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名古屋地方裁判所一宮支部 平成28年(わ)245号 判決 2017年4月19日

主文

被告人は無罪。

理由

1  本件の公訴事実の要旨は,被告人が,平成28年8月7日午前8時30分頃,愛知県岩倉市内のA方で,当時64歳の同人に対し,顔面を右手拳で殴るなどの暴行を加えて加療約1日間を要する前額部挫創の傷害を負わせたというものであり,以下のとおり,Aが上記の日時及び場所で上記傷害を負った事実は認められるものの,被告人がAに暴行を加えて傷害を負わせたと認めるには合理的な疑いが残る。

2  まず,①平成28年8月7日当時,A方には,A(当時64歳)及びその妻のB(当時59歳)が住んでいたほか,被告人の母であるCが身を寄せていたこと,②同日午前8時頃,被告人は,Cに会って自分の荷物を受け取るためにA方を訪れたところ,応対に出たBは,実際にはCがいたにもかかわらず,Cはいない旨述べたこと,③その後被告人は,A方に上がり込み,A方にあった自分の荷物を受け取るなどして出ていったこと,④被告人がA方にやってきた後,Aは,左前額部に加療約1日間(全治約1週間乃至10日間)を要する長さ約5センチメートル,深さ約3ミリメートルの挫創を負って出血し,救急車でD病院に搬送されたこと,⑤A方の間取りは別紙被害者方見取図のとおりであり,同日午前10時12分から午前10時20分まで警察により行われたA方室内の写真撮影では,「ダイニング」(居間)の床に拭われた跡のない血痕が付着していることのほか,洗濯機及びその付近の床に拭われたような跡のある血痕が付着していることが確認され,さらに,同月17日には,「洋間」に置かれたベッドにも血痕が付着していることが確認されたこと,以上の事実については,特段争いがなく,証拠上も容易に認められる。

3  次に,被告人がA方を訪れた際のできごとに関する関係者の供述を見ると,概ね以下のとおりである。

(1)  Aの公判供述

「午前8時頃,被告人が私の家に来て,ドアを叩きながらCの名前を呼んだ。Bが玄関先で応対し,Cはいない旨述べると,被告人は怒り出した。そのとき私は『洋間』にいたが,午前8時30分頃,Bに呼ばれて玄関先に行った。すると,被告人が家の中に入ってきて,別紙被害者方見取図の×のところで私を壁に押しつけ,肘打ちや足蹴りをした後,拳で額を殴ってきた。私は,『洋間』のベッドのところまで行き,額に手を当てると出血していることが分かったので,風呂場にタオルを取りに行き,『洋間』へ戻ってタオルを当てていた。その後,警察が到着し,私は病院へ運ばれて4針縫った。Aに殴られた後,私が家の中で行った場所は,『洋間』とタオルを取りに行った場所だけであり,『ダイニング』になぜ血痕があるのか分からない。」

(2)  Bの公判供述

「午前8時頃に被告人が私の家に来て,Cの名前を呼んでドアを叩いたので,私は玄関へ行った。被告人が自分の荷物を引き渡すように言ってきたので,ドアを開けると,被告人が中に入ってきて,『Cと話したい』と言った。私は,被告人がCに暴力を加えるのではないかと思い,Cはいない旨答えた。すると,被告人は,興奮してCのスニーカ―を手に持って私の頭にぶつけてきた。そこで,私は,傘を手にして殴る真似をしたところ,被告人はその傘を取り上げて私の足や左脇腹にぶつけ,そのときに傘の持ち手が壊れたので,被告人は傘を側に置いた。私が怖くなってAを呼ぶと,Aが出てきて私と被告人の間に立った。被告人は,両手でAの肩を押し,Aは廊下の壁に支えられるようになった。その後,被告人は,Aの右脇腹を蹴り,さらに,拳でAの額を殴った。するとAは出血し,『痛い痛い』と言った。その後,Aは,洗濯機のところへ行き,タオルを取って洋間へ戻り,ベッドに座ってタオルで額を押さえていた。その後,私は『ダイニング』からベランダに逃げた。被告人も『ダイニング』にやってきてドアを開けようとしたが,開けられなかった。しかし,被告人は右手の拳を左の手の平に当てるような仕草をしていて怖かったので,友達に電話をかけ,警察を呼ぶように頼んだ。すると,しばらくして警察が来て救急車も来た。救急車が来るまでAはずっと『洋間』におり,救急車が来た後,外へ出ていった。『ダイニング』にある血痕は,Aが病院に行く前に『ダイニング』に行ったときに落ちたものと思うが,私はAが『ダイニング』に行ったのを見ていないので分からない。」

