名古屋簡易裁判所 平成15年(ハ)3272号 判決 2004年5月13日
主文
1 被告らは,原告に対し,連帯して8426円及びこれに対する平成15年5月23日から(ただし,被告Aについては平成15年6月26日から)支払済みまで年5パーセントの割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は原告の負担とする。
4 この判決主文第1項は,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求の趣旨
被告らは,原告に対し,連帯して56万2898円及びこれに対する本件訴状送達の翌日(被告Aについては平成15年6月26日,同B及び同Cについては平成15年5月23日)から支払済みまで年5パーセントの割合による金員を支払え。
第2事案の概要
1 請求原因の要旨
(1) 原告は,タクシー運送業を営む有限会社である。
(2) 被告Aは,平成14年3月15日,タクシー乗務員として原告に採用され,被告B及び同Cは,原告との間で被告Aの身元保証契約を締結した。
(3) 被告Aは平成14年8月20日原告を退職したところ,原告は,被告Aとの間には以下のような特約があり,採用後5ヶ月余で退職した被告A及びその身元保証人である被告B,同Cらに対し,これらの特約に基づき,研修費用,養成費用,給与補填貸付金,有償被服費等を請求するとともに,被告Aの退職時に給与計算を行ったところ,控除額が支給額を上回ったとしてその不足額を加え総額56万2898円の支払を求めている。
① 研修費用について 11万2000円
被告Aは,平成14年3月13日に,株式会社Dグループ研修センターに入校申込みをした。研修費用は一日8000円,被告Aは14日間研修を受けたので,その費用は11万2000円となるところ,原告は「稼働開始後所定の運輸収入を達成した月が24ヶ月を満たせば返済義務を全て免除し,満たすことなく退職した場合には原告が立替えた金額を原告に支払う」旨の特約付で前記研修センターに支払った。なお,所定の運輸収入とは,1ヶ月単位の人制別売上額であり,1人制の場合は61万円,2人制の場合は48万円,3人制の場合は52万円である。
② 養成費用について 2万8850円
被告Aの二種免許資格取得のための実技練習費用,平針試験場教習費,受験費用等の代金は2万8850円であるところ,原告は「稼働開始後所定の運輸収入を達成した月が24ヶ月を満たせば返済義務を全て免除し,満たすことなく退職した場合には原告が立替えた金額を原告に支払う」旨の特約付で立替払いした(以下①②記載の特約を「本件立替払特約」という)。
③ 給与補填貸付金について 29万6571円
原告は,被告Aに対し,平成14年4月26日に10万4071円を,翌5月28日に19万2500円を貸し渡した。この貸付金は給与支給額が26万円に満たない乗務員に対し,稼働開始後2ヶ月間に限り,本人の希望により給与支給額が26万円になるように貸し付けるものであり「稼働開始後所定の運輸収入を達成した月が24ヶ月を満たせば返済義務を全て免除し,満たすことなく退職した場合には原告に全額を返済する」旨の特約が付されている。
④ 有償被服費について 3万6000円
原告は,被告Aに対し,タクシー乗務員として必要な会社指定の制服を「入社時の有償被服費は3万6000円,これを本格稼働開始後2ヶ月目から2000円ずつ給与天引し,18ヶ月未満で退職する場合には,3万6000円から既払額を控除した残額を徴収する。」との特約付で貸与した。
⑤ 給与控除不足額について 8万9477円
被告Aの給与につき,支給額から社会保険料等の本人負担分を控除をしたところ,平成14年6月度が2万9013円,翌7月度が1万5191円,翌8月度が4万8035円の不足となり,夏期賞与として支給すべき2762円を考慮しても8万9477円の不足が生じ,原告はこれを納付した。
2 被告らの認否及び主張
(1) 請求原因の要旨(1),(2)は認める。
(2) 研修費用及び養成費用について
タクシー乗務員として就労するために二種免許は必要不可欠であり,そのための研修参加,免許取得は業務命令に等しく,それらの費用は原告が負担すべきものである。これを被用者である被告Aの負担とする約定は労働契約上の公序に反し無効である。また,本件立替払特約は法により禁止された「労働契約の不履行について違約金を定め,又は損害賠償額を予定する契約」であり(労働基準法16条),無効である。
(3) 給与補填貸付金について
① 被告A本人の希望により貸し付けられたとの点につき争う。
