名古屋地方裁判所一宮支部 昭和36年(ワ)77号 判決 1962年11月05日
原告 伊藤正一
被告 国
国代理人 豊島利夫
主文
被告は原告に対し金一〇六万四、八四八円およびこれに対する昭和三六年一〇月五日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求は棄却する。
訴訟費用はこれを二分し、その一を被告、他を原告の各負担とする。
事 実 <省略>
理由
一、当事者間において争いのない事実
別紙目録記載の各土地、建物(以下単に本件各物件と略称する)が原告の所有であつたこと、昭和二六年一〇月一七日訴外司法書士木全和歌子より名古屋法務局一宮支局に対し、本件各物件につき同年同月一三日付売買を原因とする原告から訴外佐藤芳市(以下単に訴外芳市と略称する)への所有権移転登記手続の申請があり、同支局同二六年一〇月一七日受付第四、三八五号をもつてその旨の所有権移転登記が登載されたこと、その際右登記申請書中に特約として「拾箇年以内に買戻しを為し得る約」との記載のあつたこと、その後、訴外芳市死亡により同三四年七月三一日訴外佐藤昇(以下単に訴外昇と略称する)に対し本件各物件につき相続による所有権移転登記がされ、同三四年一一月二八日訴外昇から訴外小田中常雄のために本件各物件につき抵当権設定登記ならびに停止条件付代物弁済契約に因る所有権移転仮登記が各経由されたことは当事者間に争いがない。
二、右一の事実に成立に争いのない甲第一ないし第五号証、第八号証、証人早田常市、同伊藤みつゑの各証言、原告本人尋問の結果およびこれによつて成立の認められる甲第六号証の一ないし三、第七号証を総合すると、
本件各物件は原告の先祖伝来のもので原告が現に居住し、そこで農業兼織物業を営んでいるものであるところ同二六年一〇月頃、当時営んでいた自動車業に関連しガソリンを取扱つたことから失敗し、本件各物件に対する一般債権者の差押え等を免れるために友人である訴外芳市と相談した結果、債権者からの追求を免れる方法として本件各物件の所有名義を一時、訴外芳市に移転し、かつ、後日問題を残さないため一〇年以内に代金五三万五、一五二円で買戻すことができる買戻の特約をも付することとし、訴外司法書士木全和歌子に手続を委任し、前記一説示のとおり移転登記の申請に及び、その旨の所有権移転登記は登載されたが、その際、右申請中の買戻の特約については登載されなかつたこと、原告の前記ガソリンの債務関係が同二七年頃決済されたので原告はその後、訴外芳市に対し本件各物件の名義返還を再三請求したが、訴外芳市は七、八年経てば返すとの返答をしていた、そのうち、訴外芳市は同三三年二月一〇日死亡し、訴外昇が訴外芳市の権利義務を相続により取得したこと、原告は訴外昇が原告と訴外芳市との間の前記特殊関係を了知していたので訴外昇に対し、本件各物件の名義返還を要求し、訴外昇は同三四年四月二日原告に対し本件各物件につき同年六月三〇日までに登記手続をする旨確約していたこと、しかるに訴外昇は本件各物件に買戻の特約の登記がないのを幸いとし、前記一説示のとおり同三四年七月三一日相続による取得登記をし、次いで抵当権設定登記、所有権移転仮登記を受けたこと、とかくするうちに、訴外東洋製粉株式会社(以下単に訴外会社と略称する)は訴外昇に対する名古屋法務局所属公証人柳沢七五三治作成の金員消費貸借公正証書に基き、本件各物件につき名古屋地方裁判所一宮支部に対し強制競売の申立をし同支部は同三六年一月一一日、本件各物件に対し強制競売開始の決定をしたこと、これより先、原告は同三五年一一月末頃、本件各物件の価額調査に来たものがあつたので本件各物件の登記簿を調べ、初めて本件各物件につき買戻の特約の登記が登載されていないことを知つて驚き、訴外昇、同小田中常雄、訴外会社を相手どり名古屋地方裁判所一宮支部に対し本件各物件の所有権確認並に登記抹消請求の訴を提起し右訴訟は同支部同三六年(ワ)第一七号事件として係属したが、原告において訴外小田中常雄、訴外会社に対しては右両者の各悪意の立証困難のため敗訴を免れないことを予想し、やむなく右二者との間に同三七年一月二六日、裁判上の和解をし、原告は訴外会社に対し示談金として金一五〇万円を支払い、訴外会社は前記強制執行の申立を取下げ、訴外小田中常雄も前記一説示の抵当権設定登記および所有権移転仮登記を各抹消することとし、右和解条項はいずれも右和解当事者により履行されたこと、他方、原告の訴外昇に対する訴訟は同支部においで、原告の全部勝訴の判決があり、目下、名古屋高等裁判所において審理中であること。
