を目掛けて、足から飛び込むようにしてAの身体を海中に沈め、これを繰り返した。
また、被告人甲6は、Aをモーターボートの上に引き上げた際、船上において、Aの背中付近をマストの先の金属製部品で殴り付けた。
Aは、海上訓練を終えて海岸に戻って来た後、倒れて動こうとせず、しばらく横たわっていたので、他の訓練生らに抱えられるようにして合宿所へ戻ったが、夕食もとらずに横になっていた。
<一一月一日夜に角屋旅館へ行ったときの暴行>
同日の夕食後の夜、被告人甲2、同甲4は、入浴のため訓練生らを連れて旅館「角屋」まで徒歩で往復したが、Aが他の訓練生に抱えられるようにされても膝をつく様子を見て、Aに気力が足りないものと思い、被告人甲2は、角屋へ行く途中、その顔面を平手で二回位殴り付け、被告人甲4も、合宿所へ戻る途中、Aの顔面を手拳で一回殴り付けた。
Aは、一一月二日の早朝体操に出たものの、ほとんどなにもせず、午前中の海上訓練の際には、当日のコーチの数が足りないことなどから、和船に乗せられて見学していた。また、昼からは、食事をすることもなく合宿所の二階の部屋で終日寝ていたが、体温は摂氏三五度以下の低い状態であり、深夜になると、「水をくれ」などと大声を出したり、足をばたつかせたりしたほか、ものを吐いたり、尿をもらすなどの状態であった。
そして、Aは、翌日の一一月三日も食事をすることなく、前日と同様に終日寝ていたが、他の者が話しかけても答えずに意識が朦朧としている様子であった。
同日の午後一一時ころ、Aの脈拍が確認できないくらいになっていることを知って慌てたコーチらが、直ちに、Aを合宿所から愛知県知多市<番地略>所在の平病院まで自動車で運んだが、同月四日午前零時ころ、平病院へ行く途中で死亡した。
被告人らは、前記の一連の暴行により、Aの顔面、背部、腰部、上下肢等に多数の皮下出血、表皮剥脱等の傷害を与え、これによりAを死亡させたものである。
3 (A事件についての補足説明)
① Aの死因について
検察官は、Aの死体には、昭和五五年一一月四日の解剖時において、頭部、顔面、胸腹部、上下肢に合計九二群の創傷(皮下出血、表皮剥脱等)が認められるが、組織検査によれば、肺、心臓、腎、副腎等の臓器には、いずれも死亡時にショック状態であったと考えざるを得ない所見ばかりが認められる上、このショックの原因となるものは、前記のおびただしい外傷群以外に存在するものはないから、Aの死因は外傷性ショックであるとし、捜査段階において鑑定を受託した内藤道興、渡辺博司が、それぞれ、鑑定書において死因を外傷性ショックであるとの一致した結論を出していることについても、その信用性は極めて高いと主張する。
これに対し、弁護人らは、ショックの原因となるものとしては、本件において、外傷以外に出血性肺炎(これに伴う心不全)やその他の原因(寒冷暴露、低体温)も考えられるとし、捜査段階において最初に鑑定を受託した矢田昭一が、鑑定書において「死因は出血性肺炎とみなされ、病死と解される。」という結論を出したことは、証拠上十分に理由のあるものであり、Aは、寒冷暴露による低体温状態の中で激性のインフルエンザ肺炎を発病して死亡したものと認められるが、少なくとも、Aの死因が外傷性ショックであるとの検察官の主張は「合理的疑い」を越える程度まで立証されていないと主張する。
Aの死因については、捜査段階において鑑定を受託した矢田昭一(鑑定書作成時において名古屋大学医学部法医学教室教授)、同内藤道興(鑑定書作成時において東京慈恵会医科大学医学部法医学教室助教授)、同渡辺博司(鑑定書作成時において慶応義塾大学医学部法医学教室助教授)、弁護人らからの質問に対して意見書を作成した助川義寛(意見書作成時において大阪市立大学医学部法医学教室教授)の四名が鑑定書、意見書を作成し、いずれも、証人として法廷において供述しているところであるので、前記の検察官及び弁護人らの争点につき、これらの意見をまとめた上で、検討することとする。
なお、以下において、矢田昭一作成の昭和五五年一一月二七日付鑑定書(<書証番号略>)を「矢田鑑定」と、公判調書(第九回、第一五回、第一六回)中の証人矢田昭一の供述部分を「矢田証言」と、内藤道興作成の鑑定書(<書証番号略>)を「内藤鑑定」と、公判調書(第一〇回、第一六回、第一七回)中の証人内藤道興の供述部分を「内藤証言」と、渡辺博司作成の鑑定書(<書証番号略>)を「渡辺鑑定」と、公判調書(第一三回、第一四回)中の証人渡辺博司の供述部分を「渡辺証言」と、助川義寛作成の意見書(<書証番号略>)を、「助川意見書」と、公判調書(第八二回、第八四回、第八八回)中の証人助川義寛の供述部分を「助川証言」という。(さらに、例えば第九回公判調書中の証人矢田昭一の供述部分を特定する場合には、「矢田証言・九回」のようにいう。)
Ⅰ 矢田鑑定は、司法警察員からの鑑定嘱託を受けた矢田昭一が、裁判官の鑑定処分許可状に基づき、昭和五五年一一月四日にAの死体を解剖し、その上で作成したものである。矢田昭一は、矢田鑑定において、創傷の部位、程度、成傷器の種類、用法に関し、Aの死体には、頭部、顔面、胸腹部、背面、腰部、上下肢に合計九二群の創傷が認められ、いわば満身創痍といえる状態であるが、損傷の種類はすべて表皮剥脱、皮下出血などに限られており、これらの創傷を成傷器との関係でみると、ア左眼窩部の皮下出血、上口唇粘膜下の出血は、これらの部を手拳の類で打撃されたため生起された公算が大きく、イ胸腹部、背面に広範囲に多数散在している二条の並行する皮下出血は、二重条痕と呼ばれているもので、小ループを形成する比較的細い棒状のもの、例えば布団叩きのようなもので繰り返し打撃されたのではないかと思われ、ウその他の、頭部、胸腹部、上下肢等の皮下出血は、鈍体による打撲に起因するとみなされ、エ頭部、顔面、胸腹部、背面、腰部、上下肢等にみられる表皮剥脱は、擦過状を呈するものが多く、本屍の体表が表面の粗ぞうな鈍体と接触し、主として上下方向にこすられたことを強く指示している、としている。
また、矢田昭一は、矢田鑑定において、内景検査による所見は、
「心。370g、本屍手拳より大。外膜下脂肪沈着中等。左右房室腔内軟凝血と豚脂様凝塊を混ずる暗赤色、流動性血液多量をいれる。剔出時同様性状血液多量を洩出。右室前面に小指頭大腱斑1コ。灌水試験完。卵円窩母指頭大。卵円孔閉鎖。右房室口3指を通ずる。肺動脈起始部巾7cm。内膜淡黄色、平滑。左房室口3指を通ずる。大動脈起始部巾6cm。内膜淡黄色、平滑。冠状動脈は左右とも開口部尋常。走行尋常。硬変なし。ただし、右冠状動脈にはアテローム斑が少許散在。内腔の狭窄なし。左右房室腔大きさほぼ尋常。心尖は左右両室より成る。内膜、肉柱、腱索、乳頭筋、弁膜著変なし。室厚右0.3cm、左1.5cm。筋肉赤褐色。弾力性硬。」
「左肺。350g、20×13×5.5cm。表面帯黄淡紫褐色。下葉後面は暗紫褐色。肺門リンパ節著変なし。割面表面と同様色であるが、暗紫褐色をみとめた部はやや固く触れ、胸膜に近い辺縁部の実質内に出血あり。この部は液量、血量多く、含気量貧。ただし、投水すると浮遊。気管支内灰白色泡沫多量。粘膜血管充盈中等。」
「右肺。610g、25×18×7cm。表面帯黄淡紫褐色。上、下葉後面は暗紫褐色を呈し、やや硬く触れる。その他諸性状は左と同様。」
「左腎。190g、12×7×4cm。被膜剥離容易。表割面とも淡紫褐色。弾力性硬。皮髄分明。血量中等。腎う粘膜血管充盈中等。溢血点なし。副腎髄質一部融解。皮質リポイド貧。くすんだ淡褐色を呈する。」
「右腎。170g、12×6×3.5cm。腎動脈部に母指頭大の薄層の軟部組織間出血あり。諸性状は左とほぼ同様。副腎左と同様性状。」
であるとし、また、組織検査による所見は、
「1、心 うっ血がある他著変なし。2、肺 肉眼で暗紫褐色を呈した部は出血が著明で、少量の滲出液を伴う。3、腎 うっ血がある他著変なし。4、副腎 うっ血がある他著変なし。」
であるとしている。
さらに、矢田昭一は、鑑定書を作成した後の昭和五八年八月か九月に、Aの臓器(心、肺、腎、副腎)の組織標本を再検査したが、その所見は、
肺については、「肺胞内に著明な出血がある。大体この出血巣の中心部には軽度又は高度に壁の破壊された細気管支が存在する場合が多い。これら細気管支には肺胞同様に赤血球滲出液が充満している。また、同部分の小血管内に硝子様血栓が発生している像が多く見られる。同部分及び周囲に肺胞内滲出液貯留像(肺水腫)、うっ血像を伴う炎症性細胞浸潤は認められない。肺胞内にごく軽度のマクロファージ(大喰細胞)の浸潤がある。残存した肺胞(健常な部分)は拡張気味で一部気腫状を呈する。」
心については、「うっ血、一部で浮腫あり、冠状動脈著変なし。」
腎については、「皮質、髄質ともにうっ血がある。尿細管著変なし。円柱ほどんどなし。」
副腎については、「皮質、髄質ともにうっ血、血管内にフィブリン繊維素血栓多数」
というものであった(矢田証言)としている。
これらの所見等を前提として、矢田昭一は、Aの死体の全身に分布する前記損傷については、個々の損傷はいずれも表皮剥脱、皮下出血などに限られていて、比較的軽微で、内部の主要臓器に異常を伴っているわけではなく、単独で死因に関与するものがあったとは到底考えられないとした上で、個々の損傷はそれほどではなくとも、これらが総合されて作用したとすると、生体機能に重大な悪影響を与えた可能性はあるので、一次性及び二次性外傷性ショック死を考えなければならないが、一次性外傷性ショック死は、Aが受傷直後に急死していないことから当然除外できるし、二次性外傷性ショック死についても、多少問題は残るが、筋肉挫滅などが存在しないこと、腎に異常所見を欠いていることなどから一応除外して差し支えないと考えられるとして、死因が外傷性ショックであることを否定(矢田鑑定、矢田証言)する。
そして、矢田昭一は、矢田鑑定、矢田証言において、肺の出血について、その所在部位、広がり、外傷の程度などを考えると、血液吸引、肺挫傷、中枢性肺出血によるものとは認められず、また、ほとんど純粋の出血のようであることから、出血性肺水腫の出血とも違うとした上で、結局、各種の所見からみて、出血性肺炎の出血と認め、Aの死因については、Aが受けた損傷、寒冷暴露等による疲労、体力消耗が有力な誘因となって発症した出血性肺炎とみるのが最も妥当であるとの結論に至っている。
Ⅱ 内藤鑑定は、昭和五八年九月一日、名古屋地方検察庁の検察官から、Aの死因(特に外傷と死亡との因果関係)について、鑑定の嘱託を受けた内藤道興が作成したものであり、その鑑定資料は、
ⅰ 矢田昭一作成の鑑定書(昭和五五年一一月二七日付、<書証番号略>)写
ⅱ 矢田昭一提出のAの臓器ブロック四個(心、肺、腎、副腎)(<書証番号略>)
ⅲ 司法警察員作成の現場写真撮影報告書(昭和五五年一一月七日付、Aの死体を撮影したもの、<書証番号略>)写
ⅳ 司法警察員作成の実況見分調書(昭和五五年一一月一五日付、Aの死体を見分したもの、<書証番号略>)写
ⅴ 司法警察員作成の実況見分調書(昭和五五年一一月一〇日付、北屋敷合宿所等を見分したもの、<書証番号略>)写
ⅵ 平病院の診療録(Aの診断カルテ、<書証番号略>)写
ⅶ 平病院の健康診断における検査時のレントゲン写真、心電図(<書証番号略>)
ⅷ 医師平恭司作成の健康診断書(同謄本は<書証番号略>)写
ⅸ 検察官山田弘司作成のAの死亡経緯に関する報告書(<書証番号略>)
ⅹ 矢田昭一提出のAの死体の組織のプレパラート二枚(<書証番号略>)
である。
内藤道興は、肺の出血に関し、矢田鑑定では出血性肺炎の出血と認めているが、鑑定資料の写真によると、「肺の出血はかなり限局的な斑点状の出血でありそれも左肺に於ては下葉、右葉に於ては上・下葉の何れも後側に偏して存在しており、割面の所見は斑点状の出血が、死後の血液就下によってかなり融合したもののように看取され、右肺に於て比較的広い範囲であるように思われる。」「インフルエンザによる死体にみられる肺出血(出血性肺炎)であると、この写真所見から断定することは困難で、むしろ否定的であるように思われる。」(内藤鑑定)とする。
また、矢田昭一が出血性肺炎の原因としてインフルエンザウイルスを考えている(矢田証言)ことについても、内藤道興は、臨床的な症状、ウイルスの検出、インフルエンザの流行といったこれを裏付けるものがないのにこのようにいうことはできない(内藤証言)とする。
そして、内藤道興は、Aの死体の損傷の程度、腎その他の臓器の異常所見の存在、入校前から死亡に至るまでの経緯などを総合して、「損傷が直接的原因となって外傷性ショック死を生起したもので、外因死であって、損傷と死因との因果関係は存在すると解すべきものと考えられる。」(内藤鑑定)との結論に至っているが、その根拠は以下のとおりである。
ア Aの死体の損傷の程度
内藤道興は、矢田鑑定ではAの死体には筋肉挫滅が存在しないとしているが、「死体写真を精査すると、左眼「ク」、背面腰部「し」、左前腕「と」、「な」、左手背「に」、右上腕「ね」、右前腕・手背「ふ」、左大転子から上方「も」等はその色調、腫脹の状態からみて、かなり高度広汎な皮下出血の存在したことがうかがわれ、就中腰部を中心とした「し」は皮下組織の挫滅を伴っている公算もあるのではないかと思われる」し、また、「Aの損傷を死体写真からみるときに、単純な限局的皮下出血に止らず、皮膚組織の挫砕的損傷を惹起していたことは間違いないように見られ、検察官山田弘司作成の報告書(山田報告書と称する)によれば一〇月三〇日午後一時ころから殴打が加えられて以後一一月二日午前一〇時頃までにわたって極めて多数回の暴行が加えられていた状況の如くであり、矢田鑑定書にあるように顕著な筋肉挫滅などはなかったとしても、組織崩壊を伴う損傷であることは略間違いないものと思われ、外傷性ショックを招来する条件は充分にあったとみることができる。」とする。
イ 腎その他の臓器の異常所見の存在
内藤道興は、Aの臓器ブロック(前記鑑定資料ⅱ)について再検査を実施した結果、肺については、「肺胞壁の微小血管乃至は細小動脈内に明らかに血栓の形成(写真五、六)が諸所に認められ」、細小動脈の血栓は、「糸くず様のフィブリン凝塊が明瞭に存在することが知られる」とし、腎、副腎、心についても、いずれも、微小血管ないし細小血管内にフィブリン血栓が認められるとするほか、腎については、「細尿管は特に主部に於て上皮細胞の腫大して内腔の殆ど消失しているものが多く、上皮細胞の底部は明るく微細空胞状を呈し、又細胞核の消失しているものもあり、上皮底部に褐色の色素顆粒の多数沈着しているものがある」とその所見を記載した上で、ショックに伴う微小血管内での凝固異常である「所謂播種性血管内凝固症候群(DIC)が生起しているものとみることが出来る」から、「腎に異常所見を欠いていることを理由にして外傷性ショック死を除外する矢田鑑定書は論拠不当であるばかりでなく、既に第二項にも述べたように本鑑定人の検査により腎、副腎等にも異常所見は認められたのである。」とする。
ウ 入校前から死亡に至るまでの経緯
内藤道興は、Aの甲ヨットスクール入校前の健康状態、入校後に被告人らから受けた暴行等、その際にAが示した状態などについて、検察官山田弘司作成の前記報告書(鑑定資料ⅸ、以下「山田報告書」という。)によってこれを認定し、「一〇月三〇日午後一時ころから殴打が加えられて以後一一月二日午前一〇時頃までにわたって極めて多数回の暴行が加えられていた状況の如くであり」、「外傷性ショックを招来する条件は充分にあったとみることができる。」とする。
Ⅲ 渡辺鑑定は、昭和五八年九月一九日、名古屋地方検察庁の検察官から、Aの死因(特に外傷と死亡との因果関係)について、鑑定の嘱託を受けた渡辺博司が作成したものであり、その鑑定資料の内容は、内藤鑑定と同一である。
渡辺博司は、渡辺鑑定において、Aの死因を出血性肺炎とする矢田鑑定について、「出血性肺炎なる病名は、主としてドイツ学派でいわれ始めた病理学的診断名であり、間質性肺炎の一種であるインフルエンザ肺炎の際の、一つの病理的形態を指すものである。その際の形態は肺胞壁には充血が強く、肺胞内にも出血し、少量の線維素を伴い、炎症性細胞の滲出は少ない。このような出血と充血を主とする病変はびまん性に、または小気管支の周囲の病巣として散在性にみられるが、このような病変は発病後数時間以内にみられるもので、大ていは二次性感染によって気管支肺炎像を呈してくる(つまり好中球など炎症細胞の多数の出現)―臨床組織病理学、宮地徹編より―つまり肺炎である限り、炎症性細胞の滲出は少ないのであり、全くないといっているのではない」とした上で、Aの臓器ブロックに基づいて組織所見の検討を行った結果、「肺において出血部には全く炎症反応といえるものがない」し、「肺胞内や細気管支への出血は濾出性の出血である可能性が高く、」また、「臨床的にみた場合、肺炎である限りは多少とも発熱するものであり、どの程度発熱するかは固体の条件によってかなり違うが、平熱以下ということはなく、低体温になるなどということはありえない。」として、その結論に否定的である。
また、矢田昭一がAの死体に存在する損傷について、個々の損傷の程度は比較的軽微であるとしていることについて、渡辺博司は、「Aの死体写真をみてみると、腰部の中央から右側にかけて表皮剥脱を伴う腫脹部のように思われる部分が存在しているが、この部分の創傷の記載がみあたらない。」「なぜ、この部分の創傷があったかなかったかに固執するかというと、鑑定書の記載に右腎の腎動脈部に薄層の軟部組織間出血があること、平病院での尿検査結果が血尿であったことなどを総合的にみると、背部の下半にかなりの打撃が加えられ、この結果筋層に出血している可能性を否定し切れないからである。」「もしその出血が存在し、100ml程度の出血であったとしても、これがショックの誘因の1つになった可能性が否定できないように思われるからである。」(渡辺鑑定)として疑問をはさむほか、矢田昭一が二次性外傷性ショック死について、筋肉挫滅などが存在しないこと、腎に異常所見を欠いていることなどから一応除外して差し支えないとしていることについても、「筋肉挫滅がなかったからといってショックを否定されるのは筋肉挫滅によるショックについてだけである。また腎に異常所見はなかったとされているが、私としてはAの腎の組織所見はやや異常であると思っている。」(渡辺鑑定)として見解を異にしている。
そして、組織所見の検討を行った結果、渡辺博司は、「肺についての1枚の組織標本(肺の1か処の標本といい換えてもよい)をみる限り、炎症反応は全くみられず、あるものは肺の循環不全と出血傾向による肺胞や細気管への濾出性出血とみえる出血所見とDICを思わせる細血管内の血液凝固所見が主要所見であり、本屍の死亡時はショック状態であったと考えざるをえない所見ばかりである。腎の組織所見についても尿細管内の円柱、局所性のうっ血などショックを思わせる所見がみられる。心の組織についても、心筋の低酸素状態を思わせる所見があり、本屍がショックであったとすれば矛盾なく説明できる所見である。これら組織所見を総合判定すれば、本屍の直接死因はショックとみざるをえない」(渡辺鑑定)とする。
さらに、渡辺博司は、「ショックの原因となるものは、おびただしい外傷群以外には存在していない。従って外傷群からのショックとみなす以外にないのである」とし、そもそも、「外傷からショック発生に至る過程は単一のものではなく、いくつかの過程があり、病態生理学的には説明が複雑だから」「外傷群がショックを起こす程度のものか否かを判定し、起こしうる程度のものであれば、一応外傷性ショックと診断して問題はない」との立場で、「このような見地に立てば、本件Aの外傷群はおびただしい数であること、全体としてみれば、出血量もかなりのものと想像されること、平病院での生存中の心電図からみても、広義の心筋障害所見が認められること、白血球数もかなりの増加がみられたこと、血尿も生じていたことなどを総合判定し、」「Aの死因は外傷群に起因したショックである可能性が高いと思われる。」(渡辺鑑定)との結論に至っている。
Ⅳ 助川意見書は、内藤鑑定の鑑定資料ⅰ、ⅲ、ⅳ、ⅵ、ⅶ、ⅹと同一内容の資料のほか、内藤鑑定、渡辺鑑定の各写、矢田証言、内藤証言、渡辺証言が記載された調書の各写、医師平恭司作成の死体検案書(<書証番号略>)写の各資料に基づいて、弁護人らからの質問(前記鑑定及び証言に関するもの)に対し、助川義寛が見解をまとめたものであり、結論的には、矢田鑑定、矢田証言の内容を支持するものであるが、助川義寛は、助川意見書において、「ショックとは心拍出量の減少の結果として臓器組織の需要を満たすに足るだけの血液を供給しえなくなったために、全身の広範な組織が障害された循環の状態」であるとし、これについては、矢田昭一、内藤道興、渡辺博司もほぼ同様の理解のもとにある(矢田証言・九回、内藤証言・一〇回、渡辺証言・一三回)と考えられる。
そして、助川義寛は、助川意見書において、ショックの原因として、「失血で循環血液量の低下による血液原性ショック・細菌性毒素(エンドトキシン等)による血管の弛緩拡大による血管原性ショック・心臓機能低下による心原性ショック・迷走神経反射による神経原性ショック、更にこれらの混合型等がある。」とし、「これらの「ショックの原因」の引き金となったものが、外傷の場合を外傷性ショックと言っている。」とし、矢田鑑定、内藤鑑定、渡辺鑑定においても、ほぼこのような意味のもとに「外傷性ショック」の言葉を用いている(助川証言・八二回)ものと認められる。
矢田昭一(そして、これを結論として支持する助川義寛)と内藤道興、渡辺博司は、死因について結論を異にするが、内藤道興、渡辺博司が死因につき外傷性ショックであるとする根拠をまとめると次のとおりである。
ア Aの死体に存在する損傷の程度は必ずしも軽微であるとはいえない。
イ 腎その他の臓器に異常所見が存在する。
ウ 入校前から死亡に至るまでの経緯をみても、外傷性ショックを起こす条件があった。(特に、内藤鑑定につき)
エ 出血性肺炎であるとする根拠が十分ではない。
以下において、これらの点について検討する。
Ⅴ 内藤道興、渡辺博司は、Aの死体に存在する損傷のうち、特に腰部の損傷につき注目し、内藤道興は、「Aの損傷を死体写真からみるときに、単純な限局的皮下出血に止らず、皮膚組織の挫砕的損傷を惹起していたことは間違いないようにみられ」(内藤鑑定)るとし、渡辺博司も、死体写真からみて、「背部の下半にかなりの打撃が加えられ、この結果筋層に出血している可能性を否定しきれない」(渡辺鑑定)とし、矢田昭一が解剖時において切開していない部分を切開してみたならば、体内に少なくとも数百cc(内藤証言・一〇回)、腰部に少なくとも最低で一〇〇cc、普通に考えても二、三百cc(渡辺証言・一三回)の出血があったはずであるとする。
矢田昭一は、腰部の損傷につき、矢田鑑定において創傷「し」として包括して説明してあるとおり(その説明は、「左右肩甲部、肩甲間部をのぞく背面、とくに腰部にはきわめて広大な範囲に長さ10cm程度までの線状表皮剥脱が多数不規則に散在。とくに右上後腸骨棘上方5cmの部を中心とし2倍手掌面大の範囲ではこれらが密集しきわめて不規則な形を呈する。方向は右やや上方から左やや下方に向うものが多い。さらに右上後腸骨棘上方15cmの部を左上方から右下方に走る長さ3cm、巾0.1cm程度の2条の並行する紫藍色変色。皮下に出血あり。両者の間隔0.5cm。」というものである。)であり、「外から見ても表皮剥脱だと思う」「筋肉挫滅があって筋肉内に大量に出血しているとは私は考えません」(矢田証言・一五回)と説明する。
また、渡辺博司が右腎の腎動脈部に薄層の軟部組織間出血があることと腰部の皮下出血との関連性をいうことに対しては、強大な外力が作用して腎動脈が切れることがあり、そのような場合に後腹膜に大量の出血を来すが、右腎の出血は極めて軽微であるし、創傷が表皮剥脱であるから、筋肉内出血が大量にあるとは考えられない(矢田証言・一五回)と説明する。
さらに、内藤道興が右の手背から前腕にかけて切開していれば筋肉内出血、筋肉挫滅があるかもしれないと指摘する(内藤証言・一〇回)ことに対しても、正確には切開してみなければ分からないが、筋肉内出血があると少し局所が腫脹するところから推定はできるし、筋肉内に出血があったかもしれないが、ほとんど皮下出血と判断する(矢田証言・一五回)と説明する。
しかも、出血量については、全身で「あったとしてもせいぜい何百cc止まりでしょう。」、その程度の出血で出血性のショックを起こすということは「有り得ません。」(矢田証言・一五回)と反論する。
以上の点につき、助川義寛は、矢田鑑定の創傷の所見に特に疑問を持つような点はないとし、内藤道興、渡辺博司の前記のような所見についても、矢田鑑定の創傷の所見と死体写真のみでそのように推定することには無理がある(助川意見書、助川証言・八二回)とする。
これらの意見を検討すると、内藤道興、渡辺博司の前記主張は、死体写真を主な根拠とするものであるところ、矢田昭一が解剖時において切開していない部分について死体写真のみでその内部をあれこれいうとしても、あくまでも推測に止まるのではないかとの疑問があり、結局のところ、渡辺博司が指摘するように、「筋層に出血している可能性を否定しきれない」(渡辺鑑定)というにすぎないものと考えられる。渡辺博司が右腎の腎動脈部に薄層の軟部組織間出血があることと腰部の皮下出血との関連をいうことについても、助川義寛が「矢田鑑定の損傷の記述と死体写真からは背部筋肉に出血を来していることを推定することは出来ない。又、右腎の動脈部(所謂腎門部)の軟部組織間にみられる出血の形態が拇指頭大の薄層にみられたことを併せて考察すれば、腎臓の解剖学的位置と腰椎の横突起と筋肉束等の位置関係からみて筋肉内出血の可能性を考えることは出来ない。」(助川意見書)とすること(助川証言・八二回は、「背中の側から外力が作用しましても―よく交通外傷やあるいは転落等での臓器損傷としては、腎臓の皮質の側に破裂創というのをみることが多いんですが、腎門部だけの組織間に出血をみるという機会は外力作用のときには経験しない」という。)、また、「腎門部の腎動脈部の軟部組織間に出血がみておる、そこは見たのに、背部の筋肉の出血を見落とすということは、まず常識―法医のいわゆる解剖の術式からみて起こらない所見ではないかなと思います」(助川証言)とすること、さらには、前記矢田証言の内容などからみても、必ずしも十分な根拠とは考えられない。
Ⅵ 内藤道興、渡辺博司が特に強調するのが腎その他の臓器に異常所見が存在することであり、これを要約すると、アDICの存在、イ尿細管上皮の変性等、ウ尿細管内の円柱の存在などである。
ア DICとは「いくつかの機序によって血管内にフィブリンが生成されて起こる症候群であって、血管内に不溶性繊維素が生成されたことによって凝固障害(出血症状)・全身性循環障害(ショック)・局所性循環障害が現れる」(助川意見書、同旨矢田証言・一五回)とされる。そして、内藤鑑定、渡辺鑑定では、いずれも、特に肺についてDICが発生していることを根拠としている(内藤鑑定では、腎、副腎、心についてもフィブリン血栓の存在を認める。)ところ、矢田昭一も、肺にDICが発生しているとすることについては、「そう考えてもいいと思います。」(矢田証言・一五回)として一応これを肯定する。(なお、助川義寛は、「もっと凝血があってええと思うんですがね。DICというんでしたら」「いわゆる典型的なDICという症状からするというと、ちょっとまあ程遠いんではないか」(助川証言・八四回)として、凝血の存在を認めながらも、DICが発生しているとすることについては消極的であるが、他方、同証言・八八回では、「矢田先生の所見だけでなしに、渡辺先生や内藤先生の組織標本ですね。―鑑定書にお出しになっておる―それを付けられて言われたら、」「DICが起こっておるというふうに思ってもいいですよ。」としている。)
しかし、DICは、「各種の疾病について、その重篤な状態に際してみられるのであって、限られた特定の疾病にみられるものではない。」(助川意見書、同旨矢田証言・九回、一五回)のであり、この点は、内藤道興、渡辺博司も認める(内藤証言・一六回、渡辺証言・一三回)ところである。
すなわち、DICとは、内藤証言・一〇回によれば、「例えばいろいろなことによってショックが起こる、その重篤なショックあるいは不可逆性のショックという場合にDICが非常に起こる」というものであり、渡辺証言・一三回によれば、「DICがあるということは、すなわちショックがあったということの所見の一つだと私は見たいと言ってるわけです」というものであって、ショック状態にあったことの根拠とはなっても、これが外傷に起因するものか否かに直ちに結び付くものではない。
イ 渡辺博司は、渡辺鑑定において、「近位尿細管の上皮はかなりの変性がみられ、上皮は脱落しているところが多い」とし、「腎組織は死後変化が早くおこる場所であるので、この点も考慮しなければならないが、本屍の死後経過時間は10時間前後とみれば、組織の死後変化もまだ軽度であり、この近位尿細管の壊死は生前のものである可能性が強い」とするが、「死因についての考察」では、この所見を引用していない。これに対し、内藤道興は、内藤鑑定において、「細尿管は特に主部に於いて上皮細胞の腫大して内腔の殆ど消失しているものが多く、上皮細胞の底部は明るく微細空胞状を呈し、又細胞胞核の消失しているものもあり」とし、これを生前変化とみて(内藤証言・一七回)、腎の異常所見の一つとして考えているようである。
しかし、矢田証言・一五回によれば、矢田昭一がAの死体解剖を行ったのは、昭和五五年一一月四日午後二時から三時四五分であり、Aの死亡した同日午前零時ころから解剖着手まで約一四時間経過しているが、腎の臓器のホルマリン固定をしたのは、同日の午後六時ころかそれ以降であって、死後一八時間以上経過しているというのであり、尿細管上皮の変性、剥脱は死後変化の可能性が高い(矢田証言・一五回、同旨渡辺証言・一三回)と考えられる。
ウ 渡辺博司は、「遠位尿細管内には顆粒円柱や近位尿細管の脱落した上皮などが散見される」とし、「尿細管内の円柱」の存在を、「死因についての考察」において「ショックを思わせる所見」(渡辺鑑定)として引用している。また、内藤道興も、「上皮底部に褐色の色素顆粒の多数沈着しているものがある」とし、これを腎の異常所見の一つとしてあげて(内藤鑑定)いる。この円柱は、尿細管上皮の変性、剥脱とは異なり、死後変化とは関係がない(渡辺証言・一三回、内藤証言・一〇回)が、その数は、いずれの所見においても、「ほとんどなし」(矢田鑑定)、「散見される」(渡辺鑑定)、「非常に少ない」(助川意見書)というもの(内藤証言・一〇回、一六回も、少ないことを肯定している。)である。
矢田昭一は、この程度の円柱の数は「正常な人でも起こり得ます。」(矢田証言・一五回、同旨助川証言・八二回)というが、渡辺博司は、「腎にある程度までの障害があったんだろうということを考える所見」(渡辺証言・一三回)とし、内藤道興は、「Aの場合はショックを起こしてから亡くなるまでに時間的経過が短いということがありますので、もちろん円柱はありますけれども、そのために比較的少なかったんじゃないかということは考えられます。」(内藤証言・一〇回)とする。
内藤道興、渡辺博司が腎その他の臓器の異常所見として指摘するところは、以上のとおりであり、尿細管上皮の変性等、尿細管内の円柱の存在については、いずれも異常所見とみることには疑問の余地がある。DICが発生していたことについては、これを認めることができるが、その発生原因は多く、この点だけをみれば死因を外傷性ショックとしても矛盾がないとはいえるものの、それ以上の結論を導くことはできない。
なお、渡辺博司は、「平病院での生存中の心電図からみても、広義の心筋障害所見が認められること、白血球数もかなりの増加がみられたこと、血尿も生じていたこと」を判断要素としている(渡辺鑑定)ところ、昭和五五年一〇月三一日にAが平病院において健康診断を受けた際の検査結果は、平病院の診断カルテ(<書証番号略>)、医師平恭司作成の健康診断書謄本(<書証番号略>)によれば、次のとおりである。
a 胸部レントゲン写真 正常
b 検尿 蛋白プラス二、潜血プラス
c ECG 洞性頻脈、心臓に軽度の疾患を疑う。
d GOT・GPT 正常
e 耳血検査 白血球増多、二万五八〇〇、好中球多く、リンパ球少し、身体のいずれかの炎症を疑う。
渡辺博司は、「好中球増加は臨床的には感染や中毒に際して増加するといわれている」(渡辺鑑定)とし、内藤道興も、「白血球増多と左方転移の生じている場合、通常炎症性(乃至は化膿性)病変の存在を疑わなければならない」(内藤鑑定)とする。しかし、内藤道興は、「矢田鑑定書に炎症性の変化があったという記述がどこにもない」し、「私が拝借したブロックから作った標本を見ても、それにふさわしい炎症性の変化がない」ので炎症性の病変は否定される(内藤証言・一七回)とし、助川義寛も、「本屍で特徴的な点は、白血球数25,800という極めて高い異常値を示したという点である。このような場合、基礎的疾患、特に重症感染症が想起される。しかし、与えられた資料にはそれを窺うものは得られないと言う不思議なことがある。」(助川意見書)とし、内藤道興の見解と一致している。
しかも、内藤道興は、「インフルエンザウイルスの感染というものは、最初は純粋にウイルス感染が起こるわけで、その段階では白血球の増加は起こらない」(内藤証言・一七回)として、出血性肺炎との結び付きを否定しており、矢田昭一、助川義寛も、白血球の増加を出血性肺炎の根拠とはしていない。
内藤道興、渡辺博司は、白血球の増加の原因について、打撲、外傷を推定(内藤証言・一六回、渡辺証言・一三回)し、矢田昭一もその可能性を肯定(矢田証言・一五回)するが、渡辺博司も、打撲、出血の場合にどのくらい好中球の増加があるかというデータがない(渡辺証言・一四回)としており、健康診断を受けたときまでにAに加えられていた暴行、損傷(新人迎えのときの暴行、一〇月三一日の早朝体操のときの暴行)による障害が「全身的に影響していることを示唆している」(内藤鑑定)とまで考えることができるか否かは不明である。
Ⅶ 内藤道興は、内藤鑑定において、山田報告書により、Aの甲ヨットスクール入校前の健康状態、入校後に被告人らから受けた暴行等、その際に示したAの状態などを認定し、「外傷性ショックを招来する条件は充分にあった」としているが、山田報告書の内容については、大要において判示認定事実に沿うとはいえ、検察官が捜査段階のある時期において収集していた証拠に基づき認定したもので、判示認定事実以上に外傷性ショック死の結論を導きやすい事実が記載されていることは否定できず、内藤鑑定の結論に結果的に影響を与えたと考えられる。
Ⅷ 以上の検討結果によれば、出血性肺炎であるとする根拠が十分ではないとの点を除くと、内藤鑑定、渡辺鑑定において死因を外傷性ショックであるとする根拠は、必ずしも十分なものとはいえない。
弁護人らは、「一般的に外傷性ショックという場合には、①大量出血に基づく出血性のショック ②広範な筋肉挫滅が原因となって発生する挫滅性ショック(クラッシュ・シンドローム)の二つのタイプが典型的なものである。従って、法医鑑定の手法としては、暴行、傷害を原因とする大量の出血の存在とショック状態の所見を証拠に基いて認定するか、あるいは暴行、傷害を原因とする広範な筋肉挫滅の存在と腎をはじめとする諸臓器におけるショック状態の所見を認定してはじめて「外傷性ショック死であること」の鑑定が可能となるものである。」と主張し、内藤鑑定、渡辺鑑定において想定する外傷性ショックは証拠上認定し得ないものである(弁論要旨四四九頁、四九六頁)とする。
すなわち、内藤鑑定において想定する外傷性ショックは、右の①、②に明確にあてはまるものではなく(内藤証言・一七回)、「むしろ混合しているだろう」(同証言・一六回)というものであり、渡辺鑑定において想定する外傷性ショックも、①を基本としているかのようであるが、さきの分類に明確にあてはめることはできない(渡辺証言・一四回)というもので、両者とも、「中間項のメカニズムが分からない」(内藤証言・一七回)、「一つの外傷例のショックがどのような過程から、ショックを発生させたかを判定することは困難」(渡辺鑑定)とする。
弁護人らは、内藤証言、渡辺証言の右の点について、「特異な見解」、「現在の医学の常識的な考え方と異なる見解」などと批判するが、矢田昭一も、「外傷があまりにも多いので、外傷性ショックを起こす可能性は有り得ると思います。」(矢田証言・九回)としており、助川義寛も、「ショックという診断をつけるに当たっては、私たちは、どうにもほかに死因のもっていきようが、損傷に影響される、あるいは病気等が見付からんと、死に至るようなものが見付からんと、そうする場合に、外傷性ショックというふうな考え方をもってけりをつけなければしょうがないというふうな、そういうことは有り得ると思います。」、生前の症状、受傷状況等を「総合判断するということになるわけですね。」(助川証言・八八回)としているのであって、必ずしも右の批判はあてはまるものとはいえない。すなわち、右の①、②に明確にあてはまるものであれば、ショック状態が外傷に起因して生じたものとの認定は容易であるというだけであり、そうでないからといって、ショック状態が外傷に起因して生じたものとの認定ができないものではないことは、矢田昭一、助川義寛も肯定している。
しかし、前記の損傷の程度、腎その他の臓器の所見からみても、広範な筋肉挫滅、大量出血は認め難いこと、肺の浮腫、水腫の程度も著しくない(助川意見書、助川証言・八四回、矢田鑑定、矢田証言)ことは、死因を外傷性ショックであるとする認定を困難にする事情であることは否定できない。
Ⅸ 内藤道興、渡辺博司は、いずれも、出血性肺炎であるとする根拠が十分ではないとして、矢田鑑定の内容について批判するところ、出血性肺炎の原因として矢田昭一が考えているインフルエンザウイルスの検出がないことはもちろん、Aに風邪の症状や発熱といったインフルエンザにかかっていると考えられる臨床的症状がなく、Aの死亡前にAの周囲でインフルエンザの流行といったことも認められない(ただし、枚方市民病院の内科入院患者病床日誌・<書証番号略>、同看護日誌・<書証番号略>によれば、Aの父A'は、Aの死亡直後、「肺炎及び右胸膜炎」で入院していることが認められるので、同人がインフルエンザにかかっていたとも考えられるが、Aの母A"は、A'が昭和五六年二月六日に亡くなったときの病名は、癌性胸膜炎であると述べている(第五六回公判調書中の証人A"の供述部分)ので、その関連は不明である。)ということについては、証拠上も内藤道興の指摘する(内藤証言・一〇回)とおりである。
また、臓器の組織検査の所見によれば、炎症反応といえるものがなく、また、死亡前のAに発熱を欠いている(渡辺鑑定)ということについては、証拠上も渡辺博司の指摘するとおり(矢田昭一も矢田鑑定、矢田証言においてこれを認めている。)である。
しかし、前者については、出血性肺炎においては、炎症性細胞の滲出は少ないから、肺のごく一部の臓器ブロックから作成したプレパラートに炎症性細胞が認められないからといって、肺の全体に認められないとすることはできない(助川意見書、助川証言・八四回)ので矛盾するとはいえないし、後者についても、体力の極度に衰弱した人や体温が下がるような条件下にあった場合には発熱を欠いてもいい(矢田証言・一五回)からこれらの説明はできるが、出血性肺炎であるとの積極的な根拠に乏しいことは内藤道興、渡辺博司の指摘するとおりである。
矢田昭一は、肺の出血について、外傷性ショックの場合にみられる高度の肺水腫の出血とは異なり、「ほとんど純粋な出血」(矢田証言・九回)であるとし、出血性肺炎との結論を導いた根拠とするところ、内藤道興も、「あの標本でみる限りにおいてかなり純粋な出血、つまり血管から漏れ出たものがあそこへ出ていると、それについては所見上は一致しております。」(内藤証言・一〇回)としながらも、「DICで特に激しい経過をとった場合にはああいった形になる」として見解を異にしている。
また、助川義寛は、「ショック肺では、瀰慢性出血がみられるので、明瞭な限局性の出血が点在することはない。また、ショック肺では肺胞内に蛋白による水腫が血管透過性の亢進によって起こるために、限局性の部分に起こることはない。」「インフルエンザ肺炎とは小葉性気管支炎(巣状肺炎)の特殊型である。このうち、肺炎病変が殆どなくて、ただ出血とフイブリン浸出だけが肺組織に認められるような急性の高度に中毒性インフルエンザ肺炎の例もある。」「その出血状態は斑状の出血を特徴としている。」とし、Aの肺の出血状態は、「ショック肺の出血状態とは異なり、本問で説明した出血性肺炎の出血状態にきわめてよく似ていると考える。」(助川意見書)とする。
