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名古屋家庭裁判所 昭和46年(家)2798号 審判 1972年3月01日

申立人 英比八郎

右代理人弁護士 畠山国重

事件本人亡 甲野和郎

主文

申立人が、昭和十六年十二月四日、広洲省虎門附近において、事件本人から、現住所横浜市○○区○○○××番地乙山和美につき、同人が事件本人を父とし、本籍広島市○○○町×丁目××××番地の××乙山花子(大正五年九月一日生)を母として、右両名間の庶子女として昭和十三年十二月十四日広島県○○郡○○○町××番地において出生した旨の出生の戸籍届出の委託を受けたことを確認する。

理由

(申立の趣旨ならびに申立の実情)

申立代理人は、主文同旨の審判を求め、その実情として、次のとおり述べた。

一、主文に表示された乙山花子と事件本人は、いずれも昭和十二年頃、ともに当時の東京市牛込区若松町にあった○○アパート内に寄宿し、花子は、同所から洋裁修得のため虎の門富士ビル内の伊東茂平洋裁研究所に通学し、事件本人は、また早稲田大学専門部商学科の学生として、同アパートから右大学に通学していたが、やがて相思の仲となり、同年十一月三日、申立人を含む友人五名の出席を得て、同アパート内で結婚披露をなし、直ちに同所において同棲した。

二、しかし、この結婚は、右当事者双方がいずれも若年の学生であることと、いわゆる恋愛結婚を双方の父兄がともに不道徳視していたことが主たる原因となって、同棲はなされたものの、結局、双方の実家の同意を得られないままに推移した。

三、すなわち、事件本人は、同十三年三月、同大学専門部を卒業したので、花子とともに相携えて事件本人の郷里名古屋に赴き、名古屋市○区○町に新たに花子と新世帯をもち、この間、右結婚に対する実家の同意を得べく、同人は勿論、親友である申立人等においても、事件本人等の生活を援助するとともに、種々奔走したが、これも遂に実家の同意を得られず、結局、その効を修め得なかった。

四、ところで、乙山花子は、事件本人と前記のアパートに同棲中、すでに妊娠していたので、前記のように、いったんは事件本人とともに右名古屋にあったが、同年六月、その実家で出産すべく、事件本人と別れて、単身、主文表示の○○○町××番地に赴き、一方、その後、同女の親友である広田松子において、事件本人の生家の同意を得べく、名古屋に赴いたこともあったが、これも遂に効を奏しないまま、同年十二月十四日、同所で女児を出産した。

五、この間、事件本人は、右花子との間になんらの連絡がとれないまま、同十三年十二月、応召入営のうえ、軍務に服するにいたったので、母たる花子は、その生家の監視を受けて事件本人との連絡が全くとれないままに、右女児の名として、事件本人の和郎の「和」と花子の父乙山美夫の「美」の一字をとって、同児に対し、「和美」と名づけた。

六、一方、事件本人は、その後、各地を転戦し、同十六年十二月にいたったとこい、同月四日、たまたま応召して同様軍務に服していた親友の申立人と広洲省虎門附近で偶然再会し、ここに、申立人は、同所において、事件本人から、主文記載の趣旨の子の出生の届出を委託されるにいたった。

七、かくて、事件本人は、この頃、いわゆる香港攻略戦に参加し、以後も、終始、軍人として、野戦の事に従事して、ソロモン群島ガダルカナル島(Guadal Canal)に転じたが、遂に同十七年十二月十一日、同地での戦斗で戦死するにいたった。

八、よって、申立人は、委託の趣旨を実現するため、ここに主文同旨の審判を求める次第である。

(当裁判所の判断)

第一、当裁判所の認定した事実

一、まず、≪証拠省略≫、ならびに以上の資料によって認定される申立人主張の事実を各綜合し、これに本件の全趣旨を併せると、更に次のような事実を認定するに充分である。

二、すなわち、

(一) 申立人と事件本人は、ともに名古屋の出身で、双方の父親がいずれも相応の素封家でまたともに裁判所の調停委員などに選任されていたため、すでに両名が旧制実業学校に在学中から相互に熟知の間柄にあったものであるが、右学校を卒業後は、両名ともに早稲田大学専門部に進学したことから、更に一層親密の度を重ね、相共に当時の東京市牛込区若松町所在の○○アパートに寄宿するようになり、昭和十二年当時は、両名そろって同所から同大学に通学するほどの間柄であった。