(3)  Cの公判供述

「被告人が来たとき,私は『和室』にいた。被告人とBは荷物のことについて話した後,Bは,『ダイニング』に置かれていた被告人の二つの荷物のうちの一つを被告人に渡し,『ダイニング』に戻ってきたが,その際手には傘を持っていた。その後,Bは,二つ目の荷物を被告人に渡したが,その際,被告人が私と話をしたい旨言った。しかし,Bは,Cはいない旨答え,Aを呼んだ。すると,Aが『和室』に来て,私に被告人と話をするように言って出ていった。そのとき被告人は玄関のところにいて,Bから中に入らないように言われたにもかかわらず私の方に向かってきたので,Bは傘で被告人を殴りつけた。私は,被告人に落ち着くように言い,Bが家に入るのを駄目と言っている旨などを伝えた。BはAと話をしていたが,Aが玄関に来なかったことについて怒っていた。その後,突然何かが落ちるような奇妙な物音がしたので,被告人が『和室』から出ていき,私もついていった。すると,『ダイニング』のベランダにBがいてドアを閉めており,被告人がそのドアを開けようとしていた。私が被告人に出ていくように言うと被告人は出ていったので,私も外に出ると,既に警察が来ていた。三,四分後にA方に戻ると警察官が玄関ドアのところにおり,Aが出てきた。その際Aはタオルを頭に当てており,私が『誰がやったの』と尋ねると『被告人だ』と答えた。しかし,Aの怪我は,Aを呼んだのにAが自分のところに来てくれなかったことに腹を立てたBが殴ったためではないかと思う。Bは,興奮すると人に暴力を振るい,Aに対しても暴力を振るう。」

(4)  被告人の公判供述

「私は,A方へ行き,応対したBに母がいるか尋ねたところ,いないとのことだった。しかし,そのとき奥に母がいるのが見えたので,靴脱ぎ場まで入った。すると,Bが傘で私の頭を殴ってきた。私はその傘を取り上げようとしたが,Bが放さなかったのであきらめた。すると,Bはベランダの方に行ったので,私もついていった。その途中,『和室』にいた母に落ち着くように言われた。私は,Bがいるベランダの窓の近くまで行き,なぜ傘で殴ったのか問いただしたが,Bは何も答えなかったので,玄関の方へ戻った。そこで振り向くと,別紙被害者方見取図の×の辺りでAが右手に折り畳み式のいすを持っているのが見え,殴りかかってくるのかと思い,玄関にあったスニーカーを拾って振り上げて殴りかかるような動作をした。すると,Aは『洋間』の方へ逃げて行った。その後,私は母に再度荷物を渡すように頼み,母から渡された袋を持ってA方を去った。」

4(1)  以上の各供述を踏まえて検討するに,A及びBはいずれも,Cを呼ぶ被告人に対しBがCはいない旨告げたところ,被告人が興奮してA方に上がり込み,別紙被害者方見取図の×のところで,Aに対し,両手で押し,蹴り,さらに拳で額を殴るなどの暴行を加え,そのためにAの額が切れて出血した旨を証言している。被告人が興奮していたことは,Cや被告人の供述からも裏付けられている上,Cは,額の傷についてAが「被告人にやられた」と言うのを聞いたとも供述していることも踏まえると,A及びBの各公判供述を信用することができるようにも思われる。

(2)  しかし,Aは,額の傷について,4針縫った旨供述しているところ,搬送先のD病院の医師で平成28年8月15日にAを診察したEは,当公判廷において,通常額の傷は縫合せずにテープで寄せて治療するものであり,本件当日の同月7日に救急外来でAを診察した医師が作成したカルテを見ても,同様の治療がなされた旨の記載がなされていて4針縫ったという記載はなく,Aが4針縫ったと供述していることに心当たりはない旨供述しており,Aは,勘違いをするとは考え難い基本的かつ客観的な事実について,実際とは異なる供述をしていることが明らかである。Aがこのような虚偽の供述をしているという事実は,Aの供述のうち他の部分の信用性にも疑念を生じさせるものといわざるを得ない。この点につき検察官は,Eが,腕や足などであれば,約5センチメートルの傷の場合には,一般的に4針又は5針ほど縫合する旨供述していることなどを捉えて,日本語の通じないAが医師の説明を誤解した可能性があるなどと主張するが,証拠に基づく合理的な推論ではなく,採用できない。

