名古屋地方裁判所岡崎支部 平成14年(ワ)664号 判決 2005年6月24日
原告
甲野太郎
原告
甲野花子
上記2名訴訟代理人弁護士
大見宏
被告
株式会社Y1
同代表者代表取締役
Z
被告
Y2
上記2名訴訟代理人弁護士
西川正志
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 被告らは原告甲野太郎に対し,連帯して3647万7245円及びこれに対する平成13年11月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告らは原告甲野花子に対し,連帯して3647万7245円及びこれに対する平成13年11月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は,スイミングスクールのプール内で進級テストを受験中に水没し死亡するに至った生徒の両親である原告らが,同スイミングスクールにおいて同生徒を担当していたコーチ及び同スイミングスクールの経営者に対し,コーチについては民法709条に基づき,経営者については同法715条及び415条に基づき,それぞれ損害賠償を請求する事案である。
1 争いのない事実等(甲1,5,乙4,6,被告Y2,弁論の全趣旨)
(1) 原告らの長男である甲野次郎(昭和62年*月*日生。以下「次郎」という。)は,被告株式会社Y1(以下「被告会社」という。)が経営する愛知県岡崎市<以下略>所在の○○スイミングスクール(以下「本件スクール」という。)の生徒であり,被告Y2(以下「被告Y2」という。)は本件スクールのコーチとして次郎を担当し,指導及び安全管理をする立場にあった。
(2) 次郎は,本件スクールにおいてジュニアコースのB―4級クラスに属していたところ,平成13年11月23日午後6時から,本件スクールに設けられた長さ25メートルのプール(以下「本件プール」という。)で,200メートル個人メドレーのタイムを計測する進級テスト(以下「本件テスト」という。)を受けた。
当日,次郎は特に体調の不良を訴えることもなく本件テストに参加し,本件プールの南端に位置する別紙図面記載の第6コース(以下「本件コース」という。)を泳いでいた。他方,被告Y2は,本件コースのプールサイドにおいて,水泳中の次郎外2名の生徒に声をかけながら次郎のタイムを計測していた。
本件テストは,本件プールの東端から水泳を開始して西端で折り返し東端に戻ることを4回連続(合計200メートル)で繰り返し,その間,バタフライ,背泳,平泳ぎ及びクロールの順で1往復(50メートル)ずつ泳ぐという内容のものであったところ,次郎は平泳ぎまでの3種目を順調にこなし,最後の種目であるクロールに入った。クロールの途中,次郎は本件プール西側の壁から約7メートルないし5メートル付近に至ると水泳を中断して立ち止まり,その後西側の壁まで到達し,さらに折り返して東側に向け歩き出したものの,東側の壁から約3メートル付近にまで至ったところで水没した(以下「本件事故」という。)。
被告Y2は,クロールの途中で水泳を中断し立ち止まった次郎に対し「大丈夫か」などと声をかけたものの,直ちに本件プールの外へ出す措置はとらず,次郎の水没後にプールへ飛び込みプールサイドへ助け揚げた。
(3) その後,本件スクールの関係者等により心肺蘇生術が施されたが次郎の意識は戻らず,平成13年11月23日午後7時14分,心静止の状態となり,岡崎市民病院へ搬送後の同日午後8時18分に死亡が確認された。
2 争点及び当事者の主張
(1) 次郎の死因
(原告らの主張)
次郎の死因は溺死(液体を気道内に吸引したことにより生じる窒息死)である。
(被告らの認否反論)
次郎の死因が溺死であるとの事実は否認する。次郎の死因は,原因不明の突然死(瞬間死又は発症して24時間以内の死亡)というべきである。
(2) 被告Y2の不法行為責任の有無
(原告らの主張)
被告Y2は,本件プールで異常をきたしている次郎に気づきながら,その様子を十分に監視せず,次郎を早期に救助し得たにもかかわらずこれを放置した。その結果,次郎はプール内で溺死するに至ったもので,被告Y2にはコーチとしての注意義務及び安全配慮義務に違反する過失があったというべきであり,不法行為責任を免れない。
(被告らの認否反論)
原告ら主張の事実は否認し,被告Y2の不法行為責任の存在については争う。