(二) ところで、当時、このアパートには、同じく広島から洋裁等の修得のために上京していた乙山花子、広田松子らが居住していたが、事件本人らは、ここでその止宿先を共にする同女らと親しくなり、申立人主張のとおりの経過を経て、やがて殊に相思相愛の仲となった事件本人と右花子は、遂に同アパートにおいて同棲するにいたった。

(三) しかし、申立人がその主張の二の項に述べたように、事件本人等において、申立人を含む双方の友人に対しては、事件本人と花子は右のような関係にあって近い将来正式に婚姻をする旨のことが同年十一月三日披露されはしたが、双方の実家の承諾は、遂に得られることなく、かくて、事件本人は、同十三年三月、右大学の専門部を卒業し、申立人主張の三ないし五の各項に記載された経緯を経た。

(四) かくて、乙山花子は、女児を出産したものの、その生家は、事件本人との関係を極度に嫌い、同女と事件本人との連絡を絶つよう同女の行動を絶えず監視したため、花子は、結局、事件本人との間にはなんらの連絡がとれないままに、母子の生活を維持するため、和美とともに、同十七年頃京城に渡り、同地において、洋裁店を経営したが、やがて今次戦争の終戦を迎え、同二十年十二月、和美を連れて郷里広島に引き揚げるにいたった。

(五) 一方、事件本人も、花子の安否を深く心に気にかけながらも、これまた花子との間になんらの連絡をとる暇もなく、同十三年十二月、現役兵として歩兵第六連隊に入営し、以後、各地を転戦し、同十六年十二月にいたった。

(六) また、申立人自身も、この間、同十五年、同連隊に入営し、やがて陸軍経理部甲種幹部候補生となり、陸軍少尉に任官のうえ、広洲省虎門において軍務に服していたところ、同十六年十二月四日、たまたま香港攻略戦に参加するため、兵科下士官として同地を行軍してきた事件本人と偶然再会し、ここに申立人は、事件本人から、主文記載の趣旨の子の出生の届出を委託されるにいたった。

(七) しかして、事件本人は、その後、申立人がその主張の七の項において述べたような経過を経て、遂に同十七年十二月十一日、前記ガダルカナル島砲台西南側沖川河合分流点附近において戦死するにいたった。

(八) 一方、前記のように、京城から引き揚げた乙山花子は、その後、諸々に伝手を求めて当時広島方面に駐留中の英豪軍基地内で洋裁店を始め、以後二十数年にわたり、終始、和美とその生活を共にし、これを愛育して、現在は、広島県呉市、横浜市等において、手広く洋裁店、喫茶店等を経営し、今日にいたっている。

(九) また、右和美は、結局、無籍のままで今日にいたったが、この間、東京の○○高等女学院等を卒業のうえ、○○屋洋裁部門の専属主任デザイナー等を勤め、またこの間、○○航空にエンジニアーとして勤める丙川一夫と婚姻し、すでに右両名の間には、同四十六年十月に生れた長女春子がある。

(十) ところで、申立人がさきに戦死した事件本人から受託された本件の戸籍届出については、戦後再会した申立人、乙山花子、前記広田松子等との間で、種々の話合がなされたものの、その手続が不詳であったこともあって、申立は延引したが、花子において、たまたま知り合った本件代理人に事情を話したところ、改めて同代理人からの手続教示があり、これにもとづいて、申立人から本件申立をなすにいたった。

以上の事実が認められるのである。

第二、法令の適用

一、しかして、以上の事実によれば、右事実は、戸籍法第百三十八条第二第三項、旧委託又ハ郵便ニ依ル戸籍届出ニ関スル件(昭和十五年法律第四号)第一条に該当することまた明らかというべきである。

二、ところで、記録に編綴されている本件申立書によれば、その申立の趣旨欄に、申立人が、事件本人から、乙山和美が、事件本人を父とし、主文表示の乙山花子を母として、その間の「女」として出生した旨の戸籍届出の委託を受けたことを確認する旨の申立の記載があるが、申立人が本件委託を受けた当時施行されていた旧戸籍法(大正三年法律第二十六号)第八十三条の規定するところによると、当時は、父が「庶子」出生の届出をしたときはその届出は認知届出の効力を有する旨が規定されているから、昭和十七年二月十八日民甲第九〇号通達をもって、私生子なる用語が戸籍の届書上使用されなくなった以前の事に属する本件においては、申立の趣旨を右のように善解し、なお、主文のように表示し、これを認知届出の委託を受けたものと同視するのを相当とする。

