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名古屋地方裁判所一宮支部 平成16年(ワ)392号 判決 2006年9月13日

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第1請求

1  被告は,原告に対し,600万円及びこれに対する平成16年11月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

第2事案の概要

本件は,原告が,被告が設置した病院に入院中の平成15年11月16日深夜,必要もないのに同病院の看護師によってミトン(抑制具)を使って身体を拘束された上,同病院関係者から原告の親族に対する報告や説明がされなかったこと等がいずれも違法であるなどと主張して,被告に対し,不法行為による損害賠償請求ないし診療契約上の義務の不履行による損害賠償請求に基づき慰謝料600万円の支払を求める事案である(附帯請求は,訴状送達の日の翌日である平成16年11月10日からの民法所定の利率による遅延損害金の支払請求である。)。

1  争いのない事実等(争いのある事実は末尾に証拠を掲記した。)

(1)当事者等

ア 原告等

(ア)原告は,大正12年○月○日生まれの女性であり,平成15年11月16日当時満80歳であった。

原告は,平成15年10月7日から同年11月21日まで,a病院外科に入院していた(以下「本件入院」という。)。

(イ)A(以下「A」という。)は,原告の長女であり,昭和53年ころから原告の生活全般の世話をしていた(甲33)。

イ 被告等

(ア)被告は,愛知県一宮市内にa病院(以下「本件病院」という。)を開設・運営する医療法人である。本件病院は,救急指定病院であり,内科,消化器科,外科など12の診療科目を備え,急性期医療に対応しているほか,急性期医療から回復期医療への転換期に当たる患者に対するリハビリテーション科を備えている(甲18)。なお,被告は,精神科病棟のあるb病院を開設・運営している(甲18,証人B)。

(イ)B(以下「B医師」という。)は,本件病院の副院長であり,本件入院中の原告の主治医であった。

(ウ)C(以下「C看護師」という。),D(以下「D看護師」という。)及びE(以下「E看護師」という。)の3名は,平成15年11月15日から同月16日にかけて,原告が入院していたc病棟の夜間勤務看護師であった(乙A9,以下,この3名を「当直看護師」ともいう。)。

(2)本件入院に至る経緯

ア 原告は,平成15年1月27日から同年3月11日までの間,狭心症の症状により,稲沢市民病院に入院した。なお,原告は,この入院前にも,大垣市民病院,服部整形外科,愛知県立尾張病院(以下「尾張病院」という。),及び稲沢市民病院への入通院歴を有する。

イ 原告は,同年3月12日から同年6月19日までの間,リハビリのために服部整形外科に通院するとともに,心臓病治療のために岩田循環器クリニックに通院した。

ウ 尾張病院への入院

原告は,同年6月20日から同年8月1日までの間,肋間神経痛治療のため,尾張病院に入院した。

原告は,肋間神経痛治療中,歩行訓練を含むリハビリテーションを受けていたが,同年7月16日午後10時30分ころ,睡眠剤を投与された状態で歩行していたところ,トイレ内で転倒して左恥骨骨折を負った。その後,原告は,痛みに対する治療を受けながらリハビリテーションを再開した。

エ 本件病院内科への入院

原告は,同年8月1日から同年9月12日までの間,肋間神経痛及び恥骨骨折の治療並びにリハビリテーションのため,本件病院内科に入院した(乙A1)。

(3)本件入院の経過

ア 原告は,平成15年10月7日,本件病院外科に入院した。その際,Aが原告の保証人となった。原告は,入院時,腰痛のため歩行不能状態になっており,変形性脊椎症,腎不全,高血圧症等と診断された。

イ 原告は,同年11月16日深夜,ベッド上において,抑制具であるミトン(手先の丸まった長い手袋様のもので緊縛用の紐が付いているもの。乙A5の写真⑤⑥)を両手に装着させられた上,両上肢を拘束された(以下「本件抑制」という。)。

ウ 原告は,同月21日,稲沢市民病院に転院するため退院したが,退院に当たってB医師から①転倒しないようにすること,②稲沢市民病院の指示に従うことが治療上の留意点として指摘された(乙A3)。

エ 原告は,同月28日,B医師により,①右前腕皮下出血,②下口唇擦過傷と診断された。同受傷は同月20日に確認されたものであるとされ,治療のために,上記①については同日から約20日間,上記②については同日から約7日間の期間を要すると診断された(乙A2)。