② タクシー乗務員の経験のない者にとって,生活を支えるだけの運賃収入を確保することは容易ではなく,1ヶ月フル稼働して本給が26万円に足りないことは常態というべきで,それ故にこそ給与補填貸付が制度として存在するのである。してみると,生活を維持する上で給与補填貸付は強制貸付に他ならず,しかも一定のノルマを24ヶ月以上達成しない限り返済が免除されることはないからノルマ達成のための労働を強制する結果となる。また,ノルマを達成できずに退職する場合には返済が強要されることになり労働基準法16条の違約金,損害賠償額の予定と同等の作用を有することとなる。したがって,給与補填貸付の約定は無効である。
③ 原告のタクシー乗務員募集広告には「養成乗務員は乗務開始後2ヶ月間/月給26万円保証」とある(乙1)。この求人広告と給与補填貸付金制度とは明らかに矛盾する。原告は自ら表示したところに反した制度を労働者に強いており,原告の本訴請求は信義則に違反し,また権利の濫用として,容認されるべきものではない。
(4) 有償被服費について
① 原告において,タクシー乗務員の制服着用は義務的とされているところ,そのような制服については雇用者である原告が負担すべきであり,貸与を有償とするのは労働関係上の公序に反し無効である。
② 有償被服費を給与から天引するのは,法が禁止する前借金の相殺に当たり(労働基準法17条),このような禁止行為と不可分の関係にある制服貸与制度は無効である。
(5) 給与控除不足額について(相殺)
① 被告Aが平成14年8月20日退職したとの点は争う。被告Aは,平成14年8月20日以前に退職している。
② 原告の乗務員給与明細表(甲9)のその他欄には「法令による日額最低賃金を保証。足切り未達成者については売上の一律30%で支給する。足切り未達成者の給与明細は以下の通りとする。最低賃金×勤務日数=基本給(早退扱いは1/2勤務で計算)。基本給を超えた額は乗務手当とする。」との定めがある。そうすると,被告Aには以下の未受領の給与があるので,被告Aは原告に対し,平成16年2月5日の本件口頭弁論期日において,この給与債権の総計27万7796円と原告の本件請求とを対当額で相殺する旨の意思表示をした。
ⅰ 平成14年4月度 8170円
被告Aの出勤日数は23日で(甲6の2),うち21.5日分について日勤手当と日当手当が支払われているから,残余の1.5日分の基本給8170円(最低賃金日額5447×1.5)が未払いとなっている。
ⅱ 平成14年5月度 10万6216円
被告Aの出勤日数は22日,うち遅早回数(遅早回数として計上される場合は,1/2日勤務となる)が5なので(甲6の3),19.5日分の基本給10万6216円(5447×19.5)が未払いとなっている。
(22-5)+(5×1/2)=19.5
ⅲ 平成14年6月度 11万4387円
被告Aの出勤日数は26日,うち遅早回数が10なので(甲6の4),21日分の基本給11万4387円(5447×21)が未払いとなっている。
ⅳ 平成14年7月度 4万9023円
被告Aの出勤日数は13日,うち遅早回数が8なので(甲6の5),9日分の基本給4万9023円(5447×9)が未払いとなっている。
第3当裁判所の判断
1 研修費用及び養成費用について
(1) 本件立替払特約の内容は「研修期間一日当り金8,000円の研修費用(講師人件費・建物賃料・水道光熱費・教習車両維持費・什器備品等)・学科受験費用・実技練習費用・実技受験費用・補填貸付金の各種費用については,タクシー乗務開始後所定勤務の運輸収入の足切額を達成した月数が,通算24か月を満たす事無く退職する場合は,貴社に全額を返済し,又達成した月数が,24か月を超えて在籍した場合に限り,上記諸費用の返済義務を免除するとした,貴社の社内規定に同意し,これを遵守する事を誓約いたします。」(甲2)というものである。この特約が労働基準法16条に違反するか否かは,被用者に投資された金員につき,被用者が使用者に返還すべき義務を負うか否かにより判断されることとなる。なぜなら,返還すべきものであれば,24か月云々という要件の履行不履行にかかわらず返済義務が生ずるのは当然のことであり,返還義務がないにもかかわらず,この要件の不履行により返済義務を発生させるのは,労働契約の不履行について違約金ないし損害賠償を予定する契約に他ならないからである。
(2) 研修費用,養成費用は,本来誰が負担すべきものか。