また,Bは,当公判廷においては,被告人がAの肩を押した際にAが壁で支えられるような状態になった旨供述しているが,平成28年8月7日の本件当日には,警察官に対し,Aが被告人に押されて床に尻餅をつき,その状態のAの額を被告人が殴打した旨の指示説明をしていたものと認められるところ(弁2),間近で被告人とAの様子を見ていたはずのBが,実際にはAは被告人に押されて壁に支えられる状態になったに過ぎないにもかかわらず,Aが床に尻餅をついたと見誤ることはあり得ず,また,本件当日の事件発生から警察官に目撃状況を指示説明するまでの短時間のうちに記憶が変容したということも考え難いのであって,Bは本当に被告人がAに暴行を加えた状況を目撃したのか疑念が残る。この点につき検察官は,Bが,背中が壁につくことを「倒れる」と表現したこともある旨供述していることなどを根拠として,通訳を介したために,本来,壁にもたれかかった状態を述べたのに,尻餅をついたと表現したことになったおそれがある旨主張するが,Bの目撃状況を撮影した平成28年8月7日付け写真撮影報告書(弁2)では,直立しているA役の警察官の胸付近に被告人役の警察官が両手を伸ばしている状況,A役の警察官が床に尻餅をついている状況,床に尻餅をついているA役の警察官の額に向けて,片膝をついた被告人役の警察官が拳を握った右手を伸ばしている状況がそれぞれ撮影されているのであって,Bの記憶がAは尻餅をついておらず壁に支えられるようになったに過ぎないというものであったのであれば,多少の言葉の問題はあってもその場で訂正を申し出ることは十分可能であったと考えられるのに,Bがその場でそのような申し出をした形跡はないことからすると,前記の疑念を払拭することはできない。そして,Bが,実際には被告人がAに対し暴行を加えた場面を目撃していないにもかかわらず,目撃したかのような供述をしているのであれば,Aとの口裏合わせが疑われるのであって,そうすると,A自身の供述にも疑念が深まる。

さらに,Aは,別紙被害者方見取図の×の地点で被告人に額を殴打された後,洗濯機のところにタオルを取りに行っただけであとは「洋間」にいた旨供述しているが,そうであるとすれば,別紙被害者方見取図の×の付近には血痕が付着した形跡がない一方で「ダイニング」の床に血痕が付着していることの説明が困難である。この点,Bは,この血痕について,Aが病院に行く前に「ダイニング」に来た際に付着したものだと思う旨供述しているが,Aが「ダイニング」に来た場面は見ていないというのであるし,A方の間取りからすると,「洋間」から外に出るために「ダイニング」を通る必要はなく,不自然である。また,Bによれば,被告人はAに暴行を加えた後「ダイニング」に来たというのであるから,Aの額を殴打した際に被告人の手についたAの血液が滴り落ちたということも一応考えられないではないものの,そうであれば,その後被告人がA方を出ていくまでの間に,玄関のドアノブ等,他の場所にも血痕が付着していそうなはずなのに,そのような事実はなく,また,Bは,ベランダに逃げた後被告人が「ダイニング」にやってきて右手の拳を左の手の平にぶつけていた旨供述しており,そうであれば被告人の手に注目していたことになるが,その際,被告人の手に滴り落ちるほどの血液が付着していたのであれば,「ダイニング」の床に付着した血痕の理由を尋ねられた際に言及したと考えられるのに,そのような供述はしていない。この点につき検察官は,いきなり出血を伴う傷害を負って動揺していたであろうAの記憶が曖昧になっていても無理からぬことであるなどと主張するが,Aは,「私は,殴られてすぐベッドに行き,その後額にタオルを当てているとすぐ救急車が来た」「被告人に殴打された後に行った家の中の場所は自分の部屋とタオルがあったところだけである」旨明確に供述しており,記憶が曖昧であるなどとは供述していないのであるから,安易にAの記憶違いと決めつけることはできない。

(3)  以上によれば,被告人がAを殴打するなどの暴行を加えた旨のA及びBの各供述について,たやすくその信用性を認めることはできず,これらの供述以外に,被告人がAに暴行を加えて傷害を負わせたことを認めるに足りる証拠はない。また,Cは,前記のとおり,Aの怪我はBが殴ったためではないかと思う旨供述しているところ,一見すると荒唐無稽な推測のように思われないではないが,Aの供述によっても,Aは被告人がA方を訪れてBと激しいやり取りをしているにもかかわらず約30分間も応対をBに任せ切りにしていたものと認められるから,そのことによって,Bが被告人に対してだけではなくAに対しても腹を立てたということは十分考えられる上,Bは被告人に対し傘を振り上げるなどして対抗したというのであるから,当時はかなり興奮していたと考えられるのであって,Bが被告人に対峙した際に手にした傘などでAの額を叩くなどしてAに怪我をさせたということもあり得ない話とまではいえず,その可能性を否定することはできない。この点,Eは,Aには長さ約5センチメートル,深さ約3ミリメートルの左前額部の挫創のほかやや中央寄りの額の部分にも裂傷が生じているように見える点も併せて考えると,Aの前額部の傷は,傘の柄で1回叩かれて生じた可能性よりも拳で1回叩かれてできた可能性の方が高い旨供述しているが,そもそもEは,Aの前額部の傷が拳での殴打によって生じたものであると断定しているわけではない上,Bが傘の柄以外の物でAの額を殴打し,あるいは傘の柄で2回以上殴打したということも考えられるのであって,Eの上記供述をもって,BがAに傘の柄又はその他の物で殴打するなどしたためにAが前額部に傷害を負ったという可能性を否定することはできない。

5  よって,本件公訴事実については犯罪の証明がなく,刑事訴訟法336条により無罪の言渡しをすることとする。

名古屋地方裁判所一宮支部

(裁判官 村瀬賢裕)

別紙被害者方見取図については添付省略

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