(4)その後の経過

ア 原告は,平成15年11月21日から平成16年1月22日まで,稲沢市民病院内科に入院した。同院では,脳梗塞後遺症,高血圧症,慢性腎不全,夜間せん妄等の診断がされた。

イ 原告は,同日から同年6月20日まで,五条川リハビリテーション病院に入院し,現在,特別養護老人施設に入所中である。

2  争点

(1)抑制行為の違法性を判断するための基準

(2)本件抑制の違法性

(3)親族に対する説明義務等の有無

(4)損害の発生及び額

3  各争点に対する当事者の主張

(1)争点(1)(抑制行為の違法性を判断するための基準)について

(原告の主張)

患者の身体抑制や拘束は,原則として禁止される行為であり,例外的に,患者の生命の危機と身体的損傷を防ぐために必要な場合に限って必要最小限に行うべきもので,患者の安全を優先させる場合にのみ実施されるべきである。

その例外の判断要素は,介護保険指定基準では,利用者又は他の利用者等の生命又は身体を保護するため緊急やむを得ない場合とされ,具体的には,切迫性,非代替性及び一時性の要件を満たすことが必要である。

身体拘束や抑制が原則として禁止される行為である以上,例外として前記の要件を満たすことは,療養・慢性期であっても,急性期であっても必要であり,病棟の性質によって基準が左右されるものではない。

また,身体抑制や拘束が原則として違法であることは,世界人権宣言3条,同宣言5条及び市民的及び政治的権利に関する国際規約(いわゆる国際人権B規約)7条及び同10条の定めからも明らかである。

(被告の主張)

介護保険指定基準における抑制の要件が,切迫性,非代替性及び一時性にあることは認めるが,同基準は,介護保険施設として指定するための行政上の基準に過ぎず,同基準が直ちに介護保険施設と入所者間の権利義務関係を規定していないばかりか,急性期の医療機関に対して直ちに適用される性質のものではない。

すなわち,介護保険施設と急性期医療を担当する医療機関とでは,目的や機能が異なり,施設基準や人員配置基準が異なることから,基準についても介護保険施設とは異なる基準に従って判断すべきである。

むしろ,患者が転倒・転落する蓋然性がある場合には,医療機関としてはこれを防止する有効な措置を講ずる一定の作為義務があるのであって,転倒・転落防止の方法として,抑制を行うか否かは,医師等の専門家の合理的な裁量に委ねられている。

したがって,介護保険指定基準を急性期病棟にそのまま当てはめるのは妥当ではなく,切迫性,非代替性,一時性等は合理的な裁量の範囲内か否かの検討要素として考慮されるにとどまるべきである。

(2)争点(2)(本件抑制の違法性)について

(被告の主張)

ア 当時の状況等

(ア)原告の病状等

原告は,尾張病院で転倒し恥骨骨折という重篤な傷害を負っていた。尾張病院においても,原告が転倒リスクを負っているとの指摘があったほか,本件病院においても本件抑制を行う10日ほど前に転倒経験があって転倒の危険性が高い状態にあった。

原告は,本件抑制当時,心身安定剤リーゼを服用しており,薬剤の影響による眠気,ふらつき,運動失調が発現しやすい状況にあった。また,原告は,本件抑制直前,おむつが実際には濡れていないのにおむつ交換を求めるためにナースコールを頻繁に繰り返すなどの挙動があり,夜間せん妄状態にあった。原告は,4回ほど,車いすに乗ってナースステーションを訪れ,車いすから立ち上がろうとする行動をとったり,ベッドから起き上がろうとした。なお原告は,稲沢市民病院転院直後にも,夜間不穏状態にあったと診断されている。

当直看護師は,おむつを何度も原告に確認させたり,車いすでナースステーションに来た原告を何度も病室まで送るなどして就寝するよう説得に努めたが,原告は,せん妄による挙動を続けた。

原告は,本件抑制当日の午前1時すぎころ,車いすでナースステーションに来て,車いすから立ち上がって「私はぼけておらへん」と大声を出したため,4人部屋である原告の病室にそのまま戻すことは同室患者に悪影響を及ぼすことも考慮し,ナースステーションに最も近い201号室に原告をベッドに寝かせたまま移動した。しかし,原告は,また起き上がろうとする等し,ベッドから転落する危険性を生じさせるような行動をとった。