Ⅹ 以上によれば、死因を外傷性ショックとする内藤鑑定、渡辺鑑定の内容については、前記のとおりの問題点があることが認められる。
そして、死因を出血性肺炎とする根拠は十分ではないという内藤道興、渡辺博司の意見も前記の限りにおいて理由があることは否定できないが、死体解剖に基づく所見から肺の出血に注目し、これを導く原因となるものの可能性を排除した結果、死因は出血性肺炎であるとした矢田昭一の鑑定結果は、Aの死に至る経過などを併せ考えると十分理由のあるものと考えられる。
② 被告人らの暴行とAの死亡との因果関係について
Ⅰ 弁護人らは、Aの死因が出血性肺炎であるならば、被告人らは無罪であると主張する。
しかし、矢田昭一は、「本屍における出血性肺炎の発症機転であるが、本屍は、全身に分布するおびただしい数の損傷やその際受けた寒冷暴露、過労などのため、体力消耗の極限に達していたと推定されるところから、これが誘因として働き、抵抗力および反応力の低下した本屍に出血性肺炎を発症させた可能性が非常に大きいと考えられる。」とし、「本屍の出血性肺炎は本屍が受けた暴行による疲労、体力消耗が有力な誘因となって発症したとみなされる。」(矢田鑑定)としている。
すなわち、死因を外傷性ショックとするには、前記のとおりの問題点があるが、矢田昭一も、「外傷がありまにも多いので、外傷性ショックを起こす可能性は有り得ると思います。」(矢田証言・九回)としているのであり、損傷は、死亡の唯一の原因又は直接の原因であるとは認められないとはいえ、創傷の部位、程度についての矢田鑑定の所見やAが死亡するに至る経緯などからも、寒冷暴露、過労といった状況下にあったAの体力を消耗させ、A死亡の結果の原因となっていると認められるのであって、出血性肺炎との死因を考慮しても、損傷と死亡の結果が極めて偶然的な関係にあるとはいえない。
Ⅱ 弁護人らは、Aの精神状態には精神分裂病を疑われるほどの異常があり、突然自ら倒れ込むことがあったし、海上訓練の際にはヨットのブーム等で打撲する等の可能性もあるとして、損傷が被告人らの暴行によるものではなく、自傷行為や事故によるものが多い旨の主張をする。
判示認定事実のとおり、Aは、新人迎えのときにヨットスクールへ行くことを拒否して玄関内で寝転がる状態となったこと、一〇月三一日に早朝体操へ行くため点呼を受けた後にその場に崩れるように座り込んだこと、体操のときにも寝転がる状態となったこと、同日の昼ころ角屋の駐車場でコンクリート地面の上に寝転がっていたこと、午後の海上訓練に出発する海岸で波打際に倒れ込んだこと、海上訓練の際にヨットが転覆して海中に投げ出されたこと、海上訓練が終わって合宿所へ戻る際に他の訓練生に抱えられるようにして戻っていること、一一月一日の午後の海上訓練が終わって戻る際も同様であったことなどの事実があり、その他にも、平病院において健康診断を受けた際に金属製のベッドの角に頭をぶつけたり(被告人甲6の当公判廷における供述・第一一二回公判期日におけるもの、平恭司の司法警察員に対する供述調書・<書証番号略>)したことが認められ、また、前記以外にも、早朝体操や海上訓練をする海岸への往復の際、訓練生に連れて来られるときもあり、引きずられるような状態になった可能性もある。
そして、頭部の損傷の一部や下腿部の損傷(表皮剥脱)の一部については、これらの機会に受傷したことが考えられるし、他の皮下出血、表皮剥脱の一部についても、海上訓練等の機会に受傷した可能性があることは否定できない。
しかし、矢田鑑定によれば、二重条痕は、布団叩きのような、「小ループを形成する比較的細い棒状のもの」で打撃されたというのであり、竹の棒等により殴られたことにより生じたものと認められる。また、顔面の左眼窩部の皮下出血、口唇粘膜の出血も、「手拳の類で打撃されたため生起された公算が大きい」というのであり、Aの写真(<書証番号略>)、第六一回公判調書中の証人甲11の供述部分によれば、前者は、合宿所に着いたときには生じていたと認められ、新人迎えのときの被告人甲5、同甲6又はA'の殴打によるものと認められる(したがって、A'の殴打の可能性も否定できないのであり、被告人らの行為によるものとまでは認められない。)し、後者は、証拠によれば、Aが海上訓練の際にいわゆるブームパンチを受けるなど被告人らの暴行以外の原因でこの類の打撃を受けたことはなく、被告人らに殴られたことにより生じたものと認められる。
さらに、その他の皮下出血、表皮剥脱については、その一部が被告人らの暴行以外の原因で生じた可能性はあるものの、判示認定のとおりの被告人らの暴行の部位、回数、程度、方法等を考えると、これをはるかに上回るその相当部分が被告人らの暴行によって生じたものと認めるに十分である。
Ⅲ そうすると、被告人らの判示認定の一連の暴行とAの死亡の結果との間に傷害致死罪の成立のための因果関係を認めることができる。
四 A2、A3に対する監禁致死事件(あかつき号事件)
(昭和五八年わ第一九〇二号、被告人甲、同甲2、同甲3、同甲5、同甲6に対する各監禁致死被告事件)
1 (犯行に至る経緯等)
① A2が甲ヨットスクールに入校する経緯
Ⅰ A2(以下「A2」ともいう。)は、昭和四一年九月一五日に出生し、昭和五七年三月、愛知県春日井市立西部中学校を卒業した後、同年四月、愛知県北設楽群設楽町内にある愛知県立田口高等学校林業科に進学した。A2は、同年四月五日に高等学校に付設された寮に入ったが、四月九日に「寮の生活が嫌だ」という理由で無断で寮を抜け出して所在が分からなくなり、同日中に愛知県の豊橋警察署に保護され、春日井市内の自宅に戻った。A2は、数日後寮に戻ったが、その後も、再三寮を出て所在が分からなくなることがあり、発見された後も「田口高校で勉強したくない」などと言ったり、「寮を出て下宿したい」などと言ったりすることから、同年六月には学校と同じ町内で下宿生活をすることになった。しかし、学校に行かなかったり、春日井市内の自宅に戻ることが多く、六月一二日の授業を最後に欠席が続いた。田口高等学校においても、教諭などがA2から話を聞き、特別指導をしたが、A2は「山の中で生活したい。山草を食って生活したい。旅に出たい」などと言い、六月一五日には言動に異常がみられると判断され、両親とともに自宅に戻った。
Ⅱ A2の父A2'、母A2"は、六月一六日に医療法人資生会八事病院精神科を訪れ、A2のことについて相談していたが、六月一八日には、A2が所持していた二万円を注意して取り上げたところ、自宅でバットを振り回して暴れ出したので、父A2'がA2を縛って自動車に乗せ、八事病院まで連れて来て診察を受けた。
六月一八日には、A2の両親は、家にいるとどこへ飛び出して行ってしまうか心配だとの理由で、A2の入院を希望したが、A2がこれを拒否したので入院するには至らず、その後、A2の両親は、六月二三日にも同病院を訪れて相談し、その結果、A2については、同病院では、資料が不十分であることもあって、精神病と神経症、ノイローゼの中間にあるという意味の境界例(疑)との病名の診断がなされた。
このような状況にあったところ、A2の両親は、テレビ等の報道により、甲ヨットスクールでは同じような年齢の子供が厳しい訓練を受けていることを知り、同スクールにA2を入れることを相談し、父A2'が同スクールの訓練内容等を確認するため、昭和五七年七月五日に宮東合宿所を訪れて職員の乙3と面会し、同人から今年の夏は奄美大島において夏期合宿をすることなどを聞き、特別合宿申込書用紙を受け取るとともに、単行本の「スパルタの海」を買い求めて帰宅した。
A2の両親は、A2を甲ヨットスクールに入れることを決めて、翌六日ころ、父A2'が特別合宿申込書用紙に必要事項を記入し、同月七日ころに再び宮東合宿所を訪れてこれを乙3に提出した。
その特別合宿申込書には、A2の症状としては、「登校拒否、家庭内暴力、無気力」に該当し、日常生活は、「登校を拒否、自宅にいて、勝手気ままに外出、マンガに夢中、「ダマレ」・「ウルサェー」の暴言、特に2、3週間前から心がすさんで手のつけられない状態」であると記載され、ヨットスクールのコーチらによる新人迎えを希望する旨が記載された。
また、A2の父A2'は、同月七日付で、被告人甲宛に一日も早い入校を希望する旨の手紙を書いた。
Ⅲ 被告人甲は、右の申込書の提出があって間もなく、A2を入校させて奄美大島の夏期合宿に参加させることを決めた。
そのころ、A2を入校させるとの被告人甲の決定を受けてその新人迎えをすることになった被告人甲6は、同月一〇日午後七時ころ、A2の自宅に電話をかけ、父A2'に甲ヨットスクールの者がこれからA2を迎えに行く旨伝えるとともに、合宿所にいた被告人甲3にA2の新人迎えの同行を依頼し、また、番外生の乙6にも同行を指示し、二名を乗せて自動車で合宿所を出発した。
② A3が甲ヨットスクールに入校する経緯
Ⅰ A3(以下「A3」ともいう。)は、昭和四二年二月一五日に出生し、五歳ころから父A3'の転勤によりシンガポールで生活して小学校五年生になる前に帰国したが、その後も大阪府豊中市、東京都小金井市と転居し、中学校に入学するにあたり、大阪府箕面市に転居して同市内の箕面市立第二中学校に進学した。
A3は、中学生のときに同級生などから暴行やいやがらせといったいわゆるいじめを受けることがあり、それでもほとんど欠席することなく登校していたが、そのうっぷんを晴らすために自宅で約一歳七か月年少の弟を苛めることも多く、両親に対する反抗的な言動も目立つようになった。
A3は、昭和五七年四月に関西大倉高等学校に進学したが、A3を知っている者がいじめを受けていたA3の中学時代のうわさをするとして腹を立て、学校には欠席することなく登校していたが、自宅に帰ってからは、早く引っ越しをしたいなどと言って大声を出すなど家族に当たり散らすことが多かった。
Ⅱ A3の両親は、A3が中学三年生であった昭和五六年一〇月ころ、A3の家庭内暴力について、三回にわたって箕面市立青少年指導センター職員に相談し、うち一回は、家庭訪問を受けて指導を受けた。
また、A3の母A3"は、昭和五六年一〇月及び昭和五七年一月に、合計四回にわたって大阪医科大学附属病院を訪れ、精神神経科の医師に相談するとともに、三回目(昭和五七年一月七日)にはA3を伴い、診察を受けた。
母A3"が医師に訴えた内容は、A3が学校の同級生などからいじめを受けながらも欠席することなく登校しているが、その反動で自宅では勉強が手につかず、些細なことで母親や弟に暴力を振るうというものであり、当時のA3の精神状態は、いじめと高校受験のストレスによると考えられる原因で「焦燥感が非常に強く、まわりの人に対する不信感が強い、精神的に不安定で、睡眠も障害されていた」という状態で、同病院では、「心因反応(家庭内暴力)」との病名の診断がなされた。
A3の両親は、箕面市立青少年指導センターに相談に行ったころにも、新聞報道等により甲ヨットスクールの存在を知っており、A3の入校を考えたことがあったが、高等学校進学後もA3の家庭内暴力が収まらないため、A3を同スクールに入れることを再び考えるようになり、昭和五七年七月初めころ、母A3"が宮東合宿所へ電話をかけて職員の乙3と入校について話をした。
A3の母A3"は、乙3からすぐに入校することは無理であるとの回答をもらったが、「スパルタの海」を読むよう勧められたので、これを購入して読むとともに、そのころ、名古屋市千種区内の被告人甲の自宅に電話をかけ、同被告人の妻甲12に夏休みを利用して子供を入校させたい旨を述べて入校の希望を伝え、七月九日ころには、父A3'も、同スクールから送られてきた特別合宿申込用紙に必要事項を記入し、誓約書とともに同スクール宛送付するほか、被告人甲宛に一日も早い入校を希望する旨の手紙を書いた。
その特別合宿申込書には、A3の症状としては、「家庭内暴力、無気力、思春期挫折症候群」に該当し、現在の状態は、対人関係としては、「親、弟、友人に対する協調の仕方を知らない。親には「オッサン」「オバン、オカン」先生は「呼びすて」弟は「馬鹿扱い」。転校毎に対友人関係で、つまづく。学校では、よい子。近づいてくる友達と友達つき合い出来ず常に孤立化する。」というものであり、「足げり、唐手のまねごとで暴力により他を威かくする。」「即刻入校希望・在宅に危険を感ず」などと記載され、被告人甲宛の手紙には、「来週から試験休み、続いて夏休みに入りますが、家に置いておいたら一家破滅の事件さえも予想される今日此頃の行動です。先日の斉藤勇教授の事件も決して他人毎ではありません。お電話での照会では、秋まで入校できないとのことでしたが、おそろしい夏休みに子供を家に置いておくと女房、弟ともノイローゼでたおれるでしょう。」などと書かれていた。
Ⅲ 被告人甲は、自宅に電話をかけてくるなどA3の両親が強く入校を希望していることを聞いて、昭和五七年七月上旬ころ、A3を入校させて奄美大島の夏期合宿に参加させることを決めた。
A3を入校させるとの被告人甲の決定を受けて、同年七月下旬ころ、甲9コーチを通じてA3の新人迎えをするよう指示を受けた甲10コーチは、同月二四日午後七時過ぎころ、新人迎えのために同行するよう指示した番外生の乙7、乙8の二名を乗せて自動車で合宿所を出発した。
③ 奄美大島の夏期合宿について
Ⅰ 甲ヨットスクールでは、昭和五三年から毎年河和海岸以外の場所で夏期合宿を行っていたが、被告人甲は、被告人甲2と相談の上、昭和五七年の夏期合宿を奄美大島で行うことを検討して、同年五月ころから現地に行って候補地を探すなどし、奄美大島本島北岸ほぼ中央部の思勝湾に面した大和村国直海岸にある元の民宿の建物(鹿児島県大島郡<番地略>所在)等を夏期合宿施設として借り受けることができたので、同年の夏期合宿は奄美大島で行われることになった。
Ⅱ 奄美大島の夏期合宿が行われるころには、甲ヨットスクールの特別合宿生は七〇ないし八〇名位になっていたが、夏期合宿には東京の日曜スクールの生徒や訓練生の父兄なども参加したため、コーチやその家族なども含めて、合計一三〇名位が奄美大島に渡った。
甲ヨットスクールでは、東京などから直接奄美大島へ向かう者を除き、次のようにグループ分けをして、神戸港からフェリーを利用し、奄美大島の夏期合宿施設へ向かわせた。
第一陣は、被告人甲2、同甲6が甲4コーチ、乙5コーチとともに、訓練生三〇名位を連れて、訓練生の家族などを含めて総勢三十数名で、七月一三日午後五時ころ神戸港を出発し、翌一四日午後一〇時三〇分ころ奄美大島の名瀬港に到着した。
第二陣は、被告人甲3、同甲5が甲11コーチとともに、訓練生四七名位を連れて、訓練生の家族などを含めて総勢五十数名で、七月二一日午後五時ころ神戸港を出発し、翌二二日午後一〇時三〇分ころ名瀬港に到着した。
第三陣は、甲9コーチ、甲7コーチ、乙4コーチが訓練生一一名位を連れて、被告人甲の家族らを含めて総勢二〇名位で、七月二七日午後五時ころ神戸港を出発し、翌二八日午後一〇時三〇分ころ名瀬港に到着した。なお、この第三陣となった訓練生のほとんどは、当初、宮東合宿所近くの海岸からクルーザーに乗って航行しながら直接奄美大島まで行く予定のグループの者であったが、七月一二日の出航後間もなく遭難騒ぎを起こして引き返したため、神戸港からフェリーを利用して向かったものである。
そのほか、甲10コーチが職員の乙3らとともに、訓練生二名を連れて、七月三一日午後一〇時過ぎころ神戸港を出発し、翌々日の八月二日午前二時三〇分ころ名瀬港に到着している。
Ⅲ 被告人甲は、七月一三日に神戸港で第一陣を見送った後、同日中に飛行機で奄美大島に渡って滞在したが、同月一五日ころ奄美大島を離れ、その後、八月三、四日ころに飛行機で再度奄美大島に渡ってからは、夏期合宿の参加者が残らず奄美大島を離れた八月一三日の当日まで夏期合宿施設に滞在し、同日、他の参加者とは別に飛行機で奄美大島を離れた。
被告人甲2、同甲6は、七月一三日出発の第一陣として奄美大島に行き、八月八日に奄美大島を離れた総勢四〇名位のグループとともにフェリーで神戸港へ帰るまでの間、夏期合宿施設に滞在していた。
被告人甲3、同甲5は、七月二一日出発の第二陣として奄美大島に行き、八月一三日に奄美大島を離れた総勢六十数名のグループとともにフェリー(大島運輸株式会社所属の貨客船「あかつき」)で神戸港へ帰るまでの間、夏期合宿施設に滞在していた。
2 (罪となるべき事実)
① A2に対する監禁致死
被告人甲、同甲3、同甲6は、昭和五七年七月一〇日ころ、A2の両親の依頼に基づいて、A2を甲ヨットスクールの特別合宿生として入校させ、宮東合宿所及び奄美大島の夏期合宿施設並びにこれらの周辺において合宿訓練を行うために、殴打、足蹴りなどの有形力を行使するなどA2の意思に反してその行動の自由を拘束することも一向に構わないとの意思を相互に通じ、被告人甲2、同甲5も、、特別合宿生として入校したA2と行動、生活をともにするようになって以後、A2に対して右と同様の意思のもとに、他の被告人ら及び甲ヨットスクールの他のコーチらとその意思を相互に通じ、共謀の上、昭和五七年七月一〇日午後一〇時ころから同年八月一四日未明ころまでの間、以下のとおり有形力を行使した上、監視を続け、A2の意思に反して不法にその行動の自由を拘束して逮捕監禁し、その結果、A2を死に至らしめた。
Ⅰ 逮捕監禁の事実
ア 被告人甲6、同甲3は、昭和五七年七月一〇日午後一〇時ころ、愛知県春日井市<番地略>所在のA2'方において、甲ヨットスクールへ行くことを拒否するA2に対し、こもごも、その顔面、腹部を一、二回ずつ手拳又は平手で殴り付け、さらに、両側から腕をつかんで家の近くに停めてあった自動車の後部座席に乗せた上、見張り役として番外生乙9をその横に乗せ、被告人甲6が運転して発進させ、翌一一日午前零時ころ、A2を愛知県知多郡<番地略>所在の合宿所(宮東合宿所)まで連行し、三階の男子訓練生の部屋に設置された格子戸付き押し入れにA2を入れて錠をかけた。
イ 被告人らは、七月一一日から同月二一日までの間、A2を宮東合宿所及びその周辺で生活させたが、訓練、作業などがない日中や夜間には、格子戸付きの押し入れ内にA2を入れて錠をかけ、早朝体操、作業、海上訓練、入浴などで合宿所からA2が出るときには、番外生等が監視役となり、そのほか、夜間には、階段に設置してある人の通行を感知する警報装置を作動させたり、交替制で見張りを置くなどA2を含む特別合宿生が逃走しないように監視を続けた。
ウ 被告人らは、A2を七月二一日に奄美大島へ向かう第二陣に入れ、宮東合宿所から奄美大島の夏期合宿施設まで連行したが、被告人A5は、七月二一日午前中に合宿所を出発したマイクロバス等の自動車にA2を他の特別合宿生とともに乗せ、神戸港まで連れて行く途中の休憩の際には、番外生に見張り役をさせて逃走しないように監視し、神戸港での乗船待ちの間は、大島運輸株式会社の事務所外の階段付近の一画に特別合宿生をまとめて座らせ、便所に行くときには番外生に付き添わせるなど見張り役をさせ、さらに、被告人甲5、同甲3は、その場で数人を一つのグループとした班分けをして番外生などに班長をさせ、そのグループの行動を把握するように指示し、乗船後は、自由行動をさせずに夜間は見張りを置くなどして監視を続け、名瀬港到着後は、被告人甲2、同甲6が用意していたバスにA2を他の特別合宿生とともに乗せて夏期合宿施設まで連行した。
エ 被告人らは、A2を七月二二日から八月一三日までの間、鹿児島県大島郡<番地略>所在の夏期合宿施設で宿泊させたが、A2を含む特別合宿生には金銭を所持させず、外部の者との手紙や電話での通信を禁止し、日中の行動の際には、特別合宿生を含む訓練生九人程度を一つのグループとした一〇のグループに班分けをして番外生などに班長をさせた上、新人や逃走のおそれのある者と番外生として信頼のおける者を各班に適度に振り分けて入れて、番外生を通じて監視できるようにし、また、夏期合宿施設付近のパラソルやテントに番外生の見張りを置くなどし、さらに、合宿施設から離れた名瀬市内にあるハブセンターに見学に連れて行くときには、借りていた自動車に特別合宿生を乗せた上、コーチ及び番外生が終始付き添うようにして特別合宿生の所在を把握し、夜間には、合宿施設内に一時間交替の見張りを置くなど、A2が逃走しないように監視した。
オ A2は奄美大島に到着した後の八月一日ころ、合宿施設から逃走を図って所在が分からなくなったが、逃げ切れないとしてその日の夕方過ぎには自ら合宿施設付近まで戻ってきたところ、被告人甲2、同甲5は、合宿施設の玄関付近で、こもごも、捜索など手間がかかった腹立たしい気持ちと今後の逃走を防ぐために制裁を加える考えで、A2の顔面を平手で殴り付け、被告人甲6も、合宿施設内において、同様の考えで、A2の身体を棒で多数回殴り付けた。
カ 被告人甲6は、A2が逃走を企てた直後ころから、夜間、A2を逃走のおそれのあると考えられた四名位の者と一緒にして、それぞれの手首を手錠とロープで数珠つなぎに縛り付けて柱に固定し、そのほか、被告人らは、日中でも、合宿施設周囲の清掃など監視の不十分なおそれのあるときには、これらの者に手錠をかけて固定するなどの方法をとって逃走を防止し、これらの処置を八月一三日に奄美大島から引き上げる直前まで続けた。
キ 被告人甲3、同甲5は、他のコーチ五名位とともに、八月一三日に五十数名の訓練生を連れて奄美大島を離れることになったが、同日午前中にA2を他の特別合宿生とともに合宿施設から貸し切りバスに乗せて名瀬港まで運び、名瀬港での乗船待ちの間は、待合室の外に特別合宿生をまとめて座らせ、また、数人を一つのグループとして班分けをして番外生などに班長をさせてそのグループの行動を把握するようにさせ、船内で勝手に行動しないよう命じた上、同日午後零時二十分に出航するフェリーの貨客船「あかつき」に乗船させ、名瀬港から神戸港へ向けて連行し、翌十四日未明に高知県沖の太平洋上を航行中のあかつき船上からA2が海に飛び込むまで、その行動の自由を拘束した。
Ⅱ 監禁の結果、A2が死亡した事実
A2は、宮東合宿所に戻った後も行動の自由が拘束され、体罰を加えられて早朝体操や海上訓練などを強制される生活が続くことを嫌い、あかつきの船上から救命浮環等を着けて海に飛び込むことにより、被告人らによる拘束から逃れようと考え、昭和五七年八月一四日未明、高知県沖の太平洋上を航行中のあかつき船上から海に飛び込み、そのころ、死亡した。
② A3に対する監禁致死
被告人甲は、昭和五七年七月二四日ころ、甲ヨットスクールのコーチである甲9、甲10らとの間で、A3の両親の依頼に基づいて、A3を甲ヨットスクールの特別合宿生として入校させ、宮東合宿所及び奄美大島の夏期合宿施設並びにこれらの周辺において合宿訓練を行うために、殴打、足蹴りなどの有形力を行使するなどA3の意思に反してその行動の自由を拘束することも一向に構わないとの意思を相互に通じ、被告人甲2、同甲3、同甲5、同甲6も、特別合宿生として入校したA3と行動、生活をともにするようになった同月二八日ころ以後、A3に対して右と同様の意思のもとに、被告人甲及び甲ヨットスクールの他のコーチらとその意思を相互に通じ、共謀の上、昭和五七年七月二四日午後一一時ころから同年八月一四日未明ころまでの間、以下のとおり有形力を行使した上、監視を続け、A3の意思に反して不法にその行動の自由を拘束して逮捕監禁し、その結果、A3を死に至らしめた。
Ⅰ 逮捕監禁の事実
ア 甲10は、昭和五七年七月二四日午後一一時ころ、大阪府箕面市<番地略>所在のOTCプライムハイツ二〇九号室A3'方において、甲ヨットスクールへ行くことを拒否して付近の机の脚や出入口の枠などにしがみついて抵抗するA3に対し、その顔面を手拳及び平手で二、三回殴り付け、さらに、同行していた番外生に腕などをつかませるなどしてA3を家の外に連れ出し、停めてあった自動車の後部座席に乗せた上、見張り役として番外生乙7、乙8をその両脇に乗せて自動車を発進させ、間もなくその車内で番外生に命じてA3の両手首に手錠をかけさせ、翌二五日午前三時ころ、A3を愛知県知多郡<番地略>所在の合宿所(宮東合宿所)まで連行し、同所で手錠をはずしたものの、三階の男子訓練生の部屋に設置された格子戸付き押し入れにA3を入れて錠をかけた。
イ 甲9、甲10は、七月二五日から同月二七日までの間、A3を宮東合宿所及びその周辺で生活させたが、A3以外の訓練生は、当初クルーザーに乗って奄美大島に向かう予定をしていた者がほとんどであり、卒業間近の者や番外生などであったため、夜間は、格子戸付きの押し入れにA3を入れ、日中は、自ら又はこれらの者等を介して、A3が逃走しないように監視していた。
ウ 甲9は、A3を七月二七日に奄美大島へ向かう第三陣に入れ、宮東合宿所から奄美大島の夏期合宿施設まで連行したが、同日午前中に合宿所を出発したマイクロバスにA3を第三陣として行く甲7コーチ、乙4コーチ、他の特別合宿生と一緒に乗せ、神戸港まで連れて行き、他の特別合宿生と一緒にフェリーに乗船させ、乗船後A3が密かに母親に電話をかけたことを知るや、電話をしたり、勝手に動き回ったりしないよう叱り付け、番外生らにA3を見張っているよう指示し、名瀬港到着後は、自動車に他の訓練生と一緒に乗せて夏期合宿施設まで連行した。
エ 被告人らは、A3を七月二八日から八月一三日までの間、鹿児島県大島郡<番地略>所在の夏期合宿施設で宿泊させたが、A3を含む特別合宿生には金銭を所持させず、外部の者との手紙や電話での通信を禁止し、日中の行動の際には、特別合宿生を含む訓練生九人程度を一つのグループとした一〇のグループに班分けをして番外生などに班長をさせた上、新人や逃走のおそれのある者と番外生として信頼のおける者を各班に適度に振り分けて入れて、番外生を通じて監視できるようにし、また、夏期合宿施設付近のパラソルやテントに番外生の見張りを置くなどし、さらに、合宿施設から離れた名瀬市内にあるハブセンターに見学に連れて行くときには、借りていた自動車に特別合宿生を乗せた上、コーチ及び番外生が終始付き添うようにして特別合宿生の所在を把握し、夜間には、合宿施設内に一時間交替の見張りを置くなど、A3が逃走しないように監視した。
オ A3が奄美大島に到着した後の八月一日ころ、特別合宿生のA2が合宿施設から逃走を図ったものの、結局その日のうちに戻ってきて発見されたことがあったが、被告人甲6は、A3を含む数人がA2と一緒に逃走する計画を立てていたことをA2から聞き、今後の逃走を防ぐために制裁を加える考えで、合宿施設内において、A3の身体を棒で多数回殴り付けた。
カ 被告人甲6は、A2が逃走を企てた直後ころから、夜間、A3を逃走のおそれのあると考えられたA2を含む四名位の者と一緒にして、それぞれの手首を手錠とロープで数珠つなぎに縛り付けて柱に固定し、そのほか、被告人らは、日中でも、合宿施設周辺の清掃など監視の不十分なおそれのあるときには、これらの者に手錠をかけて固定するなどの方法をとって逃走を防止し、これらの処置を八月一三日に奄美大島から引き揚げる直前まで続けた。
キ 被告人甲3、同甲5は、他のコーチ五名位とともに、八月一三日に五十数名の訓練生を連れて奄美大島を離れることになったが、同日午前中にA3を他の特別合宿生とともに合宿施設から貸し切りバスに乗せて名瀬港まで運び、名瀬港での乗船待ちの間は、待合室の外に特別合宿生をまとめて座らせ、また、数人を一つのグループとして班分けをして番外生などに班長をさせてそのグループの行動を把握するようにさせ、船内で勝手に行動しないよう命じた上、同日午後零時二〇分に出航するフェリの貨客船「あかつき」に乗船させ、名瀬港から神戸港へ向けて連行し、翌一四日未明に高知県沖の太平洋上を航行中のあかつき船上からA3が海に飛び込むまで、その行動の自由を拘束した。
Ⅱ 監禁の結果、A3が死亡した事実
A3は、宮東合宿所に戻った後も行動の自由が拘束され、体罰を加えられて早朝体操や海上訓練などを強制される生活が続くことを嫌い、あかつきの船上から救命浮環等を着けて海に飛び込むことにより、被告人らによる拘束から逃れようと考え、昭和五七年八月一四日未明、高知県沖の太平洋上を航行中のあかつき船上から海に飛び込み、そのころ、死亡した。
3 (あかつき号事件についての補足説明)
① 公訴棄却の申立の主張について
Ⅰ 弁護人らは、
ア 検察官の起訴状、冒頭陳述、釈明によっても、あかつき号事件は監禁の手段方法が特定され、明確とされることはなかったし、検察官は論告の段階で監禁の内容について重要な主張の変更をしており、被告人の防御権を著しく侵害するものであって、検察官の訴訟追行は著しく正義に反し、刑事訴訟法二五六条三項に違反し、
イ あかつき号事件の検察官の起訴は、起訴された被告人らと起訴を免れた他のコーチとの関係で不平等なものであり、憲法一四条に違反し、
公訴提起の手続がその規定に違反したため無効であるものとして、刑事訴訟法三三八条四号により公訴棄却を免れないものであると主張する。
Ⅱ まず、あかつき号事件においては、監禁致死罪の訴因が不特定であるとの弁護人らの主張について検討するに、起訴状における本件公訴事実は、「被告人甲、同甲2、同甲3、同甲5及び同甲6は、ほか多数と共謀の上、一 昭和五七年七月一〇日午後一〇時ころ、愛知県春日井市<番地略>所在のA2(昭和四一年九月一五日生、当時一五年)方において、同人に対し、その顔面を素手で数回殴打し、その腹部を数回足蹴にするなどして同人を戸外に連れ出し、同所付近で普通乗用自動車に無理矢理乗車させて直ちに同車を発進疾走させ、翌一一日午前零時ころ、同県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所まで同人を連行し、以後、右合宿所とその周辺等において、同人を右合宿所内の格子戸付き押し入れ内に入れて施錠し、あるいは終始見張りを置いて監視するなどし、更に同月二一日から二二日にかけて同人を右合宿所から神戸港を経て鹿児島県大島郡<番地略>所在の右スクール夏季合宿所に連行する間の車両、船舶内及び同日以降同夏季合宿所とその周辺等においても、終始見張りを立てるなどして同人を監視し、その間の同年八月一日ころ、同人が右夏季合宿所から脱出しようとするや、その顔面、頭部等を手拳等で多数回殴打し、また、同日ころからは連日にわたり数個の手錠等を用いて同人の手首、足首を他の訓練生数名の手首、足首と数珠つなぎにしてこれを右夏季合宿所内の柱等にロープで縛りつけるなどし、更に引き続き、同月一三日、同県名瀬市<番地略>先の名瀬港まで右A2を連行して同日午後零時二〇分同港発神戸港行きの汽船「あかつき」に同人を乗船させた上、神戸港に向け航行中の同船内においてもこれを監視し続け、もって右の全期間を通じて同人の自由を不法に拘束して逮捕監禁し、その結果、翌一四日未明ころ、高知県沖海上において、被告人らから更に危害を加えられることを恐れた同人をして、右監禁状態から脱出するため、航行中の右船上から海に飛び込ませてそのころ死亡するに至らせ、二 同年七月二四日午後一一時ころ、大阪府箕面市<番地略>A3(昭和四二年二月一五日生、当時一五年)方において、同人に対し、その顔面を手拳で数回殴打し、両腕をかかえるなどして同人を戸外に連れ出し、同所付近で普通乗用自動車内に押し込んで直ちに同車を発進疾走させ、翌二五日午前三時ころ、同県知多郡<番地略>所在の前記甲ヨットスクール合宿所まで同人を連行し、以後、右合宿所とその周辺等において、同人を右合宿所内の格子戸付き押し入れ内に入れて施錠し、あるいは終始見張りを置いて監視するなどし、更に同月二七日から二八日にかけて同人を右合宿所から神戸港を経て鹿児島県大島郡所在の前記夏季合宿所に連行する間の車両、船舶内及び同日以降同夏季合宿所とその周辺等においても、終始見張りを立てるなどして同人を監視し、その間の同年八月三日ころ、同人が父親あてに合宿所から連れ戻してくれるよう救いを求める手紙を書いたことを知るや、右A3の顔面等を手拳、棒などで多数回にわたって殴打し、また、同月初旬ころからは前記A2に対すると同様、連日にわたり数個の手錠等を用いて右A3の手首、足首を他の訓練生数名の手首、足首と数珠つなぎにして右夏季合宿所内の柱等にロープで縛りつけるなどし、更に引き続き、同月一三日、前記名瀬港まで右A3を連行して汽船「あかつき」に乗船させた上、神戸港に向け航行中の同船内においてもこれを監視し続け、もって右の全期間を通じて同人の自由を不法に拘束して逮捕監禁し、その結果、翌一四日未明ころ、高知県沖海上において、被告人らから更に危害を加えられることを恐れた同人をして、右監禁状態から脱出するため、航行中の右船上から海に飛び込ませてそのころ死亡するに至らせ」たというものである。
以上の記載をみても他の犯罪事実からの識別、特定が十分できることはもとより、被告人らの防御権の行使が不十分であるとはいえず、訴因の特定に欠けるところはないから、刑事訴訟法二五六条三項に違反するとの弁護人らの主張は理由がない。
Ⅲ 弁護人らは、被告人らの防御権が著しく侵害された理由として、
ア 検察官は、冒頭陳述において、奄美合宿における監禁の手段方法の中で、A2、A3に対する暴行につき述べているが、監禁行為としてどのような意味を持つのか趣旨不明である、
イ 検察官は、論告において、「日中、A2らが合宿所内にいるときは、合宿所の周囲に番外生を配置して見張りをさせ」とか、脱走を企てた訓練生に対する暴行を列挙した上、「被告人らは脱走を企てた者に対し罰を加え、A2、A3ら他の訓練生の見せしめにした」とか述べ、さらに、他の訓練生に対する暴行の事実を述べるなど追加的な主張をしているが、このような主張をするのであれば、少なくとも冒頭陳述の段階でその旨を明確にするべきであった、
ウ 検察官は、復路のあかつき船内における監禁について、論告において、a手錠組五名を客室奥の通路に集めて監視した、という従来の主張に、手錠組の一人であるA32に他の手錠組四名の見張りを指示した、という新しい主張をし、b監視して監禁したという従来の法律構成を実質的に放棄し、船内において外部の者に救出を求めることは可能であったが、救出を求めたとしても親に連絡をとるであろうし、その場合、親はA2、A3を同スクルーへ引き渡すよう依頼するであろうから、A2とA3は、結局において被告人らの支配下から離脱することは不可能であったという新しい主張をしているが、このような主張をするのであれば、少なくとも冒頭陳述の段階でその旨を明確にするべきであり、法律構成を変更するのであれば、訴因変更の手続をとるべきであった、
と主張している。
Ⅳ 逮捕監禁の機会に加えられた暴行には、逮捕監禁の手段としての暴行とこれとは別の動機目的で加えられた暴行の二つが考えられるところ、前者であれば、逮捕監禁罪とは別罪を構成するものではないが、後者であれば、併合罪となり得る。
そして、弁護人らは、あかつき号事件において、起訴状、冒頭陳述書に記載されている暴行がどのような意味をもつのか趣旨不明であると主張するが、暴行がどのような意味で記載されているかは、記載内容自体から判断される(ただし、前者の暴行として記載されているものが、証拠調の結果、後者の暴行と認定され、逮捕監禁の手段としての暴行から除かれる場合もあるが、それは別の問題である。)ことになる。
起訴状には、アA2、A3を自宅から連れ出すときの暴行、イA2が夏期合宿所から脱走しようとしたときの暴行、ウA3が手紙を書いたことを知ったときの暴行が記載され、冒頭陳述書には、右のほかに、エ奄美大島へ出発するまでの宮東合宿所及びその付近における訓練その他の場面でのA2に対する暴行、オ夏期合宿訓練中のA2やA3に対するその他の暴行が記載されている。
アの暴行が逮捕監禁の手段としての暴行として記載されていることは、起訴状の記載内容からも明らかである。
イの暴行についても、起訴状には「脱出しようとするや」とのみ記載されているだけであるが、冒頭陳述書には「直ちに脱走を防止すべく」暴行を加えたことが記載されているので、監禁状態を継続存続させる手段としての暴行として記載されていることは容易に判明する。
ウの暴行については、ア、イほど明確ではないが、起訴状に「連れ戻してくれるよう救いを求める手紙を書いたことを知るや」と記載した上で、公訴事実の中で暴行を明示していること、冒頭陳述書に「前記A2に対するのと同様の手段方法でA3の逃走を防止していたところ」と記載した後に、暴行を記載していることなどから、検察官としては、監禁状態を維持存続させる手段として暴行を記載しているものと一応解することができる。
これに対し、エ、オの暴行については、起訴状に記載がない上、冒頭陳述書にも監禁の手段としての趣旨であることを明らかにした記載がないから、監禁の手段としての暴行の記載とは解されない。したがって、これらの暴行は、検察官としては、情状、特に逮捕監禁の違法性を明らかにする趣旨で記載しているものとしか解することができないが、本件においては、冒頭陳述書にこのような暴行を記載することは必要性がないとはいえず、許されないものではない。
以上のとおり、起訴状、冒頭陳述書における暴行の記載がどのような意味をもつのか不明であり、被告人の防御権を著しく侵害するという弁護人らの主張は理由がない。
Ⅴ 弁護人らのⅢのアの主張のうち、検察官が論告において「日中、A2らが合宿所内にいるときは、合宿所の周囲に番外生を配置して見張りをさせ」と述べて追加的な主張をしているとする点については、起訴状にも「夏季合宿所とその周辺等においても、終始見張りを立てるなどして同人を監視し」と記載されており、冒頭陳述書にも「日中は浜辺等で班長らの番外生らに見張りをさせ」と記載されているところであって、追加的な主張とは解されない。
弁護人らのⅢのイの主張のうち、検察官が論告において脱走を企てた訓練生に対する暴行を列挙した上、「被告人らは脱走を企てた者に対し罰を加え、A2、A3ら他の訓練生の見せしめにした」と述べて、追加的な主張をしているとする点については、これを監禁状態を維持存続させるための手段(脅迫)として理解し、認定するならば、起訴状、冒頭陳述書に記載のない新たな主張となり、被告人の防御権の侵害となる可能性があるが、当裁判所は、この事実を監禁の手段として認定するものではない。(検察官は、冒頭陳述書・三一頁の総論部分において、「甲及びコーチらは、入校した訓練生の逃走防止の対策と称して」「脱走をはかった訓練生に対しては、見せしめに、他の訓練生の前に引き出し執拗、かつ強烈な暴行を加えていた。」と述べているが、あかつき号事件の関係で、このような暴行を監禁の手段として冒頭陳述書等で明示的に主張してはいなかった。)
また、弁護人らのⅢのイの主張のうち、検察官が論告において夏期合宿訓練中の他の訓練生に対する暴行の事実を述べているという点については、検察官がこれらを起訴していないことはもとより、監禁の手段としての趣旨で述べているとも解されないことから、情状、特に逮捕監禁の違法性を明らかにする趣旨で述べているとしか解することができない。
以上のとおり、検察官が論告において追加的な主張をしており、被告人の防御権が著しく侵害されたという弁護人らのⅢのイの主張は、右のような理解に立つ限り、理由がない。
Ⅵ 弁護人らのⅢのウaの主張(論告において、手錠組の一人であるA32に他の手錠組四名の見張りを指示した、という新しい主張をしているとの批判)について検討するに、検察官は、論告において復路のあかつき船内における手錠組五名に対する監視として、コーチらによるいわば直接的な監視以外に、そのうちの四名については、A32を利用しての監視(いわば間接的な監視)もあったとしている。
あかつき号事件において、検察官が監視の内容として、コーチ、番外生らによる直接的な監視に方法を限定し、この監視の有無が争点となっていた場合に、検察官が突然従来の主張を撤回し、これと異なる間接的な監視を主張し、そのような認定をするのであるならば、被告人にとって不意打ちの問題が生じることは否定できない。
しかし、検察官は、監視の内容として、起訴状、冒頭陳述書、釈明等を通じても、監視の内容をそのように限定していなかったし、論告においても間接的な監視のみに内容を変更したものではなく、復路のあかつき船内における監視の方法の一つとして間接的な監視もあったとしているにすぎない(他にも論告において監視の態様を明らかにしている。)ものと解される。そして、監視の意味内容がある程度広いことは否定できないが、本件において、論告で述べた内容を冒頭陳述書等で明らかにしなければ被告人の防御が困難であるとはいえない。