がいずれも認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。
三、以上の各事実からすると、原告と訴外芳市との間の売買は、いわゆる通謀虚偽表示であり、それと同時にされた買戻の特約も同じく通謀虚偽表示であることは多言を要しないところであるけれども右売買および買戻の特約が通謀虚偽表示で無効であり、その意図する目的が一般債権者の追求を免れるためという或程度道義的に非難の向けられ得るものであつても、いやしくも適式の登記手続の申請があつた以上登記官吏はこれを当該各登記簿に申請の趣旨にそう登記の登載をしなければならない義務があるのであつて、登記申請書に買戻の特約登記の適式な申請のあつた本件において担当登記官吏がこれを見落し本件各物件の登記簿に右の登載をしなかつたのは国家公務員である担当登記官吏の過失であることは極めて明白である。
(なお被告は右のとおり通謀虚偽表示で無効のものだとすると原告は本件各物件につき最初から買戻権を有していなかつたのであるからこれがあることを前提とする原告の本訴請求は失当である旨争うようである。なるほど原告は右通謀虚偽表示によつてその相手方たる訴外芳市に対し買戻権を取得することはありえないけれども買戻の登記さえしてあれば仮りに本件各物件が善意の第三者に移転しても右売買と買戻とは一体をなすものであるからその第三者が、前記売買の無効を否認する限りその第三者は同時に原告の買戻権を認めざるを得ず、また逆に右第三者が原告の買戻権が通謀虚偽表示で無効であると主張する限り前記売買の無効をも認めなければならない関係にあるので結局、原告は善意の第三者に対して、買戻権を有効に行使できるのである。したがつて右買戻の登記の有無はたとえ通謀虚偽表示者間において無意味であつても善意の第三者との関係では重大な法的効力を有するに至ることがあり得るのであるから被告の右主張はあたらないというべきである)
四、そこで原告は右登記官吏の過失に因り損害を蒙つた旨主張するので順次検討する。
(一) 財産上の損害
1 原告はまず本件各物件を取戻すため訴外昇、同小田中常雄、訴外会社に対し訴提起のやむなきに至り、後二者に対しては善意の第三者であるため勝訴の見込み乏しく、やむをえず和解をし金一五〇万円の出損を余儀なくされ、同額の損害を蒙つた旨主張するので考察する。
前記一、二の各事実特に買戻の特約をしたことからすると原告は訴外芳市との間の仮装譲渡に際して本件各物件が或は第三者に移転することのあり得ることを当然予想していたものというべく、若し、善意の第三者に移転した場合には少くとも買戻代金五三万五、一五二円の支払はこれを甘受する意思であつたものと解するのが相当である。しかして前掲各証拠および弁論の全趣旨からすれば原告が前記二者に対しやむを得ず和解に出たことは原告としてはやむをえない、かつ至当な措置と認められ本件各物件の価格(訴外会社の本件各物件に対する強制競売事件において本件各物件の鑑定価格が金一八二万七五〇円であるとの被告の主張は原告において明らかに争わないところである)に照し右和解条件として原告において訴外会社に対し金一五〇万円の支払をしたのも、あながち不当な出損とは云えないので右金一五〇万円から原告が買戻をすれば当然支払うべきであつた前記金五三万五、一五二円を差引いた金九六万四、八四八円が原告の真に蒙つた損害と認めるのが相当である。
2 次に原告は、本件買戻の特約登記の遺脱を発見してから本件各物件取戻のため交渉し或は前記訴を提起し、合計金七五万円を下らない損害を蒙ると主張するので検討する。
前掲各証拠とくに証人早田常市、同伊藤みつゑの各証言および原告本人の供述を総合すると、原告は本件各物件取戻しのため
(1) 訴外昇を岐阜市或は名古屋市等に少くとも三〇回を下らない回数訪れ交渉にあたり
(2) 東京在住の訴外小田中常雄の所へ四回行き
(3) その交渉にあたつた約三ケ月間のうち少くとも四五日は家を不在にし、そのため他人を一日金一、〇〇〇円で雇入れ織物業に従事させなどして少くも金一〇万円の損害を蒙つたものと認められ、右認定に反する前掲各証人の証言部分および原告本人の供述部分は信用できない。