そのため,当直看護師は,原告の転倒・転落を防止するため,本件抑制を行った。

(イ)夜間看護の状況等

本件病院c病棟は,夜勤の看護師として3名が配置されており,41の病床を管理している。入院患者の中には,持続点滴等の処置を受けている患者もおり,原告の転倒・転落防止のために看護師が常時付き添うことは現実的に不可能である。

当直看護師は,前記のとおり原告に対応したが,それでも原告がせん妄による挙動を続けたため,最も侵襲の少ない方法であるミトンによる抑制を選択した。家族による付添いや一時帰宅を求める時間的余裕はなかった。

(ウ)抑制時間等

原告に対する抑制は,午前1時すぎから午前3時までの間であり,最大でも2時間行われたにすぎない。ミトンによる抑制が行われた後も,当直看護師は,就寝を促したり,原告にお茶を飲ませるなどして落ち着かせるように努めた。原告の両手に装着したミトンのうちの片方は,緩く固定していたため30分程度で外れたが,原告がうとうとと眠りはじめたため,そのままにしておいた。当直看護師は少なくとも30公ごとに原告の様子を確認し,午前3時ころには,原告が就寝していることを確認して残りのミトンも外した。

イ 切迫性,非代替性及び一時性の要件を満たし,合理的裁量の範囲内での判断であり本件抑制に違法性がないこと

上記アのとおり,原告は,本件抑制直前,転倒・転落の危険が高く,高齢者であるため転倒・転落した場合に重篤な結果が発生する蓋然性が認められ,危険が切迫していた。この危険には,本件抑制をもって対応するほかなく,非代替性も認められる。また,抑制の時間は最大でも2時間という一時的なものである。このような状況を総合すれば,本件抑制は看護に関する合理的裁量の範囲内での判断であり,本件抑制に違法性はない。

(原告の主張)

ア 切迫性,非代替性及び一時性の欠如

(ア)切迫性の欠如

原告は,平成15年7月16日,尾張病院において入院中に転倒したが,転倒はこの1回のみである。なお,原告は同年11月4日にも転倒したが,本件病院での転倒もこの1回のみである。

原告の意識ははっきりしており,同年11月7日から9日にかけて外泊を許可されるなど,身体的行動能力も十分であった。

原告は,腎不全や変形性脊椎症などの疾患を有しており,車いすやベッドの上に立ち上がったり,車いすで頻繁に行動することはできない。

原告に当時不穏やせん妄といった状況はなく,仮にあったとしても重度のものではない。

したがって,本件抑制当時,原告又は他の患者の生命又は身体が危険にさらされることを防ぐため,原告を抑制しなければならないほどの切迫性はなかった。

(イ)非代替性の欠如

原告は,当時用便の介助を求めており,当直看護師が頻回原告の病室を訪れて看護対応をし,原告の心の不安を取り除くべく努力することは可能であったから,代替手段が存在した。なお,転倒防止は,低床ベッドや徘徊センサーを活用することでも可能であり,それでも対応できなければ,原告の家族に連絡をとって,退院を要請することでも足りた。

(ウ)一時性の欠如

原告は,本件抑制によって,深夜3時間にわたって身体を拘束された。

これが一時的なものと評価することは到底できない。

イ 小括

以上のとおり,本件抑制は,切迫性,非代替性及び一時性の要件を満たさないから,違法である。

(3)争点(3)(親族に対する説明義務等の有無)について

(原告の主張)

ア 説明義務

医療関係者は,患者を抑制する場合には,原則として事前に,例外的に抑制の事態を予測できなかった場合にも事後には,必ず患者の家族に抑制の理由及び方法等を伝えて許可を得るべき法的義務がある。

本件抑制の事実につき,事後的にでも原告の家族に報告すべきであったにもかかわらず,被告は原告の家族への報告を怠った。本件抑制の事実を原告自身に説明することは無意味であり,少なくともAに個別の説明が必要であり,この説明義務は診療契約上の法的義務である(東京高裁平成16年9月30日判決参照)。

イ 医師の判断が必要であること

当直看護師は,担当医師あるいは同医師不在の場合には当直医師の許可を得た上で抑制を行い,抑制後には,本件抑制の事実を上司に報告すべきであるにもかかわらず,これを怠った。