また、弁護人らのⅢのウbの主張(監視して監禁したという従来の法律構成を実質的に放棄し、新しい主張をしているとの批判)について検討するに、検察官は、論告において、「奄美大島からの帰途、被告人らは、「あかつき」船内に一時間交替の見張りを立てることはなく、したがって、A2、A3が船内に隠れることも、また周囲の乗客や船員に救出を訴え出ることも、物理的には可能であったかに見受けられるが、このような場合においても監禁罪が成立することを論述する。」として、述べているものであって、新しい事実の主張をするものでないことはもとより、監視して監禁したという従来の主張の前提事実を変更したものでもなく、監視の程度、身体の自由の直接的な拘束の程度が状況に応じて緩いものでも監禁と評価しうるということを述べているのであって、審理の状況をみても、このような法律的評価に関する意見を述べることが被告人にとって不意打ちとなり、防御権が侵害されるとは解されない。
Ⅶ 最後に、弁護人らの、あつかき号事件の検察官の起訴は、起訴された被告人らと起訴を免れた他のコーチとの関係で不平等なものであり、憲法一四条に違反し、刑事訴訟法三三八条四号により公訴棄却を免れないものであるとの主張について検討するに、弁護人らの主張事実自体が検察官の訴追裁量権の当否を問題とするだけにすぎないことは明らかである。
すなわち、検察官の訴追裁量権の当否の問題は、それだけでは公訴の提起有効、無効に結び付くものではない上、証拠上も、あかつき号事件で起訴された被告人らに対する公訴の提起を無効ならしめるほどの検察官の訴追裁量権の逸脱があったとは到底認められないところ、弁護人らの前記主張も、夏期合宿に参加し、あかつきに乗船していた他のコーチの処分とは無関係に、被告人らに対する公訴の提起自体にそのような違法があるとするものとは解されない。(なお、弁護人らは、弁論要旨の他の部分では、あかつき号事件に関し、捜査当局の捏造による著しく不当な起訴であるとも主張するが、あかつき号事件については、判示認定事実のとおりであり、理由がない。)
したがって、検察官の起訴が憲法一四条に違反し、公訴棄却を免れないとする弁護人らの主張も理由がない。
Ⅷ 以上のとおり、弁護人らのあかつき号事件に関する公訴棄却の申立の主張は、結局、いずれもその理由がない。
② 逮捕監禁罪の成立について
Ⅰ 弁護人らは、A2、A3に対しては、新人迎えから両名の失踪までの間について、監禁行為はあっても違法性が阻却されるか(新人迎え及び宮東合宿所での生活、また、夏期合宿施設内での手錠、ロープによる夜間の拘束)、そもそも監禁行為が存在しない(奄美大島へ向かう往路の船内、夏期合宿期間内の奄美大島での大半の生活、奄美大島からの帰路の船内)から、監禁罪が成立しないと主張する。
被告人らの監禁行為について、違法性が阻却されるか否かについては、後述するところであるので、往路及び復路の船内並びに夏期合宿期間内の奄美大島での生活について、A2、A3に対する監禁行為が認められるか否かについて、以下に検討する。
Ⅱ A2、A3に対する新人迎え及びそれに続く宮東合宿所での生活の内容については、判示認定のとおりであり、この間においては、両名に対する行動の自由の拘束が継続しており、逮捕監禁行為が認められることについては、弁護人らもこれを争わない。
そして、あかつき号事件においては、行動範囲が宮東合宿所から奄美大島に至るものであり、宮東合宿所から神戸港へ向かう間、神戸港において乗船待ちをしている間、神戸港から名瀬港へ船で向かう間、名瀬港から夏期合宿施設へ向かう間、夏期合宿施設に到着した後夏期合宿を終えて同施設を離れるまでの間、夏期合宿施設から名瀬港へ向かう間、名瀬港において乗船待ちをしている間、名瀬港から神戸港へ船で向かう間のそれぞれにおいて、監禁行為が認められるか否かが問題となるところ、これらの多くの期間においては、両名の逃走を防止するため、身体に対して有形力を行使したり、格子戸付きの押し入れに入れるとか手錠、ロープ等で緊縛するといった物理的な方法がとられていないことは、判示認定のとおりである。
すなわち、特別合宿生には金銭を所持させず、外部の者との通信を禁止したほか、コーチや番外生らによる見張り、監視をその内容とするものであるところ、弁護人らは、「甲ヨットスクールが「引率」中に訓練生を監視することは、親との委託契約に基づいて、同スクールが負担している安全配慮義務の履行のため、最低限必要な行為である。従って、このような契約上の義務を履行するについて、その方法自体、社会的に認められない不当な手段を用いるならともかく、最低限必要とされる引率行為あるいは監視行為(例えば、ワッチを立てること、或は班別に訓練生を分けて班長を通じて訓練生の動静を監視する行為等)を一転して監禁の実行行為と考えることは、明らかに論理の飛躍が存するものである」と主張する。
しかし、逮捕監禁は、人の行動の自由の拘束であるが、その手段方法に制限はなく、さきに述べたような物理的方法によると、その他の方法によるとを問わない。
そして、人の行動の自由の拘束の方法は、状況に応じて異なりうるのであって、A2、A3に対する場合のように、一旦有形力を行使し、物理的な方法により人の行動の自由を拘束し、逮捕監禁が成立した後には、被害者の年齢や心理状態、現実に逃走を図る蓋然性の程度、逃走を図った場合にそれを阻止する態勢の程度などによって、監禁状態を維持存続させるためにはより軽い方法、例えば見張り、監視といった方法で足りる場合もある。
この場合には、被害者は、見張られている、監視されているという心理的拘束を受けることだけで監禁者の意図する一定の場所からの離脱が著しく困難となり、行動の自由を拘束されるし、被害者が右の場所からの離脱を図った場合には、見張り、監視する者又はこの者から通報を受けた者がこれを阻止することにより、現実にも監禁状態の維持存続の目的が達成されることになる。
弁護人らの前記の主張は、親からの委託があることなどから被告人らの行為の違法性が阻却されることを前提としたものであるが、監禁の実行行為の有無を判断するにおいて、見張り、監視といった方法は、そもそも監禁の実行行為とはならないとはいえないのである。
Ⅲ あかつき号事件において監禁行為が認められるか否か(A2、A3にとって監禁された状態にあったと認められるか否か)について、場合を分けてそれぞれ検討する。
ア 夏期合宿のため宮東合宿所から神戸港に向かう間で、コーチや他の特別合宿生と一緒にマイクロバス等の自動車に乗っている間は、疾走中の自動車から飛び降りて逃走することは極めて困難であり、監禁された状態にあったと認められる。
そして、これは、名瀬港から夏期合宿施設へ向かう間、夏期合宿を終えて同施設から名瀬港へ向かう間も同様である。
なお、疾走している自動車に乗っていることにより、A2、A3は、客観的には場所的な移動を伴っていることになるが、その意思に反して乗車している自動車という限定された場所からの脱出が極めて困難であれば、行動の自由を拘束されていることに変わりはないのであって、右の場所的な移動の点は右の認定を左右するものではない。
宮東合宿所から神戸港へ向かう間の途中の休憩のときも、便所に行くときは番外生に見張られていた状態にあったもので、コーチによって連れ戻されるおそれのない場所へ逃走することは極めて困難であり、行動の自由を拘束され、監禁された状態にあったと認められる。
イ 神戸港や名瀬港において、乗船待ちをしている間は、A2、A3は、他の特別合宿生と一緒にまとめて集められた上、数人ずつの班に分けられ、便所に行くときにも番外生が付き添って見張るなど、勝手に集団から離れることを禁じられたほか、付近にコーチもいる状態であり、さきの休憩のときと同様監禁された状態にあったと認められる。
なお、宮東合宿所から神戸港へ向かう間の途中の休憩のときや右の乗船待ちのときには、A2やA3の周囲に外囲いなどはなく、物理的に閉鎖された場所に閉じ込められていたものではないが、物理的に閉鎖されているか否かは、一定の場所からの脱出が極めて困難であるか否かを判断する要素にはなりうるが、監禁罪の成立にとって不可欠の要件ではなく、右の認定を左右するものではない。
ウ 弁護人らは、A3は往路の船の中で船員から金を借りて自宅に電話をしており、監禁行為があったとは認められないし、復路の船の中では、日中も夜間も見張りを立てることはしておらず、他の乗客や船員に対し、A2、A3が助けを求めることは極めて容易であったとして、船の中では両名は監禁された状態になかった(監禁行為はなかった)と主張する。
往路及び復路の船の中でのA2、A3に対する監視等の状況は判示のとおりであり、往路の船の中では、A3が電話をかけてそれが甲9コーチらに発覚するまで(第五二回公判調書中の証人A3''の供述部分によれば、電話があったのは午後六時ころと認められる。)の間、A3に見張りがついていなかったこと、復路の船の中でも、数人ずつの班に分けて班長にそのグループの行動を把握するようにさせ、食事の前に点呼をして人数の確認をしていたことはあったものの、便所に行くときに番外生が付き添って見張ったり、夜間の見張りを置くなどの監視方法はとられていなかったことが認められる。
貨客船「あかつき」がいわゆる大型カーフェリーであるとはいえ、その航行中にA2やA3が船外へ脱出することは、本件のように生命・身体の危険をおかして海に飛び込むなどの方法をとるほかなく、それ以外に船内に隠れたとしても、コーチや番外生による船内捜索により発見される可能性が高く、コーチによって連れ戻されるおそれのない場所へ逃走することは極めて困難である。
甲ヨットスクールのコーチが、新人迎えの方法で合宿所まで強制連行し、特別合宿生として入校した者を、いつでも逃走できる状態に置くなどということを考えておらず、これを防止するための措置をとっていたことは、「甲ヨットスクールの特別合宿生への対応」としてさきに認定したとおりである。被告人らの行為の違法性が阻却されるか否かは別としても、親からの委託に基づいて入校させた甲ヨットスクールのコーチとしては、逃走されることを最も心配しており、陸上において四六時中特別合宿生が逃げないように注意し、逃走された場合には捜索して連れ戻し、体罰を加えていたことは、被告人らの当公判廷における供述からも明らかである。
A2やA3と一緒に復路のあかつきに乗船していた甲9コーチも、誰かが逃げるんじゃないかというような懸念については、「それは十分に思ってました。」「船から降りて泳いで逃げるちゅうようなことはもう一切考えずに、神戸の上陸のときに逃げるだろうということは十分に考えてました。」「車に便乗して逃げるとか、あるいはトラックの荷台に隠れるとかいうふうな方法は当然あるというふうには思ってました。」と述べて、逃走されることを心配しながらも、「船自体が監禁物ですからね。あの船から外へ出るっちゅうのは、常識では全く考えられないことですから、その間で我々が更に監視する必要は全くなかったんです。」(第一一九回公判期日の被告人質問)と述べて、便所に行くときに番外生が付き添って見張ったり、夜間の見張りを置くなどの監視方法をとっていなかった理由としている。
A2とともに往路の第二陣として奄美大島へ向かったA9も、神戸港から名瀬港への航行中にあかつきの車両甲板に隠れていたものの、コーチに見付けられており、また、A2、A3の所在が不明となった後も、コーチは、さほどあわてた様子はなく、船内に隠れているものと思っていた(乙10、乙11の司法警察員に対する各供述調書・<書証番号略>、第三四回公判調書中の証人乙12の供述部分)ことは、船内にいる限り逃走することが極めて困難であり、コーチもそのように認識していたことを示すものである。したがって、航行中のあかつき船内は、特段の見張りを必要とせずに、A2、A3の行動の自由を拘束するのに有効な場所であったことは否定できない。
もっとも、あかつきには、甲ヨットスクールの関係者だけではなく、他の乗客、船員など多数の者が乗り合わせているのであって、これらの者に対して救助を求めることが客観的に可能であったことも否定できない(検察官もこれを認める)のであり、弁護人らも、監禁された状態になったとする理由としてこの点を指摘する。
しかし、救助を求める可能性というものも、それが容易に被害者の行動の自由に結び付くものでなければ被害者にとって意味をなさないことは明らかである。救助を求めれば容易に被害者が行動の自由を回復することができ、被害者がこれを認識しているにもかかわらず、救助を求めないのであれば、それは被害者の承諾があるに等しく、被害者は行動の自由を侵害されていないことになるが、それ以外の場合については、救助を求めることが客観的に可能であったから監禁された状態になかったとは当然にはいえない。
A2、A3の入校の経緯、夏期合宿期間中の行動、失踪前の言動、行動などから、両名が甲ヨットスクールの特別合宿生としての生活を望んでいたとも、これをやむを得ないものとして認容していたとも認められず、むしろ、常に逃走の機会を窺っていたことが認められる。これにもかかわらず、あかつき船内において、乗客や船員に対しA2やA3が救助を求めず、また、特別合宿生に逃走されることを最も心配していたコーチも、両名がそのような行動をとることを防ぐ十分な措置をとっていなかったのは、いずれもが、そのような行動を仮に両名がとったとしても容易に行動の自由を回復することができないという認識であったからであると認められるのである。すなわち、被告人らの行動の違法性が阻却されるか否かは別としても、親からの委託に基づいて入校している以上、乗客、船員に救助を求めても、容易に両名が甲ヨットスクールのコーチの支配下から離脱することができるとは認められず、しかも、両名が、離脱できなかった場合には制裁として体罰を受ける危険も覚悟しなければならないと認識していたであろうことは、夏期合宿期間中の生活についてさきに認定したところから明らかである。
未成年ではあっても、一五歳という年齢のA2、A3について、保護されるべき行動の自由を否定するならばともかくも、これを肯定する以上、右の状態下にある両名が被告人らの行為によって行為の自由が拘束されていることは否定できないのであって、監禁された状態にあったと認められる。
エ 弁護人らは、奄美大島での夏期合宿期間中にも監禁行為はなかったとして、夏期合宿施設は開放的な構造の施設、建物であったこと、夏期合宿には特別合宿生以外にも卒業生、日曜スクールなどからの訓練生、これらの父兄等も参加し、同じ合宿生活を送ったこと、これら以外の部外者も夏期合宿施設に出入りしていたこと、訓練の内容も厳しくなかったことなどをその理由として主張する。
あかつき号事件についての証拠(特に、司法警察員作成の写真撮影報告書・昭和五八年一〇月七日付・<書証番号略>、司法警察員作成の実況見分調書・同年九月一六日付・<書証番号略>、当裁判所の検証調書・昭和六三年一〇月二六日付)によれば、夏期合宿施設の状況はつぎのとおりである。
夏期合宿施設は、名瀬市内からバスで約四五分離れた集落(国道部落)のほぼ南端に位置しているが、同集落のある地域は、西方が思勝湾に面した砂浜となっているほか、その他の三方は山に囲まれた地形となっている。夏期合宿施設は、約五〇〇平方メートルの敷地に南北二棟の平屋建物のほか便所、シャワールームなどからなり、平屋建物の西方約二〇メートルに砂浜、敷地の東方約二〇〇メートルに名瀬市方面に通じる県道七九号線の道路があるほか、北方は国直部落の集落(民宿四、五軒、民家約二五軒があり、最も近い民宿の建物は東方へ四〇メートル余り行き、さらに、北方へ五〇メートル余り行ったところにある。)が続き、南方は山になっている。
北棟は、東と西に出入口がある木造平屋建トタン葺の建物で、土間、厨房のほか和室二室、廊下などがあり、南棟は、東と南に出入口がある木造平屋建トタン葺の建物で、中央に廊下があり、その両側に土間と和室七室などがある。
夏期合宿施設の敷地に通じる道路は、県道や集落へ向かう道路が東方に一本あるほか、西方の海岸の堤防沿いに道路がもう一本あり、その他は大小の蘇鉄、榕樹等の植物が雑草とともに繁茂していた。
特別合宿生は、南棟にコーチとともに宿泊し、日曜スクールなどからの訓練生などは北棟に宿泊していたが、特別合宿生以外の訓練生の中にも南棟に宿泊する者もいた。
以上のとおりであり、夏期合宿施設自体は格子戸付きの押し入れなどもなく、普通の建物と変わらないが、判示認定のとおりの監視方法をとって特別合宿生の逃走を防止しようとしていたことは、被告人らの当公判廷における供述からも明らかである。
弁護人らの主張は、結局は、物理的に閉鎖された場所に閉じ込めていたものではないというか、他の者に救助を求める可能性があったというものであって、これらが直ちに監禁された状態になかったとの結論を導くものではないことについては、前述したとおりである。
特別合宿生が宮東合宿所で生活していたときほど強い監視状態のもとになかった理由として、被告人甲2は、「逃げても、小学生でも分かるでしょう。遠いところへ来て、逃げてどうするかと考えれば。逃げてどうするか。例えば、河和の合宿所だったら、逃げてもタクシーも電車もあって、すぐ家に帰ることができますが、名瀬へまで来て、逃げるちゅう根拠が分からないですね。」(被告人甲2の当公判廷における供述・第一〇八回公判期日におけるもの)と説明しているのであり、所持金を持たない一五歳のA2、A3を同人らが来たことのない奄美大島へ連れて来た以上、常に物理的に閉鎖された場所に閉じ込めなくとも、見張りなどといった方法で監視し、逃走を防止することができたのであり、被告人らは、この方法で不十分であると判断したときには、判示認定のとおり、手錠、ロープを用いて物理的に拘束する方法をとっているのである。
Ⅳ 以上のとおり、あかつき号事件において場合を分けて、A2、A3が監禁された状態にあったか否か検討したが、両名が宮東合宿所に戻った場合には、従前と同様の監禁された状態になったであろうことは容易に認められるところであり、被告人らも同様の意思であったのである。すなわち、宮東合宿所の生活から夏期合宿の生活、さらに、再び宮東合宿所の生活という一連の流れの中で、行動の自由の点において、被告人らがA2やA3を別異に扱っていたことも、扱おうとしたこともなく、外形的に差異がある場合も、そのときの状況に応じて監禁状態を維持存続させる方法が異なっているにすぎない。
したがって、あかつき号事件の全期間において、A2、A3が被告人らの行為により監禁された状態にあったことが認められる。
③ A2とA3の死亡について
Ⅰ 検察官は、あかつき号事件においては、A2とA3の死体が発見されていないものの、あかつき船上で両名の所在が分からなくなった前後の状況からみて、A2とA3は、昭和五七年八月一四日未明に高知県沖の太平洋上を航行中のあかつき船上から海に飛び込んだものと認められるところ、飛び込んだと考えられる海域の状況やその後の生存の情報がないことなどからみて、そのころ、死亡したものと認められると主張する。
これに対し、弁護人らは、A2とA3が太平洋上においてあかつき船上から落水し、死亡したという立証がなされていないと主張するので、まずこの点につき補足説明を加える。
Ⅱ あかつき号事件についての証拠によれば、A2、A3の所在が分からなくなった前後の状況は、大要次のとおりである。
A2、A3は、八月一三日午後零時二〇分に名瀬港を出発して神戸港に向かう貨客船「あかつき」に、被告人甲3、同甲5ほか甲ヨットスクールのコーチ、被告人甲5の家族、特別合宿生を含む訓練生など合計六十数名のグループとともに、名瀬港から乗り込んだ。
甲ヨットスクールのグループは、あかつきのC甲板にある二等客室Cの一画(同客室の後部左舷側ます席)に一団となって席を占めたが、A2、A3は、ます席が混雑していたため、被告人甲5の指示で、ます席と壁の間の通路部分に席を定めた。
翌一四日午前七時前ころ、コーチが朝食前に点呼をとったところ、A2、A3の姿が見えないため、朝食後からコーチや班長格の訓練生などが船内を捜し、その後あかつきの船員にも事情を打ち明けて協力を求め、捜索が続けられたが、見付からないまま同日午後二時四〇分にあかつきは神戸港に着いた。神戸港到着後も、海上保安官や船員によって船を降りる者の確認や船内捜索が行われたが、結局、発見されず、その後もA2、A3の所在は明らかにならなかった。
Ⅲ 司法警察員作成の書類入手報告書(昭和五八年六月二〇日付・<書証番号略>)、司法巡査作成の実況見分調書(昭和五八年九月七日付・<書証番号略>、同月一四日付・<書証番号略>、同年一〇月一〇日付・<書証番号略>)によれば、あかつきの一般的な構造等は次のとおりである。
あかつきは、全長140.50メートル、総屯数4997.28のいわゆる大型カーフェリー(貨物船兼自動車渡船)であり、旅客定員は、特等一五名、一等六〇名、二等寝台九六名、二等八六一名の合計一〇三二名であるが、他に乗用車六三台、大型トラック二九台を積むことができる。
甲板は最上階のA甲板から一番下のD甲板までに分かれ、A甲板には、展望スペース(食堂)、レストラン、船員食堂、賄室、乗務員区画(船員室)、無線室、電池室、糧倉庫、空調機室、一等和室があり、B甲板には、特別室、特等室、一等客室、会議室、二等寝台、便所、洗面所、売店・案内所、二等客室A、二等客室B、乾物庫、浴室があり、C甲板には、二等客室C、便所、洗面所、保船機具庫、ロッカーがあるほか、一部が車両甲板となっており、D甲板には、車両甲板となっている部分以外に、郵便庫、甲板倉庫、炭酸ガスボンベ室、錨鎖庫があり、D甲板の下には、主機室、監視室、補機室、舵機室、倉庫、スクランブラー室、スタピライザー室、バウスラクター室がある。
Ⅳ 公判調書中の証人甲10(第五一回)、同甲9(第五三回)、同乙12(第三四回)、同乙13(第三四回)、同乙14(第三四回)、同乙15(第三五回)、同乙16(第六八回)の各供述部分、乙17、乙18、乙19、乙20、乙21、乙10、乙23、乙24、乙11、乙26の司法警察員に対する各供述調書(<書証番号略>)、司法警察員作成の報告書(昭和五八年八月二三日付二通・<書証番号略>)によれば、船内捜索の状況は、次のとおりである。
八月一四日午前七時前ころ、点呼の際にA2、A3の両名がいないことに気付いた甲9コーチは、二人が所属していた班(あかつきに乗船する際にも、訓練生をいくつかの班に分けていた。)の班長に便所などを捜すよう指示し、残りの者と朝食に向かったが、班長から便所には見当たらない旨の報告を受け、朝食後、コーチや班長格の訓練生それぞれ数名とともに、立ち入りが禁止されていない場所を手分けして捜索した。
一時間位捜索しても見付からないため、甲9コーチらが、案内所の司厨員に訓練生が二人見当たらないので捜している旨の事情を話したところ、事務長の指示により、司厨員ら数名がコーチらとともに、手分けして担当区域である客室関係の場所(客室、便所、浴室等)全部及び車両甲板等を捜索したが、二時間位捜索しても見付からず、船長に報告し、その指示で、甲板部や機関部の船員を含めて捜索のできる者全員がそれぞれの担当区域を手分けして捜索することになった。
この捜索の際には、車両甲板にあった自動車のうちドアの施錠をせずに鍵をつけたままのものについてはトランク内まで確認するなど徹底して行われ、同日午後一時ころまで船内の人の立ち入り可能な区域全部の捜索が行われたが、見付からなかったため、船長は、同様の捜索を再度指示するとともに、神戸海上保安部に行方不明者が出たことを報告した。
この捜索によっても、同日午後二時ころまでに見付からず、あかつきは午後二時四〇分に神戸港に着いたが、それまでの捜索で、あかつきA甲板船尾側両外舷に備えられていた救命浮環が二個紛失していることが判明した。
神戸港に接岸した後も、海上保安部の指示により、車両及び乗客の下船が一時止められているうちに海上保安部の職員四名が乗り込み、コーチ、船員と一緒に手分けして船内の捜索にあたる一方、下船口のタラップを一か所に限定し、海上保安官とコーチが降り口付近で監視する中を一人ずつ通過させる方法で乗客を下船させたが、A2、A3が下船しなかったため、その後は、下船口に見張りの船員を配置した状態で、海上保安官などが同日午後五時ころまで船内を捜索したが、発見されなかった。
Ⅴ 被告人甲3の当公判廷における供述(第一〇八回公判期日におけるもの)、公判調書中の証人A9(第三二回)、同A33(第三三回)、同A34(第五〇回)の各供述部分、A9の検察官に対する供述調書(昭和五八年七月二四日付・九、一〇項・<書証番号略>、同年九月一一日付・七項・<書証番号略>、同月一二日付で一二丁のもの・四項・<書証番号略>、同月一二日付謄本で四二丁のもの・一九項・<書証番号略>)によれば、A2とA3の所在が分からなくなる前の両名の言動、行動は次のとおりである。
A2、A3は、八月一三日の午前九時ころ、名瀬港に着いて乗船待ちをしている間、夏期合宿施設で一緒に夜間などに手錠やロープで数珠つなぎにされていたA9に対し、「船から飛び降りて逃げよう」「向こう行ったら殺されるわ」などと、フェリーから海に飛び込んで逃走する意思を示していたが、乗船後も、両名は、C甲板の便所(大便用個室)の中に密かにA9を誘い入れ、「飛び込むぞ」「お前も行かんか」などと述べて、船から飛び込む強い意思を示した。A2とA3は、A9が両名の逃走の企てに参加しない旨告げた後も、決意を変える様子はなく、むしろ、A2は、大便用個室を出た後、A3とA9を待たせたまま、便所の奥の方にある非常用梯子を昇って先の様子を見てくるなど、船の遊歩甲板への経路を探していたが、戻ってきた際、「ドアがあって、そこから出られるみたいだぞ」とA3に伝えた。
A2とA3は、その後、夜間の消灯前ころにも便所の大便用個室から二人で出てきたところを、特別合宿生のA33に目撃されたため、二人で個室に入るなどの不審な行動をしていることをコーチらに告げないようA33に頼んだ。
A2とA3は、消灯後にも、前後してほぼ同時に便所へ行くところを、近くの通路に寝ていた特別合宿生のA34に目撃され、また、A3は、八月一四日午前零時過ぎに、他の訓練生にそのときの時刻を尋ねている。
Ⅵ 第六八回公判調書中の証人乙16の供述部分、証人粟田秀一、同大山乙子に対する当裁判所の各尋問調書、粟田秀一の検察官に対する供述調書(<書証番号略>)、司法警察員作成の報告書(昭和五八年八月二九日付・<書証番号略>)、前記の実況見分調書三通(<書証番号略>)によれば、八月一四日未明にA2、A3の両名と思われる男の子が乗客によって目撃されているが、そのときの状況、あかつきの位置はつぎのとおりである。
八月一四日未明、B甲板二等客室Bの乗客であった粟田秀一、大山乙子が、涼をとるため、人気のないB甲板左舵の遊歩甲板にいたところ、大山乙子は、C甲板便所非常出入口扉付近にいる中学生か高校生くらいの男の子がC甲板便所非常用梯子の下の方にいる者に手招きしているところを目撃し、その直後、粟田秀一も、右の非常出入口扉の方向から船尾の方向へ向けて中学生位の坊主頭をした男の子二人が歩いて行くのを目撃した。
粟田と大山は、男の子らを目撃してからしばらくして船尾の方で何か海面に向けて落ちたものがあることに気付き、粟田が海面を見たところ、海面に浮かんだまま船尾後方に遠ざかって行く黒い物を目撃した。
粟田と大山が男の子らを目撃したのは、日の出前であり、まだあたりは暗いものの、日の出が近いため、遠方に山並みが薄く見えてくる時間帯であった。
八月一四日の日の出の前後ころのあかつきは、足摺岬灯台を基点に、午前四時二〇分には、一九九度、23.1海里、午前五時には、一六六度、12.9海里、午前五時三〇分には、一一七度、13.4海里の各位置を時速約二二ノットで進行していたと認められ、最も足摺岬に接近したのは、南東方向を航行中の同日午前五時一三分ころであり、その距離は約一二海里(約22.224キロメートル)であった。
当時のあかつきの航路上の天候は晴れ、視界は良好で、当日の土佐清水付近の日の出は午前五時二八分ころであった。
Ⅶ 被告人甲5の当公判廷における供述(第一〇六回公判期日におけるもの)、第三四回公判調書中の証人乙12の供述部分、第十一管区海上保安本部次長作成の「フェリーあかつきの船内捜索の実施状況について」と題する書面(<書証番号略>)、司法警察員作成の捜査嘱託関連報告書(昭和五八年九月六日付・<書証番号略>)、司法警察員作成の捜査関係事項照会書謄本(昭和五八年九月五日付・<書証番号略>、同年八月二五日付・<書証番号略>、同月三一日付・<書証番号略>)、大島運輸株式会社運航管理者小林一美作成の「神海刑第269号に対する御回答」と題する書面(大島運輸株式会社作成の「書類発送御案内」と題する書面に添付されたもの・<書証番号略>)、神戸海洋気象台長作成の「捜査関係事項照会(回答)」と題する書面(<書証番号略>)、第五管区海上保安本部水路部長作成の「捜査関係事項照会書について(回答)」と題する書面(<書証番号略>)によれば、前記Ⅳの捜索以後のA2、A3の所在捜査の状況は次のとおりである。
あかつきは、八月一四日夕方に神戸港を出発し名瀬港を経由して沖繩に向かったが、船長からの指示で司厨員らが担当区域である客室関係の場所及び車両甲板等を捜索し、那覇安謝新港においても、海上保安官ら七名が手分けして船内を捜索し、再び神戸港へ向かうときには、飛行機で沖繩に着いた被告人甲5が船に乗り込み、神戸港に向かう間、船内を捜索したが、A2、A3は見付からなかった。
八月一四日午前一時から同日午前六時四五分ころにかけての、あかつきの航路上にあたる、九州都井岬灯台から真方位九〇度、約三五海里付近から四国足摺岬灯台から真方位七五度、約34.8海里付近にかけての海域における海・潮流の状況は、黒潮が都井岬の南東四〇海里(流向・北北東、流速・二ノット)付近を通り、足摺岬の南三〇海里(流向・東北東、流速・二ノット)付近を流れており、ほぼ黒潮本流の中心にあたり、潮流より海流が卓越する海域であること、比較的安定した流況を示していたため、大きな流況の変動はなかったと考えられることから、漂流物が都井岬から潮岬の間の沿岸に漂着する可能性は低いと認められるところ、昭和五八年八月二九日の時点においても、九州の油津海上保安部から本州の千葉海上保安部に至る九州、四国、本州の太平洋沿岸の各海上保安部、海上保安署等の管内にA2、A3と認められる漂着物は確認されていない。
Ⅷ 以上によれば、船内捜索が徹底してなされていること、A2、A3の両名がいずれも失踪当時一五歳であり、家族から独立し、離れて生活した経験がないにもかかわらず、家族、親戚等にも何ら連絡がなく、行方が不明であることから、A2、A3が船内に潜み、密かにあかつきから下船した可能性は、失踪前の両名の言動、行動等をも併せ、これを否定するべきものと考えられる。
そして、A2とA3は、八月一四日未明、あかつき船内から航路上の海の中へ落水したと認められるが、その当時のあかつき航路上にあたる海域はほぼ黒潮本流の中心にあたり、その流向、流速(紀伊半島潮岬の沖合で流向・東、流速・3.5ノットであり、その後大王崎沖合で流向・南、流速・四ノットとなる。)からみても、都井岬から潮岬の間の沿岸に漂着する可能性は少なく、潮岬を過ぎてからは黒潮が南下することから更にその可能性はなく、失踪後一年以上経過した段階においても、太平洋沿岸において漂着が確認されていないこと、さらに、前記のとおり、家族、親戚等にも何ら連絡がなく、失踪後一〇年近くも行方が不明であることを考えるならば、両名は、あかつきから黒潮のほぼ本流の中心にあたる太平洋上に落水し、そのころ、死亡したものと認められる。
④ 監禁と死亡との因果関係について
弁護人らは、A2とA3があかつきから落水して死亡したとしても、落水の状況が明らかではなく、自ら飛び込んだとしても、両名の異常な性格による自殺に類する行為によるものであって、監禁と死亡との間に因果関係はないと主張するので、以下検討する。
Ⅰ 落水の状況については、③のⅤ、Ⅵで認定したとおりの両名の失踪前の言動、行動、粟田、大山の目撃状況によれば、A2、A3は、船の上から海に飛び込んで逃走しようと企て、八月一四日未明、C甲板の二等客室Cから便所の奥にあるC甲板便所非常用梯子を利用し、C甲板便所非常出入口扉からB甲板左舷の遊歩甲板に至り、船尾方向に移動して海に飛び込んだものと認めることができる。
③のⅣのとおり、A甲板船尾側両外舷に設置されていた救命浮環二個がこの航海中に紛失していたこと、この救命浮環の設置されていた場所には、B甲板後部の階段を利用して行くことができること、奄美大島から合宿所宛のコンテナに入れ忘れた甲ヨットスクールのライフジャケットを訓練生に持たせて運んでいたところ、そのうちの二個のライフジャケットが合宿所に着くまでの間に紛失していたこと(被告人甲3の当公判廷における供述・第一〇八回公判期日におけるもの、被告人甲3の検察官に対する供述調書・昭和五八年九月二二日付・<書証番号略>)などは、A2とA3が逃走の目的で海に飛び込んだことを裏付ける事実と考えられる。
Ⅱ A2とA3のこのような行動は、失踪前の言動からも、被告人らによる監禁状態から離脱する目的でなされたものと考えられるが、ライフジャケットと救命浮環を利用したとはいえ、太平洋上を航行中の船から海に飛び込むことを考えるに至った動機が存在し、理解出来るものか否かを検討するに、証拠によれば、この動機に関連すると考えられる事情として、次の事実が認められる。
ア A2は、判示のとおりの状況で合宿所まで連行されたが、奄美大島の夏期合宿に出発した七月二一日までの約一〇日の間、判示のととり監視されて行動を拘束されたほか、合宿所に到着した直後、二階において、被告人甲6から竹刀で腕部を殴られ、早朝体操のときには、被告人甲3、同甲5らから手で顔面を殴られて鼻血を出すなどし、夜の自主トレのときには、甲8コーチから手拳で顔面、身体等を殴られたり、足蹴りされるなどの体罰を受けていた。
なお、被告人甲6は、この事実を否認し、被告人甲3、同甲5は、この事実につき具体的には覚えていない旨述べるが、いずれもA2とほぼ同じ時期に入校して話をしたり、特に記憶のある時期(七月一二日のクルーザーで奄美に出発する前日)に話をしたりした者が証人としてこれらの事実を裏付ける供述をしているのであって(公判調書中の証人乙29・第三一回、同乙30・第二九回、同乙33・第三三回の各供述部分)この内容も具体的であり、A2に対する前記の暴行の点に関しての信用性に問題はない。また、弁護人らは、甲8コーチは、昭和五七年七月七日ころ入社し、自主トレに立ち会うようになったのは同年一〇月か一一月以降であると主張するが、甲8は当公判廷において、A2を含む夜の自主トレに立ち会っていることを前提に述べ(第一二六回公判期日の被告人質問)ている。
イ A2は、夏期合宿中逃走を企てたものの失敗し、判示のとおり、その制裁として殴り付けられ、また、その直後ころから夏期合宿の終わるころまで手錠とロープで数珠つなぎにされるなどの拘束を受けたほか、合宿施設の出入口付近に正座させられてサンゴのかけらなど小石のようなものを被告人甲6、同甲5、同甲10コーチらによって投げ付けられたりした。
ウ A3は、判示のとおりの状況で合宿所まで連行され、間もなく奄美大島の合宿施設に行ったものであるが、A2の逃走が失敗した際、A3を含む数人がA2と一緒に逃走する計画を立てていたことが分かり、被告人甲6に身体を棒で多数回殴られ、その直後ころからA2と同様に拘束を受けたほか、八月初めころには両親宛の手紙が見付かり、被告人甲から激しい暴行を受けた。
この手紙は、三頁の紙にびっしりと書かれた長いものであったが、「このヨットスクールは、世間には公開していないひどいことばかりです。」「つまり、金もうけ。親の心理をうまく利用して、丸もうけしている悪い所です。」(一日1万円なんて信じられない。メシはほとんど食べさしてもらえないし、勿論、人間として扱ってくれないから、いや、動物以下だ。」「ここは、校長(甲)が、うまくごまかしたり親を、うまいこといってなっとくさせて、内部のことは知れわたってはマズイと思うから成り立っているのです。」「毎日毎日コーチからドツかれて、目ん玉の中から血が出てしまい、そのあとも無残に残っています。」「実際、ここで死んだ人は2人いるんです。」「ここは人間の社会ではない」「殴る、ケルも人間に対するやり方でなく、動物以下だ」などと書かれ、早く助け出して欲しいと両親に訴える内容であった。
A3は、八月四日ころの夜、合宿施設内において、手紙の内容に腹を立て、激昂した被告人甲から、廊下に正座を命じられた上、手紙の内容を声を出して読む毎に、手拳で頭部を、また、手拳で顔面を多数回殴られ、鼻血を出すなどし、その後も、被告人甲に命じられた乙5コーチから、手紙の投函を頼む予定であった訓練生A36とともに正座させられた上、手拳で腕部を殴られ、大腿部、臀部付近を足蹴りされるなどの暴行を受けた。
さらに、その後も、A3は、A2と同様、正座させられてサンゴのかけらなど小石のようなものを被告人甲6、同甲5、甲10コーチらによって投げ付けられたりし、被告人甲6に裸になった上半身を蘇鉄の板で殴られて出血し、乙5コーチに小石のようなものを投げ付けられたり、ビーチサンダルで頭部を殴られるなどした。
なお、検察官は、被告人甲の右の暴行については、監禁状態を維持存続させる手段として起訴状、冒頭陳述書に記載しているようであるが、この暴行に関する証拠によれば、被告人甲の暴行は、A3に前記の内容の手紙を書かれたことに腹を立て、激昂して単独でなされたもので、監禁状態の維持存続とは別の動機、目的で加えられたものと認められる。(右の暴行の事実は、起訴状に記載されてはいるものの、起訴状の罪名、罰条、検察官の訴訟追行の経過等からみても、検察官が逮捕監禁致死罪とは別個にこれを審判の対象とし、処罰を求める趣旨とは解されないので、被告人甲との関係でこれを暴行罪として認定しない。)
したがって、以上のうち、判示認定したもの以外は、A2とA3の失踪の動機に関係する、その限りの事実として認定したものである。
Ⅲ 以上のとおり、A2とA3が入校するまでの経緯、宮東合宿所に連行されてから奄美大島の夏期合宿に至る拘束、体罰等を内容とする生活状況、これらについて両名が抱いていた被害感情の強さなどの事情に、両名がまだ一五歳であり、判断力に不十分な点があること、両名が泳ぐ力にある程度自信を持っていたことを併せ考えると、A2とA3が宮東合宿所に戻ってからの合宿生活、体罰から逃れるため、海に飛び込んで逃走しようと考えたことも理解ができないものではなく、前記事情は両名にとって十分な動機となり得たものと考えられる。
Ⅳ 弁護人らは、A2、A3には、精神的な異常、異常性格が認められ、海に飛び込んだことも、これを原因とする自殺に類する行為と評価すべきものであるとして、因果関係はないと主張する。
ア A2が、田口高等学校に入学した後、寮を抜け出して所在が分からなくなったり、学校に行かなかったりしたことがあり、高等学校の教諭などが特別指導をしたが、言動に異常がみられると判断されたこと、そのころ八事病院精神科で診察を受け、境界例(疑)との病名の診断がなされていたことについては、さきに認定したとおりである。
そして、そのときのA2の精神症状として、「“危ない”と言う声が聞えたから窓から飛び出した」という幻聴もみられ、知能は、「自分の症状、気持ちなどを比較的正確に伝えられていることから普通程度と考えてよい」が、性格は、「てんかん性性格がうかがわれ爆発的、衝動的傾向がみられる。(脳波上異常所見がみられる)」(八事病院院長水谷孝文作成の「照会嘱託書の回答」と題する書面・<書証番号略>)とされている。また、A2を診察した鈴木医師は、境界例の患者は、知的に考えて行動するというよりは、むしろ感覚で物事を感じて行動する傾向があり、「社会常識から見れば、腰の落ち着かない、非常に逃避的という、ふらふらしてるということになると思うんですけれども、そういう価値観を外せば、まあ、何て言いますか、いわゆる自由を求めるとか、拘束されるのが嫌とか、そういうことをより自由に表出する」というところが割とあると説明(第七一回公判調書中の証人鈴木茂の供述部分)している。
イ A2についても、高等学校に入学する前、大阪医科大学附属病院の精神神経科の医師による診察を受けるなどしており、「心因反応(家庭内暴力)」との病名の診断がなされていたことについては、さきに認定したとおりである。
そして、そのときのA3の精神状態として、「焦燥感が非常に強く、まわりの人に対する不信感が強い、精神的に不安定で、睡眠も障害されていた。これらは友人からのいじめと高校受験のストレスによると考えられた。」というもので、知能は、「普通域」であり、性格は、「真面目、几帳面な半面、自制心に乏しく、社会性も未熟な傾向にある。」(大阪医科大学附属病院院長小野村敏信作成の「照会嘱託書に対する回答」と題する書面・<書証番号略>)とされている。