被告Y2は,本件テスト開始前に次郎の体調を確認したことを含め,テスト開始後も次郎に対する監視等を行っていた。次郎においては,テスト中に立ち上がった時点以降,格別異常な状態を示すことのないまま突如水没するに至ったもので,その間,被告Y2が強制的に次郎をプールから出さなかったことなどをもって責任を問われるいわれはない。また,被告Y2は次郎に対し,救助・救命処置を尽くしている。
そもそも次郎の死因は原因不明の突然死であり,被告Y2の行動如何にかかわらず,次郎における死への転機は回避困難であった。
(3) 被告会社の使用者責任及び債務不履行責任の有無
(原告らの主張)
ア 被告会社は,被告Y2の雇主として,被告Y2が被告会社の業務の執行につき行った上記不法行為に基づく損害に関し,使用者としての責任を負う。
イ 被告会社は,原告らとの間で,次郎の水泳指導を安全に行うべき役務提供契約を結んでいるところ,被告Y2をして被告会社入社後の4年半の間に2回しか安全講習を受けさせていないなど,従業員に対する十分な安全教育を行っていなかった。その結果,本件事故を発生させ次郎を溺死させるに至らせたものであるから,被告会社は原告らに対し,契約上の安全配慮義務に違反した債務不履行責任を負うというべきである。
(被告らの認否反論)
ア 原告らの主張アのうち,被告会社が被告Y2の雇主であるとの事実は認め,被告会社の使用者責任の存在については争う。
イ 原告らの主張イのうち,被告会社と原告らとの契約関係については認め,被告会社が従業員に対する十分な安全教育を行っていなかったとの事実は否認し,被告会社の債務不履行責任の存在については争う。そもそも次郎における死への転機は回避困難であった。
(4) 損害(原告らの主張)
ア 治療費等 2万4080円
イ 逸失利益 4189万7842円
ウ 慰謝料 2600万0000円
エ 葬祭費 243万2569円
オ 仏壇購入費 60万0000円
カ 弁護士費用 200万0000円
キ 原告らは次郎の父母として,次郎の死亡に伴い,以上の合計7295万4491円の損害賠償請求権を各2分の1ずつ相続した。
第3 判断
1 上記争いのない事実等,証拠(甲1ないし5,16の1・2,17ないし19,23ないし26,29,乙4,6,証人臼井康臣,証人橋詰良夫,原告甲野太郎本人・被告Y2本人)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。
(1) 次郎は幼少のころから水泳を習い始め,平成11年9月以降本スクールのジュニアコースへ入会した(乙6によれば,それ以前においても入会し,転居に伴う退会を経て平成11年9月に再度入会したものであることが窺える。)。平成13年11月当時は200メートル個人メドレーをバタフライ,背泳,平泳ぎ及びクロールで各50メートルずつ泳ぎ切ることができるB級のクラスに所属し,標準タイムが3分30秒台であったことから4級(B―4級)と認定されるに至っていた。
平成13年11月当時,次郎は14歳(中学2年生)であり,身長は161センチメートルで,声変わりをし陰毛も生え筋骨のしっかりした標準的な体格を有していた。また,平素から格別健康上問題となることもなかった。
(2) 被告Y2(昭和48年生)は,平成9年以降,被告会社にアルバイトとして勤務し,C級インストラクター講習を受講してジュニアコース等のコーチを務めていたが,年に1回ないし2回,ほぼ同一の内容で実施され全員参加が基本である社内の安全講習(心肺蘇生法等の実技講習)については,入社後本件事故までの間に合計2回参加するにとどまった。また,被告Y2の視力は裸眼で0.1ないし0.2程度であるが,本件プールにおいて勤務する際,眼鏡をかけたりコンタクトレンズを着用することはいずれもなかった。
(3) 本件スクールにおいては月1回の頻度で各クラスとも進級テストが実施されていたところ,平成13年11月は同月23日午後6時ころから,本件プールにおいてジュニアコースの進級テスト(タイム計測前の準備運動を含む。)が行われた。
ア 上記のテスト当日は,本件プールにおいて,まず体操やウォーミングアップのための水泳(甲5には測定前までに泳いだ合計距離が312.5メートルであった旨記載されている。)が行われ,その後,初級クラスであるD級から順次より上級のクラスであるC級,B級に至る順序で進級テストが実施された。