ウ 診療録等への記録化が必要であること

当直看護師は,本件抑制の事実を記録すべきであるにもかかわらず,これを怠った。なお,看護記録における本件抑制事実の記載部分は,後日書き加えられたものである。

エ 小括

以上のとおり,被告には,本件抑制の事実を家族に知らせなかった説明義務違反,本件抑制に当たって看護師が医師の判断を求めず,事後にも上司に報告しなかった義務違反及び診療録等に本件抑制の事実を記載しなかった義務違反があり,これらは,患者である原告との関係で違法となる。

(被告の主張)

ア 説明義務について

家族へ抑制の事実を知らせることが適切であるとしても,報告することが損害賠償をもって論じられる法的義務であるとの主張は争う。

イ 医師の判断の要否について

本件抑制の事実について,医師等の上司へ報告することが適切であるとしても,報告することが損害賠償をもって論じられる法的義務であるとの主張は争う。また,本件抑制は,介護上の問題として行われたもので,医師の判断すべき事項に当たらないから,本件抑制に当たって医師の許可を得る義務があったとの主張も争う。

ウ 診療録等への記載について

抑制の事実を診療録等に記録することが法的義務であるとの主張は争う。また,本件抑制については,抑制が必要となった経緯,ミトンによる抑制を行ったこと及び抑制時間について看護記録に記録した。

エ 小括

原告の主張する各義務が法的義務であることはいずれも争うとともに,これらの主張は,原告固有の慰謝料請求の根拠とはならない。

(4)争点(4)(損害の有無及び額)について

(原告の主張)

ア 原告は,本件抑制により負傷するとともに,精神的苦痛を被った。また原告は,被告の事後の説明義務違反等によっても,精神的苦痛を被った。

イ 原告の負傷及び精神的苦痛を慰謝するには,500万円が相当である。

ウ 原告が本件訴訟を遂行するに必要な弁護士費用のうち,100万円は,被告の不法行為ないし債務不履行と因果関係を有する。

エ したがって,原告に発生した損害の総額は,600万円である。

(被告の主張)

争う。

第3争点に対する判断

1  原告の治療過程

後掲各証拠,弁論の全趣旨及び争いのない事実によれば,原告の治療過程については,以下の事実が認められる。

(1)本件入院までの原告の入院状況等

原告は,平成15年7月16日,尾張病院入院中にトイレで転倒して左恥骨を骨折した(争いがない)。その後原告は,尾張病院から本件病院内科に転院したが,転院の際,尾張病院の看護総括として,転倒のリスク状態であり,身体可動性障害であると指摘された(乙A6)。

また原告は,同年8月1日から同年9月12日まで,本件病院内科に入院し,リハビリテーションのため,理学療法(間接可動域訓練,筋肉増強訓練及び歩行訓練等)を受けた。同入院中にも,原告は,今後も転倒などの危険性があると指摘され,退院に当たっては,主治医から,①服薬を正しく行うこと,②転倒に注意すること,③異常時は早めに受診することが今後の留意点として指示された(乙A1)。

(2)本件入院

原告は,平成15年9月12日から自宅で療養していたが,強い腰痛を訴えて,同年10月7日,本件病院外科に入院した(乙A2)。

ア 平成15年10月7日から同年11月9日まで

入院当初,原告は腰痛が強く,歩行が困難な状態であったが,徐々に腰痛は軽快し,10月11日にはベッドから車いすに移乗したり,手すりにつかまっての立位保持などの行動がみられるようになった。また,看護診断では,10月20日以後,腰痛について「軽度(+)」「自制内」「だいぶ軽減」「なし」との記載が多くなり,診療録及び入院看護記録には,「積極的に車イスに乗り食堂へ来る」(同月12日),「車イス移動」(同月18日),「朝より,車イスにて自己でトイレに行っている」(同月19日)との記載がされた(乙A3)。

原告に対する治療方針としては,薬剤・リハビリテーションによる加療が予定されており,同月16日及び同月30日に理学療法が試みられた結果,同日には立ち上がり時の痛みが減少し,歩行も可能となったが,積極的なリハビリテーションは行われていなかった。また,各疾患に対しては内用薬が処方され,同月8日から就寝前の投薬を前提とした睡眠薬「マイスリー」が定期処方されていた(乙A3)。