三、よって、本件申立は、その理由があるものとして、これを認容すべきである。

第三、本件についての当裁判所の所感

一、ところで、一般論としては、本来、裁判書にはいわゆる蛇足を付け加えるべきではあるまい。すなわち、蛇足は、文字どおり蛇足なのであって、これあるがために、その審判書は、かえって或いは理由齟齬を招き、ときとしては、その真意が誤解されることさえも生じ得ないとはいえないからである。しかし、本件においては、当裁判所は、この警しめは、これを充分に熟知しながらも、あえて以下に特にいわゆる蛇足を付加せざるを得なかった。よって、以下に文字どおりの蛇足ながら、当裁判所の本件についての所感の一端を披瀝しよう。

二、今次大戦の終戦から十年を閲した昭和三十年頃、巷間に、戦後は終ったなる言葉が流布され、国民一般も、その大部分は、さほどの抵抗を覚えないままにこの言葉を受容したことがあった。しかしながら、果して真に然りといえるであろうか。当裁判所は、本件の審理を閉じて、いまこの審判書を起案しつつあるが、国民の一部については、右終戦の日から実に四分の一世紀を経た今日にいたるも、いまなお、この言葉は、全く妥当するものではないことをしみじみと感じつつある。なるほど、戦後のわが国の経済復興は、実にめざましいものがあった。その限りでは、まさに戦後は終ったということも可能であろう。

しかし、ここに注目したいことは、その背後には、そのかげには、声を大にして叫ばれこそはしないが、またそれ故に多くの耳目に触れることもないままに、いまなお、ひっそりと歌われ、しめやかに奏でられている戦争悲歌があるという事実である。

三、本件についてふりかえってみよう。まず、昭和十二年に当時日支事変と呼ばれた不幸な戦闘が華北の一角に起きたということ、これが事変の拡大化とともにやがて支那事変と呼ばれるようになり、遂に同十六年には、大東亜戦争なる公式呼称をもって呼ばれる今次大戦に発展してしまったということは、そのすべてが、全く彼自身の関知したところではなかった。彼は、当時としては恵まれた中京地方の素封家の家に生れ、これらの子弟として一般に受ける相応の教育を授けられ、更に東京に遊学して、この頃、若い頃にありがちな平凡なしかしむしろ微笑ましい恋愛問題をひき起こし、これに関連して、その身辺に、当時としては所々にみられた生家との間にありふれた些末な葛藤を起しながらも、愛する人との生活を享受しながら、平凡ではあるが、善良な一般小市民として、まことにささやかな幸福感に酔っていたであろう。彼、すなわち本件の事件本人たる甲野和郎である。

四、しかるに、これらの戦争は、彼を平和な小市民としておくことを許さなかった。すなわち、当時のわが国は、戦斗要員としての彼をまず必要としたのであった。かくて、彼は、恐らくはみずからは必ずしも好まざるところではあったろうが、右国家の求めにより、生木をさかれるように、その愛する者と別れて、軍務に就くことを余儀なくされ、まさに後ろ髪をひかれる思いにかられながら、各地を転戦した。この間には、愛児の誕生をみたものの、子の父として、彼には、これを慈しみ愛護するという当然の機会さえも全く与えられないままに、諸々に辛酸をなめながら、遂に南冥のガダルカナル島(Guadal Canal以下にガ島と略称する)の陣中において戦没するにいたった。

五、当時のガ島の戦場は、故国からする物質の補給は、僅かに潜水艦等を主体とする海軍の小艦艇によってなされたのみで、戦陣のわが将兵は、常に耐えざる慢性的な甚しい飢餓感に苛まれ、餓死寸前の状況を彷徨し、加えて故国からの便りは遂には全く途絶し、しかも、この間を縫っての筆舌に尽しがたい激烈な戦斗で、多くの若い兵は、本来春秋に富む身であるのに、故国をひたすらに偲びながら、否、故国に残した愛する人の上にひたむきに想いをはせながら、空しく同島の土となったものであって、これらの事は、いずれもすでに当裁判所に顕著な事実である。これらの空しく陣没した年若い無名の兵が、表面の上では、かつて仮に「天皇のために」死の道を選ぶと述べたとしても、これは必ずしもその真意を伝える言葉ではない。その真意は、これこそまさしくその言葉の代りに、わが「愛する父母のために」、「愛する妻子のために」、そしてまた「愛する人のために」という言葉でもってこそその言葉は置きかえられるべく、然らざれば、その真意に反しよう。然り、彼らが、みずからは、かつて見たことさえもない、その限りでは彼らにとって甚だ抽象的な存在でしかなかった「天皇」個人のためにのみ死ねるわけはない。すなわち、彼らは、まことにその各々が、実にその「愛する者のために」、「愛する者」が生き残るであろう祖国を守るために、そのためにこそあえて異国の戦場において死の道を選んだのである。戦塵を浴びてその戎衣は汚れていたろう。しかし、汚れて画一化された戎衣を身にまとっていても、その下には若々しい情念が溢れていたことでもあろう。なるほど、前述したように、わが国の戦後の経済成長には、まさにわれわれの目を見張らせるものがあろう。しかしながら、このように解するのでなければ、同様に戦陣に在った者には、耳をそばたてなくても、経済成長という声の背後から聴えてくる啾啾たる彼らの鬼哭の声を慰める術はない。然らずんば、無数の彼らの尊い鮮血を吸ったガ島の生命なき石も叫ぼう、無心の草木も彼らのために慟哭しよう。