ウ 甲ヨットスクールに入校した経緯をみても、A2には登校拒否、放浪癖が、A3には家庭内暴力が認められ、その両親がこれに悩んでおり、一日も早い入校を希望していたことが認められる。
以上の事実からは、A2、A3は、いずれも、知能は普通域であるが、自制心に乏しく、精神的にも不安定な要素が顕著に認められる子供であったことは否定できず、このような両名の性格、精神状態が、あかつきの船上から海に飛び込むという行動の一因となっていることも弁護人らが指摘するとおり否定できないところである。
しかし、あかつき号事件についての証拠によれば、A2、A3が、逃走を企てそうだという意味においてコーチらから注目されていたことはあっても、甲ヨットスクールに入校してから失踪するまでの間、周囲の者において、精神状態や判断能力に異常を感じたという事情は認められない上、その行動の危険性、判断の誤りを指摘することは格別、さきに認定した動機をみても、理解は可能であり、失踪前の両名の言動、行動、失踪状況をみても、それなりの合理性は認められるのであって、A2とA3の行動が両名の精神的な異常、異常性格などに原因するものとは認められず、被告人らによる監禁と両名の右行動による死亡の結果が極めて偶然的な関係にあるとはいえない。
Ⅴ したがって、監禁と死亡との間に因果関係はないという弁護人らの主張は理由がない。
五 A4に対する傷害致死事件(A4事件)
(昭和五八年わ第一〇一八号、被告人甲、同甲2、同甲3、同甲6、同甲7、同甲8に対する各傷害致死被告事件)
1 (犯罪に至る経緯等)
A4(以下「A4」ともいう。)は、昭和四四年六月三日に父A35、母A4"の長男として出生したが、母A4"がA4'と再婚したことから、昭和五二年二月二二日にA4'の養子となった。
A4は、小学校五年生に進級するとき、それまで通っていた茅ヶ崎私立松浪小学校から同市内にあるキリスト教系の平和学園小学校に転校し、昭和五七年三月に同校を卒業した後、藤沢市立鵠沼中学校に進学した。
A4は、小学校五年生の秋ころから頭痛やめまいを訴えるようになり、昭和五五年一〇月ころから平塚市民病院耳鼻科及び精神科を専門とする診療所である茅ヶ崎クリニックに通院して検査を受けた結果、副鼻腔炎を患っていることがわかり、平塚市民病院へ通院を続けた後、小学校六年生のときに手術を受けるなどして治療したことがあったが、それ以外には特に重大な疾病はなかった。また、身体的にはやや細身であり、平和学園小学校のときに風邪や副鼻腔炎の治療のために欠席をしたことがあったが、その欠席日数も特に多くはなく(五年生のときで二七日、六年生で一六日)、登校拒否などもなかったし、中学校に進学してからは、ほとんど欠席することもなかった。
A4は、家庭では勉学を強制されることはなく、むしろ、養父A4'の方針で小学校低学年のころから、YMCAの野外キャンプ活動やスキークラブの活動などに参加する機会が多かったが、学校における体育実技は得意ではなかった。
A4の母A4"は、昭和五七年一〇月ころ、子供を甲ヨットスクールに入れていた知人から単行本となった「スパルタの海」を借りて読んだが、A4を甲ヨットスクールに入れることにより、ヨットの操縦や苦手な水泳が上達し、体力にも自信がつくのではないかと考えるようになり、夫のA4'にもこれを読むように勧めるとともに、ヨットスクールへA4を入れることについて話し合ったところ、A4'も乗り気になり、入校方法について調べることになった。
A4'とA4"は、「スパルタの海」を読んで、甲ヨットスクールでは非行、登校拒否等の問題を抱えた訓練生に対し、殴打、足蹴りなどの有形力を行使して合宿訓練を行っていることを知ったが、YMCAの活動よりは厳しいかもしれないが、自ら身体を鍛えるために入校した子供に対しては、それほど有形力が行使されることもないだろうという程度の認識であった。
A4"は、同年一一月ころ、子供を甲ヨットスクールに入れていた別の知人から甲ヨットスクールの特別合宿入校案内をもらい、さらに、同年一二月三日にはその知人に電話をかけて甲ヨットスクール宛に入校を希望している旨の紹介をしてもらった。そして、同日夜に夫のA4'が宮東合宿所の甲9コーチと話し合ったところ、知人などからは入校まで順番待ちの状態であると聞いていたにもかかわらず、明日からでも受け入れるとの回答が得られた。
A4'とA4"は、同日、A4に対し、ヨットスクールへの入校の意思を確かめたところ、明日から一人で入校するとの返事であったので、翌一二月四日に合宿所に入ることを決めた。
A4は、昭和五七年一二月四日の日中には持ち物を準備してもらい、あらかじめ自分の髪を短く整えるなどの用意をした上、A4'、A4"に付き添われて同日午後九時過ぎころ宮東合宿所に着いた。
A4は、A4"、A4'とともに、宮東合宿所の一階で被告人甲2と会ったが、A4'が入校の承諾を得て合宿所に来た旨伝えたことから、被告人甲2の指示で同日から訓練生の部屋に行って泊まることになり、旅館「角屋」に泊まったA4'、A4"と別れた。
被告人甲は、同年一一月下旬ころにA4の母A4"の知人を通じて、A4の早めの入校につき取り計らいを依頼されたことがあったが、明確な回答をせずにそのままにしていた上、A4が合宿所に着いたころには不在であったため、一二月五日の午前中に被告人甲2から、A4が昨夜合宿所に着いたので合宿所に泊まらせ、入校許可の扱いをしたとの報告を受けてその事実を知るとともに、被告人甲2の措置を認容した。
さらに、被告人甲は、同日午前一〇時過ぎころ、合宿所を訪れたA4の養父A4'、母A4"と会い、A4が副鼻腔炎を患ったことがあること、腕立て伏せなどが苦手であることなどの話を聞いたり、特別合宿申込書用紙に必要事項を記入してもらったりしたので、A4が「非行・登校拒否・家庭内暴力・校内暴力・無気力・ノイローゼ」といった特に問題となる症状を有する子供ではなく、A4'やA4"が強い精神力と丈夫な身体を持つ子供となることを期待してヨットスクールへ入校させた子供であることを知った。
被告人甲3は、東京校の責任者として日曜スクールを担当するため、昭和五七年一二月四日の土曜日の午後から合宿所を離れており、同月六日の深夜に合宿所に戻ったため、この間の合宿所における訓練には関与せず、翌七日の早朝体操からA4を含む特別合宿生の訓練の指導にあたった。
被告人甲6、同甲7、同甲8は、A4が合宿所に着いた翌日の早朝体操からA4を含む特別合宿生の訓練の指導にあたった。
2 (罪となるべき事実)
被告人甲2、同甲6、同甲7、同甲8は、昭和五七年一二月五日の午前六時過ぎころ、A4が甲ヨットスクールの特別合宿生として他の訓練生とともに、宮東合宿所付近の海岸にあった愛知県知多郡<番地略>先東側突堤上で行われた早朝体操に参加し、右被告人らがその見回りをした際、右被告人ら相互及び同様に見回りをしていた乙4など他のコーチらとの間に、特別合宿生となったA4に訓練をさせるために、他の訓練生と同様に、場合によっては、A4に対し、殴打、足蹴りなどの有形力を行使することも一向に構わないとの意思を相互に通じ、また、被告人甲、同甲3も、A4の入校を知った後には、特別合宿生のA4に訓練をさせるために、他のコーチの有形力の行使を容認し、かつ、自らも有形力を行使するなど、これに承継加担する意思を通じ、共謀の上、昭和五七年一二月五日から同月一二日までの間、以下のとおり暴行を加えた。
<一二月五日から、一一日までの早朝体操のときの暴行>
早朝体操は、一二月九日以外は主に前記突堤上で午前六時過ぎころから七時こすまで行われていたが、
被告人甲6は、一二月五日か六日の早朝体操の際、ゴム製のサンダルでA4の背中を数回殴り付け、
乙4は、一二月五日か六日の早朝体操の際、A4の背中を突き飛ばして突堤上から約1.5メートル下の海水中に突き落とし、
被告人甲3は、一二月八日ころの早朝体操の際、A4の顔面を手拳で数回殴り付け、腹部付近を数回足蹴りした。
<夜の自主トレーニングのときの暴行>
ヨットスクールでは、新人の訓練生や早朝体操の各種目を十分にこなせない訓練生に自主トレーニングと称して夜間の運動を行わせており、これらの者は、午後八時ころから三〇分ないし一時間位の時間をかけて三階の男子訓練生の部屋で早朝体操と同じ内容の運動をさせられた。
被告人甲8は、一二月五日ころの自主トレーニングの際、運動のできないA4の腰部付近を数回足蹴りし、腕部、臀部付近を竹刀で数回殴打した。
A4は、一二月一一日ころまでに、以上の暴行、早朝体操や海上訓練の運動、寒冷暴露等により疲労、衰弱し、一二月九日ころからは食事もほとんどとらなかった。
<一二月一二日の早朝体操のときの暴行>
乙4は、腕立て伏せができないため這うようにうずくまったA4を見て、その襟首をつかまえ、突堤上から海水中に突き落とした上、「頭まで漬かれ」などと怒鳴り付けて身体を海水中に漬からせ、さらに、突堤上でA4の身体を多数回足蹴りし、
被告人甲は、腹筋運動の際、A4の胸倉をつかんで正座させ、「こいつは拒絶反応が強い。」などと言いながらA4の鼻付近の顔面を手拳で数回突くように殴り付け、
その後、被告人甲7、乙4は、こもごも、A4の身体を多数回殴り付けたり、足蹴りしたりした。
A4は、この日の早朝体操が終わった後は一人で合宿所まで歩くことができず、他の訓練生に両脇から抱えられ、途中からは、付近の住民である木村喜七に片腕をとられて支えられるようにして合宿所まで戻ったが、その後は、合宿所三階の男子訓練生の部屋で毛布にくるまった状態で寝かされていた。
<一二月一二日の午後の海上訓練の前後の暴行>
午後一時過ぎころ、午後の海上訓練に向かうため、訓練生らが合宿所近くの堤防上に整列した際、A4は、合宿所から出で来なかったため、被告人甲2の指示を受けた訓練生に抱えられるようにして連れて来られたが、長袖のウエットスーツを着ていなかったため、一旦合宿所まで戻され、着替えてからまた連れて来られたが、上半身はウエットスーツがはだけた状態であった。
被告人甲7は、堤防近くの砂浜において、A4の身体を波打際の海水中に押し倒した上、背中の付近を何回も踏み付けて海水に漬けた。
午後の海上訓練の際には、A4は、ヨットの操縦訓練をすることなく、本部艇の船室の中に入れられていたが、本部艇への乗り降りにも一人では動くことができず、他の訓練生らに抱えられて移動し、青白い顔をして、うわごとのように小さな声を出していた。
被告人甲3は、午後四時ころ、午後の海上訓練が終了するにあたり、A4を本部艇からモーターボートに乗せて突堤の船着き場に戻ったが、A4が自力で動けないのを見て、ボートから降りた小川の襟首をつかんでその額付近をコンクリート製の突堤側面に二、三回打ち付けた。
A4は、その後、突堤と合宿所近くの堤防に挾まれた砂浜に運ばれ、うつ伏せのまま倒れていたが、近くでたき火にあたっていた被告人甲やコーチらは、「しっかりしろよ。」などと言いながら、木切れを折ってはA4の方に向けて投げ付けるなどしてA4の健康状態を心配することはなかった。
このような状態にあったところ、被告人甲7は、倒れているA4の両脇に両腕を差し入れるようにして上半身を抱え上げ、たき火のそばにA4の上半身を近付けたが、A4が顔をそむけて、「許して下さい。」などと言っても聞き入れず、二、三回同じ動作を続けた後、近くの波打際までA4を抱えて運び、A4の身体を海水に漬け、さらに、その身体を足蹴りし、「犬みたいに鳴け。」などと罵倒した。
A4は、一二月一二日午後四時三〇分ころ、訓練生に抱えられてたき火をしていた砂浜から合宿所に向かい、合宿所建物東側に設置されているシャワー室でウエットスーツを脱がされて温水シャワーを浴びせられていたが、午後五時ころ、うめき声も出さず、身体が硬直したような状態になり、これに驚いた訓練生がコーチらにA4の異常を知らせたため、シャワー室から合宿所一階の畳敷きの間に運ばれた。
A4は、同日午後五時三〇分ころ、被告人甲2ほかコーチ、訓練生らに付き添われて愛知県知多市内にある平病院に向かうべく自動車で合宿所を出発し、午後六時ころ、平病院に着いたが、医師が不在であったため、看護婦による酸素吸入等の応急処置を施された後、愛知県常滑市<番地略>所在の常滑市民病院に向けて再び出発し、午後六時五五分ころ、常滑市民病院に着き、同病院において治療を受けたが、同日午後一一時三〇分ころ、同病院において死亡した。
被告人らは、前記一連の暴行により、A4の顔面、胸腹部、腰背部、上下肢等に多数の皮下出血、表皮剥脱、筋肉内出血等の傷害を与え、これによりA4を死亡させたものである。
3 (A4事件についての補足説明)
① A4の死因について
検察官は、A4の死体には、昭和五七年一二月一三日の解剖時において、頭部、顔面、胸腹部、上下肢に合計一一五群の創傷(表皮剥脱、皮下出血、筋肉内出血等)が認められるが、内景検査の所見、組織検査の所見によると、A4の死体には各臓器に末梢性の循環障害を示す変化が著明に出現しており、死因はショックであることが明らかであるところ、前記のおびただしい数の外傷が総合、蓄積されて作用した場合、その生活機能に重大な悪影響を与えることは確実であって、この点を勘案するならば、死因は外傷性ショックであることが明らかであると主張する。
これに対し、弁護人らは、A4の死体に認められる損傷は外傷性ショックを引き起こす程度のものではなく、A4の死因は寒冷暴露が原因となった低体温症による心機能不全であり、また、A4の外傷は被告人らの暴行に起因するものばかりではなく、しかも、常滑市民病院における医療過誤も死亡の原因となっていると主張するので、以下のとおり補足説明する。
Ⅰ A4の死因については、捜査段階において鑑定を受託した矢田昭一(鑑定書作成時において名古屋大学医学部法医学教室教授)が、「外傷性ショックと考えられる。」としているのに対し、弁護人らから、A4の死因について、低体温死の可能性の有無について意見を求められて意見書を作成した相原弼徳(意見書作成時において横浜市立大学医学部法医学教室学内講師)は、「A4の死因につき低体温死の可能性がある。」とし、同様に、弁護人らから、A4の死亡原因について意見を求められて意見書を作成した木村康(意見書作成時において船橋市立看護専門学校長、元千葉大学医学部教授)は、「低体温症と判断するのが妥当である。」として、外傷性ショックであるか低体温症であるか意見を異にしているので、以下のとおり検討する。
なお、以下において、矢田昭一作成の昭和五七年一二月二八日付鑑定書(<書証番号略>)を、「矢田鑑定」と、公判調書(第九回、第一五回、第一六回)中の証人矢田昭一の供述部分を「矢田証言」と、相原弼徳作成の意見書(<書証番号略>)を「相原意見書」と、証人相原弼徳の当公判廷における供述を「相原証言」と、木村康作成の意見書(<書証番号略>)を「木村意見書」と、証人木村康の当公判廷における供述を「木村証言」という。
Ⅱ 矢田鑑定は、司法警察員からの鑑定嘱託を受けた矢田昭一が、裁判官の鑑定処分許可状に基づき、昭和五七年一二月一三日にA4の死体を解剖し、その上で作成したものである。矢田昭一は、矢田鑑定において、A4の各臓器をホルマリンで固定し、切辺を作って染色、鏡検した組織検査の所見として、
心は「うっ血と水腫があり、右室が左室より著明。左室心筋の一部に外膜下脂肪組織の浸潤がみられる。」
肺は「毛細血管が著明に拡張し、肺胞内に洩出液を伴ない、肺水腫あり。小血管にフイブリン血栓あり。肺胞は拡大もあり、気腫状。気管支内に異物なく、気管支炎、肺炎なし。」
脳は「大脳、脳幹ともに強い水腫とうっ血あり。血管周辺の空胞化をみとめる。小脳もうっ血と水腫あり。虚血性変化としてPurkinje細胞の脱落著明」
腎は「皮質、髄質、とくに皮質のうっ血高度。間質の水腫が中等度出現しているが、尿細管上皮の脱落はほとんどなく、いわゆる挫滅症候群crushsyndromeの所見なし。急性末梢循環不全を推定させる。」
副腎は「皮質球状層に強いうっ血。出血、壊死なし。」
肝は「うっ血中等度。中心静脈周辺の肝細胞にきわめて軽度の脂胞変性がある他、著変なし。」
脾は「急性のうっ血。白色髄のT細胞帯のリンパ球脱落があり、急性のストレスが考えられる。」
胸腺は「強いうっ血あり。」
十二指腸は「潰瘍周辺に細胞浸潤、線維増生がみられるが、肉芽組織なく、ほぼ数日ぐらい経過のものと推定される。穿孔はしていないが、奇形としてこの部に一部膵組織の迷入あり。」
左大腿筋は「著明な浮腫あり。筋線維間に血球の洩出もみられる。」
としている。
また、矢田昭一は、矢田鑑定において、創傷の部位、程度、成傷器の種類、用法に関し、A4の死体には、頭部、顔面、胸部、背面、腰部、上下肢等に合計一一五群の創傷が認められ、これらの損傷の種類は「すべて表皮剥脱、皮下出血、筋肉内出血などにかぎられているので、成傷器が鈍体であることは明らかである」とした上で、表皮剥脱については、表面の粗ぞうな鈍体と接触して生起されたと考えられるが、左右手首や左右下腿から足背にかけての部分の線状の表皮剥脱、背面腰部の表皮剥脱はほぼ上下に走っており、本屍が体軸方向へ移動した際、擦過されて派生されたことは確実で、自為的なすべり落ちによる粗面との接触以外に、他為的に本屍が粗面上を引きずられて生じた可能性があり、皮下出血については、その数がきわめて多いこと、各所に分布していること、やや陳旧なものが混在していることから、単純な事故や災害に基づく自為のものとは到底考えられず、他為的に繰り返し激しい打擲を受けたため生起されたとみなされるとしているほか、右上腕や左大腿部の皮下出血について、「広範な筋肉内出血を伴なっており、たとえば作用面の平滑な鈍体による頻回の叩打とか、足げりなどの強い鈍力が働いた公算が大きい。なお、少なくとも左大腿部の皮下、筋肉内出血はやや陳旧にみとめられ、時期的に多少以前に生起されたことがうかがわれる。」としている。また、矢田鑑定においては、皮下出血について、「やや陳旧」と表現したものが多いが、これについて、矢田昭一は、「死ぬ前にできた新しいものではないということから、そういう表現を使ったのだと思います。」「死亡直前にできた新しいものではないと、そういう意味におとり下さればなおいいと思います。」(矢田証言)とし、矢田鑑定においても、「本屍の皮下出血は全体的にみて、大凡数日以内の新旧いろいろなものが混在しているように見受けられる。」としている。
以上の所見を前提として、矢田昭一は、「本屍は、体格中等、栄養やや貧な少年屍で、右口蓋扁桃(扁桃腺)の軽度の肥大と12指腸潰瘍を除き、全身の各臓器にとくに重大な病変は存在しない」が、この十二指腸潰瘍は、「比較的新しく、明らかに本屍に加わった肉体的、精神的ストレスに由来するもので、」「従前から本屍に存在していたとは考えられない」ところ、「多発性であるが、これからの大出血、さらに腹膜腔への穿孔による腹膜炎の発症などは伴なっておらず、これが死因に関与したとは到底考えられない」とした上で、「本屍の場合、もっとも注目されるのは全身に分布するおびただしい数の外傷で、各損傷はいずれも内部の主要臓器の損傷を伴なっていないものの、これらが総合、蓄積されて作用したとすると、本屍の生活機能に重大な悪影響を与えたことは確実である。本屍では組織学的に各臓器に末梢性の循環障害を示す変化が著明に出現している。これは、本屍が多数の外傷により外傷性ショック(二次性)におちいったことを強く示しており、本屍の死因は全身に受けた外傷による外傷性ショックと考えられる」とし、死亡前の状況から寒冷な環境下での低体温死も死因として一応考慮する必要があるが、「低体温死を指示するような所見が欠けている」こと、「低体温死は他の死因がすべて除外できた時にはじめて意義をもつに至るものである」ことから考慮する必要はないとしている。なお、「二次性外傷性ショック」の意味について、矢田昭一は、「外傷性ショックには一次性と二次性の2つの型があり、前者は外傷を受けてから数分以内に主に迷走神経を介して急激に虚脱状態におちいるもので、喉頭部、心窩部、下腹部、外陰部など一定の部位に加えられた強い刺激が原因となる。後者は多数の外傷、高度の組織挫滅、大出血などが原因となり、外傷を受けてから30分以上数時間から12時間ぐらい経過して発症し、末梢循環障害が主体になり、血流障害による組織の低酸素症、臓器の機能失調から全身状態が悪化し、死の転機をとることが多い。」(矢田鑑定)と説明している。
Ⅲ 相原意見書は、低体温症について研究している相原弼徳が、矢田鑑定、矢田証言、A4の死体を見分した実況見分調書、本件当時の気温等に関する報告書等、健康診断をした平病院のカルテ等、常滑市民病院の病症日誌・入院時記録等、公判調書中の証人乙35、同乙5、同乙31、同乙32、同平恭司、同乙34の各供述部分の各写などの資料に基づき、「A4の死因につき低体温死の可能性の有無」について、意見をまとめたものである。
相原弼徳は、矢田鑑定の所見を前提として、「全身に分布するおびただしい外傷を受傷していることから、身体的条件、環境要因、特殊な気象下での訓練により低体温死(凍死)の誘因若しくは憎悪因子として考慮できる」が、「ショックを惹起するような外傷、挫傷及び火傷などは認められない」から、外傷性ショックよりも低体温死を考慮すべきであり、「死因となりうる損傷や病変はないと考えられる」こと、「凍死は死斑とは関係ない鮮紅色斑あるいは左心室内の血液の著明な鮮紅色が認められることがあるが、これら所見がなかったからといって低体温死を否定するのは困難である」こと、そして、「死亡当時の気象条件、現場の状況、本屍の着衣その他の状況が凍死を誘発しやすい状況であったことと考え合せても、低体温死と診断するにたりる要因があったと推測する。」として、「A4の死因につき低体温死の可能性がある。」(相原意見書)との意見を出している。
なお、相原弼徳は、「低体温症とは寒さのため放熱が増加し、これに対して産熱を増して体温を維持することができない状態となり身体障害(各臓器の生理機能の障害)を生じる症状」(相原意見書)と説明している。
Ⅳ 木村意見書は、法医学者である木村康がA4の死亡原因について、意見をまとめたものである。
木村康は、矢田鑑定の所見を前提とし、「以上の所見を総括するとA4の死に到る経過は何等かの原因で急性あるいは亜急性心不全に陥り、次いで肺循環不全による呼吸不全、全身性の循環不全に陥り心停止を来したものと推測される。しかして心臓には特に病変はなく、また他の主要臓器である脳、肺、肝、腎等にも病変はない。したがってA4の急性あるいは亜急性心不全は内因性のものではなく、外因性のものと推測される。ところで全ての外因死は死の経過として急性あるいは亜急性心不全の状態となるが、本件A4の解剖所見から最も考え易い外因は外傷である。」「最も可能性のあるのは二次性の外傷性ショックである。」「二次性外傷性ショック以外の外傷に基づく死因は全て解剖所見から除外される。」としている。
そして、矢田昭一が、矢田証言において、左大腿の皮下出血の内部の出血量は死因を失血と考えてもいい程度の量であると述べていることについて、木村康は、「肺の血量から判断すると死因として失血を考慮する余地はない。失血が死因と判断される死体の肺は高度の貧血で表面ならびに割面は灰褐色であるからである。」としている。
ところが、木村康は、二次性外傷性ショックについても、「二次性外傷性ショックは挫滅症候群、または高度な損傷によって破壊された筋肉やその他の体組織の中間代謝産物である多量のカテコールアミン等の中毒による微小血管系を中心とする末梢循環不全が本態とされている。ところでA4の体表には多数の損傷が形成されており、その多くは軽微であるが、中に少数ではあるが重篤な損傷も混在していたので、解剖時の肉眼的所見からは一応二次性外傷性ショックが考えられた。しかしながらA4の腎臓の尿細管には変化がないので、挫滅症候群である下部ネフロン賢症は否定される。そうすると微小血管系を中心とする末梢循環不全に基づく二次性外傷性ショックということになるが、この場合は解剖時、心臓内には殆ど血液がなく空虚であることが多い。ところがA4の心臓内には中等量の血液が存在していたので、血管床の面積と循環血液量との進行性懸隔による末梢性の循環不全による二次性外傷性ショックもまた考え難い。」としてこれを否定し、むしろ、「入所時、A4は年令に比してひ弱で、肝臓障害の疑いがあり安静を保つべき状態であったと推察される。ところが、12月12日の行動はこれに反するものであり、かなり疲労しており、しかも長時間寒冷下にあったことは明かである」「したがって先に示したA4の低体温が発現する原因はあったわけである。」とし、証人乙34の証言内容に注目し、「ここで注目すべきは乙34証人の証言中に、訓練生達が宿舎の3階で「A4の体がガチガチに硬直していた」と言っていたのを聞いたことであり、また乙34証人自身が腕に触ったら冷たく硬かったと述べていることであり、これは後述するように低体温症状の一つだからである。」「ショック時の低体温はガチガチという表現がなされるような筋肉の硬直は伴っていない。そうするとA4の健康急変時に見られたガチガチと表現された筋肉の硬直は何が原因であろうか?」「A4の12月12日の行動をみると、長時間寒冷下にさらされていて、多量の体熱の放散が起こる環境下にいたことは明らかであるから、これによる低体温も十分に考え得るところである。体温が35度c以下に降下すると疲労感が増加し、思考力が減退、運動能力減退などの症状が現れてくるので、12日の午後の訓練時のA4の態様を考えると当時すでに低体温の状態にあったのではないかと思料される。」(木村意見書)とする。
木村康は、A4の解剖時の直腸内温度が二八度Cであったことについても、木村意見書において、「A4の体温降下の度合は一般の死体とはその経過が異なっていたであろうと推測される。したがって前述のA4の体温が終末期において30度cあるいはそれ以下に降下していたのではないかとの考えも容易に首肯されるところである。」と説明する。
そして、木村康は、「A4の死亡の原因は低体温症と考えるのが妥当である。勿論、A4の虚弱的な体質や肝臓機能障害の疑い等の素因、さらには生前体表に形成された外傷が低体温症発症の経過および低体温症による死亡に何らかの影響を及ぼしたであろうことは否定できない。」(木村意見書)との結論に至っている。
Ⅴ ところで、矢田昭一は、死因を外傷性ショックであるとした理由について、矢田証言において、内部所見として、肝臓、腎臓、脾臓等の腹腔臓器の著明なうっ血といった末梢性循環障害があること、粘膜、漿膜下におびただしい出血があること、肺水腫が高度であることからショック死であると認められるところ、外傷が目立つこと、他に原因がないことから、そのショック死の原因は外傷であると考えられるが、左大腿が大変腫れており、出血及び血漿成分の総出量は一〇〇〇から一五〇〇ミリリットルに達していると考えられるので、これだけでも外傷性ショックを起こす条件になると説明し、低体温死を否定した理由として、直腸内温度が限界とされる二五、六度Cまで下がっていなかったこと、胃粘膜に出血がなかったこと、低体温死は他の原因がすべて除外できたときに意義をもつことをあげている。
また、矢田昭一は、A事件と比較して死因を異にした(Aの死因については外傷性ショックを否定した)理由として、外傷の程度が重いこと、粘膜、漿膜下の出血傾向がAの場合ほとんどないが、A4の場合は著明な出血があること、肺水腫も高度であることなどをあげて(矢田証言)いる。
外傷性ショックの可能性について、木村康は、二次性外傷性ショックということを考えた場合に、外傷の程度が弱く、内部所見も普通の二次性外傷性ショックとは違うものの、「私も、ほかの資料がなくて、写真と、それから、死体解剖の鑑定書だけですね、この二つだけだったらですね、もうどうしようもないなあ、一番考えられるのは、二次性外傷性ショックですよというふうに答えざるを得ないでしょうね。確かに、普通我々が考える傷というよりは弱いんだけれども、しかし、ほかには何もないから、それを考えるしかないんじゃないかと言わざるを得ない」とするが、しかし、標準的な所見から「ちょっと欠けている点があって、素直にそれを認めることができない。ただ、一方において、そういう、普通は考えられないような体温の降下があったということなもんですから、そうすると、もう少し別な考え方をしなきゃいかんかな」ということを思っていたところ、乙34証言に「ガチガチ」という表現があったので、「それなら三五度以下、三〇度か三三度ぐらいか、その辺のところまでは下がってたのかなというふうに考えられる」ので、「この場合には低体温症と考えたほうが妥当であろう」との結論に至ったものである(木村証言)として、矢田昭一との見解の差異を説明する。
Ⅵ 矢田昭一が内部所見からショック死であると認めたことについても、木村康は、「寒冷に暴露された状態で起こる低体温症というのは、要するに、低温によるショックなんですから、これは。ですから、症状としては同じなんです」(木村証言)として矛盾しないというのであるから、矢田昭一の見解との差異は、要するに、ショック死の原因として、「外傷」と考えるか、「低体温症」と考えるかというところに帰着すると考えられる。
そして、木村康は、原因を外傷と考えるには、ア外傷の程度が弱い、イ内部所見も外傷性ショックの標準的な所見とは異なるというので、以下にその点について検討する。
ア A4の損傷のうち、重いと考えられる右上腕と左大腿の損傷は、矢田鑑定によれば、「ら、右上腕外側下2/3の部は上下径約17cmの範囲にわたって淡紫赤色を呈し、皮下、筋肉内に広範な出血あり。」、「g、左鼠径部から左大転子部、さらに左大腿外側上半にかけ広大な範囲は淡紫赤色を呈し、この部は右と比べると著明に腫大。また、一部は示指頭大程度までの小水泡も少許混在。皮下、筋肉内にきわめて広範な出血あり。出血はやや陳旧にみとめられる。下層筋肉は浮腫状。」、「h、左大腿前面下端超手掌面大の範囲は淡紫褐色を呈し、右と比べると腫大。加割するとこの部から左大腿外側下半にかけてはきわめて広範な皮下および筋肉内出血あり。出血はいずれもやや陳旧にみとめられる。」と記載されている。
矢田昭一は、左大腿部の損傷につき、「出血及び血漿成分、その総出量が一〇〇〇から一五〇〇ミリリットルに達しておりまして、A4君は少年でございますから体重から概算いたしますと、全身の血液量では三リットルなかったと思いますが、その三分の一あるいは半分近くが左大腿部軟部組織間へ洩れ出してるとみなしていいわけです。こういうのは血行動態的には当然ショックにおとしいれておかしくない」と説明し、「ほかのことを一切無視して左大腿の腫脹だけ考えてもショック死の説明はつきます。」としている(矢田証言)が、解剖の時点では腫脹の程度を測定して概算しておらず、また、右の説明についても、「これは取り消してもいいですよ。」(矢田証言)としていること、矢田鑑定においては大出血に基づく失血によるショック(出血性又は失血性ショック)としていない(矢田証言においても、「少なくとも失血性ショックではないですね。」としている。)こと、木村康は、写真や触ったときの感じからみても「出血による失血」の原因となる出血巣ではないと否定的(木村証言)であることから、右の損傷が筋肉内出血を伴う、重い損傷であることは認められる(木村康も、木村証言において、「確かに大腿と、それから右の上腕ですか、三か所の傷の状態は強いですよね。出血の状態が強い。」とする。)が、これのみで出血性のショック死を引き起こすほどのものと認めることはできない。
イ 内部所見について検討すると、矢田鑑定においても、腎臓に挫滅症候群の所見なしとされていることから、これを原因とする二次性外傷性ショックは否定されることになる。
矢田昭一は、ショック状態が外傷に起因する(外傷性ショック)としているが、そのメカニズムとしては、「これは循環血液量減少性と、あるいは、血管原性ショックの混合したものかもしれません。さっきも言いましたように、いろいろな分解産物やらそういうものが血管壁に直接に作用して、末梢血管が拡張して、そこへ血液が入るというのと、もう一つは、血液原性ショックで、血液又は血漿成分がある場所で大量に失われて有効な循環血液量が減少してるとそういう意味ですね。」「両方この場合関与してる可能性がありますね。」「これは外出血、内出血があまりありませんので、要するに血管原性ショックとそういうことになると思いますが。いろいろ混合型もありますので、何とも言えませんが。」(矢田証言)と説明している。
木村康は、末梢血管が拡張してそこへ血液が入り、有効な循環血液量の減少からショック状態を起こしたならば、「心臓の中の血液はほとんどないか、あっても非常に少ない状態」(木村証言)になるのに、「A4の心臓内には中等量の血液が存在していたので、血管床の面積と循環血液量との進行性懸隔による末梢性の循環不全による二次性外傷性ショックもまた考え難い。」(木村意見書)とする。
すなわち、矢田昭一もそのメカニズムについて明言していないのであるが、従来のショックのメカニズムから小川のショック状態が外傷に起因することを説明することは難しく、A事件においても記述したとおり、これが即外傷性ショックであることを否定することにつながらない(右の説明が可能なのは標準的な所見が認められる場合である。)としても、外傷性ショックであるとの認定を困難にするものであることは否定できない。
Ⅶ 木村康は(木村とほぼ同意見の相原弼徳も)、生前の健康状態、死亡当日の状況を考えると、低体温症と判断するのが相当であるとしているのであるが、常滑市民病院の入院時に体温が三五度Cに達していなかったこと、平病院へ運ばれる前にA4の身体が「ガチガチ」に硬直していたことを重視している。
そして、弁護人らは、低体温に関係する事項として、弁論において次のことを摘示して主張している。
「① 体質等
A4は、痩身かつひよわな感じで肝機能障害の疑いがあった。
このため、GOT・GPTの値から見て、疲労が回復しないでたまっていたと考えられる。食事もあまり食べていなかった。この疲労、空腹は低体温症の素因となるものである(証人木村一二七回三〇〜三二丁)。
また、A4にみられる外傷も体を疲労させ、低体温症に対する抵抗力を減弱させると言う意味で低体温症の素因の一つと考えられる(同二六、二七、三一丁)。
② 気象条件
一二月一二日は天候晴、海上で気温7.4度〜10.9度、水温14.1度〜14.2度、地上では11.5度〜一三度、風速3.3メートル〜5.7メートルであり相当強い季節風が吹く寒い日であった。
③ 一二月一二日、A4は、朝の体操時、海中に漬けられている。
④ 午後の訓練開始直後、A4は、浜辺で複数回身体全体を海水に漬けられている。
⑤ その後、素肌にウェットスーツを着て濡れた状態で海上に出て、レスキュー艇、本部艇の上で少なくとも一時間前後以上の時間を過ごしている。
⑥ 午後三時四五分頃の訓練終了後、再び浜辺で海中に漬けられている。
⑦ その後、シャワー室で温水シャワーをかけられ、短くとも三〇分、長くて一時間近くシャワー室に放置されている。
温水シャワーを浴びせると体の表面の血管が拡張し、更に体温が放散される。木村康証人の証言によると、「どんどん体温が下がっておる状態のとき、温水シャワーを浴びせかけて、それからそのあと、今度はあっためないというような状態であると、一旦拡がった血管から体熱が放散されて、更にまた(体温が)下がってしまうと、そういうことになる。」とのことである(同証人一二七回一九丁)。
⑧ この前後頃には、A4にガチガチという表現がなされるような筋肉の硬直現象が現れる。
⑨ A4は午後五時過ぎ頃、意識を消失し、甲被告人のマッサージを受けている。
⑩ 常滑市民病院入院時、体温は三五度に達しなかった。」
以上の摘示事実のうち、①については、概ねそのとおりの事実が認められる。
押収してあるA4の一般診療カルテ一通(<書証番号略><押収番号略>)、第六七回公判調書中の証人平恭司の供述部分によれば、A4は、入校後の昭和五七年一二月七日の午前中に平病院において健康診断を受けているが、その検査結果では、身長157.2センチメートル、体重38.5キログラム、白血球数一万六五〇〇、GOT値一六三、GPT値六〇、というもので、肝機能障害の疑いがあったことが認められ、また、判示認定のとおり、一月九日ころからほとんど食事もとらない状態にあった。
②についても、司法巡査作成の気温測定記録入手報告書(<書証番号略>)、愛知県水産試験場長作成の「美浜地先自動観測塔観測記録の資料提出について(回答)」と題する書面(<書証番号略>)、第二七回公判調書中の証人乙35の供述部分によれば、宮東合宿所及びその付近では、気温は、陸上において、午前六時、午前九時が一三度、午後三時が11.5度、海上において、午前九時が7.4度、午後三時が10.9度、風向、風速は、午前六時が西、4.2メートル、午前九時が西、3.3メートル、午後三時が北、5.7メートル、水温は、午前九時が14.1度、午後三時が14.2度であり、天候は晴であるが、寒い日であったことが認められる。
③ないし⑥の事実については、判示認定のとおりである。
⑦については、シャワー室の経緯につき弁護人らが問題としているところであり、後述するとおり、シャワー室にいた時間は、長くみても三〇分以内であると認められる。
⑧については、木村康、相原弼徳が重視している状況の一つであるが、証人乙34の証言内容については、後述するとおり疑問がある。もっとも、A4の身体が「硬直」していたか否かについては、シャワー室でA4の容体に気付いた乙33が、「温水シャワーを浴びさせたら声も全く出さず体が硬直して動かなくなってしまったのです。」と述べて、これに沿う内容となっているが、筋肉が「ガチガチ」になったような状態であるのか否か具体的な状態は不明である。
⑨、⑩については、そのとおりの事実が認められる。
常滑市民病院の入院時記録(常滑市民病院病症日誌中のもの、<書証番号略>によれば、体温について「低く35℃→」と記載されており、医師金井朗は「看護婦が測ったところによりますと、三五度に達しない」(第八回公判調書中の証人金井朗の供述部分)と述べている。
この体温については、低体温症を考える上で重要であり、木村康は、腋下体温が三五度以下というだけでは低体温症という判断はできず、実際に体温が降下していたというもう少しはっきりしたものがないといけないが、乙34証人の「ガチガチ」に硬直していたという供述があったので、三〇度か三三度ぐらいまでは体温が下がっていたのかなというふうに考えた(木村証言)というのであり、また、「文献に見る偶発性の低体温症の調査報告では30度Cあるいはその前後でも死亡例が散見される。」(木村意見書)としている。相原弼徳は、低体温死するような異常な低体温は一般的には直腸温で二六度Cから三〇度Cであるが、身体条件等によっては、32.1度Cから三五度Cの間でも死亡例がある(相原証言)としている。
したがって、死亡当時のA4の直腸温を確定できるか否かであるが、矢田鑑定によれば、少なくとも死後約一五時間経過した解剖時(解剖は昭和五七年一二月一三日午後二時二〇分から四時二〇分まで行われた。)の直腸温が二八度Cで、解剖時の室温が一五度Cであったことが認められる。
A4が死亡してから解剖開始時までの約一五時間について、死体の保存状況をみると、前記の常滑市民病院の入院時記録、常滑市民病院長福嶋久夫作成の「弁護士法23条の2による照会に対する回答」と題する書面(<書証番号略>)によれば、死体は、死亡の翌日である一二月一三日午前七時ころまでの間は常滑市民病院の小児科病棟病室内に置かれていたが、病室の室温は二二度Cから二五度C前後と認められ、その後温度調節機器のない同病院霊安室に移され、さらに、その後、同病院から名古屋市中区三の丸所在の愛知県警察本部内の解剖室に移されたことが認められる。
したがって、A4の死亡時の直腸温が二八度Cを上回り、また、腋下温も三五度Cに満たないことは明らかであるが、それ以上に体温(特に直腸温)が三〇度C前後であったのか、又は、三五度Cに近いものであったのかなどについての認定は困難である。
検察官は、死後経過時間と直腸内温度に関する各種推定の方法を引用し、「死亡時には三〇度C以上あったと優に認められる。」とするが、これらの推定法は、死亡時の体温(直腸温)が三七度Cであることを前提としているものである上、誤差を考慮しなければならず、また、「三〇度C以上」というだけでは、低体温死の可能性を否定するほどのものではないと言わなければならない。
しかし、低体温死の可能性は否定されないとしても、死後経過時間、その間の死体の保存状況と解剖時の直腸温からみて、少なくとも一般的に低体温死するような異常な低体温である三〇度C以下まで死亡時に直腸温が下がっていた(すなわち、解剖時までに二度C以下しか低下しない。)との認定ができるともいえない。