原告は,同月22日,就寝前に部屋の中で電気毛布やお茶があるのにないと勘違いして探す行動をとったり,同年11月3日には同様に就寝前にトイレから急に立てなくなったとナースコールをし,使用済みのティッシュを便器に入れずに自分の目の前に放置するなどの行動がみられ,ベッドへ移動する際も足下がおぼつかない様子を見せた。さらに,同月4日午後9時30分以降,おむつを要請するナースコールを頻回にわたってした後,一人でトイレへ行った帰り,転倒して頭部を打ちつけた。この事故の影響を診断するためにされたCT検査の結果,脳の萎縮が確認された。また同様に同月5日には,レントゲン検査がされたが,胸椎の古い圧迫骨折が認められたものの,新しい骨折は確認されなかった(乙A3)。

原告は,同月7日から9日まで,法事のため本件病院から外泊していた。

イ 同月10日から同月15日まで

原告は,外泊後同月10日に帰院したが,日中,医師とのコミュニケーション上の問題がみられ,医師記載の診療録上,「坐位になって起きているが言葉がはっきりせず 眠剤(マイスリー)の影響か」と記載があり,看護診断上も「夕食食べたの覚えとらん」,「会話つじつまあわず」といった記載が認められ,同日,B医師によって「ディメンティア(痴呆)」と診断された。B医師は,原告の症状にはマイスリーの影響もあり得ると考え,同月11日には,就寝前の睡眠薬投与を見直し,精神安定剤「リーゼ」に処方を変更した(乙A3,12,証人B)。

ウ 同月15日夜から同月16日朝まで

(ア)原告は,同年11月15日,就寝前のリーゼを服用し,午後9時の消灯後も,ナースコールを頻回にわたって行い,おむつを替えてもらいたいと要請した。当直看護師が確認したところ,おむつが汚れているときもあれば,汚れていないときもあり,汚れていないときはその旨を説明したが,原告はなかなか納得しなかった。当直看護師は,汚染していなくとも,おむつをその都度交換し,原告を落ち着かせようと努めた。

(イ)原告は,同日午後10時10分ころ,車いすに乗って足で漕ぐようにして自力でナースステーションを訪れ,両手で車いすの手すりを支えにして,足下をふらつかせながら立ち上がり,「看護婦さんおむつみて」等と大きな声で訴えた。当直看護師は,車いすを押して病室に原告を連れて行き,おむつを交換し,入眠するように促した。

しかしながら,その後も原告は何度か車いすに乗ったまま自力でナースステーションに向かうことを繰り返し,午後11時ころには再度ナースステーションにおいて「おむつがびたびたでねれない」と大声で言い,おむつの汚染を訴えた。当直看護師は,その都度,「おむつは数分前に替えましたよ」「おしっこのこと考えすぎてない?」と声をかけながら,原告を病室へと促し,おむつを交換するなどした。

(ウ)原告は,同月16日午前1時ころ,再度車いすでナースステーションを訪れ,車いすの手すりを握ってふらふらしながら立ち上がろうとし,「おしっこびたびたやでおむつ替えて~」「私ぼけとらへんて」と,おむつの汚染を訴える大声を出した。

C看護師が原告のおむつを外して原告に見せたり触らせたりして,「おしっこないよ,ぜんぜん汚れてないよ」「大丈夫だよ」「心配しなくていいよ」と声をかけ,汚染がないことを確認させようとしたが,原告は,自分はぼけていないと言い張って納得しなかった。

そのため,C看護師は,このまま原告を病室に戻しても,原告が再び車いすに乗ってナースステーションに来る可能性が高いと判断し,そのような事態に及べば原告に転倒の危険が発生すると感じ,原告を自室に一旦戻した後,E看護師の助力を得て原告をベッドごと部屋から出し,一旦ナースステーションに入れた後,すぐにナースステーションに一番近い個室である201号病室にベッドごと移動させた。原告は201号室に入ってからも,「私はぼけとらへん」「おむつ替えて」と訴えたため,当直看護師は,声をかけたりお茶を飲ませるなどして,原告を落ち着かせようとしたが,原告の興奮状態は収まらず,原告はなおもベッドの上に起き上がろうとする動作を繰り返した。このため,当直看護師は,転倒・転落の危険を回避するためにはやむを得ないと判断し,原告の両上肢を抑制し,ミトンを使用してベッドサイドにひもをくくりつけた。