イ 本件プールは長さ25メートルで水深が最大1メートルあり,合計6コースから構成されているところ,上記進級テストの実施に当たっては,各コースごとに専属のスタッフ(コーチ)が1名ずつ付き,担当のコースを泳ぐ各生徒の動きに合わせて自らもプールサイドを移動し,各生徒のタイムを計測しつつその安全確保に務める態勢がとられていた。なお,本件プールとその南側に隣接する長さ20メートルのプールとの間等に監視台が設置されているものの,テスト実施時においては各コースごとに専属のスタッフが置かれるため,監視台にはスタッフが配置されていなかった。
ウ 進級テストが進行し最終のB級クラスを対象とする本件テストの段階に至ると,本件プール南側半分の3コース(第4コース〜第6コース)を使用し,該当する6名の生徒を3人ずつの2組に分け,上記200メートル個人メドレーについて各自のタイムを計測することとなった。
次郎は,事前の準備運動等の段階を含め特に体調の不良を訴えることなく本件テストに参加し,B級クラスの中では後発の3名のうちの1人として本件コースを泳ぐことになった。被告Y2は,次郎を含む上記3名の生徒の練習につき指導を担当してきたことから,本件テスト開始後は3名全員に声をかけつつ,次郎の動きに合わせてプールサイドを移動しそのタイムを計測した。
本件テストにおいて,次郎は格別異常な様子をきたすことなくバタフライ,背泳,平泳ぎの順で合計150メートルを泳いだうえ,本件プール東側の壁を折り返しクロールで残り50メートルを泳ぐ段階に入ったところ,西側の壁から約7メートルないし5メートル付近の位置で突然水泳を中断し立ち止まった(この時点で次郎については本件テストが終了した。)。これを見た被告Y2が「大丈夫か。」と声をかけると,次郎は再び泳ぎ出すかのように浮き身の姿勢を取ったものの,すぐにまた立ち止まってしまった。被告Y2は「上がるなら上がりなさい。」と声をかけつつも,次郎が特に咳き込んだり苦しげにもがくなどする様子はないうえ,後続のテスト受験者もおらず,全力で泳いだ後は若干体を動かした方がよいとも考えたことから,「歩くなら歩いてもいいよ。」と言葉を継いだ。
その後,次郎は腕が上がらない様子を見せつつ本件プール西側の壁に到達し(その間の次郎の状態について,被告Y2は注視しておらず記憶がないが,甲5記載の複数の目撃者の発言内容を総合すると,次郎は腕が上がらない様子であったという点で内容がほぼ一致しており,それ故に変な泳ぎ方をしていたか,又は腕を抱えたり右肘を押さえながら歩いていたことが窺える。),同所で東側を向いて立った後,折り返し同方向へ歩き始めた。その後も次郎は,右腕を曲げながら水中を歩き,本件プール東側の壁から約15メートルないし10メートル付近の位置に至ると足を抱えるような素振りを見せたり足がつったような疲れた感じの様子を示し,少しきつそうな表情で歩行を続けた。さらに,東側の壁から5メートル付近の位置においては,従前次郎の傍から離れ本件プール東側のプールサイド中央付近にまで赴いていた被告Y2が,次郎の真横近くのプールサイドへ戻って佇立する状況下で歩き続け,東側の壁から3メートル付近の位置にまできたところ,崩れるように顔を水面につけ手を前方に出しつつ体を揺らしながら立つ状態となった。その際,被告Y2は次郎の傍で佇立していたにもかかわらず,次郎が顔を水面につけた様子を見ておらず,次郎が上記の状態となったことに気づいた当初は泳ぎだそうとしているものと受け止めた。しかし,次郎の体が頭の方から水中へ沈んでいくのを見て異常事態であることを初めて認識し,本件プールに飛び込み,次郎を東南端付近の壁際のプールサイドに助け揚げた。
本件テストを実施した際,本件プールの第1コースないし第3コースで行われていた他のクラスのテストは既に終了しており,第4コース及び第5コースにおいても,次郎が本件プールの西側から東側に向かって移動し,プール中央付近に達したころ以降の時点においては,次郎と共に本件テストを受けたBが200メートルを泳ぎ切りプールサイドに上がるなどして他の生徒が順次水泳を終え,その担当コーチらはプールサイドを離れたため,コーチとして次郎の動静を注視すべき者は被告Y2以外に存在しない状況となっていた。
