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名古屋地方裁判所豊橋支部 平成10年(わ)6号 判決 1998年6月24日

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中一三〇日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、肩書住居地である愛知県豊橋市<番地略>において長男甲野太郎及びその家族と同居していたものであるが、特別養護老人ホームに入所中の重度の知的障害者である四男甲野一郎(当時六三歳。以下、「一郎」という)の行く末を日頃から心配し、誰にも自分の悩みを相談できずに独りで思い煩い、甲野一男が右長男宅に帰省したときはいつも長男の家族に遠慮しながら自分一人で甲野一男の面倒をみたり、世話を焼いていた。平成一〇年一月一日午後一一時頃、被告人は、折しも久しぶりに右老人ホームから長男宅に帰省した甲野一男と自室で一緒に過ごしていたが、甲野一男が先に寝てしまったので、甲野一男の枕元に座って顔や頭をなでたりして、その寝顔を見ながら自分の死後の甲野一男の将来をかれこれ案じて眠れなくなり、そのうち、甲野一男を殺して自分も死のう、甲野一男を殺すのは今しかないと思い詰め、同月二日午前五時頃、殺意をもって、寝間着の腰紐を手に取り、これを二重にして甲野一男の頸部に巻き付けて力一杯左右に数分間引っ張って、強く締め付け、よって、その頃、同所において、同人を絞頸による窒息により死亡させて殺害したものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一三〇日を右刑に算入し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

一  本件は、当時九五歳という高齢の被告人が、日一日と自己の体力の衰えを感じて重度の知的障害を持つ甲野一男の行く末を案じ、自宅において、就寝中の同人の頸部に腰紐を巻き付け、強く締め付けて窒息死させて殺害し、なお、自らも後を追って自殺しようとしたが果たせなかったという事案である。

二  甲野一男を殺害するしかないと思い詰めるに至った被告人の心情も理解し得ないわけではなく、同情を惜しむものではないが、客観的事実を見れば、甲野一男は重度の知的障害を持つものの、食事、排便、入浴等の身の回りの世話は一人で行うことができ、性格も大人しく、身体も健康であったので周囲の人間に迷惑をかけるようなことはなかったこと、受給していた障害基礎年金の中から特別養護老人ホームの費用が支払われていたので経済的には心配がなかったこと、甲野一男が入所していた特別養護老人ホームは死亡するまで入所可能であったことが認められ、被告人があえて甲野一男を殺害せねばならないほどの切迫した状況にはなかったということができるのであって、甲野一男の将来について家族や親族と相談しにくい状況であったとしても、家族と一切相談することなく安易に本件犯行を決意した被告人の動機は、極めて独り善がりのものであったというほかない。

三  被告人は、寝間着の腰紐を二重にして甲野一男の頸部に巻き付け、その両端を左右に数分間思い切り引っ張り、甲野一男が息をしなくなったのを確かめた後、息を吹き返すことがないように懐紙を水で湿らせて鼻と口を覆い、その上からハンカチを掛けておいたものであって、犯行態様は悪質である。

四  甲野一男は、知的障害を負いながらも、その人生を一所懸命に生きていたと思われるのに、楽しかるべき正月の帰省の折に最も信頼しているはずの母親によって突如として生命を奪われ、天寿を全うできなかったものであり、たとい母親であろうとも子の命を私物化して軽々に奪うことが許されないことはいうをまたない。したがって、被告人の刑事責任は重大であるといわざるを得ない。また、本件は、同様の境遇の中で生活している人々を始めとして、社会に与えた衝撃も小さくない。

五  以上の点からすると、被告人は本件犯行当時九五歳という高齢であり、健康状態も芳しくないこと、被告人には前科前歴がないこと、被告人の長男が被告人の今後の監督を誓約していること、被告人に反省悔悟の情が認められること等被告人のために酌むべき事情を考慮しても、被告人を主文掲記の刑に処するのが相当であると思料する。

(裁判長裁判官 大津卓也 裁判官 伊東讓二 裁判官 音川典子)

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