弁護人らの摘示した事実に関してさきに認定したA4の健康状態、死亡当日の状況は、低体温症の可能性を示す状況ではあるが、証人乙34の証言内容については、後述するとおり疑問があり、低体温症の判断にとって重要な死亡時又はその直前の体温が明らかではない以上、死因が低体温症の可能性はあるが、それ以上の判断は難しいといわなければならない。
Ⅷ A4の死因についての検討は以上のとおりであり、死因について、「外傷」を考えるか、「低体温症」を考えるか、いずれにしても不明な点が残り、また、いずれの可能性も否定できないことから、検察官が主張するところの、死因を外傷性ショックであるとの認定ができないことは、弁護人らの指摘するとおりである。
したがって、死因については、低体温症との可能性もあるが、また、そのように認定することもできないので、A4の虚弱的な体質や肝機能障害の疑い等の素因、生前体表に形成された外傷、寒冷暴露といった諸要因が相まってA4の死亡の原因となったことまでを証拠上認定するにとどめる。
② 被告人らの暴行とA4の死亡との因果関係について
Ⅰ 低体温死の可能性と因果関係について
弁護人らは、A4の外傷は被告人らの暴行に起因するものばかりではなく、それ以外のヨット訓練時の自損行為に起因する傷害、心臓マッサージなどの蘇生術を行ったときに随伴する傷害なども多く含まれている旨主張する。
ア A4の死体に認められる損傷のうち、矢田鑑定では、「前胸部の筋肉内出血はこの部を手拳の類で小突かれたり、何かの鈍体で打撃されれば当然発生し得ると考えられるが、出血の所在部位から推して、心臓マッサージあるいは人工呼吸などの蘇生術施行に随伴した疑いもある。」とし、「右下腿後面の比較的大きな水泡の発生機転は十分明らかでないが、その性状からみてこの部に湿熱(たとえば湯)または乾熱が作用したため生起された第2度の熱傷である疑いがある。」としている。矢田鑑定において、前者に相当するものは、「ム、左乳頭上わずか右方3cmの部を中心とし超母指頭大境界不鮮明な淡紫赤色変色。皮下に出血あり。やや陳旧」及び「メ、左乳頭下方4.5cmの部を中心とし超母指頭大境界不鮮明な淡紫赤色変色。皮下に出血あり。やや陳旧。」と記載された損傷と認められ、後者は、「y、右下腿後面のほぼ全域に上下径約25cm、巾最広部で2cmあまりの水泡があり、一部は表皮が剥れ赤褐色の真皮を露出。」と記載された損傷と認められる。
被告人甲の当公判廷における供述(第一〇四回公判期日におけるもの)、公判調書中の証人斉田ちさ江(第七回)、同金井朗(第八回、第一三回、第一四回)、同三輪田悟(第八回、第一二回)、同肥田康俊(第五九回)、同乙33(第二一回)、同甲11(第六一回)の各供述部分、常滑市民病院の入院時記録(常滑市民病院病症日誌中のもの、<書証番号略>)によれば、A4は、シャワー室から合宿所一階の畳敷きの間に移されて被告人甲により心臓マッサージのような措置を受け、常滑市民病院においても、医師により心臓マッサージを施されたり、看護婦により湯たんぽ数個を用いて保温の措置がなされたことが認められる。
斉田主任看護婦は、湯たんぽに熱湯を入れることはないし、必ず体から三〇センチメートル以上は離して用いるので、病院の措置により熱傷ができることはない旨述べる(第七回公判調書中の証人斉田ちさ江の供述部分)が、右下腿後面に熱傷ができる原因は他に見当たらず、少なくとも被告人らの行為により生じたものとは認められない。
イ その他の損傷について、ヨット訓練時の自損行為に起因するものが認められるか否かについて検討するに、A4が所属していたB班がヨット訓練を行い、A4がこれに参加したと認められるのは、一二月五日の午前、同月六日の午前、同月七日の午後、同月九日の午後、同月一一日の午後である(押収してある合宿所日誌一冊・<書証番号略>・<押収番号略>、甲ヨットスクール日誌・<書証番号略>、被告人甲2の司法警察員に対する供述調書・昭和五八年六月二二日付・<書証番号略>)が、また、新入校の訓練生は午前、午後とも海上訓練をしていたと認められる(矢田潤一の検察官に対する供述調書七項・<書証番号略>、第七二回公判調書中の池上聰の供述部分)ので、A4が平病院や小林歯科医院へ行った一二月七日の午前、同月八日の午前以外でA班が海上訓練をしている同月五日午後、同月六日午後、同月八日午後、同月一一日午前にも海上訓練をしている可能性がある。
そして、ヨット訓練の際には、海の状況、ヨット操縦技術の熟練度などによって、手足等に打撲傷や擦過傷を生じる場合があることが認められ(第六七回公判調書中の証人平恭司の供述部分)、A4にヨット訓練時の自損行為に起因する損傷が生じている可能性もある。
しかし、海上訓練の際には身体及び上下肢に長袖、長ズボンのウエットスーツ、頭部にヘルメットを着用していることから、表面の粗ぞうな鈍体と接触して生起されたと考えられる表皮剥脱が、その際、この着用部分の身体等に生じたと認めることは困難である。
しかも、表皮剥脱については、「革皮様化」と表現されているものが多く(表皮剥脱の認められる損傷のうち八八群について「革皮様化」とされている。)認められるが、「革皮様化」については、矢田昭一が、「死体になって初めて出てきますので、わりと新しい傷でしょうね。生前のある時期にできた傷であれば、当然瘡蓋なんかできますので、こういう現象は起こらないわけです。」(矢田証言)と説明しており、死亡に近い時期に受けた損傷であると認められる。
また、皮下出血については、アのもの以外では、腰部に一群認められるほか、顔面、上下肢に合計約三〇群認められるなどその数が多く、しかも右の各所に分布している上、重い損傷である左大腿と右上腕の皮下及び筋肉内の出血については、矢田昭一が「作用面の平滑な鈍体による頻回の叩打とか、足げりなどの強い鈍力が働いた公算が大きい」(矢田鑑定)と判断しているものである。
この皮下出血については、「やや陳旧」と表現されているものが比較的多く認められるところ、矢田昭一は、この表現について、「死亡直前にできた新しいものではない」という意味であり、三、四日以内のものであると説明しているが、また、皮下出血の古さを正確に推定することは困難であるとしている。そして、皮下出血を含めてA4の外傷の生じた時期につき、「一週間ぐらいなら入るかもしれません」とする一方、アの皮下出血についても、「やや陳旧」という表現を使っている。
以上によれば、A4の死体に認められる損傷について、その一部に例えばヨットの転覆時に船体に身体を打ち付けて生じた外傷によるものがある可能性を否定できないとしても、なお相当部分は被告人らの暴行によって生じたものと認めることができる。
弁護人らは、A4は一二月一二日には寒冷に暴露されていた時間が長かったところ、午後の海上訓練が終わった後、A4は合宿所のシャワー室で長時間過ごしており、体熱放散が極めて大きかったとして、A4に付き添っていた訓練生がA4をシャワー室に長時間放置していた可能性を指摘するので、この点について補足説明するとともに、これに関係する証人乙34の証言内容について検討する。
公判調書中の証人乙33(第二一回)、同乙35(第二七回)、同乙5(第四六回、第四八回)、同乙36(第七五回)、乙33の検察官に対する供述調書(一七項、一八項・<書証番号略>)、被告人甲2の司法警察員に対する供述調書(昭和五七年一二月一三日付・<書証番号略>)によれば、突堤と合宿所近くの堤防に挟まれた砂浜からA4が二、三人の訓練生に抱きかかえられるようにして合宿所の方へ向かったのが午後四時三〇分ころであり、番外生の乙33がシャワー室でA4を見たのが午後五時前後ころであって、乙33はすぐにA4の異常をコーチらに知らせ、A4は一階畳敷きの間に運ばれたことが認められ、砂浜から合宿所へA4を連れて行き、ウエットスーツを脱がせてシャワーを浴びせるまでの時間を考慮すると、弁護人らが指摘するように「短くとも三〇分、長く考えると一時間近くもあった可能性」があるとはいえず、A4がシャワー室にいた時間は長くみても三〇分以内であると認められる。
なお、右の前後の経過に関して、乙34は、午後の海上訓練が終わった後、合宿所の三階にA4が寝ており、がちがちに硬直していたので、コーチに見せたほうがいいということで三、四人の訓練生と一緒に一階に降ろしたが、A4の身体に触ると硬直してがちがちになっていた旨述べる(第八九回公判調書中の証人乙34の供述部分)が、A4にシャワーをかけ始めて数分間は乙5コーチが付いて見ていたこと、その後乙33がシャワー室に行ったところ、二人位の訓練生がA4に声をかけながらシャワーを浴びせていたので、そのまま乙33がそばに付いていたことは、乙36の供述などによっても裏付けられており、A4がシャワー室から一旦三階へ運ばれたことを前提とする乙34の供述内容は認定事実と異なり、この点において信用性に疑問がある。
Ⅱ 常滑市民病院の医療過誤の主張について
弁護人らは、常滑市民病院における医療過誤がA4の死亡の原因となっていると主張する。
ア 被告人甲2の当公判廷における供述(第一〇三回公判期日におけるもの)、被告人甲2の司法警察員に対する供述調書(昭和五七年一二月一三日付・<書証番号略>)、公判調書中の証人斉田ちさ江(第七回)、同中山ゆかり(第八回、第一一回)、同金井朗(第八回、第一三回、第一四回)、同三輪田悟(第八回、第一二回)、同肥田康俊(第五九回)、同乙33(第二一回)、同甲11(第六一回)の各供述部分、乙5の検察官に対する供述調書(昭和五八年七月四日付・<書証番号略>)、常滑市民病院の入院時記録(常滑市民病院病症日誌中のもの、<書証番号略>)、初診時所見(<書証番号略>)によれば、A4が合宿所から運ばれた後死亡するまでの経緯は次のとおりである。
A4は、昭和五七年一二月一二日午後五時三〇分ころ、被告人甲2、乙5コーチ、甲11コーチ、訓練生の乙33、同A37の五名に付き添われて、自動車で宮東合宿所から愛知県知多市内の平病院に向けて出発し、午後六時ころ、同病院に着いたが、医師が不在であったため、当直の看護婦である中山ゆかり(准看護婦)が酸素吸入の措置をとるとともに、血圧、脈拍の測定をしたが、全く測定ができず、また、意識のない状態であった。
中山は、院長の平医師との連絡もとれず、当直医も偶々不在であったため、午後七時ころまでには当直医が来るであろうと考えられたが、A4の容体からみて至急に医師の診察、治療が必要と判断し、近くの病院に連絡をとり、常滑市民病院へ連れて行くよう被告人甲2らに伝えた。
A4は、午後六時三〇分ころ、酸素吸入の措置をされたまま、被告人甲2らに付き添われて、再び自動車で平病院から常滑市民病院に向けて出発し、午後六時五五分ころ、同病院に着いた。
A4は、同病院外来の救急処置室に入り、三輪田医師、肥田医師の診察、治療を受けたが、その場には、三村研修医、斉田主任看護婦、福原看護婦も入り、これに加わった。
その後、A4は、午後七時一五分ころ、肥田医師、三村医師、福原看護婦に付き添われ、ストレッチャーに乗せられて二階小児科病棟の病室二〇五号室に移され、小児科部長の金井医師、さらに、途中から三輪田医師も加わった態勢で治療を受けた。A4は、午後八時四五分ころ、一階のレントゲン室に移されたが、午後九時三〇分ころ突然に呼吸が停止し、蘇生術を施されるとともに、午後一〇時四五分ころ再び病室へ戻されたが、午後一一時三〇分ころ、死亡が確認された。
イ 弁護人らは、平病院から常滑市民病院へ運ばれるころにはA4の容体は改善されていたが、常滑市民病院において肥田医師が強心剤のボスミンを過剰投与したため心停止を来したとして、同病院の措置に医療過誤がある旨主張する。
まず、中山ゆかりの供述によれば、平病院に運び込まれたときは血圧、脈拍が全く測定できない状態であったが、常滑市民病院に向かうときには、脈拍は「何とか脈が触れるかな」という程度になり、血圧も測定できるかどうかという程度になったが、いずれも数値を出せるほどではなく、「変わりばえがしない」状態で、意識もなかったことが認められる。
そして、斉田主任看護婦、三輪田医師、肥田医師の各供述、常滑市民病院の入院時記録によれば、常滑市民病院に着いたときのA4の状態は、脈拍、血圧測定不能、腋下の体温は三五度Cに達せず、体幹の色が外傷の周囲を除いて蒼白であり、呼吸は下顎呼吸で、意識はなく、瞳孔は散大し、対光反射なしという状態であったことが認められる。
被告人甲2は、平病院ではA4の血圧も上がってきたと聞いたし、顔も赤みが出て、目も開けるなど意識も戻ったように感じられ、安心した気持ちで平病院を出たが、A4が常滑市民病院の救急処置室に入り、自分たちが外で待っていると、突然医師と看護婦が慌てふためいた感じで救急処置室から出て来て、ストレッチャーに乗せられたA4を二階の病室へ運んでいった旨述べる。そして、甲11も、平病院では当初は血圧も脈拍も測定できなかったが、常滑市民病院へ行く直前ころには、血圧も一〇四になったと看護婦から教えられた旨これに沿う供述をする。
平病院に着いた当初と、常滑市民病院へ行く直前ころでは、血圧、脈拍の点において中山ゆかりも多少改善されていたことを認めているものであるが、被告人甲2の供述は、常滑市民病院に着いたときの状態とは明らかに異なる。
ところで、前記証拠によれば、平病院において、被告人甲2は、ライターであぶれば熱いと言うのではないかなどと言いながらライターの火を近付けようとしたり、乙5コーチは、意識のないA4に温かいジュースでも飲ませたらいいのではないかと言ったりしていることが認められるが、これらの言動、行動は、これまでにも冬季の海上訓練中に意識を失って平病院に運ばれた者が何人もいることから、被告人甲2のみならず、付き添っていた乙5コーチらがA4の容体についてそれほど深刻に考えていなかったのではないかと思わせるものである。
この点については、常滑市民病院の肥田医師が、初診時所見に「極めて重症な状態にも拘らず、事前の連絡なく、来院時の付添いの態度も極めて楽観的なことに驚かされる」と記載している内容と符合する。
このように、被告人甲2は、平病院での容体の変化を極めて楽観的に受け止めている疑いがある。
甲11の血圧に関する供述は具体的であるが、中山ゆかりがその事実を否定していることから、甲11と会話したのは、准看護婦の資格のないもう一人の当直者であったと考えられるが、その者が血圧を測定した結果を甲11証人に伝えたことがあるとしても、被告人甲2以外には、付き添っていた誰もがA4が意識を回復した様子を認めていないこと、中山が平病院から常滑市民病院へA4を連れて行くよう指示したこと、さらには、前記常滑市民病院に着いたときのA4の状態などからも、それほど顕著な変化、改善があったとは到底認められない。
ウ 弁護人らの主張は、常滑市民病院の入院時記録、初診時所見のA4の症状に関する記載内容を疑い、常滑市民病院の救急処置室に入る前と二階の病室へ移されるときのA4の容体が違うとの前提の下に、救急処置室において、肥田医師がボスミンを過剰投与したために心停止を来し、あわてて二階の病室へ移したというもののようであるが、右の前提自体に問題があることはさきに指摘したとおりである。
弁護人らがボスミンの過剰投与という疑いを抱いた根拠は、入院時記録中の看護婦記録の中に次のような記載があることによる。
「全身冷感あり 脈拍血圧測定不能直ちに酸素マスク5lにて開始する湯タンポ数個貼用し保温マット使用する 顔面蒼白 開眼状態にて意識なし外来にて上大静脈より点滴ソリタ500ml+ソルコーテフ200mgの点滴してくる 下顎様呼吸にて舌根沈下認むDr肥田にてボスミン1AP皮下注す心停止認む為直ちにDr肥田Dr三輪田にて心マッサージ及びバックにて人工呼吸開始する。」
ところで、肥田医師は、一階の救急処置室から二階の病室へ移したのは、酸素吸入をし、鎖骨下静脈穿刺により静脈に挿入したカテーテルから点滴の方法で副腎皮質ホルモン等を投与するといった応急の処置を済ませたので、きちんとした処置をするためであり、また、同処置室においてボスミンの投与はしていないと説明し、三輪田医師、斉田主任看護婦も同様の説明をする。
そして、右の看護婦記録の日時欄には、冒頭のところに「12―12入院時」と、「心停止認む為」のところに「7:20」と記載されているが、肥田医師、三輪田医師、斉田主任看護婦、金井医師らの供述によると、A4が二階の病室に移されたのは午後七時一五分ころであり、右の記載はA4が病室に移された時点から小児科病棟の目代看護婦が措置内容等をメモし、その後にまとめたものであることが認められる。右の事実に看護婦記録の記載内容をも併せて考えると、ボスミンの投与はA4が二階の病室に移されてからなされたことが認められる。
問題となるのは、「Dr肥田にてボスミン1AP皮下注す」と記載され、その右の実施事項欄にも、「ボスミン1AP」と記載されていることであり、右の記載からは、A4が二階の病室に移されて間もなく、肥田医師によってボスミン一アンプルを皮下注射した措置がなされ、その後心停止したと理解される余地がある。
金井医師は、ボスミンを使うようにその場の者に指示し、一アンプル(一ccのうちの半分を肥田医師が上腕に皮下注射し、残りを自分が受け取ってカテーテルの側管から注入したが、その際A4はほとんど心停止の状態にあったと説明する。
肥田医師は、ボスミンの二分の一アンプルを自分で皮下注射し、その余をどのようにしたか分からなかったが、後になって金井医師から側管から注入したことを聞いたと説明し、その際A4が心停止状態にあったか否かについては、呼吸停止していたことは分かったが、その後心停止も確認していると述べている。
三輪田医師、斉田主任看護婦は、いずれも、ボスミン投与の事実を知らない旨述べている。
弁護人らは、ボスミン投与に関する金井医師と肥田医師の供述内容が、ボスミン投与の際に心停止状態にあったか否か、二分の一アンプルについて、金井医師が側管から注入したか否かについて一致していないこと、右の供述内容が看護婦記録の内容に反していること、心停止状態で皮下注射を行っても無意味であり、看護婦記録の記載からはボスミン投与後に心停止状態になったと考えられることを指摘し、A4が心停止状態になる前に、肥田医師がボスミン一アンプルを投与し、過剰投与となったため、心停止を来したものであると主張する。
しかし、金井医師と肥田医師の供述内容が一致していないというが、心停止状態にあったか否かについては、結局のところ、両名ともほぼ心停止状態にあったということでは一致しており、それ以上に、厳密な供述を求めてその不一致を指摘しても、緊急時の医療措置に携わっている状況下にあることを考慮すると、合理的な批判とは言えない。
また、「心停止認む為」という記載についても、ボスミンの投与前には心停止状態になかったが、ボスミンを投与したため心停止になったという意味に理解するのは、A4の容体が改善されていたことを前提とするものであり、常滑市民病院に着いたときの前記所見を前提とするならば、ボスミン投与と心停止の関係は右の記載からは必ずしも明らかではない。
金井医師も、「こういう書き方をしますと、入院時のときは心停止がなかったということになりますから、こういう書き方も不正確だと思います。」(第一三回公判調書中の証人金井朗の供述部分)と述べる。
そうすると、残った問題は、肥田医師が一アンプルを皮下注射したのか、二分の一を皮下注射し、残りを金井医師が側管から注入したのかという点であり、金井医師、肥田医師の説明は、看護婦記録の記載と明らかに異なる。
金井医師は、「彼の場合は血管確保がされておりますが、確実に右鎖骨下静脈に入っているという確信がまずありません。従って迷います。一瞬、心臓に打つべきか別のルートから打つべきかと考えましたけど、取りあえず半分は皮下注、半分は静脈内投与を自分がやってみようと」考えて半分にすることにしたと説明し、また、「確かに目代さんは一アンプルを切って、肥田先生に渡されたと思います。従って、こういう記載が出てきたと思います。肥田先生から私は相談を受けまして、半分にしておけと、私に半分よこせと半分取り上げたのでございます。」(証人金井朗の前記供述部分)と看護婦記録の記載と実際の措置が一致していない理由を説明する。
看護婦記録には、「1/2AP管注」との記載もあり、目代看護婦が一アンプル使用と二分の一アンプル使用の場合を一応区別して記載していることは明らかである。
肥田医師が、自分では強心剤としては事後の利尿のことを考えてイノバンを使用し、ボスミンは使用しないとしていること、病室においては、肥田医師に比べて医師としての経験が豊富な小児科部長の金井医師が立ち会っていることから、金井医師の説明のとおり、ボスミン投与については、金井医師の指示によるものと認められるが、金井医師が、肥田医師にボスミン一アンプルの皮下注射を指示し、実施されたのか、途中で金井医師の説明のとおり、半分について金井医師が受け取り、側管から注入したのかについては、そのいずれとも確定は困難である。
看護婦記録には、肥田医師が一アンプルを皮下注射した旨の記載となっており、金井医師の側管注についての記載がないことから、前者の可能性も考えられないわけではない。
弁護人らは、三輪田医師、斉田主任看護婦が「五分から一〇分ぐらいの時間」がかかったとされる金井医師の側管注を認識していないことから、金井医師の説明について不審を持つが、三輪田医師は、一階の救急処置室から一旦内科病棟の重症患者の状態を見に行き、二階の小児科病棟の病室に着いたときには、肥田医師が心臓マッサージをしていた旨説明しているから、必ずしも金井医師の側管注を認識していたはずであるとは言えないし、斉田主任看護婦も、病室での措置について全て認識していなければ不自然であるという前提が問題である上、斉田は、証人尋問の際にも、病室での措置については大まかな記憶しかない旨述べているのであって、金井医師の説明を補強する供述がないことは事実であるとしても、この供述が得られないことから金井医師の説明を虚偽であるとする根拠とはなしえない。
ところで、ほぼ心停止状態のA4にボスミン一アンプルを皮下注射したと想定しても、皮下注射の効果はあまりないことから、無益な措置であったとの批判はあり得るが、心停止との関係を直ちに認めることはできない。
もっとも、肥田医師が一アンプルを皮下注射した場合を想定すれば、金井医師、肥田医師が実際の措置と異なった措置をあえて述べているのは、ほぼ心停止状態という金井医師、肥田医師の説明も虚偽であり、ボスミンの過剰投与による心停止の疑いを避けるために虚偽の説明をしたもので、やはりボスミンの過剰投与により心停止を来したと疑う余地も考えられることになる。
しかし、ほぼ心停止状態という前提を疑ったとしても、ボスミン注説明書(<書証番号略>)には、「通常成人エピネフリンとして1回0.2―1mgを皮下注射または筋肉内注射します。なお、年齢・症状により適宜増減してください。」との用法・用量の説明があり、公判調書中の証人金井朗の供述部分(第一三回、第一四回)、押収してある小児外科/内科雑誌写一冊(<書証番号略>・<押収番号略>)、心小児科学大系四一巻A写一冊(<書証番号略>・<押収番号略>)、小児科臨床二七巻四号写一冊(<書証番号略>・<押収番号略>)によっても、それまでの容体に鑑み、ボスミン一アンプル(一ミリグラム)をA4に皮下注射したことが過剰投与であるとは言えない。
なお、A4は、午後七時二〇分ころに心停止して死亡したものではなく、その後、午後七時五〇分ころには心拍が戻り、五分後には下顎様呼吸も見られる状態になっている。A4は、その後腹腔内や頭蓋内の出血の有無を調べるため午後八時四五分ころレントゲン室へ移された後、午後九時三〇分ころ突然呼吸停止し、蘇生術が施されたが午後一一時三〇分ころ死亡したものである。
以上の経緯をみても、ボスミンの投与とA4の死亡との因果関係については、これを全く否定することまではできないとしても、常滑市民病院の措置に過誤があったとは認められないから、被告人らの暴行とA4の死亡との因果関係が否定されない(もっとも、医療過誤があったとしても、本件においては、必ずしも因果関係が否定されるわけではない。)ことはもとより、これが被告人らの情状に影響を及ぼすほどのものとも認められない。
弁護人らは、A4の体温が三五度C以下であったのに、電子体温計による計測をしていない点において診断が不十分であり、低体温症に対する治療手段としての復温方法がなされなかったという点において治療も不十分であるとして、常滑市民病院の措置に医療過誤があると主張するが、これは解剖などによって事後的に知り得た事情や常滑市民病院の医師らが当時知り得なかった事情をもとにして、有効適切な他の治療方法があったとするものであって、妥当なものとはいえないし、右の診断、治療が当時適切な方法であったか否かも必ずしも明らかではない。
その他証拠によって認められる常滑市民病院の措置を検討しても、医療過誤は認められない。
六 被告人甲5に対する無罪判決の理由
1 本件公訴事実は、「被告人は、ヨット教室の経営等を業とする甲ヨットスクール株式会社の従業員コーチであるが、昭和五八年三月中旬ころの午後八時三〇分ころ、愛知県知多郡<番地略>所在同会社合宿所二階浴場脱衣室において、入浴直後の同会社ヨット教室の女子訓練生A17(昭和四一年五月二九日生、当時一六年)を認めるや劣情を催し、やにわに同女の顔面を平手で数回殴りつけるなどの暴行を加えた上、同女の陰部を手指で弄ぶなどし、もって、強制わいせつの行為をしたものである。」というものである。
2 第四二回公判調書中の証人A17の供述部分(以下「A17証言」という。)、第四九回公判調書中の証人乙3の供述部分、A17及びA'17の検察官に対する各告訴調書(<書証番号略>)、特別合宿申込書(A17に関するもの、<書証番号略>)によれば、本件告訴がなされた経過は以下のとおりである。
A17は、昭和五八年二月五日、甲ヨットスクールの特別合宿生として入校し、宮東合宿所で生活しながら訓練を受けていたが、同年三月三一日にヨットスクールを脱走した。A17は、脱走した当日に東海警察署へ赴き、そこで半田警察署から派遣されてきた刑事に対し、本件を含めてヨットスクールのコーチからわいせつ被害を受けたとの事実を述べて、調書を作成してもらった。その後、名古屋地方検察庁の検察官が、同年六月九日、愛知県小牧市内のA17の自宅を訪れ、本件のほか、甲6コーチ及び甲2コーチからもそれぞれわいせつ被害を受けたことについて告訴する旨を内容とする、A17とその法定代理人である実母の各告訴調書を作成した。
3 本件公訴事実について、被告人甲5は、一貫して事実を否認し、また、A17の訴えるわいせつ被害の事実に関する目撃者等の第三者の供述もないので、A17証言の信用性が重要であると考えられる。
① A17証言、A17の検察官に対する前記告訴調書によれば、A17が甲6コーチ、甲2コーチから受けたと主張していたわいせつ被害の内容は、日時、場所は異なるものの、ほぼ同一態様のものであると認められるが、これらの事件についてはいずれも、昭和五八年七月一日の本件起訴後も公訴を提起されることなく経過していたところ、同年八月一二日ころに告訴が取り消されていることが認められる。
A17は、この告訴の取消は、自己の将来を考え、被害にあったことが世間に知らされることをおそれる気持ちと、また、ヨットスクールのコーチらと関わっていきたくないという気持ちからなされたものである旨供述する。
本件以外の事件について告訴が取り消されていることについては、確かにこのような説明も全く理解し難いものと考えることはできず、これだけでA17証言の信用性の有無を決めることはできない。
② 被告人甲5の当公判廷における供述(第一一八回公判期日におけるもの)、A17証言、司法警察員作成の検証調書(昭和五八年七月二日付、<書証番号略>)によれば、宮東合宿所の二階の間取り、構造は以下のとおりである。
二階のほぼ中央に、北側の階段(出入口)方面から建物の南側に通ずる廊下(幅一メートル未満)があり、廊下の東側(海側)に便所、コーチ室、浴場脱衣室、浴室が、廊下の西側(道路側)に女子訓練生室、女子更衣室がそれぞれある。
コーチ室は敷居によって南北三部屋に、女子訓練生室は敷居によって南北二部屋に区切られているが、いずれもふすまや戸は立ててなく、素通しの状態で使用されている。また、コーチ室と女子訓練生室は廊下を隔てて向かい合う間取りとなっているが、いずれも廊下側に戸は立ててなく、素通しとなっている。
浴場脱衣室は、コーチ室の南側にあって壁を接しており、その出入口は脱衣室の西側で廊下に面している。出入口の戸は木製で、北側に取っ手があり、廊下側に開くように(外開きの構造に)なっている。
脱衣室内で大声を発すれば、女子訓練生室の中央部付近に居る者は、その音を確認することができる状況であり、脱衣室への人の出入りについても、コーチ室、女子訓練生室から容易に分かる間取りとなっている。
事件が起きたとされる午後八時三〇分ころは、夕食後で就寝前の自由時間となっており、昭和五八年三月中旬ころには、コーチ室及び女子訓練生室にそれぞれ何名かのコーチ、訓練生が居たと認められる。
ところで、被告人甲5は、昭和五八年三月中旬の午後八時過ぎころ、脱衣室とほぼ同様の位置関係、状況にある二階コーチ室の北側便所内の手洗い所付近で、A17の衣服内に手を入れてその乳房に触る行為をしたことは認めており(被告人甲5の当公判廷における供述・第一一八回公判期日におけるもの、被告人甲5の検察官に対する供述調書・昭和五八年七月一日付・<書証番号略>)、脱衣室の位置関係、状況だけでA17の主張する被害は全く起こり得ないとまで断定することはできない。
しかし、A17は、被告人甲5が本件公訴事実のような行為に及んだ際、「やめてください。」と言ったり、泣いたりしたと供述するのであるが、前記のような位置関係、状況にある脱衣室内において、そのような事態が起こったことにつき、誰も気付いた者が認められないということは一般的には考え難いものがある。
③ 被告人甲5の当公判廷における供述(第一一八回公判期日におけるもの)、A17証言、公判調書中の証人A38(第七〇回)、同A39(第八五回)、同A40(第九〇回)の各供述部分によれば、ヨットスクールにおいては、入浴について、多くは旅館「角屋」の風呂を利用させてもらっていたが、宮東合宿所二階の浴室を女子訓練生が利用することもあったこと、その場合には、コーチに信頼されている者が、必要があるときに限って、一人で浴室を利用することもあったが、一般的には新人訓練生の脱走や自殺などを防ぐため、番外生を含めた二、三名を一組として一緒に利用させていたこと、A17は、入校後間もなく二度の自殺未遂事件を起こしていた者で、昭和五八年三月中旬ころは、入校後一か月余りを経過していたが、番外生の立場にはなかったことが認められる。
A17は、本件当時、コーチには大分信用されていたし、他の子が入らなかったので一人で浴室を利用していたと供述する。
確かに、コーチに信頼されている者が一人で浴室を利用する場合もないわけではなく、A17は、脱走する直前ころ(昭和五八年三月末ころ)にはコーチにかなり信頼されていたことが窺われることを考えると、A17の弁解もあり得ないとまで断定することはできない。
しかし、宮東合宿所二階の浴室の利用方法を検討すると、番外生でもない女子訓練生が一人で風呂に入ることは通常はあり得ないと考えられる。
④ 被告人甲5の当公判廷における供述(第一一八回公判期日におけるもの)、A17証言、A17作成の手紙二通(八月一五日付・<書証番号略>、同月二四日付・<書証番号略>)によれば、A17は、被告人甲5が本件で起訴された後の昭和五八年八月二〇日ころ、愛知県常滑警察署に勾留されていた同被告人に面会を求めて接見したほか、その直後、手紙二通を同被告人宛送付していることが認められる。
A17は、面会に行ったのは、「とにかく憎たらしかったから。」「やっぱりざまあみろって感じで」という気持ちで会いに行ったものであり、手紙については、嫌味をこめて書いたものであると供述する。
しかし、被告人甲5の当公判廷における供述によれば、面会の状況は、A17が「えらい迷惑をかけました。」ということを言って入って来て、あとは和やかな雰囲気で雑談をしていたというもので、A17証言にも特にこれに反する状況は認められない。
そして、A17が作成した手紙は、以下のようなものである。
Ⅰ 「甲5コーチには、大変申し訳ないことをしてしまったと思います。こんなふうにコーチを苦しめるつもりは、さらさらありませんでした。コーチが私をにくむのはすごくわかるし当然だと思います。今日8/15父に相談したら人間ができとらんといわれました。そしてコーチには、コーチの気のすむようにあやまってつぐないをするようにいわれました。そのとおりだと思います。コーチの気のすむようにして下さい。PS コーチが有利になるよう考えていますが、必要があればなんでもいって下さい。」
Ⅱ 「とても元気そうで安心しました。今回やっと会って下さったのにやっぱ刑事さんの前では、思うてたこと言えませんでした。」「でも、コーチは、たぶん、私の本意でこんなひどいことしたのとちがうてわかってくれると思います。ここに詳しく書かれませんのが残念ですが、私、人になんか言われるとすぐ心がふらつく性格ですし、意思の弱さからこんな結果をつくってしまったことは悪く思ってます」さらに、いずれの手紙にも、冒頭の「甲5様へ」、「甲5コーチへ」の各記載の末尾にハート型のマークが書き入れられているほか、「コーチがヨットスクールでもう一度やり直す時は、(中略)がんばって下さい。」「ウインドサーフィンのお店を出すつもりなら、(中略)お手伝いします。」「少しでも早く出てこれますよう祈ってます。」「何か、ほしいものがあればどうぞ書いてくださいね。」などということが書かれている。
これらの表現について、A17はあれこれ説明するが、思春期の不安定な心理状態を考慮したとしても、本件公訴事実記載の被害を受けた者が憎しみ、嫌味を込めて書いたものとして理解するのは困難である。
また、これらのA17の行動は、前記①の他事件の告訴取消の説明とも矛盾することになる。
4 以上の検討の結果に加えて、A17証言では本件被害にあった前後の状況が具体的には全く不明であることをも総合すると、A17証言の信用性には極めて強く疑問を入れる余地があるというべきである。
また、A17が、脱走直後に東海警察署で本件を含めてヨットスクールのコーチからわいせつ被害を受けたとの事実を述べたことについては、ヨットスクールで厳しい訓練を受けていたA17が、合宿所に連れ戻されることがないように、合宿所においてコーチらがわいせつという破廉恥行為をしているとして、殊更嘘を言ったり、あるいは、大げさに脚色して言ったということは十分考えられるところである。
5 そうすると、被告人甲5に対する本件公訴事実については、その証明が不十分であって、犯罪の証明がないから、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡しをする。
七 その余の事件
1 A6に対する傷害(被告人甲、同甲5、甲6)、A7に対する暴行(被告人甲、同甲6)事件
① (犯行に至る経緯等)
A7(昭和四三年八月二九日生)は、中学校への登校拒否を心配した両親の申込により、昭和五七年三月二二日、甲ヨットスクールの特別合宿生として入校し、A6(昭和四一年五月二二日生)は、外泊や非行などを心配した両親の申込により、昭和五七年五月一五日ころ、同じく特別合宿生として入校し、いずれも北屋敷合宿所で生活しながら訓練を受けていた。
A7とA6は、ヨットスクールで厳しい訓練、体罰を受けていたが、昭和五七年五月一七日ころの昼ころ、コーチらによる監視の隙をみてヨットスクールから逃走し、合宿所付近の道路を通りかかった自動車に乗せてもらい、師崎付近の民家に逃げ込んでいた。
A6から電話を受けたことによって、逃走先を知ったA6の親がヨットスクールに連絡をしたため、被告人甲6、同甲5らは、同日夜、逃走先の民家から二人を連れ出して、北屋敷合宿所に戻った。
② (罪となるべき事実)
Ⅰ 被告人甲、同甲5及び同甲6は、ほか数名の者と共謀の上、昭和五七年五月一七日ころの午後八時ころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(北屋敷合宿所)二階の部屋において、A6(当時一五歳)に対し、ヨットスクールから逃走したことについての制裁として、こもごも、その顔面、腕部、背部等を、多数回にわたり、手拳や木製の棒などで殴ったり、足で蹴ったりする暴行を加え、よって、A6に加療約三週間を要する顔面、左胸背部、左腕等挫傷の傷害を負わせ
Ⅱ 被告人甲及び同甲6は、ほか数名の者と共謀の上、前記日時、場所において、A7(当時一三歳)に対し、ヨットスクールから逃走したことについての制裁として、被告人甲6がその顔面を平手で、被告人甲がその背部、臀部等を木製の棒で、それぞれ多数回殴り付ける暴行を加え
たものである。
③ (事件についての補足説明)
Ⅰ 弁護人は、被告人甲6、同甲5については、逃走したA6、A7を北屋敷合宿所まで連れ戻したことはあるが、その後、二階の部屋で二人に暴行を加えたことはないと主張し、被告人両名も、二人を連れ戻してきた後の処置は他のコーチらに任せて、自分達は着替えや食事などをしていたはずであるから、制裁に加わってはいないと述べる。
Ⅱ 第四一回公判調書中の証人A7の供述部分(以下「A7証言」という。)、A7の検察官に対する供述調書(以下「A7調書」という。<書証番号略>)、証人A6に対する当裁判所の尋問調書(以下「A6証言」という。)、医師中野駿児作成の診断書(<書証番号略>)、司法巡査作成の写真撮影報告書(昭和五七年五月二八日付、同月一九日にA6を撮影したもの、<書証番号略>)によれば、A6、A7が、昭和五七年五月一七日ころの昼ころ、ヨットスクールから逃走したが、同日夜、被告人甲6、同甲5らによって合宿所に連れ戻され、その後、二階の部屋でコーチらによって暴行を受けたこと、この暴行によってA6が判示のとおりの傷害を負ったことが明らかに認められ、この点についての争いはない。
この暴行の現場に被告人甲がいたことは、A7証言、A6証言によって認められ、被告人甲も争わないところであり、被告人A5がいたとするA7証言も、第四九回公判調書中の乙2の供述部分で裏付けられており、認められるところである。
Ⅲ そして、被告人甲6が暴行の現場にいたか否か、被告人らが暴行にどの程度関与したかについて、検察官の立証は主にA7証言、A7調書によるところ、弁護人は、その信用性について疑問があるとする。
しかし、A7は、入校後本件暴行を受けるまで約二か月間合宿所で生活して訓練を受けていたもので、コーチらの識別能力はあると考えられるところ、被告人らは捜査段階から自らの関与を否定(甲6、甲5)するか、黙秘(甲)し、A6も捜査段階から、被告人甲の暴行を除くと、関与したコーチの特定をしておらず(A6証言)、A7の検察官調書もA7の住居地の長崎市で長崎地方検察庁の検察官が作成していることなど、コーチの特定に関して他からの影響を受ける可能性は少ないと考えられる。
また、A7証言、A7調書の内容をみても、その内容は具体的であり、被告人らに不利益な点についても、明確に記憶している部分とそうではない部分とを区分けして述べている上、甲校長、A5コーチ、甲2コーチが現場にいたこと、甲6コーチに命じられて二階に正座させられたことなど、他の証拠によって裏付けられた部分も多い。
被告人両名は、ウエットスーツを着たままであったので着替えたりしていたとして、現場にいなかったとする理由を述べるが、A7らは二階に上がる前に、甲6コーチの指示で、血が付くことになるからという理由で、逃げ込んだ先の民家の人に借りて着ていた服を着替えており(A7証言、A7調書、A6証言)、すぐに二階に上がったというものではないし、被告人甲6と一緒にA7らを連れ戻して来た被告人甲5については、現場にいたことが認められるのであるから、さきの理由もA7証言、A7調書の信用性に影響を及ぼすものではない。
弁護人は、A7証言、A7調書とA6証言ではA6の正座した向きが食い違うと主張するが、A6証言は本件事件から約九年を経過してからのもので、証人自身その点については明確ではないと述べているので、この点もA7証言、A7調書の信用性に影響を及ぼすものではない。
さらに、被告人らが暴行にどの程度関与したかについても、A7証言、A7調書の内容は、大筋でA6証言及びA6の怪我の状態、程度と一致している。
Ⅳ 以上のとおりであり、弁護人の主張は採用できない。
2 A8に対する傷害事件(被告人甲6)
① (罪となるべき事実)