さらに原告の訴外昇らに対し提起した訴訟のため原告において出費を余儀なくされ損害を蒙り、或は今後解決に至るまでに或程度の損害を蒙ることは推測に難くないところであるけれどもこれにそう証拠としては原告本人の「保全処分等の費用を含めて金四〇万円位かかつた」旨の供述があるのみで、これのみでは原告の蒙る真の損害を算定することは不可能である。そうだとすると原告主張の右の部分は結局これを認めるに足る証拠がない。
しかして原告が交渉等のために蒙つた損害は金一〇万円ということになる。
(二) 精神上の損害
原告は訴外昇、同小田中常雄および訴外会社との紛争解決のために日夜苦悩し結局金一〇〇万円に相当する精神的損害を蒙つた旨主張するので考察する。
思うに財産権の侵害を受けた場合、被害者はそれによつて財産的損害を蒙ると同時に程度の差はあれ、多少の精神的苦痛を受けることが多いものと考えられるけれども、そのような一般的な多少の精神的苦痛は主として蒙つた財産的損害の賠償を受けることによつて当然回復され、また治癒されたものと見るのが相当である。言い換えれば財産権の侵害によつて右の一般的な精神的苦痛の枠を越える特別の精神的損害を蒙つた場合はそれは特別事情による損害として不法行為者においてそれに対する予見可能性のあつた場合にのみ賠償責任があると解するのが相当である。
本件についてこれを見るに原告が本件各物件を取戻すため日夜苦悩し相当な精神的苦痛を味つたことは前掲証拠によつても認められるけれども前記買戻の特約登記を遺脱した当該登記官吏にその予見可能性があつたとの主張およびこれを認めるに足る証拠がないので右損害の賠償義務を被告に負担させることはできないものである。
(三) 次に被告は原告が仮りに損害を蒙つたとしても原告にも過失があつたのであるから被告の賠償義務は損害額の半分以下で足り、その他原告の過失によつて増大した損害については被告に責任はない旨争うので検討する。
1 まず被告は原告の損害はそもそも原告の仮装譲渡に起因する旨非難するもののようであるけれども、仮装譲渡による登記申請であつてもその申請自体になんら不適法或は過失の事実は認められないのであるから被告の右非難は当らない。
2 前記一、二の事実および前掲各証拠によれば、原告は同二六年一〇月本件各物件の所有名義を訴外芳市に移転してから同三五年末頃まで本件各物件の登記簿の記載を見ず前記買戻の特約登記の遺脱されている事実を知らなかつたことが認められるけれども原告としては本件各物件に買戻の特約登記のあることについてはつゆ疑つたことはなく、その確信は国家機関に対する信頼に根ざすものであり他方その間原告は同二七年頃から訴外芳市に対し、再三名義移転を請求し、また同二八年三月には本件各物件を担保に供し原告自ら訴外株式会社中央相互銀行から融資を受けている事実が認められ、さらに同三四年四月には訴外昇から本件各物件の名義移転の確約を得ていたのであつて原告においてはそれ相当の注意をもつて所有名義取戻に努力していた形跡が認められ、買戻の特約登記遣脱の点に長年気付かなかつたことをもつて直ちに原告の不注意ということはできない。
3 次に被告は原告の訴外昇、同小田中常雄および訴外会社とくに後二者に対する解決方法として訴訟を提起したことを非難するけれども、前記二に認定の経緯からして本件各物件を失わないために原告のとり得た打開策としては先ず訴を提起し、しかる後に情況によつて和解に及ぶ方法が最も有効適切と考えられ、そしてこの措置に出た原告の解決方法をもつてあながち非難することはできないところである。そのほか前記四(一)1に認定したとおりその他に原告がその過失によつて特に損害を増大させたと認めるに足る証拠は見当らない。
(四) しかして登記官吏の過失によつて原告の蒙つた損害は合計金一〇六万四、八四八円ということになる。
五、そうだとすると被告は原告に対し金一〇六万四、八四八円およびこれに対する損害発生後であり、かつ本件訴状送達の日の翌日であることが本件記録に徴し明らかな昭和三六年一〇月五日以降完済に至るまで年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があり、原告の本訴請求は右の限度で理由があるので、これを認容し、その余の原告の請求は失当であるからこれを棄却し訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条を適用し、なお本件の場合、仮執行の宣言は必要とは認められないのでこれを付さないこととし、主文のとおり判決する。
(裁判官 山路正雄)
目録<省略>