(4) プールサイドに助け揚げられた次郎は「あー,あー」という声のようなものを出したが,被告Y2の呼びかけに対して反応を示さなかった。被告Y2は,従前,実際に水中から生徒を救助した経験を有していなかったが,次郎が水を飲んでいる可能性を踏まえ,次郎の体を横にし背中をさするなどして水を出そうとしたものの水は出なかった。さらに,次郎が呼吸をしていなかったことからマウストゥマウス法による人工呼吸を開始したが,その際,うがいをする時のようなゴロゴロ又はゴボゴボという変な音がした。その後,次郎の脈を感じることができない状態となったため,他のスタッフと人工呼吸の役割を交替し,被告Y2は心臓のマッサージに移った。その後しばらくして,次郎の鼻と口から黄土色の汚物又は黄色い液体が流出した(甲5には,被告Y2の発言として,このころ「水が出た。」という周囲の声を聞いた旨の記載があり,被告Y2は,本人尋問において,そのような声を聞いたように思うが,次郎の顔を見ると水は出ていなかった旨供述する。)。
平成13年11月23日午後7時10分,同7時3分に被告会社のスタッフから電話連絡を受けた救急隊員が本件プールに到着し,次郎の容態を確認したところ,仰臥位の状態で呼吸及び脈拍はなく,意識はJCS300,顔色は蒼白で瞳孔は散大していた。救急隊員は,同7時13分に除細動及び気道確保を行ったものの,同7時14分に心静止の状態となり,同7時27分から同7時35分にかけて次郎を岡崎市民病院に搬送した。しかし,同日午後8時18分,次郎の死亡が確認された。
(5) 岡崎市民病院において次郎を担当した消化器内科の赤塚元医師(以下「赤塚医師」という。)は,本件事故の経過について,平成13年11月23日午後6時50分から午後7時にかけて,200メートルの予定で泳いでいた次郎が150メートル弱のところで立ってしまい,もぐった(溺れた)こと,起きてこないためコーチがかつぎ上げたものの状態が悪く,口から泡をふき,また,人工呼吸に際しては鼻口から黄色い水をはいたこと,救急隊等により蘇生術が施され搬送されてきたことなどを関係者から聴取した。
次郎の死亡確認後,赤塚医師は,現病歴,経過として「スイミングスクールで泳いでいた,18:50途中で立ってしまった後もぐってしまった(おぼれた),起きてこないためコーチがかつぎあげた,状態が悪く,19:03救急隊Call」などと記載し,主要症状及び主要所見として次郎の口,挿管チューブから泡が出たことを,また理学的所見として心肺停止を挙げ,死因を溺水とし,溺水の原因が過失によるものか病気によるものかという臨床上の問題点を指摘した剖検依頼箋を作成して,次郎につき剖検を依頼した。
(6) 赤塚医師の剖検依頼を受けた臼井康臣医師(以下「臼井医師」という。)は,上記部検依頼箋を読み,平成13年11月23日午後11時15分から同月24日午前4時10分にかけて次郎の死体を病理解剖した。その際,①背臥位及び右側臥位後,背臥位にしたところ口腔より泡を出すなどしたほか,②肺の膨大(左445グラム,右555グラム)―肺気腫,肺水腫,肺の底面出血(圧迫により空気を圧出すると,底面では血流を混じた泡様水分を圧出する。)が見られ,また,③気管支内に出血及び泡が見られたこと,④心臓の右心房にかなりの血液があるのに対し,左心房,左心室にはほとんど血液がないことなどの所見を得たため,臼井医師は,肺の機能不全を起こしたことによる溺死であると病理解剖的に診断した。
これを受けて,赤塚医師は,平成13年11月24日,解剖の主要所見を両肺下面の出血,気管・気管支の出血,肺水腫,肺気腫,胃粘膜の出血,両腎髄質の出血,両腎盂の出血とし,直接死因を溺水とする死亡診断書を発行した。
(7) 上記病理解剖後,次郎の臓器はホルマリンで固定され,その一部については2か月程度をかけて組織標本が作製された。
臼井医師から次郎の臓器につき組織検査を依頼された橋詰良夫医師(以下「橋詰医師」という。)は,赤塚及び臼井両医師の上記診断を踏まえつつ,ホルマリンで固定された次郎の臓器を肉眼で観察するとともに,その組織標本を顕微鏡で観察した。その結果,橋詰医師は,①肺・肝・腎・脳などの全身臓器に急性のうっ血を認める(これらは救急車や病院において蘇生術が施行されたことによる二次的な変化と考えられる。)こと,②肺についてはうっ血と共に肺胞内出血を認める(同上)こと,③食道粘膜のびらん,④脳についてはクモ膜下腔の静脈のうっ血以外に著変はないこと,⑤心臓については特記すべき異常所見はないこと,⑥その他の所見として,副腎皮質の萎縮,脾臓・消化管粘膜リンパ装置の腫大,甲状腺濾胞上皮の腫大が見られることを指摘しつつ,病理解剖では水泳中に突然死をきたす何らかの疾患が生じたかどうかを検索したが,全身の臓器には特に死因と関連するような異常所見は認められず,発病症状よりの全経過としては突然死であるが,臨床診断は溺死である旨の剖検診断書を作成した。なお,橋詰医師は,赤塚医師作成の上記剖検依頼箋は読んだものの,事故状況の詳細について,それ以上の情報を得ることはなかった。