六、彼、甲野とても、もとよりその例外ではなかった。自己の運命に忠実に従って終始野戦に在った彼にとって、故国に残した乙山花子、そして彼とその間に生れた和美のことは、後事を申立人に託しはしたものの、恐らくは、死の瞬間にいたるまで、夢寝の間にあっても、その脳中を絶えず去来し続けたことであろう。

七、しからば、一方、同じく戦陣にあった申立人と銃後に残された者はどうであったか。当裁判所は、粛然と襟を正して本件の審理を重ねながら、本件にあっては、まず、これに直接間接に関与した多くの関係人のすべてが、まことにいずれも善良にしてそして誠実な人達ばかりであったことに着目した。

八、まず、本件の申立人である。彼は、右甲野の竹馬の友として、これと学業を共にし、亡友と右花子との新婚生活(本件ではその婚姻がいわゆる法律婚か事実婚かということは全く問題にしないでおこう)の継続を陰に陽に助け、同じく花子の親友であった広田松子とともに、相携えてその双方の実家の誤解を解くべく奔走し、みずからも召集を受けてからは、前認定のように昭和十六年末のいわゆる香港攻略に際して亡友から前認定の委託を受け、記録によって明らかなように、戦後はまた戦争未亡人たる右花子の行方を探し当て、その良き友として、右松子とともに花子に絶えざる暖かい援助を与え今日にいたったものであって、これらの人の暖かな好意がなかったならば、本件は、遂に陽の目をみることも或いはなかったかもしれないことを考え併せると、当裁判所としても、これらの人々に心から感謝したい心情である。

九、戦争未亡人たる乙山花子については、前認定の事実によって明らかなように、もとより最早多くを語るを要しまい。亡夫甲野の応召後、日かげの身ながら、ひたすらに愛児の愛護養育に励み、その今日を築いたことを顧みるならば、同女に対して、当裁判所は、その積年の労苦に心からなる同情の念を抱くとともに、改めて深く敬意を表したい。

十、ところで、ここでは、すでに鬼籍に入った両家の家長のことにも言及しよう。家族制度が牢固として国民の間に定着していた当時にあって、しかも、名古屋なり広島なりの地方においてそれぞれ素封家の立場におかれていた両家の家長が、両家の人の全く関与しないところで結ばれたいわば学生同志の婚姻にたやすく直ちに同意を与えなかったとしても、これ又当時としては、まことに無理からぬところであって、当時の婚姻に対する国民一般の観念がいわゆる家族制度を抜きにしては語れなかった事実に想到するならば、両家の家長のとったこれらの措置にとかくの批判を加えることはできない。子を思わぬ親はないという一般的な観念は、特段の事情のない限り、概ね妥当するところである。しかして、本件においても、これらの家長は、それぞれに、将来は、右婚姻を黙示的にしろ、いずれは許そうとの考えでいたであろうことは、本件の全趣旨に徴して、またこれを認めるに足りる。ところが、戦争は、彼らにこれらの時間を全く与えなかった。ここに甲野が軍務に服してから右戦死にいたるまで四年の空白ができてしまった。本件の不幸は、ここに生じ、しかして、これは、やはり彼らの意図を超えたものであった。

十一、しからば、筆を今一度右甲野と花子のことに戻そう。彼らが東京に遊学中互いに相知り、相互に憎からずといった恋愛感情を抱いたこと、そして、これがやがて彼らの同棲となり、相共に将来を誓う仲となって愛児の出産といった事態にたちいたったこと、以上の事実を辿ったこれら一連の推移は、これまた、まさしく自然のなりゆきというべく、第三者が一層慎重な配慮が望ましかったと言うのは容易ではあるが、それでは一体、誰が真にこれを責め得よう。当裁判所は、本件を契機として、右両家が今や血肉を分けた親類としての親密な交際関係を維持するよう、これのみを今後に期待することにしよう。