被告人甲6は、昭和五七年七月一四日、甲ヨットスクールの夏期合宿に向かうため、他のコーチらとともに、ヨットスクールの訓練生ら約三〇名を連れて、神戸港から鹿児島県名瀬港に向けて航行中の貨客船「あかつき」に乗船し、同日午前七時ころ、船のB甲板上で訓練生に対し朝の体操をさせて、その見回りをしていた際、ほか数名と共謀の上、A8(当時一八歳)がスクワット運動(足を広げて直立し、両手を後頭部で組んだ状態で膝を屈伸させる運動)において十分に腰を下げない様子を見て、A8が真面目に運動をしていないとして腹を立て、両手を後頭部で組んで状態のA8と同一方向に向いたまま、その左肩付近に自分の両手を前後から入れて手を組み、力を入れてA8の身体を甲板の方にうつ伏せに押さえ付けるようにした上、A8の上腕部に自分の体重をかけるようにしてのしかかる暴行を加え、A8に加療約二か月間を要する左上膊骨骨折の傷害を負わせたものである。
② (事件についての補足説明)
Ⅰ 被告人甲6は、本件について、スクワット運動を真面目にやっていなかったA8に対し、スクワット運動をさせようとして、左肩に両手をかけて下へ押さえ付けたが、A8が上半身だけ曲げてしまったので、自分より約一〇センチメートル背が高いA8に引っ張られるような感じで、前へつんのめるような状態となり、A8にもたれるような形で二人で崩れ落ちた(被告人甲6の当公判廷における供述・第一〇七回公判期日におけるもの)と説明する。
弁護人は、スクワット運動をさせようとして、左肩に両手をかけて下へ押さえ付けた行為は、不法な有形力の行使ではなく、暴行とはいえないし、その後の経過に鑑みても、傷害の結果について過失傷害をもって論じるならともかく、傷害罪は成立しないと主張する。
Ⅱ 本件についての客観的な事実関係はほぼ争いのないところであるが、争点は、被告人甲6がA8の左肩に両手をかけて下へ押さえ付けた行為が「不法な」有形力の行使であるか否か、その後のA8の傷害が、被告人甲6の不法な有形力の行使(暴行)の結果発生したものか否かである。
そして、この点について、第二八回公判調書中の証人A8の供述部分は、被告人甲6の関係で証拠として用いることができない(第二八回公判期日に同被告人は病気のため出頭できず、同被告人につき弁論が分離された上、公判期日が取り消され、公判準備期日としても証人尋問は実施されていない。)ことは、弁護人指摘のとおりである。
Ⅲ 有形力の行使が不法なものであるか否かは、その動機、目的、態様などを総合して判断するべきものと考えられるが、被告人甲6の検察官に対する供述調書(昭和五八年八月四日付・<書証番号略>)によれば、同被告人は、A8がさぼっているとして腹を立て、甲板の床へ押さえ付けて痛い目にあわせてやろうと思ったとしてその動機を述べ、態様については、A8が前かがみになり膝をついても、なおも下のほうへ押し付け、そのうちA8が伸ばした左腕に自分の体重がかかる状態になったが、そのまま体重をかけていたところ、数秒もしないうちにボキッという音がしたのでびっくりして手を離したと述べている。
そして、被告人甲6は、当公判廷においても、痛い目にあわせてやろうという気持ちがあったことは認めているのであり、また、検察官の取調べの際、検察事務官を相手に実演してそれを写真に撮ってもらい、その写真を見ながら更に説明しているが、その写真の添付されている調書の内容についても、説明した内容で抜けている部分(膝を曲げて座るような態勢をとらせるために力を加えたという目的)があるものの、内容自体は同被告人の述べたとおり記載されていることを認めている。
そして、この態様についての説明は、甲6コーチがA8をねじ伏せるような形で腕の骨を折ったという目撃者であるA34の説明(第五〇回公判調書中の証人A34の供述部分)や付近にいた乙37の体操時におけるコーチらの行動についての説明(乙37の検察官に対する供述調書抄本・<書証番号略>)などともより符号する。
Ⅳ 以上のとおり、被告人甲6がA8に対し加えた有形力の行使は、弁護人が言うような、通常のスポーツ競技等において体操の段階で指導者が加えるものと同視できず、その動機、態様などからみても、不法なものと認めることができる。
もっとも、A8の骨折という結果についてまでは、被告人甲6としても、意図したものではなかったことは認められるが、この点は情状に止まり、傷害罪の成立に影響を及ぼすものではない。
3 A9に対する暴行事件(被告人甲8)
(罪となるべき事実)
被告人甲8は、昭和五七年七月からコーチとして働くようになり、新しく入校した特別合宿生にロープの結び方などヨットの操縦訓練に必要な基礎知識を教えるなどしていたが、同月一四日以降二〇日までの間の同月中旬の昼ころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)において、特別合宿生A9(当時一七歳)に対し、これまで教えたことについて質問したところ、同人がほとんど覚えていなかったため、覚える意欲がないとして腹を立て、ほか数名と共謀の上、同所三階男子訓練生室の押し入れに設置していた格子戸にA9の両手、両足をロープで緊縛した上、その腹部等を両手拳で多数回殴り付ける暴行を加えたものである。
4 A10に対する傷害、A9、A11に対する共同暴行事件(被告人甲3、同甲7、同甲9)
① (犯行に至る経緯等)
A9(昭和四〇年一月一二日生)、A10(昭和四二年五月二九日生)、A11(昭和四二年五月七日生)は、いずれも登校拒否などを心配した父母などからの申込により、甲ヨットスクールの特別合宿生として入校した者であり、A9は、昭和五七年七月一四日から、A10及びA11は、いずれも同年九月五日ころから、合宿所で生活し、早朝体操や海上訓練を受けていた。
A11は、ヨットスクールにおける訓練の厳しさやコーチらによる体罰の激しさに耐えられず、他の特別合宿生と相談してヨットスクールから脱出することを企て、合宿所内で人が死ねば事件として大きな騒ぎとなり、訓練は中止になるし、事件を起こした者は少年鑑別所などに入らなければならなくなるが、それでもヨットスクールからは出ることができるなどと考え、A9、A10にその旨を話して同人らを仲間に引き入れた。
そして、A9、A10は、昭和五七年九月一二日ころ、格子戸付きの押し入れの同じ棚に寝ていた訓練生のA41(当時四〇歳)の首をズボンのベルトで締めてA41を殺そうとしたが、ベルトが切れてその目的を遂げなかった。
この事件は番外生の乙6の知るところとなり、同月一三日ころ、乙6からの報告を受けた被告人甲3、同甲7、同甲9は、詳しい事情を調べるため同日昼ころ、合宿所三階の男子訓練生室に赴き、その場に訓練生を正座させた上、A9、A10に対し、事件の動機や加担した者の名前などについて問いただし、A11も事件に加わっていたことを聞き出した。
② (罪となるべき事実)
被告人甲3、同甲7及び同甲9は、A41の殺害を企てた事件の詳細を明らかにした上、事件に加担した者に制裁を加えるため、共謀の上、昭和五七年九月一三日ころの昼過ぎころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)三階男子訓練生室において、
Ⅰ 特別合宿生A10(当時一五歳)に対し、こもごも、その顔面、大腿部、腕部、背部等を木製の棒、竹刀、手拳等で多数回殴り付けるなどの暴行を加え、よって、A10に鼻出血の傷害を負わせ
Ⅱ 特別合宿生A9(当時一七歳)に対し、被告人甲7がロープでその頸部を絞め、さらに、こもごも、A9の顔面、大腿部、腕部、背部等を木製の棒、竹刀、手拳等で多数回殴り付けるなどし、数人共同して暴行を加え
Ⅲ 特別合宿生A11(当時一五歳)に対し、こもごも、その顔面、大腿部、腕部、背部等を木製の棒、竹刀、手拳等で多数回殴り付けるなどし、数人共同して暴行を加え
たものである。
5 A10、A9、A11に対する暴行事件(被告人甲)
(罪となるべき事実)
被告人甲は、特別合宿生のA10、A9、A11の三人が訓練生のA41を殺害しようとしたことをコーチから聞き、昭和五七年九月二二日ころの午前八時三〇分ころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)一階事務所付近にA10ら三人を呼んで床に正座させた上、制裁を加える目的で、A10(当時一五歳)、A9(当時一七歳)、A11(当時一五歳)に対し、その身体を竹刀でそれぞれ数回殴り付ける暴行を加えたものである。
6 A11に対する強要事件(被告人甲5、同甲6)
① (犯行に至る経緯等)
甲ヨットスクールの宮東合宿所には、訓練生室に格子戸付きの押し入れが設置され、特別合宿生のうち逃走のおそれのある者は、就寝時、この中に入れられ、錠がかけられたが、夜間、便所に行きたくなっても、夜間の見張りに立つ者が錠を開けようとはしなかったので、押し入れに入れられた者が、押し入れ内に持ち込んだ瓶の中に小便をしたり、そのまま押し入れ内で放尿したりすることがあった。
② (罪となるべき事実)
被告人甲5及び同甲6は、昭和五七年一〇月上旬ころ、番外生から、特別合宿生のA11が、夜間、格子戸付きの押し入れ内で小便をして困っているとの報告を受け、A11が以前にも他の特別合宿生をそそのかして合宿所内で殺人事件を起こそうとしたことがあるなど、いわゆる問題児であることから、A11が他の特別合宿生の迷惑も省みずわざとそのようなことをしているものと思い、A11に制裁を加えようと考え、共謀の上、同日午後八時ころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)三階便所内において、甲ヨットスクールにおいて特別合宿生がコーチの指示に従わなければ、体罰として殴打、足蹴りなどの危害を加えられることを知っているA11(当時一五歳)に対し、「小便たれ」「一日中便器に頭を突っ込んどれ」などと命じて脅迫し、これに従わなければどのような体罰を加えられるかもしれないと恐れたA11に、同所男子用便器前に膝をついて便器内にその頭を入れた姿勢をとらせた上、その後、被告人甲6がA11の頭上から放尿し、あるいは、他の訓練生ら数名に命じて同様に放尿させたが、その間も同様の姿勢をとらせたままにし、約一時間にわたりその姿勢を続けさせ、もって、A11に義務なきことを行わせたものである。
7 A12に対する監禁(被告人甲)、暴行(被告人甲2、同甲、同甲8)事件
① (犯行に至る経緯等)
A12(昭和四三年一月五日生、以下「A12」ともいう。)は、中学二年生のときから勉強をしなくなり、シンナーの吸引や無免許運転などの非行が始まり、中学三年生になってからは友達と遊び回って登校しないことが多くなっていた。このため、A12の父A'12は、昭和五七年八月下旬ころ、甲ヨットスクール宛に特別合宿申込書を郵送して提出してA12の入校を申し込んだが、同申込書の対人関係欄には、「近所の友達と遊ばなくなり 町の方の友達や、上級生(高校生達)と遊ぶようになり、親や先生が注意してもきかなくなりこまっています。」と記載され、日常生活欄には、「今は夏休みなので3日に1度ぐらいのわりで家に帰ってきては夕方頃から友達の方へ遊びにいき、勉強なんかぜんぜんしなくて 派手な服装で、頭髪も色をつけ、そりこみもいれ、町を歩き回っています。」と記載されていた。
被告人甲は、右申込書の提出を受けてからA12を特別合宿生として入校させることを決定し、同年一一月二八日ころ、乙5コーチに対し、「四国にA12というのがおるので連れて来てくれ」などと述べて、新しく入校する特別合宿生の新人迎えをするよう指示した。
被告人甲からの指示を受けた乙5は、新人迎えに用いるための手錠やロープをワゴン型の普通乗用自動車に積み込んだ上、乙4コーチに同行を依頼し、また、乙38という番外生にも同行を指示し、一一月二八日午前九時ころ二名を乗せて自動車で宮東合宿所を出発した。
② (罪となるべき事実)
Ⅰ 被告人甲は、昭和五七年一一月二八日ころ、甲ヨットスクールのコーチであった乙5、同乙4との間に、A12の父A'12の依頼に基づいて、A12を甲ヨットスクールの特別合宿生として入校させ、宮東合宿所及びその周辺において合宿訓練を行うために、殴打などの有形力を行使することも一向に構わないとの意思を相互に通じ、また、他のコーチ多数との間にも、コーチらが特別合宿生として入校したA12と行動、生活をともにするようになって以後、右と同様の意思を相互に通じ、共謀の上、同月二八日午後九時ころ、徳島県阿南市<番地略>所在のA'12方において、乙5がA12(昭和四三年一月五日生、当時一四歳)に対し、甲ヨットスクールに入れるために迎えに来た旨言ったところ、A12が行くことを拒否したため、乙5及び乙4がA12の身体を押さえ付け、こもごも、顔面や腹部を手拳で多数回殴り付けるなどしながら、抱えるようにしてA12を玄関外へ運び出し、その前に停めてあった自動車の後部座席に乗せて自動車を発進させ、車内では乙4がA12の両手首に手錠をかけた上、その手錠をロープでドアの上部に結び付け、さらに、乙4がA12の腹部を殴り付ける暴行を加えるなどしながら、A12をその自宅から、同月二九日午後一一時ころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)まで連行し、A12を合宿所二階の格子戸付き押し入れに入れて錠をかけ、以後宮東合宿所及びその周辺において、監視を続け、昭和五八年一月一五日午前八時ころA12が合宿所から逃走するまでの間、A12の意思に反して不法にその行動の自由を拘束して逮捕監禁し
Ⅱ 被告人甲2は、昭和五七年一一月二九日午後一一時ころ、宮東合宿所二階のコーチ室において、連行されて合宿所に着いたばかりのA12と会った際、同人から非行が原因で入校した旨聞いたため、甲ヨットスクールが従前生活してきた場所とは違うところであることをA12に知らしめるために制裁を加えようと考え、その場にA12をうつ伏せにさせた上、その臀部、大腿部付近を木製の棒様のもので一〇回位殴り付ける暴行を加え
Ⅲ 被告人甲は、昭和五七年一一月三〇日ころの午後九時ころ、宮東合宿所二階のコーチ室において、新しく入校したA12と会った際、A12が非行で入校し、額の端を剃り込んでいることから、A12をその場にうつ伏せにさせた上、その臀部付近を木製の棒様のもので十数回殴り付ける暴行を加え
Ⅳ 被告人甲8は、昭和五七年一二月初旬の夕方ころ、宮東合宿所三階において、A12から番外生と間違えられて「甲8さん」と呼ばれたことに腹を立て、A12の顔面、腹部を左右の手拳で多数回殴り付ける暴行を加え
たものである。
③ (事件についての補足説明)
弁護人らは、Ⅰの逮捕監禁の事件については、違法性を阻却するものであるし、ⅡないしⅣの各暴行事件については、被害者A12、目撃者乙39の各供述はいずれも信用性に乏しいから、無罪であると主張する。
前者の違法性を阻却する旨の主張については、後述するところであるので、ⅡないしⅣの各暴行事件につき補足説明する。
Ⅰ 弁護人らは、A12は脱走によりヨットスクールを退校した者であり、入校していた当時も、証人として供述した当時(昭和六〇年九月一九日)も被告人らに反感を抱き、良い感情を持っていないし、検察官に対する供述調書(昭和五八年六月三日付・<書証番号略>、同年七月一四日付・<書証番号略>)が作成されたのは、A12がまだ一五歳で、シンナーを吸引していたり、これにより逮捕されて少年鑑別所に収容されていた時期であり、取調官に誘導され、曖昧な記憶のまま迎合して供述し、作成されたものであると主張する。
Ⅱ A12の供述について、その信用性を判断する上では、弁護人らの指摘する危険性も考慮しなければならないが、第二四回公判調書中の証人A12の供述部分によれば、甲ヨットスクールに入校していた間の出来事についてのA12の記憶は、証人として供述した当時、かなり失われたものも多く、また、特にA4に関して述べている部分のように、記憶の曖昧なところと確かなところが入り交じり、証言としても断片的にしか表現されていないところもあるが、合宿所に連行されてきた夜に被告人甲2からうつ伏せにされて臀部付近を木のような物で殴られたこと、その翌日ころに被告人甲から木の棒で臀部付近を殴られたこと、入校して間もなくに被告人甲8に何か言って同被告人からボクシングのような格好で殴られたことについては、A12は、明確に記憶に残っていることとして述べていることが認められる。
特に、被告人甲2、同甲から受けた暴行については、その前後の会話の内容も含めて状況を述べており、事件から約六か月後に作成された検察官に対する供述調書の内容とも概ね符合し、反対尋問でも維持され、その部分に関する限り供述内容に不審な点はない。
Ⅲ 弁護人らは、被告人甲2の暴行について、午後一一時ころには消灯して寝静まっていたはずであり、そのような時間に体罰を加えることはあり得ないし、被告人甲2は、同日名古屋市千種区内の事務所にでかけており、合宿所にいなかった可能性があると主張するが、司法警察員作成の裏付捜査報告書(昭和五八年八月二〇日付・<書証番号略>)によれば、「甲ヨットスクール日誌」には一一月二九日欄に「甲2コーチ名古屋本部へ」という記載があり、被告人甲2が同日中に名古屋の事務所に行ったとされているが、「合宿所日誌」の一一月三〇日欄には甲6コーチの部分には「昼より事務所」と、また、乙5コーチの部分には「自宅 朝帰る」とそれぞれ記載されているのに、当日合宿所にいたとして名前が掲げられている甲2コーチの部分には何も記載がなく、一日中合宿所にいた旨の記載となっているから、被告人甲2は、一一月二九日中に電車で宮東合宿所に戻っている(被告人甲2は運転免許を有しておらず、自動車を運転しないことは証拠上明らかである。)ことが推認される。
そして、右の裏付捜査報告書によれば、最終電車の前くらいで戻っていれば、午後一一時前後に合宿所に着いていることが認められるのであり、そのころ合宿所に連行されて来たA12に体罰を加えることも不自然なこととはいえず、捜査段階において、被告人甲2は、「遅くなっても美浜の合宿所の方に戻っていました」(被告人甲2の検察官に対する供述調書・昭和五八年七月二九日付・<書証番号略>)として、その可能性を肯定している。
第四六回公判調書中の証人乙5の供述部分、乙5の検察官に対する供述調書(昭和五八年七月二九日付・<書証番号略>)によれば、乙5コーチは、合宿所到着後、二階の確か甲2コーチにA12を連れて来たことを報告しているというのであるから、被告人甲2が一一月二九日中に合宿所に戻っていると認められるし、この事実はA12の供述を裏付けるものである。
被告人甲2は、一般論としてではあるが、非行や家庭内暴力で入ってきた子供や連れてくるときに大暴れした子供には木の棒などで尻叩きの体罰を加える旨(第一〇三回公判期日の被告人質問)、あるいは、「その時の雰囲気ですね。よっぽどひどいというんですかね、まあ本当に絵にかいたようなチンピラとか、そういうのはやっときました。」(第一二三回公判期日の被告人質問)などと述べて、A12の供述を裏付けている。
Ⅳ 被告人甲の暴行についても、同被告人は、一般論としてではあるが、額の端を剃り込んでいることが気に入らないということで「よく怒鳴っていることはあるんですよ。」「そういうそり込みを入れている、非常に不快ですね。当たり前のことですよ。その不快の念をはっきり表明したらんと(してやらんと)いかんのですよ。」(第一二四回公判期日の被告人質問)と述べ、さらに、体罰を加えた記憶はないが、入校した当初にA12を叱り付けている可能性はある旨述べて、A12の供述の前提を裏付けている。
Ⅴ A12は、被告人甲8の暴行について、検察官に対する供述調書では、その暴行を受けたときに指輪が壊れたので、更にこれを理由に殴られたとして、一連の出来事として述べているが、その指輪のことで殴られたのは別の日のことであったかもしれないと証人尋問において供述を訂正している。
しかし、入校して二、三日位たったと思われる日に、番外生と間違えて「甲8さん」と呼んだことで殴られたということについては、供述内容は一貫している上、被告人甲9も、事実を否認するが、A12という訓練生のことについては顔をよく覚えていないが、訓練生から番外生と間違えられたことがあったし、「甲8さん」と呼ばれたことも何度かあったとして、A12の供述の前提を肯定している。
Ⅵ 以上のとおり、A12の供述は、本件に関しては、入校後間もない出来事として経緯も具体的であり、捜査段階と公判廷の供述も大筋で一貫していること、これを一般的に裏付ける状況も認められること、内容的にも加害行為をしたものを取り違えるおそれのあるものではないことなどから信用性が認められる。
また、被告人らの否認の内容もA12の関係で具体的に記憶がないという以上のものではない。
8 A13に対する暴行事件(被告人甲2)
① (罪となるべき事実)
被告人甲2は、ほか数名と共謀の上、昭和五七年一二月五日か六日の午後、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)付近の海上において、船外機のついた和船に乗って海上訓練の指導などにあたっていたが、番外生の立場にあったA13のヨットに同乗させてヨット操縦を見習わせていた特別合宿生のA4が一人ではうまくヨットを操作できずに海に投げ出されたままであったことから、乗れないのは教え方が悪いなどと言いながら、A13(当時一六歳)に対し、右和船上において、ヨットの木製の舵棒(ティラー)でA13の臀部を数回殴り付ける暴行を加えたものである。
② (事件についての補足説明)
弁護人らは、A4が入校した当時、特別合宿生の数が多く、訓練生をA、Bの二班に分けた上、海上訓練を班毎に午前、午後に分けて実施し、A4はB班に所属していたところ、B班は一二月五日、六日とも海上訓練は午前中に行っていたのであるから、A4が入校した翌日か翌々日の午後にA4をヨットに同乗させ、その際に被告人甲2から殴られたというA13の供述は信用できないと主張するが、A4事件においても補足説明したように、A4がB班に所属し、B班は一二月五日、六日とも午前中に海上訓練をすることになっていたことは認められるが、乙46の検察官に対する供述調書七項・<書証番号略>、第七二回公判調書中の証人乙47の供述部分によれば、新入校の訓練生は午前、午後とも海上訓練をしていたと認められるので、右の主張はA13の供述の信用性に必ずしも影響するものではない。
そして、A13は、昭和五七年一〇月一〇日に新入迎えにより強制的に入校させられたが、一一月中旬ころから番外生の立場になった者で、訓練の成果が上がり、コーチにとって比較的信頼の置けると認められた者であり、証人尋問においても、被告人甲2が海上訓練の際にA4をティラーで殴ったか否かについては、捜査段階の供述とは異なり、遠くて見えないので分からない旨述べて必ずしも被告人甲2にとって不利益なことばかりを述べているわけではなく、その供述全体としても自ら体験したことについて記憶のある部分とそうではない部分を分けて述べている上、本件に関する供述も記憶の混同や誤りを生じる内容ではないことなど、その供述の信用性に疑いを抱く事情は認められない。
9 A14に対する共同暴行事件(被告人甲7)
① (犯行に至る経緯等)
A14(昭和三六年一〇月一日生)は、覚せい剤を使用したり、やくざ者や覚せい剤密売者と付き合ったり、親に多額の金を使わせたりするなどの生活をしていたため、これを心配した父親の申込により、甲ヨットスクールに入校することとなった。
被告人甲7は、番外生を連れて、昭和五七年一二月六日、A14の新人迎えのため、名古屋市内の同人の自宅まで行ったことがあったが、A14が居なかったため連れて来ることができず、結局、A14は、父親に連れられ、やくざ者らしい男と一緒に、同月八日昼過ぎころに宮東合宿所に着いた。
② (罪となるべき事実)
被告人甲7は、昭和五七年一二月八日昼過ぎころ、甲ヨットスクールの特別合宿生として入校するため合宿所に到着したA14ことA14を案内して、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)三階の男子訓練生室まで同人を連れて来たが、合宿所にやくざ者らしい男と一緒に来たことやA14のこれまでの生活ぶりに不快感を抱いた上、さらには、所在が分からなかったため新人迎えに行っても何もならなかったことにも腹を立て、いきなりA14(当時二一歳)のえり首をつかんで訓練生室の中へ引きずり込み、A14が覚せい剤中毒者でやくざ者である旨を言いながら、その顔面、身体各部を手拳で多数回殴り付けたり、足蹴りするなどしたところ、これを見た番外生ら数名も加わり、共謀の上、さらに、こもごも、A14の顔面、身体各部を手拳等で殴り付けたり、足蹴りするなどし、数人共同して暴行を加えたものである。
10 A14に対する暴行事件(被告人甲)
(罪となるべき事実)
被告人甲は、ほか数名と共謀の上、昭和五八年一二月一二日午前六時過ぎころ、宮東合宿所付近の海岸にあった愛知県知多郡<番地略>先東側突堤上で、早朝体操の見回りをしていた際、特別合宿生A14ことA14(当時二一歳)が、特別合宿生A4に対して加えられていたコーチらによる体罰の状況を見て、「やめたって下さい。」などと言ったことに腹を立て、A14の脇腹付近を一、二回足蹴りした上、同人を突堤上から突き落とすなどの暴力を加えたものである。
11 A15に対する暴行(被告人甲6)、傷害(被告人甲)事件
① (犯行に至る経緯等)
A15(昭和四五年一月七日生)は、中学校への登校拒否、非行などを心配した両親の申込により、甲ヨットスクールの特別合宿生として入校した者であり、昭和五八年二月一〇日、父は姉に連れられて合宿所に着いた。そして、A15は、同日から合宿所で生活し、早朝体操や海上訓練を受けるようになった。
② (罪となるべき事実)
Ⅰ 被告人甲6は、昭和五八年二月一〇日の夕食時間を過ぎたころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)二階のコーチ室に特別合宿生のA15(当時一三歳)を呼んで入校の経緯等についてA15と話をした際、入校時に持ち込んだ物を取り上げられたことについてA15が不満そうな態度を示したことなどから、甲ヨットスクールが従前生活してきた場所とは違うところであることをA15に知らしめるために制裁を加えようと考え、その場にA15をうつ伏せにさせた上、その臀部付近等身体をヨットの木製の舵棒(テイラー)で数回(五回以上)殴り付ける暴行を加え
Ⅱ 被告人甲は、ほか数名と共謀の上、昭和五八年二月一四日ころから一七日ころまでの間、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)近くの広場において、早朝体操の見回りをしていた際、前後二回にわたり、いずれも午前六時過ぎころ、特別合宿生のA15(当時一三歳)に対し、早朝体操をこなせない者に対する体罰として、その鼻付近を手首に近い手拳で突くようにして殴り付ける暴行を加え、よって、A15に全治まで約二週間を要する鼻骨骨折の傷害を負わせたものである。
12 A16に対する暴行(被告人甲3)、傷害(被告人甲2、同甲3、同甲5)A15に対する傷害(被告人甲2、同甲3、同甲5)事件
① (犯行に至る経緯等)
A15は、前記のとおりの経緯で甲ヨットスクールの特別合宿生として入校し、昭和五八年二月一〇日から宮東合宿所で生活していた者であるが、A16(昭和四〇年一月二三日生)も、非行などを心配した両親の申込により入校し、A15が合宿所に着いた前日の昭和五八年二月九日から、宮東合宿所で生活していた者である。
A15とA16は、宮東合宿所で生活するようになってから、連日、甲ヨットスクールにおいて早朝体操や海上訓練を強制され、その際にコーチらから体罰を加えられ、夜間は、格子戸付きの押し入れに入れられて寝る生活を続けていたが、このような生活から逃れるために、昭和五八年二月二二日、昼食後の休憩時間に見張りの隙をついて、他の特別合宿生五名位の者と一緒に逃走を試みた。
しかし、これらの者は、いずれも番外生やコーチによってすぐに捕まえられ、合宿所まで連れ戻された。
② (罪となるべき事実)
被告人甲3は、昭和五八年二月二二日午後一時三〇分ころから、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)付近の海上において、甲ヨットスクールの本部艇に乗って海上訓練の指導などにあたっていたが、同日午後二時過ぎころ、近くの海上を一人乗り用のヨットに乗って訓練中のA16(当時一八歳)を本部艇まで呼び寄せ、その船上において、A16に対し、当日の脱走の首謀者について問い詰めるなどした上、「お前が主犯だろう。手摺をつかんで尻を出せ。」などと言い、ヨットスクールから逃走したことについての制裁として、加藤の臀部、大腿部付近等身体を木製の丸い棒(ボートフック)で多数回殴り付ける暴行を加え
Ⅱ 被告人甲2は、昭和五八年二月二二日の夕食前ころ、宮東合宿所二階のコーチ室において、ヨットスクールから当日逃走を試みた特別合宿生に対する制裁として、これらの者に対し灸をすえることを思い付いたところ、被告人甲5が被告人甲2とその意思を通じ、そのころ、もぐさを購入してきてその準備をし、また、夕食後、コーチ室において、被告人甲2、同甲5の話を聞いた被告人甲3もこれらと意思を通じ、被告人甲2、同甲5及び同甲3は、共謀の上、A15、A16らに対し、ヨットスクールから逃走したことについての制裁として、灸をすえることを企て、同日午後七時過ぎころ、被告人甲3が当日逃走を試みた者をコーチ室に呼び寄せ、他の五名の特別合宿生とともにコーチ室に来たA15、A16に対し、被告人甲2が臀部を露出してその場にうつ伏せに横たわるよう命じ
ア 被告人甲3がその指示のとおりの姿勢をとったA15(当時一三歳)の身体を押さえ付けた上、被告人甲2がA15の臀部にもぐさを置いてこれに火をつけ、さらに、A15の頭頂部にたばこの火を押しつけ、よって、A15の臀部及び頭頂部に全治まで約二週間を要するⅡ度火傷の傷害を負わせ
イ 被告人甲3がその指示のとおりの姿勢をとったA16(当時一八歳)の身体を押さえ付けた上、被告人甲2がA16の臀部にもぐさを置いてこれに火をつけ、よって、A16の臀部数か所に全治まで約二週間を要する火傷の傷害を負わせたものである。
13 A17に対する暴行事件(被告人甲2)
(罪となるべき事実)
被告人甲2は、特別合宿生として昭和五八年二月五日に入校し、同日午後八時三〇分ころ合宿所に着いたA17(当時一六歳)を認めるや、同女がこれまで外国でたくさん金を使うなどわがままな生活をしてきたと聞いていた上、服装や態度などからもその様子が窺えたことに腹を立て、同日午後八時三〇分過ぎころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)二階コーチ室において、甲ヨットスクールが従前生活してきた場所とは違うところであることを同女に知らしめるために制裁を加えようと考え、その場にA17をうつ伏せにさせた上、その臀部付近をヨットの木製の舵棒(ティラー)で数回殴り付ける暴行を加えたものである。
14 A17に対する傷害事件(被告人甲7)
(罪となるべき事実)
被告人甲7は、ほか数名と共謀の上、昭和五八年三月下旬の午前六時過ぎころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)近くの広場において、早朝体操の見回りをしていた際、腕立て伏せの姿勢のまま身体を地面につけている特別合宿生のA17(当時一六歳)を見付けるや、同女の後頭部付近を上から強く踏み付け、その顔面をアスファルト舗装の地面にぶつける暴行を加え、よって、同女に前歯折損の傷害を負わせたものである。
15 A18に対する監禁(被告人甲、同甲2、同甲6、同甲7)、傷害(被告人甲、同甲6)事件
① (犯行に至る経緯等)
A18(昭和三七年四月二一日生、以下「A18」ともいう。)は、高等学校に入るまでは成績も比較的良い生徒であったが、高校の二年生となった昭和五四年五月ころから、入学した高校が志望した学校とは違うなどという理由で登校を拒否するようになったため留年し、昭和五七年三月に郷里である福井県内の高校を卒業し、卒業後には大阪府内の予備校に入ったが、これも結局中途退学した。
A18は、登校を拒否するようになってから父母に対して暴力を振るうようにもなったため、心配したA18の親が福井市内の病院等にA18の精神状態について相談するなどしたこともあり、高校卒業後の昭和五七年一〇月ころからも、A18は、大阪府堺市内のアパートに住みながら、同市内にある病院の精神科で心理療法を受けるため通院し、その傍ら、近くの英語塾に通ったり、時々福井市内の自宅に戻るという生活を続けていたが、家庭内暴力は治まらず、昭和五八年一月ころには、父A'18を殴ってその片方の目に通院を要するほどの怪我を負わせたこともあり、また、一か月に一〇万円位の仕送りを受けていたにもかかわらず、更に金を催促するなどしていた。
このため、A18の父A'18は、昭和五八年二月に入ってから被告人甲に相談するとともに、同月一八日ころに甲ヨットスクールの特別合宿申込書を作成して送付し、同月一九日ころには入校金一〇〇万円を支払った。
被告人甲は、A18の父からの相談、申込を受けて間もなく、被告人甲2に対し、「この子は年だし、今のうちにやっておかなければいけない。また、家庭内暴力の典型的なやつでケースとしても面白いと思う。」などと述べて入校させることに決めた。
被告人甲2は、これを受けて同月二二日ころ、被告人甲6にA18の新人迎えを指示し、被告人甲6もそのころ被告人甲7にその同行を依頼した。
そして、被告人甲6、同甲7は、同月二二日の夕方ころ、被告人甲7の普通乗用自動車に乗って宮東合宿所を出発し、新人迎えの状況を取材するために同行した放送局の記者らが乗った自動車とともに、大阪府堺市内にあるA18の住むアパートへ向かった。
② (罪となるべき事実)
Ⅰ 被告人甲、同甲2、同甲6及び同甲7は、昭和五八年二月二二日ころ、A18の父A'18の依頼に基づいて、A18を甲ヨットスクールの特別合宿生として入校させ、宮東合宿所及びその周辺において合宿訓練を行うために、殴打などの有形力を行使することも一向に構わないとの意思を相互に通じ、また、他のコーチ多数との間にも、コーチらが特別合宿生として入校したA18と行動、生活をともにするようになって以後、右と同様の意思を相互に通じ、共謀の上、同月二二日午後九時ころ、被告人甲7と一緒に新人迎えのために大阪府堺市<番地略>所在の寿荘内にあったA18方を訪れた被告人甲6が、A18(昭和三七年四月二一日生、当時二〇歳)に対し、「松田聖子のファンクラブの者です。」「集まってくれるところをビデオにとって、あとで聖子ちゃんに見てもらいます。」などと、あたかもA18の好きなアイドル歌手のファンクラブの者が、ファンの集まった様子をビデオに撮影して、あとでアイドル歌手に見てもらうという催しを企画し、A18にも参加してもらうため迎えに来たかのような嘘を言葉巧みに言い、その旨信じたA18をアパートの前付近に停めてあった自動車の後部座席に乗せ、被告人甲7が発進させて宮東合宿所へ向かったが、途中の名阪国道のパーキングエリアに車を停めて被告人甲6、同甲7が食事に降りた際、それまでの間に甲ヨットスクールへ行く旨聞かされていたA18が車内から逃げ出そうとしたため、被告人甲6が車のドアから出ようとしていたA18の顔面を平手で突くようにして押し込むとともに、その背中付近を足蹴りするなどして後部座席に押し込んだ上、A18の両手首を後に回して手錠をかけ、そのままの状態で同月二三日午前三時ころ愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)まで連行し、A18を合宿所三階の格子戸付き押し入れに入れて錠をかけ、以後宮東合宿所及びその周辺において、監視を続け、昭和五八年三月九日午前一〇時ころA18が合宿所から逃走するまでの間、A18の意思に反して不法にその行動の自由を拘束して逮捕監禁し
Ⅱ 被告人甲6は、昭和五八年二月二五日午前七時過ぎころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)内において、A18(当時二〇歳)が早朝体操で体罰を受けたことなどの腹いせとして、二階コーチ室に置いてあったポータブル式の石油ストーブを押し倒したことに腹を立て、制裁を加える目的で、合宿所二階において、ヨットの木製の舵棒(ティラー)でA18の両腕などを多数回殴り付け、さらに、その直後、一階から駆け付けて事情を知った被告人甲も、被告人甲6が制裁としてA18に暴行を加えたことを認識し、これに承継加担する意思を通じ、被告人甲及び同甲6は、共謀の上、二階から三階に上がる階段踊り場及び二階コーチ室などにおいて、被告人甲がA18の顔面を素手で数回殴り付け、被告人甲6がティラーでA18の臀部付近を一〇回位殴り付けるなどの暴行を加え、よって、A18に鼻出血及び全治約八〇日間を要する右尺骨骨折の傷害を負わせ
たものである。
③ (事件についての補足説明)
弁護人らは、Ⅰの逮捕監禁の事件については、違法性を阻却するものであり、Ⅱの傷害事件については、被告人甲は暴行に関与していないし、被告人甲6の行為も、行為自体は非難できないものであるが、骨折の傷害を負わせたことは制裁として過剰であり、過失傷害罪に該当すると主張する。
前者の違法性を阻却する旨の主張については、後述するところであるので、Ⅱの傷害事件につき補足説明する。
第四三回公判調査中の証人A18の供述部分によれば、A18は、被告人甲6と同甲7が新人迎えに来て合宿所まで連行され、その後、合宿所から逃走するまでの約二週間の甲ヨットスクールにおける生活状況について述べているが、合宿所へ連行される途中に逃げ出そうとして手錠をかけられた際の状況についても、被告人甲7自身が公判廷において多分手拳で一、二発A18の顔を殴っている旨述べているのに対し、同被告人には何かされた覚えはない旨述べたり、早朝体操についても、一、二日目はそんなに体罰を受けた印象はないが、三日目になると身体のあちこちが痛み、コーチの目をごまかせなくて乙6という番外生に蹴られたり、甲6コーチに太ももを角材で殴られたりしたので、自分から堤防の下に飛び降りて休んでいたら、バケツで一度水をかけられた旨述べ、しかも、これについて、甲6コーチのバケツに水を汲んでこいという声が聞こえたので、甲6コーチがかけたのか、誰かに命令してかけさせたのか、どちらかと思う旨述べるなど、記憶のある部分とない部分、自ら体験した部分と推測した部分を分け、全体として明確に述べている。
そして、ストーブを倒して制裁を受けたことについても、太り過ぎということで朝食を抜かれていたので、皆がご飯を食べるのを眺めていて終わったときに事件を起こしたこと、その直前は、正座で足がしびれて立てなかったので、「甲6コーチが角材で、足をとんとんとしびれを癒すようにしてくれて、その後しびれが少し和らいでから倒し」たこと、ストーブを倒してから甲6コーチに倒した両手を角材で数え切れないくらい叩かれ、三階に上がるよう言われて階段を上るときに下から校長が来て、踊り場に正座させられ、「わざとやったのかと言われ、違いますと言ったあと、顔に二、三回げんこつで殴られ」て鼻血が出たこと、その後、二階へ行って状況を説明した後、また正座させられて二回位校長に鼻を中心に叩かれ、さらに、ズボンとパンツを脱がされてうつ伏せに押さえられ、臀部を角材で一〇回位殴られたが、殴ったのは甲6コーチと思うがうつ伏せなので見ていないこと、その後にも、三階で校長にやられたがそんなにひどくはなかったこと、校長からは、「親をいじめるのも楽しいやろうけれども、また自分がいじめられるのも楽しいやろう」というようなことを言われたことなど、状況をかなり具体的に、明確に述べているところであり、その場にいた甲2コーチなどが暴行を加えたということは述べずに、一貫して被告人甲、同甲6に殴られたことのみを述べている。
これに対し、被告人甲6は、A18を二階から三階に上る階段のところで叩いてから、自分とA18は上と下に別れている、甲校長には自分が事件のことを伝えた覚えはなく、誰か他のコーチが伝えたのではないかと思うと述べて、被告人甲がその場に居合わせたか否かについても明確にせず、むしろ、否定的に述べている(被告人甲6の当公判廷における供述・第一二二回公判期日におけるもの)が、被告人甲は、二階のコーチ室にA18が座らされているところに下から駆け付け、その場にいた者やA18から事情を聞き、「ばか」と言ってそれでおしまいであったと述べ(被告人甲の当公判廷における供述・第一二四回公判期日におけるもの)ており、相互に異なった供述内容となっている上、それぞれの内容もA18の供述内容に比べて信用性に乏しい。