橋詰医師の上記剖検診断を受けて,赤塚医師は,平成14年3月27日,原告らに宛てて,病理解剖後の検討では特に突然死に関連する異常所見は見られず,死因は溺死と診断する旨の書面を作成した。
(8) 上記(6)及び(7)の作業を通じて,次郎の体内から採取した血液の検査は行われなかった。
2 争点1(次郎の死因)について
(1) 上記1認定のとおり,次郎は幼少のころから水泳に親しみ,本件スクールにおいても200メートル個人メドレーを3分30秒台で泳ぎ切ることができる実績を有していたが,本件テストにおいては約170メートルにわたり全速力で水泳を続けた後,ゴールまで約30メートルを残す段階で突然水泳を中断したものである。また,その後も腕や足の異常を示す動作をしつつ25メートル前後にわたり本件プール内を歩くなどした後,水没するに至ったことが認められる。
相当程度の水泳能力を有する次郎が本件テスト中であるにもかかわらず突然水泳を中断したうえ,その後腕や足の異常を示す動作をしつつ水没するに至ったことからすると,水泳を中断した時点で次郎に何らかの身体的な異常が発生したものと解するのが相当である(身体的な異常の発生時期を同時点と見ることについては,乙1に記載された乾道夫医師の意見及び臼井医師の証言とも一致するところである。)。
(2) 問題は上記身体的異常の内容及び原因が何かということであるが,この点につき,原告らは,上記1認定の剖検診断等(上記1認定事実のほか甲16の2,17,臼井医師及び橋詰医師の各証言内容を含む。)を主な根拠として,次郎が水泳を中断した時点でプールの水を気道内に吸引したものであり,その死亡原因は溺死であった旨主張する。すなわち,①解剖前に「口,挿管チューブから泡が出る」という所見が認められたこと,②解剖時に溺死の特徴である種々の所見(肺の膨大・肺気腫・肺水腫・肺の底面出血が見られた点,気管・気管支内に出血及び泡が見られた点,心臓よりも肺が先に機能停止していることを示す重要な所見として,心臓の右心房にかなりの血液があるのに対し,左心房,左心室にはほとんど血液がない点,背臥位及び右側臥位後,背臥位にしたところ,口腔より泡を出し,右側臥位にて血液を混入した吐血物があった点,胸腹部に切開を加えたところ,胸骨部から大量に出血し中止しなかった点)が認められたこと,③組織検査の結果,脳出血,クモ膜下出血,心筋梗塞,肺動脈塞栓症など突然死につながる病的な原因が見付からなかったこと,④既往歴,家族歴に特別な所見がないことといった臨床的所見,解剖所見,組織検査の結果等を総合考慮すれば,次郎の死因が溺死であることは明らかであると主張する。
また,臼井医師も,上記の所見に加え,長年にわたる自己の水泳体験を踏まえて,本件テスト中に短時間の呼吸と大きく体を動かすこととの微妙なバランスを崩した次郎が,水泳を中断した時点で大量の水を飲んだものであることが推測される旨証言する(甲27の5―15にも泳げる者の溺水の原因のひとつとして,水中での呼吸に失敗することが挙げられている。)。
(3) ところで,溺死の経過及び主な溺死体の所見は,概ね以下のとおりであると認められる(甲20,21等)。
ア 溺死の経過
(ア) 驚愕呼吸期
入水時の皮膚刺激による反射的な1回の呼吸運動である。
(イ) 抵抗期(一時呼吸停止期)
液体(溺水)が肺の中へ入ってくるのを防ぐため,呼吸を止めることが可能な時期であり,30秒間ないし1分間程度続く。
(ウ) 呼吸困難期・痙攣期
炭酸ガスの蓄積による中枢の刺激が呼吸を再び引き起こし,激しい吸気と呼気が繰り返され,痙攣性の呼吸運動となり,末期には全身に痙攣が起きて,意識を消失する。1分間ないし2分間程度続く。
(エ) 無呼吸期
痙攣が続き呼吸が停止する1分間程度の仮死状態。
(オ) 終末呼吸期
呼吸が間欠的に起こり,間もなく停止する。
(カ) 以上の全経過は4分間ないし5分間程度である。ただし,心臓の拍動はさらに数分間持続する。
イ 溺死体の主な所見
(ア) キノコ状泡沫
肺胞に入った溺水が呼吸困難期の激しい呼吸運動により空気や粘液と混和され,鼻孔及び口からキノコ状に盛り上がる白色ないし淡紅色の容易に消えない微細泡沫を生じる。乾燥すると口等の周囲の褐色の乾燥痕となって残る。このキノコ状泡沫は,死体を外表から検査して溺死と推定するための唯一の所見といえる。