原告はこれに抵抗して口でミトンを外そうとしたため,手首及び下唇に傷を負った。原告のミトンの片方は外れてしまった。

(エ)その後原告は次第に眠りにつきはじめ,当直看護師は,同日午前3時ころ,残ったミトンを外し,明け方に原告を元の病室に戻した。

(オ)なお,原告には,同月21日にも,度々おむつを外すよう要請するなどの行動がみられた。稲沢市民病院への転院時の看護サマリーには「夜間不穏あるときがあり,トイレへ何度行ったりしている。車イスにて行っているが,ふらつきあり,転倒注意」との記載がなされた。

(以上につき,乙A3,9,11,証人C,証人F)

(3)その後の稲沢市民病院入院中の行動

原告は,平成15年11月21日から平成16年1月22日まで稲沢市民病院に入院していたが,同病院では次のような行動が認められた(乙A7,8)。

原告は,平成15年11月21日午後6時15分ころから消灯に至るまで,ナースコールを15分から30分おきに度々行った。原告は,翌22日もナースコールが多い状態が続き,同月24日には一人で車いすに乗ってトイレに行こうとしているところを発見され,危険なので一人で行かないように注意された。また,原告は,同月25日にもおむつ内に排尿したとしてナースコールを頻繁に行い,多いときには10分間隔でナースコールをしたが,排尿は認められなかった。その結果,原告は,同月26日には排尿のためバルーンカテーテルを挿入されるに至ったが,その後もしばらくナースコールが多い状態が続き,看護師がナースステーションに車いすで連れて行こうとすると騒いで嫌がった。

原告は,稲沢市民病院入院時,病名として夜間せん妄が挙げられており,平成15年12月26日付けの紹介状にも,「夜間不穏も入院初期には認められましたが」との記載が見られ,五条川リハビリテーション病院への転院に際して作成された平成16年1月22日付け入院要約記事にも,傷病名欄に「夜間せん妄」との記載が認められる。

(4)本件病院内科看護記録の記載の正確性と信用性

ア 以上の認定に関し,原告は,本件病院内科看護記録の記載の正確性を否認し,証人Aは,平成16年11月20日,本件抑制に関してB医師その他の病院関係者と面談した際,本件抑制時に当たる11月15日の欄が記載されていない段階の看護記録を確認したと供述する。

イ しかしながら,証人Aの供述によっても,当時の看護記録の体裁及び記載内容についての状況は判然としないばかりか,証拠上,看護記録の記載も連続しており(なお原告は,乙A3の看護記録69ページ左上欄に「追記」と記載されている点が不自然であると指摘するが,同左上欄の記載は前ページの同欄からの連続性を示したものと理解できるから,この点の原告の指摘は当たらないというべきである。),特段不自然な点がない。乙A第3号証66ページ以下の「入院看護記録」欄は,本件入院中,毎日記載されていないが,その直前(同号証52ページ以下)に綴られている一週間分の看護状況を記載する用紙には連続した記載があり,同用紙に書ききれない事項が発生した場合に「入院看護記録」欄を利用したものとも推認され,記載の連続性それ自体に疑問を生じさせるものではない。

また,記載内容を検討しても,特に本件抑制前後の記録は,原告の病態を具体的かつ詳細に記録しており,体験した事実でなければ記載することが困難なものと認められるほか,原告が入院中に頻回にわたるナースコールを行う傾向があったことや,原告が車いすに乗って一人でトイレに行ったことがあることは,稲沢市民病院における看護記録の記載にも一致し,夜間せん妄の状況があったことは,稲沢市民病院における医師の記載とも一致する。さらに,原告は,腎不全や変形性脊椎症などの疾患を有していた原告が,このように車いすで頻繁に行動すること等はできないと主張するが,前記(2)の認定によれば,原告の腰痛は入院後の治療によって相当程度軽減し,一人で車いすでトイレ等に行くこともあったほか,せん妄状態にある患者が異常な行動をとることはよくみられる精神症状であるから(乙B1),この点から入院看護記録の記載が不自然であるということはできない。その他,本件全証拠によっても,同記録の記載の正確性及び信用性を疑わせる具体的事情は窺われない。

ウ したがって,同記録の記載の正確性及び信用性についての原告の主張を採用することはできない。

2  本件抑制行為の違法性について(争点(1)及び同(2))

前記1の認定事実を前提に,本件抑制行為の違法性について判断する。

(1)判断基準

身体の自由は基本的人権の一つであり,医療機関であっても,患者に対して同意を得ずに不必要に身体を拘束することは違法である。また,高齢者の身体拘束は,筋力の低下や痴呆・せん妄の進行を招くなど,高齢者の健康状態をかえって悪化させる可能性が少なくなく,この面からも不必要な身体拘束は避けるべきである。