十二、以上のように考えるならば、さきにも一言したとおり、本件は、それ自身がひとつの戦争悲歌ではあるが、これに登場するすべての人々は、そのいずれもが、誠実な善意の人々であった事実を知るに充分であり、それ故にこそ、本件には、また大きな救がある。

十三、ところで、ここで、特に注意したいことは、本件は、右のような多くの善意の人の手によって事が推移し、しかも、これらの人々が、いずれも当時としては殆んど最高に近い教育を受け、相応の常識と教養を積んでいたにもかかわらず、戦後四分の一世紀を経た今日にいたって本件が漸くここに陽の目をみるにいたったのは何故であろうかということである。なるほど、法令としては、旧戸籍法の特例として、「委託又ハ郵便ニヨル戸籍届出ニ関スル件」(昭和十五年法律第四号)がある。しかし、それでは、国民のうち、一体何人がこの法令の趣旨を熟知しているか。しかも、本件の関係者は、そのいずれもがいわば戦争の犠牲者であるといえよう。国家は、よし悪意はなかったとしても、結果としては、彼らにこのような深刻な犠牲を一方的に強いたのである。まことに戦争の傷跡は、本件において殊に大きく深かった。罪なくして生れた前記和美は、いまはすでに婚姻し、家庭の人となったのみか、その夫との間に一子さえある。しかも、その戸籍はなくして、今日にいたるまで個人の身分関係を公証する戸籍の上では、全く無籍のままに推移した。まさしくかつての靖国の遺児として、国家から相応の好待遇をこそ受けるにふさわしい者が、戸籍上は、かえって結果において右のような取扱しか受け得られなかった。その原因は、制度はあっても、一にかかって関係者が過失なくして右法令を充分に熟知しなかったことにあろう。

十四、しかしながら、当裁判所は、ここに再度重ねてあえて言おう。一体、何人が右の法令を正しく熟知し得よう。問題は、何人が現にこれを正確に熟知しているかということである。当裁判所に顕著なように、全国の家庭裁判所においては、法令上に明確にその根拠を持たないにもかかわらず、したがってまた、何らの予算措置も講じられないままに、自然発生的に関係職員のいわば奉仕の手によって、いわゆる家事相談が現に行なわれている。人的物的設備の点でいまなお必ずしも十全とはいえない家庭裁判所において、このような措置があえてとられているその原因は、一体何であろうか。いまその詳細をここに論述することはできないが、その原因は、また、一にかかって、民間になお残されている本件のような潜在的なしかし関係者にとっては切実な問題を採り上げることによって、平和で円満な家庭の建設が可能であるという理念に根ざしているものといえよう。しかるに、その必要はこのように充分に認識はされながらも、未だにその法制化はなお困難のようである。しかし、本件の審理を通じて、当裁判所は、右法制化の速かな実現を図るとともに、広く家庭裁判所の門戸をより国民に開放する必要を一層深く認識した。何故ならば、右のような立場に在る本件の人達でさえも、善意はあっても、法律的には殆んど知るところがないままに、本件においては、前記のような事態を迎えてしまった事実に着目したからである。すなわち、本件の関係者にして、右の家事相談を速かに利用していさえすれば、否、利用し得る機会を与えられていれば、本件の解決は、もっと早かったであろうことに留意したからである。当裁判所は、再言しよう。すなわち、家事相談の速かな法制化が図られ、これが制度として実現され、本件のような事案も含めて、多くの潜在的な家庭内の諸問題の解決が完全に図られてこそ、ここに始めて家事審判法第一条の精神が国民の間に完全に定着することになろうということを。この意味で、本件に関連して、ここに戸籍事件の処理に当る家庭裁判所の人的物的のより一層の充実強化が重ねて望まれる次第である。

十五、かくして、当裁判所は、まず制度の問題として、その一例を家事相談にとってはみたが、同様のことは、戸籍事務を直接に管掌する法務局、市町村長の戸籍事務に関する広報活動についてもいいえよう。これら戸籍の事務処理に当る諸機関に国の充分な配慮が与えられ、その広報活動がより活溌になされるならば、本件のように、関係者の善意にもかかわらず、今日に及んで漸くその解決をみるという事態は、ここに全く避け得られることになろう。

十六、当裁判所は、本件の処理に当り、まさに襟を正すの思いで、国の適切なしかも可急的速かな一連の諸施策がこれら不幸な事案に優先的に与えられることこそ、国の責務であることを再びここに断じ、その速かな実現を心から念願するとともに、これを深く期待しつつ、筆を擱きたい。

以上により、当裁判所は、主文のとおり審判した。

(家事審判官 天野正義)

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