(イ) 溺死肺
肺は溺水により膨隆し,胸腔を開放しても虚脱しない。胸骨,肋骨をはずすと前縦隔を覆うように膨隆していることが多く,色調は淡紅色から灰白色を呈し水腫状である。溺水により肺内の空気が末梢に追いやられて肺表面の気腫や肺胞壁破綻による出血が見られることがある。
(ウ) 胸腔内溺水
溺水は肺から胸腔内に漏出し,色調は赤褐色を呈する。これは生活反応ではなく死後変化である。一般に溺水は死後2週間程度で体外に漏出し,胸腔内に溺水は認められなくなる。
(エ) 胃腸内溺水
死後でも胃までは水が入るが,十二指腸まで入ることは少ない。
(4) 上記1(3)認定の本件事故状況,上記2(3)の溺死の経過及び溺死体の主な所見,並びに関係証拠を総合すると,次郎の死因を溺死と見ることについては,以下のような疑義を払拭することができない。
ア 溺死に至る経緯は,驚愕呼吸期,抵抗期(一時呼吸停止期)を経て呼吸困難期・痙攣期に至るものとされている(臼井医師も,大量の水が肺に入るとせき込んだり,暴れたりする旨証言し,甲27の5―16においても,突然溺れて水没してしまうような場合を除き,水を飲んで呼吸に失敗している者はもがいているから,溺れかけていることがすぐ分かる旨記載されている。)ところ,本件全証拠によっても,次郎が水泳を中断した後水没するに至るまでの間において,腕や足の異常を示す動作は見られたものの,激しい呼吸運動の反復やこれに伴う痙攣等,呼吸障害を窺わせる顕著な症状を起こした事実を認めることはできない。この点は,次郎が水泳を中断した時点で相当量の水を飲んでおり溺死するに至ったものであると解することにつき,疑義を差し挟まざるを得ない事情である。
なお,臼井医師及び橋詰医師は,いずれも上記1(3)認定の本件事故状況の詳細を把握せず,上記1(5)認定の剖検依頼箋「現病歴,経過」欄に記載された程度の事情を認識するにとどまったまま,上記剖検診断をしたものである(臼井及び橋詰両医師の各証言)。
イ 上記のとおり,何らかの身体的異常により次郎が本件テスト中に水泳を中断した時点において,溺死に至る相当量の水を飲んでいた形跡は認めがたいのであるが,他方,現実には次郎の肺の膨大や肺水腫等が存在し,また,泡沫が生じたことなどの所見が見られるところである。
証拠(甲20,臼井医師の証言)によれば,肺の膨大や肺水腫等については,病理解剖において肺を含む次郎の臓器から全く水が検出されなかったこと,肺水腫は溺死に特質的な所見ではなく,うっ血性心不全により生じる場合が最多である(なお,甲16の2の「結論・問題点・其の他」の欄においては,「肺水腫?」と記載されている。)ことが指摘される。また,泡についても,溺死の場合ほど高度ではないが,心臓死などの急死の場合,肺水腫のために微細白色泡沫が認められる例もあることが指摘される。これらの諸点に加え,上記のとおり次郎が溺死に至る相当量の水を飲んだ形跡は認めがたいことなどをも考え併せると,本件においては,上記の肺の状態や泡沫の存在をもって次郎が溺死したことを決定的に裏付ける事情であると認めるには足りない。
なお,臼井医師は,病理解剖時に次郎の臓器から全く水が検出されなかった理由について,次郎が本件プールから助け揚げられた後の蘇生術施行により排水されてしまったことが推測される旨証言する。しかしながら,関係証拠(甲4,5,16の1,23,乙6,臼井医師の証言,被告Y2本人)を総合しても,蘇生術施行時における排水の可能性については,プールサイドに助け揚げられた次郎を目撃した生徒(C)がゴボゴボという音を聞いた,被告Y2において人工呼吸を行った際,これを目撃した生徒(B,D)がうがいをするときのようなゴロゴロという音又は変な音を聞いた,心臓マッサージを実施中の被告Y2において「水が出た。」という周囲の声を聞いたという程度の事情しか窺うことができない以上,少なくとも臼井医師が証言するところの大量の水が排水されたことを認めるには足りず,次郎の鼻と口から流出した黄土色の汚物又は黄色い液体についても,その色彩などから見て胃液等であった可能性が高い。そうすると,臼井医師の上記証言はにわかに採用しがたい。