しかしながら,患者又は他の患者の生命又は身体に対する危険が切迫しており,かつ,他にその危険を避ける方法がない場合に,その危険を避けるために必要最小限の手段によって患者を拘束することは,一種の緊急避難行為として,例外的に違法性が阻却されると解すべきである。厚生労働省が介護保険施設の指定に当たって利用する介護保険基準を具体化し,あるべき介護の状況を示したガイドライン(甲22の2。以下「本件ガイドライン」という。)は,身体拘束が例外的に許される基準として切迫性,非代替性及び一時性を挙げているが,これは,上記でいう緊急避難行為とほぼ同様の内容を含むものと考えられる。

これに対し,被告は,介護保険施設と急性期医療等を担当する医療機関とでは同一の基準を適用すべきではないと主張する。しかしながら,同意を得ない身体拘束が原則違法であり,切迫した危険を避けるためにやむを得ない場合に行う必要最小限度の拘束に限って例外的に違法性が阻却されることは,身体の自由が基本的人権の一つである以上,医療機関の性格によって変わるものではない。当該患者が急性期であったか慢性期であったか,前提となる医療・療養水準がどのようなものであったか等は,切迫性・非代替性・一時性の各要件の具体的当てはめにおいて問題となり,その検討過程において当該医療機関の性格や機能が考慮される場合があることは否定できないが,身体拘束の違法性判断基準自体が介護保険施設と急性期病棟で当然に異なるとの主張は採用することができないというべきである。

(2)本件での当てはめ

ア 原告の生命身体に対する危険の切迫性

前記1(2)のとおり,原告は本件抑制前から睡眠薬ないし安定剤を投与された後にせん妄の傾向があり,昼間でも医師との会話において辻褄が合わないといった症状が出ていたこと,本件抑制当日も排尿をしていないにもかかわらず,おむつの汚染を繰り返し訴えるなどの認知障害がみられたこと,さらに,原告は頻繁にナースコールを行い,大声を出し,車いすを足で漕いでナースステーションに何度も赴くなど活動性の亢進や気分の変調が顕著であったことが認められるから,原告は本件抑制当時,夜間せん妄の状態にあったと認めるのが相当である。

そして,原告はせん妄により,当直看護師の説得・制止にもかかわらず,ベッド上に起き上がったり,車いすを足で漕いでナースステーションに赴くなどの行動を繰り返していたところ,高齢者が一人でベッドから下りて車いすに移る行為や,車いすを足で漕いで移動する行為が,転倒・転落の危険性を含むものであることは明らかである。しかも,原告は尾張病院入院中から継続して転倒のリスクを指摘されており,実際にも本件拘束前に2回転倒していたこと(うち1度は恥骨骨折の結果を招いている。),原告は本件入院時から腰痛に苦しみ,治療により相当軽減はしていたものの,リハビリテーションは行われていないなど,運動行為について十分な安定性を有していたとは認め難いこと,せん妄は運動失調や注意力の低下を伴うことが多く,原告が本件抑制時に服用していたリーゼにもふらつきの副作用があったこと(乙B1,2)が認められるのであるから,上記転倒・転落の危険性は決して抽象的なものではなく,切迫した現実的な危険性であったというべきである。

そして,高齢者は骨が脆く(特に原告は骨粗鬆症と診断されている。),転倒・転落により骨折しやすい上,ひとたび腰椎・胸椎や四肢を骨折した場合には全身状態が悪化し,ひいては死亡につながる合併症を引き起こす可能性も少なくないのであるから(証人B),転倒・転落による結果は決して軽視することができない。以上によれば,本件抑制時,原告の生命及び身体には切迫した危険性があったと認められる。

イ 他の代替手段の存否

次に,本件抑制以外に切迫した危険性を避ける手段がなかったか否かについて検討するに,前記1(2)及び弁論の全趣旨によれば,当直看護師は原告に対し,午後9時から午前1時まで幾度となく,ベッドで睡眠を取るよう説得し,繰り返し声をかけたが,聞き入れられない状況にあり,今後説得を続けても原告が落ち着きを取り戻す見込みは低かったこと,当直看護師は原告が車いすに乗ってナースステーションに来る際に転倒することを防ぐため,原告をナースステーションに最も近い個室に移し,お茶を飲ませるなどして原告を静かな環境で落ち着かせようとしたが,原告の興奮状態は一向に収まらなかったこと,本件病院では当直看護師3名で41の病床を管理しており,当直看護師が常時原告の付添いをすることが事実上困難であったことが認められ,以上によれば,本件抑制以外に転倒・転落の危険性を回避する手段はなかったと認められる。