タクシー事業(一般乗用旅客自動車運送事業)者は,旅客を事業用自動車で有償運送することを業務内容とするところ,運送の安全,旅客の利便等を確保するため,道路運送法25条,旅客自動車運送事業用自動車の運転手の要件に関する政令は,タクシー事業者等に対し,道路交通法86条に規定する第二種運転免許を受けた者でなければその事業用自動車の運転をさせてはならないと規定している。してみると,原告にとって,第二種運転免許取得者は自己の事業を営む上で不可欠の存在であり,採用した従業員にこの免許を取得させることは,単なる新入社員教育にとどまらず,営業活動を営む上で必須の業務ということになる。他方,この免許を持たない被告Aにとって,研修を受け免許を取得することは義務的な業務命令の遂行に他ならず,この免許を取得したとしても,タクシー運転手として稼働しうることを意味するにすぎない。この両者を比較した場合,被告Aがこの免許を取得することによる利益は,原告がより多く享受することは論を俟たない。そうすると,この第二種運転免許取得のための研修費用,養成費用は,業務遂行のための費用として本来原告が負担すべきものであり,従業員である被告Aが支払うべきいわれはないこととなる。
(3) 本件立替払特約の違法性
被告Aに投下された研修費用,養成費用は,原告が負担すべきもので,被告Aに対し返還請求しうるものではない。してみると,本件立替払特約は,被告Aが一定要件を充足することなく退職する場合(タクシー乗務開始後所定勤務の運輸収入の足切額を達成した月数が,通算24か月を満たす事無く退職する場合)に,被告Aに対し,返還義務のない金員を返還させようとするものであり,実質的には,研修終了後24ヶ月以上という就業期間を設定し,その不履行につき研修費用及び養成費用の実費弁償という名目の違約金を定めるものに他ならない。まさに労働基準法16条が禁止する退職の自由を阻害し,労働関係を強制的に継続させる特約といわざるをえない。しかも,研修中日額8000円の日当を受領していた被告Aに対し(甲3),日額8000円もの違約金を請求する原告の主張は,実質的なただ働きを強要するものであり,とうてい採用することはできない。
2 給与補填貸付金について
研修手当・研修諸費用の規定及び承諾書(甲3)によれば,被告Aと原告との間には,給与支給額が26万円に満たない場合は,乗務開始後2ヶ月間に限り,その差額分を貸付金として補填する旨の合意が成立しており,被告Aの希望により貸し付けられたことが認められる。他方,Dグループのホームページ(乙1)には「養成乗務員は乗務開始後2ヶ月間/月給26万円保証」との記載があり,この内容で広く乗務員を募集していることも認められる。この径庭につき,乗務開始後2ヶ月間/月給26万円保証との条件で乗務員を募り(申込みの誘引であり,拘束力はない),応募した被告Aとの間で26万円に満たない部分を補填貸付金とする旨の合意をしたにすぎないと理解することも可能ではあろう。しかしながら,甲3の研修手当・研修諸費用の規定及び承諾書の補填貸付金の部分が不動文字で印刷されていること,給与支給明細書(甲6)にも給与補てんの欄が設けられていること等からすると,原告は,一方で乗務開始後2ヶ月間/月給26万円保証と対外的,継続的に公約しながら,他方で給与補填貸付を制度的,恒常的に運用していることが認められる。そして,被告らに対し給与補填貸付金を請求している現在においても,原告のホームページには乗務開始後2ヶ月間/月給26万円保証の文字が掲載されているのである(公知の事実)。このような矛盾に満ちた主張は,権利の行使は信義に従い,誠実にこれをなすべしとする民法の原則に反し(民法1条2項),とうてい採用することができない。給与補填貸付金についての原告の主張は理由がない。
補填貸付金の主張が許されない結果,被告Aが受領した金員は,原告の公約とおり平成14年の4月度,5月度の月給と解さざるを得ないこととなる。
3 有償被服費について
タクシー乗務員の制服着用を義務的(甲8第1条)なものとしながら,制服を有償で貸与すること及び3万6000円という金額の合理性には多大の疑念を差し挟まざるを得ないが,それらの点はさておき,被告Aは平成14年8月20日に原告を退職しているところ(被告Aの退職日につき争いがあるが,甲13の退職願及び弁論の全趣旨によれば,被告Aは同日付けで退職したことが認められる。),原告を退職した被告Aとしては,原告の制服を借用すべき義務はなく,原告としても貸与すべき利益もない。そうするとこの有償貸与契約は,被告Aの退職により当然に終了していることとなる。