ウ 以上のほか,原告らは,次郎の心臓につき,病理解剖において右心房にかなりの血液が存在したのに対し,左心房,左心室にはほとんど血液が存在しなかった点は,心臓よりも肺が先に機能停止していることを示す重要な所見というべきである旨主張する。上記2(3)認定のとおり,溺死に至る経過として,呼吸停止後においても心臓の拍動はさらに数分間持続するものであることは認められる。しかしながら,証拠(甲21)によれば,溺死体においては古くより左右心室の血液の比較が行われてきたものとされているところ,この点は溺死の場合においても左右の心室に血液が存在することを前提とするものであると解される。さらに,原告らが依拠する臼井医師も,上記心臓の状態が溺死における特異な症例であるか否かについては知らない旨証言していることに照らすと,上記心臓の状態をもって必ずしも次郎が溺死したことを裏付ける所見であるということはできないから,原告らの主張は採用しがたい。
また,原告らは,病理解剖において胸腹部に切開を加えたところ,胸骨部から大量に出血し中止しなかった点は,大量の水が肺胞に入り,肺胞から血管内に水が流入して血液が溶血を起こしたことを示す所見である旨主張する。しかしながら,上記1(8)認定のとおり,次郎の剖検において採取した血液の検査は行われていないことなどを考慮すると,上記の出血状況をもって次郎が溺死したことを裏付ける所見であると認めるには足りず,原告らの主張は採用しがたい。
エ 以上のほか,臼井及び橋詰両医師による上記剖検診断は,次郎の全身の臓器を検索しても特に死因と関連するような異常所見が認められなかったこと,既往歴や家族歴にも特記すべき所見はなかったことを根拠とし,状況から見て溺死とするのが普通の考え方である旨指摘する(甲17,臼井及び橋詰両医師の各証言)。
しかしながら,上記の諸点はいずれも死因を明確に特定し得る所見がないということを意味するものに過ぎず,また,「状況」についても,両医師において,次郎が水没するに至るまでの詳細な経緯を把握したうえで剖検診断をしたものでないことは既に説示したとおりである。したがって,上記の指摘はにわかに採用することができない。
(5) 以上のとおり,次郎の死因を溺死と見ることについては,種々の疑義を払拭することができない。
他方,上記1(3)認定の事実及び証拠(甲5,20,21,27の5―5,乙1,臼井及び橋詰両医師の各証言)によれば,①体力の限界を超えた無理な泳ぎをすると心臓に異常をきたし,意識障害を起こすなどする場合もある(なお,原告らが日頃本件スクールの2階観客席から見ていた感じでは,次郎は200メートル個人メドレーの後半でばててしまい,また,他のメンバーより遅れるのを見て余計焦るタイプであった。)こと,②水中で急死する場合のうち水浴死と呼ばれる水中異常急死があるところ,その原因は神経反射,鼓膜穿孔迷路障害,心・循環障害疾患等が考えられ,溺死とは異なるものである(なお,水浴死と溺死の移行形も多く,このような場合には溺死と区別することができない。)こと,③病理解剖や組織検査によっても,突然死亡した原因が特定できない症例は一定程度存在し,例えば急性心不全が原因であってもその点が機能的な意味では病理解剖の所見に出てこない(組織上心臓が停止した理由が分からない。)場合もあること,④次郎においては,上記のとおり,水泳を中断した時点で既に相当量の水を吸引していたものとは認めがたいうえ,当該時点以降においても,格別新たに相当量の水を吸引した形跡のないまま25メートル前後にわたり本件プールの中を概ね歩いて移動した(次郎の身長は161センチメートルであるのに対し,本件プールの水深は最大で1メートルである。)後,崩れるように顔を水面につけ,間もなく水没するに至ったものであることなどの諸点が認められる。これらは,いずれも次郎の死因が溺死以外のものであることを示唆する事情である。
以上で認定説示したところを総合考慮すると,次郎の死因が溺死であったと認めるには足りず,さりとて本件全証拠によっても次郎の死因を明確に特定することはできないものといわざるを得ないから,次郎の死因については原因不明の突然死であるというほかない。
3 争点2(被告Y2の不法行為責任の有無)について
(1) 上記1認定の事実によれば,次郎が水泳を中断した当初の時点においては,テスト中に水泳を中断したということを除き,格別身体的な異常を示す兆候はなかったことなどを考慮すると,被告Y2が当該時点で速やかに次郎をプールから出す措置を採らなかった点が,直ちにコーチとしての注意義務,安全配慮義務にもとる過失であったということは困難である。