本件事件当時コーチ室の向かいの女子訓練生の部屋にいたA17も甲6コーチと校長がストーブを倒したA18に制裁を加えているところを目撃しており(第四二回公判調書中の証人A17の供述部分)、A18の供述を裏付けている。(同人の供述については、強制わいせつ事件との関係で全面的に信用できない部分もあるが、この部分については、特に信用性を否定する事情はない。)
以上のとおりであり、A18の供述に信用性がないとする弁護人らの主張は理由がない。
16 A19に対する共同暴行事件(被告人甲2、同甲3)
(罪となるべき事実)
被告人甲2は、特別合宿生として昭和五八年二月二一日ころに入校したA19に対し、同女が一四歳であるにもかかわらず入校前に家出して大学生と同棲していたなどと聞いていた上、合宿所内においてもだらしない態度であるとして腹立たしく思っていたが、入校直後の同年二月下旬ころの夕方ころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)二回女子訓練生室で休息していたA19(当時一四歳)の言葉遣いや態度がだらけていると感じ、甲ヨットスクールが従前生活してきた場所とは違うところであることを同女に知らしめるために制裁を加えようと考え、同所二階コーチ室に同女を呼んで入校前の生活態度などについて問い詰めたところ、同女の言葉遣いが反抗的であることに更に腹を立て、その尻を殴り付けるために同女にその場にうつ伏せに横たわるよう命じ、近くに居た被告人甲3も被告人甲2の意図を知ってその意思を通じ、共謀の上、被告人甲3が、身動きしないようにA19の両肩を押さえ付け、被告人甲2が、ズボンなどが下がり裸になった状態の同女の臀部を木製の棒のようなもので一〇回位殴り付け、もって、数人共同して暴行を加えたものである。
17 A20に対する暴行事件(被告人甲5)
(罪となるべき事実)
被告人甲5は、昭和五八年四月上旬ころの午後一〇時ころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)において、特別合宿生A20(当時一五歳)に作らせた夜食の焼きそばを食べたところ、焼きそばに入っていたたまねぎが苦かったため、腐ったたまねぎを使っているとしてA20を怒鳴り付けたが、同女が腐ったものは使っていないとして口答えしたことに更に腹を立て、同所二階コーチ室において、同女の臀部、背部、両腕等を角材で十数回殴り付ける暴行を加えたものである。
18 A21に対する監禁(被告人甲、同甲2、同甲7)、傷害(被告人甲2、同甲6)事件
① (犯行に至る経緯等)
A21(昭和三九年一月一〇日生、以下「A21」ともいう。)は、両親の離婚などが原因で福岡市内において祖母に育てられ、地元の私立の高等学校に入学したが、シンナーの吸引や無免許運転をしたり、学校に行かなかったりしたことから、一年余りで退学した。A21は、その後は仕事もほとんどせず、一時は東京に下宿して俳優の養成所に通ったりしていたが、シンナーの吸引が続き、心配した祖母に精神病院に連れて行かれたことがあり、特に異常はなかったため入院することはなかったが、昭和五六年末ころに下宿を引き払い、福岡市内の祖母のもとへ戻って生活するようになった。
A21は、しばらくの間は喫茶店のウエーターなどをして働いていたが、その後は仕事もせず、祖母から小遣いをもらい、また、祖母との同居もやめて福岡市内にある祖母の住む家とは別の家に一人で住むという生活をしていた。
このため、A21の生活を心配した祖母や親戚がA21を甲ヨットスクールに入れようと考え、昭和五八年一月下旬ころ特別合宿生として入校させるよう被告人甲に電話などで申し込んだ。
被告人甲は、この申込を受けて間もなく、A21を甲ヨットスクールの特別合宿生として入校させることを決め、被告人甲2にその旨を伝えてA21の新人迎えを指示し、昭和五八年二月三日早朝には、乙5コーチに対しても、甲7コーチと一緒に福岡に行ってA21という者を連れて来るよう指示し、詳細については甲2コーチに聞くように言った。
その後、乙5は、同日の朝、被告人甲2からも同様の指示を受け、また、被告人甲7も、そのころ、同様の指示を受けた。
そして、被告人甲7は、乙5とともに、同日午前九時ころ、自分の普通乗用自動車に乗って宮東合宿所を出発した。
② (罪となるべき事実)
Ⅰ 被告人甲、同甲2及び同甲7は、昭和五八年一月下旬ころから二月三日までの間にかけて、甲ヨットスクールのコーチであった乙5との間に、A21の祖母らの依頼に基づいて、A21を甲ヨットスクールの特別合宿生として入校させ、宮東合宿所及びその周辺において合宿訓練を行うために、殴打などの有形力を行使することも一向に構わないとの意思を順次相互に通じ、また、他のコーチ多数との間にも、コーチらが特別合宿生として入校したA21と行動、生活をともにするようになって以後、右と同様の意思を相互に通じ、共謀の上、同月四日午前八時三〇分ころ、福岡市中央区<番地略>のA21の住む家屋内において、被告人甲7が、A21(昭和三九年一月一〇日生、当時一九歳)に対し、「警察の者だ」と嘘を言い、乙5とともにA21の両腕をつかんで屋外に連れ出そうとしたが、A21が玄関付近において速やかに出ようとせずにつかまれていた腕を振りほどこうとしたため、被告人甲7がA21の顔面を手拳で二、三回殴り付け、乙5が腹部に膝蹴りをし、両腕をつかむなどしてA21をその近くに停めていた自動車の後部座席に乗せて乙5が自動車を運転発進させ、車内では被告人甲7がA21の両手首に手錠をかけ、さらに、どこの警察の人間かなどと問いただすA21の顔面を殴り付ける暴行を加えるなどしながら、A21を住んでいた福岡市内の家から、同月五日午前三時ころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)まで連行し、A21を合宿所三階の格子戸付き押し入れに入れて錠をかけ、以後宮東合宿所及びその周辺において、監視を続け、同年五月一七日午前八時三〇分ころA21が合宿所から逃走するまでの間、A21の意思に反して不法にその行動の自由を拘束して逮捕監禁し
Ⅱ 被告人甲2及び同甲6は、昭和五八年四月下旬か五月上旬ころの午後八時ころ、宮東合宿所二階のコーチ室において、A21(当時一九歳)と一緒にコーチ室に来た番外生から、A21が便所内で隠れてたばこを吸っていた旨の報告を受け、その制裁として灸をすえようと企て、共謀の上、その場にA21をうつ伏せにさせた上、被告人甲6がその身体を押さえ付け、こもごも、A21の腰背部の三か所にもぐさを置いて火を付け、さらに、被告人甲2が、その腰部付近数か所にたばこの火を押し付け、よって、A21の腰背部数か所に加療約一か月間を要する熱傷による皮膚潰瘍の傷害を負わせ
たものである。
19 A22に対する傷害事件(被告人甲7)
(罪となるべき事実)
被告人甲7は、ほか数名と共謀の上、昭和五八年四月二八日ころの午後、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)付近の海上において、甲ヨットスクールの本部艇に乗って海上訓練の指導などにあたっていた際、一人乗り用のヨットに乗って訓練中であった特別合宿生のA22(当時二〇歳)が他の訓練生と交替するため、本部艇に接舷していた和船に乗り移ろうとしてヨットを操作して近づこうとしたものの、速やかに出来なかったことに腹を立て、その後間もなくして、ヨットから和船に乗り移ろうとしたA22に対し、その顔面額付近を木製の丸棒(ボートフック)で一回殴り付ける暴行を加え、よって、A22に前額部七針縫合等加療約五日間を要する顔挫創の傷害を負わせたものである。
20 A23に対する暴行事件(被告人甲6)
(罪となるべき事実)
被告人甲6は、ほか数名と共謀の上、昭和五八年四月末日ころか五月上旬ころの午前六時過ぎころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)近くの広場において、早朝体操の見回りをしていた際、同年四月二六日ころ入校した特別合宿生A23(当時一三歳)が真面目に体操をしていないとして、A23の顔面口元付近を正面から左手でつかみ、その下腿部を木製の棒で殴り付け、転倒しているA23の頭部付近を自分の膝で地面に押し付けるなどの暴行を加えたものである。
21 A24に対する監禁致傷事件(被告人甲、同甲9、同甲10)
① (犯行に至る経緯等)
A24(昭和三五年一二月八日生、以下「A24」ともいう。)は、岐阜県山県郡伊自良村において、両親とともに住んでいたが、就職することなく無為な生活を送るうち、昭和五八年になってから、ささいなことで親に対する不満を言っては家財道具等を壊すなどの家庭内暴力がひどくなり、困ったA24の父A24'が昭和五八年五月二五日ころ、甲ヨットスクールへの入校を申し込んだ。
甲ヨットスクールでは、副校長格の甲2コーチら多数のコーチが昭和五八年五月下旬に暴走族事件で逮捕され、被告人甲9が従来の甲2コーチの仕事を代わって行うようになっていたところ、被告人甲、同甲9は、A24の親からの申込があって間もなく、A24を甲ヨットスクールの特別合宿生として入校させることを決め、同年六月四日、被告人甲10にA24の新人迎えを指示し、また、そのころ宮東合宿所に出入りしてヨットスクールの手伝いをしていた乙40にもその旨を依頼してその承諾を得た。
被告人甲10は、右の指示を受けるや直ちに、番外生の乙41に対し新人迎えに同行するよう命じ、乙40と打ち合わせて、同日午後七時ころ、乙40、乙41とともに普通乗用自動車で宮東合宿所を出発した。
② (罪となるべき事実)
被告人甲、同甲9及び同甲10は、昭和五八年五月二五日ころから六月四日ころまでの間にかけて、被告人ら相互及び乙40、乙41との間に、A24の親の依頼に基づいて、A24を甲ヨットスクールの特別合宿生として入校させ、宮東合宿所及びその周辺において合宿訓練を行うため、殴打などの有形力を行使することも一向に構わないとの意思を順次相互に通じ、また、他のコーチらとの間にも、コーチらが特別合宿生として入校したA24と行動、生活をともにするようになって以後、右と同様の意思を相互に通じ、共謀の上、同月四日午後一一時ころ、岐阜県山県郡<番地略>のA24'方付近において、被告人甲10が、A24(昭和三五年一二月八日生、当時二二歳)の顔面を手拳で一回殴り付け、被告人甲10、乙40、乙41が、こもごも、A24の両腕及び背中付近のズボンベルトをつかんでその身体を引っ張るなどして、A24を近くに停めていた自動車の後部座席に乗せ、さらに、被告人甲10が、A24の顔面を手拳で殴り付けるなどした後、自動車を運転発進させ、A24をその自宅から、同月五日午前二時ころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)まで連行し、A24を合宿所三階の格子戸付き押し入れに入れて錠をかけ、以後宮東合宿所及びその周辺において、監視を続け、同月七日、A24が平病院へ健康診断に行った機会に逃走を図って民家に逃げ込むや、被告人らの指示で見張り役として付き添っていた番外生三名が追跡し、こもごも、A24の身体をつかんで引っ張ったり、その背中付近などをビニールパイプ等で殴り付けたりして逃走を阻止し、その後も、前同様に監視を続け、同月一六日午前八時過ぎころA24が合宿所から逃走するまでの間、A24の意思に反して不法にその行動の自由を拘束して逮捕監禁するとともに、右の一連の暴行により、A24に全治約一週間を要する顔面及び右手切創、背部挫創傷の傷害を負わせたものである。
③ (事件についての補足説明)
弁護人らは、A24が逃走を図って民家に逃げ込んだ際に番外生が加えた暴行の程度は、逃走した訓練生を連れ戻す手段としては予想を超えたものであるから、その結果生じた傷害について、被告人らにその責任を負わせるのは誤りであると主張する。
しかし、被告人らは、A24を特別合宿生として入校させ、宮東合宿所及びその周辺において、合宿訓練を行うため、殴打などの有形力を行使することも一向に構わないとの意思を相互に通じ、共謀の上、A24を強制連行し、合宿所おいても監視を続けるなどしていたものであって、A24が健康診断のために平病院に行く際に番外生を見張り役として付き添わせたことも監禁状態を維持存続させるためのものであると認められる以上、A24が逃走を図った場合には、番外生がこれを阻止するために殴打などのある程度の有形力を行使することを予見し、認容していたものと認められる。
たしかに、本件における番外生の殴打など有形力行使の程度は、被告人らがこれまで逃走を阻止するために自ら行使してきた有形力と比べて、強いものであったとは認められるが、予想外の意外な結果とまではいえないのであって、傷害の結果は、被告人らの監禁の手段としての行為から生じたものとして、因果関係を認めることができる。
22 A25に対する監禁事件(被告人甲9)
① (犯行に至る経緯等)
A25(昭和三〇年五月五日生、以下「A25」ともいう。)は、倉敷市内で出生し、その後、家族とともに高知市や北海道の芽室町で生活したが、中学三年生のとき大阪府大東市内に転居したため、昭和四六年三月に大阪府内の中学校を卒業した。A25は、中学校を卒業した後、地元の鉄工所に勤めたが一年余りで退職し、その後は職を転々と変える生活をしていたが、二二歳からは仕事にも就かず、両親や弟と同居しながらも無為に過ごしていた。
A25は、幼少時にかかった小児麻痺の影響で左足が若干不自由であったことや、中学三年生になって大阪府内へ転居したため友達がいない悩みを両親に訴え、機嫌が悪いときには殴ったり蹴ったりするなど暴力を振るうことがあった。
A25の父A25'らは、市役所や警察などに相談したこともあったが、ひどい怪我をさせるというほどではないし家庭内のことであるとして余り介入してくれず、また、A25を精神病院にも連れて行ったが、精神病ではないとして自宅に帰されたため、A25の身柄をどこかで引き取ってくれるところはないかと考えていたところ、甲ヨットスクールの存在を知ったA25の弟A25''が、昭和五八年六月一七日ころ、宮東合宿所を訪れて被告人甲9にA25の入校を申し込んだ。
甲ヨットスクールでは、副校長格の甲2コーチらに続いて、校長の甲が同月一三日にA4事件で逮捕されたため、甲から被告人甲9が校長代理に指名されてヨットスクールの運営を任されていた。
被告人甲9は、A25の弟からの申込を受けて間もなく、A25を特別合宿生として入校させることを決め、同月一八日ころ、そのころ宮東合宿所に出入りしてヨットスクールの手伝いをしていた乙40、乙42、乙43にA25の新人迎えを依頼したところ、同人らもこれを承諾し、乙40ら三人は、昭和五八年六月一八日午後三時三〇分ころ、強制連行に使用するためのロープを用意して普通乗用自動車で宮東合宿所を出発した。
② (罪となるべき事実)
被告人甲9は、昭和五八年六月一八日ころ、乙40、乙42、乙43らとの間に、A25の弟A25''の依頼に基づいて、A25を甲ヨットスクールの特別合宿生として入校させ、宮東合宿所及びその周辺において合宿訓練を行うため、ロープで縛り上げるなどの有形力を行使することも一向に構わないとの意思を相互に通じ、また、他のコーチらとの間にも、コーチらが特別合宿生として入校したA25と行動、生活をともにするようになって以後、右と同様の意思を相互に通じ、共謀の上、昭和五八年六月一八日午後九時ころ、乙40ら三名が、大阪府東大阪市<番地略>のA25'方居宅において、A25(昭和三〇年五月五日生、当時二八歳)に対し、こもごも、その背後から上半身を抱え込み、両腕等を押さえ付けてA25を組み伏せ、その両手首をロープで縛り上げ、腕や足等をつかむなどして居宅内からその身体を運び出し、近くに停めてあった自動車の後部座席に乗せて自動車を発進させ、A25をその自宅から、同月一九日午前二時ころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)まで連行し、A25を合宿所三階の格子戸付き押し入れに入れて錠をかけ、以後宮東合宿所及びその周辺において、監視を続け、同月二三日午後五時過ぎころまでの間、A25の意思に反して不法にその行動の自由を拘束して逮捕監禁したものである。
23 A26、A27、A28、A29に対する監禁致傷、A30に対する傷害、監禁事件(暴走族事件)
(被告人甲2、同甲6、同甲3、同甲5、同甲7、同甲8)
① (犯行に至る経緯等)
宮東合宿所の西側には南北に走る国道二四七号線の道路があり、いわゆる暴走族が深夜自動二輪車の爆音を上げて走行することも多かったが、昭和五七年一二月に訓練生のA4が死亡する事件が起きてからは、合宿所の前付近で、甲ヨットスクールを標的とするかのように、「馬鹿野郎」「人殺し」などと罵声を浴びせながら、爆音を響かせるなどの暴走行為をするものが現れてきた。
これに腹を立てた被告人甲8、同甲7、同甲3らが、昭和五八年一月下旬ころ、このような暴走族を追い掛けて捕まえ、合宿所に連行した上、小突いたり蹴ったりした後、被告人甲2が叱り付けてからこの者らを帰したことがあった。
しかし、その後も、暴走族による同様の行為が続き、被告人らは、睡眠が妨げられるため、夜中に目を覚まして起きたときや食事のときなどに、一度捕まえてやりたいなどと怒りの気持ちを口に出すものもおり、それぞれが腹立たしい気持ちを持っていた。
宮東合宿所の二階にはコーチ室があり、被告人甲2、同甲6、同甲3、同甲5は二階のコーチ室で寝泊まりしていたが、被告人甲7は三階で、また、被告人甲8は一階の畳敷きの間で寝泊まりしていた。
昭和五八年四月二三日午後一一時過ぎころ、合宿所の前を暴走族らしい車の通過が続いたため、被告人らは目を覚まし、何人かが一階に降りては口々に睡眠を妨げられることについて不満を言ったりして雑談していたが、被告人甲8、同甲7は、合宿所の外へ出て辺りの様子を見るなどしていた。
そのうち、被告人甲8、同甲7は、翌二四日午前零時ころ、それぞれの自動車を利用して合宿所前の国道の通行を遮断し、走行してきた暴走族を捕まえてやろうと考え、合宿所の近くのプレハブ小屋で寝ていた番外生二名を起こしてそれぞれの自動車に乗せ、被告人甲7は国道を挟んで合宿所の反対側にある横道で、被告人甲8は合宿所のやや北側にある駐車場で暴走族が来るのを待ち構えていた。
そのころ、一旦は目を覚まして起きていた被告人甲2、同甲6、同甲3、同甲5は、合宿所二階のコーチ室で横たわるなど寝る態勢をとっていたが、被告人甲6は、暴走族が近付いてくる様子があれば起きて外へ飛び出せるようにジャンパーを着て用意していた。
② (罪となるべき事実)
Ⅰ 被告人甲8及び同甲7は、宮東合宿所の前を走行する暴走族を捕まえようと企て、共謀の上、昭和五八年四月二四日午前零時三〇分ころ、愛知県知多郡<番地略>所在の甲ヨットスクール合宿所(宮東合宿所)前付近の道路において、道路外に停めていたそれぞれの普通乗用自動車を両側から道路上に進出させ、折から自動二輪車に乗って通り掛かったA26(当時一七歳)、A27(当時一九歳)、A28(当時一七歳)を停止させたところ、同人らの自動二輪車等の爆音が近付いてきたことを知って合宿所一階の玄関近くで待ち構えていた被告人甲6、同甲3、さらに、物音に気付いて二階から駆け降りてきた被告人甲5も、被告人甲8、同甲7とその意思を通じて外へ飛び出し、被告人甲2を除く被告人らは、こもごも、A26ら三名を木の棒等で多数回殴り付けたり、足蹴りしたりしてその身体をつかまえ、合宿所まで連行したところ、物音や大声などに気付いて一階に降りてきた被告人甲2も、これらの事情を察知してその余の被告人らとその意思を通じ、連行されてきたA26ら三名を合宿所の中へ入れるよう指示し、さらに、合宿所一階において、右の三名に対し、被告人甲3、同甲7らが、顔面を手拳で殴り付けたり足蹴りし、被告人甲6、同甲7が、電気バリカンやはさみで頭髪をところどころ刈り上げたり、切るなどした上、被告人甲2の指示で被告人甲6がA26ら三名をロープで後手に数珠つなぎに縛り上げ、合宿所前に正座させた上、梯子を用いてその首筋をつなげて監視するなどの方法で、同日午前一時三〇分ころまでの間、同人らの意思に反して不法にその行動の自由を拘束して監禁したが、右の一連の暴行により、A26に約一六日間の加療を要する顔面、後頭部等挫傷の、A27に約一五日間の加療を要する顔面、頭部等挫傷の、A28に約一六日間の加療を要する右顔面、左大腿部挫傷等の各傷害を負わせ
Ⅱ 被告人甲8は、A26らを合宿所へ連行した直後、他の暴走族を捕まえようとして、番外生の乙44、乙45を連れて自動車に乗って合宿所付近から国道を南方へ向かったところ、同日午前零時四五分ころ、愛知県知多郡<番地略>付近路上において、自動二輪車で通り掛かったA29(当時一七歳)を見付けてその進行を妨害して停止させ、乙44、乙45が木刀でA29を多数回殴り付け、被告人甲8がA29の身体を捕まえて腹部付近を足蹴りするなどした上、A29を自動車に乗せて宮東合宿所へ連行したところ、その余の被告人らも被告人甲8とその意思を通じ、共謀の上、合宿所前において、こもごも、顔面等を手拳で数回殴り付け、はさみで頭髪を切るなどした後、A26らの横に正座させた上、ロープで後手に縛り上げたり、梯子を用いてA26らとつなげて監視するなどの方法で、同日午前一時三〇分ころまでの間、A29の意思に反して不法にその行動の自由を拘束して監禁したが、右の一連の暴行により、A29に全治約一週間を要する顔面打撲傷、背部打撲傷等の傷害を負わせ
Ⅲ 被告人甲2、同甲6、同甲3、同甲5、同甲7及び同甲8は、共謀の上、
ア 同日午前一時ころ、宮東合宿所前を普通乗用自動車で通り掛かったA30(当時一九歳)から道順を尋ねられるや、A30を降車させた上、被告人甲7らがA30の顔面を手拳で、右大腿部を角材で殴り付け、さらに、A26らの仲間ではないかなどと問い詰めて合宿所一階に連れ込み、同所において、被告人甲6、同甲3、同甲7、同甲8らが、こもごも、A30の顔面を手拳等で殴り付けるなどの暴行を加え、A30に全治約一週間を要する顔面打撲傷等の傷害を負わせ
イ A30を合宿所に連行した同日午前一時ころから午前一時三〇分ころまでの間、宮東合宿所一階において、暴走族の仲間であることを認めさせるため、周りを取り囲むなど監視してA30を外部へ出さないようにし、A30の意思に反して不法にその行動の自由を拘束して監禁し
たものである。
第二章 証拠の標目<省略>
第三章 法令の適用
一 罰条
A事件(被告人甲、同甲2、同甲3、同甲4、同甲5、同甲6)
刑法六〇条、二〇五条一項
あかつき号事件(被告人甲、同甲2、同甲3、同甲5、同甲6)
(A2、A3に対する各監禁致死につき)
刑法六〇条、二二一条(二二〇条一項)
(刑法一〇条により同法二二〇条一項所定の刑と同法二〇五条一項所定の刑とを比較して、いずれも、重い傷害致死罪の刑に従って処断する。)
A4事件(被告人甲、同甲2、同甲3、同甲6、同甲7、同甲8)
刑法六〇条、二〇五条一項
七の1の②Ⅰの事件(A6に対する傷害、被告人甲、同甲5、同甲6)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇四条)、刑法六条、一〇条
七の1の②Ⅱの事件(A7に対する暴行、被告人甲、同甲6)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇八条)、刑法六条、一〇条
七の2の事件(A8に対する傷害、被告人甲6)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇四条)、刑法六条、一〇条
七の3の事件(A9に対する暴行、被告人甲8)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇八条)、刑法六条、一〇条
七の4の②Ⅰの事件(A10に対する傷害、被告人甲3、同甲7、同甲9)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇四条)、刑法六条、一〇条
七の4の②Ⅱ、Ⅲの事件(A9、A11に対する各共同暴行、被告人甲3、同甲7、同甲9)
平成三年法律第三一号による改正前の暴力行為等処罰に関する法律一条(刑法二〇八条)、罰金等臨時措置法三条一項二号(裁判時、暴力行為等処罰に関する法律一条)、刑法六条、一〇条
七の5の事件(A10、A9、A11に対する各暴行、被告人甲)
平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇八条)、刑法六条、一〇条
七の6の事件(A11に対する強要、被告人甲5、同甲6)
刑法六〇条、二二三条一項
七の7の②Ⅰの事件(A12に対する監禁、被告人甲)
刑法六〇条、二二〇条一項
七の7の②ⅡないしⅣの事件(A12に対する各暴行、被告人甲2、同甲、同甲8)
平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇八条)、刑法六条、一〇条
七の8の事件(A13に対する暴行、被告人甲2)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇八条)、刑法六条、一〇条
七の9の事件(A14に対する共同暴行、被告人甲7)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の暴力行為等処罰に関する法律一条(刑法二〇八条)、罰金等臨時措置法三条一項二号(裁判時、暴力行為等処罰に関する法律一条)、刑法六条、一〇条
七の10の事件(A14に対する暴行、被告人甲)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇八条)、刑法六条、一〇条
七の11の②Ⅰの事件(A15に対する暴行、被告人甲6)
平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇八条)、刑法六条、一〇条
七の11の②Ⅱの事件(A15に対する傷害、被告人甲)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇四条)、刑法六条、一〇条
七の12の②Ⅰの事件(A16に対する暴行、被告人甲3)
平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇八条)、刑法六条、一〇条
七の12の②Ⅱア、イの事件(A15、A16に対する各傷害、被告人甲2、同甲3、同甲5)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇四条)、刑法六条、一〇条
七の13の事件(A17に対する暴行、被告人甲2)
平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇八条)、刑法六条、一〇条
七の14の事件(A17に対する傷害、被告人甲7)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇四条)、刑法六条、一〇条
七の15の②Ⅰの事件(A18に対する監禁、被告人甲、同甲2、同甲6、同甲7)
刑法六〇条、二二〇条一項
七の15の②Ⅱの事件(A18に対する傷害、被告人甲、同甲6)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇四条)、刑法六条、一〇条
七の16の事件(A19に対する共同暴行、被告人甲2、同甲3)
平成三年法律第三一号による改正前の暴力行為等処罰に関する法律一条(刑法二〇八条)、罰金等臨時措置法三条一項二号(裁判時、暴力行為等処罰に関する法律一条)、刑法六条、一〇条
七の17の事件(A20に対する暴行、被告人甲5)
平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇八条)、刑法六条、一〇条
七の18の②Ⅰの事件(A21に対する監禁、被告人甲、同甲2、同甲7)
刑法六〇条、二二〇条一項
七の18の②Ⅱの事件(A21に対する傷害、被告人甲2、同甲6)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇四条)、刑法六条、一〇条
七の19の事件(A22に対する傷害、被告人甲7)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇四条)、刑法六条、一〇条
七の20の事件(A23に対する暴行、被告人甲6)
刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇八条)、刑法六条、一〇条
七の21の事件(A24に対する監禁致傷、被告人甲、同甲9、同甲10)
刑法六〇条、二二一条(二二〇条一項)
七の22の事件(A25に対する監禁、被告人甲9)
刑法六〇条、二二〇条一項
七の23の②Ⅰ、Ⅱの事件(A26、A27、A28、A29に対する各監禁致傷、被告人甲2、同甲6、同甲3、同甲5、同甲7、同甲8)
刑法六〇条、二二一条(二二〇条一項)
七の23の②Ⅲの事件(A30に対する傷害、監禁、被告人甲2、同甲6、同甲3、同甲5、同甲7、同甲8)
傷害につき、刑法六〇条、平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号(裁判時、刑法二〇四条)、刑法六条、一〇条
監禁につき、刑法六〇条、二二〇条一項
二 科刑上の一罪
七の23の②Ⅰの事件につき、刑法五四条一項前段、一〇条
(犯情の最も重いA26に対する罪の刑で処断)
三 刑種の選択
七の21、23の②Ⅰ、Ⅱの各事件につき
刑法一〇条により、同法二二〇条一項所定の刑と平成三年法律第三一号による改正前の刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号所定の刑とを比較して、重い傷害罪所定の懲役刑(ただし、短期は監禁罪の刑のそれによる。)に従って処断する。
七の1の②Ⅰ、Ⅱ、2、3、4の②ⅠないしⅢ、5、7の②ⅡないしⅣ、8、9、10、11の②Ⅰ、Ⅱ、12の②Ⅰ、Ⅱア、イ、13、14、15の②Ⅱ、16、17、18の②Ⅱ、19、20、23の②Ⅲの傷害の各事件につき
各所定刑中、いずれも、懲役刑を選択
四 併合罪の処理
被告人らの各罪につき(被告人甲4、同甲10を除く)
刑法四五条前段、四七条本文、一〇条
被告人甲、同甲2、同甲3、同甲6につき
刑及び犯情の最も重いA4事件の罪の刑に加重(刑法一四条)
被告人甲7、同甲8につき
最も重いA4事件の罪の刑に加重(刑法一四条)
被告人甲5につき
刑及び犯情の最も重いA事件の罪の刑に加重(刑法一四条)
被告人甲9につき
最も重いA24に対する監禁致傷の罪の刑に加重
五 酌量減軽
被告人甲4、同甲8につき
刑法六六条、七一条、六八条三号
六 刑の執行猶予
被告人らにつき
刑法二五条一項
七 訴訟費用
被告人らにつき
刑事訴訟法一八一条一項本文、一八二条
第四章 暴走族事件を除く本件各事件についての争点に対する判断
一 正当業務行為として違法性がないとの主張について
1 弁護人らは、起訴された事件のうちには、被告人らの体罰の行き過ぎによって訓練生に重大な傷害を与えたり、訓練以外の場面において、訓練生の対応の悪さを叱責する余り、被告人らが暴力を加えて傷害を負わせたりしたというものもあり、この限りにおいて被告人らが相応の非難を受けてもやむを得ないが、新人迎え、陸上及び海上における訓練、訓練に伴う体罰、訓練生に対する見張り等の行為など、被告人らが甲ヨットスクールの業務として行った行為は、いずれも基本的に正当業務行為と評価されるべきであり、違法性を阻却すると主張する。
そして、弁護人らが正当業務行為として違法性を阻却すると主張する理由の要点は次のとおりである。
① 登校拒否、家庭内暴力、校内暴力、非行などによって象徴される情緒障害児の問題は、家庭内暴力の児童等によって家族の生命、身体が危険にさらされるほどであるが、これに対する国や地方自治体など公的機関による対応は不十分であり、困り果てた親の悩みに対して現実的な対応策を有していない状況にある。
② 情緒障害児をその家庭から隔離し、収容施設において集団生活をさせること自体が治療方法として有効である上、甲ヨットスクールにおける訓練の目的、方法も、訓練用に設計されたヨットを用い、ヨットの帆走について初心の訓練生に対し、転覆、ヨットの引き起こし、帆走を繰り返し行わせることにより、海(自然)との闘いを克服して、ヨットを自らの意のままに操縦しうるとの自信をもたせ、学業その他の日常生活の中においても、人に伍して生活していくための原動力を養わせるもので、社会的に有効なものである。
③ 特別合宿生を受け入れるに当たっては、親その他身内の者から特別合宿申込書を差し出させ、さらに、甲ヨットスクール校長宛の「入校後はヨットスクールの教育に関しては全面的に委任する」旨の誓約書を差し入れさせているなど、子供の親権者などから監護教育については一切を委任する旨を誓約させていたものであり、その委託を受け、体罰を加えることについても承諾を得ていたものである。
2 特別合宿生として子供を甲ヨットスクールに入校させた親その他身内の者が、甲ヨットスクール宛に特別合宿申込書を提出し、また、甲ヨットスクール校長である被告人甲宛に誓約書を提出していたことは証拠上明らかである。
その誓約書には、あらかじめ「私の子供が甲ヨットスクールに入校後は、ヨットスクールの教育に関して、全面的に、ヨットスクール側にお任せし、教育途中で、児童の逃亡による帰宅、親の勝手なひきとり等、あらゆる場合において、ヨットスクールの教育方針に反する事は、一切致しません。万一、教育方針に反した場合は、ヨットスクールの判断に基づいて、教育を打ち切られても、異議を申し立てません。上記 ここに誓約致します」と印刷されていた。
また、被告人甲は、特別合宿を始めた当初から、有形力を行使し、厳しい海上訓練を強制することが基本方針であることを広言し、新聞等によってもこれが伝えられていたところ、昭和五六年八月から新聞紙上に「スパルタの海」が連載され、昭和五七年五月ころに右の連載記事をもとにした単行本が出版されると、そのころからは、あかつき号事件、A4事件などで摘示したように、この記事や本を読んで、殴打、足蹴りなどの有形力の行使による体罰と厳しい海上訓練などを内容とする甲ヨットスクールの合宿訓練、合宿生活のおおよその様子を知りながら、申込書、誓約書を提出して、入校を申し込む者も多かったことが認められる。
したがって、甲ヨットスクールにおいては、特別合宿生を強制的に入校させるについて、その親その他子供の実質的な監護、教育にあたっていた者から委託を受けており、また、これらの者も、早朝体操などの訓練の際には、子供に対して、殴打、足蹴りなどの有形力の行使による体罰が加えられることを知り、これを承諾して入校させたことは認められるところである。
しかし、これらの委託、承諾の効果も一律ではない。
すなわら、本件の各事件においては、いずれも、特別合宿生が成年に達している場合か、未成年ではあっても意思能力がある場合であるが、特別合宿生が成年に達している場合(例えば、A、A18、A24、A25など)には、経済的、精神的に父母から事実上自立しているか否かは別にしても、父母がその懲戒権、居所指定権を有していないことは法律上明らかであり、その委託、承諾も、同居して事実上監護、教育にあたっている親族のそれと法律上は異ならない。
特別合宿生が未成年である場合には、その者に対して親権を有する父母は、居所指定権、懲戒権(民法八二一条、八二二条)を有する。そして、懲戒権については、親権者がこれを第三者に委託することも許されないことではないと解されるが、その行使については、親権者自らがこれを行使する場合であっても、第三者が親権者に代わってこれを行使する場合であっても、監護、教育の目的上、必要、不可欠な場合に限られ、その方法、程度も、健全な常識に照らして社会的に相当な範囲のものでなければならない。また、居所指定権についても、意思能力のある子に対して、その意思に反して、居所指定に従うよう直接強制を加えることが現行法上認められているものではない。
そして、本件の各事件においては、A4を除いて、いずれも、甲ヨットスクールに特別合宿生として入校することを承諾していないし、むしろ強く拒絶していたものである。
3 したがって、父母からの委託、承諾があることだけで、強制入校、殴打、足蹴りなどの有形力の行使による体罰の違法性が阻却されるものではなく、右委託、承諾は違法性の有無を判断する上での要素の一つに過ぎないのであり、①目的の正当性、②特別合宿生として入校した者を家庭から隔離し、治療、矯正教育を施す必要性、緊急性、③手段の相当性、④結果の重大性などの要素をも考慮して違法性の有無を判断しなければならない。
① 目的の正当性について考えるに、家庭内暴力、非行、登校拒否等の状態を示す子供の教育に困難を感じた父母らからの依頼を受けて、被告人らが、その子供の治療、矯正を意図して、新人迎えによる強制連行、格子戸付きの押し入れに入れるなどの物理的な方法や監視等の方法による行動の自由の拘束、訓練の強制などを行っていたことは、証拠上これを認めることができるから、逮捕監禁(致死、致傷)事件については、目的の正当性は、これを肯定できるし、早朝体操や海上訓練を強制するために加えられた有形力の行使についても、基本的には、治療、矯正効果を上げることを意図して加えられたものと認められ、その多くについて、一応目的の正当性を肯定できる。
また、入校直後に甲ヨットスクールが従来生活してきた場所とは違うところであることを知らしめるために加えられた暴行や合宿所内での規律違反に対する制裁として加えられた暴行など、さらには、合宿所から逃走した者に対し、逃走した制裁として加えられた暴行、傷害については、主観的には、腹立ち紛れという感情の赴くままに加えられた面もあるが、合宿生活の秩序維持、特別合宿の目的達成のための懲戒行為としての面を否定できず、その限りにおいては、目的の正当性を肯定できないものではない。
もっとも、判示認定のとおり、個々の体罰の中には、被告人らが、治療、矯正の目的とは全く無関係に、感情の赴くまま殴打を加えたものも認められる。その他の暴行事件(A12に対する被告人甲8の暴行事件、A20に対する被告人甲5の暴行事件)はこのようなものであり、これについては目的の正当性は到底認めることができない。
なお、検察官は、「公然と現行法秩序に挑戦して営利を追求した悪質な犯行である。」と主張するところ、甲ヨットスクールが株式会社組織であることから、その活動が営利を目的としていることは否定できないところであるが、被告人甲を除く各コーチらの収入は、検察官も「薄給」と指摘するように全体的には多額とはいえない上、その生活状態も、合宿所に泊り込み、各自の休暇日を除くその他の日は二四時間を訓練生と寝食をともにするものであって、生活振りは質素であり、ぜいたくなものではない。
確かに、被告人甲が高額な役員報酬を得ていたことは、論告の指摘するとおりであり、被告人甲及びその妻の役員報酬は、昭和五六年一〇月の決算期において、総収入七八二二万円余のうち六〇〇万円であったが、昭和五七年一〇月の決算期において、総収入二億一八九二万円余のうち三六八〇万円、昭和五八年一〇月の決算期において、総収入一億一一五〇万円余のうち二一六〇万円を占めているから、絶対額としても、総収入額との割合からみても、高額である。
しかし、被告人甲の生活状態も他のコーチらと同様の質素なものであり、ヨットスクールに関するもの以外に多額の金員を消費したことを窺わせる事実は認められず、右の高額の役員報酬についても、ヨットスクールの設備の充実等の目的で個人名義で資金を確保したものという弁解もあながち不合理とはいえず、個人的な蓄財を目的として高給を得たものと認めることはできない。
したがって、検察官の主張する営利の追求というものも、さきに指摘した限りにおいて意味を有するに過ぎないものであり、目的の正当性を一律に否定するものとはいえない。
② 本件各事件の被害者である特別合宿生は、身体を鍛練するためなどの目的で自ら希望して入校してきたA4を除き、いずれも、家庭内暴力、非行、登校拒否等の状態にあったもので、父母らがその教育に困難を感じていた者であり、また、その相当部分の者については、家庭内暴力等により、父母らが心理的にも、肉体的にも悩まされていたことが認められる。