ところで原告は,制服貸与規程第5条3項の「18ヶ月未満で退職する場合は,3万6000円から給与天引した額を差し引いた残額を徴収する」旨の特約(以下「本件被服特約」という)により3万6000円の被服費を請求しているが,原告と被告A間の有償貸与契約は当然に終了しており,被告Aには退職後の貸与被服費を支払うべき義務はない。にもかかわらず原告は,本件被服特約を根拠に残額を請求している。してみると,本件被服特約も,本来的には支払義務のない金員を,18ヶ月未満で退職した場合にのみ返還させようと企図するものであり,実質的には本格稼働開始後18ヶ月以上就業すべき義務を課し,その不履行につきペナルティを定めるものに他ならない。本件被服特約も労働基準法16条に違反する無効な契約と断ぜざるをえない。この点についての原告の請求も認めることはできない。
なお,被告Aは平成14年4月から本格稼働しているから,その2ヶ月目である平成14年6月から8月までの3月間計6000円の支払い義務が発生しているのではないかとの疑問も生じよう。しかしながら,本格稼働開始後2ヶ月目から月2000円との支払義務は,労働基準法16条に違反する違法な特約と不可分一体となるもので,この支払義務のみを切り離して有効視することはできない。よって6000円の範囲についても支払義務を認めることはできない。
4 給与控除不足額について
(1) 被告Aの給与については乗務員給与明細表(甲9)の規定によるが,足切り未達成者については「その他」欄に記載があるのみである。そこで,「その他」欄の記載である「足切り未達成者については売上の一律30%で支給する。最低賃金×勤務日数=基本給(早退扱いは1/2勤務で計算)。基本給を超えた額は乗務手当とする。」の意味内容を検討する。
ところで,乗務員給与明細表は,賃金に関する事項を定めた就業規則として,その変更の都度,労働基準監督署長に届け出られているはずであり(労働基準法89条),同法27条に定める出来高払制下における一定額の保証給の要件も充足しているものと認められる。したがって,乗務員給与明細表の意味内容を検討するに際しては,この要件を充足していることを前提としなければならない。そこで考察するに,この明細表の記載内容は,足切り未達成者の出来高は一律30%,基本給は最低賃金×勤務日数とするが,「基本給を越えた額は乗務手当とする」との条項があることからすると,出来高と基本給は併給されるのではなく,多額の方のみが支給されると解すべきことになる。このように解しても,出来高払制下における保障給を確保することができ,かつ最低賃金法における最低賃金額の基準もクリアできるのである。この点につき原告は,足切り未達成者については売上の一律30%のみを支給することとなっており,最低賃金×勤務日数=基本給との部分は「足切り未達成者の給与明細は以下の通りとするのであり,単に給与明細の表記上の問題である」と主張する。しかしながら,原告の主張するところの意味内容は判然とせず,検討の対象とはなり得ない。
(2) 以上の理解を前提に,被告らの相殺の抗弁につき検討する。
① 平成14年4月度 0円
最低賃金日額5447×出勤日数23=12万5281となるが,被告Aは上記2の「給与補填貸付金について」の項で述べたように26万円の給与を受領しているので,この月の未払い分は存しない。
② 平成14年5月度 0円
被告ら主張のとおり,基本給は10万6216円となるが,この月も26万円の給与を受領しているので(甲6の3),未払い分は存しない。
③ 平成14年6月度 6万5070円
被告ら主張のとおり,基本給は11万4387円となるが,4万9317円の本給を受領しているので(甲6の4),未払い分は6万5070円となる。
④ 平成14年7月度 1万5981円
被告ら主張のとおり,基本給は4万9023円となるが,3万3042円の本給を受領しているので(甲6の5),未払い分は1万5981円となる。
以上から,被告Aには,原告に対する総計8万1051円の未払給料請求権の存することが認められ,給与控除不足額の8万9477円と対当額で相殺すると,原告の請求は8426円の範囲で認められることになる。
5 結論
以上,本件請求のほとんどは,原告を5ヶ月余りで退職した被告Aの各特約違反に基づくものであるが,その特約の実体は,外観上は原告から被告Aに交付ないし投下されたこととなっているものの,実質上は被告Aに返還義務のない金員を,被告Aが原告に利潤をもたらすことなく退職する場合に強制的に回収しようとするものであり,いずれも労働基準法16条に違反するものとして,原告の請求は理由がないことに帰着する。また給与控除不足額については,相殺後の残額を認容することとし,主文のとおり判決する。
(裁判官 下村資樹)