しかし,その後の経緯を見ると,被告Y2は,相当程度の水泳能力を有する次郎が本件テスト中に敢えて水泳を中断し,かつ,生命身体の安全を直接脅かす異常事態が突然発生する危険性を常時潜在させた水中になおとどまる状況下であったにもかかわらず,以後次郎の動静を注視せず,本件プールの周囲に居合わせた複数の関係者により目撃された腕や足の異常を示す次郎の行動にも全く気づかないまま(被告Y2本人),本件テストを担当する他のコーチ等がいずれもプールサイドを離れた頃合いに自らも次郎の傍から離れたうえ,次郎の傍へ戻った後も次郎の動静から目を離す状態にあったものである。かかる被告Y2の対応がコーチとしての注意義務,安全配慮義務に著しく違反するものであることは多言を要しないというほかなく,被告Y2としては,次郎の腕に異常が発生したことを示す兆候が生じた時点(遅くともその後足にまで異常が発生したことを示す兆候が生じた時点)で,次郎の意思如何に関わらず即座にプールから出す措置を採るべきであったといわなければならない。
(2) 問題は,被告Y2の上記過失と,次郎の死亡との間に相当因果関係が認められるか否かである。
上記2で認定説示したとおり,次郎の死因については原因不明の突然死であるといわざるを得ないことからすると,仮に被告Y2が上記の時点で次郎をプールから出す措置を採ったとしても,そのことから直ちに次郎を救命し得たものと認めることは困難であり,他に上記相当因果関係を認めるに足りる的確な証拠はない。
(3) そうすると,被告Y2について,原告ら主張の次郎を死亡させたことに関する不法行為責任を認めることはできない。
4 争点3(被告会社の使用者責任及び債務不履行責任の有無)について
(1) 被告会社の使用者責任の有無について
上記3で説示したとおり,被告Y2について次郎を死亡させたことに関する不法行為責任を認めることができない以上,被告会社の使用者責任についても,その前提を欠くこととなるから,この点に関する原告らの主張は採用の限りでない。
(2) 被告会社の債務不履行責任の有無について
ア 上記1認定の事実によれば,被告Y2は,本件スクールにおける生徒の生命身体の安全を指導現場において直接確保すべき重責を担う立場にありながら,被告会社入社後本件事故に至るまでの約4年間,定期的に基礎を反復継続すること自体に意味があり,そうであるからこそ年に1回ないし2回は全員参加することとされている社内の安全講習に合計2回しか参加しなかったうえ,生徒の表情等を適時適切に読みとることは困難であると解される0.1ないし0.2程度の視力のまま勤務に就いていたものである(被告Y2は,その視力によっても次郎の表情を読みとれる程度の近さにいた旨供述するが,そもそも常に生徒がプールサイドに立つ自らの直下のコースを泳いでいるとは限らず,たまたまそのような場合であった本件事故当時においても,被告Y2は次郎の傍から離れた時があった以上,上記の弁解は到底採用することができない。)。また,本件事故に際しても,被告Y2がコーチとしての注意義務,安全配慮義務に著しく違反する勤務状況にあり,生徒の安全確保に関する意識の低さを覆うべくもない状態にあったことは既に説示したとおりである。
被告会社は,原告らとの間で次郎の水泳指導を安全かつ適切に行うべき役務提供契約を締結していたものであるところ,本件事故発生前に,かかる被告Y2の勤務実態を的確に把握して,これを改善させるべく,安全講習への参加の徹底を図るなど適切な措置を採ったことを認めるに足りる証拠はない。また,本件事故に際しても,被告会社において,被告Y2の上記勤務実態を的確に把握したうえ,被告Y2に対し個別に安全教育を徹底するか,さもなくば被告Y2が担当する生徒に不測の事態が発生した場合,即座に他のコーチが適切な対応を採り得る態勢を整えるなどした形跡を見いだすことは全くできない。したがって,被告会社は,上記役務提供契約上の安全配慮義務に違反したものであると認められる。
イ しかしながら,ここでも被告会社の上記過失と次郎の死亡との間に相当因果関係が認められるか否かが問題となるところ,上記2で認定説示したとおり,次郎の死因については原因不明の突然死であるといわざるを得ないから,仮に被告会社が上記義務を尽くしたとしても,そのことから直ちに次郎を救命し得たものと認めることは困難であり,他に上記相当因果関係を認めるに足りる的確な証拠はない。
ウ そうすると,被告会社について,原告ら主張の次郎を死亡させたことに関する債務不履行責任を認めることはできない。
5 以上の次第で,原告らの本件請求は,その余の点を判断するまでもなく,いずれも理由がない。
よって,主文のとおり判決する。
(裁判官・野原利幸)
別紙<省略>