したがって、いずれの子供も、学校教育以外の何らかの治療、矯正教育を施す必要があった児童等(成人を含む。)であったことは認められる。
そして、一般的に右の対応が急速を要することは否定できないが、そのために、子供をその意思に反しても家庭から隔離し、どのような方法であれその行動の自由を拘束しなければならない緊急性が認められるか否かについては、特に逮捕監禁事件との関係で検討を要するところ、家族の生命、身体に危難が迫っており、そのような方法をとらざるを得ないほど、換言すれば、逮捕監禁の違法性を原則的に阻却するほどの緊急な状況が客観的にあったと認められるものはない。
もっとも、あかつき号事件のA3については、特別合宿申込書には、「在宅に危険を感ず」などと記載され、また、父A3から被告人甲宛の手紙には、「家に置いておいたら一家破滅の事件さえも予想される今日此頃の行動です。先日のS教授の事件も決して他人毎ではありません。」などと書かれており、家族の生命、身体に危難が迫っているかのような内容であるが、あかつき号事件の証拠によっても、これが客観的に認められる状況にあったというものではなく、父A3'がA3の行動に悩み、早期の入校を希望する目的で、いろいろな事態を想定して記載したというものであり、さきのような緊急な状況が客観的にあったとまでは認められない。
③ 弁護人らは、手段の相当性との関係において、甲ヨットスクールの訓練の有効性を強調するが、検察官は、甲ヨットスクールにおいては、訓練生を極限状況に追い込むことですべてが解決されるかのごとき考えのもとに、訓練生個々人の個別的事情を考慮せず、どの訓練生にも一律に同じ分量の苛酷なトレーニングを課し、かつ、激しい暴力を加えていたのであるから、教育や治療ではない、と主張する。
被告人らは、甲ヨットスクールにおける訓練の有効性を信じ、情緒障害児の治療、矯正教育の目的を達するためには、殴打、足蹴りなどかなりの程度の有形力の行使も許されるものとして訓練生に対処してきたものである。
しかし、家庭内暴力、非行、登校拒否等の状態を示す子供(精神病のものを除く。)を情緒障害児とし、その原因を精神力の虚弱さに求め、甲ヨットスクールにおける海上訓練、すなわち、訓練用に設計されたヨットを用い、ヨットの帆走について初心者の訓練生に対し、転覆、ヨットの引き起こし、帆走を繰り返し行わせることにより、海(自然)と闘い、これによって精神力を強化し、家庭内暴力、非行、登校拒否等の状態を解消するとの被告人甲の考えは、一部の者に対して効果を上げており、その意味において評価できるものではあるが、その海上訓練のために、合宿所における生活を強制して行動の自由を拘束し、その生活を維持し、海上訓練、早朝体操等の訓練を強制するために、合宿訓練生の年齢、性別、身体的、肉体的差異をほとんど無視し、殴打、足蹴りなどの有形力の行使による体罰を加えることは、直ちに手段として相当性を有することにならないことは当然である。人の行動の自由の拘束、身体に対する有形力の行使による侵害は、法秩序の見地からみてそれ自体本来は許容されないものであり、これによって救済されるべき法益との均衡、行使の必要性、手段としての相当性などとの比較においてその違法性が阻却されるものであり、具体的状況を前提として判断されるものではあるが、濫用、過剰とならないことが求められている。
しかるに、被告人らは、甲ヨットスクールにおける訓練の有効性についてのさきの確信のもとに、有形力行使の限界についてさほど意識することなく、しかも、その行使の基準においても、甲ヨットスクールでは事実上各コーチらのその時々の判断に任され、有効に規制するシステムを持たなかったため、感情の赴くまま、恣意的に行使されたことも多く、この状態については判示認定のとおりである。
すなわち、被告人らは、訓練生に早朝体操や海上訓練をさせなければ効果が上がらないから、これらの訓練をさせるためには有形力を行使することもやむを得ないし、自ら望んで入校したものではない情緒障害児に対しては、理屈や説得は無駄であるか、余り有効ではなく、殴打、足蹴りなどの有形力を行使することが手っ取り早い方法であるという考えがあった上、非行等の問題を抱えた訓練生が増加するにしたがい、合宿所の秩序維持をはかるためにも、有形力の行使により反抗を防ぐ必要も生じていたため、有形力を行使する必要性の有無、行使の内容、程度について、組織的な規制のシステムを持たず、具体的には、本件各事件当時には、各コーチが必要と思うときに、必要と考えられる内容、程度の有形力を行使することが、被告人甲の指導のもとにあった甲ヨットスクールのコーチ相互において許容され、被告人甲もこれを認識、認容していた状態にあったと認められる。
そして、本件各事件における有形力の行使の内容をみても、平手や手拳による殴打、足蹴りのほかに、竹の棒、ヨットの木製の舵棒(ティラー)、木片、マストの先の金属製部品、ボートフック(木製の丸棒)、竹刀などの道具を用いて強打したり、早朝体操の行われていた突堤上から冬季の海水中へ突き落とすというものである上、殴打等の部位も訓練生の顔面や身体の各部に及んでいる。
以上のとおり、被告人甲を含むコーチらによる有形力の行使は、目的の正当性として指摘したとおり、主観的には、教育、懲戒のための体罰であるが、その方法、程度などからみると、客観的には、教育、懲戒とは直接の結び付きのない、異質のものであるといわざるを得ない。
甲ヨットスクールでは、昭和五四年ころから、平病院において入校直後の健康診断を行っており、訓練生の健康状態を把握する一応の態勢がとられていたが、AやA4の場合には、健康診断の結果、平医師から、いずれも、訓練を半分位にするよう指示されていたにもかかわらず、被告人らの供述を総合すると、平医師からの指示を受けた被告人甲6が被告人甲、同甲2ほか他のコーチにその内容を適切に伝えたとは認められない。このことは、甲ヨットスクールが有形力の行使による体罰を許容しながらも、これを有効に規制するシステムを持たなかった、その面での杜撰な管理体制の一端を示すものである。
④ 本件各事件の結果は、傷害の結果発生に至らないものから、死の結果を引き起こしたものまで様々であり、その内容については、判示認定のとおりである。
逮捕監禁事件についてみると、いずれも、殴打などの有形力を行使して抵抗する被害者を自動車内に押し込め、場合により手錠をかけたり、ロープで緊縛し(A3、A12、A18、A25)、合宿所に連行後は、いずれも、格子戸付きの押し入れに入れて錠をかけ、その後は監視のもとに、合宿所及びその周辺等で生活させ、長いものでは一〇三日間(A21)、短いものでも六日間(A25)、その意思に反して行動の自由を拘束し、その間、甲ヨットスクールにおける訓練を強制していたものであり、結果が軽微であるとはいえない。
4 本件各事件(ただし、暴走族事件を除く。)について、違法性の有無を判断するために考慮するべき要素について検討したが、以上をまとめると次のとおりである。
あかつき号事件、その他の監禁、同致傷事件については、それぞれの被告人らが、父母等からの依頼を受けて、その子供の治療、矯正を主たる目的として、訓練を強制するために子供の意思に反してその行動の自由を拘束したものであり、いずれも、父母らがその子供の教育に困難を感じており、また、家庭内暴力等により、父母らが心理的にも、肉体的にも悩まされていたことは認められるが、さきのとおりの手段、方法を用い、長期間合宿所における生活を強制してその行動の自由を拘束し、その間、その生活を維持し、訓練を強制するために、客観的には、教育、懲戒とは直接の結び付きのない、これとは異質な有形力を行使するなどして、肉体的にも、精神的にも、子供らに過度の苦痛を強いていたことが認められる。
A事件、その他の傷害、共同暴行、暴行、強要事件については、いずれの被害者も、父母等からの依頼により、特別合宿生として甲ヨットスクールに入校していた者であるが、その多くの事件について、それぞれの被告人らは、早朝体操や海上訓練を強制するため、入校直後に甲ヨットスクールが従来生活してきた場所とは違うところであることを知らしめるため、合宿所内での規律違反に対する制裁を加えるため、合宿所から逃走した者に対し、逃走した制裁を加えるためなどの理由で殴打などの有形力を行使し、あるいは、脅迫して義務なきことを行わせたものであり、その結果も傷害の結果に至らない比較的軽微なものから、死の結果を引き起こした極めて深刻なものまで様々である。その目的は、訓練による治療、矯正効果を上げることを意図して、これを強制するためのものから、その前提として、合宿生活自体を維持し、あるいは、その秩序を維持するためのものまであり、一応目的の正当性を肯定できるか、少なくとも、目的の正当性が全くないというものではないが、その方法、程度などからみると、客観的には、教育、懲戒とは直接の結び付きのない、異質のものである。
なお、A12に対する被告人甲8の暴行事件及びA20に対する被告人甲5の暴行事件については、結果は比較的軽微であるが、目的の正当性は到底認めることができないものである。
A4事件については、他の多くの特別合宿生とは異なり、体格的、体力的にややひ弱であったものの、家庭内暴力、非行、登校拒否等とは無縁の子供に関するものであり、親が強い精神力と丈夫な身体を持つ子供となることを期待し、A4も納得の上で入校した者であるから、他の事件とは異質のものであって、親においてある程度の有形力の行使を容認していたことは認められるが、甲ヨットスクールにおける一般的な有形力行使の方法、程度、さらには、A4に対して加えられた有形力行使の方法、程度まで承諾していたとは認められないし、A4もこれを承諾していたとは認められない。
以上のとおり、本件各事件については、その多くのものに、その動機、目的、特別合宿生として子供を受け入れるに至った事情など考慮すべきものがあることは否定できないが、深刻かつ多様な問題を抱えた児童等を扱うにしては、被告人らが行った治療、矯正教育の内容は緻密さ、丁寧さの欠けたものであると言わざるを得ない上、有形力の行使による体罰を許容しながらも、この危険性を顧慮せず、これを有効に規制するシステムを持たなかったため、被告人甲を含むコーチらにおいて、感情の赴くまま、恣意的に行使することも容認され、客観的には、教育、懲戒とは異質の「いじめ」や「しごき」をともなう私的な身柄拘束の面を払拭できなかったものであり、現在の法律秩序のもとでは、正当業務行為として違法性を阻却するものとはいえない。
二 被告人らの共謀について
1 検察官は、被告人らについて共同正犯として起訴した事件の共謀は、いずれも事前共謀であると釈明し、その共謀について、次のとおり主張する。
被告人甲は、いわゆる情緒障害児に対する特別合宿訓練をヨットスクールの営業として以来、訓練生の年齢、性別、体力、性格、入校原因等訓練生の個別事情を考慮することなく、一律に、体力トレーニングやヨット訓練を課し、これら訓練及び生活管理全般について、自己を補佐するコーチらと一体となって、体罰と称して暴力を加えることを指導方針とし、コーチである他の被告人らも、全てこの方針を了解、容認していた。そして、ヨットスクールの運営に際しては、個々の訓練生に対して担当者を決めることなく、被告人甲及びコーチら全員が一体となって訓練及び生活管理を行うという体制をとっており、新人迎え、訓練及び生活管理全般において加えられていた暴行は、被告人甲及びコーチら全員が行っており、その暴行の手段、程度などは、その場におけるコーチらの裁量に任せられてはいたものの、これらは被告人甲を頂点とするコーチである被告人らにおいて相互に容認し合い、相互に利用補充し合って一体として敢行していたものである。コーチである被告人らは、甲ヨットスクールのコーチとして入社すると、被告人甲あるいは先輩のコーチの体罰と称して暴行を加える指導方針に基づいたやり方を見て覚え、理解し、賛同してこれを自ら実行していくという形で、被告人甲を頂点とする組織の全員が一体となって、右方針に則った暴力的行為を互いに協力し、共同して行うとの合意が形成され、各訓練生の入校の決定を機に、被告人甲を含めたコーチである被告人らの間に、それぞれの訓練生に対する監禁及び暴行等についての共謀が成立したものである。
2 弁護人らは、検察官の主張は、特定の被害者に対する特定の構成要件とは別個に、甲被告人の方針に則った暴力的行為を互いに協力し、共同して行うとの合意が形成され、このような内容の共同意思が成立しそれが数年間という長期間存在することを観念するものであるが、甲ヨットスクールの指導方針を了解、容認することそれ自体を暴行や監禁の事前共謀の内容とするのは、犯罪事実の事前共謀の内容として不十分であるし、そもそも、甲ヨットスクールにおける体罰が一律に全部違法であるとの前提に立つものであって、このような前提自体不当であると主張する。
3 甲ヨットスクールにおける訓練の基本方針及びその実情については、「甲ヨットスクールの特別合宿生への対応」などとして、認定したとおりである。
甲ヨットスクールにおいては、いわゆる情緒障害児に対する特別合宿訓練を開始したかなり早期のころから、新人迎えのときには、ヨットスクールへの同行を拒否する子供を必ず連行するために、その身体を押さえ付けたり、殴り付けたりし、場合によっては、子供の抵抗力を奪って安全確実に連行するために、ロープや手錠を用いて拘束し、合宿所に連行後は、格子戸付きの押し入れに入れて錠をかけるなどの物理的方法のほか、見張り、監視といった方法により、その逃走を防止し、早朝体操や海上訓練においては、真面目に取り組もうとしない者に罰を与え、訓練に集中させるため、さらに、能力の限界まで挑戦させるため、殴打、足蹴りなどの有形力の行使による体罰の行使が常態となっていたが、これは、いわゆる情緒障害児の特別合宿生に対して継続的な合宿訓練を行うようになってからの被告人甲の基本方針であり、コーチとして採用された者に対して、被告人甲は、自分や先輩のコーチのやり方を見て覚えるよう指示し、新任のコーチも、古参のコーチが加える体罰を見たり、ヨットスクールでの生活を続けるうち、自らも体罰を加えるようになり、次第に体罰を加えることに心理的な抵抗を感じないようになっていった。
これらについて、被告人甲は、「体罰という方法を使うのだという方針というんですか、これはヨットスクールに入ってくるコーチに対して、被告人のほうから説明なりはしてたわけですか。」との質問に対し、「入ってきたときに、一応こういうこともやるよということは説明しておったと思うんですよ。やっぱりみんなできないですからね。入ってきてすぐは、そんなことできないんですよ。」「まあ見とってくれということで、やってみる。だけどできないですよ。だけど、そういう子供達がやっぱりそれによって、変わってくるという事実を見て、初めてできるんですよ。」(被告人甲の当公判廷における供述)と述べ、被告人甲9も、「校長自身もそういうふうにたたいたりして体罰を加えることについては賛成はしていたようなんですか。」との質問に対し、「賛成どころかそれがいいということで校長の趣旨に基づいて我々も」体罰を加えていた(公判調書中の証人甲9の供述部分)と述べており、新任のコーチが体罰を加えるようになることについて、被告人甲6は、「私は初めのうちはできなかったです。」、その後も、「初めは軽くしかできなかったと思いますけど。」、いろいろ言っただけでは「やっぱり効き目がない、いうことがよく分かりましたので、それから普通にたたけるようになったと思います。」(被告人甲6の当公判廷における供述)と述べ、被告人甲7も、早朝体操のときの体罰について、最初は「全くやらなかったということでもないんですけれども、まあほとんど手を出さなかったと思います。」「やはりまだ抵抗があったというか……ことだと、思います。」、しかし、途中からは、「今まで全くできなかった子が段々できてくるようになると、ある程度体罰に効果があるということが自分にも分かって」殴るとか、蹴るということをするようになったが、殴ったり、蹴ったりするという「それが一番手っ取り早くて効果がある、結果の出るのが早いということだろうと思います。」(被告人甲7の当公判廷における供述)と述べている。
4 そして、被告人甲を含めコーチらは、北屋敷合宿所を使用するようになって以降は、原則として合宿所に訓練生と一緒に泊まり込んでおり、各自の休暇日を除くその他の日は二四時間を訓練生と寝食をともにし、訓練にあたっていたものであり、他のコーチらがどのような体罰を加えていたかについて把握し得る状況にあったのであり、また、特別合宿生に対して担当のコーチを定めることなく、被告人ら全員が訓練及び合宿生活の維持管理にあたっていたものである。
また、体罰の内容について、被告人甲が、何か中に詰まったもので殴ったり、骨が出ているところを殴ったりしてはいけないなどと注意していたこともあったが、訓練生の数が増えるに従って、竹刀、竹の棒やティラーその他の物を用いることが常態となり、殴打、足蹴りなどの部位も厳格に制限されて実行されていなかったが、コーチらの有形力の行使について、その手段、程度などが被告人らの間において表立って問題とされ、その行使の限界が議論されたことはなく、体罰を加える必要性、その手段、程度などについては、事実上各コーチらの判断に任されていた状況にあった。
すなわち、被告人甲は、甲ヨットスクールを営む会社の経営者であるとともに、スクールの校長として、業務全般を統括し、その他の被告人らは、それぞれが、甲ヨットスクールのコーチとして採用され、現実の運営にあたっていた者であり、いずれもが、個々の訓練生を治療、教育するという目的のもとに、他のコーチらが加える体罰を認識、認容し、自らも体罰を加えていたものであり、訓練及び合宿生活の維持管理をするにあたり、殴打、足蹴りなど有形力の行使による体罰を加えることについて、被告人甲を含むコーチら相互の間に、協力し、共同して行うとの基本的な合意が形成されていたことが認められる。
5 しかし、弁護人らが指摘するように、この合意自体は、特別合宿生として入校する者に対する一般的なものであり、特別合宿生の入校を決定する前の段階では、未だ特定の犯罪を行うための謀議ではなく、言わば、謀議成立の基礎となるに過ぎないものであり、共謀の成立は個々の犯罪の構成要件との関係で認定するべきところ、基本的には、逮捕監禁罪との関係では、被告人甲が入校を決定した段階で、新人迎えの指示をした者との間に、子供の意思に反しても甲ヨットスクールの特別合宿生として入校させ、合宿所及びその周辺において合宿訓練を行うために、殴打などの有形力を行使することも一向に構わないとの意思を相互に通じて共謀が成立し、他のコーチとの間には、そのコーチが特別合宿生として入校した者と行動、生活をともにし、訓練や合宿生活の維持管理の対象としてその者を認識して以後、同様の意思を相互に通じて共謀が成立すると解されるし、傷害罪などとの関係では、早朝体操や海上訓練を強制するために加えられた有形力の行使は、その者の入校に関与したコーチらの間においては、入校の当初から共謀が成立し、それ以外のコーチとの間には、入校後にその者と行動、生活をともにし、訓練や合宿生活の維持管理の対象としてその者を認識して以後、同様の意思を相互に通じて共謀が成立すると解される。
もっとも、体罰を加える必要性、その手段、程度などについては、事実上各コーチらの判断に任されていた状況にあったから、その内容はもとより、日時、場所についても共謀の内容として明確に特定していたものではないが、この点は共謀の成立に影響を及ぼすものではないし、そもそも、本件各事件について、被告人らは、そのほとんどについて、実行行為の一部を分担しているものである。
しかし、入校直後に甲ヨットスクールが従来生活してきた場所とは違うところであることを知らしめるために加えられた暴行、合宿所内での規律違反に対する制裁として加えられた暴行など、さらに、合宿所から逃走した者に対し、制裁として加えられた暴行、傷害については、特別合宿生の大多数に常に加えられていたものではなく、また、必ずしもコーチらの全員がこれに関与していたわけではないから、特別合宿生と行動、生活をともにしたコーチが、それだけで、これらの者に対するそのような暴行などを認容し、他のコーチとの間にその意思を相互に通じ共謀が成立すると解することはできず、具体的な場合において、そのような行為に加功するか、そのような行為を行ったコーチの行為に積極的に関与し、いわば自己の手段としたと認め得る状況を必要とすると解される。
6 弁護人らは、スポーツの訓練には、その過程である程度の体罰があったとしても、これを直ちに暴行、傷害として一律に違法視できず、違法性を阻却する体罰と阻却しない体罰を選別し、違法性を阻却しない体罰についても過失責任を問うべきであるとし、共謀の関係においても、「ある集団に個人が所属するとき、だからといって他の構成員のやり方を全面的に容認していることにはならないのであって、表立って批判したりはしないものの、内心批判的見解をもったりすることはすくなくない。少なくとも自分はそのような行動をとらないようにしつつ、構成員としてとどまることは、世上しばしば見られる現象である。即ち、ある集団の構成員だからといって他の構成員の行為を容認しているとか、いわんや他の構成員の行為を利用したとか、評価することは集団の観察において現実離れしたもの」であると主張する。
しかし、殴打、足蹴りなどの有形力の行使による体罰が違法であるか否かについては、さきに述べたように、目的の正当性、行使の必要性、緊急性、手段の相当性、結果の重大性などの諸要素を総合して考慮すべきものであり、平手打ち程度であるとか、傷害などの結果を引き起こさない程度であるとかという外形的客観的行為だけで明確に判然と区別できるものではない。
しかも、コーチらが訓練生に対して加えていた体罰は、その必要性、手段、程度などについて、事実上各コーチらの判断に任されていた状況にあったが、甲ヨットスクールの特別合宿生に対する治療、教育という目的のもとに、その多くが、言わばその意味ではコーチの業務として加えられていたものであり、これを離れたものではない。
弁護人らが主張するように、被告人らの中でも、被告人甲4、同甲9、同甲10は体罰をすることが比較的少なく、他のコーチらの体罰について内心やり過ぎではないかとの批判的な見解を持っていたことが認められ、現実にも、これらの被告人については、死の結果を生じた重大な事件についてみると、A事件において自ら体罰に加功したと認められる被告人甲4のみが起訴されているだけであるが、内心で批判的な見解を持っていたとしても、他のコーチのやり過ぎと思われる体罰について阻止することなく、これを予見、認識しながら、自らの所属する甲ヨットスクールの特別合宿生の訓練にあたっているならば、全体として違法性のある体罰につき認容し、その意思を通じて共謀したものと認められるか、自らこれに加功したものと認められることになる。
第五章 量刑の事情
一 全体としての事情
1 暴走族事件を除く本件各事件は、厳しいヨット訓練を行うなどの独自の方法で、いわゆる情緒障害児の治療、教育に携わることを標ぼうしていた甲ヨットスクールにおいて、校長の立場にあった被告人甲やコーチであったその他の被告人らが、特別合宿生として訓練をさせるために、児童等をその意思に反して甲ヨットスクールの合宿所まで連行し、行動の自由を拘束して逮捕監禁したほか、合宿訓練の期間中に、特別合宿生四名を死亡させ、多数に暴行、傷害などを加えたというものである。
A4事件を除くその他の事件の被害者は、いずれも、家庭内暴力、非行、登校拒否等の問題を抱えていた児童等であり、その父母らは、自らの力による教育に困難を感じていたところ、マスコミ等を通じて、甲ヨットスクールでは、これら問題を抱えた児童等に対し、厳しいヨット訓練を行わせるなど、いわゆるスパルタ教育で治療、教育にあたっており、目覚ましい成果を上げていると知らされ、子供の治療、教育を甲ヨットスクールに依頼したものである。
甲ヨットスクールは、当初は、日曜日に小学生や中学生の児童を対象にして被告人甲が開いていた、一般のスポーツクラブと同じ性格のヨットスクールであったが、たまたまこれに参加した登校拒否の児童が、参加後に学校へ行くようになったとしてマスコミに紹介され、登校拒否児童を持つ親からの参加申込が増えたため、その要望により、このような児童を対象にした一定期間の合宿訓練を伴うヨットスクールの課程を設けたことが切っ掛けとなり、その後、対象を小学生や中学生の登校拒否児童ばかりではなく、非行、家庭内暴力等の問題を抱えた年長少年や成年にまで拡大し、専用の合宿施設を有し、情緒障害児の治療、教育に携わる民間施設として有名になっていき、被告人甲も厳しい訓練により体力、精神力を鍛え、情緒障害児を治療、教育することを標ぼうするようになった。
2 本件各事件の結果は、特別合宿生四名の生命を失わせたことだけをとらえても極めて重大であり、死亡した被害者はもとより、肉体的、精神的に健康でたくましい人間となることを願い、甲ヨットスクールに我が子の治療、教育を依頼した被害者の両親の悲しみ、無念の気持ちは察するに余りある。その他の監禁、監禁致傷、傷害、暴行、強要などの事件をみても、その多くの被害者は、その意思に反して長期間行動の自由を拘束されて訓練を強制され、あるいは、一方的に殴り付けられたり、足蹴りされたことなどから、その後も、甲ヨットスクールでの生活やコーチらに良い感情を抱いておらず、証人として出廷した際に、被告人らの行為に対する反感をあらわに示す者もいた上、けがの治療に長時間を要した者や傷害を受けた部位が痕跡として残った者もいるなど、その被った精神的、肉体的な影響は軽視し得ないものがある。
本件各事件における有形力行使の内容をみても、被告人らの主観的な面においては、そのほとんどの場合が、教育、警戒のための体罰であるが、その切っ掛け、必要性、方法、程度などからみると、客観的には、教育、懲戒とは直接の結び付きのない、異質な苛酷なものである。
本件各事件の被害者の相当部分の者について、家庭内暴力が認められるなど、その父母らが心理的にも、肉体的にも悩まされていたこと、また、いずれの者も学校教育以外の何らかの治療、矯正教育を施す必要性が認められた児童等であり、多くの父母らが病院や公的な相談所等を巡りながら、なお有効な対処の方法が得られないという状況にあったことは本件各事件の背景として無視できず、このような父母らにとっては、甲ヨットスクールが迅速かつ有効に悩みを解決してくれる場所として感じられ、多数の入校希望が相次いだ結果、甲ヨットスクールにおいても多数の特別合宿生を受け入れる事態となっていたのであるが、ヨット訓練による情緒障害児の治療、教育の効果を重視する余り、この目的を効果的に達成するために、有形力行使による体罰を容認しながら、この危険性を顧慮せず、これを有効に規制し得なかったものであり、結果として、甲ヨットスクールのやり方に適合しない者に対し、より執拗、苛酷なものとなったことは否定できないのである。
3 しかし、本件各事件についての被告人らの刑責を考えるについては、被告人らが、いずれも、特別合宿生として入校してきた情緒障害児などを肉体的、精神的に健康でたくましい人間となるよう治療、教育するという目的を持って甲ヨットスクールの校長、コーチとして業務に従事し、その過程において生じた事件であることを無視するわけにはいかない。個々の事件については、コーチが感情の赴くままに殴打を加えたり、入校した際のだらしない態度、規律違反の行動、合宿所からの逃走などに直面して、腹立ち紛れという感情も手伝って制裁を加えたりした面を否定できないものもあるが、被告人らは、さきに本件各事件の背景として指摘した状況のもとにあって、自らの力による教育に困難を感じていた父母らからその子供を引き取り、甲ヨットスクールにおける独自の方法で治療、教育した上、スクールを卒業させようとの意欲に基づいて、訓練生とともに合宿生活を送っていたものであり、違法性を阻却する正当業務行為とは認められないとはいえ、専ら私利私欲もしくは私怨などのために引き起こした事件とはその動機ないしは背景事情において異なるものがあり、量刑にあたって考慮すべきものがある。
もとより、被告人らは、医師、教員等の免許、資格を有する者ではなく、情緒障害児の治療、教育についての専門的知識を有しない者であり、検察官が指摘するように、結果として、「何ら科学的根拠もないのに、いわば素人ばかりで独善的な閉鎖集団を形成した」として非難される余地はあるが、家庭内暴力等の問題を抱えた子を有する父母らからの依頼を受けて、何もせず傍観するという立場をとらず、敢えてその治療、教育の問題に関わっていったその心情については、利益の追求とするだけでは説明ができないものがあり、また、被告人らの知識、能力にとって分を越えたふるまいとして批判することは容易ではあるが、家庭内暴力、非行、登校拒否等の問題を抱えた子を持ち、悩んでいる親、さらには、自らの行動、状態に同様に悩んでいる児童等が現に存在しているという事態において、このように片付けてしまうだけでは、被告人らの行為に対する正当な評価とは言えない。
4 そして、結果の重大性などからみても、量刑を考える上で最も重視すべきものと考えられるA事件、あかつき号事件、A4事件について検討するに、A事件、A4事件については、いずれも死因を外傷性ショックであるとの認定ができないこと前述のとおりである。すなわち、A事件では、被告人らの暴行、傷害が死の結果に因果関係を有することは認められるが、Aの直接の死因は出血性肺炎であると認めるのが相当であり、A4事件でも、被告人らの暴行、傷害が死の結果に因果関係を有することは認められるが、これのみが唯一の原因ではなく、寒冷暴露、訓練、肝機能の障害、基礎体力の不足による疲労なども原因となっていたことは否定できず、直接死因も外傷性ショックか低体温症か確定できない。
A、A4の損傷の数は極めて多く、特にA4については損傷の程度も重いものがあるが、死因を外傷性ショックであるとの認定ができないことは、被告人らの暴行と致死の結果の間に、傷害致死罪を成立させるに足りる法律上の因果関係は認められるとはいえ、言わば被告人らにとっても不幸な結果であったと考える余地もあり、量刑上は被告人らに有利な事情として考慮すべきものである。
もっとも、暴行以外の原因についても、その相当部分について被告人らの行為に起因して生じているのであり、甲ヨットスクールの健康管理に対する杜撰さについて非難されるべきものがあることは否定できない。
また、あかつき号事件については、A2、A3の両親の強い依頼に基づいて強制入校させ、両名の行動の自由を拘束していたところ、奄美大島から神戸港へ向かう太平洋上のフェリー船上から両名が海に飛び込むという危険な行動をとった結果死亡したものであり、被告人らの監禁と死亡の結果の間に、監禁致死罪を成立させるに足りる法律上の因果関係が認められることは前述したとおりであるが、両名の年齢、性格、精神状態、判断の誤りが右行動の一因となっていることも否定できないのであり、このような事情もまた量刑上被告人らに有利に考慮すべきである。
5 被告人らは、公訴事実が多数にわたる本件各事件のほとんどについて争い、自らの行為の正当性を主張し、公判廷においても、多くの証人についての尋問、被告人質問を要した結果、暴走族事件についての起訴があった昭和五八年六月一六日からあかつき号事件についての起訴があった同年一一月二五日までの間も五か月以上ある上、暴走族事件に対する第一回公判期日の開かれた昭和五八年一〇月一四日から全事件の証拠調の終了した平成三年一〇月二九日(第一三六回公判期日)まで約八年間を要したが、死因、因果関係、元の訓練生の供述内容の信用性など事実認定上の問題点や法律上の問題点、事件の特殊性を考えると、被告人らの公判廷における態度全てについて、反省の色がみられないとまでいうことはできないのであり、一部そのように評価せざるを得ない部分もあるが、相当部分については、被告人らも法律的評価とは別に行き過ぎを認め反省していることは認められる。
死の結果を生じた事件の被害者の遺族に対して慰謝の措置が講じられているのは、A事件のみであるが、事実関係などについて争っている本件被告事件が当審に係属中であったためこれらの措置が講じられなかった面もないわけではなく、今後その進展が期待できる状況は認められる。
二 被告人らそれぞれの事情
1 被告人らの個別的な情状について検討するに、被告人甲は、甲ヨットスクールにおいて、会社の代表者であるとともに、校長として、コーチらとの関係では絶対的な指揮、命令の権限を有していたものと認められ、被告人甲の基本方針のもとに、コーチらは言わば業務として本件各事件の多くを引き起こしたものである上、罪となるべき事実も死亡事件四件を含む多数に上っている。被告人らの中では最も刑責が重いというべきである。
2 被告人甲2は、甲ヨットスクールにおいて、副校長格として被告人甲に次ぐ権限を有し、合宿所を留守にすることも多かった校長に代わり、事実上合宿生活を維持管理する責任者であったが、コーチらの行き過ぎた行為を抑制すべき立場にありながら、むしろ自らこれを助長した行動が認められるなどの点において責任は重く、罪となるべき事実も死亡事件四件を含む多数に上っているのであって、被告人甲に次いで刑責は重い。
3 被告人甲6は、被告人らの中では最も激しい体罰を加えていたコーチであり、罪となるべき事実も死亡事件四件を含む多数の事件に上っているが、A事件、あかつき号事件においても、事件への実質的な関与の程度も強く、また、骨折の結果を生じた傷害事件を二件引き起こしているなど、一般のコーチの中では最も刑責は重いというべきである。
4 被告人甲3は、コーチとしての経歴も長く、罪となるべき事実も死亡事件四件を含む多数の事件に上っており、死亡事件についての実質的な関与の程度はいずれもそれ程強いというものではないが、一般のコーチの中では被告人甲6に次いで刑責は重い。
5 被告人甲5、同甲7、同甲8、同甲4は、いずれも、死亡事件に関与しているが、被告人甲7を除くと、死亡事件への実質的な関与の程度はいずれもそれほど強いというものではない。特に被告人甲4は、A事件以後はコーチらの中では体罰を加えることが少ないコーチとして知られていたものであり、罪となるべき事実としてもA事件に関与しているのみである。被告人甲7は、A4事件において、乙4コーチとともに実質的な関与の程度が強いが、死亡事件に罪となるべき事実として関与しているのはA4事件のみである。
6 被告人甲9、同甲10は、いずれも死亡事件に罪となるべき事実として関与していない上、被告人甲4と同様体罰を加えることが少ないコーチとして知られていたものであり、被害者からも嘆願書が提出されている。
三 結論
1 以上の量刑にあたって考慮すべき事情を総合すると、被告人甲5、同甲7、同甲8、同甲4、同甲9、同甲10については、その犯罪への関与の程度のほか、被告人甲5、同甲7、同甲8、同甲4の未決勾留日数も長期にわたっていること、いずれも、前科、前歴がないか、特に考慮すべき前科はないこと、現在ではヨットスクールを離れて他の職に就き、安定した生活を送っていることなどを考慮し、いずれも、その刑の執行を猶予するのが相当である。
2 被告人甲、甲甲2、同甲6、同甲3については、さきの個別的事情を重視すれば、実刑に処することも考えられないではないが、全体としての事情の中で述べたような同被告人らに有利な諸事情もある上、被告人甲6を除き、いずれも、最初の起訴日から保釈当日までの起訴後の勾留期間が一一〇〇日を超えており、被告人甲6についても、ほぼ一〇〇〇日に達していること、被告人甲、同甲6、同甲3は、現在においても、ヨットスクールの運営に関与しているが、体罰を加える従前の訓練方法を改めており、本件各事件と同様の事件を引き起こすおそれがないと考えられること、いずれも、前科、前歴がないか、特に量刑上考慮するほどではない罰金刑の前科があるだけであることを総合考慮し、これらの被告人についても現在において実刑に処する意味はほとんど失われたものと考え、その刑の執行を猶予するのが相当である。
(求刑 被告人甲につき懲役一〇年、同甲2につき懲役六年、同甲3につき懲役四年六月、同甲5につき懲役四年、同甲6につき懲役五年、同甲7につき懲役三年六月、同甲8につき懲役三年、同甲4につき懲役二年、同甲9につき懲役二年六月、同甲10につき懲役一年六月)
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官小島裕史 裁判官石山容示 裁判官松原里美は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官小島裕史)
別紙目録(訴訟費用の負担)
1 以下の証人に支給した分は、被告人ら(全員)の連帯負担とする。
青山スキ子、林勢津子、A'20、児玉美智子、岡本徳子、吉原京子、岩本進(昭和五八年わ第一〇一八号等事件の第九三回、第九五回公判期日に証人として取り調べたもの)、平沢美代子、長岡利貞、乙39、遠藤太嘉男、家田悦志
2 以下の証人に支給した分は、被告人甲、同甲2、同甲3、同甲6、同甲7、同甲8、同甲5、同甲4の連帯負担とする。
杉浦勝明(昭和五八年わ第一〇一八号等事件の第六回公判期日に証人として取り調べたもの)、楠正志(昭和五八年わ第一〇一八号等事件の第六回公判期日に証人として取り調べたもの)、矢田昭一、内藤道興、渡辺博司、小菅晃巧、金谷治雄、古郡宏隆、小松保樹、乙33、乙46、真山吉春、A12、加藤大喜、余語俊幸、菱田英樹、A14、A8、乙30、乙29、A9、A33(昭和五八年わ第一〇一八号等事件の第三三回公判期日に証人として取り調べたもの)、A13、乙5、A24、乙3、甲10、甲9、岩本進(昭和五八年わ第一〇一八号等事件の第五五回公判期日に証人として取り調べたもの)、甲11、和田裕、伊藤博夫、向野みどり、東山博美、平岡俊一郎、太田弘、松本太、水谷魏、岡村富士子、岡村加奈子、A39、福岡恭子、上之郷利昭、東山洋一、A40、加藤俊二、早川アヰ、白神弘子、香川純子
3 以下の証人に支給した分は、被告人甲、同甲2、同甲3、同甲6、同甲7、同甲8の連帯負担とする。
斉田ちさ江、杉山厚二、三輪田悟、金井朗、中山ゆかり、乙35、A"4、肥田康俊、増渕秀俊、稲場恵子、白倉克之、乙47、小林義彦、乙34、相原弼徳、木村康
4 以下の証人に支給した分は、被告人甲、同甲2、同甲3、同甲6、同甲5、同甲4の連帯負担とする。
立山和生、A"、加藤昌孝、西坂啓二、滝本満智代、池田陽子、助川義寛、福永悦子、岩本鋼一
5 以下の証人に支給した分は、被告人甲、同甲2、同甲3、同甲6、同甲5の連帯負担とする。
乙14、乙12、乙13、乙15、小谷敏彦、伊藤嘉明、寺杣利郎、乙27、乙28、A15、A"3、A'2、乙32(昭和五八年わ第一〇一八号等事件の第六六回公判期日に証人として取り調べたもの)、六反田善広、乙16、峯田繁一、鈴木紹雄、中本英一、中村祐好、桝谷正直、落合正和、A"2、鈴木茂、若狭周二、吉田誠、A'3、清水信昭、尾崎孝子、古閑伊知郎
6 以下の証人に支給した分は、被告人甲、同甲2、同甲3、同甲6、同甲7、同甲8、同甲5の連帯負担とする。
原みつ子、乙36
7 以下の証人に支給した分は、被告人甲、同甲2、同甲6、同甲7の連帯負担とする。
A21、A17(ただし、支給した分の五分の四につき)、A18
8 以下の証人に支給した分は、被告人甲、同甲3、同甲6、同甲7、同甲5の連帯負担とする。
A11、A22
9 証人A34に支給した分は、被告人甲、同甲2、同甲3、同甲6、同甲8、同甲5の連帯負担とする。
10 以下の証人に支給した分は、被告人甲、同甲2、同甲3、同甲6、同甲7、同甲5の連帯負担とする。
乙44、乙45
11 証人磯貝陽悟に支給した分は、被告人甲、同甲2、同甲3、同甲6、同甲7、同甲5、同甲4の連帯負担とする。
12 証人A7に支給した分は、被告人甲、同甲6、同甲5の連帯負担とする。
13 証人A16に支給した分は、被告人甲2、同甲3、同甲5の連帯負担とする。
14 以下の証人に支給した分は、被告人甲2、同甲3、同甲6、同甲7、同甲8、同甲5の連帯負担とする。
石黒一男、A26、A27、A29、A28、A30
15 以下の証人(平成元年四月三日の弁論併合前に昭和五八年わ第一三〇五号等事件の証人として取り調べたもの)に支給した分は、被告人甲9、同甲10の連帯負担とする。
杉浦勝明、楠正志、犬塚国夫、A25、乙40、乙32、内田直哉、A10、甲3、A33、高井清、甲4
16 以下の上段に記載した証人に支給した分は、それぞれ、下段に記載した被告人の負担とする。
① 証人A20 被告人甲5
② 証人A23 被告人甲6
③ 証人A'25 被告人甲9