これに対し,原告は低床ベッドや徘徊センサーで転倒を防止することができたし,対応できなければ退院を要請することも可能であったと主張するが,低床ベッドや徘徊センサーによって転倒を十分に防止し得たかは疑問であるし,深夜1時という時間帯に家族に連絡して高齢者の退院を要請することも現実的とはいえない。したがって,原告の上記主張は採用することができない。

ウ 本件抑制の方法・態様が必要最小限のものであったか

最後に,本件抑制の方法・態様が原告に切迫した危険性を回避するために必要最小限のものであったか否かについて検討する。前記1(2)認定のとおり,本件抑制は侵襲性の比較的少ないミトンによるものであったこと,抑制の時間は最大で2時間であり,ミトンの片方は緩く固定していたため30分程度で外れたことに照らせば,本件抑制の方法・態様は転倒・転落の危険を回避するために必要最小限のものであったと認められる。この点は,原告が意見書作成を依頼したG氏も,本件抑制が切迫性,非代替性の要件を満たすとすれば,通常は一時性の要件を満たしていると考えられると述べているところからも裏付けられる(甲17)。

エ 小括

したがって,本件抑制は,深夜,原告がベッドを降りて単独で車いすに乗車して移動するなどの行動をとる可能性が高く,実際にそのような行動に及んだ結果,転倒・転落して負傷する切迫した危険を回避するため,他に適切な代替手段が認められない状況下で,必要最小限の方法・態様において行われたものであり,緊急避難行為としての正当性を有するものと認められるから,違法ではない。

よって,この点の原告の主張も理由がない。

3  説明義務違反等の有無について(争点(3))

(1)家族に対する説明について

患者ないしその家族に対し,患者を抑制した事実を連絡する必要性について,本件ガイドラインにもその必要性が説かれ,本件病院でも本件事件後に同様のマニュアルを作成したようである(証人B及び証人C)。

道義的には,患者を抑制した事実を患者の病院生活における重要な事項として,患者ないしは患者に説明できない場合にはその家族等に対し説明すべきであったと一応解されるが,本件ガイドラインにおいても「留意すべきである」との記載にとどまり,また抑制の事実それ自体は患者の治療に関する自己決定権や医療機関が患者に対して負う診療義務そのものに包含されるとまではいえず,抑制が長期間にわたるなどの事情がある場合には別としても,本件抑制については,深夜帯の看護中に行われた一時的な看護に関する措置であったから,原告との関係で,被告が本件抑制を直ちに原告の家族に説明をすべき法的義務があったとまでは認められない。

なお,原告指摘の東京高裁平成16年9月30日判決は,医療事故によって死亡した患者の遺族に死因の説明を適切に行わなかったことについてのものであり,本件とは事実関係を異にする。

したがって,この点の原告の主張は理由がない。

(2)医師の指示の必要性について

患者を抑制する場合において,恒常的に拘束具を使用して患者を抑制する場合など,抑制行為によって患者の病態に直接の影響を及ぼしかねない場合であれば診療行為の一環と評価される場合があるとしても,本件抑制については前記の事情を前提とする限り,深夜帯の看護中に行われた一時的な看護に関する措置であると認められるから,看護師が医師の指示を必要とせずになし得る「療養上の世話」(保険師助産師看護師法5条)に該当するというべきであり,事前に個別に医師の指示がなかったことが違法であるとはいえない。また,事後の上司への報告も,内部的な問題であり,これがされないことが原告との関係で違法になるとは解し得ない。

したがって,この点の原告の主張は理由がない。

(3)診療録の記載について

前記1認定事実のとおり,本件抑制については看護記録に記載があるから,診療録等に記載がないことを前提とするこの点の原告の主張には理由がないものといわざるを得ない。

4  結論

以上のとおり,本件抑制行為は違法ではなく,その余の義務違反も認められないから,原告のその余の主張につき判断するまでもなく,原告の請求には理由がない。

したがって,本訴請求を棄却することとし,主文のとおり判決する。

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